ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「スィートハート・ウィングス」爆撃クルーの遺品〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-29 | 航空機

オハイオ州にある国立アメリカ空軍博物館。
まだコロナ禍にあった夏、そのとき滞在していたピッツバーグから
単身車で一泊して見学に行って見た展示物をご紹介しています。

今日は、本人や遺族によって博物館に寄付された
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。


■ バーニー軍曹のA-2ボマージャケット



第15空軍の砲塔砲手SSgt(スタッフサージャント、E6)
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。



背中側には気合の入った絵が施されています。


何しろ皮革におそらくペンキか何かで手描きしたものなので
かすれてしまって見にくいですが、爆撃ミッションを行った都市が、
爆弾を落とすB-17、墜落するBf-109とともに描き込まれています。



左胸のマークは爆弾を持って飄々と歩くアメリカの象徴、ハクトウワシ。

足元に見えるのは雲でしょうか。
第15空軍の部隊章です。


S/Sgt. Emil B. Barney 

バーニー軍曹は1944年11月、アドリア海上空でBf109の攻撃を受け、
制御不能に陥ったB-17からバベイルアウトし、2日後に救助されました。

戦争が終わるまで彼は捕虜になっていましたが、
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。

ポピヴチャック軍曹35回の出撃記念



連結された50口径の弾丸は、第306爆撃群のB-17トップ・ターレット砲手、
TSgt(マリオン・"ミッキー"・ポピヴチャックが、
参加した35回の戦闘任務を表して製作したものです、

この人、かなりまめで、かつコレクター資質を持っていたらしく、
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。

せっかくですのでその一つ、1月5日付の新聞記事(画面右)
を訳しておきます。

「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」

第8空軍は昨日、ドイツの補給拠点に対する猛攻を再開した。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。

天候は依然として障害であり、

重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。


第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する

RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。

それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある

ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。

天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、

RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。


コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、

これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。

このコレクションを作成した"ミッキー"・ポピヴチャック氏は、
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。

戦後はピッツバーグで車のパーツ会社を経営していたようです。

■ ガードナー軍曹のフィールドジャケット




第15空軍の尾翼砲手、ラリー・ガードナー軍曹の野戦用ジャケットと鞄。
遠征中、彼は指を撃ち抜かれ、B-24は敵地上空で撃墜されましたが、 
幸いガードナーは脱出し、イタリアのパルチザンに救出されました。

このジャケットの背中側には、ホットスタッフというロゴと共に
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。

ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。


カバンには部隊マーク。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。



ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。

■ ライアン・バーカロウ大尉の遺品



ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。

陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。

そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。

なぜ戦死した大尉のA-2ジャケットが残っているかなんですが、
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。

襟元にホイッスルが付いていますが、これは
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。



米空軍がシャトル空襲の際に使用したムービーカメラ。
ロバート・ウォルシュ空軍大将は、シャトル空襲が終わり、
物資をソビエトに引き渡すよう命じられたとき、
このカメラを「保存」した(つまり隠して渡さなかった)そうです。


カメラに使うコダックの「コダクローム」16ミリフィルム。



ソ連から出撃した攻撃隊

第8空軍

第15空軍

の爆撃ミッション航路が記されています。
第8空軍はイギリス、第15空軍はイタリアに根拠地を置いていました。


バーカロウ大尉が受賞した名誉賞の数々。
左から:

パープルハート

「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの

USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎

エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの

金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。

これは中央にアメリカ軍のマークがあるだけでハートではありませんが、
バーカロウ大尉が、これもフローレンス夫人に
結婚1年目の記念として1942年8月30日にプレゼントしたので、
あえて「スィートハート」と呼んでいるのではないでしょうか。

大尉が亡くなった日から考えると、
彼らの結婚生活は2年半しかなかったということになります。


続く。



海上自衛隊東京音楽隊 第66回定例演奏会 2024年5月21日

2024-05-26 | 音楽

初夏を思わせるある5月の夕、すみだトリフォニーホールで行われた
海上自衛隊東京音楽隊の第66回定例演奏会に参加しました。


パンフレットの表紙に掲載された絵は、
指揮棒を持つ手とその先に手を伸ばし躍動する女性を描いたもの。

自衛隊には各方面の才能を持った人が潜んで?いるので、
もしかしたらこれも関係者の作品かもしれません。


一階通路の後ろほぼ真ん中というラッキーな席でした。

開演前、ホルンと太田紗和子一等海曹のピアノ伴奏による
モーツァルトのホルン協奏曲第1番の第1&第2楽章、
そして「浜辺の歌」という内容のミニステージがありました。

(演奏が始まると撮影禁止となり、係が注意をして回っていた)

コンサート・ファンファーレ「躍動」
渡邉大海

音楽隊には楽器演奏だけでなく作曲に才能を発揮する隊員が多数います。


過去、そんな人たちが残した曲が重要なレパートリーとなって演奏され、
受け継がれていくのを、私たちは見てきました。
(特に河邉一彦元隊長の『旅立ちの日 Departure』は名作)

この日初演されたこの曲もまた渡邉大海(ひろみ)一等海尉の作品で、
おそらくこのコンサートのために書き下ろされたものだと思われます。

パンフの紹介によると、渡邉一尉は東京音楽隊の教育科長とのこと。

音楽隊では任官する=指揮者となる、という意味でもあります。

教育科というのは初めて聞きましたが、自衛隊音楽隊の教育組織のことで、
入隊後の基礎教育過程を行う担当部署です。

音楽隊員になるには自衛官採用試験に合格するのが最低条件で、
海上自衛官としての基礎教育をまず教育隊で受けるのですが、

この教育隊は音楽隊専用ではなく、そこでは一般隊員と同じ過程を受けます。

音楽隊員を志望する者は、教育隊終了後、さらに実技試験を経て
「要員適性検査」に合格してのち、海士音楽過程、初任海曹過程、
海曹音楽過程等を経ることによってそれぞれ入隊資格が得られますが、
渡部一尉はこの教育科のトップということなのだろうと思われます。

ちなみに幹部ですが、音楽隊の幹部(音楽幹部と呼ばれる)は、
部内幹部候補生試験を受け、合格したのち幹部候補生学校で訓練を受けて
管理職&指揮者という道を歩むことになるということです。

海上自衛隊東京音楽隊一等海尉 渡邉大海 
(CALM ~凪・和・静~) 
さいたまスーパアリーナけやき広場 火曜コンサート
渡邉一尉の他の作品です。
そこはかとなく漂う昭和の香り。

♬ 吹奏楽のための交響的素描「オセロ」A.リード

オセロ 〜 5つの場面によるコンサートバンドのための交響的描写
(A.リード)


アルフレッド・リード博士ご本人の指揮が見られます。
「アーセナル」「エル・カミーノ・リアル」などはよく演奏されますが、
この曲をコンサートで聴いたのは初めてでした。

ベルディのオペラ「オテロ」(イタリア語ではOtello)では、
不義の疑いをかけられ夫に絞殺されるデズデモーナが前夜に歌うアリア、

「柳の歌〜アヴェ・マリア」は、彼女の死の覚悟の表明となっており、
こちらはさすがシェイクスピアの三大悲劇の一つと感じさせます。

本作第3楽章はそれを思わせる悲痛でロマンティックなものでした。

作曲者アルフレッド・リードは特に日本と関係が深く、
生前、積極的に日本の高校生バンドを指揮していたらしいので、
自衛隊にもかつて同じステージで演奏したことがある人がいるかもしれません。

ところで今日知ったどうでもいい話をもう一つ。
アルフレッド・リードは実は本名「フリードマン」だそうです。

この名前はまごうことなきアシュケナジム・ユダヤの家系を意味しますが、
なぜご本人がこの名前を嫌った(避けた?)かはわかりません。

音楽をしていると、ユダヤ人であることで有利にこそなれ、
逆に何か不都合なことある?と日本人は思ってしまうのですが、
ご本人はそう思われたくなかったということなんでしょうか。


♫ シェナンドー アメリカ民謡

ご存知バージニア州に流れる広大な河を歌った民謡です。
三宅由佳莉二等海曹がノスタルジックに、繊細に歌い上げました。

Shenandoah (Arr. F. Werle and M. Davis)
まるで心が洗われるようなアメリカ空軍バンドの演奏をどうぞ。
歌手もコーラスも空軍音楽隊の隊員でしょうか。

USA State Song: Virginia - Our Great Virginia [Traditional]
この旋律はバージニア州の州歌に使われています。

画像の、人が誰かを踏みつけにしているのが気になった方のために説明すると、
バージニア州の旗の意匠は
「槍を持った美徳の象徴が堕落した専制政治を行う暴君を踏みつける」
なんだそうです。
なんか我々日本人の感覚では色々ありえませんよね。
踏みつけという行為もさることながら、それをシンボルにするってどうなの。

♪ スクーティン・オン・ハードロック
:三つの即興的ジャズ風舞曲
D.R. ホルジンガー

Scootin' on Hardrock

ミズーリ州出身の作曲家デイビッド・ホルジンガーの作曲です。

この曲で7分の3✖️7分の4の変拍子がグイグイドライブしていたように、
ホルジンガーは、変拍子を多用する作曲家だということだそうです。
特に打楽器群の皆さんは血湧き肉躍るって感じできっと楽しいだろうなあ。

あるサイトで、ご本人のこの曲についてのノートを見つけました。

私のオフィスから東に半マイルほど行くと、
かつてのメインストリート、ハードロック・ロードを横切る。

この小さなコミュニティは、最初の20年間は繁栄していたが、
30年前にこの街が吸収されると、ハードロック・ロードは
未来と「郡による維持管理」の両方から見放され、大打撃を受けた。

全長わずか1マイルの道の老朽化した地区には数軒の家が残っている。
廃業した馬小屋や運動場、それに加えて「ジョイント」が2軒、
小さな食料品店、溶接工の店、スクラップ置き場がいくつもある。

もうハードロック・ロードをぶらぶら歩くことはない。
あそこを車で通るのは、行ったことのある場所から
行ったことのない場所へ行くためだけだからだ。

とにかく、地元の人たちだけは、どこへ行くにも近道だと思っている。
でも昔は、ハードロック・ロードが町の中心だったんだ。

「スクーティン」はスクーターのScootinであり、
「素早く:速く行くこと」という意味だそうです。

I'll have to scoot (= leave quickly) or I'll miss my train.
(早く行かないと汽車に乗り遅れる)


のように使います。



ところで冒頭に貼ったのは、この日ロビーで配られていたパンフの表紙で、
こんなスリップファイルに入っていました。

空自はカラカル、海自はウサギ、陸自はタヌキと・・ハツカネズミ?
陸自のネズミさんが可愛いぞー。

米軍=黒マスク、日本軍=白マスク

パンフの中身は海上自衛隊の活動紹介とリクルート。
日米合同でサイバー対処訓練もしてますよっと。


下の写真は7Fの軍楽隊なんですが、あらためて、
米軍音楽隊ってセーラー服もありなんだなと気づきました。

深く考えたことはありませんでしたが、そういえば
自衛隊音楽隊は海士でもセーラー服を着ませんよね。

調べたところ、自衛隊に入隊後、海士にはセーラー服が支給されますが、
音楽隊員に正式に配属になると、専用の制服があるので、
その時点でセーラー服は返納することになっています。

但し車両・給養などの業務を行う音楽隊海士はセーラー服を着用します。

アメリカ海軍では昔からセーラー服が正式なステージドレスの一つです。

【アメリカ第七艦隊音楽隊】@湘南台ファンタジア2022
([US 7th Fleet Band] @ Shonandai Fantasia 2022)

まあ、「踊る大紐育」を見たことがあれば、
これでジャズをやってこそアメリカ軍楽隊!というイメージですよね。



♬ マーチ「プロヴァンスの風」

休憩を挟んで後半が始まりました。
前半の渡邉一尉に変わり、音楽隊長植田哲生二等海佐が指揮を執ります。

この日、一階席前方には制服の女子高生の姿が多数見えました。
学校単位で申し込むのか、音楽隊のご招待かはわかりませんが、
自衛隊音楽隊が次世代への吹奏楽の伝承と教育を
活動目標の一つに据えていることは、間違いありません。

学生たちもプロの演奏に触れる機会が多いほど勉強になりますし、
なんと言っても自衛隊の宣伝と潜在的入隊希望者となってくれます。

そんな高校生たちのためにもしかしたらこの曲は選ばれたのかも・・・。

プロヴァンスの風 フルver 響け!ユーフォニアム 届けたいメロディOP

ご存知とは思いますが、本作制作はあの京都アニメーションです。
テロップに名前のある作画総監督の池田晶子さんも事件の犠牲者の一人です。

♫ 「ハウルの動く城」ファンタジー

吹奏楽のための交響的ファンタジー「ハウルの動く城」 (Wind Orchestra)

自衛隊音楽隊の演奏会でいつも感心させられるのがプログラム構成です。

そのときの話題や社会情勢などから関連するテーマが選ばれたり、
季節やアニメ、映画作品からなど、いろんなアプローチがありますが、
その選択はいつもよく考え抜かれており、聴衆を最後まで飽きさせません。

曲の硬軟、有名無名、難易のバランスが全体で取れていて、
どんな年齢層の人も最後まで楽しめる工夫がされているのです。

宮崎駿監督の「ハウルの動く城」のテーマ「人生のメリーゴーラウンド」、
そして「世界の約束」は、同ジャンルでも人気のある曲で、
どちらも初めて聴く人にも受け入れられる美しい旋律を持ちます。

♬ 明日への手紙

手嶌葵「明日への手紙(ドラマバージョン)」

ジブリ作品の「テルーの唄」「コクリコ坂から」も手がけた歌手、
手嶌葵の歌ったこの作品を三宅二等海曹が、ピアノ、クラリネット、
パーカッションの小編成バンドをバックに歌いました。

おそらく東音メンバーの手によるものだと思いますが、
ボーカルに寄り添うこのバックのアレンジが、涙が出るほど良かったです。

三宅二曹の透明感のある声もこの曲にぴったりでした。

♫ パリのアメリカ人 ジョージ・ガーシュウィン

Gene Kelly & Leslie Caron - Dancing Scene 04 – An American In Paris
Gene Kelly & Leslie Caron - Dancing Scene 05 – An American In Paris
あえて映画のダンスバージョンを貼っておきます。
ジーン・ケリー最高。

今年はオリンピックイヤーです。
東京オリンピックが一年延期になったせいで、
今年の夏にパリオリンピック開催、とアナウンスで聞いて、

軽く驚いたのはもしかしたらわたしだけではなかったかもしれません。

そこで最後の曲に選ばれたのがこの「巴里のアメリカ人」
An American in Parisです。

ところで、昔々、実家にあったLPレコードは、
A面が「ラプソディ・イン・ブルー」、B面が「巴里のアメリカ人」でした。
この扱いは、あたかも後者が前者のオマケみたいな印象を与えたものです。

しかし、単体でこの曲を聴くと、とてもそんなことは言えません。

この日は、改めてそれを実感させられる演奏が聞けました。

この曲の「お手軽感」については、ガーシュウィン本人ですら

「ベートーベンのシンフォニーってわけじゃないです。
ユーモラスで、厳粛さは全くないですしね」

と言っていたそうですが、だからと言ってこの曲が
音楽的な価値においてもB面扱いというのは大いに間違っています。

そして、この曲はこの日のプログラムの最大の聴きどころとなりました。

演奏時間ほぼ17分と、切れ目なく続く楽曲としては大作で、
それだけに演奏の構成や聴かせ方にも指揮者の腕が問われるところですが、
この日の植田隊長は、この曲を鮮やかな水彩で仕上げるようにさらりと、
かつ丁寧にダイナミクスをコントロールし、飽きさせませんでした。

1920年代、アメリカ人の旅行者(フランス人のいうところの”田舎者”)が、
車の喧騒の中シャンゼリゼ通りをそぞろ歩き、
カフェの前で立ち止まって中から聞こえてくる音楽に耳を留めたり、
セーヌ河を過ぎてふと故郷を思い出し、物悲しくなったり、
フランス風のチャールストンの響きに包まれたりする様子を描く。


確かに「深い意味のない標題音楽」ですが、その描写センスは一流です。

具体的には、始まってすぐ、彼(アメリカ人)は車の喧しいホーンに驚き、
おそらく運転手から怒鳴られたりするのですが、(F・モレシャンによると、
パリは上品マダムでも車の運転のとき歩行者を大声で罵ったりするらしい)
このホーンが、実に本物っぽくて大満足でした。

・・・というか、本物のホーンだったのかな?

実は、このタクシーのホーンについては作曲者の思い入れがあって、
ガーシュウィン、パリから帰るときに、わざわざ

車のホーンを4本買って持ち帰った

というのです。
チャイコの「序曲1812年」の「大砲」ではありませんが、
ちゃんと楽譜には「タクシーホーン」という指定があります。
ガーシュウィンのオリジナル譜はこのホーンを
「A♭、B♭、高めのD5、 低めのA」
で記していましたが、現代の楽譜ではD,C,H,Aとなっています。

今ではこんな楽器が使われます。

タクシーホーン

Kolberg Taxi Hornだと、お取り寄せで21万円税別となるそうです。
高っ。
しかし、この楽器、この曲以外に使い道あるんだろうか。

また、これが調達できない場合、トランペットで代用するそうです。
この日の東音がどちらで演奏したかは恥ずかしながらわかりませんでしたが、
もう本物じゃないかってくらい、ホーンの音そのものでした。

あと、ダイナミクスといえば、街の喧騒や、アメリカ人のウキウキした気分、
それらがパリ独特の香りすら感じるほど生き生きと表現されていました。

後で知人と、この日の演奏中一番満足した、と言い合ったものです。

♫おまけ


いただいたパンフレットの日米共同訓練の様子。
「きりしま」と「ジャクソン」のツーショット。
仲良きことは美しきかな。


というわけで、東京音楽隊演奏会のご報告を終わります。
彼らの弛まぬ研鑽といつもながら完成度の高いステージに拍手を送りつつ。



コードネーム「ミッキー」ブラインド爆撃作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-23 | 航空機

appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」劇中、
バーで一緒になったアメリカ航空隊とRAFの隊員の間で
アメリカの白昼攻撃を巡りちょっとした言い合いが起こるシーンがあります。

搭乗員が足りない、というアメリカ軍クルーに対し、RAFクルーは、

『それは君らが馬鹿みたいに昼間攻撃するからだ』

と半ば揶揄するかのように返すのですが、
その言葉は、アメリカ軍搭乗員たちがただでさえ持っていた

危険な昼間の攻撃に対する不安をドンピシャで言い当てたものだったので、
彼らはそれに対し猛烈に反発を始めるのでした。

そこで、すかさずナレーションが入ります。

RAFの夜間爆撃は民間人相手の無差別攻撃であるのに対し、
アメリカの白昼細密攻撃は軍事施設だけを狙ったものだった。


お決まりの「正義のアメリカ」礼賛です。

2000年代になってもアメリカ人がそう思いたいのは勝手ですが、
それでは、夜間の無差別爆撃で何万人という民間人を殺戮した
あの東京大空襲はなんだったのか。
市民を無差別に虐殺した2発の原爆はなんだったのか。


実際のところ、アメリカとイギリスは連合国同士で打ち合わせた上で、
昼の軍事施設爆撃(米)と夜の無差別爆撃(英)で切れ目なく相手を攻め、
ピンポイントで生産を遅らせつつ、民衆の戦意を削ぐということを
二交代制でやっていたというだけにすぎないのです。

ノルデン照準器を持っていたアメリカが細密攻撃を行い、
そうでないRAFがそれ以外を請け負った。
つまり役割分担の違いというだけのことではないですか。

昔から、日本の戦争映画は果てしなく自虐、
アメリカの戦争映画は果てしなく自画自賛というのが相場ですが、
この最新の映画においてもその傾向は健在ということが確認できました。

ちなみに、映画では、RAFグループの嫌味な態度に
アメリカ人たちはすっかり腹を立てて、別れてから

「チッ・・・だいたいRAFってなんなんだよ」

「Riffraff(役に立たない人、ゴミ)だろ」

と悪口を叩くのですが、実際に白昼攻撃に向かう前に
彼らの言ってることは正しい、とうなだれるのでした。

責めるなら交代制で苦労する方を選んだ上層部を責めるんだな。



 ブラインド攻撃 「ミッキー」



俺ら軍事施設を細密攻撃するぜ人道的に!とドヤったアメリカですが、
目視ではさすがに細密攻撃が功を奏するわけではありません。

概してヨーロッパ上空は曇りがちで、そうなると
アメリカ軍の爆撃隊はほとんど目視できなくなるわけです。

そこで、重爆撃機はH2Xと呼ばれるレーダーシステムを使用し、
雲の上からブラインド攻撃を行いました。

その名も、

コードネーム"ミッキー "Mickey"

上の写真は1944年10月25日、ドイツ・ハンブルクの石油精製工場上空。
「歩けそうな」くらい厚い雲が立ち込めていますが、
何ヶ所か真っ黒い部分が見えています。

これは第8空軍の爆撃を受けた地面から立ち昇る黒煙です。

それにしてもなんでミッキーなのか。
やっぱりアメリカでミッキーときたら・・・あのネズミよね?

■ H2X "ミッキー "の名前の由来



H2Xは、正式にはAN/APS-15として知られ、
第二次世界大戦中にブラインド爆撃に使用された
アメリカの地上走査レーダーシステムです。


B-17パスファインダー 通称「ミッキーステーション」

中央の円形スコープが表示画面です。
H2Xは空軍の夜間爆撃システムから開発され、
1944年初めに米空軍で初めて使用されました。

米空軍の「H2X」はレーダー・プラットフォームの代名詞であり、
マサチューセッツ工科大学放射線研究所で開発されました。
アメリカ初の空対地レーダー搭載航空機のための極秘プロジェクトです。

第8空軍の最大の功績のひとつは、敵戦闘機、敵対空砲火の前にも
一度も作戦を後退させなかったことらしいですが、
ヒットラーがロシアの冬将軍に勝てなかったように、
同じことがヨーロッパの天候には言えませんでした。

実際多くの任務が、ルート上や目標地域上空の悪天候のために、
中止、中断、回収されています。

この事態を打開しようとしたミッションが、「ミッキー」でした。

「ミッキー」という名前を生み出したのは、第812爆撃中隊長で、
第482パスファインダー爆撃群配備の中心人物の一人であった
フレッド・ラボ中佐です。

Major Fred A. Rabo 

1942年と1943年、ヨーロッパでの爆撃隊の任務を成功させる上で
大きな問題となるのが冬季の天候不順であることは
第二次世界大戦が始まる前からアメリカ空軍の共通認識でした。

RAFは、以前から同じような天候の問題に対処するため、
航法補助として電波ビームとレーダーを開発していました。

そこで爆撃隊の中の人がパスファインダー・グループの計画を打ち出し、
その後1943年8月20日、第482爆撃群(パスファインダー)が、
電波ビームとレーダー装置を使用する爆撃隊として組織されます。

ラボ中佐は、パスファインダー・グループ設立のため米国に戻り、

M.I.T.放射線研究所で開発されたレーダーを装備したB-17を入手しました。

レーダー付きB-17

M.I.T.レーダーはH2Xとして知られていました。
機首の下に格納式H2Xユニットを装備したB-17を初めて見たフレッドが、

「あのレドーム、ミッキーマウスみたいだな」



といったことから、このニックネームは定着し、
その後「ミッキー」と短縮されて作戦名になりました。


せっかくパスファインダー(開拓者)というかっこいい名前があったのに、
このおかげで、第二次世界大戦の残りの期間中、
H2Xレーダーユニットは「ミッキー・ユニット」、
オペレーターは「ミッキー・オペレーター」と呼ばれることになります。

アメリカ人だからこっちの方が本人たちも嬉しかったかもしれませんが。



■ H2Xパスファインダー


H2Xを使えば、夜であろうと昼であろうと、雲に覆われていようといまいと、
同じ精度で都市の位置を特定し、大まかな地域を標的にすることができます。


ロッテルダム南西のオランダ沿岸を示すH2Xスクリーン。 

この時攻撃したオランダ沿岸の地図。

ミッキーは目視爆撃ほど正確ではありませんでしたが、
悪天候でも中止せずに戦略攻撃を続けることができました。

最初のH2Xを搭載したB-17は1943年11月3日、第8爆撃機部隊が
ヴィルヘルムスハーフェン港を攻撃したときに初めて実戦で使用され、
この時の任務は最初のことだったので「パスファインダー・ミッション」、
搭乗員はまだ「パスファインダー・クルー」と呼ばれていました。

攻撃方法は、以下の通り。

アメリカ陸軍航空隊のパスファインダークルーと、

RAFのパスファインダークルー(どちらもアメリカで訓練を受けている)
を乗せたレーダー装備パスファインダー機が編隊の先に飛び、
レーダーによって目的をマーキングしたときに爆弾投下します。

それを見た全ての爆撃機が、続いて爆弾を投下します。


ベルリンに目標を定め、到着したらどこに爆撃すべきか、
レーダーによってわかるというわけです。



なぜかフランス語説明による「ミッキーセット」に必要な道具。
左端のアンテナですが、これ、何かの形に似ていませんか?

そう、ボール・ターレットです。

この設置のために、のちに第91爆撃群がボール・ターレットの場所に
H2Xの回転アンテナ用腹側半球レドームを設置するようになり、
後のB-24リベレーターに搭載されたH2Xもターレットに取って代わり、
ボールターレットは格納式に変えられました。

ボールターレットをレーダーレドームに改造したB-24「パスファインダー」

胴体着陸したら砲塔ごと潰れて死ぬしかなかったB-17のボール砲塔砲手は、
これを聞いて微妙な気持ちになったかもしれません。

「ミッキー・セット」は副操縦士の後方(無線オペレーターの位置)
の飛行甲板に設置され、戦闘地域にさしかかると、
ミッキー・オペレーターがパイロットに進路を指示し、
爆弾投下時には爆撃兵と連携して指揮を行いました。



ミッキーが最初に使用されたのは1944年4月5日の
プロイエシュティ攻撃(タイダルウェーブ作戦)でした。

その結果については、もうみなさんご存知の通り。

以前同作戦について説明したように、この作戦は対費用効果で言うと、
アメリカ軍の損失多すぎと言うことで結論づけられていましたよね。

このとき新兵器であるレーダーは確かに正しく機能したのですが、
いかんせん、ドイツ軍の防空陣地上空をまともに通過する経路だったため、
激しい対空砲火と迎撃で多数の損害と犠牲を出してしまいました。

攻撃そのものの被害が多すぎたので、「ミッキー作戦」も、
それに見合うだけの戦果だったかというと、微妙だったということです。


続く。




「小さな戦友」戦闘機掩護〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-20 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示、
今日は爆撃機を掩護した戦闘機についてです。

ところで今更ですが、戦闘機が爆撃機を守る行動のことを
「掩護」といい、「援護」とはあえて違う漢字を使うのは、掩護には
「敵の攻撃から味方を守る」という援護より狭い意味があるからです。

■ファイター・エスコート


戦略爆撃作戦の前半部分で書きましたが、この頃のアメリカ空軍は
ドイツ国内の標的を攻撃する重爆撃機に護衛戦闘機を持ちませんでした。

理由は単純で、小さな戦闘機では航続距離が短かったからです。
途中まではついてきても、肝心の敵地近く、
敵戦闘機がやってくる辺りまで来られる戦闘機がなかったのです。

その結果、重爆撃機の乗組員は壊滅的な損害を受け、
作戦そのものの継続が危ぶまれるまでになりました。

そこでアメリカが工業力と技術力を傾け開発した結果、
1944年初頭までに、P-47とP-38が改良され、
ドロッパブル(使い捨て)燃料タンク、そしてP-51が導入されます。

このことで戦闘機の航続距離の問題は解決され、
同時にアメリカ軍の重爆撃機の損失は減少。

このことはルフトバッフェの戦闘機の損失数を拡大させ、
1944年6月のDデイ侵攻に対抗することができなくなっていきます。


爆撃機編隊の上空に戦闘機が描く芸術的な白い線。
これは防御のための「傘」といわれます。


B-24爆撃機に随伴するP-47サンダーボルト
パイロットはカメラ目線ですね。

頑丈なサンダーボルトは1943年半ばにヨーロッパで就役しました。
 当初、P-47はドイツ国境を越える爆撃機を護衛するには
航続距離が足りませんでしたが、その後の改良で航続距離が伸びています。


第20戦闘航空群P-38パイロット、アーサー・ハイデン中尉と地上クルー。
「ラッキー・レディ」という彼の戦闘機のボディにはトップハット
(シルクハット)のマークがたくさん描かれていますが、
ハット一つがすなわち爆撃機の護衛任務一回を表します。

そして彼の敵機撃墜数は2(3かも)。


B-17の主翼近くを飛ぶイギリス空軍(RAF)のスピットファイア
このパイロットも写真を撮られているのがわかってこちらをみています。

1943年半ばごろのショートレンジのスピットファイアは、
このようにアメリカ空軍の重爆撃機の護衛を行いました。
アメリカ軍パイロットが操縦することもあったようです。



そして満を持して1943年末にヨーロッパで導入された
高速長距離戦闘機P-51マスタング
アメリカ空軍の究極の護衛戦闘機となりました。



有名な第4戦闘機群の司令官、ドン・ブレークスリー大佐
ベルリンへの護衛任務で使用した地図(コピー)。
ベルリンの場所は赤い星印で示しておきました。

 黒い線は爆撃機の進路を、赤い線は護衛戦闘機の進路を表しています。

全く違うところから出発してドイツ上空に入るところでランデブーし、
爆撃任務を終えたらドイツ国境を出るまで同行し、
そこから先は別れてそれぞれの基地に帰投します。

第4戦闘航空団はこのミッションで26機の敵機を撃墜したと主張しました。


ブレイクスリー大佐



第4戦闘機群パイロットのサインがされた、
スピットファイアの独特の形をしたプロペラブレードと時計。

1943年3月1日、スティーブ・ピサノス中尉が離陸しようとして、
ランディングギアを格納するのが早すぎて機体が地面を擦り、
プロペラのブレードが折れてしまいました。

翼の上にある時計は、9時8分を差して止まっています。
おそらく決められた離陸予定時間は0900だったのでしょう。

プロペラにはその時参加していた戦闘機パイロット
(多くは有名なRAFイーグル飛行隊に所属していた志願兵)
全員のサインがありますが、何が目的でしょうか。

骨折した友人のギプスに皆がサインするみたいなノリ?

戦闘機パイロットの階級はほとんどが中尉で、
キャプテン(大尉)が4名、少佐(ドン・ブレイクスリー)が1名です。

第4戦闘航空群は「イーグル飛行隊」と呼ばれ、
当初はP-47 サンダーボルトを運用していましたが、
パイロットたちは鈍重なP-47に不満を持っていました。

リパブリックP-47D

1943年4月に西ヨーロッパ上空で初の戦闘任務に就いたサンダーボルトは、
高高度の護衛戦闘機としても、低空戦闘爆撃機としても使用され、
その頑丈な構造と空冷ラジアルエンジンにより、
激しい戦闘ダメージを吸収してなお飛び続けることができました。
(ただし航続距離はない)




ダンボマーク

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、
より軽快で機動性の高いP-51 マスタングに機材を更新します。


NMUSAのノースアメリカンP-51Dマスタング

P-51Dは1944年春にヨーロッパに大量に到着し、
アメリカ空軍の主要な長距離護衛戦闘機となります。

多用途のマスタングは戦闘爆撃機や偵察機としても活躍しました。
終戦までにマスタングは4,950機の敵機を撃墜していますが、
これはヨーロッパにおけるアメリカ空軍の戦闘機の最多記録です。



ちなみに、P-51の配備に際し、第8空軍司令部は
第4戦闘機隊のパイロットが機材を受け取ってから
24時間以内に運用が可能であることを条件にしたのですが、
ブレイクスリーはこの条件を飲み、パイロットたちに

「目標に向かいながら操縦の仕方を覚えるように」

と指示したという逸話が残っています。

んな無茶な。
余程部下の基礎能力を信頼していたってことなんだろうか。



ガンカメラのフィルム・マガジン。
ドイツ上空での護衛任務に就いたP-38ライトニングに装備されていたもので、
Bf 110の後方砲手が放った7.92mm弾に命中した痕があります。


P-38パイロットのロイヤル・フレイ中尉が任務の際に携行した、
イギリスの金属職人によって作られたナイフ。

1944年2月10日、フレイ中尉はドイツのミュンスター近郊で撃墜され、
ベイルアウトして捕虜になり、戦後アメリカに戻りました。


親も何を思って息子にRoyal という名前をつけるのか

 フレイ中尉は後にアメリカ空軍博物館のシニアキュレーターとなりました。



そのことから、当博物館に展示されているP-38Lは
フレイ中尉のマーキングで塗装されることになりました。

ライトニングが初めて大規模な任務に就いたのは1942年11月。
ドイツ軍パイロットは、早速この戦闘機に


Der Gabelschwanz Teufel
デア・ガーベルシュヴァンツ・トイフェル

「分かれ尾の悪魔」

というあだ名を付けます。


展示されているP-38Lの左側にあるトップハットのマークは、
パイロットのロイヤル・D・フレイ中尉が飛行した
爆撃機護衛任務を表しており、黄色い帽子=5回、
白い帽子=1回なので、出撃回数合計9回ということになります。


ライトニングが戦闘活動を開始した当時、これが
ドイツへの爆撃機を護衛できる航続距離を持つ唯一の戦闘機でした。

そして1943年4月18日。

太平洋戦線でこの別れ尾の悪魔の性能が遺憾無く発揮されることになります。

真珠湾攻撃の立案者であった山本五十六提督を乗せた航空機を、
P-38の編隊が待ち伏せし、これを撃墜するのに成功したのでした。



続く。


「戦車を撃つのは卑怯」?ドイツ軍の高射砲〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

国立アメリカ空軍博物館の展示から、
爆撃機関連で今日は高射砲をご紹介します。

■88mmFlaK 36高射砲

FlaKとはFlugabwehrkanone
(フルーク アプヴェーア カノーネ)
の省略形で、ドイツ軍では8.8cm対空砲であることから
「アハト-アハト(Acht-Acht)」
連合軍は88の英語読みでエイティエイトと呼んでいました。


FlaKという言葉は言いやすいので、
連合軍でも将校以外はこのように呼んでいたようです。
単語に分けると、

Flug(フルーク)=航空機
Abwehr(アプヴェーア)=防衛
Kanone(カノーネ)=大砲


となります。

汎用性の高い88mm砲は、第二次世界大戦中、ドイツの主力対空砲でした。
88mm弾が高度で爆発すると、ギザギザの金属片が飛び散り、
近くの航空機(とその内部の人間)を切り裂く威力がありました。
また、空には特徴的な黒い雲が垂れ込めたといわれています。

88mm砲の高速射撃は対戦車砲としても威力を発揮し、
遠方の地上目標に対しては通常砲としても使用することができました。

ドイツ軍の「砂漠の狐」として英雄だったエルヴィン・ロンメルの副官、
ハインツ・シュミット中尉という人の回想でこんな話があります。

北アフリカで捕虜になり尋問を受けていたイギリス軍の戦車兵が、
彼らを負かした88ミリ高射砲を憎らしげに見ながらこう言いました。

「高射砲で戦車を撃つのは卑怯ですな」

それを聞いたドイツ軍の砲兵が、勢い込んで口を挟みました。

「”アハトアハト”以外では撃ち抜けない装甲の戦車で攻めてくるのは
それ以上に卑怯じゃないか!

解説しよう。

装甲の強さで定評のあるマチルダII歩兵戦車に絶対の自信を持ち、
北アフリカの208高地に攻め入ったイギリス戦車隊ですが、
待ち受けていたドイツ軍の88ミリに装甲板を貫かれたのです。

作戦開始から三日でイギリス軍は撤退しましたが、
その戦車損失の原因の大半は高射砲にありました。

ついでにロンメルが出たので、思い出した昔読んだ本の一節によると、
ロンメル将軍は連合国軍からも畏敬の的となっており、
イギリス(軍?)では「Do Rommel」という言葉が

たしか「うまくやる」という意味に使われていたとかなんとか。

ちなみにロンメルは、その人気と名声を周りに妬まれたのもあって、
ヒトラー暗殺計画関与の疑いをかけられ、自決してしまいました。

惜しい人を亡くしたものです。

【ゆっくり解説】エルヴィン・ロンメル ゆっくりでごめん


閑話休題:博物館の88ミリ砲は、連合軍の戦略爆撃作戦中に
ヨーロッパで使用されたドイツ軍の典型的なタイプとなります。



砲身にペイントされた白いリングは、いわゆる「撃墜マーク」で、
砲員によって撃墜された航空機の数を表しています。



対空砲火の直撃は爆撃機にしばしば壊滅的な損害をもたらしました。

写真の爆撃機もちょうど高射砲弾がヒットしたところですが、
驚くべきことに、このB-17の10人の乗員のうち5人は、
制御不能に陥る前にベイルアウトすることに成功しています。


(おそらくボール砲塔砲手は脱出できなかったでしょう)



「FlaKの煙は、外に出てその上を歩けるほど分厚い」

とは、対空砲火の激しさを言い表す常套句でした。
写真に見える黒い雲は炸裂する対空弾によって生成されます。



このチャートはドイツの各種対空砲の射程距離を示しています。
最小の7.92mmと最大の150mmでは、
その射程距離に38フィートの開きが出てくるということがわかります。

88ミリ対空砲は有効射程26フィート、
最大射程33フィート、マキシマムで36フィートまで届きます。
スペックでは、

有効射程14,810m(対地目標)
7,620m(対空目標)
最大射程11,900m(対空目標)


とされています。
チャートは連合国側によって作成されたもので、
米空軍の重爆撃機は、これを踏まえて有効射程の限界で飛行していました。


対空砲が構造物に当たった時の衝撃を表す壁の展示です。

ここに20ミリ対空砲実物が展示してあるのですが、
20ミリ砲が当たった時こんなふうになるものでしょうか。

これは戦車も破壊する88ミリの痕ではないだろうか。



20mm対空機関砲 フラークヴィアリング38
Flakvierling 38 20mm Antiaircraft Gun

20mm Flakvierling 38は第二次世界大戦中のドイツの対空砲です。
Vierlingとは、四連装を意味します。
ドイツ語で「四つ子」というときは「ヴィアリング」というそうです。
そういえば、双子は「ツヴァイリング」だったっけ。

共通の架台に4つの砲身を搭載し、折り畳み式シート、

折り畳み式ハンドル、弾薬棚を備えていました。

架台は三角形の台座で、各脚には砲を水平に保つジャッキが付いています。
トラッカーは2つのハンドホイールを使って手動で砲を

トラヴァース(旋回)&エレベート(上昇)させます。

砲は2つのフットペダルによって発射され、自動またはセミオートで作動。
低空飛行する連合軍機に対して広く使用され、
しばしば対空砲塔やその他の常設架台に設置されました。


訓練中

仕様
口径:20mm(0.79インチ)
銃身長:4.08m 51½インチ(フラッシュハイダー含む)
重量:1,509kg 3,200ポンド
高さ:1.6m 10フィート1インチ(銃を高くした状態)
最大垂直距離 4,012ヤード
発射速度:実用800発/分

サイクル1,400発/分 サイクリック
マガジン装弾数:20発
装弾数:16マガジン(320発)


制作はマウザー社。
88ミリ砲はクルップ社です。

■ドイツ戦車兵グッズ

「フライヤーの脅威;対空砲火」

壊滅状態に至ったといえ、ドイツ軍の対空砲火(対空砲火)は、
アメリカ空軍の飛行士たちをますます苦しめていました。

戦闘機・爆撃機のパイロットの任務は基本低空で行われますが、
任務中、もし対空砲火の直撃によって機体が致命的な打撃を受けたとき、
もし低空だったらベイルアウトできるだけの高さがありません。

対空砲はFliegerabwehrkanoneの略で、
大都市で見られる128mm砲まで様々なサイズがありました。

最も効果的な対空砲は、20mm軽対空砲と有名な88mm両用砲でした。



1、ルフトバッフェ・ヘルメット
ドイツ軍の高射砲手が防護のために身につけていた標準タイプ

2、FlaK砲手のバッジ
対空砲に従事する砲兵が身につけていた

3、FlaKコンバットバッジ
受賞された高射砲手に与えられた戦闘バッジ



スポッティング双眼鏡
ドイツ製10倍双眼鏡。地上から狙いをつけるため使用。



6、ルフトバッフェ・ベルトバックル
多くの高射砲手がドイツ空軍の所属でした。

7、20ミリ対空砲弾
典型的な20ミリFlak対空砲の砲弾。
(太い万年筆かと思った)

8、コンピュータ
レンジと方向を計測するコンピュータ。
88ミリ砲の砲手たちが使用していたもの。

最後に、とんでもない誰得おまけを。

wikiの20ミリ高射砲のページにこの武器が登場する映画、
ゲーム名が掲載されていて、ゲームだと「艦つく」「ウォーサンダー」、
映画だと「インディジョーンズと運命のダイヤル」なんかがあります。

そして、もう一つ高射砲が登場する映画が問題の


「Eine Armee Gretchen」(陸軍のグレッチェン)

この作品は、第二次世界大戦末期、人員不足のドイツ国防軍に
主に士気を高めるという目的で金髪女性派遣団が結成されるという話。

戦闘シーンもそれなりに出てくるようですが、
つまりは「そういう」映画のようです。

しかも、たった一件寄せられた評価によると、深みはもちろん演技も酷く、
そっち方面から(そっちってどっち)見ても中途半端な駄作ということです。

それにしても、ドイツ人がこんなおふざけ映画を?と思ったら
案の定制作はスイスで、発表当時も低評価の嵐だったようです。

でもwikiに載ってるくらいだから、少なくとも高射砲は
ちゃんとしたレプリカか本物を使ってたってことなんだよなあ。

小道具担当が意地を見せたか、それとも現物を手に入れたか。
それを確かめたくても、日本でこの映画見る方法は多分ないと思いますが。



続く。


「ラッキー・バスタード・クラブ」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-14 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機シリーズより、今日は、
「Missing in Action」任務中行方不明、というタイトルのコーナーです。

パネル中央には冒頭の涙ぐむ美女が、

「Please...get there and BACK!」
(お願い・・無事に戻っていらして!)


と訴えており、その下に

BE CAREFUL WHAT YOU SAY OR WRITE
(何を言うか、何を書くか注意してください)


とあり、これが実は防諜啓蒙ポスターであることがわかります。

うかつにしゃべったり手紙に書くことで、
愛する人が無事に帰れないかもしれないと脅しているんですね。


彼女の恋人たちの任務は、情報が漏れることによって失敗し、
それはひいては彼らの命が失われると言うことにつながります。


■ 大空襲、大損害、クライシス


1943年後半、米空軍は重爆撃機部隊の増強を続けました。
しかし、敵陣深く進入して目標を攻撃するにつれ、
驚異的な損失が昼間戦略爆撃の概念全体を脅かすようになります。

敵地深くまで飛んで爆撃ミッションを敢行。
「メンフィス・ベル」のように25回任務を達成するまで
撃墜されずに生き延びられるほうが稀というものでした。



編隊を組んで飛ぶB-26の周りに見える小さな黒煙は、
地上から撃ち上げられる対空砲です。


つまりアメリカ空軍の初期の想定が間違っていたのです。

掩護なしの重爆撃機は敵戦闘機から身を守ることはできませんが、
不運なことに、当時のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機は、
敵陣深くまで爆撃機に随伴して攻撃できる航続距離を持ちませんでした。

映画「メンフィス・ベル」でも、途中まで援護してきた戦闘機が
ある地点で挨拶をして帰っていくのを、乗組員が吐き捨てるように
ここまでかよ、みたいなことを言うシーンがあったと記憶します。



2本平行にたなびく煙は、もしかしたら墜落機のもの?

1943年に限ると、第8空軍の爆撃機乗組員のうち、
25回の任務を完遂したのはわずか約25%で、残りの75%は死亡、
重傷を負った、あるいは墜落機から脱出して捕虜となりました。



高射砲に被弾し、エンジン部分から激しく炎を噴くB-24。



ドイツ上空で対空砲火が直撃したB-24リトル・ウォーリア。

ベンソン中尉

 副操縦士のシドニー・ベンソン中尉一人だけがベイルアウトしましたが、
ベンソンは地上で怒り狂ったドイツ民間人に暴行を受け、死亡しました。

日本でも、ベイルアウトしたアメリカ人航空士が民衆に暴行された例はあり、
長髪だったせいで、アメリカ人と間違えられた日本人の海軍飛行士が
民衆のリンチにより死亡したという事件も起こっています。

この事件以降、航空隊員は袖に日の丸をつけるようになりました。


任務を完遂できる確率が低いことを知りながらも、
爆撃機乗組員は勇気をもって粛々と任務を遂行しました。



1943年11月、ドイツのゲルゼンキルヒェンへの任務後、
対空砲火で脚を負傷し、救急車に運ばれる
爆撃手マリオン・ウォルシェ陸軍中尉。

回復後も飛行を続けるも、1944年2月にまた撃墜され、捕虜となりました。


「ソンバー(Somber)・デューティー」

somberとは単純に色や明るさが地味とかくすんだ、とか暗い時に使い、
そこから「厳粛な」「陰鬱な」「重苦しい」という意味を持ちます。

葬列を表現するのに「somber march 」などということもあり、
軍隊でいうところの「ソンバー・デューティー」とは、
死者にかかわる後片付けを表すときに使われます。

この写真では、任務に出た爆撃機搭乗員が行方不明になったので、
関係者に身の回り品を送り返すためにロッカーを整理しており、
おそらく搭乗員の戦友が、黙々とこの「地味で陰鬱な任務」を行っています。

残された戦友の恋人の写真を目にしながら、
彼もまた明日は自分、と考えているかもしれません。


■ 「ラッキー・バスタード・クラブ」


いくつかの爆撃機グループには、幸運にも
戦闘任務に生き残った者たちのための
『ラッキー・バスタード・クラブ』

なるものがありました。

「バスタード」はご存知の方もいるかと思いますが、
決して上品ではない、「野郎」みたいなニュアンスの言葉です。

”ラッキーバスタードであることを祝って”

これは、ナチス・ドイツに対する多くの空中攻撃に参加し、
対空砲火、戦闘機の攻撃、悪天候にもかかわらず、
各ミッションから無事に帰還したリチャード・R・ベンソン曹長が、
満場一致でラッキー・バスタード・クラブのメンバーに選出されたことを
証明するものであり、彼と、
このクラブの勇敢で幸運なメンバー全員に

この詩を捧げるものである。

ああ、戦いの英雄、国の誇り
誉れ高き勲章を受けし者よ
女たちの歓喜のため息の対象よ
大空を駆け巡り、戦いの傷を負った勇士よ
臆することのない魂で、自分の仕事をやり遂げた


対空砲火に怯えつつも
最高の決意をもって、多くの任務をこなしてきた
暴力団を一掃し、平和をもたらすために

何千トンもの爆薬でナチスを吹き飛ばし
ナチスを数千トンの爆薬で吹き飛ばした;

ルールでの進軍の道を開き
そして、自由と勝利を確かなものにした

正義の十字軍、ガラハドよ
君が受けるべき栄誉は決してない、
ウイスキーと女とジャイブの家に帰れ;

ラッキーな野郎だぜ 生きて戻るなんて
(You're a lucky bastard to be alive.)

■ ミッシング・イン・アクション


かと思えば。

これは重爆撃機の護衛中に撃墜されたP-38パイロットの妻に送られた、
「行方不明」(Missing in Action)の恐るべき通知です。
これらの電報は何万人もの航空兵の家族に送られました。

ワシントンからサンディエゴ在住である
ナンシー・L・マッカーティ夫人に送られた通知には、

「あなたのご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
5月9日以来フランスで行方不明になっていることを、
陸軍次官が深く残念に思っているとお伝えしたいとのことです」
ダンロップ准将代理

この通知を受け取ったナンシー夫人の心痛はいかなものであったでしょうか。
しかしこの通知を受け取った約1ヶ月後のことです。



ナンシー夫人はとりあえず安堵の涙を流したに違いありません。

「国際赤十字からたった今届いたばかりの報告です。
ご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
ドイツ政府の戦争捕虜となっていることがわかりました」

さらにラッキーなことに、マッカーティ中尉は終戦後解放され、
無事に生きて故郷に帰り、妻との再会を果たしました。



戦争中戦地に愛する人がいた人々は、おそらくこの
ウェスタン・ユニオンの電報がくることを恐れていたことでしょう。

ウェスタンユニオンは創立1851年という長い歴史をもつ金融&通信社で、
第二次世界大戦中は電話もまだそれほど普及しておらず、
特に長距離の通信にはテレグラフが中心だったので、
ほぼ独占企業としてこのような軍事通信も担っていました。

テレグラフの内容は、ウィリアム・R・マッカレン軍曹
について1945年4月にわかった情報のようですが、
この人物について調べたところ、1943年の爆撃任務で乗っていた
「サンタアナ」という爆撃機が撃墜され、ドイツで捕虜になっていました。

大きく引き伸ばされたテレグラフの前には、次のような文字が見えます。

「忘れてはならない・・・
第二次世界大戦中、自由のための戦いに命を捧げた
29万2千人のアメリカ国民にこの展示を捧げる」


続く。



「フレンド・オア・フォー?」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-11 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機を中心にお話ししてきました。



前回はその戦いに命を捧げた人々と任務を取り上げましたが、
そこに名誉メダル受賞者を受けた下の二人のコーナーがありました。



スタッフサージャント、メイナード『スナッフィー』スミス(左)と
同じくアーチボルド・マティエスの二人です。

■一人で乗員全員を救出
メイナード・ハリソン『スナッフィー』スミス軍曹
SSgt Maynard Harrison ”Snuffy" Smith

アメリカにもその時代の流行りの名前があります。

最近は、男の子ならリアム、ノア、オリバー、ジェームズ、エリジャ、
女の子ならオリヴィア、エマ、シャーロット、アメリア、ソフィア、
こんな感じがトップ5ですが、逆にどうも古臭い、と感じる名前もあります。

思い出したので余談なんですが、この人の「メイナード」という名前は
現代には完全にアウトオブデートでイケテナイみたいです。

あるドラマで、主人公の夫が、生まれてくる子供に
どうしても祖父の名前であるメイナードをつけたいというのですが、
妻はこの名前が古臭くて大嫌い。
結局妥協して通名はイニシャル「MJ」になったという話がありました。

流行りの名前は当時のポップカルチャーやイベントの影響を受けるので
「メイナード」は南北戦争時の銃のせいで流行った頃があったのでしょう。

さて、そのメイナード・スミスがなぜ勲章を受けたかといいますと。


1943年5月、彼がボール砲塔砲手として乗り組んだ爆撃任務で
ブレスト上空を飛んでいた爆撃機が対空砲火を受け、火災が発生しました。

スミス二等軍曹は、電源を喪失したボール砲塔からすぐさま飛び出し、
重傷を負った乗員2名を手当てしながら機関銃を撃ち、加えて、
消火のために燃えている破片と弾薬を外に放り出しながら消火器を使い、
消火器が無くなると最後には放尿によって火を消そうと試みました。

飛行機はイングランドにたどりつき、着陸した途端真っ二つに裂けました。
後で調べたら機体に3,500以上の弾丸と対空砲の破片が命中していました。


火災に関しては、ほとんど彼一人の働きで、乗員全員が助かったのです。

この大活躍で、スティムソンから直々に勲章をもらったわけですが、
同じ週、彼は説明会に遅刻したため、罰として
KPポリス(厨房の雑用、芋むきとか)をさせられている真っ最中でした。

しかもその後、彼はPTSDのせいで職務成績不振となり、何をやらかしたか、
兵曹から二等兵に降格、さらに永久追放(不名誉除隊)になりました。

ただ幸いにも、故郷では英雄としてパレードで歓迎され、
軍の悪口をいいながらフロリダで静かに晩年を過ごし、
最終的にはアーリントン国立墓地で永遠の眠りについています。



■ 我が身の危険を顧みず・・・

アーチーボルド・マティーズ兵曹(上段左端)
SSgt Archibald Mathies
ナビゲーター:ウォルター・トゥルンパー少尉(下段右から二人目)
2/ LT Walter Edward Truemper
機長:クラレンス・ネルソン中尉(下段左端)

1/LT Clarence R. Nelson

名前について書いたので流れでいうと、この「アーチーボルド」。
メイナードもたいがい?ですが、こちらもなかなかな気がします。
事実、この名前がアメリカで人気があったのは19世紀後半で、
名前ランキングのある情報によると、


「20世紀初頭には急速に廃れ、1920年にはランク1,000以下だった」

彼が生まれたのは1918年ということですが、スコットランド移民だった
彼の両親は、アメリカの流行がわかっていなかったのかもしれません。


アーチーボルド・マティーズ二等軍曹

は、戦死後その勇敢な行動に対し名誉勲章を授けられました。

1944年2月20日、ライプチヒ攻撃のため搭乗したB-17、
愛称「テン・ホースパワー」の操縦席が対空砲と戦闘機の攻撃を受け、

その結果副操縦士が死亡、機長は重傷を負います。

そこでマティーズはナビゲーター、トゥルンパー少尉と二人で

故障した機を帰投させ、基地管制塔と連絡を取るところまでこぎつけました。


ウォルター・トゥルンパー少尉

ただちに基地司令からの命令で、全員がベイルアウトを命じられました。
しかしマティーズとトゥルンパー少尉は、

「重傷の機長がまだ残っていて、見捨ててはいけないから、
基地に機体の着陸を試みさせてほしい」

と懇願します。

司令は経験の浅い二人では損傷した機を着陸させることはできないと判断し、
飛行機(と瀕死の機長の命)を諦めて脱出することを命令しました。


トロッコ問題ではありませんが、司令はこのとき、
瀕死の一人と二人の命を明らかに天秤にかけ、後者を選んだのです。

いや、確率で言うなら、一人諦めるか三人とも死ぬかの状況において、
限りなく後者の方が可能性が高いと判断したのでしょう。

しかし、マティーズと少尉は着陸を強硬に主張しました。

苦渋の決断で司令は着陸許可を出し、飛行機は3度着陸を試みますが、
最終的に(滑走路にではなく)空き地に墜落し、
マティーズ軍曹とトゥルンパー少尉は二人とも死亡
しました。

負傷した機長は墜落の時にはまだ生存していましたが、
その後病院で死亡したので3名全員が亡くなったことになります。


左上から、ネルソン中尉、トゥルンパー少尉、
マティアス軍曹(バックは墜落した機体)

「時間がなくなり、日の光が薄れ、
アーチー・マシーズの持久力はすでに妥当なレベルを遥かに超えていた。」

「大佐の目にも生還の希望が薄れつつあることがますます明らかになった。
大佐は管制塔を通してウォルター・トゥルンパーに爆撃機を海に向けさせ、
自動操縦に切り替え、2人にパラシュートで降下するように指示した。」

「マシーズもトゥルンパーも、その命令の意味を十分に理解していた。
しかし自らの極限状況にも関わらず、二人とも自分たちが助かるために
ネルソン中尉の生存の可能性を放棄する気はなかった。」

「遂に司令はテン・ホースパワーに再び着陸を試みる許可を無線で送る。」

「機体は突然左に方向転換し、大きく急降下して管制塔を通り過ぎた。
着陸しようとして、赤いフレアを発射した。
そして1マイルほど離れた野原に向った。

航空機は17時00分にわずかに機首を下げた姿勢で
時速200マイルの速度で衝突し、地面に沿って50ヤード以上滑った後、
土の山に衝突し、クラッシュした。

「この時のテン・ホースパワーの墜落で生き残ったのは 1 人だけだった。
救助隊が到着したとき、クラレンス ネルソン中尉はまだ息をしていた。

彼はその夜遅くに病院で亡くなったのだが、
アーチー・マシーズとウォルター・トゥルンパーは、
最愛の指揮官を、ともかくも生きて帰国させることには成功したのだ」

このコーナーではマティーズ軍曹だけが強調されていますが、もちろん、
25歳で亡くなったトゥルンパー少尉もパープルハートを授与されています。


appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」第3話には、
この件を彷彿とさせるエピソードがあります。

レーベンスブルグ攻撃に出た機が撃破され墜落していく中、副操縦士が被弾。

死んだものと思って全員ベイルアウトをしようとしたとき、
副機長は生きていて虫の息をしていることがわかり、機長は脱出を拒み、
全員を脱出させ、一人操縦席に残って空き地に不時着を試みます。

しかし、無事に草地に着陸したと思われた機体は大きくバウンドし、
その先の低地に機首から突っ込んで大破炎上するのです。

機長の最後の言葉は、

「Oh, God.」(『まずい』と翻訳されていた)

でした。



■ 「フレンド・オア・フォー?」


砲手は一瞬の判断で発砲するかどうかを決定しなければなりません。

しかし距離が長かったり、角度によっては、
戦闘機が敵か味方かを確かめるのが非常に難しくなります。

そこで航空機を認識する訓練が行われました。
これは生死にかかわる状況下で砲手が正しい選択をするため必須でした。



英国空軍の教官から認識訓練を受ける第8空軍の下士官搭乗員たち。 
触覚で航空機を識別する訓練です。

触覚で識別できたとして、本番にどう役立つんだろう・・。


航空機認識模型

1/72スケールのプラスチック製航空機認識模型が大規模に製造され、
民間ボランティアによって作られた数十万個の木製模型が配布されました。

左上から:P-38ライトニング、Bf110
左下から:Pー51マスタング、スピットファイア、Bf109、Fw190



「スポッターカード」

トランプをしている間も楽しみながら識別訓練ができる優れもの。

というわけで、当時航空兵の間には写真の左側にある
「スポッターカード」なるものが出回りました。




いまでは激レア品として取引されています。
艦艇の形を取り入れた海軍版もありました。

「ビューマスター認識キット」

と言うのがそれです。
上の写真右下に見えるのはビューマスターです。


戦争が始まる直前に設立されたView-Master社は、
戦時中、航空搭乗員の機種認識と距離推定訓練用に、
約10万台のステレオビュアと数百万枚のディスクを製造しました。

戦争が終わると、ビューマスターは様々なイメージのビューワーを作り、
おもちゃとして1960年代、子供たちに大人気となりました。

ビューマスタージャンルの色々

なんか現在はプレミアがついてお値段がすごいことになっています。
こういうのも軍事技術の戦後平和利用っていうのかしら。


続く。




殉職した機関水兵〜潜水艦「レクィン」最終回

2024-05-08 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギー博物館に展示されている潜水艦、
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。



後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。

最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。

■ 殉職した「レクィン」乗組員



マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.


の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。

Gave his life in faithful service in his country
aboard the submarine USS Requin

潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた


死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。



死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。

第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。

その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。

展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。

”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡

マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。

ノーフォークの海軍基地所属、マール・H・ジュニアについて:

「私はアメリカ海軍を代表して、あなた方のご子息である
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、
酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。

ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。

もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」

テレグラムの送信者は、「レクィン」艦長である
E・L・フラニー大尉であった。

のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。

「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。


ガーロック機関水兵の死亡診断書を見つけました。

直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入

とあり、「任務中」にチェックが入れられています。
そして、

退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時

という欄に、

Peactime

とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。

いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。


■ 潜水艦を使った戦時広告



航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。

ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。



このコダックの宣伝ポスターは、1943年に製作された
一連の「軍隊もの」のひとつです。

私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。

任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。

本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。

家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。

フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。

だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。

あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.


右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で

”Take her down "を覚えていますか?

という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。


「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。



「戦時のタフな使用のために、
バッテリーに新しいスタミナを」

オーウェンス・コーニング社
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)

は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。


主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。


現在、この他の主力製品は繊維強化プラスチック (FRP) などの複合材料で、
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。

"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。


■「レクィン」”サルベージ”ドローイング


国立公文書館から提供された USS「 レクゥイン」の原画のコピーです。

アーカイブには、数枚の大判図面、数千枚の青写真、
およびレクインの勤務時代の多くのログと通信が含まれています。



ほとんどがレーダーだったので、今ここのコンパートメントには
これくらいしか当時の機器が残されていません。

ハイドロステアリングのギアモーター。



航空管制に必須だったジャイロ。



さあ、というところで、艦内の見学を全て終わりました。
あとはこのラッタルをのぼっていきます。



最後に、階段の上からスターンルームを撮っておきました。



甲板に上がります。

他の同じツァーのメンバーの姿はほぼ影も形もありませんでした。
赤いシャツのツァーガイドは、何か質問があったら聞いてください、
程度のことしかいわず、ほとんど何も説明してくれませんでしたが、
とにかく全員を艦外に出すために、私たちが上がっていくのを待っています。

急かされている感があってゆっくりできませんでした。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。



というわけで、カーネギー博物館の「レクィン」見学レポートでした。

終わり。



映画「Uボート基地爆破作戦」The Day Will Dawn 後半

2024-05-05 | 映画

映画「Uボート基地爆破作戦」、原題「The Day Will Dawn」後半です。


例によって派手なアメリカ公開時の同作、
アメリカタイトル「アヴェンジャーズ」ポスターがこれ。

「前線の新しい秘密を描いたスリリングなドラマ!」

という煽り文句。
「新しい秘密」って何だろう。




ノルウェーからイギリスに戻ったメトカーフは、本社での仕事を再開しますが、
日に日に飛び込む戦争による損失のニュースに触れるたび、
自分自身が戦線に身を投じて祖国を救いたい思いに駆られていきます。


そんな彼に、先輩記者は、武器を取ることだけが戦いではないといい、
報道記者にしかできない戦い方をするべきだと説きます。

例えばホームフロントで国民一人が心構えを持ち、
勝利のために「経済活動」を行うよう家庭に呼びかけるなど。

ごもっともでありメトカーフもそれに納得するのですが、
ところがどっこい、運命は彼にそれを許してはくれなかったのです。


その頃、イギリス海軍情報局では、ノルウェーのどこかにあるとされる
Uボート基地を探し出すために動き出していました。

「誰かこの辺に詳しい人物はいないか」

「ピットウォーターズ中佐を呼べ」

ピットウォーターズ中佐とは?



メトカーフが空襲下のバーで飲んでいると、彼をドイツ船から助けた
駆逐艦の艦長だったピットウォーターズ中佐が「偶然」現れました。

もちろんこれを偶然と思っているのはメトカーフだけです。

ピットウォーターズ中佐、にこやかに挨拶を済ませると、
いきなり何のスポーツをやっていたか聞いてきました。
メトカーフが学生時代にかじったスポーツを適当に答えると、

「それならもちろん泳げますよね?」

「?」

「あなたモールス信号は打てます?」

「・・・いえ・・何なんです?」

「なに、すぐ覚えますよ」



「グッドラック!」

「・・・あなたも」(?)

この人、目が全然笑ってなくてこわ〜い。

「ああそうそう、乗っていた船が銃撃を受けたっていう件、
あのことで私の友人があなたと話したいと言ってましてね」

「今からですか・・いいですよ。行きましょう」

「あ、ところで結婚してます?」

「いいえ」

「近親者とかは?」

「いませんが」

「それはよかった。家族なんてつまらないですからな」


イギリス海軍、メトカーフに何をさせようとしているのでしょうか。
ドイツ船が彼を攫った理由も謎のままですが。



ピットウォーターズ中佐に海軍司令部に連れて行かれ、
そこでメトカーフは情報部のウェイバリー大佐に紹介されました。

「君はいい記事を書きますね」

「ありがとうございます」

「愚者の後知恵って感じだけどね(Wise after the event)

イギリス人らしい上から目線の嫌味にムッとするメトカーフを尻目に、
なるほど健康そうだね、はい近親者もいないそうですなどと、
何やら勝手に話を進めていく二人。

そしていつのまにか彼は、
「ノルウェーのUボート基地を探し出し、攻撃する」
という海軍の作戦に参加することになっていました。

なるほど、で、日本語タイトルがこうなったわけね。

なぜ彼に白羽の矢が立ったかは、彼がUボートの攻撃を受けたからですが、
だからって、ただ船に乗って攻撃を受けただけの人を、
ろくにその時の状況も聞かずに現場に放り込むかな。



次の瞬間、軍用機に乗せられた彼は、あれよあれよという間に
パラシュートを装着され、目的地上空で降下させられていました。

「三つ数えたらパラシュートの紐を引っ張ってください。
ハッピーランディング!」

ハッピーランディングじゃねえよ。素人になにさせるだ。

案の定、降下するところをドイツ兵に目撃され森の中を逃げ回ることに。
メトカーフ、自分を守る武器すら持たせてもらってません。
必死で身を隠しますが、そのうち一人に見つかってしまい、万事休す。


と思ったら彼はオーストリア人で、メトカーフを見逃すどころか、
イギリス海軍の作戦に通じているらしい?人物で、
しかも、彼の受け入れ先であるパン屋も教えてくれます。

どんな偶然だよと言う気もしますが、映画なのでもうどうでもいいや。


受け入れ先のパン屋の親父から、メトカーフは衝撃的なニュースを聞きます。

一つは、皆の意見を代表したアルスタッド船長が収容所に入れられたこと。
そして、もう一つは、カーリがグンター署長の権力と金になびき、
婚約したため、村人の非難の的になっているという状況でした。


パン屋はメトカーフを、村の学校で校長をしているオラフに紹介しました。
前半の結婚式シーンでカーリの友ゲルダと挙式した新郎で、
彼を目的地のラングダールに連れて行く役目を引き受けたのでした。

オラフを演じるのは、このブログでご紹介するのもなんと三度目、
すっかりお馴染みになったニアール・マクギニス(Niall MacGinnis)

「潜水艦撃沈す」49th Parallel (1941)で、
逃走中仲間に射殺されるドイツ軍水兵の役、
「潜水艦シータイガー」We dive at dawn(1943)で、
結婚したくない男CPOマイク・コリガンを演じていた人です。



オラフと歩いていてドイツ兵に誰何され、隙を見て逃げたメトカーフは、
ドイツ-ノルウェー親睦パーティに紛れ込みますが、
そこでグンターと一緒にいるカーリを見てショックを受けます。



そこに、体重0.1トンデブのドイツ軍司令官がやってきて、
この場にいる全員の身分証を点検すると言い出しました。

メトカーフが逃げたことが報告されたようです。


その時、カーリは会場の一席で目を伏せているメトカーフに気づきました。
彼が身分証を持たずここに忍び込んでいることも察したようです。



事態を混乱させるために彼女が咄嗟に取った行動、
それはコップでテーブルを連打することでした。


それは、内心ドイツ軍のやり方に鬱屈としたものを抱いている
周りのノルウェー人たちに、抵抗の形として伝播していき、
連打の速度はだんだん速くなっていきます。

ドイツ人たちはそれに苦い顔を・・。



司令官に命ぜられたグンターが連打をやめさせ、皆を取りなし、
楽隊に演奏を命じて何とか雰囲気が元に・・、と思ったら、



ノルウェー人の楽隊員がコップ連打のリズムを使ったアドリブを始めました。
残りのメンバーも調子を合わせてアグレッシブに盛り上げます。


騒乱状態の中、律儀に身分証確認の任務を遂行するさすがのドイツ兵士。

ドイツ兵がメトカーフに近づき、あわや、というとき会場は真っ暗に。
カーリが部屋の隅にあるブレーカーを切ったのでした。

暗闇の中カーリは素早くメトカーフに近づき、逃げ込む場所を指示しました。


その後落ち合った二人。

カーリは、グンターと婚約したのは父親の釈放が条件だったから、
と釈明し、メトカーフはこれまでの彼女への想いを打ち明けました。

父親のアルスタッドが逮捕された理由は、
イギリスのラジオが流していたノルウェー国王の言葉、

「私は国民を見捨てない」

という言葉を紙に印刷して人々に配ったからでした。

そして父親を逮捕したのは他ならぬグンターで、彼は
父親の釈放と引き換えにカーリに婚約を強いたのです。


程なくして、イギリス海軍にノルウェーからの暗号が入りました。

「Uボート基地確認 重厚な偽装あり ラングダルより22キロ南方
水曜22時半以降に大西洋攻撃の計画あり」


カーリの父アルスタッドが釈放されて帰宅しました。
「現場監督」(foreman) は船上での娘のあだ名です。

アルスタッドは、潜水艦基地を爆撃する連合軍機に
位置情報を伝えるメトカーフに付いていくことになりました。


ドイツ海軍が艦隊出撃の準備を始めました。
このとき、ドイツ軍人の間でこんな会話があります。

「どうして海軍は総統に敬礼(ナチス式敬礼)しないんだ」

「英国海軍を手本にしたため、伝統を受け継いでいる部分がありましてね。
我々も修正を試みているんですが」


映画はここで悪質な印象操作をぶち込んできます。

「生存者を救出するなどという”騎士道精神”まで受け継いではいませんが、
とにかくドイツ海軍は総統にナチス式敬礼はしないのです」

アメリカとイギリスは、戦後もこの

「ドイツ海軍は生存者を救出しない」

という文言を好み、ドイツの「残虐ぶり」を強調しようとしてきましたが、
実際にはそうではなかったことは、「ラコニア号事件」が証明しています。
ラコニア号の乗員を救出するU-156とU-506

この後、メトカーフが地上から発光信号で航空機を誘導し(!)
偽装が施されたドイツ潜水艦基地は見事爆撃されます。

この一連の爆撃シーンは、実際のストック映像からの流用多数。



役目を終えて帰ってきたメトカーフにカーリは父の安否を訊ねます。

「お父さんはもう帰ってこない」



作戦成功の知らせは海軍情報部にも入りました。

「マーシュのおかげだな!」

「メトカーフです」

「そう言っただろ」

「・・失礼しました」

Mしか一致してねーし。


しかしそれで済むほどドイツ軍は甘くありません。

首謀者がメトカーフであることも当局はすでに掴んでおり、
彼と協力者8名を逮捕し、処刑すると通告してきました。


次々と引き立てられていく人々。
その中には、ゲルダの夫、オラフもいました。

グンターは、メトカーフが見つからなければ、8人を処刑すると脅しています。
ゲルダはカーリに、人質になった人たちの命を救うために
メトカーフの居場所を教えるように懇願しにきたのでした。

その話を陰で聞いていたメトカーフは、警察に自首しました。


カーリの元にグンターが来て、メトカーフの自首を告げました。

彼は、それでもカーリがまだ処罰対象になっているため、
自分と結婚すれば命を助けることができると持ちかけます。

きっぱりとそれを拒否するカーリ。
父の釈放のために婚約はしていましたが、その父も亡くなった今、
こいつと結婚するくらいなら死んだほうがマシということですか。

それを聞くとグンターはいきなり外にいたドイツ兵に彼女を逮捕させました。


警察署で、捕えられた人々と一緒になったメトカーフは、
こんな演説をします。

「あなたはここに製油所と称して潜水艦基地をつくった。
部下はノルウェー語を話す。なぜか。
彼らは子供の頃、戦争でここに逃れてきた人々だからだ。
ノルウェーの人々が空腹だった彼らを助けた。

その彼らが今では侵攻する大隊を構成していて、
『親切な人々』を殺すことができる。

しかしここで我々を殺したとしても、ほんの少しに過ぎない。
他には何百万人だっているんですよ。
漁師、パン屋、商人、教師・・普通の人々がね。

あなた方はその全てを殺すことなんてできない。

『その日』は来ます。あなたが思うよりもはやく。
皆が立ち上がり、自由になる日が。

そのとき、あなたに神のご加護がありますように」




ヴェッタウ司令は鼻白んだ様子になりましたが、
それでも彼の意見には何も言わず、全員を逮捕させました。


同じ房に閉じ込められ、処刑を待つだけの8人。

夜明けと同時にドイツ語の掛け声が房の前で響き、
兵士たちが8人のうち「最初の4人」を処刑のために連れ出します。

そしてすぐそばの処刑場から聞こえる命令と銃声。
こういうとき最後に牧師を立ち合わせたりしないか?



ゲルダの夫、オラフと彼らを含む4人が息を飲んでその時を待っていると、
にわかに外が騒々しくなりました。


このとき、英海軍部隊が潜水艦基地に到達していたのです。



そしてコマンド部隊が基地を強襲。
基地からは彼らの強襲ボートが船着場に乗りこむまで、
ドイツ側から何の反応もなく、全く反撃もなかったようで何よりです。



さっさと基地を後に自分だけ逃げようとする基地司令(私服になってる)。
協力させるだけさせといて逃げる気か!とすがるグンター。

司令は面倒になって、利用価値のない彼をさっさと射殺してしまいました。


このとき、木造の家が爆破されるシーンがありますが、これは
実際にノルウェー海岸をイギリス軍特殊部隊が襲撃した際の映像です。

このときコマンド部隊が攻撃したのはノルウェーの魚油加工工場などで、
この映像は当時のニュースリールに残されたものでした。

この映画に挿入されている実写シーンは、
ニュース映画やその他の現実の映像から抜粋されています。


「・・・イギリス海軍が来たわ」

このデボラ・カーの凄まじい演技を見よ。


捕虜になったドイツ兵たちが船に乗せられるシーンですが、
これ、もしかしたら第一次世界大戦のこの写真を参考にしてる?

WW1 blinds soldiers
WW1 - Weapons and Technology 


写真の人たちが目隠しして前の肩を掴んでいるのは、
彼らが戦闘で視力を失ったからなんですが・・・。

このシーンの人たちは、捕虜として目隠しされているようです。



ゲルダとオラフはイギリスに行って住むことになりました。
この短期間(数時間くらい?)になぜそこまで決まったのかは謎です。
イギリス軍が難民を受け付けてくれたのかな。

「子供はイギリスで生まれることになるが、血はノルウェー人だ」

ところで、いかにこの時代のノルウェーの状況について知らない我々も、
映画はイギリス制作であり、演じているのは全員がイギリス人、
全てがイギリスに都合よく描かれていることも知っておく必要があります。


ノルウェーはイギリス寄りであったとはいえ、中立国で、チャーチルは
ドイツより先にノルウェーを「占領」しようとしていましたよね。

ノルウェーはイギリスに占領された方がラッキーだったはず、というのは
あくまでイギリス人の考えにすぎず、ノルウェー人にすれば、
どちらかに占領されるならドイツよりはまし、程度だったと思うんだけどな。

放っておいたら中国かロシアに取られてしまうという理由で、
国内の偉い人に頼まれるようにして朝鮮を併合した日本が、
そのことをいまだに恨まれ続けているという例もあることですし。
(まあかの国の民族的気質がかなりの粘着質ってのもありますが)

占領される側から見たとき「良い占領」などは存在しない。
防衛上のいかなる正当かつ合理的な理由があったとしても、占領は占領、
国民主権が他国に奪われるという現実には違いないのですから。


そして、ノルウェーを離れる人々は、
村に残る人々に別れを告げ、船は岸を離れて行きました。



メトカーフはもちろんイギリスにカーリを連れて帰ります。
これからノルウェーはドイツに占領されることになるからですね。



最後に流れる字幕には、このようにあります。

「今、ナチスのくびきの下にひれ伏している12の有名な古代国家では、
あらゆる階級と信条の人民大衆が解放の時を待っている。
その時は必ず訪れ、その荘厳な鐘の音は、夜が過ぎ、
夜明けが来たことを告げるだろう。

1941年12月26日、アメリカ合衆国上院で首相チャーチルが行った演説です。

The night is past and that the dawn has come.

映画のタイトルはこの一節から取られました。
実際のノルウェーの「夜明け」は、この時点から4年後のことになります。


終わり。




映画「Uボート基地爆破作戦」The Day Will Dawn 前半

2024-05-02 | 映画

今日は1942年イギリスで製作され、わずか五ヶ月後には
アメリカでも公開された、戦争「系」映画をご紹介します。

まず、この「Uボート基地爆撃作戦」という邦題ですが、
例によって、あまり映画の本質を突いていません。

主人公はイギリス人のジャーナリスト(と言っても競馬記者)。
彼がポーランド侵攻を境に会社からノルウェー特派員を命じられ、
偶然の重なりにより歴史の瞬間を目撃し、自らも命の危険に曝されていく、
という内容なので、まるで戦争もののようなこのタイトルは変ですね。

原題は「その日は夜明けになる」(直訳)。

映画の制作された1942年は、ポーランド侵攻後のヨーロッパ、
並びに世界がどうなっていくか、まだ誰にも何もわかっていません。

The Day Will dawn というタイトルからは、
その頃ヨーロッパに住むすべての人々が陥っていた混沌とした暗闇から、
いつ夜明けになるのかという、そこはかとない願望が読み取れます。

それに比べてよく分からんのが、アメリカで公開された時のタイトル、

「The Avengers」(アベンジャーズ)

アベンジャーズというと現代の我々にはマーベルしかないわけですが、
映画を観た今となっては、こちらの「復讐者」というタイトルも、
なんだかほんのりピントがはずれているような気がしないでもありません。

ただはっきりしたのは、アメリカ人ってこの言葉が相当好きってことかな。

ところで、ここで本題、なぜ映画の舞台がノルウェーだったかですが、
それは当時ノルウェーが中立国だったことが理由でしょう。

ただ、第一次世界大戦時から国際紛争では中立を維持していたノルウェーが、
歴史的にイギリスとは経済的・文化的にも協力関係だったことから、
中立といっても、限りなく連合国寄りだったことを踏まえる必要があります。

第二次世界大戦が開戦するとノルウェーは公的に中立を宣言しますが、
ドイツは、連合国が共闘に引き込む可能性を憂慮し、
盗られる前に盗れ!!とばかりにノルウェーを占領にかかりました。

【ゆっくり歴史解説】ノルウェーの戦い【知られざる激戦10】
海戦の解説が多めなのでぜひ。

連合軍がフランス侵攻後、そちらにかかりきりになったので、
ノルウェー政府と国王ホーコン7世はオスロを放棄して亡命、
海外からレジスタンスを指導しましたが、結局ノルウェーは
ドイツに占領されることになり、終戦まで統治下に置かれることになります。

本作は、ノルウェーの戦い前夜からが舞台として描かれます。


ノルウェー空軍省、戦争省、そして
ノルウェー王国政府に感謝する、とあるのですが、
ここでとんでもない間違い発見!

NORWEIGAN(×
NORWEGIAN(


字幕を書く職人がGとIの前後を間違えただけだけだろうとは思いますが、
よりによって謝意を示すための字幕でスペルミス、これはアウト。


気を取り直して。
1939年9月のことです。



ドイツはポーランドに侵攻しました。


開戦にここぞと浮かれ、いや活気づくイギリス某新聞社のお偉いさんたち。

しかし、新聞各社が腕利きの記者を特派員として各地に送っている中、
この新聞社では、派遣する記者の人数不足に困っていました。

この際、若くて元気で記事が書ければ何が専門でもいい、
と一人が言い出し、政治部の花形記者フランクは、

「心当たりがある」



フランクは、友人の競馬担当記者コリン・メトカーフが、
戦争で競馬が中止となったため、クビになったばかりなのを思い出しました。

「あんなやつ、馬の知識しかないし、そもそも下流(でた階級差別)出身だ」

と社の幹部たちは渋りますが、彼のコミュ力を買っていたフランクは、
反対を押し切り、ノルウェー特派員として彼を推薦したのです。


8ヶ月後、メトカーフはノルウェーにいました。

何やら綺麗なお姉さんとデートなどしています。
ちゃんと特派員の仕事はしているのか。



オスロの街を歩きながら、

「夜のろうそくは燃え尽き、
霧深い山の頂に陽気な日がつま先立ちしている」


などと、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の一説を口ずさみ、
ついつい溢れ出る教養をダダ漏れさせてしまうメトカーフ。


二次会?で入ったバーで、メトカーフはノルウェー海軍の水兵たちと
ノリで「ルール・ブリタニア」を合唱してすっかり大盛り上がり。


このシーンのセーラー服、フランス軍と間違えてない?と思いましたが、
ノルウェー海軍の制服って、フランスと似ていたんですね。
白黒なのでわかりにくいですが、セーラーの襟の色が間違っています。

当時は白黒写真しか資料がなかったせいかな?



その時、同じバーの一角に、ドイツ海軍御一行様がいて、
「英国は決して奴隷にはならず」という「ルール・ブリタニア」に対抗して、
ナチスの党歌「ホルスト・ヴェッセルの歌」をがなり始めました。

しかしながら、わたしに言わせれば、この選曲が良くない。
僭越ながら海軍軍人というものを微塵もわかっておらん。

仮にも海軍たるもの、ここでナチスの歌なんか歌いますかね。
同じ映画の中で、「海軍軍人はヒトラー式敬礼はしない」と言って
微妙な海軍とナチスとの乖離を語っているのに、詰めが甘いというか。

こんな時には、やっぱりこれでしょう。

「我らは今日乗船する」 日本語歌詞付き [ドイツ海軍歌]
Heut geht es an Bord
必見:Uボートの実戦映像集 後半にはデーニッツ閣下も登場

ちなみに「眼下の敵」でUボートのクルト・ユルゲンス艦長のもと、
総員で歌っていた「デッサウアー」も、実は歩兵の歌ですので念のため。

(ところで今、ふと某国の公共放送局制作スタッフの無知のせいで、
陸海軍ごちゃ混ぜにハワイに収監されていた日本軍捕虜が、
全員で仲良く『艦隊勤務』を歌っていた戦争ドラマを思い出してしまった)

今回この映画がこの時わざわざ「ホルスト・ヴェッセル」を歌わせたのは、
単に「ナチス」を強調するための意図からきているのかもしれませんが。


さて、そのうち一人のドイツ水兵が荒ぶってものを投げ、鏡が割れるのを見て
白髪の老いた船長が立ち上がり、いきなりドイツ水兵を殴りつけると、
それがきっかけで場内全員による大乱闘になってしまいます。

メトカーフは迷うことなく乱闘に加わり、件の船長アルスタッドと意気投合。
ドイツ水兵を店から追い出した後、船長は彼を自分の船に招待しました。



メトカーフは乗り込んだ船で船長の娘、カーリと衝撃の出会いをしました。

カーリ・アルスタッドを演じるのは、ご存知デボラ・カー(Kerr)
「王様と私」「地上より永遠に」「旅路」などに出演し、
「イギリスの薔薇」とも称えられた美人女優です。

船の上で無様に転んだコリンを大笑いする彼女。
しかし顔を煤で汚していてもその美貌は隠せず。

(但しその笑い声は妙に甲高くて耳障りで、個人的にはイメージ台無しです)



ところで、さっきまでメトカーフとデートしていた女性は、喧嘩の際、
彼によって店から避難させられた後、最初の店に戻って、
やはり最初からそこにいた二人の男性と何やら密談をしていました。

彼女、どうやらドイツ側のスパイだったようです。
特派員である彼に近づいたのは、情報を得るためだったんですね。

ここで老婆心ながら一言。

政府要員、軍人、報道公務員その他国家機密に関わる、特に男性諸氏は、
(もちろん自衛官を含みます)やたら高めの女(又は男)が近づいてきた時、
冷静に自分について客観的に見直してみることも大事かもしれません。

こんな相手にグイグイ来られるほど、俺って今までモテてたっけ?と。
自分が案外モテると思いたい、その気持ちはわからなくもないですが。

個人的見解ですが、自他ともにモテを認める、実質MMな人材には、
そういう輩は決して近寄ってこないような気がします。


さて、航海二日目、アルステッドの船は、ドイツ海軍のタンカー、
「アルトマルク」Altmarkとすれ違いました。

アルトマルク号事件

「アルトマルク」は、ドイッチュラント級装甲艦
「アドミラル・グラーフ・シュペー」
(DKM Admiral Graf Spee)

の通商破壊活動によって沈められた商船から収容された
イギリスの船員を捕虜として載せていました。

「シュペー」がラプラタ沖海戦で自沈したため、
補給すべき相手を失ってノルウェー領海にいた「アルトマルク」は
ノルウェー官憲による立ち入り調査を受けることになります。

しかし「アルトマルク」は、その際捕虜の存在を隠してやり過ごし、
何も問題とならずに、そのまま通航を許されました。

同じ日、イギリス空軍機が「アルトマルク」を発見し、
イギリス海軍は、駆逐艦「イントレピッド」 (HMS Intrepid, D10) と
「アイヴァンホー 」(HMS Ivanhoe, D16) を派遣して
「アルトマルク」をフィヨルドに追い込んでから、
 駆逐艦「コサック」による強制接舷のち「アルトマルク」に乗り込み、
乗組員7名を殺害の末、捕虜を解放しています。

これが「アルトマルク号事件」です。

このことは国際的にも大問題となりました。



その後、アルステッドの船はUボートに発見されました。
(映像は実写)


その時、カーリとメトカーフは、デッキでジャガイモの皮を剥きながら、

「ジョージ・ベネットって知ってる?」

「読んだことあるわ。ノルウェーのイプセンの作品は?」

「読むよ」

「シェイクスピアやディケンズも読むわ」

とマウントの取り合いをしていたのですが、


そこにUボートが浮上してきました。



一連の映像は本物のUボートの戦闘シーンから流用されています。



Uボートは船に艦砲を撃ち込み、船は全壊し沈没しました。
しかし制作予算の関係で肝心の沈没救出シーン等はいっさい無しです。


沈没から逃れた小舟がアルスタッドの村に帰着すると、ちょうど
カーリの女友達ゲルダの結婚式が行われていました。

船を沈没されたのに、ウキウキと結婚式に駆けつけるカーリ、
そんな彼女を「踊りが好きなんだ」と目を細めて見送る船長。

沈没の後誰一人傷一つ追わず、衣服も濡れずに帰還できたどころか
全員が事故について忘れてしまっているかのように陽気です。


しかし、アルステッド船長はちゃんとするべきことを知っていました。

彼はUボートに攻撃されたことを、パーティの席で
地元の警察署長、オットマン・グンターに報告しますが、この警察署長、
ドイツ寄りの立場であるせいか、船長の報告を軽く受け流します。

しかも貴社のメトカーフにに向かって、あくまでお客として滞在しろ、
ここで余計なことをするな!と釘まで刺してくるのでした。



おまけにこの男、カーリに結婚を申し込んでいることもわかりました。
彼女に好意を持っているメトカーフには何かと面白くない人間です。



さて、ここはドイツ軍が駐留している某所。

司令部にやってきたグンター警部は、この体重0.1トンの司令官、
ウルリッヒ・ヴェッタウにメトカーフとUボートの件を報告しました。

ちなみにこの人、全くと言っていいほどドイツ人に見えません。
演じているのはフランシス・L・サリバンというイギリス人俳優です。

ちなみにこの人の痩せてた頃



グンターはヴェッタウ司令からドイツ軍の侵攻が近いことを知らされると
自分の地位と人気を利用して村人を「説得する」と力一杯約束しました。


その頃メトカーフはUボートの件を報告するためにオスロに向かっていました。


オスロのホテルに到着したメトカーフはそこでフランクに会いますが、
なんと自分がいつのまにかクビになっていたことを知らされます。

理由は、世界が注目する「アルトマルク号事件」が起こっている間、
アルステッドの船に乗っていて連絡が取れなくなっていたからです。

せっかくノルウェーに派遣した記者が、仕事せず行方不明なのですから
上層部の怒りもクビも、ごもっともといったところです。


メトカーフは漁船沈没の件をオスロの英国大使館に報告に行きますが、
大使館の駐在武官も何やら半笑いで微妙に真剣味がありません。
それでも何とか海軍に連絡をとってくれました。

つまり、誰もがこのとき次のドイツの目標が、
中立を標榜するノルウェーだとは思っていなかったってことなんですね。


しかし、メトカーフが、昨夜、在ノルウェードイツ大使館で行われた
ノルウェー政府の関係者を招待したパーティで、「火の洗礼」
(バプティズム・オブ・ファイア)という映画が上映され、
その内容がポーランドでの軍事作戦の記録だった、と報告すると、
新聞社は即座に彼のクビを撤回し、大ニュースだと盛り上がりました。

なんでそうなる。
っていうか簡単にクビにしたり取り消したりするな。


そのときホテルのロビーでは、メトカーフを訪ねてきたカーリに、
よりによってメトカーフの同僚の記者がウザ絡みしていました。

気の強いカーリはセクハラ記者を勢いよく平手打ちします。



彼女はメトカーフに、昨日村の近くの港にドイツ商船が来たこと、
軍艦ではないが巨大な船が3隻であったことを伝えに来たのでした。

「喫水線が深いのに、全く荷卸しをしていないの。
その『貨物』とは人間、つまり兵隊ではないかしら」

さすがは船長の娘で自身も船乗りです。
そして彼のために編んだ変な帽子を渡し、頬にキスして去って行きました。


ところが。

彼女と別れて乗り込んだタクシーは、そのまま彼を拉致し、
意識が戻ったとき、彼は船室に寝かされていたのです。

何のために?誰が彼を?


そしてついにヒトラーは軍をノルウェーに侵攻させました。
デンマークを一日で陥落させ、易々と上陸してきたという形です。

チャーチルは元からノルウェーの占領を目論んでおり、
ドイツのに対抗して英仏軍を上陸させましたが、
ヒトラーに察知されて先を越されていたため、
精強なドイツ軍にフルボッコにされてしまいました。

この時のことを、チャーチルはのちに自伝で、

「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、
優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかった」


と回顧しています。



メトカーフが連れ込まれたのは、ドイツの民間船でした。
映画ではいっさい説明されませんが、彼は
ブレーメン港に向かう船に載せられたようです。

別に縛られるわけでも虐待されるわけでもなく、本人も怖がる様子もなく、
ドイツ人船長とチクチク嫌味を言い合う様子は、色々と謎です。

大体、拉致までして一介のイギリス人記者を船に乗せる理由って?


そしていきなり場面は6週間後、どこかのイギリスの海峡に変わりました。
このとき、とんでもない部分がカットされていたことがわかりました。



6週間前、ドイツの船に乗っていたはずのメトカーフが、
このシーンではなんの説明もなくイギリス軍艦に乗っているのです。

そこで改めて映画のストーリーを検索したところ、実はこの6週間の間に、

「英国の軍艦がメトカーフを乗せた船を妨害し、彼を解放するが、
英国に連れ帰る前に、フランス北西部からの英国の撤退作戦、
エアリアル作戦を支援するため、彼を降さずにシェルブールに行く」

という出来事があった(けどカットされている)ことを知りました。
こんな大事な部分のフィルムをカットしてんじゃねー(怒)


まあそれはよろしい。よろしくないけど。
シェルブールではドイツ軍の総攻撃が始まっていました。


そこでメトカーフは、空襲で負傷し、瀕死で路上に寝かされている
新聞社の同僚、フランクを発見します。

「とくダネだ。フランス軍に奇妙な命令が出ていて、橋を爆破しなかった」

と妙なことを言って彼はそのまま息絶えました。
ちなみに、この「伏線」は映画の中では永遠に回収されません。

そこで一生懸命考えたところ、おそらくノルウェーの戦いで、
ドイツ軍がフランス侵攻した際、

「フランス軍に奇妙な命令が出ていて、
なぜか橋を二つも爆破せず残していた」


という意味かと思われます。

・・思われますが、それが本当だったのか、そんなことがあったのか、
そこから先は調査が追いつきませんでした。<(_ _)>


続く。