ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

公式には「紛争」だったベトナム戦争〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-20 | 歴史

「ベトナムルーム」を終わったつもりでしたが、あと一回続けます。
USS「リトルロック」艦内を利用した展示室、
「ベトナムルーム」の展示から、主に戦死者の遺品を中心に紹介します。

■ 戦死したフットボール選手



ベトナムルームのケース内に、こんなコーナーがありました。
陸軍のアメリカンフットボール選手で、プロチームでも活躍した、



ジェームズ・ロバート(ボブ)・カルス
James Robert Kalsu(1945−1970)


の着用した帽子が展示されています。

アメリカ史上、ベトナム戦争で戦死した二人のプロフットボール選手
(もう一人はクリーブランド・クラウンズのドン・スタインブルンナー)
のうちの一人でした。

その後、2004年にアフガニスタンで、陸軍レンジャー部隊の軍曹、



パトリック・ダニエル・ティルマンJr.
Patrick Daniel Tillman Jr. 1976-2004

が戦死するまで、史上最後の戦没プロフットボール選手とされていました。

オクラホマ大学でフットボール選手として活躍したカルスは、
バッファロー・ビルズに指名され、プロ選手となりました。

ベトナム戦争が始まると、予備役将校訓練課程(ROTC)だったカルスは、
1968年のシーズンが終了していたこともあり、少尉として陸軍に入隊し、
第101空挺師団の一員として1969年南ベトナムに着任しました。

そして1970年7月21日、駐留していた彼の部隊は
敵の82ミリ迫撃砲の攻撃を受け、彼はその砲撃で亡くなりました。

彼が、ベトナムの丘の上に位置する駐屯地で
妻からの手紙を読んでいるときに攻撃が始まりました。

迫撃砲が直撃したとき、彼は今日が彼女の出産予定日であることを知らせる
その手紙を持ったままだったといいます。


この攻撃でキャンプに撃ち込まれた砲弾はおよそ600発と言われ、
そのうちの1発がカルスの後頭部に炸裂したのでした。

彼の妻は予定日きっかり(つまり彼の戦死した日)に自宅で産気付き、
第二子であるジェームス・ロバート・カルスJr.を出産しましたが、
二日後、夫が息子の誕生日に戦死したという通知を受け取りました。。


カルスの遺族(右側息子:父の生まれ変わりかというくらい瓜二つ)

戦死時のカルスの階級は中尉。
空挺バッジの他にブロンズスター、パープルハート勲章を授与しています。


あとは誰のものかはわからないベトナム土産の数々が飾ってありました。
左のはベトナム獅子舞の頭でしょうか。

ベトナムでは、テト(旧正月)が明けた仕事始めや、
あるいは店開きなどの際に獅子舞を行う風習があります。
(テトというと、『テト攻勢』を思い出しますね)

獅子舞は中国発祥でアジア全域に伝播していますが、
いずれの国でも正月を祝うために舞うという共通点があります。


手前のアオザイには英語で「Ao Dai」と説明があります。
あとはほとんど土産店で売っているようなものです。

■ POWブレスレット


円筒形のアクリルに被されたブレスレットが並べられたケース。

各ブレスレットにはベトナム戦争中に捕虜/行方不明とされた
23人のニューヨーク州西部の軍人の名前が刻まれています。

このケースは博物館が独自に製作したもの。
行方不明者全員がアメリカの土を踏み、
ブレスレットが全て取り外される日までこのまま保管されます。


POW/MIA BRACELETA Prisoner Of War Bracelet 
(またはPOW/MIA Bracelet)は、ベトナム戦争中に捕虜となった
アメリカ軍人の名前、階級、行方不明となった日付が刻まれた、
メッキまたは銅製の記念ブレスレットのことです。



このブレスレットは、1970年5月、カリフォルニアの学生グループ
「ヴォイス・イン・バイタル・アメリカ」(VIVA)が、
ベトナム戦争で捕虜となったアメリカ人を忘れてはならない、
という意図のもとに作られたのがきっかけになりました。

このブレスレットは現在も販売されており、
収益は、捕虜/行方不明者の家族に寄付されています。

フロリダ州タラハシーにあるブレスレット記念碑

ブレスレットをつけていた人たち、そして今もつけている人たちは、
ブレスレットに名前が記された兵士、あるいはその遺骨が
アメリカに帰還するまで、ブレスレットをつけ続けることを誓っています。

1970年から1976年の間に、およそ500万個が配布されました。



アメリカに来たことがある人は、おそらく一度はどこかで見る
POW/ MIAフラッグの意匠です。

You are not Forgotten
(あなたたちは忘れられていない)

という捕虜・行方不明者へのメッセージが書かれています。
そしてこのような作者不明の詩も。

私は捕虜だ

第一次世界大戦中に生まれた
以来、すべての戦争に参加してきた
兵士になったとき、捕虜になるつもりはなかった
- 上官に命じられたから仕事をしただけだ

凍え、熱され、空腹で、拷問され、こきつかわれ、虐待され、殴られた
生きて帰るためにできることをした

捕虜として経験したことは、誰も理解できない
捕虜になり、行方不明者の名簿に名前が載せられる
これ以上悪いことがあるだろうか

MIAを忘れさせないで
彼らを見捨てないで
彼らは兄弟なのだ
彼らは帰還を叫び求めているのだ



ベトナムルームの展示を見終わったと思ったら、
そこに、この展示全体についての説明がありました。

・・・・・わたしはもしかして逆から見学していたのか?

この展示品には、ベトナム帰還兵から寄贈された記念品が含まれています。

展示の目的は、この史上最も評価されなかった戦争に従軍した、
多くの人々の勇気と犠牲を思い起こさせることです。

ベトナム戦争で58,300人の軍人が全力を尽くしましたが、
その中にはラオスとカンボジアで亡くなった軍人も含まれています。

「史上最も評価されなかった」

というのは、「most unpopular war」が原文です。
「最も人気のない」と訳してもまあ間違いではない気がしますが、
じゃ逆に聞くけど、「人気のある戦争」って何?

そして、わたしはここから先に心底驚きました。

米国議会が実際にはこれを「公式戦争」 と宣言していないため、
公式には「紛争」と呼ばれていますが、軍にとってその違いはありません。


そ、そうだったの〜〜?
アメリカ的にはベトナム戦争は「War」でなく「conflict」だったってこと?

でも、ベトナム戦争のことを「ベトナム紛争」って呼ぶ人なんて、
古今東西公人民間人問わず存在しませんよね?

これって、宣言しなかったというより、し忘れただけじゃないか?
っていうか、必要以上にだらだらやっている間になんで決議しなかったのか。

気を取り直して続き。

ベトナム戦争は1955 年に「始まり」、1975年にサイゴン
(現在はホー チミン市と呼ばれる)の陥落で終わりました。

この戦争では、南ベトナムの民間人19万5,000人から43万人、
北ベトナムの民間人5万人から 6万5,000人、
さらに、少なくとも4万人のカンボジアの民間人、
約110万人の共産主義北ベトナム軍とベトコン軍が殺害されたとされ、
未だに1600 名以上の兵士が戦闘中行方不明(MIA)に、
720〜840名の米軍兵士が捕虜になったまま(POW)となっています。



WNY VIETNAM VETERAN'S MONUMENT
ベトナム帰還兵記念碑

これは前回バッファローを訪れた時、写真を撮って紹介した記念碑です。





WNYとは「ウェスタンニューヨーク」のことで、
つまりここバッファローも含まれるニューヨーク州東部出身の
ベトナム戦争ベテランの名前が記された記念碑となります。

で、このお知らせが何かというと、

修復プロジェクト

30年の歳月を経て、改装が必要です。

究極の犠牲を払った私たちの英雄を讃えるために、
活気を取り戻すためにご協力をお願いします。
税控除の対象となる寄付は、
Western New York Veteran's Housing Coalition, Inc.にお願いします。
小切手の宛先は:Vietnam Monument Restoration Fundです。

どこがどう不具合で修復が必要なのか、
少なくとも近くで写真を撮ったわたしにはわかりませんでしたが、
寄付を募って資金集めをしなければならない事情があるようです。


最後に、このコーナーを締めくくるのは
ウッドロー・ウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領の言葉です。

ウィルソン大統領は初めて「国旗を公式に記念する日」として、
1777年に議会が「星条旗を採択した」6月14日に制定を行いました。

これを受けて6月14日、海岸から海岸までの大通りに国旗がはためき、
マーチングバンドは「星条旗よ永遠なれ」や「ディキシー」を演奏し、
議員は町の広場で演説を行われ、しばらくはそういうこともありましたが、
今日では、6月14日の演説やパレードはほとんど見られません。

たとえ6月14日に大通りに国旗が並んでいるのを見ても、多くの人は
「7月4日にしては早すぎる」「何の日だろう」と思うでしょう。

それどころか、もし昨今議員が愛国的な演説をこういう場で行えば、
下手すると罵声を浴びせられたりしかねないご時世でもあります。
(それもこれもアメリカが昨今陥っている分断化の影響ですが、
トランプ大統領復活で多少は空気も変わってくるかもしれません)

それはともかく、ウィルソン大統領は、記念日制定に際して
以下のような演説を行い、それがここに書かれています。

我々が称え、その下で奉仕するこの旗は、
我々の団結、力、国家としての思想と目的の象徴である。

この旗は、我々が世代から世代へと与えてきた以外の何ものでもない。
その選択は我々に委ねられている。

平和であろうと戦争であろうと、
その選択を実行する軍勢の上に堂々と静かに翻っている。

そして、たとえ沈黙していようとも、
それは我々に語りかけてくるのである。

なお、オールド・グローリーとはアメリカ合衆国の国旗の愛称です。

続く。



ブルーノーズ〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」の勲章

2024-12-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

USS「リトルロック」艦内展示をご紹介しています。
ベトナム戦争記念関係を終わり、今日は「リトルロック」の歴史に触れます。

■ USS「オクラホマ・シティ」艦内図


と言いながら、USS「オクラホマ・シティ」の図が登場しました。

「オクラホマシティ」は「リトルロック」と同じ船体設計に基づいており、
姉妹艦のように似た区画化がされていました。

図を見てわかるように(というか軍艦はどのタイプもそうなのですが)
迷路のように入り組んだスペースに作業室、居住スペース、貯蔵室が位置し、
そのため無期限に自らを維持し、防御し、推進することができます。

以下、色分けされた区画の役割です。

 Ship Control Spaces (船舶制御機関)

■ Weapons Spaces(武器)

Engineering Spaces(エンジン)

Rader And Radio Spaces(レーダー・ラジオ)

 Living Quaters(居住区画)

 Work Spaces

 Offices(オフィス)

 Supply Stoage(倉庫)

この横にあった、「船の構造」という文を見てみます。
当たり前すぎることがきちんと書かれています。

【船の構造】

リトル・ロックのような12,000トンを超える積載量を誇る船を見るとき、
その船の大部分が上よりも水中にあることを理解するのは難しい。

また、この船が何千トンもの鋼鉄で造られ、
その鋼鉄の厚さが6インチもあるにもかかわらず、船が浮いているのは、
周りの水よりも軽いからと考えることもなかなか難しい。

船は基本的に中空の鉄の箱であり、橋の箱桁と同じように作られている。
家を建てるのと同じように、それは梁と板で構成する。

まず、船の骨となるキールが船体の中央に縦に敷かれる。

次に、キールに対して直角に横方向のフレームが肋骨のように配置される。

縦方向の骨組みは船首から船尾まで長く続き、
横方向の骨組みをつなぎ合わせる。

船は、横から横へ、船首から船尾へと走る隔壁
(壁)によって区画されている。

船の側面、船底、上甲板は鋼板で覆われる。

船の一番上の甲板はメイン・デッキと呼ばれ、
メイン・デッキの上にあるコニング・タワーなどは上部構造物と呼ばれる。


船は水雷や魚雷などの水中爆発に対して、二重底、
あるいは「リトルロック」のようなクリーブランド級巡洋艦の場合は
ブリスターボイドとともに「三重底」になっている。

voidとは、void space: 船内の利用されていない空間部分のこと。
他の荷物を引き出すためなどの理由で荷物を 積むことができない空所。

空船腹(=void space); 死角 (射撃できない地域)ともいいます。

ブリスター(blister)は「水膨れ」の意味で、船のブリスターといえば、
塗装に出てくる水膨れ状態のものであるらしいのですが、
ここでは構造の状態を指しているようなので、
そのように見える部分(バルバス構造のような)のことでしょうか。

ちょっと自信がありません。

三重底は、船の片側からもう片側まで、
3つの小さな区画が連なって構成されていることをいう。

これらの区画の1つ以上が損傷することになっても、
浸水は船全体に及ぶことはなく、比較的狭い範囲にとどめられる。

もし魚雷が爆発し、そのうちのいくつかが損傷することがあっても、
ダメージは船の外側の部分に限られ、
保持隔壁を貫通して重要な部分に及ぶことはない。

■ ブルーノーズ勲章



これは、「リトルロック」が授与された「ブルーノーズ・オーダー」です。
はて、「青鼻の勲章」とは何ぞ。

有名な「赤道まつり」は、船が赤道を越えたときの記念のお祝いですが、
それに倣い、船が北極圏に到達した時も、それを寿ぐ行事が行われます。

そして、北極圏内に到達したメンバーは自動的に友愛会に入会するのですが、
その友愛会の名前が「ブルーノーズ・オーダー」なのです。

北極圏は、地球の地図を示す5つの主要な「緯度圏」の1つです。
これは、赤道の北66度33分44インチ (または66.5622 度)を走る緯線です。

1946 年11月30日、 USS「リトルロック」は、CL -92として初めての、
そして1965年9月25日、CLG-4として北極圏に2度目の到達を果たし、
このとき乗務していた乗員すべての人々は、北極越えの式典に参加し、
永遠に「ブルーノーズ」の友愛会員資格を得ることになりました。

なおこの1度目の証明書には、以下のように記されています。

 ウィリス・ジェームズ R. S1が乗務する
USS「リトルロック」 (CA-92) は
西暦1946年11月30日に北極圏を横断し、
ホッキョクグマの北の領域に達したことを証明します


この儀式は伝統に則り、「ブルーノーズ」と呼ばれるのは資格者だけです。
ちなみに、海軍には他に次のようなフラタニティ(友愛会)があります。

「シェルバック」Shellback
赤道通過

「赤鼻勲章」Order of the Red Nose
南極圏横断

「黄金の龍勲章」Order of the Golden Dragon
日付変更線通過

「溝の勲章」Order of the Ditch
パナマ運河通過

「サファリ・トゥ・スエズ」Safari to Suez
スエズ運河通過

「ゴールデン・シェルバック」Golden Shellback
赤道と国際日付変更線が交差する地点を通過

「エメラルド・シェルバック」Emerald Shellback
「ロイヤル・ダイヤモンド・シェルバック」Royal Diamond Shellback

西アフリカ沖0度(赤道と主子午線が交差する地点)を通過

「マゼラン勲章」Order of Magellan
(船で)地球一周

「湖水勲章」Order of the Lakes
五大湖すべてを航海


ちなみに、USS「リトルロック」は北極圏を横断したことを記念して、
艦首は青く塗られており、桟橋からそれを確かめることができます。


ノーズって、これ(フェアリード?)のことだったんですね。
言われるまで、全く色が青いのに気づきませんでした。

■ アメリカ海軍讃歌
”永遠の父よ、救いたもう強きものよ”



            アメリカ海軍の公式賛歌が展示されていました。

それぞれの聖句は、三位一体の主がその被造物に対する主権者であり、
人がそれに完全に依存していることを表しています。

永遠の父よ、救い給う強き者よ
その腕は荒れ狂う波を縛り、
大海の深みにその定められた限界を守らせ給う

救い主よ,その声を水は聞き
汝の言葉に,荒れ狂う水を静めた
泡立つ深海の上を歩まれた方
その荒れ狂う中にあって、静かに眠っておられた
我らが汝に叫ぶ時、聞け
大海の危機にある者たちのために

最も聖なる御霊は
暗黒の荒れ狂う水の上に
その怒りの騒動を止めさせ
荒れ狂う混乱に平和を与えた
海上の危機のために

父よ、地と海の王よ
この船を汝に捧ぐ
汝を信じ、謹んで祈る
天より我ら船乗りの叫びを聞け
高みよりこの船を見守り給え!

そして、やがてその航路が行われる時われは汝に祈る
凡ての魂を受け継ぐ者よ
一人の命も失われぬように
天より我ら船乗りの叫びを聞け
そして、永遠の命を天から与えたまえ!



The US Navy Hymn

続く。


戦死した女性軍人たち〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-14 | 歴史

巡洋艦「リトルロック」艦内を利用したベトナム戦争関連展示から、
今日はベトナム戦争に参加した女性軍人についてご紹介します。

■ ベトナム女性記念碑


以前ピッツバーグのハインツミュージアムで開催されていた
ベトナム戦争展示をご紹介する際、この
ベトナム女性慰霊碑に触れ、画像を上げたことがあります。


女性彫刻家、グレンナ・グッドエーカーが制作し、
ワシントンD.C.に設置されたこの作品は、負傷した兵士と女性二人、
どちらも看護師で一人は兵士を抱き抱え、アフリカ系看護師は空を見て、
ヘリの到着を待っているかのような瞬間を表現しています。

ベトナム戦争がようやく過去のこととなった1984年、
看護師としてベトナムに派遣されたダイアン・カールソン・エバンスは、
ベトナム戦争に参加した女性の勇気と、犠牲者を称えるため、
他二人とともにベトナム女性慰霊財団(VWMF)を設立しました。

戦争中、延べ26万5千人以上の女性軍人と民間人女性が従軍しましたが、
ベトナムに駐留した米国女性は約1万人で、その90%は看護師でした。

その他は、医師、理学療法士、医療関係者、航空管制官、
軍事情報部、行政部などで、民間人は、赤十字、USO、
スペシャルサービス、アメリカン・フレンズ・サービス委員会、
カトリック・リリーフ・サービス、その他の人道支援組織や、
報道特派員やワーカーとしてベトナムに派遣されていたわけです。

その中の8名が、命を落としました。

しかし、記念碑設立計画は、なぜか男性だけでなく女性から反対されました。
もとタスクフォース勤務で当時コネチカット知事だった
ジル・A・ミシュケル
の反対理由は以下の通り。

「退役軍人(ベテラン)という言葉は男性を意味する。
私たち(女性)が称えられるべきという提案すら不快である」


また、ベトナム慰霊壁の設計を行った中国系デザイナー、マヤ・リンも、

「(この追加を許可することは)記念碑が適切な、
法的および美的承認プロセスを経てから何年も経った後でも、
我々の国定記念物が民間の利益団体によって改ざんされる可能性」

というよく意味のわからない反対意見を出しています。

しかし結局、男性の上院議員2名、下院議員1名によって法案が提出され、
レーガン政権時代に、記念碑の設置の署名がまず行われました。

今にして思えば大変不思議なのですが、
国のため出征して戦場で任務を果たし身を危険にさらし、
その結果命を失った女性を顕彰することの一体何が問題だったのでしょうか。

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉


冒頭写真の装備は、海兵隊の外科看護師であった、
Cap.  Eleanor Grace Alexander 

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉

が着用していた迷彩服とブーツです。

彼女のマネキンは、愛用していた聴診器を首にかけ、
マネキンの後ろの彼女の認識票が大きく拡大されたポスターには、

”Not all women wore love beads in the sixties.”

直訳すれば「60年代、全ての女性が首飾りを愛したわけではない」
つまり戦場に自ら身を投じる女性もいた、という意味のフレーズが見えます。

1940年生まれのアレクサンダー大尉は、
ニューヨークの病院で外科看護師として勤務していましたが、
政治的関心の高さから陸軍看護部隊を志願しました。

友人は彼女が入隊したとき、危険を感じて、
代わりに平和部隊で国のために尽くしてはどうかと助言したのですが、
彼女の意思は固く、国内で訓練を受けたのち、医療旅団に配属されます。

1967年11月30日、アレキサンダー大尉は、戦闘で負傷した兵士のため、
プレイクで治療任務を行ないましたが、任務後基地に戻る飛行機が墜落し、
同乗していた25名と共に、27歳の若さで亡くなりました。

彼女がベトナムに着任してまだ1年も経っていませんでした。


国防総省は数日間この事故を公表しませんでした。
敵に情報が漏れることで捜索活動に障害をきたすからです。

ある新聞記事はこのことを以下のように伝えました。

「先週の木曜日、双発の輸送機がクイニョン南のジャングルの中で墜落し、
乗員全員となるアメリカ人26名が死亡した。
飛行機には4人の乗組員、2人のアメリカ民間人、
18人の陸軍兵士、2人の空軍兵士が乗っていた。

墜落の原因は不明。
飛行機はプレイクからクイニョンに向かう途中であった。」

彼女はベトナムで仲間の兵士たちから信頼され賞賛を受けていました。
ある兵士は、こう回想しています。

「アレクサンダー大尉を失ったとき、誰もがとても悲しみました。

戦場の常として我々は部隊から兵士を戦死によって失っていましたが、
そのような損失に対しては、こう言ってはなんですが、
元々覚悟があったというか、心のどこかで予期するものがありました。

しかし、アレクサンダー大尉の場合は少し違いました。

彼女を失ったことはいつもより皆を落ち込ませ、
喪失の悲しみで部隊には暗雲が垂れ込めたようになったのです。

彼女がいなくなって、私たちは皆、彼女をなんというか、

いかに理想化していたか、何より愛していたことに気づいたんだと思います」

同僚の看護師も、エレノアの戦士による喪失感に苦しめられました。

看護師で友人のローナ・プレスコットは、自らの心的外傷から
戦後看護師を辞めることになりましたが、その後、経験を活かして
心的外傷後ストレス症候群に苦しむ退役軍人のカウンセラーになりました。

彼女は戦後23年経って、エレノアにこんな手紙を書きました。

エレノア、あなたは私より数カ月年上。

「スーパーナース」としてO.R.を支えていましたね。

あなたは決して慌てず、ミスをせず、
身だしなみさえきちんとしていて、一流だと思った。

一方、私は目の前の生活に追われて、怒り、苛立ち、
ついでにくせ毛と毎日格闘していたわ。

どうやって持ちこたえたの?
みんな、あなたに頼っていたよ。

あなたと私は、トリアージし、仕事をこなし、兵士たちを動かし、祈った。
私はいつも怒鳴ってばかりだったけど、あなたはそうしなかった。
私はあなたの強さに感心してたし、羨ましかった。

テントの下で働いたり、ヘリからすぐに負傷者を運び出したり、
暑さの真っ只中に身を置いたりしましたね。

私が緊急外科チームに配属されたとき、
あなたはそこには自分が行きたい、といっていたっけ。

そのチームは1日24時間対応が基本だったのに。

あの時、プレイク出張の電話は緊急外科チームの私にかかってきた。
私がそこにいなかったので、あなたは私の装備とジャケットをつかんで、
私の代わりに激しい戦闘と死傷者の多いプレイクに行ってしまった。

それを知って、私は内心あなたのためにはよかったと思ってたの。
でもそれから6週間後、クィニョンに帰るあなたの飛行機が墜落した。

あの日はとても風が強かったわ。
あなたはV.C.領土の奥深くの山に墜落した。
機体には弾痕があったと聞かされた。

数日後、あなたの遺体が回収された。
少なくとも捕虜にはならなかったようだけど・・即死だったの?
・・・・痛みはあった?

私は追悼式に行くことができなかった。
精神安定剤を手に入れて薬を全部飲んだ後、眠り続けた。

どうして私は生き残って、あなたは死んだの?

エレノア、「壁」に行くと涙が出て止まらない。
あなたの死に涙が止まらないの。

23年経った今も、そのことをよく考える。

神のご意志なのか、それとも私があなたの運命を狂わせたのか。
申し訳ないのか、罪悪感を感じるべきなのか。
どうすればいいのかわからない。

私はあなたから命を奪ったの?


それとも、チームの一員として究極の看護をするという経験を、
無謀にもあなたにさせてしまったのかしら?

そのことを知りたかったけど、本当は知りたくなかったのかもしれない。

私があなたの統率力と冷静さに驚嘆すれば、
あなたは手術、点滴、剥離をフルでこなした私の経験を羨ましがった。

「わたしも本当に重要な仕事をするチャンスが欲しいわ」

って。

私はいつも、第85師団でのあなたの仕事の方が、
第616師団での私よりもうまくいっていると思っていたけどね。

エレノア、あなたは死ぬ前に「チャンス」を得たのよ。

それは私のおかげなのよ。
チャンスを得たあと、あなたが死んだことも。

それは違うと自分に言い聞かせてきたけど、でも、本当はそうなんだわ。

私はもがきながら、相変わらず不完全ながらも、
今も何かを世の中に与えようとしています。

私のように傷ついた他の生存者を助けること。
あなたのためにもそうしなければならないと思っています。

あなたの友人

ローナ



アレクサンダー大尉のマネキンの足元には、死亡記事、
彼女の追悼式のプログラム、戦後、彼女の兄が
手術室の制服を着た彼女を描いた絵と一緒に写っている追悼記事があります。

こうして、エレノア・アレクサンダー大尉は戦死後、
青銅星章とパープルハートを授与されました。


■戦死した8名の女性軍人

ベトナム戦争では、8名の女性軍人が任務中死亡し、
ワシントンD.C.にある壁に名前を追加で刻まれました。

シャロン・アン・レーン陸軍中尉(ロケット弾直撃による死亡)

エリザベス・アン・ジョーンズ陸軍少尉(ヘリが高圧線に触れ墜落)

キャロル・アン・エリザベス・ドラズバ陸軍少尉(ヘリ墜落)

アニー・ルース・グラハム陸軍中佐(脳卒中:搬送先の日本で死亡)

ヘドウィグ・ダイアン・オルロウスキー陸軍中尉(輸送機墜落)

メアリー・テレーズ・クリンカー大尉(輸送機の墜落)

パメラ・ドロシー・ドノバン陸軍少尉(戦病死)

圧倒的に多いのが輸送中の事故による戦死です。



続く。



レイモンド大佐とフライトオフィサークーガン〜ハリウッドセレブIN航空隊

2024-12-11 | 飛行家列伝

ジェームズ・ステュアート、クラーク・ゲーブルと、共に
第二次世界大戦に陸軍航空隊に入隊したスターを取り上げてきましたが、
今日は二人ほどビッグネームではないものの、戦争が始まったとき志願し、
航空隊に貢献した二人のハリウッドセレブをご紹介します。

■ ジーン・レイモンド大佐 USAFR


まず、ジーン・レイモンドという俳優の名前を知っている人は、
日本人にはあまりないのではないかと思います。
(日本語のwikiのページはない)

しかし、アメリカでは俳優としてだけでなく、歌手、作曲家、脚本家、
監督、プロデューサー、つまりハリウッドセレブとしての顔と、
軍パイロットという肩書きで広く知られる存在です。



しかし、この顔にも、出演した作品名にも正直全く記憶がありませんでした。
10 Things You Should Know About Gene Raymond 航空隊での写真は1:12~

まあ、そういう才人でセレブだったということでよろしいでしょうか。
(適当)

1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻したとき、
当時31歳の俳優、ジーン・レイモンドは、
アメリカもいつか戦争に巻き込まれると確信していました。

共和党支持であった彼は、自費でパイロットになるための飛行訓練を受け、
1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が勃発すると、
即座に映画製作のキャリアを中断して少尉の任命を受けました。


レイモンドが陸軍入隊試験で面接をした中佐の合格通知です。

1942年2月13日、ワシントンD.C.空軍司令部
覚書:
陸軍航空部隊A-2本部参謀長補佐ワシントンD.C.へ

私は、ジーン・レイモンド氏の合衆国陸軍への志願に際し、
個人的に面接を行いました。

彼の人格、性格、知性、そして一般的な適性は、
将校としての任務に適任であります。
人を扱った経験、パイロットの等級と航空経験、
そしてこの種の仕事に対する主体性と興味、
いずれも情報部の任務に適任であると考えます。

レイモンド氏の申請が承認された場合、空軍戦闘司令部本部に配属し、
G-2課に配属されることが望ましいと考えます。

その計画・訓練ユニットで、動画、シルエット、
模型、写真などの視覚情報訓練に従事するのが適任と思われます。

私はレイモンド氏がこの特別な仕事に十分な資格を持っていると信じます。

ローリス・ノースタッド 空軍中佐




米国陸軍宣誓(暫定)

私ジーン・レイモンド(自筆)は、合衆国陸軍の暫定的大尉に任命され、
内外を問わずあらゆる敵から合衆国憲法を支持し擁護すること、
同憲法に忠誠を誓うこと、
この義務をいかなる精神的留保や忌避の目的もなく自由に負うこと、そして、
これから就く職務の義務を十分かつ誠実に果たすことを厳粛に誓います:

ジーン・レイモンド(サイン)



当初はB-17の偵察員として大西洋沿岸の対潜哨戒に従事。
次に情報学校に通い、卒業後の1942年7月に、イギリスに展開していた
第97爆撃隊に配属になり、同地に渡りました。

第97爆撃隊は、1944年になってからですが、
当ブログでも取り上げたルーマニアのプロイェシュチ爆撃、
そして一連の「ビッグウィーク」、フランティック作戦に参加しています。

具体的に彼の任務について記された資料が見つからないのが残念ですが、
ここでおそらく淡々と、偵察任務を果たしたのでしょう。

あっという間に第8爆撃機司令部の作戦将校補助
(アシスタントオペレーションオフィサー)に昇進してしまいました。



1943年にはアメリカに戻るも、軍隊に在籍し、B-17フォートレス、
B-25ミッチェル、B-26マローダー
の爆撃機、
戦闘機P-39エアコブラの操縦をマスターしました。

写真は、T-33シューティングスタージェット練習機のコックピットで
指導を受けるジーン・レイモンド大佐ですが、上記以外にも、
退役するまでT-39 セイバーライナー、KC-97 ストラトファイター、
KC-135ストラトタンカー、輸送機C-141 スターリフター
の操縦もしました。

もしヨーロッパの戦争が長引いていたら、その時には
自分が爆撃機の操縦席に座ろうと考えていたのでしょうか。

彼が、1942年のヨーロッパ戦線という、アメリカ航空隊にとって
暗黒の時期における実戦に参加しそれを知っていたことを思うと、
単純に、その勇気には感嘆させられますし、何より
これだけの機種の操縦を次々とこなすのは努力だけでは無理でしょう。

何をやらせても器用にこなしてしまうその才能は、
飛行機の操縦にも大いに発揮されたようです。


B-25マローダー移行クラスでのレイモンド。
若いクラスメートに混じっていると、どう見ても上官。


1943年、こちらは大尉時代のレイモンド。
司令の視察のようですが、今からB -25に同僚と乗り込むところです。

第二次世界大戦が終わった後、レイモンドは
1945年10月22日に少佐として現役を解かれましたが、
その後も予備役としてアメリカ空軍に留まりました。



そして1968年8月13日、5,000時間以上の飛行時間を記録し、
司令パイロットのウィングマークを授与され、
大佐として米空軍予備役から退役したのでした。

このアイゼンハワージャケット(通称アイクジャケット)は、
ロスアンジェルスのパシフィック・パリセーズ在住のリタイアした大佐、
ジーン・レイモンドが寄贈した、と書かれています。

パシフィック・パリセーズは豪邸が多く、
ハリウッドセレブなどが数多く住むことで有名な地域です。


■ ジャッキー・クーガン
「キッド」の子役から航空士官に



それでは、国立空軍博物館プレゼンツ、
「航空士官になったハリウッドセレブシリーズ」第二弾は、

ジャッキー・クーガン(Jackie Leslie Coogan)1914−1984

と言われても、こちらも聞いたことがないという方が多いかもしれません。
しかし、この写真を見ていただければお分かりでしょう。


チャップリンの無声映画「キッド」で捨て子の少年を演じました。
クーガンは映画史上初めての子役スターとなった人物ですが、
彼が巨額のお金を稼ぐと、母親と義父がそのお金を使い果たし、
彼には1ドルも残されていなかったことから、25歳になった時訴えを起こし、
その結果クーガン法(California Child Actor's Bill)が制定されました。

この法律によると、18歳以下の子役は、「クーガン口座」というのを持ち、
報酬総額の一定割合(15%)がその口座に振り込まれて、
保護されることが義務付けられています。


それにしてもこの可愛い子供がああなるのか、
と考えたあなた、こんなもので驚いてはいけない。



さらに時は過ぎ、1964年。
彼は「アダムス・ファミリー」のフェスター・フランプになっていました。
つまり、俳優としては、レイモンドより有名だったということになります。

さて、それでは彼はいつ、どんなきっかけで陸軍に入隊したのでしょうか。

■ フライトオフィサー ジャッキー・クーガン



ジャッキー・クーガンが陸軍入隊したのは1941年3月4日でした。
つまり、レイモンドやクーパーのように開戦がきっかけだったのではなく、
その前から志願入隊していたことになります。



彼の入隊の理由というのは、女優ベティ・グレイブルとの破局でした。
彼らの結婚生活は1937年から39年まで、たった2年間で終わりました。

失意のクーガンは、半ばヤケクソで陸軍に入隊しましたが(たぶん)
特に目標があったわけではなかったので、
軍隊では平凡な兵士、歩兵にでもなるのだろうと考えていたそうです。

しかし、入隊してみると、彼は他の兵隊より有利な点がありました。
俳優だったおかげで?個人的にパイロット免許を取っていたのです。

彼は大学を卒業していないため、学位が必要な軍パイロットには
普通ならばなれないのですが、戦争が始まったことで事情が変わりました。

大学を出ていなくても唯一パイロットになる道があったのです。
それがフライト・オフィサー=グライダーパイロットでした。

彼はテキサス、続いてカリフォルニア州のグライダー学校で訓練を受け、
卒業してフライト・オフィサーとなりました。

■フライトオフィサーとは

ところで「フライトオフィサー」というタイトルに違和感を感じた方、
あなたは大変鋭い。

このタイトルは、第二次世界大戦中、の1942年から1945年までの間、
アメリカ陸軍航空隊でのみ使用された階級です。

1942年9月に創設され、陸軍のグライダーパイロットに限り、
訓練終了後すぐさまこのタイトルを与えられ、グライダーパイロット、
航法士、航空機関士として勤務しました。

「ブルー・ピックル」と呼ばれたフライトオフィサーの徽章

限定的な階級であったため、第二次世界大戦が終了すると同時に
陸軍航空隊はフライトオフィサーの階級を廃止しましたが、
その時までに彼らは全員戦争中に士官に昇進するか、除隊していました。

普通部隊の階級でいうとウォラントオフィサージュニアグレード、
WOJGと同等で、今日の階級では准尉に相当します。

ちなみに大戦後、陸軍ではパイロット要員を確保するため、
フライトオフィサーの代わりに准尉を航空に確保する作戦を取りました。

このプログラムの養成士官はほとんどヘリコプターパイロットで、
年齢枠も広く、17歳から訓練開始することができたそうです。

■ グライダーパイロットとして

さて、クーガンはその後、有名なフィル・コクラン大佐によって結成された、
第1エアコマンドーグループでの危険な任務に志願します。

1943年12月、クーガンの所属部隊はインドに派遣され、
ビルマへの夜間空中侵攻(1944年3月5日)の際、
イギリス軍部隊をWACO CG-4Aグライダーを使って輸送し、
日本軍戦線の100マイル後方の小さなジャングルの空き地に着陸させました。

上の写真のクーガンの左腕には、「チャイナ-ビルマ-インド」
を表すパッチが装着されています。


ビルマに飛ぶ前の第一エアコマンドグループメンバー全員。
前列右で銃を持っているのがクーガンです。


WACO CG-4Aグライダー部隊の名簿。

CG-4Aが大きく評価されたのは、1944年のフランス空挺侵攻でしたが、
この部隊はその数ヶ月前にビルマのジャングルでの戦闘で使用していました。

寄贈者:ジャッキー・クーガン(カリフォルニア州パームスプリングス)


L-2連絡機の「ホップ」が終わった後、
飛行時間を記入しているクーガン。

このときのクーガンの戦地での戦いを書き表した文章があります。

地球の反対側のビルマでWACOグライダーの操縦席に座っていたジャッキーは
まさに兵士が経験したくない最悪の戦闘状況に陥っていた。

北大西洋より、冬のロシアより、一年中悪臭が漂う
パプアニューギニアより、ガダルカナル島の海岸より、彼の戦場は
第二次世界大戦における地球上で最も過酷な場所であった。

ミャンマー近郊の地域で兵士たちは、年間平均200インチのモンスーン雨、
熱中症、感染症、そして日本軍の銃弾と同じくらい
兵士を殺したり無力化したりする現地の病気に身を晒していた。

この夜、ジャッキーはジャングルの上空を暗闇の中、
別の飛行機に牽引されて、何か起こっても打つてのない上、
安全に着陸できる場所もなさそうなまま飛んでいた。

彼はチンディットと呼ばれるイギリス軍特殊部隊を満載した飛行機を
敵陣の後方100マイルまで安全に運び、
日本軍部隊の通信回線を遮断するという任務を負っていた。

この夜、ジャッキーはアメリカ空軍特殊部隊の一員として、
敵陣の背後に連合軍を着陸させた最初のパイロットとなった。

彼は巧みに、地元の原住民しかいない地域に機体を着陸させた。
しばらく後のインタビューで、ジャッキーは、着陸したとき、
特にグライダーの前部を開けてジープを運転して出てきたときは、
地元の人から神のように崇め恐れられたと述べている。

原住民のうち 2 人がジャッキーの後をついて回り、
毎晩バナナの葉で彼のベッドを作ってくれた。

4 日間、彼は疲れ果てていたが、特殊部隊の主力が着陸できるように、
より大きな滑走路を建設するために働いた。

しかし、空から来た「神」として原住民から扱われた。

ジャッキーは、主力部隊の到着は夜間だったとも述べている。
彼は、英兵とグルカナイフ使いからなる特殊部隊を誘導するために、
照明弾の設置を手伝った。

部隊を運ぶために合計 57 機のグライダーが送り込まれたが、
到着したのは 37 機のみで、戦闘部隊は 350 名ほどしか残らなかった。


この作戦の犠牲は甚大だったが、最終的に任務は成功みなされた。




クーガンは1944年5月に米国に戻り、12月に除隊しました。





■ クーガンが鹵獲した日章旗



スミソニアン所蔵のクーガンのフライトジャケットです。
それはどうでもよくて()ジャケットの下部分をご覧ください。



ビルマ戦線でジャッキー・クーガンは日章旗を拾って帰ったようです。
自分の現役時代に着ていたジャケットとともに博物館に寄贈したそれは、
ジャケットの下にくしゃくしゃに(しかも裏向けに)敷かれていて、
仮にも他国の国旗に対し失礼としか思えない展示をされていました。

この時も逆さまに持ってるし

添えられた説明によると、この日章旗の寄せ書きは、クーガンが
日本人将校(大佐)の遺体から盗んだ?ものだとのことです。

日本軍の上陸部隊は、インダウ近郊の北ビルマ鉄道を挟んだ
英国陣地を急襲し、結果として失敗に終わりました。
現地には日本軍の兵士たちの遺体があり、クーガンはおそらく
その中の高位と目される軍人の持ち物を「漁った」のでしょう。

これは当時戦地にいた多くのアメリカ軍人がやっていたことでした。

旗には”May you have new military fortune forever!”とあったそうで、
これはつまり「武運長久を祈る!」だったのではないかと思われます。

そして、興味深いのは、この寄せ書きをしたのは、

富山高等学校の級友一同
大阪帝国大学卒業生一同

と書かれていたということ。

帝大卒の予備士官がこの時期果たして大佐にまで出世できるものなのか、
この陸軍大佐の経歴を知りたいと思いましたが、それもなりませんでした。

せめて旗を広げて展示してくれていたら何か手がかりも得られたでしょうに。


続く。


ファーレン・ヒーローズ(ヘリ部隊戦死者の肖像)〜「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

エリー湖沿いにあるバッファローネイバルパークの展示より、
巡洋艦「リトルロック」艦内をご紹介しています。



兵員用の寝室を通りすぎ、次に進みます。
この廊下部分は鎖で通行禁止にされていました。
見学者は黄色い見学通路を表すラインのあるところしか歩けません。

廊下突き当たりに人の姿がありますが、そこは
見学通路のおそらく前方だと思われます。




大きめの縦型ロッカーがありました。
(兵員用のロッカーの一人分はせいぜい40センチくらい)

現在、キャンプ参加者が自分の使った後を掃除するための
掃除道具入れとなっており、箒とちりとりが一つずつ収納されています。

アメリカの教育現場では、日本の学校のように掃除をさせず、
それらは業者が行うことになっているのですが、
流石にボーイスカウトやこのようなキャンプでは自分で掃除をさせます。

「キャンプ終了時の区画の掃き掃除は各自の責任で行ってください。
ゴミはすべてゴミ箱に入れてください。」


という真っ当な?ことが書いてあって安心させられます。

キャンプ参加者だけでなく、例のシーカデットコーア
(青少年海軍組織)においても、この規則は厳密に守られ、
ロッカーの横には掃除をする場所が細かく明記された紙があります。

■ベトナムルーム


足元の黄色い線を進むと、次の部屋はベトナム戦争関連展示室でした。



この南ベトナムの地図ですが、北との国境より下の部分にあった
アメリカ軍の駐屯地を黄色いテプラで示しています。



左側の兵士のマネキンは、ベトナムでのフル装備。
首にタオルを巻いて、その端が軍服に固定できる仕様です。

全体写真のこのマネキンの足元には、
こみ袋のようなものが見えますが、これは
彼らがベトナムに装備していった「必需品」のようです。

■ 第282”ブラックキャット”強襲ヘリ中隊


この男性ですが、ダナンの近く、マーブルマウンテン飛行場に駐屯した
アメリカ軍のヘリコプター中隊、第282強襲ヘリ中隊、
通称「ブラックキャッツ」
のヘリパイロットの遺品をまとっています。

「ブラックキャッツ」は、ベテランのためのホームページを持っており、
その歴史を語り継ぐと同時に、戦死した仲間の顕彰を行っています。

ベテランの一人が始めたこのリユニオンは現在大きく実を結び、
今では600人もの名簿を持ちその名も「黒猫会」として活動をしています。


背中と尻尾の毛が(怒りで)逆立っている

つい宅急便を思い出すのが日本人

谷間を飛ぶヘリ部隊
使用機材はHUEY

「ブラックキャット・オン・ブラックキャット」
無理やりヘリの上に乗せられて怖がってる猫さん気の毒

ところでこのベトナムルームのマネキンが着ているスーツの持ち主ですが、
会報「黒猫ハウス」の記事によると、1968年5月10日、戦死した、

ジョセフ・A・レイクリン・ジュニアWO
Joseph A.Reichlin Jr.


であることがわかりました。

「レイクリン」という読み方は英語ならこうだろうという想像ですが、
ドイツ系だと「ライヒリン」「レイヒリン」とも読めるので、
もしかしたらアメリカでもこう発音していたかもしれません。

なお、WOは「ウォラント・オフィサー」の略で、つまり准尉です。

なぜこの人がクローズアップされているかというと、
それは彼が、ここバッファロー出身だったからです。



「バッファロー出身者二人を含む、戦死者最多の週」

とされたこの新聞記事には 、こうあります。

ベトナム戦争で最も血なまぐさい1週間で、
さらに2人のニューヨーク西部の男性の死亡が報告された。

アマースト通り569番地在住の
ジョセフ・A・レイクリン1/C准尉(22歳)
は、金曜日に乗っていたヘリコプターが撃墜され、死亡した。

また、着任して7日目の
ジェームズ・ヒル上等兵19歳)は、
土曜日の戦闘中に射殺され、先週のアメリカ人戦死者562人のうち、
この地域の戦死者は7名となった。

アメリカ人戦死者のトータルは戦争が始まって以来最高となり、
バッファロー出身の死者としてはこれが68人目と69人目となる。

レイクリン氏は、1月15日からダナンの第282突撃中隊で飛行する
陸軍ヘリコプター・ガンシップのパイロットだった。

ビショップ・ファロン高校を卒業後、1965年に
バッファロー州立大学で経営学の準学士号を取得している。

卒業後まもなく陸軍に入隊し、フォート・ポーク(ロスアンジェルス)、
フォート・ウォルターズ(テキサス州)、
フォート・ラッカー(アラバマ州)で訓練を受けた。

遺族は両親、ジョセフ・A・レイクリン夫妻、妹のダイアン・レイクリン。

バッファロー州立大は難易度でいうと5段階の3で、
64校あるニューヨーク州立大学群(SUNY)の本校です。
GPAも4.0満点の3.8ないと入れません。

なお、写真上のヒル上等兵(歩兵)については、以下の通り。

ヒル上等兵は1967年にイースト高校を卒業し、9月に陸軍に入隊した。

フォート・ディックス(ニュージャージー州)で基礎訓練を、
フォート・ベニング(ジョージア州)と
フォート・ジャクソン(サウスカロライナ州)で上級訓練を受けた。

ベトナムでは第26歩兵師団に所属。
遺族は両親、ジェームス・W・ヒル夫妻。



また、レイクリン准尉の死亡状況について書かれた別の記事によると、

ジョセフ・レイクリン准尉は、マーブルマウンテン南西、

トゥン・デュック付近で敵と交戦中に戦死した。

弾薬切れの中、ガンシップがドアガンで最後の追い込みをかけていた時、
レイクリン准尉は一発の銃弾に倒れた。

彼を乗せたヘリがマーブルマウンテンに帰投したとき、
Sp5ジェフ・ペレスが、報道陣に向かって、

「准尉の遺体の写真を撮ったらただじゃ済まさないぞ」

と威嚇したため、写真が撮られることはなかった。
乗組員は救護所でレイクリン准尉のために献杯を行なった。


ドアガンというのは、レイクリン准尉のマネキンの左上にある絵のこれです。


ヘリのドア付近のガンだからドアガンと言われています。
最初のドアガンはベトナム戦争の時に登場しました。


■ パラレスキュー「PJ’s」キング


ベトナム戦争といえばヘリコプター、のイメージがあります。

ヘリコプターがこの戦争で攻撃、輸送、そして救難とフルに活躍したのも、
ベトナムのジャングルの多い国土には最適だったからです。

飛行機の模型の後ろに飾ってあるのは、寄贈された
海軍ヘリパイロットが受賞した海軍メダルとリボンの数々です。

このコーナーで紹介されているパラレスキュー隊員、
別名「パラシュートジャンパー=PJ」ですが、米軍の全兵科にあり、
主に戦闘環境における隊員の回復医療を任務としています。

これらの特殊作戦ユニットはNASAのミッション支援にも使用され、
着水後の宇宙飛行士の回収にも使用されています。

NASAの宇宙ミッションに必ず海軍が協力するのはこのユニットが理由です。

彼らのモットーは、

"That Others May Live"(他者を生かす)

チャールズ・キング(これで23歳)


パラレスキューの偉大な伝統を体現した "PJ "の一人が、
アメリカ空軍の”ダグ” チャールズ・キング上級曹長でした。

1968年のクリスマス・イブのことです。

ラオスのバン・カライ上空でアメリカ空軍のF-105が撃墜されました。
パイロットのチャールズ・R・ブラウンリー少佐は脱出に成功し、
パラシュートは敵軍が占領している地域に着地したと目されました。

その時タイのナコンフェノム空軍基地の、
第40航空救助回収飛行隊に所属していたキング上級曹長は、
翌日12月25日、シコルスキー・シーキング捜索救助ヘリコプター、
HH-3E "ジョリー・グリーン・ジャイアント "
13号機と17号機2機のうち1機に乗り込み、直ちに現場へ向かいました。

現場指揮官は木立の中にパラシュートを発見し、
無線でブラウンリー少佐を呼び出そうと何度も試みますが、
返答はなく、ジャングルは暗闇に覆われて全く様子がわかりません。

夜間戦闘能力を持たない救難ヘリはNKPへの帰還を余儀なくされますが、
夜明けとともに「クリスマスに帰還を」目標に救難隊が再組織されました。

メンバーは、ウィリアム・キャメロン中佐(強襲隊司令官)、
ロバート・ヘロン大尉(副操縦士)、
ジャードロー・ケイシー軍曹(フライトエンジニア)、そして、
チャールズ・D・キング二等軍曹(パラ・レスキューマン)で、
全員が志願による参加でした。

地上から攻撃が始まる前にパラシュートの牽引を試みることにして、まず、
ヘリは木に引っかかっているパラシュートの上空にホバリングしました。

ケイシー軍曹は目視により、パラシュートの先にハーネスをつけたまま、
人がぶら下がっているのを確認しましたが、引っかかっているのが
地面からほんの2フィートの高さにも関わらず、全く動きません。

死亡している可能性もありますが、重傷で生きているかもしれません。
そこで、キング軍曹が森に降下し、救出することを申し出ました。

キングが降下を始めると、敵がヘリコプターに気づいて攻撃してきました。
最初はヘリを攻撃していましたが、キングに気づくと、彼を狙い始めます。

キングはブラウンリー少佐の身体からパラシュートを外すと、
パラレスキュー用のケーブルを装着し、引き揚げるよう合図をしました。

「撃たれた!撃たれた!引きあげてくれ!」

通常であれば、救助ヘリが前進飛行を再開する前に、
牽引している人は木の上まで引きあげられていなければならないのですが、
敵軍はすでに小火砲でヘリコプターそのものを狙ってきていました。

二人が木の上まで引き上げられるのを待ってホバリングしていれば、
間違いなくヘリコプターは撃墜され、
ブラウンリー少佐とキング飛行士は機体の下敷きになるでしょう。

指揮官キャメロン中佐はホバリングの中止を決定せざるを得ませんでした。

断腸の思いでヘリを上昇させる指令を下しましたが、
ホイストケーブルか何かが木に引っかかり、
何かが折れる音がしたと思った瞬間、キング軍曹とブラウンリー少佐の体は
約10フィート上空から地上に落下していました。

この落下で重傷を負い、敵の小火器による攻撃で負傷したキング軍曹は、
最後に無線でヘリの乗員こう呼びかけました。

" ジェリー、ここから脱出しろ。
奴らがもう俺の上に来ているから”
(ジェリーが何を/誰を指しているのかは不明)

ヘリコプターもダメージを負っていたのですが、やむなく上昇を始めました。
そのとき敵軍がブラウンリーとキングの上に群がっているのが見えましたが、
二人がいるとわかっている場所に攻撃を加えることはできませんでした。

その後、二日間にわたってキング軍曹らの捜索が行われましたが、
見つからなかったため、彼はMIA(任務中行方不明)扱いとなり、
そしてMIAとして上級曹長(Chief Master Sergeant )に特進しました。

二人に関するニュースはその後ずっと途絶えたままでしたが、
1986年2月、渡米したラオスの難民が、キング軍曹が捕まって、
トラックで連行されるのを見たと証言しており、その話の細部は、
そのアメリカ人がキング軍曹であると思わせるに足るものでした。

しかし、ブラウンリー少佐のその後についての情報はほとんどありません。



戦後、現地からチャールズ・ダグラス・キングの名前、兵役番号、
生年月日が書かれた身分証明書が発見されましたが、
元北ベトナム兵士で現地にいたという人の証言によると、

「パイロットがもう一人のパイロットをヘリコプターに引き上げていたが、
ケーブルが切れて、パイロットは二人とも死んだ。」

ということで、ヘリ乗員が知っている情報にとどまりました。




壁には、アメリカ軍の戦死者を意味する
「Fallen Heroes」のパッチが飾られていました。

チャールズ・キング上級曹長のエピタフは以下のようなものです。

あなたはもうこの世にいないかもしれない。

しかしあなたを知る人々の中にはいつもあなたの一部が生きている。
我々があなたを忘れない限り、あなたは生き続けるのだ。


続く。


ブルージャケット〜巡洋艦「リトルロック」艦内探訪

2024-12-05 | 軍艦

巡洋艦「リトルロック」艦内探訪を続けましょう。
ここは上甲板から1階下にあたるデッキですが、
ここからさらに1階下の「サードデッキ」にアクセスすることができます。

サードデッキにはダメージコントロールルーム、消防機関室、
下士官兵用理髪店、図書室(誰でも使用可)、
ベーシングコンパートメント(兵寝室)生鮮食品用の冷蔵室などがあります。

しかし残念ながら、安全上の理由でこのエリアは公開されていません。


説明がありませんでしたが、これはなんでしょうか。
上部が閉じてあること、大きな円形の継ぎ目があることから、
昔は何かに使われていたが、改装に伴い用がなくなった何か、と思いますが。


このドアの向こうは、「ウェポンズ・オフィス」
自衛隊だと砲雷科で、砲、ミサイル、魚雷を管理する部署の事務所です。

ドアに書いてあるWEPSはウェポンズの略ですが、アメリカ海軍では、
兵器システム士官を「ウェップス」と呼ぶ習慣があります。

旧海軍で砲雷長が「テッポー」と呼ばれていたようなものでしょう。

映画「クリムゾン・タイド」で、「ウェップス」と呼ばれていた士官、
インス大尉も、役職名があだ名になったパターンです。

当ブログ読者にも同名の方がおられるわけですが、映画感想サイトなどでは
これを個人名だと思って観ているような書き方がよくされています。

ついでに、自衛隊では砲雷科の長は砲雷長(3佐or1尉)であり、
その下に砲術(砲、ミサイル)と水雷(魚雷、ソナー)があり、
砲術長、水雷長をトップとして、その下に砲術士、水雷士がいます。

■ 乗員寝室




次のコンパートメントは、クルーズ・クォーターズ、兵寝室です。

2nd Division Crew's Quarters

ここに金属寝台とマットレスは80名分あります。


そして通路に面したこの「コフィン・ロッカー」(棺桶ロッカー)が
一人分開けられ、兵員の持ち物が展示されていました。

説明によると、展示されているものは当時よりアップデートされており、
今日の海軍で使用されているものと似ている、ということなのですが、
見たところ少なくとも電子デバイス関係のグッズが全くないことから、
「最新」とは言えないのではないかと思います。

しかし、海軍艦船内で私物を置くスペースが限られているのは事実。

クルーには「ラック」として知られる6×2フィートの「棺桶ロッカー 」、
そしてそれとは別に制服を収納する縦型ロッカーが一つずつ与えられます。

この頃と現在の違いは、現在では「プライバシー」保護のため、
ベッド三方にカーテンが引け、個人スペースが確保されることです。

半分のスペースにはタオル、シーツ類、
「二等兵曹に求められる兵員義務」海軍履修用「基礎電子工学」、
そして「ブルージャケットのマニュアル」という本があります。

ブルージャケット=Bluejacket

は、海軍の下級兵の別名です。

海軍下級兵としての基礎を書いた本で、いずれにしても
この寝台の主は真面目な海軍水兵であることがうかがえます。

しかし、一人の水兵に与えられる保管場所はここが全てではありません。
勤務現場に配置された水兵は、通常、その任務内容に応じて
悪天候用の装備とか、甲板で必要なギアとかを収納する倉庫を

保管場所として確保することができるからです。

「セカンド・ディビジョン(第2部門)」である特定の居住スペースには、

最大80人の乗組員を収容することができ、ここは乗組員によって
「berthing(停泊所の意)」とか「coop(小屋)」と呼ばれます。



石鹸や洗面セット、毎日濡れるものもここに入れるんだ・・・。
タバコもちゃんとワンカートン買い置きしているんですね。

畳んである作業服のネームによると、ロッカーの主はギルマン君。
ここにも「ブルージャケットのマニュアル」なる本が見えます。



一番右は下着と水兵用の「ブルージャケット」、そして靴。
下着の横に靴を入れるのはアメリカ人的にはアリなのね。


三段の垂直寝台で、寝台下が六つのラックとなっているというこの仕様は、
おそらく現代のアメリカ海軍も変わっていないと思われます。

当たり前ですが、海軍艦艇のスペースは大変狭いものです。
しかしながら、ほとんどの時間、特に日中、
乗組員はあちこちに行って準備をしたり、任務に当たったり、
あるいは「リバティ」(上陸休暇)で留守をしている者もいるでしょう。

全ての乗組員は、昼も夜も「12時間オン、12時間オフ」で任務を行います。
艦上のスケジュールは決まっているため、通常、
海上ではこの部屋の半分だけが使われている状態で、
残りの半分の人間は稼働し、一斉に寝台が埋まることはありません。

■ キャンパーに告ぐ!



「リトルロック」では、ほとんどのアメリカにある展示艦と同じく、
艦内で一泊して艦上体験をするキャンプを実施しています。

キャンプインフォメーション

バッファロー海軍公園のUSS 「リトル ロック」で夜を過ごしましょう。
当施設の夜間青少年キャンプは、スカウト、青少年グループ、
友人同士、家族で参加できるユニークな冒険です。

一晩のキャンプ中に、次のようなことができます。

–「リトル ロック」の乗組員が実際に住んでいた、復元された寝室で眠る
– 乗組員食堂で夕食と朝食を楽しむ
– USS「リトルロック」、「ザ・サリバンズ」、「クローカー」を見学する
– 艦上生活について学ぶための教育プログラムやアクティビティに参加する
(教育プログラムは異なる場合があります)

春のキャンプセッションは 4 月〜6 月の各土曜日
秋のセッションは 9 月〜11 月の各土曜日に開催

一部の「ファミリーフライデー」はシーズン中いつでもご利用いただけます。

セッションの空き状況は天候によって決まる場合があります。

料金: 1 人あたり 75 ドル
集合時間:土曜日午後 4 時
解散:日曜日午前 10 時
 (参加者は日曜日の営業時間中に海軍公園への入場自由)


楽しそう

で、ここは実際にキャンパーたちの宿泊に使われているため、
彼らに対し、特に人身事故について以下の注意がありました。


すべてのキャンパーに告ぐ!

万が一人身事故が発生した場合、部隊の応急手当係が応急手当を行います。

すべての負傷は深刻であり、直ちに
ENCAMPMENT DUTY OFFICERに報告され、
すべてのケースで事故報告書に記載されます。

お客様の安全と安心は私たちにとって非常に重要です。

わからない場合は911にコールしてください

■ ブルージャケッツ


先ほど海軍の下級兵士を「ブルージャケット」と称すると言いましたが、
このクォーターを出たところに、こんなポスターがありました。

その名もズバリの「ブルージャケット」。



海軍によるブルージャケットの任務内容についてのポスターです。
白黒であることからかなり昔に制作されたものだと思います。
せっかくなので全部紹介していきましょう。


と思ったら、なぜかこの10から始まっています。
どうも右半分の1から9までは欠損しているようですが、仕方ありません。


10. 射的訓練(Target Practice)

射撃戦のために、新兵は兵曹長から個別にライフル銃の指導を受けます。
CPOの左袖 の「ハッシュマーク」は16年の経験を示しています。

ベテラン下士官の袖にはラインが4本。
1本が4年在籍を表すのでもう立派な洗濯板です。



11.水泳中(In The Swim)

昔から「泳げない水兵」についてのジョークはたくさんありますが、

(もちろん悲劇も)
新しい海軍では、ブートキャンプ前に50ヤード泳げるようになること、
これが全ての者に対し厳しく定められています。



12. バレーボール(Volly Ball)

新兵のエクササイズ量は大変多いものです。
バレーボールはもちろん肉体的な訓練の意味もありますが、
大抵は単純に楽しいものとして皆の人気です。
ボクシング、レスリング、綱引き(!!)も海軍で人気のスポーツです。


綱引きか・・・まあロープならいくらでもあるしね。



16. 適性検査(Aptitude Test)

適性検査は、訓練生がさらに専門的な訓練を受け、等級を取得するか、
新兵学校を卒業後、すぐに海へ出るかを決めるのに役立ちます。

いきなり16まで飛びました。
おそらく左ページに13から15までがあったようです。



17. ヒービング・ザ・リード (Heaving saw Lead)

新兵は、浅瀬で船底を探るために、この伝統的な方法を学びます。
ニューソニック測深機に加え、リードは今でも海軍でよく使われます。

海深を図る方法として、この頃の海軍の新兵たちは
「ヒービング・ザ・リード」という昔ながらの方法を学んだようです。

大航海時代からイギリスの船乗りに受け継がれてきた方法で、
水深を測るのにサウンディング・リード(鉛の錘がついた紐)を使います。

船員(「リードマン」)は、入港時、できるだけ前方にリードラインを投げ、
リードが着水した場所に船が近づくと、ライン上のマークを数えます。

マークはその海域の水深を表しているので、それを水先案内人に伝えます。

この「ヒーブ・ザ・リード」Heave the leadという言葉は
そのまま日本語で「水深を測る」と訳されます。

また、この鉛のついた紐のことを、日本語では手用測鉛といいます。

ただ、今のアメリカ海軍ではこんな悠長なことはやっていないでしょう。
近年では海底地形図を即座に測定作図する


MBES(マルチビームエコーサウンディング、音響測深)

もありますし。



18. 手旗信号(Semaphore)

一人の新兵が文字「Q」を手旗信号で送信し、
もう一人が受信をワッチします。
手旗信号、ブリンカー(発光信号)および信号旗、
これらは海軍で艦船同士視覚的に信号を送るための方法です。


22. 出発準備完了(Ready to Go)

新兵訓練が終わると、「ブルージャケット」たちは艦隊、
そして海上勤務に就くために汽車を待ちます。

彼らが汽車に積み込む荷物が整然と並べられています。



23. 上級学校(Advanced School)

 海軍は技術的スキルを持った人材を必要としているため、 
多くの新兵が上級学校に送られていきます。

この写真は、航空機械工学校での実技指導のシーンです。


24. 出航(Going to Sea)

ついにビックモーメントがやってきました。
彼らが海上任務につく日です。
乗艦する水兵たちは、まずクォーターデッキに向かって、
次にこの写真のように甲板士官に向かって敬礼を行います。

そして出航です

The voyage begins.


続く。


アイクとリトルロック〜巡洋艦「リトルロック」艦内展示

2024-12-01 | 軍艦

タロスミサイル搭載艦「リトルロック」に乗艦し、
甲板から一階下のデッキを探索しています。

兵員用、そしてチーフ用に分けられた食堂を見ながら歩くと、
このようなドアが現れました。

■ 海軍候補生隊控え室



U.S. Naval Sea Cadet Corps
USNSCC

というパッチがドアに貼られています。
「リトルロック」に乗艦したときから気がついて言及してきた、
アメリカのユース海軍、日本でいうと海洋少年団である組織、

アメリカ海軍候補生隊

のオフィスがここにあるようです。
正確にいうとこの組織は年齢に応じて二つに分かれており、

10歳〜13歳まで NLCC
13歳〜18歳まで NSCC

となっています。
以前にもお話ししたように、これはガチの海軍下部組織なので、
指導には本物の軍人が当たりますし、なんちゃって訓練などではなく、
SEAL訓練、EOD(爆発物処理)訓練、ヘリ捜索救助訓練などのほか、
音楽トレーニングやフォトジャーナリズム専攻もあります。


活動報告を兼ねた秋コースの参加勧誘コーナー。
このポスターの下に連絡先を書いたスリップがあったのですが、
もうこの段階では希望者によって全部取られています。

そして、つくづく驚くのが左下の少年の写真。
おそらくまだ中学生だと思うのですが、彼は士官候補生の訓練で
射撃技能を認められ、狙撃資格を取得した凄腕スナイパーです。

自衛隊のイベントで装備を紹介するために銃を持たせただけで
大騒ぎになるどこぞの国とはえらい違うものですね。
まあ、銃の所持については両国の根本的な姿勢が違うので、
これはどちらがいいとか悪いとかの話ではありませんが。

■ 海水ストレーナー



艦船内で赤くペイントされたものがあれば、
それは消火関係と相場が決まっている・・・と思ったのですが、
ここにある説明によるとこれは、

クイック-クリーニング(海洋)ストレーナー
Quick-Cleaning( marine) strainer

キッチンで使うザルのことをストレーナーといいますが、
これはつまり、ホース、ノズル、ノズルの先端を詰まらせる原因になる
海洋生物、スケール(水アカ)付着物などの異物を除去するものです。



上部はパイプに繋がっていて、作動させるときには
この二つのハンドルを目一杯回転させます。

■ ストーク・バスケット・リッター


ストレッチャーが、なぜか甲板より下の階に。
上甲板にはミサイル関係の装備が多すぎて、置けなかった?

ところで、わたくし初めて知ったのですが、この担架、

ストークス・バスケット・リッター(ストレッチャー)
Stokes Basket Litter(Storetchers)


というそうです。
「リッター」だけで、救助用バスケットを意味する言葉で、
一般的にステンレスで作られた救助用担架のことです。

ストークスというのは、もともと陸軍航空隊のパイロットだった
ローウェル・ストークスによって設計されたことから来ており、
「ストークス」でこれだと通じるほど一般化された名称です。

通常、大人を仰向けの姿勢で運ぶことができる形状になっていて、
障害物やその他の危険がある場所で使用するように設計されたもの。

アメリカ海軍は何十年にもわたってストークスを使用してきました。

用途としては、捜索救助活動、狭い廊下や出入り口を通した患者の搬送、
船間の患者の移送、患者の(ヘリによる)垂直避難などですが、
ヘリでの牽引の際、ブレードからの下降気流で激しく回転するという
輸送される人に意識があったら無茶怖い欠点があります。

Gopro helmet mounted footage of Stokes basket rescue from NCL Ship
これは回らずに引き揚げられた模様

■ ヘッド




ストレッチャーの横のドアは、「メールヘッド」。
もちろんお分かりのように「男の頭」ではなく男子トイレです。

なぜ船のトイレに限り「ヘッド」なのかについては、
当ブログでは何度も説明しましたが、ここの説明によると、

「船のトイレを指す『ヘッド』という 用語の使用は、
少なくとも 1708 年に は遡ります。

この用語は、通常の船員用のトイレエリアが船の「ヘッド」、
=船首に設置されていた帆船に由来しています。

帆船で、この位置にトイレがあることは 2 つの理由から合理的でした。

第一に 、当時のほとんどの船の構造にあります。
帆船は風に向かって航行 することができません。
つまり、風は常に船の後方からやってくることになり、
船首はこのためいつも風下にあるということになります。

トイレを風下に置くことでニオイ対策をしたのです。

第二に、トイレを清潔に保つ(極力)工夫です。

喫水線より少し高い位置に設置することで、
床面付近に設けられた通気孔やスロットが、波を適度に受け、
水洗式となって洗い流してくれたのでした。

これは、海が荒れているときにはトイレは危険な環境になり、
下手すると人が危ないこともあったという意味かと思われます。


■ ウォーターライン基準マーク


注目していただきたいのは、左のバッテリーボックスではなく、
その右側の丸いプレートです。

WATERLINE REFERENCE MARKS
(喫水線基準マーク)


気をつけてみれば、このプレートは艦内の隔壁に取り付けられています。
これはウォーターライン(W.L)とこのマークの相対的な位置関係を表し、
例えばここにあるプレートは、ウォーターラインがこのマークの40フィート
(12.192m)下にあることを示しています。

■ アイゼンハワーの「平和のための提言」


B-203-L

というのは艦内における現在地を表すアドレスです。
その下にある説明なので、てっきりその数字の見方と思ったのですが、
全く関係のないアイゼンハワー閣下のお言葉でした。

「平和を維持する上で極めて重要な要素は、我が国の軍事施設です。
我々の武器は精強かつ即応の準備ができていなければなりません。
潜在的な侵略者が自らを破滅の危険を冒す誘惑に駆られることがないように。

巨大な軍事組織と大規模な兵器産業という組み合わせは、
アメリカの経験において新しいものといえます。
総合的な影響ー経済的、政治的、精神的な影響さえも含めたそれらは、
全ての州会議事堂、全ての連邦政府においても感じられます。

我々は、この発展が必要不可欠であることを認識しています。
しかし、その重大な意味を理解し損なってはなりません。

我々の労苦、資源、生活のすべては関係しあっています。
私たちの社会の構造そのものも同様でしょう。

政府の評議会において、求めようが求めまいが、
軍産複合体による不当な影響力の獲得を警戒しなければなりません。
見当違いの権力による悲惨な台頭の可能性は、存在し、今後も続きます。

この組み合わせの重みが、我々の自由、そして
民主的プロセスを危険に晒すようなことがあってはならないのです。
何事も 当然のことだなどと考えるべきではありません。

用心深く、知識豊富な国民だけが、安全と自由を共存繁栄させるために、
巨大産業および軍事防衛機構と我々の平和的手段と目標を
適切に組み合わせる ことができるのです。」

ドワイト・D・アイゼンハワー


一言でまとめると、

「平和のために抑止力の獲得は必要であるが、
企業と軍事力を暴走させず民主的な声によって慎重に制御せよ」

ってことかと思います。

■ アイゼンハワー大統領とリトルロック高校事件

アイクの政治的立ち位置については、
原爆投下に関しては強硬に反対の立場で、戦後も否定的だった、
という話から、日本人としては悪い印象を持っていませんでしたが、
軍産複合体に対して不信感を持っていたという噂も、
このスピーチで実証されているといえそうです。

そして、なぜここに彼の言葉がわざわざ貼ってあるかは、
以前当ブログでも取り上げた、リトルロックでの人種差別問題、
「リトルロック高校事件」の際、事態の収集命令を意識的に
白人至上主義者の民主党知事が無視したため、
101空挺師団を送り込んで黒人学生を護衛させたからかもしれません。


US 101st Airborne Division guards arrive at Little Rock High School during Operat...HD Stock Footage

最強の空挺団に護衛された学生たちにちょっかいかける学生なし。

1957 SPECIAL REPORT: " LITTLE ROCK"
動画は主がアカウント削除されたせいで見られませんが、
内容は、リトルロック高校の生徒代表が自主集会で、

「学校は分離教室制度(有色人種を分けること)にするべきだ」

というと、後ろで白人学生がキャーキャーと支持の叫びを上げ、
代表の生徒は言い終わった後、言ってやったぜ!みたいなドヤ顔をし、
記者はなんとも言えない複雑な表情をしているというものです。

これが、大人が気を遣って言えない、白人の本音だったのでしょう。

当時の世相ではおそらくその後価値観が大逆転して
このときの「正義派」が人種差別者として糾弾される日が来るとは、
おそらく誰も思っていなかったと思いますし、穿ったことを言えば、
アイクがもし再選を狙っていたら、この措置に躊躇ったかもしれません。

アメリカの教育現場での人種差別は根深くあり、これから20年後、
1970年代に統合を行ったボストンの学校では、黒人生徒が暴行を受け、
スクールバスが燃やされるという事件が起こっています。

そんな世相の中、よくやったアイク、というのがわたしの素直な感想です。

続く。




海上自衛隊東京音楽隊第64回定期演奏会 @文京シビックホール

2024-11-28 | 音楽

去る11月25日、海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会を拝聴しました。

冒頭の絵ですが、この日演奏会で独奏を演じたソリスト二人です。
前日、別ログのためのイラストを仕上げたばかりで、
Apple Pencilがスタンバイしていたので、ふと描いてみました。

過去、実在した軍人のイラストを多数描いてきましたが、
現役の自衛官を描いたのは当ブログ史上初めてのことになります。

ただし、太田一曹は演奏の時、飾緒をつけておらず、
エポーレットのある制服も着ていなかった気がします。

参考にしたのは音楽まつりの時の映像ですので念のため。


今回定期演奏会が行われた文京シビックホールは、
文京区役所の敷地内に備えられた多目的ホールです。

何を隠そう、わたくし渡米前は文京区小石川在住であったため、
ここで婚姻届を出し、何ならMKの出生届もここで提出しております。

なので、大変思い出深い場所なのですが、今回久しぶりに訪れてみれば、
後楽園の駅横全体が「ラクーア」というモールになっていて驚きました。
昔は本当にこの辺り、気の利いたレストランなんて何もなかったですよ。

ついでに、昔MKをベビースイミングに連れて行ったプールは、
「アソボーノ」という子供の遊び場になっていて、内部写真によると、
プールのあった場所がそのままボールプールに変わっていました。

■ 管弦楽曲の吹奏楽編曲

この日のプログラムは序曲を除き、全て管弦楽曲の吹奏楽編曲版でした。
これは吹奏楽団としてはかなり変則的な試みであると思います。

前もって予告されていたのはピアノ協奏曲と「ローマの松」でしたが、
この選曲を見ただけで、激しく期待せずにはいられませんでした。

実際、当日のプログラムを見たら、それは
一般の管弦楽団の定期演奏会のそれであると言われても
何の違和感もないくらいのラインナップだったからです。

一応ご存知でない方のために説明しておくと、
管弦楽と吹奏楽の違いは弦楽器の有無です。

吹奏楽にはコントラバス以外の弦楽器は含まれず、
管弦楽でバイオリンが演奏する部分を、吹奏楽ではクラリネットが持ち、
管楽器では不可能な高音域の持続音やピチカートなどは、
別の楽器を使用したりタンギングなどで代用して原曲に近づけます。

吹奏楽アレンジがよくできているため定番化されることもあり、
超有名なところではチャイコフスキーの「序曲1812年」とか、
ムソルグスキーの「展覧会の絵」とか、エルガーの「威風堂々」とか、
この辺りになると演奏回数においてもどちらが元祖かわからないくらいです。

この日のメインプログラムとなった、レスピーギの「ローマの松」は
「ローマ三部作」の「ローマの祭り」と共に、
吹奏楽が定番化した曲の一つといえましょう。


🎵 吹奏楽のための序曲 
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトロメイ

MENDELSSOHN Overture in C for Winds, Op. 24 - "The President's Own" U.S. Marine Band

米海兵隊バンドの演奏が見つかりました。
(海兵隊バンドという先入観のせいかもしれませんが)キレのある演奏です。

この日、司会のハープ奏者、荒木美佳二曹の解説で、
「メンデルスゾーンがこの曲を作曲したときは15歳だった」
ということを聞いて、一瞬だけ驚いてしまったのですが、よく考えたら、
実はメンデルスゾーンってば超早熟の天才児だったんですよね。



超富豪(銀行家)のおぼっちゃまで、音楽、絵画、何ヶ国語もペラペラ、
ついでに親の財力で当時の有名人(ゲーテとか)と付き合いがあった彼、
「幸福な音楽家」のキャッチフレーズは伊達ではなかったわけですが、
寿命だけはそれを帳消しにするように早逝(37歳、脳溢血)しています。

しかし、若くして亡くなった割に作品数が多いのも、
音楽家として活動を始める時期が早かったからでもあります。


フェリックス12歳

わたくし、高校生の時の自由論文で音楽家の裏話を集めて書いたことがあり、
その中でメンデルスゾーンについて、

「確かに彼の一生は幸福であったが、ドイツのユダヤ人だった彼が
もう少し遅く生まれていたらきっとそれどころではなかっただろう」


なんて締めくくってみたものですが、後から知ったところによると、
ヨーロッパのユダヤ嫌いは「ベニスの商人」を紐解くまでもなく根強く、
メンデルスゾーン家はそのために迫害を受けたりもしています。

つまり余人には窺い知れぬ民族的な宿命を負って生きていたわけですから、
後世の人間が金持ちとか才能だけで決めつけて、
「幸福な音楽家」とか人の苦労も知らずに勝手に言ってんじゃねえ、
と、本人は草葉の陰で思っているかもしれません。

この吹奏楽のための序曲ですが、メンデルスゾーンが15歳の夏、
家族でバルト海沿岸に避暑に行き、そこで依頼でもされたのか、
現地の吹奏楽団のために作曲したものだそうで、おそらくは
サラサラ〜っと、数日で完成させたのではないかと思われます。

避暑地のバンド編成に合わせて作曲された1824年版は小編成でしたが、
本人は大人になってから「序曲」として編曲しなおし、
この時には打楽器フルセットも加えて、現在残っている構成になりました。

この日の演奏は、もちろんこの1838年版によるものです。

🎵グリーグ ピアノ協奏曲 イ短調 Op.16

Edvard Grieg: Piano Concerto in A minor (Víkingur Heiðar Ólafsson)

前半最後は太田紗和子一等海曹のソロによるグリーグのピアノ協奏曲。

同じ吹奏楽版を貼ろうとしたら、唯一見つかった動画
(インディアナ吹奏楽団)が転載禁止だったので、代わりに
最近の推しピアニスト、ヴィキングル・オラフソンの名演を貼ります。

若々しく無謀なくらいスピード感に溢れる演奏で(そのせいか
第一楽章ではっきりとミスしていますが)とにかく聞いていて気持ちがいい。

おそらくカデンツァが凄まじすぎたせいだと思うのですが、
1楽章が終わったところでスタンディングオベーションが始まってしまい、
こういうのを嫌うはずの奏者も、指揮のアシュケナージも拍手を始め、
当人も仕方なく?途中なのに立って挨拶する始末(笑)


それにしても、ピアノ協奏曲としてあまりに有名なこの曲、
こんな曲の吹奏楽バージョンがあったのかと驚きましたが、
探してみたら洗足学園音大の宍倉晃氏編曲の譜面が出版されていました。

本日演奏がこのバージョンかどうかはわかりませんが、
いつもの聴き慣れた曲の吹奏楽版はとても新鮮で興味深かったです。

太田一曹はこの大曲を全体的に軽やかにかつ力強くまとめていたと思います。
第一楽章のカデンツァのテンポプリモから主題の部分などは
全く緊張感を途切れさせることなくメロディを制御していたのは見事でした。

そして吹奏楽も、ソリストの演奏をうまく引き立たせており、
グリーグ特有の民族的な響きが管楽器から感じられました。

ただ、オリジナルの管弦楽の響きが刷り込まれている耳には、
ピアノに対してバンドの音量が強すぎるように感じる部分もありましたが、
これは普通に構成楽器の「誤差」範囲と考えます。


それにしても、軍楽隊にコンサートピアニストが所属しているって、
世界でも珍しい例なんじゃないか?と思い、調べてみたのですが、
「コンサートピアニストで陸軍州兵将校」という例が見つかりました。

Chicago's Hidden Gems: A concert pianist who serves his country 練習は一日4時間確保

「ヒドゥン・ジェム」は「隠れた宝石」という意味です。
このイアン・ギンデスというピアニストは、現役の州兵将校でもありますが、
こうやってニュースに取り上げられるのは、それが珍しいからです。

自衛隊音楽隊のヒドゥン・ジェム、太田紗和子一曹の場合は
「軍楽隊所属のコンサートピアニスト」なので、
もしかしたら世界唯一の存在かもしれませんね。


前半はここで終了しました。
この日のシビックホールは、不思議なくらい観客が少なく、
まるでコロナ中の頃のように席が均等に空いているのです。

これはもしかしたら去る11日の掃海艇沈没と関係あったかもしれません。

「うくしま」火災についての防衛大臣会見

🎵 歌劇「アイーダ」より 凱旋行進曲とバレエ音楽 
ジュゼッペ・ヴェルディ

【淀工吹奏楽部】歌劇「アイーダ」第二幕より 凱旋行進曲とバレエ音楽(2022)

歌劇「アイーダ」の「凱旋行進曲とバレエ音楽」というレパートリー。
このビデオをご覧になった方はお気づきのように、
この曲には管楽器のバンダ(ステージ以外で演奏するグループ)が付きます。

正式にはアイーダ・トランペットと呼ばれるエジブト風トランペットが6、
ハープもバンダとして加わります。

この日のバンダには、音楽隊以外の演奏者が何人か含まれていました。

🎵 「アイーダ」より「清きアイーダ」

Enrico Caruso - Celeste Aida 1906 - Restored 2023

いろんな歌手が歌っていますが、カルーソーの1906年演奏を選びました。
音質最低です。

しかし、これが日露戦争の翌年でHMS「ドレッドノート」が進水式をし、
ドイツではUボート第一号が進水(海軍限定歴史)した頃と考えれば、
この時代の録音が残っていることそのものが奇跡的と思いませんか?

Celeste Aida (Aida) Luciano Pavarotti, Teatro alla Scala, Milano, 1986 こちらはパヴァロッティ

古代エジプトが舞台の「アイーダ」は、当時のエジプト総督から
スエズ運河開通記念事業として依頼された作品だと信じられてきましたが、
実はヴェルディはその依頼を断っており、厳密には
スエズ運河ともオペラ劇場柿落としとも関係ない別件の依頼です。

当時のエジプト総督は、誰でもいいからヨーロッパの有名どころに
エジプトを舞台のオペラを作らせて自分の手柄にしたかったようで、
「ヴェルディでなくてもワーグナーでもグノーでもいい」
と脚本家に宛てた手紙でうっかり本音を書いたところ、
脚本家が(意図的に)ヴェルディにそれをチクったため、
ワーグナーの名前を出されてムラムラと競争心を燃やしたヴェルディは、
法外な作曲料よこせとか、全て自分が権限を行使できるようにしろとか、
めんどいからカイロでの初演には立ち会わないとか、
全ての上演権は俺のものとか、とにかくお前何様?みたいな条件で
ふんぞりかえって作曲を引き受けたという経緯があります。

ちなみに、「アイーダ」に対し、ミラノの批評家からは
「ワーグナーの影響ありすぎ」「ワーグナーの模倣」と言われてしまい、
ヴェルディは深く傷ついていたということです。繊細さんか。

説明が長くなりましたが、この「清きアイーダ」というアリア、
エジプト軍の若き軍隊指揮官ラダメスが、相思相愛の仲である
奴隷のアイーダを称えて第一場で歌うロマンチックな歌です。

この日の橋本二曹の演奏は、その立ち姿と堂々とした声量が相まって
恋する人への熱い思いを歌う軍隊指揮官の姿がよく表現されていました。

ちなみに劇ですが、ラダメスはアイーダの思いを受け入れたことから
意図せず軍機を敵に漏洩してしまい、それで死刑判決を受け、
実は敵軍の王の娘で、情報を父に渡していた当のアイーダは、
ラダメスが閉じ込められた石の墓に一緒に入り、死んでいきます。

🎵 交響詩「ローマの松」Pini de Roma オットリーノ・レスピーギ

交響詩「ローマの松」 O.レスピーギ作曲 NHK交響楽団

この曲の第3部に、ナイチンゲール(夜鶯)の鳴き声が入るのですが、
作曲家自身の指定で、「ここではレコードをかけること」
と決まっていて、レコード番号の指定まであるのです。
初演の通りの再生機で指定のレコードをかけるという、
ものすごくこだわったことをしているN響の演奏を貼ってみました。
レコードの再生は15:00からです。

で、この日のナイチンゲールの鳴き声、どうやっているのか、
一生懸命オペラグラスで見ていましたが、結局わかりませんでした。

打楽器の奏者がステージの右隅に移動していたので、
そこに何か再生装置?があったのかもしれません。

Pines of Rome / Ottorino Respighi ローマの松 龍谷大学吹奏楽部

第二部「カタコンバ付近の松」では、地下墓地(カタコンベ)の付近を通ると
どこからともなく聞こえてくる聖歌が表現されているのですが、
3:00〜くらいから確かにグレゴリオ聖歌っぽいのが聞こえてきます。

🎵 「イッヒ・リーベ・ディッヒ」グリーグ

Charles Danford – I Love Thee (Ich Liebe Dich)
アンコールに橋本二曹が太田一曹の伴奏で歌ったのが、この小品です。
(実はわたしここで三宅由佳莉2等海曹が登場すると思っていたのですが。
この日彼女の演奏が聴けなかったのは残念でした)

♩あなたは私の思い、私の存在であり、私の未来
あなたは私の心の最初の喜び
この世の何ものにも代え難くあなたを愛す
時の流れの中で、永遠にあなたを愛す

この歌詞を書いたのはあの童話作家アンデルセンです。
ピアノ協奏曲の作曲者の作品ということで選ばれたようです。

🎵 行進曲「軍艦」瀬戸口藤吉

行進曲「軍艦」の演奏で、定期演奏会は終演しました。
ピアノ協奏曲にオペラの一節、そして交響詩と、どれをとっても
大変意欲的で聞き応えのあるプログラムだったと思います。

植田隊長率いる東京音楽隊が、ますます新しい境地を開いていくことを
期待せずにいられないこの日の演奏会でした。

終わり

USS「ハロルド・J・エリソン」〜ミッドウェイの英雄のための

2024-11-25 | 軍艦

バッファローはエリー湖の辺りに位置するネイバルパーク。
ここに展示されている艦艇の内部をご紹介しています。
今、タロス巡洋艦「リトルロック」の甲板階(セカンドデッキ)を

艦尾から順番にメスデッキ、CPOデッキなどの見学をしてきました。

ファーストクラス・メス



このコンパートメントは、艦内地図によると、
「ファーストクラスメス」つまり上級下士官用ダイニングだったところです。

ペティオフィサーファーストクラスとはE6、
二等兵曹の上、チーフペティオフィサーの下となります。

下士官クラスの二番手ですが、ちゃんと彼らのために
特別のダイニングルームが用意されています。

それぞれの階級とその任務に強い矜持を持つ米海軍下士官ですが、
レディットという英語のチャットを漁ったところ、
「ファーストクラスメス」というスレでこんなことを言っている人がいました。

「ファーストクラスメスってなんの冗談だ。
チーフになれないけど特別扱いはされたいE6の群れだろ」


また、E6として着任した経験のある人は、

「私と何人かの同僚は、着替えを済ませた後、すぐにFCPOA
(ペティオフィサーファーストクラス)のミーティングに参加させられ、
そして"メスへようこそ!!! "という扱いを受けた。
そして私たちは『E6とはこういうものなのか』と実感した。

覚えておいてほしいのは、新入りのE6は、

LPO(Leading Petty Officer、伍長?)の役割に落ち着くまでは、
給与を上げることを(上が)余儀なくされない限り実質E5だということだ。

なのにその、まるで高級カントリークラブのような雰囲気は、

奇妙で、私たちを混乱させるに十分だったし、
一緒に働いていたE6もそれに加わっていたので、さらに居心地が悪かった。

私はそういうのが全く好きではなかった。


しかし、当時のFCPOAのリーダーたちが、実際に司令部を動かし、
会費を使って積極的にイベントを立ち上げていたことは知っている。

人々が正しい考え方を持っていれば、悪いことばかりではない。
それが船の士気を高めるために使われるのであれば、純粋に役にたつ。

ただ、艦内を歩いていて、ファーストクラスとそれ以外を分ける
メスデッキを見るたびに、私はゾッとしたものだ。

ファーストとそれ以外の乗組員との待遇の違いも忘れられない。

その一方で、私はファーストの一人として、まるでMLM
(マルチ商法)の勧誘みたいに、そこらへんのファーストから
『バディ』『バディ』とバディ扱いされていた(笑)」

うーん・・・ファーストクラス・メスは、というか、
このファーストクラスE6という地位に対する評判悪し。
あるいは「特別扱いを求めるE6」の評判、かな。

アメリカ海軍の中もいろいろあるんですねー(棒)

■ USS 「タイコンデロガ」

一体アメリカにはいくつ「タイコンデロガ」がいるんだよ、
とわたしならずとも誰しもが思うかもしれません。


半分写ってなくてすまん

材質から見てかなり古い時代のプラークだと思います。
何故ここにあるのかは、おそらく盾の黒いプレートに書いてあるのですが、
文字を読み取れなかったのでわかりません。


わたしも、このファーストクラスメスの入り口に、何故かこの
「タイコンデロガ」のプレートがかかっていることから、気になりました。

そもそもタイコンデロガが独立戦争の戦地となった地名なので、
アメリカ海軍には1814年のスクーナーからイージス艦まで、

歴代5隻ものUSS「タイコンデロガ」が存在します。


イージスシステム搭載ミサイル巡洋艦「タイコンデロガ」CG-47は、
ナンシー・レーガン大統領夫人によって命名された巡洋艦です。



第二次世界大戦中、第4代「タイコンデロガ」(空母)に特攻が命中し、
多大な損害を受けて一度退役することになった日から35年後の
1981年1月21日を選んで起工が行われました。

「タイコンデロガ」は発注時はミサイル駆逐艦になる予定でしたが、
その後巡洋艦に変更になり、史上初のイージスシステム搭載艦となります。

2004年に退役した後、歴史協会はなんとか「タイコンデロガ」を
どこかに展示館として保存できないかと模索したのですが、
結局引取り手がなく、2020年解体されることになりました。



■駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」DD-864

で、いろいろと回り道しましたが、ここかつての「ファーストクラスメス」は
現在駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」ルームとなっています。



なぜ一室丸々が「エリソンルーム」になっているかというと、
ネームシェイクとなったハロルド・J・エリソン少尉が
他でもない、ここニューヨーク州バッファローの出身だからです。


部屋の全てが「エリソン」一色。
ガラス戸棚の中はエリソン少尉の年表が。

新車と一緒に。嬉しそうですね。

アメリカ海軍少尉 ハロルド・J・エリソン少尉は、
1917年1月17日、ニューヨーク州バッファローに生まれ、
ニューヨーク州ブルックリンのプラット美術応用芸術大学に入学しました。

プラットインスティチュートは日本では知る人もあまりいませんが、
1800年代からある芸術系大学で、各界に著名人を輩出しています。

「トムとジェリー」のアニメーターであるジョセフ・バーベラ、
俳優ではテレンス・ハワード(レッドテイルズ、アイアンマンのローズなど)
ジェフ・モロー、ロバート・レッドフォードもここの卒業生です。



1941年ブルックリンで米海軍予備役に入隊。

学校を卒業してしばらくデザイナーとして働いていた頃でしょうか。



エリソンの飛行訓練記録

その後すぐに、航空母艦USS 「ホーネット」に乗艦し、
第8魚雷戦隊に配属されました。




何故彼の名前が駆逐艦に遺されたかというと、それはご想像の通り、
彼がこの作戦で名誉の戦死を遂げたからです。

1942年6月4日のミッドウェー海戦で、エリソンは、
ダグラス TBD デバステイター雷撃機によって
戦闘機の援護なしに日本海軍の空母への攻撃を強行しました。

ミッドウェイ作戦において、デバステーター隊15機は零戦隊に撃墜され、
パイロットと通信兼後部射手の30名のうち、
ジョージ・ゲイ少尉を除く29名が戦死しましたが、
このときデバステーターのパイロットの一人だったのがエリソンです。

このときのTBDのパイロットは全員、ミッドウェイのヒーローとして
戦後(他の部隊から不満が出るほど)その偉業?を讃えられました。
もちろん、後席のナビ兼銃撃手の15名はこの対象とはなりませんでした。

要は手違いで掩護なしの出撃をしてしまったこと、そして
当時の零戦隊にはまだベテラン勢が残っていたこともあって、
戦果を残すことなくただ撃墜されてしまった、というのが現実ですが、
アメリカ軍的には、

「この攻撃で日本軍の編隊が乱れ、第2次攻撃の準備を遅らせた。
その後の第6水雷戦隊と第3水雷戦隊による攻撃でもこの混乱は続き、
日本軍の戦闘空中哨戒隊を占拠する一方で、
米海軍の急降下爆撃機がほとんど気付かれずに潜入した。
その後、急降下爆撃機は日本軍の航空母艦を大成功を収め、
第8水雷の犠牲からわずか1時間後には、日本軍の航空母艦3隻が炎上した」

という具合に、この後の戦況は全てTBD隊あっての成功、
という語り口で戦死した全員を英雄として扱うことになっています。

エリソン少尉もまた1942年6月5日に「死亡推定」と分類され、
ミッドウェーでの「勇敢な行動により」死後 海軍十字章を授与されました。



海軍十字賞の献辞は以下の通り。

「1942年6月4日、敵日本軍とのミッドウェー海戦において、
魚雷中隊EIGHTのパイロットとして、職務を超えた英雄的功績により。

エリソン少尉は、戦闘機の防護なしに飛行することの危険性を痛感し、
空母に戻るには燃料が不十分であったにもかかわらず、
自分の身の危険を顧みることなく、
そして激しい攻撃や敵の日本軍機の砲火をものともせず、
効果的な魚雷攻撃を行った。

エリソン少尉の勇気ある行動は、自己犠牲の勇気ある精神と
任務遂行への良心的な献身によって遂行され、
敵軍撃破の決定的な要因となり、
米国海軍の最高の伝統に沿ったものであった。」


■ 駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」建造

ミッドウェイ海戦におけるデバステーター隊の戦死者で、
駆逐艦に名前を遺した人を調べてみましたが、14名全員ではありません。

ジョン・C・ウォルドロン(隊長:中佐)
USS「ウォルドロン」DD-699

ユージーン・E・リンゼイ少佐
USS「リンゼイ」DD-771/DM-32/MMD-32

ジェフ・デイビス・ウッドソン大尉
USS「ウッドソン」DE-359

ジェイムズ・C・オーウェンス大尉
USS「ジェイムズ・C・オーウェンス」DD-776

ウルバート・M・ムーア少尉
USS「ウルバート・M・ムーア」D E-442

ヘンリー・R・ケニョン少尉
USS「ヘンリー・R・ケニョン」D E-683

ウィリアム・ウィルソン・クリーマー少尉
USS「クリーマー」DE-308

そしてこのエリソン少尉の8名となります。
(他にいたらごめんなさい)

同じ条件?で戦死した同じ部隊のパイロットでありながら、
駆逐艦に名前が遺った人とそうでない人の違いはなんでしょうか。

隊長と副隊長以外は、大尉一人、残りは全員
ほとんどが予備士官である少尉ばかりです。

もしかしたら彼らが在籍していた大学と何か関係あるでしょうか。

ただし、最初に計画された「ハロルド・J・エリソン」DE-545
1944年に建造中にもかかわらず中止になりました。


理由はわかりませんが、その後すぐ「ギアリング」級駆逐艦に
改めて彼の名を冠したDD-864が就役することになります。

スポンサーになったのは、彼が死の直前結婚した妻オードリーでした。

■ 6ヶ月だけの結婚生活


海軍士官の娘であるオードリー・フェイとハロルド・エリソンは、
彼女がペンサコーラで働いていたとき知り合いました。

彼らはハロルドが「ホーネット」に転勤してすぐ、
1941年12月30日に結婚しました。
彼がミッドウェイで戦死する6ヶ月前のことです。

わずか半年の結婚期間だったにもかかわらず、
オードリーは2006年に89歳で亡くなるまで教師を務めながら独身で過ごし、
その一生を退役軍人を顕彰するボランティア活動に費やしました。

彼女の遺灰は、かつて彼女の夫がウィングマークを獲得した
ペンサコーラのすぐ近くに葬られたということです。

続く。



「コンバット・アメリカ」クラーク・ゲーブル陸軍少佐〜国立空軍博物館

2024-11-22 | 飛行家列伝

以前、オハイオの国立空軍博物館の展示から、
ジェームズ・ステュアート准将についてお話ししましたが、
今日はその時に少し触れた、クラーク・ゲーブル少佐を取り上げます。

■ キング・オブ・ハリウッド

アメリカが第二次世界大戦に参戦した当時、
1901年生まれの俳優クラーク・ゲーブルは40歳。
徴兵年齢を大きく超えていましたが、彼は志願して、
1942年8月12日にロサンゼルスでAAFの二等兵として入隊しました。

俳優としてのゲーブルについて、今更説明するのもなんですが、
彼が大スターになるきっかけとなった「在る夜の出来事」で
アカデミー主演男優賞を獲得したのは1934年、そして、
「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じたのは1939年のことです。

「戦艦バウンティ号の叛乱」も入れると、アカデミー賞作品に3度出演し、
この頃のゲーブルは押しも押されもせぬ大スターの名を獲得しており、
人々は彼を「キング・オブ・ハリウッド」と呼びました。

その彼が、なぜ入隊したのか。
それは、彼の妻の死がきっかけであったといわれます。

その生涯で5回結婚し、その他にも多くの女性と恋愛関係にあった彼ですが、
最初の3回の結婚は、言うたら彼が成り上がるための
「ラベンダー・マリッジ」(便宜結婚)という色合いが強いものでした。

ちなみに最初の妻は先輩女優で、2番目の妻の紹介者。
2番目の妻は17歳歳上のパトロネス兼マネージャー兼演技コーチ。
3番目のはテキサスの社交界の名士で大金持ちというラインナップです。

4番目の妻、キャロル・ロンバードと結婚した時には、
ゲーブルはすでにスターとして成功していました。

ある意味、ロンバードはゲーブルにとって、初めての
利益関係なしの純粋な恋愛相手だったのかもしれません。


『風と共に去りぬ』の出演料を前妻との和解離婚のために費やし、
既婚者同士のダブル不倫から結ばれた二人でしたが、
その結婚は彼の私生活で「最も幸せな時期」だったと言われます。

しかしそんな二人が新婚生活を送っているとき、真珠湾攻撃が起こりました。

■ 愛妻の死

ジェームズ・ステュアートなど、一部の俳優たちは現役に志願し、
彼の愛妻キャロル・ロンバードも、「戦争努力の一環として」
ゲーブルに入隊を提案したのですが、彼自身はそれには消極的で、
自身は国策映画に出演したり債権の宣伝をするつもりでした。

自分が軍隊に向いていない、と考えたようです。

一方、ロンバードは年明け早々国債販売のための宣伝活動に参加しました。


債権ツァーでのキャロル・ロンバード

1942年1月16日、彼女は母親とクラーク・ゲーブルの広報担当者、
オットー・ウィンクラーとともに故郷のインディアナ州に赴き、
戦時国債の集会に参加し、一晩で200万ドル以上を集めました。

イベントが終わり、1日も早くロスアンゼルスに戻りたかったロンバードは、
飛行機に乗るのが怖いという母親とウィンクラーの説得を押し切り、
当初の列車の予定を変更して、トランスコンチネンタル&ウエスタン航空の
ダグラスDST 機を手配し、乗り込みました。

その後、彼女らの乗った飛行機は、ラスベガス空港付近の山に墜落し、
彼女らと米陸軍兵士15人を含む乗客22人全員が死亡したのです。

The HORRIFYING Last Minutes of Carole Lombard

CAROL LOMBARD CRASH 1942

直接的な事故の原因は乗務員の操縦ミスでしたが、
間接的には戦争がその事故の遠因になったと言えるかもしれません。

なぜなら、真珠湾攻撃の直後だったこともあり、アメリカ当局は
特に太平洋沿岸から日本軍爆撃機が領空侵入してくる可能性を警戒して、
夜間飛行誘導用の安全ビーコンを切るよう通達していたからです。

そのため、TWA便のパイロットは、通常なら受信できたはずの
飛行経路での警告を受け取ることができず、それが事故につながりました。

このことから、キャロル・ロンバードは、第二次世界大戦の
最初の「アメリカ人戦争犠牲者」と宣告されています。

ゲーブルは、妻の死の後、スタジオや関係者の反対を押し切って、
以前は二の足踏んでいたアメリカ陸軍航空隊入隊を決行しました。


■ 陸軍航空隊への入隊


ゲーブルは、フロリダ州マイアミビーチの士官候補生学校に入学し、
その年の1942年10月28日に少尉任官して卒業します。

写真は彼の志願を受け付ける、

「Oath and Certificate Enlistment」
(宣誓と入隊証明書)


で、" I Declare to~"で始まる宣言文が手書きされています。
(すまんが彼の字はマジ読めない)

ところで、妻の死からたった9ヶ月で士官に?と驚かされますが、
実際、ゲーブルが入隊したのは8月12日、友人の撮影監督、
アンドリュー・マッキンタイアと共に入学したのは17日。
9ヶ月どころか、たった2ヶ月の訓練で士官任官してしたことになります。

しかし、これは映画俳優の彼が特別扱いされたからではなく、
入隊したのが陸軍航空隊USAAFのOCSクラス42-Eという、つまり、
パイロットとかではなく、爆撃「搭乗員」養成コースだったからです。

B -17の胴部銃手の資格を得たゲーブル

しかし、その後、アメリカ陸軍は彼を特別扱いしました。
当然と言えば当然です。

まず、約2,600名の卒業生のうち、成績が700番前後だったにもかかわらず、
彼が卒業生を代表してスピーチを任されました。
もっともこれは、学校側ではなく、同級生の総意だったそうですが。

そして、卒業生に任官状を手渡した、当時の航空隊司令、
ハップ・アーノルド将軍その人から、
「彼(とついでにマッキンタイア)にしかできない特別任務」
が下されました。

それは、第8空軍(戦略空軍)の航空銃手募集のために宣伝映画を作ること。
当時の新聞はこのことを次のように報じています。

”陸軍省外の情報筋によると、昨日、ミスター・ゲーブルが、
空軍司令官のH・H・アーノルド中将と協議したと分かった。
ゲーブルは、任命されれば、空軍のための映画を製作するとされている。
軍服を着たもう一人の俳優、ジミー・ステュアート中尉は、
すでに同じ任務に当たっている。”


ジェームズ・ステュアートとクラーク・ゲーブル
(ちなみに、女性関係の派手さに関して言えば、二人は対極にあった)

任官前のゲーブルが「ミスター」なのに対し、ひと足さきに陸軍入りした
ステュアートが「中尉」と呼ばれていることにご注意ください。

ゲーブルは爆撃機訓練学校に入隊して航空砲手になるつもりでしたが、
陸軍上層部が彼をそんな地味な?配置に置いておく筈もなく、
彼はマッキンタイアと共にフロリダの砲術学校で基礎知識を学んだ後、
ワシントンのフォート・ジョージライトで写真コースを受講させられます。

順調に陸軍の思惑どおりコース終了した彼は、終了後中尉に昇進しました。


ゲーブルが中尉に昇進した時の宣誓書です。

就任宣誓

私、クラーク・ゲーブル(自筆)は、
アメリカ合衆国憲法を守るために一時的に任命されましたので、
アメリカ合衆国憲法を支持し、忠誠を尽くすことを厳粛に誓います:
神よ、我を助けたまえ。

クラーク・ゲーブル陸軍中尉

フロリダ、マイアミビーチにて1942年10月28日、
私の前で宣誓し、署名した

アール・ジョーダン中尉
航空隊簡易裁判所

■ 1943年、イギリス

1943年、ゲーブルは第351爆撃隊所属中、大尉に承認されました。
これは6人からなる映画部隊指揮官という地位に相応しい階級です。

マッキンタイアに加え、脚本家のジョン・リー・メイヒン、
カメラマンのマリオ・トティ軍曹とロバート・ボールズ軍曹、
録音担当のハワード・ヴォス中尉という構成の部隊で、ゲーブルは
命じられたリクルート映画の制作のためにイギリスに駐留していました。

元MGM社撮影監督のマッキンタイア中尉は、ゲーブルの入隊に伴い、
訓練と任務に同行させられた、いわば「道連れ入隊」でしたが、
陸軍の意向によって本業の撮影に専念することになり、
この撮影のほとんどを担当し、また、メイヒンが脚本を担当しました。

主演とナレーションはもちろんゲーブルです。

第351爆撃隊に所属している間、ゲーブル大尉は
観測員&銃手として公式には5回の戦闘任務に就いたとされます。

【第1回目の任務】

最初の戦闘任務は 1943 年 5 月 4 日。
第 351 爆撃隊が作戦行動を開始する前の慣熟任務でした。

このとき彼の爆撃隊はRAFの部隊と共にアントワープにある
フォードとゼネラルモーターズの工場を「模擬攻撃」しています。

ゲーブルは無線室に設置された機関銃から数発発砲した際、
極寒の中で革手袋をはめていたため、軽い凍傷を負うことになりました。
(もしかしたら見た目重視のオシャレ手袋だったのか?)

【第2回目の任務】

1943年7月10日、第351爆撃飛行隊第508爆撃飛行隊のB-17、
「アルゴノートIII 」でフランスのヴィラクブレーの飛行場を爆撃する任務、
つまり初めての実戦を体験したということになります。

この任務は雲のせいで目標に爆弾を投下せずに帰還せざるを得ず、
しかもドイツ軍の戦闘機に攻撃されるという苦い結果になりました。

【第3回目の任務】


第4回目の任務を終えてB-17の横でリラックスするゲーブル大尉
彼の左のロバート・W・バーンズ中佐は1970年、陸軍少将として引退した

1943年7月24日、第351 飛行隊の先鋒機を務める「アルゴノート III」
(ロバート W. バーンズ中佐指揮)で、ノルウェーの
ノルスク・ハイドロ化学工場を爆撃する任務に就きました。

【第4回目の任務】

1943年8月12日、ルール地方のゲルゼンキルヒェン合成油工場を爆撃。
悪天候の中、作戦に参加した330機のB-17のうち25機が撃墜されるなど、
この日は第8飛行隊にとってこれまでで最も危険な任務となりました。

第351飛行隊のフォートレスは撃墜こそされなかったものの、
11機が損傷、1機が帰還中不時着し、乗組員1名死亡、7名が負傷しました。

ゲーブルは、ドイツ軍戦闘機が編隊に5回接近してくるたび、
トップターレット(上部砲塔)銃手の後ろに身を隠していましたが、
20mm 砲弾が編隊を組んでいた別のB -17の飛行甲板から飛んできて、
それはゲーブルのブーツのかかとを切り落としながら飛び込み、
頭から 1 フィート離れたところに突き抜けていきました。
(つまりフレンドリーファイア)

後からゲーブルが記者に語ったところによると、ゲーブルも乗組員も、
その時は無我夢中だったのが、高度 11,000 フィートまで降下し、
酸素を止めて周囲を見渡したとき、初めて砲塔の穴と裂けた靴の踵、
機体に全部で15個の穴が空いているのに気づいたということです。

【第5回目の任務】

ゲーブルの最後の戦闘任務は、1943年9月23日、
フランスのナントの港湾地域への早朝攻撃でした。

彼はバーンズ中佐らとともに、B-17「ダッチェス」に乗り組みました。
この時のミッションでは悪天候で半数が集合できず、
しかも残り半分は迎撃戦闘機によって大きな被害を受けましたが、
幸いにも爆撃機の損失はありませんでした。

この時ゲーブルは、撮影クルーを爆撃機のいつもの腰部に残して、
自分は機首の銃手の配置に就いています。
(記述はありませんが、機首銃手が手が離せなかったか、
あるいは負傷したのかもしれません)



公式の任務以外に、広報担当として、メディアのインタビューも受けました。
女優ビービー・ダニエルズのインタビューを受けるゲーブル。

相手の目をじっと見つめ、右手をさりげなく女性の椅子の背に置いています。
まるでいつでもその手を彼女の肩に乗せられるかのように・・。
意識的か無意識かはわかりませんが、これは実に女心をくすぐるテクですね。

でも、これはゲーブルだから許されるのであって、
その辺のおっさんがやったらそれはただのセクハラ行為だ。

■「コンバット・アメリカ」

5回の戦闘任務を完遂したクラーク・ゲーブル大尉は、
航空勲章を受章し、後に殊勲飛行十字章を受章しました。

その最後の3回の任務は、特に危険な編隊指揮機に搭乗しており、
実際にも僚機が何機も撃墜されて指揮官クラスを失っていたことから、
彼はその任務を果たしたことに対し、忖度なしの賞賛を受けました。

しかも、公式任務数5回となっていますが、共に勤務した兵士たちは、
ゲーブルは実際には非公式に他の任務にも参加しており、
この5回は全体のほんの一部に過ぎないと証言しています。


ゲーブル大尉は、1943年11月5日に第351飛行隊を離れ、
5万フィートを超える16mmカラーフィルムを持って米国に帰国します。
最終階級は陸軍少佐でした。

そして1944年、ゲーブルがナレーションを担当した映画
「コンバット・アメリカ」が劇場で上映されたのでした。

"Combat America" with Clark Gable

B-17の離陸シーンは43:00くらいから、
ミッション中のB-17内を撮影した映像は46分すぎから始まります。
54分ごろ爆撃機の爆弾槽が開き、爆撃が開始されます。
そのあとはほとんど最後まで迎撃戦闘機との戦いが続き、
僚機が火を噴くシーンも収められています。

乗組員たちの冷静で淡々とした会話は驚くべきで、最後に誰かが
「Goodnight Sweetheart」を歌い出すと、乗組員が唱和したりしています。

1931 HITS ARCHIVE: Goodnight Sweetheart - Ray Noble (Al Bowlly, vocal)

現役任務をとかれ、帰国した後もゲーブルはAAF予備役将校でしたが、
戦後、俳優として映画制作のスケジュールが殺到すると、
軍任務を果たすことが実質不可能になり、1947年9月26日に退役しました。

1960年11月16日に心臓発作により逝去。



ハリウッドの数多のスターの中で、「最も男らしい男」
「王のように歩き、王のように振る舞い、王のように生きた」
と評されたクラーク・ゲーブルは、
「男であること」について、次のように語っています。

「男が持つべきものは、“人生の賭け”に対する希望と自信だ。

戦いに対するプリンシプルを持ち、
物事に対し不誠実になる前に、長々と言い訳を並べる前に、
死に対する覚悟を決める。

それだけのことなのだ


続く。


「リザルタント・フューリー」演習〜戦車揚陸艦「スケネクタディ」の最後

2024-11-19 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている「リトルロック」、
前回、CPOとメスデッキをご紹介しました。



前回このメスデッキの端にあるプラークを一つ紹介しましたが、
紙幅の関係で取り上げなかったのがあります。



プラークそのものがひび割れて真っ二つになっています。
まるでこの艦の運命を示唆するように・・・・。

昔、自衛艦のこの盾を鋳造している北陸の工房を見学したことがありますが、
そこの社長(現在会長)が、

「海自の方々は大変縁起を担ぐので、
台が『欠ける』『落ちる』『沈む』は御法度です。
そんなことがあれば(血相変えて)作り直しを言ってこられます」


とその『難しさ』を語っておられたのを思い出しました。
それでいうならこれはもう完全に不吉ですが、
この艦が実際にこうなる形で廃棄されたことを知ると、

あながち無意味な迷信でもないのかなと思ったり・・。

■ USS「スケネクタディ」



USS「スケネクタディ」
USS Schenectady (LST-1185) 


は、「ニューポート」級戦車揚陸艦の5番艦です。
この英語からすぐに「スケネクタディ」という読み方が出てきたのも、
わたしがかつてニューヨーク州北部をうろうろした時に、

フリーウェイなどでよくこの郡名を見ていたからです。

妙な発音ですが、予想通りオリジナルはネイティブアメリカン、
モホーク族の「松の木々の向こう側」の意味なんだとか。

エリー湖沿いのバッファローもまた同じニューヨーク州なので、
同じ州のよしみでプラーク交換をしたことがあったのかもしれません。

この等級の大きな特徴は、

戦車揚陸艦でありながら艦首にドアがない

ということ、そしてその代わりに


艦首にアルミニウム製のタラップを持つ

ことに尽きるかと思います。
(ただし従来通り艦尾には大きなドアがあります)

まず前者は、20ノット(時速37km)以上の船速を確保するため、
そしてタラップは艦体のドアの代わりに戦車を積み込むためです。



それをお見せしよう。
これ、すごくない?ちょっとワクワクしてしまいますよね。

そしてこの道板はアルミでできており、長さ34メートル、
普段は上甲板上に格納されていて、岸壁に到着すると、

艦首突端の扉が左右に開かれる

艦首前端のピボットが道板を浮き上がらせる

グリースによって板を滑らせながら甲板下のウィンチで繰り出す

デリックアームによって保持しながら岸壁に道板を設置する



おそらく艦橋から見たところ。(写真はUSS「サギノー」)

車両甲板前端には上甲板と連絡するランプが設けられており、
車両甲板に搭載された車両はここを通じていったん上甲板に上がったのち、
道板を通じて岸に降りていくというわけです。

トラック?の荷台には海兵隊らしいのが乗っていますが、

これなら全く危険はなさそうです。

2本のデリックアームの上にも人がいるのに注意。

なお、道板だけでは長さが不足する場合も多いので、この場合には
後部舷側に搭載した4基の浮橋を道板の先に接続して延長します。

この「ニューポート」級揚陸艦は20隻建造されており、

そのうち「マニトワク」LST-1180「サムター」LST-1181
中華民国海軍に再就役して今も現役のようです。

台湾の方がこのどちらかの入港をアップしています。
道板の展開が見られるかと思ったけど、それはありませんでした。

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-1 (Newport-Class Tank Landing Ship)

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-2 (Newport-Class Tank Landing Ship)

2015.10.24 民國104年國防知性之旅 海軍左營基地營區開放
 LST-233 新港級戰車登陸艦 中平號 Newport class tank landing ship

さて、この「スケネクタディ」ですが、1990年、
同級でたった一隻、湾岸戦争で中東に派遣された揚陸艦です。

1993年には退役し、予備艦として保管されていましたが、
2001年には海軍艦艇登録から抹消され、
最後は標的艦となってお国に身を捧げることになりました。

■リザルタント・フューリー対水上戦演習0501



珍しく、その最後の瞬間が写真に遺されています。
この演習は、何にでも名前をつけたがるアメリカ海軍らしく、

リザルタント・フューリー(Resultant Fury)
”怒りの結果”または”結果としての怒り”

と名付けられました。
2004年、フロリダ州のエグリン空軍基地を拠点に行われたこの訓練では、
空軍と海軍の航空機が海上を移動する目標を攻撃するという内容でした。

ここで皆さんにも思い出していただきたいのが、1921年、
ビリー・ミッチェル少将がドイツの戦艦「オストフリースラント」
航空機で撃沈できることを証明したあの実験「プロジェクトB」です。


このとき、ミッチェルは海軍に「戦艦不要論」を突きつけ、
航空戦力の重要さを証明するために実験を行いましたが、
83年後に行われたこのデモは、方法論の証明などではなく、
まだ実戦配備されていない先進的な兵器システムの実験を兼ねていました。

この訓練に先立ち、元USS「スケネクタディ」は
装備品や資材を撤去し、危険物を取り除くために洗浄されています。

アメリカ海軍は環境破壊に対しても最新の注意を払い、
環境汚染物質を除去し、EPAのガイドラインに従って、
岸から50海里以上、水深6,000フィート以上で作戦を実施しました。

米海軍には「艦隊環境」の専門家(中佐)もいて、演習によって
生態系に影響を与えることがないよう、こちらも配慮します。

事実この演習のとき、クジラの群れが接近したという情報を受け、
発動時間を40分遅らせたという報告がなされているように、海軍は
海洋哺乳類が船舶の近くにいる場合に演習を禁止する範囲手順を定めており、
環境保護と試験と訓練の達成を両立させることを旨としています。



ミッチェルは「オストフリースラント」撃沈に63発爆弾を要しましたが、
このときはB-52から投下されたたった9発のレーザー誘導弾JDAMが
全て意図した目標に命中し、艦艇を速やかに沈没せしめました。

そして2004年11月23日、このリザルタント・フューリーによって、
揚陸艦「スケネクタディ」は標的として撃沈され、
同時に彼女は、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した史上初めての艦となりました。

かつては航空機不要論で反目していた空軍(当時陸軍)と海軍が、
協力しあって海上標的を破壊する訓練風景を、きっとミッチェルは
草葉の陰から見て、涙を流すか、そら見たことかと言っていることでしょう。
(-人-)

■ 「スケネクタディ」艦歴

ところで、なぜ「スケネクタディ」がこのとき標的となったかですが、
簡単に彼女の艦歴についてお話ししておきましょう。

LST「スケネクタディ」は1966年7月15日、

1966会計年度の8隻のグループの一部として発注され、1968年、
サンディエゴのナショナル・スチール・アンド・造船会社によって起工、
1969年5月24日に進水、1970年6月13日に就役しました。

就役後は水陸両用戦隊(フィブロン)9に配属され、
サンディエゴに母港を構えることになります。

訓練と習熟期間の後、1971年にベトナムへ向かい、
海兵隊を撤退させる「キーストーン・オリオール」作戦に参加。

ダナンで荷物を積んだ後は真珠湾に戻りました。

1971年10月18日、LSTは第7艦隊に合流するため
日本の横須賀に到着します。

第7艦隊での活動中、南ベトナム軍によるクアンチ省奪還作戦に参加、
1972年6月29日、攻勢中に敵の陸上砲台の砲火を受け、
実戦で応戦した同クラス初の艦となりました。

その後は西海岸から演習に参加、
日本、台湾、沖縄、フィリピンの港湾間での輸送任務を行います。


1990年、湾岸戦争が起こると中東に派遣され、これによって

「スケネクタディ」は「ニューポート」級10隻の中で、
同戦争で派遣された唯一の艦となりました。

その後1993年12月15日に退役し、海軍不活動艦艇整備施設に
予備艦として保管されました。

1994年ごろ、スケネクタディ市は彼女を展示艦として獲得し、
移送しようと試みたことがあったようですが、どういう理由かこれは失敗し、
「スケネクタディ」の標的艦の運命はこのときに決まりました。

同艦は2001年7月13日に海軍艦艇登録から抹消され、
2004年11月23日、リザルタント・フューリー作戦で標的として撃沈され、
艦船航行中、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した初の事例として歴史に名を残しました。



「スケネクタディ」の内部のものは丁寧に取り除かれ、
歴史資料として保存されることになったそうですが、
もしかしたらこの星条旗もその一つなんでしょうか。


続く。




メスデッキ(兵員用食堂)〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-16 | 軍艦

エリー湖沿いに位置するバッファロー・ネイバルパークの展示、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。



やはり巡洋艦なのでメスデッキは大変広いです。

一日3回、このスペースでは1,200人の下士官兵が食事をとりました。
時差を持たせても、同時に700〜900人がテーブルに着けたそうです。

乗組員に与えられた食事時間は30分。
食事が済んだらすぐさま職務に戻ることが決まっていました。

アメリカ海軍も、他の軍隊に比べれば食事が美味しいのが相場だそうですが、
だからといって食後ゆっくりコーヒーを、なんてのはナシです。

ただ、ここに来ればコーヒーもスナックもいつでも潤沢に用意されており、
好きな時にさっと取って楽しむことができました。

ここは映画館も兼ねており、毎晩のようにエンターテイメントがあり、
乗組員は自分の時間に応じてそれらに参加しました。



ちなみに1972年ごろの同じメスデッキの様子。
左奥に見えるかべが、上の写真の左壁だそうです。
内装は随分変わっていますが、柱は全く変わっていません。

チェック柄のテーブルクロスが可愛いですね。


1974年のメスデッキ。

テーブルクロスは白に変わったようです。
この写真の真ん中に低い仕切りがありますが、1972年のにはありません。
この間の改装によって設置たもので、それは現在もそのままです。

ほとんど上の写真と同じ位置から撮られているように思います。

ここで食事をするのはエンリステッド(徴募・徴兵)
を意味するE1からE5まで、つまり、

E1「シーマン リクルート」水兵
E2「シーマン アプレンティス」一等水兵
E3「シーマン」上等水兵
E4「ペティオフィサー サードクラス」三等軍曹
E5「ペティオフィサー セカンドクラス」二等軍曹

のみなさんです。



紙ナプキンのケースがちゃんと中身付きで置いてありますが、これは
現在でもこの場所がキャンプなどで食事に使われているからです。


メスデッキの隣には、ペティ・オフィサー・ファーストクラス
(上級下士官)
専用のメスがあります。

クルー用と違うのは、椅子の材質と、テーブルにボードゲームがあること、
それからちょっとスペースに余裕があることかな。

ここに入ることができるのは、E6の

E6 ペティオフィサー ファーストクラス

これは「シェブロンが赤い階級」の中の最先任です。


で、ここから上の人(黄色いシェブロン)たちは奥に各々の部屋があります。
海軍の階級差は厳密です。



この艦内図でいうとV1のところです。
クルーズメスは10と記された場所です。


残されていたクルー用のトレイ。
この窓から見える向こうは下士官厨房です。


入ろうと思ったら、立ち入り禁止になっていました。


というわけで、これは博物館公式のビデオからキャプチャした内部の写真です。

E-6以下の下士官兵の調理を行うのは、当時は

メス・マネージメントスペシャリスト、
食堂管理スペシャリスト

と呼ばれる乗組員でした。
この名称は現在では

キュリナリー(調理)スペシャリスト

となっています。

食事は全てこの場所で調理され、すぐさま提供され、
また、パンやペストリーも定期的にここで一から作っていました。

「調理スペシャリスト」という名前になってからはどうか知りませんが、
当時、調理は専門の乗組員が行うのではなく、
ほとんどの下級下士官乗組員(E-1からE-3)が、少なくとも90日間の
 "TAD"(Temporary Assignment of Duty)期間、"Mess Cooks "として
ギャレー/スカラリーに勤務することが義務付けられていました。

つまり皆が順番に請け負っていたのです。

調理場勤務の乗員は、次の食事の計画や準備、後片付け、皿洗いはもちろん、
掃除など雑務の大半をこなすことが求められていました。

これもまた艦隊生活への教化の一環という位置付けです。

ギャレーでの任務は地味で目立つ仕事ではありませんが、
軍隊で最も重要な仕事の一つであることも確かです。

艦艇の乗組員が清潔な食器を使い、十分な食事を取れるようにすること。
さらにその食事がおいしいことは士気を高めるためにも必須ですからね。

その仕事の重要性は強調してもしすぎることはありません。



下士官兵はトレイを手前のラックに乗せて左から右に滑らせていき、
食べたいものをトレイに掬って乗せてもらいます。
自分ですると時間がかかるし、取りすぎたりこぼす人がいるので。

フードサーバーに氷が溜まっていますが、おそらくこの日、
すでにここで食事が行われたのだと思われます。

おそらく大人数のキャンプがここで朝ごはんを取り、その際、
サラダ、果物、ヨーグルト、ジュースなどがセットされていたのでしょう。

飲み物はコークよりペプシ派らしく、ペプシと書かれたラックが見えます。


この鍋つかみ、対象になるものがないのでわかりにくいんですが、
子どもの頭ならすっぽり入りそうなくらい巨大です。
親指のところに小さな手なら全部収まってしまいそう。
こんなものをどうやって使っていたのか・・・・。


ギャレーの隅には年季の入っていそうな星条旗が立ってしました。
絶対これは何か歴史的に意味のある旗に違いない。


その横のプラークですが、直接は「リトルロック」とは関係ありません。

The U. S. Navy Space Surveillance System
アメリカ海軍宇宙監視システム 

を意味するものです。

文字通り宇宙を監視するシステムで、そのステーションは
米国南部を横断する大圏経路上に7つ存在します。

決して最近できたものではなく、1961年中央の560kw送信機が稼動し、
4つの受信サイトすべてにナローバンド受信装置が設置されました。

システムは1日に約700回の観測を行い、
100個以上の軌道天体の軌道要素を作成しています。

2つの連続したパス、軌道の2つの側からのパス、そして最後に
数日間の観測を使った差分補正コンピュータプログラムによって精緻化され、
世界中のどの場所でも使用可能な軌道要素というシステム出力が得られ、
その精度は、現在、
安定した衛星の通過を1週間先まで1秒以内に予測できる
ほどにまで高められているということです。

こういうのを海軍がやってしまうあたりがアメリカですね。

ちなみに、つい最近聞いた話ですが、アメリカ全軍は、
今戦闘部門の規模がどんどん縮小されていく傾向にあり、
拡大しているのは宇宙軍だけだということです。



続く。




チーフズ・メス〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-13 | 軍艦

バッファロー軍事海事公園に展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。


この区域には、もう一つ特筆すべき施設があります。

それが冒頭写真のミサイルウォーヘッドハンドリングルーム、
弾頭取扱室です。

ミサイルルームを探訪した時にも紹介しましたが、タロスミサイルは、
用途に応じて通常弾頭と核弾頭を使い分けていました。

この区画では、そのどちらもが準備されていました。

画面の床に見える大きな穴は、弾頭の移動路であり、
弾頭はここを通ってこの下のマガジンに収納され、
また、そこから取り出してくることになります。


左側にはロッカーや棚が並んでいますが、
今となっては何があったのかわかりません。


「コミニュケーション・プラン」を記すCPO専用ボード。

CIC「使用中」「常時」「ラインメンバー」「AMPS」とありますが、
ちゃんと書かれているのはこれだけです。

一番左のRHSやCHなどの略語ですが、CHはおそらくチーフ、
つまり自分たちの持ち場を書き入れていたのかもしれません。

あと、SPAはおそらくスペシャリストの略で、
SPSは同じスペシャリストの中のスーパーバイザー(監督)です。



それより、ボードには後からここを訪れて、落書きを許された?
元乗組員のサインが目につきます。

B・キャメロン RDSN 1959−1962

J・ティラ 1959-1963 RDSN

RDSNとはRADAMAN SEAMAN、つまりレーダー通信兵です。

ヘイズ OSS 66-69

OSSはオペレーションズスペシャリスト シーマン

いずれにしても、展示艦になってからヴェテランが書いたものでしょう。


24時間時計と照準器が壁に備え付けられています。
これ見てあー今フネ傾いてるなー、って理解しろってか。
そんなこと体感でわかるような気がするんだけど。


赤い色・・ということはきっと消火設備。


Aqueous Film Forming Foam 水性発泡体
(AFFF)


AFFFは「AトリプルF」と発音します。
水と混合して可燃性液体火災に散布される消火剤であり、
油やガソリンに浮く泡の能力からライトウォーターとも呼ばれています。

写真左側の棚のブルーのボトルには「ライトウォーター」の文字が見えます。

同じ消火剤として、プロテインフォームというのもがあります。
材料は天然タンパク質・・・実は動物の血液がベースです。
こちらは合成フォームと違い、生分解性という性質を持ちます。

環境にやさしい・・・?

AFFFは、このプロテインフォームに取って代わるもので、
血液をベースとしたプロテインフォームとは異なり、
泡に空いた穴がひとりでに塞がり、再燃焼を防ぐ自己修復作用があります。

基本的に水ベースであり、アルキル硫酸ナトリウムなど、
炭化水素ベースの界面活性剤や、フッ素系界面活性剤が含まれていて、
残念ながら火を消した後は有毒な地下水汚染物質となります。

しかし不発弾やその他の物質を冷却し、爆発や燃焼を防ぐのにも効果的で、
軍艦内の戦略的な場所に数多く設置されています。


AFFF周辺の畳まれたホース。


エリア08というこの区域にCPOのギャレー(キッチン)があります。
下士官つまりE-7からE-9ランクのための調理室です。



繰り返しになりますが、このレートは

E-7 1等軍曹
E-8 曹長
E-9 上級曹長
E-9 最上級曹長


を意味します。
ちなみに彼らのお給料ですが、2024年現在のE-7ランクで、

$43,498.80 〜$78,188.40 (勤続26年)
=6.776.460.56円〜12.180.579.89円

これは基本給で、これに訓練手当て(ドリルペイ)、
危険手当て(ハザードペイ)、住宅手当などがつきます。

今は円安なので、ものすごい高給に見えますね。
危険手当ては月240ドル、訓練手当ては120ドル〜217ドルです。



ところでCPO専用のギャレーについて言及すると、国の彼我を問わず、
海軍というところは食事が美味しいと相場が決まっているので、
当然ここでもアメリカ規格でたいへん美味しいものが提供されてたはずです。

そして、曹長専用食堂のことをチーフズ・メスといい、そこで働いているか、
特別な許可がない限り、チーフ以外の立ち入りは禁止されていました。


クルーズ・メス(兵員用食堂)の手前には、
「リトルロック」の姉妹艦コーナーがあります。



ここにある説明ですが以下の通り。

1950年代、「ガルベストン」級と「プロビデンス」級は、
「クリーブランド」級の改造を低コストで行うことを目的としていた。

これらの艦は、構造的には互いに似ており、
唯一の
違いは搭載する誘導ミサイルの種類であった。

「リトルロック」は世界で最後の「クリーブランド」級巡洋艦であるため、
この区画は、他の改造「クリーブランド」級巡洋艦に捧げられている。


「ガルベストン」級巡洋艦
タロスミサイルシステム搭載

USS「ガルベストン」
CL-93、1946年/CLG-3、1958-1973年

USS「リトルロック」
CL-92、1945~1949年/CLG-4、1960~1976年

USS「オクラホマシティ」
CL-91、1944~1947年/CLG-5、1960~1979年


「オクラホマシティ」の時鐘、写真、盾など。

「プロヴィデンス」級巡洋艦
テリア ミサイルシステム搭載


USS「プロビデンス」
CL-82、1945年-1949年 / CLG-6、1959年-1975年

USS「スプリングフィールド」
CL-66、1944~1950年/CLG-7、1960~1975年

USS「トピカ」
CL-67、1944~1949年/CLG-8、1960~1973年


ここにはいわゆる「改造クリーブランド級」グッズがあるそうですが、
見たところほとんどが「オクラホマシティ」のもののようです。

野球のユニフォームですが、どこの艦でしょうね?



右下の「ライフ」表紙は、艦砲射撃を行っている「オクラホマシティ」です。

「オクラホマシティ」は、太平洋艦隊において、
初めてタロスミサイルの実戦発射に成功した艦となり、
横須賀を母港とする第7艦隊旗艦としてベトナム戦争に参加

この写真は、1965年6月、ベトナム戦争における南シナ海で、
艦砲射撃真っ最中の「オクラホマシティ」の勇姿を捉えたものです。


続く。





「下士官の誓い」と「リトルロック」最後の日〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-10 | 軍艦

ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内に入り、
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)を艦尾から見学しています。



今日はチーフ・ペティ・オフィサーズ・クォーターズです。

Chief Petty Officerとは日本語だと上等兵曹でしょうか。
米海軍では、この階級の略称はCOとなります。
チーフ・ペティ・オフィサーについては、

「時間と訓練を経てE-7以上の階級になった下士官」

とこのコーナーには書かれています。

Eというのは下士官の階級のことですが、英語では「レート」と言います。

「レート」とは、入隊した水兵が指揮系統のどの位置にあるか、
どれくらい給料をもらっているか一目で指し示す指標となります。

アメリカ海軍の階級は「ランク」と「レート」で表されます。

日本語ではこれが一律「階級」で括られますが、アメリカ海軍では
基本的に「ランク」という言葉が使われるのは士官だけで、
下士官兵には「レート」が適用されることになっています。

ご注意いただきたのは、アメリカ軍についてご存知の方なら
一度は耳にする言葉、「レイティング」との違いです。

「レート」”rate" は、海軍の下士官の職業専門分野を指す
「レイティング」”rating"とは全く別の意味を持ちます。

「レイティング」とは、整備士とか管制官とか、写真家とか料理とか、
暗号とか爆発物処理とか音楽とか、ともかく専門の技術のことをいいます。

↑バッジの意匠を見ているだけで楽しめます

話を元に戻して、Eランクは1から9まであり、
大きく3つに分けることができます。

E-1からE-3 兵卒・一等兵・上等兵
Seaman

E-4からE-6 伍長・三等軍曹・二等軍曹
Petty Officer

そしてこのクォーター(コーナー)には、Eクラスの最上級である

E-7からE-9 一等軍曹・曹長・上級曹長
CPO/ SCPO/ MCPO/CMCPO

がいたというわけです。

ちなみに、士官と下士官兵の間には、准尉、
ウォラント・オフィサー
がいます。

よく艦を一つの会社に喩えるなら、チーフというのは部長に当たる、
と言われますが、以前「曹長に聞け」という項で紹介した、
いわゆるCPOジョークを見る限り、この人たちの存在感はすごい。

自らを海軍のスーパーマン、神、と称しており、その自己肯定感、
万能感においても凄まじいものがあるということもわかります。

彼らは士官と下士官兵の間に立つ「仲介役」であり、
その階級における技術専門家であるので、文字通り「要」の立場です。


ここはCPOの寝台設備があるところで、これまで当ブログでも
「バーシング」Berthingとして説明してきましたが、
元々「BERTHING」バーシングという言葉は、
ラテン語で「運ぶ」という意味を持っており、それから派生して、
船や列車の2台、または港、港湾設備にある、
船舶を係留するために特別に使用される停泊所を指す言葉です。

つまり下士官の「停泊所」ということですが、
この用語が海軍だけで使われているのは当然のことです。

この周囲が「CPOの停泊所」であるわけですが、
グレーの扉の向こうには何があるのか「開かずの扉」となっています。

で、その「立ち入り禁止」の手書きの紙の下に見えているのが、
有名な「CPOの誓い」The Chief Petty Officer's Pledgeです。

ここではその半分しか見ることができませんが、
有名なものなので検索すれば全文が出てきます。

下士官の誓い

私は米国海軍の下士官です

私は、誇りと名誉をもって、祖国とその国民に奉仕します

私は特別な便宜を図りません

私は物事を成し遂げ、自分にできる最善を尽くします

私は、世界でも類を見ないリーダーシップを任されています

私は下士官を育て、水兵を育てます

私は全ての水兵の行動に全責任を負います
なぜなら、これら水兵は将来の下士官の”種”だからです

私は、名誉、勇気、献身という海軍の基本的価値観に従います

私が模範を示します

私が行動基準を定めるのです

水兵は生徒であり、私はその教師です

私は、若い男女の人生を導き、影響を与えます

最終的には、私が船員たちの資質を決めるのです

彼らが私を尊敬するのは私が彼らに威厳と敬意をもって接するからです

彼らがリーダーを必要としているからこそ私は彼らのために存在するのです

なぜなら、
After all...

私はアメリカ合衆国のチーフ・ペティ・オフィサーなのですから
I am a Chief Petty Officer in the United States Navy.

After all は「結局」と訳すより、こちらの方が適切かと思いました。



大きなパネルに展示された舫結びの数々。
寄贈したのは写真の元CWO(チーフ・ウォーラントオフィサー)、
マーヴィン・カレー元准尉です。

バッファロー・ネイバルパークの公式が、
この人の記念碑をインスタに挙げていました。

Marvin ”Joe"Curry、CWO

マーヴィン・"ジョー"・カリーは退役軍曹(CW2)であった。
海軍のハードハット(サルベージ)・ダイバーで、
朝鮮戦争とベトナム戦争に従軍し、兄のウィルバーは戦死した。
ジョーは1969年から1972年までUSS「リトルロック」の乗組員だった。

海軍を退役後、1977年から1995年まで、
ここバッファロー海軍軍事公園の初代監督官を務めた。

ジョーは
セネカ族のスナイプ・クランの一員で、
カッタラウガス準州で生まれた。
彼はイロコイポスト#1587のメンバーで、いくつかの役職を歴任した。

セネカ・ネーションは、ジョーと他の先住民の退役軍人を称えるために、
毎年ニューヨーク州サラマンカで
マーヴィン"ジョー"カリー・ヴェテランズ・パウワウ大会を開催している。

後半はいかにもアメリカですね。
カリー准尉は、イロコイの一族であるセネカの出身だったようです。

後半に出てくる「パウワウ大会」は何かというと、
ネイティブインディアンの踊りによる集会、祭りを指します。

パウワウ

コミュニティでカリー准尉の名がよく知られているわけは、
ネイティブアメリカン出身の海軍軍人として、
インディアン出身の退役軍人にカウンセリングを行ったり、
セネカ族の伝統、習慣、文化を伝える役割を果たしたからでした。



「リトルロック」クラスの艦内には5〜60人のペティ・オフィサーがいて、
ここは彼らの生活空間でした。

このテーブルで彼らは食事をし、コーヒーを飲んだり、
時にはボードゲームに興じたりしたのでしょう。



テーブルの上方に立てかけてあるこの部分は、テーブルと同じ素材で、
なんか無理やりマークを彫ったのでえらいことになっています。

このマーク、最初はわからなかったのですが、たまたまこの項前半で
「レイティング」のページを見ていて見つけました。


オペレーション(作戦)スペシャリスト(OS)のマークです。

米海軍の戦闘艦に所属する作オペレーション・スペシャリストは、
戦闘情報センター(CIC)や戦闘指揮センター(CDC)、
別名「コンバット」と呼ばれる艦の戦術中枢にいる人です。

OSは、多種多様な装置や装備を駆使し、戦術的戦闘情報を組織的に収集、
処理、表示、評価し、指揮管制ステーションに迅速に伝達します。

CICの物理的空間を維持し、操作する機器の保守管理を行うため、
この等級には、身元調査を経た上でアクセスするステータスが付与されます。



ヘルメットは本物ではなく、おそらく幼児用?のレプリカ。


テーブルには落書きが残されています。


下はちょっと読めませんが、上には、

「AIDは無くなった 1976年11月22日」

と書いてあります。

AIDかどうかは、ピントがボケていて正直よくわからないのですが、
Sも付いていないので後天性免疫不全症候群のことではなく、
(そりゃそうだ)普通に「援助」の意味だと思います。

1976年11月22日。
この日、「リトルロック」は海軍を退役して除籍処分となりました。

うーん・・・もしかしたらAIDって、何か海軍の専門用語?
もしお分かりの方がおられたら教えてください。

にしても、最後の日、艦内に落書きをしたくなる気持ちはよくわかります。


続く。



ローン・セイラー(孤独な水兵)の像〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-07 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園展示の巡洋艦「リトルロック」。
上甲板のファンテイル部分から階段を一階降りて、艦内郵便局を見ました。

見学路をそのまま艦首側に向かって進んでいきます。


第二次世界大戦時の道具を展示しているという説明がありました。
展示のオープン時間を書く欄がありますが、使われた形跡はありません。


「ディスプレー」というのは、これらのことだと思われます。

水兵の制服、真鍮のランプ、そして軽巡時代、
ミサイル巡洋艦になってからの「リトルロック」の様々な写真。



右は、「リトルロック」が就役した時のパンフレットです。

第二次世界大戦終了直前に最初の就役をした「リトルロック」は、1957年、
ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船公社のヤードに到着し、
1957年1月30日に誘導ミサイル軽巡洋艦への改装を開始しています。

CL-92からCLG-4への分類と船体番号の変更は1957年5月23日に発効されました。

ニューヨークシップビルディング公社における改装中の「リトルロック」
1959年12月10日撮影

改造後のUSS「リトルロック」(CLG-4)の全備重量は15,142トン、
艦隊旗艦として構成されました。

艦砲は従前通りオリジナルのディレクタ・システムによって制御されましたが
ミサイルシステムには新しい武器制御装置とレーダーが組み込まれました。

こうしてタロスミサイル巡洋艦となったUSS「リトルロック」(CLG-4)は、
1960年5月6日にフィラデルフィア海軍造船所に引き渡され、
1960年6月3日に就役したのです。


左側のパンフレットは海軍艦船に乗るともらえる記念でしょう。

上の写真はマッチケースのカバーにプリントされたエンブレムですが、
「リトルロック」のインシニア、文字通りの「タロス」
(ギリシア神話に出てくる意思を持たない青銅の巨人)が、
タロスミサイルを投擲しようと構える瞬間を捉えたデザインは秀逸です。


こちらは「リトルロック」が1972年ごろ使っていたパッチです。
なぜこの時期だけこれが使われたのかは不明です。

このエンブレムに書かれたロゴは、

 PRIDE IN ACHIEVEMENT
(達成する誇り)


この文言も簡潔かつ明確で大変よろしいですね。


古い入隊募集ポスターですが、タロスミサイルがあしらわれているので
おそらくミサイル搭載艦がデビューした頃のものだと思われます。


就役中、「リトルロック」が採用していたプラークは三つありました。

左から、初代の改装前軽巡時代のもの、
タロスの描かれた1965年までのもの、
そしてワシのデザインの1965-1976までのものです。

なぜ1965年にマークが変わったかは謎、と先ほど書きましたが、
あえて想像してみると、この時期、「リトルロック」が
NATO軍部隊に参加することになったことと何か関係あるかもしれません。

これも想像ですが、タロスミサイルの搭載を強調するマークより、
アメリカ海軍の一員であることを強調するデザインの方が
国際部隊の中では受け入れられやすかったからと考えられます。


三つのプラークと共に展示されている水兵の像ですが、
アメリカで軍事博物館を回ると、もうお馴染みというくらいよく見ます。

これは有名な、

「孤独な水兵」LOAN SAILOR

というブロンズ像のレプリカです。

ローン・セイラー


アメリカでは「孤独な水兵」というと、有名なこの像を指します。

彫刻家スタンリー・ブライフェルド作のこの水兵像は、
ワシントンD.C.の海軍記念碑として建造されたものなのですが、
この水兵像がもう今は現役でない海軍艦を使って作られていると聞くと、
なかなか感慨深いものがあります。

そして、その海軍艦は一つではなく、

USS「コンスティテューション」CONSTITUTION
USS「 コンステレーション」Constellation CV-64/CVA-64
USS「メイン」Maine ACR-1
USS「 ビロクシ」Biloxi CL-80
USS「ハンコック」Hancock CV/CVA-19
USS「シーウルフ」Seawolf SSN-21
USS 「レンジャー」Ranger CV-4
「ハートフォード」Hartford steamer

帆船、航空母艦、巡洋艦、潜水艦、そして蒸気船などの艦船、
つまり海軍艦船の歴史を網羅しているということです。

そして、この「孤独な水兵」とは。

大体25歳くらい、早くもベテランになりつつある二等兵曹、
ほぼ等身大の「孤独な水兵」は、誰か特定のモデルがいるのではなく、
できるだけ「どこにもいそうな」人物の再現を目指しています。

全くプライベートな、軍の規律から解き放たれた一人の時間、
かたわらに水兵用のダッフルサックをおいて、
ピーコートの前をはだけ、ポケットに手を入れて立つ姿。

そこには、気負いも衒いもない、素のままの一人の平凡な男がいます。
まさにアメリカ海軍水兵の等身大の図と言ってもいいでしょう。

彼は英雄のように描かれているわけでもなく、かといって、
無論、人生を堕するような失意にあるわけでもなく、
これから故郷に帰るのか、それとも単なる休暇中なのか、
期間が明けて名誉除隊をしたのか、何も読み取ることはできませんが、
この像の前に立つアメリカ人は、おそらくそれぞれが、
この水兵のストーリーを、それこそ人の数だけのバリエーションで
さまざまに思い描くに違いありません。

あるものは父や叔父、親戚を、あるものは息子を、
そしてあるものは自分自身を重ね合わせて。


孤独な水兵像はアメリカ国内だけでなく、上陸作戦のあったノルマンディー、
そして当然のようにハワイのパールハーバーにも置かれています。

各地に立つ孤独な水兵像

孤独な水兵像を就役したばかりの新造艦に寄贈する活動は、
ネイビー・メモリアルがスポンサーを募って行われています。
(寄付金は17,750ドルより)
艦船据付用は高さ30センチほどの小型のものとなります。

現在この像が設置されている海軍艦船は、
ミサイル駆逐艦「トーマス・ハドナー」「ズムウォルト」、
空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」などの現役艦のみならず、
この海事公園に展示されている「ザ・サリバンズ」など記念艦もあります。

■ 🇺🇸49星条旗


孤独な水兵像の後ろに掛かっているのは、U.S.S.「リトルロック」が
1960年6月3日に誘導ミサイル軽巡洋艦CLG-4として再就役する前、
1959〜1960年に航行中に掲揚されていた49スター・エンサインです。

国旗の星の数はアメリカの情勢により変わってきましたが、
この49星条旗にはこんな話があります。

1912年からしばらく星条旗は48個の星でした。
そして、1959年1月にアラスカ州が増えたときに49星となりました。
しかし、同じ年の8月にハワイ州が加わったため50州となりました。

これはどういうことかというと、49スター星条旗は、
アメリカ史上たった7ヶ月だけのアメリカ合衆国国旗だったのです。


隙間に取り留めもなく展示品が並んでいるコーナー。



左右に「ケルビンのボール」を持った形のビナクル
日本語だと磁気コンパス、アメリカではナビゲーターズボールがありました。

ところで、以前調べた時には存在していなかった
「ビナクル」のウィキがいつのまにかできていたことがわかりました。

ビナクル

ありがてえありがてえ。

先日ジミー・ウェールズさんからまたしてもメールが来てたけど、
今度はビナクルに免じてちょっとだけ寄付しておこうかな。(独り言です)

ピナクルにはテプラのようなシールに、

DO NOT CHIP OR SCRAP
↑テプラを再現

と注意書きが書かれています。
削ったり欠けさせたりしないでくださいという意味だと思いますが、
これが現役時代からあったのかどうかはわかりません。


タロスミサイルを模ったものですが、
品質から見て誰かが艦内のワークショップで作ったのではないでしょうか。

おそらくこれから見学コースで見ることになると思いますが、
ご存知のように、大きな軍艦には、艦のために必要なものならなんでも、
大きかろうが小さかろうがその場で作ってしまう工場があります。

■タロスミサイル艦はなぜ巡洋艦だったのか

ところで、いまさらなのですが、どうして「リトルロック」など、
巡洋艦にタロスミサイルが搭載されたのだと思います?

ミサイルを搭載する艦船の条件は非常に限られていました。
とにかく、艦体が大きくなくてはいけなかったのです。

その理由は、タロスミサイルそのものが小型飛行機くらいの大きさであり、
これまでミサイルハウスを見てきた我々にはもう明らかなように、
ランチャーや46発の弾倉等、システムに膨大なスペースが必要となります。

したがって巡洋艦クラスがこれに最適とされたというわけです。


続く。