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翼と祈り(A Wing & A Prayer)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
しばらく語ってきましたがいよいよ最終回です。
最後にぜひお届けしたいのは、

「翼と祈り」(A Wing & A Prayer)

というコーナーの写真展示。
これは敵機と戦って傷ついた機体の写真ばかりです。

まずタイトルの横の説明から見ていきましょう。

「航空機の設計で最も重視された要素の一つは、頑丈さです。
それは、敵戦闘機や高射砲などによって大きなダメージを受けた後も
飛行を続け、搭乗員を生きて帰らせることを第一義としていました。

特に、戦争が敵の領土上空、敵本土に深く入った地域で展開されたとき、
丈夫に作られたアメリカの飛行機は、
ほとんど壊滅的な被害を受けたとしても、
何百マイルの距離を安全に飛行することによって、
貴重な人材である連合国の空軍搭乗員たちを救うことができたのです。

このコーナーではこういった航空機の生還の例を示します」

ドイツのルドヴィヒスハーベンへの爆撃任務の際、
翼に大きな穴をあけられながら帰還したB-17フライング・フォートレス。

どんな大きな穴かは搭乗員四人が上半身を出せることからもわかります。

彼らは降りてきてすぐらしく、まだゴーグルなどもつけたままです。
おそらく、実際に見て被害の大きさと、それでもここまで飛んできた
機体の堅牢さに驚き、感謝したことでしょう。

念のため、彼らの顔をアップ。

一応笑っている人もいますが、どちらかというとぎこちなく硬い表情です。
機体が無事着地して動きを止めるまでは、
激しい緊張に生きた心地もしなかったのではないでしょうか。


爆撃機搭乗員を描いた映画「メンフィス・ベル」で、
破損したランディングギアを着地ギリギリまで手動でおろし続ける間、
全員がそれぞれの形で生還を祈るシーンがありましたが、
あのような光景がこのB-17の機内にも展開していたのでしょう。

爆弾マークの数の多さからも、ベテラン機であることがわかる、
(達成した任務は70回)この第12航空大隊のB-25ミッチェルは、
オーストリアへの爆撃任務の際、機首を吹き飛ばされました。

B-25のノーズはほとんど全面ガラスですから、おそらく帰りは
相当風通しが良かったと思われます。

ここには爆撃手と銃手がいたはずですが、彼らは無事だったのでしょうか。

こちらはBー24リベレーター

ユーゴスラビア上空で高射砲に見舞われました。
砲弾は胴体部分のコンパートメント内で破裂し、
制御ケーブルを切断してしまいました。

しかしこの機長はエンジンを使って進行方向を維持しながら
何とか無事にイタリアに帰還し着陸することができました。

きっとパイロットには殊勲賞が与えられたことでしょう。

サイパンから出撃したB-24リベレーターのコクピット。
硫黄島攻撃の際被弾し、操縦席の機長と副機長は共に負傷しつつも
機を操縦してサイパンに帰還することができました。

このB-17フライング・フォートレスは、ドイツ上空で敵の高射砲攻撃を受け、
制御ケーブルを切断し、二人のガンナーが負傷しました。

パイロットはそのままイギリスに飛び、
航空機関士に切れたケーブルの端を持たせ、
それを引っ張らせて何とか着陸することができました。

写真が不鮮明ですが、しゃがんでいる二人が見ているのが
そのくだんのケーブルだと思われます。

 

シンガポール上空で攻撃を受けた、
第20航空大隊のB-29スーパーフォートレス。
翼とエンジンが被弾したにも関わらず、無事に帰投することができました。

ヴィッカース・ウェリントン(Vickers Wellinton)は、
第二次世界大戦初期、王立空軍RAFで使用されていた
ヴィッカース製の爆撃機です。

ヴィッカースというとどうしても機銃をイメージしますが、
重工業会社として造船を行っていた当社が、
航空機製造を始めたのは1911年のことでした。

1920年代にはスーパーマリンを買収するなどピークでしたが、
戦後は航空機部門から撤退することになります。

「ウェリントン」はヴィッカース社が独特に開発した、
籠状に編んだ骨組みに羽布を貼った「大圏構造」
でできていました。

これによってウェリントンの機体は軽量かつ頑丈で柔軟性を持っていたのですが、
この不鮮明な写真でもおわかりいただけるでしょう。

機体後部の網のような部分、これが大圏構造なるものです。

メッシュ式の構造物をあえて剥き出して展示しています。
これは実にユニークな構造ですね。

Vickers Wellington.jpg

これが愛称「ウィンピー(Winpy)」の通常の姿。
もう一度最初の写真を見ていただくと、機体後部だけが剥き出しです。

このウェリントンは、当時盛んに行われていたドイツでの夜間空襲の帰り、
攻撃によって火がつき、外側の羽布が焼け落ちてしまったのです。

しかしながら構造物は無事だったため、外側を焼きながら飛んで、
なんとかイギリスに帰還することに成功しました。

このウェリントンに乗務していたのは、当時RAFの一部であった
ポーランド人からなる「外人部隊」の乗員たちでした。

イタリアの深い森林地域を機銃掃射しながら飛んでいたP-47サンダーボルト。
エンジンカウリング、プロペラ、翼全てにダメージを受けながら
無事に帰還することができました。

「穴の開いた翼から乗員が顔を出して記念写真」シリーズその2。

これは先ほどと同じ、イタリアに展開していたPー47サンダーボルト
無事に帰還後撮られたものです。
88ミリ機銃が直接翼に大きな穴を開けています。

イタリアで掃射中、第12航空隊P-47サンダーボルトのオイルラインに
高射砲が命中しました。
パイロットが無事に着陸したときには
エンジンの凍結がすでに始まっていたと言います。

第8航空隊のB-17フライング・フォートレスは、ドイツのケルン上空で
高射砲を受け、これだけの大きな穴が側壁に空いたにも関わらず、
無事にイギリスに戻ることができました。

壊れた機体と記念写真に収まっている乗員たちの顔は
やはりどことなく引きつっており、笑いはありません。

ノーズペイントはピースサインをする髭をはやした第一次世界大戦の兵士。
半裸や全裸の女性がほとんどのなかで異質の意匠ですが、
このおじさんは「オールド・ビル」といい、
これがこのB-17の愛称ともなっていました。

第365爆撃隊 B-17F「オールド・ビル」は、1943年5月15日、
ドイツ上空で敵戦闘機の正面からの攻撃を何度も受け、
深刻な被害を受けました。

この攻撃によってナビゲーター(ダグラス・ベナブル中尉)は死亡、
オールド・ビルに搭乗していたカメラマンを含む11人のうち、二人をのぞいて
全員がなんらかの負傷をするということになりました。

機長も副機長も負傷したため、無事だった爆撃手と二人のガンナーが
何とか安全地域にたどり着くまでの間操縦桿を握って二人を休ませ、
最後の滑走路への着陸だけをパイロットが行うことにして無事帰還しました。

吹き飛ばされた機首からは修理している地上作業員の姿が見えています。
作業員の足元にフライトジャケットが脱ぎ捨てられているように見えますが、
ここには当時極秘だったノルデン爆撃照準器があったため、とりあえず
それをかくすためにジャケットをかけて写真を撮ったようです。

手前の男性はオールド・ビルのノーズ・アートを描いた人なのだとか。

ノーズアートは大抵絵心のある乗員が製作しましたが、
この人がそうなのだとしたら、無事だったわずか二人のうちの一人が
まさにオールド・ビルの作者であったことになりますね。

機体の向こうが完璧に見える状態に・・・。
このB-17はハンガリー上空で直撃弾を受けました。

こんな状態で飛んで帰ってくることはもちろん不可能です。
着陸時に尾翼が崩壊し、そのショックで胴体は完全に破壊されました。

B-24リベレーターの尾部、銃手が配置されているところですが、
ドイツ上空で戦闘機によって激しく損傷を受けました。

写っているのは修理している人なのでご安心ください。

この状態で無事にイタリアの基地に戻ることに成功しました。

Bー26マローダーの尾翼部分を見たところ。

ほとんど縦一線に「筋目」がついているのは、
ノルマンディ上空で高射砲が当たった痕です。
この損傷によって尾翼はほとんど細断という状態になりましたが、
パイロットはエンジンのコントロールだけで方向を制御しながら、
イギリスに無事に帰ってきて帰投を果たしました。

傷ついた機体をコントロールして生還できるかどうかは
機長の冷静な判断と技術、知識、度胸次第ですが、
このマローダーのように特に優れたパイロットが乗っていたことが
乗員全員の命を救ったというのはラッキーで、もちろん戦争の期間
帰ってくることができなかった機体もたくさんあったのです。

ただ、その生還率を1%でも上げるために、アメリカという国が
航空機を作るときその堅牢さ何りも優先したことを忘れてはいけません。

助かった機体と皆で記念写真その3。

なんとこのB-17フライングフォートレス、
フランス上空でエンジンを失いました。
そして編隊を組んでいた後ろのB-17と空中でぶつかっています。

舵、スタビライザー、後部銃手のハッチ全てに
ダメージを受けたにも関わらず、無事に帰還することができました。

エンジンが片方だけでも帰ってくることができるんですね。

一緒に飛行していた編隊の航空機搭乗員たちは、このB-17の尾部が
完全に撃ち落とされるのを見て墜落したと思っていましたが、
なぜかちゃんと基地に帰ってきました。

必要最小限の機能が残っていたとしか考えられません。

戦闘機にラダーの一部とスタビライザーを完全に撃ち落とされ、
エレベーターの片側もなくなったにも関わらず帰還したB-17。

ドイツ上空で完全に尾翼から後ろを失ったB-17。
中身が奥まで見通せる状態です。

ウィーン上空でこのB-17フライングフォートレスは高射砲の直撃を浴び、
無線コンパートメントの側面が吹き飛ばされて、
ボールターレット砲塔にいたガンナーを内部に閉じ込めました。
(ターレットは下の方に見える)

ちなみにボールターレットとはこのようなものです。
小柄な男性しか入ることはできません。
敵機や高射砲にさらされたとき、ここに配置されている乗員は
さぞ怖いものだろうなあと実物を見ると思わずにいられませんでした。

この甚大な被害にも関わらず、機長はおよそ1000キロ機体を飛ばして
イタリアの基地に戻ることができました。

右下の画面に映り込んでいる悲壮な顔の乗員はガンナーでしょうか。

いくつも無事に生還してきた主に爆撃機の惨状を見てきましたが、
この、ケルンで高射砲を受けてかえってきたB-17に

「こんなのでよく帰ってこれたで賞」

を差し上げたいと思います。

改めて言いますが、本コーナーのタイトルは
「A Wing And A Prayer」

どちらも単数形なので、丁寧に翻訳するならば

「ひとつの翼、ひとつの祈り」

というところでしょうか。

当初「プレイヤー」(祈り)は鎮魂を意味するのかと思っていたのですが、
こうやって写真を見ていくと、この言葉には、
ダメージを受けた機体を機長たちを中心に、乗員が
一丸となって機体と自分たちを生還させるための必死の努力を行いながら
捧げていた「祈り」という意味が込められているのに気がつかされます。



第二次世界大戦の航空シリーズ 終わり


「トーキョー・レイド」ドーリトル帝都空襲〜スミソニアン航空博物館

2021-10-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
いかがでしたでしょうか。

5機の戦闘機を核に据えた展示と、当時の軍航空に関する話題で
しばらくお付き合いいただいていたわけですが、
もうあとのこすところ1回で最終回となります。

■ 軍用機搭載弾丸のいろいろ

このコーナーのタイトルは「Armament」となっています。

アーマメントは一般的に「兵器」「装備」を指し、大きな意味では
国の軍備や軍事力そのものを意味する言葉で、ここではおそらく
「装備」というのが一番近いのだろうと思うのですが、
展示してあるのは全て弾丸です。

「軍用機の主な任務の一つは、
様々な種類の発射体(projectiles)の発射です」

という文章から説明が始まります。

ここでまた違う言い方をしていますが、これも要は「弾丸」ということです。

「1940年から1945年の間に、アメリカだけで

42, 875,676,000個

以上の「millitary munitions」(軍需品)が
敵軍に対して使用するために生産され、これらのうち、
410億個を遥かに超えたのが、口径20ミリ以下のカートリッジでした」

また違う言い方がでてきましたね。

つまり英語では弾丸的なもの=装備=発射体=軍需品であると。
日本語の弾丸も、発射されるものによって
「砲弾」「銃弾」と変わってくるので、
英語でもこのような様々な言い方があるのでしょう。

弾丸そのものだと英語は「Bullet」となり、「砲弾」(shell) を包括しますが、
bulletは一般的に「ライフルから撃ち出される弾」です。

第二次世界大戦時代の航空機の弾薬は、
特定の目的を達成するために設計されました。
ここで説明する5つの弾薬は、
全ての使用者(交戦者)が利用した標準的な種類となります。

多くの場合、複数の弾薬を連結して使用することもあり、
標的の選択やダメージの与え方に柔軟性を持たせました。

航空戦が行われ始めた頃には、爆発性の高い焼夷弾が
他の航空機に対して効果的であるとされていましたが、
より強力な航空エンジンが登場すると、
爆発性及び焼夷弾の効果を軽減するために、セルフシーリング式燃料タンク、
そして装甲構造が機体に追加されるようになります。

徹甲機能を爆発物と焼夷弾に追加すると、
より強意攻撃力となることがわかり、
1944年までに、徹甲、爆発性、焼夷というダメージを与える要素を
一つのユニットに盛り合わせた発射体が使用されるようになります。

第二次世界大戦で証明されたのは、大容量の爆発性弾薬を利用した、
速射式高速航空機砲の威力だったと言って間違いありません。

ここで各国の弾丸についての紹介がありました。
全部紹介してもいいのですが、とりあえず日本のところにこうあります。

「焼夷弾」(Incendiary Ammunition)

は、バレルと空気の摩擦による衝撃で発射体の温度を上昇し発火する
非常に可燃性の高い物質(多くの場合リン)を運びます。

焼夷弾はあらゆる種類の可燃性標的に対して使用され、特に
石油やガソリンのタンクに対して効果的です。


その国特有の「発射体」についての説明かと思ったのですが、
わりと一般的なことしか書かれていませんね?

図部分に日本語訳をつけてみました。

ついでにドイツの爆発性弾丸の図解にもつけてみましたが、
おそらく専門的にはこういう訳はされないんだろうなー。

そもそもgain って何?←調べてもわかりませんでした

上から:

陸軍20mmタイプ97式徹甲トレーサー・航空機ガス作動銃用

陸軍20mmタイプ「ホ-5」徹甲弾

海軍ホッチキス型銃用

同型

同型(中身が見えるように裁断してある)

ヴィッカースM1924型ブローニング航空機銃用

同型

89型および92型陸軍海軍兼用銃用

そしてこちらはドイツの銃弾色々。
他にもアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍のものが展示されています。
イタリア軍は「Breda」という製品以外は
イギリスのヴィッカース社が多かったようです。

■ ドーリトル空襲



折に触れては取り上げてきた「帝都空襲」ですが、
スミソニアン博物館がどのようにこのイベントを取り扱っているか、
ということをお伝えしたいと思います。

この写真は、東京空襲の後、中国上空からベイルアウトした、
ドーリトル中佐とそのクルーたちの記念撮影で、一緒に
現地の中国人(通訳などをした人らしい)が写っています。

現地の説明です。 

「1942年、アメリカ合衆国は日本の真珠湾攻撃に対抗し、
日本本土の五都市を急襲するという計画を立てました。

ジェームズ・H・ドーリトル中佐率いる16機のB-25ミッチェルが
USS『ホーネット』の甲板から発進したのは4月18日。
場所は日本から1325キロ離れた海面でした。

ターゲットは東京・横浜・神戸・大阪・名古屋。
(ちなみにこの名古屋が”Nagoyo"になっているのはご愛敬)
それらの都市を空襲で叩いた後、中国大陸に逃げました。

3機が中国に到着する前に燃料切れとなり、そのうち2機は
日本軍の基地に、そして1機はロシアに着陸し、
そのほかは中国本土に達したものの墜落しました。

『ドーリトル・トーキョー・レイダース』(空襲者)は、
当時のアメリカ人たちに計り知れない士気の高揚を促し、
日本国民は国土を襲撃されたことに衝撃を受けました」

わかりやすいドーリトル隊の行動図。
空母を発進し、日本の目的地を空襲後、中国の自国基地まで飛ぶ、
というのが当初の計画でしたが、
攻撃終了の時点で燃料が極端に少なかったため、
あえてロシアに向かった1機がいました。

信用していないとはいえ、一応ソ連はアメリカの同盟国だったのです。

東京空襲に向かうため「ホーネット」を発進する
ノースアメリカンのB-25ミッチェル。

1機に乗っていたのはパイロット、コーパイロット、ナビゲーター、
爆撃手、そしてエンジニア兼銃手の5名でした。

東京空襲のために、ドーリトル隊機には特別に増槽が追加され、
搭載武器も通常より増やされ、さらにカメラが取り付けられていました。

ただし、ノルデン照準器は取り外されたそうです。

このことは、計画する方も、彼らの生還を期していなかった、
という過酷な現実を物語っています。

いままさに東京爆撃の任務を帯びて発艦するB-25ミッチェル爆撃機。

発艦するミッチェル。
「ホーネット」のそばにいた駆逐艦からの撮影でしょうか。

「東京空襲は、空母から発進した爆撃機による
初めての本土攻撃となりました。

攻撃隊は、発進地点を日本から725kmに要求しましたが、
沿岸から1290kmまでは日本側の哨戒が厳しかったため、
結論としてギリギリの地点からの出発を余儀なくされました。

このため、飛行機は全機が燃料不足となり、計画していた
中国への基地に達した機はいませんでした。

1942年4月18日午前8時20分、ドーリトル隊長を乗せた最初のB-25が
USS『ホーネット』の甲板から発進を行いました。

図にはマークがついていますので、まず
ドーリトル隊が空襲を行った日本本土の部分をズームします。

現地の地図では青い丸だったのですが、あまりにも見難いので
赤い星印に変えておきました。

東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と地域的には計画通りです。
実際の攻撃が軍事施設だけであったという彼らの主張は、
大いに間違っていることは当初から明らかでしたが。

は2機が落ちた日本の陣地のあった場所です。
乗員は捕獲され、うち3名が銃殺されました。

はその他の13機が到着した地点。
そのほとんどがアメリカ軍にとって安全な場所でした。

ドーリトル准将(最終)が獲得した勲章の全て。
なぜここにそれらがあるかというと・・・本人が寄付したからです。

しかも本人が生きているときに。

アメリカからだけでなく、レジオン・ドヌール、クロワ・ド・ゲールなど
フランス政府から、またベルギーや中国からのメダルもあります。

中国で発見されたドーリトル隊のB-25の機体の一部。
見つけたのが誰かはわかりませんが、
よくそういうものだと分かったなという感じです。

拡大してみると、中国語でびっしりと、
見つけた場所などが書き込まれていますが、
残念なことに展示が上下逆さまです。

ドンマイ。

■ フランク・カーツ大佐の軍帽

フランク・アレン・カーツ大佐(1911 - 1996)
本博物館に寄贈した軍帽が飾ってあります。

大佐とともに50回のミッションをこなした軍帽は、
そのままアメリカ陸軍航空隊の飛行の象徴でした。

標準仕様のサービスキャップからハトメを取り外し、
通信のヘッドセットを装着できるようになっています。

カーツ大佐はアメリカ陸軍航空隊の飛行士であると同時に、
オリンピック出場歴のあるアスリートとしても有名でした。


彼の航空歴はなんと16歳から始まっています。

いきなりオープン・コックピットの飛行機で航空レースに出場し、
新記録を打ち立てた彼は、飛び込みが得意でもあり、
1932年のオリンピックでは10メートル台で銅メダルを獲得し、
1936年には肩を負傷しながらも5位に入賞しています。

Frank Kurtz 1935.jpg

民間航空会社への就職するため、陸軍で操縦訓練を受けた彼は
そのまま陸軍に残ることになります。

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の2日後、
フィリピンのクラーク飛行場で起きた空襲の生存者でもあります。

カーツ大佐の戦歴というか功績は、スミソニアンにも記されているように、
この「スゥース」というB-17D-BO型フライング・フォートレス
後世に残したということなのかもしれません。


「スゥース」は第二次世界大戦の南西太平洋で幅広く使用されたものです。
現存する最古のB-17であり、
現存する唯一の初期の "シャークフィン "B-17であり、
1941-42年のフィリピンで活躍した唯一の現存するB-17であり、
アメリカの参戦初日に運用されたB-17でもあります。


真珠湾攻撃の8時間後、1941年12月8日に
日本軍がフィリピンの米軍施設を攻撃し、
極東空軍の多くが窮地に立たされました。

フィリピンにいた35機のフライング・フォートレスのうち、
破壊や深刻な被害を免れたのは19機だけという状態で、
地上作業員は破壊された他の航空機から回収した部品で
戦闘による損傷を修復しました。

このB-17Dは、ボーイングB-17Dの尾翼を接ぎ木して、
ハイブリッドになったのですが、それは当時人気のあった
ノベルティソング "Alexander, The Swoose "の歌詞のように、
「半分白鳥で半分ガチョウ」という状態だったので、あだ名もそのまま
「スゥース」となったというわけです。

Alexander is a Swoose
(子供の声真似をしている男性ボーカルがすごい)

終戦を前に、「The Swoose」はスクラップにされ、
アルミニウムの含有量を減らすために精錬される予定でした。

そこで出てきたのがカーツです。

オリンピックのアスリートとして、陸軍パイロットとして、
発言力のあった彼は、ロサンゼルス市を説得して、
この爆撃機を第二次世界大戦の記念に残すことに成功しました。

このB-17は、第二次世界大戦の始まりから終わりまで飛行した
唯一の機体です。

機体はわたしが見学したオハイオ州フェアボーンの
ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館で修復中、
という噂ではありますが、もしかしたら
もう修理が終わっているかもしれないので、
期待して写真を検索することにします。

ちなみにカーツ大佐ですが、24年間の軍生活を終え、
企業のエグゼクティブに迎えられ、国際水泳殿堂入りを果たすなど
悠々自適の余生を送ったようです。

彼はのちに女優になった "Swoosie "カーツという名前の娘を設けました。
もちろんその名前は、彼が第19および第463爆撃群で操縦した2機の
B-17 "The Swoose "および "Swoose II "に由来しています。

 

続く。


WASP(女子航空隊)とハップ・アーノルド将軍〜スミソニアン航空博物館

2021-10-26 | 航空機

WASP、Women Airforces ServicePilots 
については、当ブログで女性飛行士の紹介と言う形の紹介を
何度となく行ってきました。

今日はスミソニアン博物館によるWASPの資料を紹介します。

■ WASPの誕生

「第二次世界大戦のエース」に続く写真パネルで紹介されていた
WASPコーナーの説明によると。

「1941年、ジャクリーン・コクランが、輸送コマンド航空隊の司令官に
コンサルタントという形で任命され、軍航空飛行場において
輸送パイロットに女性を採用するという案の検討が始まりました」

このブログでは何度となくご紹介しているので、
コクランという女性が右下の大きな写真の人物であることは
皆さんも覚えておられるかもしれません。

しかし、これも記憶しておられるかもしれませんが、当時、
女性からなる補助航空隊の成立は世間の声とかが障害となって、
アメリカ合衆国の「オーソリティ(権威)」から拒否されてしまいます。

そこでコクランが話を持ち込んだのはイギリスでした。

コクランはまずそちら側に女子航空隊を創設しますが、
もちろんその際も表に立ったのは彼女ではなく、
あのハップ・アーノルド将軍でした。

アーノルド将軍については、「陸軍航空の父」という位置づけで
ここでも紹介していますが、女子航空隊創設を実現させた人物です。

さしずめ女子航空隊のアーノルド将軍が父、
コクランが母といったところでしょうか。


まずイギリスで女性パイロットによる補助航空隊を稼働させ、続いて
1942年9月にはアメリカに女性パイロットプログラムが組織されます。

プログラムは2部構成になっていて、ひとつは飛行経験者による輸送部隊、
そしてもう一つは未経験者の養成プログラムでした。

当ブログでは「クイーン・ビー」としてとして既にご紹介済み、

ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

がアメリカにおける輸送&教育隊の初代司令に任命されます。

Women's Auxiliary Ferrying Squadron、略称WAES
女性補助輸送中隊が正式な名称でした。

そして、イギリスの輸送隊を組織していたジャクリーン・コクラン
アメリカに帰ってきて訓練航空隊の創設に関わることが決まりました。

1949年8月5日、二つのプログロムが統合されて

Women Airforces Service Pilots (WASP)

が誕生します。

1944年に廃止されるまで、WASP全体的の総空中航行距離は6千万マイル。
プログラムに受け入れられた1074名の女性のうち、900人は
「実践」に出ることなく終わり、プログラム中に30名が殉職しました。

WASP alumni association, Order of the Fifinella, logo

「Order of Fifinella」(フィフィネラ団)

WASPは、プログラムが廃止される1カ月前の1944年11月に、
マックスウェル飛行場で「フィフィネラ団」を制定しました。

この組織の目的は、WASP解散後の再就職に関する情報の共有、
WASP出身者同士のコミュニケーションを維持すること、
そして航空業界の法律や潜在的な雇用者に影響を与えるための
統一された組織を形成することでした。

1944年12月20日には300人、そして1945年には会員は700人を超え、
WASPの全階級から代表者を集めた諮問委員会が設立されました。

時が経つにつれ、組織は会員数を増やしてゆきます。
具体的な活動は年2回のニュースレターの作成、
各地での同窓会のコーディネート、
すべての会員の消息を明らかにする名簿の管理などです。

最後の同窓会が行われたのは意外と遅く、2008年のことで、
開催場所はテキサス州アーヴィング。
そして翌年の2009年には正式に解散を行いました。

他のいくつかの航空隊のシンボルと同じく、
このデザインもディズニーによるもので、しかもスタッフではなく、
ウォルト・ディズニー本人の作画を使用する許可を得ています。

ちなみに「フィフィネラ」とは、航空隊の女性たちの面倒を見るために
航空機の翼の上に乗ってくれる小さな良いグレムリンのことだそうです。

■ ”ハップ”・アーノルド将軍

ところで、女子航空隊に最初は反対していたくせに、
結局のところ設立に鶴の一声でゴーサインを出したため、
「父」と言わざるを得なくなったハップ・アーノルド将軍の制服が、
まさにここWASPコーナーのおまけのように展示してあります。

アーノルド将軍の着用したこのタイプの軍服は、全ての将校に共通のもので、
一般にピンクグリーン」(Pinks and greens)と呼ばれていました。


ピンクアンドグリーンを着た陸軍幹部。
(左はおそらくジミー・ドーリトル?)

ピンクアンドグリーンは第二次世界大戦中の
アメリカ陸軍の将校用の冬服を指す愛称のようなものです。
ピンクという言葉が謎ですが、これはグリーンの上着に合わせる
ズボンがかすかにピンク色を帯びていたことからきています。

「陸軍が認めたものとしては最も派手で目立つ制服」

という評価のせいか、着用は勤務時間外か、非公式な夜の社交行事のみ、
と限定され、1958年には廃止されています。


アーノルドは1944年12月に元帥に昇進し、
特別記章を両肩に付ける身分になります。
第一次、第二次大戦にまたがる、長く際立ったキャリアの間に、
彼はそれこそ数多くの勲章とメダルを授与されましたが、
本人は陸軍勲章、殊勲飛行十字章、
そしてエアメダルのリボンだけをつけていました。

リボンの上にはコマンドパイロットのウィングマークがあります。

アーノルド将軍のファイブスターフラッグ実物が展示されています。彼はアメリカ陸軍と空軍、二つの軍で五つ星ランクを取った唯一の人物です。

1949年、特別にアーノルド将軍のために製作されたブルーフラッグは、
初の空軍大将旗として、
陸軍のレッドフラッグ将軍旗と対照的に用いられました。

大統領令としてファイブスターランクを与えると記された賞状実物。


1949年5月7日の議会命令により、アーノルドは空軍将軍に任命されました。
授賞式で、時の大統領トルーマンから任命書を受け取っています。

ここにはハップ・アーノルド、本名ヘンリー・ハーレイ・アーノルド将軍の
バイオグラフィーも展示されているので一応翻訳しておきます。

ペンシルバニア州生まれ、1907年ウェストポイント卒業
1911年、オハイオ州デイトンにあったライト兄弟の航空学校で飛行を学ぶ(ライト兄弟のどちらかに教わったわけではない)

1931年以降「ハップ」(HAP)とあだ名で呼ばれるようになる

1912年、マッケイトロフィー(航空レース)で優勝
1934年、アラスカへの初探検飛行を成功させる

1938年、陸軍航空隊の隊長に就任

1941年、陸軍航空隊司令官に就任、陸軍大将に昇任
連合参謀本部の一員となる

第二次世界大戦中、240万人以上の組織の長として
航空隊の訓練、装備を統括する立場に

1944年12月にが元帥位に上り詰める

1946年、陸軍航空隊指揮官を退役

彼は空中給油、無人飛行機、ボーイングB-29スーパーフォートレスなどの
高度な航空技術開発の先駆者であり、退役後も

航空科学と米空軍の技術開発の間の連携を指導しました。

そのリーダーシップ、そして個人的な経歴の積み重ねの成果は、
彼に「現代空軍の父」という名前を与えました。

女子航空隊WASPの創設も、そんな彼に取っての
偉大な業績の一つだったのです。

現在においてもハップ・アーノルド将軍は、
アメリカ空軍史上唯一の五つ星ランクの軍人です。

■ WASPのトレーニング

飛行場のエプロンを行進するのはWASPの訓練生たち。
航空パンツの上に半袖あるいは長袖の白いシャツ、
帽子はギャリソンキャップらしいデザインですね。

場所はテキサス州のアベンジャーフィールドで、これは
女子航空隊訓練課程の卒業式における整列の写真です。




同じくテキサス州スウィートウォーター(地名)のアベンジャー飛行場、
WASPの訓練生が航空エンジンについての実習を受けている様子です。

教員らしい右側の男性は航空隊の軍曹と言ったところでしょうか。

髪を伸ばしている人ばかりですが、考えてみると、
大多数のアメリカ人女性、とくに頻繁に美容院に行かない学生などは
ロングヘアにしていることが多いので、彼女らもそれと同じかもしれません。

写真で行われている実習は、基幹部品の組み立てのようです。

高気圧チャンバーでの耐圧テストを受けているWASPたち。
この設備はテキサス州ランドルフ基地にありました。

その他のテストにおいても、女性の輸送パイロットは物理的に
男性のパイロットよりも喪失率が低いことが証明されています。

しかも、女性の男性より少量の筋肉構造は、より重い航空機を飛ばす能力とは
何の関係もないということがこのとき明らかになりました。

颯爽と飛行服で歩くWASPたち。
四人並んでこんな風に歩いているポーズは
おそらく宣伝用に撮られた写真ならではでしょう。

WASPプログラムの最大の目的は、
男性パイロットを戦闘任務に集中させることにありました。
したがって彼女らの任務は輸送、標的の曳航、
管理飛行、ユーティリティ飛行などに限られました。

この4人のWASPはB-17を輸送する任務を行うパイロットたちで、
オハイオの飛行基地に、後ろに見える機体を運んできたところです。

■ アメリカ史上初めて「戦死」したWASPパイロット

Cornelia Fort

コーネリア・クラーク・フォート(1919年2月5日~1943年3月21日)は、
アメリカ人飛行士として2つの出来事に参加したことで有名になりました。

1つ目は、1941年12月7日、真珠湾攻撃の際に日本軍の航空隊と遭遇した
最初のアメリカ人パイロットとなったことです。

真珠湾で民間人パイロットの教官として働いていた1941年12月7日、
フォートは真珠湾近くの上空で、単葉機の教官席で離着陸を教えていました。

当時、港の近くを飛んでいたのは、
彼らのほか数機の民間機だけだったといいます。
フォートは軍用機が自分に向かって飛んでくるのを見て、咄嗟に
学生から操縦桿を奪って対向機の上に引き上げました。

その翼に旭日旗が描かれていると思った次の瞬間、彼女は
真珠湾から黒煙が上がり、爆撃機が飛んでくるのを見たのです。

すぐに、真珠湾口近くの民間空港に飛行機を着陸させたところ、
彼女の飛行機を追ってきた零戦は滑走路を空襲し、
彼女と生徒は逃げ惑いました。
このとき空港の管理者は亡くなり、
当時上空にいた2機の民間機も戻ってきませんでした。

そのことが彼女に軍隊に奉仕する志望理由を与えたのでしょう。

1942年本土に戻った彼女は、その年の暮れ、ナンシー・ラブに誘われて、
新たに設立された女性補助フェリー隊(WASPの前身)に参加して
アメリカ国内の基地に軍用機を輸送する仕事に従事しました。

そして、彼女が遭遇した二つ目の航空史に残る出来事とは、
彼女自身がアメリカ史上初めて
現役で死亡した女性パイロットとなったことです。

1943年3月21日、ロングビーチからダラスへ向かう編隊飛行中、
彼女のBT-13の左翼が一緒に飛んでいた男性飛行士の
ランディングギアに衝突したのです。 

このとき、男性飛行士はフォートの飛行機に近づきすぎ、
また近づいては離れるという不安定な飛行をしていたといいます。

そして両機は衝突し、フォート機の主翼の先端と前縁が破損。
男性飛行士は機を立て直すことができましたが、フォートは衝撃で
機体を急降下させ、そのままテキサス州の渓谷に墜落し死亡しました。

事故当時、彼女はWASPの中でも最も熟練したパイロットの一人でした。
彼女の墓の墓石には、

「Killed in the Service of Her Country」
(祖国のための任務中に殉職した)

と刻まれています。

続く。

 

 


映画「東支那海の女傑」後編

2021-10-24 | 映画

新東宝のアクション映画、「東支那海の女王」、続きです。
今日の挿絵は趣向を変えてアメコミ風に描いてみました。

女海賊、李花のアジトに中国海軍の士官がやってきました。
中国海軍の士官がこんな制服だったとは初めて知りましたが、
夏の二種制服の白に詰襟というのは世界共通なんでしょうか。

中国海軍は、海賊が日本の艦船と乗員を匿っていることを聞きつけ、
引き渡すよう要求して来ますが、李花は毅然とそれをはねつけます。

「ありがとう!」

田木少佐は感動して礼を言いますが、なぜか彼女は
顔を曇らせたまま無言です。

こうなったら一刻も早く、という横山の言葉通り、
黄海賊と帝国海軍が協力し、
漢万竜とその一族への攻撃はすぐさま実施されることになりました。

黄司令率いる部隊は島の正面から、横山大尉率いる部隊は側面から
敵の根拠地に乗り込んでいく、と李花はいうのですが、彼女の船はこれ。



伊勢志摩にいったときに見た観光船を思い出すわー。



海軍と海賊で両面から島に潜入しましたが、不思議なことに
島は今のところも抜けの殻状態で誰もいません。

万竜(中央)

それもそのはず、漢の部隊は侵入者を一望できる優位な場所に陣取り、
敵がやってくるのを今か今かと待ち構えていたのでした。

地雷に戸惑っていると上からの攻撃を仕掛けられます。
激しい銃撃戦が始まりました。

崖を這い登ろうとすると上からハリボテ丸出しの岩を落とされたり、
すっかり黄軍は不利な戦いとなりました。

横山大尉率いる海軍陸戦隊が側面から侵入してきました。
皆「呉竹」の乗員ですが、ちゃんと陸戦服に着替えております。

敵を引きつけてから撃つという李花の作戦に、横山の部隊が
側面から援護射撃を行い、さらに銃弾飛び交う中を軍刀で斬り合い。

当然の結果として、一人残った李花の侍女その2も銃弾に斃れました。

形勢不利と見て逃げようとする頭領の漢を横山が負い、
戦っていると、横から李花が容赦無く撃ち殺してしまいました。

駆け寄った横山大尉のセリフがすごい。

「李花、復讐を遂げておめでとう」

「とうとう仇を打ちました」

・・めでたいとかいう話かな?

しかも、この数分間で漢軍は全滅してしまったらしいんですよ。
なんか色々と展開が雑駁すぎるというかね。

さあ、次は海賊が約束通り「海軍を日本に送り返す」番です。
警備艦「呉竹」、いまや「泰明丸」の艦橋から田木艦長が放送を行いました。

「全員に告ぐ、ただいまより我々は母国日本に向かって帰る」

全員じゃなくて「総員」ね。
それから母国より「祖国」の方が適当かな(おせっかい)

祖国に帰れる喜びに、互いに顔を見合わせる乗組員総員。
しかし、リアルタイムで本艦には中国海軍が迫っていました。

「中国海軍が全速力で追って来たら泰明号と遭遇するのはここです。
この線さえ通過すれば、この島にいるあたしの仲間を通じて
あなたたちを日本に送り込めます」

なんか突っ込みどころ多すぎる気がしますがもういいや。

「ここまでお送りしたらわたしたちの仕事は終わりです」

「・・・お別れしなければなりません」

横山大尉はそれを聞いて目を伏せるのでした。

ところで、日中戦争終戦が9月9日ということは、映画が始まった時点で
すでに第二種軍装の着用期間は終わり、第一種に衣替えしているはずですが、
本作では最初から最後まで夏用の第二種で押し通しております。

これはひとえに第二種のが映画的に「見栄えがいい」とか、
そちらの方が天知茂の軍服姿が一層かっこよく見えるから、とか、
世間的にこちらの方が人気が高いからとかそういう理由によるものでしょう。

そして、このストーリーに無理やり海軍を絡めて来たのも、
この一種のコスプレ効果を期待してのことだと思われます。

またこの海軍二種が似合うんだ。天知茂。

泰明丸は東支那海に航海を始めました。
これは機関部のどこかだと思います。

海賊と海軍で運用をしているので見張りもこのようなことに。

その艦上で李花と横山大尉はまたも二人きりになりました。

「横山大尉、このような言葉があるのをご存じ?
『会うは別れの始めということ』

そんな言葉は日本人なら誰でも知っておる。

そして二人は、初めて会った時から互いに惹かれあっていたことを
あらためて確認するのでした。

(BGM『支那の夜』ストリングスバージョン)

「李花!」「横山!」

もしかしたら李花さん、横山大尉のファーストネームまだ知らないんですか?

二人の唇があと数センチで触れ合おうとするとき、
すんでのところで艦内に警報が鳴り響きました。

この「配慮」はプロデューサーの大倉貢が現場にいて、
社長に愛人のラブシーンをお見せするに忍びないと
現場が忖度したからだ、というのは穿ち過ぎでしょうか。

中国海軍が現れ、停船命令を発して来ていたのです。
ところが全力で逃げようとしたとたん、獅子身中の虫、
張が武器を手に艦橋に押し入って来ました。

張は停船を命じました。
泰明丸に乗り込んでいた海賊の多くが、実はうらで張と通じ、
叛逆の機会を待っていたということになります。

張はこの船を中国海軍に渡し、黄海賊も皆殺しにして、
東支那海の縄張りを自分のものにしようとしているのでした。

そして艦艇からダイヤを奪取させた成見を撃ってしまいます。
だからダイヤはクローゼットではなく金庫に入れておけとあれほど(略)

「次はお前だ!」

とさっきまでボスであったはずの李花を手にかけようとした時、
瀕死の成見が抵抗し、怯んだところを李花素早く射殺。

あとは乗員たちが大立ち回りして海賊をやっつけてしまいます。
これって李花以外の海賊は全員裏切り者だったってことでおK?

うーん、なんのために月月火水木金金の訓練を施してやったのか。

しかしそんな非常時にも中国海軍の停戦命令は続いています。

「仕方ありません!
潔く敵中へ突っ込んで華々しい最後を飾りますか!」

おいおい、横山大尉、何を言うとるんだ。
田木艦長は冷静に、

「戦争は終わったんだから艦長として無駄死には許さん」

田木艦長は総員退艦して日本に帰ることに力を尽くせと訓示します。

乗員は口々に何故戦わないのか、とか艦を見捨てることはできない、
などと叫びますが、艦長は文字通りの錦の御旗的に
陛下の御名前を出し、皆を黙らせてしまいました。

 

この映画が仮にも「戦争映画」を標榜するのならば、
最後に「呉竹」は中国艦隊に単身突入し、
派手な砲撃戦のうちにまず李花が斃れ、駆け寄った横山がやられ、
火の海となった艦橋に仁王立ちする田木艦長と、
その田木に総員退艦を命じられて涙を浮かべながら敬礼する乗員、
ついでにラストシーンは甲板で手を握り合って倒れている横山と李花の姿に
スポットライトがあたり、暗転して「終」が出ることでしょう。

しかしこの映画で描きたかったのはそんな戦闘シーンではなく
あくまでも女海賊のコスプレをした高倉みゆきであり、
その他もろもろは「彩り」というやつにすぎないのです。

そもそも戦闘シーンを描ききるほどの特撮技術も、
ご予算の関係で円谷英二を使えないのでは仕方ありません。

 

しかし流石にこれではあまりに海軍に失礼?ということなのか、
田木艦長が総員退艦後一人艦に残ると言い出します。

「艦長が陛下からお預かりした艦と運命を共にするのは最大の幸せだ」

でもこの艦、すでに海賊に売却されてませんでしたっけ。
陛下からお預かりした艦を中国海賊に売るのはオッケーだったの?

横山大尉は、

「艦長と一緒に死に花を咲かせてください」(意味不明)

乗員たちも自分も残るので戦わせてくれと口々に・・・。
すると田木艦長いきなり拳銃を出して、

「この後に及んで上官の命令に服従しない者は俺が処罰する!」

あーもう無茶苦茶ですわ。

わたし、このシーンでリアルに「おい(笑)」と声が出てしまいました。
しかもダメ押しに、

「横山。李花。日本に帰って一緒に暮らしてくれ」

うーん、それははっきり言って余計なお世話ってやつでわ。

「総員退艦!艦長に敬礼!」

前半から全く存在感のなかった田木艦長が、まるで主人公です。

そして一人舷側に立つ艦長と内火艇に乗り移った横山大尉たちの間に
最後の敬礼が交わされます。

帽振れは?帽振れはないの?

ボートの水兵たちは座ったまま敬礼。
これ海軍的にありですか?

そのときです。
いつ爆薬を仕掛けたのか全くわかりませんが、泰明丸、いや、
帝国海軍の警備艦「呉竹」は大爆発を起こして自沈しました。

( ;∀;) イイハナシカナー

「アッ・・・・!自爆だ」

沈みゆく艦に敬礼すると、横山大尉は

「田木艦長は・・日本海軍の最後を立派に飾ってくれた。
今、艦長の霊魂は我々の帰国を見守ってくれるだろう」

とさらに意味不明なことを言い、李花はそれまで胸につけていた
(冒頭写真ではくわえてますが)花を、
死者へのはなむけとして海に投じました。

彼らが内火艇で立ったまますごした夜が明けました。

日本にダイヤモンドを持ち帰るという任務の果てには、
この二人に新しい明日が待っているというわけです。

中国人の女海賊と海軍士官が結婚するというのは大変困難だと思いますが、
まあそれは横山大尉が出世を諦めればいいだけの話です。
それにこの後すぐに日本は大東亜戦争に突入ですよね?
そんなことを言っている場合ではなくなるはずです。

しかし二人は一縷の希望を抱きつつ日本への海路を進むのでした。

しかし内火艇に立ったままで東支那海から本土に帰るのは
なかなか辛いものがあるかもしれんね。

それから、この画面の水平線には、明らかに
大型船が3隻航行しているのが見えてますが、
これが中国海軍ではないことを彼らのためにも祈りたいと思います。





映画「東支那海の女傑」中編

2021-10-22 | 映画

新東宝映画、「東支那海の女傑」、2日目です。

李花が無情にも軍艦の砲を撃ちまくって敵に大ダメージを与えた夜、
アジトは勝利の美酒に酔う海賊たちの蛮声が響き渡りました。
海軍警備艦の乗員たちも混じって大宴会が行われています。

そんな中、横山大尉を体育館の裏に呼び出す李花。
ところが横山大尉、開口一番、こんなやばいことを言い出します。

「僕はあなたをそんな人だとは思いませんでした。
もっと・・・」

「もっと?」

「女らしいひとだと思いたかった」

アウト〜!ポリコレアウト〜!
さらに畳み込むように、

「なぜもっと女らしい道を選ばないんです!」

それを海賊の統領に言ってもだな。

自分の好み視点で相手を責める横山に、李花は、漢一族と黄一族の
東支那海の覇権をめぐる歴史的な相克について語ります。

「漢一族に復讐して東支那海を平和な海にしたいのです」

復讐、それは相手の殲滅と残党に対する容赦ない弾圧。
それを「平和」と言ってしまいますか。


しかし、これでおどろいてはいけない。
それを聞いた横山大尉、ツカツカと彼女に近づき、

「李花!」

と突然呼び捨てにして彼女の手を握ろうとするじゃありませんか。
それまでの話のどこでスイッチが入ったのか横山大尉。

っていうか人の話聞いてた?

手を握ることに失敗した横山大尉が宴席に戻ってくると、
用心棒の張恵烈がいきなりナイフを投げつけ絡んできました。

これはあれだな、嫉妬というやつだ。

いきなり殴られた横山ですが、きっかり相手を投げ飛ばしてお返しを。

この一連の激しいアクションを、天知茂はスタントなしで演じています。

横山にコテンパンにやられ、悔し紛れに短刀を振り回し、
それもやられて短銃を持ち出した張を阻止したのは李花でした。

ところで海賊たちと李花の会話は全て中国語です。
高倉みゆき発音こそあまり上手ではないものの、
長台詞もちゃんと演じています。

その晩、泰明号の周りをうろついていた漢海賊の一味が捕らえられました。
なぜそこにいたか聞き出すために、まず手下が拷問し、
縛り首にする寸前で女統領の元に連れて行きます。

すると彼女はにっこりと、

「目的を話してくれたら縄を解きます」

これで簡単に彼らは口を割るというわけですね。
そして彼らの目的とは。

「トランクを探して来いと言われました」

そこでピコーンときた李花、横山大尉をわざわざ呼びつけ、

「やっぱりあなた、何か隠していますね」

「・・・・・」(; ̄ー ̄)ぎくーっ
横山大尉、無言でしらばっくれます。

さて、ここは「呉竹」改め泰明号艦上。
「呉竹」の乗員がぷんすかしながら、海賊を指導しています。

「貴様らなんて物覚えが悪いんだ!
貴様らがちゃんとやってくれなければ俺たちは日本に帰れんのだぞ」

確かに海軍と海賊の契約は、軍艦を海賊に売って、そのかわり、
海賊は海軍艦で東支那海を突破して日本に送り届けるというものですが、

ちょっと待って?

この海賊が軍人を差し置いて海軍艦を運用する意味ってなんなの?
逆にいうと、海軍軍艦なら東支那海を突破できるってことなんじゃ?

それなら、何もこれを海賊ごときが無理して運用する意味もないですよね?

眉根を寄せながらアンニュイな表情で舷側をそぞろ歩く横山大尉を
田木少佐が呼び止めます。

「横山大尉、だんだん海賊ヅラになって来たな」

そもそも「大尉」を「だいい」と発音しないのがもうダメなんですけどね。
当ブログ的には。

「このまま海賊の頭目にでもなりますか」

「はっはっは」

しかし、田木少佐、そうボンクラでもないと見え、こんなことを言います。

「貴様の大冒険も悪い目が出そうな気がするよ」

「どういう意味ですか」

海賊同士の争いに巻き込まれかねないし、
そもそもあの女頭目が信用できない。
そういう田木少佐に横山が彼女を信用するべきだとおずおずと反論すると、

「惚れたな?あの女海賊に。
なに、海賊の女頭目をいっそのこと女房にするか」

気まずく薄笑いを浮かべる横山大尉でした。

そのとき、中国海軍が黄一族のアジトに乗り込んできました。
彼らは漢一味の密告により、日本の軍艦の存在を知ったのです。

中国海軍は李花に軍艦と日本人乗員の引き渡しを迫ります。

彼らを追い返した後、横山を憎む張は、日本人を軍艦ごと引き渡せ、
と李花に言いますが、彼女はこれをはねつけ、
我々と日本人が手を組めば中国海軍にとって脅威となる、と断言します。

「我々は無血で日本軍艦と日本軍を手に入れたいのです」



その晩、またしても李花の個室に侵入した横山大尉。

中国海軍から守ってくれた礼を言いにきた横山大尉に、
李花は、我々は中国海軍とは必ず戦う、なぜなら

「あなたたちを守って日本に返すのが海に生きるわたしたちの魂です」

とかいうんですよ。

女らしくない李花に失望したくせに、逆に海軍軍人たる自分が
女性に守ってあげると言われることになんの痛痒も感じないのか横山?

しかもほれた弱みというのか、思い入れたっぷりに

「あなたのことをもっと知りたいのです」

とかいわれて、ぺらぺらとダイヤモンド運搬の密命を喋ってしまいます。
(ちなみにこのダイヤで敗戦後の日本の再建をするそうです)

その任務遂行に力の及ぶ限り協力します、という李花。

前回拒否されましたが、今回は彼女の手を握りしめることができました。

よかったですね(棒)


ところで、新東宝と天知茂主演映画にありがちなことですが、
この映画は戦争ものではなく、主人公が海軍軍人というのは、
あまり本筋に意味がないというこの事実です。

「終戦のどさくさに日本にダイヤモンドを持ち帰る密命を受けた主人公が
海賊の助けを借りて東支那海を突破し日本まで送り届けてもらう_」

というこのあらすじにおいて主人公が軍人である必要はありませんし、
繰り返しますが、なぜ海軍が海賊に守ってもらわねばならないのか
全くわけがわかりません。

いくら沿岸に海賊が跋扈しているといっても、前半でもそうだったように
艦砲もないジャンク船など軍艦の相手ではないのですから、
軍艦でそのままぶっちぎって日本に帰ってしまえばいいのです。

考えられる可能性としては、敗戦したので中国海軍に見つかったら、
そのダイヤを接収されてしまうから、裏道を海賊に案内してもらう、
ということになろうかと思いますが、そんなこと言ってないんだよな。

いずれにしてもこの大前提にあまり説得力がないのは困ったものです。

李花をとられてやけ酒を飲んでいる張に、
当初から軍艦の中でこそこそ秘密を嗅ぎ回っていた怪しい日本人、
成見が、ダイヤモンドの奪取をけしかけます。

そのとき、前回李花が釈放した漢側の海賊二人が
やすやすと艦長室に忍び込んで、トランクを探し出しました。

あのさあ。

国家予算に相当するほどのダイヤを、どうして洋服ダンスの棚に入れて
鍵もかけず見張りもおかずに放置しておくと思うわけ?

もちろん、彼らはたちまち見張りに見つかって、
気の荒い乗員たちにタコ殴りにされるのですが、その騒ぎの中、
転がったトランクをこっそり持っていく人物がいました。

そう、もちろん成見ですよ。
なんと自分でカッターを下ろして軍艦から逃げ出しました。
もと海軍軍人かな?

ワクワクしてトランクを開けたら中から出て来たのは艦長の下着でしたとさ。
クローゼットに入っていたのですから当然でしょ?

その頃、「呉竹」あらため泰明号では、
横山らが李花に無事にダイヤモンド(らしきもの)を見せていました。

いくら説明するためでも現物を見せる必要あるかなあ。
しかもこのダイヤ、キラキラ光って原石にはとても見えません。
ブリリアントカットしてあるのかしら。

海賊団で会議が行われています。
議題は、いまさらなのですが、

「中国海軍に日本人を引き渡すかどうか決める」

それはしないと頭領の李花がもう宣言したんじゃなかったっけ。
つまり張が蒸し返してしつこく引き渡しを主張しているだけなのですが、
中国語でワイワイやっている彼らを眺めながら日本側は

「我々を引き渡すかどうかもめているようです」

と心配しています。
海賊と軍艦の売買契約をしてバーター成立したんじゃなかったのか海軍は。
もしかしたら文書とか全く取り交わしてないとか?

「我々は日本人との約束を守る!」

改めて李花が鶴の一声で議論を打ち切ったとき、ちょうど
漢一族のジャンク船がこちらに攻めて来たという知らせが入りました。

しかし、現れたのはジャンク船一隻のみ。
そのマストには、

「黄李花 大歓迎 漢万竜」

と書かれているではありませんか」

「謀られたっ!」
この一隻は囮で、軍艦をアジトから遠ざけるためだったのです。

主力軍の留守にアジトに攻め入った漢一族は、
留守番をしている者を無残にも殺害していました。

李花の侍女、長老も・・・・留守部隊は壊滅です。

ところがその中で一人生き残っていたのが成見でした。
当然彼は裏切り者の疑いをかけられます。

必死で言い訳をしますが、持っていた銃に硝煙反応がないことを
横山大尉に突き止められてしまい、田木艦長はいきりたって

「日本人の面汚しだ!俺が殺してやる」

などと銃を突き付ける騒ぎに。

そこで李花が成見を取り調べることになりました。
最後に生き残った無電師が成見を指差して死んだことから、
彼が無電師を使って漢に信号を送ったのだろうという推理です。

もう少しで自白するという時に、張がしゃしゃり出て来て、

「こんな奴は俺が本当のことを吐かせてやる!」

とか言いながら連れて行ってしまいました。
なぜかって?

もちろん彼らは裏でつるんでいるからですよ。
そして今回のことも実は張が計画したことなのです。
目的はダイヤモンドの奪取(だと思う)。

無残な殺戮の痕跡を目の当たりにした横山大尉は、今では
李花と黄一族が漢一族に持つ憎しみがよく理解できる、
と言い出しました。

「死んだあなたの部下の霊を慰めるためにも、今漢万竜を討ち、
復讐を遂げるべきです!」

「しかしわたしたちは1日も早くあなたがたを送り届ける責任が」

「ありがとう。
しかし、今この時を逸しては漢万竜に報いる時が無くなります。
我々に協力させてください!」

いやいや、軍隊というのは所属する国の防衛が主任務であって、
他所の国の、しかも惚れた女の復讐を果たすために、
一大尉が動かせるものではないんだが。

横山大尉、すっかり海軍部隊を私物化してるっぽい。
そして、

「我々は少数でも戦闘にも絶対の自信があります!
必ず勝ちます!我々を信じてください」

と胡散臭いセールスマンみたいなことを言い出すのでした。
戦闘に絶対の自信があるならどうして海賊なんぞに(略)


続く。


映画「東支那海の女傑」 前編

2021-10-19 | 映画

ディアゴスティーニの戦争映画コレクションより、東宝作品、

「東支那海の女傑」

を紹介します。

DVDパッケージは軍人姿の天知茂がマシンガンを構え、
高倉みゆきが仲間を引き連れて崖に立っているというもの。

これだけでも突っ込みどころ満載で、
当ブログで取り上げるべき作品に違いない、
と思いつつ、今まで手を出さなかったのは、
東支那海の女海賊というテーマ、しかもその海賊を演じるのが
高倉みゆきという、わたしの苦手な女優であること、
女性が主人公の戦争映画の全く興味をそそられなかったからです。

しかし、ディアゴスティーニシリーズの海軍ものも
残り少なくなってきたことですし、
天知茂の海軍二種軍装に免じて、今回は取り上げることにしました。

プロデューサーは新東宝のワンマン社長大倉貢本人です。
高倉みゆきが大倉の愛人だったことは、本人が

「女優を2号(妾)にしたのではなく、2号を女優にしたのだ」

と豪語したことで世間に有名になりました。

畏多くも高倉に昭憲皇皇后陛下を演じさせようとして、
共演予定のアラカン、嵐寛寿郎が難色を示したのに腹を立て、

「ワシの女やから、気品がないというのか? よし、見ておれ!」

と、無理やりゴリ押しキャスティングしてしまった前科もあります。
(ディアゴスティーニのコレクションには件の作品、
『天皇・皇后と日清戦争』もあるのでいずれ取り上げるかもしれません)

さて、それでは始めましょう。
場面は、終戦間近の中国、廈門のナイトクラブ。

扇情的な半裸の女性ダンサーが踊るシーンから始まります。
それにしても、このダンサー、スタイル容姿が全体的に残念すぎ。

しかもダンスが上手いわけでもなく、クルクル回ってはしゃがむだけ、
音楽と踊りが壊滅的に合っておらず、観客はこんなものを見て
いったい何が楽しいのかという代物です。

そこに用心棒と侍女?を引き連れて現れたのは高倉みゆき演じる
ナイトクラブのオーナー、黄百花

どうみても皇后陛下よりこっちの方が適役と思うがどうか。

カウンターには、プレーン(背広)姿の海軍士官、
我らが天知茂演じる横山大尉がいます。

そのとき憲兵隊が踏み込んできて、オーナー百花を
密輸容疑でいきなり引っ立てようとします。

「待て!」

そこに立ち塞がった横山、海軍司令部の肩書きをちらつかせて、

「日本軍に協力している人だ」

しかし上からの命令が、となおも反駁する彼らを撃退します。
一介の大尉ごときにそんな権限があるのかな〜?

しかし日本軍に協力しているあなたがどうして日本軍に疑われるのか。
それは何か怪しいことをしているからですか?と直球で聞く横山大尉。

彼女はそれには答えず、

「特務機関の方ですのね」

「はっはっは!」

なぜか話はここで終わってしまうので、
結局この時の容疑がなんだったのかは最後までわかりません。
まあ、一介の大尉が介入できるくらいなので
もともと大した話ではなかったのでしょう。

 

ナイトクラブは次の瞬間空襲に襲われるのですが、場面はすぐに
その爆音が爆竹音に変わり、終戦だという説明が字幕で行われます。

ご存知のない方ももしかしたらおられるかもしれないので書いておくと、
この戦争はアメリカなどの連合国軍の勝利で日本は負けた側。

正式には昭和20年9月9日です。

ここ廈門の海軍司令部では、司令官細川俊夫、役名なし)が
徹底抗戦するべきと訴える若い士官をなだめていました。

そこにやってきたのは横山大尉。

そこで司令官は横山にとある密命を授けました。

それは、日本国民が供出し海軍が保管しているダイヤモンド💎を、
敵方に窃取される前に日本に持ち帰り、海軍省の野村中将とやらに届け、
日本政府に返還させるというものでした。

なんで海軍が民間人から召し上げたダイヤモンドを
中国大陸で預かっているのかよくわかりませんが、
まあ要するにそういうことです。

しかし動乱の廈門はテロが横行し、沿岸には海賊が絶賛跋扈中。
脱出、しかもダイヤモンドを持ってのそれは容易なことではありません。

「しかしこれができるのは君を置いて他はない!」

悩める横山大尉が中国服に身を包んで歩いていると、
物陰から狙撃を受けます。
ところがちょうどそのとき、百花を乗せた車が前を横切り、
狙撃者を撃ち殺して彼の命を救いました。

この狙撃者が誰だったのかも最後まであきらかにされません。


さて、通常の方法で脱出は不可能だと考えた横山大尉は、

毒を持って毒を制すという作戦に出ました。

つまり海賊の有効利用です。

日中戦争当時「東支那海の女王」と呼ばれた、黄八妹という、
日本軍兵士を色仕掛けで誘って殺したとか、
リボルバーを両手に大立ち回りをしたとか、
それは海賊というよりスナイパーと違うんかい、
という伝説の女賊が実在していたそうです。

この映画はこの噂話に着想を得ていて、横山大尉はこの伝説の女海賊、
(本作では黄李花)に助けてもらおうとしたのです。



さてそのためにはまずどうするか。

「警備艦一隻買って頂きたい」

横山は黄李花の窓口となっている自称貿易商の劉に会うなりぶちかまします。

「軍艦を売ってやるから、その見返りに、
その乗員全員を日本本土まで安全に送り届けること」

それが横山大尉の出した条件でした。

ダイヤモンドを持った横山大尉自身ももちろん乗り込むつもりですが、
それにしても、一介の大尉に海軍軍艦一隻を
よりによって海賊に売ることを決める権限はあるんでしょうか。

というかこの計画、いろいろと突っ込みどころ多すぎ。

自分の一存では決められないので統領に会ってくれ、という劉の依頼に、
譲渡する予定の警備艦「呉竹」でアジトに向かうことにしました。

快くその任務を引き受けた艦長の田木少佐を演じる中村寅彦は、
現成蹊大学創立者の息子で、東京帝大卒。
「学士俳優」(いまなら高学歴俳優)の第一号です。

ちなみにもう少し下の世代には陸士及び東京帝大卒の平田昭彦様がいます。

アジトの島に近づくと、哨戒艇が警戒信号を発信して来ました。
しかし、劉が灯りを数回転させただけで去っていきます。

一体どういうスーパー通信方法なのか。

そしてアジトとされる島にいよいよ近づきました。
この島(じゃないと思うけど)は、ロケ現場となった和歌山県にあります。

ボートで上陸した彼らをお迎えしたのは、

敵意に満ちた目をした中国人海賊の皆さん。
はて、わたしたちなんか嫌われるようなことしました?

アジトに一歩踏み込むと、控えていた連中が手にした銃の実弾を
てんでに空に向かって撃ちながら走ってきました。

思わず身構える海軍士官たち。
しかしそれは女統領が帰還してきたことに対する歓喜の雄叫びでした。

どんだけボス好きなんだよ。
頭領が帰ってくるたびにこんなことしてたら弾がいくらあっても足りないぞ。

そして改めて海賊の頭領、黄李花の「謁見」を受けた横山は、
それがナイトクラブの百花と同一人物であるのに驚愕します。

李花は、自分の部下に警備艦の航行技術を伝授すれば、
あなた方を日本に送り届ける、とあっさり約束しました。
しかし、

「軍艦の艦名は『泰明号』と変えます!」

勝手に名前を変えられて、一瞬艦長の顔が曇りますが、
この際仕方ありません。・・仕方ないのかな。

李花のボディガード、は男前の横山が気に入らないらしく、
何かと最初からガンをつけてきます。

皆の前では黙っていた横山大尉ですが、後でこっそり李花の部屋に行き、

「驚きました・・・まさか百花さんが」

「百花ではありません。黄李花です」

そして

「あなたがたには何か重要な役目があるのでしょう。
なぜなら、よっぽどのことがなければ海軍軍人の命に等しい軍艦を
売るなどということは考えられられません」

と図星を付き、横山は押し黙ります。


翌日から海軍による海賊への航海術指導が開始されました。

手旗信号。

六分儀を使った天測。

射撃訓練。

それをするなら艦砲射撃じゃね?と思いますが、予算の関係上
セットが用意できなかったのだと思われます。

一番大切な、錨の揚げ降ろし。甲板作業一般。

そんなとき、海賊のジャンク船団が武器を満載して香港に向かっている、
という知らせが飛び込んできました。

相手は彼女の一族と東支那海の派遣を争う漢一味です。

すると李花は、警備艦「呉竹」を出撃させよ!と命じます。
いつのまに売却が済んだんだろう。

しかもマストにはいつのまにか旭日旗の代わりにこんな旗まで・・。

これ、田木艦長以下「呉竹」の乗員は誰一人文句ないの?
いくら上からの命令でも、中国人、しかも海賊に
艦名もメインマストも乗っ取られたとあっては、
おそらく下士官兵のクーデターは必至だと思うのですが。

模型は新東宝の特技班が手掛けています。

そして敵のジャンク船団・・・うーん・・(特撮のレベル微妙すぎ)

そして、いつの間にか司令官になり切った李花が、

「戦闘用意!」

田木艦長、貴様本当にそれでいいのか?

しかしいくら偉そうにしていても操艦は全て艦長が行います。
当たり前だよね。

と言いたいところですが、

「左20度!」「左20度!」

おい、いつから帝国海軍は取舵を左というようになったのだ。

そこでまたイラッとすることに、李花が

「攻撃用意!!」

そのセリフ回しが、なんと言ったらいいのか、

「あなたおしぼり持って来て」

とバーのマダムがボーイに命令するような口調なんです。
少なくとも軍艦の艦橋で人に聞こえるような声ではありません。

しかも、

「撃て!!」

まで言っちゃうんですよ。
撃てじゃないだろ!てー!だろ?
なんだこの女、とドン引きした横山大尉が、

「無抵抗に等しいものをなぜ撃つんです!
威嚇射撃だけでいいじゃないですか!」

と嗜めても、無視して、

「攻撃続行!」

周りの士官たちは互いに顔を見合わせながらも、しかたなく攻撃ヨーソロ。
田木艦長、貴様重ね重ねそれでいいのか・・・っ!


続く。


飛虎隊(フライング・タイガース)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン博物館

2021-10-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

第二次世界大戦の末期のこと。

台湾上空で交戦して撃墜された零戦搭乗員が、すぐに脱出せず、
機体を民家のない地帯まで飛ばし続けたため、敵に追尾され、
その結果落下傘を撃ち抜かれて墜落死したということがありました。

台湾に旅行したとき、そのときの搭乗員を村人の恩人として称え、
その魂を慰めるために創建した神社を訪れて紹介しました。

台湾 飛虎将軍廟〜神様になった海軍搭乗員

この神社の名前になっている「飛虎」は中国語で戦闘機を表す一つの言葉です。
この搭乗員、杉浦茂峰帝国海軍少尉を、台南の人々は
「戦闘機将軍」として祀っているのです。

しかし戦闘機を「飛ぶ虎」と言うようになったのはいつからなのでしょうか。

日本語中心で考えると「飛行」=「ひこう」→「ひこ」=「飛虎」ですが、
そもそも飛行機という言葉は日中どちらが先に作ったのかも不明なので、
ヘタな推測はやめにしておきます。

今日の本題は、それを英語にしたところの、

「ザ・フライング・タイガース」

についてですので。

■ フライング・タイガース

ビルマ公路(ロード)という言葉をご存知でしょうか。
インドからビルマ(現在のミャンマー)を経由して
中華民国に至る幹線道路のことです。

1944年のビルマ公路とレド公路

総延長1,154キロ。

1937年の日中戦争時に20万人の中国人労働者を使って作ったもので、
第二次世界大戦時にはイギリスが中国に軍事物資を輸送するルートでした。

このビルマ公路を上空から保護するという名目で組織された
アメリカのボランティア航空グループ(略してAVG)それが
「フライング・タイガース」でした。


1943年当時の中国全土における日米の基地所在地を表す地図です。
が日本軍、がアメリカ軍の基地のあった場所で、
米軍基地は1941−42年はAVG、ボランティア航空隊が使用しました。

航空隊の志願者はほとんどが元々陸軍か海軍の航空隊に所属していましたが、
ボランティアとして参加することを表明すると、政府の許可を得て
軍の任務を休止するという特別措置が取られました。

クレア・リー・シェンノート将軍が率いるフライング・タイガースは、
第一次世界大戦期間、最も有名、かつ有能な戦闘機ユニットのひとつでした。

AVGは43機のカーチスP-40と84名のパイロットで運用を開始し、
1941年12月18日、崑崙付近上空で初めて日本軍と遭遇することになります。

1942年7月4日、グループが正式に

陸軍航空隊 第23戦闘機部隊「フライング・タイガース」

となってAVGボランティアグループは廃止されました。

そして、1943年の3月になって、第14空軍ができるまで、
同グループは中国航空任務部隊の一部として活動しました。

そのときから終戦の日に至るまでの中国での航空作戦は
B-29によるものを除いて、全てが第14空軍の指令下で行われています。

シェンノートの巧みな戦闘機戦術のもと、フライングタイガーグループは
日本軍も空中戦で打ち負かされる可能性があることを証明し、
そのことはアメリカ全体の士気を高めることに成功したといえます。

「日本軍の輸送隊に背後から爆撃を行うP-40の編隊」

この絵を描いたTom Leaという名前に聞き覚えはないでしょうか。

ペリリュー島やエニウェトク島の戦いについて書いた時、
戦闘ストレスに冒された一兵士を描いた、

『海兵隊員はそれを例の2000ヤードの凝視と呼ぶ』
Marines Call It That 2,000 Yard Stare

を紹介しましたが、この絵の作者がトム・リーです。

ついでに、この、シェンノートの、
「写真より本人の特徴を捉えている肖像」
の作者でもあります。

シェンノートのフライトジャケット内側背部分に縫い付けられた
AVG(のちのAAF)「0001エアマンズ・フラッグ」実物。

来華助戦 洋人(美國)

軍民一体 救護

で、我々日本人には

「我々中国を助けるためにやってきたアメリカ人なので
軍民一体で救護してください」

という意味だと即座にわかってしまいますが、
しかし、英語の説明は、

「着用者はアメリカの航空士であり、安全に戻った場合は
(救護してくれた人に)報酬が与えられると書いてある」

となっています。
スミソニアンともあろうものが、と思いますが、
報酬を与えると書かなくては中国人は助けてくれない、
と頭から決めてかかっているので、こういう間違いが生じるのでしょう。

印象って怖いですね。

まずこの星条旗は、昆明(クンミン)の飛行場にあった
シェンノート将軍の本部で掲揚されていた実物です。

右二つのどちらも翼をつけた虎が図案化された肩章は、
第14航空隊のもので、いずれもシェンノートのAVG、
ボランティア航空隊の図案を発展させたものです。

これはたしかウォルト・ディズニーのスタッフのデザインだったかと・・。

シェンノートが中国で着用していたM1式ヘルメット。

そしてやはりシェンノート着用のA-2フライトジャケットです。

初期の「ボランティアグループ」時代、シャークペイントを施した
Pー40の前で整列するパイロットたち。

公式記録によると、AVGは投入開始から6ヶ月半で
280機以上の日本軍機を撃破し、
9名のパイロットと50機ほどのP-40を失いました。

1942年7月4日、第23戦闘機部隊のP-40が中国の基地に並ぶ様子。

1942年3月20付「ライフ」誌掲載のフライング・タイガース記事。

「フライング・タイガース・イン・ビルマ」

というタイトルに、サブタイトルは

「90日で十人にも満たぬ我がパイロットがジャップ300機撃墜」

公式記録よりかなりの数盛っていますが、まあこれはありがちってことで。
続く記事も少し翻訳しておきます。

3ヶ月の悲惨な戦争から一つの輝かしい希望が浮かび上がってきた。

それは、ビルマと東南アジアにおける通称「フライング・タイガース」、
カーチスP-40にサメのシャークマウスをペイントした、
戦闘機パイロット集団であるアメリカボランティアグループである。

彼らは多くの場合10対1と上回り(キルレシオで)これまでに
約300機以上のジャップ機を撃墜し、おそらく八百人以上を殺した。

彼らはビルマと中国南東部のジャップ空軍の攻撃に苦しめられている。
しかし同時にかつてはヤンキーの信念であったものを決定的に証明した。
つまり、一人のアメリカ人パイロットの力は

二人か三人のジャップに相当するということである。

「彼らが欲しい」

先週、オーストラリアのブレッティン中将は言った。

「200人のジャップに対し100人のタイガーがいたら負けないだろう。
私自身は日本軍を決して軽蔑するものではない。
彼らは『ゴッド・ファイター』だと思っている

これらの若者たちの驚くべきは次の点である。

1)彼らは最長で6年間の軍事飛行経験があり、自分たちのマシンが
何をするかについての本能的な感覚を持っている

2)彼らは空中で血を流し

3)彼らは常に空中での戦いに挑んでいる

その結果、彼らに遭遇した敵は相当な苦痛を与えられることになろう。

初戦において、彼らは喪失4機に対し相手を6機撃墜で報いた。
2回目の交戦では〜それは奇しくもクリスマス当日だったが〜
こちらの損失はゼロで78機の日本機のうち20機を斃した。

まさに「ホロコースト」スイッチが入ったのである。

AVGは文字通りボランティアとして陸海軍から志願してきた者たちである。
ジャップが気づかないように、内密理に生成されたその組織は
中国が戦うのを助けるということを目的としていた。

賃金は月600ドルで1機日本機を撃墜するたびに500ドルのボーナス出る。
米軍のランクはそのままであると保証された兵隊たち、そのほか、
「ツーリスト」(物見高い人)、曲芸師、芸術家などが、昨年の夏、
中国大陸のエアフィールドに訓練のため到着した。

航空隊司令はクレア・シェンノート大佐である。
大戦が始まった12月7日には彼らはすでに用意ができていた。

他の航空博物館で見覚えのある顔がいくつかあります。
上段左上から:

ジョン・V・ニューカーク分隊長(28)NY出身
イーグルスカウトだった

ジェームズ・H・ハワード分隊長(29)中国生まれ
中国語が喋れる

ロバート・レイエ飛行士(26)コロラド出身
海軍搭乗員

中段;

エドワード・F・レクター小隊長(25)ノースカロライナ出身
山間のコーン畑育ち、海軍入隊
『働き者の田舎少年』などと書かれている

デイビッド・リー・ヒル小隊長(26)テキサス出身
オースティン大学(名門)から海軍入隊。
海軍では「サラトガ 」と「レンジャー」に乗り組んでいた

フランク・リンゼイ・ロウラー飛行士(27)NC出身
「サラトガ 」航空隊にいたことがある(が何かの事情で首になった

下段;

ノエル・リチャード・ベーコン小隊長(24)アイオワ出身
父は市長経験者、ボーイスカウト出身、バスケットボール選手、
クラリネットも得意
教育大に進むもペンサコーラで海軍入隊 未婚

ウィリアム・エバート・バートリング(27)ペンシルバニア出身
建築業者の息子 カーネギー鐵工所で働いていたが海軍入隊、
「ワスプ」の急降下爆撃機に乗っていた

ヘンリー・M・ゲセルブラット二世(25)セントルイス出身
ワシントン大学およびUCLA卒業 
映画「急降下爆撃機(Dive Bomber)」の撮影のスタントを務める
飛行歴は早く、16歳でシカゴの航空フェアにデビューしている

 

まあ大体は軍人ですが、スタントをやっていた人とかもいたんですね。

最後に、フライング・タイガース必携だった会話帳です。
中国大陸に進出していたアメリカ人パイロットは、
このような手帳を携帯して現地の人とコミニュケーションしていました。

2、私はアメリカ軍人です。道に迷いました。

3、敵から匿ってください

4、5、6、7、日本軍(中国人ゲリラ、中国軍)の居場所から
どれくらい離れていますか

4から7までの質問に対する答えはどうやって聞き取ったのでしょうか。


続く。

 


制服ファッションショー(サービスユニフォーム編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-10-15 | 航空機

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
搭乗員の飛行服ファッションショーと銘打ってお届けしましたが、
今日は軍服(サービス・ユニフォーム)を紹介します。

まずは枢軸国から。

Flag of Kingdom of Italyイタリア王国

イタリア空軍のことをレジア・エアロノーティカというのを
わたしはルフトバッフェと同じくらい気に入っているので、
ここでも文字数は多いですがそう呼ぶことにします。

軍服ファッションショーのトップを飾るのは
やはりファッション大国イタリア、レジア・エアロノーティカの、
元帥閣下が着用されたサービスコートでございます。

スレート・ブルーの繊細な色合いがさすがイタリーのオフィサー用コートは、
アルベルト・ブリガンティ元帥の私物であったということです。

Maj. Gen.Alberto Briganti

シングル・ブレストでヒップ・レングス。
ボックス・プリーツ付きの上部ボタン・フラップ・ポケットが2つ、
下部ボタン・フラップ・ポケットが2つ。
金ボタンにはイタリアの王冠を冠した鷲のエンボス加工が施されています。

両袖口に金線の航空総隊章。

両肩に金線の航空上級士官章、両襟に金色の五芒星とイタリアの王冠の襟章。
左胸のポケット上には14個のメダルリボンが付いています。

これらは戦功十字章や永年勤続勲章のほか、第一次世界大戦の勲章、
1911年にイタリア・トルコ・リビア戦争、そして第二次世界大戦に参加した、
などという功績に対して授与された軍人としての記念です。


Cap, Service, Regia Aeronautica

是非アップで見ていただきたいのが士官用の正帽。
正面の帽章に凝った刺繍が施されているのは各国共通ですが、
他の軍帽なら黒一色が普通のいわゆる「腰」部分にも前面に刺繍があります。

写真のブリガンティ元帥は冬用の濃色の帽子を着用していますが、
夏用も冬用もカバーは使っていないので、レジア・エアロノーティカ、
夏冬で二つの帽子を取り替えて使っていたようです。

フレンスブルク政府 ナチスドイツ帝国

ルフトバッフェ 将校用サービスコート

Coat, Service, Officer, Luftwaffe

シングルブレスト、前身頃に4つの銀ボタン、
胸上部にボックスプリーツのポケット、
ジャケット下部に2つのボタン付きフラップポケット付き。

黄色の襟章は彼が飛行要員であることを示しています。
そしてハウプトマン(大尉)の階級を示す黄色の階級章

右肩にグルッペアジュタント(副官)を表す銀色の飾緒
右胸にある銀のワシはルフトバッフェ、ドイツ空軍の国家記章

そして右側胸ポケットに輝いているのが金色のドイツ十字章です。

海自では1佐以上の正帽の鍔につく刺繍を「カレー」と称するようですが、
なんと第三帝国でもこの手の俗称は存在していて、
この十字章をはじめとする金色のものは
「目玉焼き」(ドイツ語だからシュピーゲルアイ)
と呼ばれていたとかいなかったとか。

左胸の一番上にあるのが戦闘機パイロットを表すバッジ
左上ポケットの上部には戦闘記章リボン、左ポケットに第一級鉄十字章
左ポケットの下にある丸い月桂冠に鷲のアビエイターバッジとなります。

その他装備からわかるのは、彼が20回以上の飛行任務を行なっていること、
4年間の従軍記章を獲得していると言うことです。

乗馬用語でロングブーツとともに着用するズボンをブリーチと言います。

ちなみにこのブリーチ、膝から下はないので、ブーツを脱ぐと
ものすごくかっこ悪いシルエットになってしまいます。

ブーツなしではナチスドイツの制服は完成しない!ということですね。

両脇と、なぜかファスナーのあるところに小さなポケットがあります。
何を入れるためのポケットなんだろう。
家の鍵とかかな。

Dagger, Ceremonial, Officer, Luftwaffe

左の腰に将校用の短剣、M 1937が佩用されています。
銀メッキの儀式用短剣で、グリップは黄色のイミテーションの象牙、
柄頭(ポメル)には鉤十字があしらわれ、
刀の鍔にはドイツ空軍のワシが翼を広げた姿、
銀の結び目が付けられ、鞘はスチール製、ストラップはベルベット製です。

ドイツ空軍将校の正帽はブルーのウールが主材で、
シルバーのパイピング付きとなっております。

バイザーとチンストラップは皮、ピークには銀色のドイツ空軍の鷲、
帽章にあたる部分にはシルバーワイヤーの
黒、赤、白の花形帽章「コカルド」が付いています。

帽子の裏地には金色のプリントでメーカーのマークが入っています。

🇯🇵 大日本帝國

日本陸軍航空隊 士官候補生(軍曹位)パイロット軍服

「第二次世界大戦のエース」コーナーで海軍エースしか言及がなかったので、
公平を期すためなのか、軍服も飛行服も陸軍のものです。

いや・・・陸軍でもいいんですけどね。
どうせなら海軍第二種夏服、せめて第一種冬服にしていただきたかった、
と考えずにいられないのは私だけではないと信じたい。

展示されている陸軍航空隊(JAAF)使用、
オリーブ・ドラブ・ウールのサービス・コートは、
上部にボックス・プリーツとボタン・フラップ付きの2つのポケット、
下部にボタン・フラップ付きの2つのパッチ・ポケット、
フロントの5つの竹製ボタンには金色のペイントが施され、
ボタンには桜の花の彫刻が施されています。

この情報で「ボタンが竹製の金色ペイントだった」と知って驚きました。
金属不足だからといってボタンまで・・・・・。

ちなみに陸軍のズボンもブーツを履くことを想定してデザインされているので
ブリーチ式(乗馬ズボン式)で丈が膝までしかありません。

従って、短靴を着用するときにはゲートルを巻くことが必須でした。

Coat, Service, Enlistedman, Japanese Army Air Force

こういうマークにもいかにもお金をかけていない感じが・・・。

日本人ぽい顔のマネキンを特注してくれたのはありがたいですが、
陸軍の士官候補生なら丸坊主にしていたはずなのでこの髪型はバツです。

ガラスの説明にはこのようにあります。

戦争の最後の2年間、多くの日本軍の士官候補生たちは、
完全に訓練が完了しないうちに
戦闘部隊に割り当てられ実践を行いました。
これは日本軍の戦闘員の著しい損失によるものです。

・・・はい。


🇬🇧 大英帝国

ロイヤル・エア・フォース 軍曹搭乗員サービスユニフォーム

Coat, Service, Royal Air Force

英国空軍のブルーグレーのウール製サービスブラウス。

ウエスト丈の短いタイプで、前身頃は隠しボタンとなっています。
上部にボックスプリーツとフラップ付きの2つのパッチポケット、
身頃と一体型のウエストベルトはバックルで留めるタイプ。

左胸ポケット上部に王冠を被り、
中央にRAFとF刺繍のある翼のパイロット徽章、
左胸ポケット上部に
Distinguished Flying Crossリボン(紫と白の斜めストライプ)、


両腕に軍曹の階級章、右上と左袖に刺繍のRAFイーグル徽章。

Coat, Service, Royal Air Force

階級章の上の両腕に水色の刺繍のRAFイーグル徽章が付いています。

青のサービスユニフォームは案外他で見たことがありませんよね。

このユニフォームのブルーは1918年にRAFが創立した直後から
航空隊のシンボルカラーのようになっていました。

というわけで、フィールドキャップ(いわゆるギャリソンタイプ)、
サービスブラウス、ズボンは全てブルーです。

靴とネクタイは黒で、中のワイシャツの襟は取り外し可能。

ここの展示されている装いは、標準的な兵隊のもので、
袖のシェブロン(階級章)は軍曹のランクであることを示しています。

ところでちょっと余談ですが、
アメリカにシェブロン石油というのがあります。
このマークが、これ。

Chevron Logo.svg

軍服の袖にあって階級を表す山形の線のことを
「シェブロン」(Chevrons)というわけですが、この会社のマークは
まさにそれを表しています。

ちなみに最初は「パシフィック・コースト・オイル会社」という名前で
マークだけがシェブロンでした。

1969年、同社は社名をマークである「シェブロン」に変えます。
「シェブロン」そのものの意味は「山形のマーク」です。

彼の両肩には、このような向かい合わせの対になった
「アルバトロス 」の刺繍があります。
「アルバトロス付きの搭乗員」は、バトル・オブ・ブリテンなど
第二次世界大戦の期間を通してRAFで重要な役割を果たしました。

🇺🇸 アメリカ合衆国

アメリカ陸軍航空隊志願任務者ユニフォーム

大戦中搭乗した「アイク・ジャケット」は機能的でスタイル良く見えるため、
あらゆる階級の軍人の方々に大変ご好評をいただいております。

右袖口近くの三角形のマークは「コミニュケーションスペシャリスト」の印。
左袖口近くの3本の横金線は、かれが合計で
18ヶ月の海外勤務をこなしたということを表します。

胸元に日の丸が見えていますが、これは
反対側にある零戦のマークが映り込んでいるだけですので念のため。

ヨーロッパ戦線で陸軍航空隊の無線通信士として搭乗していた
M.モーガン・ローリンズ軍曹が着用していた制服です。

WASP(女性空軍サービスパイロット) ユニフォーム

それでは最後に、女性軍人(空軍パイロット)の制服をご紹介しましょう。

シングルブレストで仕上げられたウールのドレスチュニックは、
サンティアゴ・ダークブルーといわれる紺色です。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

フロントは金属製の3つの黒ボタン、左胸のWASPパイロット・バッジは、
中央にダイヤモンドの付いた翼がかたどられております。

四つのフラップ・ポケット、ウェスト部分のダーツは
女性の体型を美しく見せる効果があります。

両襟タブに光沢のある真鍮製の「W.A.S.P.」と空軍の翼付きプロペラの記章、
左腕の肩に陸軍空軍の刺繍入り記章
(青地に白の五芒星と赤のセンター・ドット、金の翼)が付いています。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

陸軍航空隊の徽章は左袖の上肩部分に付けられています。

帽子は小粋なベレー帽で、中央に
アメリカの鷲をあしらったバッジがあしらわれています。
おそらく当時のWACはこれを斜めにかぶって着こなしたのでしょう。
やはり女性軍人のためには
これ着てみたい!と思わせるデザインが必須ってことですね。

 

 

続く。

 


飛行服ファッションショー(各国編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-10-13 | 航空機

仲良く並んで紹介されていたアメリカ陸軍とルフトバッフェの飛行服を
前回紹介しましたので、続いて各国のパイロットの装備と参ります。

Flag of Kingdom of Italy イタリア王国

イタリア王立空軍 Regia Aeronautica Italiana
飛行服(合服)

単なる印象かもしれませんが、さすが国土が長靴の形だけあって
イタリア軍の飛行装備はブーツとか手袋の革製品の色が洒落てます。

しかし、ここでの説明によると、第二次世界大戦中、
イタリア空軍の搭乗員装備は、他国の空軍に比べると
標準化されてはいなかったようです。

飛行服はツーピースになっており、裏地のウールは取り外しが可能で、
気温が低いときの任務には重ねて着用することができました。

ヘルメットはドイツのジーメンス社のデザインに似ています。
イヤフォンとスロートマイクが内蔵されているというのも全く同じです。

スーツは他国と同様電気加熱式ですが、ミトンは絶縁されているので
スーツとは切り離して単体で使うことができます。

救命胴衣はイタリア空軍が頻繁に飛行しなければいけなかった
海上での任務には必須の装備でした。

この展示は足元にパラシュートのバックパックが置かれていませんが、
本体は標準的なタイプの降下スーツを装着しています。

上の写真で目を引く胴回りの金属の梯子のようなベルトは
パラシュートのハーネスを連結するためのものです。


🇯🇵 大日本帝国

日本陸軍航空隊搭乗員飛行服(冬用)

先日ご紹介したこのコーナーの「エース編」において、
どういうわけか全く日本陸軍のエースがないことになっていて、
それはもしかしたら陸軍エースの主な活躍が
中国大陸で英米とは馴染みがなかったから?
と解釈していたわけですが、ここ飛行服と制服のコーナーにおいては、
展示されているのは陸軍のだけで、逆に海軍がないことになっております。

これは深い考えがあってのことではなく、単に展示スペースの関係で
各国1〜2体ずつしかマネキンを置くことができなかったせいでしょう。

ヘルメットは毛皮で裏打ちされており、
イヤフォンの有無にかかわらず使用できます。

酸素マスクは第二次世界大戦中に日本で使用された品種の一つ、
としか書かれておらず、型番などについては
どうやらスミソニアンもわからなかった模様。

酸素マスクの素材は写真ではよくわかりませんが、
マスク部分はゴムのようです。

スミソニアンによると、日本の飛行服は大変作り込まれていて、
それはほとんどの部分を手作業で行っているから、ということです。

いくらなんでもさすがにミシンは使っていたと思うので、
何をもってスミソニアンが「手作業」というのかわかりませんが、
まあ、日本人の手先の器用さを称賛してくれている、
と無理やり考えることにします。

使い回しをしていたのか、飛行服には名札がなく、ただスーツの内側に
パイロットが自分で名前を書く欄があるということでした。

救命胴衣は他国とちがってフライトスーツと一体型に見えます。
救命胴衣には「カポックが詰められている」とあります。

カポックはカポックノキの果皮の内側に生じる軟毛で、
詰め物に使うものを指します。

自衛隊では(アメリカでも)救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。
これは第二次世界大戦ごろまで救命胴衣に
カポックが内容物として使われていたからなのです。

わたしなど、カポックというと観葉植物をまず思い浮かべますが。

そしてパラシュートのハーネスですが、
これが世界的にみるとなかなか「独創的」なのだとか。

英語で言うと「クイックリリース・ハーネス・デバイス」で、
要は簡易着脱式なのですが、残念ながら
どう独創的なのかまではわかりませんでした。

Personnel Parachute

足元に置かれた落下傘のバックパック(スミソニアンHPより)。
製造年月日は昭和18年8月18日、製造所は

藤倉航空工業株式会社

です。
同社は現在も藤倉航装株式会社として陸自の空挺隊装備を供給しているほか、
救命装備などの供給を行なっています。

型式は

「同乗者用落下傘九二式」

となっています。

 ソビエト連邦

ソビエト連邦人民空軍 搭乗員飛行服(冬用)

お分かりのように、写真大失敗しましたので、
スミソニアンのHPの写真で説明します<(_ _)>

ソビエトのパイロットは、極寒の天候下での作戦のために
飛行スーツは断熱であることが必須条件でした。

なぜならば、当時のソ連の飛行機は無線がないだけでなく、
コクピットがオープンだったからです。((((;゚Д゚)))))))寒

1941年配備されたこのワンピースのカバーオールは、
そんな厳しい条件下での任務をこなすパイロットのために作られたのです。

Shirt, Ground Crew, Enlisted man, Soviet Air Force

もちろん裏地は毛皮ですが・・・・剥き出しのコクピットに座るのだから、
全身皮のつなぎでもやりすぎと言うことはないと思います。

こんな見るからにペラッペラのスーツ、
いくらロシア人でも耐えられたんでしょうか。

まさか飛行機に乗る前にウォッカは飲まないだろうし・・・。

Helmet, Flying, Winter, Soviet Air Force

さすがにヘルメットは革製で毛皮の裏張りが施されています。

全身写真に次いで頭部のアップも撮影失敗です。
どうしてソ連軍だけこんないい加減にシャッターを押したのかわたし。

疲れてたのかしら。

イタリア軍ならいざ知らず、オープンコクピットで「風を感じる」には
ロシアの気候はあまりに過酷です。

しかしなんでこんなクソ寒いところで風防を装備しなかったかと言うのも、
その件のイタリア軍がサエッタMC.200の風防を
開放式にしたのと同じ理由だそうですね。

「ヘタリア伝説」などで、その理由がパイロットの「風を感じられないから」
という要望だった、とされていますが、
これは若干説明不足で、正式には

「風を感じないと速度の感覚が掴めないから」

というパイロットの切実な要求によるものだったのです。
(決して情緒的な欲求ではありません)

当時のガラスは品質が悪く、コクピットを覆ってしまうと視界が悪くなるし、
計器の精度も不確かとなれば、
パイロットは経験則に従って状況を判断するのが一番「安全」だった、
というのが本当のところなんですね。

そして、視界のよいアクリルガラスが作れなかったソ連も同じ理由で、
MiG-3やLaGG-3をオープンにするしかなかったということなのです。

というわけで、イタリアではどうしていたのか知りませんが、
ロシアの剥き出しコクピットでは
せめてこんなフルフェイスのマスクで顔を覆って寒さを凌ぎました。

ところで、こんなジェイソンみたいなマスクをつけながら
酸素マスクをどうやって併用できたのか。
皆さんもそんなことに気づかれたかと思いますが、ご安心ください。

ソ連空軍は基本的に酸素供給装置を必要としていませんでした。

というのも、ソ連空軍の主任務というのは主に地上部隊の支援であり、
高高度での空中戦になることなどほぼなかったのです。

低空飛行だけなら酸素マスク要りません、とこういうわけです。

🇬🇧大英帝国

イギリス王立空軍RAF 夏用搭乗員飛行服

ロイヤルエアフォースの航空搭乗員は、取り外し可能なフリースの襟を持つ
「シドコット(Sidcot)パターン」といわれる飛行服を着ていました。

「シドコット」は、シドニー・コットンという人名の短縮形です。

フレデリック・シドニー・コットンOBE(1894~1969)は、
発明家、写真家、航空・写真界のパイオニア。

日本では無名ですが、初期のカラーフィルムプロセスの開発・普及に貢献し、
第二次世界大戦前から戦時中にかけての写真偵察の発展に
大きく寄与した人物です。


シドニー・コットン

1917年、英国海軍航空局のシドニー・コットン飛行中尉は、
オープン・コックピットの航空機での飛行における過酷な環境や低温から
パイロットを守るための飛行服を開発しました。

これがシドコットタイプと呼ばれる飛行スーツで、その高機能ゆえ、
パイロットから非常に珍重される品となりました。

たとえばドイツ軍が英国人パイロットを捕虜にした際、
最初に「没収」したアイテムがこのシドコットスーツで、
たちまちドイツでもコピーが生産されるようになりました。

リヒトホーフェン男爵も撃墜されたときシドコットを着用していたそうです。

シドコットは1950年代までRAFなどの空軍で
改良を加えながら継続的に使用され、
今日の飛行服の「元祖」かつ「原型」となっています。

言うてはなんですが、やはり米英パイロットの装備は
ソ連のものとは随分出来が違う、という感を受けますね。

展示されているのヘルメットは「タイプC」で、イヤフォン内蔵。
酸素マスクは「タイプH」、こちらはマイク内蔵です。
(おそらく咽頭マイクでしょう)

Mask, Oxygen, Type H, Royal Air Force

マイク付きH型酸素マスクは緑色のゴム製で、黒色のゴムホース付き。
マイク用の接続線とオンオフスイッチまで装備しされています。

ゴーグルはMarkVIIIといいますから、
もうかなり改良が重ねられているということになります。

長手袋(ガントレットgauntlet)はウールの裏打ちがされており、
ライフベストは圧縮空気とカポックのフローティング機能搭載。

RAFはマーケット・ガーデン作戦で空挺部隊を出していますし、
パラシュートについては何か説明があるかと思ったのですが、
今回、どこを探してもこれらの説明はありませんでした。

 

続く。

 


スミソニアンの選ぶ第二次大戦のエース(西沢広義編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-11 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦のエース」シリーズ、
紆余曲折を経てついに最終回です。

スミソニアンに限らず、これまでアメリカの軍事博物館で
航空についての展示を見てきた経験から言うと、アメリカ人、そして
世界にとっての認識は、西沢広義をトップエースとしており、
岩本徹三はそうではないらしいと言う話を前回しました。

いずれにしても、日本軍が個人撃墜記録を公式に残さなかったことが、
岩本がトップエースと認められない原因であり、いまだに
世界のエースの残した記録という歴史的資料の上に、日本の記録が
正式に刻まれない理由でもあります。

部隊全体での戦果を重要視した結果、個人成績を記録しない、
というのは、その「精神」としては非常に日本的ですが、
どんなことでも書類に残す「記録魔」の日本人らしくなくもあります。

 

今日は前回に続いて日本のトップエース、西沢広義についてですが、
本稿で扱う情報は、あくまで英語サイトの翻訳ですので、
日本語での資料とはかなり違う点があるかと思います。

どうかそれを踏まえた上でお読みください。

 

【死の舞踏〜敵地上空宙返り事件】

さて、ここで、以前も当ブログで扱った、
実話かどうかわからない「あの」逸話についてです。
ぜひ眉に唾をつけながらご覧ください。

5月16日の夜。
西沢、坂井、太田が娯楽室でオーストラリアのラジオ番組を聴いていると、
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者である
カミーユ・サン=サーンスの「ダンス・マカーブル」(死の舞踏)が流れた。
この不思議な骸骨の踊りのことを考えていた西沢は、

「いいことを思いついたぞ!」

と興奮気味に言った。

「明日のミッションはモレスビーへの空爆だよね?
俺たちも『死の舞踏』をやってみようじゃないか」

太田は西沢の提案をくだらないと一笑に附したが、西沢は粘った。

「帰投後、3人でモレスビーに戻り、敵さんの飛行場の真上で
宙返り(デモンストレーション・ループ)をするんだ。
地上の敵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

太田は言った。

「面白いかもしれないけど、上はどうするんだ。
絶対に許してくれないよ」

西沢はニヤリと笑った。


決行日と決めた5月17日の任務終了後、坂井は一旦着陸したが、
中島司令に敵機を追うと合図して再び離陸した。

そして西沢、太田と上空で落ち合うと、ポートモレスビーに飛び、
緊密な編隊で3回の宙返りをやってのけたのだった。

西沢は大喜びで「もう一度やりたい」と言った。

零戦は高度6,000フィートまで降下し、さらに3回ループしたが、
地上からの攻撃を受けることはなかった。
その後、彼らは他の部隊から20分遅れて基地到着した。

午後9時頃、酒井、太田、西沢の3人は笹井中尉の部屋に呼ばれた。
彼らが到着すると、笹井中尉は一枚の手紙を差し出した。

「これをどこで手に入れたと思う?」

と彼は叫んだ。

「わからん?馬鹿者どもが!教えてやろう。
数分前に、敵の航空機がこの基地に落としていった」

英語で書かれた手紙には「ラエ司令官へ」とあった。

「本日基地上空に来訪した3人のパイロットに、
我々はとても感銘を受けております。

基地一同、我が上空で行ってくれたあの宙返りを大変気に入りました。
また同じ皆様が、今度はそれぞれ首に緑色のマフラーをつけて、
もう一度訪問してくれればこれに勝る喜びはありません。

前回はまったくお構いもできず大変申し訳ありませんでしたが、
次回は全力で歓迎することを約束いたします」

3人は固まって笑いをこらえていたが、笹井は彼らの馬鹿げた行動を叱責し、
今後敵地での曲芸飛行を禁止したのである。
しかし、台南空の3人のエースは、西沢の「ダンス・マカブル」の
空中デモンストレーションには価値があったと密かに納得していた。

ところで、英語の西沢のWikiには、この写真に写る手前が西沢とその零戦で、
後は彼の僚機であるという説明があります。

この情報も不確かですが、敵基地宙返りに関しては
そもそも台南空の行動調書にも、肝心の連合軍基地の記録にも、
そのようなことは全く残されていません。
(少なくとも台南空の行動調書はわたしも確認済み)

わたしに言わせれば、「死の舞踏」というサンサーンスの曲を
西沢広義が知っていたという可能性はもっと低く、さらにこの曲から
三回宙返りを思いつくということ自体日本人のメンタルに思えません。

これは後世の、日本人ではない作家の「創作」と考えるのが妥当でしょう。

 

【特攻掩護と西沢の死の予感】

この頃絶好調だった台南空ですが、勿論そのまますむわけはありません。
次第に疲弊を強め、薄皮を剥ぐように戦力は落ちていきます。

15勝のエースだった吉野俐(さとし)飛曹長を空戦で失い、
西沢は僚機である本吉義男1等飛兵を撃墜され失います。

「このとき着陸した西沢は、地上スタッフの彼のに対する歓声を無視し、
飛行機に燃料を補給し、銃を装填しろと命令して、
たった一人で行方不明のウィングマンを探しに行った。
2時間後に戻ってきた彼の顔には悲壮感が漂っていた」

 

この頃、西沢と対戦したVF-5のハーバート・S・ブラウン中尉は、
自分の機体に銃撃で損傷を負わせ、その後近づいてきた零戦の操縦席から、
搭乗員が彼に向かってニヤリと笑って手を振って去った、と証言しています。

なぜこの証言が残されたかというと、ブラウン中尉はその後、
F4Fを空母「サラトガ 」に帰還させ生きて帰ることに成功したからです。

西沢は相手に致命傷を負わせたわけではないことを知りながら、
あえてとどめを刺さず去ったということになります。

 

その後、坂井三郎はドーントレスの銃撃で負傷して帰国。

笹井醇一中尉は海兵隊戦闘機隊VMF-223の
マリオン・E・カール大尉に撃墜され戦死。
PO3C羽藤 一志(19勝)、WOC高塚寅一(16勝)、
PO2C松木進(9勝)が戦死。

太田敏雄34回目の勝利を収めた直後に
フランク・C・ドーリー大尉に撃墜され戦死。

1943年2月7日、ガダルカナルから最後の日本軍が退去し、
西沢は帰国して教官職を経たのち、第251空隊に編入され、
再びラバウルに戻ることになりました。

西沢は6月中旬までに6機の連合軍機を撃墜しましたが、その後、
日本の海軍航空隊は個人の勝利を記録することを完全に放棄したため、
西沢の正確な記録を把握することはこの時点で不可能になっています。

しかし、この頃、西沢の功績を称え、第11航空艦隊司令官から
 Buko Batsugun (=For Conspicuous Military Valor)
(武功抜群=卓越した軍事的勇気を称えて)と書かれた軍刀が贈られました。

西沢は9月に第253空に転属し、その後准尉に昇格しました。

アメリカのフィリピン侵攻の脅威が高まり、日本は
特攻という最後の手段を取らなくてはならなくなります。

関行男中尉ら爆弾を搭載した零戦を操縦する志願者たちは、
遭遇したアメリカの軍艦、特に空母に意図的に機体を衝突させるという、
「神風」と呼ばれる自殺行為の最初の公式任務を遂行することになっていた。


特攻機が突入した「セント・ロー」

西沢はこの護衛に付き、20機のグラマンF6Fヘルキャットと交戦、
彼の個人撃墜はは87に達した。
この時5機の神風のうち4機が目標に命中し、護衛艦セント・ローを沈めた。


1944年10月25日、護衛艦USS「ホワイトプレーンズ」に激突する直前の
関行男中尉の三菱A6M2

 

西沢はこの飛行中に自分の死を幻視した。
それは予感となった。

西沢は帰投後、中島中佐に出撃の成功を報告し、
翌日の神風特攻隊への参加を志願した。

中島は後に坂井三郎に「不思議なことだ」と言っている。
このとき西沢が抱いた予感とは、
自分はあと数日しか生きられないという確信めいた思いである。

中島は、しかし彼を手放さなかった。

「あれほど優秀なパイロットは、空母に飛び込むよりも、
戦闘機の操縦桿を握っている方が、国のために貢献できるからだ」

西沢の零戦には250キロの爆弾が搭載されたが、それに乗ってスリガオ沖で
護衛空母「スワンニー」に飛び込んだのは経験の浅い勝俣富作少尉だった。

「スワンニー」

沈没はしなかったものの、数時間にわたって炎上し、
乗組員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


【最後の瞬間】

自分の零戦が勝俣の特攻によって破壊された翌日、
西沢をはじめとする第201航空隊の搭乗員5名は、
中島キ49呑龍(「ヘレン」)輸送機に乗り込みました。

セブ島の飛行場で代替の零戦を受け取るため、
マバラカットのクラーク飛行場に向けて出発したのでした。

ミンドロ島のカラパン上空で、キ49輸送機は、空母USS「ワスプ」の
VF-14飛行隊のF6Fヘルキャット2機から攻撃を受けて撃墜され、
西沢は操縦者ではなく乗員の一人として死亡しました。

空中戦では絶対に撃墜されないと公言していた西沢は、ヘルキャットの
ハロルド・P・ニューウェル中尉の攻撃の犠牲になったのです。

最後の瞬間、彼が何を思ったか、その気持ちは容易に想像がつきます。

 

西沢の死に対し、連合艦隊司令官の豊田副武は、全軍布告で
その戦死を広報し、死後二階級特進となる中尉に昇進をさせました。

その頃の終戦時の混乱のため、
日本最高の戦闘機パイロットの葬儀が行われたのは
戦争の終結した2年後となる1947年12月2日のことでした。


英語の資料だと、西沢の戒名はこうなっています。

Bukai-in Kohan Giko Kyoshi

「武海院」

は間違いないと思うのですが、あとは力及ばず見つけられませんでした。
Gikoは「技巧」Kyoshiは「教士」かな。

最後に、あるアメリカ人ジャーナリストの、
彼についてのエッセイの最後の言葉を引用します。

Nishizawa was also given the posthumous name 
Bukai-in Kohan Giko Kyoshi, 
a Zen Buddhist phrase that translates: 
‘In the ocean of the military, reflective of all distinguished pilots, 
an honored Buddhist person.’

It was not a bad epitaph for a man once known as the Devil.

 

また、西沢にはBukai-in Kohan Giko Kyoshiという戒名が与えられた。
これは禅宗の言葉である。

「海洋の軍隊におけるすべての優れたパイロットの反映であり、
かつ名誉ある仏教徒であった男」

かつて "悪魔 "と呼ばれた男の墓碑銘としては悪くない。

 

続く。

 


スミソニアンの選んだエースと選ばなかったエース(日本編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-09 | 飛行家列伝

さて、最後まで引っ張ってしまいましたが、
「スミソニアンの選んだ第二次大戦のエース」シリーズ、
我が帝国海軍の二人のエースを紹介するときがやってきました。

言わずと知れた西沢広義と杉田庄一ですが、この二人については
今更わたしがブログに書くような情報はみなさんご存知のはずですので、
まずは、スミソニアンが選ばなかったエースから回り道します。

 

■ スミソニアンの選ばなかった日本人エース

スミソニアンが選んだ西沢、杉田は両者ともに海軍です。

西沢広義は名実ともに日本のトップエースとしてアメリカでも有名で、
日本の記録だと撃墜数143機、単独87機か36機とされており、
スミソニアンによるとこれが104victorysとなりますが、
数字だけならそれより上とされている、

Tetsuzo Iwamoto.jpg 

岩本徹三海軍中尉(自称202機、確実141機、記録80機)

が影も形もありません。
西沢の記録も曖昧なのは、海軍が1942年から撃墜記録を
公式に残すことをやめたからだとされています。

そして、西沢と杉田(70機撃墜)の間に、本来ならば
海軍エースの3位、日本人エースでは4位として、

福本繁夫

という搭乗員がいるのですが、どこにも資料が残っていません。
日本人ですら知らないのですから、スミソニアンが知ってるはずないですね。

そして、もう一人の「スミソニアンが選ばなかったエース」は、

上坊 良太郎(じょうぼうりょうたろう)陸軍大尉 

76機撃墜

となります。
福本さんはともかく、スミソニアンはどうしてこの人を無視したのか。
数字の上では、杉田庄一より上となるはずなんですが。

というわたしも、実は初めて聞く名前で初めて見る写真なので、
ざっとバイオグラフィーを要約してみます。

上坊 良太郎 1916(大正5)年 - 2012(平成24)年

陸軍少年飛行兵第1期出身。
20歳で明野陸軍飛行学校の戦闘機訓練課程を受ける。

翌年1937年日中戦争に出征し、九五式戦闘機で中国空軍のI-15を初撃墜。
1939年ノモンハン事件で18機のソ連戦闘機を撃墜。

帰国後陸軍航空士官学校に入校し少尉に任官。

南支の広東と武昌でアメリカ陸軍航空隊のPー40 と交戦。

その後太平洋方面でB-29を2機撃墜。

撃墜数については、公式記録が76機とされており、
さらに同期生などもその数を肯定していたものの、本人が
謙虚な性格のためそういったことを全く語ろうとせず、
回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、
シンガポールでのB-29・2機を含めて30機、というのが
どうやら「正確な数字」かもしれない、みたいな話になっており、
要するにスミソニアンとしても公式記録じゃないなら仕方ない、
ということだったのではないかと思われます。

もう一つ、上坊さんは戦闘機乗りらしい写真が全く残されておらず、
唯一見つかったのがこれだけ⇧だったので、やっぱりいかにもな
面魂を感じさせる杉田庄一にしておこう、となったのではないでしょうか。


日本のエースについては、いつの頃からか個人撃墜を記録することを
日本人らしい謙虚さに欠けるという理由で(知らんけど)
やめてしまったので、ワールドワイドなレベルでは
客観的な数字が出てこないという研究者泣かせの事態を生んでおります。

岩本徹三の名前が出なかったのも、おそらく信憑性の点で、
いくら多くても、酔っ払って本人が吹聴していた数字じゃどうも、
ということだったのではないかと思われます。

杉田庄一(すぎたしょういち)帝国海軍飛曹長

 C.W.O  Shyouichi Sugita

80機撃墜

杉田庄一の最終階級は海軍少尉なのですが、
スミソニアンでは「チーフ・ウォラント・オフィサー」を意味する
CWOがタイトルになっているので、飛曹長としておきました。

ただし、杉田飛曹長については英語の資料がほぼ皆無なので、
残りの紙幅を西沢広義情報で埋めます。

西沢広義(にしざわひろよし)帝国海軍飛曹長

 C.W.O. Hiroyoshi Nishzawa

1920年1月27日生まれ
日本、長野県
1944年10月26日没(24歳)
フィリピン、ミンドロ

104機撃墜

西沢広義については普通に日本語のWikiを見ればわかることばかりなので、
英語による記述を拾ってきて翻訳することにします。

西沢広義も最終階級は少尉ですが、スミソニアンでは
チーフ・ウォラント・オフィサー、兵曹長となっているので
それに準じました。 

日本のエースがどう海外で捉えられているかの理解の一助になれば幸いです。
ネイティブネーム 
西沢広義

ニックネーム  ラバウルの魔物
桜の暗殺者(まじかよ)

西沢は、その息を呑むような華麗で予測不可能な曲技と、
戦闘中の見事な機体制御により、同僚から「悪魔」と呼ばれていた。 

1944年、フィリピン攻略戦で日本海軍の輸送機に搭乗中戦死した。

戦時中、最も成功した日本の戦闘機のエースであった可能性があり、
86または87の空中戦での勝利を達成したと伝えられている。

【初期の人生】

西澤は、1920年1月27日、長野県の山村で、
カンジ・ミヨシ夫妻の五男として生まれた。
父は酒造会社の経営者であった。
広義は高等小学校を卒業した後、織物工場に就職した。

1936年6月、西沢は「予科練」への志願者を募集のポスターに目を止め、
応募して、日本海軍航空隊の乙種第7飛行隊の学生パイロットの資格を得た。

1939年3月、71人中16番目の成績で飛行訓練を修了した。
戦前は、大分、大村、鈴鹿の各航空隊に所属した。
1941年10月、千歳航空隊に転属し、階級は一等兵曹となった。

【西沢広義という人物】

西沢広義は、痩せこけて病弱のような顔をしていたが、
零戦のコックピットに座ると「悪魔」と化した。

ドイツのエーリッヒ・ハルトマン、ロシアのイワン・コジェドゥブ、
アメリカのリチャード・ボングなど、
第二次世界大戦時の戦闘機パイロットの多くは、
生まれながらにこの名誉を背負っているような雰囲気を持っていたが、
日本のトップエース、西沢広義は決してそうではなかった。

戦友の一人、坂井三郎は、西沢のことを、

「病院のベッドにいてもおかしくないタイプだった」

と書いている。

日本人にしては背が高く、5フィート8インチ近く(177cm)あったが、
体重は140ポンド(63kg)しかなく、肋骨が皮膚から大きく突き出ていた。

柔道と相撲に長けていたが、坂井はまた、西沢が常に
マラリアと熱帯性皮膚病に悩まされていたことを指摘している。

「いつも顔色が悪かった」

坂井は西沢の数少ない友人の一人だったが、

「普段は冷たく控えめで寡黙、
人望を集めるタイプではなく、どこか哀愁を帯びた一匹狼的人物」

と表現している。
(ここは考えられる限り穏便に翻訳してみました)

しかし、西沢は信頼するごく一部の人たちに対しては、非常に誠実であった。こんな西沢は、三菱A6M零戦のコックピットの中で、驚くべき変貌を遂げた。
坂井は、

「一緒に飛んだすべての人にとって、彼は "悪魔 "だった」

と書いている。

「西沢が零戦でやったようなことを、他の人がやったのをみたことがない。
その操縦は息を呑むほど見事で、まったく先の予想がつかず、
見ていて心が揺さぶられるようなものだった」

彼はまた、誰よりも早く敵機を発見できるハンターの目を持っていた。

新世代の米軍機が日本軍から太平洋の空を奪い取った時でさえ、
零戦を操縦している限り、彼に敵はないと皆が確信していた。


【ラバウルの悪魔】

1941年12月7日の開戦後、西沢を含む千歳グループの飛行隊は、
ニューブリテン島に到着し、台南航空隊に参加してラバウルに展開する。

彼の初撃墜はポートモレスビーで遭遇した
オーストラリア空軍のカタリナI型飛行艇である。

3月14日、アメリカ陸軍航空隊のP-40の撃墜を部隊として主張したが、
これらはいわゆる個人の公式記録とはなっていない。

日本軍は、個人の成績を集計することを奨励せず、
部隊のチームワークを重視していた。
フランスやイタリアと同様に、撃墜は個人ではなく
航空隊の勝利として公式にカウントされるのが常だった。

したがって、日本の飛行士の個人的な撃墜記録は、
戦後になってからの本人の手紙や日記、あるいは
仲間の手紙などをもとに確認するしかないのが現状である。

西沢もまた、スピットファイアを撃墜したと主張しているが、
当時のオーストラリア軍にはスピットファイアは存在していない。


その後日本軍はラエとサラモアを占領し、西沢を含む戦闘機中隊は
斉藤正久大尉の指揮する台南空に編入された。

台南空の笹井醇一中尉率いる台南空の零戦隊は、4月11日、
ポートモレスビー上空で4機のエアコブラと遭遇した。

笹井は、本田PO3Cと米川ケイサク1飛兵の2人の翼手に守られながら、
最後尾の2機のP-39に飛び込み、即座に2機を撃墜している。

この時の空戦で、坂井が零戦を横滑りさせて
先頭の2機の真後ろにつけようとすると、
戦いはすでに2機によって終わらされていた。

「2機のP-39は、真っ赤な炎と濃い煙を上げながら、
狂ったように地球に向かって突っ込んでいった。

私は、急降下から抜け出したばかりの零戦の1機に、
新人パイロットの西沢博義が乗っているのを確認した。
一発で命中させた2機目の零戦(太田敏雄操縦)も、
急降下しながら編隊に戻ってきた」

この時から、西沢と22歳の太田は、台南空の際立った存在となる。
坂井は

「よく一緒に飛んでいたので、他のパイロットからは
 "クリーンナップ・トリオ "と呼ばれていた」

と書いている。

太田は外向的で陽気で愛想が良かった。
坂井は、太田のことを

「辺鄙なラエなんかよりも、ナイトクラブの方がしっくりくるような」

と評していた。

しばらく勝ちのなかった西沢が、3機のP-39とP-40を撃墜し、
帰投してきた時の様子を坂井はこう書いている。

「零戦が止まったとき、西沢がコックピットから飛び出してきた。
いつもはゆっくりと降りてくるのに、今日はゆったりと伸びをして、
両手を頭上に上げて『イエーイ!』と叫び、 ニヤリと笑って去っていった。

その理由は、笑顔のメカニックが語ってくれた。
彼は戦闘機の前に立ち、指を3本立てたのだった。

西沢が復活した!

 

ナイトクラブは謎だわ。

続く。

 

 


飛行服ファッションショー(米独編)〜第二次世界大戦の航空・スミソニアン航空博物館

2021-10-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
今日は当時の航空搭乗員の制服ファッションショーをお送りします。

搭乗員のユニフォーム展示は、この一角の他、アメリカ搭乗員と
ルフトバッフェのものは下階のマスタングの横、それからどういうわけか
イギリス軍のは踊り場の途中とよくわからないところに分散されています。

それでは早速参りましょう。
まずはアメリカ航空隊のユニフォームからです。

🇺🇸 アメリカ合衆国陸軍航空隊

アメリカ陸軍航空隊搭乗員服(夏用)

右手に持った皮の手袋には

「ARMY AIR FORCES」

とあり、左手の丸い定規状のものには「コンピューター」と書いてあります。
夏用の飛行服は非常に軽量にできていました。

ヘルメットはAN-H-15型ゴーグルはAN-6530型
酸素マスクはAー14型、などとすべての型番が明記されています。

そのなかでT-30-Q throat microphone「喉マイク」
この言葉を全く聞いたことがなかったので調べてみました。

スロートマイク=喉頭マイクは、首に装着したセンサーによって、
喉から直接振動を吸収するマイクの一種です。

なんと米軍、第二次世界大戦中に、すでにこのような、航空機コクピットの
風の強い環境でも音声を拾うことができるシステムを開発していたのです。

高度な喉頭マイクはささやき声でも拾うことができるため、
ヘルメットや呼吸器を装着しながらでも使うことができます。

スロートマイクは、マスクのフェイスシールの外側に着用し、
酸素マスクと併用できるというわけです。

この写真で搭乗員が首輪のように付けているのがスロートマイクです。

MiGパイロットの着用例 髭が濃くても大丈夫!

スロートマイクを発明したのはイギリスで、第一次世界大戦のころには
すでに革製のヘルメットに組み込むタイプが存在していました。

第二次世界大戦時にはルフトバッフェとドイツ戦車兵が使っており、
その後アメリカ軍もこれを使うようになったというわけです。

ソ連製

ルフトバッフェから、ロクな設備がなくて可愛そう呼ばわりされた
ソ連軍のパイロットですらこれを使っていたというので、
おそらく大日本帝国空軍にもなんらかの装置があったと考え、
調べてみたら、「日本の軍装」という図解本に、ちゃんと
海軍搭乗員の「咽頭マイク」Larygophoneが描かれていました。

写真で見たことがなかったのは、皆このマイクの上から
白い絹のマフラーをしていたからでしょう。

true airspeed G-1 Computer 

これもいまいちよくわからなかったのですが「true airspeed」は対気速度。
つまりこの円盤みたいなのは、
対気速度に特化したフライトコンピュータです。

ピトー管により測定される全圧、静圧孔から測定される静圧、
そして空気密度がわかれば、
ベルヌーイの法則を使って対気速度が求められます。

航法計算盤といわれるフライトコンピュータにこれらの数字を入れると、
簡単にそれが計算できるというわけです。

一番外側にあるTASというのがtrue airspeedのことで、
この計算尺はノット表記です。

足元のパラシュートはスミソニアンが細部の写真を撮ってくれています。

Parachute S-1 seat type

搭乗員が履いている耐Gスーツをご覧ください。

この画期的な発明によって、アメリカ航空隊のパイロットは
少なくとも第二次世界大戦最後の2年間というもの、
敵国に対してたいへん強力なアドバンテージを得ることになりました。

昔我が家は岩国の海兵隊基地に訪問し、戦闘機パイロットのブラッドに
基地の中を案内してもらったことがありますが、同行したMKが、
ロッカールームで海兵隊パイロットの耐Gスーツを
実際に身につけさせてもらいました。

MKがそのときに身につけた耐Gスーツは、
ここにある第二次世界大戦時のとほとんど同じ形状をしていましたが、
同じ理論によるものなので、変わっていなくて当然ですね。

アメリカ陸軍航空隊乗員服(冬用)

爆撃機の搭乗員の冬または高高度用の飛行服です。
飛行服の下には、しばしば電気加熱式の衣服が着用されました。

ヘルメットは1943年8月6日に規格化されたA-11型。の上に、
M3スチール製「フラック」ヘルメットを重ねて使用しています。

まずAー11型は第二次世界大戦中に最も人気があり、
広く使用されたタイプです。
ゴム製のイヤホン取り付け部は、ラジオ受信機が内蔵されています。

フラック(flak)ヘルメットは、
内部に防寒用のウールがライニングされています。

そして電気加熱式ポラロイドゴーグル

ポラロイドというとわたしたちはインスタントカメラのことだと思いますが、
元々の意味は「人造偏光板」のことなので、こちらでは
遮光メガネのことを「ポラロイズ」と言ったりします。

そのゴーグルまで電気加熱式とはさすがはアメリカです。

そして酸素マスクにはもちろんマイクが内蔵されています。

Bー3タイプのフライングコートは裏地がフリースでできています。
外側はもちろん皮革でしょう。
ズボンはA-3タイプ、手袋はA-9タイプといちいち制式番号が付きます。

そして、特筆すべきは
スチール製のボディアーマー=「フラックスーツ」
を着ていること。

フラックスーツは、スチールが内蔵され、エプロンのついた前身頃と、
装甲のない後ろ身頃からできています。

ちなみに日本機と違って彼らの座席は装甲タイプなので、
ボディアーマーの背中側の装甲は省かれています。

これらはパラシュート降下の際に対応しています。
エプロンの下の緊急リリースを引っ張ると、瞬時にして
パラシュートのパックをハーネスに装着することができるのです。

こういうことを調べるたびに思うのは、アメリカという国は
人材の確保=人命を本当に重要視していたということです。

飛行機は落とされても作れるが、莫大なお金と時間をかけて
育成した搭乗員の命はそうそう失うわけにはいかない。
ということですよね。

言いたくありませんが、座席に装甲板どころか穴を開け、
パラシュートもろくに搭載せず(面倒くさがって
搭乗員が積まなかったという噂もありますが)生身の人間を、
攻撃され、落とされること前提の戦闘機に乗せていた日本軍って・・。

マップを入れるポケットは、
ズボンではなくブーツに付いているのがアメリカ式。
足元のものはパラシュートです。

そういえば昔、海軍兵学校に終戦の年に在籍していた方が、
呉大空襲の時に撃墜されたアメリカ軍の飛行士の遺体が
学校の前の湾から引き揚げられたとき、その遺体を見て
何より目を奪われたのが、彼の履いていた皮のブーツだった、
それはそれは立派なもので驚いた、といっていたのを思い出します。

ちなみにアメリカでは「フラック」ジャケット、
スーツなどはボディアーマーといいます。

フラック(Flak)の語源は「フラッグ」(破片、フラグメント)
から来ているとか、ドイツ語の対空砲
Fliegerabwehrkanone"「航空機防御砲」の省略形、
「flak」であるとかいわれていますがはっきりしていないようです。

 

フレンスブルク政府 ナチス ドイツ ・ルフトバッフェ

続いて、あまり実物を見る機会が少ないルフトバッフェの
冬用飛行服をご覧いただきます。

1944年冬のコレクション(ファッションショーっぽい?)から、
金属製のジッパーの代わりにプラスチック製をあしらった、
標準的な冬の飛行服のラインでございます。

冬の任務にも耐える毛皮の襟付きジャケット
両袖にはルフトバッフェの特別な徽章があしらわれており、
この搭乗員がT/Sgtつまり軍曹のランクであることを表しています。

アメリカ軍の冬用と同じく、飛行服の裏地にはフリースを用い、
軽さとともに保温性を重視したお作りとなっております。

同じく起毛したフリースで裏打ちされた飛行帽は、
ジーメンスSiemens社製で型番はLKPW101
もちろんイヤフォンと咽頭マイクが内蔵されており、
現在でもオークションではすぐに売り切れとなる人気商品です。

 

ちなみにジーメンス(シーメンス)社は日本と大変つながりが深く、
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家に
シーメンス製電信機を献上したのが始まりです。

その後、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道へのモールス電信機、
京都水利事務所など多数の発電機供給、
江ノ電の発電機などなどを展開しました。

軍需製品などでも深く日本軍と関係を持ち、
なんなら関係が深すぎて海軍高官のリベート事件、
「ジーメンス事件」が起こったのは皆さんご存知の通り。

この事件で海軍出身の山本権兵衛を首班とする内閣は総辞職しています。

飛行服の上には水上&夜間用の救命胴衣が付けられています。
この救命胴衣を製作したのは、
現在医療機器メーカーとして日本にも進出している
ドレーゲル(Dräger)社です。

ビールの注ぎシステムの開発から始まって二酸化炭素の還元弁を発明し、
それが麻酔薬の供給システム、そして酸素吸入器へと分野を広げ、
現在では人工呼吸器、麻酔器、保育器などの医療機器などを扱っています。

ちなみにドレーゲル社の日本ホームページをのぞいてみたのですが、
「弊社の起源」(この言葉選びも何だか変)として、

「弊社の起源ー1889年のハインリッヒ・ドレーゲルの発明精神は
彼をいじくり回して洗練させ
1889年に最初の二酸化炭素の還元弁を手にしました」

機械翻訳をそのままHPに使うのやめれ。

酸素マスクはデマンドタイプ(供給型)Hm-51
左腕に装着されているのは時計ではなく、補助コンパスです。

ベルトの左腰部分を見ていただくと空の拳銃のホルスターがありますが、
ここにはよく7.65mmあるいは9mmのピストルを装備していました。

それではベルトに引っかかっているピストルみたいなのは何かというと、
こちらは

27mm信号銃 Heinrich Krieghoff 
(ハインリッヒ・クリーグホフ兵器工場)社製

です。
H. Krieghoff GmbHは、現在もドイツのウルムに本社を置いて、
ハイエンドの狩猟・スポーツ用銃器のメーカーとして存続しています。

北米では、ペンシルバニア州に姉妹会社を置いているとか。

H.クリーグホフ社ホームページ

足元にはパラシュートが置かれていますが、これは
現在も存在する「Autoflug GmbH」社の製品です。

同社は航空技術と防衛工学の分野で1919年に設立されました。

元々モーターバイク(当時はモーターランナー)の製造会社でしたが、
アメリカのパラシュート会社の総代理店となり、
 1930年代後半から第二次世界大戦中、ドイツ空軍向けに
ハーネス、ロック、パラシュートを大量に製造していました。

現在のオートフラッグ社は、ドイツ軍向けの航空機や
特殊軍事車両の安全シート、航空機用燃料センサーのほか、
パラシュート、ハーネス、
パイロット保護スーツ・装備などを開発・製造しています。

オートフラッグ社 ヘリコプター用エアシートのページ

ドイツも戦後は「戦犯認定」された軍需産業がかなり締め付けられましたが、
装備などの生産、つまりあまりメインに据えられなかった企業は生き残り、
戦後も普通に発展しているらしいことがわかりました。


この後も、第二次世界大戦当時の各国搭乗員の飛行服を紹介していきます。

続く。

 


映画「マーフィーの戦争」〜”危険物は必ず落ちて欲しくないところに落ちる”マーフィーの戦争の法則

2021-10-05 | 映画

評論家のいう「雑なアクション大作」、
映画「マーフィーの戦争」最終回です。

ナチスに殺害されたエリス中尉が乗っていた水上艇を修理し、
撃沈され、全滅した商船の仲間とエリス中尉の仇を取るために、
Uボートとたった一人で戦争する気になった男、マーフィー。

・・・とここまで書いて、映画ではここに至るまで、
マーフィーという人物が一体どういう立場で商船に乗っていたのか
まったくわからないのに気がつきました。


さて、こちらは終戦のニュースを聞いたUボートの乗員御一行。

甲板で記念写真を撮ったり、寝転がってビールを飲んだりと、
それなりにまったりした時間を過ごしています。

彼らの表情が明るいのも、負けたとはいえ命存えたからでしょう。

乗員と一緒にお酒を飲んでいた艦長に、甲板から連絡がきました。
頭に包帯をしているのは、マーフィーの爆撃で負傷した副長と思われます。

「変な音がします」

姿を現したオンボロ船を見て彼らは愕然とします。
あの「しつこい男」が諦めていないことを知ったのでした。

これはあれだな、戦争が終わったことを知らないに違いない。
と思った艦長は、メガホンで

「イギリス人!イギリス人!戦争は終わったぞ!」

「戦争は終わった!ドイツは降伏したぞ!
そのまま進むなら攻撃する!」

マーフィーは、憎々しげに
「何か叫んでやがる」
とタバコを咥えながらも手を止めず、一緒に乗っているルイがそれを聞いて、

「終戦だと言ってるぞ!」

というと、

「あいつらの戦争はな。俺のはまだだ」

説得が通じないと悟った艦長は、艦内に総員配置を命じました。

さすがはUボート、その一声で全員が瞬時に戦闘モードに。

機銃の照準はこちらに向かってくるボロ船に合わせられました。

「フォイヤー!」

魚雷も発射準備完了。

もうすっかりUボート本気モードです。

はいこれはなんですか〜?魚雷発射のスコープですね。

引きつけるだけ引き付けて2番発射管(前方)から魚雷を放つのです。

「フォイヤー(2)」

面舵を切ってなんとか魚雷を回避することができました。
ってか、マーフィー、なんで操舵ができるんだろう。元船員?

魚雷が外れたので船との衝突を避けるため艦長は潜航を命じました。

本当にこの潜水艦は潜航を行います。
最初にも言いましたが、操艦はすべてベネズエラ海軍が協力しています。


魚雷回避のために思いっきり舵を切ったはずのマーフィーの船は、
瞬く間に90度転舵して、再び潜水艦に向かっていきました。

すげー、もしかしたらプロか?

そして、潜航していく潜水艦に船体をぶつけようと
必死で進むのですが、惜しいところで逃げられてしまいます。

もしぶつかっていたら自分もただでは済まなかったと思うけど。

ところが逃げたはずの潜水艦は、浅瀬に乗り上げてしまいました。

それを知ったマーフィー、これで勝つる!と大興奮。

何をするかというと、岸に打ち上げられたさっきの魚雷、
これを船のジブで吊って、奴らの上に落としてやるというわけです。

もはや狂気としかいいようがありません。

(ひくわー・・・・)

ルイは黙って船を降り、岸に向かって歩き出しました。
そして、マーフィーに向かって、一言、

”Let them die in peace.”(静かに死なせてやれよ)

そりゃそうです。
浅瀬に座礁し、おそらくそのまま死ぬであろう彼らの上に
危険を冒してまでなんで魚雷を落とさなくてはならないのか。

そもそもなんでそこまでやらねばならないのか。

親でも殺されたのか。

観客の全てが思っていることをルイが代弁しています。

もし逃げられたら2度と捕まらん!と叫ぶマーフィーに、
そうかもしれないがもう十分だ、と去っていくルイ。



一人じゃ無理だ、と半泣きで叫ぶマーフィーに、ルイは
吐き捨てるようにこう言い残すのでした。

”You're a small and lonely man, Murphy.
Like me.
The world will never build us a monument.
The difference is I know that.”

「アンタは小ちゃくて孤独な男だ、マーフィー。
俺みたいに。

俺たちのために記念碑は建たない。
アンタと俺の違いはそれを知ってるかどうかだ」

かつてここまで痛烈にその人格を否定された映画のヒーロー?
がいたでしょうか。

こちら、座礁したUボートでは必死の脱出努力が続けられています。
今や何もすることのない魚雷室の乗員は天井を眺めながら、

「鉄十字章は無理かな」

まーね。戦争もう終わってますし。

ルイに見捨てられ、砂浜にへたり込んだマーフィー、
普通ならそこであきらめそうなものですが、こいつは普通ではない。

なんと魚雷をジブで釣り上げ開始。
もしかしたらクレーン免許と玉掛け作業の免許も持ってるとか?

Uボートは発射管からの排気と後進でなんとか抜け出そうとします。

しかし・・・艦長の表情もさすがに悲痛に歪み、
乗員の中に諦めの沈黙が広がっていきました。

と、そのとき、彼らは聴いたのです。
あの男が帰ってきた音を。

マーフィーはさっきまで泡の立っていた場所に船を止め、川面を凝視します。
正確に狙いを定めるために。

そして舌舐めずりしながら泡の出たところに船を動かし、
・・・そのまま魚雷を一気に落としてしまいました。

魚雷は水中のUボートに命中し、爆発音が轟きます。
「やった!」

しかし同時にクレーンが倒壊して倒れ、マーフィーは見事その下敷きに。

爆発はUボートを一気に押しつぶさず、あちこちに穴を開けました。
艦長が脱出を叫びますが、艦体はその後爆発を起こしました。

そして船の方も沈没し始めます。
クレーンに挟まれたマーフィーはそのまま船と一緒に沈んでいきました。

クレーンで真下、しかも浅瀬に魚雷を落とした場合、
真上にいる船がどうなるかということくらい想像できなかったのでしょうか。

というわけで「マーフィーの戦争」はやっと終わったのです。

ベネズエラ海軍に感謝を捧げる字幕でこの後味悪い映画は終わります。

 

さて、それではお約束通り、最後に本家の「マーフィーの法則」から
この映画を表す言葉を抜粋してみましょう。

「クレーンは必ず倒れてほしくない方向に倒れる」
(『パンは必ずバターを塗った側を下に落ちる』から)

「何か失敗する方法があれば必ずそれをやってしまう」

そして、

 "Anything that can go wrong will go wrong."

「うまくいかない可能性のあることは必ず失敗する」

 

終わり。

 


映画「マーフィーの戦争」〜”SAVE THE CATの法則に外れた映画はヒットしない”マーフィーの法則

2021-10-03 | 映画

世紀の駄作と悪名高い超大作、「マーフィーの戦争」、2日目です。
Uボートに乗っていた船を撃沈され、大好きだった(らしい)
エリス中尉を殺害されてからは、生きる目的が
Uボートに復讐することになった男、マーフィー。


彼はこのシーンについて、

「もし恐怖に駆られた人の表情を見たければ、
わたしが最初に飛び立ったときの写真を見てほしい」

と後年述べています。

この後マーフィーが島の上空を飛び回るシーンは、
飛び立つトキの大群やオリノコ上空の壮大な自然など、
ナショジオ的映像としては決して悪くありませんが、
せっかく費用を投じて借りたこの歴史的な飛行機を、できるだけ
スクリーンに長い間登場させなければ損だという下心が透けて見えます。

「水上機とそれを操作する人間との間の、ずさんで退屈ですらある
クロスカッティング(ショットを交互に繋ぐ手法)」

という酷評は、まさにこれを言うのだとおもいました。

しかしそれなりに収穫はあって、マーフィーはオリノコ川支流で
偽装して潜んでいる憎きUボートを発見したのでした。

喜び勇んで水上艇で何度もとんぼ返りもしてしまうマーフィー。

彼が「潜水艦を飛行機で沈める」という目的を持ったのはこのときです。 

村に帰るや、ルイを助手に武器作りを開始しました。
いよいよ「マーフィーの戦争」の始まりです。

「どこで爆弾作りなんか覚えたんだ?」

「親父が活動家で作るのを見た」

第二次世界大戦当時のイギリスの「活動家」ってなんなんだろう。
パルチザンかな(棒)

この爆弾をガラス瓶のガソリンに縛り付けて航空爆弾の出来上がり。
ちなみにこの武器作りのシーケンスも冗長で退屈です。

そこに、ヘイデン医師がお買い物リストをもってきました。

「ロンドンのフレンド会に手紙」「新しい通信機」

は必ずお願いします、と念押し。
おばちゃんマーフィーが飛行機でどこに行くか全くわかっておられない。

しかし、翼の下に取り付けた大きな瓶を見て、ルイに

「あれは何かしら」

「世界で一番大きな『モロトフカクテル』でさあ」

モロトフカクテルについては、ベトナム戦争展の項で説明しましたので
重複は避けますが、要は火炎瓶のことです。

「何するつもりなの」

「潜水艦に落とすんですよ」

「無謀だわ!戦争はもう終わるのよ」

ヘイデン医師を尊敬し内心慕っているルイは即座に、クレーンを止め、

「彼女の言う通りだ」

といいだしますが、マーフィー聞く耳持たず。
ルイはヘイデン医師の言うことは無視できないが、この際仕方ない、
と言った様子で作業を続け、飛行機は水面に降ろされました。

「間違ってるわ!」

「海底にいる連中にそう言え!」

「互いを殺し合うなんて感覚がおかしくなってる」

「殺す?もしやれたら嬉しいね」

「もし失敗でもしたら村がその後どうなると?」

「心配ご無用、ドイツ兵たちは皆殺しにしますから」

「楽しそうなのね!」

「ええ」

「戦争が好きでたまらないんでしょう?」

「戦争を?俺が始めたわけじゃない」

「よく考えて頂戴!」

「ご心配なく、相手は潜水艦じゃなくてただの老いぼれワニなんだから」


さあ、ワニの運命やいかに!



というわけで、水上機に自家製の爆弾をくくりつけ、
女医の反対を押し切って飛んだマーフィー。
前回見つけたUボートの係留地に行くまでに燃料がなくなりました。

マーフィーがマーフィーならUボートもUボート。
前回マーフィーに発見されたというのに相変わらずそこにおります。

マーフィーはなんとか自家製爆弾を投下することに成功しましたが、
飛行機はガス欠で川に不時着、その時のショックで肋骨骨折の負傷。

そこで水上機をえっちらおっちら手で漕いで帰還します。
肋骨折れてたらこの動作は無理だと思うけど。



あくまでも空気読めない系のマーフィー、
ぷんすか起こりながら治療してくれる女医ヘイデンに
唐突に「キスしたい」などと言い出し、余計に怒らせます。

ひげもじゃのルイはこう見えてマーフィーと違い繊細な男。

内心お慕い申し上げているヘイデン医師に、マーフィーの暴挙を
止めなかったことを叱責され、すっかりしょげてしまいました。

ヘイデンは叱責を謝るついでに、ルイの頬にチュッとキスして去ります。

うーん、マーフィーにキスしたいと言われた直後にこれかよ。
おそらく彼女、ルイの気持ちも知ってるよね。
あざとい。実にあざとい女である。

翌日、オリノコ川にUボート(に見えないけどそのつもりで見てね)が
不気味に浮上を行いました。

マーフィーの落とした爆弾はほとんどダメージを与えなかったのです。

ヘイデン医師が出発前のマーフィーにいった懸念が現実になりました。
彼らは前日のマーフィーの攻撃の仕返しにやってきたのでした。

本来ならばUボートが民間人しかいない村を攻撃する意味はありません。
が、マーフィーが彼らを怒らせてしまったのです。

これが本当の憎悪のエンドレスサークルというやつです。

「フォイヤー!」

艦長が腕を振り下ろし、艦上から銃火器が火を噴きます。

彼らはまず問答無用で水上機を中心に村を攻撃。

そしてゴムボートで上陸してきました。
目的は・・・・・そう、もちろんマーフィーの捕獲。

負傷者の手当てをしているヘイデン医師を連れてきて
マーフィーの居所を聞き出そうとします。

「彼はどこだ」

拷問くるか?くらいの勢いなのに、次のシーンでヘイデンは
平然と(洒落じゃないよ)負傷者の治療に戻っているから不思議です。
なんか場面がつながってなくない?

マーフィーは崖下に身を潜めて隠れていたため、Uボート乗員たちは
これもやってることの割には不思議なくらいあっさりと帰っていきます。

誰もいなくなってから気まずそうに隠れ場所から出てくるマーフィー。

「沈めたと思ってたんだが」

ってそっち?

「悪かった」

それを女医に謝る意味ってある?
崖の下の村はUボートの攻撃で焼き払われ、村人に死傷者も出たというのに、
この男には彼女の機嫌を損ねたことだけが問題なのね。

女医もまた、それに対して

「済んだことよ」

すんでねーし。
彼らの目的はマーフィーなんだから。

死んだ村人の葬式が(どうも数人は死んだ模様)行われているとき、
ヘイデン医師はドイツが降伏したというニュースを聞きます。

同様のドイツからの放送はUボートにも届いていました。

「望みなき戦いに終止符を打ち・・」 

「6年間の英雄的戦闘を終える」

ヨーロッパの戦争は終わりました。
ヘイデン医師が看護師と涙ぐんで抱き合い、かたや
Uボートの乗員たちは沈鬱な、諦めの表情でその知らせを受け取ります。

しかしたった一人、全く戦争を終える気がない人間がいました。

チャーチルの演説を放送しようとするラジオを床に叩き落し、
今度は船で突撃しようとする男。

 っていうか、マーフィーって何してる人?
軍人ではないのははっきりしているわけですが、商人?技術者?
漁師?学校の先生?(じゃないことは確か)


しかも、飛行機が破壊された今、彼はこの船で

潜水艦に体当たり

するつもりなのです。
この船はルイが寝起きしている、つまり彼にとっては自宅なんですが、
そのことなど1ミリも考えておりません。

ヘイデン医師はルイの船を操舵しているマーフィーを見るや、
その意図を察し(なんでやねん)、小舟で追いかけながら叫ぶのでした。

「ミスター・マーフィー!戦争は終わったのよ!」

彼女はルイにも同じことを告げますが、彼には聞こえませんでした。
しかも彼がニュースを聞く前にマーフィーがラジオを壊してしまいました。

そしてマーフィーの船(というかルイの家)は行ってしまいました。


ところで唐突ですが、「SAVE THE CATの法則」をご存知でしょうか。
マーフィーの法則が出たついでに法則つながりで説明しておきます。

それは、
『ヒットする映画はある定型を踏んでおり、逆にいうと
その法則に従えば映画の脚本は誰でも書ける』
というものです。
具体的にこの「猫救いの法則」に当てはめた本作の進行は以下の通り。

1.オープニング(船が撃沈される)
2.問題の提示(マーフィーが助かる)
3.何かのきっかけ(エリス中尉殺される)
4.変化への抵抗
5.決心 行動(水上艇と爆弾の準備)
6.報われる最高の瞬間(Uボートに爆弾投下)
7.選択の誤り(とどめがさせなかった)
8.すべてを失う(Uボートが村を攻撃)
9.絶望(死者多数、女医に愛想尽かされる)
10.再びチャレンジ(今ここ)
11.エンディング

なのですが、本作には法則4番の「変化への抵抗」だけが見当たりません。
これを分析すると、この主人公はまったく逡巡せず、
躊躇いもせず、もちろん自省もせずに、とにかく
思い込んだままただ突っ走って現在に至るということになります。

これは一事が万事で、主人公をただ偏執的な復讐者としてのみ描き、
キャラクターを掘り下げたり共感を持たせるための努力を
この脚本が放棄しているということの表れと言えましょう。
これがひいては映画のひとりよがりと見えるのは否めません。

つまり「SAVE THE CAT」の法則に照らしても、
この映画がヒットする可能性はなかった、ということになるのです。


続く。


映画「マーフィーの戦争」〜”夫婦共演の映画はヒットしない”マーフィーの法則

2021-10-01 | 映画

今までいろんな映画を取り上げてきましたが、
これほど評価の低い、というか酷評されている作品は初めてです。

「何もかもがうまくいっていないという感覚が蔓延しており、
それは、技術的なディテールから、主要な俳優の共演にまで及ぶ」

「嫌悪すべきものからありえないものへと、
興味のないものを経由して進んでいく物語」

「これほど平板でトーンや雰囲気のない大作映画はめったにない」

「暗くて自滅的な冒険映画」

「停滞したアクション・スペクタクル」

「制作のバリューの高さの割にサスペンス性は低い冒険物語」

と散々であるうえ、興行的にもパッとせず、すぐに忘れ去られ、
今ではこんな映画があることを誰も知らない映画になりました。

しかしその割にこのタイトルには既視感があるなあ、と思いません?

「マーフィーの戦争」つまりMurphy's War。
言わずと知れた「マーフィーの法則」Murphy's Lawをもじっています。

「自分が並んでいる列よりも、他の列のほうが早く進む」

「別の列に移動すると、もといた列の方が早く動きだす」

「機械は、動かないことを誰かに見せようとすると動く」

こんな経験則(あるある)を法則の形式で表したものですが、
日本でこれが流行ったのは90年代。
映画が公開されたのは1971年なので、小規模の流行があった、
とされる70年代前半には少し早かったかもしれません。

まあ、たとえ「マーフィーの法則」ブームで多少集客につながったとしても、
この映画の評価は動かなかったと思われますが・・・。


さあ、それではこの映画は「マーフィーの法則」のどの格言を表すのか、
最後に総括することを目標にして始めたいと思います。

タイトルロールは、いきなりUボートに攻撃されて
炎上するイギリス商船の阿鼻叫喚に重なります。

海面に逃れた生存者はUボート乗員に容赦なく射殺されていきます。

Uボートによる残虐行為は戦後のイメージほど実際に発生しておらず、
民間人殺戮などで戦後戦争犯罪に問われた例はない、
と以前話したことがありますが、この映画では
それがなくては「マーフィーの戦争」が始まらないので仕方ありません。

 

この画面の炎の向こうに主人公役のピーター・オトゥールが実際にいます。
オトゥールはこの後海に潜り、炎の下を通ってこちらに逃げるという
本来ならスタントに任せるアクションを自分でやっています。

わたしの俳優ピーター・オトゥールのリアルタイムでの印象はというと、
「ラスト・エンペラー」の語り部で実在の人物、
皇帝の家庭教師だったサー・ジョンストン役しかありませんが、
実際彼を有名にしたのは、「アラビアのロレンス」の主役でした。

彼は「ロレンス」でスタントを使わなかったことで有名ですが、
この映画でも最初それをやろうとしていたのでした。

しかしほどなく、彼はハードなアクションに根を上げ、そもそも
自分がやるよりスタントマンの方がずっと巧いことに気がついたので、
それ以降は基本的に人に任せることにしたと語っています。

ダズル迷彩を施したUボート。
いわゆる「UボートIX型」のつもりらしいんですが、
遠目に見ても全くUボートに見えません。

U-IX型

共通点は潜水艦であるということだけって感じですね。

本作スタッフは制作にベネズエラ海軍の協力を取り付け、
この潜水艦も同海軍のARV-Cartie(S-11)を撮影のために借りた、
ということになっていますが、
艦影を見ておそらく皆さんもお気づきのように、この潜水艦、アメリカ製。

第二次世界大戦時に日本と戦いを繰り広げた、アメリカ海軍の

バラオ級潜水艦 USS Tilefish (タイルフィッシュ=アマダイ)(SS-307)

だったのです。

ダズル迷彩は、おそらく似てなさをできるだけ誤魔化すためだと思います。
(Uボートってダズル迷彩してたんだっけ)

そのセイルから民間人の虐殺を指揮しているラウクス(Larchs)艦長。

演じているホルスト・ヤンソンはバリバリの?ドイツ人俳優です。

憎っくき潜水艦と艦長の姿をその脳裏に焼き付けようとする生存者のひとり、
それが本編の主人公マーフィーでした。

救出されたマーフィーはクェーカー教徒の村の女医で
自身もクェーカー教徒であるヘイデン博士に診察を受けました。

マーフィーのセリフで、彼女がクェーカー教徒であることを

「血塗れの尼さんみたいなもんだろ」

というのがあるのですが、クェーカー教ってそういうイメージなの?
調べた限りそんな感じではないので、これ、
かなり各方面に失礼なセリフなんじゃないかと思いました。

ところで、このヘイデン医師を演じたシアン・フィリップス
ピーター・オトゥールは当時結婚していました。
夫婦のよしみで出演が決まったのかもしれませんが、
最後まで二人にロマンスは起こらず、ラブシーンもありません。

夫婦で出演しているせいなのか、どうも一緒のシーンに緊張感がなく、
そもそも二人でいるシーンがどうにも絵面的に地味です。


本作は小説がベースになっていて、監督のイェーツが映画化を計画する前、
バート・ケネディ監督フランク・シナトラの「スター計画」として、
彼を主人公に映画化しようとしていたという話がありますし、また、
本命だったウォーレン・ベイティがあまりにも高額のギャラを要求したため、
オトゥールにお鉢が回ってきたという話もあります。

もしシナトラかベイティがマーフィーを演じていたら、
この映画の出来やひいては評価も変わったでしょうか。

わたしは少なくとも興行的にはかなりましだったのではないかと考えます。
花のない女優、しかも糟糠の妻の起用も、
二人の関係が医者と患者のままで終わった理由だとおもいますし、
ロマンス要素が全くない展開も、興行的な失敗の原因でしょう。

ベネズエラ海軍の協力を仰いだと言う事情があって、
撮影はベネズエラのオリノコ川などで行われています。

ここでマーフィーは自分を助けてくれたフランス人の
ルイ・ブレザンと親しくなります。
(この男も何をしているのかさっぱりわからない謎の人物)
彼との会話で、マーフィは川の深度が潜水艦も侵入可能であると知りました。

 

さて、こちらは大物を仕留めて歓びに沸くUボート内。
乗員が空き缶から作ったというお手製の鉄十字を贈られたラウクス艦長は、

「ありがとう。本物の鉄十字章より嬉しいよ」

と流暢な(当たり前ですが)ドイツ語でいいます。
この映画のいいところは、ドイツ人がドイツ語で喋っていることですが、
案外これがアメリカ映画では珍しかったりするのよね。

そのとき、マーフィーがいる村にイギリス人が救出され運ばれてきました。
名前を、

エリス中尉

といいます。
(わたしがこの映画を選んだ唯一の理由をお分かりいただけただろうか)

 

イギリス海軍の「liutenant」は大尉ですが、中尉と少尉は「sub-liutenant」で、
中尉も(当方と同じく)単にLiutenantと称するので、
彼の年齢から見ても中尉で間違いないと思われます。

エリス中尉は飛行将校で、水上機パイロット、そして
マーフィーと知り合いでした。

彼が不時着させた飛行機をマーフィーとルイは発見しました。
機体には「マウント・カイル」と書かれていますが、これは商船の名前です。

ということはこの水上機は商船搭載の軍用機なんでしょうか。

商船に英軍のラウンデルが付いた軍用機が積まれているのも不思議なら、
撃沈された船の搭載機だけがなぜ別のところに不時着しているのか、
この映画は全く説明してくれません。

推測するに、エリス中尉はUボートの攻撃が始まったとき、
水上機で単独脱出してその後川に落ち、
そのまま海まで流されて海岸に打ち上げられたということのようです。

っていうかなんなんだよこの設定。
普通それ死んでないか。

このグラマンOA-12「ダック」は、わたしが昨年見学したところの
オハイオ州デイトンにある空軍博物館に展示されています。

しかしながら、この水上機はイギリス海軍には使用された事実はありません。

さて、そのときです。
なんと!Uボートの一行がボートで島に乗り込んできたのです。

なんと彼らの目的は自分が沈めた船の生存者を探すことでした。
商船の乗員相手にこの執念はなんなの。

沈めたのが軍艦で相手が軍人でもこんなことしないですよね。

だいたい、戦略的に労多くして益が少なすぎというか、潜水艦乗員、
しかも合理的なドイツ人がわざわざ陸に上がってすることかと。

このあたりのプロットの無理やり感も映画に入り込めない理由の一つです。

でね。

ラウクス艦長ったら、エリス中尉のベッドまでたった一人でやってきて、
しんみりとシガレットケースを出して勧めたりするんですよ。
いい人アピールか?

そしてまるで一昔前の西部劇にでてくるインディアンみたいな英語で、

「Necessity・・・find・・・not to find・・responsibillty」
(必要、探す、探せなければ、責任)

といいます。

どうでもいいけど、兵隊ならともかく将校、特にドイツ将校なら
英語くらいもうすこしましに話せると思うがどうか。

これ、艦長として俺には生存者を探す責任があるってことかしら。
続いて彼はドイツ語で、部下に対して示しがつかん、と呟くのですが、

これもはっきり言って全く意味不明です。

潜水艦は船を沈めるのがお仕事で、人員殲滅の責任なんてないっつの。

艦長が「見つけても勝手に撃つな」と部屋の外の部下にドイツ語で言う隙に、
エリス中尉、なにやらベッドの下に手を突っ込みはじめました。
それを見たラウクス艦長、脊髄反射でエリス中尉を射殺してしまいます。

さっきの「勝手に撃つな」ってなんだったんだ・・。

ちなみにエリス中尉の出演時間は全部で3分くらいです。(-人-)

飛行機を曳航して帰ってきたマーフィーは、エリス中尉がやろうとしたのは
「ベッドサイドにある自分の飛行服を隠すことだったんだろう」
とエリス中尉(わたし)に言わせると、は?な推理を働かせるのでした。

つまりエリス中尉は自分がパイロットであり、飛行機があることを
気づかれないようにしたかったんだろうて、ということらしいんですが、
そもそもナチスは射殺した士官の身分を検分もせずに帰っています。

エリス中尉、なにもそんな危ないことをしなくても、
自分はパイロットだが飛行機は船と一緒に沈んだ、
とでもいえばいいのでは、とエリス中尉(わたし)は思うのです。


そしてここからが摩訶不思議な展開です。
この二人がどんな関係だったのかとか、どれほど親しかったかとか、
そういうエピソードらしいものが全く語られないのに、
マーフィーはただエリス中尉の仇を取るために
飛行機を使ってUボートを攻撃することを決意するのです。

そこでまず飛行機を動かせるようにすることから始めます。
ルイの手助けを借りて、なんとかオリノコ川に浮かべることに成功。

水上を滑走することはできましたが、マーフィー、
今まで水上機を操縦したことがなかった模様。

水上機を離水させることができず、いつまでも川面をぐるぐるしています。
つい最近こんな場面の映画を見た記憶があるような・・。

そう言えばあちら(『北緯49度線』)は操縦していたのがUボート乗員、
こちらはUボート乗員に仕返ししようとする男。
奇遇といえば奇遇ですね。


ちなみに、水上機シーンはスタントなしでオトゥール本人が演じています。

「飛べ!このやろう!飛べ!」

そしてやっとのことで・・・。




続く。