ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

令和四年最後の京都旅〜無鄰菴と龍安寺

2022-12-31 | 日本のこと

いつの間にか令和四年最後の日になりました。

前回から我が家の年末旅行についてゆるーく語っています。
いつもはお正月に旅行をすることの多い我が家ですが、
今年はMKの学校の始まりの関係で年末に出かけることになりました。

泊まりたいホテルはお正月はもう予約いっぱいで、
さらにどこもお正月特別料金で高いという理由もありましたが。



旧任天堂本社ビル跡の丸福楼ホテルをチェックアウトし、
次のホテルにチェックインするまでの時間、
山縣有朋の京都での住居跡、「無鄰菴」(むりんあん)に行ってみました。

山縣有朋は長州出身の明治政府の立役者で二度内閣総理大臣を務め、
日本陸軍の中心人物として軍備の充実にも携わった政治家でしたが、
趣味人でもあり、築庭においてはここ無鄰菴だけでなく、
今ホテルとなっている東京目白の椿山荘他の庭にも関わったそうです。



まずは山縣有朋閣下が京都滞在の時に生活していた家屋部分から入ります。
靴を脱いで上がると、その後ずっとその靴を入れたビニール袋を持ち歩き、
帰りも捨てる場所がないので持ち帰らなければなりません。

1986年に完成したという家屋は、120年近くの時を経て木が歪み、
完璧にパースがあちこち狂っていました。



四角い坪庭を四方から眺めることのできる回廊式の作りです。



10分間の解説とお茶菓子というコースを申し込みましたが、
始まるまで時間があったので先に庭を見学しました。



かつては生い茂っていた木が朽ちて、残るは石の柵のみ。
このような時の流れを感じさせずにいられない遺構にこそ心惹かれます。

この庭を手がけた庭師(7代目小川治兵衛)は作庭家として有名で、
解説によるとその当時まだ30代だったということです。

若いですが、昔は修行を始める時期も早かったため、
小川治兵衛が襲名したのはまだ19歳のときといいますから、
30代は庭師としてはむしろ脂の乗り切った時期だったかもしれません。



庭の一角にある煉瓦造りの洋館に要人との会見が行われる部屋がありました。

日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日、ここで行われた
「無鄰菴会議」では、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、
総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎
の四人が
その後の日本の方針について会議を行なっています。

洋館が完成したのは、このわずか5年前だったということです。

そんな重要会議を行なったにしてはあまりに小さな椅子とテーブルですが、
まあ本当にこの家具が使われたかどうかについてはわかりません。

当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、桂は、

「朝鮮における日本の権利をロシアに認めさせる、
これを貫くためには対露戦争も辞さない」

という方針に対する同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのです。
この時に決定し御前会議に出された方針は以下の通り。
  1. 露国が満州還付条約を履行せず、満州より撤兵しない時には抗議する

  2. 満州問題を機として、露国と交渉を開始し、朝鮮問題を解決する

  3. 朝鮮問題に対しては、我が優越権を主張し、一歩もロシアに譲歩しない

  4. 満州問題に対しては、露国に優越権を認め、朝鮮問題を譲歩させる

国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まっていましたが、
元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争を回避しようとしていました。



こちらは山縣有朋愛用の書見台付き椅子。


こちらの長椅子、家具も本物。
カーテンは長さが合ってないし多分後からつけたものではないかと。



石炭式のストーブも本物です。

京都の底冷えする気候にあって、石造りの洋館の床は
靴を脱いで歩いていると、まるで氷を踏み締めているようでした。

「ストーブを焚いたくらいじゃ意味なかったかもね」

というと、

「さすがに靴履いてたんじゃない」

とMK。
そりゃそうだ。
このときの無鄰菴会議のメンバーにしても、


当時総理の桂太郎はドイツ留学経験者


小村寿太郎はハーバード大学に留学


ご存じ長州ファイブの一人だった伊藤博文はイギリス留学(後列右)

山縣有朋も西郷従道と一緒に海外留学をしていますから、
洋館では普通に洋風の慣習に倣い靴を履いていたことでしょう。



お庭を見ながらガイドの説明を聞き終わったあとは、
カフェで抹茶とロシアケーキをいただくという趣向です。

このロシアケーキですが、ケーキと言いながらどう見てもクッキーです。
Wikipediaによると二度焼きしたクッキーにジャムなどを塗ったりしたもの、
ということで、ロシア人の洋菓子職人が伝えたという以外ロシア要素なし。

ロシア人もロシアケーキの存在は知らないだろうということです。
イタリア人がナポリタンを知らないみたいなもんですかね。



この日の宿泊は岡崎にできたホテルオークラです。

卯年を迎えて盛り上がる岡崎神社(狛犬ならぬ狛ウサギがいる)の横にあり、
丸福楼と祇園白梅の「つなぎ」として二日目に予約したのですが、
予約後になんとこのホテル駐車場がないことを知りました。

「車で来た人はどうするの」

「近くのコインパーキングに停めてくださいだって」

「それは・・・珍しいホテルだね」

写真はホテルのエントランス、車寄せというところですが、
普通のホテルにある地下への通路などは無論ありません。

ホテルマンは車から荷物を下ろすのを手伝いますが、
客がその後自分で車を外に停めにいくのを黙って見送るのみ。

しかも、岡崎神社前のコインパーキングは年末年始特別料金で
40分六百円という謎の料金設定となっており、
ホテルはパーキングとの提携は一切していないようでした。

つまり、土地が貸借地で、地下を掘ることができず、
しかも景観規制で3階以上の高さにすることもできないので、
何を削る?そうだパーキングだ、ということになったようです。
知らんけど。

いやそもそも何だってそんな条件の土地にオークラなんぞ作ったかな。
と最初から最後まで不思議で仕方ありませんでしたが、
今にして思えば、車を持たない外国人観光客をターゲットにしたのでしょう。

その後コロナのせいで全てのアテが外れ、現在に至ると。


エキストラベッドを入れると、もうほとんど足の踏み場なし。

窓の外はバスが通る道に面した低層だし、
照明は洗面室もどの鏡の前も真上から強烈な光がまっすぐに落ち、
顔に濃い影を作って誰でももれなく凶相に見えるという仕組み。

少なくともこの部屋の設計者は、間接照明で人の顔を綺麗に見せる、
などという気遣いの感性を全く持たなかったに違いありません。



窓の外の眺めはほとんど東本願寺岡崎別院の借景です。

このホテルのオークラブランドとしての売りは何、
と思わず問い質したくなっていたわたしですが、
アメニティはバムフォードだし、スイートルームなら庭に向いていて、
シモンズベッドで快適だしと、サービスそのものは悪くはありません。



朝食はさすがのオークラという豪華さ(入れ物が)でした。
これはアメリカンブレックファストで、
和朝食みたいなお膳風の木の重箱に並んだものが出てきます。

わたしはポーチドエッグを頼んだのですが、間違えて茹で卵が出てきました。
面倒なので黙って出てきたものを頂きましたが。



この頃、京都はどこも人がいっぱいで、夕食の予約に苦労しましたが、
なんとかおなじみの鶏料理八起庵のカウンターを取ることができました。



鶏料理の梅コースには、鶏南蛮の小鉢が付いてきます。
コースの最後には小さなご飯の卵かけご飯が食べられるのですが、
わたしはパスし、TOとMKは頂いていました。

店主の名物親父さんは、TOが京都に行くたびに寄るので、
MKが留学していることも知っていて、奥から出てきたとき、
アメリカで日本食を食べたりするのかと聞いて来られました。

MKが、美味しいのは高いしたいてい美味しくない、というと、

「昔アメリカに店を出すのに憧れて、伊藤忠が話を持ってきた時
その気になったんんですが、結局出しませんでした」

と言っておられました。
向こうで鶏肉を扱うのが難しかったというのもやめた理由の一つだったとか。

確かに、京都で丹波鶏を使って作るからこそこの味になるのであって、
向こうで同じ味を再現しようと思ってもまず鶏が違うし、
輸入したら採算の点でいろいろと障害がありすぎたかもしれません。



MKが、「日本の作務衣風のジャケットが欲しい」と言い出したので、
京都ならそういうのもあるかも、とネットで調べてお店を回りましたが、
彼がアメリカで見つけたようなフュージョンっぽいものではなく、
お寺さんの御用達の作務衣を売っているところばかりでした。

何軒か見て諦めたところで近くに龍安寺テンプルがあったので、
一度も見たことがないというTOとMKのために行くことになりました。



いつ来ても、その割にあまりに小さいので軽く驚きます。
幅25メートル、奥行き10メートルですから実際にも小さいのですが、
そこに配置された15個の石による枯山水は、その広がりが
世界の思想家に小宇宙を感じさせるとまで言わしめました。

この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えません。
これはある石に別の石が重なるよう設計されているからです。


腰掛けて庭を眺めることができるように、
縁側には一段低く足を置く場所が設けられています。

この日もいろんな国の人々が思い思いに時間を過ごしていました。


前に来た時には世の中に存在していなかった携帯でパノラマ写真を撮る。
確かにこれで確かめても、一番西側の島にあるはずの3個のうち
1個の石がどうしても見えません。

ちなみに、左から石の配列は、5、2、3、2、3だそうです。



石庭を臨む座敷に展示されていた古文書は、
それぞれが龍安寺について言及されたものとなっています。



知足の蹲踞(つくばい)と呼ばれるものです。

-蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のことで、これは
水戸藩主徳川光圀の寄進によるもの(の精密なレプリカ)です。

蹲踞の上部に「五・隹・疋・矢」という文字が四方に書かれ、
これに四角くくり抜かれた水溜めを「」編と見立てると、それぞれの字が

「吾」「唯」「足」「知」

となります。
この4文字をつなげて、

「吾れ唯だ足るを知る」

と読むのだそうです。



順路に従って池に沿って庭を左回りに回っていくと、
納骨堂と「パゴダ」が現れます。

「ビルマ派遣軍自動車廠戦没者英霊の碑」

と案内がある石段を上がっていくと、パゴダは現れます。
パゴダはビルマ風の名前であり、実際にもビルマ風です。

「先の第二次世界大戦にてビルマ派遣軍自動車廠参戦した
龍安寺第58代松倉紹英住職等の発願により
尊い生命を捧げた亡き戦友達の慰霊の為に
無事復員した戦友一同の募金により
このパゴダが昭和45年8月に建立された」


とパゴダには記されています。

どこを見てもこれ以上の説明はどこにもありませんので、
書かれている通り、龍安寺の住職が出征し、無事に帰国してから
龍安寺の境内に戦友の霊を慰めたい、という思いから
ここに納骨堂を建立する運びになったものでしょう。




こんな立派な納骨堂もありましたが、
関係者以外は立ち入り禁止とされていました。




それではみなさま良いお年を。



韓国海軍が補給艦「昭陽」を参加させたわけ〜2022年度国際観艦式

2022-12-05 | 日本のこと

前回の「ファーンコーム」をもちまして、
国際観艦式参加艦艇の全てを紹介し終わったわけですが・・・

・・・おっと、実はまだすんでませんでした。

これまでのように、好奇心を持ってその歴史について
真摯に調べる気に一向にならない(これはもう仕方なし)あの国の船が。



■ 昭陽(ソヤン)

ROKS「昭陽」(AOE-51 ソヤン Soyang)

なのですが、この韓国海軍の艦艇の参加については、
全くもって事前からとほほなニュースばかりが囂しく、
ハッキリ言って真面目に語る気にもならない心情なのです。

ウィキにも全くと言っていいほど資料がなく、

●昭陽江にちなんで名付けられた。

●2018年防衛事業庁は現代重工業が大韓民国海軍に宗陽を引き渡したと発表

●2020年11月17日、新型コロナウィルス感染症に伴う支援のため、
マニラ沖においてマスク、消毒剤等の支援物資を3隻のボートを介して
フィリピン海軍艦艇BRP Conrado Yap(PS-39)に引き渡した。

●2022年10月27日、2022年11月6日に日本で開催される
「海上自衛隊創設70周年記念国際観艦式」へ参加する事が発表された。


としか紹介されていません。
補給艦なのでこんなものかと思ったのですが、
「アウテアロア」なんかはもっと色々詳しく紹介していたよなあと。

よっぽど特筆する点がないのか?

ちなみに、接頭のROKSとは

Republic OKorea Ship

を意味します。
なぜ"of"の「O」をに入れたのか。
これが気になるのはわたしだけ?
RKNではあかんかったのか?



Kさんが艦艇巡りや田浦などで目撃した艦影を
送ってくださっているのですが、キャプションに曰く、

「南朝鮮の🇰🇷不審船も御出掛けの様子です」

ふしんせんって・・・。
誰がうまいこといえと。

しかし、不審船かどうかはともかく、この輸送艦、
正直言ってかな〜り変わった作りだとは思います。

なんか見た目のマンション感がすごい。


前から見たところですが・・・トップヘビーっていうんですか?
実にバランスが悪いというか、素人目にも不細工な設計だと思います。

純粋に疑問なんですが、仮にも日本に対して敵愾心を燃やす国なら、
こういう時少し見栄えのいい船を送って「どや」ってやるもんじゃないのか?

この件についてちょっと調べてみたところ、どうやら韓国は、
本来なら憎たらしい日本の観艦式などに海軍を参加させたくはないが、
北朝鮮関係で、昨今安全保障情勢がいよいよ厳しくなり、
(アメリカに怒られるし)形だけでも参加せざるを得なくなったようなのです。

そこで苦肉の策として、戦闘艦でなく支援艦を派遣し、せめて、

「旭日旗である海自の自衛艦旗に
韓国の戦闘艦乗組員が敬礼することだけは回避」

することで、なんとか国内にアリバイを作ったということらしいですね。
なぜ戦闘艦の乗員が敬礼するのがダメで、
支援艦ならいいのか、その辺も全く意味が分かりませんが、
彼方の国の中では、誰が言い出したか名案ということになったんでしょう。


そういえば、2018年に南部・済州島で行われた韓国主催の国際観艦式に
海上自衛隊をを招待した際、自衛艦旗を揚げて入港すること、
観艦式での自衛艦旗の使用を禁止し、代わりに国旗の掲揚を要請したため、
海自側がそんななら行かねえわ、と参加を拒否した事件がありました。

これには、ごく最近始まった、韓国内における、

「旭日旗を旧日本軍の象徴と決めつけ糾弾・排斥する民族運動」

が根底にありました。

とにかく旭日旗を目の敵にして、放射線状のものを見つけると、
相手が誰であろうと、どんな意図のものであろうと、
いつできたものであろうと、(アメリカの古い大学に文句をつけたことも)
どこにあったものであろうと、とにかく騒いで相手にそれを撤去、消去させる、
というビジネスをしている一韓国教授がこの運動の文字通り旗振り役でした。

反日ビジネス活動家ソ・ギョンドク
(wikiがえらいことになってる)

今回も、案の定その人物は、観艦式参加予定国海軍に対し、

「旭日旗は『戦犯旗』(意味不明)であるから参加を取りやめるように」

とメールを送って見事に全員から無視されております。

アメリカをはじめ、日本と戦争をしていた国、
日本が軍事占領していた国も今回の観艦式には参加していますが、
そんなことで騒ぐ国は世界ひろしといえども韓国だけなのです。

そもそも、肝心のなぜ韓国軍が観艦式参加を取り止めなかったのに、
なぜ他の海軍が参加をやめると思ったのか。


いずれにしても、こういうノイジーマイノリティが大騒ぎした結果、
観艦式の参加も、自衛艦旗に対するプロトコルとしての敬礼も問題化し、
海軍同士の交流も、昔は普通にやっていたのに、今では
ことあるごとに上へ下へと右往左往する慌てぶり。
すっかり常識のある世界の失笑を買うようになってしまいました。

最初に旭日旗を問題化したサッカー選手と、反日ビジネスおじさんの罪は重い。



それでも韓国海軍は観艦式に参加しました。
アリバイ作りのため、韓国議員の中から、苦し紛れに、

「自衛隊旗は旭日旗ではない」

という意味不明な(そして非常識な)言い訳のつもりの言葉まで捻り出し、
選挙があるからという理由で出席の返事を送らせるなどやりたい放題の挙句、
「昭陽」は結局観艦式に出席し、岸田総理大臣の観閲する
「いずも」にプロトコルに則って無事登舷礼を行いました。

終わったら終わったで、韓国の野党はこれに改めて文句をつけ、与党は、

「自衛艦旗は(旭日旗と異なり)国際的に認められている」

「旭日旗に対して(敬礼を)したわけではない」


などと苦しい言い訳をし、何とか野党の政治問題化を収めようと試みました。

ところが、観艦式が終わってすぐ、まだ韓国議会が揉めている
このタイミングで、我が海上自衛隊の酒井良海幕長が、
例のレーダー照射問題に対し、バッサリと、

「ボールは韓国側にあると認識している。
今後韓国側から整理された回答があると認識している」

(意:問題をいつまでも有耶無耶にしてねえでさっさと謝れゴラア)

という発言を行い、さらには、

韓国による自衛艦旗(旭日旗)の不当な排斥

日韓の防衛当局間の問題として挙げた上で、

「二つの問題が明確にされない限りは、
(日韓間の)防衛交流を推進する状況ではない」
(意:今回は観艦式だからマルチの枠組みで呼んでやっただけ。
そっちが謝るまで一対一の付き合いは絶対にしねーからそのつもりで)

とあっさり切り捨てました。

韓国側にすれば、散々苦労して旭日旗に敬礼までしてやったのに、
全くその「譲歩」に対し、日本側は報いることをしない、と言ったところです。

現に全てのメディアが同じ論調で、MBCなどは、このことを

「後頭部を殴られた」
(韓国人特有の表現、不意をつかれ打撃を受けた的な)

とまで表現しています。


日本の国旗を揚げながら半旗を上げる「昭陽」

あれこれ文句をつけ、選挙中だからと出席の返事をいつまでもよこさず、
戦闘艦に敬礼させたくないという自意識過剰な理由で補給艦をよこし、
係留中は半旗(多分圧死事故の件)を揚げて一般公開には全く応じず・・。

おそらく自衛隊や他海軍と全く交流もしないまま帰っていったのでしょう。
(国内にバレないよう海軍同士こっそり親睦会をした可能性は微レ存)

そんな経緯だったはずなのに、どうやら韓国側は、観艦式で

「自衛隊旗ではなくいずもに敬礼した」

だけで、何かものすごい貸しでも作ったような気になっていたようです。

海幕長の「ボール」発言は、まさにその後頭部をぶん殴る結果になりました。

ちなみに、レーダー照射問題については、

韓国海軍艦艇による火器管制レーダー照射事案

として、我が国と防衛省の立場を日本語、英語、そして
韓国語で世界に訴えています。

このページには、事件発生時のP-1からの撮影動画、
そして英語、韓国語による同じ動画、さらには
火器管制用レーダー探知音と創作用レーダー探知音のデータなどが閲覧でき、
日本の立場を明確にするための発信を行っています。

日本側からはこの問題を決して有耶無耶にしないという
強い姿勢が伝わってきます。

今後の日韓関係はどうなっていくのか。
最近、解決の糸口がより見えなくなりつつあると感じているのは
決して一部の人だけではないと思います。


続く。




アメリカで見た半旗

2022-07-13 | 日本のこと

しばらくブログを制作するどころかPCも開けられない状態だったのは、
アメリカに来ているからです。

しかも、いつもと違って、今回はシカゴに到着後、
車でまるまる5日かけて5つの州を跨ぎ、そこを走破し、
片っ端からネイバルミュージアムを訪れるという
とんでもない計画をたててしまいました。

その道中についてはこれからお伝えしていくつもりですが、
ミシガン州のグランドラピッズにいるとき、安倍元首相の訃報を聞きました。



陸自の観閲式の姿がわたしにとって
実際に見た安倍首相となってしまいました。

その後、シカゴのあるイリノイからインディアナ、ミシガン、
オハイオ、ペンシルバニア、ニューヨークと州を跨いで走っている間、
そう、訃報を聞いて翌日だったと思いますが、
訪れたパーキングエリアの国旗が反旗になっていました。



ここは確かニューヨーク州だったと思います。
POW .MIAの旗と共に反旗に掲げられたアメリカ国旗。

JFKを暗殺したとされるオズワルドが元海兵隊員だったことと、
今回の犯人が元自衛官だったことに言及するメディアもありました。

たまに旗を見上げながら何か話し合っている一団もいて、
アメリカ人にとってもこの事件は
衝撃のニュースとして受け止められているようです。








河野克俊元統幕長の「ありがたい」発言の真意 @ 虎ノ門ニュース

2019-05-18 | 日本のこと

 

昨年の憲法記念日に安倍首相が加憲案を打ち出してからしばらくして、
当時の統合幕僚長だった河野克俊海将が、外国特派員クラブでの質問に答える形で

「自衛隊の存在を明記してくれれば我々にとってはありがたい」

と発言したことはまだ記憶に新しいところです。
河野統幕長の発言は一部メディアと野党がそれを非難し、ある議員などは

「統幕長を辞任するべきだ」

などと騒いだものの、それは大した問題にもならず収束しました。

その後河野統幕長は史上もっとも長い4年間の任期を無事に終えられ、
平成31年3月末で勇退し民間人となられました。

 

先日、その河野氏が、ネット番組、「真相深入り 虎ノ門ニュース」の
レギュラーコメンテーター、ジャーナリストの有本香氏の招きで、
当番組に出演されたのをご覧になった方は多いのではないでしょうか。

わたしもこの回を大変楽しみにしており、車で移動中の時間を利用して、
リアルタイムで片言隻句聞き漏らすまいと視聴していたのですが、番組の後半、
この時の「ありがたい」発言についての真意をお話しになっていたので、
当ブログでは、その部分だけを書き出してみることにしました。

なお、独自の判断で、口語だと意味のわかりにくい部分、重複している部分など、
省略したり、読みやすく編集していることをお断りしておきます。

 

● 顔の見える自衛隊になったきっかけ

有本 河野さんのキーワード『顔の見える自衛隊』これはどういう意味でしょうか。

河野 つまり「国民に顔の見える自衛隊」です。

防衛庁自衛隊ができたのが昭和29年、わたしも昭和29年生まれなので、
ともに今年で65年目を迎えます。

憲法9条の問題、つまり自衛隊は違憲であるという問題はは自衛隊創設以来あって、
それで自衛隊に対する国民の目が大変厳しい時代がずっと続きました。

わたしが防大に入ったのは昭和48年ですけれども、この頃PKOの任務を担って
自衛隊が(海外派遣に)いくなど想像もしておりませんでした。

「存在する自衛隊」ではあったんですけど「動ける自衛隊」ではなかったんです。

平成2年に湾岸危機が起こり、サダム・フセインがイランに侵攻しました。
それに対して時のアメリカ大統領、パパブッシュが、
「これを見過ごしたら今後世界は混乱する」
と多国籍軍を編成して、皆で協力しておし返そうじゃないかという話になりました。

その時、「日本は何をしてくれるんですか」という話になったんですよ。

それまでの日本はお金を出すが人は出さないというやり方だったんですが、
やっぱりそうではなく人的貢献、つまり汗をかいてくれという話になったんです。

どうするかについて日本中が大議論になりました。
民間人に行ってもらえば憲法上問題はないんですが、
そんな状況ではない、自衛隊でないとそんな任務は担えないのです。

それで自衛隊を出す出さないという話になったのですが、
その時わたしも末端班員として関わってたものですから、(海上幕僚監部防衛班)
「家政婦は見た!」じゃないですけど、上層部の動きをずっと見とったんです(笑)

その時よく自衛隊海外派遣に対する反対論として出てきたのが、

「いつかきた道」、それから「蟻の一穴」
(自衛官を一人海外に行かせるとそこから派兵につながる)

「軍靴の足音が聞こえる」

自衛官は決して特別な人間じゃありません。
わたしだって別に純粋培養されて自衛官になったんじゃありません。
よく考えてください。学校ではみなさんの横に座っていたんですよ。
自衛官って普通の日本人なんです、などと説明しなければならないような状況だった。

つまり自衛官海外派遣の反対論を突き詰めると
「自衛官不信論」に行き着くのではないかと痛感したんです。

しかし自衛官のどこが不信なのかと聞いてもわからない、漠然たる不信感。
それがどこからきているかというと、

「戦前の軍隊って悪かったじゃないですか、
自衛隊だって軍隊なんだから何やるかわからないじゃないですか」

そこにさっきの三つのキャッチフレーズ(いつかきた道、蟻の一穴、軍靴の足音)
をかぶせると、不信が倍加されていく。

その時絶望感に苛まれまして。いくら言っても信じてもらえないな、と。

自衛隊がそんな組織でない、ということは行動で示さなければダメなんですが、
そもそもその行動の機会も与えてもらえない。

創設以来自衛隊は訓練もやり、アメリカとの関係もしっかりやってきたんですが、
不幸にして国民からは顔が見えなかったんです。

顔が見えないと不気味ですよね。

ところが急転直下、湾岸戦争が終わった平成3年に掃海部隊の派遣が行われました。
自衛隊が任務を帯びて海外に派遣された先駆けでした。
これで機雷掃海を見事に成し遂げ、大変な評価を受けて帰ってきたんです。

それでも相当な反対運動がありましたが、向こうでの活動などについて
テレビ放映でも取り上げるようになり、その頃から国民にようやく

「自衛隊の顔が見え出した」

のではないかと思います。

有本 報道の仕方がたとえ逆風ではあっても、とりあえず
自衛官の生の姿がテレビに映るというのが大きかったんですね。
我々と同じ普通の日本国民が、普通の青年が頑張ってる姿が見えたと。

河野 その後、相当の反対論もあるなかPKO法案が通りましたが、
これも掃海部隊の活動がなければ通らなかったと思います。

これで国際緊急救助隊という海外への災害派遣に自衛隊が参加できるようになりました。
今では、国際緊急支援には自衛隊が真っ先に出て行きますが、
このような人助けさえダメだった時代があったんです。

阪神淡路大震災では、都道府県知事の要請がなければ動けず、出遅れたので、
その反省から自衛隊が必要と判断すれば独自に動けるようになりました。

それがオウム真理教のサリン事件、インド洋オペレーションにつながり、
それが陸上自衛隊のイラク派遣につながって行きました。

そして東日本大震災が起きました。
自衛隊の活動が高く評価され、自衛隊への信頼が上がったと言われます。

ペルシャ湾からの一歩一歩の積み重ねが東日本大震災に至り、
日本人の9割の方が自衛隊を信頼しているという結果につながったと思います。

「顔の見える自衛隊」の時代になったので、それに応じて信頼感がたかまってきた。
この姿勢を貫いて行くべきだと思います。

有本「切ないのは、公的機関の中で信頼度がナンバーワンで、信頼度が高い。
これは自衛隊の人たちが自分たちで勝ち得てきた信頼以外の何物でもないと。
本来であれば政治が大変な仕事をしてくれている自衛隊に対する信頼を
持てるようにしなくてはいけないのに、その役割を果たしてこれなかった、
と安倍総理もおっしゃっています。

自衛隊の人たちの自発的な努力に余りに多くを負い過ぎているのは、
国民の一人としては申し訳ないというか間違っていないかと思うのです。

河野 隔世の感があるのが、最近は

「こういう法案で自衛隊を出すな!自衛官がかわいそうじゃないか」

という反対論が出ていることです。昔は

「自衛隊なんて何をするかわからないから制約をかけろ」

だったのに(笑)

それから

「自衛隊を海外に出したら軍国主義につながる」

だったのが、実際に出してみたらそうじゃなかった。
海外に出て任務が終わったら皆家族の元に帰っていく。
我々自衛隊はそういうことを身を以て示したつもりでした。

ところが安保法制の時にまた同じような議論になりました。

有本 統合幕僚長に就任されて2年目、中谷防衛大臣の時ですね。

河野 すると、同じようなキャッチフレーズがまた聞こえ始めた。
「明日から徴兵制」とか。

有本 安保法案の中身に不備があるとかではなく、いきなり「いつかきた道」以下略、
徴兵制という荒唐無稽なレッテルを貼っての反対論は国民として虚しかったですね。
こういうのは湾岸危機から始まったんですね。

河野 間違いなくそうです。わたしたちは身を以て体験しましたので。

 

有本 海外では軍人が軍服で歩いているのは普通の光景ですが、日本では
自衛官がユニフォームを着て外にでちゃいけないみたいな・・。

河野 いけないってことはないないですけどね。

有本 いけなくはないですか。
 日本では自衛隊に対する敬意が少ない気がします。
他の国では軍人は尊敬されますし、感謝の気持ちを向けますし。

例えば、ニューヨークで一年に何回かかどうかわかりませんが、海軍の船が着くと、
あんなリベラルなところなのにニューヨーカーたちが

「今日は海軍の若い人たちが街に繰り出してるよ」

と歓迎するんです。

「今夜は羽目外してどんどん遊んでもらわないと」

みたいな感じで。こんな雰囲気は日本にはないですね。

河野 いろんな見方があると思いますが、
わたしは、根本を質せば「憲法」だと思います。


● 連立方程式を解いた結果

有本「なるほど。
今までお立場上憲法について話すことはなかなかなかったと思いますが、
いろんな制約が憲法によってかけられているということですね。

河野 2017年に外国特派員クラブで講演を行いました。
憲法記念日に安倍総理が憲法明記論を出された直後だったんです。

有本 いわゆる9条三項加憲論というものですね。自衛隊を明記する、と。
これに対してあの時河野さんがおっしゃったことが非難されました。

河野 あの時はそんなタイミングなので聞かれるだろうと思っていました。
事前の打ち合わせでも『聞きたい』と言われていました。
それに対して「答えられません」でしたら何の問題もなかったのですが、
ただ、9条の問題というのは根本で、その当事者は誰かというと自衛隊なんですよ。

わたしはその時曲がりなりにも制服組のトップでしたから、
メディアからの質問を国民と我々をつなぐものとすれば、
国民が自衛隊に感想を求めていたということでもあったのです。

そこでわたしが答えないというのはそれこそ「顔の見える自衛隊」であると言えない。

今までならそういうことには踏み込まないのが「安全策」だったと思いますが、
わたしは一歩踏み出したのです。あれはだから「確信犯」です。

この問題についての当事者であるわたしは何らかの言葉を発する必要があると。
ただし、政治的な制約がかかっていますから、
わたしとしてはこの「連立方程式」を解いたわけです。

有本 ご存知ない方のために説明しておくと、憲法記念日に安倍首相が9条3項加憲論、
つまり自衛隊を明記するという案に言及したのに対し、河野さんが外国特派員協会で、
どう思われますかという質問に対し、

「ありがたいと思う」

と言葉を発したわけです。
一部メディアは「統幕長がありがたいとは何事か」と批判を行いました。

河野 わたしが自衛隊を憲法上明記して欲しいとか明記してくれとか、
してもらいたいとかはできないんです。

でもわたしが解いた連立方程式の回答は、

「憲法に自衛隊の根拠になるような条文が盛り込まれることになれば
それはありがたい」

国会が発議をし、国民が過半数で認めた状態になれば、わたしの気持ちとしては嬉しい。
自衛隊の厳しい時代を経験していますので、先輩などのことを考えると、
ありがたいというギリギリの言葉を述べたわけです。
わたしは今でもこれが政治的発言とは全く思っていません。

自衛隊が違憲というのは自衛隊ができた頃は有力な考え方だったんです。
保守と呼ばれる方だって自衛隊は憲法違反だというわけですよ。

社会党などは、

「自衛隊は違憲なので解散し、非武装中立で日本は軍隊を持たず
米ソどちら側にも属さず中立でいるべきである」

わたしはこれに賛成はしませんがこの論理はわかります。

しかし、

「自衛隊は違憲だが現状自衛隊は受け入れられているので、
国民が自衛隊をいらないというようになるまで
そのままの状態で仕事をしろ」

というのは到底納得できません。

有本 最高法規で認められていないどころかそれに反する存在なのに、
あろうことか一番大変なことをやらせようとしている。

河野 今自衛隊が憲法違反という方も、それが
国民に受け入れられているという事実は認めているんです。

ならば!ここははっきりと結論を出していただきたいと思うんです。

実力組織である自衛隊が憲法違反かもしれないという問題を抱えたまま
国家が進むのはもう限界だと思います。
違憲論も無理があるので決着をつけていただきたいんです。

 

あの発言が報道されたとき、統合幕僚長ともあろう方が「うっかり」
そんな失言をするとは思えなかったので、わたしはそこに必ず、
河野氏ご自身の強い意思があるはずだと確信していたのですが、
このときに氏がおっしゃった「連立方程式の答え」を聞いて、
まさにわたし自身の答え合わせも終了したように腑に落ちました。

 

● 自衛隊の悲願 

ところで、自衛隊がその行動規範をポジティブリスト、やっていいことだけを決められ、
つまりリストにないことには手を出せないという状態なのはご存知かと思います。

今回、unknownさんがこの件でご意見をくださったのでご紹介しますと、
自衛隊が武力行使を始め、全てに抑制的なのは、もちろん憲法9条の
「戦争放棄」に起因するものですが、それだけでなく、
このとき河野氏が番組でおっしゃった、

「自衛隊が共産革命等の内乱に備えるための警察予備隊から発展した」

ということも大きな要素ではないかというのです。

恥ずかしながら浅学ゆえ知らなかった部分なのですが、自衛隊法の第87条以降、
「自衛隊の権限」には、

「警察官職務執行法を準用する」

という箇所が「何度も何度も」出てくるのだそうです。

自衛隊法

 

少なくとも、今のポジティブリストを、ネガティブリスト方式
(やってはいけないことを決められている)に変えないことには、
自衛隊は「シームレスな危機」に対応できないのは確かです。

「警察職務執行法からの呪縛」から解放されるとき、
自衛隊は「使える軍隊」になることができるのではないか、
というのがunknownさんのご意見です。

 

加憲論については、テクニカルな点でも主に憲法学者からの反対が多く、
そちらについては前途多難が予想されます。

しかし、とにかく現実離れした9条を改憲するには、まず
憲法改正のための96条の改正を喫緊の課題として実現させていただきたい。

いずれにせよ、河野氏が統幕長として発した

「(自衛隊の存在を明記していただければ)ありがたい」

この言葉を

「同じ日本人である自衛官たちの総意であり悲願」

と受け止め、その意欲のある総理大臣が首長であるうちに、
自衛隊の存在が憲法で認められる日が一日も早く訪れてほしいと切に願います。

 

 

 


伊勢神宮参拝

2019-01-07 | 日本のこと

みなさま、初詣はどちらにお参りされたでしょうか。

年初めには、まずは地域の氏神にお参りし、感謝を述べて
しかるのち伊勢神宮などの有名な神社に行くのがいいとされていますね。

我が家はわたしとTOが靖国神社、息子はこれも恒例の
鎌倉の友人宅で大晦日を過ごすので鶴岡八幡宮といつも通りでしたが、
息子が帰ってきて言うには、

「あんまり人が多すぎて本殿に近づくことすらできなかった」

なんでも途中でこりゃダメだと諦めて、「ヤクザの店」(笑)を
冷やかして歩き、適当に何か買い食いして帰ってきたのだとか。

「じゃあまだ初詣できてないんだ。どうする?」

「どうするって・・・伊勢神宮行くんじゃなかったの」

あーそうでした。
今年三が日を避けて旅行かたがた伊勢神宮に参拝する予定だったんだ。

まずは新幹線で名古屋下車。
なぜここで降りたかというと、元々は愛知県在住の知人と
名古屋駅前のホテルで食事をする約束をしていたからでした。

3年前に新築された後もその名前を踏襲した「大名古屋ビルヂング」。

昔、名古屋には何もない、という世間の評価があり、いかに何もないかが
訪問した人によって面白おかしく語られていた頃(今もそうですか?)

「駅前に『大名古屋ビ・ル・ヂ・ン・グ』だってwww」

とバカにされていたこの名称を、堂々と新型ビルに使っているわけですが、
大名古屋ビルヂング、一周回ってむしろ無茶苦茶センスいいですよね。

実は約束の相手に退っ引きならない所用ができてしまったのですが、
レストランの予約そのものはキャンセルしなかったため、
結局家族三人で食事を食べるために名古屋で降りたというわけです。

名鉄グランドホテルの中華料理のコース、美味しゅうございました。

次の日は早朝から参拝と寝るだけなので、駅前ホテルを取りました。

駅前ホテルといってもそこは志摩ですから、フロントに生簀があって
(ホテルの人によると昔は噴水だったらしい)
そこには明日をも知れぬ命の伊勢海老が食卓に乗る順番を待っています。

テェックインの手続きの間眺めていると、フロントの人が、

「ここに超特大の伊勢海老がいます」

と物陰に隠れていたのを棒で引きずり出して見せてくれました。

「大きくなりすぎてもう絶対に食べられることはありません」

お客の中には、いくら出したら食べさせてくれるんだ、という人もいるそうですが、
この5分の1くらいの伊勢海老で4千円という値段だそうですから、
万が一ホテルが彼を身売りする気になったとしたら何万円という値段になるんだとか。

「こんな大きくなったら美味しくないでしょう」

「伊勢海老は大きくなっても大味になったりしないんです」

それじゃいつか、金に糸目をつけない客によって食べられてしまうのかしら。

翌朝7時。
地元で毎日伊勢参拝をしている「達人」が車で迎えにきました。
まず内宮からまわるため、周辺の駐車場に車を入れることになりましたが、
近くの駐車場はお正月の間は関係車両しか利用できないので、
五ヶ所ある駐車場がことごとく満車となっていました。

深夜から早朝にかけて参拝する人もいるので、車の動きはあります。
20分くらい待ったら中に入ることができました。

停まっている車のナンバーを見てびっくり。
三重ナンバーを筆頭に、近畿圏はもちろん、岡山や九州、
関東だと品川、横浜ナンバーもちらほら。

鶴岡八幡宮の参拝者も例年より多かったようですが、
やはり平成最後のお正月で御代がわりを控えていることが
人々が神社に足を向ける理由となっているのかもしれません。

駐車場から参道に向かう交差点には地下道が設置されていました。
地下道通路には伊勢参りを描いた絵巻や写真などが展示されています。

おかげ横丁の人手がこんなにガラガラなのを初めて見ました。
流石に早朝だけのことはあります。

おかげ横丁の物販店はもちろんですが、銀行や郵便局なども
参道の雰囲気を壊さない造りとなっています。

黒いポストには「書状集箱」、ATMは「現金自動預払」。

赤福の本店には、列を作って赤福を買おうとする人々が。

「でも赤福というかぎりは、京都のお◯べみたいに本家争いとかないですよね?
皆同じ工場で作ってるんですよね」

「何処で買っても同じです」

「でもここに並んで買うんだ・・・・」

ちなみに赤福は新幹線の名古屋駅のホームでも、その日に作られた
新しいものが買えるのですが、やはり本店で買うことで
ありがたみを感じるんでしょうな。

このおかげ横丁の整備は赤福の子会社「伊勢福」が出資し、
運営も全てこの会社が行なっているそうで、整備されたのは平成5年とか。

江戸時代にはお蔭参りが大流行して、庶民の憧れの街だった門前町も
高度成長時代にすっかり寂れてしまったため、赤福は子会社を設立、
江戸風の実在した建物を再現し、街ごと作り変えて現在に至ります。

日本棋院の支部もありました。
将棋では藤井聡太七段(16)の話題が日本中を席巻していますが、
囲碁界にも藤井七段に劣らない“天才少女”が誕生しましたね。

最近の日本には各界にスーパースターが矢継ぎ早に誕生しているといった感があります。

干物屋さんの秋刀魚の丸干しのディスプレイも、
昔のお店を再現したものなのでしょうか。

冷蔵ケースと水槽以外は皆木でできています。

猫さん体のお手入れ中。食事は済んだものと思われ。

この茂みの植え込みには猫が生息していたという覚えがあります。
餌をやるのを禁止するポスターですが、雰囲気からいって
先ほどのトラ猫も、何処かのお店の人が餌をやっているのでは・・・。

おかげ横丁を抜けるとそこは内宮の鳥居となります。
鳥居から五十鈴川を渡る欄干の橋は、真ん中に仕切りを置いて
右側通行となっています。

鳥居をくぐったら真ん中は神様の通り道だから歩くな、
という人もいるようですが、これじゃ歩こうにも物理的に無理。

わたしたちが早朝に来たのは、この日8時から行われる
お神楽を奏上申し上げることにしていたからです。

神楽を奏上する神楽殿はこの御饌殿(みけどの)の向こう。

御饌殿とは、神饌(神様に備える食物、つまり神様のご飯)を
用意するところで、お神楽の申し込みはこの左側の窓口で行います。

神楽は前にも説明したことがありますが、祈祷の後、
我々人間がスポンサーとなって神楽を催し、それをもって
神様に楽しんでいただくという意味を持ちます。

神楽に払うお金にはランクがありますが、大金を叩いてもお志だけでも、
特にお正月期間には同じお神楽を一緒に観ることになります。

何で区別をつけるかというと、まず祈祷の際に神職が名前を呼ぶ順番。
たくさん出した人から順番に名前がコールされます。
そして、特典として、皆が入れない塀の中の神殿近くで参拝することができます。

それだけですが、つまりそれで自分のスポンサーとしての神様への
貢献度が高いと、それだけ神様が喜んでくださるということなのです。

 

申し込みが済むと、神楽殿の右手の待合所から靴を脱いで入場。
中は大変広いですが、床暖房が施してありました。
(靖國神社も2年くらい前から床暖を入れるようになって随分楽になりました)

とはいえ畳に座るという観覧方法は変わらないので、正座の苦手なわたしは
周りの男性のようにあぐらをかく訳にもいかず、祈祷以外の時には
横座りして耐えました。

全員が揃うとお祓いを受け、神職が「スポンサー」の名前を読み上げます。
TOがいくら奉納したのかは聞きませんでしたが、名前が呼ばれたのは
最初から2番目だったので、おそらく奮発したのでしょう。

ひっつめで額を露わにし、髪を熨斗のような紙で巻いた巫女が六人、
笙や琴などの雅楽を奏する人たちが四人、
巫女たちはお供え物を受け渡し、正面に捧げるなどを、驚くほど
素早い動きで執り行い、それを見ているだけでちょっとしたアトラクションです。

巫女たちは中学生くらいに見えましたが、長い裾を踏まずに歩く
独特の足の運びといい、躊躇いのない舞のような動きといい、
相当修行を積んでいるとお見受けしました。

何より彼女らを見ていて、昔、人に頼まれて、ホテルの結婚式場で
巫女のアルバイトをしたのを思い出したのですが、改めて、
こんなインチキ巫女のお仕えで祝言をあげた方々には申し訳なかったと反省しました。

【伊勢神宮】神宮のご祈祷 御神楽 ISE-JINGU

この動画はわたしたちのお神楽と全く同じ内容となっています。
最後の蘭陵王という赤い着物で狐面の舞は、「唐舞」というのだそうです。

伊勢神宮に高々と伸びる木々は、それこそ長い長い時を経て、
どれも神木というくらい神々しく天に向かっています。

太い木の幹に参拝者が群がって触りまくっている光景を目にしましたが、
伊勢神宮の達人によると、

「なんの意味もないのでやらないほうが良いです」

とのことでした。

伊勢参りは広大な伊勢神宮に在わす神様の社を次々とめぐって
お参りをするという、言うなれば江戸時代の一大アミューズメントパーク。
お神楽を上げて一つ一つお参りをしていったら、午前中いっぱいかかります。

お神楽をあげるといただける袋の中には「黄色いチケット」が入っていて、
このチケットがあると、正宮である皇大神宮の塀の中に、
神職に連れられて入りそこで参拝することができます。

わたしたちは同時に来られた男女二人と合計四人で、
(息子はネクタイをしていなかったのでアウト)玉砂利を踏んで中に入り、
緊張しながら二礼二拍手一礼を行いました。

社殿の横にはこのような空き地と小さな小屋のようなものは、
現在の社殿に遷宮される前に社殿のあった場所で、遷宮して6ヶ月だけは
古殿地と呼ばれ、その後は「新御敷地」(しんみしきち)となります。

つまり、「次に社殿が立つ予定の御敷地」となるのです。

小屋のあるのは以前御正殿があった場所で、中には太さ30cmの
「御柱」と呼ばれる「御木」が埋まっているのだとか・・。

こちらが現在の「御正殿」で、「御敷地」には注連縄がされ、
もちろん立ち入ることはまかりなりません。

五十鈴川の近くにある瀧祭神(たきまつりのかみ)は、
伊勢神宮の達人曰く「大変強い」神様で、上空には
龍が舞っているということですが、そのお参りを終えると、
五十鈴川の御手洗場まで、この人通りの少ない道を歩いて行くことになります。

御手洗場にはどういうわけかお金がたくさん落ちていましたが、
達人に言わせるとこれもあまり意味がない、とのこと。
手を清めるところにお金を投げるというのもなんだかね、ってことです。

お金を投げ入れるともう一度帰ってこれるトレビの泉と一緒にしてないか?

わたしたちが出口に向かう頃、向こうからはものすごい数の参拝客が。

「これでも三が日よりはだいぶ少ない方です」

もう一度五十鈴川にかかる欄干の橋を通ると日の丸が見えます。

ところで、わたしたちが参拝した前日は政治家が参拝したそうです。

「午前と午後で自民と野党は別々に参拝するんです」

「野党・・・まさか共産党は来ませんよね」

「共産党は来たことないですねー」

野党が与党とは別に(公明党もこないらしい)伊勢参拝するのは
恒例の行事となっていて、ずっと行われていることなのですが、なぜか
パヨク連中が激怒し(笑)猛抗議するという騒ぎになっていました。

「ドン引きしました」

「もうパートナーズやめます」

「まさかどういう神社か知らないわけじゃないですよね」

「伊勢神宮なんかに行かず辺野古に行くべき」

「これ、靖国神社に参拝する会と同じ構図ですよ」

「まさか賽銭とか投げて日本会議の資金源に協力してないだろうな」

「右派支持者取り込み作戦なら、ここだけでなく
キリスト教会や寺院にもいかないと支持者のバランスが
取れないし、一宗教団体との密着関係を疑われる」

阿呆なのかこいつらは。(ペッ)

いやーしかし、近所の神社に参拝したことをツィートして
皆に突っ込まれた小池晃といい、民進党の皆さんといい、
変な主張の人たちに支持されないと政治家でいられない人たちって
ほんと大変そうで心から同情します(思いっきり棒)

おかげ横丁は先ほどと同じ場所とは思えないほどの人出でした。

朝見た猫さんは屋根の上に避難してお昼寝。

屋根瓦にお猿さんがいる店もあります。

百田尚樹氏の「日本国記」にも書かれていましたね。
自分が行けないご主人が飼い犬にお蔭参りをさせた話。

お伊勢参りをする犬を「おかげ犬」というのを初めて知りました。
ここではこんな可愛い「おかげ犬サブレ」を売っています。

お土産に買い、我が家用にも一つ買って食べてみましたが
土産菓子にしては出来過ぎというくらい美味しいお菓子でした。

注連縄つけた犬が可愛い!

箱の赤い鳥居のマークには、おかげ犬が
後ろ向きに、つまり鳥居をくぐる様子が描かれています。

おかげ犬・・・お伊勢参りする人々が、ちゃんと本殿まで連れて行って
お札を買ったりして世話してあげたってことなんですよね・・・。

ちなみに現在では犬は散歩はもちろん、中に入ることもできません。

この後は猿田彦神社に参拝。

「さるめ神社」は芸能の神様だそうです。
奉納されたのぼりには「南海キャンディーズ」からのものがありました。

外宮に向かう道で見つけたマンホールの蓋。

休憩中の巫女さんが携帯を熱心に見ているという、今ならではの図。

駐車場から出たところに、社殿を作るためのヒノキを浮かべている池があります。

伊勢神宮では、1300年のあいだ、20年に一度、社殿や神宝類、
ご装束類のすべてを一新する式年遷宮がおこなわれています。
この20年の繰り返しによって技術や匠の技が脈々と伝えつづけられています。

20年毎に遷宮しつづけるという仕組みは、日本でも他に例がなく、
この周期は、最初に遷宮を始めた天武天皇が定めたそうです。

遷宮に必要な木材の準備には4年をかけます。
伐採後2年間貯木池に沈める「水中乾燥」を行い余分な油を抜くのですが、
今その作業をここで行なっているというわけです。

ちなみに木材はその後1年間、野ざらしにし、自然条件に木を慣らして
そして1年間で製材をし、和紙をかけて遷宮の時を待つのです。

さて、わたしたちはこの後、知人の運転する車で
今回の旅行のもう一つの目的地である志摩に向かいました。

英虞湾を臨む温泉リゾート、アマネムに一泊するためです。

 

 

続く。



明けましておめでとうございます

2019-01-01 | 日本のこと

 

平成最後の元旦を迎え、皆様に新年のご挨拶をさせていだだきます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

P-1の画像を選択した理由は、皆様のご想像通り。

わたしも、あの動画を見て、クルーの冷静さに胸が締め付けられる思いでした。
彼の国は

「火器管制レーダーを投射されてあんなに冷静でいられるわけがない」
(だからP-1搭乗員の証言は嘘)

と言ったそうです。
レーダー照射を確認した後、ごく僅かですが声が緊張していたのが
彼らには平然と聞こえたのでしょうか。

ともあれ、あの動画が公開されたことによって、我が自衛隊の
練度の高さが図らずも世界中に発信されることになりました。

トップダウンで公開を決定した首相の決断をわたしは支持します。

 

エリス中尉


咸臨丸の子孫〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2018-12-29 | 日本のこと

先日、横須賀で防衛局主催の防衛セミナーでも結論づけられていたように、
横須賀は近代日本の技術の発祥の地であったことは誰もが知る事実です。

そしてその技術の基礎を打ち立てたのは、公式にアメリカを訪れ、
先端後術を驚くほど柔軟に吸収して持ち帰り、ついでに?アメリカ人たちに
その振る舞いと能力で驚きを与えた「最初の日本人」、遣米使節団でした。

サンフランシスコにあるメア・アイランド海軍工廠跡にある博物館は
遣米使節団の咸臨丸を受け入れ、その修理をしたという縁から、
展示の一部に「咸臨丸コーナー」を設けて、かつて日本人が何の目的で
ここにやってきて、どう振る舞い、どういう印象を与えたかを説明しています。

今日はこの展示から、ここメア・アイランド海軍工廠が
戦後遣米使節団との交流を行ってきたということをお話しします。

 

さて、万延元年の遣米使節団、というと世の中の人は咸臨丸、と連想します。
海上自衛隊の幹部学校長からいただいた記念メダルにも咸臨丸の姿が描かれており、

日本が外洋に出て行く姿の象徴のようになっているわけですが、
前回も少し触れたように、実は、咸臨丸というのは、あくまでも、
使節団を運んだ「ポウハタン号」の補助で付いていったというのが真実です。

世の中にはなぜかこれ(咸臨丸ばかりが持て囃されること?)を大変不満として、

「教科書から咸臨丸の名前を外せ!」

と訴えている人もいる、ということを以前ここでもお知らせしたことがありますが、
咸臨丸が兎にも角にも、初めてアメリカに渡った日本の船だったことに違いはありません。

たとえ咸臨丸の日本人船員が使い物にならなかったとしても、
日本側の「船長」だった勝海舟が船酔いでほとんどの航海中死んでいたとしても、
彼らが初めて日本から、日本の旗を揚げた咸臨丸で太平洋を横断したことは
動かしようのない歴史的事実なのです。

ゆえに、世の中の人々は、使節団の正使や首脳を乗せていた
「ポウハタン号」

を知らなくとも、咸臨丸の名前だけは知っているわけです。


当初は全く使い物にならなかった日本人船員も、アメリカ海軍軍人、
ブルック船長のご指導ご鞭撻で技術的な操船や、シーマンシップを学び、最終的には
自分達だけで全てを行うことができるようになったばかりでなく、勝海舟が創設した
海軍伝習所でそれを伝えましたし、その勝海舟もこの時の滞在で学ばなければ
その後日本で海軍を興すという大事業そのものが立ちいかなかったでしょう。

この白黒二色の三角旗は、咸臨丸に揚がっていたのと同じもの。
レプリカで、「咸臨丸子孫之会印」と印が押してあります。

ここ、メア・アイランドには咸臨丸乗員の子孫で組織された
「咸臨丸子孫の会」が訪問したことがあるのです。

この水茎も麗しい(英語にもいうのかな)筆記体で書かれたのは
当時のサンフランシスコ領事がメア・アイランド工廠に出した感謝状です。

今はこんな手書きの手紙を書くこともないのかと思われますが、
昔の領事や大使は、こういう教養も必要だったのですね。

この手紙には、咸臨丸が「ポウハタン号」のエスコートをして
最初の日本海軍の軍艦として太平洋を渡り、ここメア・アイランド海軍工廠で
修理を受けたこと(しかも工廠司令官の好意で料金は無料となった)
出航をする際に日本人を乗せた艦隊は礼砲を持って送られたこと、

日本人を迎えた最初の街として、両国の友好の扉を開けてくれたことを、
感謝している文言が連ねてあります。

この一番最後に、定型句とはいえ

「メア・アイランド海軍工廠のこれからのご発展を祈ります」

みたいなことが書いてありますが、ご存知のように
メア・アイランド海軍工廠はこのそう遠くない後、1996年に閉鎖されています。

この書簡に認められたサインから当時の日本領事である

「Yasasuke Katsuno」

という名前を検索したところ、サンフランシスコのゴールデンゲートパークにある
日本庭園に、このカツノという人が
領事をしていた1953年当時、
日本から寄付された多数の灯篭を
設置したという記事がかかって来ました。

咸臨丸がサンフランシスコを訪問してから93年目のことです。
きりの良い数字ではありませんが、この頃咸臨丸の渡航記念式典が行われたようです。

ちなみにこの日本の灯篭というのはは、まだ戦後の傷が癒えていない頃、
日本の子供たちに募った寄付を基金として贈られたということです。


この手紙を見てもわかるように、おそらくこのカツノさんという方は
終戦後日米の関係がやっと回復し、色々と難しかった時期の在米領事として、
ただ日米の友好を願い、
そのために仕事を全うされた仕事熱心な公僕だったのでしょう。



アメリカから日本に帰国してから、咸臨丸は日本海軍の戦艦として活動しました。
1868年には戊辰戦争に投入され、新政府軍と戦っています。

この時の咸臨丸は、戦闘時の暴風雨に苦しんだ末、新政府軍に捕らえられ、
乗組員の多くは戦死、あるいは捕らえられて捕虜になっています。
以下その経緯など。

8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として
江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。

8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。
救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。

9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航。
咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。
新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。
逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。
山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。

次郎長親分って、本当に義侠に溢れた博徒だったんですね。

咸臨丸はその後北海道に移住する予定の藩士たちを輸送中、
台風により1871年沈没しましたが、その後も次郎長親分は
清水の寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しているのです。

次郎長親分ってなんて良い奴!

咸臨丸が遭難したのは北海道の木古内町沖で、この時の沈没は
一説ではアメリカ人船長の操船ミスと言われています。

この地図は1990年1月16日に「新咸臨丸」がオランダのロッテルダムを出発し、
サンフランシスコを経由して横浜に到着するまでの航路です。

ところで新咸臨丸とはなんぞや。

調べてみたのですが、新咸臨丸という名前の学生のプロジェクトが
出てくるばかりで、この時実際に海を渡ったらしい咸臨丸が
何だったのか、ついに詳しいことはわかりませんでした。

これだけの大事業だったのに、何の資料もないというのも不思議です。
咸臨丸子孫の会が結成されたのも、この後のことだったようですし・・。


この時には領事主催で盛大な歓迎パーティがサンフランシスコで行われ、
咸臨丸乗員の子孫たちも出席したということです。

左の写真にちらっと見えている白い帽子は咸臨丸の野崎船長。
サンフランシスコでメディアに取り囲まれています。

右写真の左が野崎船長、真ん中の人は勝海舟のつもり(多分)

野崎船長の名前で検索してみると、経歴が出てきました。
ずっと「飛鳥」の船長を務めてこられた日本郵船の船乗りだったそうですが、
その記述に

90年1~4月にかけてレプリカ帆船「咸臨丸」
(小型帆船・オランダのロッテルダムにて建造)の横浜までの航海を指揮

とあります。

オランダ村がオランダの造船会社に発注したレプリカということですか。
しかし当時はバブルだったせいか、日本もすごいことをしますね。

今回も咸臨丸は航路途中でトラブルが起き、修理を要する事態になりました。
ただし今回はエンジンです。

というわけで、ホノルルに寄港し修理を行いました。

その後咸臨丸はアクシデントに見舞われつつも、
1990年4月25日、無事に横浜に到着しましたとさ。

 横浜市長から花束を受け取っているのが野崎船長だろうと思われます。


そしてそれからさらに13年後の2005年、

「咸臨丸の子孫」

がアメリカを訪れた、という記事がここにあります。

「145年前、日本で最初に近代的な戦艦に乗って、
太平洋を越えた咸臨丸乗員を祖先に持つ日本人の一団が、
彼らを率いて航海を行った海軍士官、ジョン・ブルックの孫である
ジョージ・ブルック氏に謝意を表明した。

三十四名からなるその団体のほとんどは咸臨丸の子孫である。

彼らは90歳になるジョージ・ブルックに、彼の祖父の指導がなければ
おそらく彼らの祖先は生きては太平洋を渡ることはなかっただろう、
と語った。

咸臨丸は1858年の遣米使節派遣において、正式にUSS「ポウハタン」の
随伴としてアメリカに送られたものである。

「ポウハタン」はマシュー・ペリー提督の指揮下にあったこともある。

ジョージ・ブルックは、彼らにアメリカ人船員によって「引っ張られる」
日本人船長の写真を見せた。」

「日本人船長」というのが、木村摂津守のことなのか、それとも
勝海舟のことかはわかりません。
ブルック家に伝わるこの写真も世間には出回っていないようです。

「一行は1860年の祖先たちと同じコースを回った。
彼らは大阪市が1860年の訪問から100年経ったことを
を記念して寄贈したモニュメントを見学した」

「彼らはサンフランシスコ市長に宛てた横須賀と大阪市長のメッセージを携えており
日米両都市の友好を推し進めたいと語った」

「咸臨丸」ばかりが有名になってほとんど知られていない「ポウハタン」号。 

「彼らはまた、サンフランシスコで客死した咸臨丸の三人の水兵の墓を訪ねた。
日本にある彼らの故郷である島から運ばれた小さな石で作られた暮石である」

石碑のお返しにサンフランシスコが日本側に送った石碑です。
目には目を。石碑には石碑を。

咸臨丸の子孫たちがメア・アイランドの博物館を訪ねた時の様子。
咸臨丸子孫の会のHPによると、この時の訪問はこう記されています。

咸臨丸サンフランシスコ入港150周年の一環として、コルマ墓地で
加州日系人慈恵会主催の記念式典が計画され、水夫子孫の出席要請があったため、そ
の時期にあわせて子孫の会のツアーを行った。
参加者16名。
29日、墓地にて慰霊祭と顕彰碑除幕式が行われ、富蔵の子孫ほか4名で除幕、
Kさんは法衣をまとって読経に加わった。
碑文の「日米親善永遠なり」は徳川家18代恒孝氏揮毫による。

またジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターの
第20回日米草の根交流サミットが開催中で、その集会にも参加した。
そのほかメアアイランド史跡公園、リンカンパークの咸臨丸入港碑、
ヒルズボローさんによる市内歴史ツアーなど充実の旅だった。

遣米使節団の一員として、その後の日本にあまりに大きな功績を残した小栗忠順。
通商交渉の時にアメリカ側は彼のタフネゴシエイターぶりに驚嘆した、
と前に書いたことがありますが、百田尚樹氏の「日本国記」にはこの時のことが

小栗もまたアメリカ人たちを驚愕させていた。
実は小栗は一両小判とドル金貨の交換比率を定める為替レート交渉という
任務を負っていたのだが、造幣局において、彼はアメリカ人技師たちの前で
小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせる。
彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、次に小栗の算盤による
計算の速さと正確さに舌を巻いた
(アメリカ人の筆算よりも小栗の算盤の方が何倍も速かった)。(日本国記)

と書かれています。

ちなみに「タフ・ネゴシエイター」というのは、ここメア・アイランドの
海軍工廠資料を編纂したキュレーターの文章に出てくる言葉です。

子孫のうちの一人が著した本がメア・アイランド博物館に贈呈したものです。

「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録 名主 佐藤藤七の世界一周」

ジョイス・ジャイルスというのは、当博物館の館長でしょうか。

このブルーのカーディガンがジャイルスさんだと思われます。

咸臨丸と勝海舟がカットされたグラスも、日本側からジャイルス氏に贈られたもの。

咸臨丸入港150周年を記念する銘板は、サンフランシスコの
エンバーカデロ、ピア39の歩道に刻まれているそうです。

 

次にサンフランシスコに行ったら咸臨丸の名残を探してみるのも良いかもしれません。




 

 

 


小栗のまなざし - 明治150年記念防衛セミナー/南関東防衛局主催

2018-12-22 | 日本のこと

 


知人から横須賀で防衛セミナーが行われることを教えていただきました。
PDFで送っていただいたポスターというのがこれ。

南関東防衛局が主催する防衛セミナーで、明治150年を記念し、
横須賀と海軍、横須賀と近代技術についての講演がメインですが、
人を集めるために東京音楽隊の演奏を後半に行うことにし、
ポスターには大々的に歌手の三宅由佳莉三等海曹の写真を載せてます。

うーん、三宅さんで客を引こうってか。あざとい。主催者あまりにあざとい。

まあもっとも、この二つの講演だけであったら、いかにこのテーマに
興味があるわたしでもわざわざ横須賀まで行く気になったかどうか。

わたしをこのセミナー参加に駆り立てた決めては

♪ 小栗のまなざし- 小栗上野介公に捧ぐ- ♪

という楽曲が演奏されるという情報だったのは確かですから。

この小栗とは咸臨丸シリーズでもお話した幕末の天才、小栗忠順のことです。


小栗は維新後、高崎市の水沼河原で新政府軍の手によって斬首されました。

共に処刑された部下と共にその遺体が葬られている東善寺は
「小栗上野介の寺」と自称しており、この「小栗のまなざし」という曲も
東善寺の委嘱によって作曲されたものなのだそうです。

ちなみに、公演中、小栗の功績についてひとしきり説明した演者が
会場に来ておられた小栗の子孫という方(女性)に声をかけました。

「(小栗上野介については)こんなところでよろしいですか」

「だいたいそんなところです」

「小栗のまなざし」は聴いていただければお分かりのように、
大河ドラマのテーマソングを思わせる壮大でドラマチックな内容です。
(ところでNHK大河ドラマが小栗忠順を取り上げる日は来るでしょうか)


というわけで、今日はこの日、客寄せが目的で後半に催された
東音ミニコンサートの曲目解説を挿入しながらお話ししていくつもりです。

 

さて、セミナーの行われた横須賀のベイサイド・ポケットに到着すると、
受付に向かう階段で、まさに偶然ばったり、本日の主催である
南関東防衛局事務官である旧知の方とお会いしました。

所属する防衛団体の米軍基地見学をアレンジしてくださって以来のご縁です。
この偉い人がわざわざ案内くださって、前の方に座ることになりました。


ところで今回セミナーの主催者である「南関東防衛局」について、
あまりご存知ないかもしれないので説明します。

これらのセミナーも演奏会も、南関東防衛局の任務の一つであり
広報活動の一環だったのです。

防衛局というのは防衛省の地方支部局で、防衛大臣直轄の組織です。
会社でいうと「支店」ですね。

南関東防衛局はここにも書いてあるように、
神奈川県、山梨県、静岡県が管轄区となっています。

組織のトップは防衛事務官たる南関東防衛局長がつとめており、
現職の堀地透氏はこの日のセミナーで最初に挨拶をされました。

横須賀地方総監部で行われた練習艦隊壮行会にも来ておられたので、
「かしま」艦上で名刺交換させて頂いたことがあります。

防衛局の重大な役割の一つが、地域住民と自衛隊、そして
在日米軍との架け橋となる防衛行政を実施することで、
具体的には米軍基地の一般公開を企画調整したり、あるいは
基地周辺の
防音工事の補助金を出すなどして、基地と地元の関係が
円滑に進み理解が得られるように図るのが防衛局の仕事です。

 あ、それで米軍基地見学の調整などということをして頂けたのか。
(今頃になって気づいたわたしである)


ところで2017年以降、厚木飛行場のアメリカ軍部隊は順次岩国基地に
移転しているのをご存知だったでしょうか。
これも閣議決定後、防衛局の調整によって具体的に動いている一例です。

また、防衛局は、自衛隊や在日米軍に必要不可欠な防衛施設の工事について、
その計画や発注、監督などを行うこと、つまり地域に存在する
民間の防衛産業と両軍との間に立つという役割も負っています。


ところでここまで書いてきてふと気になったのですが、
米軍と民間の調整役がその任務であるというなら、それを現在進行形で
沖縄で行なっている沖縄防衛局って、全国の防衛局の中でも
最前線というべき大変なことになっているのではないかと
改めてその視点から最近の記事を探してみると・・・・。

辺野古工事、重機に接着剤=器物損壊容疑で県警捜査-沖縄防衛局

防衛局、問題発覚までの7年間説明せず 高さ制限超える建物358件

沖縄防衛局係長が酒気帯び容疑 「車で寝て抜けたかと」

おお、やられてるやられてる。
まるで親の仇のように沖タイ、あさピーから集中砲火ですわ。

また、実際に左翼の襲撃なども受けているのですが、産經新聞が

辺野古反対派に押し倒され防衛省職員が大けが 被害届提出 嘉手納署が傷害事件で捜査

と報じるニュースを、琉球新報は

沖縄防衛局で座り込み 「聴聞」の対応巡り

当たり前のように「報道しない自由」を行使しております。
警察の操作どころか怪我のことには一言も触れておりません。


南関東防衛局はキャンプ・ハンセンの実弾射撃訓練場所を御殿場に移設するなど、
沖縄基地負担軽減のための協力も行なっていますが、これなども
沖縄二紙と朝日・毎日、共同新聞が報道することはまずないことに違いありません。

 

 

セミナーに先立ち、三宅由佳莉三等海曹の国歌独唱が行われました。

わたしにセミナーの情報をくださった元自衛官は、このとき
つい習慣で、三宅さんと一緒に大声で歌い出してしまったそうです><

「自衛隊だと大声(笑)で歌い出すものなのですが、一般の人はそうではないんですね」

そういえば、わたしも以前元自衛官の方と一緒に音楽まつりに行ったとき、
国歌斉唱の声が桁外れに大きいのでびっくりした経験があります。

 

ところで国歌といえば、この日のコンサートで「小栗の」の他に、
わたしにとって大変勉強になったもう一つの曲がありました。

Hail Columbia (higher quality)

♪ ヘイル・コロンビア、「コロンビア万歳」♪

アメリカ合衆国の初代国歌で、ペリーが浦賀に黒船とともに来日したとき、
軍楽隊が日本の地で行進しつつ演奏したのはこの曲だったといわれています。

因みに現在の国歌「スター・スパングルド・バナー」がフーバー大統領のもとで
正式に制定されたのは1931年とごく最近のことになります。

南関東防衛局長と横須賀市長の挨拶に続き、
本日のメインとなる講演会が行われました。
といっても二人が30分ずつの講演で、一般人には大変聴きやすいものでした。

まず、現役自衛官であり、安全保障分野における研究において
日本防衛学会から「猪木正道賞」を受賞した金澤浩之三等海佐

「明治150年と日本の近代海軍建設」

この内容をごくごく圧縮していうと、

「日本海軍建設は、経験値と人材養成において近世から近代にかけて明らかに
連続性が見られ、いきなり明治維新によって近代海軍が生まれたのではない」

という(圧縮しすぎかな)ものだったと思います。
中でも興味深かったのは、日清戦争における両軍の首脳部の
「経験値」の違いを
並列して比較した表でした。

日本側は海軍軍令部長樺山資紀を始め、連合艦隊司令長官伊東祐亨
相浦紀道、坪井航三、鮫島員規、東郷平八郎(浪速艦長)に至るまで
ほとんどが薩英戦争、戊辰戦争、阿波沖海戦など実戦経験者なのに対し、
清側は水師提督丁汝昌が太平天国の乱の経験者であるだけで、
全員海軍での実戦経験がなく初陣だった、という話です。

日本の海軍第一世代の軍人たちは、すでに水軍から連なる
連続性の中で海軍形成時には育成が「済んでいた」というわけですね。


♪ 維新マーチ 宮さん宮さん ♪

「宮さん宮さん」の宮さんとは有栖川宮熾仁親王のこと。
以前「皇族軍人」の松平保男海軍少将を紹介した時にアップした動画の
「エルフェンリート」の前に流れるのがこの「維新マーチ」です。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

有栖川宮は親王家なので、英語では「Prince」という称号になります。

金沢三佐の講演では、カレーの話も出ました。
ちなみにこれは、わたしが開演前にメルキュールのカフェで食べた「ゆうぎりカレー」。
柔らかく煮込まれた牛肉と辛さが絶妙でなかなかのお味でした。

このカレーについても、世間一般では

「明治時代海軍が脚気防止のために発明した」

という説も流布されているわけですが、金沢講師によると、
1852年から62年にかけて、つまり江戸末期に
長崎にいたオランダ軍の軍医、

ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト

は、本人が言うところの「夢のような」日本での生活で、

「魚介類、カレーソースがライスに乗ったもの」

つまりシーフードカレーを食べた、と書き残しているのです。
カレーだっていきなりできたわけではなく、この頃にあったらしい、
ということなんですね。

(ここで会場の調味商事の社長?が紹介されましたが、
海軍カレーを謳っている会社にとってはこの説は微妙かも)

 

因みに、ポンペが日本で初めて解剖実習を行った折には、
シーボルトの娘、あの楠本イネがそれを見学しています。

金沢講師は、その講演の終わりを松尾芭蕉の言葉、

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

という言葉で締めくくりました。

 

続いて、二人目の演者、安池尋幸氏の講演は、これも一言で言うと、
日本海海戦で日本がロシアに勝利したのは情報戦のおかげであり、
造船所、製鉄所に加えて電信所を作り、海底ケーブルを引いたこと、
三六無線を生み出した横須賀は日本の工業力の発信の地である、
と言うようなことでした。

日露戦争時代の無線電信機の写真ですが、左後ろの掛け軸は、
帝国海軍の名参謀秋山真之が日露戦争終結後、三六無線を発明した
木村駿吉に贈った感謝状なんだそうです。

いかにこの無線の存在が勝利に寄与したかを、誰よりも
天才秋山真之が大きく評価していたかがわかりますね。

というわけで、日本海海戦、秋山真之といえば?
そう、「坂の上の雲」ですね。

♪ スタンド・アローン 「坂の上の雲」より ♪

『Stand Alone』 NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」 三宅 由佳莉 海上自衛隊 東京音楽隊

この日もこの曲を三宅三等海曹が熱唱しました。
「坂の上の雲」というドラマについては、色々と問題があり、その
偏向した表現や解釈などについて随分ここでネタにしたものですが、
久石譲作曲のテーマソングはただ名曲です。

そして、あのドラマの中で作り手のバイアスによって史実が
歪められていなかった唯一の登場人物が、廣瀬武夫だったとわたしは思っています。

♪ 廣瀬中佐 ♪

軍神『広瀬中佐』海上自衛隊東京音楽隊 第35回防衛セミナー

参加した方がyoutubeに上げてくださっていました。
川上良司海曹長の「分厚い歌声」、素晴らしすぎ。

ところで、司会の荒木三曹が、万世橋駅前に昔あった
廣瀬中佐と杉野兵曹長の像のことを話していますが、それが
カラーの動画で見ることができるユーチューブを見つけました。

カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color

こんなに大きな銅像だったんですね・・・。
よく見ると、銅像の横を野良犬が歩いていたりします。

ドラマ「仁」のテーマソングも最高なので、ぜひ最後まで観てください。

ところで、日本海海戦の話も出たのに、会場におられたという
東郷平八郎の孫、東郷宏重氏はなぜか紹介されませんでした。
主催者側は誰も気づいていなかったのかな。


安池氏の講話で興味深かったのは、

「日本海海戦の時に三笠にはイギリス海軍の駐在武官が乗り込んでいて、
戦闘終了後、本国にこれからの海戦は三笠レベルの軍艦では戦えない、
と報告し、それが英国にあの弩級戦艦『ドレッドノート』保有を決意させた」

という話でした。
そういえば「三笠」はイギリスの造船所バロー・イン・ファネス製でしたね。
『恐れ(ドレッド)』が『ゼロ(ノート)』という名前のこの戦艦は、
誕生前に建造中の世界中の戦艦を全て「旧式化」してしまい、
世界はこの誕生を「ドレッドノートショック」(レボリューションとも)
と呼び、その後大鑑建造競争に舵を切った世界が「海軍休日」を経て
海軍力の均衡を巡って緊張を強めていくのは歴史の知るとおりです。

ところでみなさん、こんなニュースをご存知だったでしょうか。

世界が諦めていた無線変調方式の革新に新方式を提案

神奈川県立横須賀高校の生徒が学会にて発表

携帯電話“速度10倍”実用化狙う

県立横須賀高校の2年生2人が携帯電話など無線通信の新技術を発明し、
東京都足立区で開かれた電子情報通信学会で研究結果を発表した。
現役高校生の同学会での発表は初めての快挙。
新技術が実用化されれば通信速度が飛躍的に向上するといい、
2人を指導してきた横須賀テレコムリサーチパークの太田現一郎・工学博士は
「画期的な発見だ。2人はどんな数式にも動じず逃げなかった」
と新発見に目を細める。

論文タイトルは「第6世代移動通信に向けた変調方式の研究」で、
同校の瀧川マリアさんと原佳祐さんがまとめた。
現在の高速データ通信技術「MIMO方式」は、複数のアンテナから
同じ周波数で送信した電波が障害物で乱反射し、
波形がゆがんだ状態で受信される。

しかし、2人はあらかじめ周波数や振幅を変化させ
「模様」をつけた状態で送信する独自理論を展開。
瀧川さんの名前にちなみ「MARIA方式」と名づけた。

 

この技術が完成すれば、光回線などよりも早い通信速度で
(ほとんどリアルタイム)情報が送れるようになります。

安池氏は、この快挙が横須賀発であることは決して偶然ではなく、
三六無線など近代工業技術発祥の地横須賀ならではだと語りました。

 

そんな横須賀での防衛セミナーを締めくくったのは
東京音楽隊の最後の演奏

♪ 行進曲「軍艦」♪

でした。
「海行かば 水漬く屍」からの部分を川上海曹長と三宅三曹が歌います。

記念艦「三笠」のある三笠公園には「行進曲軍艦の碑」があります。
横須賀は日本海軍の軍歌、海上自衛隊の公式行進曲となっている
「軍艦」発祥の地でもあるのです。


わたしが到着して席に座ったとき、開演前の会場では、
ドラマ仕立ての横須賀紹介ビデオが流れていました。

主人公の少女に、ペリー来航以来の横須賀の歩みを説明する役の
芥川龍之介のような風体をした着流しにカンカン帽の男性は、
最後に少女の前から姿を消し、いつの間にか小栗上野介の姿になって
小高い山から横須賀港を眺めているというエンディングでした。


その卓越した知性と慧眼、そして何よりも国を想う心をもって
横須賀、ひいては日本の技術と国力の発展に大いなる道筋をつけ、
この世を駆け抜けていった小栗上野介忠順の「まなざし」は、
現在の横須賀を、そして日本をどう見るでしょうか。

 

 

 

 


化学兵器は「ただちに」廃絶することができるのか〜大久野島 毒ガス工場跡

2018-12-13 | 日本のこと

大久野島休暇村の、いかにも60年代に建てられたホテルの
典型的な和室での一夜は一人で宿泊したこともあって怖かった、
と書いたところ、unknownさんが

「こんないわく付きの廃墟の島でお泊りしたら怖いでしょう」

とコメントして来られたわけですが、わたしはこれを読んで、
あっ、とあの訳の分からない恐怖の原因に合点が行ったのです。

全く自慢にならないのですが、わたしは何をするにも事前に下調べをして
これからの体験に備えるというまめなことを一切行いません。

何も知識のない真っさらな感性のアンテナが新しく体験する事象、
あるいは物事に触れる時に生まれる何かを大切にしたいから・・・

というのは全くの嘘で、基本無精者だからです。

今回も、島の歴史は勿論、実際にどんなことがあったのかについて、
島の大きさすら、wikiを見ることすらせず現地に赴きました。

到着するなり毒ガスについての展示を丹念に観て、その結果
ここがどんなところであったかが初めてわかってきたのですが、
それでもその夜、一人で床の間の和室でパソコンに向かいながら
何やら得体の知れない気味の悪さを終始感じていたのにも関わらず、
今ならはっきりと感じるであろう、この小さな島に漂う
毒ガス製造に携わって不慮の死を遂げた人々の怨念については
不思議にその気味の悪さと結びつけて考えることをしませんでした。

帰宅後こうやってここでご報告するために調べるにつけ、
じわじわと遅まきながらその凄惨さに気づくことになり、

「よくまああんなところに一人で泊まったなあ」

と自分の無精さにむしろ感謝している、というのが正直なところです。
無知とはなんと怖いもの知らずであることよ。

今では跡形も無くなっていた病院跡を通り過ぎると、
もう既に廃社になり、御神体の無くなったらしい神社の跡でした。

ちなみにこれが更地にされていた病院全体の建物です。
左に灯台に続く山道の階段が見えます。
建物の前庭が真っ白ですが、これは進駐軍が撤収後、まず
病院を「無毒化」するためにさらし粉を撒いたのでしょう。
おそらくこののち建物は倒壊処分にされたのだと思われます。

さて、神社の鳥居前には

「皇化隆興」「萬邦威寧」

皇国の隆盛がいや増し、全ての地が
天皇陛下のご威光によって安寧でありますように。(たぶん)

という石碑が建てられています。

毒ガスを作るための工場しかなかったこの小さな島に、
いや、だからこそ祈りの場が人々には必要だったのでしょう。

現地の説明には、

毒ガス工場が開所された際、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とし、
1932年に現在地に移転しました。

とだけありますが、これではあまり意味がわかりません。
それまで神社はどこにあって、なんという名前だったのでしょう。

鳥居の注連縄はもう右側が外れかけているのですが、
何も対処している様子がありません。

「忠海兵器製造所 従業員一同」

と鳥居の寄進者名が刻印されています。
毒ガス工場の正式名称は

陸軍造兵廠 火工廠 忠海兵器製造所

でした。

昭和八年二月吉日、と寄進した年月日が反対側に。

陶器で作られたらしい狛犬は完璧な姿で残っています。
備前焼のような土の色をしていますがどうでしょうか。

参道をまっすぐ進んでわたしは思わず息を飲みました。
神社がここまで廃墟になってしまっているのを初めて見ます。
いつ崩落しても不思議ではない状態なので、立ち入り禁止になっていますが、
どうして取り壊しにしないのでしょうか。

拝殿は閂をかけ、扉を閉めていたものと思われますが、
雨風に打たれて扉は破れ、天井の板が剥がれて落下しています。
破れた扉越しに見える本殿の銅製の階段だけが当時の形を残しています。

 

かつてここに工場があった頃には、神職が神事を執り行い、
元旦には島に住む人々が初詣にやってきた神社。

説明には

境内では様々な行事(毎月8日の大詔奉戴日、四大節、式など)
が行われました。

とあります。

戦中は大東亜戦争が始まったのが12月8日であることから
毎月8日は「大詔奉戴」の日として神事が行われていたのです。

また、四大節とは元旦、紀元節、天長節、明治節。
式というのは学童の入学式、卒業式です。

 

神社が正式に取り壊されなかった理由とはなんだったか考えてみましょう。

敗戦となり、工場の関係者と陸軍軍人たちが最初に行ったのが
製造していた毒ガスを主に海に投棄することで、その後は
進駐軍が毒ガスの廃棄作業、そして朝鮮戦争の期間、実に十年も
ここにいたわけですから、その期間を通じて誰かがこの神社の
御神体を持ち出したりすることなど全く不可能だったことは確かです。

ただ、進駐軍は研究所や発電所などを残して他の建物を毒ガスと一緒に
焼却処分にしてしまったものの、流石に神社に火を放つことは、
おそらく畏れもあってそれを行うことはできなかったのでしょう。

ということは、この神社は本殿のご神体ごと、ずっと放置され、
長い年月そのままになっていたのではないでしょうか。

島が日本人の手に戻った時、ご神体をどこかに合祀した、
という話は今回どこを検索しても出てきませんでした。

鳥居を奉納した一ヶ月後、全従業員の名前を刻んだ石碑が建てられました。

裏表合わせてだいたい150名くらいの名前が彫られています。
工場が稼働を始めた最初のメンバーの有志だと思われます。

神社の境内に当たるところに殉職碑があるのに気づきました。
こちらも神社と同じく、今ではその役割を失ってしまっているようです。

神社はわかるとしても、殉職碑まで・・・・。
奇異な思いを抱きつつも思い切って後ろにまわってみました。

殉職者の名前が刻まれているでもなく、ただ

昭和十二年三月建之(これを建てる)

とだけあります。

おそらく最初に死者を出したのは、最も危険だったイペリットの
製造工場だったでしょう。

毒ガス資料館のパンフレットより。

製造工員はゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで
体を防護して作業を行いましたが、イペリットガスはその隙間から浸透し、
皮膚、目、咽頭を犯して結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎を引き起こしました。

しかし、当時は有効な治療法を持たず、火傷の手当と同じことをしていたそうです。

赤と言われたくしゃみ剤は名前はいかにも軽微なようですが、
これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまうのです。

緑である塩化アセトフェノンは吸い込むと肺組織をおかし、
肺水腫状態となって死に至るというもので、比重が重いため、
窪地や洞穴に流れ込んで人体に深刻な害を与えました。

昭和15年には、特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校しました。
この入学式が行われたのも神社の境内です。

写真は昭和18年、青年学校修了者と養成工の合同卒業式の様子です。

挨拶しているのは陸軍軍人。軍人は右手に階級順に並んでおり、
左の椅子に座っている紋付の一団は家族であろうと思われます。

工員服の青年と一緒にいる女子卒業生たちは、おそらくこの後
風船爆弾の気球部分を作らされたと思われます。


神社の参道から海を望む景色は、昔のままに違いありません。

慰霊碑が放置されていたことに不思議な思いを抱きながら
歩いていくと、「本物の」慰霊碑が現れました。

昭和60年になって新たに建立された慰霊碑は、元の慰霊碑で
鎮魂されていた死者を含め、戦後にガス障害で亡くなった
全ての死没者の追悼のために建立されたものです。

竹原市長の「化学兵器廃絶宣言」兼慰霊文です。

化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺戮することでは
核兵器・生物兵器と同じであるから、直ちに廃絶されねばならない。

「直ちに」という言葉になんかものすごい嫌な思い出があるのは
わたしだけではないと思いますがそれはさておき、
これを、

「現実世界においてこんなことをここで言っても全く意味をなさないんじゃ」

と思ってしまうわたしってひねくれ者?
広島の原子爆弾犠牲者慰霊碑の、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

に通じるものを感じます。

 

現状としては、CWCの禁止条約が締結された後も、

イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン16を使用

クルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器が使用される

シリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された

北朝鮮はCWCに加盟せず、現在も化学兵器を保有している

地下鉄サリン事件

米国における炭疽菌入り郵便物 リシン入り郵便物事件

金正男氏の殺害事件ではVXが検出された

など、主にテロ組織側によって化学兵器は非常に「魅力的な」
兵器であることが窺える事案が相次いでいます。

ちなみに大久野島の資料館では、イランへの医療支援として、
イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦を
そのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたことが縁で、
その関連資料も展示しているということです。

新たに建立された慰霊碑の銘文は広島大医学部の教授によって書かれました。

西本幸男氏は第15代学部長であり、専門は呼吸器内科学。
難治性喘息や気管支喘息の重症化要因を研究テーマにした学者です。

戦後は広島大学が中心となった組織が、毒ガス障害者への健康診断や
後遺症の研究を継続して行っているということです。

昭和17年に陸軍造兵廠忠海製造所従業員診療所だった
呉共済病院忠海病院は、被災者の指定医療機関となっています。

いわゆる「平和学習」で千羽鶴を持ってくる学校が多いのでしょう。
専用の「千羽鶴奉納所」が設けてあります。

「これからも戦争について学び、平和の大切さを僕たちから広めていきたいと思います。
そして争いのない平和な世の中を作っていきます。」

そうですか。

「それでは平和とはなんですか」

と聞くと、多分この子からは、

「戦争しないこと」

という答えしか返ってこないんだろうと思われます。

決してバカにしていうのではありませんが、自分のその頃を思い出しても
子供の考える(学校で考えさせられる、ということもできる)平和なんて、
まあせいぜいこんなものでしょう。

ただ、慰霊碑に刻まれた竹原市長の碑文がこれとほぼ同じレベルである件。

おそらくこういうのって、

「戦後日本人の考える平和の希求のあり方」

のスタンダードなんだろうな。
間違っていないけど、具体的なことは何も言っていないというね。

崖の上に、誰でも見たらわかる「危険」という看板を立てるのは日本人だけ、
と先般書きましたが、こういう当たり前すぎて意味のないことを子供から大人まで
異口同音に公言する傾向にあるのも、世界で唯一日本だけのような気がします。

なんて言ったら真面目な人たちに非難されちゃうかしら。

昨日見送った「ホワイトフリッパー」が突堤に到着するところを目撃しました。
朝早いのにたくさんの人が乗り降りしていましたが、この一団は
ほとんどが休暇村で働いている人たちのようです。

島に一つあるインフォメーションセンターの近くまでやってくると、
「自動交換機室跡」とだけ説明のある防空壕的な建築がありました。

何を自動交換するのかの説明がなかったのですが、電話かしら。

レンガで脚を組んだ藤棚は一部倒壊の恐れがあるらしく
内部に立ち入り禁止の札がかかっています。

wiki

毒ガス資料館の前を通り過ぎ、休暇村が見えるところまで帰ってくると
そこには毒ガス工場時代の研究所だった建物がありました。

実はこの建物があまりに近代的なので、わたしはてっきり
休暇村建設時代のものかと思い写真を撮らなかったのを後悔しています。

この内部の写真も検索すれば出てきますが、昭和2年に作られたとすれば
当時としては超ハイテクモダーンな建築様式だったはずです。

毒ガスの研究と薬品庫として使われていました。

その隣にあったのがこちらは昭和2年と言われても全く驚かない、
検査工室。

毒ガスの製品検査をする施設があった、ということはここで
動物実験などが行われていたと考えていいのかと思います。

同じ検査工室の建築中写真。
山の斜面を大幅に切り開いてその場所に作ったことがわかります。

それから90年が経ち、山肌は鬱蒼とした木々で覆われています。
驚いたのはこの建物と休暇村の間の空き地が自転車置き場になっていて
休暇村で働いている人が普通に周りに出入りできるらしいということです。

建物の脇には当時からあったらしい「歩行中禁煙」の木の注意書きが見えます。
進駐軍はなぜか検査工室を焼却処分にせず、何かに利用していたようです。

右手の山肌の見えている斜面の麓に今休暇村があります。
三軒家工場群では「あか」(くしゃみ剤)が製造されていました。

激症を引き起こすイペリットが製造されていたのはこの山の
向こう側の中腹あたりになります。

チェックアウトは10時。
歩いてフェリー乗り場まで行くとちょうどフェリーが到着しています。
前で切符を見せているのは昨日同じフェリーに乗っていた人だと思われます。

この人も休暇村で一人宿泊したんですね。

島で最後に撮影した大久野島うさぎ。

ところで大久野島シリーズの2回目以降のタイトルである疑問形は
この歴史の証言者となっている島に滞在して沸いた様々な心の声です。

「疑問」=「不思議」→「不思議の国のエリス」\(^o^)/
と言いたくて
わざわざ疑問形のタイトルにしてみました。

その答えが得られたものもあり、永遠に解決されないと
わかって書いているものもありますが、
何れにせよ、
「不思議の国のアリス」のように、うさぎに導かれてここにきた人々もまた、
各自の感受性の程度や方向性の違いこそあれ、この島に滞在して
何の疑問も感じずに帰っていくということはないと思われます。


元来わたしは「平和」「人権」などと大声で叫ぶある種の層に対して
徹底的な不信感と胡散臭さを感じるという、自他共に認める捻くれ者ではありますが、
人類が兵器を持つことを止める未来など決して来ないとわかっていても、
たとえそれが大海に投じる一滴の真水のようなものであっても、
声を上げ続ける大久野島のような「犠牲者」が有る限り、人類の終末は
少しでも先に延ばすことができるという希望を捨てていないのもまた事実です。

(お断りしておきますが、それは『平和』とは別次元の話です)

というわけで、

「平和」「化学兵器廃絶」

などという左翼ワードをポエムのように瀬戸内海に向かって叫ぶ、
などというヌルいやり方ではなく、化学兵器の違反使用国はバシバシ制裁する
役割を持つと言われるOPCWで、
「被害者」としての立場に立って旗を振り、
テロリスト側を締め上げていく方向に向けた「超絶具体的行動」、
つまり化学兵器の廃絶に向けた手段を問わぬ戦いが、この島を基点として
今後繰り広げられる未来を心から期待しつつ、
大久野島シリーズを終わります。



「大久野島~不思議の国のエリス」シリーズ 終わり

 

 


皇軍兵器の何たるかを彼らは知っていたか〜大久野島 毒ガス工場跡

2018-12-11 | 日本のこと

瀬戸内海に浮かぶ小島、大久野島。

昨今の「うさぎの島」のイメージはまるで取ってつけたようなもので、
実はその実態を昔から知る地元の人たちにとっては、おどろおどろしい
「毒ガスの島」という負の面だけが語られて来たらしいことを、
わたしは島を訪問し、現地の遺跡を目の当たりにすることで知りました。

阪神基地隊司令夫人やHARUNAさんら元地元民の証言もまた、
それを裏付けるものとなって、わたしはある仮定に行き着きました。

それは、

「うさぎの島というのはあくまでも客寄せのための”方便”で、
実は毒ガス工場があったという『負の歴史遺産』を見せるのが
大久野島の真の目的なのではないだろうか」

つまり、

「うさぎが目当てでやって来た客が否が応でもここの凄惨な歴史に気づき、
目を向けることになるのを」

誤用でない方の確信犯的に期待しているのではないかということです。

オウム真理教の地下鉄サリン事件を経験した我が国は、
ハーグに本部を置く化学兵器禁止機関(OPCW)の査察を積極的に受け入れ、
査察局長には陸上自衛隊第101化学防護隊長出身で、オウム真理教の
査察を統括した経歴を持つ秋山一郎氏をノーベル平和賞授賞式に出席させたこともある
「化学兵器廃止問題の優等生国家」でもあります。

大久野島の展示を見る限り、ここがOPCWの深謀遠慮によって
その負の歴史を語り継ぐ役割を負わされているようにはあまり見えませんでしたが、
少なくとも生きた歴史の語り手として、その高邁な理想に向かって
物言う立場を担っていることは間違いないことに思われました。

さて、島を一周歩いたら、部屋に入って時間になったら食事に出かけ、
温泉に入るしかすることがないこの島での一夜が明けました。

わたしは旧型の温泉宿客室で一人で眠るのは、高松の掃海隊追悼式以来
人生で二度目だったのですが、実はちょっと、というかかなり怖かったです(笑)
シティホテルやビジネスホテルならなんでもないのに、床の間付きの座敷が
なぜこんなに怖いのか、ちょっと自分でもその理由がわからないんですが、
枕元の灯を消す直前までiPadを見て平常心を保ち、いよいよ眠くなってから、
えいやっと電気を消し数分以内に寝るという方法で一夜を乗り切りました。

休暇村内に温泉は二ヶ所、つまり廊下の端と端に男女浴室が一つづつあり、
わたしはせっかくなので夕食前と翌朝早くにどちらも行ってみました。
ちょうど湯船に浸かった目の高さに開閉自由の窓があり、開けてみたら
日が暮れて暗いというのに大量のうさぎが走り回っていたのには驚きました。

うさぎって夜行性だったのか?

すぐさま調べてみると、以下のことが判明しました。

うさぎは正確にいえば薄明薄暮性(はくめいはくぼせい)の動物で、
明け方(薄明)と夕方(薄暮)など、昼や夜ではないこれらの時間帯に

行動が活発になる生き物なのだそうです。

まったくの夜行性ということではなく、夜行性に近いと表現されることもありますが、
とにかく犬や猫と同じく、日中は基本じっとしていることが多いとか。

翌朝は、朝ごはんを食べてからチェックアウトの時間まで
島内の昨日行っていないところを歩いてみることにしました。

ホテルを出ると、明け方で行動が活発化したうさぎが
懸命にビニールシートを喰いちぎり引きちぎっております。

まさかとは思うけど食べてるんじゃないよね?

島の南西部分の小高い山部には展望台と灯台があるというのを
フロントで聞いて、そこに行ってみることにしました。
この階段はそこに続いている道の一つなのですが、昔からあるらしい
この舗装された階段を登り切ってしまうと、あとはとんでもない
未舗装の山道が続いています。
それこそ清水門の二倍くらいの高さに脚を上げなくては
登れない階段があって、小柄な人には無理じゃないかというくらい。

そんな山道を登っていくと、まず東屋が現れました。
向こうに浮かんでいるひょっこりひょうたん島みたいなのは
「小久野島」(こくのしま)という名前の周囲1.6kmの無人島。

その昔、神功皇后三韓征伐へ向かう途中、床浦神社に戦勝と航海安全を祈願し、
ご自分の冠と沓(くつ)を海中に投じられました。
その時、神功皇后は冠が流れ着いた所を冠崎、沓が流れ着いた島を大沓島
横の小さい島を小沓島と名付けられたという故事があるそうですが、
後にそれが大久野島と小久野島になったと伝わっています。

さらに続く道沿いに進んでいくと、夜明けで活発化したらしい
うさぎさんたちに早速遭遇しました。

わたしが急に現れたせいか、なんかすごく驚いているんですが。

このびっくりうさちゃん、わたしが通り過ぎてから慌てて道に出てきました。
餌をくれそうな人だと判断したのかもしれません。

それともカバンの中の餌の匂いを嗅ぎつけたかな。

振り向いてカバンに手を入れると、タッタッタ、と駆け寄ってきます。

ういやつじゃのう。餌を遣わす。

おねだりした子にうさ餌を撒いてやると、そっくりの兄弟がやってきて
一緒に食べ出しました。

仲間と群れずに一匹だけでいた孤高のうさぎ。
なぜかこのうさぎだけは餌をねだってくることもしませんでした。

大三島の尻尾と本土が見えるこの高台には、昔探照灯が設置してありました。

巨大な探照灯をこの円形の部分に置いて海上を照らしたようです。

毒ガス工場時代より前の、芸予要塞時代のことです。
ここを「探照所」と呼んでおり、台座の半円部分は探照灯の可動域です。
この写真に写っているのは肩章からもわかるように陸軍軍人ですね。

明治時代とはいえこのような大掛かりな仕組みになっていました。
見にくいですが、「電灯井」(でんとうい?)というのは
英語で言うところのエレベーターで、探照灯そのものが
地下の収納庫に出し入れできると言うものです。

操作は下で行ったようですが、人力で動かしていたようですね。

背中を反らして背筋を鍛えているうさぎ。

朝一番の訪問者だったのか、人の姿に走り寄ってくるうさぎ。
皆が足元でお愛想を始め、そのうち争うように
ストールやバッグに手をかけようとしてぴょこぴょこし始めます。

うむ、これが本当の

”うさぎぴょこぴょこみぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ”

というやつか・・・。

(審議中)

柵を超えればそこは崖。
崖から落ちたらそこは海。

そんな誰にでもわかることをわざわざ看板にするのは
世界広しといえども日本だけだとわたしは断言します。

サンフランシスコのソーサリート、GGB付近の自然公園は
一歩踏み出せば真っ逆さまのところにベンチは作りますが
柵はもちろん危ないとか命を大切にとか命のホットラインとか、
そういう余計な看板の類は一切作りません。

訴訟天国で何かと無茶な訴えをする人が多い割には
日本のように先回りした警告などは無駄だと思っているようです。

フランスでも思いましたが、これは「自己責任」の問われ方の違いです。
政府が行くなというのに危険地帯に行って人質になるのは
世界的に見ても自己責任に帰結するべき事案であって、
むしろあれに同情したり英雄扱いする層が現れる国が異常なんだと思います。

 

話がそれましたが、このお節介な立て札の向こうに見えるのは大三島。
中学時代「少年の船」団員に学年から二人ずつ選ばれて
(基準はなんだったのかいまだにわからず)瀬戸内海クルーズした時、
大三島に寄港して現地の中学生と交流行事したことがありましたっけ。

あの時に仲良くなった女の子、まだこの島に住んでるのかな・・・。

明治27年に初めて点灯したという石造りの灯台があります。
当初は石油を使用して点灯していましたが、大正年間にアセチレンガスに、
さらに昭和11年になって電灯式に変わっていき、昭和33年、
無人化されて現在は呉海上保安部が管理している、とありますが、
なんとこの灯台は2代目で、平成4年に竣工したばかりのものだそうです。

初代の灯台は高松の四国村(博物館)に移設されているのだとか。

光達距離は25km、光度は8500カンデラ。

灯台の光り方を灯質ということを初めて知りました。


灯台に立って真後ろを振り向くとお地蔵様の祠がありました。
木の立て札には由来が書いてあったのかもしれませんが、
すでに何も読めない状態になっていました。

灯台からは下り坂になり、反対側の海岸に出られることが判明。
石段と木の階段を降りていくと、「大久野島燈台」の石碑が埋もれていました。

夏の間はここが海水浴場になるそうです。

海岸に面した山裾には昔病院がありました。
建物は撤去され、その跡はただ空き地になっています。

もしかしたら戦後島内を無毒化作業した時、被災した患者を収容していた
病院もまた焼却処分してしまったのかもしれません。

かつての病院。

白い長い裾の白衣を着ているのは看護婦、しゃがんでいるのは
着物を着た女性患者ではないかと思われます。

写真を撮るためにイメージフォト?的に絵になる二人を配したのかもしれません。

毒ガスを扱っていた工場ではその作業中事故が起こり、それによって死亡したり、
明らかに障害が出た例もあったわけですが、当時は被害が出るたびに
処する安全対策が取られたため、年々障害は少なくなっていたという証言があります。

ただしそれは直接的な事故による被害者のことであり、当時何もなくとも、
そこで生活し仕事をしながら、ガスで汚染されている空気を長期間吸うことで
のちに起こってくる恐ろしい障害とは全く別の話でした。

大久野島の工員を募集するとき、軍は毒ガスという言葉を一切使いませんでした。

「化学を応用した皇軍兵器」

それが毒ガスのことであるのは、工員という立場になってみれば
誰にでもわかったわけですが、その時には彼らは厳格な機密保持を誓約させられ、
軍人のみならず非軍人も、男も女もすでに秘密兵器を製造する
軍の組織の末端に組み込まれていたのです。

 


事故による毒ガス被害に遭った人(死亡第一号は建設会社松村組からの転職者だった)
の、その後の経過は、
当時実験台にされていたうさぎの辿った死に至る経過そのもので、
人々はその死に様を、ただ凝然と見守ったそうです。

彼らが息を引き取っていった病棟のあった場所には、何も建てられず、
ただこの水栓だけが当時を知る痕跡として遺されています。

 

 

続く。

 


島は完全に無毒化されたか〜広島県 大久野島

2018-12-09 | 日本のこと

週末、阪神基地隊で行われた恒例餅つき大会をちょっと覗いてきました。

その時、たまたま基地隊司令ご夫妻との話題が大久野島になったのですが、
司令夫人が幼い時、何かのきっかけで大久野島に遊びに行こうとしたら、
お祖母様から

『あんなまだ毒ガスの残っているところに行くものではない!』

と断固として止められたということを聞きました。

また、その日ご紹介頂いたあの『J-Navy World』のHARUNAさんも、
その時同席しておられて、広島在住経験者としておっしゃるには

「あそこが観光地になってるなんて信じられません」

うーん、特に最近のうさぎの島というイメージ戦略を、
近隣の人々、昔から大久野島を知っている人はかなり奇異なことに思っている?

やはり大久野島=毒ガス島のイメージがあまりに強く、
特に司令夫人が小さい頃にはまだ汚染が明らかに残っていて危険、
ということになっていたのだと思われます。

「なっていた」じゃなくて実際そうだったんですけどね。

 

ところで大久野島について書いてすぐに、いつものKさんから、
大叔父に当たる方が彼の地に勤務していたことについて以下のメールを頂きました。

実は大叔父が戦時中配属されていました。
階級は曹長(私は遺品から軍曹だったのではないかと疑問を持っていますが・・)。
多くの戦友と同じぐ喉頭癌&肺癌で亡くなりました。
鼻のなかに穴が開いてこそ一人前と言われた化学班でした。
戦後の闘病だ大変だったようですが、
島内での待遇は良かったと聞いています。
直に聴く機会もあったのですが、此の頃は私もガキっちょでしたからね。

 

Kさんの大叔父さんとその戦友がそうであったように、
毒ガス製造工場で働いていた者の多くが同じ運命を辿りました。
疾病の90パーセント以上が気管支炎などの呼吸器疾患だったそうです。

 

戦後進駐軍は(その後武器庫として使うのが目的で)島内の
防空壕を密閉し、海水とさらし粉を注入、
毒ガスの腐食を促進して無毒化するという処理をしました。

wiki

この写真に写っているのはウィリアムソン少佐。
チューブでさらし粉を注入しているところです。

wiki

これは埋設前のあか箱(くしゃみ剤)の箱ですが、写真には
指揮をとったらしいオーストラリア軍人の姿が見えます。
前回、ウィリアムソン少佐は

「連邦軍には危険な薬剤の処理を任せられない」(`・ω・´)

といってガス剤被災の病気から回復するや現場に復帰した、
という話をしましたが、どうやら連邦軍はウィリアムソンのいない間、
他のものに比べると比較的被害の軽微な嘔吐剤については
埋めてはいおしまい、という結構いい加減な処理をしていたらしいんですね。

資料を見ると、休暇村オープン計画に際し行われた1961年の
自衛隊調査以来、2009年まで8回に渡って島内や近隣海域で
このあか筒が継続的に発見されていますし、1995年の調査では
環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染が確認されているのです。

そしてそれは防空壕に埋設処理されたくしゃみ剤あか筒の化学物質が
腐食により土壌に流出したものではないかと言われています。

そりゃ埋めただけなら何十年も経てば土壌に流れ出しますわ。
司令夫人の「おばあちゃんの知恵袋」正しすぎ。

ちょ、ちょっと待って?
これもしかしたら中になんか埋まってたりする?
防空壕跡を掘り起こして処理したという話はないようだけど((((;゚Д゚)))))))

だいたい、今宿泊施設の土壌と水は本当に安心なの?

と、泊まってから心配になってしまった訳ですが(笑)
ご安心ください。
土壌の対策工事は1997年には終了し、周辺海水のモニタリングによると
ヒ素の存在は検出されていない上、休暇村で使われている水は全て、
船で島外から運んできたものを使っているそうです。
(ところで、あの『温泉』っていうのは一体なんだったのか)

 

実は、パイプで島まで水を送る事業を環境省が計画したこともあったそうですが、
2009年にあか筒が23本も島の北側に投棄されているのがわかり、
工事はこのために中止になってしまいました。

ここは1969年に海上自衛隊が近海を掃海した時の対象外区域だったそうです。

大久野島の西北端は地図で見てもお分かりのように、飛び出した
ツノ状の半島があり、その部分は立ち入り禁止になっています。

グーグルアースで確認すると砂浜には護岸後、テラスのように
階段まで作って整備された痕跡があります。
これも想像ですが、あか筒が見つかったため遊泳禁止とし、
この部分を資材置き場にしているのではないでしょうか。

島の西岸部分を「長浦地区」と言います。
ここには巨大な毒ガス貯蔵庫跡が残されています。

ご覧の通り、左右に3部屋ずつ、合計6つの縦長の区画がありました。

wiki

稼動時の同じ長浦貯蔵庫。
6つの区画にはそれぞれ縦に長い100トンタンクが収納されていました。

この「堅型毒物貯蔵槽」は直径4m、高さ11m、容量85トン。

写真は貯蔵槽を焼却する準備をしているところで、中の毒物を
抜き取った後、横に倒して天板を四角くくり抜いた様子です。

横倒しになっていて縦長の頭頂が見えているというわけです。

貯蔵庫のあったコンパートメントの壁はいまだに真っ黒です。
これはタンクと貯蔵庫そのものを火炎放射器で焼却処理した痕です。

wiki

ガスマスク着用の作業員が火炎放射器で建物を「滅菌」しているところ。
どうやらこれは発電所の建物ですね。

なるほど、それで発電所のガラスが一枚も残っていなかった訳がわかりました。
米軍はその後発電所をそのまま手を加えず武器貯蔵庫にしたのでしょう。

 

貯蔵庫跡から数分南に歩くと、毒ガス工場があった時代のトイレ跡があります。

ニーハオトイレじゃないので(日本ですから)昔はちゃんとした
個室になっていたと思われますが、一つの区切りがとても小さい。

中には入っていけなかったのでこれが限界でしたが、
便器の部分をアップにしておきます。
さすが陶器製の便器、完璧に原型をとどめているのに驚き。

通路反対側には男性用便器が並んでいた痕跡が。
左端に手洗い場がありましたが、どうしても写真が取れませんでした。

島内サイクルラリーという企画のために立てられた「クエスト」。

この大久野島は「毒ガス工場」ができるまでどんな島だったでしょう。

1、七戸の農家があった静かな島

2、700件の(原文ママ)民家があったにぎやかな島

3、海賊たちの秘密の隠れ場所

太古に遡れば、「3」も間違いではなかった時期があったようですが。

半分だけ埋められた状態の毒ガス貯蔵庫。
下の通路からはこんな角度でしか見ることができません。

かつての同じ場所、貯蔵庫内のタンクには、最も危険なイペリット、ルイサイトといった
毒ガス液が一つにつき10トン、貯蔵庫全体で80トン貯蔵されていました。

この写真は、タンクが横倒しにされて焼却された後に撮られたものでしょう。

危険なため、ウィリアムソン少佐が「連邦軍には任せられない」として
自ら指揮を執った作業がこれだったと思われます。

ただし、最前線で焼却処分を行ったのは日本人作業員でした。

西側の海岸沿い一帯にはテニスコートがなんと14面も作られていますが、
そのうち稼働しているのはどう見ても2〜4面といったところでした。
人工芝を敷き詰めたコートなど見るも無残に腐食しています。

「Kさんの大叔父さんの話にも「待遇は良かった」とありましたが、
島内には日本庭園も作られていました。

石橋などの痕跡が山中に転がっています。

今現在、休暇村で働く人たちは基本的に船で本土や別の島から通っているようですが、
毒ガス工場当時、労働者たちは中で生活をしていたのでしょう。

余暇の時間を過ごす場所、せめてもの潤いは与えられていたのだと思います。

おそらく昔は鯉などがいたに違いない池も。

5月には藤の花が咲き誇るであろう藤棚、そしてこの右側には
当時からあったに違いない桜の大きな木が枝葉を延ばしています。

この前面には広大な空き地が広がっていますが、もちろんここにも
かつては工場がありました。

日本庭園跡近くを歩いていると、走り寄ってくるうさぎがいました。
足下で立って手をかけてくる様子は実にいじらしいものです。

最初からうさぎにやるつもりで新鮮なキャペツなどを
持ってくる観光客も結構います。

フェリー着き場で売っているうさ餌ではどうも水分が足りないので
彼らにはありがたいことに違いありません。

このへんにいたうさぎの一族は皆薄茶に白の柄でした。

休暇村の建物のすぐ脇に、三軒家毒ガス貯蔵庫跡があります。

柵は一応ありますが、簡単に乗り越えられるもので、中に入り込んで落書きする人多数。

これは貯蔵タンクが乗せられていたクレイドルです。
いくら無効化されているとはいえ、猛毒のびらん性ガスイペリットが貯蔵されていた
貯蔵庫内に長居したいとはわたしにはとても思えないのですが・・。

当時の地図にも、この真横に「仏式黄」工場があった、と記されています。

クレイドルには10トンタンクが設置されていました。
横の工場で生産された「きい剤」は、腐食を防ぐため内部を銅で保護した
パイプを通ってここにあるタンクに直接送り込まれていたのです。

休暇村の前方にあたる部分にはプールがありました。
写真を検索する限り、夏場は観光客で賑わっているようです。

プール脇の機械室にカメラを入れて撮らせてもらいました。
プールの水まで本土から船で運ばれているということは考えにくいので、
海水を浄化して使っているのではないかと思われます。

昔を知る人たちは眉をしかめるかもしれませんが、周りの海からは
汚染はすでに確認されていないということですので、こちらも安心して良さそうです。

安心していいんですよね?

1960年代にできたという休暇村の部屋は、よくある和室に籐椅子をおいた
廊下、風呂なしトイレ有りという典型的な温泉宿の作り。
今時の客に合わせて延長コードを設置してあり、wi-fiも完備でした。

朝夕二食付きで一人12800円、これは安いと言わざるを得ません。

眼下にはうさぎを追いかけて遊ぶ子供達の姿がありました。



彼らが遊んでいるその場所は、この写真でいうと真ん中の通路に当たります。
広場はかつて「くしゃみ剤=赤」の工場があったところでした。

 

続く。

 


万延元年の日本人〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2018-11-21 | 日本のこと

さて、咸臨丸がサンフランシスコに訪れ、当時の人々、ことに彼らを
立場上近くで見る機会のあったアメリカ人たちに、

「あの時の日本は世界的に後進国であったが、彼ら訪米団の
アメリカでの立ち居振る舞いや態度には、この国がいずれの日にか
大国になる萌芽が表れていた」

という印象を残したらしいことがわかった、というところで前回を結びました。

訪米団の礼儀正しさや吸収力などは、アメリカ人の目から見ると
明らかに他の後進国の一行とは趣を異にするものではあったでしょうが、
流石に彼らもそれからわずかその44年後、彼らがやってきた極東の小国が
支配国側だった白人の大国ロシアと戦って勝つとは夢にも思わなかったでしょう。


1860年にはアメリカにやってきて見るもの聞くもの珍しく、
文字通り世界規模でのお上りさんに過ぎなかった日本。
その後恐るべき速度で文明開化を成し遂げ近代国家に生まれ変わり、
軍備もあれよあれよと増やしていってこの結果です。

世界が日露戦争の衝撃的な勝利に目を見張る一方、アメリカ人たちは
咸臨丸の日本人たちの、特異ではあるが誇りに満ちた態度振る舞いを思い起こし、

「やっぱり日本人というのは最初から他の民族とは違っていた」

と頷きあったのだと思うのです。


出る杭は打たれるという諺がよその国にあるのかどうかは知りませんが、
特にアメリカは、白人との戦争に勝った新参国に同時に警戒を抱きました。

それがいわゆる「オレンジ計画」そして36年後のガチバトルに繋がっていくわけです。


そして、その戦争で連合国側は日本を叩きのめしたかに思われました。

しかし、敗戦国日本を煮ても焼いても自由、ということになったときも、
アメリカは日本を植民地にすることはできませんでした。

大東亜戦争で日本が立ち上がったことがきっかけで、戦後世界では
次々に植民地が被支配から独立し、「時流にそぐわない」ということもありましたが、
何と言っても実際に戦争してみてつくづく日本人というものの底知れなさ、
恐ろしさをアメリカ自身が思い知ったからではないでしょうか。

「武力で人心まで押さえつけられる民族ではない」

「追い詰められたら何をやるかわからない」

(その捉えがたさの理由を、占領軍は『神道』のせいにし、
神職を排斥してみたりしましたが、それは全くの勘違いでした。
そもそも日本人は一神教ではなく宗教原理主義とは対極にいる民族です)

しかし彼らの日本という国に対する密かな「畏れ」というものは、
干戈を交える前から連綿と続いており、その源流をたどれば
この時の遣米使節から始まっていたとわたしは思うのです。

さて、メア・アイランド博物館の展示に戻りましょう。

この景色は遣米使節がサンフランシスコ訪問をした頃のヴァレーホです。
対岸から川越しに半島となっているメア・アイランドを見た角度となります。

このリトグラフで家がポツンポツンと建っているこちら岸は、
現在完璧に護岸工事されて公園になっており、レストランが立ち並びます。

この絵の中には当時のドックに建造中の帆船がいるところが表されている他、
ホイールシップや蒸気船の姿も描かれています。

さて、咸臨丸のトップは、前回もご紹介した木村摂津守です。
木村がメア・アイランド司令官であったカニンガムに当てた手紙がありました。


(おそらく翻訳して渡されたのだろうと思われ)展示されていました。

 この英文を逆翻訳してみます。

1860年3月4日(Luna Calender)

アメリカ合衆国海軍 カニンガム司令官 

親愛なる司令官:

我々の蒸気エンジン戦艦咸臨丸に修理の必要があることを知り、
閣下にその手配をお願いいたしましたところ、
閣下は我々の願いを
快くお聞き入れくださった上、
全く遅れることなく作業を完了させてくださいました。

閣下がお取りくださった措置に対し心からお礼を言うとともに、
マクドゥーガル大佐、
そしてその他の閣下が指揮された
士官の皆様にも厚くお礼を申し上げます。

あなた方の為した作業が大変満足いくものであったことは確かです。

私は、修理やそのために必要となった機材や道具など、様々なものが、
おそらくは大変な経費を必要としたことを理解しております。
それにかかりました金額は全てお支払いさせていただくつもりですので、
あなたの部下の士官に、合計金額を明らかにしていただき、
いくらお支払いしたらいいか、わたしに教えていただければと思います。

わたしは(I am)

アドミラル 木村 摂津守


どうですかこれ。

お礼をきっちりと言いつつも、それは儀礼として謝礼を述べたのであり、
手紙の本題は、「いくら払ったらいいのか教えてくれ」ですよ。

丁重に礼を言いつつ、しかも相手に請求させる前に、

「こちらはどんな高くとも払う用意があるので、いくらか言ってくれ」

自分から申し出ているのです。

まあ、同じ日本人からすれば、きっと我々でもこう言う風に書くだろう、
と言う文章そのままで、なんの違和感もありませんが、世界的にはそうでもなく、
アメリカ側は日本人の礼儀正しさに感嘆したのではないかと想像されます。

 

 

ところで、メア・アイランド海軍工廠は当時のアメリカでも最新の設備、
ドライドックを備えていました。
咸臨丸のメンバーにとって、もっとも刮目して見たのは、
わたしの予想ですが、このドライドックの仕組みだったのではないかと思われます。

その後すぐさま、日本政府はフランスから技師ヴェルニーを招いて、横須賀に
日本第一号となるドライドックの建造に着手しますが、それもこれも
この時の見学が土台になっていることは間違いありません。

この時に咸臨丸にドライドックで施された修復内容については、
ここメア・アイランドの資料にはちゃんと残されています。

それによると、船体に施された銅には全く問題はなかったが、
いくつかの部分で修理が必要であった、ということで、
まず帆を全部張り替え、外殻と内側の塗装を全部施し、
二本のマストを新しく付け替えた、ということです。

 

ところで、手紙で木村摂津守が聞いているところの修理代です。

この時、咸臨丸はメア・アイランド海軍工廠にいくら払ったのでしょうか。
これについては驚くべき一言が資料に付け加えられていました。

メア・アイランド海軍工廠は修理を無料で行なったというのです。

そしてその理由とは、木村摂津守の手紙にも出てくるカニンガム司令によると、

「わたしは日本との間に友好な関係を築きたかったからだ」

ということでした。

穿った考えかもしれませんが、日本全権団の礼儀正しさ、
修理代を先回りして聞いてくるような心遣いに、カニンガム司令も感じ入り、
アメリカ軍人として敬意をもって応えたのではなかったでしょうか。


さて、この少女とおっさんの写真、どこかで見たことある方はおられますか。

なんと、右側は当時25歳の福沢諭吉です。
左の少女はセオドラ・アリス。

ここには何の説明もありませんが、写真屋さんの娘だったらしいですね。

サンフランシスコで写真を撮りに行ったらそこに可愛い少女がいたので、
一緒に撮ろうよ?ってことになったんじゃないでしょうか。

どちらも真面目くさった顔をしているのでなんともわかりませんが。


福沢はここでウェブスターの英語ー中国語辞典を手に入れています。
それで彼は英語を本格的に勉強し、のちに彼自身の英日辞典を著しました。

日本人一行は二つの煉瓦造りの建物に分かれて住んでいました。
一つは庭に囲まれていて、提督と彼の側近などが、片方は
水兵たちの宿舎となっており、それは画面右側の二階建てのアパートでした。

士官や水兵たちは大変活動的ににここでの余暇を過ごしていたといいます。
例えば日曜になると、彼らはメア・アイランドの周囲を走り、
美しい野生の花を愛でたり、対岸のヴァレーホに行ったりしました。

彼らのレセプションは 当時、サンフランシスコのジャクソンストリートにあった、
(モンゴメリーとカーニーの間)できたばかりの、エレガントな
「インターナショナルホテル」で行われました。

日本人たちはアメリカ人が高価な絨毯を床に敷いているのにも関わらず
その上を靴で歩くことに驚いた、とこの説明にあります。

この「インターナショナルホテル」は、その後その名の通り移民が住み着くようになり、
(創立時はそういうつもりで名付けたのではないと思いますが)
1977年の都市再生計画で結局取り壊しになりました。

立ち退きを迫られた居住者がデモを起こし、警察に排除されるという騒ぎになったといいます。

ポウハタン号 USS POWHTTAN

ポウハタン号はサイドウィールの蒸気フリゲート船です。
このちょっと変わった名前はヴァージニアに実在した
ネイティブアメリカンの酋長の名前で、アメリカ海軍にとって
最後のパドル式フリゲート艦でした。

ノーフォークの海軍工廠で当時の78万5千ドルで建造され、
起工は1852年、1886年の除籍後はスクラップとなりました。

「ポウハタン」は1854年、ペリーが艦隊を率いて東京湾に入った時、
旗艦を務めた船です。

その後日米親和条約(Convention of kanagawa)が締結されたのは
皆様もよくご存知の通りです。

万延元年の遣米使節のメインは、実は咸臨丸ではなくてこちらだったのです。

この全権団の正使であったのがこの写真の新見正興(にいみただおき)です。
咸臨丸はいわば、「ポウハタン号」に何かあった時の保険として
随行したらしい、というのが現在明らかになっています。

咸臨丸が日本に帰国した後も使節団一行は日本からアメリカまで同行した
「ポウハタン」号でパナマへの親善のため航海を続けました。



全権団一行はできたばかりのパナマ鉄道で大西洋側まで抜け、
船をUSS「ロアーノク」に乗り換えてワシントンDCに到着しました。

一向到着後、ホワイトハウスでの晩餐会始め、いくつかの歓迎会が持たれました。
その時のホワイトハウスの主は、ジェイムズ・ブキャナン大統領です。

使節団はその後ニューヨークに向かい、大西洋からインド洋を経由して
日本への帰路に着きました。

ニューヨークを発ったのが6月30日。
一行を乗せたUSS「ナイヤガラ」

ポルトグランデ、カーボベルデ島(アフリカ)
サン・パウロ・デ・ロンデ(現在のルワンダ)アンゴラ、
バタビヤ(ジャカルタ)、ジャワ、香港

を経由し、ついに11月8日東京湾に帰港することを果たしました。

鮮明な写真がwikiにあったのでこちらをどうぞ。
この写真は前にもこのブログでご紹介したことがあります。

前列右から三人目の新見正興があののちの絶世の美女、
柳原白蓮のおじいちゃまであったというネタで(笑)

新美は遣米使節の功績を認められて取り立てられたものの、
42歳で何をやったのか知りませんが、伊勢守を免職になったため、
娘のうち二人は芸者になって身を立てました。

柳原前光伯爵に妾として囲われたそのうちの一人の娘が
白蓮の母親だった、というわけです。

ところでこの写真の前列右から二人目はあの小栗上野介忠順です。
(横須賀的にオグリンといわれています)

このオグリンについては当ブログでも何度も書いてきたので
ここではどういう人物かは省略しますが、みなさん、
この写真のオグリンをよ〜〜〜く見てから、
この下の写真を見てください。

こんな写真でもイケメンな新見正興ではなく、オグリンの姿勢にご注目。

どうも右に傾いてしまう人だったみたいですね。

ちなみにオグリンは、この時に行われた日米通貨交渉で、
不平等な通貨比率をなんとか是正すべく、孤軍奮闘しました。
彼の主張は全く正当なもので、アメリカ側は彼のタフ・ネゴシエイターぶりに
内心感嘆したといわれています。

結果としては合意に至りませんでしたが、冒頭の修理の件に加え、
小栗もまたアメリカ人の日本人に対する評価を高めたことは間違いないでしょう。

 

海外在住の日本人ならもしかしたら皆一度ならず経験することかも知れませんが、
わたしもまた、アメリカ滞在中、日本人であるというだけで安心されたり、

信頼されたり、褒められたり、災害のお悔やみを言われるようなことがあります。

その度に、わたしは日本国の先人たちの高貴な振る舞いをありがたく思い、
彼らの評判の恩恵をこうむる自分もまた日本人としてかくあろうとするのです。

 

先ほど、アメリカ人が最初に接した咸臨丸や遣米使節団の人々の振る舞いが
彼らにとっての「畏れ」の源流となったのではなかったかと述べましたが、
それはまた言い方を変えれば「信頼の源流」でもあったのです。

今日日本人の受ける信頼の連鎖をもし逆に手繰っていったとしたら、
その一番最初には、彼ら万延元年の日本人たちがいるのではないでしょうか。


続く。

 


『大国の萌芽此処に在り』〜メア・アイランド海軍工廠と咸臨丸

2018-11-20 | 日本のこと

このブログでも咸臨丸については一度、横須賀の博物館で
資料展示を見たことをご報告したときに、その概略と、
なぜか咸臨丸に敵意を持っている団体の存在まで紹介した記憶があります。

メア・アイランド海軍工廠という名前をそのとき記憶したことが、
今回のヴァレーホにある工廠跡の博物館訪問につながりました。

ここで、まさかの咸臨丸展示を発見しました。

「 KANRINMARU」の横にある「JAPANESE INFLUENCE 」、
「日本の影響」というボード。

まず、アメリカ側からの記述による咸臨丸のサンフランシスコ到着について
全て翻訳しておきます。

以降、青文字は全て当博物館の記述となります。


咸臨丸の航海

サンフランシスコ到着 1860年3月17日

咸臨丸は少量の銃を搭載した百馬力の小さなコルベット船である。
港湾においては蒸気推進による小さなプロペラを動力とした。

1859年、太平洋探検調査ミッションのために日本近海に来ていた船が
難破するということがあり、その船長であったジョン・ブルック大尉は
その後横浜で幕府海軍の指導をしていたが、ちょうどその頃、
幕府はアメリカに咸臨丸を送る計画をしていたので、彼は
アドバイザーとして咸臨丸に乗り込むことになった。

ブルック大尉

日本政府はアメリカ行きのために熟練の乗員を必要としていたので、
ブルック大尉は9名のアメリカ人を難破した船の船員から、
そして、もう一人、E.M.カーンという民間の製図工を選んだ。

ブルック大尉は船の名前をちゃんと「カンリンマル」と言っていたが、
スペルは

「Candin-marruh」

と綴っていたと言われる。

まあアメリカ人がこれを読んだら確かにカンリンマルになります。

咸臨丸はドイツで建造され、日本に1857年に回航されてきた。
この時の航海では、日本からカリフォルニアから37日かけて、
ノンストップで渡っている。

日本人乗員の一人、木村喜毅(よしたけ、のちの芥舟 かいしゅう)
武士であり、公的任務で船に乗り込んでいた。

木村のタイトルは提督に相当する

「Magistrate of Warships 」(軍艦執政官=軍艦奉行)

でありながら、同時に地方の執政官摂津守を務めていた。

咸臨丸の艦長は勝麟太郎、帝国海軍の「チーフアーキテクト」
(海軍伝習重立取扱のことと思われる)であった。

ただし、勝は航海の間中船酔いで倒れていたため
操艦などは
初級士官が実際に行なっている。

それまで日本には「水兵」というものは存在していなかった。

一行が横浜を離れた途端、大きな嵐が船を見舞う。

公式通訳として乗り込んでいたナカハマ・マンジロー(ジョン万次郎)

彼はマサチューセッツで教育を受けた人物であるが、捕鯨船でとはいえ
航海の経験があったのはこのマンジローただ一人だったのである。

しかしながら、彼が漁師の息子であったため、日本人たちは
彼から命令を受けることを良しとしなかった。

おいおい。

海の上で身分なんて言っている場合ではないと思うんですが。
あの福沢諭吉先生もおっしゃっているではないですか。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、況や海の上においてをや。

最後はちょっと独自に付け足してみましたが、実はこの船には
若き(25歳)福沢先生も乗っていたりするんですねー。



この写真はあまり若くは見えませんが。

まあとにかく福沢先生も後年こんなことを言っている割に、
漁師の息子の命令を受けるのはプライドが許さなかったと見えます。

そこで、ブルック大尉はジョン万次郎にまず船乗りの掟と、
海の上での儀礼、つまり世界共通である「シーマンシップ」を、
サンフランシスコに到着するまでの間に叩き込み、彼から皆に
その旨通訳して伝え、感化させることにしました。

ちなみにブルック大尉は彼の日誌で万次郎のことを高く評価しています。

「オールド・マンジローは夜もほとんど寝ていなかった。
彼は自分の人生について満足しているようだった。
昨夜は彼が自分の人生についてのストーリーを歌を交えて語るのを楽しんだ。

マンジローは私がかつて見た中で最も印象深い人物だ。
船上の日本人たちの中で唯一彼だけが、将来日本海軍が
どう変わっていくべきかについての明確なアイデアを持っていた」


さて、万次郎経由でご指導ご鞭撻を行なった後、

ブルック大尉は、以降日本人たちが自分たちで
船をマネージすることができた、と報告を上げている。

あ、もしかして福沢先生のあの名句はこの時の反省から生まれたとか?

福沢はのちに近代日本の進歩的知識人として世界的に知られるようになる。
彼は日本という国がその独自の文化を西欧の技術と結合してこそ、
強い国家になると信じていた。
彼はのちに東京にある慶應大学を創設することになる。

木村と咸臨丸の乗組員は、日本の世界的なランクの低さを考慮した。
彼らは東京に本拠を持つ軍事組織の長である将軍の全権大使であった。

故に彼らはサンフランシスコでは熱心に市内をみて回った。
日本という国の初めての大使としての使命をもって。

福沢は文化の違いに目を見張った。
”アメリカでは馬に車を引かせている。
アメリカ人は部屋中に敷き詰められたカーペットの上を靴で歩く”

木村は木村で、カリフォルニア知事が紹介もなしに飛び込みで
訪れた彼らに会ってくれたのに、大いに驚いている。

彼らの知識の吸収を助けたのは、ブルック大尉の力も大きかった。

市内視察の間、日本様ご一行はフェリー船「シェリソポリス」
ここメア・アイランドで建造されている様子を見学しています。

この時の彼らの様子をアメリカ人は大変興味深く描写しています。

当時はカメラもありませんから、日本人たちは船について詳細を学び、
構造など全てを測量し、スケッチを行い、
このスケッチを持ち帰った彼らは日本で同じものを建造したのですが・・、

この時日本人たちは船の細部までメジャーで測りまくった。
近代になって、サンフランシスコに団体旅行で訪れる
好奇心旺盛な日本人観光客たちは、
細かいところを
測る代わりに観たもの全てを熱心に
カメラで撮りまくっている。

いや、あのね(笑)

それこそ細かいところをこれでもかと撮りまくっている最中のわたしは、
この文章の前で思わず赤面してしまいましたよ。

というか、あっちこっち目の色変えて巻き尺で測りまくる日本人に、
さぞアメリカ人は異様なものを感じたんでしょうね。


サンフランシスコのレディたちは、皆この変わった客人たちに会いたがり、
異国からやってきたこの船に乗ることを希望した。

しかし木村は彼女らを咸臨丸に乗せることそのものを拒否した。
木村の基準では彼のほうが女性たちより「身分」が上であるため、
「礼儀は自分に払われるべき」と信じて憚らなかったのである。

女性は船に乗せない、ということになってたんじゃなかったですか?
日本では。


日本人たちはサンフランシスコで大歓迎を受けた。

レセプションが現地の関係者によって開かれ、彼らは正装で参加した。
通訳は、とにかく日本紹介を全部通訳しなくてはならず大変だった。

彼らはまた、ここまで連れてきてくれたブルック大尉とアメリカ人乗員に
手厚くお礼を言ったという。
いわれている方は日本語はさっぱりわからなかったが、とにかく
彼らが大変礼儀正しいということは十分に伝わった。


そして日本人たちはアメリカ海軍の設備について大変興味を示した。

また食べ物についてもこだわりなく、コールドターキー、
サラダ、甘いものやシャンパンなどを喜んで食べた。

咸臨丸のメア・アイランドでの修復は至極順調に進んだ。
しかしながら、二人の水兵が航海中に病気に罹り、これが元で
この地に到着してから死んだため、
彼らはコルマに葬られた。

コルマには現在でも日本人墓地が残されていて、
このときに亡くなったという峯吉、
源之助、富蔵の3名は
勝海舟の名前で建てられた墓に眠っています。

源之助は享年25歳、富蔵は27歳という若さでした。
残りの一人、峯吉は病気で動けなくなってしまい、やむなく咸臨丸は
彼を現地の病院に残してサンフランシスコを出発したのですが、

その後彼はやはり回復せずにやはり亡くなっています。

咸臨丸一行がメア・アイランドに着いたとき、ロバート・カニンガム司令は
彼らに咸臨丸をドライドックで無償で修理することを申し出ました。
日本とアメリカとの友好を深めたいという善意からだったということです。

修理の間日本人たちは二つのレンガの建物に士官と水兵に分かれて住んだ。
咸臨丸は5月までここにとどまったため、乗員たちは
サンフランシスコにしげく通い、芝居を見たり買い物をしたりした。

お金はやっぱり日本の全権ということでたくさん持ってたんでしょうか。
というか、日本のお金をどういう計算でドルに変えたのか・・・。

5月8日、新しく付けた二本のマストにこれも新しい帆を張り、
内外の塗装も真新しい咸臨丸は、日本に向けて出発した。

船が出航するとき、21発の礼砲が撃たれたという。

ただし、乗員のうち10名は入院していたため現地に残った。
彼らは一名を除き全員回復して8月に帰国している。

この一人というのが先ほどお話しした峯吉のことです。

咸臨丸に乗っていた5名のアメリカ人船員は、全て
冒頭に示した難破事件で生き残った人たちで、ベテランばかりでしたが、
最終的に日本人たちは全ての航法も操艦も、彼らの手を借りず
自分たちだけで行うことができるまでになっていました。


彼らはハワイに5月23日に到着し、その一ヶ月後日本に帰国を果たした。
福沢は生涯サンフランシスコでの暖かいもてなしを忘れなかったといい、
アメリカからもっと多くのものを学べると信じていたという。

遠い日本からアメリカにやってきて、帰っていった日本人たちは、
実に冷静な眼で、正しく我らの国(アメリカ)を見ていた、といわれる。

日本がいつの日か、国力的にも、軍事的にも、
我が国を脅かすほどの
競争力を持つことになろうとは
この時アメリカ人の何人たりとも予想していなかったが、

その萌芽はここにあったのである。

 

誰が書いたのか知らないけど、なんか、ありがとう(笑)

 

続く。

 

 


ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

2018-11-08 | 日本のこと

メア・アイランド海軍工廠跡の展示には、一見海軍工廠となんの関係が?
と思われるようなテーマのものもあるのですが、それも辿っていくと
「船」や「海」に関係のあることだったりします。

「アメリカ彦蔵」と言われ、日本人で初めてアメリカの市民権をとった
ジョセフ・ヒコこと濱田彦藏の写真を見たときもはて?と思いましたが、
よく見ると、こんな・・・

 

「KANRIN MARU」コーナー?
隣にはここメア・アイランドに寄港した事があるあの
咸臨丸についての紹介があるのですが、ヒコは別に咸臨丸とは関係ないのに・・。

まあ、遠い国日本から船でやってきた、ということでまとめたのでしょう。

ここに書いてあることをそのまま翻訳してみます。

ジョセフ・ヒコ(播磨国に浜田彦藏として生まれる)は、
1837年9月20日生まれ。

自然発生的にアメリカ合衆国の市民となった最初の日本人であり、
また日本で最初の新聞を発行した人物である。

彼の父親は地方の地主で、亡くなった後彼の母は再婚した。
彼は寺子屋(temple school)で学んでいたが、12歳になった時
その母親も死亡したため、エリキ丸という貨物船に乗っていた
継父に養育されることになった。

彼らが船で江戸(東京)に観光に行ったときのこと、
太平洋で台風に見舞われ、乗っていた船が難破した。

17名が助かって海で漂流していたところ、彼らを通りすがりの
アメリカの
貨物船「アウックランド」が発見し、救助したのである。

そのまま彼らはアメリカに連れてこられ、カリフォルニア、
サンフランシスコににやってきた最初の日本人となった。
時は1851年2月のことである。

貨物船の料理人だった「センタロー」という人物は、
写真を撮影された最初の日本人となった。

 

まず、彼が寺子屋で学んでいたことですが、裕福な家の子弟は
普通寺子屋に行くことはありませんでした。
これは、おそらく彼の父が亡くなり、母が再婚した相手が
船員であったことと無関係ではないでしょう。

 

それから「センタロウ」という料理人が最初に写真を撮られた日本人、
という記述ですが、これは仙太郎ではなかったという証拠が近年出てきました。

平成18年(2007年)3月27日放映の『開運!なんでも鑑定団』
にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから
彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼が寄せられたのです。

鑑定した結果、彦藏がサンフランシスコ到着後に撮影されたものと断定、
これが日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の
最古の記録を塗り替える大発見となったのでした。

お宝データ

当時14歳の彦藏の肖像です。

しかし、濱田彦藏、決して美青年というのではありませんが、
怜悧さがその目の光に見て取れ、冒頭画像に選んだ写真でも
不鮮明ながら彼が魅力的な人物であったらしいことが想像されます。

今なら雰囲気イケメンと言われるタイプかもしれません。

関係ないですが、こんなページが見つかりました。

濱田彦藏のオリジナルTシャツ

こんなの誰が着るの。

 

翻訳の続きです。

1852年、一行はマシュー・ペリー艦隊司令官にマカオに同行した。
日本の鎖国解放交渉をする手伝いに抜擢されたのである。

ヒコはその時に出会った通訳(アメリカ人)に、一緒にアメリカに戻り、
彼の手伝いをするために英語を勉強してくれないかと頼まれた。

当時彼は15歳で、一般的にいうと、語学習得にはもう年齢が経っていますが、
おそらく滞在期間の1年で、彼は相当英語が喋れるようになっていたので、
それを見込まれアメリカに連れて帰られた、ということになっています。

しかし、これは日本語のWikipediaとは大きく内容に相違があります。
ウィキ記事をまとめると、

アメリカ政府より一行を日本へ帰還させるよう命令が出る

ペリーの艦隊に同乗し帰国することになり1852年香港に到着

しかし、ペリーがなぜか現れない

待っている間、香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民)
の体験談を聞き自分達がアメリカの外交カードにされるかもしれないと懸念

10月に亀蔵・次作とともにアメリカに戻る←今ここ

この時、一行の中でサスケハナ号に乗って日本に行ったのは仙太郎だけで、
ヒコ三人以外は皆香港で日本人に匿われ、のちに清国船で帰国しています。

とにかく、この博物館の説明は無茶苦茶で、彦藏が
日本に戻ってペリーの通商交渉の手伝いをしたことになっています。

しかし気を取り直して続きを翻訳します。

ヒコは1853年アメリカに到着した。
彼はボルチモアにあるローマカトリック教会の学校に入学し、
1年後「ジョセフ」という洗礼名を与えられた。

1957年西海岸に移った彼は、当時のカリフォルニア議員だった
ウィリアム・M・グィンの秘書としてワシントンDCに同行。

1858年までグィンの仕事をする中、ジェイムズ・ブキャナン大統領に会い、
日本の紹介を行なった史上初めての日本人となった。

その後彼はジョン・M・ブルック少佐に同行して中国並びに日本の
沿岸部を調査する航海にも参加している。

同年6月、彼はアメリカ市民となる権利を付与された最初の日本人となった。


さて、この部分、Wikiではどうなっているでしょうか。

サンフランシスコに帰国後、税関長のサンダースに引き取られた。

その後、ニューヨークに赴く

んん〜?
議員秘書の話はどこに行ってしまったの?

ウィリアム・グィン

この部分は日本のwikiが無茶苦茶です。
英語のウィキではグィン上院議員のことはちゃんと書かれています。

1853年、日本人として初めてアメリカ大統領(ピアース)と会見した。

おそらくボルチモアにピアースが来た時に会ったのでしょう。

またサンダースによりボルチモアのミッション・スクールで
学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。

1858年にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。

そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り
日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今では
そのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。

 

上院議員の秘書になったという話を省略してしまうと、ヒコが
どうしてブキャナンと会見できたかわかりませんね。

最後の段では、ヒコがなぜアメリカ国籍を取ったかが説明されています。

当時日本人が渡航で海外に行くことは禁じられていました。
漂流していたのを助けられ外国に連れていかれたただけならともかく、
現地で洗礼を受けてジョセフという名前になってしまった以上、
再入国拒否どころか国禁を犯したかどで逮捕される恐れがあったのです。

これを避けるには、日本の法律が適応されないアメリカ人として入国するしかありません。
つまり、彼は、

日本に帰国するために日本人であることを捨ててアメリカ人になった

ということになります。
このパラドックスはさぞ若い彼を苦しめたことと思われます。

 

お次は英語版Wikiです。

1859年ヒコはUSS「ミシシッピ」で日本に帰国した。
彼はアメリカ領事であったE・ドアーに会い、通訳の仕事を得る。

1860年横浜で貿易商館を開き、そこで
サンフランシスコからパートナーがくるのを待っていた。

日本のウィキではこの「ドアー」がタウンゼント・ハリスとなっています。
どっちが正しいのかもうわかりません(投げやり)

 

ところで、本日冒頭に描いたヒコは、日本に帰国した頃のものですが、
何歳くらいだと思われますか?


横浜に着いたとき彼はまだ22歳。
アメリカで上院議員の秘書をしていたのはその2年前なのです。
二十歳の若者が一度ならずアメリカ大統領に謁見し、祖国について話す。

これは彦蔵が決して凡庸な人間でなかったことを意味します。

 

ところで、赤字にした部分に「パートナーを待っていた」とありますね。
(日本語のWikipediaには記述なし)はっきり書かれていないのですが、
彼が待っていた「パートナー」とは、次の記述から女性だったと思われます。

「しかしながら、その関係は1861年3月1日に解消(dissolved)された」

サンフランシスコから恋人を呼び寄せたものの、彼女は
日本の生活に馴染めず、3月1日付でお別れをしたってことじゃないでしょうか。

なんで日付まではっきりわかっているのかわかりませんが。

「失意の一年を送った後(after doing poorly for a year)
ヒコはUSS「キャリントン」でアメリカに戻る」

つまり、彼は「失恋帰国」をした、というのです。
ところが日本のwikiではこれが、

「当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、身の危険を感じて帰国」

となっています。
どちらが正しいというより、どちらも正しかったのではないでしょうか。

 

この帰国中の1862年には、なんと彦藏、ブキャナンの次の大統領、
アブラハム・リンカーンとの会見を果たしました。

政治家でもないのに、三代にわたる合衆国大統領と公式面会した日本人は、
現在に至るまで濱田彦藏ただ一人だと思うのですがどうでしょうか。

帰国後、彼は「漂流記」という体験記を日本で出版しています。
漂流したときのことのみならず、アメリカでの体験もそこには描かれていました。
そして、その流れで、彼は「海外新聞」という日本語の新聞を出版し、
これが日本における2番目の(最初はその2年前に発刊された『官報バタビヤ新聞』)
新聞となりました。

これを「国内初めての新聞」として、彼を

「本邦民間新聞創始者」「日本新聞の父」

とする向きもあるようです。
ただし、赤字だったせいで海外新聞は数ヶ月で廃刊となっています。

この数ヶ月の間にリンカーン暗殺が起こり、「海外新聞」では
このことを記事として取り上げた唯一の日本の新聞となりました。

彼はその後も京都と大阪での想い出を綴った「困難の時」、また、
1869年起こった米騒動についての見聞記も書き残しています。


33歳で造幣局の創設に関わり、35歳で大蔵省で国立銀行条例の編纂に関り、
茶の輸出、精米所経営を行うなど、語学力と人脈を生かして
公私にわたり大活躍を続けた彼ですが、もっとも大きな彼の功績は、
木戸孝允伊藤博文に薩摩藩に非公式に呼ばれ、合衆国憲法
英国憲法について彼らの質問に答えたことではないかとわたしは思います。

これは、大日本帝国憲法制定の20年も前から、木戸らが世界の憲法について
調べるなどしてその準備を始めていた、ということを表します。

彼らは彦藏を長崎に呼び寄せて彼をエージェントに据え、
彼は、ほぼ2年間、無償でその仕事をしていました。

しかものちに彼は伊東博文が英国に訪問することになった際、
その英語力を生かしてHMS「サラミス」の手配を行うなど、
私心のない働きを日本政府に対して行なっているのです。

HMS Salamis 

このように彼は自らの数奇な運命から得ることになった技能と経験を生かして
祖国のために粉骨砕身働き、かつ
国政に限りなく近い場所に居ながら、
決して政治に携わることはありませんでした。

なぜなら彼はアメリカ人だったからです。


ジョセフ・ヒコ、濱田彦藏が心臓病のため61歳で亡くなったのは
1897年のことでした。

アメリカ市民であった彼の亡骸は青山墓地の外国人区域に葬られました。

墓石には、横書きで刻まれたアルファベットの彼の名前の下に

「浄世夫彦之墓」

と当字のジョセフ・ヒコの名が刻まれています。
彼の日本名は、墓石に刻まれている碑文の冒頭の

浄世夫彦ハ元名ヲ濱田彦蔵ト云フ

という一文に残るのみです。

アメリカ国籍を取得した時、つまりアメリカ人となった時に、
彼は日本の名前、濵田彦藏を完全に捨て去ったのです。

アメリカ人である彼は日米のどちらに住むことも可能でしたが、
両国間を往復しながらも結局日本に骨を埋める選択をしました。

日米の伝記には決して出てこない当時のアメリカでの過酷な体験が
彼にそれを選ばせたのではないかと思うのはわたしだけでしょうか。