ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「リザルタント・フューリー」演習〜戦車揚陸艦「スケネクタディ」の最後

2024-11-19 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている「リトルロック」、
前回、CPOとメスデッキをご紹介しました。



前回このメスデッキの端にあるプラークを一つ紹介しましたが、
紙幅の関係で取り上げなかったのがあります。



プラークそのものがひび割れて真っ二つになっています。
まるでこの艦の運命を示唆するように・・・・。

昔、自衛艦のこの盾を鋳造している北陸の工房を見学したことがありますが、
そこの社長(現在会長)が、

「海自の方々は大変縁起を担ぐので、
台が『欠ける』『落ちる』『沈む』は御法度です。
そんなことがあれば(血相変えて)作り直しを言ってこられます」


とその『難しさ』を語っておられたのを思い出しました。
それでいうならこれはもう完全に不吉ですが、
この艦が実際にこうなる形で廃棄されたことを知ると、

あながち無意味な迷信でもないのかなと思ったり・・。

■ USS「スケネクタディ」



USS「スケネクタディ」
USS Schenectady (LST-1185) 


は、「ニューポート」級戦車揚陸艦の5番艦です。
この英語からすぐに「スケネクタディ」という読み方が出てきたのも、
わたしがかつてニューヨーク州北部をうろうろした時に、

フリーウェイなどでよくこの郡名を見ていたからです。

妙な発音ですが、予想通りオリジナルはネイティブアメリカン、
モホーク族の「松の木々の向こう側」の意味なんだとか。

エリー湖沿いのバッファローもまた同じニューヨーク州なので、
同じ州のよしみでプラーク交換をしたことがあったのかもしれません。

この等級の大きな特徴は、

戦車揚陸艦でありながら艦首にドアがない

ということ、そしてその代わりに


艦首にアルミニウム製のタラップを持つ

ことに尽きるかと思います。
(ただし従来通り艦尾には大きなドアがあります)

まず前者は、20ノット(時速37km)以上の船速を確保するため、
そしてタラップは艦体のドアの代わりに戦車を積み込むためです。



それをお見せしよう。
これ、すごくない?ちょっとワクワクしてしまいますよね。

そしてこの道板はアルミでできており、長さ34メートル、
普段は上甲板上に格納されていて、岸壁に到着すると、

艦首突端の扉が左右に開かれる

艦首前端のピボットが道板を浮き上がらせる

グリースによって板を滑らせながら甲板下のウィンチで繰り出す

デリックアームによって保持しながら岸壁に道板を設置する



おそらく艦橋から見たところ。(写真はUSS「サギノー」)

車両甲板前端には上甲板と連絡するランプが設けられており、
車両甲板に搭載された車両はここを通じていったん上甲板に上がったのち、
道板を通じて岸に降りていくというわけです。

トラック?の荷台には海兵隊らしいのが乗っていますが、

これなら全く危険はなさそうです。

2本のデリックアームの上にも人がいるのに注意。

なお、道板だけでは長さが不足する場合も多いので、この場合には
後部舷側に搭載した4基の浮橋を道板の先に接続して延長します。

この「ニューポート」級揚陸艦は20隻建造されており、

そのうち「マニトワク」LST-1180「サムター」LST-1181
中華民国海軍に再就役して今も現役のようです。

台湾の方がこのどちらかの入港をアップしています。
道板の展開が見られるかと思ったけど、それはありませんでした。

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-1 (Newport-Class Tank Landing Ship)

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-2 (Newport-Class Tank Landing Ship)

2015.10.24 民國104年國防知性之旅 海軍左營基地營區開放
 LST-233 新港級戰車登陸艦 中平號 Newport class tank landing ship

さて、この「スケネクタディ」ですが、1990年、
同級でたった一隻、湾岸戦争で中東に派遣された揚陸艦です。

1993年には退役し、予備艦として保管されていましたが、
2001年には海軍艦艇登録から抹消され、
最後は標的艦となってお国に身を捧げることになりました。

■リザルタント・フューリー対水上戦演習0501



珍しく、その最後の瞬間が写真に遺されています。
この演習は、何にでも名前をつけたがるアメリカ海軍らしく、

リザルタント・フューリー(Resultant Fury)
”怒りの結果”または”結果としての怒り”

と名付けられました。
2004年、フロリダ州のエグリン空軍基地を拠点に行われたこの訓練では、
空軍と海軍の航空機が海上を移動する目標を攻撃するという内容でした。

ここで皆さんにも思い出していただきたいのが、1921年、
ビリー・ミッチェル少将がドイツの戦艦「オストフリースラント」
航空機で撃沈できることを証明したあの実験「プロジェクトB」です。


このとき、ミッチェルは海軍に「戦艦不要論」を突きつけ、
航空戦力の重要さを証明するために実験を行いましたが、
83年後に行われたこのデモは、方法論の証明などではなく、
まだ実戦配備されていない先進的な兵器システムの実験を兼ねていました。

この訓練に先立ち、元USS「スケネクタディ」は
装備品や資材を撤去し、危険物を取り除くために洗浄されています。

アメリカ海軍は環境破壊に対しても最新の注意を払い、
環境汚染物質を除去し、EPAのガイドラインに従って、
岸から50海里以上、水深6,000フィート以上で作戦を実施しました。

米海軍には「艦隊環境」の専門家(中佐)もいて、演習によって
生態系に影響を与えることがないよう、こちらも配慮します。

事実この演習のとき、クジラの群れが接近したという情報を受け、
発動時間を40分遅らせたという報告がなされているように、海軍は
海洋哺乳類が船舶の近くにいる場合に演習を禁止する範囲手順を定めており、
環境保護と試験と訓練の達成を両立させることを旨としています。



ミッチェルは「オストフリースラント」撃沈に63発爆弾を要しましたが、
このときはB-52から投下されたたった9発のレーザー誘導弾JDAMが
全て意図した目標に命中し、艦艇を速やかに沈没せしめました。

そして2004年11月23日、このリザルタント・フューリーによって、
揚陸艦「スケネクタディ」は標的として撃沈され、
同時に彼女は、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した史上初めての艦となりました。

かつては航空機不要論で反目していた空軍(当時陸軍)と海軍が、
協力しあって海上標的を破壊する訓練風景を、きっとミッチェルは
草葉の陰から見て、涙を流すか、そら見たことかと言っていることでしょう。
(-人-)

■ 「スケネクタディ」艦歴

ところで、なぜ「スケネクタディ」がこのとき標的となったかですが、
簡単に彼女の艦歴についてお話ししておきましょう。

LST「スケネクタディ」は1966年7月15日、

1966会計年度の8隻のグループの一部として発注され、1968年、
サンディエゴのナショナル・スチール・アンド・造船会社によって起工、
1969年5月24日に進水、1970年6月13日に就役しました。

就役後は水陸両用戦隊(フィブロン)9に配属され、
サンディエゴに母港を構えることになります。

訓練と習熟期間の後、1971年にベトナムへ向かい、
海兵隊を撤退させる「キーストーン・オリオール」作戦に参加。

ダナンで荷物を積んだ後は真珠湾に戻りました。

1971年10月18日、LSTは第7艦隊に合流するため
日本の横須賀に到着します。

第7艦隊での活動中、南ベトナム軍によるクアンチ省奪還作戦に参加、
1972年6月29日、攻勢中に敵の陸上砲台の砲火を受け、
実戦で応戦した同クラス初の艦となりました。

その後は西海岸から演習に参加、
日本、台湾、沖縄、フィリピンの港湾間での輸送任務を行います。


1990年、湾岸戦争が起こると中東に派遣され、これによって

「スケネクタディ」は「ニューポート」級10隻の中で、
同戦争で派遣された唯一の艦となりました。

その後1993年12月15日に退役し、海軍不活動艦艇整備施設に
予備艦として保管されました。

1994年ごろ、スケネクタディ市は彼女を展示艦として獲得し、
移送しようと試みたことがあったようですが、どういう理由かこれは失敗し、
「スケネクタディ」の標的艦の運命はこのときに決まりました。

同艦は2001年7月13日に海軍艦艇登録から抹消され、
2004年11月23日、リザルタント・フューリー作戦で標的として撃沈され、
艦船航行中、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した初の事例として歴史に名を残しました。



「スケネクタディ」の内部のものは丁寧に取り除かれ、
歴史資料として保存されることになったそうですが、
もしかしたらこの星条旗もその一つなんでしょうか。


続く。




メスデッキ(兵員用食堂)〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-16 | 軍艦

エリー湖沿いに位置するバッファロー・ネイバルパークの展示、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。



やはり巡洋艦なのでメスデッキは大変広いです。

一日3回、このスペースでは1,200人の下士官兵が食事をとりました。
時差を持たせても、同時に700〜900人がテーブルに着けたそうです。

乗組員に与えられた食事時間は30分。
食事が済んだらすぐさま職務に戻ることが決まっていました。

アメリカ海軍も、他の軍隊に比べれば食事が美味しいのが相場だそうですが、
だからといって食後ゆっくりコーヒーを、なんてのはナシです。

ただ、ここに来ればコーヒーもスナックもいつでも潤沢に用意されており、
好きな時にさっと取って楽しむことができました。

ここは映画館も兼ねており、毎晩のようにエンターテイメントがあり、
乗組員は自分の時間に応じてそれらに参加しました。



ちなみに1972年ごろの同じメスデッキの様子。
左奥に見えるかべが、上の写真の左壁だそうです。
内装は随分変わっていますが、柱は全く変わっていません。

チェック柄のテーブルクロスが可愛いですね。


1974年のメスデッキ。

テーブルクロスは白に変わったようです。
この写真の真ん中に低い仕切りがありますが、1972年のにはありません。
この間の改装によって設置たもので、それは現在もそのままです。

ほとんど上の写真と同じ位置から撮られているように思います。

ここで食事をするのはエンリステッド(徴募・徴兵)
を意味するE1からE5まで、つまり、

E1「シーマン リクルート」水兵
E2「シーマン アプレンティス」一等水兵
E3「シーマン」上等水兵
E4「ペティオフィサー サードクラス」三等軍曹
E5「ペティオフィサー セカンドクラス」二等軍曹

のみなさんです。



紙ナプキンのケースがちゃんと中身付きで置いてありますが、これは
現在でもこの場所がキャンプなどで食事に使われているからです。


メスデッキの隣には、ペティ・オフィサー・ファーストクラス
(上級下士官)
専用のメスがあります。

クルー用と違うのは、椅子の材質と、テーブルにボードゲームがあること、
それからちょっとスペースに余裕があることかな。

ここに入ることができるのは、E6の

E6 ペティオフィサー ファーストクラス

これは「シェブロンが赤い階級」の中の最先任です。


で、ここから上の人(黄色いシェブロン)たちは奥に各々の部屋があります。
海軍の階級差は厳密です。



この艦内図でいうとV1のところです。
クルーズメスは10と記された場所です。


残されていたクルー用のトレイ。
この窓から見える向こうは下士官厨房です。


入ろうと思ったら、立ち入り禁止になっていました。


というわけで、これは博物館公式のビデオからキャプチャした内部の写真です。

E-6以下の下士官兵の調理を行うのは、当時は

メス・マネージメントスペシャリスト、
食堂管理スペシャリスト

と呼ばれる乗組員でした。
この名称は現在では

キュリナリー(調理)スペシャリスト

となっています。

食事は全てこの場所で調理され、すぐさま提供され、
また、パンやペストリーも定期的にここで一から作っていました。

「調理スペシャリスト」という名前になってからはどうか知りませんが、
当時、調理は専門の乗組員が行うのではなく、
ほとんどの下級下士官乗組員(E-1からE-3)が、少なくとも90日間の
 "TAD"(Temporary Assignment of Duty)期間、"Mess Cooks "として
ギャレー/スカラリーに勤務することが義務付けられていました。

つまり皆が順番に請け負っていたのです。

調理場勤務の乗員は、次の食事の計画や準備、後片付け、皿洗いはもちろん、
掃除など雑務の大半をこなすことが求められていました。

これもまた艦隊生活への教化の一環という位置付けです。

ギャレーでの任務は地味で目立つ仕事ではありませんが、
軍隊で最も重要な仕事の一つであることも確かです。

艦艇の乗組員が清潔な食器を使い、十分な食事を取れるようにすること。
さらにその食事がおいしいことは士気を高めるためにも必須ですからね。

その仕事の重要性は強調してもしすぎることはありません。



下士官兵はトレイを手前のラックに乗せて左から右に滑らせていき、
食べたいものをトレイに掬って乗せてもらいます。
自分ですると時間がかかるし、取りすぎたりこぼす人がいるので。

フードサーバーに氷が溜まっていますが、おそらくこの日、
すでにここで食事が行われたのだと思われます。

おそらく大人数のキャンプがここで朝ごはんを取り、その際、
サラダ、果物、ヨーグルト、ジュースなどがセットされていたのでしょう。

飲み物はコークよりペプシ派らしく、ペプシと書かれたラックが見えます。


この鍋つかみ、対象になるものがないのでわかりにくいんですが、
子どもの頭ならすっぽり入りそうなくらい巨大です。
親指のところに小さな手なら全部収まってしまいそう。
こんなものをどうやって使っていたのか・・・・。


ギャレーの隅には年季の入っていそうな星条旗が立ってしました。
絶対これは何か歴史的に意味のある旗に違いない。


その横のプラークですが、直接は「リトルロック」とは関係ありません。

The U. S. Navy Space Surveillance System
アメリカ海軍宇宙監視システム 

を意味するものです。

文字通り宇宙を監視するシステムで、そのステーションは
米国南部を横断する大圏経路上に7つ存在します。

決して最近できたものではなく、1961年中央の560kw送信機が稼動し、
4つの受信サイトすべてにナローバンド受信装置が設置されました。

システムは1日に約700回の観測を行い、
100個以上の軌道天体の軌道要素を作成しています。

2つの連続したパス、軌道の2つの側からのパス、そして最後に
数日間の観測を使った差分補正コンピュータプログラムによって精緻化され、
世界中のどの場所でも使用可能な軌道要素というシステム出力が得られ、
その精度は、現在、
安定した衛星の通過を1週間先まで1秒以内に予測できる
ほどにまで高められているということです。

こういうのを海軍がやってしまうあたりがアメリカですね。

ちなみに、つい最近聞いた話ですが、アメリカ全軍は、
今戦闘部門の規模がどんどん縮小されていく傾向にあり、
拡大しているのは宇宙軍だけだということです。



続く。




チーフズ・メス〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-13 | 軍艦

バッファロー軍事海事公園に展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。


この区域には、もう一つ特筆すべき施設があります。

それが冒頭写真のミサイルウォーヘッドハンドリングルーム、
弾頭取扱室です。

ミサイルルームを探訪した時にも紹介しましたが、タロスミサイルは、
用途に応じて通常弾頭と核弾頭を使い分けていました。

この区画では、そのどちらもが準備されていました。

画面の床に見える大きな穴は、弾頭の移動路であり、
弾頭はここを通ってこの下のマガジンに収納され、
また、そこから取り出してくることになります。


左側にはロッカーや棚が並んでいますが、
今となっては何があったのかわかりません。


「コミニュケーション・プラン」を記すCPO専用ボード。

CIC「使用中」「常時」「ラインメンバー」「AMPS」とありますが、
ちゃんと書かれているのはこれだけです。

一番左のRHSやCHなどの略語ですが、CHはおそらくチーフ、
つまり自分たちの持ち場を書き入れていたのかもしれません。

あと、SPAはおそらくスペシャリストの略で、
SPSは同じスペシャリストの中のスーパーバイザー(監督)です。



それより、ボードには後からここを訪れて、落書きを許された?
元乗組員のサインが目につきます。

B・キャメロン RDSN 1959−1962

J・ティラ 1959-1963 RDSN

RDSNとはRADAMAN SEAMAN、つまりレーダー通信兵です。

ヘイズ OSS 66-69

OSSはオペレーションズスペシャリスト シーマン

いずれにしても、展示艦になってからヴェテランが書いたものでしょう。


24時間時計と照準器が壁に備え付けられています。
これ見てあー今フネ傾いてるなー、って理解しろってか。
そんなこと体感でわかるような気がするんだけど。


赤い色・・ということはきっと消火設備。


Aqueous Film Forming Foam 水性発泡体
(AFFF)


AFFFは「AトリプルF」と発音します。
水と混合して可燃性液体火災に散布される消火剤であり、
油やガソリンに浮く泡の能力からライトウォーターとも呼ばれています。

写真左側の棚のブルーのボトルには「ライトウォーター」の文字が見えます。

同じ消火剤として、プロテインフォームというのもがあります。
材料は天然タンパク質・・・実は動物の血液がベースです。
こちらは合成フォームと違い、生分解性という性質を持ちます。

環境にやさしい・・・?

AFFFは、このプロテインフォームに取って代わるもので、
血液をベースとしたプロテインフォームとは異なり、
泡に空いた穴がひとりでに塞がり、再燃焼を防ぐ自己修復作用があります。

基本的に水ベースであり、アルキル硫酸ナトリウムなど、
炭化水素ベースの界面活性剤や、フッ素系界面活性剤が含まれていて、
残念ながら火を消した後は有毒な地下水汚染物質となります。

しかし不発弾やその他の物質を冷却し、爆発や燃焼を防ぐのにも効果的で、
軍艦内の戦略的な場所に数多く設置されています。


AFFF周辺の畳まれたホース。


エリア08というこの区域にCPOのギャレー(キッチン)があります。
下士官つまりE-7からE-9ランクのための調理室です。



繰り返しになりますが、このレートは

E-7 1等軍曹
E-8 曹長
E-9 上級曹長
E-9 最上級曹長


を意味します。
ちなみに彼らのお給料ですが、2024年現在のE-7ランクで、

$43,498.80 〜$78,188.40 (勤続26年)
=6.776.460.56円〜12.180.579.89円

これは基本給で、これに訓練手当て(ドリルペイ)、
危険手当て(ハザードペイ)、住宅手当などがつきます。

今は円安なので、ものすごい高給に見えますね。
危険手当ては月240ドル、訓練手当ては120ドル〜217ドルです。



ところでCPO専用のギャレーについて言及すると、国の彼我を問わず、
海軍というところは食事が美味しいと相場が決まっているので、
当然ここでもアメリカ規格でたいへん美味しいものが提供されてたはずです。

そして、曹長専用食堂のことをチーフズ・メスといい、そこで働いているか、
特別な許可がない限り、チーフ以外の立ち入りは禁止されていました。


クルーズ・メス(兵員用食堂)の手前には、
「リトルロック」の姉妹艦コーナーがあります。



ここにある説明ですが以下の通り。

1950年代、「ガルベストン」級と「プロビデンス」級は、
「クリーブランド」級の改造を低コストで行うことを目的としていた。

これらの艦は、構造的には互いに似ており、
唯一の
違いは搭載する誘導ミサイルの種類であった。

「リトルロック」は世界で最後の「クリーブランド」級巡洋艦であるため、
この区画は、他の改造「クリーブランド」級巡洋艦に捧げられている。


「ガルベストン」級巡洋艦
タロスミサイルシステム搭載

USS「ガルベストン」
CL-93、1946年/CLG-3、1958-1973年

USS「リトルロック」
CL-92、1945~1949年/CLG-4、1960~1976年

USS「オクラホマシティ」
CL-91、1944~1947年/CLG-5、1960~1979年


「オクラホマシティ」の時鐘、写真、盾など。

「プロヴィデンス」級巡洋艦
テリア ミサイルシステム搭載


USS「プロビデンス」
CL-82、1945年-1949年 / CLG-6、1959年-1975年

USS「スプリングフィールド」
CL-66、1944~1950年/CLG-7、1960~1975年

USS「トピカ」
CL-67、1944~1949年/CLG-8、1960~1973年


ここにはいわゆる「改造クリーブランド級」グッズがあるそうですが、
見たところほとんどが「オクラホマシティ」のもののようです。

野球のユニフォームですが、どこの艦でしょうね?



右下の「ライフ」表紙は、艦砲射撃を行っている「オクラホマシティ」です。

「オクラホマシティ」は、太平洋艦隊において、
初めてタロスミサイルの実戦発射に成功した艦となり、
横須賀を母港とする第7艦隊旗艦としてベトナム戦争に参加

この写真は、1965年6月、ベトナム戦争における南シナ海で、
艦砲射撃真っ最中の「オクラホマシティ」の勇姿を捉えたものです。


続く。





「下士官の誓い」と「リトルロック」最後の日〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-10 | 軍艦

ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内に入り、
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)を艦尾から見学しています。



今日はチーフ・ペティ・オフィサーズ・クォーターズです。

Chief Petty Officerとは日本語だと上等兵曹でしょうか。
米海軍では、この階級の略称はCOとなります。
チーフ・ペティ・オフィサーについては、

「時間と訓練を経てE-7以上の階級になった下士官」

とこのコーナーには書かれています。

Eというのは下士官の階級のことですが、英語では「レート」と言います。

「レート」とは、入隊した水兵が指揮系統のどの位置にあるか、
どれくらい給料をもらっているか一目で指し示す指標となります。

アメリカ海軍の階級は「ランク」と「レート」で表されます。

日本語ではこれが一律「階級」で括られますが、アメリカ海軍では
基本的に「ランク」という言葉が使われるのは士官だけで、
下士官兵には「レート」が適用されることになっています。

ご注意いただきたのは、アメリカ軍についてご存知の方なら
一度は耳にする言葉、「レイティング」との違いです。

「レート」”rate" は、海軍の下士官の職業専門分野を指す
「レイティング」”rating"とは全く別の意味を持ちます。

「レイティング」とは、整備士とか管制官とか、写真家とか料理とか、
暗号とか爆発物処理とか音楽とか、ともかく専門の技術のことをいいます。

↑バッジの意匠を見ているだけで楽しめます

話を元に戻して、Eランクは1から9まであり、
大きく3つに分けることができます。

E-1からE-3 兵卒・一等兵・上等兵
Seaman

E-4からE-6 伍長・三等軍曹・二等軍曹
Petty Officer

そしてこのクォーター(コーナー)には、Eクラスの最上級である

E-7からE-9 一等軍曹・曹長・上級曹長
CPO/ SCPO/ MCPO/CMCPO

がいたというわけです。

ちなみに、士官と下士官兵の間には、准尉、
ウォラント・オフィサー
がいます。

よく艦を一つの会社に喩えるなら、チーフというのは部長に当たる、
と言われますが、以前「曹長に聞け」という項で紹介した、
いわゆるCPOジョークを見る限り、この人たちの存在感はすごい。

自らを海軍のスーパーマン、神、と称しており、その自己肯定感、
万能感においても凄まじいものがあるということもわかります。

彼らは士官と下士官兵の間に立つ「仲介役」であり、
その階級における技術専門家であるので、文字通り「要」の立場です。


ここはCPOの寝台設備があるところで、これまで当ブログでも
「バーシング」Berthingとして説明してきましたが、
元々「BERTHING」バーシングという言葉は、
ラテン語で「運ぶ」という意味を持っており、それから派生して、
船や列車の2台、または港、港湾設備にある、
船舶を係留するために特別に使用される停泊所を指す言葉です。

つまり下士官の「停泊所」ということですが、
この用語が海軍だけで使われているのは当然のことです。

この周囲が「CPOの停泊所」であるわけですが、
グレーの扉の向こうには何があるのか「開かずの扉」となっています。

で、その「立ち入り禁止」の手書きの紙の下に見えているのが、
有名な「CPOの誓い」The Chief Petty Officer's Pledgeです。

ここではその半分しか見ることができませんが、
有名なものなので検索すれば全文が出てきます。

下士官の誓い

私は米国海軍の下士官です

私は、誇りと名誉をもって、祖国とその国民に奉仕します

私は特別な便宜を図りません

私は物事を成し遂げ、自分にできる最善を尽くします

私は、世界でも類を見ないリーダーシップを任されています

私は下士官を育て、水兵を育てます

私は全ての水兵の行動に全責任を負います
なぜなら、これら水兵は将来の下士官の”種”だからです

私は、名誉、勇気、献身という海軍の基本的価値観に従います

私が模範を示します

私が行動基準を定めるのです

水兵は生徒であり、私はその教師です

私は、若い男女の人生を導き、影響を与えます

最終的には、私が船員たちの資質を決めるのです

彼らが私を尊敬するのは私が彼らに威厳と敬意をもって接するからです

彼らがリーダーを必要としているからこそ私は彼らのために存在するのです

なぜなら、
After all...

私はアメリカ合衆国のチーフ・ペティ・オフィサーなのですから
I am a Chief Petty Officer in the United States Navy.

After all は「結局」と訳すより、こちらの方が適切かと思いました。



大きなパネルに展示された舫結びの数々。
寄贈したのは写真の元CWO(チーフ・ウォーラントオフィサー)、
マーヴィン・カレー元准尉です。

バッファロー・ネイバルパークの公式が、
この人の記念碑をインスタに挙げていました。

Marvin ”Joe"Curry、CWO

マーヴィン・"ジョー"・カリーは退役軍曹(CW2)であった。
海軍のハードハット(サルベージ)・ダイバーで、
朝鮮戦争とベトナム戦争に従軍し、兄のウィルバーは戦死した。
ジョーは1969年から1972年までUSS「リトルロック」の乗組員だった。

海軍を退役後、1977年から1995年まで、
ここバッファロー海軍軍事公園の初代監督官を務めた。

ジョーは
セネカ族のスナイプ・クランの一員で、
カッタラウガス準州で生まれた。
彼はイロコイポスト#1587のメンバーで、いくつかの役職を歴任した。

セネカ・ネーションは、ジョーと他の先住民の退役軍人を称えるために、
毎年ニューヨーク州サラマンカで
マーヴィン"ジョー"カリー・ヴェテランズ・パウワウ大会を開催している。

後半はいかにもアメリカですね。
カリー准尉は、イロコイの一族であるセネカの出身だったようです。

後半に出てくる「パウワウ大会」は何かというと、
ネイティブインディアンの踊りによる集会、祭りを指します。

パウワウ

コミュニティでカリー准尉の名がよく知られているわけは、
ネイティブアメリカン出身の海軍軍人として、
インディアン出身の退役軍人にカウンセリングを行ったり、
セネカ族の伝統、習慣、文化を伝える役割を果たしたからでした。



「リトルロック」クラスの艦内には5〜60人のペティ・オフィサーがいて、
ここは彼らの生活空間でした。

このテーブルで彼らは食事をし、コーヒーを飲んだり、
時にはボードゲームに興じたりしたのでしょう。



テーブルの上方に立てかけてあるこの部分は、テーブルと同じ素材で、
なんか無理やりマークを彫ったのでえらいことになっています。

このマーク、最初はわからなかったのですが、たまたまこの項前半で
「レイティング」のページを見ていて見つけました。


オペレーション(作戦)スペシャリスト(OS)のマークです。

米海軍の戦闘艦に所属する作オペレーション・スペシャリストは、
戦闘情報センター(CIC)や戦闘指揮センター(CDC)、
別名「コンバット」と呼ばれる艦の戦術中枢にいる人です。

OSは、多種多様な装置や装備を駆使し、戦術的戦闘情報を組織的に収集、
処理、表示、評価し、指揮管制ステーションに迅速に伝達します。

CICの物理的空間を維持し、操作する機器の保守管理を行うため、
この等級には、身元調査を経た上でアクセスするステータスが付与されます。



ヘルメットは本物ではなく、おそらく幼児用?のレプリカ。


テーブルには落書きが残されています。


下はちょっと読めませんが、上には、

「AIDは無くなった 1976年11月22日」

と書いてあります。

AIDかどうかは、ピントがボケていて正直よくわからないのですが、
Sも付いていないので後天性免疫不全症候群のことではなく、
(そりゃそうだ)普通に「援助」の意味だと思います。

1976年11月22日。
この日、「リトルロック」は海軍を退役して除籍処分となりました。

うーん・・・もしかしたらAIDって、何か海軍の専門用語?
もしお分かりの方がおられたら教えてください。

にしても、最後の日、艦内に落書きをしたくなる気持ちはよくわかります。


続く。



ローン・セイラー(孤独な水兵)の像〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-07 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園展示の巡洋艦「リトルロック」。
上甲板のファンテイル部分から階段を一階降りて、艦内郵便局を見ました。

見学路をそのまま艦首側に向かって進んでいきます。


第二次世界大戦時の道具を展示しているという説明がありました。
展示のオープン時間を書く欄がありますが、使われた形跡はありません。


「ディスプレー」というのは、これらのことだと思われます。

水兵の制服、真鍮のランプ、そして軽巡時代、
ミサイル巡洋艦になってからの「リトルロック」の様々な写真。



右は、「リトルロック」が就役した時のパンフレットです。

第二次世界大戦終了直前に最初の就役をした「リトルロック」は、1957年、
ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船公社のヤードに到着し、
1957年1月30日に誘導ミサイル軽巡洋艦への改装を開始しています。

CL-92からCLG-4への分類と船体番号の変更は1957年5月23日に発効されました。

ニューヨークシップビルディング公社における改装中の「リトルロック」
1959年12月10日撮影

改造後のUSS「リトルロック」(CLG-4)の全備重量は15,142トン、
艦隊旗艦として構成されました。

艦砲は従前通りオリジナルのディレクタ・システムによって制御されましたが
ミサイルシステムには新しい武器制御装置とレーダーが組み込まれました。

こうしてタロスミサイル巡洋艦となったUSS「リトルロック」(CLG-4)は、
1960年5月6日にフィラデルフィア海軍造船所に引き渡され、
1960年6月3日に就役したのです。


左側のパンフレットは海軍艦船に乗るともらえる記念でしょう。

上の写真はマッチケースのカバーにプリントされたエンブレムですが、
「リトルロック」のインシニア、文字通りの「タロス」
(ギリシア神話に出てくる意思を持たない青銅の巨人)が、
タロスミサイルを投擲しようと構える瞬間を捉えたデザインは秀逸です。


こちらは「リトルロック」が1972年ごろ使っていたパッチです。
なぜこの時期だけこれが使われたのかは不明です。

このエンブレムに書かれたロゴは、

 PRIDE IN ACHIEVEMENT
(達成する誇り)


この文言も簡潔かつ明確で大変よろしいですね。


古い入隊募集ポスターですが、タロスミサイルがあしらわれているので
おそらくミサイル搭載艦がデビューした頃のものだと思われます。


就役中、「リトルロック」が採用していたプラークは三つありました。

左から、初代の改装前軽巡時代のもの、
タロスの描かれた1965年までのもの、
そしてワシのデザインの1965-1976までのものです。

なぜ1965年にマークが変わったかは謎、と先ほど書きましたが、
あえて想像してみると、この時期、「リトルロック」が
NATO軍部隊に参加することになったことと何か関係あるかもしれません。

これも想像ですが、タロスミサイルの搭載を強調するマークより、
アメリカ海軍の一員であることを強調するデザインの方が
国際部隊の中では受け入れられやすかったからと考えられます。


三つのプラークと共に展示されている水兵の像ですが、
アメリカで軍事博物館を回ると、もうお馴染みというくらいよく見ます。

これは有名な、

「孤独な水兵」LOAN SAILOR

というブロンズ像のレプリカです。

ローン・セイラー


アメリカでは「孤独な水兵」というと、有名なこの像を指します。

彫刻家スタンリー・ブライフェルド作のこの水兵像は、
ワシントンD.C.の海軍記念碑として建造されたものなのですが、
この水兵像がもう今は現役でない海軍艦を使って作られていると聞くと、
なかなか感慨深いものがあります。

そして、その海軍艦は一つではなく、

USS「コンスティテューション」CONSTITUTION
USS「 コンステレーション」Constellation CV-64/CVA-64
USS「メイン」Maine ACR-1
USS「 ビロクシ」Biloxi CL-80
USS「ハンコック」Hancock CV/CVA-19
USS「シーウルフ」Seawolf SSN-21
USS 「レンジャー」Ranger CV-4
「ハートフォード」Hartford steamer

帆船、航空母艦、巡洋艦、潜水艦、そして蒸気船などの艦船、
つまり海軍艦船の歴史を網羅しているということです。

そして、この「孤独な水兵」とは。

大体25歳くらい、早くもベテランになりつつある二等兵曹、
ほぼ等身大の「孤独な水兵」は、誰か特定のモデルがいるのではなく、
できるだけ「どこにもいそうな」人物の再現を目指しています。

全くプライベートな、軍の規律から解き放たれた一人の時間、
かたわらに水兵用のダッフルサックをおいて、
ピーコートの前をはだけ、ポケットに手を入れて立つ姿。

そこには、気負いも衒いもない、素のままの一人の平凡な男がいます。
まさにアメリカ海軍水兵の等身大の図と言ってもいいでしょう。

彼は英雄のように描かれているわけでもなく、かといって、
無論、人生を堕するような失意にあるわけでもなく、
これから故郷に帰るのか、それとも単なる休暇中なのか、
期間が明けて名誉除隊をしたのか、何も読み取ることはできませんが、
この像の前に立つアメリカ人は、おそらくそれぞれが、
この水兵のストーリーを、それこそ人の数だけのバリエーションで
さまざまに思い描くに違いありません。

あるものは父や叔父、親戚を、あるものは息子を、
そしてあるものは自分自身を重ね合わせて。


孤独な水兵像はアメリカ国内だけでなく、上陸作戦のあったノルマンディー、
そして当然のようにハワイのパールハーバーにも置かれています。

各地に立つ孤独な水兵像

孤独な水兵像を就役したばかりの新造艦に寄贈する活動は、
ネイビー・メモリアルがスポンサーを募って行われています。
(寄付金は17,750ドルより)
艦船据付用は高さ30センチほどの小型のものとなります。

現在この像が設置されている海軍艦船は、
ミサイル駆逐艦「トーマス・ハドナー」「ズムウォルト」、
空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」などの現役艦のみならず、
この海事公園に展示されている「ザ・サリバンズ」など記念艦もあります。

■ 🇺🇸49星条旗


孤独な水兵像の後ろに掛かっているのは、U.S.S.「リトルロック」が
1960年6月3日に誘導ミサイル軽巡洋艦CLG-4として再就役する前、
1959〜1960年に航行中に掲揚されていた49スター・エンサインです。

国旗の星の数はアメリカの情勢により変わってきましたが、
この49星条旗にはこんな話があります。

1912年からしばらく星条旗は48個の星でした。
そして、1959年1月にアラスカ州が増えたときに49星となりました。
しかし、同じ年の8月にハワイ州が加わったため50州となりました。

これはどういうことかというと、49スター星条旗は、
アメリカ史上たった7ヶ月だけのアメリカ合衆国国旗だったのです。


隙間に取り留めもなく展示品が並んでいるコーナー。



左右に「ケルビンのボール」を持った形のビナクル
日本語だと磁気コンパス、アメリカではナビゲーターズボールがありました。

ところで、以前調べた時には存在していなかった
「ビナクル」のウィキがいつのまにかできていたことがわかりました。

ビナクル

ありがてえありがてえ。

先日ジミー・ウェールズさんからまたしてもメールが来てたけど、
今度はビナクルに免じてちょっとだけ寄付しておこうかな。(独り言です)

ピナクルにはテプラのようなシールに、

DO NOT CHIP OR SCRAP
↑テプラを再現

と注意書きが書かれています。
削ったり欠けさせたりしないでくださいという意味だと思いますが、
これが現役時代からあったのかどうかはわかりません。


タロスミサイルを模ったものですが、
品質から見て誰かが艦内のワークショップで作ったのではないでしょうか。

おそらくこれから見学コースで見ることになると思いますが、
ご存知のように、大きな軍艦には、艦のために必要なものならなんでも、
大きかろうが小さかろうがその場で作ってしまう工場があります。

■タロスミサイル艦はなぜ巡洋艦だったのか

ところで、いまさらなのですが、どうして「リトルロック」など、
巡洋艦にタロスミサイルが搭載されたのだと思います?

ミサイルを搭載する艦船の条件は非常に限られていました。
とにかく、艦体が大きくなくてはいけなかったのです。

その理由は、タロスミサイルそのものが小型飛行機くらいの大きさであり、
これまでミサイルハウスを見てきた我々にはもう明らかなように、
ランチャーや46発の弾倉等、システムに膨大なスペースが必要となります。

したがって巡洋艦クラスがこれに最適とされたというわけです。


続く。

MKの友人接待ツァー〜再び京都、そしてSONY

2024-11-04 | お出かけ

1ヶ月の滞在を終え、MKがアメリカに帰っていきました。
同時に日本に帰国して以来、ツァーとおもてなしが続き、
我が家の歴史上こんな怒涛の1ヶ月はなかったというくらいだっただけに、
彼が帰った後の日常に寂しさとともに安堵を感じるほどです。


日本で行きつけの美容院の担当さんに最後にツーブロックにしてもらい、
1ヶ月の間に増えた荷物、友だちや彼女(未満?)へのお土産を
これも新しく買ったコロンビアのダッフルに詰めて帰っていきました。

■ 再び京都へ

さて、稚内旅行から帰った後、GBくんSAさんは東京に移動しました。

彼らがディズニーシーに行ったり(とにかく混んでいて大変だったらしい)
日本でしか買えないCDを大量に買うためにタワレコに行ったり、
(GBの資料として必要なジャンルに詳しい店員さんがいるらしい)
SAさんの仕事用お洋服探などで忙しい日を過ごしている間、わたしたちは
MKの別のアメリカの友人をおもてなしするため京都に向かっていました。

今回、MKが帰国するのに合わせて、アメリカから来日していたSさんは
(偶然だけどGBのガールフレンドと同じ名前)MKと偶然同じ大学、
同じ大学院に進んだ理系女子で、地域は違いますが、やはり
地元企業でエンジニアとして働くことになっています。

彼女は母親が昔日本に留学?していたという関係で、
家族で何度も観光に来ているほどの日本リピーターなのですが、
今回は、なんと福岡から始まって日本各地を西から制覇していく旅をしており、
京都までやってきたところにMKが彼女と合流したいと言い出したのです。

二人は仲が良く、一緒に一泊のキャンプに行くなどしていましたが、
別にお付き合いしているわけではなく、彼女にはボーイフレンドもいるので、
いくら日本に来たからといって、息子のガールフレンドというわけでもないのに
正直もう一度京都に車で行ってまで接待するのには躊躇いもありましたが、
MKがあまりにも切実にお願いしてくるので、絆された形です。

■ 京都ブライトンホテル



関西にいた頃、ブライトンホテルには何度か行ったことがありましたが、
今回、おそらくコロナ期間に大改装を施したらしい館内、
特に客室には今時のニーズを満たす工夫が凝らされていて感心しました。


こちらは三人で泊まった1日目の部屋です。

まず、従来のホテルのようなデスク=ドレッサーではなく、
PCの仕事もできるような机がテーブルとして配置されていること。
そして、デバイスのためのアウトレットが十分にありました。


TOが仕事で帰ってしまったあと、泊まった二日目の部屋は、
扉を開けたらそこにデスクがあって驚かされました。


同じ部屋にはミニバー、冷蔵庫、靴置き場とテレビ。


ここから廊下が寝室まで続いているのですが、



なんと、この通路が洗面所であり、お風呂の脱衣所でもあるという・・。

入り口のデスクの部屋とこの廊下の間には仕切りもドアもありません。
しかも部屋の入り口からまっすぐ廊下が見渡せますので、万が一、
お風呂から出て体を拭いているときにドアが開いたら外から丸見えです。

こういうのを見ると、従来のホテルの客室の作りというのは
それなりに合理的な理由があってこそなんだなと思うわけですが、
コロナ禍を経てホテルの部屋でもリモートワークもできるように、
デスクの設置を最優先にした結果がこれなんだと思います。


寝室には、ベッドとテレビしかないミニマルアレンジ。


しかし、作り付けの戸棚にたくさん引き出しがあります。



テレビの下の説明書だけが入っている引き出しとか。



長期滞在の際にはこういう引き出しがあると便利でしょう。
ちなみに、今回も宿泊にはふるさと納税を利用しました。

■MKの親友接待の夜


接待第一夜め。

彼女に何が食べたいか聞いたところ、うなぎという返事だったので、
祇園の鰻屋さんをTOが予約しました。



まず、前菜にあたる5点盛り。
実はこのお皿の主役は鰻の骨せんべいだったりします。

「夜のお菓子うなぎパイ」が好きな方なら文句なしに気にいるでしょう。



お造りの後に出てきたのは鰻の白焼き。

鰻屋さんは本当に久しぶりで、最後の記憶は、アメリカに行く直前、
観世橋近くにあった「菊川」の二階で食べた鰻重というくらいです。

その時、菊川の二階の隣の卓(畳の部屋だった)に座っていた、
推定年齢七十代後半くらいの紳士が、まだ1歳だったMKに、

「元気で大きくなるんだぞ」

と微笑みながら声をかけてくれたのが忘れられません。

あれから24年経ち、おそらく紳士も幽明を異にされているでしょうけれど、
今でもあの時の声音は、鰻を食べるたびに蘇ってきます。



このコースはその名も「鰻土鍋ごはん膳」。
板前さんが皆の前で土鍋の蓋を取るのがメインイベント。



土鍋で炊いたご飯と鰻、どちらもふわふわでした。
コースなので、メインに辿り着いた時にはそろそろお腹がいっぱいで、
ご飯をできるだけ少なくしなければならないのが残念でしたが。

板前さんによると、最近外国人観光客が急増していて、
この日も子供二人含む十人の団体が今からいいかと電話してきたので、
内心「無理に決まっているやろ」と思いつつ丁寧にお断りしたとか。

それを表すように、わたしたちが食べ終わって外に出ようとしたら、
褐色の肌をした二人の女性客が、予約なしで入れるか交渉していました。

すれ違うとき彼女らに「Enjoy!」(楽しんで)と声を掛けると、
嬉しそうにありがとう、と微笑みました。



それにしても、彼女ら勇気あるなあ。

こんな「ザ・京都」みたいな間口の狭い入り口の奥に入っていって、
飛び込みで今から行けるか聞くなんてわたしなら絶対に無理。



鰻屋さんの前でツーショット写真。
小路の奥に先ほどの外国人女性客の姿が見えています。


京都でTOとMKがよく行くバーでアフターを楽しみました。
彼らの飲み物にはお酒が入ってるかもしれません。

彼らが仲良しなのは知っていましたが、初めて二人で話しているのを聴き、
その親密さから、逆に二人が付き合っていないことを確信しました。

ソウルメイトとでもいうのか、男女の枠を超えた親友なのかもしれません。



バーなのに、マスター手作りのケーキが出てくるお店です。



そのお店に、次に行くバーの予約を入れてもらいました。
ここも町屋を改装した京都ならではのバーです。

カウンターだけでなく、店の客の多くが外国人観光客でした。
皆京都らしさとそこで味わう美味しいお酒を心から堪能していたと思います。



隣はそのまま床間のある客室。
バーの個室?として卓を囲んでお酒を楽しみます。


わたしはどこにいっても生フルーツを絞ったジュース。



次の朝は、コーヒー激戦地とも言われる京都における、
ロースタリーのコーヒーを検索して行ってみました。
御所の隣の区画を入って行った角にあります。
築100年越えだそうですが、京都ではそれくらいはザラです。


やはり町屋の土間を客用スペースにしたお店で、
不思議なことに、シングルオリジンの豆を2種類選ぶシステム。


選んだコーヒーの名前が書かれた細いスリップが一緒に出てきます。
色からもお分かりだと思いますが、とにかく浅煎りで、軽い。

確かに飲みやすいといえば飲みやすいし、香りも良かったんだけれど、
MKは「薄すぎて好みではなかった」ときっぱり言い切りました。

京都では次の日にも違うところにコーヒーを飲みに行きましたが、
そちらは美味しいと言い切りました。

この人は何につけ好みがはっきりしており、中間がありません。
よって決断も早いので、買い物で迷うこともありません。


郷に入れば郷に従え。
京都に来たからにはと、この日も和菓子の茶寮に行くことになりました。

もちろんこちらのお家も築100年越えどす。
但し、こちらのお店ができたのは1947年で現在店主は2代目と、
京都の和菓子店にしては比較的新しめです。


数寄屋造りの一軒家が喫茶と物販店になっています。



塀には「苔を踏まないでください」と英語で書いてありました。
中国語でも書いておくべきだと思う。


お座敷で枯山水の庭を見ながらお茶とお菓子をいただきます。



ここに何を食べにきたかというと、わらび餅です。
作り立てをお店で食べることができますが、持ち帰りできません。



ついでというわけではないですが、せっかく京都に来たので、
父のお墓にお参りに行ってきました。

以前は参拝客しかいなかった父の菩提寺には、今回観光客がうじゃうじゃいて、
このときも、中国人の若い女が山門の石段で(この写真にも写っている)
馬鹿馬鹿しいポーズをとって連れの男にいつまでも撮影をさせていました。

彼らへの嫌悪感を表情に出さずにいられた自信は全くありません。



その日の夜は焼き鳥専門店に行きました。
このお店も祇園の、外国人ツァー客がウロウロする一角にあります。


最初に今日出してくれる焼き鳥を全部見せてくれます。


セーブしながら食べたのですが、この身の大きなこと。
あえなく途中でお腹いっぱいに・・・。



最後にフルサイズの親子丼が出てくるって、それなんて拷問?
ご飯極限まで少なめでオーダーしても食べられませんでした。


Sさんの新幹線の時間が決まっていたので送って行き、
前回の京都旅行でGBくんたちと行ったというバーに行きました。

蝶ネクタキシードの絵になるバーテンダーのいるオーセンティックなバーです。


TOが仕事でひと足さきに帰ったので、帰りの車はMKと二人です。

Sさんとはその後、銀座のいつもの小料理屋で一夕食をご馳走したり、
MKは二人で鎌倉で丸一日フルに遊び倒して大いに楽しんでいました。

■ SONYショールーム見学

GBくんたちのために企画した恩返しツァーのラストは、
日本の誇る世界のSONY本社ショールームの見学でした。



最後に何が食べたいかリクエストを聞いたところ、
アメリカ人二人の驚愕の答えは「お好み焼き」でした。

というわけで、SONY見学の前に、品川駅にある大阪風お好みの店へ。



このときわたしは用事があったため、参加していません。
ゲスト二人はお好み焼きに大変満足だったようですが、TOたちが、後から

「そういえば、マヨネーズと青のりなかったね」

「なかった」

「何か足りないと思ってたけどそれかー」


などと、聞き捨てならないことを言い合っていました。

なぜお好み焼きにマヨネーズがないのを疑問に思わない?!
それに気づかないなんて、関西出身者の風上にも置けん。

というか、
大阪のお好み焼きを謳っていながら、マヨネーズも青のりも出さないとは、
お店も一体どういうつもりなのか?とつい気色ばんでしまいました。


それはどうでもよろしい。よろしくないけど。

お好み焼きを食べた彼らとわたしはSONY本社のロビーで待ち合わせしました。

このツァーは誰でも参加できるというものではなく、ビジネスパートナー、
法人ユーザー対象の「SONY SQUARE」というショールーム見学です。


本社エントランスロビーには「VISION-S」があり、
もちろん、アイボくんもいました。
ここは写真自由ですが、ショールーム内は撮影禁止となっています。

今回見学したSONYスクエアですがSONYの事業全般を紹介するもので、
アテンダント(今回は英語を喋る人)と一緒に広いゾーンを1時間でめぐり、
映画で使用された実際の衣装やカメラを見たり、スタジオを体験したり、
(気がついたらアイボくんが近くをウロウロしていたり)
CGの合成映像に自らが映り込んだり、ゲームをしたりします。

最初にGBくんと京都で食事をしながら興味があるか聞いたところ、
二つ返事で行きたいといったので、TOが申し込みをしてくれて、
その結果、幸運にも見学をさせてもらうことができたわけですが、
恩返しツァーの一環としてこれを実現させてあげられて本当に良かったです。

■ 皆去りし後

SONYの後、GBくんたちを成田まで送り、その後Sさんも帰国しました。
必要な買い物(インターンシップ先へのお土産に東京ばな奈を買いに行くとか)
MKが行っておきたいところには、わたしも積極的に付き合ってやりました。


この日は蔵前のロースタリーLeavesコーヒーに行ってみました。



客は皆、窓際に一列になった椅子に座って、カウンターの中で
バリスタがコーヒーを淹れているのを凝視しています。

ここにいるのは、スターバックスでフラペチーノを頼んでいるのとは
全くコーヒーに対する要求の異なるガチ勢であることは確かです。



ここでいうコーヒーはイコールプアオーバーのことです。
カップ一杯が2500とか3000円のものもあります。



いわゆるコンテストに使うレベルの豆も飲むことができます。

飲みながら気がついたのですが、この時いた外国人(たぶん台湾人)は、
バリスタのコンテストなどに出る選手?を含む関係者で、
日本人もその世界の人たち(つまりプロ)のようでした。


こちらは別の日に行った鎌倉のVerve。

ここはコーヒー店としてはリーブスほどガチではありませんが、
ロースターがあって、ここから各地に豆を送っているようです。

このとき、カウンターの中でスタッフが勉強会でもしているのか、
いろんなコーヒーをテイスティングしていました。


明日帰国という夜、MKと横浜のレンガ倉庫のビルズでご飯を食べました。



シュニッツェルは少し味が濃くて辛めでしたが、美味しかったです。
夜ということで、シグネチャーのリコッタチーズパンケーキは断念しました。


そして、彼も帰国して、新しいアパートでの生活を始めました。
もう少ししたら、新しい職場での仕事も始まります。

こうして怒涛のおもてなし月間が終わった今、一抹の寂しさを感じながらも、
この1ヶ月にあった様々なことを思い出しては楽しんでいるわたしです。


ツァーシリーズ終わり





MKの恩人に恩返しツァー〜稚内編「鹿続きの旅の終わり」

2024-11-01 | お出かけ

MKの恩人とそのガールフレンドを含む家族で、
なぜか北海道の稚内に旅行に行ってきた話、続きです。



この朝、何気なくGoogleマップの位置情報を見て、当たり前のことながら、
自分のいる位置がまさに日本の天辺であることに感銘を覚え、
記念のスクショを撮っておきました。(太陽マークは住居地)


ところで、昨日アテンドしてくださった牧場の社長は、
連れにアメリカ人がいるということでこのようなパンフを用意してくれました。

従前は日本人でも夏以外は訪れないような最果ての地だったはずですが、
今や、こんな充実したパンフレットを三カ国語、しかも
中国語は簡体字と繁体字の2種類用意して、Webサイトもあるほど、
国際的な観光地として成り立っているということです。



「北防波堤ドームで撮った写真をSNSに上げよう」
(日本語は『インスタ映えする写真を撮る』)

■ ホテルの敷地にエゾジカ

ここに来てすぐ、車で走っているとその辺を鹿が走り回り、
車が彼らを轢かないように慎重に運転している様子を目撃しました。

前回の奈良に続き、やたらと鹿に縁がある今回のツァーです。


朝、車に用事があってホテルを出ると、エントランス横の敷地内に
鹿の群れが朝ご飯に来ていたので驚きました。

こちらにいるのは文字通り北海道に生息するエゾシカで、
ホンシュウジカと呼ばれる奈良の鹿とは形態も差異があるそうです。

他のニホンジカより大きめで、オスのツノは種の中でも最大なのだとか。



ウィキのエゾシカの項目に掲載されていた稚内で撮られた写真。
いかに稚内にエゾシカが多いかがわかります。

もっとも、人間が開拓でやってくるまでは、ここはエゾシカの天国で、
原始の森に大群で生息していたわけですから、彼らの立場になれば、
人間は後からやってきてこちらを迫害する害獣ということになります。



しばらく鹿を眺めていたら、奥にキタキツネがいるのに気がつきました。
鹿のリーダーらしい雄も、キツネに気がついて注目しています。

キツネは肉食ですが、ネズミや鳥、昆虫、蛇などを食し、
大きくてもせいぜいリスしか狙わないので、シカにとっては無害ですが、
やはり仔鹿を含む群れのボスジカとしては警戒しているようです。

このとき、ボスが睨んでいるのにキツネも気がつき、見つめあっています。


その時、ボスジカがこちらを振り返りました。

この写真にもわかるように、お尻が白いのがエゾシカの特徴です。
これはオスメス、季節関係なく、みな同じです。

彼らはこれから多雪寒冷の季節を迎えるため、食べられるだけ食べて、
せっせと体重と脂肪組織を増やしている最中です。

キツネはその間、なぜか場所を移動し始めました。



何をするかと思ったら、欠伸しながら後足を思いっきり伸ばしてストレッチ。
ボスは何してんのあいつ、みたいに凝視しています。

キツネの伸びを生まれて初めて目撃しました。
猫みたいに背中は丸めず、足だけを伸ばすようです。


伸びをしながらボスジカとわたしを交互に見ているキツネ。



そのとき、ボスジカが、警告の意味なのか一声鳴きました。

わたしは兼ねてから、百人一首の、

「もみじ踏みわけなく鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」

という句を見るたび、鹿ってなんて鳴くんだろうと思っていましたが、
今回の奈良・稚内旅行で、もう一生分くらい鹿の声を聴いた気がします。

エゾシカはこんな鳴き声を出す!@北海道西興部村 キューキューと、なかなかキュートです。

■ 稚内公園展望台と記念館

二日目は丸一日、わたしたちだけで観光することになりました。
とりあえずどこに行けばいいですか、と社長に聞いたところ、
稚内公園に行って、高いところから海を見下ろすのをお勧めされました。


稚内公園は、海に対して切り立った丘の上にそびえる、この展望台、
「開基百年記念塔」を持つ観光地の一つです。

ここに宗谷村が設置され役所が置かれてから100年後の1979年に、
それを記念して建設されたのがこの記念塔だということです。


ここが稚内湾を一望する、見晴台。


見晴台からは泊まっているホテルと防波ドームがよく見えます。
冬はマイナス10℃になり、この一帯は深く雪と氷で覆われてしまうため、
展望台も10月末から4月下旬(ゴールデンウィーク)まで閉館となります。


峯孝作「出」(バレリーナの像)の前で。



最初はこの昭和感濃い記念館が営業しているとは知らなかったのですが、
近づいたら開いていることがわかったので、入ってみました。



右手のエレベーターで展望台に上ります。


展望台高さは海抜240m。
今さっきまでいた見晴台がまるでミニチュアのよう。


展望台から肉眼ではこのような眺めが360度パノラマで広がります。
今右手に見えているのは、樺太?それとも宗谷岬?


展望台の影。


昆布で有名な利尻島の「利尻富士」。


食べ物も水もない、海抜240mの展望台に迷い込んでしまったハエ。
しかもここはもうすぐ半年間閉鎖になります(-人-)

■稚内歴史資料


展望台に上るには自動的に入り口で入館料を払うことになるので、
まあ時間もあることだし、と歴史博物館を見学しました。

これは、開拓団が入り、町として開けた宗谷に赴任した役人が、
極寒の地で生活するために鍛鉄で製作した西洋式ストーブで、
その名も「カッヘル」(オランダ語の『ストーブ』)。


北海道でアイヌは先住民族ですから、北海道の地名は
ほとんどがアイヌが使用していたものの漢字変換です。

例えば「宗谷」も、アイヌ語の「岸の途中に岩の多いところ」
を表す「ソ・ヤ」(二文字で済むのが謎)と呼ばれていたからです。

ついでに稚内は「ヤム・ワッカナイ」=「冷たい水の出る沢」。
北海道に「内」のつく地名が多いのは、アイヌ語の「ナイ」
=小さい川・沢がよく使われていたからです。

苫小牧は「ト・マク・オマ・ナイ(沼の奥にある川)」。
真駒内は「マク・オマ・ナイ(奥にある川)」。

また士別、江別などの「別」は「ペッ」=大きな川という意味です。

ここに展示されているのは宗谷にいたアイヌの所持品などで、
左上の人物は最後のアイヌ文化継承者、柏木ベン氏(1879〜1963)です。


左の地図(北海道北端)は、伊能忠敬測量による原寸大のもの。
間宮林蔵は、実は伊能忠敬に測量の指南を受けています。

ちなみに、稚内のゆるキャラ「りんぞうくん」は間宮林蔵がモデルですが、
ここは思い切って「まみりん」でもよかったかもしれない。



サブゼロが当たり前のこの北の果ての地でも、開拓団が拓き、
役所ができればそこに赴任させられる公務員もいたわけで、
江戸時代、ここに勤務した武士たちは、冬の夜も凍え死なないように、
このような寝棺(藁を重ねてその上に毛皮を敷いてある)を発明しました。

想像するに、火を焚くしか暖を取る方法のない時代、
部屋の中でも気温は外と大差なかったのではないでしょうか。

現地の説明にもありましたが、彼らは当時、
そんな赴任地で、毎日凍死の恐怖と戦っていたと思われます。

この寝台は再現されたものなので、中に実際寝てみることもできます。

■稚内駅の変遷


稚内港が開港した明治12年、役所が開設されました。
このジオラマは、明治29年当時を再現しています。



1928年(昭和3年)開業した稚内港駅。
初代駅舎は港に連絡させるため、海側にありました。



1938年(昭和13年)移転した第二代目稚内港駅。


この写真は1939年のもの


そして、昭和感あふれる三代目稚内駅舎(wiki)

■ 氷雪の門〜真岡郵便電信局事件



日本の降伏後、樺太へのソ連軍の侵攻が始まりました。
終戦を受けても疎開せず業務に当たっていた真岡電信局の女性交換手は、
8月20日、ソ連軍が真岡に上陸したとの知らせを受け、自決を図りました。

写真は、このとき自決によって亡くなった9名の女性です。

稚内公園内にある、彼女らの慰霊のために建てられた
「殉職九人の乙女の碑(9人の乙女の像)」には、
当初、彼女らが最後に打電した、

"皆さん、さようなら、さようなら、これが最後です"

という言葉とともに、自決は日本軍の命令であるとあり、
戦後この件について事実と照らしさまざまな議論が起こったと言います。

■ 宗谷サンセットロード


稚内から宗谷本線と並行し利尻島側を南下する海岸線の道路は、
構造物がない自然だけの景色が見えるという話を聞いていたので、
この日はこの「宗谷サンセットロード」をドライブしました。



道道(北海道の道)106号線は、途中で名前を変えながら
海沿いに沿ってほぼ北海道を一周します。


ザ・北海道。


この日の目的地であるカフェに到着しました。
牧場があることから、きっとこの辺はアイスクリームが美味しいに違いない、
という意見が出て、案内の社長に伺ったところ、
北海道内のコンテストで賞を取ったお店を教えてくれたのです。



お店の半分は雑貨を売るコーナーになっていました。
キャラクターグッズや、アメリカからの直輸入らしい物が主流です。


どういう意図か「ビーガン」とプリントされたエプロンがあったので、
お節介ながらポケットには牛をアレンジしておきました。



たくさんのメニューがあり迷ってしまいました。
これはロコモコ丼。



カフェでもラーメンが食べられるのが北海道。
気のせいか、ちょっとカフェ風なオシャレ感漂うラーメンです。

皆が期待していたアイスクリームですが、どういうわけか全員、
飲み物にアイスが混入したもの(ミルクセーキとか)を頼んで、
気がついたらもうアイスはいいや、という状態で、誰も頼みませんでした。

■ トナカイ牧場


次に訪れたのは、トナカイ観光牧場。

天塩の幌延というところにあり、例のガイドブックには載っていません。
つくづく偶蹄目シカ科に縁のあるツァーですが、これも偶然です。



どうしてここにトナカイ牧場があるかなんですが、
脱サラした本州の人がフィンランドでトナカイの飼育を学び、
平成元年、北海道に牧場を購入して家畜として輸入したのが最初です。

その後、観光を目的として幌延町が広い牧草地を購入し、
平成11年のクリスマスにトナカイ観光牧場としてオープンさせました。

駐車場に降り立った途端、漂うトナカイの香りでその存在は確認しましたが、
ご覧のように、柵の近くにはごく少数がウロウロしているだけ。
資料によると、現在35頭が生息しているそうです。

この少数は、観光客のくれる餌を期待して近づいてきたようですが、
いかんせんその客が、わたしたちとこのカップルだけだったという・・。



わたしとTOがカップルの餌やりを見ていると、三人が登場。


建物の出口にあったサンタクロース衣装を着て出てきたのでした。


三人とも実に誇らしげ。
カップルは心なしかそそくさと引き揚げていきます。


たとえどんなしょぼい観光地でも(ここがそうだと言ってるのではないです)
こういう人たちと一緒だと、全く退屈しません。

SAさん一人、トナカイのかぶりものを選ぶあたり、いいセンスしてます。
さっそくお友だちが近づいてきました。


「良きにはからえ」王者の貫禄的な?


角を切った跡があります。
考えたこともありませんでしたが、トナカイはメスも角を持つのだそうです。
そうか・・女子もサンタのソリに加わることがあるんだ。

「ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、
コメット、キューピッド、ドンダー、ブリッツェン」


もしかしたらコメット、ブリッツェンはメス?

サンタとトナカイの三人の姿を見て近寄ってきたトナカイは、
彼らが餌やりをしてくれないことがわかるととっとと離れていきました。



トナカイ牧場だけあって、立派なもみの木が・・・・、
と思ったのですが、これものすごく精巧なニセ樅木です。

当牧場では冬になると張り切って「トナカイホワイトフェスタ」を開催、
(毎年やっているんだと思うけど、どうかしら)
イルミネーションや、各地イベントにトナカイを派遣するなどしています。

冬は、雪上をトナカイの引くソリに乗るというサンタな体験もできます。



この三人の写真が撮れただけで、ここに来た甲斐があったかも。


帰りは少し遠回りして、海沿いを走りました。
道路沿いにも風力発電が林立しています。

■ 稚内最後の晩餐



ドライブから帰り、部屋で休憩してから、稚内最後の夕食に選んだのは、
ミシュランで過去一度星を取ったことがあるというステーキ店。

ここだけの話ですが、地元の人の噂によると、
かつてこの店で、J×のメンバーが酔って?大騒ぎし、
店主が怒って、彼らを出禁にするという事件があったそうです。

何があったかはわかりませんが、出禁にするくらいだから、
度をわきまえなかった客が悪いんだと思うのですが、地元の人は、
議員まで入れ和解を図ったのに、店主がんとして謝罪を受け入れず、
どちらかというとそこまで頑固なのもいかがなものか、
みたいになっているという話を聞いて、なんだかなーと思いました。

だからお店としてもお勧めできないというのは違うんじゃない?と。



というわけで、ここで食べてみました。
メニューはシンプル、フィレかサーロインステーキの二択。

写真を見てお分かりのように、昭和で時が止まっています。

お店の構えもそうですが、このバターの載ったステーキ、人参の切り方、
そういえば昔、ステーキ店ってこうだった、とノスタルジーにかられました。

お味も、小さな頃三宮で食べたステーキを彷彿とさせるものでした。



わたし以外のメンバーはその後ホテルのバーに繰り出しました。
向こうにある怪しい光を放つカクテルにはライト型の氷が混入しています。
これはGBくんが頼んだものだということです。


次の朝、最後なのでホテルの前の緑地帯を歩いてみました。
ここでは時折ランタンフェスティバルのようなお祭りも行われるようです。



ただ、この一帯もそうでしたが、この季節、稚内は
くまなく動物園のような鹿の匂いに包まれていたことを告白します。


というわけで、その日お昼過ぎの便で稚内を発ちました。
今後の人生で、ここに再び戻って来ることはあるかしら。


離陸した飛行機が上昇中、真下に見えたのは大沼です。
稚内市域最大の沼で、毎年白鳥がやってくることでも有名でしたね。

そうだ。
雪の降るころ、ここに白鳥を見に来るっていうのもいいかもしれない。


続く(!)




MKの友人に恩返しツァー〜稚内編「本州最北端の地を制す」

2024-10-29 | 歴史

奈良から帰ってきてすぐ、MKが帰国した時の重要な任務である、
デンタル関係(普通の歯科と矯正歯科)に行ってきました。

矯正に関しては高校生の時と遅い時期になってしまったのですが、
噛み合わせの調整も含めて結構大変なその治療を、

「アメリカの大学に行ったり、もしアメリカで生活するのなら
多少大変でも絶対に矯正はやっておいた方がいいと思います」


と始めさせてくれた矯正歯科の先生には大変感謝しています。

矯正は無事に終了し、今は帰国のたびに歯並びをチェックして、
ナイトガードを調整してもらうために一度訪れることにしています。


矯正歯科のある代官山は、東京でも特にお洒落な雰囲気のエリアで、
建物も、その中に入っている店舗も来るたびに変わっています。

歯科のあるビルの一階には無印良品が絶賛開業準備中でしたし、
このブルーボトルコーヒーも冬に来た時にオープンしたばかりです。

車はいつもTSUTAYAのパーキングに停めるのですが、
買い物をしてサービス券を貰ってもまだ高い駐車代にいつも唖然とします。

東京都心は間違いなく世界で一番駐車料金の高い地域でしょう。


ここに来ると、つい頼んでしまうスモークサーモン付きのプレート。

アボカドが付いてくるのは嬉しいのですが、アメリカとは違い、
コンディションのいい(黒くなったりしていない)ものはまれ。

アメリカでは店頭でその日に入ったものの熟れ具合を目で確かめて、
一番美味しい時にいただくことができるのですが、輸入品に頼るため、
日本では難しく、このときのアボカドも果肉が黒ずんで苦くなっていました。

最近は日本で美味しいアボカドを食べることはほとんど諦めていて、
その分、アメリカに行くとその分もせっせと摂取しています。



クリーニングとチェックアップの歯医者は汐留にあるので、
お昼は日テレ近くのブラウンライスカフェ、銀座通りのファンケルビル、
あるいは銀座三越のレストラン街になります。

三越にはいくつか中華レストランがあり、これは
その中でわたしが一番美味しいと思った四川飄香(ピャオシャン)。
中華100名店2021にも選ばれたそうです(今知りました)。

麻婆豆腐大好きのMKが、美味しいと感嘆し、
単品で注文した鶏(よだれ鶏)も最高でした。



わたしが頼んだあっさりスープの鶏麺は、お店の方が、
「味変にどうぞ」と持ってきてくださった薬味でこちらも大満足。

■ 稚内に到着


さあ、恩返しツァーも後半戦に差し掛かりました。

何日か横浜に滞在した彼らと、羽田空港で集合し、
1日に2便しかないという羽田ー稚内便に乗って1時間半後、
飛行機が下降してくると、緑地の尾根に風力発電の風車が見えてきました。


広い土地利用の一つの方法としての風力発電開発です。

ところで、稚内にはTOの仕事関係の知人が提携業務をお持ちで、
兼ねてからいいところだからぜひ、とお勧めされていたので、
アメリカから帰ってきてから行ってみようと検討していました。

ちょうどその頃、MKの恩人GBくんが日本に来てくれることが決まったため、
一応本人に北海道に興味はあるかとと尋ねてみたところ、
ぜひという返事だったので恩返しツァーの一環として計画したという経緯です。


この海岸線はもしかしたら日本の最北端?

眼下に円形の緑地帯が見えますが、これは宗谷公園の多目的広場、
「宗谷ふれあい公園」で、「ふれあいゴルフ場」「ふれあいオートキャンプ場」
「ふれあいキャンプ炊事棟」「ふれあいロッジ」などがあり、
やたらとふれあっている一帯であることがわかりました。

一角に位置する「サハリン友好の森」は、サハリン州との連携を通して
民間レベルでの日露友好を深めようとしている運動の賜物のようです。


空港のレンタカーで一番セレナ(ミニバン)を借りて、
迎えにきてくださったTOの知り合いの知り合いの後を付いて走りました。
この日は晩までこの方のご案内で行動することになっています。

ちなみに空港駐車場は無料で、その気になれば何日でも停められるそうです。
世界で一番駐車場の高いところからやってきたわたしは軽くショックでした。


お昼を食べていないわたしたちのために、案内の方は、
(有名牧場の社長、つまり牧場長)レストランに連れて行ってくれました。
クロユリ群生地にいきなり現れたのは風車のついたサイロ風建物。
ここは宗谷丘陵上に立つ展望&休憩施設です。

後で知って驚きましたが、4月29日から11月3日の間しか営業しないそうです。
今年にもうあと少しで営業終了するということですね。


牧場長さんが連れて行ってくれたのはここの食堂。
もう2時になっていたせいか、客は私たちだけでした。
それにしてもテーブルとテーブルの間が広い。


迷いながら選んだ塩ラーメン。

北海道の食事はどこに行ってもハズレなし、とは知っていましたが、
プリプリと弾力がありかつ柔らかいホタテ、あっさり目のスープ、
コシのある麺が混じり合って絶品でした。



最初いくら丼を頼んでいたのに、皆が「ラーメン」と言うので
ふと気が変わって結局ラーメンにしてしまったわけですが、
お店の人がミニ丼もあると提案したので、TOが追加で頼んでくれました。

このイクラが他で食べるものと全く違ったのは、
この写真からもお分かりいただけるでしょう。

■日本最北端の地に立つ



そしてここに来る観光客が全員そうするように、最北端に到達。
宗谷岬の「日本最北端の地の碑」は日本の「てっぺん」にあります。


ふと横を見ると、間宮林蔵の像が。
身体を微かに捻り、その視線はサハリンの方向に注がれています。

この日は沖にサハリンが見えましたが、間宮はこれが島であることを発見し、
ついでに島と大陸の間に海峡があることも発見し、間宮海峡と名付けました。

それまでサハリンが島だと誰も思わなかったのかい、
とつい思ったのですが、これをご覧ください。


展望台にあった間宮のサハリン探索コース

これを見ると、宗谷から見る限り、サハリンが島なのか、それとも
大陸から生えている?半島なのかは不明だったのがわかりますね。

これは、間宮が実際にサハリンに行って、大陸との間に
海峡があることを確かめて初めてわかったことでした。

ところでわたしはなんとなく間宮林蔵はスパイだった、
という噂というか都市伝説めいたことを聞いたことがあったのですが、
wikiにより、実際樺太探検が終わってから、幕府の隠密として
全国各地を調査して、地方の犯罪を検挙していたということを知りました。

「スパイ」という言葉が的を得ているかどうかはともかく、
職業欄も「御庭番」「探検家」となっているので、探検より隠密が主任務で
噂?は本当であったということになります。

■ 牧場見学



TOの知人の紹介ということで空港まで迎えにきて下さった牧場長には、
最北端観光に続き牧場の見学もさせていただきました。

まず牧場事務所で、会社(牧場)案内のビデオを観覧。
その後車で牛舎に連れて行かれたのですが、



事務所を出たところで全員防疫のための青い靴カバーを渡されました。



まず連れて行かれたのが仔牛の生育ブース。

生まれた仔牛はすぐに母牛と引き離される運命ですが、
成長にとって大切な免疫を含む初乳は飲ませてもらえます。

ここでは実際に母牛から直接もらうのか、それとも初乳を搾乳するのか、
そこまでは聞けませんでしたが、この話を聞くと、いつも

「♩僕が毎日牛乳飲むから それを仔牛が知っているから
怒っているのか 牧場の仔牛 知らない顔して遊んでいました」


という歌を思い出します。

小さい時には、なぜ僕が牛乳を飲むと仔牛が怒るのか、
自分も飲んでるんだからいいじゃないか、と思っていたのですが、
仔牛が牛乳を飲めるのは初乳だけで、あとは母と引き離されて人工乳、
と知ってなるほどと思いました。



動物の子供は何でも可愛いものですが、黒々とした目の仔牛の可愛さは異常。

しかし、牧場の牛が何のためにここにいるかを考えると、
彼らを「かわいい」と思うことにすら、心の何かがストップをかけてきます。

いや、いいんですけどね。「可愛い、そして美味しい」で。
可愛いに「そう」がくっついてきさえしなければ。

「命をいただく」ということに関しては、当牧場のHPを見ると、
他の同業種同様、定期的に彼らを慰霊する「獣魂祭」を執り行っています。

当牧場の牛には黒毛の和種からできた「和牛」と、
黒毛と「ホル」(ホルスタイン)を掛け合わせた「黒牛」の2種類がいます。

ホルスタインの血が入ると、どこかに白い模様が入るそうです。


ブースの中には、干し草、水、ミルクの3点が備えられています。



大人牛がいる牛舎にも案内してもらいました。
車を前に停めると、中から鹿が二頭飛び出してきました。
時々忍び込んで、牛のご飯を食べるのだそうです。

忍び込むといえば、牧場のニュースを見ていたら、かつて
ヒグマが「散歩していたのでハンターが捕獲した」という記事がありました。

捕獲されたヒグマ

「銃器を使用して捕獲」って・・・つまり射殺したってことですよね。
鹿がご飯を盗むくらいなら大目に見られても、ヒグマはなあ・・。

何かのはずみで牛を食べて、そのおいしさに目覚めでもしたら大変だから、
もう、問答無用で「捕獲」なんだな。


社長がこの牛さんたちを指さして、



「ここにいるのは今年のクリスマスには食卓に上がります」

それを聞いて全員、

「・・・・・・・・・・・」し〜〜〜〜ん
(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)


その後は牧草地を一望にできる高台に案内していただきました。


ここを宗谷岬ウィンドファームといい、
風の強い丘陵地帯一帯に57基の発電設備が並んでいます。
当然のことながらこれが日本最北端の発電所です。

発電の風車は三菱重工業製。

2005年からここで作った電気は稚内全体の電気の6割を賄い、
全量を北海道電力に売電しているということですが、
20年目となる2025年からは新しい風車に建て替える計画だそうです。


丘陵地帯の道を進んでいくと、タイヤの感覚が「滑る」感じになり、
同時に「白い道」と呼ばれるちょっとした名所に差し掛かりました。

「白い道」は産廃となるホタテの貝殻を廃物利用して敷き詰めた
ロマンチックな自然のウォーキングコース(11キロコースと5キロコース)。

ですが、遮蔽物が一切なく、常に風が吹くこの丘陵地を、
2時間歩くために来る奇特な観光客は果たしているのかしら。

おそらくほとんどは、車で通過して途中で写真を撮るだけだと思います。

■波除ドームの壮麗



ホテルに近い、稚内港にやってきました。
ここには、名所の一つ、北防波堤ドームがあります。

北海道遺産、土木遺産に指定されたこの構築物は、文字通り防波堤ですが、
どうしてここだけこんな立派なものが唐突に、と思ったら、
昭和6年、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船が就航していた頃には、
このドームの左端まで国鉄の線路が延長されており、
船から降りた人たちはドームを通って波にも雪にも濡れず、
「稚内桟橋駅」から電車に乗り込むことができたのだそうです。


今、遊覧船が就航していますが、別のところで発着します。



設計したのは北海道帝国大学を卒業した、
若干26歳の北海道庁技師、土谷実という人でした。
(今この名前で調べてもオウムの人しか出てきませんでした)

防波堤なのにエンタシス状の柱が並ぶ様子は実に壮麗というか、圧倒的。
大学を出たばかりの一公務員である土谷技師のセンスの賜物です。

どうしてこの人がその後の建築界で有名にならなかったのか不思議ですが、
おそらく、彼はその人生を北海道庁に奉職することで満足していた、
ある意味「足るを知る」人物であったのではないでしょうか。



ドームは上に乗ることはできませんが、横には遊歩道ができています。

■大鵬幸喜上陸の地


ドームは今改装中で、右から順番に補強をし直しているようです。

そしてドーム前の広場の一角にあるのが「大鵬幸喜上陸の地」の碑。

「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が表す通り、
昭和の人気力士と言われた大鵬ですが、
実は父親がウクライナ出身の白系ロシア人でした。

コサック騎兵、マルキャン・ボリシコと日本人の母親の間の三男で、
納谷幸喜という本名の他に、イヴァーン・ボリシコという別名を持ちます。
出生地は南樺太、当時は日本でしたので、大鵬は日本生まれとなります。

第二次世界大戦後、ソ連が侵攻してきたため、大鵬は母と共に
小樽に向かう引き揚げ船「小笠原丸」に乗り込みました。


小笠原丸

終戦の8月15日、「小笠原丸」は稚内にいましたが、
樺太の引き揚げ任務を要請され、8月20日、租界者1514人を乗せて出航。
翌日、稚内に到着し、半数強の878人が下船します。

悲劇はその翌日、22日に起こりました。

稚内港を出港して小樽に向かう途中、「小笠原丸」は、
増毛(留萌の下)沖5浬でソ連の潜水艦L-12の雷撃を受け、沈没したのです。

L型潜水艦

その時、潜水艦は「小笠原丸」を沈没させると、浮上して、
波間に漂う人々に機銃掃射を加えているのが離れた監視台から目撃されました。

沈没による死者641人、生存者61人で、収容された遺体は468体でした。

そこで大鵬の話に戻りますが、この時、大鵬母子は稚内で下船していました。
「小笠原丸」を降り、波除ドームの下を歩いて行ったことでしょう。

だからこそ、ここにそれを記念する碑が立てられたわけですが、
これがただの話でないのは、彼らの下船は当初の予定になかったことです。

元々彼らは樺太から小樽まで行こうとしていました。
しかし、母親の納谷キヨが出港後、船酔いで気分が悪くなってしまい、
我慢できずに稚内で途中下船したことで、翌日の難を逃れたのでした。

言うまでもありませんが、このとき母親が船酔いしていなかったら、
後の大横綱、大鵬幸喜はおそらく生まれるべくもなかったのです。

このことは大鵬自身も深く心に留める人生の転機の地として、
生前いくども稚内のこの場所に足を運び、

「ここ稚内で降りたことで今の自分がある。
横綱になれたのも、稚内が原点となっている」

という言葉を残しているのだそうです。


そのあとは、稚内港を臨む地に立つホテルにチェックインしました。


旧ANAホテルということで内装は都会のシティホテルと同じ。
驚いたのは、いつも駐車場(もちろん無料)が満車であること。

そして、一度、大人数の中国人観光客のグループが大挙していたことです。
彼らの会話を聞いて、チャイニーズ・アメリカンであるSAさんが、

「彼らはカントニーズを喋っていた」

と言うので、

「ということは香港から来たっていうこと?」

と聞くと、おそらくそうだろうとのこと。
はー、こりゃ驚いた。

何のために中国人が稚内なんぞに観光に来るのか。
東京も京都も見飽きちゃった、という通なリピーターなのか。
それとも、北海道が珍しいのか、最北端に立ちたかったのか。

いずれにしても、10年前ありえなかったことが今日本で起こっているようです。


その日は、社長さんのご案内で、ホテル近くの居酒屋で親睦会。
さすがは北海道の居酒屋、何を食べても普通に新鮮、普通に美味しい。

「ところで御社の黒毛和牛はここでも頂けますか」

と聞き、早速注文して出てきたのがこれ。
伺ったところ、ここでお皿に乗ってくるためには、
やはり2、3ヶ月前に出荷されたものだということでした。

わたしたちは、命の恵みに心から感謝して、これを美味しくいただきました。

続く。


MKの友人に恩返しツァー〜奈良編

2024-10-26 | お出かけ

MKがコロナ禍の際アメリカでお世話になった友人への恩返しツァー、
二日間京都を堪能したあとは、奈良に移動しました。



この写真、お寺ではなく、今回泊まったホテルのエントランスです。
最初は車の入り口だと思わず、通り過ぎてしまいました。



外側はお寺のようですが、中は昔の公邸風です。
それもそのはず、ここは1922年に完成した木造平屋建ての知事公舎で、
つい最近まで実際に使われていました。


かつては正面玄関に横付けされていた車の専用道の名残が見えます。

知事公舎として使われていたのは2017年までだそうで、
4期務めた前知事の荒井正吾氏は、公舎最後の居住者となりました。


1920年代というからおそらく落成直後の写真

ところで奈良県庁舎はこの真横に位置しており、
計ってみたら公舎から県庁まで歩いて4分、距離にして550mでした。
(裏から入ればおそらくもっと早く到着すると思われます)

こんな距離でも知事は庁舎まで車で往復していたんだろうか。

世の中には20m歩かされて激怒する知事がいると知り、ふと思いました。



エントランスを入ると、そこには神々しくらい立派な松の盆栽が。



正面玄関内側からエントランスを臨んだところ。
画面左手は利用者の駐車場で、宿泊客も別料金が必要です。


チェックインする客は、まずこのロビー奥にあるラウンジ、
「寧楽(なら)」に通され、ここで甘茶をいただきながら手続きします。


壁などはリノベーションしてありますが、おそらく床はそのまま。



そして、窓の桟も、この鍵の形状から見て当時のままでしょう。

■ 御認証の間と昭和天皇御行幸の写真


「寧楽」に入る前にホテルの人に案内されるのがこの「御認証の間」です。

正確には「批准書御認証の間」といい、昭和26年、
サンフランシスコ講和条約締結の文書にここで昭和天皇が署名されました。

今は白いカバーが被せられて見えませんが、一番奥の椅子は
天皇がお座りになったもので、それだけが赤い天鵞絨に金色の枠です。

説明に書かれた文をそのまま掲載しておきます。

1951年(昭和26年)、
参議院本会議では、衆議院に続いて2条約が承認され、
当時首相であった吉田茂は会議後に批准書
(条約に対する国家の確認・同意を示す文書)に署名を行いました。

憲法の規定で天皇の署名も条約締結には必要なため、
当時の官房副長官 劔木俊宏(けんのきとしひろ)が、
奈良御行幸中であった昭和天皇の元に赴きました。

翌19日、昭和天皇が御滞在中であった奈良県知事公舎にてご帰還を待ち、
昭和天皇がお戻りになった夕刻時に、
天皇は侍従長だけを伴って部屋に入り「裕仁」と署名をしました。
(ママ)

この「御認証の間」は、歴史を追体験できる場所として、
当時のまま保存されております。




昭和天皇が批准書に署名の際にご使用になった硯箱。
現物は寧楽美術館が所蔵しています。


できるだけ現物のまま残そうとする試みのせいでしょうか。
「御承認の間」は、その外壁にも全く改装が加えられていません。



当時使われていた窓ガラスも全くそのまま残されています。
昔は、ガラスの固定のために、このようなパテが使われていたんですね。


この御行幸の際の写真が御認証の間に続く廊下に掲示してありました。


まさにこの知事公舎外門の様子。
おそらく陛下のお迎えをする人たちが集まってきているところかと。



これが知事公舎に陛下をお迎えをした時ではないかと思います。
右は侍従、左は知事夫人でしょうか。



黒紋付きの正装でお迎えする婦人たちの前を通り過ぎる陛下。

昭和天皇は戦後すぐの昭和21年から8年間半をかけて、
沖縄を除く全国46都道府県を御行幸されました。

昭和26年5月17日に皇太后が崩御された喪中であったにも関わらず、
除喪されてまで、近畿への御行幸は行われたそうです。

奈良に御行幸されたのは同年11月18日、19日の二日でした。


提灯行列でのお迎えにお顔が綻ぶ陛下



「土師」と呼ばれる(社会で習いましたね)陶工が、
祭器や埴輪を作っていた万葉の昔から続く「赤膚焼」の窯元だと思います。

■部屋にチェックイン



手続きが済んだら、客室に案内されますが、今までの棟から出て
まずこの道を横切り、左の門内に入って行きます。

道の突き当たり向こうは奈良公園です。


この道は自動車も、一般の人も立ち入り禁止となっているので、
物見高い観光客が入り込むこともありません。



宿泊棟は同じ敷地に二つあります。
部屋はスタンダードからスイートまでで43室しかないそうです。



鹿(しし)おどし「風」噴水。
(奈良では鹿を脅かしてはいけないから?)


いつものようにエキストラベッドを一つ入れました。
部屋の仕切りにいかにも「万葉」なカーブがデザインされています。


我々は一階の庭に面した部屋。
GBくんとSAさんの部屋は2階です。



同ホテルのスイートルームには、部屋に温泉がついているそうです。

今回の部屋ですが、今まで使ったことのないカード会社などの特典で、
GBくんたちの部屋はサービス扱い(つまり無料)で取ることができ、
京都ではふるさと納税を大いに利用して節約を心がけました。



食事の前に、宿泊者なら誰でも参加できるシャンパンサービス、
「ガーデンディライト」の案内があったので、
再び先ほどの道を横切って向かいのカフェに向かいます。



「茶寮」「カフェ」と言う言葉のイメージとは全く違う建物。
カフェ「世世」ぜぜでは、このシャンパンサービスや朝食を提供しています。



どうみてもお寺だが、と思ったらやっぱりそうでした。

ここは昔、興福寺の子院(本寺に所属する寺)世尊院でした。
建物に入ると、改装後とはいえ、まだ微かに線香の匂いが感じられます。


ここで無料のシャンパンと軽食を楽しみ、それから夕食、という趣向です。



この日はGBくんの「日本で食べたいものリスト」から寿司を選びました。

MKの恩人に日本でもとびきり美味しい特別な寿司を体験してほしい、
とTOが満を持して選んだのが、この鮨&バー、その名も「正倉」。

知事公舎時代、蔵であった建物の中に作られました。(それで正倉)



最初に、一人1匹ずつ、笹の葉でできたバッタがお迎えしてくれました。
目を楽しませるためだけの演出で、気がついたらいなくなっていました。


最初の小鉢、「AWA」。
自芋茎と無花果を泡で和えたもの。



ハモと松茸のお吸いもの。


金目鯛の昆布締めでございます。



赤身。とろけるようなトロでした。


シャキーン!と道具が出てきて、炙り鮨。
これらのお寿司を味わったGBくん、身体をのけぞらせて、

「(今までで世界で一番美味しいと思った)
ニューヨークの何とかいうレストランより美味しい」


とMKにそっと囁いたそうです。(何とかは忘れた)

ちなみに彼の父はいわゆるセレブリティなので、
アメリカの超一流のレストランも体験済みですが、
その彼が言うのですから、よほど感動してくれたのでしょう。


「昨日空けたお酒ですがいかがですか」

と、板前さんにおすすめされた黒龍の「火いら寿(ひいらず)」。
名前の通り生酒で、限定品ということです。

MKのグラスからふた口だけもらってみましたが、
丸みのある甘さと馥郁とした香りがただものではない印象でした。



最後に和牛の炙り。



デザートは奈良らしく、葛を焼いた羊羹風お菓子、そして
お土産として革の袋(鹿の皮かな)に入った金平糖をいただいて終了。


■ 奈良公園の鹿模様

次の日の朝、早く起きたわたしは隣の奈良公園に散歩に行きました。


奈良県立美術館には、学校の遠足や見学で何度も来ていますが、
最後に来たのは家族と展覧会を見に行った20年以上前です。


最初に遭遇した鹿さんたち。



立派な角をお持ちの雄です。

奈良の鹿が「神様の使い」とされていることは誰でも知っていますが、
彼らが、元々茨城にある鹿島神宮の神である武甕槌命を背中に乗せて、
春日山までやってきた白い鹿の子孫であることはあまり知られていません。

それにしても茨城から奈良まで大人の男を乗せて歩き切った鹿グッジョブ。


自動販売機の横にもいる・・。

奈良の老舗である奈良ホテルに宿泊し、朝起きて庭を見たら
そこに鹿が佇んでいたと言う話を聞いたことがありますが、
今回泊まったホテルでは、もし庭に鹿がお入りになった際は、
「丁重にお願いして出て行っていただく」とのことでした。

神様の使いは多少のことは大目に見られるので、実にフリーダムです。


公園の反対側の緑地帯にも生えていました。
角切られたばかり?


今はもう終わっていますが、このときは角切りの行事間近でした。



看板を見ていると、もうすぐ切られる予定かもしれない角を持った鹿が、
水たまりにやってきておもむろに泥浴びを始めました。



人間がお風呂に入っているような爽快さがあるのでしょう。



ひとしきり泥を浴びると、角を使って痒いところを掻くの図。
角切られちゃったらお尻掻けなくなるね。


「小心牡鹿」は中国語で「牡鹿に注意」という意味です。

現在雄ジカは発情期に入ったということなので、
主に外国人に向けて、英語、韓国語、中国語で注意がありましたが、
鹿が暴力を振るうというより、殴ったり蹴ったりして鹿を怒らせ、
その結果襲われる中国人の事件が頻発していることを受けてでしょう。

こっちが何もしない限り鹿は絶対に向かってこないんだよ!(怒)


看板を見ていたら、一頭の雌鹿が横断歩道を渡ってきました。
(奈良では鹿もちゃんと交通法規を守る)

すると、ねえねえ、という感じで雄の鹿が彼女に近づいて行きます。
もうこの段階から、雌鹿ちゃんは警戒して身を固くしているのがわかります。



雄鹿がずいっと一歩踏み出したところ、雌鹿ちゃんってば、

「あ、あたし用事思い出しちゃった」

という感じで雄の脇をすーっとすり抜けていくではありませんか。
全く脈なしです。もはや生理的に嫌われているレベル。


雌鹿ちゃんの雄のかわし方は、あくまでさり気なく、
ずっと地面に落ちている何かを探している風を装っているようなのが、
まるで上司のセクハラを気付かぬふりでかわす部下女子を見るようでした。

雄鹿は彼女の去っていくのをその姿勢のまま見送っていましたが、


あたかも最初からこの場所に用事があったように柵を見つめています。
鹿にも「気まずい」とかいう感情ってあるんですかね。



最初は(相手を刺激しないように?)ゆっくりでしたが、
もうここまで来たらスタスタと早足で逃げていく雌鹿ちゃん。



振られた雄は途中まで後を追って彼女の後ろ姿を見ていましたが、



わたしに気づくと「何見てんだよ」と言いたげに睨んできました。
(ように思えました)



この後、県庁横のスターバックスに行ったのですが、
可愛らしい木彫りの鹿が店頭に飾ってありました。

背中にコーヒーカップを乗せているのは、おそらくこれがなければ
子供を乗せて写真を撮る中国人(断言)がいるからだと思われます。

鹿の横の看板には4カ国語で乗らないように注意書きが書いてありました。



県庁の施設の一環だと思われる広報コーナーでは、
休憩したり検索したりできる施設が充実しています。
手前はやっぱりというか、中国人限定の鹿関係の注意喚起ポスター。

■ 朝食、昼食、チェックアウト



朝ごはんは、知事公舎の客間を修復・再生したレストラン、
「翠葉」でいただくことになっています。




茶粥か白米が選べる朝ごはんのお膳。

もちろん美味しかったですが、この頃になると私たちはあまり会話もなく、
全員が静かに黙々と出されたものを食べるといった感じでした。

日本人の我々にとってもこの辺りになると和食ばかりは辛かったので、
アメリカ人二人にはそろそろ限界だったかもしれません。


朝食の後、帽子屋さんに行きました。

昨日の京都行軍で、帽子なしで炎天下歩いたGBくんは、
白人肌のため、すぐに火傷状態になってしまったので、とにかく
何か陽を防ぐかぶりものを買いに行く必要があったのです。

そこで思いついて、「中川政七商店」本店に行ってみたのですが、
季節の変わり目ということで日除けのための帽子は売っていませんでした。

お店の人は申し訳なさそうに「帽子屋でしたら裏の商店街にあります」
と教えてくれたので、みんなでここに行ってみたと言うわけです。

こんな商店街の個人店(失礼)だから安いかと思ったら、
GBくんが最終的に選んだごく普通のつばのある帽子が、
(モンベルだと3〜4000円?)8000円と高額だったのが驚きでした。



その後、全員でフラッと入った同じ商店街のビンテージ古着店では、
主にアメリカから仕入れてきたらしい古着、軍の制服(名札付き)とか、
この「マイク・ハーレイの思い出のために」と書かれた帽子とかを見て
ゲラゲラ笑い、全員でやたらハイになって盛り上がってしまいました。

ところでこれ、マイク・ハーレイなる人物が亡くなって、彼を知る人が、
決して彼を忘れないようにと、こんな帽子を作ったということなんですが、
なぜそれが日本の、しかも奈良にある?

帽子の持ち主がグッドウィルとかに寄付しちゃったってことだよね。
マイク・ハーレイの悲しい思い出はもうどうでもいいのか。

それと帽子の鹿のマークが気になります。
なぜ鹿?奈良と関係ある?



ホテルに帰って、チェックアウトしてから車と新幹線二組に分かれました。

全員の荷物を積んだ車にわたしとMKが乗り、GBくんとSAさんは、
TOと一緒に新幹線に乗って横浜のホテルにチェックイン。
わたしたちは彼らのホテルまで荷物を届けるという作戦です。

写真は、ホテルの駐車場でアップルカープレイがなかなか作動せず、
いつまでも発車できずに二人でごちゃごちゃやっていたところ、
敷地内で作業を始めた植木屋さんです。(深い意味はありません)



同時刻、奈良公園で3人は鹿にせんべいをやっていました。


TOがあげたせんべいを食べている鹿の後ろから、怪しげな雄
(目隠ししておいた)が体を擦り寄せていますが、TOによると、
この雄鹿はこの後、雌に結構な狼藉を働いて、辺りが騒然としたそうです。

嗚呼、煩悩の季節。



この後、わたしとMKを乗せた車は渋滞に全く引っかかることもなく、
順調に帰ってきたわけですが、富士山付近で見た雲が変でした。

この写真ではわかりにくいですが、富士山にも薄く雲が被っています。



これは富士山付近では珍しい現象ではなく、度々見られる竜のような巻雲で、
日本海側に発達した低気圧があるときなど、
湿った風が富士山にぶつかることでこういう形を形成するのだそうです。

この後、横浜のホテルに到着し、部屋にいた彼らに(寝ていた様子だった)
トランクを渡したのは、夜の7時半くらいのことでした。

彼らはこの日からしばらく横浜に滞在して観光を行い、
その後、最後の恩返しツァーにわたしたちと一緒に出発することになります。

続く。



MKの友人に恩返しツァー〜京都編

2024-10-23 | お出かけ

MKと一緒にアメリカから帰国してすぐ、彼の大学時代の友人が来日し、
友人とそのガールフレンドを接待するためツァーを決行した、
というところまで前回説明しましたが、今日はその京都編です。

そもそも彼を日本に招待したのは、わたしたち夫婦でした。
コロナ禍で大学だけなく大学寮も閉鎖になることが決まり、
外国人留学生であるMKがどこに行けばいいのか困惑していたところ、
カリフォルニアの自宅に招待してくれたのが、その友人だったのです。

彼の父親は世界で知らない者がないシリコンバレーの有名企業創業者で、
家は寝室がいくつもある豪邸だったとはいえ、わたしたちが申し出ても
彼の家族は滞在費どころか、食費すら受け取ろうとしませんでした。

金銭的なことを抜きにしても、あの異常な事態下で、
息子を家に招いてくれたことにわたしたちはどんなに感謝したか。

この御恩をいつか形にして返したいという思いで、
コロナが収まったら必ず日本に来てほしい、と声をかけていたところ、
今回ようやく来日してくれることになったのです。



関西に到着する彼らとは、京都で合流することになり、
わたしたちは後の移動のことも考えて車で現地に向かいました。

新東名は120キロ区間があって、いつもは走行が楽ですが、
この日は雨天の上、工事で50キロに規制されている区間が多く、
いつもより少し時間がかかったかもしれません。

ここは上りにあるNEOPASA(新東名のパーキングエリア)浜松ですが、
浜松といえば?そう、ヤマハですね。

というわけでPAの前面はピアノの鍵盤を思わせる作りとなっています。
(但し、よく見ると鍵盤の並び方は正しくありません)

この日、お昼ご飯は、最初から鶏三和の親子丼にしよう、と決めていたので、



「鶏三和がどこのPAにあったか調べて欲しい」

とTOに頼んだら、逆向きの上り車線にある浜松PAを指定したので、
わざわざ稲佐で高速を出て引き返し、この親子丼にありついたのですが、
後から、同じ系列の「伊藤和四五郎商店」なる親子丼専門店が
下り車線にもあったことを知りました。

同じ店なのに、上り線と下り線でなぜ名前を変えて営業するのか(謎)



新名神を京都東インターで降り、山科の京都薬科大を通り過ぎたところから
渋滞で車が全く進まなくなりました。

原因はこれ。

横転(どころか真っ逆さま)しているのはレクサスで、
どうやら左の青いトラックにぶつかったようですがトラックは無傷。

こんな狭い二車線道路で何がどうなった。
わたしたちの車を救急車が追い越していきましたが、
人的被害はどうやら軽微だったようで何よりです。

■祇園の料理旅館にチェックイン


京都でいつも利用させていただいている旅館に到着し、
橋の前で車から荷物を降ろしていたところ、MKの、

「Dude!」

という声に振り返ると、わたしも会った事のある友人GBくんが、
高校時代からのガールフレンドSAさんとやって来るところで、
お互い再会をハグで喜び合っていました。

今時の若者なので、オンラインで頻繁に繋がっていたとはいえ、
実際に会うのは、GBがMKを空港まで送って行ったとき以来です。

この後、本館から一筋離れた別館に全員でチェックインしました。



部屋は一階に彼らが、二階に我々が泊まることになり、全館貸切です。
ところで、久しぶりの京都は、「オーバーツーリズム」という言葉が
これほどぴったりな表現がないくらい、大変なことになっていました。

この写真は朝8時台に撮ったので通りは静かな様子ですが、


陽が高くなると夜更けまでほぼ一日この状態。
(写っていない左側には2〜30人くらいの人のかたまり)

角の神社には写真を撮る人の列ができているほどです。
ディズニーランドの撮影ポイントじゃないっつの。

橋の近辺には外国人(なぜか欧米系が多い)が固まってたむろし、
夜になると現地在住の外国人ガイドが率いるツァーが、そこここに溢れ、
お茶屋の前でレクチャーしているのを皆で頷きながら取り囲む状態。

道を歩く芸妓さんをスマホで撮影しながら追いかけまわし、
世界中から顰蹙を買っている動画もこの辺で撮られたものです。

バス通りには、次の停留所まで届くのではないかというくらい
待ちの列が伸びており、地元の人たちがバスを利用できなくて困っている、
というネットでの話も、実際に確認することができました。



その夜は、お二人を上座にお招きしての夕食。
会食に先立ち、TOがGBくんにコロナのときMKを預かってくれて
本当に我々は感謝している、というお招きの趣旨を述べました。


この日の夕食膳のメインは、鴨のローストと鱧です。



最後の「お食事」(ご飯のことね)はイワシ。
普通は混ぜ込んで配られますが、今日はそのままいただきました。
(まぜまぜする食べ物があまり好きでないため)

夕食の後、彼らは全員で地元のバーにいきましたが、
わたしは長距離の運転で疲れていたので、部屋で早く休みました。



そのため次の日は誰より早く起きたので、朝近隣を少し散歩して、
帰ってきてから朝ご飯までにお風呂を楽しみました。

ようやく窓を開けても大丈夫な気候になったと思いましたが、
それは朝の間だけだったことが後でわかります。


豪華なことで有名なここの朝食ですが、ガールフレンドのSAさんが
なんと「卵が嫌い」(アレルギーではないらしい)で、
卵料理を豆腐に変えてもらっていました。

そして、豆乳を飲むと喉が痒くなる人が3人、
蕎麦を食べるとおそらく死ぬ人が一人、アーティチョークが嫌いな人が一人。

何のアレルギーもなく、特に嫌いなものもないのはわたしだけでした。


以前ここでお話ししたこともある、通いのサギ(おうちゃん?)は、
この日も板場の外で魚を放ってもらうのをじっと待っていました。

■王道の京都寺院巡り観光



この日は京都でTOが仕事に行ってしまい戦線離脱したので、
小隊を率いるのは、このわたしになってしまいました。

と言っても、わたしも京都観光の達人というわけでもないので、
ここは一つ無難にまとめようと、まず哲学の道を歩いて下り、
永観堂を経て、彼らが見学を希望した清水寺という王道コースを設定。

写真は一列縦隊で行軍中、振り向いて撮ったもの。
とにかく暑かったです。



永観堂には前回紅葉の季節に訪れました。
その頃はまだコロナの影響で密を避けるため、入り口で待たされましたが、
今はフリーすぎて人が無制限になだれ込んでいるような状態。

京都の神社仏閣に長年訪れてきましたが、庭に面した廊下に
人が鈴なりになって座っている情景は初めて見ました。

哲学の道を歩いてきた彼らも、ここで休憩。



東屋の中にすら人が・・・・。


この廊下の混雑ぶりを見よ。

奥の女性は全力でポーズを決め、肩むき出しにしてファッション撮影中。
神社仏閣でやることかと内心思いますが、多くの中国人はこんな感じです。
他国の宗教施設だろうが、素敵な自分の写真の背景としか思っていません。

いや、流石に鳥居にぶら下がったり石塔に上ったりしてないだろ、
と言われるかもしれませんが、敬意を払っていないのに変わりなし(断言)


昼食の時間になりましたが、朝ご飯が重かったので、
築100年越えの京町家を改装したいつものブルーボトル蹴上店に
軽食と休憩とコーヒー補給を兼ねて立ち寄りました。


そして清水寺。
清水の舞台は人が鈴なりになっていて、これにも驚かされました。



ここが「清水の舞台から飛び降りる」の語源になっているということを
英語で説明したけどわかってもらえたかな。



ここも、過去訪れたどの時よりも外国人観光客だらけ。
これがお祭りの境内でも何でもなく、平日の様子だというのが恐ろしい。

今でこれだから、紅葉の季節はどうなってしまうんだろう。

■ 舞妓さんの踊り付き夕食



この日の夕食はTOが手配して、祇園のお茶屋さんでいただきました。
メインはこの鮎の塩焼きで、外国人には苦手かな、と案じたのですが、
二人ともさすが若いせいかパクパクと何でも食べてくれました。



この日は舞妓さんが踊りを披露するというエンターテインメント付きです。

「ぎおんこいしや だらりの帯よ」

という「祇園小唄」は花柳界に全く縁のないわたしも
関西在住であるせいか、なぜか小さい時から知っています。

ちなみにここのうちの娘さんは有名な女優さんで、
そっくりなお姉さんが途中でお給仕のため登場されました。


驚いたのは、この舞妓ちゃん、この後も全く引き揚げることなく座敷にいて、
次のお座敷バーにも着いてきて同席して飲み物を頼んでいたことです。

舞妓さんを連れて歩くのを喜ぶお客さんもいるのでしょうけど、
ホステスさんのような接客をしてくれるわけでもない17歳の女の子に、
アメリカ人二人はもちろんMKもTOも話しかけたりしないので、
何だかわたし一人が気を遣って気まずかったです。

彼女によると、祇園全体で舞妓はたった30人くらいしかいないそうですが、
毎日の厳しいお稽古と慣習に縛られ生活全てが修行という生活は、
今どきの女の子にはあまり受け入れられないのかもしれません。

自衛隊の入隊志望者がなかなか増えないのと根っこは同じかと思われます。


お座敷から見える渡石を堂々と歩いて、真ん中で伸びしていた黒猫さん。
女将さんによると、何匹か住み着いていて、餌ももらっているそうです。

旅館の鷺と同じく、いいもの食べてるんだろうなあ。

■ 丸福楼ホテル(旧任天堂本社)に宿泊


大学を3年で卒業(単位さえ取れば可能)したGBくんの進路はゲーム関係です。

ということで、京都二日目のホテルは丸福楼、つまり
任天堂発祥の地であった旧本社ビルにご招待しました。


わたし達の部屋にはエキストラベッドを入れました。
内装、調度、全てセンスが素晴らしく、さすがは世界の任天堂です。


わたしがこのホテルが好きなのは、このように
旧任天堂ビルの部分をそのまま遺して見せてくれるところ。

タイル張りの床や壁、大理石を貼った飾り台、
日にすかすと歪みが見える当時のままの窓ガラス。

ソフト帽を被った当時の任天堂の社員たちが毎朝通勤してきて
この入り口から仕事場に向かう様子が目に浮かぶようです。


これもおそらく当時のままの受付台。


オーストラリアから来た夫婦が残したメッセージ。
ここに泊まろうとする客に任天堂に無関心な人はいません。



前回気が付かなかったのですが、ホテルの二階には
ロビーのラウンジとは別にライブラリーバー「dNA」というのがあり、
ここは任天堂のちょっとした博物館のようになっています。

バーカウンターにも繋がっており、ここでは
いつでもセルフサービスでお酒を飲むことができるのだとか。

本棚には、任天堂に関する本と、ゲームが普通に展示されています。



わたしはファミコン関係詳しくないのですが、
右上のには見覚えあります。


ゲームボーイっていうのもありましたね。


ゲーム機器に混じって、花札用のサイコロがあったり。


「山内任天堂」だった頃のカルタ・トランプの値段表もあります。
今と変わりのない社屋(右側)と東京支店(左)の写真に、

群を抜く!
かるたの中の『かるた』安く良いかるたは丸福かるたに限る
国産に比類なき安く良いトランプは丸福スタンダードナポレオンに限る


という時代を感じさせるコピーが踊ります。


カルタの会社であることから、丸福楼は、旧事務棟をスペード棟、
スペード棟に接続して新しく作られた客室のあるダイアモンド棟、ハート棟、
そして旧倉庫であった部分にこのレストラン「carta.」を備えた
クラブ棟という構成になっております。

朝日が綺麗に差し込むこのレストランで、朝ごはんをいただき、
1日を始めるのは、いつも本当に気分がよいものです。



卵料理。
調理、サーブをしてくれるのは全員楚々とした女性スタッフです。



お味噌汁とおにぎりも定番。
料理家の細川亜衣さん(細川元首相の義理の娘)の監修で、
日本古来の調味料、薬味、発酵商品を使用することを謳っています。

■ 怒涛の和菓子責め



チェックアウトした後、TOの立てたプランにより、
まず抹茶を自分で点てて和菓子をいただくことができるお店に行きました。

彼らにとっては抹茶茶碗を持つことも初めてです(たぶん)。



完成形。


メインはお茶を売っている店なので、SAさんは家族へのお土産にと、
お茶の葉を購入していました。

店内は外国人観光客がいっぱいです。
従業員は彼らに流暢な英語で接客をしていました。



そしてTO、何を思ったのか次も和菓子の有名な老舗に連れて行きました。

ここでは目の前で和菓子を作ってもらい、それをいただくという、以前、
日本橋で体験したのと同じイベントだったのですが、なぜまた和菓子なのか。



嫌いというわけではないですが、和菓子の餡子など、
一回食べれば次は1年後で十分、というわたしにはこれは辛かった。

まあ、外人さんに京都ならではの和菓子現場を体験していただくという、
その狙いと目的は十分過ぎるほど伝わったと思います。

■ 京都のジン蒸溜所


京都で最後に訪れたのは、「季の美」というジン蒸溜所でした。

京都が歴史的な土地であるということに加え、伏見などの水をはじめ、
ジンに必要な柚子、山椒、緑茶など良質な材料の産地であることから
2014年に3人の創業者によって設立された蒸溜所です。

元々スコットランドからウィスキーを日本に輸入していた会社の創設者で、
ジンに特化した蒸溜所を設立し、「季の美」として売り出し現在に至ります。


京都の町家をそのまま店舗に改装し、坪庭も残してあります。
かつて開け放されていた二階はガラスで覆われて。


一階は店舗とバー、2階は資料館となっていてジンについて学べます。


一階にはカウンターとテーブルがあり、テイスティングを兼ねて
ここでジンを使った飲み物をいただくこともできます。



「季の美」が好きなMKの提案で寄ったお店ですが、
GBくんもSAさんもそれなりにお酒が好きなので、楽しんでいるようでした。

この後、彼らの荷物をわたしの車に載せ、
若者3人は電車で、そしてわたしとTOは次の接待地、奈良に向かいました。

続く。


アパート引越しに張り切ってしまった件〜ベイエリア雑感

2024-10-19 | アメリカ

久しぶりに日本の自宅でブログ制作しています。

MKのインターンシップが終了し、就職先での勤めが始まるまでの1ヶ月、
日本で過ごすことになったので、一緒に帰国してきたのですが、
10月19日現在、ようやく一連の行事が終わり、PCに向かっている状態。

帰国以来、MKのアメリカの友人たちを案内しての、京都、奈良、
そしてなぜか稚内旅行、続いて関東圏でのおもてなし行脚が終わり、
成田まで彼らを送って帰ってきたのが昨日のこと。

今日はアメリカを離れるまでのシリコンバレーでの生活を、
淡々と写真を貼りながらご報告いたします。

冒頭写真は、ご覧のようにハロウィーン用に並んだカボチャですが、
その名も「ウァーティゴブリンパンプキン」(イボイボ小鬼)といい、
より一層ハロウィーンチックな禍々しさに満ちています。

ちょっと調べてみたら、宣伝文句が
「恐ろしくてクール」「怖くて美味しい」
おそらくハロウィーンのためにわざわざ品種改良したんじゃないかな。

アメリカ人のハロウィーン好きは異常で、暦の上で夏が終わると、
まだヒートウェイブが来ているような気候でも、
お構いなくハロウィーングッズがあらゆる店に並び始めます。

スーパーでもジャックオーランタンのためのカボチャが並ぶのですが、
こんな不気味なタイプのカボチャを見たのは今回が初めてです。

アメリカのカボチャは日本の「カボチャ・パンプキン」のように
ホクホクしておらず、どちらかといえばサラサラの食感。
彼らはこれをパイにしてハロウィーンの食卓に並べます。

オーストラリア人もハロウィーン好き

■ MKアパートへの引っ越し



今回の滞米目的は、MKの退寮と就職後のアパート探し。

それに伴う引っ越しや家具を探すなど、とにかく機動力が求められたので、
荷物が大量に積み込めるSUVというリクエストで車を予約したところ、
ハーツの指定されたロットには、このVOLVOが置いてありました。

試運転以外でこの車に乗ったのは初めてですが、運転しやすく、
オートクルーズの制御能力が素晴らしく、何より荷物の搭載力抜群。
引っ越しにも、買った家具を持って帰るのにも大活躍でした。



引っ越しの日、最初に受け取った荷物はソファーベッド。
ムーバーが帰ってから二人で場所を動かし、ベッド状態にして記念写真。


続いて、サンフランシスコの家具屋で注文した横長の棚が到着。
二人でなんとか組み立てたのですが、大きいので結構大変でした。



出来上がって当初の予定通り置いてみたのですが、
ソファの状態ではご覧の通り完璧なのに、ベッドにすると
家具とソファの間に隙間が空いてしまうことがわかり、


窓下に置いてテレビ台にすることにしました。
これならベッドにした時どちらのサイドからも起き出せます。



近隣のIKEA(こちらではアイケアと発音する)には何度も足を運びました。


こちらのIKEAのレストランも人気です。


白身魚やグリーンピースなど、結構ちゃんとしたものが食べられます。


広大な倉庫で商品をセルフピックアップするやり方も日本と同じかな?


ウォークインクローゼットに入れるためにIKEAでチェストを買いました。
これがまた組み立てるの大変で・・・引き出しとかめんどくさすぎ。



玄関のドアを入ったところに靴を置くための棚を置きました。
アメリカ人は基本部屋で土足なので、玄関に靴箱がないんですよね。

経験上、部屋で土足禁止にしているAirbnbも多いですし、
来客には玄関で靴を脱いでもらうことにしている人も存在しますが、
部屋に入る工事などのワーカーにお願いしても断られます。
理由は、「危険だから」。

まあ安全靴を履いて行うような仕事ならそれも当然かもしれませんが。



ほとんどの家具が揃い、電子チェロのスタンドもAmazonで買いましたが、
あちこち見に行っても最後まで決まらなかったのがコーヒーテーブルでした。

MKは新しいアパートで人を招くことを非常に重視していたようで、
ソファー、テレビ、コーヒーテーブルを真っ先に揃えたがりました。
(そんなものよりPCデスクが先だろうとわたしは思ったのですが、
仕事が始まったらあまり家でPCはしないだろうと本人談)

このテーブルは、ソファーを買ったお店に行ったところ、
比較的安価で質の良い家具を揃えているそのお店で見つけたもの。
オーナーが、また来てくれたからと1割引してくれました。

揃えた家具を見ればお分かりのように、イメージはミッドセンチュリーです。


ソファー前のセッティング完了。
テレビはブラーヴィア。日本人ならSONY一択(個人の感想です)

照明はこれもあちらこちら探し回って「わたしが」見つけた納得の品。
多くのアメリカの家は天井に照明がなく、特にリビングルームや寝室は
フロアランプを置くことが普通になっているので、自分で揃えます。

新居のために家具を揃えたりするのって久しぶりだったのですが、
根っからそういうことが好きなわたし、つい張り切ってしまいました。

MKのためというよりまず自分自身が楽しんでいた節があります。



一人で部屋の整理に勤しんでいたある日、まだ暑かったですが、
コーヒーを淹れたので、ベランダで外を眺めながら飲みました。



道を挟んだ向こうにあるのは大型スーパー「セイフウェイ」。
見えませんが左にはTrader Joe's、その向こうにあるのがウォルマートです。

トレーダージョーズはオーガニック系スーパーなので、
ホールフーズと同じくらい意識高い系=収入高めの客層ですが、
ウォルマートに行くと、ガラリと客層が変わるのに驚きます。

同じ敷地にあるのに、ウォルマートに来る人は服装や風体などが下層っぽく、
こういっては何ですが、ヒスパニック系、そして肥満の人が多い気がします。

ウォルマートの商品はとにかく安く、食料品は特に、
オーガニックなどとは対極にあるような安かろうの品揃えなので、
とにかく安ければなんでも、みたいな人が来るのでそうなるわけです。

ヒスパニック系の物売りが駐車場に勝手に販売車を出して、
道ゆく人に声をかけるのもウォルマートの前だけです。

セイフウェイはTrader Joe'sよりさらにウォルマート寄りの客層でしょうか。



ベランダからふと下を見ると、一階店舗(銀行)の軒ひさしの上に、
明らかに上階の窓から投げ捨てられたらしいものが散乱していました。
玩具や絵本が多々含まれることから、躾の悪いがきんちょの仕業と思われ。

親は知ってるのか、それとも知らないふりをしているのか。

■コーヒーショップ



貸オフィスビルの向かいにあるお馴染みのコーヒー屋さんに行きました。
店内にはあまり席はなく、テイクアウトして外のテーブルでいただきます。

オーツラテにはブルーボトルコーヒーと同じマイナーフィギュアズ製を使用。
わたしも、こちらでは同社のオーツドリンクをホールフーズで買います。

カウンターの、いかにもベイエリアの店らしい水鳥マークが可愛いんですが、


この店の「店内ペット同伴不可」お知らせはさらに可愛すぎた。

「サービスアニマル」とは盲導犬のことで、少なくとも
左端の犬のようなことは絶対にしないという前提。


何も考えてなさそうなマーキング中の犬、カップにもプリントされてます。



ユニバーシティ通りのverveにも二、三回行きました。
右は、日本のverveでもいただけるオーバーナイトオーツ。
ただしこちらの方が日本のより量が多くて美味しいです。




以前ここで報告した黒人のホームレスは見ませんでしたが、
代わりに?いたのがMKの後ろの女性ホームレスらしき人。

外のオープンスペースの一列を占領してそこに荷物を並べ、
盛んに身振り手振りをしながら誰かと話しています。

ただし、そこにいるのは彼女一人で、電話しているのでもありません。
コーヒーカップを口に運んでいますが、中はおそらく空。
人が集まる週末のカフェで、社交をしているつもりなのでしょう。


アメリカでは特に最近ホームレスが増えていますが、中には家を持たず、
ずっと車で生活しているような、中リッチ?タイプも出現しています。

夜間は路上駐車したり、見回りの来ない店舗駐車場の隅に停めているようで、
そんな人の車は中に持ち物一切合切がぎっしり積まれていてすぐわかります。

車上生活者の中には、キャンピングカーで生活する人もいます。



この日、オークランドのロースタリーにコーヒー豆を買いに行ってみました。
パッション・エンポリオという店名だと思います。


右のテーブル席で勉強している二人はMKの出身大学の学生。

窓に「ブラックライブスマター」とありますが、
共和党が決して勝てないと言われるカリフォルニアの中でも
オークランドって特にリベラル色が濃い地域ではないかという気がします。

あくまで個人の感想です。

ただ、次の選挙、いくらなんでもハリスはないだろうと思いたいですが、
カリフォルニアでは今年もやっぱり民主鉄板なんだろうか。



手作りのコーヒー椀でいただいてみて、美味しかったのでこれを買うことに。


ココナッツがカウンターに座ってココナッツカップでレモネードを飲む図。
この豆は実際にココナッツの味と香りがしました。

最近買った豆で一番感動したかもしれません。

■ ユニバーシティアベニュー付近のお店今昔



ユニバーシティ・アヴェニューには古くからお店が並ぶ中心地です。
パロアルトの歴史を見る限り、1800年台から商店街だった模様。
このMac'sというシガーショップは、シガーだけでなく、新聞、
今はお酒や飲み物も売っている古いお店です。



昔の写真発見。1940年代っぽいですね。
隣は靴みがきなのか床屋なのか。


こちらはその隣、1924年創業という「ベルズ・ブックストア」。
歴史的建造物の目録にも載っている建物で、
この時代のダウンタウンの商業店舗の優れた例の一つとされています。

店の正面からは、本を持ち上げるためのクレーンが見えます。



今でも普通に本屋として営業しています。


ショーウィンドウに置かれた本もテーマに沿っていて、
このウィンドウは「ものづくり」がテーマです。

左下にあるのは、日本の指物の歴史などについて著した豪華写真本です。

ハシゴを使ってのぼる高い棚には、明らかに図書館にしかないような
シェイクスピアなどの古書が堂々と商品として展示されていて、
「あれが欲しい」といったら売ってくれるのかと不思議でした。


白いビルを撮った写真(の横に見えているのが当店)
車のタイプから言うと1950年代でしょうか。



1986年の写真。今とあまり変わっていません。



本屋の向かいにあるのはその名もシュミットビルディング。
最初のオーナーのシュミット氏は、サンフランスシスコの住人でしたが、
地震の後こちらに移住してきた「地震難民」の一人でした。

この文字は細かいタイル地に黒いタイルで描かれており、
今はタイ料理の店などになっています。

建物は1922年に建てられ、それから今日まで、ここには木材業のオフィス、
カイロプラクティクの診療所、靴屋とマーケットなどが入っていました。

1986年ごろ、靴屋とマーケットだった時代

■ 日本に帰国



空港に高速101ではなく海岸側の280号を通って行ったとき、
海側から海岸沿いの山を越えて霧が覆い被さってきました。

空は晴れているのに、この地域だけ、この季節は毎晩このように
次の日の朝まで街は深い霧の底に沈んだようになります。

車が霧に突入すると、大抵そこは数十メートル先も見えなくなり、
怖くてスピードを落としたくなるほどですが、
この辺に生まれ育った人には毎日のことなので、皆平気で飛ばします。


飛行機のフライトの都合で、MKは1日早く日本に向かい、
わたしはその日はMKのアパートで一泊して、
次の日の同じ時刻(夜中の1時発)の便に乗ることになりました。

MKにすれば設えたばかりのアパートを1ヶ月留守にすることになるので、
わたしはソファにホコリよけのシーツをかけたり、
Wi-Fiの電源などをすべて切って、部屋を後にしました。

彼には、部屋に戻ったらまず掃除をするように申し伝えてあります。


Airbnbからいつも見ていた公園のバスケットゴールには、
退出の日、お母さんと、お腹の中の妹か弟とコンタクトする子がいました。

もし来年同じ部屋に泊まったら、その時は
3人で公園を訪れる親子を見ることができるかもしれません。





空軍WAC/翼を持った天使~国立アメリカ空軍博物館

2024-10-16 | 航空機

第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線に空軍として派遣された
陸軍航空隊のWACについて今日は取り上げます。

冒頭写真は、1943年7月にヨーロッパに到着し、
イギリスを行進する第8空軍所属の最初のWAC。

映画「陸軍の美人トリオ」では、フォート・デモインでの訓練を経て
最終的に任官を果たした美人三人娘が、ヘルメットに戦闘服、
という写真のWACと同じ服装で戦地に向かうところで終わります。

彼女らは士官ですが後列の皆さんと同じ装備をしていました。
この写真では、先頭の士官がおそらく隊長で、
この部隊はWACの陸軍看護師部隊(Army Nurse Corps)と思われます。


航空管制はWACに割り当てられた任務の一つでした。

写真のWACは、管制装置を搭載した移動式(トラック)管制室から
航路を外れて迷った爆撃機を基地に誘導しています。

という設定ですが、全員がニコニコしているので、おそらく
撮影用にポーズをとったのだと思われます。

後ろの若い男性軍人の目が心なしか死んでいますが、
彼はおそらくこの中の誰より階級は上です。
真ん中のおばちゃん(マニキュアが赤)は貫禄はありますが、
階級はプライベート、つまり一等兵となります。

右上にあるのは彼女らを称賛するカール・スパーツ将軍のお言葉。

「WACの価値ははかりしれないものだった。

メンバーは誰もが献身的に働き、しばしば、
並外れたパフォーマンスを要求される困難な任務をこなした」



ジミー・ドーリトル中将と握手する
オヴィータ・カルプ・ホビー大佐
Col. Oveta Culp Hobby

ホビー大佐については以前もWACについて扱った時にお話ししています。

空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウィメン

女性初となる陸軍の女性隊 WACの初代司令。
テキサス州知事夫人という身分から軍人として大佐にまで昇進、
女性初の戦中功労賞を授与された人物。


戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで
保健福祉省の最初の事務官となり、キャッチフレーズは

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

写真は当時第8空軍司令官だったドーリトル中将と会談した時のもの。
陸軍では女性部隊の発足を全軍で最も早く実行に移した時、
彼女が「顔」として選ばれ、その後司令にも任じられたというわけです。

当時は補助部隊を意味するAuxiliaryが付随したWAACでしたが、
翌年にはもう「補助」は外されてWACとなりました。

発足時のWAACからWACになるまでの3年間同隊を率いたのが彼女です。

それにしても後ろのWAC、こういう状況でポケットハンドってどうなの。



第8空軍の「スウィッチボード・オペレーター」(交換手)。
陸軍のWACの約40%は航空隊で勤務し、
彼女らは「エアWACs」と呼ばれていました。

■「プリティ・リーグ」女子プロ野球リーグ



このエアWACの軍服は、

テレサ・コブシェウスキー軍曹
SSgt Theresa Kobuszewski

が着用していた実物です。
この人の名前で検索すると、野球人としてカテゴライズされて出てきます。



彼女は1944年5月から1945年11月まで、
第8空軍のWACとしてイギリスで従軍していました。

写真は戦時中から戦後(1954年)まで存在した
女子プロ野球リーグ、「フォート・ウェイン・デイジーズ」
でプレイしていた頃のコブシェウスキー。

女子プロ野球というと、映画「プリティ・リーグ」

『A League of Their Own』が有名ですが、
正確には
「オールアメリカンガールズプロフェッショナルベースボールリーグ」
(全米女子プロ野球リーグ)

と称します。



移動の関係でチームはほとんどがシカゴのミシガン湖沿いにありました。
(『マスキーゴン・ベルズ』というのもあった模様)

あの映画では、姉の所属する「ロックフォード・ピーチズ」と
妹の「ラシーン・ベルズ」がリーグ優勝を競う設定でしたが、
このチームはどちらも実在します。

また、ドラマ「デスパレートな妻たち」には、猫を心の支えに生きていた
孤独な老女が、街を襲った竜巻で亡くなった後、
遺品の中からピーチズのと思われるユニフォームが出てきて、
彼女がかつて女子リーグの剛腕ピッチャーだったことを知った主人公の一人は、
老女を弔うため、遺灰をこっそり掃除機のゴミと取り替えて遺族に渡し、
本物を無人の野球場のマウンドに撒いて捕まる、というエピソードがありました。

映画でも描かれていましたが、彼女たちは「商品」だったので、
女性として好ましい振る舞いと装いを求められました。

ヘレナ・ルビンスタインのチャーム・スクールのクラスに通い、
適切なエチケット、個人の衛生、マナー、ドレスコードなどが決められ、
各選手には美容セットとその使い方の説明書が配られるといったように。

禁止事項も多く、まず短髪にすることは許されず、
公共の場での喫煙や飲酒は禁止され、ズボンも禁止、
常に口紅を塗ることが義務づけられ、反則した場合は罰金、
3回目で出場停止という厳しいものでした。

1944年には、ジョセフィーヌ・"ジョジョ"・ダンジェロが
髪を短く切ったことで解雇されたほどです。


真ん中の男性はコーチで、大抵は大リーグの元選手が務めました。
戦後になるとリーグ出身の女子監督も現れます。

テレサ・コブシェウスキーのデータは以下の通り。

プロ活動期間:1946年から1947年まで

アンダースロー投手としてソフトボールチームでプレー

1942年にWAC入隊
陸軍対海軍チームの優勝決定戦で勝利投手となる

女子リーグにアンダーハンド投手として入隊、
1946年から「ケノーシャ・コメッツ」で1年半プレーした後、
1947年「フォートウェイン・デイジーズ」に移籍

ルーキーイヤー:21試合123イニング 3勝9敗、防御率2.71
1947年:11勝15敗、防御率2.42
208イニングで47奪三振

投手通算成績:51試合登板、14勝24敗
打者通算成績:52試合打率.242(30打数124安打)打点6、得点15

1948年にリーグが厳格なオーバーハンド・ピッチングに切り替えられ、
アンダーハンドの彼女はこれに適応できず、引退

1988年野球殿堂入り

ミシガン州トレントンで84歳で死去


■ウィングド・エンジェル

 USAAFフライトナース



第二次世界大戦まで、米軍は負傷者を後方に避難させるための方法について
あまり考えが及んでいないといった状況でしたが、戦争の規模が拡大すると、
米陸軍航空部隊は、航空避難(後に航空医療避難として知られる)、
そして航空看護師を現場に投入して行くことになります。



米空軍の航空輸送ルートが世界中に急速に拡大したことは、
前線から遠く離れた設備の整った病院に、
傷病兵士たちを迅速に運ぶことが可能になりました。

この「革命」によって多くの負傷兵の命が救われ、
フライトナースの導入がそれを可能にしました。

1942年初頭、アラスカ、ビルマ、ニューギニアの空輸部隊は、
前線に人員と物資を運んだのと同じ輸送機で患者を後送しました。

ヨーロッパでは、差し迫った必要性から、米空軍は医療空輸飛行隊を創設し、
飛行外科医、下士官医療技術者、フライトナースを対象とした
「急行訓練プログラム」を開始します。

危急の必要性から、アメリカ空軍は1942年のクリスマスに、
まだ訓練を終えていない女性たちを北アフリカに送りました。

1943年2月18日、最初にウィングマークを受け取ったのは、
名誉卒業生であるジェラルディン・ディッシュルーン中尉をはじめとする
米陸軍看護隊のフライトナース第一期生たちでした。

ディシュルーン中尉は、Dデイ侵攻後、オマハ・ビーチに上陸した
最初の航空避難チームに参加しています。

しかし、危険は付きまといました。

負傷者搬送に使われた航空機は軍需物資も輸送していたため、
赤十字を表示することはできず、敵の攻撃を受けることになります。

このため、フライトナースと医療技術者は志願制となりました。

あらゆる緊急事態に備えるため、フライトナースは墜落手順を学び、
サバイバル訓練を受け、高高度が患者に及ぼす影響を熟知しなければならず、
さらに、彼女ら自身がこのような過酷な飛行中に患者のケアをするために、
最高の体調でなければならなかったのは言うまでもありません。

最終的に、約500人の陸軍航空看護師が、
全世界に所属する31の医療航空避難輸送飛行隊に所属しました。

戦争中、空輸された1,176,048人の患者のうち、
途中で死亡したのはわずか46人であったことは、
彼らの技術の高さを証明する数字と言えるでしょう。

そして戦争中に命を落としたフライトナースは17名でした。


フライトナースたち @イギリス


上空で患者をチェックする第803航空避難輸送中隊のC-47航空避難チーム、
ポーリン・カリー中尉とルイス・メーカー軍曹



通常、フライトナース1名と医療技術者1名で、
10分以内に避難機を出発させることができるとされました。

飛行外科医が離陸前に各患者の状態について看護師に説明し、
飛行中看護師は患者の安全と快適さを受け持ちました。

1943年7月、シチリア島からアフリカに避難する患者をチェックする
ケイト・スウォープ中尉。

こういう任務に5cmヒールの白いパンプスを履いているのが
さすがは当時の女性という感じです。



C-54の機内で患者の手当てをする医療技術者(奥)
とフライトナース(右下)。
C-54は、より多くの国民を空輸することを可能にしました。


エルシー・S・オット中尉

初の大陸間航空避難飛行のフライトナース。
1943年1月、飛行機に乗ったことも、訓練も受けていなかった彼女は
インドからワシントンD.C.までの5人の重病患者の輸送に成功。

彼女は女性に贈られた初の航空勲章を受章し、
その後正式なフライトナースの訓練も受けました。

スエラ・バーナード大尉

1945年3月22日、ドイツ・レマゲンの橋頭堡近くの空き地で
重傷の米独戦死者25名を2機のグライダーに収容した際、
C-47が曳航したグライダー内で看護にあたったバーナード大尉は、
大戦中にグライダーによる戦闘任務に参加した唯一の看護師となりました。


C-47に曳航されようとするCG-4Aグライダー。
コックピット右手席に座っているのスエラ・バーナード中尉。


アレダ・E・ルッツ中尉

第二次世界大戦中196のミッションに参加し、
3,500人以上の負傷者を救出したことで最も有名な航空看護師。

1944年11月、フランスのリヨン近郊の前線からの避難飛行中、
彼女の搭乗したC-47は墜落し、乗員全員が死亡しました。


負傷者の横で屈んでいるアレダ・E・ルッツ大尉。

彼女は
オークリーフ・クラスター4個付きの航空勲章、
そして死後に殊勲十字章を受章しました。


陸軍の病院船と退役軍人局の医療センターに彼女の名が冠されています。


ルース・M・ガーディナー中尉

1943年7月、アラスカで患者を避難させる途中、
航空機の墜落事故で死亡。
彼女は米空軍で初めて戦闘地域で死亡したフライトナースとなりました。

続く。




エリー湖の戦いとペリー代将〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-10-13 | 軍艦

USS「リトルロック」の上甲板階に位置するタロスミサイルハウスに
右舷側から入り、左舷側に出てきて、ファンテイルといわれる後甲板で
少年海軍候補生団、NLCCの訓練光景を目撃し、
海軍公式に組織された青少年教育グループについて調べてみました。

今までこんな本格的な教育組織があるとは知らなかったので、
この日彼らを目撃したことは大変ラッキーだったと思っています。

おかげでまた一つ海軍の知識が増えました。

さて、これからいよいよ見学ツァー順路に沿って、
甲板から艦内に入っていくわけですが、


見学エリア#3と称されたところに入っていくには、
ファンテイルのミサイル外側に二つ設置された階段を降りていきます。


その階段というのはおそらく昔はハッチだったところに、
展示艦となってから上部構造を取り付けた状態であります。

床の黄色い線は見学順路。

右側に黒のゴミ袋が見えていますが、これを持っているのは
さっきまでファンテイルで話を聞いていたヤング候補生の一人。
おそらく今日のスケジュールが終わって片付けに入っているのでしょう。

ところで、この階段小屋?の壁に説明があるので見てみますと、
ここがかつてヘリコプターのランディングエリアだった旨説明があります。

「写真が示すとおり、このエリアは「リトルロック」艦載機の
SH-2シースプライトの着艦ポイント並びに倉庫がありました。

ヘリを後甲板に載せた「リトルロック」

この部隊は、

ヘリコプター戦闘支援飛行隊4
Helicopter Combat Support Squadron FOUR


通称「ブラックスタリオン」です。

スマイリングスタリオン


同部隊の駐屯地はイタリアのシチリア島にありました。

また「リトルロック」がオリジナルの軽巡洋艦だった頃、
二つのカタパルトが後方の両舷にあり、これは
SC-1シーホーク(水上艇)のためのものでした。

シーホークは1944年に太平洋戦線のために投入されたので、
1949年にはヘリコプターの登場と入れ替わりに姿を消します。

■ 艦内郵便局


それではいよいよ参る。ワッチユアステップ!


階段を降りたらそこは艦内郵便局でした。
甲板から郵便物を受け取流のには便利な場所かもしれませんが、
今まで見た軍艦でこんなところに郵便局があったのは初めてです。

矢印の方向に「映画鑑賞室」と「メールヘッド」があると書かれていますが、
Male headは「男性の頭」ではありません。男性用トイレのことです。

軍艦の中なので、一般人に対しても海軍隠語で通すつもりのようです。


左の棚の中に見えるカートンボックスには、
「USNSCC」と書かれています。
この意味、前回ログを読まれた方にはもうお分かりですね。

The United States Naval Sea Cadet Corps
アメリカ合衆国海軍候補生隊


であり、甲板で訓練をしていた少年たちのグループです。
NSCCが艦上で訓練するために必要なものが収納されているのでしょう。

棚の上の郵便物は、「リトルロック」現役時代のものです。

郵便物、手紙などは仕分けして右側の仕切られた棚に入れていき、
後でセクション別に配達がされるはずです。


タイプライター、書類収納用のスチールケース、重さを測る秤。
説明がなくとも郵便局であることがわかるコーナーですが、
棚の上の記念切手の拡大をご覧ください。

■ エリー湖の戦い

バッファローネイバル&ミリタリーパークは、
他でもないエリー湖沿いに位置するわけですが、その関係で?
ここに「エリー湖の戦い」記念切手が飾ってあります。



我々日本人には、アメリカとその同盟が、
イギリスおよびその同盟と戦った1812年戦争についてあまり知りません。
(知りませんよね)

北米で領土を広げるイギリスにアメリカが不満を持っていたところ、
イギリスがアメリカの会場貿易を封鎖し、実力行使したことから起こった紛争
といわれていますが、開戦の理由についてはいまだに議論されています。
(現在、英の拡張政策と双方がカナダ併合を狙っていた説が有力らしい)

一部の歴史家は、これを「第二次独立戦争」と呼んでいます。

わたしが今回知ってちょっと驚いたのは、双方に、
テカムセ連合(英)
イロコイ、チョクトー(米)

などの先住民が同盟「国」として戦ったこと、
そして五大湖がこの戦争の大きな舞台となったことでした。

そして、このエリー湖の戦いがなぜ切手になっているかというと、
この戦いで、アメリカ海軍がイギリス海軍を破って湖を制圧し、
イギリス軍からデトロイトを奪回した大きなターニングポイントであり、
アメリカ-イギリス戦争最大の海戦となったからです。

そして、我々日本人がぜひ注目したい人物がここにいます。

切手にあしらわれた絵で、ボートの上からどこかを指さしているのは、


オリバー・ハザード・ペリー代将
Comodore Oliver Hazard Perry(1785-1819)

名前からお分かりのように、日本に黒船でやってきた「蒸気船海軍の父」

マシュー・カルブレイス・ペリー
Matthew Calbraith Perry(1794-1858)


は、オリバーの9歳年下のであり、一緒に米英戦争に参加しました。

ペリー家はロードアイランドに移民した英国移民の家系で、
彼ら兄弟アメリカ海軍司令官を筆頭に、海軍飛行士、政治家、芸術家、
聖職者、弁護士、医師、社交界の著名人を排出しています。

変わったところではポロ選手、ニューヨーク地下鉄を作った人、
高位聖職者、小説家、フォークシンガー、画家などがいます。

そして、真珠湾攻撃が起こったときの駐日大使、
日本に理解があり戦争を避けるための努力を行なったとされる外交官、
ジョセフ・クラーク・クルーの妻アリスはオリバーの孫であり、
オリバーの息子つまりアリスの父トーマスはハーバード大学出身で、
慶應義塾大学で英文学を教えていたという因縁があります。

日本滞在中和室で演奏するオリバーの孫アリスと姉たち
画家だった彼女らの母リラ・ペリーによる作品

ジョセフ・グルー

寄り道を元に戻して。

切手の絵に描かれたシーンですが、
1813年、エリー湖上戦で司令官に指名されたペリー大佐が、
制水権を得ていたイギリス軍に初戦で旗艦「ローレンス」を破壊され、
砲火の下、ボートで1キロ先のUSS「ナイアガラ」を旗艦にするため
乗り移ろうとして「あれな」とさし示している瞬間です。

旗艦となった「ナイアガラ」は大砲で敵船隊を撃破し、戦いに勝利しました。


エリー湖上戦の様子

このときの勝利の大きな要因の一つは、チェサピーク湾、
そしてピッツバーグで鋳造された優秀な武器だったとする説があります。

戦闘に参加した艦船はアメリカ側9隻、イギリス側6隻で、
イギリス海軍はこの全てをアメリカ海軍に捕獲されました。

■米国市民権移民サービス



下の張り紙は、見学者への注意書きです。

安全のため、以下のスイッチに手を加えないでください。
スイッチ、回転バルブ、プルハンドルをいじらないでください!
バッファロー・ナーバル・パークは、安全上問題があると判断した場合、

入場を取り消す権利を有します。

そして上に書かれているのが、以下の説明。

米国市民権移民サービス

バッファロー海軍軍事公園とUSS「リトルロック」(CILG-4)は
20年以上もの間、

米国市民権移民局(USCIS)

米国市民権授与式を誇りを持って主催してきました。
USCISは米国への合法的な移民を監督する政府機関であり、

例年7月の第1週に開催されます。

USS「リトルロック」の後部メインデッキで行われる「宣誓式」には
毎年平均200人以上の帰化市民とその家族が参加しています。


移民局は就労ビザ、亡命、市民権の申請等、

さまざまな移民問題の処理と裁定を行う期間です。

地域の該当者を対象に授与式が行われるわけですが、
横須賀海軍基地でもこのような式が催されていることを知りました。

ズムワルト公使公式ブログ:横須賀での市民権授与式

ズムワルト公使ご自身がスイスからの移民で、
幼少期この授与式を経験していたことも書かれています。

続く。



VE DAY!ヨーロッパにおける犠牲と勝利〜国立アメリカ空軍博物館

2024-10-08 | 航空機

アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中ヨーロッパにおける
アメリカ空軍の爆撃作戦について語ってきました。

その最終章は「犠牲と勝利」と称してこう始まります。

未経験の事態に対する乏しい理論と不十分な装備でスタートした米空軍は、

戦いの初期では壊滅的な損失を伴う手痛い損失に直面しました。

それでも、重爆撃機の乗組員たちは、何度も何度も、
敵の防御をかいくぐって目標を爆撃するために戦いに赴きました。

米空軍は彼らの勇気と尊い犠牲を礎に、経験値を積み重ね、
強大で実力のある爆撃機部隊を構築するに至ります。

最終的にはアメリカ空軍は敵を無力化し、
ナチス・ドイツを打ち負かす決定的な役割を果たしたのでした。

アメリカ人墓地に最初に埋葬される搭乗員たちの棺


1944年11月20日。
ドイツのブレッヒハンマーにある合成油工場を攻撃中、
対空砲火が命中し、発火したリベレーターB-24爆撃機。

奇跡的に乗員のうち5人が生き残り、捕虜になりましたが、
半数に当たる5名は当然ながら戦死しました。


イギリスのケンブリッジ・アメリカ人墓地には、
ヨーロッパ戦線で命を落とした4,000人近いアメリカ人が埋葬されています。


全景。野球のグラウンドを思い起こすのはわたしだけ?

Cambridge American Cemetery

総埋葬者数は3,812名。

「行方不明者の壁」には5,127人の名前が記されており、
海上を輸送中の飛行機を撃墜されて行方不明となった
アルトン・ミラー中佐の名前もあります。

Maj. Alton Miller ではわかる人はあまりいないと思いますが、
つまりトロンボーン奏者でバンドリーダー、グレン・ミラーのことですね。

彼はファーストネームの「アルトン」が気に入らなかったのか、
ミドルネームの「グレン」を芸名にしていました。
ここは軍による公式施設なので、ファーストネームで記名されているのです。

ミラー中佐については当博物館のコーナーがありますので
そのうち取り上げてご紹介する日もあるかと思います。

また、JFKの兄で、ハーバードロースクール出の優秀な海軍パイロットだった
ジョセフ・P・ケネディJr.も、海軍大尉として任務中の飛行機が爆発し、
行方不明となってこの壁に名前が刻まれています。

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戦死者に航空搭乗員が多いことから、
天井には天使と航空機のモザイク画があしらわれています。
喪われた航空機たちが天使に守られてどこかに向かうシーンです。

■ 捕虜



このログを作成時、現在進行形でApple TV +の

「マスター・オブ・ザ・エアー」を観ていたのですが、
このときちょうど、第5回で主人公の一人イーガン少佐の機が撃墜され、
第6回では逃走の末どうやら捕虜になりそうなところで、

その後、案の定、彼の捕虜収容所での様子が描写されることになりました。

イーガン少佐の機のように、爆撃機は、撃墜されてから

状況によっては脱出できる可能性が(戦闘機と比べると)高かったせいで、
たくさんの搭乗員が捕虜として終戦まで収容されていました。

捕虜になった爆撃機クルーの数は、3万人以上とされています。

 戦略爆撃キャンペーンの功績

ドイツ空軍を撃破し、ヨーロッパ上空の制空権を獲得

ドイツ空軍に、戦闘機と対空砲を戦線から移動させ、
爆撃機の攻撃から自国を守るように誘導した


ハンブルグのドック爆撃で沈んだUボート。

ハンブルグって海に面していたっけ?と一瞬考え込みましたが、
北海から流れ込むエルベ川の川畔にUボートを係留していたんですね。

現在でもその関係なのか、同じと思われる場所に
U-434が係留されて潜水艦博物館になっています。

U-434ライブカメラ

潜水艦「シルバーサイズ」のように、ライブカメラで
現在の状況を見ることができるのですが、ちょっと驚いたのは
その下の干潮満潮の浮き沈み(というか潜水艦が固定されているので
浮き沈みしているように見えるだけだけど)が見られること。

なんと満潮の時には見学者用の通路まで冠水してしまいます。

■ レジスタンスの情報


アウグスブルグのメッサーシュミット工場。

メッサーシュミットはレーゲンスブルグにあった1943年8月17日、
連合軍の爆撃機部隊から初めて攻撃を受けたため、
1944年からは、分散化して隠れた工場に移転させる計画を立てました。

しかし、少なくとも1943年秋までには、連合国側は
諜報活動によって生産施設の正確な位置計画を知らされていたのです。

ハインリヒ・マイヤー牧師率いるオーストリアのレジスタンスグループが、
アメリカの戦略局とイギリスの秘密情報部SOEに情報を送り、
連合軍の爆撃機は、その情報を元に記されたスケッチの通り、
生産施設に正確な空爆を行うことができたのでした。


逮捕後のマイヤー牧師 拷問の傷が認められる

マイヤー牧師のグループの活動は、主にナチスの軍需工場の場所、
生産しているものについての情報を連合国に流すことで、
スイスを経由させて英米に情報を送っていました。

Bf109の他にもティーガー戦車、V-2ロケットの情報を流し、
ペーネミュンデの秘密工場の爆撃を成功させています。

マイヤーのグループは、同志同士の意見の違いから裏切られ、
ゲシュタポに捕えられ、裁判の結果、死刑に処されました。

判決が出た後もマイヤーは拷問を受け、不発弾処理をさせられましたが、
最後の瞬間まで、周りを感動させるほど穏やかだったということです。

斬首による処刑をされた時、マイヤー牧師は37歳の若さでした。


斬首刑されたマイヤー牧師の慰霊像

ここで首がない銅像を作るというセンスについていけない


もっとも、ドイツもこれに対し、主にリンツ近郊のグーゼンII強制収容所で
「B8ベルククリスタール」という迷彩名のもと、
大規模かつ極秘の組立ライン生産が実現させ、1945年、
生産された最後のMe 262がミュンヘンに空輸されています。


野外で組み立てられていたMe262。
敗戦が決定したため、完成前に計画的に破壊されました。



爆撃による損害の修復と生産の分散に莫大な資源を投入させた


爆撃によって壊滅的被害を受けたハノーヴァーの戦車プラント

同じ場所 別の写真

石油と輸送部門への攻撃でドイツの軍事活動を麻痺させた


爆撃で破壊されたマグデブルグ近郊のオイルプラント。

マグデブルグには、クルップ社の製鉄所もあったため、
この地方は工業が盛んになっていましたが、連合軍の空爆で破壊され、
東側にあったため戦後はソ連の援助で一時復興し、
その後東西統一されてすでに旧式となった製鉄所は閉鎖されました。

ニュールンベルグの操車場
貨車の上に爆撃で捻じ曲がった線路が乗っかっている


ドルベルゲンの合成油工場の残骸に佇む二人は、
米兵と元収容所労働者。

この日の第303爆撃群の記録によると、

453機のB-17の主目標はブルンスウィックのウィルケ(53機)、
ブラッシング(77機)による石油工場とMIAG軍需工場(61)、
ドルベルゲン(37機)、デデンハウゼン(53)、ニエンハーゲン(56)による
石油精製工場で、(略)ほとんどの攻撃は目視。
5機のB-17が喪失、53機が損傷、飛行士1名がWIA、41名がMIAとなる。

掩護に当たった180機のP-51のうち2機が失われ
(パイロットはMIA)、1機が修復不可能な損傷を受けた。


WIAは戦闘中負傷を意味します。

■ ドイツ敗北

ナチスの敗北を象徴する写真
破壊されたMe109が重機で押しのけられている上空には
かつてのドイツ空軍の飛行場に着陸しようとするAAFの戦闘機が


1945年4月、ドイツ軍は敗北しました。

4月25日、米ソ両軍がエルベ川で激突。
その5日後、アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺します。

後任のカール・デーニッツ海軍提督は、
アルフレッド・ヨードル元帥をランスのSHAEF
(連合国遠征軍最高司令官総司令部)分遣隊に派遣し、
戦争終結の条件を模索し始めました。

5月7日午前2時41分、全戦線におけるドイツ軍の無条件降伏が調印され、
それは5月8日午後11時1分に発効しました。

6年の歳月と数百万人の尊い命が失われた後、
ヨーロッパにおける戦争はついに終結することになりました。

 勝利の代償

最後にヨーロッパでの戦争で勝利と引き換えに払った

アメリカ軍航空隊の、あまりに高かった代償の数字を挙げておきます。

戦死者 34,362人
負傷者 13,708人
行方不明、捕虜、抑留 43,035人

重爆撃機8,314機
中・軽爆撃機1,623機
戦闘機8,481機

計27,694機


国立空軍博物館爆撃機シリーズ終わり





海軍リーグ士官候補生隊〜USS「リトルロック」

2024-10-04 | 軍艦

バッファローのエリー湖沿いに建つ海事軍事公園。
この展示から「リトルロック」をご紹介しています。

前回までで、「リトルロック」が改装されて搭載した、
タロスミサイルのミサイルハウスやその機構などを見てきました。

ミサイルハウスを出ると、もう一度ファンテールに出るので、
そこであらためてタロスミサイルをうち仰いでみる。(冒頭画像)

ミサイルハウスの説明でも触れたように、このウィングとフィン、
なんと最後の行程で手作業によって設置されるんですねー。

そんなんでいいのか。(素朴な疑問)

というかそれだけ合理的に設計されていたってことなんだろうな。


ちなみにこれはミサイルハウスを出る直前、左側に見える装備。
これは(なかなか資料が見つからず断定はできませんが)、

弾頭トロリー(Warhead Trolley)

と呼ばれるもののようです。

甲板から弾頭が両舷のストライクダウンエレベーターで降りてくると、
空気圧で動く台車に乗せられ、その後弾頭はトロリーで
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)でマガジンまで移動させます。

弾頭マガジンは艦の最も最下階に位置します。

必要な時には赤い部分にタロスの弾頭を挟むようにして持ち上げ、
エレベーターのように運んできます。


で、この床の部分がどうなっているかというと・・・。
なんかよくわからないカバーみたいなのが無造作に放置されていますが、
この辺りはアメリカ海軍のデフォなのでお気になさらず。

床全体がハッチとして開閉できることがわかりますね。

このハッチ部分は艦体のちょうど中央部分にあり、
この三階下(セカンドプラットフォーム)が弾頭マガジンとなっています。


マガジンハウスを出ると、そこは上甲板。
エリー湖に流れるバッファロー川の河口です。

向こう岸はエリー湖に流れるバッファロー川の右岸であり、
タイムズビーチ自然保護区として自然公園ありーの、キャンプ場ありーの、
ヨットハーバーもカヤックのランチもと盛り沢山なレジャー地です。



この日は週末でたくさんの人々がクルーズを楽しんでいました。
奥に見える河口を出ると、エリー湖で、半分から向こうはカナダです。

帆を張らずにセイリングしているカタマランは「ムーンダンスキャット」号。
キャビンにはバーがあって貸切すればケイタリングもできる模様。

MoondaceCat

■ミサイル巡洋艦「1」から「73」まで


左舷側のタロスミサイルです。

フィンに書かれた「4」は「リトルロック」の艦番号。
前回は「4」という数字そのものに驚いたものですが、
当艦がタロス巡洋艦に転換してから割り振られたと知って納得しました。

「バンブルビー計画」によって米海軍はミサイル巡洋艦の開発を進め、
その第一陣として「ボルチモア」級中巡洋艦、

CAG-1 USS「ボストン」

CAG-2 USS「キャンベラ」

が1955年に再就役しました。
CAGは重巡洋艦のCAにGuided missileのGを付け足したものです。
これが最初のミサイル巡洋艦として「1」「2」の類別番号を振られました。

ついでに重巡の類別「CA」のCはクルーザー、Aはロンドン軍縮条約で、

6.1インチを超え8インチ以下の艦砲を搭載する
10,000トン以下のの巡洋艦をカテゴリーAとする

とされて以来の類別番号です。
そして、それに続くミサイル巡洋艦が、「ガルベストン」級の軽巡、

CLG-3 USS「ガルベストン」

CLG(のちにCG)-4 USS「リトルロック」

CLG(のちにCG)-5「オクラホマシティ」

の3隻で、CLGは軽巡を表す「Light Armoured Cruiser」に、
ミサイル搭載を表すGを加えたものです。

ついでに6番以降は、テリアミサイル搭載の「プロビデンス」級で、

CLG-6 USS「プロビデンス」
CLG-7 USS「スプリングフィールド」
CLG-8「トピカ」


そして唯一原子力ミサイル巡洋艦でタロス&テリアダブル搭載の

CGN−9 USS「ロングビーチ」

タロスにターター艦対空ミサイル、アスロックと

武器よくばりセット搭載の「オルバニー」級、

CG-10 USS「オルバニー」
CG-11 USS「シカゴ」
CG-12USS「コロンバス」


あとはきりがないのでやめますが「タイコンデロガ」級の末っ子は

CG-73 USS「ポートロイヤル」

つまり、ミサイル巡洋艦は合計73隻存在したことがわかります。


■ファンテイルにて

ところで、ミサイルの下にはラック入りのパイプ椅子が見えますね。


「リトルロック」では、これまで紹介してきた軍艦と同じく、

お泊まりキャンプや結婚披露パーティが行われるのです。

企画ものも多く、例えば「スターウォーズデー」では、昼12時から夕方まで
スター・ウォーズ・キャラクターとのグリーティング、
体験型アクティビティ、工作教室、教育プログラム、
『ローグ・ワン』の上映などで一日楽しめたり、あるいは海軍主催の
リクルートイベント(青少年向け)が行われたりします。



イベントのために、ファンテイルにテントが常設され、
この日はこのあと何か行われるのかテーブルも出ていました。

ところでテントの下に、海軍迷彩の集団がいるぞ?



少年たちをリタイアした下士官らしいおじさんが指導中。
一体この少年たちの正体は?



彼らのいでたちは頭のてっぺんから靴の先まで全くの海軍軍人。
ナンチャッテなどではない、本物です。

よそ見をしているのは誰かのお父さんで、ここにいるだけだと思いますが。



驚いたことに彼らの迷彩にはネームも入っているんですよ。
ちなみに一番左がジャクソンくんであるのは読み取れました。

そして、何人かは「リクルート」と書いたキャップを被っています。

なんとか読み解こうと写真を具に見ていたところ、
一番大きなブルー迷彩の子の右ポケットに、

USNLCC

ジャクソンくんの右側の子のポケットには

USNSCC

と書いてあります。
これでわかりました。

ブルー迷彩の少年たちは、

米国海軍リーグ士官候補生団
United States Naval League Cadet Corps
USNLCC

であり、カーキ迷彩の二人は

米国海軍士官候補生隊
United States Naval Sea Cadet Corps
USNSCC

の、いずれも少年候補生だったのです。
ちなみにブルー迷彩の NLCCはカーキのNSCCのジュニア版で、
前者は11歳から13歳まで、後者には13歳から入団できる決まりです。

上部組織の海軍士官候補生隊から説明します。

■ 
NSCC(海軍士官候補生隊)


米国海軍士官候補生隊(USNSCCまたはNSCC)は、
米国海軍が後援する議会公認の組織です。

海上軍務、米海軍の作戦と訓練、社会奉仕、市民活動に参加し、
規律とチームワークへの理解を目的としています。

NSCCの年齢資格は13~18歳。
1958年、海軍省の要請を受けた米国海軍連盟によって設立されました。

参加者は本物の海軍軍人によるレクチャーや訓練、試験を受け、
一定の条件をクリアすれば、司令官の認証を受けて階級を授けられます。

階級は新兵候補生(写真の『リクルート』の帽子を被った二人)、
Sリクルートから始まり、

【13歳から】

シーマンリクルート(SR) SC-1
シーマン見習い アプレンティス(SA)SC-2
シーマン(SN)SC-3

【14歳から】

3等兵曹(PO3)SC-4
2等兵曹(PO2)SC-5

【15歳から

1等兵曹(PO1) SC-6
曹長(SPO)SC-7

まで昇進することができます。

それでは、SCCCで行われる専門的な訓練をご紹介します。
こんな訓練を少年にさせるとは、さすがはアメリカです。

水陸両用作戦訓練
船舶訓練
沿岸警備隊
FAA地上学校
JAG法務訓練
MAA(海軍憲兵隊に相当)法執行学校
POLA(下士官幹部学校)
シービー(海軍建設大隊)
潜水艦セミナー(基礎および上級)
米海軍シーマンシップ・アカデミー
消火およびダメージコントロール学校
港湾業務
儀仗兵学校
野外医療学校(衛生兵)
サイバーセキュリティ訓練
統合特殊作戦司令部訓練
シールズ訓練
SWCC(特殊戦戦闘乗組員)または "特殊ボート"

EOD(爆発物処理)訓練
AIRR(海軍ヘリ捜索救助スイマー)訓練
高度音楽訓練
陸上ナビゲーション訓練
野外活動訓練
国土安全保障訓練
捜索救助訓練
射撃訓練
遠征戦訓練
海上阻止訓練
国際交流プログラム
フォトジャーナリズム
スキューバ
海軍犯罪捜査局訓練
沿岸河川訓練
現地手配研修
ライフガード
米海軍兵学校夏季セミナー


特殊戦闘とかEODとか、これ本当に10代にやらせるの?

という項目もありますが、そこはそれ、
限りなく本物に近い基礎を学び、雰囲気を知る程度の訓練でしょう。


COVID-19以降は、バーチャル訓練も行われるようになりました。
また、訓練メニューに音楽があるのに気がついた人もいるでしょうか。

USNSCCは三十人編成のマーチングバンドを所有しており、
このバンドは、アメリカ海軍バンド、サンディエゴ海兵隊バンド
第101陸軍予備軍バンド等、全米トップクラスの軍楽隊から訓練を受けます。

自分が海軍に向いているのかを早いうちから知ることもできますね。

また、USNSCCは世界中の他のシー・カデット・プログラムと
国際交流プログラムを実施していて、交流国には、
イギリス、カナダ、オーストラリア、ベルギー、ドイツ、オランダ、
ニュージーランド、韓国、インド、日本、シンガポール、南アフリカ、
スウェーデン、香港、ロシア、バミューダなどがあります。

日本にそんなもんあるのか、と思われます?
多分これのことだと思われます。

公益社団法人日本海洋少年団連盟


■ 海軍リーグ士官候補生隊  NLCC


さて、ジュニア版の士官候補生隊、
このとき「リトルロック」でレクチャーを受けていたグループですが、
11歳から13歳までが参加可能年齢です。

14歳になったとき、NSCCに入隊するわけですが、
もしこの「おためし期間」で俺(私)海軍向いてないわー、
と思ったら、退団すればいいのですから、話が早い。

アメリカという国の軍隊組織を形成するための努力は、
こんなふうに裾野を広く、若い人材を呼び込むことに注がれています。

少年たちが自分は海軍に向いていると思えば、あとは簡単。
そのまま下士官の道へ進むもよし、士官学校入学を狙うもよし。

若いうちからその現場の空気を知ることは組織への理解を深め、
そこで見た専門分野(潜水艦とか航空とか)に憧れを持てば
そのままレールは目標まで比較的わかりやすく連れて行ってくれます。

そして、この組織の上手い?ところは、少年用プログラムと言いながら、
本物と全く同じ制服を着て、階級が与えられ(頑張れば昇進もでき)、
本物の海軍軍人から本物と同じ訓練を受けるという満足度の高さ。

少佐(多分隊司令)から威儀点検中
 むっちゃ怯えてる><

 NLCCの階級は

新兵(LC-1)
見習士官候補生(LC-2)
幹部候補生(LC-3)
3等兵曹(LC-4)
2等兵曹(LC-5)
1等兵曹(LC-6)
上等兵曹(LC-7)


とこれも同じ。

3年間でCPOになれる子は超逸材だ。

さて最後に、 NLCCで体力テストに合格するための指標を書いておきます。

一番軽いと思われる、10歳女子のマトリックスは、

ボード
(うつ伏せに寝て肘を立てて体で三角を作り何秒耐えられるか)

優秀:2分10秒
良好:1分40秒
普通:1分00秒
可:0分45秒

腕立て伏せ

優秀:20
良好:13
普通:9
可:7

1マイル(1600m)走

優秀:9分19秒
良好:11分22秒
普通:13分00秒
可:14分00秒

ちなみに男子候補生の17歳、18歳の部では、
腕立て伏せは優秀53回、最低ライン28回となり、
1マイル走足切りタイムは9分45秒となります。

さて、あなたは今の体力でこの記録をクリアできますか?


続く。