ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「東京帰りの俺たちGI」〜日本人はマスク好き

2025-03-07 | アメリカ
横須賀に駐留していた米海軍の軍人コンビが描いた
「不思議の国ニッポン」シリーズ、続きです。

■坊ちゃん刈り

”そうそう、こういうふうにして欲しかったんだ!!"

日本の子供たちは驚くほどお行儀が良い。
GIは、彼らが泣いたり、騒いだりしているところをほとんど見たことがない。

彼らは比較的臆病で内気であり、気を引くには大抵相当な説得が必要だ。
(「お菓子、ガム、人形、野球ボールがあるよ!」)

多くの日本の子供たちは、初めて散髪をされるときでさえ、
じっと静かに座っている。
それは世界のあらゆる国々の親たちが証言する通り、奇跡に近い偉業である。
実際、散髪そのものが奇跡的ですらある。

日本の子供の髪型は典型的な「ボウル型」で、前髪を少し残すことで、
子供がかわいらしく見えるように工夫されている。

大統領夫人マミーは、アメリカで前髪ブームの火付け役となったが、
何百万人もの日本の赤ちゃんにはもう浸透済みだ。
彼らにとっては、前髪は昔からあるものだから。

註:マミーMamieはアイゼンハワー夫人のこと。
彼女はファッションアイコンとして前髪を流行らせた。


こんなやつね

■日本の学生服

"わかったパパ、着るよ。
近所の子供を全員舐めるのを手伝ってくれたらね”

現在では、日本の学校で制服が必須という規則は少なくなったが、
それでも多くの日本の若者が制服を着用している。
男子の制服は洒落ていて、黒いコートとズボンに金色のボタン、学生帽だ。

子供たちはまるでミニチュアの列車の車掌のようだ。
極東に駐留するアメリカ海軍部隊にとっては屈辱的なことなのだが、
日本の女子生徒の中にも彼らと同じ制服を着用する一派がいる。

それは、大きな四角いセーラーカラーのついた紺のワンピースだ。
店や電車の中で、セーラー服の女子学生グループの隣に立つと、
彼女たちが自分の制服から水兵の制服へと視線を移すのに気づくだろう。
そんな時、彼女たちはクスクス笑いを決して我慢しない。

そして水兵たちは、古い伝統の服に固執する海軍を決して許すまじと思う。

アメリカの若者は、オーバーオール、Tシャツ、スニーカーで
学校にダッシュで駆け込むことを好む。
しかし、もし彼の父親が日本に行ったことがあり、
もしその父親が息子に洋服をプレゼントしてくれたなら、
(「お」の有無に関わらず、それは日本の女の子が喜ぶものだ)
ジーンズは新しいものに置き換えられるかもしれない。
新しい服は、おそらくそれほど快適ではないかもしれないが、
ずっと目を引くことは間違いない。

■ リリパットの国

”自分が背が高いって思えた頃が懐かしいよ”

日本人が背が低いのは、床にしゃがむ習慣があるからだと言われている。

このような習慣は、昔の学校の教室でも一般的だった。
しかし、今日では学校でもその他の場所でも、
若者たちは椅子やベンチに座るので、彼らは背が伸びている。

屋外や屋内のゲームの活発なスケジュールだけでも、
より健康で、より強く、より背の高い身体が育まれつつある。

柔道は、日本では有名なスポーツだ。
そして、GIは(比喩的に言えば試合を見ている時、
文字通りには試合に参加している時)
小柄で無害そうな人々が繰り広げる試合の巧みさに驚嘆する。

身長6フィート(約180センチ)以上のアメリカ人は、
日本人の群衆の中ではほぼ巨人と見なされる。
平均的な身長の軍人でも、ほとんどの日本人の頭越しに前が見える。

しかし、アメリカに戻ると、状況は一変する。

■ブロンドだけは・・・

”実に変わってる・・でもあれがいいんだなあ”

日本には素晴らしいものがたくさんある。

親切な人々、魅力的でカラフルな習慣、魅力的な神社や寺院、
神聖で荘厳な富士山など、数え上げたらきりがない。

しかし、日本にはないものもある。それはブロンドヘアだ。

日本人は皆、黒髪だ。髪も瞳も黒く、肌の色は浅黒い。
日本人は皆ハンサムで、美しい女性も他の国々と同様にたくさんいるが、
金髪はいない。

WAC、DAC、アメリカ人扶養家族が駐留する大都市近郊にいない限り、
金髪を見ることはない。

帰国して、金色の髪をなびかせた女性を見かけると、
彼は思わず見とれてしまう。

なぜなら、それはとても奇妙ながらも非常に歓迎すべき光景だからだ。

■ 箱枕

”二人で使おうと思って”

米軍人は時折、東洋の絵本で見るような髪型をした日本人女性を
(たいていは警戒しながら)目にすることになる。

彼女の頭には大量の髪が積まれ、その中に、
櫛や花やその他の魅力的な飾り物が張り巡らされている。
芸者だから派手な髪型をしているからといって注目されるわけではない。

しかし、こんな髪飾りをつけていると、布団に入るとき、
手の込んだ髪型を台無しにしたくないだろうことは理解できる。

髪型の秩序を保つためには、木のブロックで支えたロール布の上に頭を置く。
こうすることで、彼女の頭と髪は自由になり、
邪魔されることもなく、つぶされることもない。
これは決して快適な枕ではないが、鏡に向かう時間を節約できる。

そして軍人が帰宅したとき、彼の髪がウェーブであろうと、
クルーカットであろうと、髪そのものが消えかかっていようと、
どんな枕が欲しいかは彼自身がよく知っているはずだ。

■着物のうなじ
”私のうなじがそんなに魅力的?”

アメリカン・ガールのブラウスは、前面にくびれがあるのが特徴だが、
日本の女の子の着物のくびれは背中にある。
GIはこれを邪悪な展開だと思うのだが、一見して、
美少女の首の後ろも立派な解剖学的部位であることがわかる。

日本の誇るゲイシャガールは、首の後ろをとても重要視している。
高い髪を結い、鮮やかで流れるような着物を着ると、
彼女は頭のてっぺんからつま先まで覆われ、装飾される。

しかし、首が目立つのは、着物の背中側をすぼめ襟を抜くからである。
そして首が魅力的なのは、ゲイシャガールが
首の上の髪の生え際を妖艶に粉飾するからだ。

芸者衆は、疲れた日本のビジネスマンや軍人の完璧なパートナーなのだ。
彼らの願いは彼女の命令だ。

彼女は一瞬たりとも退屈しないように見守っている。
彼女は歌と踊りの女主人だ。

彼女は東洋のファッションとエチケットの女王である。

彼女は自分の仕事であるエンターテインメントの仕事を、
魅力的かつ優雅にこなす。
15歳くらいから、エンターテイナーとしての手ほどきを受けてきたのだから。

彼女には多くの才能があり、多くの魅力的な特徴があるが、
なぜかGIたちにとって最も魅力的なのは、彼女の美しい首の後ろなのだ。

■日本の漁民(女性)
”本当に日本人は釣りに行くときこんな格好をするの?”

日本の海岸沿いにはすべて漁船がある。
その数、何十万隻。大きさも形もさまざまだ。

漁業はこの小さな国の主要産業だ。
漁村では、ママさんがパパさんを手伝って漁獲物を引き揚げている。
夏の炎天下、漁や畑仕事をするときは、
礼儀正しさは実用性に取って代わられ、女性も男性と同じようにする。
つまり腰から上の服は脱ぎ、腰から下の服は最小限に切り詰めるのだ。

新米軍人を除けば、誰も感心しない。

魚は日本の食卓の頂点に君臨している。

漁師(フィッシャー)をチップス(フィッシュ・アンド・チップスではない)
の中に閉じ込めておくだけでなく、全てのメニューのハイライトでもある。

魚は安く、それが肉より好まれる主な理由である。
アメリカでも魚はポピュラーな食べ物だが、
ニッポン流の漁業ファッションはこちらの女性には流行らないだろう。

■生魚を食べる
"君のために素敵なディナーを用意したよ。
ちょっと生に見えるけど”

日本人は生魚が大好きだ。

スピアフィッシュと寿司は満場一致で人気だ。
日本では誰もが魚料理を食べる。
特に田舎に住む日本人の中には、魚と米だけで生活しているような人もいる。

ポップコーン、ピーナッツ、クラッカージャックは、
アメリカ人のためにここでも売られているが、
小さな魚のおつまみは、日本でのそれに匹敵するものだ。

汽車に乗るとき、あるいはゲームをしながら食べるために、
彼らは木箱に入った食事を買う。
箸がついた小さな箱は上下の2層に分かれている。
下の段はご飯。上には魚、大根、肉、漬物、キュウリ。

アメリカ人がジュージュー焼いたステーキや
南部のフライドチキンを食べるように、
日本人は魚を調理し、あるいは生でも食べる。

■日本人と米
”でもあなた、これって買った方が早くない??”

米はアメリカ人にとって完全にパンに相当する。

これがなければ食事は成り立たないし、
狭い国土のあちこちに無限に広がる田んぼは、
すべての食事が完全なものになるように見計らっている。

白くてフワフワのご飯を大量に食べずに日本食を口にすることはない。
それは「Gohan」であり、大衆の食べ物である。
特にすき焼きとの相性は抜群で、観光客の舌をうならせる。

また、日本酒も食欲をそそる。日本酒は熱燗にして小さなコップで飲む。
大きなコップで飲むと、悪酔いしがちだ。
(覚えがあるだろ?兄弟)

日本人が茶碗か米を箸で食べる姿は外国人を特別に魅了する。
日本人はご飯の入った茶碗を口のすぐ下に持って、
箸を茶碗から口へと驚くべき速さで回転させる。
あっという間に茶碗は空になり、お腹は満たされる。

醤油味のご飯は、すぐに駐留兵のメニューの「必需品」になる。
もしアメリカに帰っても、それを大量に用意しようとするだろう。

■日本のお茶

”お茶は別にいいのよ。
でもまたコーヒーをいただいてもいいんじゃない?”

緑茶には健康にいいビタミンAとビタミンCが多く含まれていると言われる。
もしそうなら、日本人は世界一健康な民族ということになる。

軍人たちが無料のビールを飲み干すように、日本人は緑茶を飲み干すのだ。
緑茶は日本人の大好きな飲み物であり、家でも職場でも一日中飲まれている。
食事のたびにそれは出される。

緑茶の人気はアメリカではコーヒーに匹敵する。
コフィイ(のように聞こえるが、Co-heと発音する)は、
まろやかで香り高いお茶のように日本人にアピールするものではないが、
人気は高まっている。
日本ではそれらを好むのは都会人であるが、これはアメリカの影響である。

横浜には「Green Tea Time」と銘打ったクラブもある。
緑色の温かい飲み物のためにコーヒーを飲み干す日が来ると、
それ以来コーヒーポットは無用の長物となる。

■マスクが好きな日本人
"強盗じゃないんだ。ただ風邪ひいているんだよ”

日本に来てすぐの頃、日本人の男女誰も彼もが
皆マスクをつけて街を歩いているのを見ると軽くパニックになる。

彼らは盗賊か?社会のはみ出し者か?病院の手術室からの避難者か?
いや、どれでもない。彼らは単に風邪をひいているだけなのだ。

マスクは病原菌の蔓延を防ぎ、吹きつける冷たい風を防ぐ。
日本人の中には、人混みに行くときや満員電車に乗るとき、
風邪でもないのにマスクをする人だっている。

しかも、自分がマスクをすることで、風邪をひいているのに
マスクをしていない人から風邪をうつされるのを防ぐことができる。

Wakaru-desuka?

アメリカの子供は、泥棒のトレードマークをつけた父親を見ると、
すぐに昔の「警官と強盗」のゲームを思い浮かべる。
そして説明する間もなく、パパはおもちゃのピストルを持たされる。

■日本のカードゲーム

”公平になるようにシャッフルするよ。
ただし僕らのやり方でさせてくれたまえ!”

日本のカードはユニークだ。

小さくて厚く、とても重い厚紙でできている。
アメリカ式にシャッフルするのは不可能なので、日本式にシャッフルする。
片方の手のひらにデックを乗せ、もう片方の手の親指と中指で
デッキから何枚かのカードを抜き取り、山の上に置く。
この動作が電光石火の速さで何度も繰り返される。

小さな男の子がマジシャンが帽子からウサギを出すのを見るように、
駐留軍人は日本人がカードをシャッフルするマジックに目を見張る。

おそらく日本で最も人気のあるカードゲームは花札であろう。
日本のポーカーゲームであり、日本の賭博場の一番ゲームでもある。

一年の各月に花や木が描かれた4枚の札がある。
例えば、1月は松の木が4本生えている。
4月は桜。10月はカエデ。
このゲームは娯楽であると同時に、花育?にもなる。

もうひとつのゲーム、百人一首は文学的な教養を与えてくれる。
このゲームはお正月にしか行われない。
そしてゲームの前には、あの珍しいシャッフルがある。

何時間も練習し、こぼれた札に涙を流しながら、
軍人がついにはシャッフルもマスターしたとする。

しかし、彼が故郷に帰り、ミックスアップの技を披露したとき、
彼のゲーム相手は日本風のカード・アクロバットを称賛しないだろう。

それどころか、不正行為を疑ってくるかもしれない。

■紙芝居

”はー・・・なんでテレビを買ってくれないのさ?”

アメリカの子供たちはテレビに群がり、日本の子供たちは紙芝居に殺到する。

紙芝居は、巡業の紙芝居屋が市や町を巡り、
大きなバスドラムの音に合わせて街角で興行する。

紙芝居の特徴は、大きな絵札の連なりで語られる面白い話や漫画だ。
十数枚の紙芝居は、一枚ずつ後ろに重ねられ、
紙芝居師が紙芝居を抜きながら物語を語る。

入場料は無料だが、子供たちは旅芸人からお菓子を買うことになっている。
一番アメを買った子供は、リングサイドの一番前に立つことができる。
お菓子を買わなかった子供は後方に追いやられる。

演目の中には、雁字搦めの探偵スリラーやテレビの冒険連続ドラマのように、
「to be continued 」となっているものもある。

しかし、完結していようがいまいが、日本の子供たちは
紙芝居の沸き立つような興奮が大好きなのだ。

片やアメリカの子供は、絵カードやナレーションなどには見向きもしない。
彼らの心は、テレビ画面の中の大胆不敵な人物、
ホパロングとキャプテン・ビデオにあるのだ。

註:ホパロングは「ホパロング・キャシディ」という、
西部劇の主人公で二丁拳銃の早撃ちが得意な当時のヒーロー。
「キャプテンビデオ」は、正式には
「キャプテンビデオと彼のビデオレンジャー」(サイエンスフィクション)。

Captain Video and His Video Rangers - Episode 1

■「支那の夜」

”ちょっと、「She Ain't Got No Yo-Yo」はないの?”

最近の日本でのヒット曲は、「ジャパニーズ・ルンバ」(アイ・ヤイ・ヤイ)
や「トーキョー・ブギ」といった地元の小唄から、
「テネシー・ワルツ」や「ボタンとリボン」といった
アメリカからの輸入曲まで、多岐にわたる。

しかし、日本のスターダストとして長年愛されているのは、
「支那の夜」という優しいバラードである。

日本人と駐日アメリカ軍人はこの曲が大好きだ。

しかし、軍人の愛はどこかとっ散らかっている。
誰が始めたか無邪気に 「She Ain't Got No Yo-Yo」 と歌い、
以降、感動的な歌詞を台無しにしてしまったのだ。

註:いわゆる逆『空耳アワー』で、
最初のフレーズが彼らにはこう聞こえるとか聞こえないとか。
この英語にはなんか変な意味もあるらしい。

日本人は驚きと不信の念を抱きながらアメリカ人の歌詞に耳を傾け、
低いトーンで彼のおかしな歌い方について話し合う。
(この馬鹿、なんなんだ、ちょっとおかしいのか?)

日本人にはリズムを取る才能があり、憧れのGIたちを喜ばせるために、
クラブやキャバレーのダンスフロアでその才能を巧みに披露する。
ワルツを踊り、タンゴを踊り、ポルカを踊り、ジターバグを踊る。

彼らは一言で言えば、へっぽこだ。

現在、ニッポンには甘くセクシーな曲があふれているが、それとは対照的に、
耳をつんざくような三味線の音に合わせて演奏される奇妙な歌も残っている:
この弦楽器は「飢え」から来るものだと多くの軍人が信じている。

ともあれ彼らにとって、夢のような日本の「支那の夜」に勝るものはない。

Watanabe Hamako : Shina No Yoru (She ain't got no yoyo - China Night - 支那の夜)


続く。





「東京帰りの俺たちGI」〜こいのぼり、暖簾、箸、扇子そして折り紙

2025-03-04 | アメリカ
始めてみたら面白かったので、「リトルロック」艦内に展示されていた
駐留米兵コンビのカートゥーン、「東京帰りの俺たち」、原題

When We Get Back Home 

の続きをご紹介していきます。

何しろ1950年台の話なので、今日では日本人ですら、
へえ、この頃ってそうだったの?という内容も多々あります。

ちなみにこの頃ドルは不動の360円だったんですね。

■イケバナ
"なんて呼ばれようと綺麗な花なんだし、
気持ち悪く(Ike-bana/ Icky=
きもい)なんかないよね”

和室の「ICHI-BAN」目立つ装飾は生け花である。
それは、心を込めて、ある種の献身さえもって行われる芸術である。

アダムとイヴのように、生け花にも男性と女性のスタイルがある。

(1)アレンジメントは天、人、地を象徴するようにしなければならない
(2)一番上の小枝は天を象徴し、
(3)左側の曲がった小枝は人を象徴し、
(4)枝の一番下の小枝は地を象徴し、右側にある。
そのため、花と花瓶の高さは正確でなければならない。


洗練されたシンプルさは日本美術の特徴であり、生け花も例外ではない。

サーヴィスマンにとっては、その工程は少々複雑に見え、
計算された植物の美しさに驚嘆する。

しかし、その驚きはやがて感嘆に変わり、彼もまた、
花びらのついた小枝を愛おしそうに積み重ねている自分に気づくのである。

■こたつ
”確かに面白いけど・・もうガス暖炉をつけましょうよ!”

日本の冬には雪はほとんど降らないが、それでも冬は寒く厳しい。

日本人は、暖炉やストーブのような機械的な暖房がない代わりに、
タクサン(takusan)の服を着ることで補っている。
下着、シャツ、上着は少なくとも平常時の2倍になる。

炭の容器は実際には手を温めるくらいしか役に立たないので、
日本人はコタツと呼ばれる足温器も持っている。
これは木製の骨組みに炭を入れた四角い小さな箱である。
足の指を温めるものとしては、「SUTEKI」なものである。

そして最も寒い日でも、しっかりと着込んで座り、火鉢で手を温め、
こたつで足を温め、掛け布団にくるまれている日本人は、
ウォルドーフアストリアの最も裕福な住人のように暖かく快適である!

しかし、ガス炉の循環熱に慣れているアメリカ人の中には、
火鉢の爽快な雰囲気を理解できない人もいるかもしれない。

■物干し竿
”確かに・・そう教えたけど・・でもなんで一番いい釣り竿を使うの?”

日本人は、洗濯物を干すのにとても巧妙な方法を知っている。

洗濯物をロープの物干し竿に干すこともあるが、たいていは竹竿を使う。
竹竿を衣類の袖やズボンの足に通すと、
まるでファッショナブルな案山子のように見える。
このように干すと、風が通り抜けて乾きが早い。

物干し竿は、日本が世界に誇る商品である竹が提供する、
数多くのサービスのひとつにすぎない。

他にも、箸、雨傘、弓矢、日傘、絵筆、農夫の籠、配水管、
ハンドバッグ、そして家屋の装飾品など、数え上げたらきりがない。

洗濯の日に家に戻った軍人の妻は、竹を便利だとは思わないかもしれないが、
帰還した夫にとっては残念なことに、
彼女は日本式に洗い物を干すことはやめないだろう。

■鯉のぼり
”これで皆、うちに男の子がいるってわかるんだ!”

日本では、10歳未満の男の子がいる家庭では、
毎年5月5日になると、家々に新たな彩りが加わる。

色鮮やかな大きな紙の鯉のぼりが、家の屋根や庭に立てられた
長いポールの上から空高く舞い上がる、男の子の節句だ。

風船のように膨らんだ鯉のぼりが空に舞い上がり、
まるで泳いでいるように見える。

通常、一家の息子の数だけ鯉のぼりをあげ、
年齢が上の子ほど大きな鯉のぼりを上げる。

鯉のぼりは、成長する少年の象徴としてふさわしいシンボルだ。
波に勝つ力強さは少年の野心を象徴しているからだろう。

男の子の節句は、日本で祝われる数多くの祭りのうちの1つにすぎない。
他にも、年間を通して数多くの祭日があるが、3月3日のひな祭りには、
女児が代々受け継がれてきた美しい雛人形を家の一番良い部屋に飾る。

祭日は楽しい時間であり、誰も仲間外れになることはない。
なぜなら、日本には、あらゆるものや人々を称えるための時間があるからだ。

■風呂敷
”見て!パパはまたお買い物に行ってるわよ!”

日本で買い物をするのは、目を見張るような体験だ。

東京、大阪、横浜などの大都市にある大型店を除いて、
日本の店はどこも小さく、商品でぎっしり埋め尽くされている。

店内は買い物客が身動きできないほど混雑しており、
商品が陳列棚からあふれ、歩道まで広がる光景もよく見かける。
店の中は、カーニバルのような雰囲気で、商品が所狭しと並べられ、
色とりどりで、目を引くものすべてがわかりやすく陳列されている。

日本人は買い物に出かけると、袋や箱を抱えて帰ってくるわけではない。
代わりに、鮮やかな色の大きな四角い布(風呂敷)を持っていき、
その四隅を結び合わせて持ち手とし、その中に購入した品物を包む。

典型的な買い物客である典型的なマダムが、鮮やかな着物を身にまとい、
色鮮やかな買い物袋を手に、小さな商店を回る姿は、カラフルな絵になる。

そして、日本に長く滞在する軍人は、すぐに
自分だけの小さな買い物袋を手に入れるだろう。

■円に慣れすぎる
”13ドルだって?それって何円?”

軍人が日本に上陸すると、ドル、ダイム、ニッケルに別れを告げ、
日本の通貨である円に挨拶の挨拶をする。

1ドルは360円の価値があり、さまざまな形や大きさがある。
紙幣は1円、10円、50円、100円、500円、1000円が発行されており、
1円、5円、10円の硬貨もある。

円紙幣は大きく、100枚単位でも山のように積み上げることができるが、
それでも町で用を足すには十分な額ではない。

1円札では、女の子のジェットヘア用の小さなリボンさえ買えないので、
ほとんど価値のない通貨である。

日本の商人と取引する際、GIの頭脳はかなり酷使される。
彼は常に、円の価格をドルの価格に換算する。
そして、1ドル360円という数字を、例えば
9,250円という円に換算する時には完全に頭が混乱してしまう。

■軍人票専用財布
”これって『綺麗なバッグ』じゃなくて円用の財布なんです”

給料日やその翌日には、膨大な量の円を大量に持ち歩くだけでなく、
軍人は軍の支払い証明書も持ち歩くことになる。
米国の軍事施設内で、米国の権限のある人員のみが使用するMPCは、
モノポリーのお金と驚くほどよく似ている。

円と軍票の両方の通貨を持ち歩くため、軍人の財布はすぐにいっぱいになり、
ポケットサイズの札入れは不釣り合いに膨れ上がり、
腰のポケットは重みでたるんでしまうほどだ。

この頃、「ミスター・マネーバッグ」はより大きな
「マネーバッグ」を見つけることを決意する。
そして、彼はそれを手に入れ、貨幣輸送の問題はかなり緩和される。

彼がドルとコインの国に戻り、以前の円の財布が披露されても、
人々はそれがただ大きくなった財布だと疑わないかもしれない。

女性たちは、それがマダムの最新のハンドバッグだと勘違いしがちだ。

■暖簾

(退役軍人ジョーのカフェ)
" ねえジョー、君の新しいお店のサインだけど、
これって破れてると思われないかな?”


大きな看板に掲げられた数本のネオン管と燃えるようなバナーに、
日本ではお店の名前が書かれている。
名前が書かれているのは真ん中で割った大きな四角い布、暖簾だ。

暖簾は入り口の前に垂れ下がっていて、入店するとまず目に飛び込んでくる。
(飲み屋を回っているときは気づかないかもしれない。
尤もそんな時には耳元で21砲が鳴り響いても気づかないだろうけど)

暖簾は、客が入るときに簡単に開くように、真ん中で分かれている。
日本の店舗やレストラン、飲み屋に不慣れな人は、
破れたり、裂けたりしているのは仕様ではないと思いがちだ。

暖簾は、店の名前や商品の宣伝をするだけでなく、日本語の文字で
「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」と主張していたり、
「まいどありがとうございます」と書いてあることもある。

客が入店した際に従業員が歌うようにしてこの言葉を伝える場合もあり、
映画館では、上映後、案内係の女性たちが客にこの言葉を叫び始める。

このような言葉の挨拶を向けられると、サービスを受けた人は、
その場所にまた戻ってくるのが待ち遠しくなる。

■ 箸を使いこなす
”これ何に使うの?”

何度もひっくり返したり、転ばせたりして、驚くほどの洗濯代を払った後、
そのGIは「日本のシルバーウェア」つまり箸の扱い方を習得する。

習得の過程では、多くの恥ずかしい瞬間があったが、
練習と忍耐はいつかは報われる。
そして、米を挟むとき、肉や野菜をつかむときに、
最高の腕前を発揮するGIの報酬は、自分に対する誇らしさだ。

木の箸は、まるで大きな木片のようなもので、日本人はよくこれを使う。

箸はほとんどお金をかけず購入でき、食事後は簡単に捨てることができる。
プラスチック製や牛の角、馬の骨でできた凝った箸もあって、
日本の食卓に彩りを添える役目をする。
色とりどりの鮮やかな色で、龍や花の美しいデザインのものもある。

「郷に入れば郷に従え」という格言に従うサービスマンは、
すぐに箸と親しくなり、ナイフとフォークに疎い人になってしまう。

■箸のアメリカでの利用法
”でも君さ、それは編み物には使えないんじゃないかな!”

軍人が米国に帰国するとき、日本での思い出の品をたくさん持って帰る。

お土産リストの一番人気は、箸だろう。
陶磁器やシルクのパジャマと並んで、
箸は本国の人々にとって驚きと喜びの品だ。
(彼らのありがちな表現は、『一体これは何?』)

しかし、帰国軍人からきちんと教え込まれていない限り、
アメリカ人はその目的を完全に理解できないかもしれない。
彼らは、その箸を他の用途に使おうとするかもしれない。

父親や兄弟がハイボールを混ぜるのに使おうとするかもしれないし、
母親や妻が、その箸を編み物の針として使おうとするかもしれない。

飲み物を混ぜられてもセーターを編むことはできないと気づくだろうけど。
軍人は、家人が時にとても奇妙な行動をとることを知る。
So desu。(That's Right.)

■正絹と”ただの絹”
”ふーん、ただのシルクか”

「故郷からの手紙」は、GIたちに、家族がありがちな日本土産
(ティーセット、絵画、日本人形、扇子、象牙の彫刻、カメラ、双眼鏡など)
のほかに、母親はナイトガウン(できれば正絹のもの)を、
父親はスモーキングジャケット( できれば裏地は正絹)を、
妹はパジャマ(できれば赤い可愛い正絹の)を、弟はジャケット
(背中に大きな緑の龍の絵が描かれた正絹の)
を希望していることを思い出させずにいられない。

幸いにも(あるいは残念ながら)、GIは
このような素晴らしい衣類を購入するのにふさわしい国にいる。
そして、その費用もそれほど恐ろしい額ではない。
ナイロン、レーヨン、錦織りの美しい服もあるが、やはり一番は正絹の服だ。

それらに目を奪われた家族は、たいてい欲しいものを手に入れる。
軍人はすぐに正絹を当たり前と思うようになり、
例えば普通の絹織物などにはあまり興味を示さなくなる。

■扇子とうちわ

”エアコンだよ。ふうーー”

扇子は、暑さを吹き飛ばすだけでなく、日本人のために様々な役割を果たす。
炭火を起こすために使われる。ビジネスや商品の宣伝にも使われる。
ファッショナブルなショップで買い物をした際の特別なプレゼントにもなる。
相撲の行司が使う商売道具でもある。

扇子は割竹を紙で美しく装飾したもので、あらゆる色や模様がある。
無地のものや、朝焼けや花、富士山がデザインされたもの。
小さいもの、大きいもの、安いもの、高いもの、素晴らしいものもある。
折りたたみ式の扇子、常に開いた状態の団扇もある。

昔の日本人は、扇子を持たない限り、正装と見做されなかった。
今でも、花嫁の婚礼衣装には欠かせないものである。
扇子を愛用するのは女性だけではない。
男性も扇子を持ち歩き、普通に使う。
7月から9月にかけての日本の猛暑の時期には、風を切る音が響き渡る。

その音の一部は、パパサンに具合がよければ自分にとっても良いものだ、
と考えるサービスマンによって奏でられる。

■折り紙
”僕が日本で学んだ最もエキサイティングな技術なんだ!”

日本人のハンカチーフ、クリネックスとトイレットペーパーに相当するのは、
Chirigami ちり紙、またはSakura gami 桜紙である。

ちり紙は無地で安価、桜紙は滑らかで高価だ。
鼻をかんだり、口紅を拭いたり、その他の用途のため日本人は持ち歩く。

ママサンは胸元で折り返した着物の内側にそれを忍ばせている。
パパさんはポケットにそれを詰め込んでいる。
ガールサンはハンドバッグにそれを入れている。

しかし、彼らの紙の中で最も優れているのは折り紙(folding paper)だ。

子供たち、そして年配の人たちも、折り紙でとても楽しい時間を過ごす。
紙を帽子や箱、人形、船、鳥などに折る。

折り紙は白や青、緑、赤、琥珀色、黄色などがあり、色のバリエーションは、
特に若者たちの間での折り紙の人気に劣らないほど幅広い。

他のことと同様、GIたちは、そこにこれまでになかった楽しい娯楽を見出す。
そしてそれ以降、彼も折り紙アーティストの創造的な世界に足を踏み入れる。

■日本式入浴

石鹸会社は浮く石鹸を宣伝しているが、
石鹸が浮くかどうかは日本人にとってはあまり重要ではない。

そもそも彼らは石鹸を浴槽で使うことはないので、
石鹸が水面に浮くか、それとも水面から消えるかなど気にもとめないのだ。

日本人は、浴槽に入る前に体を完全に石鹸で洗う。
そして、小さなバケツ一杯分の水を体にかけ、体をピカピカに洗い流す。

このようにバスタブに入る前に体を洗うのは良い習慣だが、
シャワーの前に体を洗うのはお勧めできない。

なぜならときどきシャワーは水が出ないこともあるから、
そうなると、被害者は頭からつま先まで石鹸まみれになり、
目をぎらぎらさせながら立ち尽くすことになるからだ。
(筆者注:これは海軍のシャワーを知っている知人から聞いた話である。
しかし、陸軍、空軍、海兵隊のシャワーにも当てはまると思われる。)

浴槽の外で石鹸を塗り、すすぎを終えると、日本人は浴槽に入る。
そして、それはとても熱い。
あとはただ座ってリラックスするだけ。
なぜなら、こすったりこすられたりする作業はすべて終わっているからだ。

入浴が終わっても、浴槽の湯を空にする必要はない。
なぜなら、家族の一人一人が次々と同じ湯を使うからだ。
OYU=お湯は無駄にしてはいけないのだ。

日本の銭湯には、垢すりをしてくれる「ガールサン」がいるところもある。

彼女は、浴槽に片足を入れかけたものの、
残りを蒸し湯の中へ引きずり込む勇気が出ない入浴客の肩を、
誘い言葉も感謝もなしに、押し下げて無理やり座らせる。

■和式”ベンジョ”の向かう先
”修理ができたら、僕たちそれでどこに行くの?”

日本での生活は、軍人にとって魅力的な体験である。
この国の習慣に関する彼の学びには休みがない。
彼は常に新しい行動のルールを学んでいる。

このような学習は、行動が通常は二の次になる狭い部屋でも続く。
米国のトイレには何の挑戦性もない。
その構造は椅子のようである。
しかし、しばしば便所と呼ばれる日本式トイレは、独自のクラスに属する。

それは床に開いた小さな陶磁器で縁取られた穴である。
その片側の端だけが持ち上げられており、その唯一の目的は、
人が自分の位置を確認できるようにすることである。

このトイレに不慣れな人は、単純な問題に直面する。
それは、北を向いているのか、南なのか、東なのか、西なのか、
という問題である。

実際には、人は何も掴まらず、経験や勘、あるいは運を頼りに、
便器の持ち上がった端に向き合わなければならない。
しかし、日本の便所に不慣れな人は、たいていどこかの方向を向いて終わる。
その決断は、内なる動機によって促される。

■人力車
”さあ、これで君も自分でお小遣いを稼げるよ”

人力車と車夫は、急速に過去のものとなりつつある。

鎌倉のような神社が点在する趣のある町では、
今でも人力車の車夫を数人見かけることができるが、
ほとんどの車夫は東洋の風景から姿を消してしまった。

人力車の車夫はSukoshi=少し楽になったかもしれない。
自転車で車を引くから今では乗客を乗せてペダルを漕ぐだけだ。
人力車の一部にはモーターが取り付けられたものもあり、
これは間違いなく新しい素晴らしい時代の幕開けを告げるものだ。

道が上り坂になると、人力車の車夫は息を弾ませ、
下り坂では満足そうに微笑む。
車輪が回り続ける間、乗客はゆったりと座り日光を浴びながら景色を楽しむ。

電車やタクシーの方が速いが、ちょっとした移動には人力車が便利だ。
100円(約2ドル)で長い距離を移動できる。

日本は雨が多いが、その時人力車の車夫は幌をバギーにかける。
乗客は長方形のテントのような場所に座るが、それは
まるで赤ちゃんがお母さんの背中に乗っているような居心地の良さだ。

■おんぶにだっこ
”正直言って、子供たちはもう十分大きいから歩けると思うの”

日本で、GIは、生後2か月にも満たないような非常に幼い赤ちゃんが
母親の背中にしっかりと抱きついているのを目にすることが非常に多い。

彼はこう思う。
あのおんぶされた赤ちゃんは大丈夫だろうか? 
赤ちゃんは不快で怖がっていないだろうか? 

すると、お母さんが赤ちゃんの方を振り向き、安心させるように微笑む。
それを見ると、大丈夫だと分かる。
赤ちゃんが泣いても、お母さんはただ前後に揺れるだけだ。
その体の動きは、どんなロッキングチェアや揺りかごよりも、
はるかに優れた子守唄の役割を果たす。
日本のお母さんの90パーセントは「おんぶ」の習慣に従う。

長距離を移動する際には、お母さんは赤ちゃんを乳母車に乗せて運ぶが、
近距離の移動では、インド式に赤ちゃんを抱っこする方が簡単で早いのだ。

アメリカでは、子供たちが父親におんぶしてもらうのはたまの贅沢である。
しかし日本ではおんぶは日常的な光景であり、子供たちはあまり感動しない。


■下駄の素晴らしさ
”パパが正解よ。これだと足は絶対濡れないもの”

日本では、靴を履く人がますます増えている。
しかし、特に田舎の人々や年配の生粋の日本人には、
下駄を履くことに固執する人も多い。

下駄は、鼻緒をはさんだ木製の台で、親指と人差し指の間に挟んで履く。
鼻緒はビロードや木綿、絹の錦織物でできており、
足の裏に心地よくフィットする。
この変わった日本の履物は、東洋人の目にはきらきらと輝いて見える。

履物を脱ぐことの方が多いこの国では、非常に実用的な履物である。
日本の2歳児や3歳児も下駄を履いている。
下駄を履くことに初めは苦労していた軍人たちは、
子供たちが下駄を履いてスイスイと歩いているのを見て、
驚き、そして少し恥ずかしく思ったりする。

下駄は木でできているため、西洋のラジオ番組で最高の音響係が手がけた
最高の効果を上回るカランコロンという音を立てる。

また、雨の日は、足全体を覆う特別な上履き付きの下駄があるので便利だ。
靴は濡れ、足も湿るが、木の台に足を乗せると、
アジア的な奔放さで水たまりを歩き回ることができる。


続く。



「東京帰りの俺たちGI」〜駐留軍人の「ニッポンナイズ」

2025-03-01 | アメリカ




ミサイル巡洋艦「リトルロック」のオフィサーズステートルームです。
比較的大型の艦なので、スペースには余裕があり、
二人部屋のベッドは天井も高く、執務用デスクも大型です。

現場の説明は次のとおり。

士官室(オフィサーズステートルーム)

ここバッファロー・ネイバル・パークで公開されている
3隻の艦船、どれにも展示されているように、
海軍の下士官と将校の生活スタイルには歴然とした違いがあり、
その中でも最も明白なもののひとつが生活環境でした。

USS「リトルロック」のこのエリアは「オフィサーズカントリー」と呼ばれ、
より高いランクの士官が住んでいました。

この展示は、このエリアにある士官用寝室の典型的なものです。


■ ”俺たちが東京から帰ってきた時”



今日は」士官室のデスクの上に置いてあった本に注目します。
(それどころかシリーズ化してしまうのだった)

「東京帰りの俺たち」とは、このカートゥーンの
『When We Get Back Home From Tokyo』
を当方超意訳したもので、ビル・ヒュームとジョン・アナリノの共著です。

ビル・ヒュームという漫画家は、以前ここでもご紹介した
「Baby-San」の作者です。

BABYSAN〜進駐軍の恋人

第二次世界大戦中アメリカ軍に入隊したヒュームは、
横須賀に駐留していた時、追浜にいる男という意味の
「オッパマン(OPPAMAN)」という基地新聞の編集者として、
それに「ベビさん」を掲載していたのです。

彼はその後帰国して、日本での軍隊生活を描いた本を4冊出版しました。
そのうちの一冊が、この「東京帰りの俺たち」というわけです。


読んでみましたが、日本人の我々にとって非常に興味深い内容なので、
今日は、お節介ながらこの本を翻訳してみたいと思います。



帰国した時に喜んでくれる故郷の人々に捧ぐ!

■アジアティック
”どういう意味よ?日本が奇妙で普通でない国って?”

日本駐留者にはある言葉が付きまとう。

 それは「アジアっぽい 」(アジアティック)というものだ。
彼らがニッポンに長く居過ぎたことを意味する。

つまり、彼らは帰国しても決して周りと同じようにはなれないということだ。
アメリカの習慣がタオルを投げ入れ、日本の習慣が勝者となるのである。

日本での滞在の後、GIはそれまでの自分にサヨナラ
=(So long, buster. That's it. Good-bye.)を言う。

しかし彼は日本人のように歩き、話し、食事をし、服を着、行動し生活する。
彼は確実に、そして錯乱するほどに「アジアっぽく」なっているのだ。

日本を知らない人は彼の国を奇妙で異常な国と見なしがちだが、
ニッポンに住み、ニッポンの生活を愛してきた軍人は、全くそうは思わない。

彼の視点はもはやネイティブになってしまっている。

色彩豊かで魅力的なあの国に、まるで魔法にかけられたように魅入られ、
アメリカの故郷に戻っても、その魔力から解き放たれずにいる。

■ニッポンナイズ

こんな風になっちゃうなんて・・・2年間は長いわ!!

非番の日にも、軍人は陸軍のカーキ、海兵隊グリーン、
海軍や空軍のブルーを身につけがちだ。

日本での彼らはリラックスして、日本の着物を身につけ、規定の靴を
「エアコンの効いた」靴であるところの「ゲタ」に履き替える。

彼らは兵隊用語を封印し、日本語をブラッシュアップする。

そして、魅力的な衣装に身を包んだ「真のアジア人」は、繁華街を歩き回り、
日本人の知人にお辞儀をしたり、日本語で話しかけたりする。

控えめにいっても、それは彼らにとってまったく新しい人生である。
そして、彼はそれを最大限に活用する。
運動会の日のようにそれを楽しみ、日々は猛スピードで過ぎていく。

しかし、日本に駐在するGIたちにとっての2〜3年は、
ただのアメリカ人からただのアジア人へと変わるためには十分な時間だ。

■日本で最も捨てがたいもの
"プライスレスと申告したら関税はいくらかかるかな”

日本ではアメリカ人がアジアっぽくても何の問題ないし、
軍人も東洋人のイメージの中にすっと入っていけるのは興味深い。
日本人はそんなアメリカ軍人を 「普通の男」として見るようになる。

日本人の家族はしばしば彼を養子にする。
彼らは彼のために家のドアを開け放つ。
彼らの家で、彼は多くのリラックスした時間を過ごす。
彼は訪問のたびに日本人の習慣や風習を教え込んでもらう。

家族を通じて、あるいは他の社会的な経路を通じて、
あるいは個人的な恋愛工作を通じて、彼は「ojo-san」
(「さん」は「ミス」「ミセス」「ミスター」「マスター」に匹敵する敬称)
と出会う。

彼女は東洋的な魅力で彼を魅了し、
彼の人生をより忙しく、そして確実に輝かせる。
彼女は彼の友人となり、仲間となり、通訳となり、ガイドとなる。

そのうちいつの間にか彼女は彼の恋人となり、彼は
「ワタクシハアナタヲアイシマス」と口ずさむようになる。

荷物をまとめてアメリカへ向かうときになって、
彼は日本で見つけたその魅力的なものを捨てがたいことに気づく。

実際、それはどうしても置いていくには忍びないものなのだ。

■ダイジョウブ
”イエッサーエブリシングイズ・・あー、えー、
『DAI JOBU?』って英語でなんだっけ”

日本に長くいればいるほど、アメリカのやり方は異質なものになる。

日本と日本人のやり方は魅力的であり、それゆえ、
その影響は軍人が極東の海岸を離れた後も長く続く。

彼がアメリカ本土に戻り、アルバカーキやスケネクタディ、
コロンビア、パンクスタウニー(著者の故郷)に落ち着いたとき、
彼が培ってきた日本の習慣は、アメリカの習慣に取って代わられる。

その時GIの社会生活は(彼の中で)大混乱に陥る。

帰国後、アメリカの人々が床に座るのではなく椅子に座ること、
家の中では靴を履くこと、そして「ダイジョウブ」の代わりに
「オーケー」と言ったりすることが実に不思議に思えてくるのだ。

■「ドーゾ」
”『バター取って』だけじゃダメだろ!『DOZO』を付けなさい!"

「ドウゾ」は「お願いします」という意味である。

日本人はとても礼儀正しく気持ちのいい国民なので、
「ね」という言葉と同じくらい、これは頻繁に会話に出てくる。
(例えば、「今お金を払いました”ね”?」といった具合だ)

もろくも素敵な言葉である「ドウゾ」は、この国の典型的な言語である。

日本人はよく、「ドオーオーーゾ」と転がるように発音する。
アメリカだと 「pretty please with sugar 」みたいな感じ。

GIは日本語を学ぶのに素敵で、狂おしく、そして実に滑稽な時間を費やす。

日本語は奇妙で不可解な構造に満ちている。
しかし、そのうちに、現地語で人々と話せるようになりたい彼は、
少なくとも、より一般的な単語やフレーズを覚えるようになる。

ただしこれは日本人の方も同じらしい。

サービスマンが日本人に「Domo Arigato」と言うと、
日本人は「You're welcome」と返してくる。

「Ohayo gozaimasu」と言うと、相手は「Good morning」と言うだろうし、
「Konnchi wa」と言うと、彼は「Good afternoon」と言うだろうし、
「Konban wa」と言うと、彼は「Good evening」と言うだろう。

悔しいけど楽しい。

■ 日本語の「はい」は「いいえ」?
”これで最後だ。はい、買いませんよ!”

日本人に日本語で否定形の質問をしたとしよう。
イエスかノーかのシンプルな答えを期待すると、誤解と混同は頂点に達する。

日本人の「はい」はアメリカ人のノーであり、その逆もまた然りだからだ。

例えば「まだ行っていないんですか?」と尋ねたとする。
日本人は「ハイ、行っていません」と答えるだろう。

この「ダブルトーク」はGIをかなり混乱させ、滑稽な状況に追い込む。
アメリカ人は当然、「はい」を肯定的な答えと受け取り、
「行っていません」を否定的な答えと受け取る。

英語の本には「否定が2つあれば肯定になる」と書いてあるが、
肯定と否定が重なると一体どうなるのか?

日本人にとっては否定だが、我々にとってはまったく否定に聞こえない。

しかし、遅かれ早かれGIはそれに気づく。
問題は本国に帰ってからだ。

「イエス」は「イエス」であり、「ノー」は「ノー」であるこの国で、
日本式の言葉の悪ふざけに固執しがちになる者がいる。

■なんて聞こえたんだろう
"ゴメンナサイ・ワカルカ!って言っただけなのに・・”

日本人が言っているほぼ全ての言葉を理解していることに衝撃を受けた時、
サービスマンは日本に来て長いのを実感する。

初めのうちは、日本語のごった煮にしか聞こえなかったが、
やがて言葉は別々の形をとり始め、GIは自分が
「ナンジ」と「デスカ」を使って 「今何時?」と聞いていることに気づく。

天国にいる人々の多くは日本人に違いない。
なぜって日本語には汚い言葉がないからだ。

しかし、日本語の言葉の中には、とても硬い響きを持つものがあり、
全く理解のない人には耳障りに聞こえることがある。

「イカガデスカ」という簡単な挨拶でさえ誤解されやすいのだ。

故郷に帰った時、彷徨える軍人は魅力的な女性に
自分の巧みな言語運用能力を印象づけようとするかもしれない。

しかし、見知らぬ者からそのような奇妙な音を聞いた女性は、
決して感心しないかもしれないとだけは言っておく。

註:「ゴメンナサイ ワカルカ」は、おそらくアメリカ人の耳には
何かスラングで変なことを言っているように聞こえるのでしょう。

■日本のタバコ
”これシガレットホルダーだよ”


外国語は外国人の舌でねじ曲げられやすいので、
日本人にとってのシガレットは「Shigaret」であるが、多くの場合
彼らはシガレット、葉巻、パイプなどすべてを「タバコ」と称し、
「タバコ・チョーダイ」という具合に使われる。

日本では、ラッキーズ、チェスターフィールド、キャメルに相当するのは、
ピース、ヒカリ(太陽の光)、シンセイ(生命の回復)である。
日本のタバコは、すこしかび臭い味がして、軍人にはあまり好まれない。

興味深いのは、バーやキャバレー、レストランで煙草を吸おうとするとき、
あなたは決して自分で火をつけなくてもいいことだ。

魔法のように、「ボーイサン」や「ガールサン」が
愛想笑いを浮かべながらマッチに火をつけてくれるのだ。

これは、とても楽しくてホスピタリティに溢れた国で提供される、
とても心地よいオモテナシのひとつに過ぎない。

■おしぼりと日本のお店
”おしぼりを持ってきてって言っただろ!”

日本のレストランのサービスは素晴らしい。

客がドアを開けるやいなや、ウェイトレスかバスボーイかマネージャーが
お辞儀をして、「いらっしゃいませ 」と言う。
これらの文字が積み重なり、アメリカ人への歓迎の言葉になる。

客が席に着くとすぐに、笑顔のウェイトレスがテーブルに駆け寄る。
彼女はおしぼりを持ってくる。
おしぼりはきれいに丸められ、小さな籐のかごに入れられている。

これは食事の前に手を拭くためのもので、
客が望めば眉間を拭くこともできる。

アメリカ人の目には、レストランにはウェイトレスが一人いて、
その仕事は水を注ぐことだけに見える。
客が最後の一滴を飲み干すやいなや、彼女は水を注ぎにくる。

美味しく食事を食べ終えると、客は、お辞儀のオンパレードと
「ありがとうございました。ありがとうございました。またどうぞ」
の合唱で店を送られる。

GIにとってもう一つ素晴らしいことは、日本のレストランは、
チップのための持ち合わせがなくとも、罪悪感を感じなくてもいいことだ。

日本人はチップを全く期待していない。

チップは好意や料理やサービスを褒める意味を持つかもしれないが、
また来てくれるという保証を意味しているわけではないからだ。

■紙と木の家
"すみません、新聞紙とマッチで家を作れと言われましても”

もしビッグ・バッド・ウルフが単なるフィクションではなく、
本当の話だったら、日本人は心穏やかではいられないだろう。
オオカミはハァハァ言いながら彼らの家を吹き飛ばしてしまうだろうから。

日本の家は小さくて壊れやすい。
日本人は純粋でシンプルな家が好きだからだ。
レンガや石造りはめったにない。
窓やドアは紙と木の棒だ。

しかし、小さな家は居心地がよく、居心地のいい空間だ。
日本に何ヶ月も滞在する軍人は、木と紙の家を好意的に見るようになる。
そして、ついにアメリカで自分の家を建てる時が来たとき、
どんな家が欲しいかという気持ちにそれが大変影響を与えるのだ。

■土足厳禁!
"ね、シンプルだろ?これで掃除の回数も減らせるよ!”

日本の最も素晴らしい習慣のひとつは、家に入るときに靴を脱ぐことである。
靴の消耗を防ぐだけでなく、足の指の自由な動きを感じることができる。

和室に絨毯が敷かれていれば、リラックスできて快適だし、絨毯にも優しい。
部屋には畳が敷かれているから。

マットに触れていいのは素足かストッキングを履いた足だけだが、
日本人はラバのようなスリッパ(草履)を履いてマットを踏むこともある。

玄関は外と内の引き戸に挟まれた前庭のような場所にあり、靴はそこで脱ぐ。
家の中で靴を履かないことで、土や泥を部屋に持ち込む危険性もなくなる。

■引き戸に慣れすぎると

”どうなってんのこのドア?スライドしないぞ!”

両手がふさがっていて、ドアノブを回したり、
ドアを開けられないときには、引き戸は特に便利だ。

障子と呼ばれる日本の引き戸はシンプルなものだ。
木製の骨組みの上に紙が貼られており、
紙は少なくとも年に一度は交換しなければならない。
戸はかなり薄っぺらいものだが、部屋の熱を保ち、
換気を促進するという素晴らしい役割を果たす。

しかし、「ビール」パーティを開く時には、このようなドアは必要ない。
(『ビール』とはビアのことで、大抵はニッポンかアサヒかキリンで、
エコノミーサイズの大瓶に入っている)

例えサービスマンが日本のドアにぶつかったとしても、
苦しむのはサービスマンではなくドアである。
棒(桟)が折れる。紙の窓(障子紙)は剥がれ落ちる。

しかし、引き戸に慣れ、これがあるところに慣れてしまうと、
下手すればドアノブの感触を忘れることすらある。

アメリカに帰る頃には、ドアはスウィングするものではなく
スライドするものだ、と信じている者もいるかもしれない。

■日本式「持たない暮らし」
”家具なんていらないから、売っちゃったよ!”

日本人は部屋を家具でごちゃごちゃさせることを好まない。

実際、部屋の家具はとてもシンプルで、一見したところ、
前の住人が引っ越したばかりではないかと思わせるほどだ。
フロアランプはなく、テーブルランプもほとんどない。
通常は天井に「デンキ」(ライト)があるだけだ。

アメリカ人の部屋にあるような「ガラクタ」はそこにはない。

部屋には鏡台、ラジオ台、花瓶、冬には火鉢が点在する。
タクサン(many、lots、much、給料日にサービスマンが欲しがる量)
の大きくて四角い枕(座布団)がある。

これらは頭を休めるためのものではなく、正座の際に膝を休めるもので、
マザー・ハバードの食器棚のように、かなり殺風景な状態だ。

註:Old Mother Hubbardは英語の童謡。
「空っぽの食器棚」はその第一節。

オールドマザーハバードは食器棚に行き、
可哀想な犬に骨をあげようとした
彼女が台所に行くと
食器棚は空っぽだった
だから可哀想な犬には何もやれなかった

彼女はパン屋に行き犬にパンを買ってあげようとした
彼女が戻ってきたとき、犬は死んでいた!

彼女は葬儀屋に行き犬の棺を注文した
彼女が戻ってきたとき、犬は笑っていた



しかし、突き詰めて考えてみると、そもそも
人にとって家具なんてのは何のために必要なのだろうか?

ものが少ないと、オクサンが埃を払う手間も省けるというものだ。
(オクサン=小さな女性、あなたが心を捧げた女性、あなたのワイフ)。

■床に座る生活

”さあみんな座ってテーブルの脚を切るまで待ってて!
低いテーブルってマジ楽ちんでくつろげるから!”


和室には我々の見慣れない家具がたくさんあるが、
必ずあるのが、短くてずんぐりした脚の大きな丸テーブルだ。

ここですべての食事がとられる。
ここで緑茶を飲み干す。
ここでトランプやその他のテーブルゲームが行われる。
日本人は膝をつき、昔の騎士のように円卓で何時間も何時間も過ごす。

サービスマンは、和室の真っ直ぐでシンプルな設えが好きだ。
何もないが、必要なものはすべてある。
豪華ではないかもしれないが、十分に快適だ。
この快適さは、ニッポンを離れても彼が切望するものだ。

彼の家族や友人たちは、最初はその改造に難色を示すかもしれないが、
実際にやったものだけが、この男の目指すところもわかるだろう。

■フトン万歳
”これでもう転んでも怪我しないよ!”

日本人に必要なのは、布団と呼ばれるカバーリングのマットレス、
小さくて硬い枕、そして少しの床面積だけである。
(興味深いことに、ベビーサイズの枕には一般的にそば殻が詰められており、
この珍しい詰め物のおかげで、寝ている人の頭は驚くほど涼しくなる)。

マットレスと枕は、重いキルトのような毛布とともに、
毎晩就寝時に床に敷かれ、毎朝クローゼットの中にしまわれる。

ベッドを作るために高さのある木枠の端から端まで歩き回る必要がない。
ナイトテーブルも、ハリウッドタイプのベッドにある棚も必要ない。

もちろん、ベッドから落ちる心配もない。

■火鉢
”いやいやいや、暖房に使うものなんだってば!”

火鉢は巨大な植木鉢のように見えるが、花を飾るためのものではない。

それはアメリカ人のかまど、ストーブ、暖炉がひとつになったものだ。
日本の家庭で使われる唯一の暖房器具である。
とても印象的な家具であり、部屋の中に戦略的に配置されている。
火鉢は、とても暖かい暖かさを提供するだけでなく、
家族や友人たちのキャンプ場のような役割も果たす。
アメリカの主婦にとって裏庭が会話の場なら、日本の火鉢はサモサモである。
(お察しの通り、サモサモは違和感のない意味である)。

註:作者は「Samo-samo」を間違って理解している模様



続く。


アパート引越しに張り切ってしまった件〜ベイエリア雑感

2024-10-19 | アメリカ

久しぶりに日本の自宅でブログ制作しています。

MKのインターンシップが終了し、就職先での勤めが始まるまでの1ヶ月、
日本で過ごすことになったので、一緒に帰国してきたのですが、
10月19日現在、ようやく一連の行事が終わり、PCに向かっている状態。

帰国以来、MKのアメリカの友人たちを案内しての、京都、奈良、
そしてなぜか稚内旅行、続いて関東圏でのおもてなし行脚が終わり、
成田まで彼らを送って帰ってきたのが昨日のこと。

今日はアメリカを離れるまでのシリコンバレーでの生活を、
淡々と写真を貼りながらご報告いたします。

冒頭写真は、ご覧のようにハロウィーン用に並んだカボチャですが、
その名も「ウァーティゴブリンパンプキン」(イボイボ小鬼)といい、
より一層ハロウィーンチックな禍々しさに満ちています。

ちょっと調べてみたら、宣伝文句が
「恐ろしくてクール」「怖くて美味しい」
おそらくハロウィーンのためにわざわざ品種改良したんじゃないかな。

アメリカ人のハロウィーン好きは異常で、暦の上で夏が終わると、
まだヒートウェイブが来ているような気候でも、
お構いなくハロウィーングッズがあらゆる店に並び始めます。

スーパーでもジャックオーランタンのためのカボチャが並ぶのですが、
こんな不気味なタイプのカボチャを見たのは今回が初めてです。

アメリカのカボチャは日本の「カボチャ・パンプキン」のように
ホクホクしておらず、どちらかといえばサラサラの食感。
彼らはこれをパイにしてハロウィーンの食卓に並べます。

オーストラリア人もハロウィーン好き

■ MKアパートへの引っ越し



今回の滞米目的は、MKの退寮と就職後のアパート探し。

それに伴う引っ越しや家具を探すなど、とにかく機動力が求められたので、
荷物が大量に積み込めるSUVというリクエストで車を予約したところ、
ハーツの指定されたロットには、このVOLVOが置いてありました。

試運転以外でこの車に乗ったのは初めてですが、運転しやすく、
オートクルーズの制御能力が素晴らしく、何より荷物の搭載力抜群。
引っ越しにも、買った家具を持って帰るのにも大活躍でした。



引っ越しの日、最初に受け取った荷物はソファーベッド。
ムーバーが帰ってから二人で場所を動かし、ベッド状態にして記念写真。


続いて、サンフランシスコの家具屋で注文した横長の棚が到着。
二人でなんとか組み立てたのですが、大きいので結構大変でした。



出来上がって当初の予定通り置いてみたのですが、
ソファの状態ではご覧の通り完璧なのに、ベッドにすると
家具とソファの間に隙間が空いてしまうことがわかり、


窓下に置いてテレビ台にすることにしました。
これならベッドにした時どちらのサイドからも起き出せます。



近隣のIKEA(こちらではアイケアと発音する)には何度も足を運びました。


こちらのIKEAのレストランも人気です。


白身魚やグリーンピースなど、結構ちゃんとしたものが食べられます。


広大な倉庫で商品をセルフピックアップするやり方も日本と同じかな?


ウォークインクローゼットに入れるためにIKEAでチェストを買いました。
これがまた組み立てるの大変で・・・引き出しとかめんどくさすぎ。



玄関のドアを入ったところに靴を置くための棚を置きました。
アメリカ人は基本部屋で土足なので、玄関に靴箱がないんですよね。

経験上、部屋で土足禁止にしているAirbnbも多いですし、
来客には玄関で靴を脱いでもらうことにしている人も存在しますが、
部屋に入る工事などのワーカーにお願いしても断られます。
理由は、「危険だから」。

まあ安全靴を履いて行うような仕事ならそれも当然かもしれませんが。



ほとんどの家具が揃い、電子チェロのスタンドもAmazonで買いましたが、
あちこち見に行っても最後まで決まらなかったのがコーヒーテーブルでした。

MKは新しいアパートで人を招くことを非常に重視していたようで、
ソファー、テレビ、コーヒーテーブルを真っ先に揃えたがりました。
(そんなものよりPCデスクが先だろうとわたしは思ったのですが、
仕事が始まったらあまり家でPCはしないだろうと本人談)

このテーブルは、ソファーを買ったお店に行ったところ、
比較的安価で質の良い家具を揃えているそのお店で見つけたもの。
オーナーが、また来てくれたからと1割引してくれました。

揃えた家具を見ればお分かりのように、イメージはミッドセンチュリーです。


ソファー前のセッティング完了。
テレビはブラーヴィア。日本人ならSONY一択(個人の感想です)

照明はこれもあちらこちら探し回って「わたしが」見つけた納得の品。
多くのアメリカの家は天井に照明がなく、特にリビングルームや寝室は
フロアランプを置くことが普通になっているので、自分で揃えます。

新居のために家具を揃えたりするのって久しぶりだったのですが、
根っからそういうことが好きなわたし、つい張り切ってしまいました。

MKのためというよりまず自分自身が楽しんでいた節があります。



一人で部屋の整理に勤しんでいたある日、まだ暑かったですが、
コーヒーを淹れたので、ベランダで外を眺めながら飲みました。



道を挟んだ向こうにあるのは大型スーパー「セイフウェイ」。
見えませんが左にはTrader Joe's、その向こうにあるのがウォルマートです。

トレーダージョーズはオーガニック系スーパーなので、
ホールフーズと同じくらい意識高い系=収入高めの客層ですが、
ウォルマートに行くと、ガラリと客層が変わるのに驚きます。

同じ敷地にあるのに、ウォルマートに来る人は服装や風体などが下層っぽく、
こういっては何ですが、ヒスパニック系、そして肥満の人が多い気がします。

ウォルマートの商品はとにかく安く、食料品は特に、
オーガニックなどとは対極にあるような安かろうの品揃えなので、
とにかく安ければなんでも、みたいな人が来るのでそうなるわけです。

ヒスパニック系の物売りが駐車場に勝手に販売車を出して、
道ゆく人に声をかけるのもウォルマートの前だけです。

セイフウェイはTrader Joe'sよりさらにウォルマート寄りの客層でしょうか。



ベランダからふと下を見ると、一階店舗(銀行)の軒ひさしの上に、
明らかに上階の窓から投げ捨てられたらしいものが散乱していました。
玩具や絵本が多々含まれることから、躾の悪いがきんちょの仕業と思われ。

親は知ってるのか、それとも知らないふりをしているのか。

■コーヒーショップ



貸オフィスビルの向かいにあるお馴染みのコーヒー屋さんに行きました。
店内にはあまり席はなく、テイクアウトして外のテーブルでいただきます。

オーツラテにはブルーボトルコーヒーと同じマイナーフィギュアズ製を使用。
わたしも、こちらでは同社のオーツドリンクをホールフーズで買います。

カウンターの、いかにもベイエリアの店らしい水鳥マークが可愛いんですが、


この店の「店内ペット同伴不可」お知らせはさらに可愛すぎた。

「サービスアニマル」とは盲導犬のことで、少なくとも
左端の犬のようなことは絶対にしないという前提。


何も考えてなさそうなマーキング中の犬、カップにもプリントされてます。



ユニバーシティ通りのverveにも二、三回行きました。
右は、日本のverveでもいただけるオーバーナイトオーツ。
ただしこちらの方が日本のより量が多くて美味しいです。




以前ここで報告した黒人のホームレスは見ませんでしたが、
代わりに?いたのがMKの後ろの女性ホームレスらしき人。

外のオープンスペースの一列を占領してそこに荷物を並べ、
盛んに身振り手振りをしながら誰かと話しています。

ただし、そこにいるのは彼女一人で、電話しているのでもありません。
コーヒーカップを口に運んでいますが、中はおそらく空。
人が集まる週末のカフェで、社交をしているつもりなのでしょう。


アメリカでは特に最近ホームレスが増えていますが、中には家を持たず、
ずっと車で生活しているような、中リッチ?タイプも出現しています。

夜間は路上駐車したり、見回りの来ない店舗駐車場の隅に停めているようで、
そんな人の車は中に持ち物一切合切がぎっしり積まれていてすぐわかります。

車上生活者の中には、キャンピングカーで生活する人もいます。



この日、オークランドのロースタリーにコーヒー豆を買いに行ってみました。
パッション・エンポリオという店名だと思います。


右のテーブル席で勉強している二人はMKの出身大学の学生。

窓に「ブラックライブスマター」とありますが、
共和党が決して勝てないと言われるカリフォルニアの中でも
オークランドって特にリベラル色が濃い地域ではないかという気がします。

あくまで個人の感想です。

ただ、次の選挙、いくらなんでもハリスはないだろうと思いたいですが、
カリフォルニアでは今年もやっぱり民主鉄板なんだろうか。



手作りのコーヒー椀でいただいてみて、美味しかったのでこれを買うことに。


ココナッツがカウンターに座ってココナッツカップでレモネードを飲む図。
この豆は実際にココナッツの味と香りがしました。

最近買った豆で一番感動したかもしれません。

■ ユニバーシティアベニュー付近のお店今昔



ユニバーシティ・アヴェニューには古くからお店が並ぶ中心地です。
パロアルトの歴史を見る限り、1800年台から商店街だった模様。
このMac'sというシガーショップは、シガーだけでなく、新聞、
今はお酒や飲み物も売っている古いお店です。



昔の写真発見。1940年代っぽいですね。
隣は靴みがきなのか床屋なのか。


こちらはその隣、1924年創業という「ベルズ・ブックストア」。
歴史的建造物の目録にも載っている建物で、
この時代のダウンタウンの商業店舗の優れた例の一つとされています。

店の正面からは、本を持ち上げるためのクレーンが見えます。



今でも普通に本屋として営業しています。


ショーウィンドウに置かれた本もテーマに沿っていて、
このウィンドウは「ものづくり」がテーマです。

左下にあるのは、日本の指物の歴史などについて著した豪華写真本です。

ハシゴを使ってのぼる高い棚には、明らかに図書館にしかないような
シェイクスピアなどの古書が堂々と商品として展示されていて、
「あれが欲しい」といったら売ってくれるのかと不思議でした。


白いビルを撮った写真(の横に見えているのが当店)
車のタイプから言うと1950年代でしょうか。



1986年の写真。今とあまり変わっていません。



本屋の向かいにあるのはその名もシュミットビルディング。
最初のオーナーのシュミット氏は、サンフランスシスコの住人でしたが、
地震の後こちらに移住してきた「地震難民」の一人でした。

この文字は細かいタイル地に黒いタイルで描かれており、
今はタイ料理の店などになっています。

建物は1922年に建てられ、それから今日まで、ここには木材業のオフィス、
カイロプラクティクの診療所、靴屋とマーケットなどが入っていました。

1986年ごろ、靴屋とマーケットだった時代

■ 日本に帰国



空港に高速101ではなく海岸側の280号を通って行ったとき、
海側から海岸沿いの山を越えて霧が覆い被さってきました。

空は晴れているのに、この地域だけ、この季節は毎晩このように
次の日の朝まで街は深い霧の底に沈んだようになります。

車が霧に突入すると、大抵そこは数十メートル先も見えなくなり、
怖くてスピードを落としたくなるほどですが、
この辺に生まれ育った人には毎日のことなので、皆平気で飛ばします。


飛行機のフライトの都合で、MKは1日早く日本に向かい、
わたしはその日はMKのアパートで一泊して、
次の日の同じ時刻(夜中の1時発)の便に乗ることになりました。

MKにすれば設えたばかりのアパートを1ヶ月留守にすることになるので、
わたしはソファにホコリよけのシーツをかけたり、
Wi-Fiの電源などをすべて切って、部屋を後にしました。

彼には、部屋に戻ったらまず掃除をするように申し伝えてあります。


Airbnbからいつも見ていた公園のバスケットゴールには、
退出の日、お母さんと、お腹の中の妹か弟とコンタクトする子がいました。

もし来年同じ部屋に泊まったら、その時は
3人で公園を訪れる親子を見ることができるかもしれません。





シリコンバレー誕生の地に住む〜ベイエリア生活

2024-09-27 | アメリカ

冒頭写真は、今住んでいるマウンテンビューの、
MKが住むことになったアパートの近くにある「X」、
MK曰く「グーグルのスカンクワークス」ことX. カンパニーです。

今更ですが、グーグル以外にもアップル、フェイスブック、テスラなど、
いわゆるシリコンバレーには世界を席巻する企業が集中しています。

シリコンバレー有名企業マップ



今回MKが住むことになったのはシリコンバレーワーカーをターゲットにした
ホテル、レストラン、大型スーパーを含む複合商業施設内のアパートです。



敷地内にはちょっとしたドッグランも完備。



ドッグラン入り口のアート作品、題名「眉毛犬」。



その2、「マッド・ドッグ」。



「ろくろ首猫」。



夕暮れに黄昏る犬。



アパートにはジムもありますが、敷地内に24時間営業のジムがあり、
いつもその前のパーキングには車が停まっています。

日本ではおそらく普及しないであろうテスラのサイバートラックも、
ここでは最近全く珍しくなくなりました。



一度、これから子供がわらわらと降りてきたので驚きました。
もはやここではファミリーカーとしても使われているようです。

おそらく、こんな車に乗りたがる人間がこんなに大量にいるなんて、
アメリカ広しといえどもシリコンバレーだけに違いありません。


今借りているAirbnbとMKの新しい住まいは歩いて10分ほどです。
契約してから実際に部屋に入るまで、朝の散歩で周りを探索しました。



ここがシリコンバレー誕生の地であるとの説明発見。
確かもう少し北のパロアルトにもそんな説明があった記憶が・・。
シリコンバレーという概念が広すぎて、何を以て誕生の地とするかは、
色々な説があり、それぞれが主張しているってことでしょうか。

まず、左上に書かれた
IEEE(アイ・トリプル・イー )
Institute of Electrical and Electronics Engineers
が何かと言いますと、
米国の電気情報工学分野の学術研究団体(学会)技術標準化機関です。

そのIEEEが、ここをマイルストーンと定めた、ってことは
ここがシリコンバレー誕生の地というのにお墨付きを与えたといえます。



ここにはかつて物理学者、発明家でノーベル物理学賞受賞者だった、
ウィリアム・ショックレーJr.のショックレー半導体研究所がありました。

ここが「シリコンバレーの発祥の地」と定められています。



カリフォルニア州マウンテンビューのサンアントニオロード 391番地は、 
シリコン バレーのささやかな始まりの中心地である。

半導体産業が東海岸とテキサスに集中していた頃、1956年、
シリコンデバイスの研究施設、ショックレー半導体研究所が開設された。

この技術をめぐって生まれた創造的な才能、勤勉さ、
経済的インセンティブのユニークな融合により、
この地域は「シリコン バレー」と呼ばれるようになった。

ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテン、

そしてウィリアム・ショックレーは、1947年、
ベル研究所でバーディーンとブラッテンがトランジスタ効果を発見、
次いでショックレーが接合型トランジスタを発明したことで、
1956 年の ノーベル物理学賞を共同受賞した。



ベル研究所を離れたショックレーは、1955年、
アーノルド・O・ベックマンと提携し、
シリコン製品の開発を目的として、ショックレー半導体研究所を設立した。

ショックレーは国内外から才能ある若い科学者やエンジニアを集めた。
ショックレー博士とシリコンデバイスに関する研究ができる、
という魅力に惹かれてこの地域に集まった聡明で革新的な頭脳集団である。

サンアントニオ通り391番地でショックレーの4層ダイオードが開発され、
シリコンバレー初のシリコントランジスタが製造され、
新興のシリコン処理技術が開発されることになった。

ショックニー博士のノーベル賞受賞パーティ



歩道沿いに設置されたこの作品は、
ショックレー半導体研究所の遺産を称えるモニュメントです。

手前の2つの突起を持つ彫刻は、4層ダイオードを表しています。




1つは生産されていたであろう保護キャップ付き(この手前のもの)
もう1つはキャップが取り外されシリコンチップが露出した状態です。


これは、シリコンバレーで製造された初の市販トランジスタである

2N696シリコントランジスタを表しています。

ショックレーは優秀な研究者だったが、トップとしては人気がなかった。 

彼は4層ダイオードの研究をシリコントランジスタよりも重視していたが、
スタッフはそれを支持しなかった。

1957年、研究所の主要スタッフのグループが独立して会社を設立した。
彼らは近くのパロアルトにフェアチャイルド半導体を設立し、
数か月以内に高度なシリコントランジスタを市場に投入している。

ショックレーは、この8人の成功については懐疑的だったが、
フェアチャイルド半導体は、シリコンバレーでも名だたる成功例となり、 
その疑念は誤りであることが証明された。

The Traitrous Eight「裏切り者八人衆」 


ジャン・ ホーニ、ジュリアス・ブランク、ヴィクター・グリニッチ、
ユージン・クライナー、ゴードン・ムーア、
C・シェルドン・ロバーツ、ジェイ・ラスト、
ロバート・ノイス

メガネ率高し。
ロバーツは「ビッグバンセオリー」のシェルドンのモデルかしら。

ショックレーがシリコンバレー発祥の地に集めた、

才能ある若い科学者や エンジニアたちは、
この地域が今日知られている創意工夫と起業家精神の原動力となった。

数十年経った今でも、シリコンバレーはリスクを恐れず挑むという
 前向きな考え方に支えられた、技術革新のメッカであり続けている。


マウンテンビュー市長、ローズマリー・ステイセクを取り囲む、
かつてのショックレー研究所のスタッフたち。


タッチスクリーンモニュメント

これは1998年に研究所跡地をシリコンバレーの発祥の地とする
これらのモニュメントが設置された時のものです。


モニュメントの年表の原初には、ショックレー研究所があり、
それが「裏切り8人衆」の設立したフェアチャイルド半導体に受け継がれ、
1970年ごろまでに次々と立ち上がった半導体会社に枝分かれしていきます。



恥ずかしながら私の知っている会社名は、
1968年に創業したインテルだけです。



さて、何日か待って、ついに入居の日がやってきました。
事務所に行って鍵を受け取り・・などというアナログなことは、
シリコンバレー発祥の地から数十メートルしか離れていない、
このアパートでは行われるはずがありません。

鍵は、アプリからダウンロードし、ウィジェットに入れておいて、
部屋の前でクリックするとオープンする仕組みです。

これって携帯忘れたり、電池がなくなったらアウトってことか?
その場合は暗証番号で解除できるそうですが、なんか不安・・。

わたしもキーをダウンロードして、いつでも入れるようになりました。


記念すべきアパートへの初入室の感慨に耽るMK。
朝の光が降り注ぐ南向きの最上階で、眺めは抜群。

これから始まるシリコンバレーのお膝元での社会人生活、
実りの多い体験を通じ豊かな人生を歩んでほしいと親として願うばかりです。

続く。




ONE TREE〜シリコンバレー家具探し散歩

2024-09-16 | アメリカ

マウンテンビューというアメリカ西海岸の街に滞在していますが、
何がありがたいと言って、とにかく湿度が低いことです。
昼間日差しが強くても、日陰に入るとひんやりしていて、
9月になってからは朝寒いくらいに感じることがあります。

なので、朝早く起きたら太陽を浴びるため、外を散歩します。
朝光を浴びるとメラトニンの分泌が14時間後から行われ、
その作用で寝つきが良くなると聞いたからですが、効果を実感しています。

陽を浴びるのが目的なのでガチのウォーキングではなく、
近隣の老人専用アパート(老人ホームではなく、一戸建てが並んでいる)
の住人である老夫婦のルーチン散歩と運動強度は同じくらいです。


先日散歩中、自分の身体くらいの大きさマツカサを咥えたリス発見。
びっくりして立ち止まり、スマホを向けると、固まってしまいました。


人が見てたらそりゃ怖いよね、と立ち去るフリをしてこっそり振り返ったら、
獲物をフンガー!と咥えて再び引っ張ろうとしていました。

しかし次の日、この松ぼっくりがポツンと木の根元に転がっていました。
木の上の巣まで持って上がることは不可能だと悟った模様。


この日は初めてアパートのジムに行ってみました。

高級いかんに関わらず、アパートにプールがあるのは珍しくありません。
先日MKの家探しで2番目に見た鯉のいるアパートも、
大きなプールがあって、住民がプールサイドで憩っていました。

このアパートには小さなドッグラン、バーベキューグリル、
卓球台、ビリヤード台のあるプレイルームなども完備しています。
実は一応ここのワンルームも見せてもらったのですが、
現在のところ、空きはないとのことでした。

■ ソファベッドを決める



家が決まった次の日から、早速家具探しが始まりました。
一応ネットで検索してから、実物を見ることができるお店を訪ねます。
ここはマウンテンビューの中心となるカストロストリート沿い。
レストランが立ち並ぶ通りですが、文化会館的なホールもあります。


この近くにあるGINKO(銀杏)という家具屋さんで、
MKが興味を示したのはこのソファー。
最初からベッドになるソファーにすることは決めていましたが、
どうも彼はこれをメインのベッドにして部屋を広く使いたい模様。


ホテルなどのソファベッドと違い、ベッドにするとこのように
ほぼ完璧なクィーンサイズのマットレスとして機能します。
寝心地も、ベッドを目指して?いるので問題ないだろうとのこと。
結局1週間迷って、これを買うことに決めました。

毎日ベッドメイキングも口うるさく言わないとしない奴が、
一人暮らしで毎日ベッドを片付けられるわけないだろう、
とわたしは内心思っているのですが、まあそれは自己責任です。


■レイトショーで「エイリアン」を観る


この日、MKが友達と観て面白かったということでおすすめされ、
IMAXで「エイリアン・ロルムス」を鑑賞することになりました。

思い立ってすぐということで、夜の10時開始(実際は10時半)のため
サンタクララまで車を飛ばしたのですが、アメリカでレイトショーは初めて。



ロビーのお店には人影はなく、かろうじて一つのブースが営業しています。
ところでこの映画館スタッフには絵を描くのが好きな人がいるらしく、



元ネタは分かりませんが、カウンターを閉めるカバーに、
左:初日は静かに
右:おっと、もう品切れです。すまんねXOXO
と書いてあります。

映画館には最初の30分私たち家族しかいませんでした。
上映ギリギリに数組のアメリカ人が入ってきましたが、
昼間と同じ設定で冷房しているのか、寒くて困りました。

映画は、一口で言って面白かったです。
途中で絶対寝るだろうなと思ったのですが、気がついたら最後まで観ました。
アメリカの映画なのでもちろん字幕はありませんが、
そんなものはまず必要ない展開でしたし。

ところで、主人公の一人、タイラーを演じた俳優(アーチー・ルノー)
が出てきた途端、この人無茶苦茶見覚えがある!と思ったのですが、
なんと飛行機の中で見た「アップグレード」の主演男優でした。
彼にとってこの2作品はどちらも今年出演作なんだそうで。

ところでなぜこんなタイトルだけで内容の予想がつく映画を観たかというと、
自分自身がアップグレードされた直後だったからです。

今回の飛行機、いつものように特典航空券枠でのビジネスが取れず、
わたしだけがプレミアムエコノミーの席で来る予定でした。

一応カウンターでアップグレードできるかどうか聞いてみたら、
お盆の繁忙期のため140万円必要だと言われ(係員も驚いていた)、
勿論それは諦めたのですが、いざゲートを通ろうとしたら呼び止められ、


「空きがでたのでビジネス席を(無料で)用意させていただきました」

という奇跡が起こったのです。

どういう理屈かは分かりませんが、なぜそうなったか聞いても、

「当社の都合です」としか言わないので、いまだに理由は不明です。

その直後だったので映画も「アップグレード」を選んでしまったのですが、
お話は案の定、オークション会社でこき使われていた下っ端の女の子が、
航空会社の係員に同情され、アップグレードしてもらい乗ったファースト席で
隣同士になったイギリス富豪の息子と恋に落ちるという陳腐な内容。

富豪息子を演じていたのがこのアーチーだったのですが、
わたしの目には爆笑問題太田の上位変換&拡大版にしか見えず、
イケメン扱いされているのに大いに違和感を抱いたものです。

で、ここから本題なのですが、終了後、英語聞き取れた?と聴かれたので、

「前半はあまり聞き取れなかったけど後半は問題なかった」
(その心はほとんどセリフなしのシーンが続いたため)

というと、MKが衝撃の発言を。

「多分観ていたほとんどのアメリカ人もそうだったと思う」

そもそもこの映画の監督、リドリー・スコットはイギリス人で、
主演級はほとんどイギリス人俳優が演じているため、

アメリカ人には彼らの英語が聞き取りにくかったはず、いうのが彼の説。

日本人にはイギリス英語の方が聞き取り易いなどと常々豪語していたくせに、
その割に米語か英語かなど全く気づきもしなかったわたしって一体。


■ スタンフォードショッピングセンターに保護猫センター出現



家具を探してこの日はスタンフォードショッピングセンターに行きました。
ここの家具店は全体的に高級すぎたので収穫はありませんでしたが、
なんと、しばらく来なかった間に、猫カフェらしきものができていました。
中で飲んだり食べたりはできないので「カフェ」ではありませんが。



「ミニキャットタウン」というこの施設は、12歳以上の大人15ドル、
以下は10ドル払うと、30分中で猫と触れ合えるようになっています。


入場申し込みと支払いは全て外からオンラインで行う仕組み。


この日は週末で子供づれの家族で賑わっていました。
気に入った猫がいれば、アダプション(養子縁組)を行うこともでき、
値段は猫の年齢に応じて色々のようです。

入場する時には手を消毒し、靴には鑑識が履くようなカバーをつけます。



猫の首輪には名前が書いてあります。
この施設を立ち上げたのはアジア系の若い女性3人だそうです。

ところでこの写真、たまたま窓際に黒猫がいるだけだと思うのですが、
キリスト教圏では、いまだに黒猫を避ける傾向があり、
引き取り手に困っているという話を以前聞いた覚えがあります。

このとき後ろから中国人のグループが来て、主に女性が口々に
「シャオヘイ」「シャオヘイ」とはしゃぎだしたのですが、
確か「シャオヘイ」とは「小黒」のことだと思い出しました。

昔勉強した中国語のテキストに登場した黒猫の名前が小黒だったのです。
中国では黒猫(ヘイマオ)=シャオヘイなのかもしれません。

■ 無印良品の夢の跡


ブリッジを渡った向こう岸の巨大な倉庫型家具店にも足を運びました。
あまりにも広大でもうそれだけで驚いてしまったのですが、
一応全部見て回った結果、特に家具というものは
たくさん展示されていればいいというものではないと悟ることになりました。

その理由:値段的にもセンスの点でも振り幅が大きすぎて、
その中から自分の好みに合うものを探し出すのは大変です。


同じことは、この古い家具屋にも言えました。

店主のおじいさんに言わせると、「サンフランシスコ一の品数」
を揃えているというこのお店、黄色い看板には、「緊急セール」として、
次々入ってくる家具を入れる場所がないので安く売ります、とあります。

しかし、玉石混交というのか、品揃えも見せ方もイマイチ。
この店で素敵だなという展示をされている商品は一つもありませんでした。



実際の船のスクリューを利用したガラステーブルとか。



初めて見る、二段ベッドになるソファベッドとか、
確かに変わったもの、ここにしかないものもあるのですが、


お値段、12ドル59セント(これだけ貰ってもいらん)



極限までカットされた美容師のヘアカット練習用マネキンの頭とか、
ある意味ネタの宝庫とでもいうべき品揃えでしたが、
ここで驚いたのはそれではありませんでした。


2階で繋がっているフロアを下に降りていくと、
なんと無印良品の店舗の跡地?があるではないですか。


無印が撤退したので、家具店は溢れかえる家具を置くため、

店舗だったスペースを改装せず、商品が残った状態で使っているのです。

無印良品は、アメリカやヨーロッパに事業進出したものの、
駐在員を置くことや賃貸契約、在庫管理が甘いなどの問題で苦しむ中、
新型コロナウイルスのせいで業績を落とし、
アメリカからは全面撤退したということをこのとき知りました。


日本ではお馴染みの商品が、ディスプレイされたままで埃まみれです。

階段から手の届く部分の商品は、持ち去られたのかもしれません。
キャラメルポップコーンを盗っていった人もいる模様。

■ 棚が見つかった



ソファベッドが決まれば、次はベッド横の棚です。
ワンルームなので、寝室とその他の区切りになるように、
ベッドと同じ横長の低いラックを探していたところ、ネットで見つけ、
サンフランシスコのマリポサにあるお店に行ってみました。

マリポサはサンフランシスコの東南ミッション地区で、
昔MKの幼稚園探しで訪れた時には、何もない殺伐とした雰囲気が漂い、
あまり住もうとは思わない地域だった記憶があるのですが、
いつの間にか立派な子供病院や高層ビルが立ち並ぶ街に変貌していました。

そして周辺は、家具などのアーティスティックな工房がある、
ちょっとヒップな雰囲気のSOHOエリアとなっています。


この工房はシンプルで少しミッドセンチュリーを思わせるコンセプトです。
ここでラックを注文することに決まりました。


この日のランチは、家具屋近くのベーカリーカフェに行きました。
煙突がまだ残っている工場の建物をそのまま利用しています。

後からここが、世界的に有名になりつつある、
チャド・ロバートソンのターティン・ベーカリーだったと知りました。


Tartine(タルティーヌ)という名前が期待させます。
タルティーヌは、バケットなどのスライスに具材を乗せるオープンサンド。


ターティン・ベーカリーは元々サンフランシスコのご当地パン、
サワードウを「カントリーブレッド」として有名にした伝説の店です。

日本のパンにはないずっしりとした食べ応えがいかにも「ごパン」。

わたしは日常グルテンを控えめにする食生活をしているのですが、
S・ガンドリー博士の「サワードウならセーフ」という説を読んで以来、
アメリカに来るとサワードウに限りパンを解禁します。


建物の半分は陶芸工房で、窯がトイレに行くときに見えるので、
食事が終わった人の多くは、工房の物販店を冷やかして帰ります。

さすが陶芸というだけあって、日本製品多し。
この可愛らしい一輪挿しなどは長野にある工房から輸入されたもの。


「Meiji Lantern Kojima Syoten」

京都に江戸時代(1798年ごろ)開業した提灯屋、
小嶋商店の伝統的提灯「明治提灯」をランプにしたもの。

英語の説明によると、「自張り式」という伝統の手法を用いており、
制作には職人の高い技術が必要な逸品とのことです。

小嶋商店ホームページより、提灯の作り方

ちなみにお値段ですが、614ドルということです。

■ ONE TREE

冒頭画像は、サンフランシスコの高速に入るところにある、
「ONE WAY」に合わせて描かれた「ONE TREE」とその木の現在。


木が大きくなって、「ONE TREE」をほぼ覆い隠していました。


2019年に撮影した時のONE TREE。
この時はまだONEくらいは読めます。

2006年。この頃壁は青かった。

 ONETREE




白黒写真の頃。

この時の後ろ壁は何かの事情で建て替えになり、
現在の壁になったので微妙に矢印の場所が違うことに気がつきました。

ところで、右下の小さな木がこれだけ育つのに、何年かかったのでしょうか。


続く。


西海岸で引越し&家探し〜アメリカ・シリコンバレー生活

2024-09-10 | アメリカ

MKの大学院卒業式に出席した後、一度帰国したのですが、
8月半ばになってもう一度アメリカに渡り、現在に至ります。

彼は卒業後、地元でインターンシップと就職もすることになりましたが、
8月に大学の寮を退去することになったので、
とりあえずその後は一緒に住みつつ、秋からの家を探す計画です。

社会に出た息子に親がここまでしてやるのもどうかという説もありますが、
彼はここでは外国人ですし、第一まだ車の免許を持っていないので、
家探しや引っ越しなど、車を持っている友達にそこまで頼るのも
流石に憚られることもあり、親の出番となったわけです。

そういうわけで、今回わたしも8月半ばまで日本にいたわけですが、
その間の暑さにはもう殆(ほとほと)身体も心も参ってしまいました。
ここ20年というもの、8月中日本にいたことがなかったこともあり、
身体が全く酷暑に順応できなかったものと思われます。

ニッポンの夏ですから、蒸し暑くて当たり前なのですが、
それにしても昔は30℃を超えると今日は暑いなくらいだったのに、
いつの間に熊谷でもないのに34℃が普通になったと声を大にして問いたい。

ちょうど昨日、海軍写真を提供してくださったKさんが、
「湿度52%」という画面のスクショを送ってこられたのを見て驚きました。
気温があれで湿度がこれって、もうほとんどサウナだよね。
日本はトータルで最高の国だと国民として思いますが、夏は最低です。

元々夏苦手なわたし、出発前はほとんど死んだ魚の目で生きていましたが、
こちらに来て時差ボケが解消するにつれ、調子を取り戻し、
最近はようやく西海岸の砂漠気候を楽しんでいるところです。

さて、飛行機到着後、すぐに契約していたAirbnbの部屋に向かいました。


昨今カリフォルニアは物価が高騰し、そのせいでホテルが高いので、
できるだけ良心的なAirbnbの物件を探すことにしています。


最初の部屋は、オーナーがまだAirbnbを始めてすぐということで、
まだ評価がついておらず、そのためリーズナブルなお値段で借りた
ベルモントの丘の上の素敵な一軒家でした。



2ベッド1バスルームでキッチンは独立。



とにかく清潔で全てが揃ったAirbnbでした。



下に小さな庭を望むウッドデッキのテラスで、
朝のコーヒーを楽しんだものです。


その晩はアサートンの日本風居酒屋「酔尚Dranken Monk」で食べました。


つくねは夜だけの居酒屋メニュー。

前回、家族3人でお昼を食べに行ったら、その日はたまたま父の日で、
お勘定の時にお店は「父の日おめでとう」カードを造花をくれたのですが、
同じメンバーで行ったため、ウェイトレスが覚えていてくれて、
「ウェルカムバック」と挨拶してくれました。

■ 大学寮を退出


わたしたちが到着して1週間後、寮の退出日になりました。
2年間何かとお世話になったこのドームも今日で最後です。
滞在中利用させてもらったピアノにもお礼を言ってお別れをしました。


パッキングもわたしが手をつけるまで何もしていなかったのですが、
週末だけでなんとかここまでまとめ、あとは運び出すだけ。

今回は引っ越しのために大きめの荷台を持つSUVを借り、
20分の距離に借りた次の宿泊先との間を往復する作戦です。



全部荷物を運び出しました。
このキッチンにも大変お世話になりました。


もう今頃は次の住人がここで暮らしていることでしょう。


最後に部屋で記念撮影。
2年間の学生生活を送った部屋を感慨深そうに後にしました。

部屋を出て駐車場で最後に携帯から「チェックアウト」すると、
自動的にIDは抹消され、キーとして使えなくなります。

余談ですが、最近ニュースで知ったところによると、彼が在学していた時期、
同大学に在籍した日本人は学部・院合わせてたった6人だったそうです。

機械工学部卒の日本人が二人だったことは確認しましたが、
やっぱりこれはいくらなんでも少なくないでしょうか。

■ 次のAirbnbに住んでアパート探し



寮から引き揚げた引っ越し荷物を持って、
家族3人でしばらくここに住むことになりました。
マウンテンビューにある比較的新しい2ベッドルームのアパートです。



わたしは、スタンディングデスクのあるこの小さな方の寝室。


MKはここでエアベッドを敷くことになりました。



Airbnbのホストに頼んで持ってきてもらったエアベッド。
昔ボストンに住み始めた日、知人が貸してくれたエアベッドは
手動で空気を入れなくてはいけないタイプで、寝心地も悪かったのですが、
今どきのエアベッドは、空気入れなど全く必要ありません。

ベッドエンドのコンセントを繋ぎ、スイッチを入れると、
勝手に空気が入って膨らんでいくという驚異の仕組みに進化していました。

あれよあれよという間にヘッド付きのツインサイズベッドの出来上がり。
ちなみにアメリカでは日本の「シングル」が「ツイン」です。


この間料理ができないので外食ばかりになりましたが、
幸いカリフォルニアというところは美味しいレストランがたくさんあります。

まず、カストロストリートというこの辺りのレストラン街で、
良さげなラーメン屋さんを見つけたのでGO。
店名が「遊玄」というあたり、日本人の経営であることは間違いないでしょう。


トッピングを追加していく方式で、普通に美味しかったです。
アメリカの日本食も、わたしが住んでいた頃とは様変わりし、
本物か本物に近い、美味しいものが食べられるようになって嬉しい限り。

これもインターネットが世界を狭くした結果でしょう。


夜はMKが友達と行って美味しかったというフードトラックのタコス。
ストリートタコスというジャンルで、お店のトラックは
営業の終わった後の酒屋のパーキングで営業しています。

ストリートタコスについては、無認可の違法出店で食べたタコスの豚肉に
寄生虫がいて、脳で繁殖したという怖い話があるのですが、
とりあえずここはヒスパニック系のお客さんが詰めかけていて、
近隣では人気ということらしいので心配はしていません。



メキシコ系客にテーブルを占領されてしまったので、家で食べました。
見た目あまり美味しそうではありませんが、さすが本場?の味でした。



次の日、早速家探しにかかりました。
前もってネットで条件の合うところをピックアップしておき、
内覧できるかどうかアポイントを入れていきます。

これはその一軒め。
マウンテンビューのカリフォルニアストリートには
このような2階建ての囲み式アパートがいくつも並んでいます。


四角い中庭に入るには、オートロックの解除が必要なので、
セキュリティはそれなりですが、わたしとしてはピンときません。


理由:リノベーション後で写真では良く見えますが、なんか部屋が臭い。
交通量の多いカリフォルニアストリートに面した窓が小さくて部屋が暗い。
しかもあなた、ワンベッドルーム月2,900ドルってどう思います?

カリフォルニア、ことにシリコンバレーの物価は上がり、
今や年収800万円以下は貧困層という位置付けです。
このしょぼいアパートも、新規入居者にはとんでもなく吹っ掛けてます。

暗い顔のわたしにMK、「だめかな?俺はいいと思うけど」
就職して最初に住む家だから多くは望まない、と考えているようですが、
親としては、もう少しちゃんとした?ところに住んでほしい。
何かあってすぐに飛んでいける距離じゃないですから。


このアパートで唯一評価できた、よそのうちの窓猫。



二つめのアパートはセルフツァーでした。
テキストで指示を受け、鍵を解除して勝手に見ることができる方式です。

比較的大きな敷地で、中には人口の日本風?池があり、
なんと「鯉の孤児院」という立札がありました。


見ると立派な錦鯉がざっと10匹以上泳いでいます。
どこからか引き取って、池を日本風に改装しているようでした。



部屋は値段の割に(2600ドル)広くて、まあまあかなという感じ。


わたしが評価したのはこの作り付けのクローゼット。
しかし、クーラーは付いておらず、(自分で取り付けるのは可とのこと)
共用のランドリーが遠いのが気になりました。

そして予定を入れていた3件目が冒頭の写真のアパートです。

Trader Joe's、コールズ、TARGET、Walmart、その他ジム、ホテル、
レストランも多数ある施設の一部となっているアパートで、
ワンルームに当たるStudioが3000ドルからという物件ですが、
車を持たなくとも買い物ができること、建物が新しく、
セキュリティ面など安心できることも多いなど、メリット多数。



唯一の懸念材料は家賃でしたが、この賃貸オフィスの人が、
今日契約したら家賃を6週間分差し引くとネゴしてきたので、
こちらも散々家族でオフィスに居座り、鳩首会談して向こうに圧をかけ、
(向こうには想定内だったかもしれませんが)結局、
最初に見たアパートよりも安くなり、納得のいく結果に落ち着きました。

それにしても、この辺の地価の高さよ・・・。

MKの現在のインターンシップの給料も、初任給も、
日本なら大手企業の部長職以上のレベルですが、547スクエアフィート
(51平米、15.43坪)の部屋の賃料が日本円で月40万というこの地域では、
全体的に高給とは言えないというのが辛いところです。

さて、想像もしていませんでしたが、部屋探し1日目にして、
ホップ、ステップと部屋がグレードアップして行った結果、
ジャンプの物件であっさりと決めることになりました。

あとは、必要最低限の家具探し、そしてまたしても引っ越しです。

続く。


恩師の激励〜工学部卒業式@ベイエリア

2024-07-06 | アメリカ

アメリカ西海岸におけるMKの大学卒業式シリーズ、
この学部セレモニーでいよいよ最後となります。


前回の卒業式は、学部セレモニーと全体セレモニーが別の日だったのですが、
今回は大学卒業式に続いて午後からが各学部での式となります。

スタジアムを出て指定された建物へと向かいます。
皆が各学部への移動を一斉に始めるため、学内はご覧のように
ガウンを着た人と家族関係者がいろんな方向に三々五々歩き回っています。


工学部卒業式会場は、名前こそ「メイプルズ・パヴィリオン」ですが、
なんとバスケットボール専用体育館です。
なんと、バスケの練習と試合をするためだけの体育館があるのです。
(まあ、至る所にビーチバレー部のためにあちこちに専用コートがあって、
ゴルフ部のために専用ゴルフ場がある大学ですから当たり前ですが)

アメリカの私大は、スポーツの振興でも大学名を賭けて競い合うため、
高校スポーツでいい成績を出し、大学の決めたレベルをクリアすれば、
いわゆる「エリート校」に推薦入学することができます。

もちろん当大学くらいになるとSATの成績が悪ければ入れませんし、
大学入学後に成績が維持できなければ試合に出してもらえません。

ちなみに、当大学のバスケチーム、「カーディナル」ですが、
現在では男子より女子の方が強い模様。


天井のこれは4面に向けたスクリーンになっています。
バスケットボール専用体育館なので仕方がないのですが、
蛍光灯に照らされ、劇場のような照明は望むべくもありません。



今度は正面ではなく、壇を一番近くで見られる場所に席をとりました。
「威風堂々」が流れる中、卒業生たちが入場してきます。


上のスクリーンからは別角度からの入場が見られます。


博士課程、大学院、学部卒業生全部合わせてもそんなに多くはありません。


全卒業生が入場を終わりました。
帽子をクリエイトしている卒業生は多くはありませんが何人かいます。

■ 錚々たる教授陣


続いてファカルティ、教職員が入場し壇上に着席しました。
卒業生に渡される卒業証書はダミーで、名前は書かれていません。



今年工学部の卒業式の進行を行ったのは、機械工学者であり
ロボット工学者のアリソン・マリコ・オカムラ教授でした。

Allison Mariko Okamura

日本人としてどうしてもその名前が気になってしまいますが、
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系アメリカ人です。

ロボティクス分野に関しては、触覚技術、遠隔手術の研究を通じて
医療分野におけるロボット技術の普及に貢献しておられます。

オカムラ教授によって、教授陣が紹介されます。



紹介が終わると、二人が壇上に上がりました。
このコリンズ准教授の専門はヒューマノイド型ロボット研究。

かっこいい・・まるで映画に出てくる教授みたいです。
この綺麗なブルーのガウン、ミシガン州立大でPh.Dを取ったことを表します。



続いて、副学部長のケン・グッドソン教授。
グレーと赤のガウンは、MITの博士号を受けたことを表します。
壇上で一際存在感を放っていると思ったら、やっぱり凄い人でした。

一番目立ってた

専門は、電気自動車、データセンター、
パワーエレクトロニクスに応用される熱伝導とエネルギー変換で、
DARPAや政府のエネルギー研究局、空軍科学研究所などからの支援を受け、
発明家としても35の特許を持っています。
アップル社のためにヒートシンクを製造した実績もあります。

また、バリトン歌手としてオラトリオのソロを務める一面もあり、
タングルウッドで声楽のフェロー、芸術賞を取っているそうです。

■ 博士号授与



まず、博士号を取った人たちに、
壇上でガウンの上にストールをかける儀式が行われます。

赤と黒のガウンは当大学独自のもので、
そこに肩からかけるオレンジのストールは工学博士を意味します。



新博士たちは、自らのストールを手に持ち登壇して、
担当教授直々にストールを後ろからかけてもらいます。



背の低い教授に大きな人が掛けてもらうのはちょっと大変。




卒業生は自分の名前が書かれた紙を、コールする人に直前に渡します。
おそらくこの人(インド系)は、名前の読み方を確認されています。

そしてこの後、博士号取得者は、元いた席にではなく、
壇上の、教授准教授の後ろに設えられた椅子に座ります。

つまり、これからは皆同じ博士ですよってことなのでしょう。

■ 修士号授与



というわけで、MKが修士号授与される順番になりました。
彼の名前をコールしているカトコスキー教授は、なんのご縁か、
MKが学士授与された大学で博士号を取っており、
そうと一目でわかるタータンチェックのストールをしておられます。

このストールが素敵だと思ったのはわたしだけでなく、MKも、

「もし将来Ph.D.取ることがあればここよりC大がいいなあ」

その理由はというと、やはりこのタータンチェックだそうです。

ちなみにカトコスキー教授の専門も、ロボットハンドなどです。


前後に並んでいるのはみんな親しい「学友」なので、
名前を呼ばれると声援を送り合い、盛り上がります。

ヒスパニック系など、大家族で応援に来ている卒業生の名前が呼ばれると、
一族郎党が凄まじい声で名前を叫び、プラカードが振られます。


賞状を渡す係とまず握手。
この方、コンピュータサイエンスの助教授で、名前が凄い。

モンロー・ケネディ3世
Monroe Kennedy III


ファーストネームがモンローでファミリーネームがケネディ。
しかも、三代に亘ってこの名前がアフリカ系一族に受け継がれてるって、

・・・・・なんか色々と謎の情報量多すぎ。

ケネディ助教授も専門分野はロボット工学です。


モンロー・ケネディ3世助教と写真を撮って、おしまい。


博士課程、修士課程のセレモニーが終わりました。
2024年というのは当大学133回目の卒業式に参加した卒業生が、
「クラス2024」と生涯にわたって呼ばれる数字となります。


さて、ここからは学士、アンダーグラデュエイト認証となり、
カトコスキー教授に変わってコリンズ准教授がコール係となりました。


モデルさんですか?みたいな人も結構います。


「世界130カ国から集まっている」という当大学。
わたしたちの近くに座っていた一団はオーストリアから来た家族でした。
(帰りのチケットを確認していたのが見えてしまった)

この写真の女性のように、国旗と共に登壇する愛国者もいます。
彼女が持っているのはモーリタニア国旗ではないでしょうか。
(赤いラインがないのは旧国旗だから?)

モーリタニアはアフリカの西岸に面した人口465万人のイスラム教国で、
国土は日本の2.7倍ですが日本大使館は目黒区五本木の一軒家です。

なお、全員の名前が呼ばれるのを注意して聞いていたのですが、
全工学部中、日系と思われる女性は一人、(教授に一人いますが)
ファーストネームも日本名の、つまり留学生らしき卒業生は、
この中でMKと学士の女性一人だけでした。

つまり工学部で男性の日本人留学生はMKだけだったことになります。

そういえば、北東部の大学にいたときも、日本からの留学生は少なく、
そのことがアメリカ人の父兄とレセプションの席で話題になり、

「日本は元々先進国だから、留学の必要がないんじゃないですか」

と言われましたが、それもちょっと違うような・・・。

■ キャップトス(帽子投げ)


卒業証書授与式が終わり、一瞬素に戻っている先生たち。
画面左手にあるロゴ入りのボードは、撮影用のバックで、
卒業生がここに来ると業者が一人ずつ撮影を行います。

卒業式後、すぐに業者から写真を買えというメールが来たので、
当然のように買ってしまったわけですが、届いたプリントを見ると、
うーん・・・わたしが撮った写真のほうがよく写っているかも・・。



アメリカのセレモニーの不思議なところは、
「ここで終わり」というアナウンスをしないことです。

なので、卒業生たちはなんとなく終わった〜的タイミングで
てんでに立ち上がり、何人かが帽子を投げたりし始めます。

この帽子投げは英語では「ハットトス」「キャップトス」といいますが、
本来は、これから任官して帽子が変わる士官学校での慣習であり、
普通の大学の卒業帽=「モルタルボード」mortarboardは投げません。

「新しい帽子を得るために古いものを捨てる」という意味がないからです。
つまり、そのイメージを受け、完全に雰囲気でやっているだけです。

それに、改造されてプラスチックなどを貼った帽子は、
下手に投げたら角で人を傷つける心配もありますからね。

■ 野外レセプションパーティ


セレモニー終了後は、体育館横のバーベキューエリアで
工学部主催のレセプションがありました。

スタジアムには軽食のスタンドもあったので、
それを買い求めて食べている人もたくさんいましたが、
わたしたちは朝早く、一口だけ食べて家を出てきただけなので空腹です。

そうそう、スタジアムで横に座っていたコリアンらしい青年は、
買ってきた山のようなフライドチキンのバレルを抱え、もりもり食べて、
食べ残しをそのまま座席の下に放置していったわけですが、
彼に限らず、セレモニーが終わった後、スタンドの足元に、
ペットボトルやその他食べ残し、チラシなどゴミを放置する人多数。

「一流と言われる大学の卒業生関係者でもこれか・・」

とちょっと唖然とさせられました。
ワールドカップでゴミを拾う日本人応援団が話題になりましたが、

それがいかに世界基準では異様なことだったかがよくわかります。

こっちの人ってまじで、


「掃除をする人の仕事がなくなるからゴミ拾いなんて必要なし」

とか平気で思ってそうなんですよね・・。


卒業生は木陰のテーブルに座り、あるいは立って、
お世話になった先生と話したり、家族に会ったりします。

そう、レセプションパーティは食事をする場所ではないのです。



とはいえこれは・・・いかがなものか。

お腹が空いたので、フードの列に並んでみたところ、
テーブルの上にあるのはズッキーニのサラダ、
中身スカスカのソフトタコ(しかももう残ってない)、クッキー。
飲み物はサーバーから汲む生ぬるい水道水、以上。

「タンパク質とか全くねええ!」

「ビーガンの人に対する配慮かな」

「レセプションって量じゃないぞ」

しかし、とりあえず一皿取って食べたら味はそう悪くない。
小皿一杯では流石に量も足りないので、おかわりしようと思ったら、
このわずかしかない食べ物に長蛇の列ができていて、諦めました。
(きっと全員に行き渡らなかったと思う)しかも補充される様子なし。

いかに食べ物の質に頓着しないアメリカ人もこれにはびっくりだ。
MKも呆れて、

「工学部何考えてんだ」

おもてなし以前に、共感性欠如疑うレベル。
まさかこの大学で「予算がなかった」なんて言い訳通らないぞ?

きっとビジネススクールはこんなんじゃなかったんだろうな、とふと思う。

■ 駆けつけてきた「レジェンド」教授



MKと同じラボの研究生が、恩師を囲むの図。

教授は昨年一杯で退官し、リタイアしているのですが、
可愛い?弟子たちの卒業式に立ち会うべく、
ロスアンゼルス方面から車を飛ばしてやってきたのでした。

しかし、この日曜日、道路が異常に渋滞していて、
到着したのはセレモニーが終わったときだった、とのことです。

ちゃんと弟子に会うために退官後にもかかわらずガウンを着用。
MK曰くその分野では「レジェンド」というべき存在だったとか。


早速恩師を囲んで記念撮影が行われました。



わたしが一番好きなのがこの写真です。

退官したにもかかわらず、弟子のために数時間かけてやってきて、
彼らの門出を祝福してくれる名物教授。



そういえば、最初にラボの見学をさせてもらったとき、
教授の似顔絵が貼ってあったなあ・・・。

写真の身振り手振りからも、教授が教え子にいかに真摯に対峙していたか、
いかに尊敬され、慕われていたかが推察できる一瞬だと思います。

自分の薫陶を受けた技術者が、これからの世界に
どれほどの功績を遺すかを、心から楽しみにしている師の姿。

後藤新平が言ったという、

「人を遺すは一流」

という言葉を、カリフォルニアの太陽の下で思い出したわたしです。


というわけで、長らくお付き合いいただいた卒業式シリーズ、終わります。
MKはこの後、企業の研究所でインターンシップを行った後、休みを取り、
本格的に地元で技術者として歩みだすことが決まりました。

親としての役目は一応これで一区切りついたと言えるかもしれません。


卒業式シリーズ終わり



メリンダ・ゲイツのスピーチと学位承認の儀式〜大学卒業式@ベイエリア

2024-07-03 | アメリカ

アメリカ西海岸で行われたMKの大学の卒業式、
パレスチナ支援の卒業生たちが数百人単位で式をボイコットし、
会場を去っていく間も、臨時学長リチャード・サラー氏の演説は続きます。


後でMKが、このスピーチを、

「何が言いたいのか全くわからなかった」

と貶していました。

改めて内容をチェックすると、まず、何分もかけて言葉を変えながら、

「君たちをここまで育んだ家族とコミュニティに対する感謝が大事」

と一言で済むことをクドクドと?繰り返しています。

まあ当たり障りないというか、当たり前というか、普通の内容です。
ひとしきりそれが済むと、歴史学者であるサラー学長は、

「古代ローマの専門家として語る」として、続けました。

「過去4年のパンデミックの悲劇を矮小化するつもりはないが、
絶望的な物語の中で過去を理想化したり美化するのも間違いです。

幸福度のほとんどの尺度において、みなさんの世代は、
古代ローマ人や100年前のアメリカ人、私の世代より先を行っていますし、
みなさんは先祖より長生きする可能性があります。

過去1世紀にわたってアメリカの平均寿命は40%延びました。
1970年以来、世界の平均寿命は16年延びました。
古代ローマにおける15歳未満の子供の死亡率は50%でしたが、
1950年には25%、現在ではわずか4%になりました。

そして、ほとんどのローマ人は自給自足していたが、
現在極度の貧困率は減少し識字率も古代の10%から現在は87%へと(略)」

で、何が言いたいかというと、これらの変化は教育と、知識の発見、
普及の賜物であり、皆さんと大学はそれに貢献しているということらしい。


過去より現在、現在より未来が人間にとってより良いものになっている、
ということを、学長は学者らしく数字を挙げて証明したかったのでしょう。

そして、今の世界にも問題は各種存在するが(ボイコットの原因含む)

明日の世界をより良くするために、皆さんはここで学んだことを活かして
それら問題を解決していってくださいねと言いたかったようです。

しかし、MKとその周りに、この学長代理のスピーチは滅法不評でした。
数字ばかり挙げて、で、古代ローマとか何言ってんの?みたいな。


確かに古代ローマ史の専門家で「ならではの」視点はないかもしれません。
単にその事実を数値化するだけなら誰にだってできますし。

■ メリンダ・ゲイツのスピーチ



サラー学長がこの日のキーノート・アドレス、
=基調講演を行うスピーカーを紹介しました。

「慈善家、事業家、女性の人権保護者、そして当大学育ての親」

である、メリンダ・フレンチ・ゲイツ氏です。

プログラムには「Pivotal 創業者」と紹介されていますが、
ピヴォータルとは、2015年に設立された、ベンチャーキャピタル、
政策、権利擁護の橋渡しと推進を行う組織名で、
女性の経済的および政治参加を増やす取り組みを使命としています。

(つまり彼女のライフワークは女性の権利の向上でもあるわけです。
そんな人が夫とエプスタインのような人物の関わりを許すはずありませんね)

彼女の慈善事業へのアプローチは、イデオロギーよりも柔軟性を重んじ、
あくまでもデータ主導であり、その上で、アメリカの裕福な人々に
その富を慈善活動に寄付することを呼びかけており、
彼女自身も今後2年間で10億ドルを寄付する予定だそうです。

以上のことを学長がスピーチすると、会場から拍手が巻き起こりました。

ちなみに彼女のウィキペディアには、最後に
この日卒業式で基調講演を行ったことが付け加えられています。

Melinda French Gates 2024 Stanford University Commencement Speech
自動翻訳から日本語を選択できるので、
もしご興味があれば聞いてみてください。

最初に彼女は、当大学メカニカルエンジニアで学んだ彼女の父が、
メリンダの姪の卒業を見るために母と一緒にここに来ている、と言います。
なお、彼女の娘も、娘婿もここで学位を取得しています。

この日大学がメリンダに2回目となるスピーチを依頼したのは、
彼女の姪が卒業するタイミングだったからだったかもしれません。

この日は父の日だったので、彼女は会場のすべての父親におめでとうを言い、
母親たちを労って、聴衆の心をしっかりと掴みました。

スピーチの核心に入ると、彼女は、アメリカの思想家、ラム・ダスが言った、
海を渡る二つの波についての話をします。

「大きな波と小さな波が岸に向かって打ち寄せていた。

陸地に近づくにつれ、大きな波は、波が海岸で砕けるのを見て絶望し、
小さな波に、『私たちはもう終わりだ』という。

しかし小さな波は微笑んで『心配しないで。大丈夫ですよ』という。
大きな波が、それでも『終わりだ』というのに対し、

小さな波は落ち着いて、

『それは違います。その理由をたった六語で説明します』


といった。
その六つの言葉とはこうだった。

『You are not wave, you WATER.』
(あなたは波じゃない。水です)


そして、60歳になった自身に訪れた様々な経験について、
それが目の前にある時には、大きな波が感じたような恐怖に見舞われたが、
次の日には乗り越え、それからの行動が自分を形作ってきたと言います。

そして、皆さんはこれからこの大学の卒業生として、
色々と展望や計画を持ち、世間も皆さんを必要としていると思うが、
人生には往々にして想像もしなかったことが起こるので、
自分のこの地球上での使命について皆さんは考え方を変える余地を残し、
それを厭わないでほしいとして、

「波が波でなく自分を別の名前、『水』と呼ぶことを認識したとき、
自由自在に新しい形になることができるのです」

そして卒業生には、自分自身の小さな波(大きな波を見る視点)を持ち、
物事の本質を見る視座を養うように、と、
自分自身のマイクロソフト入社時の(苦い)経験をもとに語ります。

そして、自分自身にとっての小さな波になってくれる人を見つけること、
また、誰かにとって自分が小さな波の役割を果たし、
信頼性の構築によって壊れた世界を修復することを望み、

”And when you wake up tomorrow,
no longer the person you are today
and not yet the person you will become next.
(明日目覚めたあなたは、もう今日のあなたではありませんが、
まだ次の自分になることもできていません)

I hope you will draw courage and confidence knowing
that you graduates are water, the force that shapes the shore.
(私が望むのは、卒業生の皆さんが勇気を自信を持つことです。
なぜならあなた方は水で、岸辺を形作る力であるのだから。

What a powerful force you are.
(それはなんと力強いものでしょうか)

と締めくくりました。


明快でわかりやすく、そして説得力のある訓戒です。
さすがはフォーブスの「最もパワフルな女性100人」に
2013年以降ほぼ毎年ランクインしており、
国内外から様々な勲章を受けている女性のスピーチだけあります。

卒業生たちも、素直にこのスピーチには拍手を送っていましたし、
後で聞くとMKも「学長のは酷かったけど」こちらは評価していました。

わたしは、客席からの写真ではわからなかった彼女のブレスレットが
ヴァン・クリーフ&アーペルであることを目ざとく察知しました。

でっていう話ですが。


■ 学位授与の儀式

ここで、博士号、修士号の授与式が行われました。

授与式とは、各学部の学部長が順番に対象者を紹介し、
学長がそれを受けて宣言することで、
この瞬間卒業生は正式に学位を与えられた者となります。

わたしがアメリカの大学の卒業式に出席するのは三度目ですが、
以前出席した2回とは全くやり方も方式も違いました。

アメリカでは、各大学の歴史や規模によって独自の方法が培われ、
それを継承して伝統にしているのだということがよくわかります。



本学の学位授与には定型があります。
最初に行われたMKの工学部で説明すると、まず学部長が登壇し、

「工学部の候補者はどうぞ起立してください」


それを受けて、工学部の博士号、修士号取得予定者が、
歓声を上げつつ立ち上がり、学部旗が振られます。

すると学部長が、

「学長閣下、私はあなたに理学修士、工学修士、
Ph.D.(後述)の学位取得要件を満たした者をここに紹介します

といい、学長がそれに答えて、

「ありがとうございます、ウィットマン学部長。
本大学の教授会および理事会から私に与えられた権限により、私はここに、

あなたがたに授与された学位を授与し、その権利、責任、特権を認めます。
おめでとう!

会場から拍手が起こり、ここで初めて彼らは学位取得者になるのです。


続いて法学部、教育学部が続きます。



教育学部は修士、博士合わせて総勢30人くらい。
学部長は、学部紹介の時、

「Small but mighty.」(少数精鋭です)

と付け加えて、会場から温かい笑いが漏れました。
続いて人文科学部、そして「ドー・スクール」。

「Doerr(ドー)School of Sutainability👈click

は当大学独自の大学院で、米国最大の気候変動関連学部の一つです。
日本語で言うなら「持続可能開発大学院」とでも言いましょうか。

土木・環境工学(工学部との共同部門)、地球システム科学、
エネルギー科学・工学、地質科学、地球物理学、海洋学の研究を行います。


そして次の学長が登壇すると、早くも歓声が上がり始めました。
次に学位授与されるのはスクールオブビジネス、経営大学院。

おそらくアメリカで入るのが一番難しい、世界の最高峰ビジネススクール。
裕福さにおいても全米で2番目と言われております。

なんかイメージとして、全員イケイケで派手な感じ?
少なくとも工学部とは全く違う毛色の人種が生息していそうです。

そして、このジョナサン・レヴィン学部長は、
次期学長となることが決まっているのです。

サラー学長は、レヴィン学部長の任期が終わるまでの繋ぎを務める立場から

「あなたのビジネススクール学部長としての最後の卒業式に際して、
GSPへの貢献と、当大学の学長職を引き受けてくださることに対する
私からの感謝を受け入れてください」


とこの時にその就任について言及しました。


案の定、ビジネススクールの一団からは、大歓声が巻き起こります。
その派手さに、会場の人たちはちょっと呆気に取られている感じ。


立ち昇る紙吹雪(かな?)、飛び交う風船。


よく見るとあっちこっちでシャンパン(と見せかけた発泡水)
の瓶を開けて、周りの人たちの帽子はびしょ濡れ状態・・・・。

なんか知らんが、さすがはビジネススクール。

何から何までノリが違う。


最後に学位授与されたのは、大世帯のビジネススクールの前に、
わずか三列に収まっていた少人数のスクール・オブ・メディシンでした。

理学修士、医師助手学修士、科学修士、
そして「ドクター・オブ・フィロソフィ」が与えられます。

最後の「Doctor of Philosophy」は略称Ph.D.(ピーエイチディー)で
所定の在学期間を経たのち、筆記&口頭試験に合格したものが、
3年から5年以内に学位請求論文を精査されたのち与えられるものです。



さあ、そこで学長がこんなことを言います。

「マルティネス学長補佐、我々は誰か忘れてませんか?」


「さあどうでしょうか。誰かまだ残ってます?」



すると学士予定者が歓声を上げました。

わたしは入場の時にちょっと勘違いしていたのですが、
「バチェラーオブアート、バチェラーオブサイエンス」は
文系、科学系の学士の総称、つまりアンダーグラデュエイト卒業生です。

そして学長の宣言により、彼らに無事学士が与えられました。
そして最後に学長の、

「おめでとう、クラス2024 !」

と言う言葉の後、サノ教授の指揮による
「Stanford Hymn(大学讃歌)」が演奏されました。



「なだらかな丘が聳え立つ場所
さらに高き山の頂へ
海岸山脈のあるところ 夕焼けの炎の中
それは真紅に染まり、蒼ざめていく
ここで我々は歓呼の声をあげる

汝、我らがアルマ・マター(母校)よ
麓より湾に向かいて
我々が歌うときそれは鳴り響く
鳴り響き、そして舞い上がる
万歳、Stanford、万歳」


プログラムにはこの歌詞が載っており、
観客席の周りからは卒業生なのか、唱和する声が聞こえました。



そして本当の最後に、宗教、スピリチュアルライフの学部長であり、
牧師でもあるステインワート博士が、

「皆さんは思いやりに満ちたコミュニティを構築し、
美しい世界の壊れた部分を修復、保全、構築することができますように」


と述べて、最後に

「アーメン」

で締めくくりました。
どんなにリベラルが「メリークリスマス」を言えないような風潮を作っても、
依然アメリカはキリスト教国なのだと思った瞬間です。



で、ここからがアメリカ(の悪いところ)だなあと思ったのは、
これで終わりとか、皆様お気をつけて会場をとか言わないので、
卒業生が勝手に立ち上がってその辺をうろつきだし、
中世ファンファーレのブラスが厳かに流れる中、
退場する教授陣の通路が塞がれてしまったことです。

いかにもアメリカ人らしいお行儀の悪さ。

流石に、

「卒業生の皆さん、皆席に座って教員が退場するまで待ってください」

とか注意されていました。


わたしたちも一斉に退出する観客と一緒にこの後出口に向かったのですが、
このスタジアム、出るにはいくつかの狭〜〜〜〜いトンネルを通るので、
その前で人間が渋滞してしまい、外に出るまで団子状態で待たされました。

「もしテロや火災が起こったら確実に大人数が往く魔の構造だね」

などと、スタジアムの構造に文句を言いながら外に出ます。


検索したら、1993年の卒業式の映像が出てきたのですが、
それを見る限り、それ以前からあった古いスタジアムのようです。

いまいち安全性に関しては考慮されていないようでしたが、
よく今まで何事も起こらずきたものだと感心しました。

なんとか外に出た後、今度は工学部の卒業式会場に向かいます。


続く。


親パレスチナ派の卒業式ボイコット〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-30 | アメリカ

MKの大学の卒業式報告、続きです。


先住民族から当大学の「承認」を受ける、という
アメリカならではの儀式を終え、ここからが卒業式本番です。



まず学長の「ウェルカム」宣言。
卒業生への祝辞と、学位取得者への賞賛、そして
グラウンドキーパーなどセレモニーのために働いた人々への労いが続きます。

この学長(実は臨時の学長らしいですが)は、

博士号103名、修士号2,475名、学士号1,838名

学部生中176名が80カ国の出身
大学院生中1,301名が110カ国の出身


と数字を挙げ、本学で学んだ人々が世界に多大な貢献をすることを期待し、
卒業生たちをここまで連れてきた彼らの家族や友人に
立ち上がって拍手を送ってください、と告げると、


グラウンドの卒業生たちは立ち上がり、振り向いて
スタンドに向かって手を振り声援を送りながら拍手、
スタンド側からもそれに答えて手が振られ歓声が上がりました。

そして引き続き各種賞の贈呈が行われました。
ここでいう賞は、卒業してからの業績に対してのものがほとんどです。

■ 数百名の学生が卒業式をボイコット


賞の授与が終わり、学長のリチャード・サラー(Saller)が挨拶を始めました。
このサラー学長が一時的な代理だったことを後から聞きました。

前学長のテシエ=ラヴィーン氏が、神経生物学の論文における
データの操作と改竄という、学者にとって致命的なスキャンダルによって、
本人はそのことを否認しながらも、大学のためにと辞任したのを受け、
サラー氏は次期学長が就任するまでの間の代理学長を務めています。

あくまでもテンポラリーな繋ぎなので、名前は学長として残されないし、
よりによって大学史で初めてとも言われる学生運動が任期中発生し、
こんな時に不祥事を受け代理なんて損な役回りとしか言いようがありません。

スピーチを始めた学長は、まずコロナ禍下入学した学生たちの困難にふれ、
次いでここ一年の「悲惨な戦争」について言及しました。

そこまできた途端、卒業生席が大きくざわめきました。



イスラエルのスカーフを掲げた女性を先頭に、
卒業生の席から、次々と人が立ち上がり、退場を始めたのです。

拍手とピーピーという口笛、ざわめき。
それらは席に残る卒業生からだったとは思いますが、
彼らの行動を賞賛するものばかりではなく、
おそらくその中には、非難の声も含まれていたことでしょう。


ある者はイスラエルの旗を持ち、ある者はスカーフを巻き・・。

彼らが入場してきた時、この豆絞り風のスカーフが目につき、

気になっていたのですが、この時になって、この柄が、
PLOの故アラファト議長が着用していたのと同じであるのを思い出しました。

このスカーフ、クーフィーヤというそうですが、
白黒のクーフィーヤはパレスチナの象徴となっています。

後から新聞記事で知ったところによるとウォークアウトしたのは数百人。

しかし、わたしもTOも全く予想外の出来事だったので、
彼らの持っているプラカードに、

「大学はジェノサイドに投資している」

と書かれているのを見て初めて彼らが
大学がイスラエル側に立っているとして抗議していると知った次第です。



よく見ると、客席からも彼らに声援を送る人が少数いて、
大学院卒業者席は、皆が携帯で写真を撮っています。


おそらく大学当局は、なんらかのアクションを予想していたかもしれません。
しかし、まさか学長のスピーチの途中でウォークアウトとは。

大学公式のビデオでスピーチする学長の様子を見ると、
(カメラはずっと学長の顔をアップにしている)
卒業者席から歓声が上がり、抗議者たちが立ち上がりだしても、
学長は平静を装ってそちらをチラリとも見ることはありませんが、
明らかに声の調子には動揺があるのがわかります。

この写真でメリンダ・ゲイツはずっと学生の列を目で追っており、
彼女の横の女性学部長たちは、おそらく今年になってから、
パレスチナ系学生の度重なる学内での狼藉について非難してきた立場なので、
この写真にも明らかなくらい、不快感をあらわにしています。

左後ろには、壇上からビデオ撮ってる教授もいますが(笑)

この件を報じるロスアンジェルスタイムズの記事より。

「学生数百人が、パレスチナへの支持を示すため卒業式をボイコットし、
イスラエルとハマスの戦争に関連した抗議活動で揺れた
キャンパスでの激動の一年を締めくくった。


ソーシャルメディアで拡散している動画には、
リチャード・サラー学長が卒業生に向けてスピーチをしている最中に、

学生たちが次々と椅子から立ち上がる様子が映っている。

学生たちの多くはクーフィーヤやパレスチナの国旗を振っている。
数分以内に、数百人がスタジアムから流れ出る様子が見られる。

このストライキは親パレスチナ派の学生団体が計画したもので、
同団体は学生たちに式典を離れ、別の場所で行われる
「人民の卒業式」に行くよう呼びかけていた。

■ 学生の「座り込み」活動


ガザ地区でのハマスとイスラエルの戦闘が始まった2023年10月17日以降、
アメリカ全土で学生を中心とした抗議運動は活発化していました。

イスラエルの攻撃はハマスの奇襲攻撃に対する報復だったのですが、
ガザでは多くの民間人が犠牲になっていることを受け、
親パレスチナの学生が抗議の声を上げることから活動が始まりました。


そしてすぐにそれは「反ユダヤ・イスラエル主義」となって、
時にユダヤ系学生への個人的ないじめとなって現れることになります。

そこで当大学のユダヤ系学生は、

「偏見に対する報告、安全、コミュニティのメンタルヘルスに
十分な救済策を提供しなかった」


として大学側を非難し、一方パレスチナ系学生側は、

「大学当局からこちらの権利を主張することを弾圧され、
親イスラエル団体の攻撃から守ってくれなかった」

としてやはりこちらも大学側に抗議の声を上げました。


同様の動きは、全米のいわゆるエリート校、
コロンビア、ハーバード、ノースウェスタン大学などでも起きており、
波及的にさまざまな処分(停職など)となって現れています。

こういった対立を、第三者からの目で見る意見も当然あり、
当大学のある2年生の学生は、

「The War at Stanford」

として、次のような意見を表しています。

私のコンピュータサイエンスクラスのセクションリーダーの1人、
Bは、ジョー・バイデン大統領を殺害すべきだと考えていた。

この23歳の学生は先月、少人数の抗議者たちにこう語った。

「民間人というわけにいかないから軍人がやるべきだ。
バイデンは死ねばいいんだ」

彼は、当大学がパレスチナ人の大量虐殺に加担しており、
バイデンはその当事者であるだけでなく、責任者でもあると考えている。
そしてさらに、

「バイデンは大量虐殺の罪を犯したのだから、肌の色が濃いテロリスト
(肌の色が濃いテロリストは、通常、アメリカの飛行機によって
爆撃されたり無人爆撃機による攻撃を受けることは周知の事実)
と同じ扱いを受けるべきだと言っているのだ」

と言った。

彼は、10月7日のハマスによる攻撃は正当な抵抗行為だったと信じており、
現政府に代わってハマスがアメリカを統治すること望んでいるとまで言う。

そこで「君の目的は何なの」と尋ねると、彼は「平和さ」と答える。

私はコンピュータサイエンスのクラスを変えた。


当大学のキャンパスからイスラエルまでは約12,000kmの距離がある。

しかし、ハマスの侵攻とそれに対するイスラエルの報復反撃により、
私の通う大学は分裂してしまった。

この大学は、通常、地政学よりも、今どきの寮を拠点とするような
テクノロジー系新興企業へのベンチャーキャピタル投資に重点を置く。

そこにはバイデン大統領の退陣を求める学生などほとんどいない。(多分)

ガザに平和を望むという若者たちの多くは、
自分が実際には暴力を支持していることに気づいていないようだ。

過激主義が教室や寮に蔓延し、信仰や伝統、外見を理由に
嫌がらせや脅迫を受けることが学生の間では日常化している。

キッパー(ユダヤ帽)を被っているだけで大量虐殺の加害者と罵られたり、
クーフィーヤをつけているだけでテロ支援者と非難されたりするのだ。

東海岸では、アイビーリーグにおける過激主義や反ユダヤ主義が、
メディアや議会から大きな注目を集めた。
学長2人が職を失う事態にまで発展している。

しかし、カリフォルニアのキャンパスを席巻している
文化戦争に気づいた人は
ほとんどいないかに思える。

この記事が書かれたのは今年の3月終わりでしたが、
その後、大学では前述のようにパレスチナ派が頻繁に座り込みを行い、
ついには学長室の占拠や歴史的建造物への破壊行為が起こりました。

そして、今回の数百人による卒業式ボイコットというパフォーマンス。
否が応でも「文化戦争」は大々的に顕在化されることになったのです。

続く。



「騒乱の」卒業生入場〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-27 | アメリカ

MKの大学で行われた卒業式レポート、続きです。

■ 大学新聞一面は「学内政治闘争」

朝の7時半開場とともに卒業式会場に入り、
2時間もの間開始を待つ間、正面のモニターは何人かの卒業生の紹介や、
非常口の案内などを繰り返し放映して飽きさせないようにしていました。



待っている人はプログラムを見たり、
入り口で配られていた大学新聞部の「卒業式特集」新聞を読んだり。

ところで、この第一面、卒業式特集ではあるのですが、タイトルは

「騒乱のキャンパス」

「歴史的な『大量虐殺を阻止するための座り込み』の立場をとる」

「親パレスチナ抗議団体が学長執務室を占拠」

「親イスラエル集会が『人々の』大学とホワイトプラザで対決」


説明するまでもなく、パレスチナとイスラエルの紛争について
学内でも割れてお互いが活発に活動しているというニュースです。

ホワイトプラザといえば、例の撮影ツァーの時、ホワイト噴水の横に



こんな場所が用意されていて、親イスラエル学生の集会所だったようです。


椅子の背中に貼られている写真は、すべて捕虜になっている人で、
「BRING HIM HOME」(彼を家に帰せ)という文字が見えます。

方や、新聞記事の「座り込み」とは、
ハマスが奇襲攻撃によってイスラエル民間人1400人を殺害し、
人質240人以上をとったことに対抗して、イスラエルが
ガザ地区への爆撃をエスカレートさせたのをきっかけに始まりました。


学長室を占拠した抗議者は、学校当局によって拘束され、
即時停学処分、卒業予定者はそれを取り消すという
厳しい対応を大学側がしたことが書かれています。

抗議者たちは、学長室占拠のみならず、選挙時に学校警察の係を負傷させ、
キャンパス中庭の、わたしたちが撮影ツァーを行った、
あの美しい歴史的な砂岩の建物や柱に赤いペンキで
「フリー・パレスチナ」などの落書きをしたことで当局の怒りを買いました。

方やわたしが写真を撮った親イスラエル集会は、
それらの親パレスチナ抗議者の行動に対する抗議が目的で、
親パレスチナ学生に対して道を挟んでシュプレヒコールを浴びせるなど、
文字通り「騒乱のキャンパス」となったことが報じられています。

さすが70カ国から学生が集まっている大学だけあって、
あっちがいればこっちもいるんだなと当たり前のことに感心させられますが、

全くの第三者から見ると、言い方はアレですがどっちもどっち?

というか、戦争なんだから争っているどちら側にも被害者は出るものを、
そのことを互いに詰りあっても仕方なくね?と思ってしまいます。

しかし、当事者には揺るがすことのできないことなんだろうな。
この問題は、この日の卒業式で思わぬ形となって現れることになります。


アメリカは多民族国家ですが、こういう問題は避けられません。


さて、話を卒業式会場に戻しましょう。


開始を待つ間、上空に小型機が飛来し、ユダヤ系学生のために
MAZEL TOV=ヘブライ語のおめでとうというメッセージを運びました。

また、AM YSRL CHAIはヘブライ語で「イスラエルの民は生きる」、
♡の後の
HILLELはユダヤ教の宗教創始者であり、
世界最大とも言われるユダヤ教の大学生組織の名称です。

この組織は、北米を中心に世界中のカレッジやコミニュティで活動しており、

「ユダヤ人学生の生活を豊かにすることで引いては世界を豊かにする」

を目標に、反イスラエル、反ユダヤ主義と戦う姿勢を掲げています。
おそらく前述の集会もHILLELの学生が主導したものと思われます。

■ 卒業生入場


もうこの頃になると暑さは容赦なくジリジリと身を焼く感覚でした。

なのにああ、我々の前列のおばあ様、お母様、お父様、
そして妹の卒業生家族ったら、帽子なし、女性陣は揃って肩むき出し。

長年の習慣の結果、おばあ様のお肌はダメージで世紀末の様相を呈し、
お母様のお肌ももうすでにやばい感じでしたが、アメリカ人女性の多くは
肌を直射日光にさらすことに全く危険性を感じていないらしいんですよね。

しかしさすがにこの異常なまでの日差しには我慢できなくなったと見え、
困りはてたお父様(多分会社の社長かなんか)がプロブラムを破いて、
即席で日除けの帽子を制作し、その場を凌ぎました(娘は着用拒否)。


お父様ったら、頭いい〜!
きっとできるビジネスマンなんだろうな。

ちなみにおばあさまはギリギリまで我慢していたのですが、
息子の入場までは保たなかったらしく、いつのまにかいなくなりました。

おそらく日陰の席に移動されたのでしょう。

可愛い孫の晴れ姿を近くで見ることを諦めるなんて、
よっぽどこたえたに違いありません。


それにしても彼女らの紫外線に対する警戒心のなさには驚きます。
10代の妹の今は輝くような肌も、母祖母と同じ運命を辿ることでしょう。


アメリカには、こういう時のために?
応援する人の顔を大きくプリントしてくれる業者がいます。

遠くから本人がスタジアム席の家族を見つけることもでき、
応援してまっせ!という気合いを周りにもアピールすることができますね。



しかも、本番までは日よけとしても役に立つという優れもの。
ちなみに裏には宣伝のため会社名がデカデカと書かれています。



教授陣の入場が終わると、音楽は「威風堂々」から、
ステージ上の生バンドの演奏するジャズに変わりました。
このバンドがさすがアメリカというか安定の上手さで、
スタンダード中心に学生が入場し終わる長時間演奏を続けていました。

そして、まずは「上級学位学生」、博士課程と大学院卒業者の入場です。


モニターに写っている旗は、スクールオブエンジニアリング、
工学部の学位授与者を表し、彼らが一番最初に入場してきます。

MKもこの中にいるのですが、見つけられませんでした。



席に着くなり自分の家族と携帯で連絡を取り合って、
自分がどこに座っているのか教える卒業生多数。

MKに「どこに座ってる?」とテキストしてみると、写真が来ました。



これは暑そうだ・・・。
卒業生の帽子って、全く日差しを防がないもんなあ。

工学部は全学生の一番最初に席に着いて待ち時間が一番長かったので、
後でMKは「鼻が日焼けした」と言ってローションを買ったほどです。


アピクレオスの杖があしらわれている旗はスクールオブメディシン、
医学・看護学科で学位取得卒業者は少数です。
大学卒業後すぐに実務に入る職種だからでしょうか。

手前のブルーのフードは法学部です。


卒業生席の両ウイングがグラデュエイトで埋まったとき、司会が

「さあみなさん、まだ入場していないのは誰ですか?」

みたいなことを言って、観衆がわあっと沸き立ちます。
いよいよ大学卒業生が入場してきました。

■学士入場


最初に入場してきたのは人文科学部。
ちなみにバチェラーは「学士」という意味です。



先頭にいるのは「木」。
さすが木がマスコットで、

「Fear The Tree !」

が対抗試合の合言葉なだけはあります。
この木の人、大学公式のカメラに映り込もうとして阻止されてました。

それにしてもそれに続くチアガール、ベール被った男性・・・
当大学卒業式は仮装大会なのか?

日本では京都大学がこの慣習を一部受け入れて話題になっていますが、
この大学では、全体的にすごいことになっていました。


各種着ぐるみは標準。
卒業式で思い切り楽しんでしまおうの精神。


浮き輪集団、パンプキン集団。


IN-N-OUT(ハンバーガーのファストショップ)店員がいるぞ!



かと思えばシェフもいます。
左下の学生は、パレスチナの旗を持ってますね。



水泳部?は彼らのユニフォームで入場。



それを壇上から冷たい目で見る女性教授(コロンビア大学卒)。
彼女の出身大学ではこんな卒業生は決していなかったと思う。

ちなみに後ろのジャズバンドのギタリストは、当大学博士課程出身者で、
音楽学部の教授かつ大学ジャズワークショップのディレクターです。


とにかく着ぐるみ率高し。


の辺全て「クラブ」=カニ軍団。
プラカードには「Holy Crab !」(こりゃ驚いた!)というメッセージ。

この集団、実は神経系の発達と癌における
エピジェネティックメカニズムを研究するラボ、通称

The Crabtree Lab☜クリック

で講義を受けた卒業生らしいのですが、見たところただの陽キャ集団。


カニなので泡を吹きながら行進。
この頃になると、音楽はラテン系のサンバとかになり、ノリノリでした。

永遠に続くかと思われた彼らの入場がやっと終わり、
ここでようやくプログラムが進行します。



同大学コーラスによる「アメリカ・ザ・ビューティフル」合唱。
指揮は音楽学部教授、ステファン・サノ博士。

遠目には分かりませんでしたが、サノ博士は日系アメリカ人3世で、
2世の父親は日本軍人としてシベリアで捕虜になった経験があります。

合唱指導だけでなくピアノ、ギターの演奏者としても有名で、
バイオグラフィを見ると、グラミー賞はじめ様々な賞を受賞しています。

Stephen M. Sano

Steve Sano plays Bill Evans' "Peace Piece"
「アメリカ・ザ・ビューティフル」は米国の愛国歌の一つで、
スーパーボウルの前に斉唱されることで有名です。
America the Beautiful
ネイビーバンドの美人ヴォーカリストバージョン



続いて、我々日本人には全く未知の儀式が行われました。

Invocation&Stanford University Indigenous Land Acknowledgement
招請&大学先住民の土地への謝辞


どういうことかというと、この大学が、かつて先住民族、
ムウェクマ・オロネ族の先祖伝来の土地であったことから、
大学としては、先住民族との関係を認識し、尊重し、
目に見える形で示す責任を持っているという認識なのです。

したがって、このような式典の際は、先住民に対し、

「あなたたたちの土地を使わせてくれてありがとう」

と感謝を述べることになっているのでした。


ベイエリアには、スペイン植民地時代以前、
先住民が数百人からなる多文化コミュニティで定住していましたが、
アメリカ統治時代になって、彼らはメキシコ人の土地に避難しました。

ありていにいえば追い出されたってことですね。

当大学の土地からもムウェクマ・オロネ族らが移動していったわけですが、
現在では、先住民族コミュニティは当大学と密接な協力関係にあり、
土地を提供してもらっている立場の大学側は、
彼らについてその物語を広めるための活動を継続しているのです。



大学側が謝辞を述べた後、少数民族代表として、
ユロック族出身の卒業生(2017年人類学部卒、今年博士課程卒)、
メリッサ・アイデマン博士がスピーチを行いました。

部族の象徴なのか、動物の毛皮で作ったストールを着用しています。

「部族にとってこの土地は今も昔も非常に重要なものです。
私たちは大学と先住民族の関係を認め尊重し、可視化する責任があります」

こういう、宣言のような短い言葉でした。
こちらも、要するに

「かつて先住部族を土地から追い出したあなたたちではあるが、
我々の歴史を尊重するならばこれからもここを使わせてやって良い」

という許可を意味していると考えていいでしょう。


わたしは、卒業式で行われたこの行事のおかげで、
これまで全く知らなかったこの地域の成り立ちや歴史の側面を
ほんの少しですが、垣間知ることができました。

多民族国家アメリカ、本当に色々と問題がありますが、
それを解決していこうとするパワーと工夫が、
今日のアメリカを大国に押し上げた原動力となっているのでしょう。

続く。


式開始まで〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-25 | アメリカ
■Airbnb引越し

MKの卒業式の少し前、Airbnbの部屋を引っ越しました。
前回のエメラルドヒルズから、今度はメンローパークの住宅街の一角です。


上空から見ると、明らかに他の地域より緑が多い地域。
その一角のAirbnbは、ドイツ系家族が住む敷地の離れでした。



プールのある家はこの辺では珍しくありません。


宿泊するのはこの離れ。
オーナーによると、この家はちょうど築100年だそうです。

1924年は、前年に関東大震災が起こった年ですが、この時期、
ヨーロッパではイタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が政権を獲得し、
前年にヒトラーのドイツ労働党はミュンヘン一揆によって統制を拡大させ、
ここアメリカでは排日条項を含む移民方が成立し移民が全面禁止されました。

そしてちょっと感慨深かったのが、
この年のオリンピックがパリで5月に開かれたという事実
です。

今年はオリンピックイヤー。
そして開催地はなんとパリ。

もしコロナの拡大がなければ、東京オリンピックが延期されることもなく、
前回から100年目に同じ場所が開催地になることもなかったわけで。

そしてついでに、この頃のオリンピック開催は8月ではなかったんですね。

8月開催というのは、いつの頃からか、アメリカの大手テレビ局が、
「この時期はアメリカ国内で大きなスポーツの大会がないから」
という理由で固定したという話はやはり本当なんですね。


そんな頃に建築されたということですが、実際のところ、
アメリカでは100年越えの物件はそれほど珍しくもありません。
内装や配管を取り替えながら、古い家に住み続けています。

古さを実感したのは、キッチンにディスポーザーがなかったのと、
夜中、どうやら天井裏にリスが住み着いているらしく、
小動物が歩く音が聞こえてきたことくらいでしょうか。

次の朝、外のテーブルで食事を取りました。
庭には、お父さんの力作?らしい子供用のお家があり。


プールの奥には巨大なトランポリンが設置されています。

左がガレージ、右がおそらく倉庫。


全力で体を動かすことを楽しむオーナー夫妻らしく、
ガレージにはバイクが2台ありましたし、ある朝など、
プールサイドに干してあったのは、アイスホッケーの防具一式!
しかもゴールキーパー用です。(キアヌ・リーブスを思い出した)

このAirbnbは、オーナがドイツ人ということもあるのか、
古くて小さな部屋の中を考える限り機能的に整えており、
スタンディングデスクと滅法早いWi-Fi、優秀なコーヒーマシン、
今まで体験したことのない寝心地のいいマットレス、
どんなうっかり者でも壊さなくてすむプラスティックのグラス、
(しかも本物のガラスにしか見えない)
アメリカでは初めて見たミッソーニのタオル類と、最高の環境でした。

■ 卒業式当日

ほとんどの関係者にとってこの大学の卒業式は初めてのはずですが、
わたしたちのような外国人の親にとっては、それがどういうものか、
予想がつかないだけに心配は募るばかりでした。

卒業式に参加するためには、必ず卒業生からの招待が必要で、
招待者にはこのような入場チケットがオンラインで配られます。



つまり全員がスマホを持っているという前提ですね。
これをアップルウォレットなどに入れて当日バーコードをスキャンします。

そして同時に車はどこに停めるなどというお知らせももらえますが、
わたしたちは会場に近い駐車場に停めるため、前日に現地を視察して、
開場時間の45分前である6時45分に家を出ることにしました。

しかし、前日は緊張して?寝られず、しかも早く起きてしまう始末。

前日から徹夜で並ぶ総火演&観艦式のガチカメラ勢みたいなのが、
まさかここ西海岸にいるとは思えませんが、こういう状況になると
かつての血が騒ぐのか、どうも平静ではいられないんですよね。



案の定アメリカ人にはそういう意味でのガチ勢はいなかったらしく、
開場30分前でも広大な駐車場はガラガラ、
正面ゲート前にはわたしたちの前に数人いるだけという楽勝モード。


ほっとしながら目の前の注意書きを見ていて、
わたしは自分のバッグがこの図でいうところの
「スモールクラッチ」の大きさ以内なのか心配になってきました。

推奨されるのは中身が丸見えになる透明なバッグで、
そのことは前日にMKからくれぐれも言われていました。
一応ターゲットなどを覗いてみましたが、なかったので、
小さなバッグなら大丈夫だろうと思ったのですが、
それが12センチ✖️16センチ以内かどうかわかりません。

現に後で測ったら14✖️21だったので完全にアウトだったのですが、
規格外のバッグは没収と厳しいことを聞いていたので、

「もしダメだったら、先に行って席取っておいて」

と打ち合わせし、開場を待ちました。
時間になると、それから待機していた係員が配置につき、
自衛隊イベントの時のように、手荷物を台に置いて金属ゲートを通ります。

わたしは大きさを目立たせないように、最初からバッグの蓋を開け、
係に中を見せながら渡し、大きさを問われることはありませんでした。

荷物検査の先には小型のスキャナーがいっぱいあって、
そこでチケットをスキャンしてから会場に向かいます。

大学の卒業式に手荷物&金属検査というのも仰々しいですが、
ここアメリカで大学など学校現場の銃撃事件が相次いでいるため、
当大学ではスタジアムイベントには必ずこの方法が用いられているようです。


推奨されるクリアバッグ一例

ちなみに指定のクリアバッグですが、後にスクールショップに行ったら、
ロゴ入りのが各種売られていて、みんなそれらを買っていました。

バッグ業者の陰謀か?



そしてゲットしたステージ真正面の席。
もっとも、後から考えれば、どうしてもここでなければ、
というような状況でもなかったんですが・・・。

開始2時間前から死ぬほど暑い場所で待ち続ける価値があったか?
と問われると、微妙だったという点で。

学校からは前もって、この日のスタジアムの暑さについて言及がありました。

全員にペットボトルの水が配られましたし、
最初からこれはきつい、という人のためにビューポイントが用意され、
室内の涼しいところ(日陰は涼しいんですよ)で
座って大画面を見られるような用意もありました。


わたしはというと、白の長袖長ズボンにターゲットで見つけた
10ドルの折りたたみ帽子で極力陽を受けないことを考慮したファッション。



さらにはこれに薄手のスカーフとジャパニーズマーケットで見つけた
接触冷感(日本製は神)の日除け手袋で更なる防護をします。

日本のように湿度がないので、重ね着しても暑くはなく、
むしろヒジャブの国の人みたいに、できるだけ露出部を少なくすればOK。
快適快適とほっとしていると、TOが写真を撮りながら

「ヤ⚪︎ルトおばさんみたい」

とわたしもうっすら感じていたのと同じことを言いましたが、
画像検索したところ、ヤクルトというよりゴルフのキャディっぽい。


だんだん両側に人が埋まりだしました。
わたしたちの前列左はヒスパニック系の大家族。
このときは父ちゃんがひと足さきに席を取って待っています。

この、今の所空いているわたしの左側ですが、中国系家族がやってきて
二人の男の子(2歳と5歳くらい)に前の人は背中を土足で蹴られるわ、
何かというと子供連れで座席の前を行き来して出たり入ったりするわ、
意味もなく横の椅子をバタンバタン上げ下げするわ、
それを抑えると睨んできて(!)力任せに同じことを続けるわで大変でした。

二人いるので、いわゆる一人っ子政策の「シャオファンティ」(小皇帝)
には当たりませんが、いずれにしても日本人から見ると躾がなっとらん。

そもそも魔の2歳児をこんなかんかん照りの場所で
何時間もじっとさせておこうとするのが大間違い。
もう少し後ろの日陰席にすれば出入りも簡単だったのに・・。

そうそう、中国人といえば、今回空港で入国審査に並んでいたとき、
審査の順番がきた年配の中国人女性が、なんと列のはるか後方に向かって
大声で旦那さんらしき人の名前を呼ばわるという椿事が発生しました。

その場に並んでいた世界中の人々が彼女に注目する中、
後ろの方にいた男性がひょこひょこ前に出てきてざっと百人の順番を抜かし、
ちゃっかりおばちゃんと一緒に審査を受けようとするじゃありませんか。

もちろん、その次の瞬間、係員に元の場所に戻れと追い返されたわけですが、
そもそもどうしてこの人たちは一緒に並んでないのかね。

まさか、トイレに行っている旦那を待たずに、奥さんだけが並び、

「あたしが先並んでおくから、アンタ呼んだら前まできて!」

とかいう話だったんかな。

入国審査場で大声で叫ぶだけでも大概ですが、加えて
自分と連れ合いに満場の目が注がれても一向に気にしない!というメンタル、
さすがは中国4000年の神秘。

中国人が列の割り込みを悪いことともなんとも思っていない、
というのはよく見聞きする話ですし、わたしも現に中国で目撃していますが、
入管の係員に至っては日常茶飯事レベルでこういうのを見てるんだろうな。

閑話休題。


スタジアムの向かって右手はセレモニーの間日陰になるため、
最初からここに座る人たちがいました。


■ コマンスメント開始

アメリカらしく、時間きっちりにではなく、少し遅れて
今から卒業式が始まるというアナウンスがありました。



エルガーの「威風堂々第1番」中間部のメロディが流れ、
ガウンに身を固めた大学教授陣の入場が始まりました。

アメリカの学校は必ず卒業式にこの曲を用いますが、これは、
1905年、作曲者のエルガーがイェール大学から博士号を授与されたとき、
同校で使用されて以来の慣習になっています。


学長と一緒に入場してきたのは、メリンダ・フレンチ・ゲイツ。
言わずと知れたビル・ゲイツの元妻です。
彼女が本日のスピーカーであるとは前もってMKから聞かされていました。

ゲイツとの離婚の原因は、やっぱりというかなんというか、

「ビルがジェフリー・エプスタインと付き合っているのが許せなかった」

こととはっきり言及していましたね。
彼女本人は彼を一目見てその悍ましさに震え上がったという話ですが、
やっぱりエプスタイン島行ってたのか、ゲイツ・・・。

しょうがないやっちゃな。


こういうアングルの写真が撮れたのは早起きの恩恵というやつでしょうか。
彼女がストームヒールの紐付きサンダルを履いていたのもわかりました。

メリンダが着ているアカデミックガウンは出身のデューク大のもので、
色がドラブなのは、経済学の学士号をもっているからです。

アカデミックガウンは、今在籍している学校に関わらず、
その人の出身大学を表すため、教授席は色とりどりのガウンが混在し、
それらが一堂に集まっているのは大変美しいものです。

続く。



卒業記念キャンパス撮影ツァー〜アメリカ西海岸

2024-06-22 | アメリカ

アメリカでiPhone 15Proを買いました。

この機種から望遠レンズが搭載されたということで、
毎回一眼レフを持ち運ぶ必要がなくなるかと期待してのことです。

今回はなんといってもMKの卒業式というビッグイベントがあるので、
どれくらいこれがカメラに迫れるか試すチャンスでもあります。

iPhoneを買ってすぐ、MKから依頼がありました。

「友達3人でキャンパスでの記念写真を撮りたいんだけど、
一眼レフで撮影してくれない?」

前回のアンダーグラデュエイト卒業式の時には、
カメラを触らなくなってすっかり時間が経った状態で臨んでしまい、
暗い室内でのイベントを撮影するのに冷汗をかいたものですが、
この機会に本番までにカンを取り戻すことができるかもしれません。

わたしは喜んで依頼を引き受けました。

いきなり室内だった前回と違い、毎日が快晴のこの地域の昼なら
カメラがなんでもやってくれるので、気が楽です。

■「テディベア串刺しの刑の噴水」前


昔MKはこのキャンパスを利用したサマーキャンプに参加していたので、
このトレシダー付近と噴水は馴染み深いものでしたが、
ここで卒業式の帽子を被った彼を撮影する日が来るとは・・。


3人は同じ工学部で、真ん中の女子とMKは同じラボにいました。
3人とも専攻は同じ分野で、就職先も同業種となります。

まず最初のロケ地はモニュメント的噴水のある池の前。


ホワイト・メモリアルファウンテンという名前がありますが、
通称は「ザ・クロウ」(つめ)といい、大学対抗試合などの際、
ライバル、カリフォルニア工科大学のマスコットである
「Oski」を象徴するテディベアを頂点で串刺しにするのに使われます。


現場写真

ついでにこのOskiというキャラがこれ。
串刺しにされているテディベアのように可愛くないどころか・・


怖すぎ

彫刻は、ホワイトさんという金持ち夫妻が、彼らの息子二人を記念して
(亡くなったとか?)彫刻家に依頼したものだそうですが、
こんなことに使われているなんて知ったらきっと嬉しくないと思うんだが。

■ メモリアルチャーチ付近


次のロケポイントはメモリアルチャーチの周り廊下。
象徴的な場所なので、よくここも撮影に使われます。



この大学、とにかく広くて、面積は千代田区の3倍。
大学に必要な施設のほかに、ゴルフコース、乗馬場、
ハイキングコース、巨大なディッシュを備えた山丸々一つ持っています。


なんと呼ぶのか知りませんが、ガウンの首にかけているフードの色は、
所属学部を表し、オレンジがエンジニアリング、工学部です。


当大学は毎日学生がガイドを務める観光ツァーがあるのですが、
ツァー客がみんなでこのときのMKたちの写真を撮っていました。

おそらくガイドが、

「あちらに見えますのが、今週日曜の卒業式に出席する学生です」

というようなことを説明したのかもしれません。



スクールカラーは赤で、フードの内側に見えています。

ところで、この写真の右側に見えているサークル、今まで何度も
通行車両を事故に陥れてきた通称「デス・サークル」なんだそうです。

ちなみに学内には基本信号はなく、交差点は全てサークルですが、
この方式、実に合理的で安全なので、わたしは高く評価しています。

しかしここは、周りに街灯がなくてサークルがあることが分かりにくく、
初見の人がここに突っ込んでも無理はないというデンジャラスな雰囲気。

「デス」とまで言われるものをなんとか対策しろよという気がしますが、
驚くことにこういうことには全く無頓着なのがアメリカ人です。


せめて運転者に見えるような看板一つ立てれば解決するのになあ。


廊下はこのメモリアルチャーチに続いています。
チャーチ前の広場には夜のレセプション?のため、
テーブルや機材が雑然と並んでいて、前での撮影はできませんでした。



メモリアルチャーチ内部は観光客のために解放されており、
わたしも初めて中に入りました。



石柱の根元には、当大学開学のきっかけとなった創始者の息子、
訪欧中の急病で夭折したリーランドの名前が刻まれています。

■ ロダン作「カレーの市民」前


お次は、前にも紹介したオーギュスト・ロダンの彫刻での撮影。
三人ともこれがやりたかった模様。



作品名は「カレーの市民」。

百年戦争の際、イングランドに兵糧攻めにされたフランスのカレーで、
市民の命を救う代わりに、六人のカレー市指導者が処刑されました。

この像は、飢えで痩せ衰えた彼らが出頭のため城門を出る姿を捉えています。


ガウンのせいかぴったりキマってます。


メモリアルチャーチ前のクヮッドと言われる広場です。
チャーチ前のごちゃごちゃを隠すように撮影しました。

女性がガウンの下に白いドレスを着ているのは、
なんとなくこの大学ではそういうことになっているからだそうです。

■ ジャンプ写真(一眼レフvsiPhone Pro)

冒頭写真は、当初彼らの撮影計画にはなかったのですが、

わたしが「ここはタワーが綺麗に入る」と提案したところ、
彼らもここが気に入ったので撮った「帽子投げジャンプ写真」です。

さて、わたしがNikon810、TOにiPhoneを担当してもらい、
ほぼ同じシーンを両者で撮影した結果ですが、基本的には
やっぱりと言うかなんというか、Nikonの圧勝でした。

iPhoneのAI機能は、概ね効果的で、わたしがNikonのデータを
時間をかけてソフトで調整するのをほぼ一瞬でやってくれます。

がしかし、比べてみるとやはり色の深みというか、
わたしごときが言うのもなんだけど表現力が違うのです。

というわけで、カメラ機能に定評のあるProですが、
やはり餅は餅屋って感じかな、という結論に達しました。

とはいえ、iPhoneがその能力をここぞと発揮することもあり、
それがこのジャンプ写真でした。
冒頭写真はNikon、そしてこちらがiPhoneです。


(これを見たMKの最初の一言『俺ジャンプすげー』)

細部を見ると確かに重みの点でNikonが優れているのですが、
状況を捉えるのが巧みで、効果的だと思いました。



参考までにもう一度Nikon。
ちなみにこの写真、帽子を際立たせるため、
わたしは時間をかけてソフトでマスクをかけてマス


ここもわたしの提案で選んだポイント。
MKはこの写真が一番気に入ったそうです。
ポイントはひるがえるガウンの袖?


最後のロケポイントは噴水池で。
流石にキャッキャと水を掛け合うシーンはありませんでした。


最後に、MKと紅一点女子のラボで記念写真。

このソファは10年以上「一度もクリーニングらしいことをしていない」ので
「おそらくとてもとても汚い」代物。
そんなソファの横には、明らかにここで寝るための毛布が・・。


研究に没頭していて帰る時間がなくなった学生用でしょうか。

MKと彼女にとっても、この研究室は、
大学院生活において最も長く過ごした空間だった違いありません。

そしてこの週の日曜日、卒業式が行われました。

続く。




楽器作り発表会とテスラ・サイバートラック

2024-06-19 | アメリカ

西海岸シリコンバレー生活レポート続きです。

■ ポリコレか 販売戦略か

ど〜〜〜〜〜ん

最近のアメリカ、下着のモデルに太った人を使うのはもう普通ですが、
それにしてもこれ↑ってどうなんだろう。

太ってるモデル、別にいいんですよ。

アメリカ人は、太っていても顔が可愛らしい人は多いですし、
太っているなりにパンっと肌のハリがあるなら、説得力もあるんですが、
この人のはもう見ちゃいけないものを無理やり見せられているような。

昨今、アメリカのポリコレ具合はもう限界突破しているかに見えます。
ディズニーを筆頭とする制作物や映画、ミュージカルはもちろん、
デパートなどのマネキンが年々太ってきているのも、

このポリコレに端を発するものだと思っていました。

そして、アメリカのポリコレは、こういうのもありどころか、
これを「美しい」と思うような美意識を植え付けようとしているのか?
これって一種の洗脳か?とこれまで思っていたのですが、

今回この限界突破したモデルさんを見て、あることに気がつきました。

広告の目的は商品を売ることです。

それには売り場で気持ちよく商品を手に取ってもらわなくてはなりません。

このスーパーは、アメリカ人の多くを占める「こういう体型の人」が、
安心して、気後れせず下着を手にとることができるように、
「雲の上の人」である完璧なファッションモデルではなく、
彼女らと同じか、あるいはより「下」のモデルを使うことにしたのだと。

毎年この傾向が顕著になっていることから考えても、おそらくこの

「高めを見せ(て劣等感を煽)るな
低めを見せて安心させ(て買わせ)ろ」

という販売戦略はある程度結果を出しているのでしょう。

■ テスラ・サイバートラック

カリフォルニアのアーヴァインに本社のある自動車会社、

リヴィアンの縦目の車も、ここシリコンバレーでは珍しくなくなりました。

By Jay8g - Own work, CC BY-SA 4.0

Amazonプライムの配達の車も半分くらいはリヴィアンです。
同じリヴィアン製でも、こちらは丸目。
このヘッドライトは方向指示器を兼ねています。

今シリコンバレーを走っている車は、テスラなどの米製電気自動車と、
日本車が二分しているといっても過言ではありません。

ここはテスラのお膝元ですし、電気自動車が弱い寒冷気候にも程遠いので、
中古で安売りされるようになると、皆が乗るようになりました。

一昔前(『ララランド』の頃)は右を見ても左を見てもプリウスでしたが、
今は「前後左右皆テスラ」ということも珍しくありません。



今借りているAirbnbのある一帯は高級住宅街ですが、
家の前に停まっている車は例外なくドイツ車、日本車、テスラ、大型アメ車。

時々ヒュンダイやキアを見ますが、それはほぼ間違いなく、
庭の手入れや工事をしにきたワーカーが乗ってきたものです。

傾向として、レクサスとかメルセデスなどの大きなのをメインに、
2台目にテスラ、トヨタ、スバルを選ぶ住人が多いように見えます。

ところで、先日こんな車が横を走っているのを目撃しました。



「うわ、なにこれ!」

「バットマンカーのつもり?」

「これ絶対普通の車の上に改造でブリキのボディ乗っけてるよね」


好きなことを言い合って、MKに会った時にこれを見せたら、

「テスラのサイバートラックだよ」


これのどこがトラックだよ、と言いたくなりますが、
これが今シリコンバレーで一番尖っている(文字通り)Tesla Cybertruck。

2023年から製造しているので、今ちょうど市場に出回って、
ぼちぼち街でも見かけるようになってきているというわけです。

尖ったボディは平らなステンレス鋼板パネルで構成されているからです。

イーロン・マスクの肝入りで作られたこのピックアップトラックは、
近未来的な装甲兵員輸送車を思わせるフォルムを持ち、
お披露目の場所、月、年が映画『ブレードランナー』の舞台と同じ、
というなかなかにロマンを感じさせるデビューを果たしました。

そして聞いてびっくり、理論的に水陸両用として使用できるそうです。
まさに近未来的な夢の車。

しかし、デビューの際、テスラは「このアーマーガラスは絶対に割れない」
と自信満々で窓に金属球を投げるパフォーマンスを行ったところ、
公衆の面前で見事に二つの窓が割れるという辱めに遭い話題になりました。


その後1週の間に、わたしはこのサイバートラックを2台、
一度は家の近所で、もう一度はパロアルトに路駐しているのを見ました。


ところで、サイバートラックは発売早々に、

「アクセルペダルパッドが外れ内装トリムに引っかかり自動加速する危険」

のため、リコールされていますが、MKによると、
彼が秋から就職する会社(就職が決まりました)の社員に
その早々に不具合で事故を起こした当の本人がいるんだそうです。

怪我はなかったそうですが、ことがことなのでニュースで報じられたとか。


そして、その事故の写真を見ましたが、相手のトヨタ車は、
サイバートラックによって鋭角に切り裂かれ、ズタズタ。
運転者が生きているかどうかも心配になるほどのダメージでした。

サイバートラックは特にそのデザインに対し意見が分かれており、
この事故のようにヒトやモノを必要以上に傷つけそうで不快、とか、

(先端恐怖症の人は見るだけで怖いと思う)酷い意見になると、

「サーバートラックはテスラファンの熱狂的な夢の中にしか存在しない
ローポリゴンのジョークであり、
イーロン・マスクの排泄物の臭いの上に立っている」

とまで言われているのだとか。

でもどうせ新し物好きのシリコンバレー住人は我先にと買うんでしょう?
と思ったのですが、このあまりに先鋭的で『人の迷惑を顧みない』
(ちょっと事故っただけで相手は大迷惑、本人も修理で大損害)
コンセプトには、さすがに首を捻っている人が多いようです。

■ 楽器作りゼミのショーケース父兄参観

我々がここシリコンバレーに到着した時には、
MKは大学院の最後の1週間を忙しく送っている時でした。


そしてちょうど共同プロジェクトで参加していた
CCRMA (Center for Computer Research in Music and Acoustics)
ショーケース(発表会)に誘ってくれたので、見てきました。

CCRMAは日本語で言うと「音楽音響コンピュータ研究センター」。
MKの大学の音楽学部に帰属する日本でいうゼミで、
CCRMA=カルマ(最初のCは無音)と発音します。

作曲家と研究者が、芸術的媒体として、また研究ツールとして、
コンピュータベースのテクノロジーを使って共同作業を行う、
ということを目的とした施設で、MKは最後のセメスターに
楽器を作ることを学友3人との共同プロジェクトに選んだのでした。


昔当大学学長の住居(!)だったという歴史的な建物が、
現在はCCRMAだけの研究室として使われています。


卒業式のために一眼レフを持ってきていたので、
リスで練習(久しぶりなので)しました。


やっぱりiPhone11のレンズとは違うなあ・・。当たり前か。


ここには黒リスもいて、普通リス?と喧嘩していました。


こうして見ると、アメリカ人がこいつらを
「ネズミ」くらいの認識しか持っていないのがよくわかる。
尻尾がフサフサじゃないリスってほんとネズミみたい。


ショーケースの行われる会場は三階にあり、階段を上ります。


建物と同じで、軽くできて1世紀は経っていそうなピアノ。



この古い建物の3階はホールになっていて、天井には無数のスピーカー、
プロジェクター、防音装置が施された別世界でした。

プログラムは入り口のQRコードで読み取ります。

で、どんな楽器をみなさんが発表したかと言いますと・・



これをはめて音楽に合わせて色々な動作をすると、
それに合わせて音楽の音量や質が変化するという手袋。

発明者の学生は全盲で、右側の人が色々とサポートしていました。



音を拾うためのコンタクトマイクを仕込んだボウルに水を入れ、
ボウルをさまざまな方向に傾けることで、ピッチの歪み、
パーカッションヒットの速度、エコー(リバーブ)の量、
および音の厳しさを変化させていきます。


新機軸の発明ではないけれど拍手喝采を受けていた大作、
木を切ることから始めて作り上げたエレクトリックコントラバス。
木の選定から9ヶ月かかったそうです。



ブーツにギター操作の装置を仕込んだ人。
足のジェスチャーでワウ、リバーブ、キルスイッチ、
ペダルエフェクトなど全てを操作できる・・・はずですが、
残念ながら本人がまだ使いこなすに至っていませんでした。



距離センサーとパルスを組み合わせたドームの上で
手をかざし、距離を変えることで音が変質していきます。



センサーを仕込んだTシャツで音を変化させていく仕組み。


そして、MKの展示ですが。

MKと以前京都に来た女子、もう一人男子が3人で作ったのは、
Bass Bass(バスのベース)。
=ベース(ギター)であるメカトロニクスベース(魚)で、


近くで見るとこんな

機械式スプリングシステムが、魚を叩く動きをストリングプラックに変換、
ピッチは制御でき、出力音は包丁
(多軸モーション制御システムに取り付けられている)
を介して減衰することができるという仕組み。



「バスフィッシュを叩いて、
音楽と海洋生物のクロスオーバーイベントを体験する」

(本人説明)だそうです。
ちなみにベースに合わせていた音楽は「マンイーター」でした。

後で魚を叩かせてもらいましたが、これで
「🎵たったった〜、んたたったたった」
のリズムを取るの難しすぎ。

魚を叩くことにシャレ以外の意味が何もないという楽器です。


ショウケースが終わったので、昔ここでMKがITキャンプに来ていた頃、
散々お世話になったダイニングホールにいき、
当時はなかったインドのカレーを食べてみることにしました。

注文は左のパネルからいっさいお店の人と口を聞かずに済ませ、
お店の人は一人で黙々と注文のものを揃えて、右側から渡してきます。

インド系の学生も多いので、要望にお応えした感じでしょうか。
ちなみにここには昔から『KIKKA』というジャパニーズがあります。


お味は・・・まあ多くは言うまい。


おまけ:駐車場で前に停まっていた車。
これが動いているところが見てみたい・・・。


続く。



「人生の謎を受け入れる」〜アメリカ西海岸の日本

2024-06-16 | アメリカ

全ては自分自身の不注意が原因であったとはいえ、
大きな二つの困難を無事解決し、なんとか無事に西海岸に到着しました。

その時はまだこちらでのCarPlayのためにeSIMを契約していなかったので、
ナビなしで行けるMKの大学院寮まで直行しました(冒頭写真)



そして、今回の大きな目的の一つ、
日本で彼の元チェロの師匠に売ってもらった電子チェロを渡しました。

本物のチェロと違い、電子チェロはフレーム部分が取り外せるので
運搬が非常に楽で、「楽器のために一席買う」必要もありません。

飛行機では手荷物ではなく、取り扱い注意の楽器として預かってもらい、
到着した空港の特別窓口で受け取り(といっても床に置いてあった)ました。
心配していましたが、持ち込み荷物の一つとして料金は取られませんでした。



MKを拾ってまずは、彼が昨日行ったばかりという
お勧めの中華で夕飯をとりながらeSIMの契約をしてもらいました。



日本では見ないタイプですが、これは餃子の一種です。
カップの中にスープとミートが入っています。

■ Airbnbに到着



ナビが使えるようになったので、今回のAirbnbにチェックイン。
エメラルドヒルズという、レッドウッドシティの丘にある邸宅です。


借りるのはこの建物の庭から入れるゲストルームです。
オーナーは建物の2階と3階に住んでいます。

高級住宅街なので周辺は豪邸ばかり。



テーブルの後ろに、上階に続く階段がありますが、
こちらからは入れないように、鍵付き扉で封じてあるため、
完全にプライバシーを確保され独立した部屋となっています。



こちらがベッドルーム。



ソファはベッドになるので、最大3人までの宿泊が可能です。



庭だけでももう一軒家が建てられるに十分な広さ。
丘の上なので、夜は寒いくらい温度が下がります。



部屋の前には椅子があって、
巣箱にやってくる鳥を見ながらお茶が飲めます。


最近のiPhoneは、写真を撮ったら即座に素性を教えてくれます。
昔は西海岸の鳥の種類を調べるためにブックレットを買ったものですが。



この、つがいで雛を一生懸命育てている鳥はユキヒメドリ、
英語名Junco(ジュンコー)。
自分の頭より大きな羽虫を捕まえてきてはむしゃむしゃして、

それをヒナに与えるために巣に飛んでいきます。



庭にはジャスミンの香りがむせるくらい濃厚に立ち込め、
入り口のレモンの木にはたわわな実が成っていました。



熟れた味が地面に落ちていましたが、これ食べられるのかな。



この辺りは野良猫の代わりに野良鹿がうろうろしています。
庭に鹿が涼みにきていました。



わたしがガラス越しに見ているのでこちらを警戒しています。
その後ろを駆け抜けていくのは特大のリス。

鹿はしばらく木陰で座ってうとうとしていました。



近所には消防署がありますが、ほとんど普通の住宅みたいな建物です。



ただし、番地のポストに誰でもわかる消防車のマークが。



朝散歩に出てみたら、近所に真如苑USAという寺院がありました。



調べたら、1936年に開祖された日本の仏教系新興宗教みたいです。
日本ではオウム真理教以来宗教そのものが邪悪視される傾向にあるので、
この真如苑も何か色々と言われているようですが。



広大な敷地の中は週末のせいもあって散歩している人が多数。



犬連れの散歩者に、真如苑より注意喚起。


気温が25℃ならアスファルトの熱さは51℃。
30℃なら57℃。
30.5℃ならなんと63℃になってしまい、
51℃のアスファルトを歩けば1分で皮膚に異常が起こるとあります。

「もしあなたが裸足で歩いて熱ければ、彼らにとっても同じです」

真如苑の教義については当方知るところではありませんが、

敷地内を散歩する犬の健康被害の心配までしてくれるさすが宗教団体。

■ 日本食、日本語人気



到着して翌日、MKに、パロアルトに新しくできたという
フードコートに連れていってもらって、そこでびっくり。

ジャパンタウンでもないのに、この光景は何?
写真右のラーメン屋は「ORENCH」つまり「俺んち」です。


MKはここでラーメンを頼んでいました。
「オレンチ」なんて店名、日本人じゃなければ絶対につけないよね。


もう一つの・・・日本食?かどうかはともかく、このバーガー店、
その名も「KONJOE BURGER」。



そう、「根性バーガー」です。

メニューに日本語が使われていたりするわけではないですが、
目玉メニューのチキン唐揚げにMochiko=餅粉が使われているのが売り。

日本では今日び「根性」なんて言葉自体死語となっていますが、
これを英語で説明するとすれば何になるんだろう。

思いつくのはgutsですが、「必死に頑張る」という意味があるとはいえ、
「根性」さらには「ど根性」となるとちょっと違う気がします。

「恋の予感」並みに英訳しにくい日本語の一つではないでしょうか。
 

わたしは根性バーガーでシグネチャーの「KONJOE」を選びました。

例年アメリカに来ると、一度はバーガーを食べることにしていますが、
今回は初日にいきなりノルマを果たしたわけです。

パテはミディアムレアオンリー、オニオンとフライドエッグ、
そしてチリペッパーに「根性ソース」(漢字で書くとなんか凄い)がけ。

チリは思ったより辛かったので全部外していただきました。



MKが「ここのケーキは美味しい」というので
写真右側のジャパニーズベーカリー&ケーキ屋(おにぎりもあり)
IKUKAでKabocha=日本カボチャのケーキを買って帰りました。

アメリカのケーキはどうも我々日本人にはただ甘いだけで、
下手したら色も形も食欲をそそらないものが多いのですが、
ここのケーキは普通に日本でも美味しいとされるレベルです。

IKUKAの意味は「いもクリカボチャ」。
日本のさつまいも、栗、かぼちゃのほのかな甘みと
でんぷん質のおいしさへの愛情に由来しているのだとか。

もちパン、バスクチーズケーキ、モンブランなど、
日本で愛されている味やアイテムがパロアルトで買えるお店です。

昨今、インターネットという通信手段で、
情報があまり歪められずに世界中に伝達され、
一昔前のような間違った日本食、間違った日本ではない、
本当に近い情報が現地に根付きつつあるのを感じるお店です。
(その点ジャパンタウンは正誤が混在していると感じる)

■「人生の謎を受け入れる」

一時、変な日本語のTシャツを着ている外国人の写真が
ネットに出回っていましたが、
アメリカ人が日本語を「クール」と考える傾向はいまだに、
というか、最近では特に若い人の間で顕著だと感じます。

アメリカのドラマ(わたしが見たのは『グッド・トラブル』)中、
登場人物が日本語の書かれたシャツを着ていることも多く、
街を歩いていても時々そういうシャツに遭遇します。

今回MKの寮に初めて行って、乗ったエレベーター内で、
学生らしき白人系男性が着ていたシャツの背中に、
なんの飾りも、絵もなく、ただ文字だけ、

「人生の謎を受け入れる」

と書いてあって、わたしは「うーん」と色々考えてしまいました。
日本語として全く間違っていないし、意味もわかるのですが、
日本人なら絶対にTシャツにこの言葉は書かないかな。

「極度乾燥しなさい」に近い生硬な感じもあります。


にしても、なんで日本語なんでしょう。
日本で購入できるウケ狙いのおもしろTシャツとは違い、
アメリカ人が「真面目に」着ているシャツに書かれた言語としては、
英語以外では日本語だけで、中国語やハングルを見たことはありません。

これも、日本という国の、特にアニメや漫画など、
その他文化全般がインターネットで伝播してきた結果、
日本ブランドが「クール」と受け入れられてる証左の一つでしょうか。

だとすれば、つくづくわが国先人の努力と才能、発想と発信力に感謝です。


続く。