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海上自衛隊東京音楽隊第64回定期演奏会 @文京シビックホール

2024-11-28 | 音楽

去る11月25日、海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会を拝聴しました。

冒頭の絵ですが、この日演奏会で独奏を演じたソリスト二人です。
前日、別ログのためのイラストを仕上げたばかりで、
Apple Pencilがスタンバイしていたので、ふと描いてみました。

過去、実在した軍人のイラストを多数描いてきましたが、
現役の自衛官を描いたのは当ブログ史上初めてのことになります。

ただし、太田一曹は演奏の時、飾緒をつけておらず、
エポーレットのある制服も着ていなかった気がします。

参考にしたのは音楽まつりの時の映像ですので念のため。


今回定期演奏会が行われた文京シビックホールは、
文京区役所の敷地内に備えられた多目的ホールです。

何を隠そう、わたくし渡米前は文京区小石川在住であったため、
ここで婚姻届を出し、何ならMKの出生届もここで提出しております。

なので、大変思い出深い場所なのですが、今回久しぶりに訪れてみれば、
後楽園の駅横全体が「ラクーア」というモールになっていて驚きました。
昔は本当にこの辺り、気の利いたレストランなんて何もなかったですよ。

ついでに、昔MKをベビースイミングに連れて行ったプールは、
「アソボーノ」という子供の遊び場になっていて、内部写真によると、
プールのあった場所がそのままボールプールに変わっていました。

■ 管弦楽曲の吹奏楽編曲

この日のプログラムは序曲を除き、全て管弦楽曲の吹奏楽編曲版でした。
これは吹奏楽団としてはかなり変則的な試みであると思います。

前もって予告されていたのはピアノ協奏曲と「ローマの松」でしたが、
この選曲を見ただけで、激しく期待せずにはいられませんでした。

実際、当日のプログラムを見たら、それは
一般の管弦楽団の定期演奏会のそれであると言われても
何の違和感もないくらいのラインナップだったからです。

一応ご存知でない方のために説明しておくと、
管弦楽と吹奏楽の違いは弦楽器の有無です。

吹奏楽にはコントラバス以外の弦楽器は含まれず、
管弦楽でバイオリンが演奏する部分を、吹奏楽ではクラリネットが持ち、
管楽器では不可能な高音域の持続音やピチカートなどは、
別の楽器を使用したりタンギングなどで代用して原曲に近づけます。

吹奏楽アレンジがよくできているため定番化されることもあり、
超有名なところではチャイコフスキーの「序曲1812年」とか、
ムソルグスキーの「展覧会の絵」とか、エルガーの「威風堂々」とか、
この辺りになると演奏回数においてもどちらが元祖かわからないくらいです。

この日のメインプログラムとなった、レスピーギの「ローマの松」は
「ローマ三部作」の「ローマの祭り」と共に、
吹奏楽が定番化した曲の一つといえましょう。


🎵 吹奏楽のための序曲 
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトロメイ

MENDELSSOHN Overture in C for Winds, Op. 24 - "The President's Own" U.S. Marine Band

米海兵隊バンドの演奏が見つかりました。
(海兵隊バンドという先入観のせいかもしれませんが)キレのある演奏です。

この日、司会のハープ奏者、荒木美佳二曹の解説で、
「メンデルスゾーンがこの曲を作曲したときは15歳だった」
ということを聞いて、一瞬だけ驚いてしまったのですが、よく考えたら、
実はメンデルスゾーンってば超早熟の天才児だったんですよね。



超富豪(銀行家)のおぼっちゃまで、音楽、絵画、何ヶ国語もペラペラ、
ついでに親の財力で当時の有名人(ゲーテとか)と付き合いがあった彼、
「幸福な音楽家」のキャッチフレーズは伊達ではなかったわけですが、
寿命だけはそれを帳消しにするように早逝(37歳、脳溢血)しています。

しかし、若くして亡くなった割に作品数が多いのも、
音楽家として活動を始める時期が早かったからでもあります。


フェリックス12歳

わたくし、高校生の時の自由論文で音楽家の裏話を集めて書いたことがあり、
その中でメンデルスゾーンについて、

「確かに彼の一生は幸福であったが、ドイツのユダヤ人だった彼が
もう少し遅く生まれていたらきっとそれどころではなかっただろう」


なんて締めくくってみたものですが、後から知ったところによると、
ヨーロッパのユダヤ嫌いは「ベニスの商人」を紐解くまでもなく根強く、
メンデルスゾーン家はそのために迫害を受けたりもしています。

つまり余人には窺い知れぬ民族的な宿命を負って生きていたわけですから、
後世の人間が金持ちとか才能だけで決めつけて、
「幸福な音楽家」とか人の苦労も知らずに勝手に言ってんじゃねえ、
と、本人は草葉の陰で思っているかもしれません。

この吹奏楽のための序曲ですが、メンデルスゾーンが15歳の夏、
家族でバルト海沿岸に避暑に行き、そこで依頼でもされたのか、
現地の吹奏楽団のために作曲したものだそうで、おそらくは
サラサラ〜っと、数日で完成させたのではないかと思われます。

避暑地のバンド編成に合わせて作曲された1824年版は小編成でしたが、
本人は大人になってから「序曲」として編曲しなおし、
この時には打楽器フルセットも加えて、現在残っている構成になりました。

この日の演奏は、もちろんこの1838年版によるものです。

🎵グリーグ ピアノ協奏曲 イ短調 Op.16

Edvard Grieg: Piano Concerto in A minor (Víkingur Heiðar Ólafsson)

前半最後は太田紗和子一等海曹のソロによるグリーグのピアノ協奏曲。

同じ吹奏楽版を貼ろうとしたら、唯一見つかった動画
(インディアナ吹奏楽団)が転載禁止だったので、代わりに
最近の推しピアニスト、ヴィキングル・オラフソンの名演を貼ります。

若々しく無謀なくらいスピード感に溢れる演奏で(そのせいか
第一楽章ではっきりとミスしていますが)とにかく聞いていて気持ちがいい。

おそらくカデンツァが凄まじすぎたせいだと思うのですが、
1楽章が終わったところでスタンディングオベーションが始まってしまい、
こういうのを嫌うはずの奏者も、指揮のアシュケナージも拍手を始め、
当人も仕方なく?途中なのに立って挨拶する始末(笑)


それにしても、ピアノ協奏曲としてあまりに有名なこの曲、
こんな曲の吹奏楽バージョンがあったのかと驚きましたが、
探してみたら洗足学園音大の宍倉晃氏編曲の譜面が出版されていました。

本日演奏がこのバージョンかどうかはわかりませんが、
いつもの聴き慣れた曲の吹奏楽版はとても新鮮で興味深かったです。

太田一曹はこの大曲を全体的に軽やかにかつ力強くまとめていたと思います。
第一楽章のカデンツァのテンポプリモから主題の部分などは
全く緊張感を途切れさせることなくメロディを制御していたのは見事でした。

そして吹奏楽も、ソリストの演奏をうまく引き立たせており、
グリーグ特有の民族的な響きが管楽器から感じられました。

ただ、オリジナルの管弦楽の響きが刷り込まれている耳には、
ピアノに対してバンドの音量が強すぎるように感じる部分もありましたが、
これは普通に構成楽器の「誤差」範囲と考えます。


それにしても、軍楽隊にコンサートピアニストが所属しているって、
世界でも珍しい例なんじゃないか?と思い、調べてみたのですが、
「コンサートピアニストで陸軍州兵将校」という例が見つかりました。

Chicago's Hidden Gems: A concert pianist who serves his country 練習は一日4時間確保

「ヒドゥン・ジェム」は「隠れた宝石」という意味です。
このイアン・ギンデスというピアニストは、現役の州兵将校でもありますが、
こうやってニュースに取り上げられるのは、それが珍しいからです。

自衛隊音楽隊のヒドゥン・ジェム、太田紗和子一曹の場合は
「軍楽隊所属のコンサートピアニスト」なので、
もしかしたら世界唯一の存在かもしれませんね。


前半はここで終了しました。
この日のシビックホールは、不思議なくらい観客が少なく、
まるでコロナ中の頃のように席が均等に空いているのです。

これはもしかしたら去る11日の掃海艇沈没と関係あったかもしれません。

「うくしま」火災についての防衛大臣会見

🎵 歌劇「アイーダ」より 凱旋行進曲とバレエ音楽 
ジュゼッペ・ヴェルディ

【淀工吹奏楽部】歌劇「アイーダ」第二幕より 凱旋行進曲とバレエ音楽(2022)

歌劇「アイーダ」の「凱旋行進曲とバレエ音楽」というレパートリー。
このビデオをご覧になった方はお気づきのように、
この曲には管楽器のバンダ(ステージ以外で演奏するグループ)が付きます。

正式にはアイーダ・トランペットと呼ばれるエジブト風トランペットが6、
ハープもバンダとして加わります。

この日のバンダには、音楽隊以外の演奏者が何人か含まれていました。

🎵 「アイーダ」より「清きアイーダ」

Enrico Caruso - Celeste Aida 1906 - Restored 2023

いろんな歌手が歌っていますが、カルーソーの1906年演奏を選びました。
音質最低です。

しかし、これが日露戦争の翌年でHMS「ドレッドノート」が進水式をし、
ドイツではUボート第一号が進水(海軍限定歴史)した頃と考えれば、
この時代の録音が残っていることそのものが奇跡的と思いませんか?

Celeste Aida (Aida) Luciano Pavarotti, Teatro alla Scala, Milano, 1986 こちらはパヴァロッティ

古代エジプトが舞台の「アイーダ」は、当時のエジプト総督から
スエズ運河開通記念事業として依頼された作品だと信じられてきましたが、
実はヴェルディはその依頼を断っており、厳密には
スエズ運河ともオペラ劇場柿落としとも関係ない別件の依頼です。

当時のエジプト総督は、誰でもいいからヨーロッパの有名どころに
エジプトを舞台のオペラを作らせて自分の手柄にしたかったようで、
「ヴェルディでなくてもワーグナーでもグノーでもいい」
と脚本家に宛てた手紙でうっかり本音を書いたところ、
脚本家が(意図的に)ヴェルディにそれをチクったため、
ワーグナーの名前を出されてムラムラと競争心を燃やしたヴェルディは、
法外な作曲料よこせとか、全て自分が権限を行使できるようにしろとか、
めんどいからカイロでの初演には立ち会わないとか、
全ての上演権は俺のものとか、とにかくお前何様?みたいな条件で
ふんぞりかえって作曲を引き受けたという経緯があります。

ちなみに、「アイーダ」に対し、ミラノの批評家からは
「ワーグナーの影響ありすぎ」「ワーグナーの模倣」と言われてしまい、
ヴェルディは深く傷ついていたということです。繊細さんか。

説明が長くなりましたが、この「清きアイーダ」というアリア、
エジプト軍の若き軍隊指揮官ラダメスが、相思相愛の仲である
奴隷のアイーダを称えて第一場で歌うロマンチックな歌です。

この日の橋本二曹の演奏は、その立ち姿と堂々とした声量が相まって
恋する人への熱い思いを歌う軍隊指揮官の姿がよく表現されていました。

ちなみに劇ですが、ラダメスはアイーダの思いを受け入れたことから
意図せず軍機を敵に漏洩してしまい、それで死刑判決を受け、
実は敵軍の王の娘で、情報を父に渡していた当のアイーダは、
ラダメスが閉じ込められた石の墓に一緒に入り、死んでいきます。

🎵 交響詩「ローマの松」Pini de Roma オットリーノ・レスピーギ

交響詩「ローマの松」 O.レスピーギ作曲 NHK交響楽団

この曲の第3部に、ナイチンゲール(夜鶯)の鳴き声が入るのですが、
作曲家自身の指定で、「ここではレコードをかけること」
と決まっていて、レコード番号の指定まであるのです。
初演の通りの再生機で指定のレコードをかけるという、
ものすごくこだわったことをしているN響の演奏を貼ってみました。
レコードの再生は15:00からです。

で、この日のナイチンゲールの鳴き声、どうやっているのか、
一生懸命オペラグラスで見ていましたが、結局わかりませんでした。

打楽器の奏者がステージの右隅に移動していたので、
そこに何か再生装置?があったのかもしれません。

Pines of Rome / Ottorino Respighi ローマの松 龍谷大学吹奏楽部

第二部「カタコンバ付近の松」では、地下墓地(カタコンベ)の付近を通ると
どこからともなく聞こえてくる聖歌が表現されているのですが、
3:00〜くらいから確かにグレゴリオ聖歌っぽいのが聞こえてきます。

🎵 「イッヒ・リーベ・ディッヒ」グリーグ

Charles Danford – I Love Thee (Ich Liebe Dich)
アンコールに橋本二曹が太田一曹の伴奏で歌ったのが、この小品です。
(実はわたしここで三宅由佳莉2等海曹が登場すると思っていたのですが。
この日彼女の演奏が聴けなかったのは残念でした)

♩あなたは私の思い、私の存在であり、私の未来
あなたは私の心の最初の喜び
この世の何ものにも代え難くあなたを愛す
時の流れの中で、永遠にあなたを愛す

この歌詞を書いたのはあの童話作家アンデルセンです。
ピアノ協奏曲の作曲者の作品ということで選ばれたようです。

🎵 行進曲「軍艦」瀬戸口藤吉

行進曲「軍艦」の演奏で、定期演奏会は終演しました。
ピアノ協奏曲にオペラの一節、そして交響詩と、どれをとっても
大変意欲的で聞き応えのあるプログラムだったと思います。

植田隊長率いる東京音楽隊が、ますます新しい境地を開いていくことを
期待せずにいられないこの日の演奏会でした。

終わり

USS「ハロルド・J・エリソン」〜ミッドウェイの英雄のための

2024-11-25 | 軍艦

バッファローはエリー湖の辺りに位置するネイバルパーク。
ここに展示されている艦艇の内部をご紹介しています。
今、タロス巡洋艦「リトルロック」の甲板階(セカンドデッキ)を

艦尾から順番にメスデッキ、CPOデッキなどの見学をしてきました。

ファーストクラス・メス



このコンパートメントは、艦内地図によると、
「ファーストクラスメス」つまり上級下士官用ダイニングだったところです。

ペティオフィサーファーストクラスとはE6、
二等兵曹の上、チーフペティオフィサーの下となります。

下士官クラスの二番手ですが、ちゃんと彼らのために
特別のダイニングルームが用意されています。

それぞれの階級とその任務に強い矜持を持つ米海軍下士官ですが、
レディットという英語のチャットを漁ったところ、
「ファーストクラスメス」というスレでこんなことを言っている人がいました。

「ファーストクラスメスってなんの冗談だ。
チーフになれないけど特別扱いはされたいE6の群れだろ」


また、E6として着任した経験のある人は、

「私と何人かの同僚は、着替えを済ませた後、すぐにFCPOA
(ペティオフィサーファーストクラス)のミーティングに参加させられ、
そして"メスへようこそ!!! "という扱いを受けた。
そして私たちは『E6とはこういうものなのか』と実感した。

覚えておいてほしいのは、新入りのE6は、

LPO(Leading Petty Officer、伍長?)の役割に落ち着くまでは、
給与を上げることを(上が)余儀なくされない限り実質E5だということだ。

なのにその、まるで高級カントリークラブのような雰囲気は、

奇妙で、私たちを混乱させるに十分だったし、
一緒に働いていたE6もそれに加わっていたので、さらに居心地が悪かった。

私はそういうのが全く好きではなかった。


しかし、当時のFCPOAのリーダーたちが、実際に司令部を動かし、
会費を使って積極的にイベントを立ち上げていたことは知っている。

人々が正しい考え方を持っていれば、悪いことばかりではない。
それが船の士気を高めるために使われるのであれば、純粋に役にたつ。

ただ、艦内を歩いていて、ファーストクラスとそれ以外を分ける
メスデッキを見るたびに、私はゾッとしたものだ。

ファーストとそれ以外の乗組員との待遇の違いも忘れられない。

その一方で、私はファーストの一人として、まるでMLM
(マルチ商法)の勧誘みたいに、そこらへんのファーストから
『バディ』『バディ』とバディ扱いされていた(笑)」

うーん・・・ファーストクラス・メスは、というか、
このファーストクラスE6という地位に対する評判悪し。
あるいは「特別扱いを求めるE6」の評判、かな。

アメリカ海軍の中もいろいろあるんですねー(棒)

■ USS 「タイコンデロガ」

一体アメリカにはいくつ「タイコンデロガ」がいるんだよ、
とわたしならずとも誰しもが思うかもしれません。


半分写ってなくてすまん

材質から見てかなり古い時代のプラークだと思います。
何故ここにあるのかは、おそらく盾の黒いプレートに書いてあるのですが、
文字を読み取れなかったのでわかりません。


わたしも、このファーストクラスメスの入り口に、何故かこの
「タイコンデロガ」のプレートがかかっていることから、気になりました。

そもそもタイコンデロガが独立戦争の戦地となった地名なので、
アメリカ海軍には1814年のスクーナーからイージス艦まで、

歴代5隻ものUSS「タイコンデロガ」が存在します。


イージスシステム搭載ミサイル巡洋艦「タイコンデロガ」CG-47は、
ナンシー・レーガン大統領夫人によって命名された巡洋艦です。



第二次世界大戦中、第4代「タイコンデロガ」(空母)に特攻が命中し、
多大な損害を受けて一度退役することになった日から35年後の
1981年1月21日を選んで起工が行われました。

「タイコンデロガ」は発注時はミサイル駆逐艦になる予定でしたが、
その後巡洋艦に変更になり、史上初のイージスシステム搭載艦となります。

2004年に退役した後、歴史協会はなんとか「タイコンデロガ」を
どこかに展示館として保存できないかと模索したのですが、
結局引取り手がなく、2020年解体されることになりました。



■駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」DD-864

で、いろいろと回り道しましたが、ここかつての「ファーストクラスメス」は
現在駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」ルームとなっています。



なぜ一室丸々が「エリソンルーム」になっているかというと、
ネームシェイクとなったハロルド・J・エリソン少尉が
他でもない、ここニューヨーク州バッファローの出身だからです。


部屋の全てが「エリソン」一色。
ガラス戸棚の中はエリソン少尉の年表が。

新車と一緒に。嬉しそうですね。

アメリカ海軍少尉 ハロルド・J・エリソン少尉は、
1917年1月17日、ニューヨーク州バッファローに生まれ、
ニューヨーク州ブルックリンのプラット美術応用芸術大学に入学しました。

プラットインスティチュートは日本では知る人もあまりいませんが、
1800年代からある芸術系大学で、各界に著名人を輩出しています。

「トムとジェリー」のアニメーターであるジョセフ・バーベラ、
俳優ではテレンス・ハワード(レッドテイルズ、アイアンマンのローズなど)
ジェフ・モロー、ロバート・レッドフォードもここの卒業生です。



1941年ブルックリンで米海軍予備役に入隊。

学校を卒業してしばらくデザイナーとして働いていた頃でしょうか。



エリソンの飛行訓練記録

その後すぐに、航空母艦USS 「ホーネット」に乗艦し、
第8魚雷戦隊に配属されました。




何故彼の名前が駆逐艦に遺されたかというと、それはご想像の通り、
彼がこの作戦で名誉の戦死を遂げたからです。

1942年6月4日のミッドウェー海戦で、エリソンは、
ダグラス TBD デバステイター雷撃機によって
戦闘機の援護なしに日本海軍の空母への攻撃を強行しました。

ミッドウェイ作戦において、デバステーター隊15機は零戦隊に撃墜され、
パイロットと通信兼後部射手の30名のうち、
ジョージ・ゲイ少尉を除く29名が戦死しましたが、
このときデバステーターのパイロットの一人だったのがエリソンです。

このときのTBDのパイロットは全員、ミッドウェイのヒーローとして
戦後(他の部隊から不満が出るほど)その偉業?を讃えられました。
もちろん、後席のナビ兼銃撃手の15名はこの対象とはなりませんでした。

要は手違いで掩護なしの出撃をしてしまったこと、そして
当時の零戦隊にはまだベテラン勢が残っていたこともあって、
戦果を残すことなくただ撃墜されてしまった、というのが現実ですが、
アメリカ軍的には、

「この攻撃で日本軍の編隊が乱れ、第2次攻撃の準備を遅らせた。
その後の第6水雷戦隊と第3水雷戦隊による攻撃でもこの混乱は続き、
日本軍の戦闘空中哨戒隊を占拠する一方で、
米海軍の急降下爆撃機がほとんど気付かれずに潜入した。
その後、急降下爆撃機は日本軍の航空母艦を大成功を収め、
第8水雷の犠牲からわずか1時間後には、日本軍の航空母艦3隻が炎上した」

という具合に、この後の戦況は全てTBD隊あっての成功、
という語り口で戦死した全員を英雄として扱うことになっています。

エリソン少尉もまた1942年6月5日に「死亡推定」と分類され、
ミッドウェーでの「勇敢な行動により」死後 海軍十字章を授与されました。



海軍十字賞の献辞は以下の通り。

「1942年6月4日、敵日本軍とのミッドウェー海戦において、
魚雷中隊EIGHTのパイロットとして、職務を超えた英雄的功績により。

エリソン少尉は、戦闘機の防護なしに飛行することの危険性を痛感し、
空母に戻るには燃料が不十分であったにもかかわらず、
自分の身の危険を顧みることなく、
そして激しい攻撃や敵の日本軍機の砲火をものともせず、
効果的な魚雷攻撃を行った。

エリソン少尉の勇気ある行動は、自己犠牲の勇気ある精神と
任務遂行への良心的な献身によって遂行され、
敵軍撃破の決定的な要因となり、
米国海軍の最高の伝統に沿ったものであった。」


■ 駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」建造

ミッドウェイ海戦におけるデバステーター隊の戦死者で、
駆逐艦に名前を遺した人を調べてみましたが、14名全員ではありません。

ジョン・C・ウォルドロン(隊長:中佐)
USS「ウォルドロン」DD-699

ユージーン・E・リンゼイ少佐
USS「リンゼイ」DD-771/DM-32/MMD-32

ジェフ・デイビス・ウッドソン大尉
USS「ウッドソン」DE-359

ジェイムズ・C・オーウェンス大尉
USS「ジェイムズ・C・オーウェンス」DD-776

ウルバート・M・ムーア少尉
USS「ウルバート・M・ムーア」D E-442

ヘンリー・R・ケニョン少尉
USS「ヘンリー・R・ケニョン」D E-683

ウィリアム・ウィルソン・クリーマー少尉
USS「クリーマー」DE-308

そしてこのエリソン少尉の8名となります。
(他にいたらごめんなさい)

同じ条件?で戦死した同じ部隊のパイロットでありながら、
駆逐艦に名前が遺った人とそうでない人の違いはなんでしょうか。

隊長と副隊長以外は、大尉一人、残りは全員
ほとんどが予備士官である少尉ばかりです。

もしかしたら彼らが在籍していた大学と何か関係あるでしょうか。

ただし、最初に計画された「ハロルド・J・エリソン」DE-545
1944年に建造中にもかかわらず中止になりました。


理由はわかりませんが、その後すぐ「ギアリング」級駆逐艦に
改めて彼の名を冠したDD-864が就役することになります。

スポンサーになったのは、彼が死の直前結婚した妻オードリーでした。

■ 6ヶ月だけの結婚生活


海軍士官の娘であるオードリー・フェイとハロルド・エリソンは、
彼女がペンサコーラで働いていたとき知り合いました。

彼らはハロルドが「ホーネット」に転勤してすぐ、
1941年12月30日に結婚しました。
彼がミッドウェイで戦死する6ヶ月前のことです。

わずか半年の結婚期間だったにもかかわらず、
オードリーは2006年に89歳で亡くなるまで教師を務めながら独身で過ごし、
その一生を退役軍人を顕彰するボランティア活動に費やしました。

彼女の遺灰は、かつて彼女の夫がウィングマークを獲得した
ペンサコーラのすぐ近くに葬られたということです。

続く。



「コンバット・アメリカ」クラーク・ゲーブル陸軍少佐〜国立空軍博物館

2024-11-22 | 飛行家列伝

以前、オハイオの国立空軍博物館の展示から、
ジェームズ・ステュアート准将についてお話ししましたが、
今日はその時に少し触れた、クラーク・ゲーブル少佐を取り上げます。

■ キング・オブ・ハリウッド

アメリカが第二次世界大戦に参戦した当時、
1901年生まれの俳優クラーク・ゲーブルは40歳。
徴兵年齢を大きく超えていましたが、彼は志願して、
1942年8月12日にロサンゼルスでAAFの二等兵として入隊しました。

俳優としてのゲーブルについて、今更説明するのもなんですが、
彼が大スターになるきっかけとなった「在る夜の出来事」で
アカデミー主演男優賞を獲得したのは1934年、そして、
「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じたのは1939年のことです。

「戦艦バウンティ号の叛乱」も入れると、アカデミー賞作品に3度出演し、
この頃のゲーブルは押しも押されもせぬ大スターの名を獲得しており、
人々は彼を「キング・オブ・ハリウッド」と呼びました。

その彼が、なぜ入隊したのか。
それは、彼の妻の死がきっかけであったといわれます。

その生涯で5回結婚し、その他にも多くの女性と恋愛関係にあった彼ですが、
最初の3回の結婚は、言うたら彼が成り上がるための
「ラベンダー・マリッジ」(便宜結婚)という色合いが強いものでした。

ちなみに最初の妻は先輩女優で、2番目の妻の紹介者。
2番目の妻は17歳歳上のパトロネス兼マネージャー兼演技コーチ。
3番目のはテキサスの社交界の名士で大金持ちというラインナップです。

4番目の妻、キャロル・ロンバードと結婚した時には、
ゲーブルはすでにスターとして成功していました。

ある意味、ロンバードはゲーブルにとって、初めての
利益関係なしの純粋な恋愛相手だったのかもしれません。


『風と共に去りぬ』の出演料を前妻との和解離婚のために費やし、
既婚者同士のダブル不倫から結ばれた二人でしたが、
その結婚は彼の私生活で「最も幸せな時期」だったと言われます。

しかしそんな二人が新婚生活を送っているとき、真珠湾攻撃が起こりました。

■ 愛妻の死

ジェームズ・ステュアートなど、一部の俳優たちは現役に志願し、
彼の愛妻キャロル・ロンバードも、「戦争努力の一環として」
ゲーブルに入隊を提案したのですが、彼自身はそれには消極的で、
自身は国策映画に出演したり債権の宣伝をするつもりでした。

自分が軍隊に向いていない、と考えたようです。

一方、ロンバードは年明け早々国債販売のための宣伝活動に参加しました。


債権ツァーでのキャロル・ロンバード

1942年1月16日、彼女は母親とクラーク・ゲーブルの広報担当者、
オットー・ウィンクラーとともに故郷のインディアナ州に赴き、
戦時国債の集会に参加し、一晩で200万ドル以上を集めました。

イベントが終わり、1日も早くロスアンゼルスに戻りたかったロンバードは、
飛行機に乗るのが怖いという母親とウィンクラーの説得を押し切り、
当初の列車の予定を変更して、トランスコンチネンタル&ウエスタン航空の
ダグラスDST 機を手配し、乗り込みました。

その後、彼女らの乗った飛行機は、ラスベガス空港付近の山に墜落し、
彼女らと米陸軍兵士15人を含む乗客22人全員が死亡したのです。

The HORRIFYING Last Minutes of Carole Lombard

CAROL LOMBARD CRASH 1942

直接的な事故の原因は乗務員の操縦ミスでしたが、
間接的には戦争がその事故の遠因になったと言えるかもしれません。

なぜなら、真珠湾攻撃の直後だったこともあり、アメリカ当局は
特に太平洋沿岸から日本軍爆撃機が領空侵入してくる可能性を警戒して、
夜間飛行誘導用の安全ビーコンを切るよう通達していたからです。

そのため、TWA便のパイロットは、通常なら受信できたはずの
飛行経路での警告を受け取ることができず、それが事故につながりました。

このことから、キャロル・ロンバードは、第二次世界大戦の
最初の「アメリカ人戦争犠牲者」と宣告されています。

ゲーブルは、妻の死の後、スタジオや関係者の反対を押し切って、
以前は二の足踏んでいたアメリカ陸軍航空隊入隊を決行しました。


■ 陸軍航空隊への入隊


ゲーブルは、フロリダ州マイアミビーチの士官候補生学校に入学し、
その年の1942年10月28日に少尉任官して卒業します。

写真は彼の志願を受け付ける、

「Oath and Certificate Enlistment」
(宣誓と入隊証明書)


で、" I Declare to~"で始まる宣言文が手書きされています。
(すまんが彼の字はマジ読めない)

ところで、妻の死からたった9ヶ月で士官に?と驚かされますが、
実際、ゲーブルが入隊したのは8月12日、友人の撮影監督、
アンドリュー・マッキンタイアと共に入学したのは17日。
9ヶ月どころか、たった2ヶ月の訓練で士官任官してしたことになります。

しかし、これは映画俳優の彼が特別扱いされたからではなく、
入隊したのが陸軍航空隊USAAFのOCSクラス42-Eという、つまり、
パイロットとかではなく、爆撃「搭乗員」養成コースだったからです。

B -17の胴部銃手の資格を得たゲーブル

しかし、その後、アメリカ陸軍は彼を特別扱いしました。
当然と言えば当然です。

まず、約2,600名の卒業生のうち、成績が700番前後だったにもかかわらず、
彼が卒業生を代表してスピーチを任されました。
もっともこれは、学校側ではなく、同級生の総意だったそうですが。

そして、卒業生に任官状を手渡した、当時の航空隊司令、
ハップ・アーノルド将軍その人から、
「彼(とついでにマッキンタイア)にしかできない特別任務」
が下されました。

それは、第8空軍(戦略空軍)の航空銃手募集のために宣伝映画を作ること。
当時の新聞はこのことを次のように報じています。

”陸軍省外の情報筋によると、昨日、ミスター・ゲーブルが、
空軍司令官のH・H・アーノルド中将と協議したと分かった。
ゲーブルは、任命されれば、空軍のための映画を製作するとされている。
軍服を着たもう一人の俳優、ジミー・ステュアート中尉は、
すでに同じ任務に当たっている。”


ジェームズ・ステュアートとクラーク・ゲーブル
(ちなみに、女性関係の派手さに関して言えば、二人は対極にあった)

任官前のゲーブルが「ミスター」なのに対し、ひと足さきに陸軍入りした
ステュアートが「中尉」と呼ばれていることにご注意ください。

ゲーブルは爆撃機訓練学校に入隊して航空砲手になるつもりでしたが、
陸軍上層部が彼をそんな地味な?配置に置いておく筈もなく、
彼はマッキンタイアと共にフロリダの砲術学校で基礎知識を学んだ後、
ワシントンのフォート・ジョージライトで写真コースを受講させられます。

順調に陸軍の思惑どおりコース終了した彼は、終了後中尉に昇進しました。


ゲーブルが中尉に昇進した時の宣誓書です。

就任宣誓

私、クラーク・ゲーブル(自筆)は、
アメリカ合衆国憲法を守るために一時的に任命されましたので、
アメリカ合衆国憲法を支持し、忠誠を尽くすことを厳粛に誓います:
神よ、我を助けたまえ。

クラーク・ゲーブル陸軍中尉

フロリダ、マイアミビーチにて1942年10月28日、
私の前で宣誓し、署名した

アール・ジョーダン中尉
航空隊簡易裁判所

■ 1943年、イギリス

1943年、ゲーブルは第351爆撃隊所属中、大尉に承認されました。
これは6人からなる映画部隊指揮官という地位に相応しい階級です。

マッキンタイアに加え、脚本家のジョン・リー・メイヒン、
カメラマンのマリオ・トティ軍曹とロバート・ボールズ軍曹、
録音担当のハワード・ヴォス中尉という構成の部隊で、ゲーブルは
命じられたリクルート映画の制作のためにイギリスに駐留していました。

元MGM社撮影監督のマッキンタイア中尉は、ゲーブルの入隊に伴い、
訓練と任務に同行させられた、いわば「道連れ入隊」でしたが、
陸軍の意向によって本業の撮影に専念することになり、
この撮影のほとんどを担当し、また、メイヒンが脚本を担当しました。

主演とナレーションはもちろんゲーブルです。

第351爆撃隊に所属している間、ゲーブル大尉は
観測員&銃手として公式には5回の戦闘任務に就いたとされます。

【第1回目の任務】

最初の戦闘任務は 1943 年 5 月 4 日。
第 351 爆撃隊が作戦行動を開始する前の慣熟任務でした。

このとき彼の爆撃隊はRAFの部隊と共にアントワープにある
フォードとゼネラルモーターズの工場を「模擬攻撃」しています。

ゲーブルは無線室に設置された機関銃から数発発砲した際、
極寒の中で革手袋をはめていたため、軽い凍傷を負うことになりました。
(もしかしたら見た目重視のオシャレ手袋だったのか?)

【第2回目の任務】

1943年7月10日、第351爆撃飛行隊第508爆撃飛行隊のB-17、
「アルゴノートIII 」でフランスのヴィラクブレーの飛行場を爆撃する任務、
つまり初めての実戦を体験したということになります。

この任務は雲のせいで目標に爆弾を投下せずに帰還せざるを得ず、
しかもドイツ軍の戦闘機に攻撃されるという苦い結果になりました。

【第3回目の任務】


第4回目の任務を終えてB-17の横でリラックスするゲーブル大尉
彼の左のロバート・W・バーンズ中佐は1970年、陸軍少将として引退した

1943年7月24日、第351 飛行隊の先鋒機を務める「アルゴノート III」
(ロバート W. バーンズ中佐指揮)で、ノルウェーの
ノルスク・ハイドロ化学工場を爆撃する任務に就きました。

【第4回目の任務】

1943年8月12日、ルール地方のゲルゼンキルヒェン合成油工場を爆撃。
悪天候の中、作戦に参加した330機のB-17のうち25機が撃墜されるなど、
この日は第8飛行隊にとってこれまでで最も危険な任務となりました。

第351飛行隊のフォートレスは撃墜こそされなかったものの、
11機が損傷、1機が帰還中不時着し、乗組員1名死亡、7名が負傷しました。

ゲーブルは、ドイツ軍戦闘機が編隊に5回接近してくるたび、
トップターレット(上部砲塔)銃手の後ろに身を隠していましたが、
20mm 砲弾が編隊を組んでいた別のB -17の飛行甲板から飛んできて、
それはゲーブルのブーツのかかとを切り落としながら飛び込み、
頭から 1 フィート離れたところに突き抜けていきました。
(つまりフレンドリーファイア)

後からゲーブルが記者に語ったところによると、ゲーブルも乗組員も、
その時は無我夢中だったのが、高度 11,000 フィートまで降下し、
酸素を止めて周囲を見渡したとき、初めて砲塔の穴と裂けた靴の踵、
機体に全部で15個の穴が空いているのに気づいたということです。

【第5回目の任務】

ゲーブルの最後の戦闘任務は、1943年9月23日、
フランスのナントの港湾地域への早朝攻撃でした。

彼はバーンズ中佐らとともに、B-17「ダッチェス」に乗り組みました。
この時のミッションでは悪天候で半数が集合できず、
しかも残り半分は迎撃戦闘機によって大きな被害を受けましたが、
幸いにも爆撃機の損失はありませんでした。

この時ゲーブルは、撮影クルーを爆撃機のいつもの腰部に残して、
自分は機首の銃手の配置に就いています。
(記述はありませんが、機首銃手が手が離せなかったか、
あるいは負傷したのかもしれません)



公式の任務以外に、広報担当として、メディアのインタビューも受けました。
女優ビービー・ダニエルズのインタビューを受けるゲーブル。

相手の目をじっと見つめ、右手をさりげなく女性の椅子の背に置いています。
まるでいつでもその手を彼女の肩に乗せられるかのように・・。
意識的か無意識かはわかりませんが、これは実に女心をくすぐるテクですね。

でも、これはゲーブルだから許されるのであって、
その辺のおっさんがやったらそれはただのセクハラ行為だ。

■「コンバット・アメリカ」

5回の戦闘任務を完遂したクラーク・ゲーブル大尉は、
航空勲章を受章し、後に殊勲飛行十字章を受章しました。

その最後の3回の任務は、特に危険な編隊指揮機に搭乗しており、
実際にも僚機が何機も撃墜されて指揮官クラスを失っていたことから、
彼はその任務を果たしたことに対し、忖度なしの賞賛を受けました。

しかも、公式任務数5回となっていますが、共に勤務した兵士たちは、
ゲーブルは実際には非公式に他の任務にも参加しており、
この5回は全体のほんの一部に過ぎないと証言しています。


ゲーブル大尉は、1943年11月5日に第351飛行隊を離れ、
5万フィートを超える16mmカラーフィルムを持って米国に帰国します。
最終階級は陸軍少佐でした。

そして1944年、ゲーブルがナレーションを担当した映画
「コンバット・アメリカ」が劇場で上映されたのでした。

"Combat America" with Clark Gable

B-17の離陸シーンは43:00くらいから、
ミッション中のB-17内を撮影した映像は46分すぎから始まります。
54分ごろ爆撃機の爆弾槽が開き、爆撃が開始されます。
そのあとはほとんど最後まで迎撃戦闘機との戦いが続き、
僚機が火を噴くシーンも収められています。

乗組員たちの冷静で淡々とした会話は驚くべきで、最後に誰かが
「Goodnight Sweetheart」を歌い出すと、乗組員が唱和したりしています。

1931 HITS ARCHIVE: Goodnight Sweetheart - Ray Noble (Al Bowlly, vocal)

現役任務をとかれ、帰国した後もゲーブルはAAF予備役将校でしたが、
戦後、俳優として映画制作のスケジュールが殺到すると、
軍任務を果たすことが実質不可能になり、1947年9月26日に退役しました。

1960年11月16日に心臓発作により逝去。



ハリウッドの数多のスターの中で、「最も男らしい男」
「王のように歩き、王のように振る舞い、王のように生きた」
と評されたクラーク・ゲーブルは、
「男であること」について、次のように語っています。

「男が持つべきものは、“人生の賭け”に対する希望と自信だ。

戦いに対するプリンシプルを持ち、
物事に対し不誠実になる前に、長々と言い訳を並べる前に、
死に対する覚悟を決める。

それだけのことなのだ


続く。


「リザルタント・フューリー」演習〜戦車揚陸艦「スケネクタディ」の最後

2024-11-19 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている「リトルロック」、
前回、CPOとメスデッキをご紹介しました。



前回このメスデッキの端にあるプラークを一つ紹介しましたが、
紙幅の関係で取り上げなかったのがあります。



プラークそのものがひび割れて真っ二つになっています。
まるでこの艦の運命を示唆するように・・・・。

昔、自衛艦のこの盾を鋳造している北陸の工房を見学したことがありますが、
そこの社長(現在会長)が、

「海自の方々は大変縁起を担ぐので、
台が『欠ける』『落ちる』『沈む』は御法度です。
そんなことがあれば(血相変えて)作り直しを言ってこられます」


とその『難しさ』を語っておられたのを思い出しました。
それでいうならこれはもう完全に不吉ですが、
この艦が実際にこうなる形で廃棄されたことを知ると、

あながち無意味な迷信でもないのかなと思ったり・・。

■ USS「スケネクタディ」



USS「スケネクタディ」
USS Schenectady (LST-1185) 


は、「ニューポート」級戦車揚陸艦の5番艦です。
この英語からすぐに「スケネクタディ」という読み方が出てきたのも、
わたしがかつてニューヨーク州北部をうろうろした時に、

フリーウェイなどでよくこの郡名を見ていたからです。

妙な発音ですが、予想通りオリジナルはネイティブアメリカン、
モホーク族の「松の木々の向こう側」の意味なんだとか。

エリー湖沿いのバッファローもまた同じニューヨーク州なので、
同じ州のよしみでプラーク交換をしたことがあったのかもしれません。

この等級の大きな特徴は、

戦車揚陸艦でありながら艦首にドアがない

ということ、そしてその代わりに


艦首にアルミニウム製のタラップを持つ

ことに尽きるかと思います。
(ただし従来通り艦尾には大きなドアがあります)

まず前者は、20ノット(時速37km)以上の船速を確保するため、
そしてタラップは艦体のドアの代わりに戦車を積み込むためです。



それをお見せしよう。
これ、すごくない?ちょっとワクワクしてしまいますよね。

そしてこの道板はアルミでできており、長さ34メートル、
普段は上甲板上に格納されていて、岸壁に到着すると、

艦首突端の扉が左右に開かれる

艦首前端のピボットが道板を浮き上がらせる

グリースによって板を滑らせながら甲板下のウィンチで繰り出す

デリックアームによって保持しながら岸壁に道板を設置する



おそらく艦橋から見たところ。(写真はUSS「サギノー」)

車両甲板前端には上甲板と連絡するランプが設けられており、
車両甲板に搭載された車両はここを通じていったん上甲板に上がったのち、
道板を通じて岸に降りていくというわけです。

トラック?の荷台には海兵隊らしいのが乗っていますが、

これなら全く危険はなさそうです。

2本のデリックアームの上にも人がいるのに注意。

なお、道板だけでは長さが不足する場合も多いので、この場合には
後部舷側に搭載した4基の浮橋を道板の先に接続して延長します。

この「ニューポート」級揚陸艦は20隻建造されており、

そのうち「マニトワク」LST-1180「サムター」LST-1181
中華民国海軍に再就役して今も現役のようです。

台湾の方がこのどちらかの入港をアップしています。
道板の展開が見られるかと思ったけど、それはありませんでした。

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-1 (Newport-Class Tank Landing Ship)

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-2 (Newport-Class Tank Landing Ship)

2015.10.24 民國104年國防知性之旅 海軍左營基地營區開放
 LST-233 新港級戰車登陸艦 中平號 Newport class tank landing ship

さて、この「スケネクタディ」ですが、1990年、
同級でたった一隻、湾岸戦争で中東に派遣された揚陸艦です。

1993年には退役し、予備艦として保管されていましたが、
2001年には海軍艦艇登録から抹消され、
最後は標的艦となってお国に身を捧げることになりました。

■リザルタント・フューリー対水上戦演習0501



珍しく、その最後の瞬間が写真に遺されています。
この演習は、何にでも名前をつけたがるアメリカ海軍らしく、

リザルタント・フューリー(Resultant Fury)
”怒りの結果”または”結果としての怒り”

と名付けられました。
2004年、フロリダ州のエグリン空軍基地を拠点に行われたこの訓練では、
空軍と海軍の航空機が海上を移動する目標を攻撃するという内容でした。

ここで皆さんにも思い出していただきたいのが、1921年、
ビリー・ミッチェル少将がドイツの戦艦「オストフリースラント」
航空機で撃沈できることを証明したあの実験「プロジェクトB」です。


このとき、ミッチェルは海軍に「戦艦不要論」を突きつけ、
航空戦力の重要さを証明するために実験を行いましたが、
83年後に行われたこのデモは、方法論の証明などではなく、
まだ実戦配備されていない先進的な兵器システムの実験を兼ねていました。

この訓練に先立ち、元USS「スケネクタディ」は
装備品や資材を撤去し、危険物を取り除くために洗浄されています。

アメリカ海軍は環境破壊に対しても最新の注意を払い、
環境汚染物質を除去し、EPAのガイドラインに従って、
岸から50海里以上、水深6,000フィート以上で作戦を実施しました。

米海軍には「艦隊環境」の専門家(中佐)もいて、演習によって
生態系に影響を与えることがないよう、こちらも配慮します。

事実この演習のとき、クジラの群れが接近したという情報を受け、
発動時間を40分遅らせたという報告がなされているように、海軍は
海洋哺乳類が船舶の近くにいる場合に演習を禁止する範囲手順を定めており、
環境保護と試験と訓練の達成を両立させることを旨としています。



ミッチェルは「オストフリースラント」撃沈に63発爆弾を要しましたが、
このときはB-52から投下されたたった9発のレーザー誘導弾JDAMが
全て意図した目標に命中し、艦艇を速やかに沈没せしめました。

そして2004年11月23日、このリザルタント・フューリーによって、
揚陸艦「スケネクタディ」は標的として撃沈され、
同時に彼女は、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した史上初めての艦となりました。

かつては航空機不要論で反目していた空軍(当時陸軍)と海軍が、
協力しあって海上標的を破壊する訓練風景を、きっとミッチェルは
草葉の陰から見て、涙を流すか、そら見たことかと言っていることでしょう。
(-人-)

■ 「スケネクタディ」艦歴

ところで、なぜ「スケネクタディ」がこのとき標的となったかですが、
簡単に彼女の艦歴についてお話ししておきましょう。

LST「スケネクタディ」は1966年7月15日、

1966会計年度の8隻のグループの一部として発注され、1968年、
サンディエゴのナショナル・スチール・アンド・造船会社によって起工、
1969年5月24日に進水、1970年6月13日に就役しました。

就役後は水陸両用戦隊(フィブロン)9に配属され、
サンディエゴに母港を構えることになります。

訓練と習熟期間の後、1971年にベトナムへ向かい、
海兵隊を撤退させる「キーストーン・オリオール」作戦に参加。

ダナンで荷物を積んだ後は真珠湾に戻りました。

1971年10月18日、LSTは第7艦隊に合流するため
日本の横須賀に到着します。

第7艦隊での活動中、南ベトナム軍によるクアンチ省奪還作戦に参加、
1972年6月29日、攻勢中に敵の陸上砲台の砲火を受け、
実戦で応戦した同クラス初の艦となりました。

その後は西海岸から演習に参加、
日本、台湾、沖縄、フィリピンの港湾間での輸送任務を行います。


1990年、湾岸戦争が起こると中東に派遣され、これによって

「スケネクタディ」は「ニューポート」級10隻の中で、
同戦争で派遣された唯一の艦となりました。

その後1993年12月15日に退役し、海軍不活動艦艇整備施設に
予備艦として保管されました。

1994年ごろ、スケネクタディ市は彼女を展示艦として獲得し、
移送しようと試みたことがあったようですが、どういう理由かこれは失敗し、
「スケネクタディ」の標的艦の運命はこのときに決まりました。

同艦は2001年7月13日に海軍艦艇登録から抹消され、
2004年11月23日、リザルタント・フューリー作戦で標的として撃沈され、
艦船航行中、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した初の事例として歴史に名を残しました。



「スケネクタディ」の内部のものは丁寧に取り除かれ、
歴史資料として保存されることになったそうですが、
もしかしたらこの星条旗もその一つなんでしょうか。


続く。




メスデッキ(兵員用食堂)〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-16 | 軍艦

エリー湖沿いに位置するバッファロー・ネイバルパークの展示、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。



やはり巡洋艦なのでメスデッキは大変広いです。

一日3回、このスペースでは1,200人の下士官兵が食事をとりました。
時差を持たせても、同時に700〜900人がテーブルに着けたそうです。

乗組員に与えられた食事時間は30分。
食事が済んだらすぐさま職務に戻ることが決まっていました。

アメリカ海軍も、他の軍隊に比べれば食事が美味しいのが相場だそうですが、
だからといって食後ゆっくりコーヒーを、なんてのはナシです。

ただ、ここに来ればコーヒーもスナックもいつでも潤沢に用意されており、
好きな時にさっと取って楽しむことができました。

ここは映画館も兼ねており、毎晩のようにエンターテイメントがあり、
乗組員は自分の時間に応じてそれらに参加しました。



ちなみに1972年ごろの同じメスデッキの様子。
左奥に見えるかべが、上の写真の左壁だそうです。
内装は随分変わっていますが、柱は全く変わっていません。

チェック柄のテーブルクロスが可愛いですね。


1974年のメスデッキ。

テーブルクロスは白に変わったようです。
この写真の真ん中に低い仕切りがありますが、1972年のにはありません。
この間の改装によって設置たもので、それは現在もそのままです。

ほとんど上の写真と同じ位置から撮られているように思います。

ここで食事をするのはエンリステッド(徴募・徴兵)
を意味するE1からE5まで、つまり、

E1「シーマン リクルート」水兵
E2「シーマン アプレンティス」一等水兵
E3「シーマン」上等水兵
E4「ペティオフィサー サードクラス」三等軍曹
E5「ペティオフィサー セカンドクラス」二等軍曹

のみなさんです。



紙ナプキンのケースがちゃんと中身付きで置いてありますが、これは
現在でもこの場所がキャンプなどで食事に使われているからです。


メスデッキの隣には、ペティ・オフィサー・ファーストクラス
(上級下士官)
専用のメスがあります。

クルー用と違うのは、椅子の材質と、テーブルにボードゲームがあること、
それからちょっとスペースに余裕があることかな。

ここに入ることができるのは、E6の

E6 ペティオフィサー ファーストクラス

これは「シェブロンが赤い階級」の中の最先任です。


で、ここから上の人(黄色いシェブロン)たちは奥に各々の部屋があります。
海軍の階級差は厳密です。



この艦内図でいうとV1のところです。
クルーズメスは10と記された場所です。


残されていたクルー用のトレイ。
この窓から見える向こうは下士官厨房です。


入ろうと思ったら、立ち入り禁止になっていました。


というわけで、これは博物館公式のビデオからキャプチャした内部の写真です。

E-6以下の下士官兵の調理を行うのは、当時は

メス・マネージメントスペシャリスト、
食堂管理スペシャリスト

と呼ばれる乗組員でした。
この名称は現在では

キュリナリー(調理)スペシャリスト

となっています。

食事は全てこの場所で調理され、すぐさま提供され、
また、パンやペストリーも定期的にここで一から作っていました。

「調理スペシャリスト」という名前になってからはどうか知りませんが、
当時、調理は専門の乗組員が行うのではなく、
ほとんどの下級下士官乗組員(E-1からE-3)が、少なくとも90日間の
 "TAD"(Temporary Assignment of Duty)期間、"Mess Cooks "として
ギャレー/スカラリーに勤務することが義務付けられていました。

つまり皆が順番に請け負っていたのです。

調理場勤務の乗員は、次の食事の計画や準備、後片付け、皿洗いはもちろん、
掃除など雑務の大半をこなすことが求められていました。

これもまた艦隊生活への教化の一環という位置付けです。

ギャレーでの任務は地味で目立つ仕事ではありませんが、
軍隊で最も重要な仕事の一つであることも確かです。

艦艇の乗組員が清潔な食器を使い、十分な食事を取れるようにすること。
さらにその食事がおいしいことは士気を高めるためにも必須ですからね。

その仕事の重要性は強調してもしすぎることはありません。



下士官兵はトレイを手前のラックに乗せて左から右に滑らせていき、
食べたいものをトレイに掬って乗せてもらいます。
自分ですると時間がかかるし、取りすぎたりこぼす人がいるので。

フードサーバーに氷が溜まっていますが、おそらくこの日、
すでにここで食事が行われたのだと思われます。

おそらく大人数のキャンプがここで朝ごはんを取り、その際、
サラダ、果物、ヨーグルト、ジュースなどがセットされていたのでしょう。

飲み物はコークよりペプシ派らしく、ペプシと書かれたラックが見えます。


この鍋つかみ、対象になるものがないのでわかりにくいんですが、
子どもの頭ならすっぽり入りそうなくらい巨大です。
親指のところに小さな手なら全部収まってしまいそう。
こんなものをどうやって使っていたのか・・・・。


ギャレーの隅には年季の入っていそうな星条旗が立ってしました。
絶対これは何か歴史的に意味のある旗に違いない。


その横のプラークですが、直接は「リトルロック」とは関係ありません。

The U. S. Navy Space Surveillance System
アメリカ海軍宇宙監視システム 

を意味するものです。

文字通り宇宙を監視するシステムで、そのステーションは
米国南部を横断する大圏経路上に7つ存在します。

決して最近できたものではなく、1961年中央の560kw送信機が稼動し、
4つの受信サイトすべてにナローバンド受信装置が設置されました。

システムは1日に約700回の観測を行い、
100個以上の軌道天体の軌道要素を作成しています。

2つの連続したパス、軌道の2つの側からのパス、そして最後に
数日間の観測を使った差分補正コンピュータプログラムによって精緻化され、
世界中のどの場所でも使用可能な軌道要素というシステム出力が得られ、
その精度は、現在、
安定した衛星の通過を1週間先まで1秒以内に予測できる
ほどにまで高められているということです。

こういうのを海軍がやってしまうあたりがアメリカですね。

ちなみに、つい最近聞いた話ですが、アメリカ全軍は、
今戦闘部門の規模がどんどん縮小されていく傾向にあり、
拡大しているのは宇宙軍だけだということです。



続く。




チーフズ・メス〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-13 | 軍艦

バッファロー軍事海事公園に展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。


この区域には、もう一つ特筆すべき施設があります。

それが冒頭写真のミサイルウォーヘッドハンドリングルーム、
弾頭取扱室です。

ミサイルルームを探訪した時にも紹介しましたが、タロスミサイルは、
用途に応じて通常弾頭と核弾頭を使い分けていました。

この区画では、そのどちらもが準備されていました。

画面の床に見える大きな穴は、弾頭の移動路であり、
弾頭はここを通ってこの下のマガジンに収納され、
また、そこから取り出してくることになります。


左側にはロッカーや棚が並んでいますが、
今となっては何があったのかわかりません。


「コミニュケーション・プラン」を記すCPO専用ボード。

CIC「使用中」「常時」「ラインメンバー」「AMPS」とありますが、
ちゃんと書かれているのはこれだけです。

一番左のRHSやCHなどの略語ですが、CHはおそらくチーフ、
つまり自分たちの持ち場を書き入れていたのかもしれません。

あと、SPAはおそらくスペシャリストの略で、
SPSは同じスペシャリストの中のスーパーバイザー(監督)です。



それより、ボードには後からここを訪れて、落書きを許された?
元乗組員のサインが目につきます。

B・キャメロン RDSN 1959−1962

J・ティラ 1959-1963 RDSN

RDSNとはRADAMAN SEAMAN、つまりレーダー通信兵です。

ヘイズ OSS 66-69

OSSはオペレーションズスペシャリスト シーマン

いずれにしても、展示艦になってからヴェテランが書いたものでしょう。


24時間時計と照準器が壁に備え付けられています。
これ見てあー今フネ傾いてるなー、って理解しろってか。
そんなこと体感でわかるような気がするんだけど。


赤い色・・ということはきっと消火設備。


Aqueous Film Forming Foam 水性発泡体
(AFFF)


AFFFは「AトリプルF」と発音します。
水と混合して可燃性液体火災に散布される消火剤であり、
油やガソリンに浮く泡の能力からライトウォーターとも呼ばれています。

写真左側の棚のブルーのボトルには「ライトウォーター」の文字が見えます。

同じ消火剤として、プロテインフォームというのもがあります。
材料は天然タンパク質・・・実は動物の血液がベースです。
こちらは合成フォームと違い、生分解性という性質を持ちます。

環境にやさしい・・・?

AFFFは、このプロテインフォームに取って代わるもので、
血液をベースとしたプロテインフォームとは異なり、
泡に空いた穴がひとりでに塞がり、再燃焼を防ぐ自己修復作用があります。

基本的に水ベースであり、アルキル硫酸ナトリウムなど、
炭化水素ベースの界面活性剤や、フッ素系界面活性剤が含まれていて、
残念ながら火を消した後は有毒な地下水汚染物質となります。

しかし不発弾やその他の物質を冷却し、爆発や燃焼を防ぐのにも効果的で、
軍艦内の戦略的な場所に数多く設置されています。


AFFF周辺の畳まれたホース。


エリア08というこの区域にCPOのギャレー(キッチン)があります。
下士官つまりE-7からE-9ランクのための調理室です。



繰り返しになりますが、このレートは

E-7 1等軍曹
E-8 曹長
E-9 上級曹長
E-9 最上級曹長


を意味します。
ちなみに彼らのお給料ですが、2024年現在のE-7ランクで、

$43,498.80 〜$78,188.40 (勤続26年)
=6.776.460.56円〜12.180.579.89円

これは基本給で、これに訓練手当て(ドリルペイ)、
危険手当て(ハザードペイ)、住宅手当などがつきます。

今は円安なので、ものすごい高給に見えますね。
危険手当ては月240ドル、訓練手当ては120ドル〜217ドルです。



ところでCPO専用のギャレーについて言及すると、国の彼我を問わず、
海軍というところは食事が美味しいと相場が決まっているので、
当然ここでもアメリカ規格でたいへん美味しいものが提供されてたはずです。

そして、曹長専用食堂のことをチーフズ・メスといい、そこで働いているか、
特別な許可がない限り、チーフ以外の立ち入りは禁止されていました。


クルーズ・メス(兵員用食堂)の手前には、
「リトルロック」の姉妹艦コーナーがあります。



ここにある説明ですが以下の通り。

1950年代、「ガルベストン」級と「プロビデンス」級は、
「クリーブランド」級の改造を低コストで行うことを目的としていた。

これらの艦は、構造的には互いに似ており、
唯一の
違いは搭載する誘導ミサイルの種類であった。

「リトルロック」は世界で最後の「クリーブランド」級巡洋艦であるため、
この区画は、他の改造「クリーブランド」級巡洋艦に捧げられている。


「ガルベストン」級巡洋艦
タロスミサイルシステム搭載

USS「ガルベストン」
CL-93、1946年/CLG-3、1958-1973年

USS「リトルロック」
CL-92、1945~1949年/CLG-4、1960~1976年

USS「オクラホマシティ」
CL-91、1944~1947年/CLG-5、1960~1979年


「オクラホマシティ」の時鐘、写真、盾など。

「プロヴィデンス」級巡洋艦
テリア ミサイルシステム搭載


USS「プロビデンス」
CL-82、1945年-1949年 / CLG-6、1959年-1975年

USS「スプリングフィールド」
CL-66、1944~1950年/CLG-7、1960~1975年

USS「トピカ」
CL-67、1944~1949年/CLG-8、1960~1973年


ここにはいわゆる「改造クリーブランド級」グッズがあるそうですが、
見たところほとんどが「オクラホマシティ」のもののようです。

野球のユニフォームですが、どこの艦でしょうね?



右下の「ライフ」表紙は、艦砲射撃を行っている「オクラホマシティ」です。

「オクラホマシティ」は、太平洋艦隊において、
初めてタロスミサイルの実戦発射に成功した艦となり、
横須賀を母港とする第7艦隊旗艦としてベトナム戦争に参加

この写真は、1965年6月、ベトナム戦争における南シナ海で、
艦砲射撃真っ最中の「オクラホマシティ」の勇姿を捉えたものです。


続く。





「下士官の誓い」と「リトルロック」最後の日〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-10 | 軍艦

ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内に入り、
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)を艦尾から見学しています。



今日はチーフ・ペティ・オフィサーズ・クォーターズです。

Chief Petty Officerとは日本語だと上等兵曹でしょうか。
米海軍では、この階級の略称はCOとなります。
チーフ・ペティ・オフィサーについては、

「時間と訓練を経てE-7以上の階級になった下士官」

とこのコーナーには書かれています。

Eというのは下士官の階級のことですが、英語では「レート」と言います。

「レート」とは、入隊した水兵が指揮系統のどの位置にあるか、
どれくらい給料をもらっているか一目で指し示す指標となります。

アメリカ海軍の階級は「ランク」と「レート」で表されます。

日本語ではこれが一律「階級」で括られますが、アメリカ海軍では
基本的に「ランク」という言葉が使われるのは士官だけで、
下士官兵には「レート」が適用されることになっています。

ご注意いただきたのは、アメリカ軍についてご存知の方なら
一度は耳にする言葉、「レイティング」との違いです。

「レート」”rate" は、海軍の下士官の職業専門分野を指す
「レイティング」”rating"とは全く別の意味を持ちます。

「レイティング」とは、整備士とか管制官とか、写真家とか料理とか、
暗号とか爆発物処理とか音楽とか、ともかく専門の技術のことをいいます。

↑バッジの意匠を見ているだけで楽しめます

話を元に戻して、Eランクは1から9まであり、
大きく3つに分けることができます。

E-1からE-3 兵卒・一等兵・上等兵
Seaman

E-4からE-6 伍長・三等軍曹・二等軍曹
Petty Officer

そしてこのクォーター(コーナー)には、Eクラスの最上級である

E-7からE-9 一等軍曹・曹長・上級曹長
CPO/ SCPO/ MCPO/CMCPO

がいたというわけです。

ちなみに、士官と下士官兵の間には、准尉、
ウォラント・オフィサー
がいます。

よく艦を一つの会社に喩えるなら、チーフというのは部長に当たる、
と言われますが、以前「曹長に聞け」という項で紹介した、
いわゆるCPOジョークを見る限り、この人たちの存在感はすごい。

自らを海軍のスーパーマン、神、と称しており、その自己肯定感、
万能感においても凄まじいものがあるということもわかります。

彼らは士官と下士官兵の間に立つ「仲介役」であり、
その階級における技術専門家であるので、文字通り「要」の立場です。


ここはCPOの寝台設備があるところで、これまで当ブログでも
「バーシング」Berthingとして説明してきましたが、
元々「BERTHING」バーシングという言葉は、
ラテン語で「運ぶ」という意味を持っており、それから派生して、
船や列車の2台、または港、港湾設備にある、
船舶を係留するために特別に使用される停泊所を指す言葉です。

つまり下士官の「停泊所」ということですが、
この用語が海軍だけで使われているのは当然のことです。

この周囲が「CPOの停泊所」であるわけですが、
グレーの扉の向こうには何があるのか「開かずの扉」となっています。

で、その「立ち入り禁止」の手書きの紙の下に見えているのが、
有名な「CPOの誓い」The Chief Petty Officer's Pledgeです。

ここではその半分しか見ることができませんが、
有名なものなので検索すれば全文が出てきます。

下士官の誓い

私は米国海軍の下士官です

私は、誇りと名誉をもって、祖国とその国民に奉仕します

私は特別な便宜を図りません

私は物事を成し遂げ、自分にできる最善を尽くします

私は、世界でも類を見ないリーダーシップを任されています

私は下士官を育て、水兵を育てます

私は全ての水兵の行動に全責任を負います
なぜなら、これら水兵は将来の下士官の”種”だからです

私は、名誉、勇気、献身という海軍の基本的価値観に従います

私が模範を示します

私が行動基準を定めるのです

水兵は生徒であり、私はその教師です

私は、若い男女の人生を導き、影響を与えます

最終的には、私が船員たちの資質を決めるのです

彼らが私を尊敬するのは私が彼らに威厳と敬意をもって接するからです

彼らがリーダーを必要としているからこそ私は彼らのために存在するのです

なぜなら、
After all...

私はアメリカ合衆国のチーフ・ペティ・オフィサーなのですから
I am a Chief Petty Officer in the United States Navy.

After all は「結局」と訳すより、こちらの方が適切かと思いました。



大きなパネルに展示された舫結びの数々。
寄贈したのは写真の元CWO(チーフ・ウォーラントオフィサー)、
マーヴィン・カレー元准尉です。

バッファロー・ネイバルパークの公式が、
この人の記念碑をインスタに挙げていました。

Marvin ”Joe"Curry、CWO

マーヴィン・"ジョー"・カリーは退役軍曹(CW2)であった。
海軍のハードハット(サルベージ)・ダイバーで、
朝鮮戦争とベトナム戦争に従軍し、兄のウィルバーは戦死した。
ジョーは1969年から1972年までUSS「リトルロック」の乗組員だった。

海軍を退役後、1977年から1995年まで、
ここバッファロー海軍軍事公園の初代監督官を務めた。

ジョーは
セネカ族のスナイプ・クランの一員で、
カッタラウガス準州で生まれた。
彼はイロコイポスト#1587のメンバーで、いくつかの役職を歴任した。

セネカ・ネーションは、ジョーと他の先住民の退役軍人を称えるために、
毎年ニューヨーク州サラマンカで
マーヴィン"ジョー"カリー・ヴェテランズ・パウワウ大会を開催している。

後半はいかにもアメリカですね。
カリー准尉は、イロコイの一族であるセネカの出身だったようです。

後半に出てくる「パウワウ大会」は何かというと、
ネイティブインディアンの踊りによる集会、祭りを指します。

パウワウ

コミュニティでカリー准尉の名がよく知られているわけは、
ネイティブアメリカン出身の海軍軍人として、
インディアン出身の退役軍人にカウンセリングを行ったり、
セネカ族の伝統、習慣、文化を伝える役割を果たしたからでした。



「リトルロック」クラスの艦内には5〜60人のペティ・オフィサーがいて、
ここは彼らの生活空間でした。

このテーブルで彼らは食事をし、コーヒーを飲んだり、
時にはボードゲームに興じたりしたのでしょう。



テーブルの上方に立てかけてあるこの部分は、テーブルと同じ素材で、
なんか無理やりマークを彫ったのでえらいことになっています。

このマーク、最初はわからなかったのですが、たまたまこの項前半で
「レイティング」のページを見ていて見つけました。


オペレーション(作戦)スペシャリスト(OS)のマークです。

米海軍の戦闘艦に所属する作オペレーション・スペシャリストは、
戦闘情報センター(CIC)や戦闘指揮センター(CDC)、
別名「コンバット」と呼ばれる艦の戦術中枢にいる人です。

OSは、多種多様な装置や装備を駆使し、戦術的戦闘情報を組織的に収集、
処理、表示、評価し、指揮管制ステーションに迅速に伝達します。

CICの物理的空間を維持し、操作する機器の保守管理を行うため、
この等級には、身元調査を経た上でアクセスするステータスが付与されます。



ヘルメットは本物ではなく、おそらく幼児用?のレプリカ。


テーブルには落書きが残されています。


下はちょっと読めませんが、上には、

「AIDは無くなった 1976年11月22日」

と書いてあります。

AIDかどうかは、ピントがボケていて正直よくわからないのですが、
Sも付いていないので後天性免疫不全症候群のことではなく、
(そりゃそうだ)普通に「援助」の意味だと思います。

1976年11月22日。
この日、「リトルロック」は海軍を退役して除籍処分となりました。

うーん・・・もしかしたらAIDって、何か海軍の専門用語?
もしお分かりの方がおられたら教えてください。

にしても、最後の日、艦内に落書きをしたくなる気持ちはよくわかります。


続く。



ローン・セイラー(孤独な水兵)の像〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-07 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園展示の巡洋艦「リトルロック」。
上甲板のファンテイル部分から階段を一階降りて、艦内郵便局を見ました。

見学路をそのまま艦首側に向かって進んでいきます。


第二次世界大戦時の道具を展示しているという説明がありました。
展示のオープン時間を書く欄がありますが、使われた形跡はありません。


「ディスプレー」というのは、これらのことだと思われます。

水兵の制服、真鍮のランプ、そして軽巡時代、
ミサイル巡洋艦になってからの「リトルロック」の様々な写真。



右は、「リトルロック」が就役した時のパンフレットです。

第二次世界大戦終了直前に最初の就役をした「リトルロック」は、1957年、
ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船公社のヤードに到着し、
1957年1月30日に誘導ミサイル軽巡洋艦への改装を開始しています。

CL-92からCLG-4への分類と船体番号の変更は1957年5月23日に発効されました。

ニューヨークシップビルディング公社における改装中の「リトルロック」
1959年12月10日撮影

改造後のUSS「リトルロック」(CLG-4)の全備重量は15,142トン、
艦隊旗艦として構成されました。

艦砲は従前通りオリジナルのディレクタ・システムによって制御されましたが
ミサイルシステムには新しい武器制御装置とレーダーが組み込まれました。

こうしてタロスミサイル巡洋艦となったUSS「リトルロック」(CLG-4)は、
1960年5月6日にフィラデルフィア海軍造船所に引き渡され、
1960年6月3日に就役したのです。


左側のパンフレットは海軍艦船に乗るともらえる記念でしょう。

上の写真はマッチケースのカバーにプリントされたエンブレムですが、
「リトルロック」のインシニア、文字通りの「タロス」
(ギリシア神話に出てくる意思を持たない青銅の巨人)が、
タロスミサイルを投擲しようと構える瞬間を捉えたデザインは秀逸です。


こちらは「リトルロック」が1972年ごろ使っていたパッチです。
なぜこの時期だけこれが使われたのかは不明です。

このエンブレムに書かれたロゴは、

 PRIDE IN ACHIEVEMENT
(達成する誇り)


この文言も簡潔かつ明確で大変よろしいですね。


古い入隊募集ポスターですが、タロスミサイルがあしらわれているので
おそらくミサイル搭載艦がデビューした頃のものだと思われます。


就役中、「リトルロック」が採用していたプラークは三つありました。

左から、初代の改装前軽巡時代のもの、
タロスの描かれた1965年までのもの、
そしてワシのデザインの1965-1976までのものです。

なぜ1965年にマークが変わったかは謎、と先ほど書きましたが、
あえて想像してみると、この時期、「リトルロック」が
NATO軍部隊に参加することになったことと何か関係あるかもしれません。

これも想像ですが、タロスミサイルの搭載を強調するマークより、
アメリカ海軍の一員であることを強調するデザインの方が
国際部隊の中では受け入れられやすかったからと考えられます。


三つのプラークと共に展示されている水兵の像ですが、
アメリカで軍事博物館を回ると、もうお馴染みというくらいよく見ます。

これは有名な、

「孤独な水兵」LOAN SAILOR

というブロンズ像のレプリカです。

ローン・セイラー


アメリカでは「孤独な水兵」というと、有名なこの像を指します。

彫刻家スタンリー・ブライフェルド作のこの水兵像は、
ワシントンD.C.の海軍記念碑として建造されたものなのですが、
この水兵像がもう今は現役でない海軍艦を使って作られていると聞くと、
なかなか感慨深いものがあります。

そして、その海軍艦は一つではなく、

USS「コンスティテューション」CONSTITUTION
USS「 コンステレーション」Constellation CV-64/CVA-64
USS「メイン」Maine ACR-1
USS「 ビロクシ」Biloxi CL-80
USS「ハンコック」Hancock CV/CVA-19
USS「シーウルフ」Seawolf SSN-21
USS 「レンジャー」Ranger CV-4
「ハートフォード」Hartford steamer

帆船、航空母艦、巡洋艦、潜水艦、そして蒸気船などの艦船、
つまり海軍艦船の歴史を網羅しているということです。

そして、この「孤独な水兵」とは。

大体25歳くらい、早くもベテランになりつつある二等兵曹、
ほぼ等身大の「孤独な水兵」は、誰か特定のモデルがいるのではなく、
できるだけ「どこにもいそうな」人物の再現を目指しています。

全くプライベートな、軍の規律から解き放たれた一人の時間、
かたわらに水兵用のダッフルサックをおいて、
ピーコートの前をはだけ、ポケットに手を入れて立つ姿。

そこには、気負いも衒いもない、素のままの一人の平凡な男がいます。
まさにアメリカ海軍水兵の等身大の図と言ってもいいでしょう。

彼は英雄のように描かれているわけでもなく、かといって、
無論、人生を堕するような失意にあるわけでもなく、
これから故郷に帰るのか、それとも単なる休暇中なのか、
期間が明けて名誉除隊をしたのか、何も読み取ることはできませんが、
この像の前に立つアメリカ人は、おそらくそれぞれが、
この水兵のストーリーを、それこそ人の数だけのバリエーションで
さまざまに思い描くに違いありません。

あるものは父や叔父、親戚を、あるものは息子を、
そしてあるものは自分自身を重ね合わせて。


孤独な水兵像はアメリカ国内だけでなく、上陸作戦のあったノルマンディー、
そして当然のようにハワイのパールハーバーにも置かれています。

各地に立つ孤独な水兵像

孤独な水兵像を就役したばかりの新造艦に寄贈する活動は、
ネイビー・メモリアルがスポンサーを募って行われています。
(寄付金は17,750ドルより)
艦船据付用は高さ30センチほどの小型のものとなります。

現在この像が設置されている海軍艦船は、
ミサイル駆逐艦「トーマス・ハドナー」「ズムウォルト」、
空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」などの現役艦のみならず、
この海事公園に展示されている「ザ・サリバンズ」など記念艦もあります。

■ 🇺🇸49星条旗


孤独な水兵像の後ろに掛かっているのは、U.S.S.「リトルロック」が
1960年6月3日に誘導ミサイル軽巡洋艦CLG-4として再就役する前、
1959〜1960年に航行中に掲揚されていた49スター・エンサインです。

国旗の星の数はアメリカの情勢により変わってきましたが、
この49星条旗にはこんな話があります。

1912年からしばらく星条旗は48個の星でした。
そして、1959年1月にアラスカ州が増えたときに49星となりました。
しかし、同じ年の8月にハワイ州が加わったため50州となりました。

これはどういうことかというと、49スター星条旗は、
アメリカ史上たった7ヶ月だけのアメリカ合衆国国旗だったのです。


隙間に取り留めもなく展示品が並んでいるコーナー。



左右に「ケルビンのボール」を持った形のビナクル
日本語だと磁気コンパス、アメリカではナビゲーターズボールがありました。

ところで、以前調べた時には存在していなかった
「ビナクル」のウィキがいつのまにかできていたことがわかりました。

ビナクル

ありがてえありがてえ。

先日ジミー・ウェールズさんからまたしてもメールが来てたけど、
今度はビナクルに免じてちょっとだけ寄付しておこうかな。(独り言です)

ピナクルにはテプラのようなシールに、

DO NOT CHIP OR SCRAP
↑テプラを再現

と注意書きが書かれています。
削ったり欠けさせたりしないでくださいという意味だと思いますが、
これが現役時代からあったのかどうかはわかりません。


タロスミサイルを模ったものですが、
品質から見て誰かが艦内のワークショップで作ったのではないでしょうか。

おそらくこれから見学コースで見ることになると思いますが、
ご存知のように、大きな軍艦には、艦のために必要なものならなんでも、
大きかろうが小さかろうがその場で作ってしまう工場があります。

■タロスミサイル艦はなぜ巡洋艦だったのか

ところで、いまさらなのですが、どうして「リトルロック」など、
巡洋艦にタロスミサイルが搭載されたのだと思います?

ミサイルを搭載する艦船の条件は非常に限られていました。
とにかく、艦体が大きくなくてはいけなかったのです。

その理由は、タロスミサイルそのものが小型飛行機くらいの大きさであり、
これまでミサイルハウスを見てきた我々にはもう明らかなように、
ランチャーや46発の弾倉等、システムに膨大なスペースが必要となります。

したがって巡洋艦クラスがこれに最適とされたというわけです。


続く。

MKの友人接待ツァー〜再び京都、そしてSONY

2024-11-04 | お出かけ

1ヶ月の滞在を終え、MKがアメリカに帰っていきました。
同時に日本に帰国して以来、ツァーとおもてなしが続き、
我が家の歴史上こんな怒涛の1ヶ月はなかったというくらいだっただけに、
彼が帰った後の日常に寂しさとともに安堵を感じるほどです。


日本で行きつけの美容院の担当さんに最後にツーブロックにしてもらい、
1ヶ月の間に増えた荷物、友だちや彼女(未満?)へのお土産を
これも新しく買ったコロンビアのダッフルに詰めて帰っていきました。

■ 再び京都へ

さて、稚内旅行から帰った後、GBくんSAさんは東京に移動しました。

彼らがディズニーシーに行ったり(とにかく混んでいて大変だったらしい)
日本でしか買えないCDを大量に買うためにタワレコに行ったり、
(GBの資料として必要なジャンルに詳しい店員さんがいるらしい)
SAさんの仕事用お洋服探などで忙しい日を過ごしている間、わたしたちは
MKの別のアメリカの友人をおもてなしするため京都に向かっていました。

今回、MKが帰国するのに合わせて、アメリカから来日していたSさんは
(偶然だけどGBのガールフレンドと同じ名前)MKと偶然同じ大学、
同じ大学院に進んだ理系女子で、地域は違いますが、やはり
地元企業でエンジニアとして働くことになっています。

彼女は母親が昔日本に留学?していたという関係で、
家族で何度も観光に来ているほどの日本リピーターなのですが、
今回は、なんと福岡から始まって日本各地を西から制覇していく旅をしており、
京都までやってきたところにMKが彼女と合流したいと言い出したのです。

二人は仲が良く、一緒に一泊のキャンプに行くなどしていましたが、
別にお付き合いしているわけではなく、彼女にはボーイフレンドもいるので、
いくら日本に来たからといって、息子のガールフレンドというわけでもないのに
正直もう一度京都に車で行ってまで接待するのには躊躇いもありましたが、
MKがあまりにも切実にお願いしてくるので、絆された形です。

■ 京都ブライトンホテル



関西にいた頃、ブライトンホテルには何度か行ったことがありましたが、
今回、おそらくコロナ期間に大改装を施したらしい館内、
特に客室には今時のニーズを満たす工夫が凝らされていて感心しました。


こちらは三人で泊まった1日目の部屋です。

まず、従来のホテルのようなデスク=ドレッサーではなく、
PCの仕事もできるような机がテーブルとして配置されていること。
そして、デバイスのためのアウトレットが十分にありました。


TOが仕事で帰ってしまったあと、泊まった二日目の部屋は、
扉を開けたらそこにデスクがあって驚かされました。


同じ部屋にはミニバー、冷蔵庫、靴置き場とテレビ。


ここから廊下が寝室まで続いているのですが、



なんと、この通路が洗面所であり、お風呂の脱衣所でもあるという・・。

入り口のデスクの部屋とこの廊下の間には仕切りもドアもありません。
しかも部屋の入り口からまっすぐ廊下が見渡せますので、万が一、
お風呂から出て体を拭いているときにドアが開いたら外から丸見えです。

こういうのを見ると、従来のホテルの客室の作りというのは
それなりに合理的な理由があってこそなんだなと思うわけですが、
コロナ禍を経てホテルの部屋でもリモートワークもできるように、
デスクの設置を最優先にした結果がこれなんだと思います。


寝室には、ベッドとテレビしかないミニマルアレンジ。


しかし、作り付けの戸棚にたくさん引き出しがあります。



テレビの下の説明書だけが入っている引き出しとか。



長期滞在の際にはこういう引き出しがあると便利でしょう。
ちなみに、今回も宿泊にはふるさと納税を利用しました。

■MKの親友接待の夜


接待第一夜め。

彼女に何が食べたいか聞いたところ、うなぎという返事だったので、
祇園の鰻屋さんをTOが予約しました。



まず、前菜にあたる5点盛り。
実はこのお皿の主役は鰻の骨せんべいだったりします。

「夜のお菓子うなぎパイ」が好きな方なら文句なしに気にいるでしょう。



お造りの後に出てきたのは鰻の白焼き。

鰻屋さんは本当に久しぶりで、最後の記憶は、アメリカに行く直前、
観世橋近くにあった「菊川」の二階で食べた鰻重というくらいです。

その時、菊川の二階の隣の卓(畳の部屋だった)に座っていた、
推定年齢七十代後半くらいの紳士が、まだ1歳だったMKに、

「元気で大きくなるんだぞ」

と微笑みながら声をかけてくれたのが忘れられません。

あれから24年経ち、おそらく紳士も幽明を異にされているでしょうけれど、
今でもあの時の声音は、鰻を食べるたびに蘇ってきます。



このコースはその名も「鰻土鍋ごはん膳」。
板前さんが皆の前で土鍋の蓋を取るのがメインイベント。



土鍋で炊いたご飯と鰻、どちらもふわふわでした。
コースなので、メインに辿り着いた時にはそろそろお腹がいっぱいで、
ご飯をできるだけ少なくしなければならないのが残念でしたが。

板前さんによると、最近外国人観光客が急増していて、
この日も子供二人含む十人の団体が今からいいかと電話してきたので、
内心「無理に決まっているやろ」と思いつつ丁寧にお断りしたとか。

それを表すように、わたしたちが食べ終わって外に出ようとしたら、
褐色の肌をした二人の女性客が、予約なしで入れるか交渉していました。

すれ違うとき彼女らに「Enjoy!」(楽しんで)と声を掛けると、
嬉しそうにありがとう、と微笑みました。



それにしても、彼女ら勇気あるなあ。

こんな「ザ・京都」みたいな間口の狭い入り口の奥に入っていって、
飛び込みで今から行けるか聞くなんてわたしなら絶対に無理。



鰻屋さんの前でツーショット写真。
小路の奥に先ほどの外国人女性客の姿が見えています。


京都でTOとMKがよく行くバーでアフターを楽しみました。
彼らの飲み物にはお酒が入ってるかもしれません。

彼らが仲良しなのは知っていましたが、初めて二人で話しているのを聴き、
その親密さから、逆に二人が付き合っていないことを確信しました。

ソウルメイトとでもいうのか、男女の枠を超えた親友なのかもしれません。



バーなのに、マスター手作りのケーキが出てくるお店です。



そのお店に、次に行くバーの予約を入れてもらいました。
ここも町屋を改装した京都ならではのバーです。

カウンターだけでなく、店の客の多くが外国人観光客でした。
皆京都らしさとそこで味わう美味しいお酒を心から堪能していたと思います。



隣はそのまま床間のある客室。
バーの個室?として卓を囲んでお酒を楽しみます。


わたしはどこにいっても生フルーツを絞ったジュース。



次の朝は、コーヒー激戦地とも言われる京都における、
ロースタリーのコーヒーを検索して行ってみました。
御所の隣の区画を入って行った角にあります。
築100年越えだそうですが、京都ではそれくらいはザラです。


やはり町屋の土間を客用スペースにしたお店で、
不思議なことに、シングルオリジンの豆を2種類選ぶシステム。


選んだコーヒーの名前が書かれた細いスリップが一緒に出てきます。
色からもお分かりだと思いますが、とにかく浅煎りで、軽い。

確かに飲みやすいといえば飲みやすいし、香りも良かったんだけれど、
MKは「薄すぎて好みではなかった」ときっぱり言い切りました。

京都では次の日にも違うところにコーヒーを飲みに行きましたが、
そちらは美味しいと言い切りました。

この人は何につけ好みがはっきりしており、中間がありません。
よって決断も早いので、買い物で迷うこともありません。


郷に入れば郷に従え。
京都に来たからにはと、この日も和菓子の茶寮に行くことになりました。

もちろんこちらのお家も築100年越えどす。
但し、こちらのお店ができたのは1947年で現在店主は2代目と、
京都の和菓子店にしては比較的新しめです。


数寄屋造りの一軒家が喫茶と物販店になっています。



塀には「苔を踏まないでください」と英語で書いてありました。
中国語でも書いておくべきだと思う。


お座敷で枯山水の庭を見ながらお茶とお菓子をいただきます。



ここに何を食べにきたかというと、わらび餅です。
作り立てをお店で食べることができますが、持ち帰りできません。



ついでというわけではないですが、せっかく京都に来たので、
父のお墓にお参りに行ってきました。

以前は参拝客しかいなかった父の菩提寺には、今回観光客がうじゃうじゃいて、
このときも、中国人の若い女が山門の石段で(この写真にも写っている)
馬鹿馬鹿しいポーズをとって連れの男にいつまでも撮影をさせていました。

彼らへの嫌悪感を表情に出さずにいられた自信は全くありません。



その日の夜は焼き鳥専門店に行きました。
このお店も祇園の、外国人ツァー客がウロウロする一角にあります。


最初に今日出してくれる焼き鳥を全部見せてくれます。


セーブしながら食べたのですが、この身の大きなこと。
あえなく途中でお腹いっぱいに・・・。



最後にフルサイズの親子丼が出てくるって、それなんて拷問?
ご飯極限まで少なめでオーダーしても食べられませんでした。


Sさんの新幹線の時間が決まっていたので送って行き、
前回の京都旅行でGBくんたちと行ったというバーに行きました。

蝶ネクタキシードの絵になるバーテンダーのいるオーセンティックなバーです。


TOが仕事でひと足さきに帰ったので、帰りの車はMKと二人です。

Sさんとはその後、銀座のいつもの小料理屋で一夕食をご馳走したり、
MKは二人で鎌倉で丸一日フルに遊び倒して大いに楽しんでいました。

■ SONYショールーム見学

GBくんたちのために企画した恩返しツァーのラストは、
日本の誇る世界のSONY本社ショールームの見学でした。



最後に何が食べたいかリクエストを聞いたところ、
アメリカ人二人の驚愕の答えは「お好み焼き」でした。

というわけで、SONY見学の前に、品川駅にある大阪風お好みの店へ。



このときわたしは用事があったため、参加していません。
ゲスト二人はお好み焼きに大変満足だったようですが、TOたちが、後から

「そういえば、マヨネーズと青のりなかったね」

「なかった」

「何か足りないと思ってたけどそれかー」


などと、聞き捨てならないことを言い合っていました。

なぜお好み焼きにマヨネーズがないのを疑問に思わない?!
それに気づかないなんて、関西出身者の風上にも置けん。

というか、
大阪のお好み焼きを謳っていながら、マヨネーズも青のりも出さないとは、
お店も一体どういうつもりなのか?とつい気色ばんでしまいました。


それはどうでもよろしい。よろしくないけど。

お好み焼きを食べた彼らとわたしはSONY本社のロビーで待ち合わせしました。

このツァーは誰でも参加できるというものではなく、ビジネスパートナー、
法人ユーザー対象の「SONY SQUARE」というショールーム見学です。


本社エントランスロビーには「VISION-S」があり、
もちろん、アイボくんもいました。
ここは写真自由ですが、ショールーム内は撮影禁止となっています。

今回見学したSONYスクエアですがSONYの事業全般を紹介するもので、
アテンダント(今回は英語を喋る人)と一緒に広いゾーンを1時間でめぐり、
映画で使用された実際の衣装やカメラを見たり、スタジオを体験したり、
(気がついたらアイボくんが近くをウロウロしていたり)
CGの合成映像に自らが映り込んだり、ゲームをしたりします。

最初にGBくんと京都で食事をしながら興味があるか聞いたところ、
二つ返事で行きたいといったので、TOが申し込みをしてくれて、
その結果、幸運にも見学をさせてもらうことができたわけですが、
恩返しツァーの一環としてこれを実現させてあげられて本当に良かったです。

■ 皆去りし後

SONYの後、GBくんたちを成田まで送り、その後Sさんも帰国しました。
必要な買い物(インターンシップ先へのお土産に東京ばな奈を買いに行くとか)
MKが行っておきたいところには、わたしも積極的に付き合ってやりました。


この日は蔵前のロースタリーLeavesコーヒーに行ってみました。



客は皆、窓際に一列になった椅子に座って、カウンターの中で
バリスタがコーヒーを淹れているのを凝視しています。

ここにいるのは、スターバックスでフラペチーノを頼んでいるのとは
全くコーヒーに対する要求の異なるガチ勢であることは確かです。



ここでいうコーヒーはイコールプアオーバーのことです。
カップ一杯が2500とか3000円のものもあります。



いわゆるコンテストに使うレベルの豆も飲むことができます。

飲みながら気がついたのですが、この時いた外国人(たぶん台湾人)は、
バリスタのコンテストなどに出る選手?を含む関係者で、
日本人もその世界の人たち(つまりプロ)のようでした。


こちらは別の日に行った鎌倉のVerve。

ここはコーヒー店としてはリーブスほどガチではありませんが、
ロースターがあって、ここから各地に豆を送っているようです。

このとき、カウンターの中でスタッフが勉強会でもしているのか、
いろんなコーヒーをテイスティングしていました。


明日帰国という夜、MKと横浜のレンガ倉庫のビルズでご飯を食べました。



シュニッツェルは少し味が濃くて辛めでしたが、美味しかったです。
夜ということで、シグネチャーのリコッタチーズパンケーキは断念しました。


そして、彼も帰国して、新しいアパートでの生活を始めました。
もう少ししたら、新しい職場での仕事も始まります。

こうして怒涛のおもてなし月間が終わった今、一抹の寂しさを感じながらも、
この1ヶ月にあった様々なことを思い出しては楽しんでいるわたしです。


ツァーシリーズ終わり





MKの恩人に恩返しツァー〜稚内編「鹿続きの旅の終わり」

2024-11-01 | お出かけ

MKの恩人とそのガールフレンドを含む家族で、
なぜか北海道の稚内に旅行に行ってきた話、続きです。



この朝、何気なくGoogleマップの位置情報を見て、当たり前のことながら、
自分のいる位置がまさに日本の天辺であることに感銘を覚え、
記念のスクショを撮っておきました。(太陽マークは住居地)


ところで、昨日アテンドしてくださった牧場の社長は、
連れにアメリカ人がいるということでこのようなパンフを用意してくれました。

従前は日本人でも夏以外は訪れないような最果ての地だったはずですが、
今や、こんな充実したパンフレットを三カ国語、しかも
中国語は簡体字と繁体字の2種類用意して、Webサイトもあるほど、
国際的な観光地として成り立っているということです。



「北防波堤ドームで撮った写真をSNSに上げよう」
(日本語は『インスタ映えする写真を撮る』)

■ ホテルの敷地にエゾジカ

ここに来てすぐ、車で走っているとその辺を鹿が走り回り、
車が彼らを轢かないように慎重に運転している様子を目撃しました。

前回の奈良に続き、やたらと鹿に縁がある今回のツァーです。


朝、車に用事があってホテルを出ると、エントランス横の敷地内に
鹿の群れが朝ご飯に来ていたので驚きました。

こちらにいるのは文字通り北海道に生息するエゾシカで、
ホンシュウジカと呼ばれる奈良の鹿とは形態も差異があるそうです。

他のニホンジカより大きめで、オスのツノは種の中でも最大なのだとか。



ウィキのエゾシカの項目に掲載されていた稚内で撮られた写真。
いかに稚内にエゾシカが多いかがわかります。

もっとも、人間が開拓でやってくるまでは、ここはエゾシカの天国で、
原始の森に大群で生息していたわけですから、彼らの立場になれば、
人間は後からやってきてこちらを迫害する害獣ということになります。



しばらく鹿を眺めていたら、奥にキタキツネがいるのに気がつきました。
鹿のリーダーらしい雄も、キツネに気がついて注目しています。

キツネは肉食ですが、ネズミや鳥、昆虫、蛇などを食し、
大きくてもせいぜいリスしか狙わないので、シカにとっては無害ですが、
やはり仔鹿を含む群れのボスジカとしては警戒しているようです。

このとき、ボスが睨んでいるのにキツネも気がつき、見つめあっています。


その時、ボスジカがこちらを振り返りました。

この写真にもわかるように、お尻が白いのがエゾシカの特徴です。
これはオスメス、季節関係なく、みな同じです。

彼らはこれから多雪寒冷の季節を迎えるため、食べられるだけ食べて、
せっせと体重と脂肪組織を増やしている最中です。

キツネはその間、なぜか場所を移動し始めました。



何をするかと思ったら、欠伸しながら後足を思いっきり伸ばしてストレッチ。
ボスは何してんのあいつ、みたいに凝視しています。

キツネの伸びを生まれて初めて目撃しました。
猫みたいに背中は丸めず、足だけを伸ばすようです。


伸びをしながらボスジカとわたしを交互に見ているキツネ。



そのとき、ボスジカが、警告の意味なのか一声鳴きました。

わたしは兼ねてから、百人一首の、

「もみじ踏みわけなく鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」

という句を見るたび、鹿ってなんて鳴くんだろうと思っていましたが、
今回の奈良・稚内旅行で、もう一生分くらい鹿の声を聴いた気がします。

エゾシカはこんな鳴き声を出す!@北海道西興部村 キューキューと、なかなかキュートです。

■ 稚内公園展望台と記念館

二日目は丸一日、わたしたちだけで観光することになりました。
とりあえずどこに行けばいいですか、と社長に聞いたところ、
稚内公園に行って、高いところから海を見下ろすのをお勧めされました。


稚内公園は、海に対して切り立った丘の上にそびえる、この展望台、
「開基百年記念塔」を持つ観光地の一つです。

ここに宗谷村が設置され役所が置かれてから100年後の1979年に、
それを記念して建設されたのがこの記念塔だということです。


ここが稚内湾を一望する、見晴台。


見晴台からは泊まっているホテルと防波ドームがよく見えます。
冬はマイナス10℃になり、この一帯は深く雪と氷で覆われてしまうため、
展望台も10月末から4月下旬(ゴールデンウィーク)まで閉館となります。


峯孝作「出」(バレリーナの像)の前で。



最初はこの昭和感濃い記念館が営業しているとは知らなかったのですが、
近づいたら開いていることがわかったので、入ってみました。



右手のエレベーターで展望台に上ります。


展望台高さは海抜240m。
今さっきまでいた見晴台がまるでミニチュアのよう。


展望台から肉眼ではこのような眺めが360度パノラマで広がります。
今右手に見えているのは、樺太?それとも宗谷岬?


展望台の影。


昆布で有名な利尻島の「利尻富士」。


食べ物も水もない、海抜240mの展望台に迷い込んでしまったハエ。
しかもここはもうすぐ半年間閉鎖になります(-人-)

■稚内歴史資料


展望台に上るには自動的に入り口で入館料を払うことになるので、
まあ時間もあることだし、と歴史博物館を見学しました。

これは、開拓団が入り、町として開けた宗谷に赴任した役人が、
極寒の地で生活するために鍛鉄で製作した西洋式ストーブで、
その名も「カッヘル」(オランダ語の『ストーブ』)。


北海道でアイヌは先住民族ですから、北海道の地名は
ほとんどがアイヌが使用していたものの漢字変換です。

例えば「宗谷」も、アイヌ語の「岸の途中に岩の多いところ」
を表す「ソ・ヤ」(二文字で済むのが謎)と呼ばれていたからです。

ついでに稚内は「ヤム・ワッカナイ」=「冷たい水の出る沢」。
北海道に「内」のつく地名が多いのは、アイヌ語の「ナイ」
=小さい川・沢がよく使われていたからです。

苫小牧は「ト・マク・オマ・ナイ(沼の奥にある川)」。
真駒内は「マク・オマ・ナイ(奥にある川)」。

また士別、江別などの「別」は「ペッ」=大きな川という意味です。

ここに展示されているのは宗谷にいたアイヌの所持品などで、
左上の人物は最後のアイヌ文化継承者、柏木ベン氏(1879〜1963)です。


左の地図(北海道北端)は、伊能忠敬測量による原寸大のもの。
間宮林蔵は、実は伊能忠敬に測量の指南を受けています。

ちなみに、稚内のゆるキャラ「りんぞうくん」は間宮林蔵がモデルですが、
ここは思い切って「まみりん」でもよかったかもしれない。



サブゼロが当たり前のこの北の果ての地でも、開拓団が拓き、
役所ができればそこに赴任させられる公務員もいたわけで、
江戸時代、ここに勤務した武士たちは、冬の夜も凍え死なないように、
このような寝棺(藁を重ねてその上に毛皮を敷いてある)を発明しました。

想像するに、火を焚くしか暖を取る方法のない時代、
部屋の中でも気温は外と大差なかったのではないでしょうか。

現地の説明にもありましたが、彼らは当時、
そんな赴任地で、毎日凍死の恐怖と戦っていたと思われます。

この寝台は再現されたものなので、中に実際寝てみることもできます。

■稚内駅の変遷


稚内港が開港した明治12年、役所が開設されました。
このジオラマは、明治29年当時を再現しています。



1928年(昭和3年)開業した稚内港駅。
初代駅舎は港に連絡させるため、海側にありました。



1938年(昭和13年)移転した第二代目稚内港駅。


この写真は1939年のもの


そして、昭和感あふれる三代目稚内駅舎(wiki)

■ 氷雪の門〜真岡郵便電信局事件



日本の降伏後、樺太へのソ連軍の侵攻が始まりました。
終戦を受けても疎開せず業務に当たっていた真岡電信局の女性交換手は、
8月20日、ソ連軍が真岡に上陸したとの知らせを受け、自決を図りました。

写真は、このとき自決によって亡くなった9名の女性です。

稚内公園内にある、彼女らの慰霊のために建てられた
「殉職九人の乙女の碑(9人の乙女の像)」には、
当初、彼女らが最後に打電した、

"皆さん、さようなら、さようなら、これが最後です"

という言葉とともに、自決は日本軍の命令であるとあり、
戦後この件について事実と照らしさまざまな議論が起こったと言います。

■ 宗谷サンセットロード


稚内から宗谷本線と並行し利尻島側を南下する海岸線の道路は、
構造物がない自然だけの景色が見えるという話を聞いていたので、
この日はこの「宗谷サンセットロード」をドライブしました。



道道(北海道の道)106号線は、途中で名前を変えながら
海沿いに沿ってほぼ北海道を一周します。


ザ・北海道。


この日の目的地であるカフェに到着しました。
牧場があることから、きっとこの辺はアイスクリームが美味しいに違いない、
という意見が出て、案内の社長に伺ったところ、
北海道内のコンテストで賞を取ったお店を教えてくれたのです。



お店の半分は雑貨を売るコーナーになっていました。
キャラクターグッズや、アメリカからの直輸入らしい物が主流です。


どういう意図か「ビーガン」とプリントされたエプロンがあったので、
お節介ながらポケットには牛をアレンジしておきました。



たくさんのメニューがあり迷ってしまいました。
これはロコモコ丼。



カフェでもラーメンが食べられるのが北海道。
気のせいか、ちょっとカフェ風なオシャレ感漂うラーメンです。

皆が期待していたアイスクリームですが、どういうわけか全員、
飲み物にアイスが混入したもの(ミルクセーキとか)を頼んで、
気がついたらもうアイスはいいや、という状態で、誰も頼みませんでした。

■ トナカイ牧場


次に訪れたのは、トナカイ観光牧場。

天塩の幌延というところにあり、例のガイドブックには載っていません。
つくづく偶蹄目シカ科に縁のあるツァーですが、これも偶然です。



どうしてここにトナカイ牧場があるかなんですが、
脱サラした本州の人がフィンランドでトナカイの飼育を学び、
平成元年、北海道に牧場を購入して家畜として輸入したのが最初です。

その後、観光を目的として幌延町が広い牧草地を購入し、
平成11年のクリスマスにトナカイ観光牧場としてオープンさせました。

駐車場に降り立った途端、漂うトナカイの香りでその存在は確認しましたが、
ご覧のように、柵の近くにはごく少数がウロウロしているだけ。
資料によると、現在35頭が生息しているそうです。

この少数は、観光客のくれる餌を期待して近づいてきたようですが、
いかんせんその客が、わたしたちとこのカップルだけだったという・・。



わたしとTOがカップルの餌やりを見ていると、三人が登場。


建物の出口にあったサンタクロース衣装を着て出てきたのでした。


三人とも実に誇らしげ。
カップルは心なしかそそくさと引き揚げていきます。


たとえどんなしょぼい観光地でも(ここがそうだと言ってるのではないです)
こういう人たちと一緒だと、全く退屈しません。

SAさん一人、トナカイのかぶりものを選ぶあたり、いいセンスしてます。
さっそくお友だちが近づいてきました。


「良きにはからえ」王者の貫禄的な?


角を切った跡があります。
考えたこともありませんでしたが、トナカイはメスも角を持つのだそうです。
そうか・・女子もサンタのソリに加わることがあるんだ。

「ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、
コメット、キューピッド、ドンダー、ブリッツェン」


もしかしたらコメット、ブリッツェンはメス?

サンタとトナカイの三人の姿を見て近寄ってきたトナカイは、
彼らが餌やりをしてくれないことがわかるととっとと離れていきました。



トナカイ牧場だけあって、立派なもみの木が・・・・、
と思ったのですが、これものすごく精巧なニセ樅木です。

当牧場では冬になると張り切って「トナカイホワイトフェスタ」を開催、
(毎年やっているんだと思うけど、どうかしら)
イルミネーションや、各地イベントにトナカイを派遣するなどしています。

冬は、雪上をトナカイの引くソリに乗るというサンタな体験もできます。



この三人の写真が撮れただけで、ここに来た甲斐があったかも。


帰りは少し遠回りして、海沿いを走りました。
道路沿いにも風力発電が林立しています。

■ 稚内最後の晩餐



ドライブから帰り、部屋で休憩してから、稚内最後の夕食に選んだのは、
ミシュランで過去一度星を取ったことがあるというステーキ店。

ここだけの話ですが、地元の人の噂によると、
かつてこの店で、J×のメンバーが酔って?大騒ぎし、
店主が怒って、彼らを出禁にするという事件があったそうです。

何があったかはわかりませんが、出禁にするくらいだから、
度をわきまえなかった客が悪いんだと思うのですが、地元の人は、
議員まで入れ和解を図ったのに、店主がんとして謝罪を受け入れず、
どちらかというとそこまで頑固なのもいかがなものか、
みたいになっているという話を聞いて、なんだかなーと思いました。

だからお店としてもお勧めできないというのは違うんじゃない?と。



というわけで、ここで食べてみました。
メニューはシンプル、フィレかサーロインステーキの二択。

写真を見てお分かりのように、昭和で時が止まっています。

お店の構えもそうですが、このバターの載ったステーキ、人参の切り方、
そういえば昔、ステーキ店ってこうだった、とノスタルジーにかられました。

お味も、小さな頃三宮で食べたステーキを彷彿とさせるものでした。



わたし以外のメンバーはその後ホテルのバーに繰り出しました。
向こうにある怪しい光を放つカクテルにはライト型の氷が混入しています。
これはGBくんが頼んだものだということです。


次の朝、最後なのでホテルの前の緑地帯を歩いてみました。
ここでは時折ランタンフェスティバルのようなお祭りも行われるようです。



ただ、この一帯もそうでしたが、この季節、稚内は
くまなく動物園のような鹿の匂いに包まれていたことを告白します。


というわけで、その日お昼過ぎの便で稚内を発ちました。
今後の人生で、ここに再び戻って来ることはあるかしら。


離陸した飛行機が上昇中、真下に見えたのは大沼です。
稚内市域最大の沼で、毎年白鳥がやってくることでも有名でしたね。

そうだ。
雪の降るころ、ここに白鳥を見に来るっていうのもいいかもしれない。


続く(!)