ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「戦争と人間」の女たち

2011-11-29 | 映画

1970年日活作品、五味純平原作、山本薩夫監督作品
「戦争と人間」
を見ました。


1部「運命の序曲」
2部「愛と悲しみの山河」
3部「完結編」

合間に全て「休憩」を挟み(DVDも休憩用音楽が入っている)
総上映時間9時間半。
これを映画館で見る試みがあったといいますが、
観に行くのはよっぽどお好きな方だったのでしょう。
DVDが、それもレンタルショップに行く必要もなく借りられてしまう
今日でなければ、わたしのような「この手の戦争映画嫌い」には
一生縁のないままだったでしょう。

でね。
映画評をインターネットで検索しても、不思議なサイトしか出てこなくって。
たとえば「バカウヨども」と連呼しているサイトとかー。
「この映画なら韓流好きの奥さんにも満足してもらえると思う」
なんて妙な薦め方をするサイトとかー。

そして、この戦後最大規模、お金も時間もたっぷりかけた超大作を
皆やたら褒めまくっているんですよ。
「よく見ろ日本人」とか。「戦後最高の戦争映画」とか。

だがしかし。

不肖エリス中尉、戦争映画を色々とウォッチングしてきましたが、
はっきり言ってこの映画はこれだけの長大な時間を使って

「日本軍部の侵略主義とそれで肥え太った日本企業のせいで
起こった戦争によって虐げられた可哀そうな中国と朝鮮と日本の労働者」


という偏った方向からしか物事を語っていません。
そういう一面も勿論否定しませんよ。でもね。

「戦争の勝ち負けは正義の問題ではない」と
「映画『プライド』とパル博士の日本無罪論」で言いました。

戦争は疑うべくもなく絶対的な悪ですから、
それまでの世界の覇権主義、帝国主義を全く語ることなく

「日本がある日いきなり権力の横暴を行使して私利私欲から
平和だったそれまでの世界で最初に戦争をおっぱじめた」


という大前提にしてしまえば、実にお手軽な善悪の二元論で
全てを片付けてしまえるわけです。

その「悪玉」「善玉」論をわかりやすく、かつ例外なく映像にした、
それがこの映画といえばわかっていただけるでしょうか。

軍、財閥は

「ぐふふふ、越前屋、おぬしも悪よのう」「お代官様こそ、げへへへ」

的に描かれるというお約束。

そして財閥の伍代家では親に反発する4人兄弟のうち純情で清廉な
次男(北大路欣也)末娘(吉永小百合)
は、労働者の境遇に思いを寄せる左翼活動に走り、
これもお約束のように、特高に酷い目に会います。

それに対して、親の会社で後継ぎになる長男(高橋悦治)
満人の娘(栗原小巻)

 


を会うなりいきなり手ごめにするという鬼畜です。

「労働者と左翼青年、中国人と朝鮮人に悪漢なし」
「軍部財閥特高と陸軍上等兵に善人なし」


のすがすがしいくらいの徹底ぶりが泣かせます。

当時、反論検証なしで事実化していた

「軍の行為としての南京大虐殺」

に至っては異常なくらいの時間を使って描かれ、
なんと彼ら中国抗日軍の民族魂を雄々しく歌いあげる

「中国国家フル演奏(歌詞字幕付き)」

も挿入されるという念の入れよう。

山間にあるただの一般民間人の村を悪魔の軍隊である日本軍が
全兵力で攻撃します。(何のために?)
そこに突如現れて、略奪強姦真っ最中の日本兵を蹴散らすのが、
そう、正義の味方八路軍なのです。

おいおいおいおい(笑)

朝鮮関係についても酷いですよ。
伍代産業の社員(高橋幸治)満人の妻(松原智恵子)
をさらって強姦し、自殺させる朝鮮人暴徒のリーダー除(地井武男)。
彼は幼い日に日本人に父母を虐殺されているという設定。

悪人には(日本人以外には)悪人になる(それも日本のせいという)
ちゃんとした(?)理由があるのです。

ちなみに朝鮮民族の誇り高い歌(字幕付き)もまたフル演奏されます。


いくつかの映画評を見ましたが、そのほとんどが、

「スケールが」「俳優陣が」「ソ連軍の協力による戦車が」素晴らしい

しかし

「左翼がかっているという気もするが」

と、ひっそりお断りを入れているのがなんとも言えません。
王様は裸だ、って誰も言えないのね。

じゃ言っちゃいます。
この映画、酷いです。トータルで言うと駄作です。
単純で短絡的な史観で善玉悪玉的描き分けをしているのもですが、
当時の純粋な青年が夢中になった、共産主義の理想面だけを
無条件で美化しているのも問題です。

当時中国は文化大革命という大虐殺行為のまっただ中。
しかしマスコミはこぞって中国共産主義を礼賛し、
北朝鮮を「地上の楽園」と持ち上げていた頃ですね?
そう思ってみれば、この頃のジャーナリズムの向かう方向性が
露骨にこの映画に表れているのに気づくでしょう。

そしてこの映画、予算の関係で3部で完結してしまい、
登場人物がどうなったのかも全て尻切れトンボ。
これだけでも映画としては大失敗と言えるのに、
さらに匂う強烈な「日活臭」

そう、ある年齢以上の方は「にっかつロマンポルノ」という
一連の性風俗映画について耳にしたことがおありでしょう。
その「日活」作品ですから、無理やりなラブシーン、ベッドシーン、
強姦シーン、入浴シーンを挟んできます。



伍代享介(芦田伸介)満州で暗躍する謎の中国女(岸田今日子)入浴中。

この映画に出る女優さん、なんと吉永小百合も含め、全員が脱がされています。
肌見せ度は人によって違いますが、この岸田今日子と栗原小巻は全裸に近く、
エキストラ級の女優はもう遠慮なし。
完全な全裸露出要員として片桐夕子というロマンポルノの女優まで
出演させているのです。

描かれる恋愛模様も酷いですよ。
女性の方が激しく迫り、色々な事情から最初は拒む男性は我慢できずに、
というパターンばっかり。
戦前の女性って、こんなに積極的な人たちだったのかなあ。



北大路欣也と不倫の恋に落ちてめそめそする人妻(佐久間良子)
この表情からもお分かりかと思いますが、よよと泣いてばかりで実にうざい。

しかし、この映画で一番あきれたのが時代考証のものすごさ。
女性の服装化粧、エキストラの髪型が思いっきり高度成長期。
思いっきり1970年代。サイケデリックってやつですか。



だいたいこんなつけまつげのヒトが戦前どこにいたのよ!
結婚式シーンの「もみあげに小さなくるくるカールのつけ毛」ってこれ何よ!

浅丘ルリ子の登場場面は、もう全く頭っから時代考証放棄。
最新流行のスタイルでないと、当時人気絶頂の超絶美女と言われていた彼女は
映画に出ないとごねたのではと勘ぐるくらい凄いです。

でも可愛い。
もう、無茶苦茶でいいや、だって可愛いんだもーん。

昔から映像を見て「派手な女優」くらいにしか思っていなかった
彼女の可愛さに感動して、登場シーンをつい全部写真に撮ってしまいました。


彼女が身を包むブランドはディオール、サンローラン、ピエールカルダン。
冒頭写真なんか、全身ピンクのパンタロンスーツ(当時最新流行中)です。

 

財閥令嬢はピアノを弾きつつ登場するものです。

いつもショパンの「幻想即興曲」を弾いています。
このピアノの曲で彼女の心情を表わすという陳腐な演出も何度か使われ、
気分を害したとたんモーツァルトをベートーヴェンに変えて、さらに
バーンと鍵盤を叩いてやめたりします。

ちなみに、左は最初の登場シーン。
このパーティで既婚者である伍代産業の社員(二谷英明)を誘惑してキスさせます。
悪い女や。

 

陸軍諜報部の柘植中尉が彼女、伍代由紀子の本命。
「わたしが司令官になるから答えてちょうだい」
柘植中尉は立ちあがって敬礼、
「伍代司令官の指令を拝命いたしますっ」
「よろしい」などと、
「なんちゃって司令官プレイ」で盛り上がる二人。
右のピンクのスーツはディオールかな。

 

勿論戦前の令嬢ですからお着物自慢もね。
この人の魅力って、眼は勿論ですが、実は頬骨ですよね。

 

ベッドルームで髪をとかしていたら柘植中尉が来たので着替えましたー。

首の共布のチョーカーが最新流行(70年代のね)アイテム。
この後二階の本棚の隙間で柘植中尉を誘惑。初めてキスにこぎつけます。

このあと柘植中尉は金沢の連隊に行ってしまうのですが、
ある日突然彼女は金沢に押しかけます。

 

こんな恰好で。
うーん、これはエマニュエル・ウンガロ?それともカルダンかしら。
あまりにも時代を無視した格好をしているので
みんな(今から売られていく娘たちと女衒)に見られてますよー。
何故押しかけたかと言うと、柘植大尉と結ばれるため。
お嬢さん強引です。 



なぜか寝室に強風が吹きまくって髪が激しくそよいでいます。

 

なんだか形も色も変なセンスの服ですね。
ピエール・カルダンっぽいわ。
でも、美人だから何着ても似合ってしまう。



戦前の流行りの髪型であった「マルセル・ウェーブ」「耳隠し」かな?

 

丸い詰まったネックにロングスカート。花柄のシフォンドレス。
こういうのも70年当時流行っていたようですね。

柘植大尉からの電話に「出ないわ」などと意地を張ったり、
嫌味をいうため「やっぱり出るわ」と言ってみたり。

金沢まで押しかけて行ったのに諜報部に勤務になり
音信不通になった柘植大尉にお嬢様はお怒りです。



ところがなんとかこぎつけたデート当日、ウキウキとおめかし中、
柘植大尉からドタキャンの電話。
当然ぶち切れる由起子。

「女はいつまでも待っているものではなくってよ!」

だから相手は軍人なんだってば。

 

由紀子の妹、順子(よりこ)

伍代家に居候していた左翼青年(山本圭)
ハープの向こうでこれも強引に迫り、青年あっさり陥落。

この頃の吉永小百合に迫られて落ちない男が果たしてこの世にいるだろうか。



駆け落ちして家を出た妹を訪ねてきて伍代家に戻ることを説得する姉。

つっぱっては見たけど、銀行頭取の息子との政略結婚におめおめと身を任せ、
柘植大尉とのことは「夢だったのよ」と言い切る回顧モードはいってます。
所詮はブルジョア娘の自分探しだった、ってことですかね。

山本圭は特高からリンチに会い、中国戦線で古参兵からリンチに会い、
無実の中国人を殺戮させられて遂には八路軍の攻撃に斃れ、投降、
という辛酸を嘗め尽くします。

この青年が戦後日本共産党の党首になる、に100人民元。

この後戦死の報に打ちひしがれる順子のもとに特高がやってきて、
順子は夫の生存を確信するのでした。



・・・・確信しますが、話はここで終わってしまいます。
orz



こちら日本人医師(加藤剛)とやはり強引に結ばれた満人の娘。
この映画の女性はつまり全員が同じパターンで相手と結ばれます。

二人が満州脱出しようとしたとき、駅で加藤剛が特高につかまり、
拉致されますが、彼女は他人のふりをして自分だけ逃げます。

おいおいおいおいお(笑)


こちら東京。
ピンクづくめの服装で車に乗っていた由起子は柘植大尉を認め、
二人はしばし語らいます。



彼女は既に人妻。
大尉は中国大陸に向かうことを彼女に告げます。
これで所詮は違う世界の人間と納得しあう二人でした。

確かに非常時にこういう恰好をする人では軍人の妻は務まりますまい。

柘植大尉はこの後中国戦線において戦死します。
最後の突入で全力疾走する柘植大尉を
演出なし平面アングルで映し出す非情のカメラワーク
このひと(高橋英樹)の上から大、太、短の体型に、このシーンはキツかった。
もう少しかっこよく死なせてあげて!と思わず叫びました。←



大尉戦死の報に接し、黒いドレスで幻想即興曲を弾く由紀子。


五味純平氏の原作は勿論読んだことはありません。
しかし、少なくとも情報から察するに、
原作はここまで偏った史観に基づいてはいないようです。

それにしてもこの映画を評価する論陣を見て思うのですが、
特に先進国、大国にはどの国にもある歴史的加害者の一面を、
ここまで躍起になって糾弾する自国民がいるのは、日本だけではないでしょうか。
それが真に良心に基づいてのみなされていることだと仮定すれば、
日本は世界一自省する国だといえないこともありません。

しかし、そのために史実を曲げたり相手に阿るに至っては

すでに自虐・売国

です。
戦争に善悪はありません。
いかなる国においても「反省するべき誤った歴史」などは存在せず、
史実を未来への教訓とするかどうかだけが国の在り方を決めます。

この映画のように、事実を曲げたり、史観に思想誘導することを目的に、
映像による印象操作を行って自国に対する自虐を誘ったりはもとより、

対等であるべき現代の国同士において

「であるから我が国は対等にすらなる資格がない」

という贖罪感ばかりを国民に植え付けることは果たしてどうなのか。

そういう時代に作られた映画だとはいえ、今観るとその意図が
余りに露骨すぎて、辟易してしまったというのが正直な感想です。 


というわけで、一部の熱心な支持者の正体すら怪しく思えて来るレベルの
「なんだかなあ」感満載映画ではありますが、
歴史の流れに沿って描かれているだけに、突っ込みどころには事欠かず、
自宅で知人とわいわい言いながら、さらに女優さんたちの可愛さを愛でつつ観る、
というのが正しい鑑賞法かと思われます。

一緒に観るお相手は、歴史観にあまり違いが無い方が無難かもしれません。
映画そっちのけで険悪になってしまう怖れがあります。

以上感想でした・・・・はあ疲れた。







菅野直伝説5~究極のやせ我慢

2011-11-27 | 海軍人物伝






「菅野直伝説」の続編を読者の方から催促されてしまいました。
「たぶん続く」
と書いたまま、全く続ける気が無いことをどうやら見抜かれたようです。
中指を駆使して描きあげた初期の菅野大尉伝説ですが、
どうやら菅野大尉で画像検索すると必ず出てくるようで、いまだに毎日訪問者がある人気シリーズ。
そこまで期待されては、とリクエストにお答えしました。

(余談ですが、まったく関係ないことを画像検索していて自分の描いた絵が出てきてびっくり、
ということが最近何度かありました。
インターネット検索の仕組みって、ほんと不思議だわ)

(前回までのあらすじ)
「特攻など犬死にではないか」と言い放った軍医中佐の言葉を勝手に
(しかもとなりの部屋で)
聞き咎め、部屋に乱入、またがってタコ殴りにした菅野大尉。
その半年後、敵の銃弾を受け、担ぎ込まれた医務室には、その軍医中佐が。

因果はめぐる。世間は狭い。
あるいは、春休みに公園で見知らぬガキに散々苛められ、その2日後新学期が明けて、
そいつが同じクラス来た転校生であったのをを知ったときの、
小学校5年、あの日のエリス中尉のような気持ちかもしれません。
(カキウチー、元気か?)

しかも、殴った相手は今や生殺与奪の立場に立ち、不敵な笑いを浮かべています(想像)
後ろで部下が見ていなかったら、素直に謝ってことを大きくしないで済んだのに、と
「隊長はつらいよ」で書きました。
案の定、この軍医がたこ殴り軍医でなかったら、おそらく菅野大尉がここでも
「麻酔なんぞいらん」
と大見得を切る必要はなかったわけですが、前回と言い今回と言い、菅野大尉、
なんだって、「男の見栄」のためにこんな究極のやせ我慢をするのでしょう。

度々引用するのですが、漫画「紫電改のタカ」で、背中に銃弾を受けた久保二飛曹が、
麻酔なしで手術をするシーンは、幼心に強烈でした。
「すうっ」とメスが入り、軍医の顔に縦に飛び散る血しぶき。
(このシーンはいくら漫画でもありえないと思います。戦地でもマスク無しは危険すぎ。
知人の医者の同僚は、劇症肝炎の血をオペ中に被って小さな傷から感染、死亡しました)
仲間が押さえつけるも、痛さのあまり気絶してしまう久保。
「麻酔なしで切り刻む」ということも起こりうる戦場の過酷さを初めて知った部分でした。

しかし、ここは外地ではなく、日本国内。
いくら物資不足でも麻酔くらいはなんとか調達できたでしょうに、なぜそこまで意地を張る?

しかも、この後、まだその傷も癒えないうちに出撃し戦ったというのですが、
このあたりの描写は何かと創作の多い豊田穣氏の記述ですので、
話半分で聴いていた方がいいかもしれません。


菅野大尉の知人や家族が、豊田穣氏や、碇義朗氏のインタビューに答えて語る菅野直像は、
常に生真面目で刻苦勉励を惜しまない、闘志あふれた優等生。
文学青年でもあり、家族や友人には好かれる好青年である一方、豪快で、時として磊落も
行きすぎたやんちゃな逸話をたくさん残しています。

(またまた余談、この『やんちゃ』という言葉を、過去の犯罪自慢に使うある連中が、
エリス中尉は大嫌いです。『昔はやんちゃしたけど今は』みたいな、アレ。
菅野大尉のやんちゃと、たかが不良の軽犯罪を同じ言葉で語るな!と言いたい)

そのやんちゃゆえ、特に菅野大尉の人間性を知らない、軍の上官、通りすがりの関係者には
「なんだあいつは」
と眉をひそめられたり、呆れられたりといったエピソードが数多く残されているのでしょう。

世が世ならばこのような人物は、その本質を見抜くことのできる実力者に認められさえすれば、
可愛がられ、いずれは何か大きなことを成し遂げていたはず、とは個人的な感想です。

 

究極のやせ我慢と言えば「修羅の翼」を書いた角田和男氏が、ラバウルにいる頃。
ルッセル沖飛行中、
「突然眼前の水平線が揺れた。変だな、とよく目を据えて見定めようとすると、
たちまち今度は大きく左右30度位も揺れ、傾く。(中略)
下方水面を見るともりもりと水面がせりあがってくる」

現象に遭遇します。

「戦争どころではない、地球の終わりが来たのか!と恐怖を感じた」

終わっていたのは地球ではなく、このとき角田氏はマラリヤを発病していたのでした。
しかし、マラリヤにかかったと知られれば、角田氏は飛行止めになり、
帰還を控え、大事をとって出撃を控えていた同僚と、
最近まで飛行学生だった未熟な中尉を出撃させざるを得なくなる・・・。
そこで角田氏は必死に発病を押し隠し、計器飛行に切り替え、帰還します。

「分隊士の計器飛行はあまり上手じゃないですね」

ふらふらと計器飛行で飛ぶ姿を列機の部下にからかわれても、

「それは俺がマラリヤだからだああ」

などとは口が裂けても言わない角田分隊士。
このやせ我慢は、あくまでも自分以外の人のためのもので、我慢したからと言って本人には、
何のメリットもない、というあたりにこの人物の凄さが現れています。
しかも
「このときの計器飛行の経験は後で役に立った」
と、ころんでもただでは起きない角田氏でした。


さて。
「痛いのや苦しいのを我慢するなんて、死を覚悟し、いつ死ぬかわからない搭乗員なら当然だろう」
などと、他人事だと思ってちらっとでも考える人は、ここにはいませんね?
人間というものが、目の前に来ている死の運命よりも、歯の痛みや切り傷をとりあえず辛く思う、
「目先の肉体的苦痛に弱い生き物」であることを、よく表している証言を一つ紹介します。

桜花隊特攻に出撃を志願したある搭乗員は、その旨血書にしたため、隊長に提出します。
この搭乗員は結局戦争で死ぬことは無かったのですが、戦後、知人に

「私は死ぬことはちっとも怖いと思わなかったけど、
血を取るのに小指を切ったときは、痛かったですねえ」

としみじみ語ったそうです。

菅野大尉のやせ我慢が、相当なものであることが窺い知れます。
あなた、麻酔なしで手術しろなんて、いくら相手に弱みを見せたくないからって、
実際にその場になったら言えますか?



三島由紀夫の「悪趣味」

2011-11-24 | 映画


三島由紀夫にまつわる映画について何度か語ってきました。
「いわゆる三島由紀夫的なもの」のヴェールを剥いでいくような書きぶりだったので、
もしかしたらお読みになった方は、わたしが太宰治に対して持っているような否定的な見方を、
三島に対しても持っていると思われたかもしれません。

しかし、三島の本質を知ろうとすることと嫌悪を感じることは決してイコールではありませんでした。
むしろ、世間一般の三島に対するイメージだけでは語れない部分が、磁石のように意識を吸い寄せ、
かれに関する映像を探し出して食い入るように眺める日々が一時続きました。
愛憎といっては大仰すぎますが、決して敬愛したり心酔したくなるような高潔な人物ではなく、
むしろ「悪趣味」と言っていいほどの臭みが漂うその存在に、
注目せずにはいられない「何か」を感じてしまったのです。

同じ理由で太宰は否定するのに、何故三島には魅かれるのか。
太宰の自己演出が巧妙なのに対し、三島はあまりにも杜撰で馬鹿馬鹿しくすらあり、言わば
「馬鹿な子ほど可愛い」の心理かしら。
答えが出るような問題ではありませんが、またこうやって三島について語ろうとしているわたし(笑)。

本日画像は、江戸川乱歩作、三島自身の手によって戯曲化され、映画になった
美輪(丸山)明宏主演「黒蜥蜴」より。
人間を剥製にしてひそかに自分の屋敷に陳列している怪盗黒蜥蜴が、そのコレクションの一つである
「喧嘩で刺殺されたヤクザ者の剥製」に扮した三島を紹介するシーンです。
バックにはビアズレーの「サロメ」の絵が見えます。
この絵、実はわたくし恥ずかしながら、高校時代ペンで模写したことあるんですよねー。
一種の「中二病」ってやつだったんでしょうか。
美輪様、このカットではかなり写りが悪かったので僭越ながらかなり修正させていただきました。

そして。画面右側!
美輪様や黒蜥蜴ファンには身も蓋もない言い方になりますが、
ある意味エログロナンセンスの極みとも言えるこの映画で「死体役」を演じる、
文字通り悪趣味の権化である文豪三島由紀夫のお姿が拝めます。
カッと眼を見開き、死んだ時のままの形相で剥製にされている、美しい筋肉を持つ愚かなチンピラ。
三島に最初に映画のオファーがあったとき「こんな役をしたい」と注文を付けたという、
そのままの男です。

この後黒蜥蜴は剥製の男に接吻するのですが、リハーサルで寸止めにした美輪に
「どうして本当にしてくれなかったの?」
としつこく聞いて嫌がられたという素敵エピソード付き。

このとき三島は一生懸命死体を演じているのですが、立っているので、ぐらぐらと身体が揺れてしまっています。
このちゃちな演出が、演劇ならともかく加工のしようのない当時の映像では、
より一層映画の胡散臭さに追い打ちをかける結果になってしまっているという・・・・。
はっきり言ってここでの三島は滑稽です。
何を思ってこのような、文学者としての名声をゴミ箱に捨てるに等しい愚行に走ったのでしょう。


夏にアメリカで購入した
「MISHIMA-A Life In Four Chapters」という、
コッポラ&ルーカス製作総指揮、緒方拳主演の映画について一度お話ししました。
日本では発売されていないというそのDVDのパッケージがこれ。

 

何だこの仏壇の内装のような金襴緞子な装丁は!
と思われたでしょうか。
4つの三島の顔(軍帽、戦闘機のヘルメット、剣道の面、能面)をあしらったりしているのですが、
このキッチュな装丁は、おそらく日本的なもの=侘び寂びとは対極なものを、
パッケージを手がけたアーティストがこの映画の中に見たということなのでしょうか。

それもそのはず、この映画の中にはいたるところこの悪趣味でちゃちなテイストを強調した
演出がなされているのです。
 

劇中劇で挿入される3つの三島作品の部分では、登場人物は「書き割りのようなセット」
の中で演技します。
そのセットを歩くとき、ベニヤを踏む音まで聞こえるのです。
左は政府高官を暗殺するべく密議する学生たちのいる部屋。
この後、ふすまが四方八方に飛び散り、彼らは捕えられます。
右は金閣寺。
高さはせいぜい3メートルほどの、いかにも舞台の上のような作り物で、図のようにパカッと割れます。
 

この悪趣味ふんぷんたる美術を手掛けたのは石岡瑛子
マイルスデイビスのレコードジャケットなどでグラミー賞、映画ではアカデミー賞の受賞歴があり、
日本では昔のパルコの美術を手掛けたこともある世界的に有名なアートディレクターです。

石岡はこの映画の演出を依頼されたとき、一度は
「三島という人物そのものがあまりにも悪趣味で共感できない。とても引き受けられない」
と言う理由で断っています。
しかし、監督のシュナイダーは
「貴女がミシマに対して感じるその悪趣味を映像の上でかたちにしてほしい」
と言って彼女に演出を引き受けさせたとのことです。

その逸話を知ってから見ると、もはや確信犯とでも言うべき趣味の悪さがこの映画には横溢しています。
 鏡子の家の主人公、

親の借金のために醜い女金貸し(李麗仙)に身体を売り、
サディスティックに身体を切り苛まれる美貌だけの男を沢田研二が演じています。
この売れない演劇青年の与太者風アロハ。下は白のズボンという念の入りようです。



冒頭シーンできんきらカップのコーヒーを飲みつつ決行の朝を迎える三島。
このガウンがぴかぴかのナイロン製。いかにも着心地悪そうです。

ちなみに、一連の写真の上部にアパートのランプが写りこんでいて、この写真も
三島の頭から何か生えているように見えますが、撮っているときは気付きませんでした。
どうせこんな悪趣味なガウン姿だから()駄目押しでいいか~、ってことでそのまま掲載。

 

盾の会を「閲兵」する三島と、事件に加わった側近の会員。
映画ではこの軍服のことを人に聞かれた三島が
「ドゴールの仕立て屋に作らせましてね」
と答えており、これはピエール・カルダンであるかのように思わせ、
世間は今でも「カルダンデザイン」と認識しているようですが、
実際はカルダンに師事していた日本人デザイナーのことなのだそうです。

当時ピエールカルダンと言えば飛ぶ鳥落とす勢いのトップデザイナーでしたから、三島が
あえてカルダンと勘違いさせる言い方をしたのも意図的だったのかと勘繰ってしまいます。

こうしてみるといかに高邁で深遠な思想のもとになされたことだったとしても、
「盾の会」という三島の私設軍隊そのものが一言で言って「悪趣味」であったとしか思えません。

ところで右画像の隊員を演じた俳優、誰だと思います?
(ヒント:引越しのサカイ)

ここでもしもを言っても意味のないことではありますが、三島が生まれたのがあと50年、
せめて25年後だったら?
徴兵を逃れた疾しさに耐えることも、空襲警報に怯えたこともなく、
戦後の日本の変節も、敗戦のトラウマをねじ伏せるかのようなすさまじい経済発展も、
国民が総出で踊り狂っているような「昭和元禄」も知らなかったら。


三島は、自ら「醜い時代」と評した世の中の一本の奔流にあそこまで身を任せることもなく、
多くの選択肢の中からその鋭い美的感覚を頼りに注意深く選び出した行動によって
「趣味のいい文化人」としての一生を・・・・勿論自殺などすることなく、送っていたのかもしれません。
あるいは東大を出て官僚として堅実な人生を送り、社会的な実力者として充実の人生を送ったか。

それこそ、年老いてもその容貌と名声で「あのようになれるなら歳をとるのも悪くない」
と憧れられるような美しい老後を。

三島の悪趣味を、石岡瑛子はある場面でこのように表現しています。


学生たちの決起の場。
歪んで地面に傾いたままめり込んでいる鳥居。

これは、石岡瑛子の目に映った「三島の愛国心の形」なのだそうです。


あるいは思想に傾倒することなく、長生きして、歳をとって白髪のイケてるジジイ文化人になって、

「あの時の僕は、一種の中二病だったんでしょうなあ・・・ははは」
なんて若気の至り発言をしてほしかった。
まあ、晩年に若気の至りで人生の帳尻を合わせるような常識人の三島由紀夫であれば、
わたしもファンになったかどうかは甚だ疑問ですが。


・・・・・・え?いつファンになったんだ、って?

( ̄∇ ̄*)ゞ言ってみただけー










或る陸軍軍人の見た終戦

2011-11-22 | 陸軍

          

ある元陸軍軍人、N氏のお話を二回にわたってお送りしてきましたが、
もしかしたら業界の超有名人なので、ご存じの方もおられたかもしれませんね。

本日画像は、帝国陸海軍の軍装について豪華カラーで網羅した「軍装辞典」に掲載されていた、
陸軍士官学校の生徒の写真。
先日アップした士官学校候補生の軍装と少し違うことがあるとすれば、ベルト。
このベルトは、N氏が進む予定だった、陸軍航空士官学校独特のものです。

映画「ムルデカ」でも、この「捧げ刀の礼」をしているシーンが実に印象的でした。
最後のシーンで、インドネシア軍の軍人になったかつての仲間が、
命を捨てて戦った日本人兵士の墓の前でこの捧げ刀をやります。
インドネシア軍の捧げ剣の形は、日本帝国陸軍のものを踏襲しているのだと理解しました。

捧げ剣。
正面に刀を寄せ、まるで口づけするかのように捧げ持って、その後右下に払う。
ムルデカだけでなく、どんな映画でも、捧げ剣のシーンがでると目が釘付けになってしまいます。
この所作を「実に美しい」というと、左の方からいろんな罵声が飛んできそうですが、
美しいものは美しいわい!
かっこいいものをかっこいいと言って何が悪い!と、青筋立てて言い返させていただきます。

ここに来る皆さんなら、お分かりいただけますね?



N氏が在籍していた頃、士官学校は疎開していました。
疎開先にも関わらず、そして極秘にしていたはずにもかかわらず、ほどなくその場所は
アメリカ軍の知るところとなり、グラマンが毎日のように飛来したそうです。

未来の軍中枢を担う人材を、学生のころから潰しておこう、というこの攻撃は、
真珠湾攻撃にも見られるように、非戦闘員は決してターゲットにしたことのない日本と違い、
東京大空襲や原子爆弾の投下は勿論、
小学生や海中に漂う看護婦ですら掃射する「鬼畜米軍」であれば当然の所業です。

兵学校もやはりグラマンの襲来を受けたという証言があります。
しかし、眼と鼻の先の呉で派手にドンパチやっていたにもかかわらず、
海軍兵学校は爆撃されていません。
「世界三大海軍兵学校」のひとつであり、壮麗な歴史的建造物であったゆえ、
米軍はそれを破壊することなく保護し、勝利の暁にはそれを利用せんとする意図だったのでしょう。
カーチス・ルメイが
「これらの欧米風建築物を爆撃するのは自分たちを攻撃するようなものだ」と、
兵学校への爆撃を一切許さなかったため、という説もあります。
(現に、大講堂が礼拝堂になり、生徒館始め校舎は進駐軍に接収されました)


「グラマンが狙ってくるのを、電柱の陰に隠れてやり過ごしたんだよ」

N氏は、降下してくるパイロットと目があったそうです。

「ゴーグルかけてたけどね」

同じような年齢の青年を、機銃掃射で狙う米軍パイロットは、どのような気持ちだったのでしょうか。
しかたがないと思っていたのか。あくまでも敵意に燃えていたのか。


日本の敗戦が疎開地の士官候補生にすら明らかになってすぐ、終戦の詔勅が下りました。
其のとき、N氏は
「帝都に行き、終戦の詔勅を皆が受け入れているのか、
反乱を大規模に起こす動きがあるのか、見てきてほしい」
という命令を受け、東京に行きます。
これは、N氏の実家が東京にあったためだそうです。

軍令部に赴いたN候補生、反乱についての情報を得ようと何人かに訪ねるも、皆
「ここではわからない」

また別の日に「ある海軍軍人の終戦」について書く予定なのですが、
その海軍軍人の周りでも(潜水艦乗り)、周りの軍人たちは
「なんだか反乱をおこしている人もいるみたいだけど、よくわからないから様子を見ている」

みんなが起こすなら起こすけど、起こさないなら起こさないという、
なんというか、多分に付和雷同的な態度でいたようです。
・・・・実に日本人、ですね。


そしてその後、皇居に赴いたN氏の見たものは何だったと思われますか?

沢山の、たくさんの人間が、そこで切腹している光景だったのです。


終戦の写真で、有名な「皇居前で泣きながら土下座する人々」は、
実は、一足前にそれを知っていた新聞記者が、詔勅の下る前にその辺の人を集めてポーズを取らせた
「やらせ」であったことが、近年明らかになっています。
15日に記事を間に合わせるために、14日に「前撮り」したというわけです。
皆が振り向くと、写真を撮っていた記者は何故か男泣きしていた、という話でした。

終戦の詔勅は実は14日に渙発(かんぱつ)されています。
その日のうちに新聞記者に写しが手渡されているわけですから、軍関係者は勿論知っていたでしょう。

N氏が見たのは、一般の人々が、玉音放送を聞いて大勢集まってくる前の皇居であり、
そのとき切腹をしていた人々は、ほとんどが軍関係者ではなかったかと思われます。
N氏は詔勅の後でなく、渙発されてすぐ命を受け、玉音放送の直前に皇居に行った可能性もありますが、
それは聞きそびれました。


しかし、「どうしてそういったことが一般に知られていないのでしょうか」と尋ねると、N氏の答えは
「そんなことみんなに知らせたって、何の意味もないじゃない」

これは、皇国の敗戦に殉じるなどという行為が、もはや喧伝すべきでもなければ、
語るべきことでもなくなったと国民が判断した、ということだったかもしれません。


このような光景を瞼に焼き付け、徹底抗戦の動きも決して大きなものではないと判断したN氏は帰隊しました。

すると、そこで見たものは。
近くの工場に徴用されていた朝鮮人労働者が、手に手にこん棒などをもって、向かってくる様子でした。
日本の敗戦を知ったとたん、朝鮮人が武器を持ち、一般の日本人を襲いだしたという事実をご存知ですか?
その残酷さは、決して公の文書には残っていないのですが、
今まで育ててくれた日本人の養父母を虐殺したり、わざわざ日本軍の飛行服を着こんで狼藉を働く、
といった悪質なものが非常に多かったそうです。

彼らは統治された恨み、徴用された恨みを―戦勝国民気取りで―
乱暴したり、強奪することで晴らしだしました。
その様子に、マッカーサーでさえ「お前ら朝鮮人は戦勝国民ではない、第三国人だ」と勧告し、
この「三国人」が、当時の朝鮮民族を言う言葉になったくらいです。

N氏の見たのは、まさにこのような「恨み晴らさでおくものか」とばかり、
武装解除になったばかりの士官学校の学生に向かってやってくる姿でした。
武装解除された学生をわざわざ襲ってくる、というあたりが・・・・何とも言えません。

さすがの陸軍軍人も、今や丸腰です。
こん棒や鍬を構え、悪意をむき出しにする朝鮮人労働者たちを前に、緊張が走りました。
と、其の時。
隊長で、まだ帯刀をゆるされていた教官がすらりと軍刀を抜きました。
不気味なくらい美しい日本刀がその光を放ち、一同は静まり返りました。

軍刀を体側右側に立てて捧げ持つ礼をご存知でしょうか。
そのままの姿勢で、教官は生徒たちを従え、まっすぐ前を見て進んでいきます。
まるでモーゼの十戒のように、手に手に武器を持つ朝鮮人たちが二手に分かれました。
開けられた道を教官の日本刀は先頭に立って進み、N氏たちは暴徒から逃れたのです。
帝国軍人らしい、堂々とした態度で。


このあたりのことを、N氏は
「まあ、仕方ないんじゃないかなあ。彼らだっていろいろ恨んでただろうし」
と、内心はともかく、戦後何となくそのようにしか言えないからそう言っておく、という、
ほとんどの日本人と同じような言い方で評しておられました。
それは、我々のようにインターネットという情報媒体がなかった戦後を生きて来た日本人の、
「普通の処し方」であるともいえます。

因みに、本当に徴用されてきた朝鮮人の数は、全国で250人ほどであることが分かっています。


混乱のまま卒業した陸軍士官学校から、
「最後の陸軍士官」を認定する卒業証書がN氏の許に届いたのは、終戦後間もなくのことでした。








或る陸軍軍人の戦後(建築家編)

2011-11-20 | 陸軍

           

元陸軍士官N氏の戦後のお仕事、建築についてです。

N氏は、建築業界の重鎮。
M社で(仮名になってないかな)建築設計を手掛けてきて「僕が作った」と軽くおっしゃる建物の中には、
横浜ランドマークタワーの名前があります。

皆さん、横浜ランドマークタワーが、先の地震の際どうだったかご存知ですか?
あの地上70階の超高層ビルが、「気持ちよく揺れた程度」だったということを。
みないみらい21の、同じ地区にある美術館やその他のビルが揺れで大騒ぎになり、
そこの人たちはランドマークタワーの11階にM社が設けた階避難所に避難していたそうです。

そして、その驚異の耐震構造について、関係各方面から驚きの声があがっており、
かつ具体的な質問なども寄せられているのだそうですが、N氏の答えは

「俺が作ったんだもの」

このランドマークタワーは、N氏が50歳のときから実地設計を手掛けたもので、
勿論ご存じと思いますが、日本にある最も高い超高層ビルです。
ランドマークタワーの基礎は神奈川県中のコンクリートミキサーを動員し、
のべ11万台分のコンクリートを三日三晩打ち込んで固めてあります。
コンクリート打設の際に出る熱のケアもしながらの大工事だったのですが、
「でも、そんなのは図面にでない」のだそうです。

「最近の建築は、ほら、丸の内の、あのビルはもう揺れて揺れて大変だったらしいけど」

今年の2月。
N氏がご自身で設計された「あすかII」の船旅でシドニーからニュージーランドにいざ向かわんとしたとき、

先のニュージーランド地震が起こりました。
危うく難を逃れたあすかIIはニュージーランドへの寄港を中止し、日本へ向かったのですが、

その航路途中でN氏は東北・宮城沖大震災の報を受けます。

そしてとりあえず連絡を取ったランドマークタワー関係者の
「気持のいい揺れでしたよ」
と言う言葉を聴き、ご自分の「作品」の堅牢さにほっと一安心したそうです。

「ランドマークを掴めたら、それを持って地球を振りまわすことができるくらい丈夫」
という噂を聞いたことがありますが、この噂の根拠はこの基礎工事だったのですね。
因みに、みなとみらいは地盤もしっかりしているので、液状化は心配ないそうです。
ですから、横浜の皆さんは地震になったらランドマークタワーに逃げるといいかもしれません。



さて、陸軍とタイトルが付いているのでつい見てしまった、と言う方のために少しそういう話題を。

ランドマークタワーの高さは、横にするとドックヤードに入る貨客船の長さくらいです。
この計画があったとき、空地制限上70階のビルは許可できない、というお上との攻防がありました。
日本一の高さのビルを作ろうという計画に対し、あくまでも規則を盾に首を縦に振らない役所。
しかし、ご安心ください。
その「お上側」に、N氏の陸軍士官学校の同期がいることが判明。

もうお分かりですね。
話はとんとん拍子に進み、現在みなとみらいにそびえるランドマークタワー建築計画が、
このとき決定の運びとなったのでした。

海軍兵学校や、勿論陸軍士官学校卒業生も、戦後の高度成長期の日本の中枢で、
その発展の中心を担ってきました。
この日N氏が少し語った「陸士出身の知人」はいずれも錚々たる財界人ばかりです。



このN氏との会合について、息子は興味津々でした。
「ねえ、今日あの人と会ったの?」
「え?誰」
「ランドマークの人」

N氏のチームは「政府極秘の建築」も引き受けているのです。
政府極秘ゆえ、詳しくは書きませんが、そのプロジェクトは例えば

防衛庁、国会議事堂

ここが実はどんな仕掛けがあるのか、・・・・ああ、書きたい・・・・が書けない。

と言うようなことも聴いてしまいました。
スパイ大好きの息子は、こんな話に目を輝かせて聴き入り、
しかし、こう言うのも忘れませんでしたよ。

「それ、ブログに書いちゃだめだよ」

息子はわたしがブログをしているということだけ知っています。
・・・・わかってますって。
この分だと、息子にはわざわざ口止めしなくても大丈夫そうですね。


この建築家としてのN氏の話の中で、最も響いたのは、原発の話でした。
「津波じゃなくて地震で壊れてたって、いったい何たることか、っていうんですよ」
何かを建造するとき、建築の専門家なら当然地盤の歴史から調べ、そこがどうなっているかを判断したうえで、
例えばランドマークタワーにみられるような、その建物に応じた補強耐震対策から入るものなのです。
しかし
「最初から専門家なんて、一人も入っちゃいなかったんだよ。今回の(福島の)対策チームにも」
肝心の地盤について、そしてそこにどのような建築の基礎を穿つかについての専門家が一人もいないとは。

確かにこれは恐ろしい話です。
原発が実は砂上の楼閣であったなんて、シャレになっていません。
原発関係者のうち一人でも、自分の身の回りだけの責任を継ぎ合わせてものを考えず、
タテ割りの分業でなく、全体を見通す視点を持っている責任者がいたら、
候補地設定の段階、そして建築基礎の段階でもう少しましな選択ができたということではないのでしょうか。



地震と言えば、先日、日本建築学会が東北の歴史的建造物の復旧や資料を保存するために、
活動を始めた、と言うニュースを11月9日(水)7時のNHKニュースで観た方はおられませんか?

その日の昼、エリス中尉は、まさにその「会長」であるところのN氏からその話を聴いており、
当日夜のニュースを見てそのタイミングに驚いたものです。
なんでも、文化庁を巻き込んで、古文書の復元やら、現地の古老に話を聞くところから始めるそうで、
それに必要な費用概算、400億。10年にわたるプロジェクトです。

その会長にされたN氏、
「後2年で勘弁してくれって言ってんだよ。オレ」
しかし、
「仕事させといたほうが長生きするから」やめさせてもらえないのだとか。

N氏のかかりつけの医者は「88まで大丈夫」と太鼓判を押しているそうですが、
わたしの見たところ、後10年はたっぷりお元気でおられると思われます。

「こう言う話が聞きたいって言ってくれたら、資料持ってくるよ」
と言ってくださっているので、陸軍についてもう少し(急いで)勉強してから、
もう一度お会いしたいと思っています。


しかし、間近でお会いするN氏のの、老人と思えぬ生命力の強さ、眼の輝き、闊達な口調。
「かっこいい老人っているよなあ」
イーストウッドの「スペース・カウボーイ」について書いたこの文句が、そのまま浮かびました。

次回は、そのN氏が見た終戦についてです。


 


世界一太った男の結婚式

2011-11-18 | アメリカ

世界一太っている花婿、マヌエル君です。

アメリカと言う国はご存じのように人口に対して肥満の割合が世界一高い国です。
なんでも、31パーセント、つまり10人いれば3人はデブ、という数字があります。
その肥満率も南部ほど高く、堂々の肥満率一位の州はミシシッピ。
とはいえ、州ごとに大差は無く、ほとんどの州が肥満率20%を超えており、
唯一10%台の州はコロラドの18・4%のみ。
何故コロラド州だけが肥満率が低いのかは謎です。

 

カリフォルニアの肥満率は20パーセントくらいですから、全米でも低い方かもしれません。
健康やダイエットに気を使う人は日本人以上に熱心にエクササイズをします。
しかし、気を使わない人は本当に気を使わないので、
夕ご飯にピザ一枚とコーラ、今日はポテト食べたから野菜の摂取はOK、食後にアイスクリーム1パイント、
などという生活を積極的にやってしまった結果、

こんな風になってしまうわけです。
しかし、アメリカに滞在したことのある人はご存じでしょうが、
この程度の肥満した人など、振り向けば必ずその辺に一人はいるレベル。
当然多少太っているくらいではそれをネタにテレビ番組なんかに出してもらえません。
(本人が出たいかどうかは別として)
 
せめてこのレベルでないと。
このおばちゃんは太って歩けなくなったため、医者の診察を受け、少しずつでもダイエットしていくと誓わされました。
毎日医師の厳しい監視下にあったのですが、ある日体重が増えているのを問い詰められ、
隠し飲んでいたコーラを見つけられて激怒されます。

「私は杖をふるって怠け者をスマートにできる魔法使いじゃないんだ!」


思わずキレるドイツ系らしい医者。
しかしおとなしく医者の言うことを聴くような人ならそもそもここまで太らなかったのではないかと。
ちなみに右画像はおばあちゃんを心配する美人の孫。
おばあちゃんの若い時に似ているっていうんですが・・・。


冒頭写真のマニエル君は、アメリカ人ではありません。
隣の国、世界の肥満率堂々2位の国、メキシコの青年です。
アメリカ人ですら驚くその太りぶりは・・・・。

一体全体覆われた部分は構造的にどうなっているのか、と思わず画面を凝視してしまいます。
マニエル君は独身の若い男性なのですが、太り過ぎて歩くことができません。
人生のほとんどをいつの間にかベッドの上で過ごすようになってしまいました。

しかし捨てる神あれば拾う神あり(ちょっと違うかな)。
そんなマニエル君に恋人ができ、結婚することになりました。
彼は太っていますが、全くそれとは関係なく人柄のよい、皆に愛される好青年なのです。

 

おばさんと弟。弟には勉強を教えてあげています。
彼と接する人は全てのことを彼のベッドの上で行いますから、この弟もベッドで一緒に勉強。
おばさんと言う人も十分肥満していますが、それでも甥とはレベル違い。

 
そしてこちらが花嫁さん。
十分この方も肥満していますが、彼に比べれば超スレンダー。
(少し大竹しのぶに似ていると思ってしまった)
今日はウェディングドレスを選びに来たのですが、一番見せたい花婿はここには来られません。
この花嫁を始め、おばさん、友人が彼の温厚な性格と愛される人柄について熱く語ります。
いわく「彼はファッテスト・チャーミング・マンだよ!」

ところがそんなある日、マヌエルとその一族にとって悲しいことが起こります。
やはり太り過ぎてベッドに寝たきりだった親戚の男性が(←)亡くなったのです。
なんか、そういう家系なんでしょうかねえ・・。
 

しかも、その発作の際、ドアからその身体が運び出せないので
家を壊してそこから病院に搬送したのですが、壁を破っている間に彼は死んでしまったという・・・・。

うっ・・・・・・・。


このことから将来に不安を感じたはずの新郎新婦、マジでなんとかしたほうがいいと思うのですが、
何故か彼らは一向に「じゃ何とかしてダイエットしなくては」という思考にならないのです。
結婚式前日インタビューされた花嫁が
「どんな夫婦生活になるかって?うふふ、それは内緒」
って、そんなこと言ってる場合じゃない気がするんですが。

マヌエル君がこんな状態なのに子供ができて奥さんが働けなくなったらどうやって食べていくのかとか、
そもそもこんな状態の人が長生きできるわけがないとか、
旅行に行ったりレストランに行ったりという普通のことですら彼と一緒に楽しむことはできない、
などということをどう考えるのかとか。

傍が心配することではないのかもしれませんし、彼らのうちでは全て解決済みなのかもしれませんが。

二人は独身時代最後の夜、ロマンチックな音楽をかけてダンスをします。
もちろん新郎は動けませんからベッドの上で、上半身だけ寄せ合って・・・。

うっ・・・。




さて、いよいよ結婚式当日。
やっぱりマヌエルも外に出るために家を壊します。
そしてクレーンでベッドごとトラックに乗せられ結婚式場に向かいます。
この画像ですが、ベッドの隅に見えてるのって、もしかしてマヌエル君の足ですよね?
一体全体どういう構造の(略)


列席の人たちと歓談する花嫁。
しかし、ほとんどの時間を花嫁は一人で、招待客の間を廻ってすごします。
なぜなら花婿は動けないので(略)

結婚式終了後、また搬送されていく花婿。
もうトラックで生活しちゃえば?と思ったのはわたしだけでしょうか。


「世界一太ったチャーミングな男」マヌエル君。
確かにいい笑顔の男性ですよね。
痩せたらトム・クルーズにならないかしら。


冒頭書き忘れました。
アメリカで31パーセントとされる肥満率ですが、日本は対象国中最低水準の3パーセント。
つまり日本では100人に3人しか世界レベルの肥満はいない、ということです。
ちょっと太りすぎとか、メタボとか気にしている方たちの大半は世界レベルでは何の問題もない、ということです。


ていうか、これいったいどういう基準よ。








天佑神助の離着艦~日高盛康少佐

2011-11-15 | 海軍

本日画像は有名なラバウル航空隊の写真から、一部ズームアップして描いてみました。
昭和18年4月13日、トラックのラボウル東飛行場で、出撃前の瑞鳳戦闘機隊が整列している様子です。

こちらのシルエット右が山本司令、左が草鹿長官ということで、歴史的なショットとも言える写真、
なぜこの部分だけ引き延ばしたかと言うと、ちょうどこの画像の真ん中の人物。
いろんな本に掲載されている写真では小さくて顔が見分けにくかったのですが、
パソコンに落とした画像を拡大してみると、これは、本日主人公の日高盛康少佐ではありませんか。

肖像画を二つ描いたので、もう沢山の中からでも少佐の顔が見分けられるようになりました。
ですから自信はありますが、もし間違っていたらすみません。


このところ母艦パイロットの話題で何かと語っている日高盛康少佐ですが、
戦後厚生省の復員事務局を経て、一般の会社に務め、
自衛隊の前身である警察予備隊発足と同時に入隊。
二年後には航空自衛隊に転換して、以後12年間、空を飛び続けました。
退職時の階級は一等空佐。旧海軍の大佐です。


沈黙の海軍軍人として、やはり多くは世間に向かって語らなかった日高少佐は、しかし、
海軍兵学校の発行した、遺族と級友に配布される回想録では、
非常に能弁に自らの母艦パイロット時代の思い出を語っておられます。

しかしながら、それはほとんどを飛行機の性能や、母艦パイロットとしての技術についての薀蓄、
その訓練や零戦の機能に終始しており、その内容は「かく戦えり」というより「かく飛べり」。

いかにして母艦乗りとして一人前になったか。
それが戦後の日高氏が屈託なく世間に語れることの一つだったのでしょうか。




それでは離着艦が一通りはできるようになったところから再開しましょう。
ちなみに、着艦フックをワイヤーに引っ掛けるためには、
飛行機の前輪と後輪の三点を同時に着地させることが要求されます。
これを定着、と言うのですが、滑走の距離が限られている母艦着艦独特の方法で、
この三点が同時に着陸するということは機体はやや上向きのままの態勢です。

また地上に降りるのと、海上では空気の密度が違うので浮力の計算も変わってきます。
このような微妙なコントロールも、徹底的に回数をこなさないと身体に叩き込むには至りません。
ベテランドライバーの身についた車体感覚のように、
訓練も数をこなして初めて飛行機が身体そのものに感じられてくるのです。

しかしだれでも初心者はそうでしょうが、最初着艦訓練十回くらいまでは毎回毎回が必死。
今日は最後かという悲壮な覚悟をしながら母艦に向かうのですが、回を重ねるうち今度は楽しみになってきて
「よし、今日は一番ワイヤーにドンピシャの着艦をしてやろう」
などと、張り切って出発するようになってきます。
さらに、戦争に突入する頃になると、着艦などいつの間にしたのか覚えてもいないくらいの
日常茶飯事になってくるわけです。

映画「連合艦隊」で、若い飛行兵の中鉢飛行兵曹が、
「私たちは発艦はできますが着艦ができないので帰ってきません」
と言って、整備長を泣かせる場面があります。
余裕を持って着艦訓練をする間もなく、このように母艦に乗せられた搭乗員は戦争末期には実際にいたのでしょうか。

しかし、発艦はできるといっても、この未熟な搭乗員はその発艦すら整備員たちをはらはらさせ、
甲板の向こうに一瞬機影が消えて浮きあがるのを見た整備長たちは
「ひやひやさせやがって」
「お守りが効いた」
などと喜び合います。

発艦、これもなかなか曲者なのです。

日高少佐が大尉時代中隊長を務めた瑞鶴を例にとりましょう。
この大きな母艦であっても、飛行甲板に第一次攻撃隊を発進状態に並べると、
一番先頭の飛行機は前端からわずか50mの位置になってしまいます。

瑞鶴では、九七艦攻―9、九九艦爆―18、零戦―9機というそれぞれの搭載ですが、
並べる順番は、九七艦攻が一番後ろです。雷装がなされているからですね。
そして、その中でも、各機先頭に中隊長機が位置するわけで、これはどういうことかというと、
零戦隊の中隊長である日高機は、滑走距離が全ての機の中で最も短くなるわけです。

それでは、索敵機から「敵機動部隊発見」の報が入ったところから再現しましょう。

「第一次攻撃隊発進」が下命される

母艦は風に立って増速、発艦に合わせて速度がセットされる

発艦係将校が「発艦せよ」の合図を出す

フラップを少し下げ、ブレーキを一杯に踏んで、エンジン全開。
尾部を少し持ちあげ、抵抗の量も少ない状態にしたうえでパッとブレーキを一斉に放す

ブレーキを離すと、機はするすると前方に進み、五〇mなどあっという間に滑走してしまい、
飛行甲板の前端が迫ってくる

じわっと操縦桿を引く これは機を浮揚させるため

距離が短いと浮力がついていないから、甲板を離れると機は下に沈んでいく
運が悪いとここで海中に墜落

あわや海面につくと思われる頃、やっと浮力がついて上昇が始まる ここまでくれば一安心

脚をあげ、フラップを収めて、やれやれと息をつく


いかがでしょうか。
毎回このようなぎりぎりの操作ですから、訓練当初の「着艦の失敗」などより、こちらの方が
現実的には恐怖感はあったでしょう。
何と言っても墜落しても、拾ってくれる蜻蛉つり船はいないのです。
これは、日高少佐にとって腕の善し悪しというより、エンジンの好不調に運命を委ねることで、
一度も失敗がなかったのはひとえに整備員の献身的な努力の賜であると言いきっておられます。

それに、何と言っても、全攻撃隊の先頭を切って発艦するというのは(たとえ滑走距離が一番短くとも)
真珠湾攻撃に参加した志賀淑雄氏がいみじくも同じように語る如く
「男子の本壊これにすぐるものはない」ものであったということです。

(もっとも志賀氏は後年テレビ番組でそのとき発艦一番乗りを逸ったのは
『実に子供じみた気持ちから』だったとも語っていました。照れ隠しでしょうか)


戦中戦後通して一度も事故の無かった日高少佐ですが、一度着艦の時にあわや艦橋に激突、
という失敗をしています。

飛龍での零戦訓練中のこと、どうしたことか左に位置する艦橋にどんどん機が寄って行ってしまうのです。
必死で右に修正するも、吸い寄せられるように艦橋に向かって行くではありませんか。
操縦桿を引くのですが、機速が大きすぎて、バル―ニング
(着陸における接地後、地面効果や主輪の跳ね返りにより、再び機体が飛行状態になってしまうこと)
して、ワイヤーを次々と飛び越してしまいます。
迫りくる艦橋。
艦橋後方の信号マストのところにいる信号兵が慌てて逃げていく姿がはっきりと目に入りました。

「ああしまった、えらいことをしてしまった、激突だ」

観念して目をつぶった瞬間、ぐっとGがかかるのを感じました。
そう、最後のワイヤーに辛うじてフックがひっかかったのです。

戦中、一度も事故やけがのなかったことを、自分の努力と技術ではなく、
ただ整備員の努力と零戦の性能の恩恵を被ったおかげ、と真摯に感謝していた日高少佐ですが、
これなどは、何より天佑神助の強運であったとしか言いようのない一事ではなかったでしょうか。

 

 


或る陸軍軍人のこと(士官学校編)

2011-11-13 | 陸軍

       


カーキに最も合うとされている色は、フランソワーズ・モレシャン(知ってます?)によるとだそうです。
フランス人のモレシャンさんも太鼓判。
ベストマッチのカラーコーディネートを、日本帝国陸軍は大昔に軍服に採用していました。
なので、背景も赤にしてしまいましたが、今まで描いた画像の中、
この陸軍士官学校の候補生画像だけが、ブルーっぽい作品群の中で目立っています。

エリス中尉は「ネイビーブルー」にしか興味なかったんじゃないのか、と思われた方。

全体的に海軍ファンであるところのエリス中尉ですが、陸軍が嫌い、と言っているわけではありません。
決して戦争賛美するわけではありませんが、陸海問わず軍隊と言う究極の規律団体に属する男性は、
すべからく、その個人の全てを国への忠誠と滅私の精神の象徴である軍服によって押し隠され、
それゆえにとても一般人には到達できないあるストイックな美しさを湛えるものだと思うのです。

・・・・難しく言ってみましたが、要するに、軍服姿はどこのでも好きだってことですね。

陸軍の制服は、前にも言ったように、防暑用のハイウェストのズボン、そして士官の着用するマント、
そして本日画像の陸軍士官学校の軍服がデザイン的に優れていると思っています。




以前から陸士のお話を聞きたいと思っていた方がいました。
終戦時にちょうど士官学校を終えた方で
「終戦後卒業証書が送られてきたので、陸軍少尉が最終階級なんだよ」と言う方。

しかしながら、その方は業界なら知らないもののない超有名、超名士。
言わば有名界の重鎮です。
そんな方にエリス中尉の興味ごときのためにお時間を取らすことなど畏れ多くて
(しかも陸軍のことをあまり知りませんし)ずっと具体的な話にならなかったのですが、
先週「早く話聴いとかないと、オレ死んじゃうよ」とご本人がおっしゃるので、
まさかとは思いつつそうなっては一生後悔することになると、慌てて会合をセッティング。



82歳にして重職をいくつも兼任されている方なので、先方の会合の前にこちらがその場所に伺い、
2時間近く、お話を聞かせていただきました。


N氏は、陸軍士官学校61期。
ご尊父は日露戦争で二〇三高地に参加もし、その後(おそらく)日支戦線で戦死、
(この部分はご指摘もありましたがつじつまが合わないのでこういうことであろうと理解)
金鵄勲章功労をされています。
N氏が生まれてすぐのことで、父親の顔を知らないで育ちました。
金鵄勲章功労者にはそれなりの功労金が国から支払われますから、
N家はそれで壮麗な墓所を建設したそうです。

しかし、先の東北地震で倒壊してしまい、「それを直さなくてはいけないんだが・・・・」
地震後の建築学会の歴史的建築物復興プロジェクトが忙しくて、ということです。

父上は職業軍人ではなく徴兵で召集された一般人だったそうですが、
長じてN氏が軍人の道を志したのは、戦死した父上への思いであったでしょうか。
N少年は陸軍士官学校、海軍兵学校を受験し、どちらも合格します。

「よくねえ、陸軍幼年学校ですかなんて言う人いるんだよね。
あれは違うの。あれはだってほら、中学生だもの」

戦後一般人の「陸士」に対する知識は実に適当で、N氏はその長い人生、何度か、
「ほー、陸士と言うと、陸軍幼年学校ですか」
などと聴かれてきたと見え、少しその件にはおかんむりのようでした。
まあ、エリス中尉も陸軍については詳しいとも言えないのですが、陸士と陸幼の違いくらいは・・・。

因みに陸幼は旧制中学1年から2年に受験資格がありました。
俳優の藤岡琢也は陸幼出身、なんと作家、大杉栄は中退者です。
このとき大杉は何かに目覚め、それがアナーキストとして後に陸軍に殺害されるという因縁
(甘粕事件)の導火線となったのでしょうか。


N氏は「殿下クラス」です。
同期には東久邇宮俊彦王がおられ、同じ隊でした。
殿下入学を迎えるために、陸士では「殿下舎」をわざわざ作ったそうです。
ちなみにこの殿下は「ブラジルに行ってそのまま帰ってこなかった」ということですが、
いつ、なんのためにブラジルに渡ったか、は聞きそびれました。

海兵と違うのが、
分隊とはいわずグループを例えばN生徒のいた「比叡隊」「三笠隊」などと、呼んでいたことです。
正式には1隊、2隊という数字の番号名ですが「軍のことなのでカムフラージュ」の意味があったようです。

因みにN学生は1隊で、殿下の同隊ですから、おそらく超優秀な入学成績だったのでしょう。
もしかしたら、父上の金鵄勲章が何かこのクラス割に関係あったかもしれません。
剣道の達人でもあったので、卒業式では天覧試合に出たり、
「フリーハンドで線や与えられたテーマ(例えば防空壕)の絵を描いたり」
したそうです。



絵?
絵を描いているところを天覧というのが不思議なのですが、これはよほどN生徒の絵の腕前が凄かった、
ということのようです。
N氏の戦後のお仕事は(現在も現役)建築家。建築界の大御所です。
フリーハンドで線を引くなど、朝飯前のお仕事(のはず)です。
のみならず、趣味の絵で個展を開いたりしているというのですから、当然この頃からお上手だったわけですね。

成績優秀、武道の達人、絵を描かせれば右に出る者なく・・・・かっこいいなあ(ため息)。

当然のことですが「厳しいなんてもんじゃない」陸士の学生生活。
まず大声を出すことから身体に叩き込まれます。
これは激戦地で号令をかけるのに肉声が聞こえなくては話にならんと言う理由で、海軍と一緒ですね。
鉄拳制裁も当たり前、と言いたいところですが

「鉄拳制裁はやっちゃいけなかった。海軍兵学校はそりゃひどかったみたいだけど」

だそうで・・・すみません・・・ってなんでわたしが謝まってるんでしょうか。

しかしまあ、軍隊ですからやっぱり上級生は下級生を殴ります。
「Nの突き」は危険なので禁じ手にされてしまった、と言うくらいの剣道の達人であったN生徒、
殴られる瞬間ボクシングのスウェイバックのように後ろに少し身体を逃がして衝撃を軽減していたら、
「貴様―!」
と、今度は壁に身体を押し付けられ、逃げないように殴られたそうです(T_T)

「たった1年しか違わないあったま悪い奴が、指導生徒と称して殴るんだよ。もうこいつーって思ってたね」
そしてその上級生と、N氏は戦後再会します。
某テレビ局に就職した元上級生がN氏にあることで「助けてくれ」と平身低頭する立場でした。
きっと心の広いN氏のことですから、黙って助けてあげたのでしょうが、
「先輩、昔俺のこと殴ってくれたよな~」
くらいのイヤミは言ってもよろしかったのではないでしょうか。

N氏は「ぼくは航空だったから」と言います。
それまで士官学校を卒業した航空志望者は、航空兵科士官候補生と言う名で訓練に入ったのですが、
終戦の頃、日本にはすでに乗る飛行機もガソリンも全く無い状態でした。
本来ならば埼玉県豊岡町(現在の入間市、入間基地になっている)にあり、
修武台と名づけられた陸軍航空士官学校に行くはずだったのでしょうが、61期生徒であるN学生は「未入校」です。
この期は「予科士官学校で航空科を指定された者」と、ウィキペディアにはあります。

国内に飛行機もガソリンが無いのでは仕方ない。
59期と60期の航空学生はこのころ満州で教育課程を受けており、61期のN学生のその後の予定も満州でした。
しかしちょうどそのとき終戦。
「それは運がよろしかったということでしょうか?」
エリス中尉がこのように訪ねると
「いやー、大丈夫だったんじゃない?
後で聴いたら『もし来てても、将校だから真っ先に帰してましたよ』って関係者が言ってたし」


それは確かで、59期と60期の生徒は終戦の勅を受けてすぐ、しかも8月中に復員しています。
N氏のお話をうかがう限り、決して士官学校の生徒が全て優秀だったわけでもなさそうですが、
何と言っても国費を投入して育てたエリート中のエリートですから、終戦の際にも、いや終戦だからこそ、
彼らを保護し、どんな形であれ今後の日本のために働いてほしいと国が特別に扱ったと言うことでしょうか。


そのN候補生の見た終戦についてもまた書きたいのですが、次回は少しこのN氏について、
「現在のお仕事」の話をさせていただきましょう。







映画「劒岳 点の記」

2011-11-11 | 映画

わたしの好きになる映画。
何度か言いましたが、それらの映画には共通項があります。

男たちが

チームで

何かの目標を達成する

これだけなら大抵の戦争映画はこれに当てはまってしまうので、さらに絞り込むと、

史実をモデルにしたもの、あるいは実在の人物を演じたもの

恋愛はメインではない 女性が出て来ない方が良し

音楽が特に良い

そして
サブキャラクターに魅力的な人物がいる

紫電改のタカでも米田二飛曹が好きだったように、エリス中尉はサブキャラ好き。
例えば「炎のランナー(チャリオッツ・オブ・ファイア)」のリンジー卿
アポロ13のケン・マッティングリーK-19のラドチェンコ中尉など、
興味深い脇役がいることも重要な要素の一つ。

本日画像は、映画「劒岳 点の記」で、主人公柴崎芳太郎のライバル、
登山家小島鳥雨を演じた仲村トオル様のお姿。(何故か様付け)
そう、この仲村トオルが、今回の「わたしの好きな映画の殿堂入り」の決め手となりました。

この新田次郎原作の山岳小説のストーリーについては実際に観ていただくかウィキで調べていただくとして、
結論から言うと、非常に「価値のある」映画であると思います。

「これは撮影ではなく『行』である」
筆舌につくせぬ困難の末に完成したこの映画を、監督の木村大作氏はこう称しました。
あまり筆舌に尽くせないので、メイキングを別の映画にしてしまったというくらいの筆舌に尽くせなさです。
そのメイキングの予告編を観ましたが、それを観ただけで、何故この映画の二つのパーティ
(陸軍測量部と山岳会)の人々が、最後そのシーンでそれまでのライバルを
「仲間」と呼んだのかが、分かるような気がしました。
そして、この映画のエンドロールにおいて出演者スタッフ全てが「仲間たち」と称されているのかも。
この過酷な体験を共有することで得られる一体感は、
まさに「仲間」という言葉でもなければ言い表わせなかったのかもしれません。

全身真っ白のまま吹雪の中立ち尽くして経文を唱えたり、(夏八木勲
雪の中大きな荷物を背負って崖登りは勿論、雪に埋まったり、転がり落ちたり、
勿論エキストラにとっても大変な現場になったに違いありません。
中でも役の松田龍太郎は、雪崩に巻き込まれ雪から掘り起こされるるシーンで、
なんと酸欠で本当に失神していたそうです。

ラストシーン、手旗で互いの健闘を称えあう両パーティ。
在りがちなこういう「ぐっとくるシーン」も、実際にあのような思いがあってこそ共感をうるのです。
映画を最初から観ている観客であればこのころには素直に「ぐっと」きてしまうでしょう。


しかしその修羅のような現場も、スクリーンではバッハ、ヴィバルディ、そしてヘンデルのバロックが流れる冴え冴えとした立山連峰の静謐に全て飲み込まれています。
特にヴィバルディの「四季」が各場面にまったく自然に寄り添っており新鮮でした。

「良い音楽」の条件を満たしていますね。

大自然に挑戦する人間ものというとえてして「ファイトー一発!」調の体育会的なものとなり、
人間関係や、おのおののキャラクター描き分けに関しては二の次三の次になりがちですが、
この映画はおそらく原作に忠実に登場人物の個性をきめ細かく描写しているのでしょう。
そのせいか、陸軍の文官、測量技師の柴崎芳太郎を演じた浅野忠信
そしてこの小島鳥水(うすい)を演じた仲村トオル両人には、つい目を引き付けられました。

陸軍の命令で地図測量のために三角点を設置する為に、いわばお役所仕事で峰を制覇する測量部。
対する小島鳥水は、有り余る資産にものを言わせて前人未到の劒岳を制覇することだけが目的の、
いわば「貴族アルピニスト」。

パーティが水場で合流したとき、鳥水は芳太郎に外国から来たクッキーを勧めます。
「ヨーロッパでは登山技術が進歩していましてね」
珍しいテント(天幕)、みたことのないハイカラな登山用具。

文学者でもあり、チェンバレンやウェストンとも交流のあった後の山岳協会会長の勧める
見たこともない菓子を芳太郎は丁寧に断り、その様子を、横にいる案内人の長次郎(香川照之)
「けーっ」
というような顔で眺める、というシーンが二人の立場をよく表していると思うのですが、
でも、この「クッキーを勧める仲村トオル」に、脇役好きの血がつい騒ぎ・・・、

加えてこの!
冒頭画像の仲村トオル様の登山スタイルに注目ー!

画像の色を再現するのに神経を払ったのはこのセイジ・グリーンのジャケット。
何とも言えない、ブルーグリーンを帯びた美しい色で、
良く見ると袖にはネイビ―ブルーのラインがアクセントに入っています。
コート下のジャケットは黄土を帯びたクリーム色。
フェルトの登山帽に見えないソフト、革ベルトの装具とのマッチングはすでに完璧。
同系色で無難にまとめて終わるのが普通のコーディネートですが、
あえて反対色の赤いシルクのマフラーを合わせ、アクセントにしています。
襟元を詰めずに下の方で結び、シャツの白を見せているのも心憎い計算。
(この稿、タグをファッションに変えようかしら)

・・・・・明治時代に本当にこんなスタイルで山を登ったのか?

と、つい疑ってしまうのですが、まあ、それもよし。
きっとわたしのようなサブキャラ好き(と仲村トオルファン)を狙った確信犯的時代錯誤でしょう。

昨今は登山女子を「山ガール」と称するようですが、山ガール的にもこの着こなしは
参考にされていいのではないかと思われます。

お洒落な山女のための登山専門雑誌「Y・A・M・Aガール」
11月号の特集記事

「登山服?いいえ、アルペン・モードです!
映画『劒岳』出演仲村トオルさんの着こなしがお手本!
リュクスな素材感と洗練された色調!
ヨーロッパの名門メゾンならではの登山ジャケットを徹底比較研究」


という広告がつい脳裏をよぎりました。(よぎり過ぎ?)

この映画に華を添える女優は、フジテレビ(製作協力)お気に入りの宮崎あおい。
芳太郎の新婚早々の若妻に扮しています。

「今日の夕飯、なに?」
「んー。お肉とお魚、どっちがいいですか?」
「・・・魚かな」
「じゃ、おさかなで」

という会話などのように
「明治時代に夕食を直前に魚か肉か選べるわけないだろうがっ!冷蔵庫もないのに」
とマッハで突っ込んでしまうテレビ的甘さが見られないわけでもありません。
が、この二人のアツアツぶりがなかなか微笑ましい。

宮崎あおいという女優さんをどちらかと言えばどこがいいんだろうと思ってきたのですが、
初々しい髷姿や湯上りの洗い髪姿が実にかわいらしい。
芳太郎が何もないのにふと手を伸ばして、かわいくて仕方がない、といった風情で
髪に触ったりしてしまうのがよおおおくわかります。
男の人だったら、こんな若妻が「じゃ、おさかなで」とか言ってくれたらさぞ嬉しかろうなあ。

そしてそういった二人のほのぼのシーンにもヴィバルディの四季は良く合います。

「何故人は山に登るのか」。
この永遠の問いが劇中読み上げられる元測量部技手の古田(役所広司)の手紙で問いかけられます。
同時に何故人は地図を作るのかという問いにかれはこのように言います。
「ひとが地図で自分の存在する場所を知りたいと思うのは、
自分がその場所にとって何なのかを知りたいという欲望なのではないでしょうか。
それは自分は何なのかを知ることにもつながるからです」




プロデューサーの亀山千広は「世界の亀山ブランド」と逆説的に揶揄され、
「しょうもない映画をパッケージと宣伝で売り出す天才」と言われているようですが、
(例:アマルフィ)
この映画に関しては一言で言って、全てのアラを「自然」がカバーしてあまりあるといった感あり。

劒岳の厳しい自然が、全ての人の世の俗や愚昧さを全てその懐に包みこむように。

・・・・・・・なーんて


でも、皆さん、これを観るときはできれば大画面でね。
パソコンの液晶ではさすがに再生能力に限界があり過ぎて、
スタッフの艱難辛苦に対して真に申し訳なく感じました。


それからこの映画唯一の「悪役」は、新聞記者。
両パーティをちょろちょろ行き来して、互いの情報を吹きこみ、必要以上に競争をあおり、
面白おかしくそれを報道する。
当時からマスコミはマスゴミだった、ってことはよくわかりました(笑)





「てつのくじら館」あきしお

2011-11-09 | 自衛隊

呉の自衛隊資料館で自衛隊の歴史に続き前回の掃海活動についての展示を観終わると、
建物の3階から潜水艦あきしおの入り口に入ることができます。

良く考えたら、いや良く考えるまでもなく潜水艦の中に入るのは初めての経験。
感想。

狭い。以上。

  
何度か潜水艦についてこのブログで語ってきて、その狭さについては十分理解してきたつもりだったけど、
それでも人のすれ違えない通路、士官室用と言いながら電話ボックス並みに細長いシャワー室、
まるでアメリカの犯罪ものにでてくる死体を収納するモルグの棚のようなベッド。
(寝てみましたが、ベッドの上に身体を起こすことができません。
慣れないうちは寝ぼけて飛び起き脳天強打する者がでるのは必至)


そう、何を取っても究極の狭さです。
撮った写真を観てあらためて思うのですが、写真ってこういうときどうして狭く写らないんでしょうね。
体感的には息苦しいほどの狭さだった気がするのですが。
天井が低いというのが画像に写らないせいでしょうか。

北極回りのUボート(実際はこの航路は存在しない。南洋航路が選ばれた)のフナ底で、
その狭さに精神をやられ、見えないはずのものが見えてしまった
アドルフ・カウフマンの気持ちがよおおっくわかる気がしました。




このあきしお(JS Akishio, SS-579)は、1985年進水式を行い、2004年まで就役しています。
最新とは言いませんがそこそこ最近まで現役であったフネ。
その技術においてもこの狭さは全く改善されなかったということです。
そしてこう言う居住スペースが基本となっていればこそ、海軍の
「整理整頓」「清潔」「清掃」の3Sが重要になってくるわけです。


ところで軍隊と言えば今も昔も階級社会。
ビーコンで食べたカレーにさえ「士官用」「兵用」の違いがあったくらいです。
牢名主が座敷牢のたたみを占領できるように(?)
ここでは一番偉い艦長が、貴重なスペースを一番たくさん確保できるのですが、



その最も広いはずの個室でさえこれ。
居住用個室と言うものはこれだけ。これが精いっぱいってことです。
むしろ逆にこの中に閉じこもって扉を閉めることの方が閉所恐怖症にはたまらん苦痛、
と言うレベル。

さらに階級社会ならでは。
キッチンの食器置き場ですら、この狭い艦内に「士官用」があります。
 

冒頭写真のシャワーとトイレはいずれも士官用で、士官室士官以上しか使えません。
士官用でこれなら、兵用はいったいどのようなものなのでしょうか。
海軍的階級ヒエラルキーを後世に伝える意味でも、
兵用シャワー、トイレの即時公開を強く望みます。

キッチンにある冷蔵庫には、ピントが合っていないのでもはや撮った本人にも読めませんが、
「冷蔵庫内の個人の食べ物には名前の記入を忘れずに」とあります。

そう、狭い艦内では食べ物についてトラブルが起こりやすいのです。
「おい、貴様俺のプリン食っただろう」
「あのプッチンプリンには名前がありませんでした。
一尉は先日わたしのヨーグルトを黙って食べたではありませんか。
ですからおあいこです」
「なあにい~!貴様口答えするか三尉の分際で」

などという些細な争いから戦艦ポチョムキンみたいにならないとも限りません。
(ならないかな)
なので、プリンには名前を記入しましょう。ということです。
これも大事なことですね。

そんな皆さんの艦内でのご飯。
あまり地上食と変わらないですね。
昔は、過酷な任務の潜水艦の食事は航空搭乗員と並んで配慮されていました。
しかし、生鮮食品はすぐに食べつくし、あとは保存食の繰り返しになってしまいます。
映画「真夏のオリオン」でも見られましたが、ビタミンのサプリメントが欠かせませんでした。
この日は金曜、カツカレー。
特に潜水艦の中は曜日の感覚がなくなるので、カレーによってそれを知るわけです。

曜日の感覚はカレー。
それでは夜も昼も真っ暗な潜水艦内での時間の感覚は何で知るのでしょうか。
旧兵学校訪問のときに解説の方がおっしゃっていたのですが、
潜水艦では夜と昼で電灯の色を変えるのだそうです。
時計を見て3時、天井の明りが赤なら夜中の3時、と認識するのだとか。

 

隊員のミーティング室。
ここで食事もしたようで、この反対側にはビデオスロット付きのテレビがありました。


究極の狭さ活用空間。
レーダー室のようですが、いまだに机に置いてあるウェットティッシュとクリーナーに、
3Sへの情熱が窺い知れます。
 

コントロールパネルは見られますが、魚雷発射室は写真のみ。
ぎょ、ぎょ~ぎょらい?(byさかなクン)
そうか。潜水艦って、兵器なんだ。当たり前のことですが。
魚雷がここから訓練以外で一度も発射されなかったことを、
わたしたちはありがたく思うべきなのでしょう。
(憲法9条にじゃねーぞ。言っとくけど)



もし潜水艦が海底に沈んでしまったら。
事故のとき救助に使用するために導入された「大気圧潜水器システム」という潜水具です。
この黄色いミシュラン坊やみたいな潜水スーツは、内部が1気圧に保たれているので、
地上と同じ条件で海底の作業をすることができるのです。
最高300メートルの海底深度まで達することが可能です。
・・・・可能ですが、きっとこの中に入る人は怖いでしょうね。
重量275キロ。
というか、これどうやって手足をうごかすんでしょうか?
その前に、いつ着用し、どうやって海底まで持っていくのでしょうか?

さて皆さま。
こうやって当たり前のようにここにある潜水艦ですが、どうやってここに設置したのか、
興味が湧きませんか?
吊り上げられた潜水艦 

塗装を済ませたあきしお(右)が二本のクレーンに抱きあげられる姿。
このあと、海水をきれいに洗ってこの姿で待機。
下にやってきて、あきしおを受け取るのが「ドーリー」という輸送台車。
 これを潜水艦用に17台連結させました。
ドーリーの上に降ろされるあきしおのおなか。
この後、移動する部分の縁石、信号を前もって撤去。
作業は深夜12時から、交通を遮断して行われました。
このドーリーは50センチ上にあげることができます。
あきしおを持ちあげて設置基礎台下に侵入し、そっとあきしおを台に乗せて、
下からドーリーだけ退出。
翌朝には設置完了。
信号も朝には元通りになっていたそうです。



潜水艦の「帽振れ」。
これは・・・うんりゅう・・・かな?(ちょっと自信なし)
 
いつも思うのですが、潜水艦上の帽振れとか答舷礼式で海に落ちる人っていないのかしら。
 
あきしお退役の自衛艦旗返納式で軍艦旗(自衛艦旗)を捧げ持っているのは先任伍長。
受け取るのが艦長で、これを式執行者である地方総監に渡して終了です。

自衛隊の潜水艦の寿命は短いと言われます。
これは毎年潜水艦を建造することによって技術を保持するのが目的だそうです。
そして、保有隻数に制限があるので押し出される形で毎年退役する艦が出るためだそうです。


その最後の日。
乗組員たちは艦の機材やバルブをいとおしげに磨きあげるのだそうです。
退役が決まれば、普通の潜水艦は同型の現役艦に部品を抜き取られ、
さらに退役後はスクラップにされてしまうのですが、あきしおはこうやって
「てつのくじら」として第二の人生を歩むことになりました。

一番うれしかったのはあきしおの「どん亀乗り」たちだったのではないでしょうか。






海上自衛隊資料館に行った

2011-11-07 | 自衛隊

大和ミュージアムから道一本渡ったところにある、この海自資料館ですが、退役した潜水艦
「あきしお」がそのまま展示されていてある意味大和ミュージアムより見学の値打ちがあります。
しかし、こちらは無料。
自衛隊の広報施設なのでお金を取らないのです。
そう言えば陸自の体験型広報施設「りっくんランド」を視察したR4大臣が
「有名なテーマパークはお金を取るけどリピーターが絶えない。こっちも料金取ってはどうか」
とのたまったそうですね。

・・・何でこんな奴が大臣なの?

といまさらなことをいまさら言っても仕方が無いので本題。



この資料館の展示は大まかに言って二部に分かれます。
潜水艦「あきしお」の内部に入り、またその生涯とどうやって潜水艦をここに設置したかを知る部分。
そして、入ってすぐに見るのは「機雷」。
そう、この資料館のメインは、実は自衛隊が行ってきた掃海活動を伝えることなのです。



「飢餓作戦」。(Operation Starvation)
機雷の掃海活動について語るには、まずこの言葉から説明せねばなりません。

これは太平洋戦争末期にアメリカ軍が行った日本周辺を機雷で封鎖するという作戦名です。
日本の内海航路や朝鮮半島航路に壊滅的打撃を与え、
戦後も海自
の戦術思想や日本の海運そのものに影響を残したと言われるこの作戦は、
海で四方を囲まれた国日本を兵糧攻めにするために、
効率よくシーレーンを機雷によって封鎖していくというものでした。

投下された機雷、その数12135個。



終戦後に残された6000個余りの機雷。その残機雷に触れ、三艘の貨客船が沈没、
合計1200名以上の人命が犠牲になっています。
そのため、生き残った海軍の艦艇を使い、飢餓作戦で投下されたもの、そして
防御のために海軍が敷設していた5万5千個の機雷の除去も行われることになりました。
しかし、もともと掃海用に作られたフネではないので、当初は掃海具の投入、揚収を全て人力で行ったそうです。



日本軍の機雷は簡単な構造でしたが、米軍がB29から投下したそれは処分の難しい感応機雷や複合感応機雷で、
そのため危険海域をわざわざ航海し、機雷の有無を確かめる特攻作戦まで取られました。


1954年にはアメリカから掃海用の艦が貸し出されましたが、隊員たちが驚いたのが
「風呂があり、食堂がある」ことだったというのです。
いかに劣悪な環境で彼らが掃海活動に命を懸けなくてはいけなかったのかが分かる逸話です。

そして、77名もが掃海作戦の犠牲となって命を失っています。



爆発により機体がペチャンコになったフロート。
フロートとは、複合掃海時に音響掃海具を吊るして使用するものです。

 

何となく「後から手描きで描いてみました」風の可愛いイラストが・・・。

 

この掃海隊員の中でも「水中処分員」について少し。
「触雷特攻」をしていたころの殉職者は、77名の殉職者のうちのほとんど占めます。

しかし、技術が進歩して遠隔操作による掃海に方法が移行していっても、
やはり人の目に届かない海中では最終的には実際に人間が確認することになります。
1962年から処分員が配置され、確認と機雷破壊を人の手で行うようになるのですが、
これは系緯機雷の処理をする上でやはりその方が確実だったからということのようです。



水中処分員の装備です。
機雷は遠隔から掃射するという方法になっても、その仕上げは処分員が人の手で行います。
この黄色いものは半開式潜水具と言い、機雷の感応を防ぐために気泡が出にくく磁気を極力抑えています。

この装備で彼らはヘッドランプの灯りと手に持ったハンドソナーの反応だけを頼りに、
真っ暗な海中をいつ爆発するかもしれない機雷に向かって降下していくのです。
そして、機雷を見つけると爆薬を取り付けた後避退するのですが、
爆発を避けるためにであっても、上昇のスピードが速いと潜水病になる惧れがあります。

つまり、接敵から避退に至るまで、恐怖心と戦い、かつ冷静を保つ、並々ならぬ精神力が
体力以上に必要となってくるのです。

ここでまったく関係ない映画「海猿」の話を。(先日観たばかりですので)

訓練中脚を挟まれ海底から抜け出せないバディ(パートナー)と取り残された仙崎。
アクアラングは訓練の関係で二人に一つ。
バディは「俺はいいからもうおまえはアクアラングをしょって行け」と合図します。
仙崎はしかし、酸素の無くなるまで一つのアクアラングで海底にとどまることを選びます。

一緒に観ていた息子がこう言いました。
「アクアラングは脚の挟まれた人に残して、仙崎が泳いで海面に出て助けを呼んだらいいんじゃないの」

そう。何故仙崎がバディにアクアラングを残してとりあえず海面に上昇しなかったのか。
彼らは2分以上水中に無呼吸でいられる訓練を受けていたはず・・・。

その答えは、この「潜水病」なのですね。
呼吸が苦しければ一目散に海面を目指すことを余儀なくされ、下手すれば心停止、
良くても視力が失われるなどの重篤な減圧症にかかることになります。

処分員が万が一この減圧症になった場合は、母艦に減圧装置が備えてあり、
ここに収容されて回復を図ったそうです。




しかし、最近では機雷処分具も変遷を遂げ、処分用機雷を搭載して自走し目標に近づく、
海中ロボットに近いものが開発されています。
機雷掃海から掃討戦術に移るとともに高性能化が図られてきました。

最初のS-4型は搭載している艇(はつしま)を目標に近づけ、その真上にこれを誘導して、
処分用機雷を投下し、時限式で爆破処理するものでした。
ペルシャ湾の掃海作業で使用されたのもこの型です。



20ミリ機関砲です。

こちらは水面に浮上した系緯切断した機雷を銃撃で「やっつける」ための機関砲。
機関砲弾を機雷本体に貫通させ水没させるためのものですが、
水没させるだけでは危険性を除去することはできないとして、最近は用いない手法です。

しかし、勝手な予想ですが、一応系緯切断されているわけですから、
危険と隣り合わせで緊張の連続であったであろうこの破壊作業の中では、
隊員たちのちょっとした「息抜き」というか「楽しみ」になっていたと言うことはないでしょうか。
もしかしたら、零戦の20ミリ砲を撃ってみたい、とひそかに憧れている隊員もいたかもしれないし。

 


湾岸戦争当時、各国が軍隊を派遣する中、
国会を中心に自衛隊を「出す」「出さない」で大騒ぎしていた我が日本。
結局憲法9条が足を引っ張り、巨額のお金を出すことで済ませたものの
「日本は血も汗も流さない」と感謝どころか世界からは非難ごうごうでした。
93年、クェート政府はアメリカをはじめ、協力各国に対する謝意を示す新聞広告を出しましたが、
その中に日本の名前が無かったのは有名な話です。

その苦い思いを払しょくするべく国際貢献のアピールを目的に決定した自衛隊のペルシャ湾掃海作戦。
国内反対派からは派遣そのものに対する非難。
国外からは金しか出してこなかった日本がどのような国際貢献するのかという注目。
そんな精神的な重圧に耐え、彼らは文字通り生命の危険を冒して掃海活動をし、
日本の国際貢献を世界に印象付けました。

実はそれまで最も肩身の狭い思いをしていたのが現地の日本企業でした。
「金しか出さない日本とはビジネスはしない」
と日本企業のビジネスマンは名刺も受け取ってもらえない状態だったそうです。

そんな中、ペルシャ湾に颯爽と現れた海上自衛隊。
この任務は公的には戦後初めての海外における作戦任務になりました。


海上自衛隊がペルシャ湾に到着したとき、
冒頭画像の軍艦旗を涙で迎えたのは、他ならぬ現地の日本人であったということです。










大和ミュージアムに行った

2011-11-05 | 海軍

常設の博物館でありながら見学者が絶えることはない人気のミュージアム。
それはそのまま戦艦大和に対する我々の尽きることのない関心の高さを表しています。

大和の設計図が手に入ったことからそれをアップするついでに少し語ってみたこともありますが、
正直なところ、少し調べたくらいではそもそも戦艦大和について語る資格はない、とつくづく思いました。
それこそ全身全霊で大和を愛し研究している一般の方がたくさんいるということの片りんを、
頂いたメールと、いまだに毎日大和設計図の画像を見に来る人数の多さから窺い知ったのです。

なぜ我々はこれほどまでに大和に魅かれるのか。

 
そんなことを考えながら、大和ミュージアムにやってきました。


入ってすぐに中央にある大和の模型。
ここは「大和ひろば」といいます。


大和ひろばから臨む公園。
前回探索した実物大体験公園です。
夏になると熱くなるので気を付けてくださいと注意書きの付いた犬のオブジェが見えます。
(説明っぽい・・・)


ここにはペリーの来航をはじめに海軍整備の時代に呉が「海軍の街」として発展しいく様子を中心にした
「呉の歴史」という展示室に大和の設計関係はじめ旧軍時代の歴史資料が展示されています。
しかし、そこは撮影禁止

佐久間艇長の第六潜水艦の事故については、海軍兵学校跡の教育参考館でも資料が見られますが、
こちらはさらにスペースを広く取って、佐久間艇長の結婚写真なども見ることができます。

事故の一年前、佐久間艇長はこの美しい若妻を亡くしています。
佐久間艇長の死を妻が嘆くことにならなかったことだけが不幸中の幸いだったかもしれません。


続く資料展示は、海軍関係ばかりでなく、呉の町が文化的にも発展した様子についても、
郷土の音楽家や呉軍楽隊の活動、スポーツ、文学などを網羅していました。

呉の近くに広という駅があり、ここには海軍航空機の試作機関で、設計の権威的存在だった広工廠がありました。
特に金属製飛行艇の研究と製作においては独壇場とまで言われ、15式、90式飛行艇は、
ここで設計、開発されました。
発動機の研究も進められ、次々とエンジンの試作が行われたそうです。
ここで制作されたのがこのような飛行機です。



零式水上偵察機
97式3号感情攻撃機
感情攻撃機「彗星」
局地戦闘機「紫電改」




さて、メインの大和については、建造計画から建造過程の写真、設計図は勿論、
竣工記念の関係者の自筆サイン、ひっそりと極秘で行われた進水式の写真が見られます。

この進水式のとき、いつもなら行われる軍楽隊の演奏もなく、参加者の拍手バンザイもなく、
なんと呉市内では市民の耳目を引きつけるために、
早朝から偽装の海軍陸戦隊による市街戦演習が行われていたそうです。

それに続く大和の生涯では、呉の初空襲の際アメリカ軍偵察機の撮影した大和の姿や、
伝説の秀才臼渕磐大尉の超眉目秀麗のご尊顔など、初めて見る写真も多々ありました。
(写真を見てさらに『男たちの大和』の長嶋一茂=ミスキャストを確信)

時間があって一日いてもよければ、関係者による「大和」の証言を見るのもいいでしょう。
大和を作った人、大和の生存者の語る大和。
館内ではその映像が常に放映されて、見ることができます。

そして、一人ひとりの写真や名前の刻まれた壁。
「その最後のとき、第一艦橋のそばで軍刀を捧げるようにして立っていた姿が目撃されている」
ある下士官の写真に添えられたこの一文を読んだとき、ふいに涙が・・・。

今現在、北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒にその姿をとどめる大和。
「海の墓標委員会」により1985年と1999年の2回にわたり行われた潜水調査によって、
海底の大和の姿が明らかになりました。
引き上げられたいくつかの遺品も、現物が展示され見ることができます。
靴、伝声管、どんぶり、キリンビールの瓶、士官室浴室のタイル床の一部、そしてラッパ。


写真禁止の部屋を出て、大型展示物の部屋に行くと、そこには零式艦上戦闘機や回天が展示されています。
 

中島82729号、零式艦上戦闘機六二型。
エンジンは栄三一甲型エンジンです。
いわゆる「星型エンジン」と言われる放射状に配置された気筒のもの。
 

航空用具も展示されています。
写真禁止の内部展示館には、新藤三郎海軍少佐の航空帽が展示されています。

防弾ガラス。

三枚継ぎ合わせてあり、少なくとも射角の浅い弾は防護できそうですが、実際はどうだったのでしょうか。

 
特殊潜航艇「海龍」。
右側は兵学校の教育参考館横に展示されているもの。
 
なぜか英語表記。



回天十型試作タイプ。
この写真に写っているブルーのベストを着用しているのがボランティアの解説員です。
この展示の前には志願して回天に搭乗し、ウルシー湾に突入散華した慶応大学の
塚本太郎海軍大尉
が、実家の経営する会社の録音設備にこっそり吹きこんで遺した、
肉声の遺言が聴けるスイッチがあります。
しばらく佇んでその若々しい、しかし思いつめたような声を聴いているだけで、
自然とこうべが垂れ、瞑目せずにはいられません。

不思議なことに、この回天を寄贈したのは
京都にある湯豆腐の店、嵯峨野



搭乗員遺族の実家でしょうか。

と疑問を持ったところで検索してみると、これはかつてホノルルの中古自動車にあったものを
日本人が買い取って、どういう経緯でかこの嵯峨野の庭に展示されていたものだそうです。
大和ミュージアム開館の際、寄付されたもののようですね。

ところで大和のデッキに、人影を発見。
これはいいとして。

これは何ですか?
この制服は海上自衛隊?というか、確か海保の制服ではないですか?
(最近「海猿」を観たばかりなので自信あり)
・・・・・大和艦上なんですから。第二種軍服を着せてあげてください。お願いします。

 
このときやっていた企画展と、写真を撮ってよかった数少ない展示。
当時から流行り出した「洋食」。
今と全く変わらない食堂メニュー。
一室だけの展示ですが、ここの部分だけ入場料が必要でした。


ところで、冒頭の問いです。
「大和が何故このように日本人に愛されるのか」

「大和だから」愛されるのか、日本人だから愛するのか。
この疑問は、館内の「未来へ」と名付けられた「大和シアター」で放映されていた
「はやぶさの帰還」のドキュメンタリーを観たとき、その一端が解かれた気がしました。

「はやぶさ、お帰り」と心の底からいとしげな声で探査機を労わる科学者たち。
はやぶさの撮った写真をみて涙ぐむ人たち。
たかが機械にこれほどの愛情を寄せるのは、我々日本民族が虫の声に哀れを感じ、
一週間で散る桜に人生を重ねて無常を感じる感性の持ち主であるからではないかと。

「中国人は人間を機械のように扱い、日本人は機械を人間のように扱う」

今回はやぶさに熱狂する日本人をある中国人がこのように評しました。


ひっそりと極秘のうちに生まれ、さしたる戦果をあげないうちに洋上特攻を命じられ、
ただ海の藻屑となるために出撃していった悲劇の艦(ふね)。
その大和に、はやぶさから受けるような「哀れ」を感じ、哀れさゆえに愛してやまないのは、
ただ我々が日本人であるからなのかもしれません。






旅しながら淡々と写真を貼る 倉敷

2011-11-03 | つれづれなるままに

後楽園のネコ棚に展示収納されていたネコ。
なんだかネコの生活って気楽そうで羨ましいですね。

さて、怒涛の西日本旅行、遂に最終日を迎えました。
この岡山編は、旅行と言いながら「所用」だったりするわけで、ネコのようにきままに
「今日はもう疲れたからホテルの部屋で昼まで寝てよーっと」
というわけにはいきません。
だいたい我が家の旅行というのは基本このきまま旅なのですが、
相手方が組んでくれた「モスト・ポピュラー・サイトシーイング・プレイス」(なぜ英語)を
ただただ引き回されてなすがまま。キュウリがパパ。

向こうも「任務」ですから、自分が楽しいかどうかは問題ではなく、ただひたすら
「接待」という立場で気を遣ってくださいます。
その結果、この二日で岡山のおのぼりさんコースを全て制圧することができました。

巨大マツタケの一夜が明け、食後一時間で宿を出てまず向かったのが

 

ここ。
瀬戸大橋が開通してどのくらいになるのかは知りませんが、いまだに観光名所として機能しているようです。
この付近の島には、バブルの頃観光客を当て込んで建てたホテルの
「兵どもが夢の址」状態の廃墟が見られ、こういう「負の遺産」を観るのもまたおつな観光でした。
そして、ここで遭遇したのは・・・。
 頭に車載せてるし。

というところからうっすらお分かりかと思いますが、これは「瀬戸大橋」なのです。
ゆるキャラの「わたるくん」
フルネームは「瀬戸内わたる」。
今回の旅行でゆるキャラというものの地域における意義と言うか、意味と言うか、
そういった役目について考えさせられる事象にいくつか遭遇しましたが、
この「わたるくん」は、なんというか、生き馬の目を抜くゆるキャラ界のなかでも、特に脱力系?

いまこんなことになっているんですね、ゆるキャラって。
漫画、アニメ世代が社会の大半を占めるようになってしまった、ってことなのかも。

この後は児島の塩田王野崎武左衛門旧邸へ。
塩田事業で名をなした、超リッチな当時の豪邸。
よくテレビの時代物ロケが行われたりするそうですが、
 

お座敷や玄関などより、バックステージに興味がわくのは人の世のならい。
  

左から薪置き場、厠、防空壕。
 

風呂と火焚き口。
ここで「もうちょっとくべてくれ」「へい旦那」などという会話があったわけですが、
それにしても、トイレもお風呂も当然のように外にあり、灯りなし。水道なし。排水口無し。暖房なし。
極寒の季節、風呂に入るのは、そして夜厠に行くのは非常に億劫なことだっただろうと・・。
TOいわく
「もの凄い大金持ちでも、こんなお風呂しか入れなかったなんて・・・。
現代に生まれて本当に良かった」

100年後、現代の暮らしを資料によって知る人もおそらく同じことを言うのでしょうね。



ここの資料館で海軍的にちょっとした発見がありました。
この児島には海員養成所というものがありました。
1908年、この野崎家の子孫が還暦祝いに児島郡に5万円を寄付して
「児島商船学校」が作られたのだそうです。
その後、1939年、山本五十六海軍次官(当時)の力添えで児島海員養成所として再出発。
水産、船舶などの技術を学ぶ「海の男の養成」を手掛けてきたそうです。
1992年までは独法の海事教育機関として機能していました。

ここで皆さん、岡山と言えば何を思い浮かべますか?
桃?岡山城?桃太郎?
実はこの岡山、今や世界的に有名なあることがあるのです。



そう、ジーンズ。
いまや岡山のジーンズと言えば世界的に有名。
ブラッド・ピット御用達、などという話もあります。
「たかがジーンズなのに、何が違うんでしょうねえ」
「誰か仕掛け人でもいるんでしょうかね」
こんな会話を車中でしながら、観光目的で児島ジーンズ通りを訪ねてみました。

 

ジーンズ通りにある「桃太郎ジーンズ」以外にもKAPITALというブランドも有名です。
上画像はどちらもこのキャピタルジーンズのショップ。

ショップ。

ショップです。
えー、民家じゃないか、右は単なる立派なお屋敷の玄関じゃないか、と思われるでしょ?
このお屋敷は、靴を脱いで座敷に上がり、たたみの上に並べてあるジーンズを見せてもらいます。
売り方も斬新ですね。懐古趣味と言うか回帰趣味と言うか。


何故岡山でジーンズ?ということを少し説明すると。

1967年、岡山の染色屋が、家業の藍染めを発展させて工業生産用の工程を開発、
1970年、こちらは広島の染色屋が「忍耐1号」というインディゴ染色機を開発しました。

これらの開発を受けて、倉敷紡績のおひざ元、繊維産業の盛んであった児島
そして広島の井原を中心に、国内のジーンズの一大産地が形成されていったそうです。

例えばこの桃太郎ジーンズは、その後中国産との価格競争まっただ中だったジーンズ製造界で、
レプリカメーカーであるF、D、E、D(みんなお分かりですか?)に製品を提供してきたのですが、
その後独自のブランドとして立つことを決定。
繊維の長さ、オリジナルのブルー、そしてあえて手間をかけてゆっくり織り上げる機械のの開発。
とことんこだわった手作りの「本物」を研究し、今日のプレミアム・ジーンズメーカーの地位を得たそうです。

そこまで職人の魂のこもったものなら、試してみたいではないですか。

そう、物を買うということは、何度か申し述べてきたように「縁」。
そして「日本人の魂のこもったもの」を作る製造者を、購入することで応援できるなら、
そのためだけにも、買う。

とはいえ、ジーンズですから、身体に合わなくては話になりません。
カピタルジーンズでいくつか試すも、気にいらず。
駄目もとでもう一度訪ねた桃太郎ジーンズで、「これぞ」という一本に巡り合えました。
 

スリムストレートの定番タイプ。
一本一本10年保障が付いており、お直しは無料。
試着のとき「あのー、苦しいんですけど・・足も曲がらないし」と言うと
「最初の1日はうっ血しそうにきついですが、身体に添って伸びます」
帰ってきた日、一日着用していたら、そのとおり、穿いていることを忘れそうなサイズになっていました。
ミネラルを含んだ瀬戸内海の海水と同じ成分を使用した水でワンウォッシュされているそうです。
 

これ、もしかして本当にすごいかも。
丈夫な袋に収納されていて、これだけ使えます。そして、女物には一つにつき一個、

手作りのシュシュがおまけに付いてくるのが嬉しい。
え?なぜ二つあるのかって?
旅の途中で着替えの無くなった息子のためにもう一本買ったからです!
子供サイズというものがないので、一番小さい女性用(といってもカッティングに違いは無し)
を試着させたら、出てきた息子を見てお店のお姉さん
「・・・・・・かっこいいですね」
「・・・・・息子、きみ脚長かったのね」
というくらい感動的に似合っていて、買ってしまいました。
TOがお支払いを済ませて店の外に出た後で
「記念だし、いいけどさ…子供の服なのに少し高かったかも」

「え、高かったんだ」
「これが安いわけなかろうが」(領収書見せる)
@@「・・・・・・・安くはないね」

「・・・・でも、良く考えて。これからほぼ毎日これ着て、着られなくなっても、下に3人いるんだから」

そう、うちは一人っ子ですが、息子の従弟は上8歳から末は去年生まれた一歳児まで、
これから10年間たっぷり着手がいるのです。
「10年間保証書期間中は誰かが着続けられるのだから、高くない!」
「そんなもんかしら」
「そう考えればそんなもんです」

この職人の魂とも言えるこだわりのジーンズ、どう変化していくのか楽しみです。


この後、倉敷と言えばここ、倉敷風致地区とアイビースクエア、そして大原美術館。
しかし、写真割愛。

割愛と言いながら、風致地区にあった北田証券の表にあった市況解説かわら版。
みんな「ほー」「達筆だねえ」と立ち止まって見とれていました。
本来の目的を知るために見ていた人がどれくらいあったかは、わかりません。
そして、この地区の立派な鯉がうようよしている疏水のほとりで
 

真剣に魚を取る方法を考えているサギ。
しかし、ざっと見ただけでも鯉の大きさに負けてませんか?
サギの方が引き摺りこまれてしまいそう。



この後、空港まで送っていただき、ヘロヘロになって羽田まで辿りつきました。
駆け足(時々立ち止まり)で旅した10日間。
いろんなものに巡り合えて、国内を旅することの面白さをあらためて知ることになりました。

これを読んでおられる方と、山口、博多、小倉、広島、呉、岡山のどこかですれ違っていたかもしれませんね。


(終)







旅しながら淡々と写真を貼る 岡山

2011-11-02 | つれづれなるままに

呉から岡山へ移動した夜は、駅の近くのビジネスホテルに泊まりました。
ビジネスホテルと言ってもルームサービスが無いだけで、部屋のグレードもサービスも、シティホテルと同じ。
フロントや各階には古美術陶器などが飾られ、とてもセンスのいいホテルです。
 

窓の大きな三角の形をした部屋で明るすぎるほど。
朝食は和食中心の美味しいブッフェが下のレストランで(800円!)いただけます。
おまけにチェックアウトが12時。

このホテルのチェックアウト時、総支配人の丁寧なご挨拶がありました。
呉のホテルでもスイートになっていたし、何やら今回どうしてこのようにVIP扱い?

その理由は直ぐに判明。
実はこの朝11時にお掃除のおばちゃんが「ピンポーン」と鳴らすやいなや、
ドアを開けて入ってきてしまったのでした。
幸いあられもない恰好をしていたわけでもなく、あらあらで済んでしまったのですが、
あられもない恰好をしていてあらあらで済まなかった場合、とんでもない騒ぎになっていたでしょう。
そういう事態を重く見たホテル側が最大級のお詫びにでてこられたということのようです。

そのうち迎えにきたTOと総支配人の間で「大変失礼をば」「いえいえ」の応酬があり、
なんと総支配人自らトランクを迎えの車まで運搬していただきました。
いいホテルですね。

この後、知人の案内で岡山一帯を楽しむ旅が始まりました。
まず、岡山観光定番、後楽園と岡山城。
当たり前の写真はさっくりと割愛。
 

カメとネコ。
岡山城に続く土手には棚のような出っ張りがあって、誰も来ないそこは「猫棚」として機能していました。
 
一応岡山城と後楽園(の一部)。

 
岡山城の代々城主の肖像ですが、ラスト3人はなんと写真です。
地元の方に聴くと、現在末裔の方はやはり池田さん。
皇族につながっていて、名誉職をたくさん兼任しているようですが、
メインのお仕事は遊園地?だか動物園だかの園長さんだったようです。

右は園内で息子と半分ずつ食べた桃アイス。

やたら猫が幸せそうな後楽園でしたが、この後知人に連れて行かれたのがここ。


まあ何て事は無い、招き猫のアンティークやらモダンなのやらを集めただけのもので、見るのは一瞬でおしまい。
あとはグッズを売っているのと、お茶を飲む休憩所があって、
その壁や天井に願い事を書いた短冊を貼る、というのが唯一のイベントです。

息子作。
ネコ好きのくせに、ウケを狙うためだけにこんなことをわざわざ書く、
それが息子です。
 かりん、君は欲張り過ぎだ。

・・・・・・かなうといいですね。

と言う風に散々人のお願い事で楽しんで、次の場所は。

 名前は・・・熊野神社だったかな。
(連れて行ってくれた方すみません)
このいちょうは樹齢600年。
こういうものには畏れのような敬虔な気持ちを抱いてしまいます。
もうすでに人格、いや神格が宿っている巨木です。

ここではとても印象的なことがありました。
 

なんと、高校生の弓道大会(全国大会)をやっていたのでした。
しばらくあぜんと言った感じで眺めていましたが、全国大会だけあってレベルが高い。
どうしてこの距離の、この的の真ん中に当てられるのか、と横から見ているとさらに驚異的な技に思えます。


そして、きりりと袴をつけ、黒髪を束ねた女の子たちのりりしいこと、可愛いこと。
「やっぱり日本の女の子はいいなあ」
と目を細めて見ていました。

そもそも土手に矢がささるのが当たり前のレベルです。
上手い子は百発百中で的に中てていました。

この後、地元で有名な安富牧場のアイスクリームを食べに行きました。


ベゴニアの鉢植えにお洒落な木のベンチ、ここで馬を見ながらアイスを・・・・・。
うっ・・・・・。

やはり、牛馬の匂いとアイスクリームは合わないわ。
中で食べるとしましょう。
これも息子と半分ずつ。
さっきの桃アイスとは段違いに美味しかったです。

さて、そして本日のメインエベント。
まずは民宿にチェックイン。
 

周りは正真正銘のカントリー。
ここにいる間は、そう、インターネットどころではなかったわけですね。
周りは小川が流れ、山に囲まれたうっそうとした林。舗装されていない道。
「おお~」
思わずその美しき田舎ぶりに感嘆の声が。
この民宿は、季節のお料理をみんなで味わう、温泉宿。
荷物は自分で部屋まで運びますし、時間になったら
「早くお風呂入ってください」
なんて奥さんが言いに来ます。
バスタオルすらありません。

そう、ここで楽しむのはマツタケを中心としたお料理。そして一夜の語らい。
 

ナイフがついていましたが、ちぎって割いてポンポン鍋に放り込んでいきます。
これ以外にもマツタケのお浸し、画像土瓶蒸しも。
この巨大マツタケ、おそらくデパートで買えば数万円レベルと思われます。
これを親子三人でいただくという贅沢。
知人グループと二手に分かれて食べたのですが、あちらは4人グループだったので、
随分一人当たりのマツタケ配分量に差があって申し訳なかったです。
そもそも三人のうち一人(息子)はまったく食べず、
残りの約一人ももともとマツタケが好きでというわけでもないという・・・
<(_ _)>すまぬ

食後、わたしはへやで返却しなくてはいけないDVD(剣岳)を観ていましたが、
息子はおじさんたちとなじみまくりだったようです。
ご自慢のラジコン模型を見せてもらい、自分のコンピュータゲームも披露して、すっかりご満悦。

旅行後、かれに「この旅行で一番楽しかったのは何だった?」と聴くと、ためらいなく
「あの人のうちみたいなホテル」
と答えました。
プールの付いたお洒落な温泉宿よりも、
屋上スパのあるシティホテルよりも、
暗いお風呂に大きな虫がいて、トイレ洗面所は共同の民宿が良かったとは。

でも、なんとなく「結構まともな子供に育っているのかも」と安心する答えでした。
親としては嬉しかったです。
ゴージャスホテルより、行きとどいたサービスより、
みんなでわいわい遊んだことがかれにとって楽しかったのなら。


というわけで、最後の夜。
明日もう一日、頑張れ。
(と自分を叱咤しながら続く)



旅しながら淡々と写真を貼る 江田島その2

2011-11-01 | 海軍

前回江田島に訪れたのは地震前の2月のこと。
前回も言ったように、解説の方は前と同じ「昔艦船に乗っていた」元艦乗りの自衛官の方です。
一日3回、全く同じツアーをしておられるわけですから、一言隻句同じセリフが聞かれると思いきや、
ネタはたくさんあるものらしく、微妙におっしゃることが違っていました。


たとえば、大講堂が進駐軍の占領下礼拝堂になっていたというようなことです。
この中央の玉座(天皇陛下はじめ皇族のお座りになる椅子)置き場にマリア像を置いたそうです。

 
前回思わせぶりに「レンガが・・・」と言いかけて引っ張ってみたのですが、その衝撃の事実を。
どうでもいい方には衝撃でも何でもないのですが、これまで兵学校の建物についての本を読まれた方、
「生徒館のレンガはイギリスから手焼きのものを一つ一つ包んで送ってきたものである」
と言う記述ではありませんでしたか?

実はそれは間違いだったのです。

二か月前の新聞記事になったそうですが、実はこのレンガは国産も国産、れっきとした
メイド・イン・ヒロシマ(東広島市安芸津町)のものであることがある調査で明らかになったというのです。
どこから広まった噂かは知りませんが、巨額の予算を投入して国家の威信をかけ作り上げられた
「世界三大海軍兵学校(アナポリス、ダートマス、エタジマ)のひとつ」の校舎ですので、
全てが特別、全てが特注、舶来の最新の、と噂が噂を呼び、このような間違いが定着してしまったのかもしれません。


実は、衝撃などと言いながらエリス中尉は当時記事を見て知っていたはずなのですが、
それでもなんとなくその事実を頭から排除していたものらしく、解説の方の話を聞いて
「ええっ!」
と一瞬驚いてしまったのですから、刷り込みというのは不思議ですね。
・・・・単に忘れっぽいだけだって?

 

カッター吊り場。
海軍には憧れますが、今回高速船に乗ったくらいで「早く降りたい・・・」
あきしおの艦内に入っただけで「狭い。なんか変なにおいがする・・・」などと
へたれなことばかり脳裏に浮かぶようなやわな精神しか持ち合わせていないエリス中尉、
実習でカッターを漕がされた中学生の時に「少なくとも将来船乗りだけにはならないだろう」
と言うことだけは確信してきたのですが、何の因果かフネ関係もフネ関係、海軍にこれほどのめり込むとは、
神ならぬ身には知る由も(略)

  

この建物、悉くディティールが凝っています。
写真を見て初めて気がついたのですが、左端の床下通風孔と、同じ大講堂の扉上部のモチーフが同じです。
真ん中は生徒館の避雷針です。なんたる繊細さ、優美さ。

 

敷地内に人影があればついついズームにしてまでもシャッターを切ってしまいました。
左はランニングする自衛官。
右はこれから始まる行進練習に備える学生と隊員。

見学の最後は行った方ならご存知でしょうが、教育参考館。
昭和11年に完成した資料館です。
ここでは特別展として広瀬中佐の資料をガラスケース一つ分増やしていました。
「坂の上の雲」のあと、広瀬中佐に興味を持つ人が増えたことを受けてのことでしょう。

ただ部下を心配して逃げるのが遅れ戦死しただけの人物ではなく、
本人が軍人として非常に心身ともに優れており国際的な視野を持つ知識人であり、
何といっても人間的魅力に満ち満ちた「漢」であったということが人気の秘密のようです。
売店で広瀬中佐の伝記マンガを売っていたので買って帰りました。

参考館内には特攻戦死した人々の名前が壁に刻まれているのですが、
ちょうど手の届くところに野中五郎少佐の名前を見つけました。
ふと手を伸ばしてその名を指でなぞってみました。
時間があれば一日でも佇んで知っている名前を確かめたかったです。

 
参考館に入る前、軍楽隊の「軍艦」が聴こえてきており、
「ああ、兵学校で聴く『軍艦』・・・」
と感無量23発目(くらい)を味わっていたのですが、それは参考館を出たとき
「行進練習のための軍楽隊リハーサル」
であることが判明。
右画像と、冒頭画像の海軍旗を立てているのが、士官候補生の皆さん。

  

も、もしかしてこれは観閲式の練習ですか?
「毎日やっているんですか?」という見学者の質問には
「いえ、今日は特別ですね」というお答えでしたから。
感無量24発目。
観閲式に出ずして海軍行進を目の当たりにするとは。



 

軍隊なのですから当たり前ですが、本物の銃ですよ。
行進の周りには教官がついて回り、銃の位置や姿勢をチェックしています。
この後ろについている教官の長い棒にご注目。
航空訓練で教官が長い棒を持って乗り、後部座席から生徒の頭をガンガン、と言う話をつい思い出しました。
しかし、この棒で生徒の頭をバンバン、なんて、
「そんなことをしたら大騒ぎになりますから絶対にしません」(解説員)
銃の先を持ちあげたり、肩を少し抑えたりしているのは見ました。

うーん、いいのか?そんな紳士的なことで。
他の団体ならともかく、軍隊ですよ。
もっとハードな鍛練が必要ではないのだろうか?
などと、他人事だと思って言ってみる。

 

女性自衛官。
それにしても、同じ女性としてこのスタイルにはかなり疑問が。
まず、ヒールのある靴で行進させるなら、ひざ丈スカートでしょ?
このズボンの制服(もなんだか微妙なデザインですが)であれば、
甲の隠れるスリッポンかブーツの方がいいのではないでしょうか。
色も、紺の士官用はいいんですが、このブルーは垢ぬけないというか。

進駐してきた連合軍女性兵士の映像を見てそのかっこよさにため息をついたことがありますが、
あれは体格のいい白人女性だったからで、私見ですが
日本女性って体格的になんだか行進に向かない気がするんですよね・・・。

このブルー軍団の身分については良くわかりませんでした。
旧軍の下士官の教育課程でしょうか。

 

初々しい感じの学生に続いておじさんばかりのラッパ軍団登場。
行進ラッパを全員でユニゾっていました。

慣れているのか躾けられているのか、見学者がこうやってじろじろ見たり写真を撮っているのに、
一人として視線すら動かさずまっすぐ前を見て行進していました。
兵学校の写真を撮り続けた真継不二夫氏が、兵学校の生徒について

「これほどレンズを無視し、冷厳氷の如き態度に接したことがあったであろうか。
衒った無関心でもなければ、装った平静でも無い。
自己の一歩の向上は帝国海軍の一歩の向上だとする
牢固とした思想信念がさせるのであろうか。
これこそ一糸みだれぬ規律を行動しているものの強さであり、
信念に徹するものの態度かとも考えられるのである」

と書いていますが、少なからずその一文を彷彿とさせる彼らの姿でした。

 


この日、普通電車に荷物を抱えて乗り(小さいスーツケースに買い替えて本当に良かった・・・)
ちょうどラッシュに引っ掛かって通勤の皆さんに多大なご迷惑をかけながら夜8時。
次の停泊地、岡山に到着しました。

ここではどんな出来事が待ち受けているのか?
(ほとんどやけくそ気味に続く)