ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

2025年 三自衛隊合同コンサート@さいたま市文化センター

2025-03-20 | 自衛隊

3月15日に行われた三自衛隊合同コンサートに行ってきました。
陸海空三軍音楽隊による合同コンサートは過去何度も行われていますが、
今回は初めてご招待いただいての参戦です。



チケットが送られてきたのを見たTOが、会場どこ?と聞くので

「なんか埼玉らしいよ」

というと、

「埼玉スーパーアリーナ?!すごいところでやるね」

国内最大級の多目的アリーナと勘違いし、わたしもそれをまにうけて、
そんなすごい規模でやるんだ〜!音楽まつりみたいな感じかな?
そんなところなら車停めるのも大変なんじゃ・・・と色々心配になり、
3時開場4時開演のところ、12時に家を出ることにしました。

こんな時に限ってCarPlayが高速と地道を読み違えて降り口を間違え、
結構それで時間をくってしまったのですが、到着すると、


これではなく



これだったので、周辺の渋滞や駐車場の心配は全くいりませんでした。
ちなみに埼玉文化センター、昭和末期のオープンだそうです。

あまりに早く到着したので、開場までの時間、
センターの道向かいにあるロイヤルホストで遅昼を食べることに。
店内はコンサートに来たらしい人たちがいて混雑していました。

(それにしても今回驚愕したのですが、ロイホって結構イケてないですか?
まさかファミレスでマス丼を食べられる日が来るとは)


開場時間になり、受付では名前が記載されたチケットと一緒に
身分証明書を見せて本人確認を行い、入場しました。

本人確認は少し前から自衛隊のイベントで行われるようになりましたが、
過去、観艦式などの入場券のオンライン売買が横行したことがあり、
タダで手に入れたチケットを数万で売り捌くなどという、
悪質な犯罪を防ぐために防衛省が腰を上げ採用された転売防止策です。

知人間でのチケットの融通というか受け渡しもできなくなりましたが、
ダフ屋とか転売ヤーの暗躍を封じられたのだから良しとするべきでしょう。


埼玉地本のマスコット、サイポンさんが出張してきていました。

サイポンは、この陸自の’りく’くん、海自のうみくん、空自のそらくん、
というあまりにもどストレートな名前の三兄弟によるユニット?です。

右側のテーブルは地本の説明ブースで、自衛隊に関する質問や案内、
なんなら本日入隊の手続きだってしてくれそうです。




大ホールは3階まであり、席数は2,000です。
この日は1日に2公演行われたせいか、満席にはなりませんでした。



いつものコンサートと違うのは、3音楽隊のバナーが並んでいること。
こうしてみると三者三様の意匠が面白いですね。

空自は竪琴に翼が生えているし、海自は竪琴が錨と合体。
陸自は普通に竪琴ですが、公式マークは竪琴に桜が組み込まれています。

■ 海上自衛隊東京音楽隊

♩ 君が代

最初のステージは海上自衛隊東京音楽隊です。



指揮は副隊長の高野賢一1等海尉。
演奏に先立ち、国歌吹奏が行われ、橋本晃作2等海曹が独唱しました。
国歌演奏中は、全員起立です。

「君が代」には前奏がないのですが、指揮者より前に立っていながら
橋本2曹は難なく出だしを合わせていました。
目の端でキューが見えていたのでなければ、指揮者との以心伝心?

♩「宇宙戦艦ヤマト」より
🎵無限に広がる大宇宙


よみぃ×海上自衛隊横須賀音楽隊

今の日本で「宇宙戦艦ヤマト」を演奏するのに最も相応しい楽団は、
ある意味本家である日本国海上自衛隊を置いてないと思っておりますが、
やはりこの日も「ヤマト」シリーズで期待に応えてくれました。

この曲の最初のヴォカリーズも勿論三宅由佳莉二等海曹です。

🎵永遠に讃えよ我が光

ステージの袖に橋本2曹を含む男性隊員4名が出てきて、
この「ガミラス国歌」を歌いました。
せっかくなので?今回見つけたドイツ語バージョンをあげておきます。

なにこの違和感のなさ・・・オリジナルか?

ガミラス国歌「永久に讃えよ我が光」

🎵 地球を飛び立つヤマト


🎵 新コスモタイガー←

🎵大河ヤマトのテーマ

🎵宇宙戦艦ヤマト

海上自衛隊 川上良司/三宅由佳莉
「宇宙戦艦ヤマト」歌いといえば、ホルンの川上良司准海尉ですよね。

やはりこの曲はこの人で聴きたい、という多くのファンの期待に応え、
期待の人が俺たちならばとばかり、安定の「ヤマト」を聴かせてくれました。

わたしの横にいた自衛官母たちは、川上准尉の登場に大興奮。

そして、ついでですが、今回見つけたこのバージョンをご覧ください。
こういうの見ると最近涙が止まらないんだよなあ・・。

「宇宙戦艦ヤマト」海上自衛隊MAD

♩愛の星(宇宙戦艦ヤマト2199第7章より)

Nana Mizuki - Ai no Hoshi Yamato 2199 - Star of Love

「宇宙戦艦ヤマト」の38年ぶりのリメイク版アニメ、
「宇宙戦艦ヤマト2199」の挿入歌を三宅由佳莉2曹が歌いました。

■ 航空自衛隊中央音楽隊


航空自衛隊中央音楽隊の指揮は、副隊長芳賀大輔3等空佐です。

♩ トップガン・アンセム


Harold Faltermeyer & Steve Stevens - Top Gun Anthem (Official Video) Full HD (Remastered & Upscaled)

空自も「トップガン」というこれ以上ないほど空自らしい曲できました。

司会者も言っていたように「トップガン」はアメリカ海軍が舞台ですが、
日本国で戦闘機を有するのは空自だけなので、この曲もまた、
空自中央音楽隊に演奏されるのが最も相応しいと言えます。

この曲はギターが無茶苦茶フィーチャーされています。
作曲者のハロルド・フォルターマイヤー(ミュンヘン出身)が
元々シンセサイザーなどのキーボーディストだったので、
この曲も彼の代表的なシンセポップサウンドで書かれているのです。

この日の演奏ではエレキギターソロ演奏があり、
(音控えめすぎ。せっかくだからもっと大きな音量で聴きたかったです)
このギターの人が実は何の楽器なのだろうとソロが終わって
配置に戻るのを興味深く見ていたのですが、なんと!コントラバスでした。
まあ、一応同じ弦楽器ではありますが。

「トップガン」の映画の大ヒットで海軍への入隊者が増えた、
という話をかつて当ブログでもしたことがありますが、
これも司会者によると、「トップガン効果」は空自にもあったとか。

またこれも司会者情報によると、先日公開された「マーベリック」につづき、
「トップガン3」の制作も現在計画されているという話でした。

トップガン3って・・まだ飛ぶ気なのかマーベリック。
(予想されるストーリーは、マーベリックが年間飛行中、
不測の事態でスクランブルできなくなった若い者の代わりに出撃)

♩機動戦士ガンダム「水星の魔女」より

The Witch From Mercury
「ガンダム」も空を飛ぶということで選ばれたらしいプログラムです。
曲中のヴォカリーズは清水万理子1空士が担当しました。

「歌姫 清水万理子」 令和6年度自衛隊音楽まつり 
航空中央音楽隊 航空自衛隊 日本武道館
初めて聴かせていただきましたが、容姿、声共に優れているだけでなく、
技術もある方で、高音の安定っぷりはただものではなかったです。
これからの成長がとても楽しみですね。

■ 陸上自衛隊中央音楽隊



陸上自衛隊中央音楽隊を指揮したのは志賀亨1等海佐。

♩ヨーク連隊行進曲

海自と空自はテーマが選びやすいのですが、さて、
こんな時陸自が選ぶのはどんな曲かと楽しみにしていたところ、

Yorckscher Marsch
: Einmarsch des Wachbataillons beim Großen Zapfenstreich
28.08.2023 - Bundeswehr
「ヨーク連隊行進曲」は「ヨルクシャー行進曲」というタイトルもあり、
楽聖ベートーヴェンがボヘミア民兵団のために作曲した行進曲です。

軍隊行進曲として大変有名で、数あるドイツの行進曲の中でも
この曲は、ドイツ連邦軍の精鋭訓練部隊である Wachbataillon
(ワッハバタイオン)の伝統的なテーマ曲に使われており、また、
ドイツのグランドタトゥ(Großer Zapfenstreich)で最初に演奏されます。


Wachbataillon

そういえば、何年か前の音楽まつりに招待されて出演した
ドイツ軍楽隊も確かこの曲を演奏していた記憶が・・。

そういうこともあり、我が陸上自衛隊の音楽隊も、
この行進曲を重要なレパートリーにしているようでした。

♩アルメニアンダンス パート1 A. リード

アルメニアン・ダンス パート1 
上自衛隊中部方面音楽隊創隊60周年記念
ザ・シンフォニーホール スペシャルコンサート

日本吹奏楽界と大変関係の深かったリード作品から
この日はアルメニアンダンスのパート1が選ばれました。

5つのパートが切れ目なく続いていく形式で、
アルメニア民謡を素材とした、日本で大変人気のあるプログラムです。

わたしの席の後ろは大勢の高校生でしたが、彼らも吹奏楽部で
この曲を一度は演奏したことがあるに違いありません。

■ 三自衛隊合同演奏



休憩を挟んで最後の三自衛隊合同演奏の指揮は、
海上自衛隊東京音楽隊長、植田哲生2等海佐です。

1973年生まれのアメリカの作曲家、ジョン・マッキー(John Mackey)
の「ワインダーク・シー」という吹奏楽界の人気曲が選ばれました。

Mackey: Wine-Dark Sea

そもそも「ワインダークの海」ってなんぞや、って話ですが、
「ワインのように濃い海」という見たまんまの意味で、
元々はホメロスが用いた「ワイン(oînos)」+「目(ops)」
=「ワインの目をした海(oînops póntos)」
の伝統的な英語訳です。

なぜ海なのに青ではないのか、については様々な考察がされており、
ホメロスがこの表現を用いた頃は、古代言語における色彩表現が
発展段階にあったからだという説があります。

つまり、色彩を表す言語は当初明暗を表す二つの単語しかなかったのが、
その後、「赤みがかった色」「青みがかった色」を表す単語が現れ、
最終的に色相を区分する10数個の単語が蓄積されていったという仮説です。

上の動画を最後まで見ていただければわかりますが、
最後に指揮者が作曲者マッキーを客席からステージに上げ、抱擁します。

このマッキーは楽器を全く演奏できない作曲家として有名です。

音楽家のほとんどが幼少の頃に楽器を習うなどの音楽体験をしていますが、
彼の場合全くそういう経験なしに作曲家になった稀な例なのです。

一般的に指揮専攻、作曲専攻の学生は、大学受験の際、
必ず課題曲と音階、アルペジオのピアノの試験を受けなければなりません。

どんなに専門が優れていても、この副科で失敗したら不合格になる例があり、
実際、わたしの知人も、大変優秀な人だったのにこれで志望音大に落ち、
浪人して次の年、上のランクの大学に合格しました。

マッキーは、クリーブランド大学の音楽学部で修士課程、
ジュリアード音楽院で学士号を取得していますが、
どちらでも受験の際副科で苦労したのでしょう。(おそらく入学後も)

そのため彼は、楽器のできない作曲科志望者が楽器試験なしで入学できる機関
(具体的にはどこかわかりませんが)への支援をしているそうです。

この問題について、マッキーは、
「楽器の演奏をせずとも作曲をする手立ても明確に存在する」
と述べていて、それはごもっともだし、わたしも同感ではあるんですが、
(特に最近はコンピュータという手段もありますからね)
ただ、上の動画のコメント欄に、こんなご意見もありますよ。

I really wish John Mackey would learn an instrument
so he would understand how hard his pieces really are.
(ジョン・マッキーにはぜひ楽器を習ってほしいものです。
そうすれば、自分の曲がどれほど難しいか理解できるでしょう)

誰がうまいこといえと。

この日、実験的でありながら完成された難易度の高い曲へのアプローチは
Iの「傲慢」の不穏を孕む出だしから、IIIの「魂の叫び」の
スリリングでドライブするエンディングまで、圧倒的でした。

個々の技術の高さもさることながら、合同演奏をこれだけまとめ上げる力量も
さすがは自衛隊音楽隊であると感心させられました。

実質、どれくらいの期間の練習で、合同練習は何回やったのかとか、
植田隊長は空自と陸自まで練習に行ったのかとかが気になります。

♩ 星に願いを (アンコール曲)

さて、こうして各音楽隊の演奏が終了しました。

この日のアンコール曲はなんだろうと大変興味深かったのですが、
三宅2曹、橋本2曹、清水1士3名をフューチャーした「星に願いを」でした。

今回、陸自の歌手が不参加でしたが、松永美智子3等陸曹(最終)は
2022年に退官された後で、鶫真依3等陸曹はおめでた休職中のようです。

♩ 名誉ある古代砲兵中隊 (アンコール曲)

由緒ある名誉砲兵中隊 スーザ【行進曲】

日本ではエンディングの曲と認識されている「蛍の光」。
終演の曲としてこれが取り入れられた本作ほど相応しいものはないでしょう。

原題が「Ancient and Honorable Artillery Company」なので、
いろんな和訳タイトルがありますが、自衛隊では
「名誉ある古代砲兵中隊」で統一しているようです。

タイトルは米国最古の軍事組織であるボストン古代名誉砲兵隊のことです。
この砲兵隊は「Auld Lang Syne」をテーマソングにしていました。
(オリジナルはスコットランド民謡)

1923年にスーザ楽団がボストンを訪れたとき、砲兵隊の代表団が、
自分たちにとって大切なこの歌を取り入れた行進曲の作曲を依頼し、
その依頼に答えてフィリップ・スーザが作曲したのがこの作品です。

スーザはすぐさま「Ancient and Honorable Artillery Company」を完成させ、
1924年9月ボストンシンフォニーホールで正式に砲兵隊に贈呈されました。

マサチューセッツ古代名誉砲兵隊

全ての演目が終演し、最後に、3名の自衛隊歌手、
陸海空音楽隊の本日の指揮者がステージに現れ、
客席と挨拶を交わしてこの日の印象深いコンサートは終演しました。

素晴らしい演奏会を届けてくれた音楽隊の皆様と、
このステージを目にする貴重な機会をくださった関係者の皆様に
心からお礼を申し上げる次第です。


終わり



男爵夫人を”演じた”女流飛行家〜エリザ・デローシュ

2025-03-17 | 飛行家列伝

国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館には、
「男爵夫人」とタイトルのある女性飛行家の写真があります。



バロネス・レモンド・ド・ラローシュ

1910年3月8日、レモンド・ド・ラローシュは
女性初のパイロット免許を取得した。
彼女は1909年にシャルル・ヴォワザンから操縦の手ほどきを受けていた。
彼女は1910年にランス(Reims)で行われた航空大会に出場し、
世界有数の男性飛行士を相手に唯一の女性として戦った。

ド・ラローシュ男爵夫人ことエリザ・デローシュが
航空大会に出て戦ったのはこの一度だけではありませんが、
功績を讃えられる割に、飛行歴は多いわけではありません。

彼女がその名前を航空史に残したのは、彼女が
「航空に参入した最初の女性だったから」に尽きます。

まず、彼女が飛行機の操縦を習ったというシャルル・ヴォアザンですが、
「フランスのライト兄弟」(わたしが勝手に命名)の弟(右)の方です。
左は後に有名になる(美男でも有名だった)ガブリエル・ヴォアザン。



ガブリエル&シャルル・ヴォアザンが初期に挑戦したグライダー、
シェンヌーグライダーが、同じスミソニアンに展示されています。

え?これどうやって操作するのって?


こんなのでよく事故を起こさなかったな。

もっとも、彼はこの状態で飛ぶことに危険を感じたからこそ、
グライダーを改造して水上飛行機を作り、航空界に名を残したのですが。

デローシュはじめ、多くの同時代の飛行家が事故で亡くなっていますが、
ガブリエル兄弟はどちらも飛行機事故には遭わず一生を終えました。

ちなみに、弟の死因は自動車事故で、その車に同乗していた
(運転していた?)人物こそ、本日主人公のエリザ・デローシュです。

別のフランス語の記述によると、デローシュはシャルルと関係があり、
彼をガブリエルと家業から引き離した彼女を生涯許さない、
とヴォアザンは自伝に書いているそうです。


■ 女優として

エリザ・デローシュは、1882年8月22日にパリで生まれました。
父親は革職人という説と、配管工という説もありますが、
いずれにしても労働者階級の出で、早くに女優の道をスタートさせています。
(当時、女優やバレリーナ、歌手は世間的に下流とみなされていた)

1903年、21歳の時にはサラ・ベルナール劇場での芝居に出演し、
そこからキャリアをそこそこ積み上げていきました。

歌手であったという話もあり、モデルもしていました。


1900年結婚して授かった娘レモンドを7ヶ月で亡くした彼女は、
それ以降、娘の名前「レモンド」を芸名に名乗るのですが、なぜか
「ド・ラローシュ」とオリジナルの名前を貴族風にアレンジして、
さらに「バロンヌ(男爵夫人)」のタイトルまで自称するようになります。

フランスで貴族を名乗るのは犯罪ではなかったんでしょうか。
それとも、芸名ということでご愛嬌!みたいな感覚だったんでしょうか。

彼女はその美貌で女優になり、演劇界でそこそこ名を売りますが、
航空という新しい世界を見つけるとそこからフェイドアウトしていきます。

彼女は1903年に第二子である男児アンドレを設けました。

■ 愛人の事故死

なぜ女優の彼女が航空という、当時は特殊な世界に足を踏み入れたか。
それは、彼女の恋人、

フェルディナン・レオン・ドラグランジュ1872-1910
(Ferdinand Marie Leon Delagurange)

が飛行家だったからでした。

順序からいうと、彼女は1908年にウィルバー・ライトがパリで行った
飛行機のデモンストレーションに魅了され、航空界に近づいたところ、
ドラグランジュという版画家兼飛行家と知り合ったということになります。

それでも、当時の女性である彼女が実際に操縦するに至ったには、
何かそのきっかけとなる出来事があったはず。

わたしの勘ぐり、じゃなくて想像によると、それは「恋の力」、
あるいは「嫉妬」です。



版画家としてちょっとだけ有名だった彼は、1908年、同じ版画家の友人、
テレーズ・ペルティエ(写真右)を愛機に乗せて200m飛んだことから、
彼女が「世界で最初に飛行機で飛んだ女性」と呼ばれることになりました。

二人は友人だったということですが、テレーズはご覧の通り超美人です。
そして、その後操縦を学び「世界初の女性パイロット」になりました。

問題は?ちょうどこの時期、デローシュは夫がある身でありながら、
このドラグランジュと熱烈恋愛中で、翌年子供も生まれていることです。
(この息子は1919年スペイン風邪で亡くなった模様)

彼女は、1909年、子供(男児)を生んですぐ飛行のレッスンを開始し、
翌年「世界初の免許取得女性」の称号を獲得しました。
(ついでに彼女は愛人の子出産と同じ年に夫と離婚している)

以上の時系列を見る限り、彼女が航空免許を取ったのは、
愛人と親しい美人に対する競争心からではなかったでしょうか。

しかし、デローシュが免許を獲得しようとしていた1910年1月、
ドラグランジュはブレリオXIを転倒させ、37歳の若さで事故死しました。

飛行前と飛行後

事故がテレーズ・ペルティエの目の前で起こったこともあり、
これにショックを受けた彼女は、二度と飛行機に乗ろうとしませんでした

この事故は、デローシュから最愛の人を奪いましたが、
同時に、ライバルを永遠に遠ざける結果になったとも言えます。

当時の航空機はコクピットもなく剥き出しで、ほとんど自転車のように
機体に腰掛けて操縦するもので、墜落したが最後、ほぼ命はありません。

ちなみに、下の2枚の絵に描かれた77名の人物は、
「1908年から1912年までに航空事故で亡くなった飛行家」です。

(21番がドラグランジュ)


わずか4年の間に、77人。
単純計算して、毎月一人か二人が飛行機事故で死んだことになります。

デローシュがこのリストに入っていないのは、ラッキーな偶然にすぎず、
現に、レオン・ドラグランジュが事故死した、まさに同じ日、
飛行機免許の取得試験を受けていた彼女は、高度を上げるのに失敗し、
木に機体を激突させて墜落し、重傷を負っています。

しかし彼女は、全くそれに怯むことはありませんでした。
死んでもおかしくないくらいの重傷から回復すると、
何事もなかったかのようにまた飛行機で飛び始めています。

10歳の時から乗馬を始め、早くからスポーツとスピードを愛し、
その後テニス、ボート、スケート、サイクリングなどを嗜み、
まだ珍しかったオートバイに乗り、車の運転もしていた彼女にとって
気球から入った航空もその延長だったということもできるでしょう。

バイクです

しかしおそらく彼女は自分自身の能力を過信していたのです。

当時多くの命を容易く奪っていた、まだまだ不完全な乗り物、飛行機も、
自分ならば制御できる、自分は絶対に死なない、と思っていたのでしょうか。

その点、あっさり身を引いたペルティエは実に賢明だったといえましょう。

ただ、彼女は「殉教」したデローシュのように、
死後、航空史に名前を残すことはできませんでした。

■ パイロット免許第36号



試験失敗の1ヶ月後、エジプトで開催された航空ショーで免許を取得し、
彼女は1910年3月8日にフランス・エアロクラブから
No.36のライセンスを授与され、これをもって
「世界で初めて特許を取得した女性」の称号を獲得します。

この免許で彼女は「Mmeマダム」となっていますが、前夫と離婚しており、
ドグランジュとは結婚しなかったことから、これは虚偽記載となります。
しかも本名でなく、芸名であった「ド・ラローシュ」を使用しています。

彼女は航空界でも最初からこの「芸名」で通しており、
1909年10月に行った彼女の単独飛行を報じた航空専門誌が、
デローシュを「バロネス・ド・ラローシュ」と呼び始めました。

そのほうが民衆に対しウケると考えたからで、実際にそうでした。
革命で貴族を根絶やしにしておきながら、なんなんでしょうねこれ(笑)

もちろん世間にそう錯覚させたかったのは誰かというと、
「ド・ラローシュ男爵夫人」と名乗り始めたデローシュ本人なのですが、
この誤った貴族の称号は、世間の意識の中で彼女に付きまとい、
その端正な容姿と相まって、彼女の伝説を作り上げていきました。

現在のスミソニアン博物館ですら、彼女を「バロネス」と記載するほどに、
世間はその印象操作に容易く騙されていったのです。

かくしてド・ラローシュ男爵夫人はさまざまな航空ショーに参加しました。

フランス国内外に遠征し、ニコライ2世の前で「御前演技」した際には
高度100メートルで複葉機のエンジンを切り、
滑空着陸するという華麗な飛行を披露しています。

このとき、彼女はニコライ2世直々から「お言葉」を頂戴していますが、
皇帝に謁見を賜ることができたのも、
彼女が「男爵夫人」を称していたからに他なりません。

この時お墨付きを得た彼女は「男爵夫人」を公然と名乗るようになります。

しかし、彼女はその人生でたびたびアクシデントに見舞われており、
それが能力不足によるものではないかと見られる例も多々ありました。

例えば、晴天で微風の飛行場を飛行中、離陸して5メートルで墜落したこと。

1910年の航空ショーで墜落によって死ぬほどの重傷を負ったこと。



そして最も問題だったのは、1912年、シャルル・ヴォワザンを乗せて
自動車事故を起こしたということです。



この事故でヴォワザンは死亡し、彼女は打撲で済みましたが、
彼の死を悲しむ間もなく、彼女は女性パイロットのレースに参加して
優勝するという野望のもと、4 時間に及ぶ無着陸飛行を成功させました。

■ 墜落

そして1914年、第一次世界大戦が始まりました。
彼女は陸軍省に入隊を希望しますが、キッパリと断られます。

彼女が航空界でチヤホヤされたのは、世が平時だからにすぎませんでした。

大戦中は飛行を禁じられたため、彼女は軍に所属して、戦火の中、
後方から前線まで将校を輸送する車の運転手をしていました。

2番目の夫ヴィアル

そして1915年、戦争真っ最中に結婚もしています。
この相手、ジャック・ヴィアルとは2年後に離婚しました。
写真を見る限り、軍で運転手をしているときに知り合ったようですね。

1918年に戦争が終わると、彼女は早速航空界に戻りました。

1919年6月には、女性高度記録(4,800m)並びに
女性飛行距離記録(323km)を打ち立て、少し前に、
アメリカの女流飛行家ルース・ロウが立てた記録を破りましたが、
これらは当時の国際航空連盟からは無視されていました。
当時のFAIは1929年まで女性の記録を公式に認めなかったからです。

これは彼女が事故死する、わずか数週間前のことでした。


記録樹立から1ヶ月後の919年7月18日、
エリザ・デローシュはル・クルトワの飛行場にいました。

彼女は、初の女性テストパイロットになるという計画をもち、
この日は実験機に乗ることになっていました。



1919年、この頃の彼女は37歳で、大変失礼ながら、ご覧の通り、
かつて舞台で人々を魅了したスラリとした容姿は失われていましたから、
航空ショーだけでは(次々と女性パイロットが出現する中)
やっていけないと考え、軌道修正を図ったのかもしれません。

この事故のあった時の飛行についての詳細は残されていません。
分かっているのは、実験機に乗ったのが男性の操縦士と、
副操縦士のデローシュだったこと、そして二人とも亡くなったことです。

このとき、操縦していたのがどちらかもわかっていないのです。
飛行機は着陸態勢に入ったところで急降下して地面に叩きつけられました。



この実験機の残された翼部分を見る限り、これは、
自分の作った飛行機が戦争に使用された事実に失望し、自殺した
サントス・デュモンの「14-bis」という飛行機に似ています。

この頃はすでにこのタイプの飛行機は時代遅れだったはずなので、
これが「実験機」だとする記述には疑問を感じますが、
機体そのものではなく、何かの装備の実験だったのかもしれません。

事故後救出されるデローシュの写真

彼女の最後の写真を見ていて、あることに気がつきました。



これは1910年に彼女が大会に出場した時の写真ですが、
このスーツ、よくよく見ると事故の時のと同じなのです。

フランス女性、特にこの頃の女性は服を頻繁に買い替えませんから、
これが同じ服である可能性は高いのですが、もしそうだとすると、
9年前の衣装を着続けていた(か取っておいたか)ということになります。

戦争の期間を通して、彼女が意に染まない仕事に甘んじ、
結婚してすぐに離婚するなど、決して安楽に生活していたわけではないこと、
結構苦労したらしいことが現れている気がします。


生前の彼女の業績を称えて、パリ・ル・ブルジェ空港には
彼女の銅像があり、また、彼女が免許を獲得した3月8日の1週間は、
毎年世界航空女性週間と定められています。


最後に、パリのペール・ラシェーズ墓地(ショパンの墓もある)の
デローシュの墓をご覧ください。

墓碑には「ド・ラローシュ男爵夫人」としか刻まれていません。
つまり、彼女の本名はこの時に完全に「葬られて」いたことになります。

墓の左上には、彼女が最初の夫、ルイ・タドメとの間に設けた、
アンドレ・タドメの名前が刻まれています。



彼女の死の数年後に21歳で学生のまま亡くなった彼が、
母の横に葬られたことを表しているわけですが、なんと、この息子までが
父の名の後に「ド・ラローシュ」を名乗っています。
(しかも、母はDe Larosheなのに、息子はDe La Rosheとなっている)

ちなみにこのアンドレ・タドメの名前を検索すると、そこには

「彼はドラグランジュの息子ではありません」

と断りがあります。
こう断り書きしないと誤解する人が多いという証拠です。

世間の人々が、10歳で亡くなったドラグランジュとの間にできた息子と彼を、
最後まで混同していたらしいことがここからも読み取れます。

それにしても、なぜ彼にまで母親の芸名が冠せられているのでしょうか。


■「バロンヌ・レモンド・ド・ラローシュ」

最後まで、ド・ラローシュ男爵夫人を演じ切った彼女。

それが真実でないことを知りながらも、人々はその物語を受け入れ、
初期の航空界に勇敢にも身を投じた殉教者に敬意を表して、
この身分を彼女に冠することをよしとしているのかもしれません。



「シップ・ブリッグ」艦内監獄〜USS「リトルロック」

2025-03-14 | 軍艦

海自の艦艇の見学を案内付きで行ったときのことです。
格子のついた扉の前で、案内の自衛官が、

「ここが何に使われるか知っている方おられますか」

と質問をし、それが艦内牢であると種明かししたのですが、
軍艦に限らず、およそ一定以上の規模の船には、必ず
勾留室に使う外鍵の部屋が存在します。

最初にアメリカで軍艦を見学し始めた頃、
この「シップズ・ブリッグ」の存在に驚いたものですが、
民間船にもそれが存在することがわかりました。

■ 「リトルロック」のブリッグ



「ベトナムルーム」を見学し終わると、そこは艦首部分になるわけですが、
そこにさらに一階下に続く階段が現れます。

これまで見学してきたのがメインデッキの下のセカンドデッキのさらに下、
サードデッキだったので、このさらに下はというと、
おそらく「ファーストプラットホーム」ではないかと思うわけです。

艦艇居住区の最下層となります。



ところで「G」って何かしら。
ガムテープで作った車の形がほのぼのしますね。
黄色い矢印は、左側通行をするようにという指示です。


居住区の最下層にはたくさんの水兵のバンク(ベッド)があります。
一段の高さは・・・60センチくらいしかなさそう。

一番上の段に寝ている人は、うっかり体を起こしてしまったとき、
パイプなどに頭をぶつける危険あり。

なんと言っても最下層ですから、エンジン音も凄まじかっただろうな。


このコンパートメントのドアにはあまり水密性がなさそうです。
そのドアに貼られた次の展示のご案内は・・・。


「シップズ・ブリッグ」=艦内監獄でございます。
写真に撮られている人が本物でないのは、彼らがセーラー服を着ていて、
スカーフを取り上げられていないことからもわかります。

スカーフ以外にもネクタイ、靴紐、ベルトなど長いものは没収されました。


後で紹介しますが、一口にブリッグと言っても十艦十色、
艦によってその佇まいもさまざまです。

それでいうと、ここ「リトルロック」のはごく小規模でしょう。

厳重に鍵のかかる鉄格子の中は三段ベッド。
定員3名か?
それ以上の不届者が出たら、その時はどこに収監したのでしょうか。
  

現段階ではここに一人収監されており、
寝転がって新聞を読むという監獄ライフを満喫しているようです。

別の見学艦(『セーラム』)で見つけたブリッグの規則は以下の通り。

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない
検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守によって行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること
収監中は清潔を保つこと/口髭は禁止 /靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

f.司令官かブリッグオフィサーがイベントにおける行動を指揮する

g. 収監者はもし状況が許せば、一日に30分から1時間
運動か訓練に参加することができる

こんなところで閉じ込められっぱなしで、
たとえ状況が許しても一日1時間しか運動できないなんて・・。
否が応でも反省モード突入ですな。

営倉では基本パンと水だけしかもらえなかったそうですが、
パンがよっぽど好きなら問題ないかもしれません。

ある空母での実話だそうですが、何人かの収監者が、
パンと水しかもらえないのに憤慨して、1日目は喫食拒否したものの、
二日目から何を思ったか、パンをお代わりしまくってモリモリ詰め込み、
水を飲みまくると言う「逆ハンガーストライキ」を決行しました。

その後数時間で全員が「胃が引き裂かれるような」痛みを覚えましたが、
ストライキは三日続けられ、さすがにこれは馬鹿げていると思ったのか、
彼らはパンのドカ喰いはやめ、普通の量を食べることにしました。

というより、食べられなくなったということだと思います。
しかし何人かは、これがトラウマになってしまい、
その後どうしてもパンが食べられなくなったそうです。ばかす。

パンがダメならお米を食べればいいじゃない、と思いますが、その頃
アメリカ海軍で米が出されることはほぼなかったものと思われます。

今なら多様性の時代なので、艦内でも、メキシカンやチャイニーズなどで
(多分寿司はない)米料理がたまには食べられているかもしれませんし、
ピザは今やアメリカの国民食ですから、いくらでもパンの代わりはありそう。



ブリッグの一角に佇んで何かを天井に問いかけている人。
上記規則の「口髭禁止」「規定の髪型」に違反しているんですがこれは。

■ 過去トリップで遭遇した軍艦のブリッグ



まずは戦艦「マサチューセッツ」のブリッグをご覧ください。


さすが戦艦だけあって、独房が5つも並んでいます。
喧嘩した同士が隣同志の房に入れられて、口で続きをしようとして
監視に怒られたり・・・そんなことがあったかも。



独房の一つ。
「リトルロック」より居住環境は少し良さそうです。



「マサチューセッツ」の乗員でアーティストが描いた漫画で、
このエズラ・プラム(プラムってバカって意味なかったっけ)水兵は、
故郷で奥さんと一緒にちょっとでも長く過ごしたくて、
三日も艦に戻るのを伸ばしてこうなってしまったというわけです。
セリフは、

奥さん「帰ってきてくれてとっても嬉しいわ、エズラ。
でも上の人たちは怒ってるんじゃないの?」

エズラ「たぶんね・・・でも何もされないと思うよ?
だってたった3日帰艦を遅らせただけなんだし」

そして、独房に座って、

「なんてこった!
四角い飯のためにあんなことするんじゃなかった」


エズラくんの足元に置いてある食事は四角いパンと水のみ・・。

「四角い飯(スクエアミール)」とは、トレイの形だと思っていたのですが、
今回ブリッグの囚人食、パンのことだと知りました。


お次はマサチューセッツで見学した巡洋艦「セーラム」のブリッグ。



なんと、ベッドがなく、鉄の床に布団を敷いて寝るという過酷な環境。
日本人なら平気かもしれませんが、アメリカ人にこれはキツい。


空母「ミッドウェイ」のブリッグは再現度高し。



両手を拘束されて肩を落とす収監者。
連れてきたのはCPOで、ブリッグを仕切る担当の前に引き出されています。
デスクにはセル(独房?)の鍵が三本並んでいて、
担当はこれから部屋をアサインすることになります。


写真に写っているのは、
Master-at-Arms (MA)
といい、海軍内で法執行を行い、部隊保護の責任を負う部隊の人です。

昔はこの権限は海兵隊に任されていましたが、
1970年代にMAの管轄になりました。


刑務所とどちらがマシかって感じの独房。


窃盗や喧嘩、脱柵、不敬、反逆、AOL(乗り遅れ含む)・・。
D・トッチさんの罪状は果たしてどれだったのか。

Redditというチャットを見ていたら、シーバッグ(水兵用ダッフル)に
小さなポケットを作り、そこに空砲を入れていたのが見つかって、
ブリッグに放り込まれた水兵さんがいたという話がありました。


柵がなく妙に広々としていますが、ここもかつては独房だったのかな。
洗面台に鏡がついているってすごいいい待遇なんじゃないでしょうか。


展示のため、バックミラーで細部が見えるようにしてありました。


さすが空母、ちゃんと収監者専用のシャワーもあります。



定員6名のHolding Tank(檻房の俗語)。
「リトルロック」のバンクよりずっとこちらの方がマシに見える。

ブリッグがどの艦艇にもあったかというと、そうでもありません。
大きさとしては、巡洋艦以上ではないかという気がしますが、
チャットを眺めていると、ブリッグのない艦も結構あったそうです。

そういう時は、自衛隊のように倉庫に閉じ込めたのでしょうか。

しかし「ミッドウェイ」には、艦底以外にもブリッグがありました。



隙間が縦に細長いので、細い人や小柄な女性なら通り抜けられそう。
これは「ミッドウェイ」の士官区画にあったブリッグです。

最初に紹介した時も書いたのですが、
ブリッグというものは基本的に船底に位置するものなので、
なぜこんな高官の区画にあるのかが全く謎です。

士官が何かやらかしてもブリッグに入れられることはなく、
その時はスーパーバイザーの元、行動監視されて、
区画から出ることを禁じられるというのがスタンダードなのですが、
「ミッドウェイ」では監督する人をあてがうのが面倒なので、
士官用のブリッグを作ってあるという可能性もあります。


「ミッドウェイ」のSNS用撮影スポット。


先ほどの監房の格子部分はここに移設されているのだと思われます。

■ クルーズ船にブリッグはあるのか?

答え:ある。
ブリッグの主な目的は、船内の秩序と安全を維持することです。
通常、乗客エリアから離れた、アクセスしにくい場所にあり、
マットレスなどの基本的な設備は整っていますが快適とは言えません。

例えば、クルーズ船で暴行、殺人、違法薬物の所持が見つかるとか、
泥酔者や乱暴な乗客も拘留室にお入りいただくことになります。

泥酔して倒れて眠り込み、介抱しようとした医療関係者に
乱暴をして怪我をさせたりしたら即ブリッグ行きになり、
法執行官に引き渡されるまでそこでクルーズをお楽しみいただきます。

もし専用のブリッグがなければ、個室に監禁され、
食事は全てルームサービスが届けられます。
出ることを許されず、ドアにはテープが貼られ、
ドアを開けたらわかるようになっています。

さらに重大犯罪者なら部屋の外に警備員が配置されます。

■ ブリッグの幽霊

最後にいかにもネタな小話を。
ブリッグについて調べていて、「軍艦の幽霊」という話を見つけました。

軍艦に幽霊が出る(もっともらしい)理由とは以下の通り。

顕在化の歴史
海軍に所属している間に、心に傷を負ったり、
予期せぬ死を遂げたりした人々は、
自分に起こったことを乗り越えようとする一方で、
安らぎを得るために、配属された場所に留まることを選ぶことがある。
これは、特に戦死した場合や事故で起こる

霊魂の中には、肉体がないにもかかわらず、
奉仕しなければならないという使命感を持っている者もいる。
彼らは必要性を感じ、今なすべきことに順応して、
助けるために彼らの(無い足で)一歩踏み出すのだ。


【リトルロック(バッファロー)の幽霊】

1967年に起こった七日間戦争中、USS「リトルロック」の乗組員は、
イスラエル軍に誤って攻撃されたUSS「リバティ」から、
ひどい熱傷を負った多数の生存者を移送したが、
これらの負傷者の多くは、USS「リトルロック」艦内で死亡した。

艦内では幽霊の警備員が検査を行い、乗船する観光客を見張っているという。

【リビングストン(テキサス)の幽霊】

USS「リビングストン」は神風特攻隊の攻撃を受け、
その際甲板と機関室に火災が広がり、その炎は
巻き込まれた水兵たちを焼き殺した。
その乗組員たちの霊は艦内に留まることを決めたのだという。

このとき死亡したハンサムなエンジン整備乗組員の霊は、
今でも自分の仕事をするために報告し、きれいな女性の訪問者を楽しみ、
時にはツアーを行うことさえあるらしい。

【アイオワ(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「アイオワ」は、1980年代、砲塔装填部からの大爆発に見舞われ、
そこで働いていた兵士たちが全員死亡した。

現在、その時死亡した乗組員の霊がボランティアに付き添い、
助言を与え、観光客の命を救ったことさえあるらしい。

【ホーネット(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「ホーネット」は第二次世界大戦中、
太平洋での激しい戦闘で300人の死傷者を出した。

「ホーネット」にはランディングコード(航空機のストッパー)
が切れた時に死んだ、首のない甲板乗組員の霊がいる。
彼は勤務を続けないわけにはいかないので、今も職務に励んでいる。


続く。

「東京帰りの俺たちGI」〜賽は投げられた

2025-03-11 | アメリカ

「東京帰りの俺たち」最終回です。

全部を翻訳してみて思ったのは、彼ら駐日アメリカ人が、
わたしたちが思うよりずっと、純粋に日本での体験に驚き、興奮し、
そして何より日本と日本の文化を愛してくれていたのだということです。

彼らの感じたカルチャーギャップは、通信の発達によって
彼らよりはるかに多くの情報を得ることができる現代人と違い、
激しい、価値観が逆転するほどの驚きと興奮をもたらしたものでしょう。

現代の米軍人は、色んな駐在地の知識をネットで仕入れて赴任しますが。
今も昔も、彼らに最も人気のある海外赴任先は日本らしいですよ。

■満員電車
”確かに・・・帰国したては空いた車内だと孤独を感じちゃうよね”

冒険を求めてアフリカのジャングルに勇敢に挑む人もいる。
興奮を求めて山に登る人もいる。
日本ではその必要はない。
サービスマンは日本の電車に乗るだけでいい。

日本人は礼儀正しい。
しかし、電車に乗ると何かが起こる。
礼儀正しくなくなるのだ。
それどころか、荷物、ブリーフケース、傘、
ベイビーサンを抱えた群衆になってしまうのだ。

彼らは「Gomen nasai」の一言もなく、
驚いている傍観者の横を通り過ぎたり、その場を通り過ぎたりする。
みんな電車に絞り捻り込まれる。

混んでいる。
訂正: とても、とても、混んでいる。

まるでギンベル(当時存在したデパート)のバーゲンのようだ。
人間が荷物扱い。歓声とおしゃべりの渦。
早い者勝ち、かつ盛者必衰の世界。

こういうとき素早く動けないGIは吊り革を持つこともできない。
まあしかしそんなものは実際必要ない。
前にも後ろにも動けず、サイドレーンもガッチリブロックされているから。

彼は不条理に、そして不器用にそこに立ち、
彼を取り囲む頭や耳や目を見回す。

誰もが何かを抱えている。

ママサンは買い物袋を背負い、赤ん坊をおんぶしている。
信じられないことに女学生はそんな中でも何か勉強している。
小さな男の子は、風船の紐をギュッとつかんでいる。
パパサンは釣竿を抱きしめている。

シリーズ初日のヤンキー・スタジアムに大群衆が押し寄せたようだ。

■天秤棒
”だから言ってるだろ、ここじゃそれ使えないって”

天秤棒。テンビンボー。
作曲家がハワイアン・ウォー・チャントに使った言葉のような響きだ。

註:Hawaiian War Chantはハワイ語の歌詞を持つアメリカのポピュラー。
タフタフアフアイというこの歌は、
日本では「あーやんなっちゃった」というポール牧の歌で有名。


Hawaiian War Chant (Ta-Hu-Wa-Hu-Wai)

しかし、これは日本人が肩に担いでいる樫の棒の名前なのだ。

天秤棒の両端には竹かごが吊るされ、
かごの中には農家で栽培された農産物が入れられている。

滑空する天秤棒は、日本の高速道路を移動する軍人が目にする、
カラフルな動く塊の一つに過ぎない。

そこには多種多様な乗り物が行き交う。
喘ぐ三輪バイクタクシーもある。
ジープや自転車リキシャもある。
虹色に輝く巨大なバスもある。

洗練されたアメリカン・オートバイもあれば、馬車もある。
陸軍のパトカーもあれば、
何千本もの日本酒の空き瓶を積んだ巨大なトラックもある。
金切り声を上げる路面電車もあれば、
金切り声を上げる歩行者を狙って猛スピードで走る自転車もある。

そして最後が、人間の鼻孔にとってのパブリックエネミーNo.1、
「ハニーバケツ」である。

ハニーと言っても決して蜂蜜の匂いではない。
バケツに入ったゴミを満載したこの馬車は、
街のゴミ捨て場が道を転がっているようなものだ。

サービスマンは驚きながら、公道セレブの魔法のような操縦を眺める。

そして、彼もまたすぐに、まるでテンビンボーのバランスのような、
危険な生き方への欲望に駆られずにいられない。

■ 日本の通りの自転車
”これ忘れてない?”

日本のストリートにおける車輪の王様は自転車である。

混雑した狭い道で時間を稼ぐには自転車が一番だ。
老若男女を問わず、日本人は皆自転車に乗っている。
信じられないほどの正確さで、自転車は交通の合間や合間を縫って走る。
自動車、タクシー、路面電車、人力車などを驚異的な能力と敏捷性で回避する。

自転車は日本における歩行者の一番の敵である。
どこからともなくやってきて、高速道路をあっという間に走り去る。
その間、歩行者は狂ったように飛び跳ね、荒々しく叫び、
荷物を乱暴に放り投げ、必然的にパニック状態に陥る。
自転車やライダーの姿はほとんど見えないことが多い。
見えるのは、道路を暴れまわる動く荷物の塊だけだ。

自転車はしばしば配送トラックや移動用バンを兼ねており、
大げさに言えば荷物を積んでいる。

箱、樽、ボトル、毛布、その他もろもろをその弱々しい骨組みに括りつけて、
二輪車がくるくる回っているのはよく見る光景だ。

そのため、軍人は自転車に新たな敬意を抱くようになる。
家に帰ると、他の人たちはそのバイクで新聞を配達したり、
サイクリングを楽しんだりしている。

■日本の英語広告と標示

『芝生に立ち入るな どうぞ そこに止まれ ここから離れて』
"自分でもまた書きましたです”

アメリカ人に自分たちのメッセージを伝えるために、
日本人は非常に横着で、こっけいな言葉を用いる。

その言葉の標識は、歪んだ言い回しや回りくどい言葉を点滅させている。
彼らの宣伝文句はたいてい、駐日兵士の頭の中では
ユーモラスなごちゃまぜになってしまう。

キャバレーの看板は、しばしば独特の言葉選びをする。
あるキャバレーではこんな風に。

"1000 of Beautiful Girls.Give your Passionate Cheek. 
Homely Atmosphere."
「1000人の美女。あなたに情熱的な頬を与える。アットホームな雰囲気」


別の酒場はこんなふうに、

"No Body Can Find Out More Nice Place Than Our Night Club."
「私たちのナイトクラブより素敵な場所は誰も見つけられない」


自慢する。

また別のキャバレーの看板は、洗練さやソフトで優雅なアプローチを避け、
嬉しそうにはしゃぐ。

"Wow! Cold Beer, eh? Let's Go! To Keep Up Our Morale!"
「わお!冷えっ冷えのビールだって!さあ行こう!士気をあげるために!」


タイヤ修理の看板にはこう書かれている。
”Specialist in Puncture."
「パンクの中のスペシャリスト」

高速道路の交通量の多い交差点に掲げられた標識は、
ドライバーに警告している。
”Speed keep Strictly"
「スピードを厳格に保て 」

高速道路に架かる鉄道の高架では、ドライバーにのために
”Pray Safety Traffic”
「安全な交通を礼拝する」
と書かれた標識がある。

これらはこの国の典型的なサインランゲージだ。

「ホットドッグと日本酒」「サドルシューズと着物」が
もはやこの国で不思議な組み合わせでないくらい、そして
「さようなら、ジョー」とか「さようなら、ボーイさん」と同じくらい、
それらは今やこの国の一部となっている。

標識は驚くほど素晴らしいものではないが、まあ、意味はわかる。

ウェブスター氏(辞典編纂者)はどうにもこれらに落ち着かず、
墓の中で寝返りを打つかもしれない。

アメリカ人の広告マンは、見かねて彼らの仕事に加わるかもしれない。

英語教師は、悪影響を恐れて教え子から広告を隠すかもしれない。

しかし、まあ、

”What They're About Talking We Know. ”
「彼らは何を言っているのか、我々は知っている」

なら、これらの何が問題なんだろうか。


■そろばん

日本ではしばしば、巨大な電算レジが、そろばんと呼ばれる
木製の玉を並べた小さなシンプルな計算機に置き換わっている。

このポケットサイズの無生物のジーニアスは、
日本人の素早い指先が触れるだけで、
奇跡的に加算、減算、乗算、除算を行う。

玉を上下に動かしながら数えることで、
商人は請求額と客が支払うおつりの額を正確に把握できる。

(あまりに素早く簡単に計算できるので、この竹製の会計係は
天気予報もでき、世界平和の計画も立てられ、
そのうち子供も育てられるのではないかという印象を受ける)

サービスマンは、商人が算盤で数学のマジックを披露するのを見て、
この「スライディングボール」の使い方を習得したいと強く思う。

運よく彼がそれを実際にマスターできたら、
彼もまた、計算機を使わずに済むようになる。
アンクル・サムが彼を所得税のことで苦境に追い込み、
計算の決闘に駆り立てられることになった決算月でさえも。

■ 日本の工事足場と地震
”あがっておいでよ。絶対安全だから”

もし世界の8番目の不思議を選ぶとすれば、
野次馬の軍人たちによって選ばれるのは「日本の足場」に違いない。

それは奇妙な構造物だ。
突起物のある木材でできているというわけではない。
ただ長い棒を藁縄で結んで組み立ててある。

足場を組み立てる際の日本の職人たちは実に興味深い。
彼らは、腰に長い藁縄の束を尻尾のようにぶら下げながら、
あちこちをせわしなく動き回る。

出来上がった足場の上では、男たちは
木と長方形の蜘蛛の巣に捕らえられているように見える。

足場は決して高いものではない。
なぜなら日本には低層の建物が多いからだ。
度重なる地震の経験から、高層ビルは建てられない。

何しろわずかな地盤の揺れは日常茶飯事だ。
揺れを最初に経験する在日軍人は胸が詰まったようになるが、
2度目の揺れには英雄的に立ち向かい、
3度目の揺れには日本人のように全く無関心な態度を会得する。

しかし、日本の足場に対しては無関心ではいられない。
彼はそこに建設的な酩酊感をすら感じるのだ。
そして、故郷に戻ると、家を建てるために足場を組もうとする。

■ 縦書きの日本語は左から読むこと

"なんでアメリカの雑誌は裏側を表紙にしてるんだ?”

サービスマンは日本人のやり方を知ると驚く。
なぜ、日本人は何でも逆さまにするのか?

もっとも日本人の方もアメリカ人の習慣を目にしたとき、同じように思う。
なぜ、手のひらを自分の方に向けて手をひらひらさせて人を呼ぶのか?
なぜ、居心地の悪い硬い木の椅子に座って高い木のテーブルにつき、
しかも鋼鉄製の道具を使って食事をするのか?

そして、なぜいつも雑誌を最後のページから読み始めるのか?

アメリカ人が日本で雑誌を手に取ると、彼が表紙だと思ったものは
日本人にとっては雑誌の裏表紙である。
日本の雑誌は後ろから始まるからだ。

彼らの文章は縦書きで、英語とは逆に右から左へと読まれる。

これは当初サービスマンにとって奇妙に感じられがちだが、
しばらく滞在していると、他のことと同様、ごく自然で秩序正しく感じる。

あまりに慣れすぎると、故郷に戻ったとき、
彼は言語解読に起こった転換を理解できないかもしれない。

■電話の「もしもし」

「もし」は1つだけで使われることは決してない。常に2個1で使う。
「もしもし、もしもし」。
これは「こんにちは」という意味である。
日本の電話は、もしもし、もしもしという音で始まる。

電話でアメリカ人は「ハロー:こんにちは」、
イギリス人は「アーユーゼア?:どちらさまでしょうか」だが、
日本人は常にこのエコーのような文句を発する。

TAKSANのアメリカ人と日本人が同時に電話のダイヤルを回すため、
日本の電話は時に挑戦的なものとなる。

サービスマンが東京で電話を取り、横須賀に近い郊外の町、
追浜にいる50マイル離れた同僚に電話をかけようとしても、
回線や回路が乱れていることが多く、電話がつながらなかったりする。
また、おしゃべり好きな横浜のパパさんに間違ってかかったりする。

「もしもし、もしもし」とあちこちで言われ、
サービスマンは慣れないことだらけの海の中で途方に暮れる。

しかし、他の日本の習慣に染まっていくにつれ、
GIはすぐに日本の電話のエチケットを身につける。

その時彼は、ありきたりの古い挨拶の「ハロー」を捨て、
「もしもし」という2つの魔法の響きを口ずさんでいるのだ。

■お辞儀の国
”ダメダメ、ジョー、お辞儀じゃなくて握手よ!”

日本人がFRIENDO(日本人にもアメリカ人にも好まれる言葉で、
より親しい友人を意味する)や新しい知り合いと会うときは、
握手はせず、お辞儀をするものだ。

一礼、二礼、三礼と礼を尽くし、相手もそれに合わせて礼を返す。
別れの時が来ると、また一礼から始まる。

上、下、上、下。

威勢の良い挨拶の様子を見ていると、
サービスマンはふらふらしてしまいそうになる。

しかし、すぐにそれがとても豊かで高貴な挨拶の仕方であることに気づく。

自分の手が力持ちに握り潰されるような心配をすることもなくなるし、
お辞儀は(丁寧に正しく行えばだが)、頭蓋骨を粉砕する心配はない。

やがて、軍人は無意識のうちに「OJIGI」の習慣を身につけてしまう。
故郷に戻った時、TOMODACHI に対しついおじぎしてしまったりして、
握手の国にいることを忘れている自分に気づく。


"あなた、うちに帰ってきたのだから、もう
『東京帰りの俺たちGI』はやめてね”

年を重ね、日本は来日した軍人にとって故郷となる。
彼はニッポンの人々とそこでのやり方を理解し、愛するようになる。
彼はここで新しい生活を送り、その生活が彼を、
アメリカ人を、アジアティックにした。

涙で滲んだ目で鞄に荷物を詰め、サヨナラをいう。
船に乗り込み、はるか東の果ての岸から離れる時、彼の心は重い。

しかし、彼の一部はいつでもこの小さな国にいる。

日本に滞在した後は、アメリカはもはや前と同じに思えない。
皆が英語で会話しているのを聞くのはなんて奇妙なんだろう。
巨大な建物の間を彷徨い、混雑した通りを歩いても、
そこでは誰もお辞儀をしないし「OHAYO GOZAIMASU」を言わない。

アメリカに帰ってくるのはきっとものすごく奇妙な体験だ。

軍人の妻や彼の家族は間違いなくそれを感じ取り、理解しようとするだろう。
妻は彼に同情し、慰め、忘れさせようとするだろう。
妻は、彼が変わってしまったこと、何年か前に別れのキスをした時と
全く別人になってしまっていることに気づくだろう。

そして気づくのだ。

手遅れになる前に、彼自身と彼女のためにも、
彼女はそこに社会的な掟を定め、従わせるのが良いだろうと。

愛情を込めて、優しく、彼女はそれを実行する。
しかしーあたかも富士山の頂上に雪が積もるようにー
彼女の警告の言葉はあてどなく彷徨うだけである。

なぜなら、軍人にとって、今も、そしてこれからも、
「アジアティック」という賽は投げられたあとだからだ。

■裏表紙


「乗りなよ、肋骨をくすぐるライドに」

著者のヒュームトアナリーノは日本の裏道や脇道を探索し、
「交通安全祈願」や「パンクの専門家」などと書かれた標識を発見する。

笑いがページをさざなみのように駆け巡り、
二人はそうして再び家路に着く。

国に帰ると彼らは金髪の女性に目を凝らし、妻たちを困難に陥れ、
勝手に家具を売り飛ばしたり隣の男に3回お辞儀したりする。

日本に行ったことがある人にとっても、
『日本から帰国した人たちにとっても』この本は必携だ。

■著者について

ビル・ヒュームは1916年生まれ。
15歳で高校卒業、1936年ミズーリ大学卒業。
海軍予備役として1941年から1945年まで第二次世界大戦に従事し、
1951年に現役に復帰。
海軍の任務の傍ら、彼は時間を見つけて本書に収められている
人気漫画を創作し、連載を続けていた。

彼はまた、ネイビータイムや横須賀・追浜の地方紙だった
「オッパマン」の編集長として寄稿も行っていた。

ジョン・アナリーノはペンシルバニア州パンクスタウニー出身。
セント・ボナヴェンチャー大学のジャーナリズム学科を専攻し、
1951年7月に海軍に入隊した。

その後横須賀の追浜に着き、そこでヒュームと「オッパマン」を創刊、
現在も編集を行なっている。

「パシフィック・スターズアンドストライプス」に頻繁に寄稿し、
海軍のヒットショー”Damn The Torpedoes."の本と歌詞を書いた。

このショーの主題歌は、日本の映画「やっさもっさ」で取り上げられた。

註:獅子文六原作、淡島千景主演、音楽 黛敏郎
1953年松竹作品


シリーズ終わり



「東京帰りの俺たちGI」〜日本人はマスク好き

2025-03-07 | アメリカ
横須賀に駐留していた米海軍の軍人コンビが描いた
「不思議の国ニッポン」シリーズ、続きです。

■坊ちゃん刈り

”そうそう、こういうふうにして欲しかったんだ!!"

日本の子供たちは驚くほどお行儀が良い。
GIは、彼らが泣いたり、騒いだりしているところをほとんど見たことがない。

彼らは比較的臆病で内気であり、気を引くには大抵相当な説得が必要だ。
(「お菓子、ガム、人形、野球ボールがあるよ!」)

多くの日本の子供たちは、初めて散髪をされるときでさえ、
じっと静かに座っている。
それは世界のあらゆる国々の親たちが証言する通り、奇跡に近い偉業である。
実際、散髪そのものが奇跡的ですらある。

日本の子供の髪型は典型的な「ボウル型」で、前髪を少し残すことで、
子供がかわいらしく見えるように工夫されている。

大統領夫人マミーは、アメリカで前髪ブームの火付け役となったが、
何百万人もの日本の赤ちゃんにはもう浸透済みだ。
彼らにとっては、前髪は昔からあるものだから。

註:マミーMamieはアイゼンハワー夫人のこと。
彼女はファッションアイコンとして前髪を流行らせた。


こんなやつね

■日本の学生服

"わかったパパ、着るよ。
近所の子供を全員舐めるのを手伝ってくれたらね”

現在では、日本の学校で制服が必須という規則は少なくなったが、
それでも多くの日本の若者が制服を着用している。
男子の制服は洒落ていて、黒いコートとズボンに金色のボタン、学生帽だ。

子供たちはまるでミニチュアの列車の車掌のようだ。
極東に駐留するアメリカ海軍部隊にとっては屈辱的なことなのだが、
日本の女子生徒の中にも彼らと同じ制服を着用する一派がいる。

それは、大きな四角いセーラーカラーのついた紺のワンピースだ。
店や電車の中で、セーラー服の女子学生グループの隣に立つと、
彼女たちが自分の制服から水兵の制服へと視線を移すのに気づくだろう。
そんな時、彼女たちはクスクス笑いを決して我慢しない。

そして水兵たちは、古い伝統の服に固執する海軍を決して許すまじと思う。

アメリカの若者は、オーバーオール、Tシャツ、スニーカーで
学校にダッシュで駆け込むことを好む。
しかし、もし彼の父親が日本に行ったことがあり、
もしその父親が息子に洋服をプレゼントしてくれたなら、
(「お」の有無に関わらず、それは日本の女の子が喜ぶものだ)
ジーンズは新しいものに置き換えられるかもしれない。
新しい服は、おそらくそれほど快適ではないかもしれないが、
ずっと目を引くことは間違いない。

■ リリパットの国

”自分が背が高いって思えた頃が懐かしいよ”

日本人が背が低いのは、床にしゃがむ習慣があるからだと言われている。

このような習慣は、昔の学校の教室でも一般的だった。
しかし、今日では学校でもその他の場所でも、
若者たちは椅子やベンチに座るので、彼らは背が伸びている。

屋外や屋内のゲームの活発なスケジュールだけでも、
より健康で、より強く、より背の高い身体が育まれつつある。

柔道は、日本では有名なスポーツだ。
そして、GIは(比喩的に言えば試合を見ている時、
文字通りには試合に参加している時)
小柄で無害そうな人々が繰り広げる試合の巧みさに驚嘆する。

身長6フィート(約180センチ)以上のアメリカ人は、
日本人の群衆の中ではほぼ巨人と見なされる。
平均的な身長の軍人でも、ほとんどの日本人の頭越しに前が見える。

しかし、アメリカに戻ると、状況は一変する。

■ブロンドだけは・・・

”実に変わってる・・でもあれがいいんだなあ”

日本には素晴らしいものがたくさんある。

親切な人々、魅力的でカラフルな習慣、魅力的な神社や寺院、
神聖で荘厳な富士山など、数え上げたらきりがない。

しかし、日本にはないものもある。それはブロンドヘアだ。

日本人は皆、黒髪だ。髪も瞳も黒く、肌の色は浅黒い。
日本人は皆ハンサムで、美しい女性も他の国々と同様にたくさんいるが、
金髪はいない。

WAC、DAC、アメリカ人扶養家族が駐留する大都市近郊にいない限り、
金髪を見ることはない。

帰国して、金色の髪をなびかせた女性を見かけると、
彼は思わず見とれてしまう。

なぜなら、それはとても奇妙ながらも非常に歓迎すべき光景だからだ。

■ 箱枕

”二人で使おうと思って”

米軍人は時折、東洋の絵本で見るような髪型をした日本人女性を
(たいていは警戒しながら)目にすることになる。

彼女の頭には大量の髪が積まれ、その中に、
櫛や花やその他の魅力的な飾り物が張り巡らされている。
芸者だから派手な髪型をしているからといって注目されるわけではない。

しかし、こんな髪飾りをつけていると、布団に入るとき、
手の込んだ髪型を台無しにしたくないだろうことは理解できる。

髪型の秩序を保つためには、木のブロックで支えたロール布の上に頭を置く。
こうすることで、彼女の頭と髪は自由になり、
邪魔されることもなく、つぶされることもない。
これは決して快適な枕ではないが、鏡に向かう時間を節約できる。

そして軍人が帰宅したとき、彼の髪がウェーブであろうと、
クルーカットであろうと、髪そのものが消えかかっていようと、
どんな枕が欲しいかは彼自身がよく知っているはずだ。

■着物のうなじ
”私のうなじがそんなに魅力的?”

アメリカン・ガールのブラウスは、前面にくびれがあるのが特徴だが、
日本の女の子の着物のくびれは背中にある。
GIはこれを邪悪な展開だと思うのだが、一見して、
美少女の首の後ろも立派な解剖学的部位であることがわかる。

日本の誇るゲイシャガールは、首の後ろをとても重要視している。
高い髪を結い、鮮やかで流れるような着物を着ると、
彼女は頭のてっぺんからつま先まで覆われ、装飾される。

しかし、首が目立つのは、着物の背中側をすぼめ襟を抜くからである。
そして首が魅力的なのは、ゲイシャガールが
首の上の髪の生え際を妖艶に粉飾するからだ。

芸者衆は、疲れた日本のビジネスマンや軍人の完璧なパートナーなのだ。
彼らの願いは彼女の命令だ。

彼女は一瞬たりとも退屈しないように見守っている。
彼女は歌と踊りの女主人だ。

彼女は東洋のファッションとエチケットの女王である。

彼女は自分の仕事であるエンターテインメントの仕事を、
魅力的かつ優雅にこなす。
15歳くらいから、エンターテイナーとしての手ほどきを受けてきたのだから。

彼女には多くの才能があり、多くの魅力的な特徴があるが、
なぜかGIたちにとって最も魅力的なのは、彼女の美しい首の後ろなのだ。

■日本の漁民(女性)
”本当に日本人は釣りに行くときこんな格好をするの?”

日本の海岸沿いにはすべて漁船がある。
その数、何十万隻。大きさも形もさまざまだ。

漁業はこの小さな国の主要産業だ。
漁村では、ママさんがパパさんを手伝って漁獲物を引き揚げている。
夏の炎天下、漁や畑仕事をするときは、
礼儀正しさは実用性に取って代わられ、女性も男性と同じようにする。
つまり腰から上の服は脱ぎ、腰から下の服は最小限に切り詰めるのだ。

新米軍人を除けば、誰も感心しない。

魚は日本の食卓の頂点に君臨している。

漁師(フィッシャー)をチップス(フィッシュ・アンド・チップスではない)
の中に閉じ込めておくだけでなく、全てのメニューのハイライトでもある。

魚は安く、それが肉より好まれる主な理由である。
アメリカでも魚はポピュラーな食べ物だが、
ニッポン流の漁業ファッションはこちらの女性には流行らないだろう。

■生魚を食べる
"君のために素敵なディナーを用意したよ。
ちょっと生に見えるけど”

日本人は生魚が大好きだ。

スピアフィッシュと寿司は満場一致で人気だ。
日本では誰もが魚料理を食べる。
特に田舎に住む日本人の中には、魚と米だけで生活しているような人もいる。

ポップコーン、ピーナッツ、クラッカージャックは、
アメリカ人のためにここでも売られているが、
小さな魚のおつまみは、日本でのそれに匹敵するものだ。

汽車に乗るとき、あるいはゲームをしながら食べるために、
彼らは木箱に入った食事を買う。
箸がついた小さな箱は上下の2層に分かれている。
下の段はご飯。上には魚、大根、肉、漬物、キュウリ。

アメリカ人がジュージュー焼いたステーキや
南部のフライドチキンを食べるように、
日本人は魚を調理し、あるいは生でも食べる。

■日本人と米
”でもあなた、これって買った方が早くない??”

米はアメリカ人にとって完全にパンに相当する。

これがなければ食事は成り立たないし、
狭い国土のあちこちに無限に広がる田んぼは、
すべての食事が完全なものになるように見計らっている。

白くてフワフワのご飯を大量に食べずに日本食を口にすることはない。
それは「Gohan」であり、大衆の食べ物である。
特にすき焼きとの相性は抜群で、観光客の舌をうならせる。

また、日本酒も食欲をそそる。日本酒は熱燗にして小さなコップで飲む。
大きなコップで飲むと、悪酔いしがちだ。
(覚えがあるだろ?兄弟)

日本人が茶碗か米を箸で食べる姿は外国人を特別に魅了する。
日本人はご飯の入った茶碗を口のすぐ下に持って、
箸を茶碗から口へと驚くべき速さで回転させる。
あっという間に茶碗は空になり、お腹は満たされる。

醤油味のご飯は、すぐに駐留兵のメニューの「必需品」になる。
もしアメリカに帰っても、それを大量に用意しようとするだろう。

■日本のお茶

”お茶は別にいいのよ。
でもまたコーヒーをいただいてもいいんじゃない?”

緑茶には健康にいいビタミンAとビタミンCが多く含まれていると言われる。
もしそうなら、日本人は世界一健康な民族ということになる。

軍人たちが無料のビールを飲み干すように、日本人は緑茶を飲み干すのだ。
緑茶は日本人の大好きな飲み物であり、家でも職場でも一日中飲まれている。
食事のたびにそれは出される。

緑茶の人気はアメリカではコーヒーに匹敵する。
コフィイ(のように聞こえるが、Co-heと発音する)は、
まろやかで香り高いお茶のように日本人にアピールするものではないが、
人気は高まっている。
日本ではそれらを好むのは都会人であるが、これはアメリカの影響である。

横浜には「Green Tea Time」と銘打ったクラブもある。
緑色の温かい飲み物のためにコーヒーを飲み干す日が来ると、
それ以来コーヒーポットは無用の長物となる。

■マスクが好きな日本人
"強盗じゃないんだ。ただ風邪ひいているんだよ”

日本に来てすぐの頃、日本人の男女誰も彼もが
皆マスクをつけて街を歩いているのを見ると軽くパニックになる。

彼らは盗賊か?社会のはみ出し者か?病院の手術室からの避難者か?
いや、どれでもない。彼らは単に風邪をひいているだけなのだ。

マスクは病原菌の蔓延を防ぎ、吹きつける冷たい風を防ぐ。
日本人の中には、人混みに行くときや満員電車に乗るとき、
風邪でもないのにマスクをする人だっている。

しかも、自分がマスクをすることで、風邪をひいているのに
マスクをしていない人から風邪をうつされるのを防ぐことができる。

Wakaru-desuka?

アメリカの子供は、泥棒のトレードマークをつけた父親を見ると、
すぐに昔の「警官と強盗」のゲームを思い浮かべる。
そして説明する間もなく、パパはおもちゃのピストルを持たされる。

■日本のカードゲーム

”公平になるようにシャッフルするよ。
ただし僕らのやり方でさせてくれたまえ!”

日本のカードはユニークだ。

小さくて厚く、とても重い厚紙でできている。
アメリカ式にシャッフルするのは不可能なので、日本式にシャッフルする。
片方の手のひらにデックを乗せ、もう片方の手の親指と中指で
デッキから何枚かのカードを抜き取り、山の上に置く。
この動作が電光石火の速さで何度も繰り返される。

小さな男の子がマジシャンが帽子からウサギを出すのを見るように、
駐留軍人は日本人がカードをシャッフルするマジックに目を見張る。

おそらく日本で最も人気のあるカードゲームは花札であろう。
日本のポーカーゲームであり、日本の賭博場の一番ゲームでもある。

一年の各月に花や木が描かれた4枚の札がある。
例えば、1月は松の木が4本生えている。
4月は桜。10月はカエデ。
このゲームは娯楽であると同時に、花育?にもなる。

もうひとつのゲーム、百人一首は文学的な教養を与えてくれる。
このゲームはお正月にしか行われない。
そしてゲームの前には、あの珍しいシャッフルがある。

何時間も練習し、こぼれた札に涙を流しながら、
軍人がついにはシャッフルもマスターしたとする。

しかし、彼が故郷に帰り、ミックスアップの技を披露したとき、
彼のゲーム相手は日本風のカード・アクロバットを称賛しないだろう。

それどころか、不正行為を疑ってくるかもしれない。

■紙芝居

”はー・・・なんでテレビを買ってくれないのさ?”

アメリカの子供たちはテレビに群がり、日本の子供たちは紙芝居に殺到する。

紙芝居は、巡業の紙芝居屋が市や町を巡り、
大きなバスドラムの音に合わせて街角で興行する。

紙芝居の特徴は、大きな絵札の連なりで語られる面白い話や漫画だ。
十数枚の紙芝居は、一枚ずつ後ろに重ねられ、
紙芝居師が紙芝居を抜きながら物語を語る。

入場料は無料だが、子供たちは旅芸人からお菓子を買うことになっている。
一番アメを買った子供は、リングサイドの一番前に立つことができる。
お菓子を買わなかった子供は後方に追いやられる。

演目の中には、雁字搦めの探偵スリラーやテレビの冒険連続ドラマのように、
「to be continued 」となっているものもある。

しかし、完結していようがいまいが、日本の子供たちは
紙芝居の沸き立つような興奮が大好きなのだ。

片やアメリカの子供は、絵カードやナレーションなどには見向きもしない。
彼らの心は、テレビ画面の中の大胆不敵な人物、
ホパロングとキャプテン・ビデオにあるのだ。

註:ホパロングは「ホパロング・キャシディ」という、
西部劇の主人公で二丁拳銃の早撃ちが得意な当時のヒーロー。
「キャプテンビデオ」は、正式には
「キャプテンビデオと彼のビデオレンジャー」(サイエンスフィクション)。

Captain Video and His Video Rangers - Episode 1

■「支那の夜」

”ちょっと、「She Ain't Got No Yo-Yo」はないの?”

最近の日本でのヒット曲は、「ジャパニーズ・ルンバ」(アイ・ヤイ・ヤイ)
や「トーキョー・ブギ」といった地元の小唄から、
「テネシー・ワルツ」や「ボタンとリボン」といった
アメリカからの輸入曲まで、多岐にわたる。

しかし、日本のスターダストとして長年愛されているのは、
「支那の夜」という優しいバラードである。

日本人と駐日アメリカ軍人はこの曲が大好きだ。

しかし、軍人の愛はどこかとっ散らかっている。
誰が始めたか無邪気に 「She Ain't Got No Yo-Yo」 と歌い、
以降、感動的な歌詞を台無しにしてしまったのだ。

註:いわゆる逆『空耳アワー』で、
最初のフレーズが彼らにはこう聞こえるとか聞こえないとか。
この英語にはなんか変な意味もあるらしい。

日本人は驚きと不信の念を抱きながらアメリカ人の歌詞に耳を傾け、
低いトーンで彼のおかしな歌い方について話し合う。
(この馬鹿、なんなんだ、ちょっとおかしいのか?)

日本人にはリズムを取る才能があり、憧れのGIたちを喜ばせるために、
クラブやキャバレーのダンスフロアでその才能を巧みに披露する。
ワルツを踊り、タンゴを踊り、ポルカを踊り、ジターバグを踊る。

彼らは一言で言えば、へっぽこだ。

現在、ニッポンには甘くセクシーな曲があふれているが、それとは対照的に、
耳をつんざくような三味線の音に合わせて演奏される奇妙な歌も残っている:
この弦楽器は「飢え」から来るものだと多くの軍人が信じている。

ともあれ彼らにとって、夢のような日本の「支那の夜」に勝るものはない。

Watanabe Hamako : Shina No Yoru (She ain't got no yoyo - China Night - 支那の夜)


続く。





「東京帰りの俺たちGI」〜こいのぼり、暖簾、箸、扇子そして折り紙

2025-03-04 | アメリカ
始めてみたら面白かったので、「リトルロック」艦内に展示されていた
駐留米兵コンビのカートゥーン、「東京帰りの俺たち」、原題

When We Get Back Home 

の続きをご紹介していきます。

何しろ1950年台の話なので、今日では日本人ですら、
へえ、この頃ってそうだったの?という内容も多々あります。

ちなみにこの頃ドルは不動の360円だったんですね。

■イケバナ
"なんて呼ばれようと綺麗な花なんだし、
気持ち悪く(Ike-bana/ Icky=
きもい)なんかないよね”

和室の「ICHI-BAN」目立つ装飾は生け花である。
それは、心を込めて、ある種の献身さえもって行われる芸術である。

アダムとイヴのように、生け花にも男性と女性のスタイルがある。

(1)アレンジメントは天、人、地を象徴するようにしなければならない
(2)一番上の小枝は天を象徴し、
(3)左側の曲がった小枝は人を象徴し、
(4)枝の一番下の小枝は地を象徴し、右側にある。
そのため、花と花瓶の高さは正確でなければならない。


洗練されたシンプルさは日本美術の特徴であり、生け花も例外ではない。

サーヴィスマンにとっては、その工程は少々複雑に見え、
計算された植物の美しさに驚嘆する。

しかし、その驚きはやがて感嘆に変わり、彼もまた、
花びらのついた小枝を愛おしそうに積み重ねている自分に気づくのである。

■こたつ
”確かに面白いけど・・もうガス暖炉をつけましょうよ!”

日本の冬には雪はほとんど降らないが、それでも冬は寒く厳しい。

日本人は、暖炉やストーブのような機械的な暖房がない代わりに、
タクサン(takusan)の服を着ることで補っている。
下着、シャツ、上着は少なくとも平常時の2倍になる。

炭の容器は実際には手を温めるくらいしか役に立たないので、
日本人はコタツと呼ばれる足温器も持っている。
これは木製の骨組みに炭を入れた四角い小さな箱である。
足の指を温めるものとしては、「SUTEKI」なものである。

そして最も寒い日でも、しっかりと着込んで座り、火鉢で手を温め、
こたつで足を温め、掛け布団にくるまれている日本人は、
ウォルドーフアストリアの最も裕福な住人のように暖かく快適である!

しかし、ガス炉の循環熱に慣れているアメリカ人の中には、
火鉢の爽快な雰囲気を理解できない人もいるかもしれない。

■物干し竿
”確かに・・そう教えたけど・・でもなんで一番いい釣り竿を使うの?”

日本人は、洗濯物を干すのにとても巧妙な方法を知っている。

洗濯物をロープの物干し竿に干すこともあるが、たいていは竹竿を使う。
竹竿を衣類の袖やズボンの足に通すと、
まるでファッショナブルな案山子のように見える。
このように干すと、風が通り抜けて乾きが早い。

物干し竿は、日本が世界に誇る商品である竹が提供する、
数多くのサービスのひとつにすぎない。

他にも、箸、雨傘、弓矢、日傘、絵筆、農夫の籠、配水管、
ハンドバッグ、そして家屋の装飾品など、数え上げたらきりがない。

洗濯の日に家に戻った軍人の妻は、竹を便利だとは思わないかもしれないが、
帰還した夫にとっては残念なことに、
彼女は日本式に洗い物を干すことはやめないだろう。

■鯉のぼり
”これで皆、うちに男の子がいるってわかるんだ!”

日本では、10歳未満の男の子がいる家庭では、
毎年5月5日になると、家々に新たな彩りが加わる。

色鮮やかな大きな紙の鯉のぼりが、家の屋根や庭に立てられた
長いポールの上から空高く舞い上がる、男の子の節句だ。

風船のように膨らんだ鯉のぼりが空に舞い上がり、
まるで泳いでいるように見える。

通常、一家の息子の数だけ鯉のぼりをあげ、
年齢が上の子ほど大きな鯉のぼりを上げる。

鯉のぼりは、成長する少年の象徴としてふさわしいシンボルだ。
波に勝つ力強さは少年の野心を象徴しているからだろう。

男の子の節句は、日本で祝われる数多くの祭りのうちの1つにすぎない。
他にも、年間を通して数多くの祭日があるが、3月3日のひな祭りには、
女児が代々受け継がれてきた美しい雛人形を家の一番良い部屋に飾る。

祭日は楽しい時間であり、誰も仲間外れになることはない。
なぜなら、日本には、あらゆるものや人々を称えるための時間があるからだ。

■風呂敷
”見て!パパはまたお買い物に行ってるわよ!”

日本で買い物をするのは、目を見張るような体験だ。

東京、大阪、横浜などの大都市にある大型店を除いて、
日本の店はどこも小さく、商品でぎっしり埋め尽くされている。

店内は買い物客が身動きできないほど混雑しており、
商品が陳列棚からあふれ、歩道まで広がる光景もよく見かける。
店の中は、カーニバルのような雰囲気で、商品が所狭しと並べられ、
色とりどりで、目を引くものすべてがわかりやすく陳列されている。

日本人は買い物に出かけると、袋や箱を抱えて帰ってくるわけではない。
代わりに、鮮やかな色の大きな四角い布(風呂敷)を持っていき、
その四隅を結び合わせて持ち手とし、その中に購入した品物を包む。

典型的な買い物客である典型的なマダムが、鮮やかな着物を身にまとい、
色鮮やかな買い物袋を手に、小さな商店を回る姿は、カラフルな絵になる。

そして、日本に長く滞在する軍人は、すぐに
自分だけの小さな買い物袋を手に入れるだろう。

■円に慣れすぎる
”13ドルだって?それって何円?”

軍人が日本に上陸すると、ドル、ダイム、ニッケルに別れを告げ、
日本の通貨である円に挨拶の挨拶をする。

1ドルは360円の価値があり、さまざまな形や大きさがある。
紙幣は1円、10円、50円、100円、500円、1000円が発行されており、
1円、5円、10円の硬貨もある。

円紙幣は大きく、100枚単位でも山のように積み上げることができるが、
それでも町で用を足すには十分な額ではない。

1円札では、女の子のジェットヘア用の小さなリボンさえ買えないので、
ほとんど価値のない通貨である。

日本の商人と取引する際、GIの頭脳はかなり酷使される。
彼は常に、円の価格をドルの価格に換算する。
そして、1ドル360円という数字を、例えば
9,250円という円に換算する時には完全に頭が混乱してしまう。

■軍人票専用財布
”これって『綺麗なバッグ』じゃなくて円用の財布なんです”

給料日やその翌日には、膨大な量の円を大量に持ち歩くだけでなく、
軍人は軍の支払い証明書も持ち歩くことになる。
米国の軍事施設内で、米国の権限のある人員のみが使用するMPCは、
モノポリーのお金と驚くほどよく似ている。

円と軍票の両方の通貨を持ち歩くため、軍人の財布はすぐにいっぱいになり、
ポケットサイズの札入れは不釣り合いに膨れ上がり、
腰のポケットは重みでたるんでしまうほどだ。

この頃、「ミスター・マネーバッグ」はより大きな
「マネーバッグ」を見つけることを決意する。
そして、彼はそれを手に入れ、貨幣輸送の問題はかなり緩和される。

彼がドルとコインの国に戻り、以前の円の財布が披露されても、
人々はそれがただ大きくなった財布だと疑わないかもしれない。

女性たちは、それがマダムの最新のハンドバッグだと勘違いしがちだ。

■暖簾

(退役軍人ジョーのカフェ)
" ねえジョー、君の新しいお店のサインだけど、
これって破れてると思われないかな?”


大きな看板に掲げられた数本のネオン管と燃えるようなバナーに、
日本ではお店の名前が書かれている。
名前が書かれているのは真ん中で割った大きな四角い布、暖簾だ。

暖簾は入り口の前に垂れ下がっていて、入店するとまず目に飛び込んでくる。
(飲み屋を回っているときは気づかないかもしれない。
尤もそんな時には耳元で21砲が鳴り響いても気づかないだろうけど)

暖簾は、客が入るときに簡単に開くように、真ん中で分かれている。
日本の店舗やレストラン、飲み屋に不慣れな人は、
破れたり、裂けたりしているのは仕様ではないと思いがちだ。

暖簾は、店の名前や商品の宣伝をするだけでなく、日本語の文字で
「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」と主張していたり、
「まいどありがとうございます」と書いてあることもある。

客が入店した際に従業員が歌うようにしてこの言葉を伝える場合もあり、
映画館では、上映後、案内係の女性たちが客にこの言葉を叫び始める。

このような言葉の挨拶を向けられると、サービスを受けた人は、
その場所にまた戻ってくるのが待ち遠しくなる。

■ 箸を使いこなす
”これ何に使うの?”

何度もひっくり返したり、転ばせたりして、驚くほどの洗濯代を払った後、
そのGIは「日本のシルバーウェア」つまり箸の扱い方を習得する。

習得の過程では、多くの恥ずかしい瞬間があったが、
練習と忍耐はいつかは報われる。
そして、米を挟むとき、肉や野菜をつかむときに、
最高の腕前を発揮するGIの報酬は、自分に対する誇らしさだ。

木の箸は、まるで大きな木片のようなもので、日本人はよくこれを使う。

箸はほとんどお金をかけず購入でき、食事後は簡単に捨てることができる。
プラスチック製や牛の角、馬の骨でできた凝った箸もあって、
日本の食卓に彩りを添える役目をする。
色とりどりの鮮やかな色で、龍や花の美しいデザインのものもある。

「郷に入れば郷に従え」という格言に従うサービスマンは、
すぐに箸と親しくなり、ナイフとフォークに疎い人になってしまう。

■箸のアメリカでの利用法
”でも君さ、それは編み物には使えないんじゃないかな!”

軍人が米国に帰国するとき、日本での思い出の品をたくさん持って帰る。

お土産リストの一番人気は、箸だろう。
陶磁器やシルクのパジャマと並んで、
箸は本国の人々にとって驚きと喜びの品だ。
(彼らのありがちな表現は、『一体これは何?』)

しかし、帰国軍人からきちんと教え込まれていない限り、
アメリカ人はその目的を完全に理解できないかもしれない。
彼らは、その箸を他の用途に使おうとするかもしれない。

父親や兄弟がハイボールを混ぜるのに使おうとするかもしれないし、
母親や妻が、その箸を編み物の針として使おうとするかもしれない。

飲み物を混ぜられてもセーターを編むことはできないと気づくだろうけど。
軍人は、家人が時にとても奇妙な行動をとることを知る。
So desu。(That's Right.)

■正絹と”ただの絹”
”ふーん、ただのシルクか”

「故郷からの手紙」は、GIたちに、家族がありがちな日本土産
(ティーセット、絵画、日本人形、扇子、象牙の彫刻、カメラ、双眼鏡など)
のほかに、母親はナイトガウン(できれば正絹のもの)を、
父親はスモーキングジャケット( できれば裏地は正絹)を、
妹はパジャマ(できれば赤い可愛い正絹の)を、弟はジャケット
(背中に大きな緑の龍の絵が描かれた正絹の)
を希望していることを思い出させずにいられない。

幸いにも(あるいは残念ながら)、GIは
このような素晴らしい衣類を購入するのにふさわしい国にいる。
そして、その費用もそれほど恐ろしい額ではない。
ナイロン、レーヨン、錦織りの美しい服もあるが、やはり一番は正絹の服だ。

それらに目を奪われた家族は、たいてい欲しいものを手に入れる。
軍人はすぐに正絹を当たり前と思うようになり、
例えば普通の絹織物などにはあまり興味を示さなくなる。

■扇子とうちわ

”エアコンだよ。ふうーー”

扇子は、暑さを吹き飛ばすだけでなく、日本人のために様々な役割を果たす。
炭火を起こすために使われる。ビジネスや商品の宣伝にも使われる。
ファッショナブルなショップで買い物をした際の特別なプレゼントにもなる。
相撲の行司が使う商売道具でもある。

扇子は割竹を紙で美しく装飾したもので、あらゆる色や模様がある。
無地のものや、朝焼けや花、富士山がデザインされたもの。
小さいもの、大きいもの、安いもの、高いもの、素晴らしいものもある。
折りたたみ式の扇子、常に開いた状態の団扇もある。

昔の日本人は、扇子を持たない限り、正装と見做されなかった。
今でも、花嫁の婚礼衣装には欠かせないものである。
扇子を愛用するのは女性だけではない。
男性も扇子を持ち歩き、普通に使う。
7月から9月にかけての日本の猛暑の時期には、風を切る音が響き渡る。

その音の一部は、パパサンに具合がよければ自分にとっても良いものだ、
と考えるサービスマンによって奏でられる。

■折り紙
”僕が日本で学んだ最もエキサイティングな技術なんだ!”

日本人のハンカチーフ、クリネックスとトイレットペーパーに相当するのは、
Chirigami ちり紙、またはSakura gami 桜紙である。

ちり紙は無地で安価、桜紙は滑らかで高価だ。
鼻をかんだり、口紅を拭いたり、その他の用途のため日本人は持ち歩く。

ママサンは胸元で折り返した着物の内側にそれを忍ばせている。
パパさんはポケットにそれを詰め込んでいる。
ガールサンはハンドバッグにそれを入れている。

しかし、彼らの紙の中で最も優れているのは折り紙(folding paper)だ。

子供たち、そして年配の人たちも、折り紙でとても楽しい時間を過ごす。
紙を帽子や箱、人形、船、鳥などに折る。

折り紙は白や青、緑、赤、琥珀色、黄色などがあり、色のバリエーションは、
特に若者たちの間での折り紙の人気に劣らないほど幅広い。

他のことと同様、GIたちは、そこにこれまでになかった楽しい娯楽を見出す。
そしてそれ以降、彼も折り紙アーティストの創造的な世界に足を踏み入れる。

■日本式入浴

石鹸会社は浮く石鹸を宣伝しているが、
石鹸が浮くかどうかは日本人にとってはあまり重要ではない。

そもそも彼らは石鹸を浴槽で使うことはないので、
石鹸が水面に浮くか、それとも水面から消えるかなど気にもとめないのだ。

日本人は、浴槽に入る前に体を完全に石鹸で洗う。
そして、小さなバケツ一杯分の水を体にかけ、体をピカピカに洗い流す。

このようにバスタブに入る前に体を洗うのは良い習慣だが、
シャワーの前に体を洗うのはお勧めできない。

なぜならときどきシャワーは水が出ないこともあるから、
そうなると、被害者は頭からつま先まで石鹸まみれになり、
目をぎらぎらさせながら立ち尽くすことになるからだ。
(筆者注:これは海軍のシャワーを知っている知人から聞いた話である。
しかし、陸軍、空軍、海兵隊のシャワーにも当てはまると思われる。)

浴槽の外で石鹸を塗り、すすぎを終えると、日本人は浴槽に入る。
そして、それはとても熱い。
あとはただ座ってリラックスするだけ。
なぜなら、こすったりこすられたりする作業はすべて終わっているからだ。

入浴が終わっても、浴槽の湯を空にする必要はない。
なぜなら、家族の一人一人が次々と同じ湯を使うからだ。
OYU=お湯は無駄にしてはいけないのだ。

日本の銭湯には、垢すりをしてくれる「ガールサン」がいるところもある。

彼女は、浴槽に片足を入れかけたものの、
残りを蒸し湯の中へ引きずり込む勇気が出ない入浴客の肩を、
誘い言葉も感謝もなしに、押し下げて無理やり座らせる。

■和式”ベンジョ”の向かう先
”修理ができたら、僕たちそれでどこに行くの?”

日本での生活は、軍人にとって魅力的な体験である。
この国の習慣に関する彼の学びには休みがない。
彼は常に新しい行動のルールを学んでいる。

このような学習は、行動が通常は二の次になる狭い部屋でも続く。
米国のトイレには何の挑戦性もない。
その構造は椅子のようである。
しかし、しばしば便所と呼ばれる日本式トイレは、独自のクラスに属する。

それは床に開いた小さな陶磁器で縁取られた穴である。
その片側の端だけが持ち上げられており、その唯一の目的は、
人が自分の位置を確認できるようにすることである。

このトイレに不慣れな人は、単純な問題に直面する。
それは、北を向いているのか、南なのか、東なのか、西なのか、
という問題である。

実際には、人は何も掴まらず、経験や勘、あるいは運を頼りに、
便器の持ち上がった端に向き合わなければならない。
しかし、日本の便所に不慣れな人は、たいていどこかの方向を向いて終わる。
その決断は、内なる動機によって促される。

■人力車
”さあ、これで君も自分でお小遣いを稼げるよ”

人力車と車夫は、急速に過去のものとなりつつある。

鎌倉のような神社が点在する趣のある町では、
今でも人力車の車夫を数人見かけることができるが、
ほとんどの車夫は東洋の風景から姿を消してしまった。

人力車の車夫はSukoshi=少し楽になったかもしれない。
自転車で車を引くから今では乗客を乗せてペダルを漕ぐだけだ。
人力車の一部にはモーターが取り付けられたものもあり、
これは間違いなく新しい素晴らしい時代の幕開けを告げるものだ。

道が上り坂になると、人力車の車夫は息を弾ませ、
下り坂では満足そうに微笑む。
車輪が回り続ける間、乗客はゆったりと座り日光を浴びながら景色を楽しむ。

電車やタクシーの方が速いが、ちょっとした移動には人力車が便利だ。
100円(約2ドル)で長い距離を移動できる。

日本は雨が多いが、その時人力車の車夫は幌をバギーにかける。
乗客は長方形のテントのような場所に座るが、それは
まるで赤ちゃんがお母さんの背中に乗っているような居心地の良さだ。

■おんぶにだっこ
”正直言って、子供たちはもう十分大きいから歩けると思うの”

日本で、GIは、生後2か月にも満たないような非常に幼い赤ちゃんが
母親の背中にしっかりと抱きついているのを目にすることが非常に多い。

彼はこう思う。
あのおんぶされた赤ちゃんは大丈夫だろうか? 
赤ちゃんは不快で怖がっていないだろうか? 

すると、お母さんが赤ちゃんの方を振り向き、安心させるように微笑む。
それを見ると、大丈夫だと分かる。
赤ちゃんが泣いても、お母さんはただ前後に揺れるだけだ。
その体の動きは、どんなロッキングチェアや揺りかごよりも、
はるかに優れた子守唄の役割を果たす。
日本のお母さんの90パーセントは「おんぶ」の習慣に従う。

長距離を移動する際には、お母さんは赤ちゃんを乳母車に乗せて運ぶが、
近距離の移動では、インド式に赤ちゃんを抱っこする方が簡単で早いのだ。

アメリカでは、子供たちが父親におんぶしてもらうのはたまの贅沢である。
しかし日本ではおんぶは日常的な光景であり、子供たちはあまり感動しない。


■下駄の素晴らしさ
”パパが正解よ。これだと足は絶対濡れないもの”

日本では、靴を履く人がますます増えている。
しかし、特に田舎の人々や年配の生粋の日本人には、
下駄を履くことに固執する人も多い。

下駄は、鼻緒をはさんだ木製の台で、親指と人差し指の間に挟んで履く。
鼻緒はビロードや木綿、絹の錦織物でできており、
足の裏に心地よくフィットする。
この変わった日本の履物は、東洋人の目にはきらきらと輝いて見える。

履物を脱ぐことの方が多いこの国では、非常に実用的な履物である。
日本の2歳児や3歳児も下駄を履いている。
下駄を履くことに初めは苦労していた軍人たちは、
子供たちが下駄を履いてスイスイと歩いているのを見て、
驚き、そして少し恥ずかしく思ったりする。

下駄は木でできているため、西洋のラジオ番組で最高の音響係が手がけた
最高の効果を上回るカランコロンという音を立てる。

また、雨の日は、足全体を覆う特別な上履き付きの下駄があるので便利だ。
靴は濡れ、足も湿るが、木の台に足を乗せると、
アジア的な奔放さで水たまりを歩き回ることができる。


続く。



「東京帰りの俺たちGI」〜駐留軍人の「ニッポンナイズ」

2025-03-01 | アメリカ




ミサイル巡洋艦「リトルロック」のオフィサーズステートルームです。
比較的大型の艦なので、スペースには余裕があり、
二人部屋のベッドは天井も高く、執務用デスクも大型です。

現場の説明は次のとおり。

士官室(オフィサーズステートルーム)

ここバッファロー・ネイバル・パークで公開されている
3隻の艦船、どれにも展示されているように、
海軍の下士官と将校の生活スタイルには歴然とした違いがあり、
その中でも最も明白なもののひとつが生活環境でした。

USS「リトルロック」のこのエリアは「オフィサーズカントリー」と呼ばれ、
より高いランクの士官が住んでいました。

この展示は、このエリアにある士官用寝室の典型的なものです。


■ ”俺たちが東京から帰ってきた時”



今日は」士官室のデスクの上に置いてあった本に注目します。
(それどころかシリーズ化してしまうのだった)

「東京帰りの俺たち」とは、このカートゥーンの
『When We Get Back Home From Tokyo』
を当方超意訳したもので、ビル・ヒュームとジョン・アナリノの共著です。

ビル・ヒュームという漫画家は、以前ここでもご紹介した
「Baby-San」の作者です。

BABYSAN〜進駐軍の恋人

第二次世界大戦中アメリカ軍に入隊したヒュームは、
横須賀に駐留していた時、追浜にいる男という意味の
「オッパマン(OPPAMAN)」という基地新聞の編集者として、
それに「ベビさん」を掲載していたのです。

彼はその後帰国して、日本での軍隊生活を描いた本を4冊出版しました。
そのうちの一冊が、この「東京帰りの俺たち」というわけです。


読んでみましたが、日本人の我々にとって非常に興味深い内容なので、
今日は、お節介ながらこの本を翻訳してみたいと思います。



帰国した時に喜んでくれる故郷の人々に捧ぐ!

■アジアティック
”どういう意味よ?日本が奇妙で普通でない国って?”

日本駐留者にはある言葉が付きまとう。

 それは「アジアっぽい 」(アジアティック)というものだ。
彼らがニッポンに長く居過ぎたことを意味する。

つまり、彼らは帰国しても決して周りと同じようにはなれないということだ。
アメリカの習慣がタオルを投げ入れ、日本の習慣が勝者となるのである。

日本での滞在の後、GIはそれまでの自分にサヨナラ
=(So long, buster. That's it. Good-bye.)を言う。

しかし彼は日本人のように歩き、話し、食事をし、服を着、行動し生活する。
彼は確実に、そして錯乱するほどに「アジアっぽく」なっているのだ。

日本を知らない人は彼の国を奇妙で異常な国と見なしがちだが、
ニッポンに住み、ニッポンの生活を愛してきた軍人は、全くそうは思わない。

彼の視点はもはやネイティブになってしまっている。

色彩豊かで魅力的なあの国に、まるで魔法にかけられたように魅入られ、
アメリカの故郷に戻っても、その魔力から解き放たれずにいる。

■ニッポンナイズ

こんな風になっちゃうなんて・・・2年間は長いわ!!

非番の日にも、軍人は陸軍のカーキ、海兵隊グリーン、
海軍や空軍のブルーを身につけがちだ。

日本での彼らはリラックスして、日本の着物を身につけ、規定の靴を
「エアコンの効いた」靴であるところの「ゲタ」に履き替える。

彼らは兵隊用語を封印し、日本語をブラッシュアップする。

そして、魅力的な衣装に身を包んだ「真のアジア人」は、繁華街を歩き回り、
日本人の知人にお辞儀をしたり、日本語で話しかけたりする。

控えめにいっても、それは彼らにとってまったく新しい人生である。
そして、彼はそれを最大限に活用する。
運動会の日のようにそれを楽しみ、日々は猛スピードで過ぎていく。

しかし、日本に駐在するGIたちにとっての2〜3年は、
ただのアメリカ人からただのアジア人へと変わるためには十分な時間だ。

■日本で最も捨てがたいもの
"プライスレスと申告したら関税はいくらかかるかな”

日本ではアメリカ人がアジアっぽくても何の問題ないし、
軍人も東洋人のイメージの中にすっと入っていけるのは興味深い。
日本人はそんなアメリカ軍人を 「普通の男」として見るようになる。

日本人の家族はしばしば彼を養子にする。
彼らは彼のために家のドアを開け放つ。
彼らの家で、彼は多くのリラックスした時間を過ごす。
彼は訪問のたびに日本人の習慣や風習を教え込んでもらう。

家族を通じて、あるいは他の社会的な経路を通じて、
あるいは個人的な恋愛工作を通じて、彼は「ojo-san」
(「さん」は「ミス」「ミセス」「ミスター」「マスター」に匹敵する敬称)
と出会う。

彼女は東洋的な魅力で彼を魅了し、
彼の人生をより忙しく、そして確実に輝かせる。
彼女は彼の友人となり、仲間となり、通訳となり、ガイドとなる。

そのうちいつの間にか彼女は彼の恋人となり、彼は
「ワタクシハアナタヲアイシマス」と口ずさむようになる。

荷物をまとめてアメリカへ向かうときになって、
彼は日本で見つけたその魅力的なものを捨てがたいことに気づく。

実際、それはどうしても置いていくには忍びないものなのだ。

■ダイジョウブ
”イエッサーエブリシングイズ・・あー、えー、
『DAI JOBU?』って英語でなんだっけ”

日本に長くいればいるほど、アメリカのやり方は異質なものになる。

日本と日本人のやり方は魅力的であり、それゆえ、
その影響は軍人が極東の海岸を離れた後も長く続く。

彼がアメリカ本土に戻り、アルバカーキやスケネクタディ、
コロンビア、パンクスタウニー(著者の故郷)に落ち着いたとき、
彼が培ってきた日本の習慣は、アメリカの習慣に取って代わられる。

その時GIの社会生活は(彼の中で)大混乱に陥る。

帰国後、アメリカの人々が床に座るのではなく椅子に座ること、
家の中では靴を履くこと、そして「ダイジョウブ」の代わりに
「オーケー」と言ったりすることが実に不思議に思えてくるのだ。

■「ドーゾ」
”『バター取って』だけじゃダメだろ!『DOZO』を付けなさい!"

「ドウゾ」は「お願いします」という意味である。

日本人はとても礼儀正しく気持ちのいい国民なので、
「ね」という言葉と同じくらい、これは頻繁に会話に出てくる。
(例えば、「今お金を払いました”ね”?」といった具合だ)

もろくも素敵な言葉である「ドウゾ」は、この国の典型的な言語である。

日本人はよく、「ドオーオーーゾ」と転がるように発音する。
アメリカだと 「pretty please with sugar 」みたいな感じ。

GIは日本語を学ぶのに素敵で、狂おしく、そして実に滑稽な時間を費やす。

日本語は奇妙で不可解な構造に満ちている。
しかし、そのうちに、現地語で人々と話せるようになりたい彼は、
少なくとも、より一般的な単語やフレーズを覚えるようになる。

ただしこれは日本人の方も同じらしい。

サービスマンが日本人に「Domo Arigato」と言うと、
日本人は「You're welcome」と返してくる。

「Ohayo gozaimasu」と言うと、相手は「Good morning」と言うだろうし、
「Konnchi wa」と言うと、彼は「Good afternoon」と言うだろうし、
「Konban wa」と言うと、彼は「Good evening」と言うだろう。

悔しいけど楽しい。

■ 日本語の「はい」は「いいえ」?
”これで最後だ。はい、買いませんよ!”

日本人に日本語で否定形の質問をしたとしよう。
イエスかノーかのシンプルな答えを期待すると、誤解と混同は頂点に達する。

日本人の「はい」はアメリカ人のノーであり、その逆もまた然りだからだ。

例えば「まだ行っていないんですか?」と尋ねたとする。
日本人は「ハイ、行っていません」と答えるだろう。

この「ダブルトーク」はGIをかなり混乱させ、滑稽な状況に追い込む。
アメリカ人は当然、「はい」を肯定的な答えと受け取り、
「行っていません」を否定的な答えと受け取る。

英語の本には「否定が2つあれば肯定になる」と書いてあるが、
肯定と否定が重なると一体どうなるのか?

日本人にとっては否定だが、我々にとってはまったく否定に聞こえない。

しかし、遅かれ早かれGIはそれに気づく。
問題は本国に帰ってからだ。

「イエス」は「イエス」であり、「ノー」は「ノー」であるこの国で、
日本式の言葉の悪ふざけに固執しがちになる者がいる。

■なんて聞こえたんだろう
"ゴメンナサイ・ワカルカ!って言っただけなのに・・”

日本人が言っているほぼ全ての言葉を理解していることに衝撃を受けた時、
サービスマンは日本に来て長いのを実感する。

初めのうちは、日本語のごった煮にしか聞こえなかったが、
やがて言葉は別々の形をとり始め、GIは自分が
「ナンジ」と「デスカ」を使って 「今何時?」と聞いていることに気づく。

天国にいる人々の多くは日本人に違いない。
なぜって日本語には汚い言葉がないからだ。

しかし、日本語の言葉の中には、とても硬い響きを持つものがあり、
全く理解のない人には耳障りに聞こえることがある。

「イカガデスカ」という簡単な挨拶でさえ誤解されやすいのだ。

故郷に帰った時、彷徨える軍人は魅力的な女性に
自分の巧みな言語運用能力を印象づけようとするかもしれない。

しかし、見知らぬ者からそのような奇妙な音を聞いた女性は、
決して感心しないかもしれないとだけは言っておく。

註:「ゴメンナサイ ワカルカ」は、おそらくアメリカ人の耳には
何かスラングで変なことを言っているように聞こえるのでしょう。

■日本のタバコ
”これシガレットホルダーだよ”


外国語は外国人の舌でねじ曲げられやすいので、
日本人にとってのシガレットは「Shigaret」であるが、多くの場合
彼らはシガレット、葉巻、パイプなどすべてを「タバコ」と称し、
「タバコ・チョーダイ」という具合に使われる。

日本では、ラッキーズ、チェスターフィールド、キャメルに相当するのは、
ピース、ヒカリ(太陽の光)、シンセイ(生命の回復)である。
日本のタバコは、すこしかび臭い味がして、軍人にはあまり好まれない。

興味深いのは、バーやキャバレー、レストランで煙草を吸おうとするとき、
あなたは決して自分で火をつけなくてもいいことだ。

魔法のように、「ボーイサン」や「ガールサン」が
愛想笑いを浮かべながらマッチに火をつけてくれるのだ。

これは、とても楽しくてホスピタリティに溢れた国で提供される、
とても心地よいオモテナシのひとつに過ぎない。

■おしぼりと日本のお店
”おしぼりを持ってきてって言っただろ!”

日本のレストランのサービスは素晴らしい。

客がドアを開けるやいなや、ウェイトレスかバスボーイかマネージャーが
お辞儀をして、「いらっしゃいませ 」と言う。
これらの文字が積み重なり、アメリカ人への歓迎の言葉になる。

客が席に着くとすぐに、笑顔のウェイトレスがテーブルに駆け寄る。
彼女はおしぼりを持ってくる。
おしぼりはきれいに丸められ、小さな籐のかごに入れられている。

これは食事の前に手を拭くためのもので、
客が望めば眉間を拭くこともできる。

アメリカ人の目には、レストランにはウェイトレスが一人いて、
その仕事は水を注ぐことだけに見える。
客が最後の一滴を飲み干すやいなや、彼女は水を注ぎにくる。

美味しく食事を食べ終えると、客は、お辞儀のオンパレードと
「ありがとうございました。ありがとうございました。またどうぞ」
の合唱で店を送られる。

GIにとってもう一つ素晴らしいことは、日本のレストランは、
チップのための持ち合わせがなくとも、罪悪感を感じなくてもいいことだ。

日本人はチップを全く期待していない。

チップは好意や料理やサービスを褒める意味を持つかもしれないが、
また来てくれるという保証を意味しているわけではないからだ。

■紙と木の家
"すみません、新聞紙とマッチで家を作れと言われましても”

もしビッグ・バッド・ウルフが単なるフィクションではなく、
本当の話だったら、日本人は心穏やかではいられないだろう。
オオカミはハァハァ言いながら彼らの家を吹き飛ばしてしまうだろうから。

日本の家は小さくて壊れやすい。
日本人は純粋でシンプルな家が好きだからだ。
レンガや石造りはめったにない。
窓やドアは紙と木の棒だ。

しかし、小さな家は居心地がよく、居心地のいい空間だ。
日本に何ヶ月も滞在する軍人は、木と紙の家を好意的に見るようになる。
そして、ついにアメリカで自分の家を建てる時が来たとき、
どんな家が欲しいかという気持ちにそれが大変影響を与えるのだ。

■土足厳禁!
"ね、シンプルだろ?これで掃除の回数も減らせるよ!”

日本の最も素晴らしい習慣のひとつは、家に入るときに靴を脱ぐことである。
靴の消耗を防ぐだけでなく、足の指の自由な動きを感じることができる。

和室に絨毯が敷かれていれば、リラックスできて快適だし、絨毯にも優しい。
部屋には畳が敷かれているから。

マットに触れていいのは素足かストッキングを履いた足だけだが、
日本人はラバのようなスリッパ(草履)を履いてマットを踏むこともある。

玄関は外と内の引き戸に挟まれた前庭のような場所にあり、靴はそこで脱ぐ。
家の中で靴を履かないことで、土や泥を部屋に持ち込む危険性もなくなる。

■引き戸に慣れすぎると

”どうなってんのこのドア?スライドしないぞ!”

両手がふさがっていて、ドアノブを回したり、
ドアを開けられないときには、引き戸は特に便利だ。

障子と呼ばれる日本の引き戸はシンプルなものだ。
木製の骨組みの上に紙が貼られており、
紙は少なくとも年に一度は交換しなければならない。
戸はかなり薄っぺらいものだが、部屋の熱を保ち、
換気を促進するという素晴らしい役割を果たす。

しかし、「ビール」パーティを開く時には、このようなドアは必要ない。
(『ビール』とはビアのことで、大抵はニッポンかアサヒかキリンで、
エコノミーサイズの大瓶に入っている)

例えサービスマンが日本のドアにぶつかったとしても、
苦しむのはサービスマンではなくドアである。
棒(桟)が折れる。紙の窓(障子紙)は剥がれ落ちる。

しかし、引き戸に慣れ、これがあるところに慣れてしまうと、
下手すればドアノブの感触を忘れることすらある。

アメリカに帰る頃には、ドアはスウィングするものではなく
スライドするものだ、と信じている者もいるかもしれない。

■日本式「持たない暮らし」
”家具なんていらないから、売っちゃったよ!”

日本人は部屋を家具でごちゃごちゃさせることを好まない。

実際、部屋の家具はとてもシンプルで、一見したところ、
前の住人が引っ越したばかりではないかと思わせるほどだ。
フロアランプはなく、テーブルランプもほとんどない。
通常は天井に「デンキ」(ライト)があるだけだ。

アメリカ人の部屋にあるような「ガラクタ」はそこにはない。

部屋には鏡台、ラジオ台、花瓶、冬には火鉢が点在する。
タクサン(many、lots、much、給料日にサービスマンが欲しがる量)
の大きくて四角い枕(座布団)がある。

これらは頭を休めるためのものではなく、正座の際に膝を休めるもので、
マザー・ハバードの食器棚のように、かなり殺風景な状態だ。

註:Old Mother Hubbardは英語の童謡。
「空っぽの食器棚」はその第一節。

オールドマザーハバードは食器棚に行き、
可哀想な犬に骨をあげようとした
彼女が台所に行くと
食器棚は空っぽだった
だから可哀想な犬には何もやれなかった

彼女はパン屋に行き犬にパンを買ってあげようとした
彼女が戻ってきたとき、犬は死んでいた!

彼女は葬儀屋に行き犬の棺を注文した
彼女が戻ってきたとき、犬は笑っていた



しかし、突き詰めて考えてみると、そもそも
人にとって家具なんてのは何のために必要なのだろうか?

ものが少ないと、オクサンが埃を払う手間も省けるというものだ。
(オクサン=小さな女性、あなたが心を捧げた女性、あなたのワイフ)。

■床に座る生活

”さあみんな座ってテーブルの脚を切るまで待ってて!
低いテーブルってマジ楽ちんでくつろげるから!”


和室には我々の見慣れない家具がたくさんあるが、
必ずあるのが、短くてずんぐりした脚の大きな丸テーブルだ。

ここですべての食事がとられる。
ここで緑茶を飲み干す。
ここでトランプやその他のテーブルゲームが行われる。
日本人は膝をつき、昔の騎士のように円卓で何時間も何時間も過ごす。

サービスマンは、和室の真っ直ぐでシンプルな設えが好きだ。
何もないが、必要なものはすべてある。
豪華ではないかもしれないが、十分に快適だ。
この快適さは、ニッポンを離れても彼が切望するものだ。

彼の家族や友人たちは、最初はその改造に難色を示すかもしれないが、
実際にやったものだけが、この男の目指すところもわかるだろう。

■フトン万歳
”これでもう転んでも怪我しないよ!”

日本人に必要なのは、布団と呼ばれるカバーリングのマットレス、
小さくて硬い枕、そして少しの床面積だけである。
(興味深いことに、ベビーサイズの枕には一般的にそば殻が詰められており、
この珍しい詰め物のおかげで、寝ている人の頭は驚くほど涼しくなる)。

マットレスと枕は、重いキルトのような毛布とともに、
毎晩就寝時に床に敷かれ、毎朝クローゼットの中にしまわれる。

ベッドを作るために高さのある木枠の端から端まで歩き回る必要がない。
ナイトテーブルも、ハリウッドタイプのベッドにある棚も必要ない。

もちろん、ベッドから落ちる心配もない。

■火鉢
”いやいやいや、暖房に使うものなんだってば!”

火鉢は巨大な植木鉢のように見えるが、花を飾るためのものではない。

それはアメリカ人のかまど、ストーブ、暖炉がひとつになったものだ。
日本の家庭で使われる唯一の暖房器具である。
とても印象的な家具であり、部屋の中に戦略的に配置されている。
火鉢は、とても暖かい暖かさを提供するだけでなく、
家族や友人たちのキャンプ場のような役割も果たす。
アメリカの主婦にとって裏庭が会話の場なら、日本の火鉢はサモサモである。
(お察しの通り、サモサモは違和感のない意味である)。

註:作者は「Samo-samo」を間違って理解している模様



続く。


シック・ベイ〜USS「リトルロック」

2025-02-26 | 軍艦

ミサイル巡洋艦、「リトルロック」艦内探訪の続きです。


グリーンと赤のクリスマシーなタイルの廊下。
この一角に「シック・ベイ」があります。

シック・ベイとは医療目的で使用される艦内の区画を指し、
つまりは艦内病院ということになります。

Pタイルにある蛾のような模様は、医事を表す、
アピクレオスの杖のマークをかたどっているものと思われます。

ここにある「シック・ベイ」の説明は以下の通り。

「乗組員である将校、海兵隊員、下士官兵、
総勢1300人もの乗組員のケアはフルタイムの仕事だった。

そのために医師、歯科医、衛生兵が乗艦し、医療上の問題に対処した。

ここでは、医療室、手術室、回復室、歯科治療室を見ることができる」



左はレントゲン室で、使用中を表すランプが取り付けられています。
ここは一般には公開されていません。

突き当たりは診察&医療室、

「サージカル・ドレッシング・ルーム」

で、外から見るためにドアをガラス張りにしてあります。


この部屋を「シックベイ・ワード」Sick Bay Wardといいます。
回復室と一般的な病気の治療エリアとして機能するエリアです。

血圧測定中

ここを拠点に、総員に向けて、毎日2回の「シックコール」が行われました。

シックコールはアメリカ軍全般で行われる慣習で、

「医療処置を必要とする軍人の毎日の整列」

または、そのための信号ラッパのことをいいます。

Sick Call (Bugle Call)

各自が受けた検査の記録として、通常一人、
時には複数の医療担当者が、各自の健康状態を

「シックコール トリートメントレコード」(治療記録)

に記入することが定められています。

コンパートメント内にはロッカーや書類器具用の棚が配置されています。
棚の上のヘルメットにはメディックを表す赤十字入り。



可動式らしいアイランド型の簡易ベッドは、
診察を受けるため患者が横たわるようになっています。
ベッドにしては妙に高いですが、医師が診察しやすいし、
おそらくこの高さでもアメリカ人なら問題ないのでしょう。

アイランドに立てかけてあるのはギプスに重ねるシーネかシャーレでしょう。
シーネは添木とも副子ともいい、骨折部に当てて包帯で巻くものです。

英語ではギプスではなくキャストといい、添え木はスプリントと言います。

添木の近くに「海の上での医療行為」という本、
机の上には「人体解剖」の本がさりげなく?飾ってあります。

ゴム製の氷嚢は古い型のようですが、今でもダンロップ印のゴム製のものは
ほとんどこれと変わらない形で売られています。

さて、お次は手術室です。


負傷した(重症っぽい)患者を前に、にこやかに微笑む軍医。

軍に限らず、船上の生活は本質的に危険な労働環境にあり、
必然的かつ恒常的に事故が起こりがちです。

長期の配備サイクルや長い「洋上」(at-sea)期間、
乗組員は陸上の病院や施設から遠く離れざるを得ません。

そのため、艦は乗組員や、戦闘グループ全体に対し、あらゆる想定のもとに
医療援助の提供を行う能力を備えていなければなりません。

「リトルロック」の規模の艦艇に手術室が不可欠なのはそのためです。


「リトルロック」1400名の乗組員は、配属された医療要員と、
これらの施設にその健康と、時として生命の維持を依存していました。


白衣と手術着が掛けられた物品棚なるコーナー。
左の機械は麻酔用のガス供給装置だと思われます。

棚にビーカーなどが並んでいますが、運用中は船の動揺に備えて
一番上の棚にあるような枠のついたラックに収納されていたはずです。

ここには、保管が必要な医薬品を入れる薬品箱や、
モルヒネなどの規制薬物を入れる鍵付きのキャビネットもあります。

患者がいない限り、通常、医療室は施錠され、
鍵は医務官と司令官しか使用することを許されていません。



手前に見えるのはステンレス製の尿瓶。
現在は珍しい素材ですが、生産していないわけではありません。



一般の病院で言うところの「病棟」にあたる部屋です。
こちらは下士官兵用のベッド。


アピクレオスの杖の部分だけは、改装時にも残されたようです。
ベッドの真ん中に据えられたデスクは、ここで医務官が
病棟見回りの代わりに待機していたのかもしれません。


デスクの後ろにあるこの窓のある機械ですが、
いわゆるナースコールの役目をするものです。


赤丸で囲まれているものもナースコールです。

緊急事態や問題が発生したときに、このシステムを使うと、
各ボタンには右舷、ベッド、バスルームなどと書いてあり、
このオフィスにいるドクターが電話を取ることができます。

病棟区画にあるナースコールが鳴らされると、隊員や看護師、
薬剤師などの誰かがここに駆けつけてきてくれ、
どのベッドで緊急事態が発生したかを確認してくれます。




テレビ付きの(このベッドからは逆にあって見ることはできませんが)
リクライニング式ベッドが・・・・。

一般の病院で言うところの「特別室」待遇患者用でしょうか。
一つしかないので、その時ベッドが必要な一番上級の乗員用かもしれません。

例えば中尉がここに寝かされていても、もしその時
大佐が担ぎ込まれてきたら、交代させられるとか・・・?

■ 歯科区画


シックベイには歯科治療を行う区画もあります。
処置室を覗くガラス窓の説明を読んでみます。

「この歯科スペースは、アメリカ海軍予備歯科部隊の、
ニューヨーク州バッファローにあるNORVAHQ-105と
NORVADET-405のメンバーによって、
この船で勤務したすべての歯科関係者を顕彰するため修復された」

105と405の略字を検索してもわからなかったのですが、
おそらく、研修部隊のことでしょうか。

米海軍の歯科部隊は1,400人以上の現役、あるいは予備役の歯科医からなり、
軍の治療施設、教育機関、診療所、病院、研究室、船舶、
そして国内外の海兵隊に配属されて職務を果たしています。

また、戦闘作戦、災害支援、人道支援ミッションの現場にも派遣されます。


して、この写真の司令はというと、海軍歯科部隊の最高司令官、
ジョージ・セルフリッジ海軍少将であらせられます。
略歴が書いてあるので、一応見ておきましょう。

ジョージ・デヴァー・セルフリッジ少将は
1924年ニュージャージー州ピットマンに生まれ、
1947年にバッファロー大学歯学部を卒業した。

この間、彼は次のような綬章を受章している
(ユニフォームの左から右へ、上から下へ)。

海軍徴兵章
アメリカ戦線章
第二次世界大戦戦勝章
海軍職業軍務章
国防軍務章
軍隊遠征章

現役を退いた後、セルフリッジ提督は
ワシントン大学歯学部の学部長を務めた。

ニュージャージー州ピットマンの元ルース・M・モティシェロと結婚。
パメラ、シェリル、キンバリーの3人の娘がいる。

どこの誰と結婚して娘の名前がどうとかいうのは
当ブログにとって全くどうでもいい情報ではあるのですが、まあ一応。


歯科部隊最高司令官になったロジャー・トリフトシャウザー少将も、
ここバッファロー出身の歯科医官でした。

歯科大学卒業後すぐに海軍歯科隊に入隊。
1961年、歯科医学校を卒業し、アメリカ海軍歯科隊に入隊し、
1961年から1967年まで現役で勤務し、その間、
ボストンのチェルシー海軍病院、ミッドウェー島の海軍基地、
カリフォルニア州のポイント・ムグ海軍航空基地、
サンディエゴの駆逐艦「ディキシー」でも勤務しました。

1969年から予備士官としてキーウェスト海軍基地、
フィラデルフィア海軍基地、ノーフォーク歯科医院、米国海軍士官学校、
ベセスダ海軍病院、グアンタナモ湾で勤務。

1993年に歯科担当副部長に就任してからは、日本にも来ています。
1994年に少将に昇進し、現役6年、予備役27年を含む
33年間の勤務をもって、1995年に海軍予備役歯科部隊を退役しました。


ちなみにこちらが現在の歯科部隊最高司令官、
ウォルター・ブラッフォード少将
さすが歯科医、もういやっちゅうほど歯を強調してます。

アメリカ人は写真を撮るときよくこんなふうに歯を見せますが、
ここまでむき出そうと思うと、かなりの努力が必要となります。



これが復元されたという歯科診察台。


治療中ドクターがどこかに行ってしまったので、
俺、これからどうなるんかなーと物思いに耽っている水兵くん。

トレイの上に歯牙見本があるので、彼は抜糸後、
ブリッジか差し歯を入れる治療を受けるのかもしれません。

次のバッファローネイバルパーク公式のビデオでは、
シックベイの内部を紹介しています。
レントゲン室の中と、バーベット内部の物置?は
一般公開されておらず、このビデオでのみ見ることができます。

USS Little Rock: Sick Bay

続く。

「ピース・オブ・ロープ」山下奉文陸軍大将の処刑〜「リトルロック」艦内展示

2025-02-23 | 歴史

バッファローネイバルパークの「リトルロック」艦内の
展示ルームをご紹介しています。

■登舷礼を行う「リトルロック」


現役だった頃の「リトルロック」で登舷礼を行っている様子。
艦橋から撮られたちょっと珍しいシーンです。

元乗組員から寄贈されたというこのバトルヘルメットには、
コマンダーを表すCOMMという文字と、少佐の階級章がマークされています。
ヘルメットの縁にあるベルトについてはわかりませんでした。

そして、写真の左側のクロームの物体は、5インチ砲の火薬ケースです。
「リトルロック」が搭載していたのはMk.12で、就役時は6基でしたが、
タロスミサイル艦に改装されてからは1基だけとなりました。

その代わり、Mk.16の6インチ砲が1基だけ導入されています。

■ カジュアルティ・パワーシステム


こちらは展示ではありませんが艦のダメージコントロールシステム、
「カジュアルティ・パワーシステム」です。

本体には、

ライザー端子 3-56-2
ライザー端子2-56-2に接続
コンパートメントA-211-L内


と記載があります。
これは艦内のダメコンシステムで最も重要なものですが、
これ自体は単純な配電装置となっています。

船がダメージを負うなどの非常事態に、艦体を浮揚させるため、
あるいは危険な区域から脱出するために必要な、
重要な機械や装置のための電力源を確保する非常システムです。

カジュアルティ・パワーシステムは次のアイテムで構成されています。

○ ポータブルケーブル(ラックに収納されている)

○ 隔壁端子(バルクヘッドターミナル)
水密性を阻害することなく隔壁間の回路を連絡する
ライザー(高さを調節するの意)によってデッキ間が調整される

○供給源に繋ぐコネクション


 ライザー端子は、バルクヘッド端子と似ていますが、
ライザー端子同士、取り外すことができない装甲ケーブルで接続され、
それらは垂直方向に「ライズ」するために配線されます。

つまり、発電機から主甲板および第 2 甲板レベルにパワーを運ぶのです。


ここにあるのは配電盤で、電源パネルの端子は高音になるので、
カジュアルティ電源ケーブルが端子に接続される前に、
パネルへの通常の供給は遮断する必要があります。

非常用電源システムからは、操舵装置、IC配電盤、消火ポンプ、
消防室や機械室の補機類などに供給が行われます。

■ スカットルバット


俗語としての「スカットルバット」が、「噂」「ゴシップ」を表し、
この語源がこの水供給器であることは、
当ブログでも何度となくお話ししてきたところです。

航海用語の樽や噴水による水供給器=スカットルバットは、
水兵たちがその周りに集まって噂話をしたことから、
いつしかスカットルバットは噂を意味する言葉になったというわけです。


この写真は帆船で使われていた樽型のスカットルバットです。
バット(樽)には水を汲み出すための四角い穴が開けられています。


これはシースカウト(ボーイスカウトの海版)で行われている
「スカットルバット吊り上げ競技」の様子です。

帆船時代の樽のスカットルバットは、甲板の一階下に収納しますが、
その際、写真のような三脚を甲板のハッチの上に立てて、
保管庫からの出し入れを行う作業が日常的に行われていました。

この競技は、その作業と同じことを、水をこぼさずに行い、
その最短時間を競うもので、三脚の下に置かれた樽にロープを結び、
ドラム缶を規定の高さ(3フィート)に持ち上げるのを3回繰り返し、
地面にドラム缶を降ろして装備を元の状態までするまでが1ラウンドです。

水がこぼれたり、作業中誰かと話をしたら失格。
「優秀」とされるタイムは1分未満だそうです。

安全のために参加者はヘルメットをかぶっていますね。

■ 山下奉文大将処刑に使われたロープ(実物)


他の多くの展示艦と同じく、ここもまた館内は博物館となっていて、
「ベトナムルーム」と名付けられたコーナーには
海軍艦なのに陸軍ヘリ部隊や陸軍の女性についての展示があります。

そして、もう少し先に進むと、ほんの一瞬ですが、
我々日本人にとって看過できない展示が現れます。


第二次世界大戦時、マレー作戦の指揮官としてイギリス軍と戦い、
シンガポールを陥落させ、フィリピン攻防戦でアメリカ軍と戦った、
山下奉文陸軍大将の処刑を報じる新聞と、その際使われた
処刑用のロープの一部が展示されていたのです。


山下奉文元帥は、第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍大将である。
マラヤ・シンガポール侵攻の最前線に立ち、
70日間でこの2カ所を制圧するという快挙を成し遂げ、
英国のウィンストン・チャーチル首相は、
日本軍によるシンガポールの無念の陥落を
「最悪の災害」「英国軍事史上最大の降伏」と呼んだ。

戦後、マニラでの裁判の結果、彼は戦争犯罪の有罪判決を受け、
1944年に日本が占領したフィリピンの防衛戦における部隊の行為により、
1946年に絞首刑で処刑された。

この写真は、有名な、山下大将がアメリカ軍に投稿した時のものです。
かつて恰幅の良かった大将の体はすっかり痩せていますが、ご本人は

「家内にはいつももっと痩せろと言われていたからちょうどいい」

と笑っていたとか。

以下、ここに展示されている写真とその説明です。

戦後、山下大将が裁判中に収容されていたフィリピンのロスバノス収容所

山下大将が処刑された絞首台

処刑直前、黒い頭巾をかぶっている山下大将が見える


処刑執行したメンバー

写真左から2番目のハワード・ロス(写真左から2番目)は、
山下大将の最後の言葉が

「May I face the East.」

であったと回想している。

処刑寸前、山下大将は皇居の方角に頭を下げ遥拝を行いました。

山下大将が処刑された後4、5日して、フォリピン第一キャンプの入り口の
本部前の掲示板に処刑の写真が四つ切り大に引き伸ばされて、
11枚のシリーズで張り出されたといいます。

その11枚とは下の通り。(wiki)

1、刑場の全景
2、山下が患者輸送車から下車する場面(囚人服姿)
3、階段の手前の山下
4、十三階段途中の山下
5、十三階段の一番上の山下
6、山下の首に縄がかけられた状況
7、蹴り板がはずれて釣り下がる
8、下半身が黒見を帯びた袋に入れられつつあるところ
9、完全に袋に入れて、遺体を運ぶところ
10、遺体を担架に乗せるところ
11、担架の前で日本人の僧侶が読経しているところ

ここに展示されていた写真は「1」以外相当するものがありません。

11枚の写真は海軍の公式カメラマンによって撮影されたものであり、
ここにあったのは、現場に立ち会うことを禁じられた報道関係者が
なんとか処刑の様子を収めようとこっそり撮影したものと思われます。

■ 処刑を報じるイギリスの新聞


山下奉文が絞首刑になったのは、シンガポール陥落で煮湯を飲まされた
イギリスと、マッカーサーの報復感情が大きく作用したと言われています。

これはそのイギリスの発行した新聞です。

「山下と太田、絞首刑に」

と赤字で大きくタイトルがありますが、実際の処刑についての記事は
一番右だけになります。

「他の日本軍戦犯も処刑される」

マニラ 2月23日-(UP)
本日午前3時、ロスバニョスのフィリピン拘置更生センターで、
山下奉文元大将が絞首刑に処された。
他に2人が絞首刑に処された。
太田誠一大佐と東路琢磨である。
AFWES-PACの命令により、報道陣とカメラマンは刑場から退出させられた。

シンガポール陥落の際、山下大将がパーシバル中将に「イエスカノーか」
と降伏を高圧的に迫った、という噂については全くのデマで、
ご本人、日露戦争の「乃木-ステッセル」会談みたいになればいいな、
と思っていたら、もうとにかく通訳がグダグダで何を言っているかわからず、
その苛立ちもあって「いやだからどっちなんだって聞いてるの」
みたいなことを言ったら、変に脚色されてしまったらしいですね。

全くお気の毒としか言いようがありません。

ついでに、この日の新聞のヘッドラインは他に何が書かれているかというと、

「空挺部隊と反乱軍が砲撃戦で64人の死者を出す」

「カナダ、シャープノートを獲得」

【オタワ2月28日】
ソ連のスパイ組織に関するカナダ政府の立場を批判するロシア語のメモが、
昨日遅くカナダ政府に届いたことが、外務省関係者の話で明らかになった。

「エジプトの学生騒乱で23名が死亡」

「3月7日に米国で電話ウォークアウトを実施」
(電話会社のストライキ)

「インドネシア軍」

【バタビア、2月23日-(UP)】
セレベス北部のゴロンタロに2万人のインドネシア軍が集結していると、
昨日、民族主義新聞ムルデカが報じた。
ムルデカ紙によれば、この軍隊は完全装備で、
地元の先住民当局の同意を得て、
すでにドルサンクとモンゴンドゥールを占領している。

以上となります。

山下大将を戦犯として処刑したかったアメリカとイギリスは、
なんとかして残虐行為の責任を被せようとしましたが、
どの証言者の口からもその名前が聞かれることはありませんでした。

裁判に立ち会ったイギリスの記者が次のようなことを書き残しています。

「山下裁判はきょうもつづいた――しかしこれは裁判ではない。
審理でさえあるかないか疑わしい。
昨日は山下の名は一回だけでた。今日は一回も出なかった。

裁判をする軍法委員会は、いかなる法律や、証拠の規定にも
拘束されないかのように、裁判をすすめている。

私は日本人の弁護を扱ったことはない。
しかしイギリスの法廷なら、山下の場合のような
杜撰な告発は受理されないだろう。

裁判は軍司令官は兵隊のどの行為にも責任があるということを
制定しようとしているらしい」

アメリカの法曹関係者にも、この裁判が
復讐と報復が目的であることを見抜いていた人がいました。

「もし敗戦の敵将を処置するために、
正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神をのさばらせるならば
それは同じ精神を発生させ、
全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」

マーフィー米最高裁判事 wiki

そして、最後まで堂々とした山下大将に対し、アメリカ人弁護人は
感嘆と尊敬の念を抱いていたといいます。

「彼には威厳と平静さがあった。
勝利者になろうが、敗北者になろうが、司令官になろうが、
捕虜になろうが、彼は男らしかった。
(中略)彼の眼は深くて思慮があった・・人生を見つめて来た者の眼、
人生を理解し、死を恐れない者の眼・・」

弁護人フランク・リール大尉 wiki


ところで、絞首刑のロープが細切れにされて展示されているのには、
細切れにすれば各方面に記念品として配りやすいからで、
これこそ、アメリカに伝わる悪しき慣習の成れの果てです。



このロープの別の一部分がここにも・・・。

山下大将の横に、武藤章(東京裁判で処刑)参謀(当時)がいます。

武藤中将は、フィリピンで山下に切腹することを提案するも、
逆に説得されて現地で降伏し、降伏調印を行っていますから、
この写真はその時のものかもしれません。

武藤中将は、東京の軍務局勤務が長かったので、連合軍は、
東京裁判に出廷させ、そこで裁くことを決めていたため、
山下大将が裁かれたマニラ軍事法廷では起訴されずに帰国しました。

これで現在世界に二つのロープのピースが現存することがわかったわけです。

絞首刑のロープを切り刻んで記念品にする(か売り捌く)行為に対し、
アメリカ軍はもちろん、これを不適切として公式には禁じていました。

基本的にはこの命令は守られたのですが、
軍部や死刑執行官の目をかいくぐって不法行為を犯す者は絶えず、
処刑が行われたこのフィリピンの刑務所でも、それは行われました。

もちろん、そんな敬意を欠いた不謹慎な記念品に一体なんの意味があるのか、
と不快に思う人の方が、特に現代では多数であるせいか、
この「遺物」が必要以上に重要視されることもないわけですが・・・。

■米軍の投降勧告ビラ



アメリカ兵に告ぐ!

「私は抵抗をやめました」
このリーフレットは、抵抗をやめようとする日本人に
人道的な待遇を保証するものである。
直ちに最寄りの将校のもとに連れて行くこと。
最高司令官の指示による

終戦が決まり、日本人に降伏し、良い待遇を受けるようにと投下された
アメリカ合衆国の降伏ビラ。



この小さな旭日旗が何を表しているのかは説明がありませんでした。
絹の搭乗員スカーフを使って手作りしたように見えます。


続く。



メイン推進プラント〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2025-02-20 | 歴史

バッファローネイバルパークのタロスミサイル艦「リトルロック」、
艦内展示をご紹介しています。



「リトルロック」記念区画(ここ)を改修するため、
寄付してくれたUSS「リトルロック」の元乗員、そして
場合によってはその遺族に捧げられた認識票の壁、
「ウォール・オブ・オナー」と呼ばれる展示です。


真ん中の窓を覗くと、何か見えそうですが通り過ぎてしまいました。

よく見ると、いくつかのタグは名前が刻まれていません。
今後、寄付があれば名前を刻むシステムなのだと思われます。


この寄付呼びかけを行ったのは、1946年から1947年までの間、
「リトルロック」に、

MM1C
(Machinist's Mate Petty Officer First Class Machinist's Mate 1st Class)

として乗り組んだ、

Lyle H.Swatek ライル・スワテク氏

であり、寄付を行ったのは彼の遺族です。
スワテク氏は2018年に90歳で逝去しました。

お葬式の記事によると、彼は戦後父親の仕事だった石油販売業を拡大して、
自分の事業を広く展開し、全米石油販売協会の会長にまでなった人物です。

彼は「リトルロック」での1年間の任務を心から誇りにしており、
成功してからはバッファローネイバルパークにおける
「リトルロック」の展示実現に尽力しました。

彼がいかに「リトルロック」を愛していたかは、遺言により、遺族は
故人への献花の代わりに「リトルロック協会」への寄付を呼びかけている、
ということからもうかがい知れるというものです。

アメリカには、維持費が集まらずに、廃艦の危機を迎える歴史的軍艦、
わたしがボストンで見学した「セーラム」のように、寄付を呼びかけるも
うまくいっていない艦、スクラップにされてしまった艦が多数あります。

「リトルロック」は、社会的に大成功を収めたかつての乗組員が、
このスワテク氏のように、並々ならぬ愛情と熱意を持って、
その地位とコネクションを使って存続を実現させた数少ない例と言えます。

■ Mk.V ガスマスク


マークV防毒マスク

ネイビー・ダイアフラム(NAVY DIAPHRAGM / ND)マークV防毒マスク
は、1957年に米海軍の洋上部隊のために実戦配備されたもので、
プラスチック製の単眼バイザータイプの接眼レンズを使用していた。

Mark Vはレンズが広いため視野は広いが、曇りやすい。
マークVマスクの面体には、2つのClフィルターディスクキャニスター、
スピーチダイアフラム、排気バルブがある。

調節可能な5本のストラップ付きラバー製ヘッドハーネスにより、
快適かつガスタイトなフィット感を提供。
NDマークVガスマスク用のグレー、
またはカーキ色のキャンバス製キャリングバッグには、
腰にフィットするベルトが付いている。

マスクに加え、小型の金属製容器に入ったM13人員用除染キット1個と、
M5/MSAl保護軟膏キットが収納されている。
後者は綿布と3本の保護軟膏からなる。

フィルターキャニスターが2つあることで、保護性能は向上するが、
その分、吸入抵抗が大きくなる。

つまり、通常の作業条件下で呼吸するためには、
より多くの努力が必要となるということである。

ちなみにダイアフラムという言葉そのものは、横隔膜を意味します。


6"/47 CALIBER NAVAL GUNBRASS POWDER CASINGSTORAGE
CONTAINER ANDPROJECTILE
6"/47口径 海軍砲 真鍮火薬薬莢 収納容器 及び発射薬


砲(海軍では『ライフル』と呼ばれていた)は、150ポンドの砲弾を
13マイルの距離から地上および海岸の標的に発射することができた。

仰角41度での最大射程は14.5マイル。
砲弾の重量は様々で、徹甲弾の重量は130ポンド、
高容量砲弾の重量は105ポンド、耐久砲弾の重量は105ポンドであった。

弾薬は半固定式(semi-fixed、砲弾と火薬ケースは別々)。
これらの砲の火薬ケースの重量は105ポンドであった。



おそらく上の写真に写っているのと同じ砲の写真です。
艦内の見学を終わって甲板で撮りました。

マーク16が搭載されたのはUSS「ブルックリン」「ファーゴ」、
そして「リトルロック」の「クリーブランド」級の計38隻です。
「クリーブランド」級は、四つの三連装砲塔に12門の砲を備えていました。

上の写真に見られるように、主に三連砲塔に搭載され、
基本的に対水上を目標とする設計がなされています。

■ ロッカーと思ったら・・・


一日でいくつもの軍艦を巡らなければならなかったこの日、
先を急ぐあまり、このロッカーがただのロッカーでないことを、
薄々わかっていながら近づいて点検することをしませんでした。

後から写真をチェックして、猛烈に後悔しています。



そのうち三つのロッカーには、「OPEN ME」の表示。
中から灯りが漏れていて、開けると何か展示があるようなのですが、
あまりに急いで通り過ぎたので、チェックしませんでした。



左上は、この窓から中を除き、下のボタンを押すと、
おそらく何か映像を見ることができる仕掛けでしょう。

「組織」「艦隊でのルーチン」「特別な場所」「イベント」

のボタンを押すと動画が見られたのかもしれません。
こちらは「Crew」(乗組員)であり、



こちらは「THE SHIP」なので、おそらく艦全体についてです。
もう少し心に余裕があれば、立ち止まってチェックできたのに・・・。

■ 主推進プラント


これも大変残念なのですが、大事な展示なのにボケてしまいました。

ガラスに取り替えてある扉越しに撮った写真がこれです。



プロペラ(スクリュー)を動かすためのプラントの一部です。



推進システムについて説明があるのですが、
フネの形が縦なのでちょっと横にしてみました。

説明は「メーコン」「リトルロック」勤務だった元機関士官によるものです。

【メイン推進プラント

クローズド・サイクル推進プラントの流れ
このプラントでは同じ水が繰り返し使用される

ボイラーを出た水は過熱蒸気となってタービンに送られ、
そのエネルギーはタービンのシャフトを通して機械エネルギーに変換され、
減速(Red'n)ギアを通って船のプロペラを回す。

排出された蒸気はタービンの下にあるメインコンデンサで凝縮される。
その後、脱気(DA)給水タンクに汲み上げられ、ボイラーへの給水となる。
追加の補給水は、メインコンデンサーを経由してサイクルに導入される。

エンジニアリング・スペース
消防室 (2)
ボイラーは2階建てで、最大634psiの圧力で運転され、
予熱された燃料油で供給される複数のバーナーに
強制通風空気圧を使用して、約360度の過熱(850度)の蒸気を発生させる。
アップテイクには、ボイラーテンダーが空気供給を調整するために
煙を監視するための潜望鏡が装備されている。

ボイラー水は脱気(DA)フィード・タンクから供給され、
上層階に配置されたボイラー・テンダーが常に水位を監視する。

エンジンルーム (2)
スロットルとゲージボードは、上層階にある高圧(HP)タービンと、
低圧(LP)タービンの制御と監視を行う。
主減速機は両階にあり、主潤滑油フィルターは下階にある。


メインコントロール:
当直機関士官のステーションは前部機関室にある。
4つのプロペラの回転数、重要なバルブの位置、蒸気圧が表示される。
ブリッジや他の重要なエリアとの直接通信が可能である。

注釈
各エンジニアリング・スペースは3つのレベル
(ファースト・プラットフォーム、セカンド・プラットフォーム、ホイド)
に分かれている。図面は縮尺通りではない。
蒸気ラインは描かれておらず、水道ラインも描かれていない。

作成者
ジョン・R・ロバーツ
(USS『メーコン』(CA-132)乗艦B師団士官
USS『リトルロック』乗艦M師団士官、1959-1952)


続く。


歴代艦長とミッチャー提督のサイン〜USS「リトルロック」

2025-02-17 | 軍艦

バッファローネイバルパークで展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内展示から、
「リトルロック」の歴史を物語る数々の資料をご紹介しています。

冒頭写真は、おそらく彼女が退役してから作られた、
「リトルロック」歴代指揮官の名前と在任期間を表すプレートです。

CL-92 指揮官


ウィリアム・ミラー大佐
William Edward Miller-CAPT
14 Jun 1945 - 07 Jul 1946

ヘンリー・スミス・ハットン大佐
HENRI H. SMITH-HUTTON - CAPT
07 Jul 46 - 10 Mar 47

フランシス・ミー大佐
FRANCIS J. MEE - CAPT
10 Mar 47 - 04 Jan 48


ウィリアム・ライト大佐
WILLIAM D. WRIGHT - CAPT
04 Jan 48 - 24 May 48

ヘンリー・モーガン大佐
HENRY G. MORAN - CAPT
24 May 48 - 13 May 49

リチャード・クライヒル大佐
RICHARD S. CRAIGHILL - CDR
13 May 49 - 24 Jun 49

CLG-4/ CG-4 指揮官


ジェウェット・フィリップス大佐
JEWETT O. PHILLIPS - CAPT
03 Jun 60 - 25 Jan 61

フレデリック・シェノー大佐
FREDERIC A. CHENAULT - CAPT
25 Jan 61 - 07 Feb 62


ジェームズ・パイン大佐
JAMES R. PAYNE - CAPT
07 Feb 62 - 26 Aug 63

C・エドウィン・ベルJr.大佐
C. EDWIN BELL, JR. - CAPT
26 Aug 63 - 26 Sep 64

ロデリック・ミドルトン大佐
RODERICK O. MIDDLETON - CAPT
26 Sep 64 - 27 Sep 65

オスカー・ドレヤー大佐
OSCAR F. DREYER - CAPT
27 Sep 65 - 11 Apr 67


ジョン・ミッチェル大佐
JOHN J. MITCHELL - CAPT
11 Apr 67 - 24 Apr 68

ウォルター・ベネット大佐
WALTER F.V. BENNETT - CAPT
24 Apr 68 - 15 Nov 69

チャールズ・リトル大佐
CHARLES E. LITTLE - CAPT
15 Nov 69 - 11 Jun 71


ゴードン・ナグラー大佐
GORDON R. NAGLER - CAPT
11 Jun 71 - 27 Jul 72

ロバート・モリス大佐
ROBERT E. MORRIS - CAPT
27 Jul 72 - 24 Jul 73

ピーター・カリンズ大佐
PETER K. CULLINS - CAPT
24 Jul 73 - 17 May 75


ウィリアム・マーティン大佐
WILLIAM R. MARTIN - CAPT
17 May 75 - 20 Oct 76

ケント・シーゲル中佐
KENT R. SIEGEL - CDR
20 Oct 76 - 22 Nov 76

最後のシーゲル艦長だけが中佐である理由ですが、
おそらく艦の退役が決まってからマーティン大佐が任期を終えたため、
残り1か月を消化する間、便宜的に充てられた人事だからだと思います。

同じような人事は、軽巡洋艦として退役が決まった時にもあって、
クライヒル大佐はCL-2最後の1か月だけ艦長を務めました。

海上自衛隊で同じようなことがあるかどうかは知りませんが、
米海軍では、退役が決まって軍事指揮官を必要としなくなると、
書面上だけ必要な艦長を(名前だけ?)充てる慣習があるようです。


それから、これを見る限り、艦長の在任期間は1年と決まっています。

唯一の例外は、1973年7月から1975年5月と、在任2年に亘った
ピーター・カリンズ大佐ですが、その理由は年表からはわかりません。

この頃、「リトルロック」はガエタの第六艦隊旗艦であったこと、
そして任期2年目には大西洋艦隊の戦闘効率賞を受賞するなど、
軍艦として「最盛期」であったらしいことと関係あるかもしれません。

■ ミッチャー提督のサイン


1945年に撮影された「リトルロック」の写真ですが、
たいへん見にくいながら、エンボス加工のように浮き上がるサインは、
あの”ピート”マーク・ミッチャー提督の直筆です。


極端に寡黙で、物静か。
目立つことを嫌い、控えめであったというミッチャーは、
同時期のアメリカ海軍の中でも評価の高い指揮官です。

太平洋で任務部隊を率いたミッチャーは、日本軍との戦いで、
マリアナ空襲、パラオ空襲、そしてマリアナ沖海戦を指揮し評価を得ましたが、
沖縄で「バンカーヒル」「エンタープライズ」と、座乗した艦は
特攻の激しい攻撃を受け、そのことが結局彼の命を縮めたと言われます。

神風特攻隊小川清少尉が突入した「バンカーヒル」の破片は、
ミッチャーからわずか6メートルしか離れていない場所にいた彼の幕僚、
下士官兵10名の命を、その目の前で瞬時に奪っていますし、
移乗した「エンタープライズ」で、ミッチャーがいた甲板に、
冨安俊助中尉機が激突し、またしても彼は旗艦を変更することになりました。

彼の体重は45キロ以下になり、助けなしでは舷側の梯子を登れなくなり、
わずかの期間に「歩く骸骨」(ハルゼー談)のようになっていたそうです。
(ちなみに、英語のwikiには以上の記述はない)



彼が亡くなったのは1947年2月3日で、現役のままでした。
これは心臓発作で亡くなる半年前、トルーマンと握手するミッチャーですが、
60歳というにはあまりに老けています。

■ 海軍仕様バックル



制服の仕様が変わったため、今では超レアとなった海軍兵用ベルトバックル。

かつて兵用バックルには勤務艦のシルエットと艦名が刻まれていました。
写真はシルバーで、これはジュニアランクの兵卒用。

士官、チーフ・ペティオフィサー(CPO)、
その他下士官(NCO)は同じ模様が入った金色でした。


それでは現在、アメリカ海軍ではどんなベルトバックルが使用されているか?


というと、このような面白くもなんともないシンプルなものです。
まずこの金色は、士官とCPO用。
左は男性用、右の女性用は丸みを帯びたシェイプで少し小さいものです。

男性と女性でデザインが違うのはどういうわけか?
『体は男性で心は女性の軍人』が右側を使う権利も与えるべきではないか?


というような、物事をややこしくさせる議論は今のところないようで何より。
流石にここまでポリコレファシズムの魔の手は伸びていないと信じたい。

それに、トランプ当選によって、「性別は男か女二つだけ」となったので
物事がややこしくなることは今後しばらく起こらないでしょう。

さて、視察、儀式などいかなるシチュエーションにも合うように、
現在このようなアルマイト処理された金色の無地が標準となっています。
レートE-7、E-8、E-9の上級下士官は金色です。


E6以下はアルマイト処理されたシルバーのバックルと決められています。

それでは飾りの入ったバックルは禁止になったのか?
と思われた方、ご安心ください。

そのあたり、現在の海軍では個人の自由に任されていて、
適切なデザインであれば、バックルに装飾を施すことは許されています。

たとえば現在陸上勤務になっている人でも、前任の勤務(海上、航空)
の部隊章、記章などを着用するのはアリということです。

■ ボトルシップ


軍艦のボトルシップ実物というのを初めて見たような気がします。
個人で作成したと思われるプラークの文言は次の通り。

USS「リトルロック」CL92

全ての乗組員と
ペンシルベニア州フィラデルフィア クランプ造船工廠主任技術者
チャールズ・F・カールソンを偲んで

模型:レイ・カールソン アメリカ海軍少尉

寄贈:チャールズ F. カールソン Jr.
アメリカ海軍/アメリカ海兵隊軍曹
USS「ニュージャージー」BB-62 海兵分遣隊同窓会

2011年5月 バッファロー ニューヨーク

ちょっとわかりにくいのですが、カールソンは三人出てきます。
この三人について推測してみました。

曽祖父:チャールズ・F・カールソン(クランプ造船技術者)
祖父:チャールズ・F・カールソンJr. 海兵隊軍曹(USSニュージャージー乗組)
孫?:レイ・カールソン海軍少尉

おそらくこのボトルシップを作成したのはレイ・カールソン少尉。
ボトルシップの作成が2011年と比較的新しいことから、
海軍少尉である若いレイはカールソンジュニア軍曹の孫世代と見ます。

軍曹が海兵隊として乗り組んだUSS「ニュージャージー」は
第二次世界大戦中就役しているので、軍曹の父親であるクランプ技術者が
「リトルロック」設計に携わったというのは時期的に整合性があります。

そしてこれを寄贈したのは、そのレイ・カールソンJr.軍曹。
クランプ造船所の技術者、チャールズ・F・カールソンと、
彼が手がけた「リトルロック」の乗組員に捧げられています。
というわけで、

孫か甥(レイ)が作った「リトルロック」のモデルシップを、
祖父(ジュニア)がバッファローの「リトルロック」に寄付をした。
彼の父親(曽祖父)はクランプで「リトルロック」を手がけた造船技師。


というのが、わたしがこのプラークから読み取ったストーリーです。
検証しようがないので間違ってたらごめんなさい。


アメリカ海軍標準仕様の24時間時計。

ウォッチついでに、海軍の見張り(自衛隊ももちろん)「ワッチ」は、
アメリカでは「ウォッチキーピング」「ウォッチスタンディング」です。

このウォッチシステムは、24時間船を動かすためのシフトですが、
軍艦と商船、さらに軍艦の中でも潜水艦は独自のシフトを持ちます。

これは、乗組員がさまざまなシフトで任務を交代して行うことで、
全員が深夜や早朝などの勤務を公平に務めるための仕組みです。


1、電話帳

電話帳ですが、おそらくは艦内電話用でしょう。
「第6艦隊旗艦」とあるので、ガエタを母港としていた頃です。

2、電話帳

カミングス少尉のサイン入り。

3、号笛(サイドパイプ)


英語ではボースンズ・ホイッスル(boatswain's whistle)といい、
号笛のことをBoatswain's callといいます。
パイプには「シャックル」という丸い輪が付いており、
ここに鎖などを結びつけて襟もとに掛けたりします。

このサイドパイプには、組紐が結びつけられていますが、
サイドパイプの紐と気が付かず、7、と番号を打ってしまいました。

4、CLG-4の「リトルロック」パッチ

ミサイル巡洋艦になってから制定されたパッチには、
「 PRIDE IN ACHIEVEMENT」(達成する誇り)とあります。

5、第6艦隊旗艦パッチ

COMSIXTHFLT「モータープール」パッチと説明あり。
モータープールはおそらく当時の第6艦隊のあだ名だと思うのですが、
なぜモータープールなのかまでは調べたけれどわかりませんでした。

まあ確かに艦隊が軍港に係留されている様子はモータープールですが。


あらためて書いておくと、第六艦隊=ヨーロッパ・アフリカ方面艦隊です。
今でもイタリアのガエタが旗艦の母港であり、旗艦を務めたのは、
「ニューポートニューズ」を初代として「リトルロック」は7代目。
現在の「マウント・ホイットニー」は14代目となります。


USS「マウント・ホイットニー」LCC/JCC20

LCCはAmphibious Command Ship、揚陸指揮艦を表します。

第6艦隊の旗艦は代々巡洋艦でしたが、初めて駆逐艦母艦、
「ピュージェット・サウンド」AD-38が旗艦になって以降、
「コロナド」「ラサール」など、揚陸艦が充てられるようになりました。

6、キャンバスベルト

バックルのないタイプの布ベルトです。
どのようなシチュエーションで用いられるものかはわかりませんでした。


続く。





「フィアレス」プラムサテンのフライトスーツ 〜ハリエット・クインビー

2025-02-14 | 飛行家列伝
 
今日はまず、スミソニアン航空博物館の展示から、
黎明期の飛行家のファッションを取り上げます。

飛行機が発明され、航空ブームが巻き起こると、
製造業者は、より機能的なヘルメット、手袋、スカーフ、
その他安全のためのアクセサリーなどを飛行家のためにデザインしました。

航空ファッションにも世間の関心が高まり、雑誌や新聞は
「アヴィエート」aviateのための服装について、
パイロットだけでなく、乗客についても取り上げ始めました。

人それぞれ、手持ちの衣服を組み合わせて間に合わせる人もいれば、
トレードマークとなる特別なフライングスーツを作る人もいました。

自らの経験をもとにパイロット自身が衣装をデザインすることも多く、
フランスの飛行家、ユベール・ラタム(Hubert Latham)という人は、
飛行中に飛行機の木製部分から破片が折れることによるダメージを考慮し、
フェンシングで使用されるキャンバス地の裏地付きスーツを提案しました。



ちなみにラタムは二度英仏海峡横断に挑戦した飛行家でしたが、
彼の死因は飛行機事故ではなく狩猟中水牛の角に突かれたことでした。
享年29歳。合掌。

■ レザージャケット



レザーのフライングジャケットを着用したイギリスの飛行家、
クロード・グラハム=ホワイト(1879−1959)
レザーは高価でしたが、保温性、耐久性、不浸透性から
初期の頃より飛行服の素材としてパイロットに好まれてきました。

レザージャケットの便利な点は、普通の服の上にさっと羽織れば十分で、
着陸時にコートが油で汚れていても、飛行機を降りて、
彼らを賞賛する人々に挨拶する前に脱ぐことができることです。

■ エディス・バーグのホブルスカート


ハート・O・バーグ夫人エディスは、ホブル(hobble)スカート
というファッションを「生んだ」とされる人です。

この写真でバーグ夫人の横にいるのはあのウィルバー・ライト
彼女の夫、ヒューバートがライト兄弟の欧州における代理人だった関係で、
「乗客として飛行機に乗った最初のアメリカ人女性」となりました。

写真で注目していただきたいのは、彼女のスカートの裾部分です。

飛行機に乗るわずか2分間のため、彼女は飛行中に
スカートが捲れ上がらないように、膝の少し下にロープを巻き、
飛行が終わってもそれを付けたまま現場を後にしました。
ついでに帽子も飛ばないようにスカーフで結んであります。

「ホブル(hobble)」とは「足を引きずって歩く」という意味があります。

このときバーグ夫人が飛行機を降りて歩く姿を見たフランスのデザイナーが、
これにインスパイアされ、この姿と日本の着物をミックスして、
ホブルスカートなるデザインを発表したのです。

この流行は、第一次世界大戦が開始すると急速に廃れました。
流石に戦争中はこんな罰ゲームみたいなスカートは履いてられませんよね。

実際に、これを履いていたせいで転んだり、逃げ遅れて
亡くなった「ファッションヴィクテム」の女性もいたそうですし。


写真では男性がスカートを指差しながら、

「ありゃなんだ?歩行速度制限スカートだろ!」

と揶揄しています。

飛行機に乗る女性にとっては「捲れ上がらない」という一点においてのみ、
非常に機能的だったということもできますが、ファッション的には
纒足とかハイヒールのような自由な行動を制限することによって生まれる何か
(セックスアピールとか)を狙っていたのかもしれません。知らんけど。

■フライトヘルメット




スミソニアンの説明によると、「ウォレン・ヘルメット」と言って、
W・T・Warrenというイギリスのパイロット&発明家が発明した
飛行用の保護ヘルメット断面図です。

素材は皮で、内部には鋼鉄のバネが仕込まれて衝撃を吸収します。
装着感を高めるパッドは馬の毛を使ってあります。



1912年、壁に頭突きして性能を実験しているウォレン本人。
後ろの笑っている人たちは皆パイロットらしいです。

この写真はとても有名ですが、間違って
「フットボールの練習」というキャプションが付けられたりしています。


「ブラウンヘルメット」

ブラウンヘルメットは厚手のフェルトと革でできており、
上部は額と後頭部を部分的に覆っています。

下部は革で覆われた厚さ3枚のフェルトで、
目の上に突き出ており、前方への転倒時に顔を保護します。
耳あてには穴が開いています。

防寒とそれほど強くない衝撃なら有効ですが、
衝撃吸収効果はウォーレンのヘルメットほど高くありません。

■フライトクローズ

「短時間用飛行服」

ファルマン複葉機に乗るL.D.L.ギブス中尉。
手袋はしていませんが、マフラーは必須として着用しています。

短時間飛行なので、コートは革製ではなく厚手の布製で、
厚手の毛糸の靴下を履いたロートップのブーツを履いています。

このギブス中尉ですが、どの軍隊所属かなど一切わかっていません。
(航空服だけで、制服姿の写真が残されていないので)
おそらくイギリス陸軍か海軍ではないかと言われています。

あるサイトによると、ギブスはファルマン飛行機のデモをスペインで行い、
その際、飛行機の準備が遅れたことに激昂した群衆が石を投げつけ、
ギブス中尉にナイフで襲いかかり、彼が逃げると、
残されたファルマンとそれを収納していた小屋を焼き払ったそうです。

その際、暴徒たちがスペイン語で叫んでいたのが、

Aviation is impossible!(航空は不可能)
Down with science!(打倒科学)
Long live religion!(宗教万歳)

だったとかなんとか。
うーむ・・・・きがくるっとる。



「水上飛行装置」

長時間飛行や水上飛行では、飛行服は暖かさが決め手となります。
ロバート・ロレインは、フライトの前に機内で写真に収まりました。
スカーフを首にしっかりと巻き、キャップのフラップを下げて
耳を寒さから守るだけでなく、エンジンの轟音を防ぎます。

手袋は必須で、コートの袖には手首に密着させるゴムがあるのが理想的。
ロレインはこれから水上を飛ぶので救命ベルトをしており、
コンパスとマップケースは膝に縛り付けてあります。

ロバート・ロレインイギリス陸軍少佐は、黎明期のパイロットで、
「ジョイスティック」という言葉を使い出した人物です。

ジョイスティックの「JOY」はご想像通り「喜び」という意味で、
飛行する喜びを込めたとかなんとか。

この写真ではイマイチですが、ロレイン少佐は大変なイケメンで、
女性にMM、引退後は俳優に転身、彼の死亡記事には

「ロバート・ロレインは今世紀で最もハンサムな
ロマンティック俳優の 1 人として記憶されるだろう」


と書かれたそうです。

これなら納得のイケメン

■ 女性用フライトスーツ


スカートが捲れて困るなら、スカート風のズボンにすればいいじゃない、
ということで登場したこのようなフライトスーツ。

分厚いツィード生地でできています。

写真はマチルド・モアサン(Matilde Josephine Moisant、1878- 1964)
アメリカで2番目に飛行機の操縦免許を取得した女性です。

左胸に卍(左まんじ)のマークをつけていますが、
これは普通にグッドラックチャームでナチスとは全く関係ありません。
左のイラストは、右の写真を元に描かれたものですが、卍のチャームは
いらぬ誤解を招くことを恐れたのか微妙にぼかしてわかりにくくしています。



本日の主人公、ハリエット・クインビー(右)とは知り合いでした。
ちなみにクインビーが免許取得第1号です。


1929年、ブランシュ・スコットのフライトスーツ。


「プラムサテンのフライトスーツ」

生前のハリエット・クインビーのトレードマークは、
プラム色のサテンのフライトスーツでした。
1911年の新聞には次のような記載が見られます。

ハリエット・クインビー嬢のプラムカラーのサテンでできた飛行服は、
ブラウスとニッカーボッカー、そしてモンクフードという組み合わせです。

ニッカーボッカーの内側の縫い目はボタンで閉じられており、
ボタンを外すとウォーキング・スカートになります。
ブラウスは長い肩の縫い目でカットされていて、脇の下で留めます。

そして、クインビー嬢が履いているのはハイトップレザーのブーツ。

これはクインビーのマネージャー、A・レオ・スティーブンスが
彼女のフライトを宣伝するために発行したポスターのコピーです。

ファッションの細部が気になる女性読者に向けて、
大変詳細にスーツの縫製について説明までしています。

■ ハリエット・クインビー

アメリカ人女性として初めてパイロット免許を取得したのが
このハリエット・クインビーです。

彼女は1875年ミシガン州の貧しい農家に生まれていますが、
最後まで自分の出生地を、カリフォルニアの裕福な家庭の出身で、
アメリカとフランスで十分な教育を受けたと人々に思い込ませていました。

彼女には上品な美貌が備わっていたので、人々は容易くそれを信じました。

若い時田舎から都会に出るなり雑誌記者として職を得たのも、
おそらくはその美貌が大いに実力を底上げたからに違いありません。

サンフランシスコでは、サンフランシスコ・クロニクル紙など
数紙の新聞に寄稿していましたが、そもそも記者という職は
当時、女性が参入することの少なかった分野でした。

しかも彼女は当時最先端だったタイプライターを最初に使ったり、
まだ車が珍しい頃に黄色い車を乗り回したりと、
同業のジャーナリストの中でもいつも目立っていたと言います。

そして彼女はニューヨークに進出して記者としてのみならず、
ドラマ評論や脚本を書いたり、写真を撮ったりしました。

なんか映画にも出ているという(後ろは多分サンフランシスコ湾)

美しく整った顔立ちのクインビーは、
自分の人生は必ず成功すると信じて疑いませんでした。
自分の才能と機知、そして美貌を武器に、
当時の女性が夢にも思わなかったことを成し遂げたと言えます。

美しき異端者であった彼女は社会の慣習を進んで無視し、
結婚よりもキャリアを選んで、彗星のように人生を駆け抜けました。


宣伝のモデルにもなりました

彼女が航空の世界に足を踏み入れたのは、
写真家、文芸・演劇ライターと名乗り活動していた35歳のときです。

イベントで航空に魅了され、飛行を学ぶことを決意したのですが、
そのころは航空の世界にまだ女性がおらず、今なら
希少価値の点でも自分は一躍有名になれると計算したのかもしれません。


モワサンとマドモアゼル・フィフィ

彼女はそのとき見事にレースで優勝したパイロット、
ジョン・モワサンに飛行を教えてくれるよう頼んだのですが、
レッスンが始まる前に、モワサンは飛行機の墜落で亡くなりました。

猫かわいい

John Moisant’s Flying Cat 
– History’s Most Renowned Feline Aviator flew the English Channel to Dover 猫が気になった方のために

普通こんなことがあれば、ためらったりしそうなものですが、
クインビーは全く怯みませんでした。
ジョンの代わりに弟アルフレッドに操縦を習い始めたのです。

モワサンの妹であるマチルドと親しくなったのもこのときでした。

■ 英仏海峡横断成功

タバコを吸い、車を所有し、飛行機を操縦し、一人で世界中を旅し、
おまけにプロの作家とか写真家を名乗る女性。

彼女は多くの崇拝者をいつも従えていたそうですが、
世間的に当時は過激な女性とみなされていました。

颯爽としていながら女性的なイメージ。
小柄で色白な彼女のあだ名は「ドレスデン人形アヴィアトリクス(Aviatrix)」
(女性飛行士のこと)「陶器の人形」「緑の瞳の美女」などでした。

彼女が自らデザインしたプラム色のサテンの飛行服は、
過激と言われながらもすぐにファッション・トレンドとなっていきます。



当時1回の航空ショーでパイロットは1,000ドルもの収入を得ることができ、
レースの賞金となると10,000ドル以上が手に入りました。

操縦免許を手にするなり、クインビーはエキシビション・チーム、
「モワサン・インターナショナル・アビエーターズ」に入り、
2万人近い観衆の前でスタテン島上空を夜間飛行して1,500ドルを稼ぎました。

プラム色のサテンブラウスにネックレスを光らせ、
ハイヒールのレースのブーツにタックインしたズボンを履いた彼女は
大会やレースに出場するたびに観衆を魅了していきます。

航空ショーに参加するかたわら、彼女は一連の記事で自分の冒険を語り、
一方で民間航空の経済的可能性を熱心に宣伝し、
飛行が女性にとって理想的なスポーツであることを宣伝するなど、
ジャーナリストとしての使命にも燃えていました。

1911年、世界的な名声と富を目標に、クインビーは
女性では初めてとなる英仏海峡横断に挑戦しました。

濃霧の中、ブレリオ単葉機でドーバーからカレーへの飛行を開始した彼女は
「前がまったく見えず、下の水面も見えず・・・
私にできることはただひとつ、コンパスを見続け」

て、無事に海峡を渡ることに成功したのです。

しかし、彼女は不運でした。

この二日前にタイタニック号が沈没したため、
本来大々的に報道されるべき彼女の偉業は新聞の一面を飾れなかったのです。

■墜落死

彼女は現在でも当時の最も有名な女流飛行家とされていますが、
飛行家として活動したのは、わずか一年でした。

英仏海峡横断成功を世間から無視されて、失意の中、
それでも飛び続けた彼女は、1912年7月1日、
海峡横断から3ヵ月も経たないうちに、悲劇的な最後を迎えるのです。

それはボストン湾で行われた航空大会での事故でした。

70馬力の新しいブレリオ単葉機で飛行していた彼女は、
非常に危険なアウトサイドループ(バント)を完了しようとして
ミスにより機首を下げてしまい、操縦不能に陥ります。

3の部分で失速

このとき同乗者が機外に放出されたため、機首はさらに下がり、
明らかに緩い安全ハーネスを付けていたハリエットも放り出されました。

ハリエットと同乗者は300メートルの高さから墜落し、
ボストン湾の浅瀬に落下してどちらも即死でした。

救出されるクインビー

皮肉なことに、乗員を失った無人の機体はその後水平になり、
ほぼ完璧な無操縦着陸で地上に戻ったといいます。


Harriet Quimby: Pioneer aviator tragically killed.

「フィアレス」は、ドン・ダーラー著のクインビーの伝記のタイトルです。

生前、彼女は色褪せない不滅の存在になることを望んでいましたが、
その短い生涯で、「恐れを知らず」成し遂げた数々の功績により、
それは実現したといってもいいでしょう。



「リトルロック」最後の航海〜USS「リトルロック」

2025-02-11 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」内展示から、
彼女自身のヒストリーを紹介しているコーナーです。

■ 第六艦隊旗艦

A DAY IN THE LIFE
ある日の一コマ
「The Rock」の上での日常生活について、私たちに教えてください。

このように書かれたパネルがありました。



これはまさにその「リトルロック」=ザ・ロックのある1日の一コマです。
UNREP、アンダーウェイ・レプレニシュメント=補給作業を行っています。

今日は、1961年以降の「リトルロック」の歴史についてです。

1961年2月9日にフィラデルフィアを出港した「リトルロック」は、
6ヶ月間、北大西洋条約機構(NATO)軍と第6艦隊の両方と行動を共にした。

1962年から1965年にかけては、第六艦隊の一員として、
条約兵器と核兵器の二重戦力として、地中海方面に定期的に巡航した。


第2艦隊の旗艦として東海岸やカリブ海での作戦に参加したほか、
北ヨーロッパ沖でNATO部隊の任務に就いた。
1966年には、オーバーホールと乗組員の再訓練が行われた。

リトルロックは、1967年1月25日に第6艦隊旗艦の任に就き、
イタリアのガエタを母港とし、3年半に及ぶ旗艦としての任務の後、
1970年8月24日に帰港した。




第6艦隊とはなんぞや。

第7艦隊が日本の横須賀に母港を置く駐留艦隊であることはご存知でしょう。

対して第6艦隊は2004年以降ヨーロッパにおける運用部隊を指し、
地中海に進入するすべてのアメリカ海軍艦隊が割り当てられ、
その旗艦はイタリアのガエタに母港を置くことが決まっています。

第6艦隊の発祥は19世紀初頭に遡ります。

アメリカ海軍がバルバリア(バーバリー)海賊と交戦し、
商船の警備を行うようになって以来、
アメリカは地中海に海軍を常駐させるようになりました。

(ここでちょっと豆知識ですが、アメリカが海軍を設立した直接の理由は、
独立戦争後、バルバリア海賊の脅威に対抗するため
でした)

初期の派遣艦隊は「地中海艦隊」と呼ばれていたそうです。
これがのちに「ヨーロッパ艦隊」となり、「第6任務艦隊」となります。

同艦隊は、第一次世界大戦時の艦隊はバルカン半島と中東諸国の平和維持、
第二次世界大戦中はイタリアへの上陸作戦支援などの任に就きました。

戦後、その規模は縮小されましたが、1946年以降、
ソ連の脅威に備えるため、東地中海に戦艦「ミズーリ」が派遣され、
その後、第6艦隊として現在も展開が継続されています。

第6艦隊旗艦を務めるのは歴史的に軽巡洋艦の役目で、「リトルロック」は
1961年、1963年、1964年、1967年、1974年と5回旗艦を務めました。

旗艦の任務期間は6ヶ月〜7ヶ月だったり、3年だったりと、
状況に応じてさまざまでした。

■ タロスミサイル搭載艦


「タロス・ファースト」

海軍と、インディアナ州ベンディックス航空会社のミサイル部門が、
700万ドルの契約で製造したタロス誘導ミサイルは、
海軍の戦略と戦術における革命的な時代の幕開けとなりました。

ギリシャ神話のクレタ島を守る半神にちなんで名付けられたタロスミサイル。

それは、タロスミサイル搭載艦隊、最初の一隻である
USS「ガルベストン」(1958年5月28日就役)の主要武器となりました。

超音速の地対空および地対地ミサイル、タロスは
海軍に長距離、高火力の防空システムをもたらすため設計されましたが、
その開発プログラムは、多くの「初めて」を生み出すことになります。

ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所の指揮の下、
「バンブルビー・プログラム」としてその開発が始まりました。

このプログラムにより実現した技術は以下のとおり。

1、
先進のラムジェットエンジン
2、
固体燃料ブースターロケットのサイズ(縮小化)と性能における新記録
3、
ラムジェットエンジンを搭載した完全制御ミサイルの初飛行
4、
短&長距離での正確さを持つデュアル誘導システム搭載の初のミサイル
5、
原子力弾頭の導入における先駆的な取り組み

また、タロスに搭載された4万馬力のラムジェットエンジンによって、
過去、爆撃機が到達可能だった最高度をはるかに上回る機位で、
水平飛行を維持することが可能となったのです。

またラムジェットはロケットよりはるかに「少食」つまり燃料が少なくすみ、
(同じ時間維持するために必要な燃料の6分の1から8分の1)
推力と速度の制御が容易である上にパフォーマンスに優れています。

タロスエンジンのこの多用途性と信頼性は、
誘導ミサイル技術における画期的な成果を実現したのです。

「 高かったIQ」



多用途のタロスは搭載された「頭脳」もたいへん優れていました。

電気機械式の頭脳によって誘導されたタロスミサイルは、
目標の「射程距離」内に入ると、近接信管が弾頭を爆発させました。

タロスは2つの「ブレイン(頭脳)システム」を持ち、その頭脳が
長距離での高火力と高精度という能力を与えていました。

一つ目のシステムは、発射機から目標地点までミサイルを誘導。

発射機から直接受信するビーム型の誘導方式であり、
レーダーから攻撃目標に関する情報を入手してミサイルを誘導します。

これをレーダービームライディング技術といいます。

第2の頭脳は「ホーミング・ブレイン」

これが標的を感知すると、ミサイルの制御は
ビームブレインからホーミングブレインへと自動的に移行します。

ミサイル発射に至るまでの過程を司る神経系である
伝達を行う回路やモジュールは、最新の技術が応用されていました。

この終末誘導段階に搭載されたのがセミアクティブレーダーホーミングです。

実験で飛ばした無人のB-17に向かっていくタロスミサイル

■ ヨーロッパ遠征中のクルーズブック



「クルーズブック」とはアメリカの高校の「イヤーブック」(卒アル)
と似ておりすべての展開が完了した時点で発行されます。

これは、乗組員の遠征中の艦上、あるいは港での日常生活などが、
写真で記録されたアルバムとなっています。

右の1969年6月9日付の艦長からのお手紙にはこんなことが書いてあります。

リトルロックの友人たちへ

前回のファミリーグラム以来、リトルロックはフル稼働のスケジュールで、
地中海とその周辺でさらに多くのマイルを記録しました。

5月の最初の1週間は、私たちの母港であるガエタで過ごしました。

そこは天候が良く、本格的な夏が到来したことを実感するように
シーズン最初の観光客がやってきたものです。

旗艦では日光浴の時間を設けたので、甲板作業中だけでなく、
誰もが太陽を満喫することができました。

「リトルロック」は5月12日にガエタを出発し、一泊停泊後に
イタリアのベニスでの公式の訪問を行いました。
これは私たちが通常予定している公式訪問より少し長い期間でした。

この港は水深が浅く、我々の艦が寄港するには懸念も多かったのですが、
現地のタグボートの助けを借りて係留することができ、
ベニスに寄港する久しぶりのアメリカの軍艦になれたことを誇りに思いました。

サンマルコ広場からわずか200ヤードのブイに停泊した我々の艦は、
滞在中、それ自体が観光名所となってアメリカ人だけでなく、
ヴェネチア観光に来ていた多くのヨーロッパ人に、
地中海におけるアメリカの存在感を印象的に示していたと思います。

ヴェネツィアでは5回以上のツァーが催され、
それは主要な名所のほとんどを網羅していました。

現地では、昨年現役訓練で乗艦したアメリカ海軍予備隊の少佐が、
(彼はヴェネツィアの美術、歴史、建築の専門家でもある)
ツァーのうち2回を手配してくれ、そのツァーで、我々は歴史的な教会、
ティントレットの絵画が展示されている「スコラ・グランデ」、
そして美しいドゥカーレ宮殿などを見学しました。


さすが最初に「友人へ」と書いてあるくらいで、
艦長からの手紙というより、イヤーブックのアルバム委員みたいな文です。

平和な時代のヨーロッパ遠征は、彼らにとって「観光」気分だったんですね。





タロスミサイル搭載艦「リトルロック」は、1973年8月から1979年9月まで、
6艦隊の旗艦として再び地中海に配備されました。

1973年にはチュニジアの洪水被害者を救助し、
1975年のスエズ運河再開通の際には最初の輸送船団の一員となり、
1976年のレバノン危機の際にはベイルートの避難を支援し、
1976年11月22日にフィラデルフィア海軍造船所で退役しました。

■ 退役



ウォレットサイズの退役証明書です。
USS「リトルロック」の退役を記念して、
対象となる乗組員全員にカードが発行されました。

これは協会会員のジョージ・ヒューム氏から寄贈されたもので、
カードには次のように書かれています。

200年退役乗組員

今こそ耳を傾けよ:

SNジョージ・ヒューム

USS「リトルロック」CG4の艦上で、バージニア州ヨークタウンから
ペンシルベニア州フィラデルフィアへの最後の巡航任務に従事した
ジョージ・ヒューム二等兵曹は、
この誇り高き艦を無事に母港に帰還させた功績を称えられ、
ここに証明書を授与されました。

ウィリアム・R・マーティンUSS「リトルロック」艦長


写真は最後の航海で登舷礼を行う「リトルロック」。
英語では登舷礼をManning the railといいます。

そして、冒頭の写真は、登舷礼で岸壁を離れる瞬間。
軍楽隊の演奏と、正装した少女に見守られて、彼女は最後の航海に出ます。

続く。









「誇り高き親善大使」〜USS「リトルロック」ヒストリー

2025-02-08 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されているUSS「リトルロック」、
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。

写真はいずれも艦内に展示されていたものになります。

■ 建造



クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
「リトルロック」がレイドダウンしたのは、1943年3月6日でした。
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。

同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
「アストリア」CL-90が建造されていました。


人間の運命がそれぞれであるように、同じ軍艦として生まれても、
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。

たとえば、上写真の「マイアミ」「オクラホマシティ」は
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。

■巡洋艦として就役

「リトルロック」が就役したのは1945年6月17日、終戦の二か月前。

軍上層部はおそらく戦争の終結が近いことを知っていたかもしれませんが、
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。



訓練はその後投入されるであろう太平洋での実戦を想定していたでしょう。
ところが、キューバ沖のグアンタナモで訓練中、戦争は終わりました。




その後大西洋岸での訓練とフィラデルフィアでの調整を経て、
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。

そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。

「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。


上の写真は1946年2月1日、南米クルーズでチリのバルパライソ、
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。



この油彩は、説明がなかったので詳細は分かりませんが、
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。



1947年2月26日、オーバーホール中の「リトルロック」、
ブルックリンのニューヨーク海軍造船所にて。

このとき、艦体の塗装が海軍の塗装番号「Measure22」から、
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)

戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。




マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。

我が家がボストン在住時、ケープコッドには何度か車で行きましたが、
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。

その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。

この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには

オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。

その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。

彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。

ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として誇り高くその任務を終えた。

と、(かなり曲訳しましたが)なかなか感動的な文章で紹介されています。


LC-92「リトルロック」は1949年6月に退役し、その後は
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。


退役が決まって、CL-92を記念するプラーク(記念盤)が製作されました。

1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。


こちらはCL-92のプラーク。


こちらはまだ退役まで2年を残す1947年のダンスパーティ写真です。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。

調べてみたら、今や大統領のドナルド・トランプが、
2002年に1億1,500万ドルで買っていたことがわかりました。

ホテル・デルモニコの歴史


いやー、どうでもいいけど、トランプってマジ金持ち。
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?


それはどうでもいいですが、写真の一部を拡大してみました。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。



新婚カップルらしき二人の姿が目立ちますね。
今は彼らの孫世代がリタイアし、ひ孫世代が社会の中心を担っています。

彼らがその後幸せな人生を歩んでいることを祈ります。

■ ミサイル搭載軽巡洋艦への転身



USSリトルロック、ニュージャージー州カムデンにて
1959年12月19日

「リトルロック」は、再就役のため、ニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。


換装を行う造船所名、工事期間などが刻まれたプラーク。




同じ12月19日、傾斜実験中の「リトルロック」。

傾斜実験とは、船舶の重心の上下期ちを測定するためのもので、
肝斑状の重量物を横報告に移動した時の傾斜から算出します。


換装工事中の「リトルロック」。
夜間でも照明が煌々と照らしています。







いずれも換装後の就役前公試実験中です。



タロスミサイルの発射実験。


公試を終えて、「リトルロック」は新たに
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。

これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。


続く。



進水式と風の神ボレアス・レックスの認証〜USS「リトルロック」

2025-02-05 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている、
USS「リトルロック」内の海軍資料をご紹介しています。



ここで、シリーズ最初に一度紹介している、

「ブルーノーズ勲章
The Order of The Blue Nose」


の正式な認定書らしいものがまたしても登場しました。
ただし、こちらは1962年に北極圏通過したことを示すもので、
「リトルロック」にとっては2度目のブルーノーズオーダーとなります。

繰り返しになりますがもう一度説明すると、ブルーノーズオーダーは、
北極圏を本艦が通過したことを証明する公式の証明書です。


「リトルロック」艦首のリーダーは、ブルーノーズ受賞艦として、
このように青くペイントされていることも以前お話ししましたね。

これは艦「リトルロック」に対して与えられたものですが、
その時その時に勤務していた乗組員全員にも、この証明として
「ブルーノーズカード」は与えられました。



CL92(軽巡洋艦)だった頃の1946年のブルーノーズメンバーシップ。
持ち主のジェームズ・ホールはRDM3つまり3等レーダーマン、
レイティングで言うとE-4となります。
これを認定する士官は当時の「リトルロック」艦長です。



CLG(ミサイル巡洋艦)となった「リトルロック」が、
1965年9月29日に北極圏に達したとき乗務していた
R・W・ピーターソンに対して与えられたブルーノーズ証明書です。

この証明書は、

Boreas Rex
Ruler of the North Wind

から送られたということになっています。
ボレアス王は強大な北風の王として、彼の兄弟たちに、

タイタンに北風を、
エウロスに東風を、
ゼピュロスに西風を、
ノトスに南風を、

それぞれ恒久的に繰る権力を与えました。

彼はノースポール(北極)を支配しており、故に、
ここに到達した人間にもその証明を与える権限を持っているのです。


3回目となる1972年、北極到達で発行された証明書は、
C・H・ケンジンガー 三等兵曹
Petty Officer Third Class (PO3)

が取得した北極点到達の証です。

これによって、すべての男性に、そして、
すべてのセイウチ、ハスキー、キツネ、オオカミ、ホッキョクグマ、
クジラ、テン、トナカイ、カリブー、そして、
北極圏の凍てついた荒れ地に生息するそ
の他のすべての生き物たちに知らしめる

PN-3C.H. Kensingerは、北極圏を横断することで
世界の頂点への入り口を開くことになろう

さらに理解されるべきである:
それは、USSリトルロック(CLG4)という良き船に乗り込み、
つらら、ブリザード、ウィリワウ Williwaw、
(=海岸沿いの山から海に向かって吹き降ろす突風、颪)
そして無数の雪片の土地に入った
1972年9月14日、北風の支配者であり、
凍てつく領域のすべてを統べるボレアス・レックスは、
この地を真の信頼できる氷と塩水のブルーノーズである
私の王家の領土であると宣言する

ここに宣言する

私に与えられた権限により、私はここに、我が臣民すべてに命ずる
彼がどこにいようとも、彼に敬意と尊厳を示すことを

この命令に背く者は、王家の不興を買うことを覚悟せよ

そして、左からボレアス・レックス、「リトルロック」艦長、
第二艦隊&北極打撃艦隊司令官のサインがあります。
右上に描かれているのが、おそらくボレアス・レックスでしょう。

「リトルロック」はこうやって3回ブルーノーズの証明を得ましたが、
後になるほどその証明書の仕様が凝っていっています。

■ USS「リトルロック」の誕生


進水式から始まる「リトルロック」の写真が展示されているコーナーです。

「リトルロック」C L-92は、1942年3月6日、フィラデルフィアの
クランプ・シップビルディング・カンパニーで起工されました。



この造船所で建造された他の艦としては「オクラホマシティ」があります。

進水式は1944年8月27日、リトルロック市会議員夫人、
ルース・ワッセルをスポンサーとして行われています。


1945年6月17日、ウィリアム・ミラー大佐(壇上)を艦長として
コミッショニング・セレモニー(就役)が行われました。

日本の降伏によって戦争が終結する二ヶ月までのことです。
「リトルロック」は習熟訓練の最中に終戦の知らせを受けました。


就役式の招待状。

末尾のR.S.V.Pは、フランス語で「Repondez s'il vous plait.」の略で、
出欠に対して「ご返答お願いいたします」 という意味です。



1945年7月アンダーウェイに向かう「リトルロック」。
物資、弾薬、航空機、燃料が積まれているので喫水線が低くなっています。


1945年9月、艦尾側からの空撮。

■ 航海用ツール


実際に「リトルロック」で仕様されていた各種用具です。




立派な木製の持ち運び用取手付き六分儀、セクスタント

六分儀は天測をして天体と地平線の間の角度を測定することで
航海の際現在位置を知ることができるツールです。

なぜ「六分」なのかというと、枠の角度が60度だからで、
歴史上、同様のツールとしては八分儀というのも存在しました。

こちらは、測定できる角度が小さいため、廃れて六分儀に移行しました。

この六分儀は、1946年から1949年まで「リトルロック」勤務であった、

Allan Yoder FC2/C

が寄付をした、と書かれています。
名前の後のFC2は、

Fire Controlman Petty Officer 2nd class

であり、/の後のCは「カーペンター」であるらしいので、
彼は消防とビルダーのレイティングを持つ下士官ということになりますが、
六分儀のケースには、

Capt. Allan L. Yoder
USCG


と記されていて、この人、沿岸警備隊にいたの?
しかもキャプテンとは?と色々謎です。

珍しい苗字なので検索したら、お葬式の通知などと共に、2007年、
「リトルロック」のオーラルヒストリーのページが見つかりました。

それによると、ヨーダー氏は高校卒業後海軍に新兵として入隊し、
最初に赴任したのが「リトルロック」で、海軍にいたのは3年。
そのあいだ操舵手を務めていたということです。(本人談)

沿岸警備隊のキャプテン、というのは、退役後に取った多くの
船舶関係の資格の中に、「沿岸警備隊の船長資格」があったという意味です。

退役後には海洋関係の調査がありましたが、
そのとき手がけた多くの機密プロジェクトには、
当時極秘扱いだったトム・クランシーの小説
『レッドオクトーバーを追え!』のネタ
になったものもあるそうです。

それってかなり自慢できないか?


こちらもヨーダー氏寄贈によるシップマスター クロノメーター

一般的にはマリン・クロノメーターといい、
天体航法によって船舶の位置を決定するための使用される精密時計です。

かつては、船舶用クロノメーターは人類史上最も正確な
携帯型機械式時計として、海洋国家はその開発に多額の投資を行いましたが、
1990年代に衛星航法システム(GNSS)が登場しました。

しかし、現代でも航海士には従来の天体航法に熟練していることが求められ、
現場でも、使いうる様々な方法を組み合わせて航法を行います。

最先端の方法で行えば、六分儀での天測をわずか数分に短縮できますが、
故障する可能性のある電子システムだけに頼らずに、
複数の独立した位置測定方法を知っていることによって、
航海士は最悪の事態が起こってもそれを回避することができるのです。


展示物の中に「私はなんでしょう」というクイズがありました。
質問しておいて、どこにも答えがないんだなこれが。

というわけで、これはなんでしょうか。
お札を挟むクリップ?
(その心は、乗員は財布を持てないから)


私はなんでしょうシリーズその2。
うーん・・・全く想像すらつかん。
何かと何かを連結するものであるらしいけど・・・。


「リトルロック」で実際に仕様されていた舵輪です。



「スタンダードイシュー」(標準)舵輪はパイロットハウスに装備されます。

どの装備が搭載され、使用されるかについては、
指揮官が最終決定権を持っており、一部の艦船では「伝統的な操舵輪」
(ここに展示されているもの)が選ばれましたが、
もちろんそうでない艦船もあったということです。

いずれにしても、展示されている舵輪は、風と帆だけで船が推進されていた
海軍の過去から受け継がれてきた遺産の象徴でもあります。

ところで、この説明を読んで、一部の艦長が選んだ「伝統的」でない舵輪とは
どんなものだったのか、気になって調べてみたのですが、

まさかこれのこと?


もう一つついでに、wikiにあった舵輪の動力伝達の仕組み。


ところで、舵輪の右下に日本の無条件降伏の調印式が「ミズーリ」で行われ、
ちょうどマッカーサーの前で重光葵がサインをしている写真がありますね。
(画面右にいるのは外相秘書だったオノヨーコのおじ加瀬俊一)

写真に添えられた説明は、

1948年9月2日、
東京湾の戦闘艦USSミズーリ(BB-63)に乗船した大日本帝国代表団が、
連合国代表の面前で降伏文書に署名。
ダグラス・マッカーサー陸軍元帥の 
「これらの手続きは終了した 」という言葉とともに、
第二次世界大戦はついに正式に終結した。

その通りなんですが、そもそもこれここにある意味が全くわかりません。


展示と展示の間に、実際の鑑の装備が現れました。
コントロールステーションとあります。

左下はバルブの操作方法ですが、三つのバルブに書かれた文字が、

F.M.CROSS
CONN. OUT-OUT

F.M.
OUT-OUT

FS 78
SUCTION


となっていて、おそらくこれはどこに通じているかを表します。

真ん中の説明から、これらが燃料関係のバルブであり、
燃料は常に総量を監視され適切が保たれていたことがわかります。

燃料消費ログ

このフォームは、USS「リトルロック」(CL-92)の
各燃料タンクに搭載された燃料の総量を追跡するために使用されました。

これは船の運航にとって非常に重要であり、蒸気船としての目的だけでなく、
船を水平に保つ「トリミング」のためにも必要でした。

燃料レベルが適切に維持されていることを確認するため、
1日中定期的に燃料レベルの測定が行われました。

また、船内の燃料総量は70万ガロンを超えていました。

「リトルロック」のヒストリーをたどる展示、もう少し続きます。


続く。