ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

恩師の激励〜工学部卒業式@ベイエリア

2024-07-06 | アメリカ

アメリカ西海岸におけるMKの大学卒業式シリーズ、
この学部セレモニーでいよいよ最後となります。


前回の卒業式は、学部セレモニーと全体セレモニーが別の日だったのですが、
今回は大学卒業式に続いて午後からが各学部での式となります。

スタジアムを出て指定された建物へと向かいます。
皆が各学部への移動を一斉に始めるため、学内はご覧のように
ガウンを着た人と家族関係者がいろんな方向に三々五々歩き回っています。


工学部卒業式会場は、名前こそ「メイプルズ・パヴィリオン」ですが、
なんとバスケットボール専用体育館です。
なんと、バスケの練習と試合をするためだけの体育館があるのです。
(まあ、至る所にビーチバレー部のためにあちこちに専用コートがあって、
ゴルフ部のために専用ゴルフ場がある大学ですから当たり前ですが)

アメリカの私大は、スポーツの振興でも大学名を賭けて競い合うため、
高校スポーツでいい成績を出し、大学の決めたレベルをクリアすれば、
いわゆる「エリート校」に推薦入学することができます。

もちろん当大学くらいになるとSATの成績が悪ければ入れませんし、
大学入学後に成績が維持できなければ試合に出してもらえません。

ちなみに、当大学のバスケチーム、「カーディナル」ですが、
現在では男子より女子の方が強い模様。


天井のこれは4面に向けたスクリーンになっています。
バスケットボール専用体育館なので仕方がないのですが、
蛍光灯に照らされ、劇場のような照明は望むべくもありません。



今度は正面ではなく、壇を一番近くで見られる場所に席をとりました。
「威風堂々」が流れる中、卒業生たちが入場してきます。


上のスクリーンからは別角度からの入場が見られます。


博士課程、大学院、学部卒業生全部合わせてもそんなに多くはありません。


全卒業生が入場を終わりました。
帽子をクリエイトしている卒業生は多くはありませんが何人かいます。

■ 錚々たる教授陣


続いてファカルティ、教職員が入場し壇上に着席しました。
卒業生に渡される卒業証書はダミーで、名前は書かれていません。



今年工学部の卒業式の進行を行ったのは、機械工学者であり
ロボット工学者のアリソン・マリコ・オカムラ教授でした。

Allison Mariko Okamura

日本人としてどうしてもその名前が気になってしまいますが、
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系アメリカ人です。

ロボティクス分野に関しては、触覚技術、遠隔手術の研究を通じて
医療分野におけるロボット技術の普及に貢献しておられます。

オカムラ教授によって、教授陣が紹介されます。



紹介が終わると、二人が壇上に上がりました。
このコリンズ准教授の専門はヒューマノイド型ロボット研究。

かっこいい・・まるで映画に出てくる教授みたいです。
この綺麗なブルーのガウン、ミシガン州立大でPh.Dを取ったことを表します。



続いて、副学部長のケン・グッドソン教授。
グレーと赤のガウンは、MITの博士号を受けたことを表します。
壇上で一際存在感を放っていると思ったら、やっぱり凄い人でした。

一番目立ってた

専門は、電気自動車、データセンター、
パワーエレクトロニクスに応用される熱伝導とエネルギー変換で、
DARPAや政府のエネルギー研究局、空軍科学研究所などからの支援を受け、
発明家としても35の特許を持っています。
アップル社のためにヒートシンクを製造した実績もあります。

また、バリトン歌手としてオラトリオのソロを務める一面もあり、
タングルウッドで声楽のフェロー、芸術賞を取っているそうです。

■ 博士号授与



まず、博士号を取った人たちに、
壇上でガウンの上にストールをかける儀式が行われます。

赤と黒のガウンは当大学独自のもので、
そこに肩からかけるオレンジのストールは工学博士を意味します。



新博士たちは、自らのストールを手に持ち登壇して、
担当教授直々にストールを後ろからかけてもらいます。



背の低い教授に大きな人が掛けてもらうのはちょっと大変。




卒業生は自分の名前が書かれた紙を、コールする人に直前に渡します。
おそらくこの人(インド系)は、名前の読み方を確認されています。

そしてこの後、博士号取得者は、元いた席にではなく、
壇上の、教授准教授の後ろに設えられた椅子に座ります。

つまり、これからは皆同じ博士ですよってことなのでしょう。

■ 修士号授与



というわけで、MKが修士号授与される順番になりました。
彼の名前をコールしているカトコスキー教授は、なんのご縁か、
MKが学士授与された大学で博士号を取っており、
そうと一目でわかるタータンチェックのストールをしておられます。

このストールが素敵だと思ったのはわたしだけでなく、MKも、

「もし将来Ph.D.取ることがあればここよりC大がいいなあ」

その理由はというと、やはりこのタータンチェックだそうです。

ちなみにカトコスキー教授の専門も、ロボットハンドなどです。


前後に並んでいるのはみんな親しい「学友」なので、
名前を呼ばれると声援を送り合い、盛り上がります。

ヒスパニック系など、大家族で応援に来ている卒業生の名前が呼ばれると、
一族郎党が凄まじい声で名前を叫び、プラカードが振られます。


賞状を渡す係とまず握手。
この方、コンピュータサイエンスの助教授で、名前が凄い。

モンロー・ケネディ3世
Monroe Kennedy III


ファーストネームがモンローでファミリーネームがケネディ。
しかも、三代に亘ってこの名前がアフリカ系一族に受け継がれてるって、

・・・・・なんか色々と謎の情報量多すぎ。

ケネディ助教授も専門分野はロボット工学です。


モンロー・ケネディ3世助教と写真を撮って、おしまい。


博士課程、修士課程のセレモニーが終わりました。
2024年というのは当大学133回目の卒業式に参加した卒業生が、
「クラス2024」と生涯にわたって呼ばれる数字となります。


さて、ここからは学士、アンダーグラデュエイト認証となり、
カトコスキー教授に変わってコリンズ准教授がコール係となりました。


モデルさんですか?みたいな人も結構います。


「世界130カ国から集まっている」という当大学。
わたしたちの近くに座っていた一団はオーストリアから来た家族でした。
(帰りのチケットを確認していたのが見えてしまった)

この写真の女性のように、国旗と共に登壇する愛国者もいます。
彼女が持っているのはモーリタニア国旗ではないでしょうか。
(赤いラインがないのは旧国旗だから?)

モーリタニアはアフリカの西岸に面した人口465万人のイスラム教国で、
国土は日本の2.7倍ですが日本大使館は目黒区五本木の一軒家です。

なお、全員の名前が呼ばれるのを注意して聞いていたのですが、
全工学部中、日系と思われる女性は一人、(教授に一人いますが)
ファーストネームも日本名の、つまり留学生らしき卒業生は、
この中でMKと学士の女性一人だけでした。

つまり工学部で男性の日本人留学生はMKだけだったことになります。

そういえば、北東部の大学にいたときも、日本からの留学生は少なく、
そのことがアメリカ人の父兄とレセプションの席で話題になり、

「日本は元々先進国だから、留学の必要がないんじゃないですか」

と言われましたが、それもちょっと違うような・・・。

■ キャップトス(帽子投げ)


卒業証書授与式が終わり、一瞬素に戻っている先生たち。
画面左手にあるロゴ入りのボードは、撮影用のバックで、
卒業生がここに来ると業者が一人ずつ撮影を行います。

卒業式後、すぐに業者から写真を買えというメールが来たので、
当然のように買ってしまったわけですが、届いたプリントを見ると、
うーん・・・わたしが撮った写真のほうがよく写っているかも・・。



アメリカのセレモニーの不思議なところは、
「ここで終わり」というアナウンスをしないことです。

なので、卒業生たちはなんとなく終わった〜的タイミングで
てんでに立ち上がり、何人かが帽子を投げたりし始めます。

この帽子投げは英語では「ハットトス」「キャップトス」といいますが、
本来は、これから任官して帽子が変わる士官学校での慣習であり、
普通の大学の卒業帽=「モルタルボード」mortarboardは投げません。

「新しい帽子を得るために古いものを捨てる」という意味がないからです。
つまり、そのイメージを受け、完全に雰囲気でやっているだけです。

それに、改造されてプラスチックなどを貼った帽子は、
下手に投げたら角で人を傷つける心配もありますからね。

■ 野外レセプションパーティ


セレモニー終了後は、体育館横のバーベキューエリアで
工学部主催のレセプションがありました。

スタジアムには軽食のスタンドもあったので、
それを買い求めて食べている人もたくさんいましたが、
わたしたちは朝早く、一口だけ食べて家を出てきただけなので空腹です。

そうそう、スタジアムで横に座っていたコリアンらしい青年は、
買ってきた山のようなフライドチキンのバレルを抱え、もりもり食べて、
食べ残しをそのまま座席の下に放置していったわけですが、
彼に限らず、セレモニーが終わった後、スタンドの足元に、
ペットボトルやその他食べ残し、チラシなどゴミを放置する人多数。

「一流と言われる大学の卒業生関係者でもこれか・・」

とちょっと唖然とさせられました。
ワールドカップでゴミを拾う日本人応援団が話題になりましたが、

それがいかに世界基準では異様なことだったかがよくわかります。

こっちの人ってまじで、


「掃除をする人の仕事がなくなるからゴミ拾いなんて必要なし」

とか平気で思ってそうなんですよね・・。


卒業生は木陰のテーブルに座り、あるいは立って、
お世話になった先生と話したり、家族に会ったりします。

そう、レセプションパーティは食事をする場所ではないのです。



とはいえこれは・・・いかがなものか。

お腹が空いたので、フードの列に並んでみたところ、
テーブルの上にあるのはズッキーニのサラダ、
中身スカスカのソフトタコ(しかももう残ってない)、クッキー。
飲み物はサーバーから汲む生ぬるい水道水、以上。

「タンパク質とか全くねええ!」

「ビーガンの人に対する配慮かな」

「レセプションって量じゃないぞ」

しかし、とりあえず一皿取って食べたら味はそう悪くない。
小皿一杯では流石に量も足りないので、おかわりしようと思ったら、
このわずかしかない食べ物に長蛇の列ができていて、諦めました。
(きっと全員に行き渡らなかったと思う)しかも補充される様子なし。

いかに食べ物の質に頓着しないアメリカ人もこれにはびっくりだ。
MKも呆れて、

「工学部何考えてんだ」

おもてなし以前に、共感性欠如疑うレベル。
まさかこの大学で「予算がなかった」なんて言い訳通らないぞ?

きっとビジネススクールはこんなんじゃなかったんだろうな、とふと思う。

■ 駆けつけてきた「レジェンド」教授



MKと同じラボの研究生が、恩師を囲むの図。

教授は昨年一杯で退官し、リタイアしているのですが、
可愛い?弟子たちの卒業式に立ち会うべく、
ロスアンゼルス方面から車を飛ばしてやってきたのでした。

しかし、この日曜日、道路が異常に渋滞していて、
到着したのはセレモニーが終わったときだった、とのことです。

ちゃんと弟子に会うために退官後にもかかわらずガウンを着用。
MK曰くその分野では「レジェンド」というべき存在だったとか。


早速恩師を囲んで記念撮影が行われました。



わたしが一番好きなのがこの写真です。

退官したにもかかわらず、弟子のために数時間かけてやってきて、
彼らの門出を祝福してくれる名物教授。



そういえば、最初にラボの見学をさせてもらったとき、
教授の似顔絵が貼ってあったなあ・・・。

写真の身振り手振りからも、教授が教え子にいかに真摯に対峙していたか、
いかに尊敬され、慕われていたかが推察できる一瞬だと思います。

自分の薫陶を受けた技術者が、これからの世界に
どれほどの功績を遺すかを、心から楽しみにしている師の姿。

後藤新平が言ったという、

「人を遺すは一流」

という言葉を、カリフォルニアの太陽の下で思い出したわたしです。


というわけで、長らくお付き合いいただいた卒業式シリーズ、終わります。
MKはこの後、企業の研究所でインターンシップを行った後、休みを取り、
本格的に地元で技術者として歩みだすことが決まりました。

親としての役目は一応これで一区切りついたと言えるかもしれません。


卒業式シリーズ終わり



メリンダ・ゲイツのスピーチと学位承認の儀式〜大学卒業式@ベイエリア

2024-07-03 | アメリカ

アメリカ西海岸で行われたMKの大学の卒業式、
パレスチナ支援の卒業生たちが数百人単位で式をボイコットし、
会場を去っていく間も、臨時学長リチャード・サラー氏の演説は続きます。


後でMKが、このスピーチを、

「何が言いたいのか全くわからなかった」

と貶していました。

改めて内容をチェックすると、まず、何分もかけて言葉を変えながら、

「君たちをここまで育んだ家族とコミュニティに対する感謝が大事」

と一言で済むことをクドクドと?繰り返しています。

まあ当たり障りないというか、当たり前というか、普通の内容です。
ひとしきりそれが済むと、歴史学者であるサラー学長は、

「古代ローマの専門家として語る」として、続けました。

「過去4年のパンデミックの悲劇を矮小化するつもりはないが、
絶望的な物語の中で過去を理想化したり美化するのも間違いです。

幸福度のほとんどの尺度において、みなさんの世代は、
古代ローマ人や100年前のアメリカ人、私の世代より先を行っていますし、
みなさんは先祖より長生きする可能性があります。

過去1世紀にわたってアメリカの平均寿命は40%延びました。
1970年以来、世界の平均寿命は16年延びました。
古代ローマにおける15歳未満の子供の死亡率は50%でしたが、
1950年には25%、現在ではわずか4%になりました。

そして、ほとんどのローマ人は自給自足していたが、
現在極度の貧困率は減少し識字率も古代の10%から現在は87%へと(略)」

で、何が言いたいかというと、これらの変化は教育と、知識の発見、
普及の賜物であり、皆さんと大学はそれに貢献しているということらしい。


過去より現在、現在より未来が人間にとってより良いものになっている、
ということを、学長は学者らしく数字を挙げて証明したかったのでしょう。

そして、今の世界にも問題は各種存在するが(ボイコットの原因含む)

明日の世界をより良くするために、皆さんはここで学んだことを活かして
それら問題を解決していってくださいねと言いたかったようです。

しかし、MKとその周りに、この学長代理のスピーチは滅法不評でした。
数字ばかり挙げて、で、古代ローマとか何言ってんの?みたいな。


確かに古代ローマ史の専門家で「ならではの」視点はないかもしれません。
単にその事実を数値化するだけなら誰にだってできますし。

■ メリンダ・ゲイツのスピーチ



サラー学長がこの日のキーノート・アドレス、
=基調講演を行うスピーカーを紹介しました。

「慈善家、事業家、女性の人権保護者、そして当大学育ての親」

である、メリンダ・フレンチ・ゲイツ氏です。

プログラムには「Pivotal 創業者」と紹介されていますが、
ピヴォータルとは、2015年に設立された、ベンチャーキャピタル、
政策、権利擁護の橋渡しと推進を行う組織名で、
女性の経済的および政治参加を増やす取り組みを使命としています。

(つまり彼女のライフワークは女性の権利の向上でもあるわけです。
そんな人が夫とエプスタインのような人物の関わりを許すはずありませんね)

彼女の慈善事業へのアプローチは、イデオロギーよりも柔軟性を重んじ、
あくまでもデータ主導であり、その上で、アメリカの裕福な人々に
その富を慈善活動に寄付することを呼びかけており、
彼女自身も今後2年間で10億ドルを寄付する予定だそうです。

以上のことを学長がスピーチすると、会場から拍手が巻き起こりました。

ちなみに彼女のウィキペディアには、最後に
この日卒業式で基調講演を行ったことが付け加えられています。

Melinda French Gates 2024 Stanford University Commencement Speech
自動翻訳から日本語を選択できるので、
もしご興味があれば聞いてみてください。

最初に彼女は、当大学メカニカルエンジニアで学んだ彼女の父が、
メリンダの姪の卒業を見るために母と一緒にここに来ている、と言います。
なお、彼女の娘も、娘婿もここで学位を取得しています。

この日大学がメリンダに2回目となるスピーチを依頼したのは、
彼女の姪が卒業するタイミングだったからだったかもしれません。

この日は父の日だったので、彼女は会場のすべての父親におめでとうを言い、
母親たちを労って、聴衆の心をしっかりと掴みました。

スピーチの核心に入ると、彼女は、アメリカの思想家、ラム・ダスが言った、
海を渡る二つの波についての話をします。

「大きな波と小さな波が岸に向かって打ち寄せていた。

陸地に近づくにつれ、大きな波は、波が海岸で砕けるのを見て絶望し、
小さな波に、『私たちはもう終わりだ』という。

しかし小さな波は微笑んで『心配しないで。大丈夫ですよ』という。
大きな波が、それでも『終わりだ』というのに対し、

小さな波は落ち着いて、

『それは違います。その理由をたった六語で説明します』


といった。
その六つの言葉とはこうだった。

『You are not wave, you WATER.』
(あなたは波じゃない。水です)


そして、60歳になった自身に訪れた様々な経験について、
それが目の前にある時には、大きな波が感じたような恐怖に見舞われたが、
次の日には乗り越え、それからの行動が自分を形作ってきたと言います。

そして、皆さんはこれからこの大学の卒業生として、
色々と展望や計画を持ち、世間も皆さんを必要としていると思うが、
人生には往々にして想像もしなかったことが起こるので、
自分のこの地球上での使命について皆さんは考え方を変える余地を残し、
それを厭わないでほしいとして、

「波が波でなく自分を別の名前、『水』と呼ぶことを認識したとき、
自由自在に新しい形になることができるのです」

そして卒業生には、自分自身の小さな波(大きな波を見る視点)を持ち、
物事の本質を見る視座を養うように、と、
自分自身のマイクロソフト入社時の(苦い)経験をもとに語ります。

そして、自分自身にとっての小さな波になってくれる人を見つけること、
また、誰かにとって自分が小さな波の役割を果たし、
信頼性の構築によって壊れた世界を修復することを望み、

”And when you wake up tomorrow,
no longer the person you are today
and not yet the person you will become next.
(明日目覚めたあなたは、もう今日のあなたではありませんが、
まだ次の自分になることもできていません)

I hope you will draw courage and confidence knowing
that you graduates are water, the force that shapes the shore.
(私が望むのは、卒業生の皆さんが勇気を自信を持つことです。
なぜならあなた方は水で、岸辺を形作る力であるのだから。

What a powerful force you are.
(それはなんと力強いものでしょうか)

と締めくくりました。


明快でわかりやすく、そして説得力のある訓戒です。
さすがはフォーブスの「最もパワフルな女性100人」に
2013年以降ほぼ毎年ランクインしており、
国内外から様々な勲章を受けている女性のスピーチだけあります。

卒業生たちも、素直にこのスピーチには拍手を送っていましたし、
後で聞くとMKも「学長のは酷かったけど」こちらは評価していました。

わたしは、客席からの写真ではわからなかった彼女のブレスレットが
ヴァン・クリーフ&アーペルであることを目ざとく察知しました。

でっていう話ですが。


■ 学位授与の儀式

ここで、博士号、修士号の授与式が行われました。

授与式とは、各学部の学部長が順番に対象者を紹介し、
学長がそれを受けて宣言することで、
この瞬間卒業生は正式に学位を与えられた者となります。

わたしがアメリカの大学の卒業式に出席するのは三度目ですが、
以前出席した2回とは全くやり方も方式も違いました。

アメリカでは、各大学の歴史や規模によって独自の方法が培われ、
それを継承して伝統にしているのだということがよくわかります。



本学の学位授与には定型があります。
最初に行われたMKの工学部で説明すると、まず学部長が登壇し、

「工学部の候補者はどうぞ起立してください」


それを受けて、工学部の博士号、修士号取得予定者が、
歓声を上げつつ立ち上がり、学部旗が振られます。

すると学部長が、

「学長閣下、私はあなたに理学修士、工学修士、
Ph.D.(後述)の学位取得要件を満たした者をここに紹介します

といい、学長がそれに答えて、

「ありがとうございます、ウィットマン学部長。
本大学の教授会および理事会から私に与えられた権限により、私はここに、

あなたがたに授与された学位を授与し、その権利、責任、特権を認めます。
おめでとう!

会場から拍手が起こり、ここで初めて彼らは学位取得者になるのです。


続いて法学部、教育学部が続きます。



教育学部は修士、博士合わせて総勢30人くらい。
学部長は、学部紹介の時、

「Small but mighty.」(少数精鋭です)

と付け加えて、会場から温かい笑いが漏れました。
続いて人文科学部、そして「ドー・スクール」。

「Doerr(ドー)School of Sutainability👈click

は当大学独自の大学院で、米国最大の気候変動関連学部の一つです。
日本語で言うなら「持続可能開発大学院」とでも言いましょうか。

土木・環境工学(工学部との共同部門)、地球システム科学、
エネルギー科学・工学、地質科学、地球物理学、海洋学の研究を行います。


そして次の学長が登壇すると、早くも歓声が上がり始めました。
次に学位授与されるのはスクールオブビジネス、経営大学院。

おそらくアメリカで入るのが一番難しい、世界の最高峰ビジネススクール。
裕福さにおいても全米で2番目と言われております。

なんかイメージとして、全員イケイケで派手な感じ?
少なくとも工学部とは全く違う毛色の人種が生息していそうです。

そして、このジョナサン・レヴィン学部長は、
次期学長となることが決まっているのです。

サラー学長は、レヴィン学部長の任期が終わるまでの繋ぎを務める立場から

「あなたのビジネススクール学部長としての最後の卒業式に際して、
GSPへの貢献と、当大学の学長職を引き受けてくださることに対する
私からの感謝を受け入れてください」


とこの時にその就任について言及しました。


案の定、ビジネススクールの一団からは、大歓声が巻き起こります。
その派手さに、会場の人たちはちょっと呆気に取られている感じ。


立ち昇る紙吹雪(かな?)、飛び交う風船。


よく見るとあっちこっちでシャンパン(と見せかけた発泡水)
の瓶を開けて、周りの人たちの帽子はびしょ濡れ状態・・・・。

なんか知らんが、さすがはビジネススクール。

何から何までノリが違う。


最後に学位授与されたのは、大世帯のビジネススクールの前に、
わずか三列に収まっていた少人数のスクール・オブ・メディシンでした。

理学修士、医師助手学修士、科学修士、
そして「ドクター・オブ・フィロソフィ」が与えられます。

最後の「Doctor of Philosophy」は略称Ph.D.(ピーエイチディー)で
所定の在学期間を経たのち、筆記&口頭試験に合格したものが、
3年から5年以内に学位請求論文を精査されたのち与えられるものです。



さあ、そこで学長がこんなことを言います。

「マルティネス学長補佐、我々は誰か忘れてませんか?」


「さあどうでしょうか。誰かまだ残ってます?」



すると学士予定者が歓声を上げました。

わたしは入場の時にちょっと勘違いしていたのですが、
「バチェラーオブアート、バチェラーオブサイエンス」は
文系、科学系の学士の総称、つまりアンダーグラデュエイト卒業生です。

そして学長の宣言により、彼らに無事学士が与えられました。
そして最後に学長の、

「おめでとう、クラス2024 !」

と言う言葉の後、サノ教授の指揮による
「Stanford Hymn(大学讃歌)」が演奏されました。



「なだらかな丘が聳え立つ場所
さらに高き山の頂へ
海岸山脈のあるところ 夕焼けの炎の中
それは真紅に染まり、蒼ざめていく
ここで我々は歓呼の声をあげる

汝、我らがアルマ・マター(母校)よ
麓より湾に向かいて
我々が歌うときそれは鳴り響く
鳴り響き、そして舞い上がる
万歳、Stanford、万歳」


プログラムにはこの歌詞が載っており、
観客席の周りからは卒業生なのか、唱和する声が聞こえました。



そして本当の最後に、宗教、スピリチュアルライフの学部長であり、
牧師でもあるステインワート博士が、

「皆さんは思いやりに満ちたコミュニティを構築し、
美しい世界の壊れた部分を修復、保全、構築することができますように」


と述べて、最後に

「アーメン」

で締めくくりました。
どんなにリベラルが「メリークリスマス」を言えないような風潮を作っても、
依然アメリカはキリスト教国なのだと思った瞬間です。



で、ここからがアメリカ(の悪いところ)だなあと思ったのは、
これで終わりとか、皆様お気をつけて会場をとか言わないので、
卒業生が勝手に立ち上がってその辺をうろつきだし、
中世ファンファーレのブラスが厳かに流れる中、
退場する教授陣の通路が塞がれてしまったことです。

いかにもアメリカ人らしいお行儀の悪さ。

流石に、

「卒業生の皆さん、皆席に座って教員が退場するまで待ってください」

とか注意されていました。


わたしたちも一斉に退出する観客と一緒にこの後出口に向かったのですが、
このスタジアム、出るにはいくつかの狭〜〜〜〜いトンネルを通るので、
その前で人間が渋滞してしまい、外に出るまで団子状態で待たされました。

「もしテロや火災が起こったら確実に大人数が往く魔の構造だね」

などと、スタジアムの構造に文句を言いながら外に出ます。


検索したら、1993年の卒業式の映像が出てきたのですが、
それを見る限り、それ以前からあった古いスタジアムのようです。

いまいち安全性に関しては考慮されていないようでしたが、
よく今まで何事も起こらずきたものだと感心しました。

なんとか外に出た後、今度は工学部の卒業式会場に向かいます。


続く。


親パレスチナ派の卒業式ボイコット〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-30 | アメリカ

MKの大学の卒業式報告、続きです。


先住民族から当大学の「承認」を受ける、という
アメリカならではの儀式を終え、ここからが卒業式本番です。



まず学長の「ウェルカム」宣言。
卒業生への祝辞と、学位取得者への賞賛、そして
グラウンドキーパーなどセレモニーのために働いた人々への労いが続きます。

この学長(実は臨時の学長らしいですが)は、

博士号103名、修士号2,475名、学士号1,838名

学部生中176名が80カ国の出身
大学院生中1,301名が110カ国の出身


と数字を挙げ、本学で学んだ人々が世界に多大な貢献をすることを期待し、
卒業生たちをここまで連れてきた彼らの家族や友人に
立ち上がって拍手を送ってください、と告げると、


グラウンドの卒業生たちは立ち上がり、振り向いて
スタンドに向かって手を振り声援を送りながら拍手、
スタンド側からもそれに答えて手が振られ歓声が上がりました。

そして引き続き各種賞の贈呈が行われました。
ここでいう賞は、卒業してからの業績に対してのものがほとんどです。

■ 数百名の学生が卒業式をボイコット


賞の授与が終わり、学長のリチャード・サラー(Saller)が挨拶を始めました。
このサラー学長が一時的な代理だったことを後から聞きました。

前学長のテシエ=ラヴィーン氏が、神経生物学の論文における
データの操作と改竄という、学者にとって致命的なスキャンダルによって、
本人はそのことを否認しながらも、大学のためにと辞任したのを受け、
サラー氏は次期学長が就任するまでの間の代理学長を務めています。

あくまでもテンポラリーな繋ぎなので、名前は学長として残されないし、
よりによって大学史で初めてとも言われる学生運動が任期中発生し、
こんな時に不祥事を受け代理なんて損な役回りとしか言いようがありません。

スピーチを始めた学長は、まずコロナ禍下入学した学生たちの困難にふれ、
次いでここ一年の「悲惨な戦争」について言及しました。

そこまできた途端、卒業生席が大きくざわめきました。



イスラエルのスカーフを掲げた女性を先頭に、
卒業生の席から、次々と人が立ち上がり、退場を始めたのです。

拍手とピーピーという口笛、ざわめき。
それらは席に残る卒業生からだったとは思いますが、
彼らの行動を賞賛するものばかりではなく、
おそらくその中には、非難の声も含まれていたことでしょう。


ある者はイスラエルの旗を持ち、ある者はスカーフを巻き・・。

彼らが入場してきた時、この豆絞り風のスカーフが目につき、

気になっていたのですが、この時になって、この柄が、
PLOの故アラファト議長が着用していたのと同じであるのを思い出しました。

このスカーフ、クーフィーヤというそうですが、
白黒のクーフィーヤはパレスチナの象徴となっています。

後から新聞記事で知ったところによるとウォークアウトしたのは数百人。

しかし、わたしもTOも全く予想外の出来事だったので、
彼らの持っているプラカードに、

「大学はジェノサイドに投資している」

と書かれているのを見て初めて彼らが
大学がイスラエル側に立っているとして抗議していると知った次第です。



よく見ると、客席からも彼らに声援を送る人が少数いて、
大学院卒業者席は、皆が携帯で写真を撮っています。


おそらく大学当局は、なんらかのアクションを予想していたかもしれません。
しかし、まさか学長のスピーチの途中でウォークアウトとは。

大学公式のビデオでスピーチする学長の様子を見ると、
(カメラはずっと学長の顔をアップにしている)
卒業者席から歓声が上がり、抗議者たちが立ち上がりだしても、
学長は平静を装ってそちらをチラリとも見ることはありませんが、
明らかに声の調子には動揺があるのがわかります。

この写真でメリンダ・ゲイツはずっと学生の列を目で追っており、
彼女の横の女性学部長たちは、おそらく今年になってから、
パレスチナ系学生の度重なる学内での狼藉について非難してきた立場なので、
この写真にも明らかなくらい、不快感をあらわにしています。

左後ろには、壇上からビデオ撮ってる教授もいますが(笑)

この件を報じるロスアンジェルスタイムズの記事より。

「学生数百人が、パレスチナへの支持を示すため卒業式をボイコットし、
イスラエルとハマスの戦争に関連した抗議活動で揺れた
キャンパスでの激動の一年を締めくくった。


ソーシャルメディアで拡散している動画には、
リチャード・サラー学長が卒業生に向けてスピーチをしている最中に、

学生たちが次々と椅子から立ち上がる様子が映っている。

学生たちの多くはクーフィーヤやパレスチナの国旗を振っている。
数分以内に、数百人がスタジアムから流れ出る様子が見られる。

このストライキは親パレスチナ派の学生団体が計画したもので、
同団体は学生たちに式典を離れ、別の場所で行われる
「人民の卒業式」に行くよう呼びかけていた。

■ 学生の「座り込み」活動


ガザ地区でのハマスとイスラエルの戦闘が始まった2023年10月17日以降、
アメリカ全土で学生を中心とした抗議運動は活発化していました。

イスラエルの攻撃はハマスの奇襲攻撃に対する報復だったのですが、
ガザでは多くの民間人が犠牲になっていることを受け、
親パレスチナの学生が抗議の声を上げることから活動が始まりました。


そしてすぐにそれは「反ユダヤ・イスラエル主義」となって、
時にユダヤ系学生への個人的ないじめとなって現れることになります。

そこで当大学のユダヤ系学生は、

「偏見に対する報告、安全、コミュニティのメンタルヘルスに
十分な救済策を提供しなかった」


として大学側を非難し、一方パレスチナ系学生側は、

「大学当局からこちらの権利を主張することを弾圧され、
親イスラエル団体の攻撃から守ってくれなかった」

としてやはりこちらも大学側に抗議の声を上げました。


同様の動きは、全米のいわゆるエリート校、
コロンビア、ハーバード、ノースウェスタン大学などでも起きており、
波及的にさまざまな処分(停職など)となって現れています。

こういった対立を、第三者からの目で見る意見も当然あり、
当大学のある2年生の学生は、

「The War at Stanford」

として、次のような意見を表しています。

私のコンピュータサイエンスクラスのセクションリーダーの1人、
Bは、ジョー・バイデン大統領を殺害すべきだと考えていた。

この23歳の学生は先月、少人数の抗議者たちにこう語った。

「民間人というわけにいかないから軍人がやるべきだ。
バイデンは死ねばいいんだ」

彼は、当大学がパレスチナ人の大量虐殺に加担しており、
バイデンはその当事者であるだけでなく、責任者でもあると考えている。
そしてさらに、

「バイデンは大量虐殺の罪を犯したのだから、肌の色が濃いテロリスト
(肌の色が濃いテロリストは、通常、アメリカの飛行機によって
爆撃されたり無人爆撃機による攻撃を受けることは周知の事実)
と同じ扱いを受けるべきだと言っているのだ」

と言った。

彼は、10月7日のハマスによる攻撃は正当な抵抗行為だったと信じており、
現政府に代わってハマスがアメリカを統治すること望んでいるとまで言う。

そこで「君の目的は何なの」と尋ねると、彼は「平和さ」と答える。

私はコンピュータサイエンスのクラスを変えた。


当大学のキャンパスからイスラエルまでは約12,000kmの距離がある。

しかし、ハマスの侵攻とそれに対するイスラエルの報復反撃により、
私の通う大学は分裂してしまった。

この大学は、通常、地政学よりも、今どきの寮を拠点とするような
テクノロジー系新興企業へのベンチャーキャピタル投資に重点を置く。

そこにはバイデン大統領の退陣を求める学生などほとんどいない。(多分)

ガザに平和を望むという若者たちの多くは、
自分が実際には暴力を支持していることに気づいていないようだ。

過激主義が教室や寮に蔓延し、信仰や伝統、外見を理由に
嫌がらせや脅迫を受けることが学生の間では日常化している。

キッパー(ユダヤ帽)を被っているだけで大量虐殺の加害者と罵られたり、
クーフィーヤをつけているだけでテロ支援者と非難されたりするのだ。

東海岸では、アイビーリーグにおける過激主義や反ユダヤ主義が、
メディアや議会から大きな注目を集めた。
学長2人が職を失う事態にまで発展している。

しかし、カリフォルニアのキャンパスを席巻している
文化戦争に気づいた人は
ほとんどいないかに思える。

この記事が書かれたのは今年の3月終わりでしたが、
その後、大学では前述のようにパレスチナ派が頻繁に座り込みを行い、
ついには学長室の占拠や歴史的建造物への破壊行為が起こりました。

そして、今回の数百人による卒業式ボイコットというパフォーマンス。
否が応でも「文化戦争」は大々的に顕在化されることになったのです。

続く。



「騒乱の」卒業生入場〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-27 | アメリカ

MKの大学で行われた卒業式レポート、続きです。

■ 大学新聞一面は「学内政治闘争」

朝の7時半開場とともに卒業式会場に入り、
2時間もの間開始を待つ間、正面のモニターは何人かの卒業生の紹介や、
非常口の案内などを繰り返し放映して飽きさせないようにしていました。



待っている人はプログラムを見たり、
入り口で配られていた大学新聞部の「卒業式特集」新聞を読んだり。

ところで、この第一面、卒業式特集ではあるのですが、タイトルは

「騒乱のキャンパス」

「歴史的な『大量虐殺を阻止するための座り込み』の立場をとる」

「親パレスチナ抗議団体が学長執務室を占拠」

「親イスラエル集会が『人々の』大学とホワイトプラザで対決」


説明するまでもなく、パレスチナとイスラエルの紛争について
学内でも割れてお互いが活発に活動しているというニュースです。

ホワイトプラザといえば、例の撮影ツァーの時、ホワイト噴水の横に



こんな場所が用意されていて、親イスラエル学生の集会所だったようです。


椅子の背中に貼られている写真は、すべて捕虜になっている人で、
「BRING HIM HOME」(彼を家に帰せ)という文字が見えます。

方や、新聞記事の「座り込み」とは、
ハマスが奇襲攻撃によってイスラエル民間人1400人を殺害し、
人質240人以上をとったことに対抗して、イスラエルが
ガザ地区への爆撃をエスカレートさせたのをきっかけに始まりました。


学長室を占拠した抗議者は、学校当局によって拘束され、
即時停学処分、卒業予定者はそれを取り消すという
厳しい対応を大学側がしたことが書かれています。

抗議者たちは、学長室占拠のみならず、選挙時に学校警察の係を負傷させ、
キャンパス中庭の、わたしたちが撮影ツァーを行った、
あの美しい歴史的な砂岩の建物や柱に赤いペンキで
「フリー・パレスチナ」などの落書きをしたことで当局の怒りを買いました。

方やわたしが写真を撮った親イスラエル集会は、
それらの親パレスチナ抗議者の行動に対する抗議が目的で、
親パレスチナ学生に対して道を挟んでシュプレヒコールを浴びせるなど、
文字通り「騒乱のキャンパス」となったことが報じられています。

さすが70カ国から学生が集まっている大学だけあって、
あっちがいればこっちもいるんだなと当たり前のことに感心させられますが、

全くの第三者から見ると、言い方はアレですがどっちもどっち?

というか、戦争なんだから争っているどちら側にも被害者は出るものを、
そのことを互いに詰りあっても仕方なくね?と思ってしまいます。

しかし、当事者には揺るがすことのできないことなんだろうな。
この問題は、この日の卒業式で思わぬ形となって現れることになります。


アメリカは多民族国家ですが、こういう問題は避けられません。


さて、話を卒業式会場に戻しましょう。


開始を待つ間、上空に小型機が飛来し、ユダヤ系学生のために
MAZEL TOV=ヘブライ語のおめでとうというメッセージを運びました。

また、AM YSRL CHAIはヘブライ語で「イスラエルの民は生きる」、
♡の後の
HILLELはユダヤ教の宗教創始者であり、
世界最大とも言われるユダヤ教の大学生組織の名称です。

この組織は、北米を中心に世界中のカレッジやコミニュティで活動しており、

「ユダヤ人学生の生活を豊かにすることで引いては世界を豊かにする」

を目標に、反イスラエル、反ユダヤ主義と戦う姿勢を掲げています。
おそらく前述の集会もHILLELの学生が主導したものと思われます。

■ 卒業生入場


もうこの頃になると暑さは容赦なくジリジリと身を焼く感覚でした。

なのにああ、我々の前列のおばあ様、お母様、お父様、
そして妹の卒業生家族ったら、帽子なし、女性陣は揃って肩むき出し。

長年の習慣の結果、おばあ様のお肌はダメージで世紀末の様相を呈し、
お母様のお肌ももうすでにやばい感じでしたが、アメリカ人女性の多くは
肌を直射日光にさらすことに全く危険性を感じていないらしいんですよね。

しかしさすがにこの異常なまでの日差しには我慢できなくなったと見え、
困りはてたお父様(多分会社の社長かなんか)がプロブラムを破いて、
即席で日除けの帽子を制作し、その場を凌ぎました(娘は着用拒否)。


お父様ったら、頭いい〜!
きっとできるビジネスマンなんだろうな。

ちなみにおばあさまはギリギリまで我慢していたのですが、
息子の入場までは保たなかったらしく、いつのまにかいなくなりました。

おそらく日陰の席に移動されたのでしょう。

可愛い孫の晴れ姿を近くで見ることを諦めるなんて、
よっぽどこたえたに違いありません。


それにしても彼女らの紫外線に対する警戒心のなさには驚きます。
10代の妹の今は輝くような肌も、母祖母と同じ運命を辿ることでしょう。


アメリカには、こういう時のために?
応援する人の顔を大きくプリントしてくれる業者がいます。

遠くから本人がスタジアム席の家族を見つけることもでき、
応援してまっせ!という気合いを周りにもアピールすることができますね。



しかも、本番までは日よけとしても役に立つという優れもの。
ちなみに裏には宣伝のため会社名がデカデカと書かれています。



教授陣の入場が終わると、音楽は「威風堂々」から、
ステージ上の生バンドの演奏するジャズに変わりました。
このバンドがさすがアメリカというか安定の上手さで、
スタンダード中心に学生が入場し終わる長時間演奏を続けていました。

そして、まずは「上級学位学生」、博士課程と大学院卒業者の入場です。


モニターに写っている旗は、スクールオブエンジニアリング、
工学部の学位授与者を表し、彼らが一番最初に入場してきます。

MKもこの中にいるのですが、見つけられませんでした。



席に着くなり自分の家族と携帯で連絡を取り合って、
自分がどこに座っているのか教える卒業生多数。

MKに「どこに座ってる?」とテキストしてみると、写真が来ました。



これは暑そうだ・・・。
卒業生の帽子って、全く日差しを防がないもんなあ。

工学部は全学生の一番最初に席に着いて待ち時間が一番長かったので、
後でMKは「鼻が日焼けした」と言ってローションを買ったほどです。


アピクレオスの杖があしらわれている旗はスクールオブメディシン、
医学・看護学科で学位取得卒業者は少数です。
大学卒業後すぐに実務に入る職種だからでしょうか。

手前のブルーのフードは法学部です。


卒業生席の両ウイングがグラデュエイトで埋まったとき、司会が

「さあみなさん、まだ入場していないのは誰ですか?」

みたいなことを言って、観衆がわあっと沸き立ちます。
いよいよ大学卒業生が入場してきました。

■学士入場


最初に入場してきたのは人文科学部。
ちなみにバチェラーは「学士」という意味です。



先頭にいるのは「木」。
さすが木がマスコットで、

「Fear The Tree !」

が対抗試合の合言葉なだけはあります。
この木の人、大学公式のカメラに映り込もうとして阻止されてました。

それにしてもそれに続くチアガール、ベール被った男性・・・
当大学卒業式は仮装大会なのか?

日本では京都大学がこの慣習を一部受け入れて話題になっていますが、
この大学では、全体的にすごいことになっていました。


各種着ぐるみは標準。
卒業式で思い切り楽しんでしまおうの精神。


浮き輪集団、パンプキン集団。


IN-N-OUT(ハンバーガーのファストショップ)店員がいるぞ!



かと思えばシェフもいます。
左下の学生は、パレスチナの旗を持ってますね。



水泳部?は彼らのユニフォームで入場。



それを壇上から冷たい目で見る女性教授(コロンビア大学卒)。
彼女の出身大学ではこんな卒業生は決していなかったと思う。

ちなみに後ろのジャズバンドのギタリストは、当大学博士課程出身者で、
音楽学部の教授かつ大学ジャズワークショップのディレクターです。


とにかく着ぐるみ率高し。


の辺全て「クラブ」=カニ軍団。
プラカードには「Holy Crab !」(こりゃ驚いた!)というメッセージ。

この集団、実は神経系の発達と癌における
エピジェネティックメカニズムを研究するラボ、通称

The Crabtree Lab☜クリック

で講義を受けた卒業生らしいのですが、見たところただの陽キャ集団。


カニなので泡を吹きながら行進。
この頃になると、音楽はラテン系のサンバとかになり、ノリノリでした。

永遠に続くかと思われた彼らの入場がやっと終わり、
ここでようやくプログラムが進行します。



同大学コーラスによる「アメリカ・ザ・ビューティフル」合唱。
指揮は音楽学部教授、ステファン・サノ博士。

遠目には分かりませんでしたが、サノ博士は日系アメリカ人3世で、
2世の父親は日本軍人としてシベリアで捕虜になった経験があります。

合唱指導だけでなくピアノ、ギターの演奏者としても有名で、
バイオグラフィを見ると、グラミー賞はじめ様々な賞を受賞しています。

Stephen M. Sano

Steve Sano plays Bill Evans' "Peace Piece"
「アメリカ・ザ・ビューティフル」は米国の愛国歌の一つで、
スーパーボウルの前に斉唱されることで有名です。
America the Beautiful
ネイビーバンドの美人ヴォーカリストバージョン



続いて、我々日本人には全く未知の儀式が行われました。

Invocation&Stanford University Indigenous Land Acknowledgement
招請&大学先住民の土地への謝辞


どういうことかというと、この大学が、かつて先住民族、
ムウェクマ・オロネ族の先祖伝来の土地であったことから、
大学としては、先住民族との関係を認識し、尊重し、
目に見える形で示す責任を持っているという認識なのです。

したがって、このような式典の際は、先住民に対し、

「あなたたたちの土地を使わせてくれてありがとう」

と感謝を述べることになっているのでした。


ベイエリアには、スペイン植民地時代以前、
先住民が数百人からなる多文化コミュニティで定住していましたが、
アメリカ統治時代になって、彼らはメキシコ人の土地に避難しました。

ありていにいえば追い出されたってことですね。

当大学の土地からもムウェクマ・オロネ族らが移動していったわけですが、
現在では、先住民族コミュニティは当大学と密接な協力関係にあり、
土地を提供してもらっている立場の大学側は、
彼らについてその物語を広めるための活動を継続しているのです。



大学側が謝辞を述べた後、少数民族代表として、
ユロック族出身の卒業生(2017年人類学部卒、今年博士課程卒)、
メリッサ・アイデマン博士がスピーチを行いました。

部族の象徴なのか、動物の毛皮で作ったストールを着用しています。

「部族にとってこの土地は今も昔も非常に重要なものです。
私たちは大学と先住民族の関係を認め尊重し、可視化する責任があります」

こういう、宣言のような短い言葉でした。
こちらも、要するに

「かつて先住部族を土地から追い出したあなたたちではあるが、
我々の歴史を尊重するならばこれからもここを使わせてやって良い」

という許可を意味していると考えていいでしょう。


わたしは、卒業式で行われたこの行事のおかげで、
これまで全く知らなかったこの地域の成り立ちや歴史の側面を
ほんの少しですが、垣間知ることができました。

多民族国家アメリカ、本当に色々と問題がありますが、
それを解決していこうとするパワーと工夫が、
今日のアメリカを大国に押し上げた原動力となっているのでしょう。

続く。


式開始まで〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-25 | アメリカ
■Airbnb引越し

MKの卒業式の少し前、Airbnbの部屋を引っ越しました。
前回のエメラルドヒルズから、今度はメンローパークの住宅街の一角です。


上空から見ると、明らかに他の地域より緑が多い地域。
その一角のAirbnbは、ドイツ系家族が住む敷地の離れでした。



プールのある家はこの辺では珍しくありません。


宿泊するのはこの離れ。
オーナーによると、この家はちょうど築100年だそうです。

1924年は、前年に関東大震災が起こった年ですが、この時期、
ヨーロッパではイタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が政権を獲得し、
前年にヒトラーのドイツ労働党はミュンヘン一揆によって統制を拡大させ、
ここアメリカでは排日条項を含む移民方が成立し移民が全面禁止されました。

そしてちょっと感慨深かったのが、
この年のオリンピックがパリで5月に開かれたという事実
です。

今年はオリンピックイヤー。
そして開催地はなんとパリ。

もしコロナの拡大がなければ、東京オリンピックが延期されることもなく、
前回から100年目に同じ場所が開催地になることもなかったわけで。

そしてついでに、この頃のオリンピック開催は8月ではなかったんですね。

8月開催というのは、いつの頃からか、アメリカの大手テレビ局が、
「この時期はアメリカ国内で大きなスポーツの大会がないから」
という理由で固定したという話はやはり本当なんですね。


そんな頃に建築されたということですが、実際のところ、
アメリカでは100年越えの物件はそれほど珍しくもありません。
内装や配管を取り替えながら、古い家に住み続けています。

古さを実感したのは、キッチンにディスポーザーがなかったのと、
夜中、どうやら天井裏にリスが住み着いているらしく、
小動物が歩く音が聞こえてきたことくらいでしょうか。

次の朝、外のテーブルで食事を取りました。
庭には、お父さんの力作?らしい子供用のお家があり。


プールの奥には巨大なトランポリンが設置されています。

左がガレージ、右がおそらく倉庫。


全力で体を動かすことを楽しむオーナー夫妻らしく、
ガレージにはバイクが2台ありましたし、ある朝など、
プールサイドに干してあったのは、アイスホッケーの防具一式!
しかもゴールキーパー用です。(キアヌ・リーブスを思い出した)

このAirbnbは、オーナがドイツ人ということもあるのか、
古くて小さな部屋の中を考える限り機能的に整えており、
スタンディングデスクと滅法早いWi-Fi、優秀なコーヒーマシン、
今まで体験したことのない寝心地のいいマットレス、
どんなうっかり者でも壊さなくてすむプラスティックのグラス、
(しかも本物のガラスにしか見えない)
アメリカでは初めて見たミッソーニのタオル類と、最高の環境でした。

■ 卒業式当日

ほとんどの関係者にとってこの大学の卒業式は初めてのはずですが、
わたしたちのような外国人の親にとっては、それがどういうものか、
予想がつかないだけに心配は募るばかりでした。

卒業式に参加するためには、必ず卒業生からの招待が必要で、
招待者にはこのような入場チケットがオンラインで配られます。



つまり全員がスマホを持っているという前提ですね。
これをアップルウォレットなどに入れて当日バーコードをスキャンします。

そして同時に車はどこに停めるなどというお知らせももらえますが、
わたしたちは会場に近い駐車場に停めるため、前日に現地を視察して、
開場時間の45分前である6時45分に家を出ることにしました。

しかし、前日は緊張して?寝られず、しかも早く起きてしまう始末。

前日から徹夜で並ぶ総火演&観艦式のガチカメラ勢みたいなのが、
まさかここ西海岸にいるとは思えませんが、こういう状況になると
かつての血が騒ぐのか、どうも平静ではいられないんですよね。



案の定アメリカ人にはそういう意味でのガチ勢はいなかったらしく、
開場30分前でも広大な駐車場はガラガラ、
正面ゲート前にはわたしたちの前に数人いるだけという楽勝モード。


ほっとしながら目の前の注意書きを見ていて、
わたしは自分のバッグがこの図でいうところの
「スモールクラッチ」の大きさ以内なのか心配になってきました。

推奨されるのは中身が丸見えになる透明なバッグで、
そのことは前日にMKからくれぐれも言われていました。
一応ターゲットなどを覗いてみましたが、なかったので、
小さなバッグなら大丈夫だろうと思ったのですが、
それが12センチ✖️16センチ以内かどうかわかりません。

現に後で測ったら14✖️21だったので完全にアウトだったのですが、
規格外のバッグは没収と厳しいことを聞いていたので、

「もしダメだったら、先に行って席取っておいて」

と打ち合わせし、開場を待ちました。
時間になると、それから待機していた係員が配置につき、
自衛隊イベントの時のように、手荷物を台に置いて金属ゲートを通ります。

わたしは大きさを目立たせないように、最初からバッグの蓋を開け、
係に中を見せながら渡し、大きさを問われることはありませんでした。

荷物検査の先には小型のスキャナーがいっぱいあって、
そこでチケットをスキャンしてから会場に向かいます。

大学の卒業式に手荷物&金属検査というのも仰々しいですが、
ここアメリカで大学など学校現場の銃撃事件が相次いでいるため、
当大学ではスタジアムイベントには必ずこの方法が用いられているようです。


推奨されるクリアバッグ一例

ちなみに指定のクリアバッグですが、後にスクールショップに行ったら、
ロゴ入りのが各種売られていて、みんなそれらを買っていました。

バッグ業者の陰謀か?



そしてゲットしたステージ真正面の席。
もっとも、後から考えれば、どうしてもここでなければ、
というような状況でもなかったんですが・・・。

開始2時間前から死ぬほど暑い場所で待ち続ける価値があったか?
と問われると、微妙だったという点で。

学校からは前もって、この日のスタジアムの暑さについて言及がありました。

全員にペットボトルの水が配られましたし、
最初からこれはきつい、という人のためにビューポイントが用意され、
室内の涼しいところ(日陰は涼しいんですよ)で
座って大画面を見られるような用意もありました。


わたしはというと、白の長袖長ズボンにターゲットで見つけた
10ドルの折りたたみ帽子で極力陽を受けないことを考慮したファッション。



さらにはこれに薄手のスカーフとジャパニーズマーケットで見つけた
接触冷感(日本製は神)の日除け手袋で更なる防護をします。

日本のように湿度がないので、重ね着しても暑くはなく、
むしろヒジャブの国の人みたいに、できるだけ露出部を少なくすればOK。
快適快適とほっとしていると、TOが写真を撮りながら

「ヤ⚪︎ルトおばさんみたい」

とわたしもうっすら感じていたのと同じことを言いましたが、
画像検索したところ、ヤクルトというよりゴルフのキャディっぽい。


だんだん両側に人が埋まりだしました。
わたしたちの前列左はヒスパニック系の大家族。
このときは父ちゃんがひと足さきに席を取って待っています。

この、今の所空いているわたしの左側ですが、中国系家族がやってきて
二人の男の子(2歳と5歳くらい)に前の人は背中を土足で蹴られるわ、
何かというと子供連れで座席の前を行き来して出たり入ったりするわ、
意味もなく横の椅子をバタンバタン上げ下げするわ、
それを抑えると睨んできて(!)力任せに同じことを続けるわで大変でした。

二人いるので、いわゆる一人っ子政策の「シャオファンティ」(小皇帝)
には当たりませんが、いずれにしても日本人から見ると躾がなっとらん。

そもそも魔の2歳児をこんなかんかん照りの場所で
何時間もじっとさせておこうとするのが大間違い。
もう少し後ろの日陰席にすれば出入りも簡単だったのに・・。

そうそう、中国人といえば、今回空港で入国審査に並んでいたとき、
審査の順番がきた年配の中国人女性が、なんと列のはるか後方に向かって
大声で旦那さんらしき人の名前を呼ばわるという椿事が発生しました。

その場に並んでいた世界中の人々が彼女に注目する中、
後ろの方にいた男性がひょこひょこ前に出てきてざっと百人の順番を抜かし、
ちゃっかりおばちゃんと一緒に審査を受けようとするじゃありませんか。

もちろん、その次の瞬間、係員に元の場所に戻れと追い返されたわけですが、
そもそもどうしてこの人たちは一緒に並んでないのかね。

まさか、トイレに行っている旦那を待たずに、奥さんだけが並び、

「あたしが先並んでおくから、アンタ呼んだら前まできて!」

とかいう話だったんかな。

入国審査場で大声で叫ぶだけでも大概ですが、加えて
自分と連れ合いに満場の目が注がれても一向に気にしない!というメンタル、
さすがは中国4000年の神秘。

中国人が列の割り込みを悪いことともなんとも思っていない、
というのはよく見聞きする話ですし、わたしも現に中国で目撃していますが、
入管の係員に至っては日常茶飯事レベルでこういうのを見てるんだろうな。

閑話休題。


スタジアムの向かって右手はセレモニーの間日陰になるため、
最初からここに座る人たちがいました。


■ コマンスメント開始

アメリカらしく、時間きっちりにではなく、少し遅れて
今から卒業式が始まるというアナウンスがありました。



エルガーの「威風堂々第1番」中間部のメロディが流れ、
ガウンに身を固めた大学教授陣の入場が始まりました。

アメリカの学校は必ず卒業式にこの曲を用いますが、これは、
1905年、作曲者のエルガーがイェール大学から博士号を授与されたとき、
同校で使用されて以来の慣習になっています。


学長と一緒に入場してきたのは、メリンダ・フレンチ・ゲイツ。
言わずと知れたビル・ゲイツの元妻です。
彼女が本日のスピーカーであるとは前もってMKから聞かされていました。

ゲイツとの離婚の原因は、やっぱりというかなんというか、

「ビルがジェフリー・エプスタインと付き合っているのが許せなかった」

こととはっきり言及していましたね。
彼女本人は彼を一目見てその悍ましさに震え上がったという話ですが、
やっぱりエプスタイン島行ってたのか、ゲイツ・・・。

しょうがないやっちゃな。


こういうアングルの写真が撮れたのは早起きの恩恵というやつでしょうか。
彼女がストームヒールの紐付きサンダルを履いていたのもわかりました。

メリンダが着ているアカデミックガウンは出身のデューク大のもので、
色がドラブなのは、経済学の学士号をもっているからです。

アカデミックガウンは、今在籍している学校に関わらず、
その人の出身大学を表すため、教授席は色とりどりのガウンが混在し、
それらが一堂に集まっているのは大変美しいものです。

続く。



卒業記念キャンパス撮影ツァー〜アメリカ西海岸

2024-06-22 | アメリカ

アメリカでiPhone 15Proを買いました。

この機種から望遠レンズが搭載されたということで、
毎回一眼レフを持ち運ぶ必要がなくなるかと期待してのことです。

今回はなんといってもMKの卒業式というビッグイベントがあるので、
どれくらいこれがカメラに迫れるか試すチャンスでもあります。

iPhoneを買ってすぐ、MKから依頼がありました。

「友達3人でキャンパスでの記念写真を撮りたいんだけど、
一眼レフで撮影してくれない?」

前回のアンダーグラデュエイト卒業式の時には、
カメラを触らなくなってすっかり時間が経った状態で臨んでしまい、
暗い室内でのイベントを撮影するのに冷汗をかいたものですが、
この機会に本番までにカンを取り戻すことができるかもしれません。

わたしは喜んで依頼を引き受けました。

いきなり室内だった前回と違い、毎日が快晴のこの地域の昼なら
カメラがなんでもやってくれるので、気が楽です。

■「テディベア串刺しの刑の噴水」前


昔MKはこのキャンパスを利用したサマーキャンプに参加していたので、
このトレシダー付近と噴水は馴染み深いものでしたが、
ここで卒業式の帽子を被った彼を撮影する日が来るとは・・。


3人は同じ工学部で、真ん中の女子とMKは同じラボにいました。
3人とも専攻は同じ分野で、就職先も同業種となります。

まず最初のロケ地はモニュメント的噴水のある池の前。


ホワイト・メモリアルファウンテンという名前がありますが、
通称は「ザ・クロウ」(つめ)といい、大学対抗試合などの際、
ライバル、カリフォルニア工科大学のマスコットである
「Oski」を象徴するテディベアを頂点で串刺しにするのに使われます。


現場写真

ついでにこのOskiというキャラがこれ。
串刺しにされているテディベアのように可愛くないどころか・・


怖すぎ

彫刻は、ホワイトさんという金持ち夫妻が、彼らの息子二人を記念して
(亡くなったとか?)彫刻家に依頼したものだそうですが、
こんなことに使われているなんて知ったらきっと嬉しくないと思うんだが。

■ メモリアルチャーチ付近


次のロケポイントはメモリアルチャーチの周り廊下。
象徴的な場所なので、よくここも撮影に使われます。



この大学、とにかく広くて、面積は千代田区の3倍。
大学に必要な施設のほかに、ゴルフコース、乗馬場、
ハイキングコース、巨大なディッシュを備えた山丸々一つ持っています。


なんと呼ぶのか知りませんが、ガウンの首にかけているフードの色は、
所属学部を表し、オレンジがエンジニアリング、工学部です。


当大学は毎日学生がガイドを務める観光ツァーがあるのですが、
ツァー客がみんなでこのときのMKたちの写真を撮っていました。

おそらくガイドが、

「あちらに見えますのが、今週日曜の卒業式に出席する学生です」

というようなことを説明したのかもしれません。



スクールカラーは赤で、フードの内側に見えています。

ところで、この写真の右側に見えているサークル、今まで何度も
通行車両を事故に陥れてきた通称「デス・サークル」なんだそうです。

ちなみに学内には基本信号はなく、交差点は全てサークルですが、
この方式、実に合理的で安全なので、わたしは高く評価しています。

しかしここは、周りに街灯がなくてサークルがあることが分かりにくく、
初見の人がここに突っ込んでも無理はないというデンジャラスな雰囲気。

「デス」とまで言われるものをなんとか対策しろよという気がしますが、
驚くことにこういうことには全く無頓着なのがアメリカ人です。


せめて運転者に見えるような看板一つ立てれば解決するのになあ。


廊下はこのメモリアルチャーチに続いています。
チャーチ前の広場には夜のレセプション?のため、
テーブルや機材が雑然と並んでいて、前での撮影はできませんでした。



メモリアルチャーチ内部は観光客のために解放されており、
わたしも初めて中に入りました。



石柱の根元には、当大学開学のきっかけとなった創始者の息子、
訪欧中の急病で夭折したリーランドの名前が刻まれています。

■ ロダン作「カレーの市民」前


お次は、前にも紹介したオーギュスト・ロダンの彫刻での撮影。
三人ともこれがやりたかった模様。



作品名は「カレーの市民」。

百年戦争の際、イングランドに兵糧攻めにされたフランスのカレーで、
市民の命を救う代わりに、六人のカレー市指導者が処刑されました。

この像は、飢えで痩せ衰えた彼らが出頭のため城門を出る姿を捉えています。


ガウンのせいかぴったりキマってます。


メモリアルチャーチ前のクヮッドと言われる広場です。
チャーチ前のごちゃごちゃを隠すように撮影しました。

女性がガウンの下に白いドレスを着ているのは、
なんとなくこの大学ではそういうことになっているからだそうです。

■ ジャンプ写真(一眼レフvsiPhone Pro)

冒頭写真は、当初彼らの撮影計画にはなかったのですが、

わたしが「ここはタワーが綺麗に入る」と提案したところ、
彼らもここが気に入ったので撮った「帽子投げジャンプ写真」です。

さて、わたしがNikon810、TOにiPhoneを担当してもらい、
ほぼ同じシーンを両者で撮影した結果ですが、基本的には
やっぱりと言うかなんというか、Nikonの圧勝でした。

iPhoneのAI機能は、概ね効果的で、わたしがNikonのデータを
時間をかけてソフトで調整するのをほぼ一瞬でやってくれます。

がしかし、比べてみるとやはり色の深みというか、
わたしごときが言うのもなんだけど表現力が違うのです。

というわけで、カメラ機能に定評のあるProですが、
やはり餅は餅屋って感じかな、という結論に達しました。

とはいえ、iPhoneがその能力をここぞと発揮することもあり、
それがこのジャンプ写真でした。
冒頭写真はNikon、そしてこちらがiPhoneです。


(これを見たMKの最初の一言『俺ジャンプすげー』)

細部を見ると確かに重みの点でNikonが優れているのですが、
状況を捉えるのが巧みで、効果的だと思いました。



参考までにもう一度Nikon。
ちなみにこの写真、帽子を際立たせるため、
わたしは時間をかけてソフトでマスクをかけてマス


ここもわたしの提案で選んだポイント。
MKはこの写真が一番気に入ったそうです。
ポイントはひるがえるガウンの袖?


最後のロケポイントは噴水池で。
流石にキャッキャと水を掛け合うシーンはありませんでした。


最後に、MKと紅一点女子のラボで記念写真。

このソファは10年以上「一度もクリーニングらしいことをしていない」ので
「おそらくとてもとても汚い」代物。
そんなソファの横には、明らかにここで寝るための毛布が・・。


研究に没頭していて帰る時間がなくなった学生用でしょうか。

MKと彼女にとっても、この研究室は、
大学院生活において最も長く過ごした空間だった違いありません。

そしてこの週の日曜日、卒業式が行われました。

続く。




楽器作り発表会とテスラ・サイバートラック

2024-06-19 | アメリカ

西海岸シリコンバレー生活レポート続きです。

■ ポリコレか 販売戦略か

ど〜〜〜〜〜ん

最近のアメリカ、下着のモデルに太った人を使うのはもう普通ですが、
それにしてもこれ↑ってどうなんだろう。

太ってるモデル、別にいいんですよ。

アメリカ人は、太っていても顔が可愛らしい人は多いですし、
太っているなりにパンっと肌のハリがあるなら、説得力もあるんですが、
この人のはもう見ちゃいけないものを無理やり見せられているような。

昨今、アメリカのポリコレ具合はもう限界突破しているかに見えます。
ディズニーを筆頭とする制作物や映画、ミュージカルはもちろん、
デパートなどのマネキンが年々太ってきているのも、

このポリコレに端を発するものだと思っていました。

そして、アメリカのポリコレは、こういうのもありどころか、
これを「美しい」と思うような美意識を植え付けようとしているのか?
これって一種の洗脳か?とこれまで思っていたのですが、

今回この限界突破したモデルさんを見て、あることに気がつきました。

広告の目的は商品を売ることです。

それには売り場で気持ちよく商品を手に取ってもらわなくてはなりません。

このスーパーは、アメリカ人の多くを占める「こういう体型の人」が、
安心して、気後れせず下着を手にとることができるように、
「雲の上の人」である完璧なファッションモデルではなく、
彼女らと同じか、あるいはより「下」のモデルを使うことにしたのだと。

毎年この傾向が顕著になっていることから考えても、おそらくこの

「高めを見せ(て劣等感を煽)るな
低めを見せて安心させ(て買わせ)ろ」

という販売戦略はある程度結果を出しているのでしょう。

■ テスラ・サイバートラック

カリフォルニアのアーヴァインに本社のある自動車会社、

リヴィアンの縦目の車も、ここシリコンバレーでは珍しくなくなりました。

By Jay8g - Own work, CC BY-SA 4.0

Amazonプライムの配達の車も半分くらいはリヴィアンです。
同じリヴィアン製でも、こちらは丸目。
このヘッドライトは方向指示器を兼ねています。

今シリコンバレーを走っている車は、テスラなどの米製電気自動車と、
日本車が二分しているといっても過言ではありません。

ここはテスラのお膝元ですし、電気自動車が弱い寒冷気候にも程遠いので、
中古で安売りされるようになると、皆が乗るようになりました。

一昔前(『ララランド』の頃)は右を見ても左を見てもプリウスでしたが、
今は「前後左右皆テスラ」ということも珍しくありません。



今借りているAirbnbのある一帯は高級住宅街ですが、
家の前に停まっている車は例外なくドイツ車、日本車、テスラ、大型アメ車。

時々ヒュンダイやキアを見ますが、それはほぼ間違いなく、
庭の手入れや工事をしにきたワーカーが乗ってきたものです。

傾向として、レクサスとかメルセデスなどの大きなのをメインに、
2台目にテスラ、トヨタ、スバルを選ぶ住人が多いように見えます。

ところで、先日こんな車が横を走っているのを目撃しました。



「うわ、なにこれ!」

「バットマンカーのつもり?」

「これ絶対普通の車の上に改造でブリキのボディ乗っけてるよね」


好きなことを言い合って、MKに会った時にこれを見せたら、

「テスラのサイバートラックだよ」


これのどこがトラックだよ、と言いたくなりますが、
これが今シリコンバレーで一番尖っている(文字通り)Tesla Cybertruck。

2023年から製造しているので、今ちょうど市場に出回って、
ぼちぼち街でも見かけるようになってきているというわけです。

尖ったボディは平らなステンレス鋼板パネルで構成されているからです。

イーロン・マスクの肝入りで作られたこのピックアップトラックは、
近未来的な装甲兵員輸送車を思わせるフォルムを持ち、
お披露目の場所、月、年が映画『ブレードランナー』の舞台と同じ、
というなかなかにロマンを感じさせるデビューを果たしました。

そして聞いてびっくり、理論的に水陸両用として使用できるそうです。
まさに近未来的な夢の車。

しかし、デビューの際、テスラは「このアーマーガラスは絶対に割れない」
と自信満々で窓に金属球を投げるパフォーマンスを行ったところ、
公衆の面前で見事に二つの窓が割れるという辱めに遭い話題になりました。


その後1週の間に、わたしはこのサイバートラックを2台、
一度は家の近所で、もう一度はパロアルトに路駐しているのを見ました。


ところで、サイバートラックは発売早々に、

「アクセルペダルパッドが外れ内装トリムに引っかかり自動加速する危険」

のため、リコールされていますが、MKによると、
彼が秋から就職する会社(就職が決まりました)の社員に
その早々に不具合で事故を起こした当の本人がいるんだそうです。

怪我はなかったそうですが、ことがことなのでニュースで報じられたとか。


そして、その事故の写真を見ましたが、相手のトヨタ車は、
サイバートラックによって鋭角に切り裂かれ、ズタズタ。
運転者が生きているかどうかも心配になるほどのダメージでした。

サイバートラックは特にそのデザインに対し意見が分かれており、
この事故のようにヒトやモノを必要以上に傷つけそうで不快、とか、

(先端恐怖症の人は見るだけで怖いと思う)酷い意見になると、

「サーバートラックはテスラファンの熱狂的な夢の中にしか存在しない
ローポリゴンのジョークであり、
イーロン・マスクの排泄物の臭いの上に立っている」

とまで言われているのだとか。

でもどうせ新し物好きのシリコンバレー住人は我先にと買うんでしょう?
と思ったのですが、このあまりに先鋭的で『人の迷惑を顧みない』
(ちょっと事故っただけで相手は大迷惑、本人も修理で大損害)
コンセプトには、さすがに首を捻っている人が多いようです。

■ 楽器作りゼミのショーケース父兄参観

我々がここシリコンバレーに到着した時には、
MKは大学院の最後の1週間を忙しく送っている時でした。


そしてちょうど共同プロジェクトで参加していた
CCRMA (Center for Computer Research in Music and Acoustics)
ショーケース(発表会)に誘ってくれたので、見てきました。

CCRMAは日本語で言うと「音楽音響コンピュータ研究センター」。
MKの大学の音楽学部に帰属する日本でいうゼミで、
CCRMA=カルマ(最初のCは無音)と発音します。

作曲家と研究者が、芸術的媒体として、また研究ツールとして、
コンピュータベースのテクノロジーを使って共同作業を行う、
ということを目的とした施設で、MKは最後のセメスターに
楽器を作ることを学友3人との共同プロジェクトに選んだのでした。


昔当大学学長の住居(!)だったという歴史的な建物が、
現在はCCRMAだけの研究室として使われています。


卒業式のために一眼レフを持ってきていたので、
リスで練習(久しぶりなので)しました。


やっぱりiPhone11のレンズとは違うなあ・・。当たり前か。


ここには黒リスもいて、普通リス?と喧嘩していました。


こうして見ると、アメリカ人がこいつらを
「ネズミ」くらいの認識しか持っていないのがよくわかる。
尻尾がフサフサじゃないリスってほんとネズミみたい。


ショーケースの行われる会場は三階にあり、階段を上ります。


建物と同じで、軽くできて1世紀は経っていそうなピアノ。



この古い建物の3階はホールになっていて、天井には無数のスピーカー、
プロジェクター、防音装置が施された別世界でした。

プログラムは入り口のQRコードで読み取ります。

で、どんな楽器をみなさんが発表したかと言いますと・・



これをはめて音楽に合わせて色々な動作をすると、
それに合わせて音楽の音量や質が変化するという手袋。

発明者の学生は全盲で、右側の人が色々とサポートしていました。



音を拾うためのコンタクトマイクを仕込んだボウルに水を入れ、
ボウルをさまざまな方向に傾けることで、ピッチの歪み、
パーカッションヒットの速度、エコー(リバーブ)の量、
および音の厳しさを変化させていきます。


新機軸の発明ではないけれど拍手喝采を受けていた大作、
木を切ることから始めて作り上げたエレクトリックコントラバス。
木の選定から9ヶ月かかったそうです。



ブーツにギター操作の装置を仕込んだ人。
足のジェスチャーでワウ、リバーブ、キルスイッチ、
ペダルエフェクトなど全てを操作できる・・・はずですが、
残念ながら本人がまだ使いこなすに至っていませんでした。



距離センサーとパルスを組み合わせたドームの上で
手をかざし、距離を変えることで音が変質していきます。



センサーを仕込んだTシャツで音を変化させていく仕組み。


そして、MKの展示ですが。

MKと以前京都に来た女子、もう一人男子が3人で作ったのは、
Bass Bass(バスのベース)。
=ベース(ギター)であるメカトロニクスベース(魚)で、


近くで見るとこんな

機械式スプリングシステムが、魚を叩く動きをストリングプラックに変換、
ピッチは制御でき、出力音は包丁
(多軸モーション制御システムに取り付けられている)
を介して減衰することができるという仕組み。



「バスフィッシュを叩いて、
音楽と海洋生物のクロスオーバーイベントを体験する」

(本人説明)だそうです。
ちなみにベースに合わせていた音楽は「マンイーター」でした。

後で魚を叩かせてもらいましたが、これで
「🎵たったった〜、んたたったたった」
のリズムを取るの難しすぎ。

魚を叩くことにシャレ以外の意味が何もないという楽器です。


ショウケースが終わったので、昔ここでMKがITキャンプに来ていた頃、
散々お世話になったダイニングホールにいき、
当時はなかったインドのカレーを食べてみることにしました。

注文は左のパネルからいっさいお店の人と口を聞かずに済ませ、
お店の人は一人で黙々と注文のものを揃えて、右側から渡してきます。

インド系の学生も多いので、要望にお応えした感じでしょうか。
ちなみにここには昔から『KIKKA』というジャパニーズがあります。


お味は・・・まあ多くは言うまい。


おまけ:駐車場で前に停まっていた車。
これが動いているところが見てみたい・・・。


続く。



「人生の謎を受け入れる」〜アメリカ西海岸の日本

2024-06-16 | アメリカ

全ては自分自身の不注意が原因であったとはいえ、
大きな二つの困難を無事解決し、なんとか無事に西海岸に到着しました。

その時はまだこちらでのCarPlayのためにeSIMを契約していなかったので、
ナビなしで行けるMKの大学院寮まで直行しました(冒頭写真)



そして、今回の大きな目的の一つ、
日本で彼の元チェロの師匠に売ってもらった電子チェロを渡しました。

本物のチェロと違い、電子チェロはフレーム部分が取り外せるので
運搬が非常に楽で、「楽器のために一席買う」必要もありません。

飛行機では手荷物ではなく、取り扱い注意の楽器として預かってもらい、
到着した空港の特別窓口で受け取り(といっても床に置いてあった)ました。
心配していましたが、持ち込み荷物の一つとして料金は取られませんでした。



MKを拾ってまずは、彼が昨日行ったばかりという
お勧めの中華で夕飯をとりながらeSIMの契約をしてもらいました。



日本では見ないタイプですが、これは餃子の一種です。
カップの中にスープとミートが入っています。

■ Airbnbに到着



ナビが使えるようになったので、今回のAirbnbにチェックイン。
エメラルドヒルズという、レッドウッドシティの丘にある邸宅です。


借りるのはこの建物の庭から入れるゲストルームです。
オーナーは建物の2階と3階に住んでいます。

高級住宅街なので周辺は豪邸ばかり。



テーブルの後ろに、上階に続く階段がありますが、
こちらからは入れないように、鍵付き扉で封じてあるため、
完全にプライバシーを確保され独立した部屋となっています。



こちらがベッドルーム。



ソファはベッドになるので、最大3人までの宿泊が可能です。



庭だけでももう一軒家が建てられるに十分な広さ。
丘の上なので、夜は寒いくらい温度が下がります。



部屋の前には椅子があって、
巣箱にやってくる鳥を見ながらお茶が飲めます。


最近のiPhoneは、写真を撮ったら即座に素性を教えてくれます。
昔は西海岸の鳥の種類を調べるためにブックレットを買ったものですが。



この、つがいで雛を一生懸命育てている鳥はユキヒメドリ、
英語名Junco(ジュンコー)。
自分の頭より大きな羽虫を捕まえてきてはむしゃむしゃして、

それをヒナに与えるために巣に飛んでいきます。



庭にはジャスミンの香りがむせるくらい濃厚に立ち込め、
入り口のレモンの木にはたわわな実が成っていました。



熟れた味が地面に落ちていましたが、これ食べられるのかな。



この辺りは野良猫の代わりに野良鹿がうろうろしています。
庭に鹿が涼みにきていました。



わたしがガラス越しに見ているのでこちらを警戒しています。
その後ろを駆け抜けていくのは特大のリス。

鹿はしばらく木陰で座ってうとうとしていました。



近所には消防署がありますが、ほとんど普通の住宅みたいな建物です。



ただし、番地のポストに誰でもわかる消防車のマークが。



朝散歩に出てみたら、近所に真如苑USAという寺院がありました。



調べたら、1936年に開祖された日本の仏教系新興宗教みたいです。
日本ではオウム真理教以来宗教そのものが邪悪視される傾向にあるので、
この真如苑も何か色々と言われているようですが。



広大な敷地の中は週末のせいもあって散歩している人が多数。



犬連れの散歩者に、真如苑より注意喚起。


気温が25℃ならアスファルトの熱さは51℃。
30℃なら57℃。
30.5℃ならなんと63℃になってしまい、
51℃のアスファルトを歩けば1分で皮膚に異常が起こるとあります。

「もしあなたが裸足で歩いて熱ければ、彼らにとっても同じです」

真如苑の教義については当方知るところではありませんが、

敷地内を散歩する犬の健康被害の心配までしてくれるさすが宗教団体。

■ 日本食、日本語人気



到着して翌日、MKに、パロアルトに新しくできたという
フードコートに連れていってもらって、そこでびっくり。

ジャパンタウンでもないのに、この光景は何?
写真右のラーメン屋は「ORENCH」つまり「俺んち」です。


MKはここでラーメンを頼んでいました。
「オレンチ」なんて店名、日本人じゃなければ絶対につけないよね。


もう一つの・・・日本食?かどうかはともかく、このバーガー店、
その名も「KONJOE BURGER」。



そう、「根性バーガー」です。

メニューに日本語が使われていたりするわけではないですが、
目玉メニューのチキン唐揚げにMochiko=餅粉が使われているのが売り。

日本では今日び「根性」なんて言葉自体死語となっていますが、
これを英語で説明するとすれば何になるんだろう。

思いつくのはgutsですが、「必死に頑張る」という意味があるとはいえ、
「根性」さらには「ど根性」となるとちょっと違う気がします。

「恋の予感」並みに英訳しにくい日本語の一つではないでしょうか。
 

わたしは根性バーガーでシグネチャーの「KONJOE」を選びました。

例年アメリカに来ると、一度はバーガーを食べることにしていますが、
今回は初日にいきなりノルマを果たしたわけです。

パテはミディアムレアオンリー、オニオンとフライドエッグ、
そしてチリペッパーに「根性ソース」(漢字で書くとなんか凄い)がけ。

チリは思ったより辛かったので全部外していただきました。



MKが「ここのケーキは美味しい」というので
写真右側のジャパニーズベーカリー&ケーキ屋(おにぎりもあり)
IKUKAでKabocha=日本カボチャのケーキを買って帰りました。

アメリカのケーキはどうも我々日本人にはただ甘いだけで、
下手したら色も形も食欲をそそらないものが多いのですが、
ここのケーキは普通に日本でも美味しいとされるレベルです。

IKUKAの意味は「いもクリカボチャ」。
日本のさつまいも、栗、かぼちゃのほのかな甘みと
でんぷん質のおいしさへの愛情に由来しているのだとか。

もちパン、バスクチーズケーキ、モンブランなど、
日本で愛されている味やアイテムがパロアルトで買えるお店です。

昨今、インターネットという通信手段で、
情報があまり歪められずに世界中に伝達され、
一昔前のような間違った日本食、間違った日本ではない、
本当に近い情報が現地に根付きつつあるのを感じるお店です。
(その点ジャパンタウンは正誤が混在していると感じる)

■「人生の謎を受け入れる」

一時、変な日本語のTシャツを着ている外国人の写真が
ネットに出回っていましたが、
アメリカ人が日本語を「クール」と考える傾向はいまだに、
というか、最近では特に若い人の間で顕著だと感じます。

アメリカのドラマ(わたしが見たのは『グッド・トラブル』)中、
登場人物が日本語の書かれたシャツを着ていることも多く、
街を歩いていても時々そういうシャツに遭遇します。

今回MKの寮に初めて行って、乗ったエレベーター内で、
学生らしき白人系男性が着ていたシャツの背中に、
なんの飾りも、絵もなく、ただ文字だけ、

「人生の謎を受け入れる」

と書いてあって、わたしは「うーん」と色々考えてしまいました。
日本語として全く間違っていないし、意味もわかるのですが、
日本人なら絶対にTシャツにこの言葉は書かないかな。

「極度乾燥しなさい」に近い生硬な感じもあります。


にしても、なんで日本語なんでしょう。
日本で購入できるウケ狙いのおもしろTシャツとは違い、
アメリカ人が「真面目に」着ているシャツに書かれた言語としては、
英語以外では日本語だけで、中国語やハングルを見たことはありません。

これも、日本という国の、特にアニメや漫画など、
その他文化全般がインターネットで伝播してきた結果、
日本ブランドが「クール」と受け入れられてる証左の一つでしょうか。

だとすれば、つくづくわが国先人の努力と才能、発想と発信力に感謝です。


続く。



カリフォルニア到着〜痛恨の二大ミス

2024-06-13 | アメリカ

現在カリフォルニアにおります。
恒例の渡米が例年より早くなったのは、6月の第二週に
MKの大学の卒業式に出席するためです。

■ ESTA更新を忘れる(2回目)

出発便は深夜発でした。

深夜便のいいところは、起きてから出発までに余裕があることです。
この日もほぼ1日を最後の準備に注力することができ、
羽田までの車の中で、空港に着いたらどうしようか、
などとTOと話をしていたとき、ふと気づきました。

ESTA更新したっけ?



ESTAは我々日本人が享受することのできる米国渡航簡易システム。
ビザ免除プログラム加入国の国民は、前もって登録しておくことで
現地での審査が大幅に簡略化されるというものです。

2年ごとに更新しなくてはいけないのですが、それが問題で、
しょっちゅう渡米していると、したかどうかも忘れがち。

ということで、わたくし、まんまと今年も更新しておりませんでした。

しかし、わたしは甘く見ていました。
前回同じ状況だったとき、空港で簡単に手続きが済んだ記憶から、

「出発まで3時間もあるから余裕余裕」

とばかりに空港ロビーのカウンターにPCを広げたのです。
ところが、

「ESTAは受付後72時間以内に更新されます」

「ESTAの更新は最低でも72時間前にしておくこと」

という但し書きが出てきて真っ青。
それじゃ何か?最悪3日待たされるってこと?

最速で記入を済ませ、送信して、ステイタスが変わるのを待ちます。
案の定、何回リロードしても結果は同じ。

これ、出発までに降りなかったらどうなるんだろうなあ。

カウンターの前に立ったまま、リロード繰り返すこと2時間。
わたしはスタンディングデスクで作業しているので、
立ちっぱなしはもともと全く苦にはならないのですが、
このときはもはや長時間立っている意識すらありませんでした。

そしてついに、ある瞬間、ESTAが降臨したという画面に遭遇!

チェックインカウンターの人が
「結果がどうでも、とりあえずこちらにきてください」
と指定した時間まであと15分でした。

■ 搭乗




深夜発便は、搭乗してすぐ就寝することになります。
食事は到着前に配られる一回のみ。


今回の機材は出発までに2回変更になったせいで、
窓際を予約したのに通路になっていました。
CAに交渉して、窓側に変えてもらいました。


眠くなるまで「ザ・グレイト・エスケーパー」という
マイケル・ケイン(バットマンの執事を演じた人)主演の映画を観ました。

第二次世界大戦の英国海軍退役軍人バーナード・ジョーダン(89歳)が、
2014年6月にフランスで開催されたDデイ70周年記念式典に出席するため、
老人ホームから「脱走」した実話をベースにしています。

THE GREAT ESCAPER | Official Trailer
式典に参加し、現地で知り合った元空軍将校と一緒に、
彼らが元ドイツ兵たちと触れ合うシーンには胸を揺さぶられました。
動画でもお分かりのように、イギリス人は手のひらを外に向け、
ドイツ人は下に向ける敬礼をしています。


90歳の老人にもこんな時代がありましたってことで、
輝くように若く美しい20代の二人と、生きていることすら苦痛そうな、
老いた現代の二人のリアルな姿が繰り返し現れます。

最初は老人たちの姿に見てはいけないものを見るような気分でしたが、
特に最後の瞬間、それは実に尊い姿に思えました。



お待ちかね機内食ですが、残念ながら随分味が落ちたと感じました。

メインの白身魚の揚げたのは「いかにもレンジで温めた食感」。
デザートはお皿に載っている果物と前菜に混入したカステラ?ひとかけら。

有名レストランとのコラボもなかったし、コロナ以降
航空会社は業績を立て直すのに随分苦労しているのかもしれません。


西海岸に到着した瞬間。



スラウと呼ばれる自然保護公園が見えてきました。
画面左下のスラウの中にある一角のビルはフェイスブック本社です。

ただそこにいるだけで磯臭い風に包まれる絶好の立地。
こんなところに社屋を建てるとは、さすがザッカーバーグ(褒めてない)

■ iPadを失くす

事情があってiPad Proを2枚持って使い分けているのですが、
飛行機の中で、うち一つが見当たらないのに気づきました。

あーやっちまった。なくしちゃったよ。

てっきり羽田のチェックインカウンター前に置き忘れたものと思い、
宿泊先に落ち着いてから、まず羽田のANAに遺失物としてとどけたところ、
丸々2日後に「ありませんでした」とお知らせのメール。

そこで、今度は羽田の遺失物係に電話してみました。
係の方は目視しに行ってくれるなど手を尽くしてくれましたが、
それでも見つからないという返事です。

そのとき相手が、「正式な型番はわかりますか?」と聞くので、
確かめるために「デバイスを探す」を開けてみると・・

おい(笑)

サンフランシスコ空港にあることになってました。

つまり羽田に置き忘れたというのはわたしの勘違いで、
実は飛行機の中に(おそらく座席の下とかに)置いてきてしまい、
機内清掃に拾われてSFO空港のどこかで預かってもらってると。

「あの、たった今気づいたんですが、SFO空港にあるみたいです・・」

そう羽田の遺失物係の方に告げ、丁重にお礼を言って切り、

サンフランシスコ空港のロストアンドファウンドに、
テンプレートのクレームを(シリアル番号まで入れて)送りました。

すると、即座に「ロスト&ファウンドのカスタマーセンター」とやらから
こんなメールが入るじゃありませんか。

エリス中尉さん、こんにちは

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ありがとうございました。
カスタマーサポート


つまりプライオリティにアップグレード(69ドル)すれば、
お役所仕事をしている彼らのお尻を叩き、
時には脅してすかしてあなたの失せ物を見つけ出しますよと。

ちなみに同じところからメールは三通来ました。
最終メールには、

このメールがあなたを元気にしてくれることを願っています。

紛失したアイテムに早急な対応が必要なため、
この最終通知をお送りします。

私たちは、優先請求+コンシェルジュ調査を通じて、
お客様への返却を迅速化することをお約束します。

プロセス全体を処理するだけでなく、
請求がより迅速な回復プロセスにつながるように、
追加の時間と労力を投資します。

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ちょっと脅し入ってます。

いかにも1セントの儲けにもならない仕事にはやる気を出さない
アメリカという国ならではの阿漕な隙間商売ですな。

69ドルったら今1万円くらいでしょうか。
↑これをみた瞬間のわたし

これが出国が明日で全く探す時間がない、とかなら
仕方なくこのプライオリティとやらにお金払っちゃうんだろうな。

そうはいくか。

次の日、残りのiPadを持って空港に突入したわたし。
まずは空港ロスト&ファウンド(工事中で仮営業)にたどり着きました。

空港警察の横の、ガラスで区切られたブースの中の人と、
まるで映画の刑務所の受刑者との面会シーンみたいに電話で通話。
すると、中の人は、

「ここでは預かっていないから、ANAに電話してみて」

と電話番号をくれたので、「探す」機能を方位盤のように辿りながら、
指し示すデバイスのマークの方向に進んでいきました。

「きっとここ(デバイスのあるところ)はANAのカウンターに違いない」

オリエンテーリングというスポーツ?がありますが、
広大な空港を歩いていると、まさにそれ気分。

「近づいてきた近づいてきた」

我々の居場所とデバイスのマークは重なりそうで重なりません。
辛うじて一番近いところに立つと、そこはUnitedの出国カウンターでした。

そこで教えてもらったANAの事務所に電話をしてみると、

iPadのカバーの色や型式を聞かれ、

「それでしたらこちらで預かっているものだと思います」

やったー!見つかった。

「それではアイル1のカウンター1前で待っていてください」

数分後、iPadは4日ぶりに手元に帰ってきました。
受け取った瞬間、「探す」から発信したアラームが鳴ったのには笑いました。

今回のことで、本当にアップルユーザーでよかったと感じました。
他社のデバイスにももちろん類似の機能はありますが、
アップルのほど正確かつ便利ではないということです。

おそらく今回、iPadは、頭上の荷物入れからキャリーケースを出したとき、
キャリーの外ポケットに入れていたのが滑り落ちたのだと思います。

というわけで、皆様には、アップル製品を失くしたとおもったら、
何より先に「探す」機能をチェックすることをお勧めします。

なにしろMKによると、

「もしそれが盗難されて中国とかに持ち帰られたとしても、
周りにデバイスがある環境なら、世界中どこからでもそれがわかる」


ということですから。

続く。




ウィンチェスターミステリーハウスの”真実”〜西海岸生活

2023-09-08 | アメリカ

これが最後のアメリカ西海岸からの報告となります。
アメリカでの滞在を終え、先日無事に帰ってまいりました。

そして今、わたし史上初というくらいの酷い時差ボケに苦しんでいます。


今回は羽田着を選んだ関係で、出発が夜中の1時過ぎになりました。
空港到着が10時、出発時刻はもういつもなら寝ている時間です。



暦は9月になっていたので、シートのスクリーンはお月見モード。
水平飛行に入るまで、映画「ホエール」を観ていましたが、
登場してすぐ機内用の寝巻きに着替えて歯磨きも済ませていたので、
シートベルト着用サインが消えると同時に寝る体勢に入りました。



目が覚めると、着陸2時間前。
少し早めでしたが、このとき日本の近くは台風のせいで風が強く、
揺れが予想されるということで早めに朝食をいただきました。



時間は遡って出発前。
最後に、MKの大学寮にあるカフェ&バーで食べてみることにしました。

部屋から下を見ると、ちょうど来年度からの住人の引越し時期で、
そのせいか芝生の真ん中に学校のマークが描かれていました。
芝生に水性ペンキでペイントしてあるそうです。


大学院寮のなかの施設なので、営業は週二日木金のみ。
金夜などは関係者が団体で盛り上がっている様子がよくみられます。



バーにはカウンターも、自動演奏のピアノもあり。
この窓の中にあるのは、音楽に合わせていろんな色を発光する謎のオブジェ。



オーダーは備え付けの画面から行い、横にある受信機をとって待ち、
発信があれば取りにいくというシステム。



バーと言いながら、日本だとランチにするしかないバーガー系のみ。
わたしはMKのおすすめによりフィッシュバーガーにしました。
アボカドとか目玉焼きはオプションで付けられます。



美味しいコーヒーを求めて、最後の週末、
サンタクララ大学の周辺エリアに行ってみました。

VoyagerCraft コーヒーはサンタクララ中心に数店舗展開している、
ローカルな本格コーヒーショップです。



フレーバーコーヒーが売りで、その名前も
「バリ」「バレンシア」「サンティアゴ」「マニラ」
など、それぞれの都市のイメージの味というのが人気。

この日わたしはミルクをオーツに変え、ブラウンシュガーを抜いた
「トーキョー」(エスプレッソ、お好みのミルク、自家製バニラ、
チェリーブロッサムウォーター) を頼んでみました。

MKは「レキシントン」(エスプレッソ、お好みのミルク、
自家製バーボンリダクション、自家製バニラ)です。

■ ウィンチェスター・ミステリーハウス


最後の週末、コメント欄でおすすめされたこともあって、
車で7分のところにあるウィンチェスターミステリーハウスに行きました。

銃器王といわれたウィリアム・ウィンチェスターの未亡人、
サラ・ウィンチェスターの邸宅だったこの広大な屋敷は、その規模と
奇妙な建築のせいで1922年、サラの死後すぐに観光地となりました。

ちなみに、わたしの今日に至るまでの当地に対する知識は、

「ウィンチェスター銃の犠牲者の呪いのせいで、家族を失った、
と信じる未亡人が、占い師に騙されて死ぬまで建築を続けたせいで
奇妙なミステリーハウスになってしまった」

という程度の、ごく一般的に信じられている噂に留まります。
別にその実態を確かめたいとか、そういう意図はありませんでしたが、
単に近くにいるから一度行ってみようか、程度の気軽さで申し込みました。


チケット売り場の建物は、本館に似せてありますが、後から作ったもの。

前日ネットでチケットを購入しましたが、前売りなのに大人一人41ドル。
学生割引もなく、思わず「高いなあ」と文句が出ます。

チケット売り場には列ができていましたが、これは当日申し込む人のため。
購入が済んでいる人は中に入って待つだけです。

ちなみにゲートの蜘蛛の巣のような模様ですが、
屋敷内にもあしらわれた当時流行りの意匠です。

しかし、「ミステリーハウス」にぴったりな趣味ともいえます。



待っている間の時間潰しにどうぞ。
というわけで、シューティングゲームコーナー。
きっと備え付けの銃はウィンチェスター銃のモデルなのでしょう。



ウィンチェスター本人っぽい(さすがに本人のではない)写真を加工して
白目を剥いたおそろしい写真が飾ってあったりして、なかなか悪趣味です。

このように、ウィンチェスターの屋敷は、女主人の死後、
観光名所の宣伝として、「幽霊屋敷」のレッテルが貼られてきました。

全て「ミステリーハウス」に対する大衆の興味を掻き立てるのが目的です。

■ ミステリーハウスの「虚構」



しかし、そんなイメージをより裏付けるファクトとして、
あきらかに必要のなさそうな工事が行われていたり、
工事を行った理由が全く不明な構造物があります。

ツァーが始まってガイドが入り口のドアを開けると、そこは壁。



異常に低い段差(ほぼスロープ)でできた異常に狭い階段。
こんなのがあっちこっちにあります。



しかし一見不思議なこの階段には少なくともちゃんとした理由がありました。

マークが指を指したところは女主人サラの身長である4フィート10インチ。
つまり146㎝しかなかったことと、関節リューマチを患っていたことから、
彼女には段差が少なく、バリアフリーに近い階段が必要だったのです。



この44段の階段を使って移動できるのはわずか3メートル。
階段を上るのがつらければ、金持ちはエレベーターを設置しますが、
サラが屋敷を建てた頃は家庭に設置するようなタイプはなかったようです。

ただし、1916年にはエレベーターの設置が行われています。



他にもこんな階段がありましたが、これはどうみても
サラ生前のオリジナルではなく、後から設置されたものです。

事実、サラが死んですぐに投資家によって物件が購入され、
賃貸人として済んだジョンとメイミー・ブラウンなる夫妻は、
すぐさまここをアトラクションとして見せ物にし始め、
意図的に「不可解」な追加建築やオリジナル削除が加えられました。

より一層「ミステリー」な家にするための、演出といったところです。


ベッドルームはそれこそいくつもあります。
まあ、これもアメリカの豪邸なら当たり前。
部屋の数は全部で160あるとか。



サラはこの寝室で亡くなったとされます。
ということは、このベッドでということになるのでしょうか。

そもそもここにまつわる噂は、夫と生後ヶ月の娘を立て続けに病気で失い、
そのことを彼女がボストンの男性霊能者に相談したところ、この人が

「彼女と家族はウィンチェスター銃で殺された人々に呪われている。
その霊を慰めるために西に家を建てなければならない。
そして決してその計画を完了してはいけない」

と言ったので、彼女はわざわざ大陸を横断して西海岸に行き、
それで家を24時間建て続け(させ)たというものです。
なんで霊を慰める手段が家の増築なんだ、と突っ込みたいところですが、

ご安心ください。
これは1967年になって作家がでっち上げた嘘とわかっています。

そんな霊媒師は、調べたところ実在すらしておらず、
サラが西海岸に行ったのも、おそらくは健康上の理由で医師が勧めたから、
そして夫とのサンフランシスコ旅行が楽しかったからだそうです。

しかも、伝説が生まれるきっかけは、地元紙のゴシップ記事でした。


この武器商人の未亡人がサンノゼに豪邸を建て始めたとき、
世間は好奇心からあれこれと彼女について憶測を逞しくしましたが、
後述の理由により10年経ってもその建設が終わらないことから、

「この家の所有者は、この邸宅が完全に完成すると
自分は死ぬと信じているらしい」

とサンノゼデイリーニュースがおそらく揶揄半分で書いた記事が、
いつの間にか事実として流布されたと言うのです。


迷信深くて病的で、怪しげな霊媒師の言うことを真に受けて、
有り余る財産を無駄な工事に使い続けた愚かな女性。

後世のミステリーハウスにまつわる物語は、サラ・ウィンチェスターを
このように決めつけるものといっても過言ではありません。

しかし、噂、誇張、嘘、神話を剥ぎ取ったところにある彼女の実像は
健康上の理由で世間から身を隠すようにしていたものの、
会社の財務と投資ポートフォリオの構築も抜かりなく行う実業家でした。

そしてそれらの作業はこの机などで行われたのだろうと想像されます。


バスルームは13あったそうです。
トイレはあちこちにありますが、それも部屋からあまり遠いと
特に彼女のような健康状態にはつらいでしょうし、当然かと。



屋内の植物室?は床が斜めになっていて、
余分な水は外に出され、外の植物に水を供給するパイプもありました。



ジャパニズムを思いっきり取り入れた部屋もあり。
天井とタンスには竹をあしらっているように見えます。



この部屋に入った時、ピアノによるBGMが流れていました。
ガイドが操作すると、それが地震で建物が崩壊する音に変わりました。

この部屋は、地震の被害に遭った後、修復しない当時のまま残されました。


サンフランシスコ地震が起こったのは1906年のことです。

彼女が死ぬのを恐れて工事を続けたと言う噂がデマであったことは、
地震以降彼女は住居をたくさんある別邸のうち一つのアサートンに移し、
瓦礫の撤去とエレベーターの設置以外行わなかったことでも明らかです。



しかしこの地震のせいで、より一層屋敷は不可解なものになりました。

たとえばこのドアは「開けると空間しかない2階のドア」とされますが、
外にあったバルコニーが地震で崩落してそうなったと言うだけのもの。

他にも、階段で繋がっていた上層階が地震で取り払われたため、
「天井に向かっていきなり終わる階段」が出現したりしました。



それではそもそもなぜ彼女は建設チームを常駐させてまで、
家の建築を長期間続けていたのか。
それは一言で言うと、
建築が彼女の飽く無き「趣味」だったからでした。

まだ夫が存命中、東海岸で夫妻は当時別邸の増改築を行いました。
その際二人は建築とインテリアデザインに興味を持っただけでなく、
それが高じて、自分たちだけで全部設計建築を手掛けはじめます。

そのために雇った専門の建築家二人は解雇されています。

建築が趣味、などという女性は当時アメリカでも稀だったと思いますが、
サラにはそれを実行できるだけのふんだんな財力がありました。

そんな彼女が未亡人となったとき、広い土地に移り、そこで自分の家を
ゼロから自分の設計で建ててみたい、と思ったとしても不思議ではありません。

いつまでも工事が終わらなかったのは、建築が趣味だったからで、
完成させることより作り続けることが目的だったからでしょう。

言うて素人ですから、全体的にまとまりがなくなり、
家の中は迷路化してしまいましたが、そんなことはいいのです。

だってここは彼女の遊び場、プレイランドだったのですから。
(彼女はアサートンなど他にも西海岸に普通の家を持っていた)

ある人の研究によると、彼女が家を建て続けた理由の一つに
労働者の雇用を維持し続けるため、というのもあったようです。

そして、これはわたしの想像ですが、建築を続けたのは、
夫と子供を失い、ひとりぼっちになった彼女が、何かを生み出すことで
生きる情熱と目的を維持するためだったと考えられないでしょうか。


ガイドの向こうにはサラに雇われていた建築チームが写っていますが、
彼らはサラが死ぬまで、ここで安定した雇用を得ていました。

彼女は遺言により、従業員全員を受益者として指名していました。


建築チームのチーフ(棟梁ですな)などは、敷地内に家を持ち、
ここで家族と住んでいたといいますから。



メインの食堂。
サラは社交的な夫人ではなく、健康状態が悪化した1900年以降は
公的な場に姿を現すこともあまりなかったため、
屋敷ではパーティなども大々的に行われなかったと見えて控えめです。



氷を入れる式の冷蔵庫ならぬ「冷蔵室」。
大きな氷を入れて冷蔵の必要な食料を保存していました。



美しいステンドグラスの嵌め込まれた窓。
サラは今後のため?と思ってか、大量にステンドグラスを購入しましたが、
結局それらのほとんどは、どこにも使われずに今日展示されています。



「幽霊のような音楽」が屋敷から聞こえてきた、という地元住民の噂は、
早くから音楽をよくし、楽器の演奏を趣味にしていたサラが、
眠れぬ夜などに弾いたこのパイプオルガンだったと種明かしされています。

夜中にパイプオルガンの音が聞こえてきたらそりゃ怖いわ。



もちろん居間にはピアノもありました。
ケーブル(Cable)ピアノという、1930年代までシカゴに存在した
ピアノ製造業者の製品です。



スリラー映画『ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷』
と言う映画のロケがここで行われました。
そのときに使われた俳優の衣装が展示してあります。
YouTubeで見てください。

なんかひでえ・・・。



ハロウィーンには真夜中にツァーを行うなど、もう全面的に
そっち方面に振りまくっているここ「ミステリーハウス」。
ここのガイドは、わたしが今回したような「本当の」説明は一切行いません。

それどころか彼がガイドしているときに誰もいないのにドアが閉まった話を、
「これは本当の話です」などと大真面目で言って怖がらせにかかります。

仕方がありません。
ガイドは全員、捏造され不正確な噂を元にした、観光用の台本通り喋っていて
おそらく自分の意見(異論)を挟むことは許されていません。

それはほとんど、ディズニーシーの、今は無きアトラクション、
「ストームライダー」の前説係のようなものです。

そして、彼らが「個人的に」体験した「不思議な出来事」も、そのほとんどが
過去の噂と伝説からきた確証バイアスと暗示の結果だと言う説があります。

このように決めつけるのは、楽しみたい人たちには興醒めかもしれませんが、
ここはディズニーの作り物のアトラクションではないのです。

実際の誰かが住んでいた家をいつの間にか幽霊屋敷に仕立て上げ、
その主人を「おかしな人」「迷信的な人」とレッテル貼りをして、
こんな形で物語を上塗りして商業的利益を得るって言うのもなんだかな。

少なくともわたしには、面白く興味深い建築ではありましたが、
幽霊やら怪奇現象と結びつける意味は全くないのではと感じました。



というわけで、1時間半のツァーを終えて外に出てきました。



庭園には変な噴水がありました。



どう言う状況?
ちなみに三方から、カエルも彼に水をかけにきています。


庭園の外側にも趣味の?建築が建ち並んでました。
大工の棟梁の家もそうですし、やたら広いガレージ、大工小屋、
これなど「果物をドライする(だけの)小屋」。

サラ・ウィンチェスターには、グッドジョブ、と言っておきたいところです。



最後のエスニック料理は、タイでした。
ここは大当たり!今までで一番美味しいパッタイが食べられました。



大好きなスティッキーライスのマンゴ乗せも。
ライスはお米の色のせいでブルーです。



そして、最後のお昼ご飯のためにパロアルトのユニバーシティ通りに行くと、
以前ケイリーグラントをやっていた映画館が、
「ヒッチコック フィルムフェスティバル」を開催していました。






アメリカの親友〜西海岸生活

2023-08-31 | アメリカ

インターネットに向かう時間をこちらに来てから減らしました。

この度起こった出来事によるわたしの精神不調と、
そこから自分を立て直すための対策です。

そして、ここからが事務連絡なのですが、
今後は決して「無理しない」ことを優先してアップしていきます。

個人的な興味の範疇であるごく限られた話題について発信し、
それをネットを通して人々と共有することを趣味として
長い間心から楽しんでやってきたブログ運営ですが、
今回のメンタルダウンで、多少なりとも「義務感」が生じたと感じました。

更新の頻度は多少減るかもしれませんが、さはさりながら、
ブログ運営はわたしにとってひとつの精神安定剤である一面もあり、
当分の間は皆様と共有したい未発表の情報もありますので、
今後もどうか長い目でお付き合いいただけましたら幸いです。



■ 「会えなくなった」アメリカの親友



ゴールデンゲートブリッジ近くの海岸は、
サンフランシスコに立ち寄ることがあったら必ず一度は車を停めます。

以前はこの後ろ側に「ザ・クリフ」というレストランがあって、
そこがお気に入りだったわたしたちは、何度となくここで
美味しい料理とデザートを楽しんだものでしたが、疫病流行後、
レストランは経営できなくなったらしく閉店し、絶好の立地にも関わらず
この跡地に何かできるという噂も今のところありません。

レストランと売店とカジュアルなカフェがあった頃には
この道路沿いに車を停めるのも大変でしたが、今ではガラガラ。

それもそのはず、この付近は夏でも太平洋からの猛烈に強い冷風が吹くので、
週末海岸にいるのはほとんどがサーファーと物好きな観光客くらい。
しかも、寒さに耐えきれずに皆すぐに車に戻ってしまうため、
飲食店がなくなった今となっては誰もこんなところに車を停めません。

わたしたちも3分後には車に戻り、そのまま少し南下したところにある
MKがサンフランシスコ時代に通っていた幼稚園の前を通ることにしました。



MKが在籍していた頃は周りの目隠しはされていませんでした。
金網越しに中の様子は見えていたと記憶します。



建物の向こう側には広い園庭が広がっていて、その端に
さらに別の教室のある建物があります。



今回来てみて、道路沿いの壁の内側が鶏舎になっていたのに驚きました。
わたしたちが近づくと、特にこの鶏が激しく反応し、
高いところに飛び乗って大歓迎してくれました。


この人懐こい鶏さんがDivaであることがわかりました。
右上の鳥(ダチョウ的な)の名前「ダイアナ・ロス」は、
なんとなく羽飾り的な意味で納得のいく命名というか・・・。

園児の情操教育のために始めたのか、それとも父兄の関係者に
鶏を処分したい業者でもいたのかは謎ですが、これによると
餌やりの様子が配信されているようです。



ディーバさんは人懐こくて最後まで友好的でした。

この幼稚園は、コーポラティブ、父兄家族が積極的に保育に参加することで
経営を行う方式で、具体的には在籍時には1ヶ月に一度くらい回ってくる
おやつ当番、それから「ワーク」といって、朝から子供と登園して
主にお遊びの時のワッチを義務付けられています。

自分の子供が日頃幼稚園でどう過ごしているのか、とか、
園児同士の人間関係?親の人となりを垣間観察できる貴重な機会とあって、
わたしは思いの外この当番を楽しんでいました。

あのうちの親は離婚していて、お迎えには父と母が変わるがわる来るとか、
父と母は白人だけれど娘はアフリカ系で養子らしいとか、
だれそれの親の離婚理由は父親がガレージでお薬してたからとか、
まあ、日本では余りない感じの噂話もこういう時に耳にしたものです。

■ アメリカの「親友」

のちに私のアメリカの親友となった彼女と出会ったのも、
この幼稚園の母親同士という(ママ友ですか)縁でした。

彼女はMKの一つ年上の娘の母親で、その時から気が合い、
わたしが帰国後アメリカに滞在する時には必ず一度は会って、
食事をしたり、どこかに遊びに行ったり、長い話をして過ごしたものです。
毎年夏に一度、コロナの時以外はその再会は継続していました。

当ブログにもアメリカ滞在の話題では頻繁に登場しています。

一年に一度会うだけで、その他の時期は特にメールもしなければ
もちろんSNSでのやりとりも全くないのですが、
この何十年かのそんな付き合いの中でわたしは彼女を親友と思っていました。


そんな彼女と、今年、突然連絡が取れなくなりました。

渡米前に今年のスケジュールをメールとテキストで送りましたが、
配信はされたという表示はあるのにも関わらず、返事がないのです。

「〇〇さんと連絡取れなくなった・・・」

と家族に言うと、MKがすぐ「とにかく電話してみたら?」というので、
わたしはその言葉に背中を押されるように、電話をかけてみました。

電話番号は健在でしたが、ワンコールもしないうちに
彼女自身の声でメッセージが流れたので、わたしはとりあえず、
もしこれを聞いたら電話ください、と言って電話を切りました。

しかし、それから何日経っても、2ヶ月経った今現在に至るまで
やはり彼女からの連絡はまったくないままです。


去年、彼女とはサンマテオで会って一緒に食事しました。
その約束を取り合っているとき、彼女が、

「体調を崩していてとてもしんどいので、今整体や鍼に通っている」

と言っていたのが気になっていました。
会った時、TOと一緒に精密検査を勧めたのですが、

「診てもらったんだけど、何も悪いところはないって言われた」

と言う返事。
アメリカの医療制度では日本のように精密ドックを受けることは難しいので、
わたしたちは、

「なんなら旅行も兼ねて、日本に来て、
成田の近くの総合病院が外国人の医療ツァー向けに組んでいる
精密ドックで検査してみたら?」


と、案内をメールで送り、彼女もそれに興味を示していました。


そのときわたしは、「腰が痛い」という彼女のことばから
自覚症状なく進む最悪の病気の可能性を思い、不吉な予感がしたのですが、
一緒に食事をしているときの彼女の様子には何の変わりもなく、
普通に食べ、笑い、顔色も特に悪い様子はありませんでした。

そのとき、いつものように一年後の再会を互いに約束して別れ、
いつものようにそれっきり音沙汰のないまま、一年が経ちました。

そしてなんの疑いもなく、今年も彼女と会えるものだと思っていました。

しかし、何度電話をしてもワンコール鳴らないうちに始まるメッセージ。
あれこれと最悪の結果を考えるうちに、精神状態は落ち込んでいきました。

起きていて手にデバイスを持っている時間のほとんどを、
彼女の行方と状況を知れる手がかりを探すことと、そして
wiki(彼女はあるジャンルでバイオグラフィーが公開されている)に
書き換えられたことがないか確認すること、そして、
彼女の娘がSNSで何か発信していないか探すこと(見つからなかった)、
彼女が罹っているかもしれない病気について情報を漁ることに費やし、
その結果、見事にメンタルダウンし不眠症になってしまったのです。

そうなると今度は、自分の体の状態さえあれこれと気になり出し、
最悪の予想をしては落ち込む、というスパイラルに陥る始末。

そしてある日、一睡もできずに朝を迎えてしまったわたしは、
これではいけないと、自分で自分を立ち直らせることにしました。

まず、友人のことは一旦「忘れる」。

メールも携帯も解約されていないのだから、
何かの都合で忙しいだけで、(最悪でもファミリートラブルとか)
とにかく彼女は元気に「生きている」と信じる。

そして、ネットで病気についての情報を検索しない。

ついでに、ネガティブな内容のニュースも極力見ない。

ネガティブな内容のYouTubeの動画を一切見ない。
見ていいのは動物ものと音楽関係、映画などに限定。

寝る1時間前にはゆっくりお風呂に浸かり、精神を休めるお茶を飲む。
朝起きたらニュースではなく音楽を聴く。

できるだけ家族と楽しい時間を積極的に過ごす。
(一緒に料理することはとても効果的)

昔のアメリカの友人に連絡を取る。
(セントルイスの旧友とは連絡が取れ、今メールで情報交換中)

これだけのことを積極的にやった結果、
かなりリカバリーし、マシになりかけていたのですが、
そんなある日の明け方4時半に、実家からの電話が鳴りました。

その電話で母からおじが亡くなったことを知らされたのです。

どうしてこういうことは続けざまに起こるのでしょうか。
義母と大学の恩師が2週間違いで亡くなった時のことを思い出しました。

しかし、おじはいわば大往生の部類で、母も、葬式に列席不要、
ということを伝えるためだけに電話してきたのであって、
このことは結果として立ち直りにそれほど障害とはなりませんでした。

遠いアメリカの空の下から、記憶に残る、長身でハンサムだった
(現役時代の阪神の江本豊にそっくりだった)おじの冥福を祈った次第です。


そして今、わたしはようやく元のわたしに戻ったようですが、
悲しいことに、西海岸一帯のどこにいっても、どこを訪ねても、
そこには長い期間にわたり、彼女と訪れて過ごした場所があります。

かつて知った場所に行けば、必ずそこで過ごした彼女との思い出が蘇り、
それがわたしをなん度もなん度も打ちのめしそうになるのです。

しかし、その都度、

「またいつか会おうね」

と心の中で彼女に呼びかけてみます。
すると、携帯に残っている彼女からの最後のメッセージと同じ、

「オッケー」

という返事が、記憶に残る彼女の声で脳裏に蘇ります。





サンタクララ生活

2023-08-29 | アメリカ

サンタクララに移動して3週間が経ちました。

■自動洗車体験

冒頭の写真は、長期レンタルで車が限界まで汚れたので、
一度思い切ってこちらの自動洗車にトライしたときのものです。



スタンドのようなところで受付と支払いを済ませたら、
自分で運転して洗車場までGO!



機械に入る前に機械が洗えないところを拭く係。



レールに乗ったらニュートラルにしろ、と言われていたのですが、
ニュートラルにしたつもりがギアをブレーキに入れていました。
ブレーキがかかっていると、レールを自動走行できずに止まってしまいます。

レンタカーなのでニュートラルにすることが咄嗟にできず、まごまごしていたら
横から係りの人が手を突っ込んで直してくれました。
やれやれ、とおもたら、今度はワイパー作動!
ワイパーがオートになっていて、水に激しく反応したのです。

「ああああああ」

とかいっていたら、レールがガクンと止まりました。
わたしだけでなく、洗車中のすべての車がストップです。
もう一度おじさんが窓から手を突っ込んで直してくれました。

こちらでは雨など降らないので、ワイパーがどうなっているかなど
この時まで全く意識していなかったんですよね・・。
入る前から緊張マックスだったのに、いきなりこれだよ。



そして無事に通過を始めました。


今車が何の工程をしているかは横の看板でわかります。
このあと出口まで押し出されたら、係員の合図でレーンを抜けて洗車終了。

あードキドキした。

■ 近所を散歩する




朝、近所を散歩していたら、教会の敷地がオープンになっていたので
木陰の道に沿って入っていきました。



1917年建設された、跣足カルメル会修道女のための修道院でした。



広い庭園を一周したら緑に囲まれたマリア像が・・。



サンタクララには築100年越えの住宅が普通にたくさんありますが、
その中でも特にその大きさで目を引いていたこの建物、
フェリー・モース・シード社の創始者で、世界有数の花と野菜の種子生産者、
そして「アメリカの種子王」として知られる実業家、

チャールズ・コープランド・モース
Charles Copeland Morse(1842-1900)

の住居だそうです。
(作曲家のコープランドか、電信のモースかと思ったのに)



さらに歩いていたら広いところに出てきました。
なんとこれがサンタクララ大学でした。
大学の入りにくさでいうと5段階の4、「非常に難しい」とされ、
各種ランキングでも比較的上位に入る名門大学のひとつです。



イエズス会によって同州で最初に創立された四学期制の私立大学で、
ローマ・カトリック系共学大学として上智大学と学生交換協定を結んでいます。

■ GoogleアプリのCM

今度の家は大画面のモニターが居間、寝室、プレイルームと三つあり、
ゲストもログインせずに見られるMAXやtubi、Netflixで
PCに向かう時間、極力映画を観るようにしています。

MAXではまだ日本で公開されていない、「And Just Like That..」
(Sex and The Cityの続編)のシーズン2も観ましたし、
(シーズン1より見てられないシーンが多かった)
なんとここで紹介したナチスの脅威啓蒙映画、
「49th Parallel」(潜水艦轟沈す)
を、無駄にいい画質の大画面で観ましたし、MKのおすすめ?で
ブラッド・ピットの「ブレット・トレイン」まで観てしまいました。

無料の映画にはときおり広告が入るのですが、
MAXを見ているとしょっちゅう出てくる、
Googleアプリの宣伝が気に入ったので紹介します。



「ハイ、バービー」「ハイ、バービー」と皆とSNSで挨拶するところから
始まるこのアドの主人公はこの女の子。
映画「バービー」に便乗したこのCMで、彼女は
バービーリスペクトのため、全身ピンクに包んでいます。

こちらでもこういう時にはぽっちゃりさんが採用される傾向。
この人は、メグ・スタルターという女優さんらしい。


ここは「バービーランド」。
この世界では、皆あいさつに「ハーイ、バービー」というのがデフォです。

「バービーランドではわからないことはないけど、
ここ現実の世界では、わたしいつも『それって何?』って思うの」



「これって何?」



「ありがたいことに、Google アプリを使用すると、
レンズで検索できちゃうの・・。」




「へー、チャックワラね。わらーっぷ」

チャックワラはイグアナの一種とおもわれます。
ワラップは、What's Upをチャック『ワラ』とかけて発音してます。



「隣に住んでいるカナダ人の恋人、
ジャン-ピエールからのメモを翻訳することもできるの」




(フランス語を翻訳)
「僕の駐車場所を盗むのはやめてくれ!」



「それならわたしの心を盗むのもやめてよね!ボーイ」



プレートナンバーの「KENWHO?」に注目。



「今日やりたいことは・・・そうね、ジャグジーかな?
・・ああああっ!



「なんなのおー!これは!」



「グーグルアプリなら必要な色を見つけることができるわ。
それはわたしの場合、ピンク一択よ!」



「レンズの助けで、何か探したかったら
ただ見るだけで検索できてしまうのよ」



「たとえば『枯れた植木』」



『乾いた、または葉が茶色くなった植物は水に浸けましょう』

「この子たちにはお水が必要なのね!」



「どすこーい!」


(とはもちろん言ってない)



「サンキューグーグル、次は何?」



終わり

アメリカでは映画の合間にもこのCMが放映されるそうですが、
最初に見た人は皆笑うそうです。

New ways to search: Barbie (featuring Meg Stalter)

動画で見たい方のために



車で5分くらいのところに巨大モールがあります。
モールのラーメン店「NAGI」とうどん屋の「丸亀製麺」は、
平日でも1〜2時間の列ができていて、わたしたち日本人には
あの程度のものに並ぶかなあ?という気がするのですが、
そういうわたしたちは、台湾飲茶の鼎泰豊(ディンタイホン)に入るのに
1時間半待ってしまいました。

ここは並ばなくても携帯で呼び出してくれるので、
モールで時間を潰すことができたのですが、
いざ順番が来て頼んでみると、これも待つほどかなあ?という感じ。

台湾で鼎泰豊の社長さんというおじさんを紹介してもらって
(王貞治後援会を通じたコネクションだった気がする)
本場のを食べましたが、それとはずいぶん違うなあと。

凪もそうですが、一風堂も丸亀も、支店がたくさんできて
海外まで進出している時点でもう「別物」になったと考えるべきですね。



鼎泰豊の順番を待つ間Apple Storeに行ったりしたのですが、
なぜかペット連れ込み禁止のモール内に犬の集団が・・・。
皆珍しげに写真を撮っていましたが、これなんだったのか・・。
わんちゃんたちは皆おとなしく床で座っています。



家に帰ったら、同じような光景が(ただし猫)


続く。




お茶とコーヒーの話〜アメリカ西海岸生活

2023-08-27 | アメリカ

■ コーヒーと水の研究所で「ゲイシャ」を飲む



サンノゼの日本スーパー、「ミツワ」のあるモールに、
新しくできたコーヒーショップに行ってみました。
お店の名前が「コーヒー・ウォーター・ラボ」なんて、期待できそうです。



「ミツワ」の敷地内にあるせいか、このお店、
「コーヒーと水の研究所」と日本語のサブタイトル?がついています。

水にもこだわったロースター、ということで、
5ドルのプアオーバーを頼んでみたところ、なかなかよし。
家に帰ったらメールのアカウントに払ったカード経由で
次に来た時の2ドルのチケットが届いていたので、もう一度行って、
一番高くてやめた「ハニー・ゲイシャ」という豆を注文しました。

真ん中がわたしの頼んだ「ゲイシャ」

「ゲイシャ」(Geisha)は、世界で最も高価なコーヒーのひとつです。
「ゲイシャ」というのはエチオピア原産地の地名で、
日本の芸者とはまったく関係がありません。

味は・・・・普通でないというか、とにかく変わっていました。



スーパーマーケットのコーヒー売り場は、どこも品種が多く、
どれにするかいつも迷ってしまうのですが、一つの手がかりとして
「ローカル」と書かれた商品を選ぶのも手です。

サンタクララにある「クロマチックコーヒー」は、
そのパッケージがなかなか美味しそうで注目していたのですが、
一度朝車を飛ばして本店(ここしかありませんが)に行ってみました。



一つのロースターでこのバラエティの多さはさすが有名店。


コーヒー屋とレインボーフラッグの親和性の高さは異常。

カフェは閉鎖していて、中で注文したコーヒーを
外の窓で受け取るという方式でした。

コロナ以降人手を減らしてこの形で営業しているのでしょう。

■ ティーテイスティング

Mサンフランシスコのお気に入りのティーショップ、
SONG TEAの週末イベント、「ティーテイスティング」があると知り、
申し込んで参加しました。
オンラインで予約がオープンになった途端、売り切れてしまう人気です。

もっとも、参加人数は一回のパーティに6人というもの。
参加費は一人50ドルと、決して安いものではありません。



ティスティングは営業開始前の9時から11時まで行われます。
9時に間に合うように車を飛ばして、まだ人気の少ない
週末のサンフランシスコに到着し、店に入れてもらいました。

すでに用意ができています。



時間には6名の参加者全員が集まりました。
2時間の間、茶ソムリエ(とはここでは言いませんが)の話を聞きながら、
5種類の台湾・中国茶を2煎ずついただくという内容です。



中国茶の淹れ方をこんなにまじまじと見たのは初めてです。
5種類を2杯ずつ飲むのは大変に思われますが、
中国式のティーカップは本当に小さいので「味わう」程度の量です。

最初はソムリエだけが喋っていましたが、他の四人の参加者が
(アジア系カップル、アジア系とアフリカ系の男性カップル)
質問をしたりして、話が弾んできました。

わたしたちは日本人特有の引っ込み思案そのものでひっそりと黙って
でも話に相槌を打ちながら参加。

アジア系カップルは自分達の話はしませんでしたが、
アフリカ系の若い男性が、ボストンの大学のビジネススクールを出ていて、
こちらで数学の勉強をしたのだが、アジア系男性と二人で
コーヒーのお店を持ちたい、というようなことまで話していました。

セッションが終了した時、全員で最後に挨拶したのですが、
そのときにわたしがアフリカ系男性に、

「わたしたちもボストンに住んでいたんですよ。
夫があなたと同じ大学にいたので」


といったところ、彼は、わたしが着ていたパーカのMKの大学のロゴを見て、

「じゃその大学には?」

と聞くので、

「これが行っております」

とMKを指差したところ、驚いたことに、彼が数学を勉強したという
こちらの大学とは、MKと同じ大学院でした。

彼とMKはその後しばし大学のカリキュラムの話で盛り上がっていました。
なんでも、MKの取った授業は「難しいので有名」で、
あれは取ってはいけないと言い伝えられているということでした。

なぜそれを取ったMK。

しかし、TOの大学とMKの大学院、同じコースを選んだ人と、
たった六人のティーテイスティングで遭遇するとは縁は異なものです。



合間にいただく果物が用意されていました。

正直最初はお茶を味わうのに50ドルって高くない?と思っていたのですが、
参加した人たちとの触れ合いも含めて、値打ちがあったと思います。



その後、ソムリエが近くにあって美味しいといっていた点心の店、
その名も「ダンプリング・ストーリー」に行ってみました。

芽キャベツを頼みましたが、これほど美味しく料理されているのは初めてです。
こんなならアメリカの子供も芽キャベツ嫌いにならないのに・・・。



小籠包は当店オリジナル、専用おたまに乗せていただきます。
これがまたよくできていて、お玉に乗せて皮を破っても
スープがこぼれ出ることなく、無事に食べることができます。
正直、この後行ったモールのティンタイホンよりかなり上でした。



魔がさしてデザートのエッグタルトを頼んでしまいました。
これは失敗。ちょっと甘すぎました。



■ ホームレスとヴァーブの店長

アメリカ生活もすっかり落ち着いて生活のサイクルができたころのこと。

MKと朝コーヒーを飲みに行く店は、ユニバーシティストリートの
バーブ(Verve)コーヒーと決まっていました。

車が停めやすく、高速の入り口まで近くて、なんといっても
プアオーバーが安定していつも美味しいからです。

一杯一杯を手で入れるプアオーバーは、人によって微妙に味が違いますが、
その微妙な違いも毎日飲んでいるからこそわかってきます。

そして、毎日同じ場所に訪れることでわかってくることも。



どうやらこの辺りでは、このVerve コーヒーが、
住民の間ではいちばん「イケてる」と認識されているらしいこと。

お店の前のこのオープンエアの道向かいは実はスターバックスなのですが、
いつ見てもここほど人は訪れていないように見えます。

ここには、20年前のスターバックスや、少し前の
日本のブルーボトルコーヒーのような、「第一線」のお店が持つ
特有の輝きと、スタッフの気概から生まれてくるらしい高揚感があります。



この日は珍しく朝の8時で曇っていますが、夏の期間、
カリフォルニアには雨は降らず、朝は爽やかな風が吹く晴天です。

お店のカウンターは外に向かってオープンエアで、人々は、
こんな恵まれた気候を当然のように享受しながら、美味しい(そして高い)
コーヒーで1日を始める自分に、心から満足しているかに見えます。

そんなこのコーヒーショップに平日はほとんど毎日訪れているうちに、
わたしは何度か、オープンエアで、明らかにホームレスであろうと思われる、
アフリカ系の若い男性を目にしました。

この辺りにはホームレスもいて、広場の角のベンチを独占し、
そこに一切合切を集めて住んでいたりするのですが、
こんなふうにカフェのスペースに入ってくることは余りありません。

いうてホームレスですから、いくらオープンスペースでも、
堂々と座っていたりすれば、おそらく客から文句も出るし、
お店としても排除せざるを得なくなるので、彼らも配慮しているのでしょう。

しかし、そのホームレスだけは、ひっそりとではありますが、
周りに人がいないとき、ベンチに荷物を置いて、
ここのマークの入ったカップで何かを大事そうに飲んでいたりします。

そして飲み終わったカップをきちんとゴミ箱に捨てて、
彼をホームレスであると窺わせる大量の荷物を持って去りますが、
一連の態度から、彼が、自分が周りに不快感を与えないように
精一杯気を遣ってふるまっているように見えました。

言い方は変ですが、その様子はいつも何やらいじらしく、
胸に詰まるものを感じてMKにもそのように話したものです。

ある朝のことです。

わたしとMKが店内でコーヒーのできるのを待っていると、
カウンターに件のホームレス男性が近づいてきました。

活気のあるカウンター内では、いつも数人の店員が立ち働いていますが、
この日はその中に、ここの店長らしい、いかつい感じの白人店員がいました。

ホームレス男性が黙ってその男性の前に近づき、前に立ったところ、
店長(たぶん)は、これまた何もいわずに、アイス用カップに
たっぷりの水と氷を少々入れて、黙ってカウンターに置いたのです。

ホームレス男性は、もしかしたら一言何か言ったかもしれません。

が、黙ってカップを受け取り、ペーパーナプキンを一枚手に取ると、
他のものに彼の手が触れないように細心の注意を払いながら、
重ねられたカップの蓋を上から一枚取り、もらったカップにはめました。

そして、そのまま静かに店を出て行きました。

その後、店長らしき男性がカウンターにいないときには、
ホームレスも現れないことにわたしは気がつきました。

どういうことがきっかけでこのやりとりが始まったのでしょうか。

ただ一つ、この、おそらく店長の独断で暗黙のうちに与えられる
一杯の清潔なカップに満たされた水が、ホームレスの男性にとって
生きる気力の助けになっているであろうことは容易く想像されます。

帰国までにまた彼を見ることがあったら、そのとき
「これであなたのためにコーヒーを買ってください」
といってお金を渡すことはありだろうか、なしだろうか。

わたしは今、そのことを密かに悩んでいます。



サンタクララに移動〜Airbnbいろいろ

2023-08-23 | アメリカ

今回の滞在における2回目の引越しが完了しました。

最後の宿泊先は、Airbnbで見つけたサンタクララの一軒家です。
これまではMKの大学寮のあるパロアルト近くでしたが、
どういう生活パターンになるのかわからなかったので、
とりあえず最後はインターンシップ先に近いところを選びました。

もう一つの理由として、パロアルトよりサンタクララの方が
部屋代の相場がかなり安めだったということもあります。

しかも、3ベッドルームまるまる一軒貸し、長期契約の際の割引が大きく、
大変なお得物件を見つけ出すことができました。


同じ建築業者による住宅が6軒集まったコートのうちの1軒。
いわゆる日本の建売住宅みたいなものです。



上空から見るとこんな感じ。
家の前には各戸2台ずつ車を停めるスペースがあり、
さらに巨大なガレージも内蔵されています。



ドアを開けてわたしたちは思わず歓声を上げました。
今年の5月からAirbnbとなったこの家は、
素晴らしいセンスで改装された超おしゃれな内装でした。

築年数は2〜30年くらい経っているのかもしれませんが、
壁の塗り替えはもちろん、床もフルリノベーションされていています。

壁に設置されたバスケットゴールは、もちろん飾りですが、
これで遊ぶことができるようにいくつかの軽いボールが用意されていました。

中学生時代はバスケ部のカットインポイントゲッターだったわたし、
つい昔とった杵柄とばかりにトライしてみましたが、
勝手が違いすぎて、今のところまだ一回もゴールできていません。

オーナーはバスケットボールファンで、自分自身もプレイしていた模様。
(YouTubeのアカウントの写真が小学生の大会で優勝した時のものだった)



家の中のフロアに段差があると、広がりを感じます。
リビングルームから先には、キッチンとダイニングルーム。



ダイニングルーム。
窓際の飾り棚にはアナログ式レコードプレイヤーがあります。
ただしかけるべきレコードはない模様。



ダイニングルームには本物の暖炉!
「アメリカ人は今時本物の暖炉など使わない」
と前回言い切ってしまってすみません。

暖炉の上の絵といい、置いてあるものといい、
全体的にトーンが調和しオーナーの卓越したセンスが表れていて、
まるでクレート&バーレルかイーサン・アレンのモデルルームみたいです。

Airbnbに掲載されている写真は概ね実物より良く写るので、
実際が写真のイメージ通りだったことは一度もありませんが、
今回初めて写真より実物の方が良いという例に遭遇しました。

■ 前回Airbnbオーナーの「違和感」



キッチンも広々しています。
手前のカートにはコンプリメンタリーのウィスキー。

そういえば、この前に住んでいた物件のオーナーは、
宿泊者に飲食物は一切提供しないという固い意志を持った人でした。
ハウスルールにはこんな文言があったものです。

「冷蔵庫や棚の食品庫にあるものは全てオーナーのものですから
絶対に手をつけないでください。

ここから5分歩いたところにスーパーマーケットがあります」

ハウスルールの細かい部分はオーナーごとに違いますが、
ほとんどのAirbnbは、短期宿泊者へのサービスとして調味料やコーヒー、
お茶、ソース、冷凍食品や前の利用者が残していった保存食などは、
コンプリメンタリーとして利用してもらうというのがほとんどです。

冷凍庫に大量に残された「手をつけるな」という冷凍品を見て、
違和感を感じたのはわたしだけではなかったらしく、ある利用者が
宿泊後の評価コメントで「unnerving」「a little odd」と書きました。

おそらく、手をつけられたくない「自分たち」の食べ物を、
なぜお金をとって宿泊に貸す部屋に大量に残しておくのか、という
家主のホスピタリティに対するユーザーとしての疑問だったと思います。

ところがオーナーはそのコメントがよっぽど気に入らなかったのか、
とんでもない反論を長文であげており、それが以下の通り。

「多くの国で食糧が不足しているのに、それを捨てることはできません。
子供たちが飢えて死にかけているのはわたしの心を傷つけています。
1分しかかかりませんから、YouTubeで『飢餓』について検索してください。
食べ物を節約したり(実際には我が国のような幾つかの国が原因)
少なくとも極端な貧困について考え、何かできるかもしれません。」

まだまだ続くのですが、なんかものすごく早口で言ってそう。

おっしゃることそのものは確かにごもっともですが、
いかんせん、「odd」の真意を取り違えたため、反論になっていません。
サービス業のAirbnbでそれはどうなのよ、といわれたのに、

「食べ物を決して無駄にしない、このアタクシのどこが悪くって?」

とイキリ立ってしまったという感じ。

ちなみにオーナーは名前から中東系の出身と思われます。

ニューヨークで仕事をしたことがある技術者と自称しており、
MKの大学にも行っていたことがある(何で行ったかはわからず)とかで、
インテリで教育熱心な母(おそらく別居中)でもあるのでしょう。

わたしには、ヨーロッパ旅行中に楽器屋で息子がピアノを弾いている写真を
誇らしげに送ってくれていました。


ちなみにチェックアウト後のわたしへのユーザーとしての評価は、

「部屋を完璧な状態で戻してくれました。
全てのカテゴリで星5つつけさせていただきました。
誰もがこのようなゲストを迎えられればいいと思います」

というものでした。

■ビリヤード台のある家


さて、今住んでいるサンタクララの家。

生活感はありませんが、外にものがでていないだけで何でも揃っています。
ただ、トースターがなかったので聞いたらアマゾンで注文してくれました。

オーナーによると皆オーブンかレンジでトースト焼くそうですが、
わたしは長期滞在なので買ってもらえたようです。

それだけではありません。

8月、何日かここサンタクララでも暑い日が続いたのですが、
オーナーは、わたしがいる間にクーラーをつけることを提案してくれました。

それまでもエアコンはありましたが、クーラー機能のないものでした。

アメリカのクーラーは日本のような室外機方式のものではなく、
ガレージにインストールする巨大な機械が主流です。
それを室内のスイッチで調整することになっていて設置が簡単です。



スイッチはこちらで主流のGoogleの「ネスト」というのが元々ついていて、
新しくなったエアコンと連動して使えます。





キッチンの外はパティオになっていて、
アメリカ人には不可欠のバーベキューグリルも完備。


それでは2階に上がってみます。
リビングルームは吹き抜けで陽がふんだんに降り注ぐ明るい空間です。

二日目から使い捨てシートのモップを買ってきて掃除していますが、
「広すぎて掃除が大変」という言葉を初めて実感しました。


こちらは主寝室。



LGの大型画面はリビングと後述するプレイルーム、
そしてこの主寝室と三箇所にあります。
Netflixで「スーツ」上映中。


主寝室にはジャグジー機能付きのバスタブとシャワー室付き。



2階にはここと、反対側に同じサイズの寝室がもう一つ、
2シンクの洗面バス、そして洗濯室があります。



なんと、ガレージを改装したプレイルームまであります。
バーカウンターとフル設備が揃ったビリヤード台、
大画面とその前のソファーセット。

ここに来てから昔取ったキュー(学生時代一瞬)とばかり、
1日1ラウンドだけプレイすることになりました。



ゴルフクラブもありますが、これはもしかしたら
お借りしてもいいってことでは・・・?
アメリカのゴルフ場は近場にたくさんあるし、
ゴルフ好きな人にとっても最高の部屋ではないかしら。


⬛︎ ねこ付き物件


当ブログで言及している「招き猫体質」のせいかどうかはわかりませんが、
わたしは街角で猫を発見する能力に長けています。

車で街中を走っていて、「あ、猫」「猫いた」とわたしがいい、
皆は「え?どこ?」「あー本当だ。すげー」という感じで、
猫発見センサーの精度にかけては自分でも驚くほどなのですが、
このときもサンフランシスコの繁華街を走っていて、
通り過ぎる建物の2階の窓に猫を発見しました。



TOに写真を撮ってもらいました。



また、今のAirbnbに夜初めて帰ってきた時、真っ暗な車の下でセンサー作動。
車を降りて暗い中にスマホを向けてみると、二匹がいました。



初めてのここでの朝を迎え、気持ちよく窓を開けたら、
そこには昨日の猫らしき二匹が・・。



ハチワレは普通にこちらをみていますが、



黒の方は怖がりさんらしい。
お隣は猫二匹飼ってるんだね、などと話していたのですが、



その次の日、黒は三匹いたことが判明しました。



プラスハチワレで、合計4匹を養っているようです。
今のところ、とくに怖がりの黒さん始め、新しい住人が
どうして自分たちにこんなに興味を持つのか戸惑っている風ですが、
1ヶ月の間に仲良くなってやろうと計画中。



猫といえば、アメリカ始めキリスト教圏では、黒猫は縁起が悪いので
保護猫でも貰い手が少ないと聞いたことがありますが、
3匹と一部引き受けているというのも珍しいかもしれません。

ちなみに、コンドウマリエさんはアメリカのセレブに人気です。
日本風の「整理術」がアメリカ人主婦のハートを鷲掴みにしています。

■ ヴィーガンカフェ



コロナ前はメイフィールドという名前のベーカリーカフェだった、
パロアルトのモール内カフェが、ヴィーガンカフェに代わっていました。

動物性食材を一切食さないヴィーガンのイメージは、
最近のネットを見る限りそのダークな面だけがクローズアップされ、
決していいものとは言えなくなっているのが残念ですが、
アメリカ、特に西海岸ではヴィーガンは一種の「スタイル」にすぎません。

日頃そうでない人も、インド料理や中華料理を選択するのと同様に、
「今日の気分」で選ぶ料理という捉えられ方をしています。

だからヴィーガンでもそうでなくても、美味しくないレストランは
客が来ませんしあっという間に淘汰されてしまいます。

しかし、ここのようにブランチにこれほどたくさんの人たちが押しかけ、
列を作るヴィーガンレストランは、ちょっと他に例を見ません。


それだけここの料理が美味しいということでしょう。

私たちが選んだのはココナッツクリームとアガベシロップを添えた
フラックスシードのパンケーキ、スイカのサラダ、
そしてココナッツチーズ、ヴィーガンパテを使ったバーガー。

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ココナッツミルクを使ったチアシードプディング。

おしゃれなこと、美味しいこと、そして人気があること。
ヴィーガンというと、美味しくなくても健康のため我慢して食べるもの、
という宗教じみたものに忌避感を感じる人もいるかと思いますが、
少なくともここでは全くそんなネガティブイメージはありません。


続く。






バーベンハイマーとケイリーグラント〜ベイエリアでの生活

2023-08-19 | アメリカ

■アジア系レストラン

こちらに来てから何度か外食をしましたが、どうしても
アジアン系の味を選んでしまいます。
しかも西海岸は美味しいチャイニーズレストランがたくさん。



パロアルトのユニバーシティストリートの中華で、
MKが頼んでいた肉乗せ麺。
あまりのボリュームに彼ですら食べきれず残していました。


また別の日、スタンフォードモールにある(前にはなかった)
「TARO SAN」といううどん屋さんに行ってみました。

パロアルトの太郎さん。なにか期待できそう。



確かにうどんの麺そのものは良かったです。
麺だけなら下手な日本のまずい店よりよっぽどコシがあって美味しい。


でも、決定的に出汁が何か違う。

解析はできませんが、日本のうどん出汁にはない何かが入っていました。
しかも、つけうどんも肉うどんも鴨うどんも、
同じ出汁一本槍で出てくるので、わたしたちは「うーん・・・」

カウンター内で働いているのは全員がヒスパニック系だったので、
オーナーも日本人ではない可能性は高し。

日本人オーナーならこの出汁は出さないよなあ、と思いました。


わたしはこのとき何故か無性にカキフライが食べたくなって、
(TOもMKも牡蠣は食べない)一人で頼んでしまいました。
これは日本で食べるのと全く同じでした。



これは去年も行ったサンマテオのチャイニーズ。
サンフランシスコの中華街でレストランを経営していた(に違いない)
先代の遺志を継いで、サンマテオのビジネス街にオープンしたチャイニーズは
現地の中国人にも大人気で、いつ行っても店内はまるで中国本土。

MKは迷わずにこの麻婆豆腐を頼みました。
ウィキョウの香りが独特の深みを湛えるピリ辛麻婆です。


ここのネギパンケーキがまた激うまなんだ。
ネギがたっっぷり練り込まれたふわふわの中華パンに、
ピーマンとひき肉炒めをちょっとだけ挟んでいただきます。

■バーミキュラのフライパン


こちらで買い揃えてやったテフロンのフライパンに傷がついていたので、
買い換えた方がいいね、というと、MK、

「バーミキュラのフライパンが欲しい」

でも高いから・・・と遠慮する彼。
そういえば誕生日にもクリスマスにも何もねだらなかったので、
この際買ってやることにしました。

それまで知らなかったのですが、バーミキュラって日本製なんです。
電気ポットをTOが買い込んだけど使いきれず放置されている我が家では
それほどバーミキュラの評価は高くありませんでしたが、
届いたこの名古屋本社の鋳鉄会社の製品、使ってみると優れものでした。


鍋の記念すべき使い初め料理はグラスフェッドのテンダーロイン。
バーミキュラ監修のレシピの最初のページに掲載されていました。


しばらくはバーミキュラでレシピを次々制覇していきました。
珍しくホールフーズにローカルのカモ肉が出ていたので、オレンジソースで。



ビーガンメニューもありました。
これはカリフラワーのステーキ。
丸ごとを厚切りして、レーズンとケッパーを加えたソースでいただきます。


蓋は別売り。
バーミキュラのウリは蓋ごとオーブンに入れられること。
コンロにかける際は、根本のシルバーの部分から先が熱くなります。


次の日は同じ鴨のレッグを買って、シンプルに焼いていただきました。



牛乳や小麦粉を避ける人向けに、アメリカでは早くから
オルタネイティブの食材がどこでも買えましたが、
最近は日本でも米粉やオーツドリンクが買えるようになって嬉しい限りです。

この日は、ココナッツフラワーでカップケーキを作ってみました。

■ 大学寮の”コーテシー ”フード



わたしたちはMKの居心地の良い大学寮が気に入って、
Airbnbよりももっぱらこちらで料理を作り、部屋で食べて、
時間があればわたしは寮に備え付けのピアノを弾いて過ごしました。

この日、MKがリモートワークだったので、わたしたちは
彼の部屋でランチを一緒に食べるために材料を持って行ったのですが、
敷地内にフードトラックがいてたくさん人が並んでいるのに気がつきました。

手前の赤いテントはチュロス、赤いトラックはクラムチャウダー、
緑のトラックはボバ(タピオカドリンク)やかき氷の業者です。

食後、チュロスかかき氷を買うためにトラックに行きました。
まず、チュロスは売り切れで店じまいの途中。

ならかき氷でも、と窓口の中国人のおばちゃんから受け取り、
「いくら?」と何度聞いても、「はあ?」みたいな反応をするので
困っていたら、奥から若い男性が

”It’s free. It's courtesy.”

コーテシーという言葉は、through the courtesy of…=好意によって
というニュアンスで要するに大学寮からのサービスでした。



日本のかき氷のようにふわふわとかではありませんが、
中にはゼリーのようなボバのようなものが入っていました。
こちらでも昼間は猛烈に暑くなってきていたので、
このかき氷のプレゼントはしばしの涼を届けてくれました。

この「大学寮からのコーテシー」はMKによると度々あるそうです。
別の日、わたしたちが部屋にいると、彼がスマホを見ていて

「今から一階でチキンの丸焼き配るらしいけどどうする?」

このように、情報はデバイスで住民にリアルタイムで共有されます。



その日の晩は丸焼きのモモなどをバーミキュラで温めて食べました。
残りのガラと胸肉は、次の日セロリやにんじんと一緒に煮込んで
美味しいスープになりました。

チキンの丸焼きはアメリカのスーパーでは店頭でいつでも買えます。
MKによるとこの日のチキンは「コストコのもの」ということでした。

■ ”バーベンハイマー”事件

今年の夏の話題作は、「バービー」と「オッペンハイマー」。
しかもその2作品がアメリカでは同じ日に公開されるということを
わたしはMKから聞きました。

よりによってこの対極(何の対極かわかりませんが)にあるような作品が、
と、それだけでアメリカでは話題になっていたというわけです。

これに調子に乗ってしまった一部の人々が、
バービーの髪の毛を原子雲にしたり、オッペンハイマーを演じた俳優が
肩にバービーを乗せるなどという両作品の画像コラボに興じ、
バービーの公式がこのミームにうっかり乗っかってしまったのです。

これに対し、主に日本から不快感が表明され、
あっという間にワーナーブラザーズが謝罪をする羽目になりました。

わたしはというと、した方は忘れてもされた方は決して忘れない、
という人類共通の加害者と被害者についての心理について、
鈍感すぎた公式の宣伝担当には、もう少し慎重になるべきだったね、
くらいは思いますが、別に怒りの類の悪感情は持ちません。

我々日本人は「不謹慎」と言われるようなことには殊に敏感で、
地雷原を歩くように、それらを注意深く見つけ、
踏まないようにして世渡りしていくことを習い性のようにしていますが、
それは日本の専売特許ではなく、こと「人類の悲劇」といわれるような
原子爆弾とはじめとする悲惨な事件については、民族国家関係なく、
「世界の常識」というべきマナーでもあります。

ところがアメリカときたら、昨今LCBTQETC関係には死ぬほど敏感で、
それこそ地雷を踏まないように自主言論統制しているような風潮なのに、
どうしてこの件に関しては、ツィッター公式もネット民もやっちまったのか。

BLMに迂闊なことを言うと「人生終わる」とばかりに
固く口を閉ざす人たちが、どうしてこの件では
「日本ヘイト」を半ば嬉々として展開したのか。


この件を報じるアメリカのニュースでのインタビューで、
わたしが個人的に一番気の毒に思ったのが、
映画を見にきて、インタビュアーに例の「バーベンハイマー」から
いくつかのコラ画像を見せられた黒人女性でした。

彼女は画像を見せられるなり、

「いいわね!これ気に入ったわ」

と大笑いしたのですが、次いでインタビュアーから、

「原爆の被害にあった日本の人々はこれに怒っているそうですが」

と聞かされるや、見るも無惨なくらい気まずそうに動揺し、

「まーそれはねー・・日本の人たちとしてもねー」

とモゴモゴと口ごもりながら場を取り繕っていました。

ワーナーでは公式が謝罪した後、関係者(トップではない)が来日し、
「後悔している」とかなんとかいう言葉で謝罪したそうですが、
どう見ても日本公開での売り上げに影響しないようにという火消しであり、
少なくとも肝心のアメリカ国内に対してはノーアクションのまま、
というのがさらに一部の日本人の反感を買う結果になっているようです。

ここアメリカにいると感じるのですが、メディアを挙げてバービーバービー。
どうもこちらではかなりのヒットを見込んでブームを作ろうとしており、
現にそれに乗っかる消費者たちもいるようで・・・。

先週末、わたしとMKが大型モールにいったときのことです。

服もバッグも、人によっては靴も全身をピンクをあしらった、
アジア系の若い女性の集団がにぎやかに歩いていました。

彼女らは別にキャンペーンモデルというわけではなく、(見た目も)一般人。
ピンクがテーマのパーティに行く人たちかな、と思ってみていたら、
その騒がしい目立つ一団は、モールの映画館に向かっていきます。

「あ・・・・もしかして、バービー観に行くのかな」

「そうなんじゃない?」

気がつけばその日は公開初めての週末でした。
このように、ノリで楽しんじゃいましょう、という女子を生み出すほどには
こちらではそこそこのブームになっているということです。

もちろん、バーベンハイマーが「不謹慎」などという意見は
ほとんどのアメリカ人にとって耳にも届いていなさそうです。



映画館に向かいながら盛んに自撮りしたり仲間と撮ったり、
実に楽しそうな彼女らを観て、角を曲がった瞬間、
バスボム(一回分の入浴剤)専門店のショーウィンドウに、便乗商品を発見。

バービーはおそらくオッペンハイマーなんかより「ドル箱」なので、
ワーナーも日本向けには謝ってみせても、国内に向けては
人気に水を刺すような辛気臭い?抗議などなかったことにしたいようです。


ちなみに、検索したところ、このミームは止まるところを知らず、
「バービー✖️オッペンハイマー」「バービーvsオッペンハイマー」
などのYouTube動画が現在でも盛況です。

まあなんだ、911やBLMには許されない不謹慎も、
相手が「悪かったあの日本」なら仕方ないよとか思ってるんだろうな。

日本は怒らないし、たとえ怒っても怖くないし。

そう思ってたら日本いきなりキレて真珠湾攻撃、
ということが実際にあったわけですが、原爆投下は2度と日本が
「キレないように」という躾だったと思ってる人もいそう。



サンフランシスコのプレシドに近い商店街にあった映画館では
「ミッションインポッシブル=バービー」の組み合わせ。

こちらならどんなにコラボしても問題にならなかったのに・・。


ところでこちらをご覧ください。

アメリカにはいまだに商店街の「小さな街の映画館」が残っていて、
数は少ないですが、ヒット作品というよりは、
昔の映画を特集でリバイバル上演しています。

ピッツバーグのAirbnbの近くにもそんな映画館があって、
黒澤作品を上映していたのに驚かされたものです。

ここユニバーシティアベニューの映画館では、この週、
ケイリー・グラント映画特集と銘打って、
古き良き幾つかの作品を上映しておりました。

このシリーズ地元民には好評のようで、この日も
かつてこの映画をデートで観たかもしれない年齢の方々を中心に、
若い人たちもたくさん集まっていました。

ピンクの集団が目にも騒がしかったであろうバービー上映の映画館とは、
次元を別にする世界とも思えて、わたしは実に興味深く眺めていました。

古い白黒映画をレトロな大画面で鑑賞することができる小さな街の映画館。
その暗くて古い映画館のシートに身を埋め、ポップコーンを手に、
懐かしのスタアが演じる、もう何度も見たであろうシーンに観入る。

これもまたアメリカにいまだに残る、映画という娯楽のひとつの楽しみ方です。

続く。