ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成30年度 年忘れお絵かきギャラリー

2018-12-30 | つれづれなるままに

早いもので、2018年、平成30年も終わろうとしています。

今年は出席したイベントも多く、私生活も何かと忙しかったこともあり
絵を描く余裕があまりなかったので、1日だけとなりますが、
今年一年に発表した挿絵を、恒例年忘れギャラリーと称して
振り返っていこうと思います。

まず冒頭は、4月27日から4日間にわたって連載した映画、

「深く静かに潜行せよ」

から。

潜水艦映画の名作としてその名前を知らない人はない、
とまで言われている本作を取り上げると決めたからには
かなりの覚悟で具に観ていったわけですが、進むにつれて
戦争映画としては決定的な「これじゃない感」に苛まれたという作品。

その時もかなりツッコミましたが、その違和感というのがまず主人公の
クラーク・ゲーブル扮する潜水艦艦長リチャードソン少佐という軍人の描き方です。

リチャードソンは自分の乗っていた潜水艦を撃沈した駆逐艦「秋風」とその艦長、
豊後ピート(もちろんあだ名です)への復讐心に燃えるというのですが、
この大前提がそもそもおかしすぎませんかね。

戦闘の結果敗北したからといって、特定の一駆逐艦に復讐心を燃やす、
というこの艦長の動機は、軍人としてかなり歪すぎて、

「お前はアナポリスで何を学んできたんだ」

と説教したくなるレベルの指揮官失格だと思うわけです。


個人的な復讐心に突き動かされ、リチャードソンは、すでに着任が決まっていた
新艦長ブレッドソー大尉(バート・ランカスター)を汚い手で引き摺り下ろし(笑)
潜水艦「ナーカ」の艦長におさまったかと思えば、いきなり強権を発動し、
訓練は駆逐艦をターゲットにしたものばかり、潜水艦は遭遇しても無視。

同じタイプの駆逐艦が現れると目の色変えてやっつけ、
憎き敵を叩くために独断で危険な豊後水道に乗り込んでいく。

一般に、二枚目俳優が演じる軍人のあらまほしき姿というのは、
身も心もイケメンで勇ましく正義感に溢れ、公正中立。
そして何より指導力に優れているというもののはずなのに・・・・。

実際の潜水艦乗りが原作を書いたということですが、彼とても
こんな公私混同の指揮官が実在するとは思っていなかったでしょう。

もう一人の主人公、ブレッドソー大尉は普通に「良い軍人」。
艦長の席を奪われた恨みを持ちながらも、それはそれ、これはこれ、
と私心を任務に持ち込まない公明正大なタイプです。

リチャードソン艦長ときたら、任務に私情を加えまくるのみならず、
いよいよ「秋風」と対決!という戦闘中に、司令塔からなぜか
被害を受けた魚雷発射室をわざわざ見に行って、そこで転倒。
戦闘が終わってからもう一度同じ魚雷発射室に、一言「どうだ」というために
のこのこ出かけていって昏倒。結果脳挫傷で死亡。

お前はいったいアナポリスで何を学んできたのかと(以下略)

 

そして調べていてこんなことがわかりました。
クラーク・ゲーブルは、クランクインしてから
リチャードソン役を拒否し、撮影現場をボイコットしていたという事実を。

映画「風と共に去りぬ」で、スカーレットの永遠の相手、無頼な南部の伊達男、
あのレット・バトラーを演じ、大スターとなったゲーブルにとって、
わかりやすいピカレスクならまだしも、こんな中途半端な、

「悪人ではないけれど、軍人としては資質無し」

みたいな弱い人間を演ずることは耐えられなかったのだろう、とわたしは推察しました。

そういう裏の事情を踏まえて観ると、ただの戦争映画ではない、
人間ドラマの範疇に加えられるこの映画の複雑さが読み解けてきます。

というわけでこの映画、ある意味「名作」ということには間違いありません。
「戦争映画の名作か」といわれると、思いっきり否定しますが。

「深く静かに潜行せよ」のこれらの挿絵は、最初にゲーブルの顔を
真面目モードで描いてしまったため、4回とも同じタッチで
制作することになってしまい、大変な思いをしました。

特にこの三日目のゲーブルとランカスターの絵は、字入れ直前に
ソフトがクラッシュするという悲劇に二回見舞われたため、
完成した時にはほとんど肩で息をしている状態でした。

でも、回数を重ねるごとに選択するペンの種類や手法などに
前回の教訓を活かすことができたため、だんだん要領が良くなって
時間は短縮されていったということはあります。でっていう。

 

それから、名作中の名作といわれるこんな映画でも、
笑ってしまうような荒唐無稽な設定や細かいミスが満載で、
ツッコミどころ多すぎイ!であることをあらためて確認しました。

特にこの映画で観ていて辛かった(嘘)のが日本人俳優たちのセリフです。
冒頭の潜水艦艦長は比較的まともな日本語を喋っていましたが、
それでも聞き取れないところがあったり、まあ笑わせてもらいました。

豊後ピート

「秋風」との対峙

宿敵「秋風」撃破

伊潜との対決

 

映画「イン・ザ・ネイビー」

「はみ出し者たちのスティング・レイ」

こちらも潜水艦映画、「ダウン・ペリスコープ」を取り上げました。
邦題の「イン・ザ・ネイビー」は、この映画の最後に、
同名のヴィレッジ・ピープルの歌が流れることからついたようです。

 

こちらは優秀なのに、過去の操艦ミスのせいで、いつまでも
艦長になれない潜水艦隊のはぐれサブマリナー、ダッジ。

彼は”あること”をして、グラハム少将に蛇蝎のごとく嫌われていますが、
サブマリナーとしての実力はかなりのもので決断力もあるため、
潜水艦隊司令のウィンスロー中将は彼を高く買っています。

そんな上層部の思惑がぶつかり合った結果、ある将官会議を経て
彼はついに念願だった潜水艦の艦長職を拝命するのですが、その潜水艦とは
第二次世界大戦時のディーゼルエンジン潜水艦、「スティングレイ」でした。

しかも悪意を持って少将がわざわざ選んだ乗組員は、潜水艦隊の「問題児」ばかり。
彼らを率いて模擬演習(ウォーゲーム)で原潜の港に進入できたら、ダッジは
晴れて原潜の艦長にしてもらえるということになり・・・。

原子力潜水艦隊バラオ級潜水艦

個性豊かな変人サブマリナーたちの描写だけでも楽しめるこの映画。
彼らを率いる艦長も、気に入らない副長を「処刑」してしまったり、
明らかにディーゼルボートの限界を超えて潜行して皆をビビらせたり、
あーこれは出世できませんわ、という規格外れの軍人として描かれます。

ところで、わたしの好きな映画のタイプに

「男性の集団が目的に向けて皆で努力し栄光を勝ち取る」

という条件を満たすもの(例:炎のランナー、ほとんどの戦争もの)
があるのですが、この映画もある意味その範疇に入ります。

第二次世界大戦中にディーゼルエンジンの潜水艦に乗っていた
ハワードというおっさんが、ダッジ艦長の統率の下、
タンカーの下に潜り込んで原潜のソナーを逃れたときに

「生きててよかったぜ、DBF!」

と叫びます。
このセリフはDVDではちゃんと翻訳されなかったのですが、
興味を持って調べてみたところ、このDBFには日本にも若干関係ある
あるストーリーがまつわっていることがわかりました。

「ディーゼルボート・フォーエバー!」

わたしなんか、DBFのバッジまでアメリカのミリグッズ店で買っちゃったもんね(笑)

ウォーゲームの勝利

ところで、劇中、

「雲が厚くて哨戒機に見つかりにくい」

という設定のはずだったのに、原潜がドルフィン運動をしているシーンでは
雲もない真っ青な空になっていて、なんぞこれ、と思ったのですが、
そういえばこれと同じことがつい最近ありましたよね?

とある国の海軍駆逐艦が隣国の哨戒機に火器管制レーダーを向け、
向けられた方が政府レベルで抗議をしたところ、当初

天気が悪く波が高かったので
レーダーが空に向いて
偶然哨戒機に「当たってしまった」

と言い訳をしていたはずなのに、映像が公開されてみれば、
そこは波一つないいいお天気だった、なんて事例が。

映画でこのわたしごときにツッコミを入れられているのと全く同じことを
実際の軍がやっているっていったいなんなのよって話ですが、
ともかくこの話、年の瀬にワクワクする展開となっていますよね。

韓国海軍が次々と見え透いた言い訳をし、それを日本側が
瞬時に論破していくという展開からもう目が離せません(笑)

 
ところで、わたしは映画の挿絵を描く場合、通常
 
1、真面目なタッチで劇中の1シーンあるいは登場人物を描く
 
2、省略したタッチで登場人物を象徴的なセリフを添えて描く
 
3、映画のストーリーを漫画仕立てで語る
 
という3種類のどれかを選択しますが、「深く静かに」は1、
「イン・ザ・ネイビー」は2、そしてもう一つの潜水艦映画

「ペチコート作戦」
 
は3、と意図したわけではありませんが、結果的に皆違う方法になりました。
 

ある潜水艦出身の自衛官にオススメされた映画です。

コメディー仕立てなのだけど、本職から見ても
潜水艦戦闘シーンなどがちゃんとしているということでした。

しかしその割に当ブログではきっちりコメディ部分だけにフォーカスしてます。

潜水艦乗りが見て「ちゃんと描かれている」としても、
悲しいことに一般人からは他の潜水艦映画と何が違うのか、
その肝心なところまではわからないんですよね。

「看護師部隊、潜水艦に乗る」

第二次世界大戦中の潜水艦に、イケメンというしか取り柄のない
(と思われた)中尉(トニー・カーチス)が、ケーリー・グラントが艦長を務める
潜水艦に着任して、そいつが島で拾ってきた看護師部隊が
男だけの潜水艦に乗り込んでくることからてんやわんやの大騒動。

みたいなわかりやすいコメディで、本当に楽しんで絵を製作しました。

ドジっ娘(死語?)でことごとく艦長の神経を逆撫でする娘が
結局艦長の妻に、逆玉狙いのイケメンダメ士官は、その後覚醒して
原潜の艦長に、その妻も看護師の一人というお約束のエンディングです。

乗り込んできた看護師たちは、結局全員潜水艦乗員とくっつく?のですが、
その相手は、当初いがみ合ったり殴ったり殴られたり、
騙されたの騙されないのと揉めたりする相手であるのがポイント。

タイトルの「ペチコート作戦」は原題どおりなのですが、
ただし作戦の核心となるブツの名前をマイルドに言い換えております。

当ブログでは、その下着をネタにしたこの映画の「オチ」にも
鋭く突っ込み、

「この時代に日本の女はその頃まだ”それ”を使用していない」

という重大な設定上のミスを追求しております。
わたしがこれまで発見し、明らかにした映画の矛盾の中でも
ベスト3に入るほどの快挙だったと自分では思っています(嘘)

そう、ペチコートというより、題名はこちらがより正確です。

「オペレーション・アンダーガーメント」




二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

映画についてのツッコミや感想がメインではなく、
メア・アイランド海軍工廠跡の博物館で見つけた

「インディアナポリスが原子爆弾を搭載したメア・アイランド」

という観点からの展示を中心に、原子爆弾搭載の様子、そして
「インディアナポリス」の艦長と彼女を撃沈した伊58の艦長、
二人のこと、軍事裁判などについて語ってみました。

この絵は参考にしたニコラス・ケイジ主演の映画

「USSインディアナポリス 勇気ある者たち」
(邦題は『パシフィック・ウォー』)

のラストシーン、現世では実現しなかったマクヴェイ2世と
橋本以行、二人の艦長が敬礼を交わしあう姿を描きました。

「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

ノブレス・オブリージュという概念がそのまま西欧から持ち込まれ、
日本の貴族階級の男性はよほどのことがない限り軍人を志しました。

貴族は特権階級なので、兵学校や陸士などでも成績は非公開で
自動的に上位、その後の昇進もエスカレーター式だったので、
もしこの人物が華族でなければ、少将にまでなることはなかったでしょう。

(貴族は大学に無試験とはいわないけど下駄を履かせてもらえて入学できた)

戦争が始まって戦線に赴き、戦死した貴族階級軍人もいましたが、
松平少将は日露戦争に「鎮遠」の分隊長で参戦した以外は
平和な時代に副長、艦長などを勤め、成績がそこそこだったのが幸いして
その後に現場に立つことなく、敗戦を知る前に他界しました。

このエントリ制作であらためて知ったのは、貴族がその血を維持するためには
妾や養子の制度があってこそだったという事実です。

そうしたことがタブーとなってしまったため、結果として
皇統が危機に瀕しているという事態があるわけですよね。

 

スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

今年7月24日、元王立空軍の輸送部隊でファースト・オフィサーだった
女性パイロット、メアリー・エリスさんが亡くなりました。

同名のよしみでと読者の婆娑羅大将に教えていただいたのをきっかけに
彼女をはじめとする

ATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)

の女性パイロットについて勉強させていただきました。

「スピットファイアー・ガール」というのは、彼女らが航空機を
工場や基地から別の航空基地に輸送する任務を負っていたからで、
輸送した航空機中最も「キャッチーな」スピットファイアが選ばれたのでしょう。

エリスさんは90歳過ぎて、女性パイロットの後部座席に乗せてもらい、
一瞬操縦桿を握っただけでなく、宙返りされても豪快に笑っていました。

そういえばあのチャック・イェーガーも今年で96歳になると思いますが、
2012年、89歳の時に音速越えを再現しています。

パイロットが短命、なんて噂は全くあてにならないってことですね。

ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

濵田彦藏、のちのジョセフ・ヒコ、通名アメリカ彦藏。
アメリカ市民。

サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠跡博物館で、
咸臨丸コーナーの近くにあったヒコの紹介を読み、
ここであらためてその生涯を辿ってみました。

日本に再入国するために日本人であることを捨て、
アメリカ人になるという辛い選択をした彼が、二つの祖国の狭間で
いかに自分のアイデンティティに苦悩したか。

彼の辿った道から想像できるそんなことについて語ってみました。

 

絵を描くのは楽しいのですが、何しろ時間が取られるので、
取り掛かるにもえいやっと思い切らなくてはならないのですが、
来年はもう少し頑張って見てもらえればいいなと思っています。

 

それでは皆さま、良いお年を。

 

 

 


咸臨丸の子孫〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2018-12-29 | 日本のこと

先日、横須賀で防衛局主催の防衛セミナーでも結論づけられていたように、
横須賀は近代日本の技術の発祥の地であったことは誰もが知る事実です。

そしてその技術の基礎を打ち立てたのは、公式にアメリカを訪れ、
先端後術を驚くほど柔軟に吸収して持ち帰り、ついでに?アメリカ人たちに
その振る舞いと能力で驚きを与えた「最初の日本人」、遣米使節団でした。

サンフランシスコにあるメア・アイランド海軍工廠跡にある博物館は
遣米使節団の咸臨丸を受け入れ、その修理をしたという縁から、
展示の一部に「咸臨丸コーナー」を設けて、かつて日本人が何の目的で
ここにやってきて、どう振る舞い、どういう印象を与えたかを説明しています。

今日はこの展示から、ここメア・アイランド海軍工廠が
戦後遣米使節団との交流を行ってきたということをお話しします。

 

さて、万延元年の遣米使節団、というと世の中の人は咸臨丸、と連想します。
海上自衛隊の幹部学校長からいただいた記念メダルにも咸臨丸の姿が描かれており、

日本が外洋に出て行く姿の象徴のようになっているわけですが、
前回も少し触れたように、実は、咸臨丸というのは、あくまでも、
使節団を運んだ「ポウハタン号」の補助で付いていったというのが真実です。

世の中にはなぜかこれ(咸臨丸ばかりが持て囃されること?)を大変不満として、

「教科書から咸臨丸の名前を外せ!」

と訴えている人もいる、ということを以前ここでもお知らせしたことがありますが、
咸臨丸が兎にも角にも、初めてアメリカに渡った日本の船だったことに違いはありません。

たとえ咸臨丸の日本人船員が使い物にならなかったとしても、
日本側の「船長」だった勝海舟が船酔いでほとんどの航海中死んでいたとしても、
彼らが初めて日本から、日本の旗を揚げた咸臨丸で太平洋を横断したことは
動かしようのない歴史的事実なのです。

ゆえに、世の中の人々は、使節団の正使や首脳を乗せていた
「ポウハタン号」

を知らなくとも、咸臨丸の名前だけは知っているわけです。


当初は全く使い物にならなかった日本人船員も、アメリカ海軍軍人、
ブルック船長のご指導ご鞭撻で技術的な操船や、シーマンシップを学び、最終的には
自分達だけで全てを行うことができるようになったばかりでなく、勝海舟が創設した
海軍伝習所でそれを伝えましたし、その勝海舟もこの時の滞在で学ばなければ
その後日本で海軍を興すという大事業そのものが立ちいかなかったでしょう。

この白黒二色の三角旗は、咸臨丸に揚がっていたのと同じもの。
レプリカで、「咸臨丸子孫之会印」と印が押してあります。

ここ、メア・アイランドには咸臨丸乗員の子孫で組織された
「咸臨丸子孫の会」が訪問したことがあるのです。

この水茎も麗しい(英語にもいうのかな)筆記体で書かれたのは
当時のサンフランシスコ領事がメア・アイランド工廠に出した感謝状です。

今はこんな手書きの手紙を書くこともないのかと思われますが、
昔の領事や大使は、こういう教養も必要だったのですね。

この手紙には、咸臨丸が「ポウハタン号」のエスコートをして
最初の日本海軍の軍艦として太平洋を渡り、ここメア・アイランド海軍工廠で
修理を受けたこと(しかも工廠司令官の好意で料金は無料となった)
出航をする際に日本人を乗せた艦隊は礼砲を持って送られたこと、

日本人を迎えた最初の街として、両国の友好の扉を開けてくれたことを、
感謝している文言が連ねてあります。

この一番最後に、定型句とはいえ

「メア・アイランド海軍工廠のこれからのご発展を祈ります」

みたいなことが書いてありますが、ご存知のように
メア・アイランド海軍工廠はこのそう遠くない後、1996年に閉鎖されています。

この書簡に認められたサインから当時の日本領事である

「Yasasuke Katsuno」

という名前を検索したところ、サンフランシスコのゴールデンゲートパークにある
日本庭園に、このカツノという人が
領事をしていた1953年当時、
日本から寄付された多数の灯篭を
設置したという記事がかかって来ました。

咸臨丸がサンフランシスコを訪問してから93年目のことです。
きりの良い数字ではありませんが、この頃咸臨丸の渡航記念式典が行われたようです。

ちなみにこの日本の灯篭というのはは、まだ戦後の傷が癒えていない頃、
日本の子供たちに募った寄付を基金として贈られたということです。


この手紙を見てもわかるように、おそらくこのカツノさんという方は
終戦後日米の関係がやっと回復し、色々と難しかった時期の在米領事として、
ただ日米の友好を願い、
そのために仕事を全うされた仕事熱心な公僕だったのでしょう。



アメリカから日本に帰国してから、咸臨丸は日本海軍の戦艦として活動しました。
1868年には戊辰戦争に投入され、新政府軍と戦っています。

この時の咸臨丸は、戦闘時の暴風雨に苦しんだ末、新政府軍に捕らえられ、
乗組員の多くは戦死、あるいは捕らえられて捕虜になっています。
以下その経緯など。

8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として
江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。

8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。
救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。

9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航。
咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。
新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。
逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。
山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。

次郎長親分って、本当に義侠に溢れた博徒だったんですね。

咸臨丸はその後北海道に移住する予定の藩士たちを輸送中、
台風により1871年沈没しましたが、その後も次郎長親分は
清水の寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しているのです。

次郎長親分ってなんて良い奴!

咸臨丸が遭難したのは北海道の木古内町沖で、この時の沈没は
一説ではアメリカ人船長の操船ミスと言われています。

この地図は1990年1月16日に「新咸臨丸」がオランダのロッテルダムを出発し、
サンフランシスコを経由して横浜に到着するまでの航路です。

ところで新咸臨丸とはなんぞや。

調べてみたのですが、新咸臨丸という名前の学生のプロジェクトが
出てくるばかりで、この時実際に海を渡ったらしい咸臨丸が
何だったのか、ついに詳しいことはわかりませんでした。

これだけの大事業だったのに、何の資料もないというのも不思議です。
咸臨丸子孫の会が結成されたのも、この後のことだったようですし・・。


この時には領事主催で盛大な歓迎パーティがサンフランシスコで行われ、
咸臨丸乗員の子孫たちも出席したということです。

左の写真にちらっと見えている白い帽子は咸臨丸の野崎船長。
サンフランシスコでメディアに取り囲まれています。

右写真の左が野崎船長、真ん中の人は勝海舟のつもり(多分)

野崎船長の名前で検索してみると、経歴が出てきました。
ずっと「飛鳥」の船長を務めてこられた日本郵船の船乗りだったそうですが、
その記述に

90年1~4月にかけてレプリカ帆船「咸臨丸」
(小型帆船・オランダのロッテルダムにて建造)の横浜までの航海を指揮

とあります。

オランダ村がオランダの造船会社に発注したレプリカということですか。
しかし当時はバブルだったせいか、日本もすごいことをしますね。

今回も咸臨丸は航路途中でトラブルが起き、修理を要する事態になりました。
ただし今回はエンジンです。

というわけで、ホノルルに寄港し修理を行いました。

その後咸臨丸はアクシデントに見舞われつつも、
1990年4月25日、無事に横浜に到着しましたとさ。

 横浜市長から花束を受け取っているのが野崎船長だろうと思われます。


そしてそれからさらに13年後の2005年、

「咸臨丸の子孫」

がアメリカを訪れた、という記事がここにあります。

「145年前、日本で最初に近代的な戦艦に乗って、
太平洋を越えた咸臨丸乗員を祖先に持つ日本人の一団が、
彼らを率いて航海を行った海軍士官、ジョン・ブルックの孫である
ジョージ・ブルック氏に謝意を表明した。

三十四名からなるその団体のほとんどは咸臨丸の子孫である。

彼らは90歳になるジョージ・ブルックに、彼の祖父の指導がなければ
おそらく彼らの祖先は生きては太平洋を渡ることはなかっただろう、
と語った。

咸臨丸は1858年の遣米使節派遣において、正式にUSS「ポウハタン」の
随伴としてアメリカに送られたものである。

「ポウハタン」はマシュー・ペリー提督の指揮下にあったこともある。

ジョージ・ブルックは、彼らにアメリカ人船員によって「引っ張られる」
日本人船長の写真を見せた。」

「日本人船長」というのが、木村摂津守のことなのか、それとも
勝海舟のことかはわかりません。
ブルック家に伝わるこの写真も世間には出回っていないようです。

「一行は1860年の祖先たちと同じコースを回った。
彼らは大阪市が1860年の訪問から100年経ったことを
を記念して寄贈したモニュメントを見学した」

「彼らはサンフランシスコ市長に宛てた横須賀と大阪市長のメッセージを携えており
日米両都市の友好を推し進めたいと語った」

「咸臨丸」ばかりが有名になってほとんど知られていない「ポウハタン」号。 

「彼らはまた、サンフランシスコで客死した咸臨丸の三人の水兵の墓を訪ねた。
日本にある彼らの故郷である島から運ばれた小さな石で作られた暮石である」

石碑のお返しにサンフランシスコが日本側に送った石碑です。
目には目を。石碑には石碑を。

咸臨丸の子孫たちがメア・アイランドの博物館を訪ねた時の様子。
咸臨丸子孫の会のHPによると、この時の訪問はこう記されています。

咸臨丸サンフランシスコ入港150周年の一環として、コルマ墓地で
加州日系人慈恵会主催の記念式典が計画され、水夫子孫の出席要請があったため、そ
の時期にあわせて子孫の会のツアーを行った。
参加者16名。
29日、墓地にて慰霊祭と顕彰碑除幕式が行われ、富蔵の子孫ほか4名で除幕、
Kさんは法衣をまとって読経に加わった。
碑文の「日米親善永遠なり」は徳川家18代恒孝氏揮毫による。

またジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターの
第20回日米草の根交流サミットが開催中で、その集会にも参加した。
そのほかメアアイランド史跡公園、リンカンパークの咸臨丸入港碑、
ヒルズボローさんによる市内歴史ツアーなど充実の旅だった。

遣米使節団の一員として、その後の日本にあまりに大きな功績を残した小栗忠順。
通商交渉の時にアメリカ側は彼のタフネゴシエイターぶりに驚嘆した、
と前に書いたことがありますが、百田尚樹氏の「日本国記」にはこの時のことが

小栗もまたアメリカ人たちを驚愕させていた。
実は小栗は一両小判とドル金貨の交換比率を定める為替レート交渉という
任務を負っていたのだが、造幣局において、彼はアメリカ人技師たちの前で
小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせる。
彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、次に小栗の算盤による
計算の速さと正確さに舌を巻いた
(アメリカ人の筆算よりも小栗の算盤の方が何倍も速かった)。(日本国記)

と書かれています。

ちなみに「タフ・ネゴシエイター」というのは、ここメア・アイランドの
海軍工廠資料を編纂したキュレーターの文章に出てくる言葉です。

子孫のうちの一人が著した本がメア・アイランド博物館に贈呈したものです。

「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録 名主 佐藤藤七の世界一周」

ジョイス・ジャイルスというのは、当博物館の館長でしょうか。

このブルーのカーディガンがジャイルスさんだと思われます。

咸臨丸と勝海舟がカットされたグラスも、日本側からジャイルス氏に贈られたもの。

咸臨丸入港150周年を記念する銘板は、サンフランシスコの
エンバーカデロ、ピア39の歩道に刻まれているそうです。

 

次にサンフランシスコに行ったら咸臨丸の名残を探してみるのも良いかもしれません。




 

 

 


「空軍に行っちまえ!」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-12-28 | 軍艦

サンディエゴの岸壁に未だその姿を残す空母「ミッドウェイ」。
今日はこの巨大空母の甲板の風景などをご紹介します。

これは今年の写真。
9月の半ばですが、サンディエゴの昼間はまだまだ強烈な暑さです。
ただし夜になると途端に震え上がるほど寒くなります。

甲板の端にこうやって立つと、後ろの高層ビルと甲板が溶け合って
なんとも不思議な構図になります。
昔はなかったベンチもいたるところに設置されて。 

これは去年の写真。

艦橋の近くの部分は、ここで行われるイベントのために
テーブルと椅子がスタンバイしており、夕方ホテルに帰って
甲板の上を見ると、アフター6の盛大なパーティが開かれていました。

ところでテーブルクロスが陸軍迷彩なのは何故なのか。

 今年は冒頭写真をご覧いただければわかりますが、テーブルは一切出ていません。

この日は朝10時のオープンを待ちかねてやってきたので、
甲板に上がった時にはご覧のように誰もいない瞬間がありました。

他の軍事博物館ならともかく、「ミッドウェイ」ではこの時間だけです。

艦首のブライドル-レトリーバー、通称「ホーン」まで
本来ならばカタパルトのレールが繋がっていますが、
展示艦になってからは途中から全部カバーを被せてしまっています。

女の人の足元にあるのが航空機を牽引するシャトルで、
「ミッドウェイ」は油圧式のH‐4‐1を採用していました。
全長50mで、12,700kgの機体を144km/hまで加速させる能力があります。

朝早くからデッキの上の人形「シュータくん」は人気者。
基本皆同じスタイルで写真を撮りたがります。

「今日の信号旗をどう読むか」

というコーナー。
マストに掲揚されている信号旗を、右側の資料をもとに読み解きましょう。

正解は「WELCOME ABOARD」でした。

飛行甲板上のベンチには、寄贈した人がプレートをつけることができます。
これで多いのが、亡くなった人の想い出のために、という言葉とともに
その人の名前を刻むというパターン。

このプレートには、海軍軍人で2017年に亡くなった方の名前と、

「昨日は去った;明日はまだ来ない。
だから今を生きようじゃないか」

(Yesterday is gone; tomorrow isn't here yet.
So, Let's live in the now.)

という言葉が刻まれていました。

空母の甲板はこんな角度からも観ることができます。

ウィップアンテナ(ホイップと読む媒体もあるけどここは英語に忠実に)

の列。

甲板で構造物の上部に動くものを発見したのでよく見ると、
今から補修工事を行う工事人らしい人の姿でした。

もう一人。
やっぱり安全索をつけて作業していますね。

だって、この作業、矢印のところでしてるんですよ。

しかもさらに上に登ってるう!
これは高所恐怖症には務まりません。

しかしさすが「海軍の宝」だけあって、しょっちゅうメンテしてるんだなあ。

 

右舷から艦橋の後ろを覗き込んでいます。
画面左手に見えている黄色い建物がこの時泊まったホテルで、
その前の道が、かつて「グレイト・ホワイト・フリート」の水兵さんが
華々しく行進を行った、ブロードウェイピアです。

 

こちらは「ミッドウェイ」左舷側からコロナド・ブリッジ方向を見たところ。
実際に車でブリッジを渡った時、随分橋桁の高いブリッジだなと思いましたが、
これでも空母は通過することができないのだそうです。

今見ているあたりが、昔カーチスが自分の水上機飛行場を持っていたところだと思われます。

 

その昔、首からカメラを提げて歩いているのは日本人、とアメリカ人は
揶揄していましたが、スマホでのセルフィーが行動基準となった今となっては、
アメリカ人は皆こんな感じでどこに行っても写真を撮りまくっています。

「ミッドウェイ」はいたるところに撮影ポイントを用意してくれています。

 

「ミッドウェイ」の艦番号は41。

当たり前のことですが、かのアメリカ海軍空母第一号の「ラングレー」は
CV-1で、それから41隻目の空母となるわけです。

甲板には空中から感を間違えないように、大きく41が書かれていますが、
ところがどっこい、極限状態のパイロットにはこの字を読む余裕すらないらしく、
自分の艦を間違えてアプローチしてきたという話もありましたね。

これは戦争中、敵味方の間にもしばしば起こったそうです。

有名なところでは、珊瑚海海戦の時に、敵空母に着艦しようとした
帝国海軍の艦爆がいて、既の所でどちらもが気づき回避したのですが、
アメリカ海軍ではそれ以降、アプローチしてくる機に敵か味方か認識する
「フレンド・オア・フォー」のお作法が決まったと言います。

「ミッドウェイ」もそうですが、それでは敵ではないけれども
自分の艦を間違えてよそ様に着艦してしまったら、どうなるかというと、

リンチが待っております(笑)

尾翼の「F」に付け足して

FOULED UP →ヘマしやがって・・・

NAVY → お前なんか海軍じゃねえ

MUST BE AIR FORCE → 空軍になっちまえ

エアマン・アダムズ報告『私はウバンジになりたい』

(ウバンジとはアフリカの土着部族)

 VF-62 ガードメール オリジナル・コーラルシー優先

どうやら間違えて「コーラルシー」におりちゃったんですね。
「空軍に行け」というのは、自分の降りる艦を間違えるようなパイロットは
海軍の資格無し、陸に降りるしか能のない空軍に行きましょう、ってことです。

 

こっちもすごい。
パイロットはニコニコしながら写真におさまってますが。

いっぱい書かれすぎて読めないんですが、その中に

「この子はお宅の迷子さんですか?」

とか、給油口にわざわざ

「ガスにはコニャックを混ぜといたでー」

と書いてあったりします。

しかし、艦を間違えた!と気づくと同時に、ペンキの缶を持った甲板の乗組員が
ニタニタしながら駆け寄ってくるのって、パイロットにとって一生のトラウマだろうな・・・・。

 

そして全身にペイントされた情けない機体でしょんぼりと帰還を試みるパイロット。

「二度と来るんじゃないぞ〜」

まるで刑期を終えてムショの門を出て行く時のような
生暖かい声援が、機体に浴びせられているのでしょう。

そして、この後自分の艦に戻ってから、その屈辱的な落書きを消す
機体メンテナンス係に思いっきり嫌な顔をされる運命が待っています。

さて、というわけで甲板をいよいよ降りることにしました。
退出口は艦尾の1箇所からです。

この一つ一つがライフボートなんですよね・・・。
最初に見学していたなかったら「米俵」?とか思ってしまったかもしれん。

このまま階段を降りて行けば外に出られますが、ちょっとだけショップをのぞいて見ることにしました。

ミッドウェイTシャツに混じって、さりげなくグラマンロゴのがあるぞ。

ジョリーロジャースのTシャツめっけ。

 

ところで今年、甲板の隅でこんなイケてるお掃除車を見つけました。

機体のペイントをするノウハウを取り入れております。

続く。

 

 


フェリー客船「ユーリカ」 30分×2の社交場〜サンフランシスコ海事博物館

2018-12-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンフランシスコ海事博物館についてお話しするのも最後となりました。
今日はフェリー「ユーリカ」の続きです。

「サンフランシスコからマリン郡まで5分では無理」

と前回コメントを頂き、調べてみたら今のフェリーでも30分かかることがわかりました。
ゴールデンゲートブリッジを車で走ったらあっという間なので、
船でも5分くらいで行ける気がしていましたが・・<(_ _)>

さて、1848年、メキシコがアメリカにカリフォルニアを譲渡した後、
ジェームズ・マーシャルなる人物がアメリカン・リバーで金塊を発見して以降、
ゴールドラッシュが起こり、ベイエリアの人口は爆発的に増加しました。

1850年にフェリーサービスが生まれ、当時のサンフランシスコのフェリーターミナルは

「世界で一番忙しい旅客ターミナル」

となります。

ノースイースタン・パシフィックの「タマルペ」(Tamalpais)は
ベルベデア島を就航していた当時最新鋭のフェリー船でした。

二基の巨大なパドルホイールを持ち、1300馬力の
two cilinder compound steam engine を搭載していました。

当時のベイエリアのフェリーターミナル。
ターミナルには汽車が連結していて、ここで乗り継ぎをしていました。

1901年、相変わらず霧の濃いサンフランシスコで、「サンラファエル」号が
アルカトラズ島を後ろに航行している様子です。

この写真では、船の上部にダイアモンドの形の梁のようなものが確認できますが、
これが「ユーリカ」も採用していた

「ウォーキング・ビーム・エンジン」

です。

ウォーキング・ビーム・エンジンは外輪船のエンジンの型式で、
エンジンが嵩高いので、荒れた海では不安定になることもあり、
軍用には使用できませんでしたし、海での運用は嫌われましたが、
ベイエリアのような浅い海岸線や内陸水路では重宝されました。

技術的に時代遅れになってもアメリカではこのエンジンが作り続けられた理由は、
まず一つに、製造に精度を必要とせず、簡単にできて木材を使うことができたこと、
そしてウォーキング・ビームが動いている様子は人々に人気があったことです。

革新的なことの好きなアメリカ人ですが、こと船に関しては
いつまでも旧式の船を使い続けるような一面も持っていたということです。

霧の中サンフランシスコに入港しようとしている「サウサリート」号。

先端には今から降りる車が3列に並んで到着を待っていますが、
特に転落防止などのロープはなく、到着寸前と思われます。

徒歩で降りようとする人の姿もデッキには見えていますね。 

フェリーの歴史には悲惨な事故が起こったこともありました。

霧の中での操船は昔も今も事故が起こりやすいわけですが、
「サウサリート」は1931年11月30日、アルカトラズ付近で
霧から出た途端に現れた「サン・ラファエル」の船腹に衝突しました。

(それくらいこの地域の霧は濃いことがあるのです)

沈みかけた「サン・ラファエル」から渡された細い板を歩いて
「サウサリート」に乗り込もうとしていた人のうち3名が死亡し、
「オールド・ディック」という「サン・ラファエル」に乗っていた
貨物馬車の馬は、どうしてもその板を渡ることを拒んだため、
かわいそうに船と一緒に海に沈んでしまったということです。

写真はその時「サン・ラファエル」の船長だったジョン・マッケンジー。

少なくともこの人の操舵していた「サン・ラファエル」は
霧の中慎重にマリン郡へと向かっていたということです。

彼が船を後にしたのは、乗客が全て退船し終わるのを見届けてからで、
最後の退出者となりました。

事故後、両船の船長はいずれも資格停止になっていましたが、
マッケンジー船長に対しては彼の勇敢な行為を見ていた乗客が
署名運動を行い、その結果船長職に復帰することができました。

ずらりと椅子が並んだ客室を前回お見せしましたが、このように
立ったまま過ごせるキャビンもあったようです。

運行時間はサウサリートーサンフランシスコ間だとそんなにかかりませんので、
特にアメリカ人は通勤電車で立つように立っていたのだと思われます。

階段の手すりを利用したベンチ。
今日のようにお天気のいい日には外で過ごす人も多かったことでしょう。

左側に、上に通じる階段があるので登ってみました。

一番上の屋根の部分はこんな感じ。
ちなみにここは立入禁止となっています。

フェンネルの周りに前後に向けて4本の大きな管が設置されています。


船体は随分きれいですが、1994年2月、ドライドックで修復を受けたからです。

このとき、45人の熟練した職人の乗組員が作業に携わり、
2.5マイルの板張りの縫い目をかしめ、
9000個以上の8インチ鋲が打ち込まれ、
タールが塗られ、フェルトが敷かれ、1万2千平方フィートの銅が塗装されました。

その時主甲板の端はすでに腐敗しており、船体間のコーキングは軟化、
パドルホイールとそのケースを支えている巨大な梁は劣化していたため、
新たなスチールに置き換えられました。

フェリーの両端部分もまた修復されました。
腐敗の再発を防ぐために、新しい木材のすべてにホウ酸塩棒を設置しました。

これは、当博物館独自の技術で開発された最先端の船舶保存技術で、
作業後、時間が経つと雨水侵入によって棒が溶解し、ホウ酸塩が木材に浸出し、
これが腐敗を防ぐというわけです。

本来なら雨は乾性腐敗の主な原因なのですが、それを逆手にとって
保存作用を促進させるという画期的な方法です。

しかし、たかが(といってはなんですが)一隻のフェリー船の歴史的保存に
これだけの労力と何よりお金をかけられるというのがアメリカの凄いところ。

その意欲と意思、技術があっても、最後の「お金」の段階で
全てを諦めざるを得ないことの多い日本から見ると羨ましい限りです。

上部構造物の中は船員たちの居住区となっていた部分です。

二段に分かれたベッドも設えてあり、ここで寝泊まりすることもできた模様。
皮のトランクは雰囲気を出すための装飾です。

操舵室にやってきました。
ここに立ってみると随分高いところから操舵していたのだなと感じます。

舵輪の大きさはほぼ成人男性の背丈くらいあるように見えます。

写真は同じような場所で操舵をする、
1941年当時の船長、ヴィクター・ヴェルデレット氏。

しかしこの写真、どこを見ても舵輪がないんですが・・・・。

この説明は

「当時船長かあるいは一等船員(ファーストメイト)が
操舵室の前方から操舵を行なっていて、あなたがいるところは
サンフランシスコの終着点である」

つまりここは舵輪のある側で、写真に写っているのは
公開されていない船の反対側にあるという理解でよろしいでしょうか。


二つのホイールハウスはそれぞれでコントロールが可能で、(当たり前?)
レバーは蒸気ステアリングエンジンに連結していました。

エンジンルームテレグラフは、例えば

「フルアヘッド」(前進全速)「スロー・アスターン」(徐行後退)

などといった命令をメインデッキのエンジニアに送ります。
ここにもあるテレグラフの目盛りを見るとわかりますが、

ヘッド(前進)アスターン(後退)

とあり、その速度が速いものから順にストップを挟んで

フル、ハーフ、スロー

と三段階に分かれているというわけですね。

ほとんど手動だった当時の大きなフェリーは操舵に技術と経験が必要です。
ここの操舵手たちは毎日、毎回、毎時、流れの速い波はもちろんのこと、
雨期に降る激しい雨や、サンフランシスコの霧と戦っていました。

同じ日でも朝と夕方では全く条件が変わることもここでは珍しくないのです。

操舵室から見たサンフランシスコの市街地。

お馴染みコイトタワーやダウンタウンの高層街、はるか向こうには
ベイブリッジが一望できます。

この眺めの良さも、高いところにある操舵室からならではです。

船からの眺めも乗客の楽しい時間つぶしになるのは、
ここがサンフランシスコという街だからに他なりません。

通勤でフェリーに乗る人は、一日2度、同じ航路を往復することになり、
自然と「お気に入りの場所」に座ることになります。

そうすると顔見知りもできてきて、おしゃべりが始まったり、
いつもポーカーをするグループができたりするわけです。

いろんな階層の人たちが利用しますが、勤め人たちと、
いわゆるエグゼクティブは別の場所に集い、自然と分かれたそうです。

レストランに現れる顔ぶれもほとんど毎日同じ。
読書家は本を読み、あみ物好きは必ず固まって編み針を動かしました。

フェリーから眺める波間に珍しい鯨の姿が見えることもあり、
そんな時には船客が撮った写真が新聞を飾ったりしました。(右上の絵)

ゴールデン・ゲート・ブリッジができて船の通勤がなくなったこと、
束の間ではあるけれど気楽な社交場がなくなってしまったことは、
ベイエリアに住む人々にとって便利になったと喜んでばかりでもない、
一抹の寂しさを感じさせる時代の変化だったに違いありません。




舷側には、現役時代に救命ボートが牽引されていたデリックが直立しています。
こちら側の海面には個人所有の小さな船が中心に係留されています。

Annunciator(アナンシエーター)というのは電光やブザーにより
信号の発信元などを示す装置のことをいいますが、この場合は
各デッキのスプリンクラーの設置場所を示しています。

改装したときにこのような消火設備を新たに付けたようですね。

加山雄三さんのヨットではありませんが、船、特に世界でも稀な
木造の巨大な船である「ユーリカ」が不審火によって消失する、
ということなどあっては大変な文化財の損失になってしまいます。

というわけで、見学を終え、かつて「ユーリカ」がサンフランシスコに
到着したとき、車でない人が歩いたのと同じ光景を見ながら退出です。

海事博物館のあるフィッシャーマンズワーフから車でピアを見ながら走っていくと、
ベイブリッジが見えてきます。

その近くの突堤には、ビルかと見紛うような巨大な客船が停泊していました。
かつて海上交通の発展形として生まれたフェリーが繁く行き交った同じ湾に、
今ではこんな輸送力を持った客船が錨を下ろしているのです。

100年前のサンフランシスカンがこれを見たら如何に驚愕したでしょうか。

 

 

サンフランシスコ海事博物館シリーズ 終わり

 


メア・アイランドを訪れた『スター』たち〜海軍工廠病院と看護師部隊

2018-12-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

メア・アイランド海軍工廠は1海軍がここヴァレーホにある
メア島(正確には根元で繋がっているので島ではありませんが)
を購入し、西海岸に初めて作った海軍造船所です。

1870年年に操業を開始し、1996年に閉鎖されたわけですが、
島全体を買い取った海軍は、ここに海軍病院を作っていました。

海軍病院も閉鎖され、跡地は廃虚のままです。

Abandoned Navy Hospital Mare Island

廃墟となっている病院の建物の前には今でもグーグルマップで行くことができます。

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館には、海軍病院のコーナーがありました。
今日はその展示をご紹介して行くことにします。

海軍病院創成期に病院に関わった医学者たち。
医者ですが同時に海軍軍人となったので「オフィサー」です」。

ジョン・ミルズ・ブラウン大将 (1831−1894)

英語のタイトルは「Suejeon general」軍医総監となっています。
ハーヴァード大学卒業後、軍医としてUSS「ウォーレン」乗組から
キャリアを始めたブラウン博士は、1869年から2年間、
メア・アイランド海軍工廠で勤務していました。

海軍病院は1869年竣工、1870年開業となっていますので、
ブラウン博士は病院の「艤装艦長」的役目を務めたということになります。

その他USS「ウォーレン」USS「ドルフィン」USS「コンステレーション
USS 「キアサージ」USS「ペンサコーラ」などにも乗り組んでいます。

 

ジェームズ・アルバート・ホーク中将(1841ー1910)

ペンシルヴァニア大学で博士号を取ったホーク中将の一族は医者一家で、
息子も二人の娘婿も全員が医師です。

南北戦争では志願して軍医をしていましたが、除隊後海軍に入り直し、以来14年間、
海軍軍医としてずっと太平洋、大西洋を高校する海の上で過ごしました。

ポーツマスで黄熱病の治療に当たった跡、ホーク博士は
USS「インディペンデンス」でメア・アイランドにやってきます。

ここで海軍病院の司令官(つまり院長)として1903年まで勤務し、
この時に中将に昇進しています。

「ファースト・ホスピタル」

として、1869年に建築がスタートしたことを記念するプラーク(銘板)。
さらに、「コーナーストーン」が置かれたのは1869年10月12日、
竣工したのは1870年とあります。

コーナーストーンとは礎石のことで、日本のビルの「定礎」です。

海軍工廠の歴代軍医長。
なぜか1903年から1908年からは「Not Known」不明とあります。

メディカル・オフィサーというのは院長という意味じゃないんでしょうか。
幾ら何でも「誰かわからず」ってことはないと思うのですが・・・・。

ここで気がつくのは、メディカル・オフィサーは全員キャプテン、
大佐のタイトルなのですが、1916年までのオフィサーには
「サージェオン」(外科医)としかタイトルがないことです。

外科医と大佐の過渡期であるニールソンさん一人「コマンダー」Cdr.で、
これが「指揮官」を意味するのか「中佐」なのかはわかりません。

おそらくこの時期に何か改編が行われたのだと思われます。

うっかりして写真が切れていまいましたが、左上は「ウォーレン」と
「インディペンデンス」です。

ブラウン大将もホーク中将も乗り組んでいたという両艦ですが、
実はこの2隻、当時の病院船のような扱いだったということです。

右上は、サンフランシスコ大地震で倒壊したあと新築された病院。
冒頭のグーグルマップの画像と同じもので1900年の竣工です。

外見は全く変わっておりません。
右下は病院勤務のオフィサーたちの官舎です。

左は「マリナーズ・クロス」。

Mariner's cross

Though I take the wings of the morning and fly to
the utter most part of the sea even there thou are with me

これは詩編の139にほぼ同じ文章を見ることができます。

If I take the wings of the morning,
and dwell in the uttermost parts of the sea;

マリナーズクロスは、アンカーの形を十字架と重ね合わせたもので、

海に生きる人々のためのクロスです。

「さりながら私がその朝翼を得て海原の完璧な一部となるために飛んで行くときも
あなたは私とともにおられる」

って感じでしょうか。(聖書の英語には自信がないのですみません)

右側のプレートは今もメア・アイランドにある聖ピーターズ教会。

可愛らしい教会です。
こんな小さな教会ですが、内部のステンドグラス窓のデザインをしたのは

ルイス・カムフォート・ティファニー


あの宝飾ブランドティファニー創業者チャールズ・ティファニーの息子で、
アール・ヌーヴォーのガラス工芸作家です。

ティファニー作ステンドグラス

 

聖ピータース教会は今でも結婚式などで人気の教会だそうです。
もちろん海軍工廠の人々のために1901年に創建されました。

ちなみにメア・アイランドは結構な広い面積をゴルフコースが占めており、
そこは今でもゴルフコースを営業しているのですが、これは
ミシシッピ以西で最古のゴルフ場となります。

病院で使われていた装飾いり義足。
綺麗な花の絵が彩色されていますが、男性用だそうです。
左の膝から下を戦傷で失くした男性のために、靴のサイズを
右足と同じにして義足が作られました。

 

もしかしたら彩色も本人の希望だったかもしれません。

これらの義足はメア・アイランドのbrace shopで作られました。
ブレースというのは歯科矯正のブレース、などと言いますが、
元々は( )の形をしたもの、というのが語源です。

挟み込むもの、という解釈で、義足も「矯正する」=ブレース、
と英語では言っているらしいことがここの説明でわかりました。

写真は1954年のもの。

つまりこの義足を必要としていた人というのは、第二次世界大戦で脚を失った戦士です。

 

これらの義足や、義足をつけた人の写真は、病院に保存されていたものです。
病院が閉鎖されることになった時、この大量の義足や写真をどうするか、

関係者は大変困ったことと思いますが、結局全てワシントンD.Cの
公立図書館が資料として保存することが決まりました。

これはメアアイランド海軍病院コーナーとして展示されている写真です。

歯科で使用していたEMESCO社のベルトドライブ式リューター。
歯医者用のドリルです。

「ミッドウェイ」の歯科シリーズで書きましたが、
ベルト式で歯を削られたらさぞ痛かったことでしょう。

「歯医者は痛いもの」という定説を作ってきた元凶?がこれですね。

第二次世界大戦の時メディックが個人で携帯していた医療器具一式。
左の冊子は

「戦傷に対するファーストエイド/あなたは彼の命が救える」

 

左の茶色い瓶は重炭酸ナトリウム、つまり重曹です。
錠剤になっていますが、胃薬にでも使うんでしょうか。

包帯、ガーゼ、ゴム手袋、液薬を入れてスプレーするアトマイザーなど。

ここには看護師部隊、ナースコーアがありました。
開戦前、海軍のナースは1400名しかいませんでしたが、
真珠湾以降志願者が増え、最終的には11,000人になっています。

昔このブログでも「聖なる20人」という最初の海軍看護士について
書いたことがあるわけですが、最初に海軍のために女性が看護師として
奉仕をしたのは1908年のことでした。

 ナースコーアの制服の一つにマントがあります。

わたしがイラストを気に入っているアメリカ海軍の制服紹介ページの

アメリカ海軍の制服1905-1913

アメリカ海軍の制服1941

いずれにも看護師のマントが登場しています。

1943年に制作されたネイビーナースコーアの求人ポスター。
マデリーン・デイビスという実在のモデルがいるそうです。

 

メア・アイランド海軍病院には大戦中有名人の慰問が相次ぎました。

まず、コメディアン、ボブ・ホープ
ホープの軍慰問は1939年にヨーロッパ戦線に始まり、第二次世界大戦、
朝鮮戦争、ベトナム戦争、レバノン、イラク、イラン、ペルシャ湾まで
生涯で60回もの戦地訪問を行なっています。

もちろんこのような病院への慰問はそれに数えられません。

最初の慰問で「サンクス・フォー・ザ・メモリー」という自分が映画で
歌った歌の替え歌でウケたので、それをネタにすることが多かったようです。

U.S.O. Bob Hope Troupe entertains U.S. soldiers on Bougainville during World War ..

このフィルムでも、何人かの出演者と一緒に「サンクス」の替え歌で場を沸かせています。

彼はその功績を讃えられ、一般人としては異例なことですが、

車両貨物輸送艦「ボブ・ホープ」 T-AKR-300

にまだ生きている時に名前をつけられています。

西部劇俳優のハリー・ケリーと女優アン・ラザフォード

ラザフォードは「風と共に去りぬ」でスカーレットの妹、
キャリーン・オハラを演じた人です。
映画では地味に見えましたが、流石に女優、オーラが違う。

慰問されている兵士は、照れているのか・・微妙な表情ですね。

こちらは和気藹々、片足を負傷した兵士を見舞うマール・オベロン
「嵐が丘」でキャサリンを演じ、有名だった女優さんです。

こうして素の顔を見ると母親がインド人というのがよくわかりますね。

わたしは小さな時からこの人の名前を知っていたのですが、
母が若い時にマール・オベロンに似ていると言われたことがある、
という今にして思えばほんまかいな、な本人談のせいでした。

わたしが思わず「おっ」と声を出してしまったこの写真。
作曲家のアーヴィング・バーリンです。

と言ってもこの名前を知っている方はあまりおられないかもしれませんが、
この人の作曲したこの曲を知らない人はまさかおられますまい。

「ホワイト・クリスマス」

ね?

「ゴッド・ブレス・アメリカ」は第二の国歌のようになっていますが、
彼自身は実はロシア生まれの移民一号です。

God Bless America 

この曲を聴くと、このシーンしか思い出さないわたし。

どこにでも神出鬼没のエレノア・ルーズベルト、やっぱりここにも来ております。

1943年に撮られた海軍病院ナース・コーアの全員写真。
足をクロスさせるのが写真を撮るときの基本だったようです。

ちなみに、わたしは海自のカメラマンに写真を撮られる時に

「脚は少し斜めに流すと綺麗に見えます」

とポーズをつけられたことがあります。

最後にちょっとロマンチックな展示を。

アクリルのカバーが反射してわかりにくいのですが、
マリーンの男性用制服が、海軍のナースコーアの制服を
後ろから抱きしめるように重ねて展示してあります。

これはここ海軍病院に患者としてやって来て看護士と恋に落ち、
その後結婚したロバートとパトリシア・ベニング夫妻の制服なのです。

出会ったばかりのベニング夫妻のお熱いショット。

お節介ながら彼らの座っていたベンチも特定してやりました。
冒頭の病院正面の前庭にいくつかあったらしいベンチの一つを
グーグルマップで見つけてキャプチャーしたものです。

 

放置された海軍病院の建物は、時々わたしのような廃墟好き、肝試しや
ゴーストハンターなどというテレビ番組のクルーが入り込んでくる以外は
森閑として、かつて若い兵士と看護師が恋を語らったベンチは
座るものもなく、ただカリフォルニアの日差しに照らされています。

 

 

続く。

 


フェリー「ユーリカ」ー栗林中将のダッジーサンフランシスコ海事博物館

2018-12-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンフランシスコ海事博物館の展示、最後にフェリー「ユーリカ」をご紹介します。

「ユーリカ」は1890年に建造されたパドル式ホイールの蒸気フェリーで、
元々はサンフランシスコとティブロンという西海岸の街を往復していた貨物船でした。


現存する世界最大の木造船であり、また、唯一の木造のフェリーでもあります。

戦隊に大きくマークされた

「ノースイースタン・パシフィック」

は、最後の彼女のオーナー会社です。
それまで「ユカイア」という名前で貨物を運んでいた彼女は、同社に買われ、
フェリーして「ユーリカ」という名前をつけられ改装されました。

この頃、アメリカでは自動車が広く普及を始めていたのですが、人々は
「海を横切って運転」("drive across the bay". )することを欲し、
ノースイースタン・パシフィック鉄道者はすぐさまそれを叶えました。

冒頭写真を見ていただくと、車で「ユーリカ」に乗りこむ為の
ゲートの上に「ハイドストリート・ピア」という文字があります。

サンフランシスコのハイド・ストリートをまっすぐ港に向かって降りてくると、
その先端は「バルクルーサ」などが係留展示してあるこの突堤なのです。

また、ルート101の看板がありますが、ゴールデンゲートブリッジがなかった頃には、
ゴールデンゲート海峡を渡るフェリー航路がすなわちルート101でした。

海の上のフェリー航路が正式にルート101となったのは1922年のことです。
その航路そのものを「レッドウッド・ハイウェイ」と呼んでいたようですね。

サンフランシスコに住んでいた頃、どうしてルート101はロンバードストリートで
急に直角に曲がっているのか不思議に思っていたのですが、これで謎が解けました。

1937年、GGBが開通したので、まっすぐ港に向かっていた101を
無理くりブリッジを通る道につなげなければならなかったからです。

ブリッジの開通とともに、フェリーは即刻廃止されることになりました。

それでは、かつては車が乗り降りしていたランプを登って中に入っていきます。
ランプの坂にはかつて「ユーリカ」に装備されていた錨が展示されています。

ランプは車用のものだと思うのですが、はて、車はどこに乗り込むのか・・。

「ユーリカ」はダブルエンドのデザイン、つまり船の両端で車の乗り降りができますが、
どうもこの場合、船の左舷側に車は誘導されていたようですね。

そのまままっすぐ進んでいくと、かつてのように車がたくさん停まっていました。
いずれも当時の型式の車ばかりで、タイムスリップしたようです。

向こうに超高級車ロールスロイスがいるような・・・。

手前の車は1931年製のシェビー「ウッディ」ですが、
「Depot Hack」(デポ・ハック)という呼び名が一般的です。

なぜデポ(貯蔵庫)ハック(意味不明)なのかは英語の人にもよくわからないそうですが、
ハックは馬車馬の種類であった「ハックニー」から転じた馬車の意味、とする説があります。
ここでは

「ドライバーが乗客を様々輸送貯蔵庫(つまり待合所)から
市内の彼らの最終目的地まで送り届けるから」

となっています。

「今日では明るい色のキャブが同じサービスのプラットホームになっています」

1930年に発売されたダッジのセダン。

確か、栗林忠道中将がアメリカに武官として行っていた時期、
息子の「太郎くん」への手紙にこれと同じような車のパンフレットを
切り抜いて貼って、それに自分の絵を描き加えていたような・・・。

ほらこれ。同じ車じゃないですか?
栗林中将が購入したのはダッジだったんですね。

ホイールまでボディと同じ青に塗装したおしゃれな車は、
やはりダッジの1924年製エクスプレスワゴン。

 

車で引っ張るワゴン、これはサンフランシスコのチョコレート、ギラデリのマーク入り。
創業者はイタリアから移民してきたドメニコ・ギラデリさんです。

このサンフランシスコ海事博物館のすぐ近くに、ギラデリの巨大なレストラン付きショップがあります。
わたしはそもそもアメリカのチョコレートは全く評価しておらず、
ギラデリのチョコレートも味見くらいしかしたことがありませんが、
一応サンフランシスコ土産ということになっているようです。

農作物などを運搬するカーゴばかりが並んでいます。
実際にフェリーを利用する車両は、貨物が結構あったのではないでしょうか。

例えば、この右側のトラックはドロハー・コールという石炭会社の社用車で、
向こう側は郵便物を運搬する車です。

今現在のフェリーというのもそうですが、乗客のデッキは車の階の上にあります。
車を停めたら皆航行時間を過ごすためにこの階段を上がって行ったのです。

というわけでここを上っていくことにします。

外側に面したベンチの一角があります。
サンフランシスコから向かいのサウサリートまでここで過ごすのも可。

木に鋲で皮革を貼り付けた堅牢な作りのベンチが並ぶ客室。
昔を描いた映画の一シーンで見たような光景ですね。
座席の下にはライフベストが収納してあります。

広々とした明るい船内は天井が大変高く、開放感のある雰囲気。
椅子の下に見えているのはヒーターのようですね。

「ユーリカ」は1990年代に放映されていたドン・ジョンソン主演の警察ドラマ、
「刑事ナッシュ・ブリッジス」のロケに使われました。

この客室の中央に売店があります。
タイムなど雑誌や新聞、ミントやタバコ、キャンディーなど。
商品のホコリを取るための羽箒も健在です。

棚の右側にあるミントですが、浮き輪の形をしていて、
製品名が「ライフセイバーズ」(笑)

ものすごく凝った装飾の施されたレジスター。

近隣には当時からヨットハーバーが点在しているので、ヨット雑誌があったり、
ファーストエイドのハンドブック、映画スターの話題などつまりゴシップ誌なども。

乗客は最大で2,300人が乗ることができ、
車は120台搭載可能だったと言います。

平均乗客数は2,200人だったといいますから、いかにこのフェリーが
通勤や運送にサンフランシスコの人々の役に立っていたかがわかります。

サンフランシスコから対岸までわずか5分15秒のトリップでした。

 

内部を見ることもできます。

どこの部分かわかりませんが、機関部分。

サンフランシスコからの始発は0650、最終便は2325です。

料金は車一台にドライバー一人が40セント、バイクと三輪車が20セント。
車一台のドライバー以外の乗客は一人につき5セントとなります。

水飲み場のシンクはホーロー製だったせいで腐食してしまっています。

このフェリーを運営していた会社は鉄道会社であり、鉄道とフェリーで
マリンカウンティとサンフランシスコを繋いでいました。

シングル・エンダーというのはダブルエンダーのフェリーができる前の
通り抜けられない車のデッキをもつ船のことで、この時代から
つまりブリッジができるまでの80年間、フェリーは
マリーン郡で交通の手段として活躍を続けました。

「ユーリカ」にはレストランもありました。
大して長い時間でもないのに、ディナースタイルの食事を食べ終わることができたのか、
という気もしますが、この写真を見る限り、ほとんどの人がファストフードです。

1940年8月14日水曜日のメニューによると、

スープ

ビーフスープライスとともに 10c

チキンヌードルスープ  13c

トマトクリームスープ  15c

冷たいトマトスープ 10c

サラダ

レタスとトマトのサラダ 10c

レタスサラダ 13c  ポテトサラダ  10c

飲み物

フレッシュオレンジ  13c

グレープフルーツジュース  13c

レーニア・エール(商品名)  20c

パブスト・カンド・ビール  25c

フンボルド、アクメ、グレース兄弟、

レーニアビール(ボトル)20c

今日のスペシャル 55c

ビーフスープ(ライス入り)

ボイルドショルダーポーク、キャベツを添えて

レバーとベーコンのフライ

グリンピース、ポテト

デザート:パイ

コーヒー、紅茶、あるいはミルク

 

今日のスペシャルメインディッシュ

ポットローストビーフマカロニ添え 45c

クラブステーキフライドポテト添え 30c

ハンバーガーステーキフライドポテト添え 35c

チップステーキトースト 20c

トマトソーススパゲッティ 25c

ホットローストビーフサンドイッチ 30c

マカロニチーズ、クリームソース 25c

ホームメードコンビーフ・ハッシュ 25c

ラビオリ 25c エンチラーダ 25c

ベイクドビーンズ 25c チリコンカン 25c

デザート

カンタロープメロン、ハーフ 10c

パウンドケーキ 10c

ハーフグレープフルーツ 10c

スライスしたハワイアンパイナップル 15c

パイ各種 カット 10c

イチジクのコンポート 10c

プルーンのシチュー 10c

 

1940年の1ドルは当時の4.2円ですから、例えばパウンドケーキは
だいたい4銭くらい。
物価指数はかける2000くらいですから、現在の80円といったところです。


これによると、スペシャルディナーが2000円強というところで、
なかなかリーズナブルな値段で食事できたということになりますね。

 

続く。

 


小栗のまなざし - 明治150年記念防衛セミナー/南関東防衛局主催

2018-12-22 | 日本のこと

 


知人から横須賀で防衛セミナーが行われることを教えていただきました。
PDFで送っていただいたポスターというのがこれ。

南関東防衛局が主催する防衛セミナーで、明治150年を記念し、
横須賀と海軍、横須賀と近代技術についての講演がメインですが、
人を集めるために東京音楽隊の演奏を後半に行うことにし、
ポスターには大々的に歌手の三宅由佳莉三等海曹の写真を載せてます。

うーん、三宅さんで客を引こうってか。あざとい。主催者あまりにあざとい。

まあもっとも、この二つの講演だけであったら、いかにこのテーマに
興味があるわたしでもわざわざ横須賀まで行く気になったかどうか。

わたしをこのセミナー参加に駆り立てた決めては

♪ 小栗のまなざし- 小栗上野介公に捧ぐ- ♪

という楽曲が演奏されるという情報だったのは確かですから。

この小栗とは咸臨丸シリーズでもお話した幕末の天才、小栗忠順のことです。


小栗は維新後、高崎市の水沼河原で新政府軍の手によって斬首されました。

共に処刑された部下と共にその遺体が葬られている東善寺は
「小栗上野介の寺」と自称しており、この「小栗のまなざし」という曲も
東善寺の委嘱によって作曲されたものなのだそうです。

ちなみに、公演中、小栗の功績についてひとしきり説明した演者が
会場に来ておられた小栗の子孫という方(女性)に声をかけました。

「(小栗上野介については)こんなところでよろしいですか」

「だいたいそんなところです」

「小栗のまなざし」は聴いていただければお分かりのように、
大河ドラマのテーマソングを思わせる壮大でドラマチックな内容です。
(ところでNHK大河ドラマが小栗忠順を取り上げる日は来るでしょうか)


というわけで、今日はこの日、客寄せが目的で後半に催された
東音ミニコンサートの曲目解説を挿入しながらお話ししていくつもりです。

 

さて、セミナーの行われた横須賀のベイサイド・ポケットに到着すると、
受付に向かう階段で、まさに偶然ばったり、本日の主催である
南関東防衛局事務官である旧知の方とお会いしました。

所属する防衛団体の米軍基地見学をアレンジしてくださって以来のご縁です。
この偉い人がわざわざ案内くださって、前の方に座ることになりました。


ところで今回セミナーの主催者である「南関東防衛局」について、
あまりご存知ないかもしれないので説明します。

これらのセミナーも演奏会も、南関東防衛局の任務の一つであり
広報活動の一環だったのです。

防衛局というのは防衛省の地方支部局で、防衛大臣直轄の組織です。
会社でいうと「支店」ですね。

南関東防衛局はここにも書いてあるように、
神奈川県、山梨県、静岡県が管轄区となっています。

組織のトップは防衛事務官たる南関東防衛局長がつとめており、
現職の堀地透氏はこの日のセミナーで最初に挨拶をされました。

横須賀地方総監部で行われた練習艦隊壮行会にも来ておられたので、
「かしま」艦上で名刺交換させて頂いたことがあります。

防衛局の重大な役割の一つが、地域住民と自衛隊、そして
在日米軍との架け橋となる防衛行政を実施することで、
具体的には米軍基地の一般公開を企画調整したり、あるいは
基地周辺の
防音工事の補助金を出すなどして、基地と地元の関係が
円滑に進み理解が得られるように図るのが防衛局の仕事です。

 あ、それで米軍基地見学の調整などということをして頂けたのか。
(今頃になって気づいたわたしである)


ところで2017年以降、厚木飛行場のアメリカ軍部隊は順次岩国基地に
移転しているのをご存知だったでしょうか。
これも閣議決定後、防衛局の調整によって具体的に動いている一例です。

また、防衛局は、自衛隊や在日米軍に必要不可欠な防衛施設の工事について、
その計画や発注、監督などを行うこと、つまり地域に存在する
民間の防衛産業と両軍との間に立つという役割も負っています。


ところでここまで書いてきてふと気になったのですが、
米軍と民間の調整役がその任務であるというなら、それを現在進行形で
沖縄で行なっている沖縄防衛局って、全国の防衛局の中でも
最前線というべき大変なことになっているのではないかと
改めてその視点から最近の記事を探してみると・・・・。

辺野古工事、重機に接着剤=器物損壊容疑で県警捜査-沖縄防衛局

防衛局、問題発覚までの7年間説明せず 高さ制限超える建物358件

沖縄防衛局係長が酒気帯び容疑 「車で寝て抜けたかと」

おお、やられてるやられてる。
まるで親の仇のように沖タイ、あさピーから集中砲火ですわ。

また、実際に左翼の襲撃なども受けているのですが、産經新聞が

辺野古反対派に押し倒され防衛省職員が大けが 被害届提出 嘉手納署が傷害事件で捜査

と報じるニュースを、琉球新報は

沖縄防衛局で座り込み 「聴聞」の対応巡り

当たり前のように「報道しない自由」を行使しております。
警察の操作どころか怪我のことには一言も触れておりません。


南関東防衛局はキャンプ・ハンセンの実弾射撃訓練場所を御殿場に移設するなど、
沖縄基地負担軽減のための協力も行なっていますが、これなども
沖縄二紙と朝日・毎日、共同新聞が報道することはまずないことに違いありません。

 

 

セミナーに先立ち、三宅由佳莉三等海曹の国歌独唱が行われました。

わたしにセミナーの情報をくださった元自衛官は、このとき
つい習慣で、三宅さんと一緒に大声で歌い出してしまったそうです><

「自衛隊だと大声(笑)で歌い出すものなのですが、一般の人はそうではないんですね」

そういえば、わたしも以前元自衛官の方と一緒に音楽まつりに行ったとき、
国歌斉唱の声が桁外れに大きいのでびっくりした経験があります。

 

ところで国歌といえば、この日のコンサートで「小栗の」の他に、
わたしにとって大変勉強になったもう一つの曲がありました。

Hail Columbia (higher quality)

♪ ヘイル・コロンビア、「コロンビア万歳」♪

アメリカ合衆国の初代国歌で、ペリーが浦賀に黒船とともに来日したとき、
軍楽隊が日本の地で行進しつつ演奏したのはこの曲だったといわれています。

因みに現在の国歌「スター・スパングルド・バナー」がフーバー大統領のもとで
正式に制定されたのは1931年とごく最近のことになります。

南関東防衛局長と横須賀市長の挨拶に続き、
本日のメインとなる講演会が行われました。
といっても二人が30分ずつの講演で、一般人には大変聴きやすいものでした。

まず、現役自衛官であり、安全保障分野における研究において
日本防衛学会から「猪木正道賞」を受賞した金澤浩之三等海佐

「明治150年と日本の近代海軍建設」

この内容をごくごく圧縮していうと、

「日本海軍建設は、経験値と人材養成において近世から近代にかけて明らかに
連続性が見られ、いきなり明治維新によって近代海軍が生まれたのではない」

という(圧縮しすぎかな)ものだったと思います。
中でも興味深かったのは、日清戦争における両軍の首脳部の
「経験値」の違いを
並列して比較した表でした。

日本側は海軍軍令部長樺山資紀を始め、連合艦隊司令長官伊東祐亨
相浦紀道、坪井航三、鮫島員規、東郷平八郎(浪速艦長)に至るまで
ほとんどが薩英戦争、戊辰戦争、阿波沖海戦など実戦経験者なのに対し、
清側は水師提督丁汝昌が太平天国の乱の経験者であるだけで、
全員海軍での実戦経験がなく初陣だった、という話です。

日本の海軍第一世代の軍人たちは、すでに水軍から連なる
連続性の中で海軍形成時には育成が「済んでいた」というわけですね。


♪ 維新マーチ 宮さん宮さん ♪

「宮さん宮さん」の宮さんとは有栖川宮熾仁親王のこと。
以前「皇族軍人」の松平保男海軍少将を紹介した時にアップした動画の
「エルフェンリート」の前に流れるのがこの「維新マーチ」です。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

有栖川宮は親王家なので、英語では「Prince」という称号になります。

金沢三佐の講演では、カレーの話も出ました。
ちなみにこれは、わたしが開演前にメルキュールのカフェで食べた「ゆうぎりカレー」。
柔らかく煮込まれた牛肉と辛さが絶妙でなかなかのお味でした。

このカレーについても、世間一般では

「明治時代海軍が脚気防止のために発明した」

という説も流布されているわけですが、金沢講師によると、
1852年から62年にかけて、つまり江戸末期に
長崎にいたオランダ軍の軍医、

ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト

は、本人が言うところの「夢のような」日本での生活で、

「魚介類、カレーソースがライスに乗ったもの」

つまりシーフードカレーを食べた、と書き残しているのです。
カレーだっていきなりできたわけではなく、この頃にあったらしい、
ということなんですね。

(ここで会場の調味商事の社長?が紹介されましたが、
海軍カレーを謳っている会社にとってはこの説は微妙かも)

 

因みに、ポンペが日本で初めて解剖実習を行った折には、
シーボルトの娘、あの楠本イネがそれを見学しています。

金沢講師は、その講演の終わりを松尾芭蕉の言葉、

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

という言葉で締めくくりました。

 

続いて、二人目の演者、安池尋幸氏の講演は、これも一言で言うと、
日本海海戦で日本がロシアに勝利したのは情報戦のおかげであり、
造船所、製鉄所に加えて電信所を作り、海底ケーブルを引いたこと、
三六無線を生み出した横須賀は日本の工業力の発信の地である、
と言うようなことでした。

日露戦争時代の無線電信機の写真ですが、左後ろの掛け軸は、
帝国海軍の名参謀秋山真之が日露戦争終結後、三六無線を発明した
木村駿吉に贈った感謝状なんだそうです。

いかにこの無線の存在が勝利に寄与したかを、誰よりも
天才秋山真之が大きく評価していたかがわかりますね。

というわけで、日本海海戦、秋山真之といえば?
そう、「坂の上の雲」ですね。

♪ スタンド・アローン 「坂の上の雲」より ♪

『Stand Alone』 NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」 三宅 由佳莉 海上自衛隊 東京音楽隊

この日もこの曲を三宅三等海曹が熱唱しました。
「坂の上の雲」というドラマについては、色々と問題があり、その
偏向した表現や解釈などについて随分ここでネタにしたものですが、
久石譲作曲のテーマソングはただ名曲です。

そして、あのドラマの中で作り手のバイアスによって史実が
歪められていなかった唯一の登場人物が、廣瀬武夫だったとわたしは思っています。

♪ 廣瀬中佐 ♪

軍神『広瀬中佐』海上自衛隊東京音楽隊 第35回防衛セミナー

参加した方がyoutubeに上げてくださっていました。
川上良司海曹長の「分厚い歌声」、素晴らしすぎ。

ところで、司会の荒木三曹が、万世橋駅前に昔あった
廣瀬中佐と杉野兵曹長の像のことを話していますが、それが
カラーの動画で見ることができるユーチューブを見つけました。

カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color

こんなに大きな銅像だったんですね・・・。
よく見ると、銅像の横を野良犬が歩いていたりします。

ドラマ「仁」のテーマソングも最高なので、ぜひ最後まで観てください。

ところで、日本海海戦の話も出たのに、会場におられたという
東郷平八郎の孫、東郷宏重氏はなぜか紹介されませんでした。
主催者側は誰も気づいていなかったのかな。


安池氏の講話で興味深かったのは、

「日本海海戦の時に三笠にはイギリス海軍の駐在武官が乗り込んでいて、
戦闘終了後、本国にこれからの海戦は三笠レベルの軍艦では戦えない、
と報告し、それが英国にあの弩級戦艦『ドレッドノート』保有を決意させた」

という話でした。
そういえば「三笠」はイギリスの造船所バロー・イン・ファネス製でしたね。
『恐れ(ドレッド)』が『ゼロ(ノート)』という名前のこの戦艦は、
誕生前に建造中の世界中の戦艦を全て「旧式化」してしまい、
世界はこの誕生を「ドレッドノートショック」(レボリューションとも)
と呼び、その後大鑑建造競争に舵を切った世界が「海軍休日」を経て
海軍力の均衡を巡って緊張を強めていくのは歴史の知るとおりです。

ところでみなさん、こんなニュースをご存知だったでしょうか。

世界が諦めていた無線変調方式の革新に新方式を提案

神奈川県立横須賀高校の生徒が学会にて発表

携帯電話“速度10倍”実用化狙う

県立横須賀高校の2年生2人が携帯電話など無線通信の新技術を発明し、
東京都足立区で開かれた電子情報通信学会で研究結果を発表した。
現役高校生の同学会での発表は初めての快挙。
新技術が実用化されれば通信速度が飛躍的に向上するといい、
2人を指導してきた横須賀テレコムリサーチパークの太田現一郎・工学博士は
「画期的な発見だ。2人はどんな数式にも動じず逃げなかった」
と新発見に目を細める。

論文タイトルは「第6世代移動通信に向けた変調方式の研究」で、
同校の瀧川マリアさんと原佳祐さんがまとめた。
現在の高速データ通信技術「MIMO方式」は、複数のアンテナから
同じ周波数で送信した電波が障害物で乱反射し、
波形がゆがんだ状態で受信される。

しかし、2人はあらかじめ周波数や振幅を変化させ
「模様」をつけた状態で送信する独自理論を展開。
瀧川さんの名前にちなみ「MARIA方式」と名づけた。

 

この技術が完成すれば、光回線などよりも早い通信速度で
(ほとんどリアルタイム)情報が送れるようになります。

安池氏は、この快挙が横須賀発であることは決して偶然ではなく、
三六無線など近代工業技術発祥の地横須賀ならではだと語りました。

 

そんな横須賀での防衛セミナーを締めくくったのは
東京音楽隊の最後の演奏

♪ 行進曲「軍艦」♪

でした。
「海行かば 水漬く屍」からの部分を川上海曹長と三宅三曹が歌います。

記念艦「三笠」のある三笠公園には「行進曲軍艦の碑」があります。
横須賀は日本海軍の軍歌、海上自衛隊の公式行進曲となっている
「軍艦」発祥の地でもあるのです。


わたしが到着して席に座ったとき、開演前の会場では、
ドラマ仕立ての横須賀紹介ビデオが流れていました。

主人公の少女に、ペリー来航以来の横須賀の歩みを説明する役の
芥川龍之介のような風体をした着流しにカンカン帽の男性は、
最後に少女の前から姿を消し、いつの間にか小栗上野介の姿になって
小高い山から横須賀港を眺めているというエンディングでした。


その卓越した知性と慧眼、そして何よりも国を想う心をもって
横須賀、ひいては日本の技術と国力の発展に大いなる道筋をつけ、
この世を駆け抜けていった小栗上野介忠順の「まなざし」は、
現在の横須賀を、そして日本をどう見るでしょうか。

 

 

 

 


海将を囲む会〜「ひこうき雲」

2018-12-21 | 自衛隊

というわけで自衛隊人事も発令になり、呉で「海将を囲む会」が
行われてから約20日後、池総監は三十余年に亘る自衛官生活を終え、
呉地方総監部を去って行かれました。

このことはNHKとRCCのニュースでも報じられました。
自衛隊の歴史の中でも、地方総監の退官がこれほど
大々的に報じられたというのは初めてだったのではないでしょうか。

Yahoo!ニュース

 

レンガの地方総監庁舎から出てくるところから離任式の映像は始まりました。

教育航空群司令官時代、わたしは司令室の「愚直たれ」という自筆の額を
ここでご紹介させて頂いたことがありますが、その後「愚直たれ」が
呉地方隊でこれほど有名な言葉となるとはその時にはまだ思いませんでした。

池海将の最後の任地が呉地方隊であったことが、池海将と「愚直たれ」を
これほど有名にしたと言えるでしょう。

「愚直たれ」のアイデアはご本人ではなく、呉地方総監部から
就任直後に起こってきたものなのです。

愚直たれは呉地方隊の隊員食堂でも愛用されています。
あれ?この右側の隊員さんって、音楽隊の方じゃないですか?

池総監は当初2018年の3月の退官を考えておられたようです。
(奥様と『夏服はもう着ないね』と話しておられたと聞きました)
鉄のくじら館で提供されていた「愚直たれドック」も任期終了まで、
となっていたのですが、ご存知のように任期が延び、従って
愚直たれ提供期間も延ばされることになりました。

「愚直たれを置き土産に」

とテロップにあるので、少なくとも呉地方隊の隊員食堂には
愚直たれが記念に残されるのかもしれません。

そしてその次の人事異動の季節、7月には広島を大災害が襲いました。
このため総監の離任はもう一度延期されたのかもしれません。

地元復興の願いを込めて、ご当地名物である「がんす」を
取り入れた「愚直たれがんすバーガー」が生まれたのはこの後です。


さて、わたしが出席した「海将を囲む会」に戻りましょう。
呉地方総監が総監として最後に踊った「恋」ダンス終了後、
会場のスクリーンには「 Dear ボス」のお笑いコンビ、三四郎の二人が
総監を「池ちゃん」呼ばわりしながら労いの言葉を贈りました。

そして本邦初公開、池ちゃんの生い立ちとその歩みのスライドです。

お父上は大学で教鞭を取っておられたと聞いています。

岡崎市の小学生がジャイアンツのファンだった・・・だと?
ところで編集した人、勝手に帽子をカープに変えるんじゃねー。

だからカープに変えるなと何度言ったら(略)

両手に猫と犬。
奥様とはもうすでにこの頃からのお知り合いでした。

頭が良くてスポーツもできて、そして真面目そう。

高校では柔道部!硬派です。

自衛官になろうと思ったきっかけは、小学校の時の艦艇公開。
その時に案内してくれた自衛官(防大生だったかな)のお兄さんに、
学校の授業で
手紙を書いたのがきっかけで文通を続けるうち、
海上自衛官になりたいと思うようになったそうです。

ちなみに、池海将と防大で同期だった元陸自戦車部隊だった方から

「みんなが遊ぶことと女の子のことばっかり考えている時に、
池だけは自費で英語のタイムズなどを取り寄せて読んだりしていた。
本当に真面目で偉い奴だと尊敬していた」

と当時の池学生について聞いたことがあります。

幹部候補生時代。右端が池太郎候補生です。

海上要員になった頃は、影響を受けた自衛官のこともあって
海上艦乗組を希望していたそうですが、結局P3-Cパイロットに。

お子さんは男・女・女の三人。
幹部自衛官の宿命とはいえ、単身赴任は仕方ないことなのですが・・、

どこの赴任地でも子供達のために毎週帰省していたそうです。
これは口で言うほど簡単ではなく、八戸基地で、実家は島根県という方に

「毎週ご実家に帰るんですか」

と聞くと

「遠すぎてとても無理です」

とおっしゃっておられました。
確か池海将には八戸勤務時代もあったはず。
毎週岡崎まで東北から帰るのはかなりの強い意志が必要です。

基地で働く姿を見せるのも父親の役目。
あとで一人ずつ家族の方々がメッセージを述べていましたが、
全員が父親を深く尊敬していることがよくわかりました。
お嬢さんの一人は

「授業参観の後『かっこいいお父さんだね』と言われ自慢の父でした」

と・・・。

家族思い、もちろん愛妻家です。

若き日の池海将、爽やかイケメンです。

そして2016年7月、呉地方総監に就任。

「愚直たれ」で名物海将になるのはまさに呉総監就任後のことでした。

広島の水害の際、視察に来た安倍総理に指揮官として解説を行う総監。

会場は静まり返って紹介される池海将の歩みを見つめています。
そしてまたそれを見ながら何を思うのか、感慨深げな海将夫妻・・。

ここからは、池海将を司令官と仰いだ部下のみなさんからのメッセージ。
池やではぼたん鍋も扱っていたんでしょうか?

池海将の愚直たれに続くもう一つのモットー、「三つのあ」にかけて。

飛行隊員、という紹介に思わず目がいってしまいました。

気持ちはわかるが”愚直たれ”は飲まないほうがいいと思う。

いかにも「押忍!」が似合う凛々しい自衛官。

知らんがな。

前呉地方総監部管理部長、現第二航空群司令、瀬戸海将補。

次の「池や」はいつになるのでしょうか。
もし許されるならばわたしも「池や」の客になってみたいです。

ここで第一術科学校長の中畑泰樹海将補が壇上の総監夫妻と向かい合いました。

防大時代、池海将の「部屋長」に対し中畑将補は「部屋っ子」という関係です。
防大では1年から4年までが部屋という少数単位で共同生活を送りますが、
4年生の「部屋長」「サブ長」に対し、下級生を「部屋っ子」と称するのです。

この独特な用語をここで聞いてもわたしが完璧に理解できたのは、
ひとえに「あおざくら」を愛読していたからです。

(余談ですが、「あおざくら」最新号で、棒倒し隊長としての思い出を
巻末で熱く語っている
三等海尉は、何を隠そう、
わたしが練習艦隊走行会の時にそこでも棒倒しについて熱く語ってくれ、

その様子をこのブログで紹介したまさにその人です。)

「防大を卒業し、何年経っても池総監とは部屋長と部屋っ子の関係です」

この時にはにこやかにお話を聞いておられるご夫妻ですが・・。

中畑海将補からは会場に飾ってあった記念額が贈呈されました。

挨拶の最後からは総監にも熱いものがこみ上げてきたようです。

パイロットの池総監には熟知の世界ではないかもしれませんが、
さすがは海軍、舫の結び方見本額も贈呈されました。

幹部学校校長だった池海将には江田島の写真も送られました。
左下には池校長が卒業式で「帽振れ」をする姿が写っています。

呉地方総監部の代表から花束贈呈。

そして最後に池呉地方総監が挨拶をされました。

そして皆への感謝ののち、和子夫人に心からの「ありがとう」を述べられました。

壇上から降りると、そこにいた中畑海将補と思わず抱き合います。
向こうで写真を撮っておられるのはミカさんことふりかけそーすけさん。

就任以来総監を撮ってきた写真班のカメラマンも、二人の姿にシャッターを切ります。
見ているわたしたちも目の奥が熱くなってくるのを感じました。

万雷の拍手に送られて、池太郎海将と夫人が会場を後にします。
そのとき会場に流れていた曲はこの曲でした。

 

それから18日後の平成30年12月19日、
第43代呉地方総監、池太郎海将は呉地方総監部の「表門」から、
総監として2年余を過ごした
呉を、総員の帽振れによって送られ、
第二の人生へと旅立ってゆかれました。

前途を祝すような小春日和の日差しを受けて、最後の帽振れを行う池海将。

長い間お疲れ様でした。
第二の人生においてもまた座右の銘の通り、何事にも愚直に全力で取り組まれ、
その卓越した能力と指導力で一層社会に貢献されんことをお祈り申し上げております。

しかしその前に、まずはゆっくりとお身体を休ませて、
夫人とお二人での水入らずの時間をお過ごしください。

 

 


海将を囲む会〜呉地方総監のラストダンス

2018-12-20 | 自衛隊

 大久野島でうさぎに囲まれた翌日、わたしは車を西に約2時間走らせ、
呉市内のホテルで行われた「海将を囲む会」に出席しました。

会場となったのはクレイトンベイホテル 。
この秋の自衛隊記念日で感謝状の授与対象ともなった当ホテルでは
海上自衛隊お膝元のホテルとして、その広報活動に大いに協力しています。

護衛艦「かが」カツカレー(ひじき、黒ごま、大豆使用)

補給艦「とわだ」カレー(りんごピューレ、チーズ入り)

練習艦「かしま」牛タンカレー(セロリ・トマト入り)

などの海自カレーがホテル内の全てのレストランで提供されています。

ところで、この日囲ませていただく予定の海将とは誰かというと、
それはもちろん、会場となったクレイトンベイホテルのロビーラウンジの
提供メニュー、「がんすバーガー」に使われている「愚直たれ」で
就任いらい全軍とその周辺の話題を集めた池太郎海将その人でございました。

実はわたしがこの会に参加したことをご報告するのを控えていたのは、
12月14日、防衛省の人事で池海将が退官されるということが
公的に発表され任期を終えられるのを待っていたからだったのです。



まだ辞令が降りてはいませんでしたが、この「囲む会」は
実質、「呉地方総監の離任・退官を祝う会」という名目で、
ホテルの大宴会場を借り切り、盛大に催されました。

開場時間となり、受付をすませると、自分の割り当てテーブルに案内されます。
テーブルには「とわだ」「かが」「せとゆき」「あぶくま」「しまゆき」
から掃海艇の「ながしま」まで、海自艦艇の名前がついています。
ちなみにわたしは「おおすみ」でした。

ステージ前には、有志一同によって池海将に贈呈する記念の
帽章や肩章、ウィングマークに防衛記念章、そして呉地方隊隷下の
部隊章があしらわれた額縁が飾ってあります。

わたしが見てそれとわかるものは

音楽隊、業務隊、教育隊、造修補給処、衛生隊、
仮屋磁気測定所、由良基地分遣隊、阪神基地隊、
同じく第42掃海隊「つのしま」「なおしま」、
呉水中処分隊、陸警隊、港務隊、
佐伯分遣隊、そして多用途支援艦「げんかい」

皆このプレートに刻まれた

自 平成28年7月4日 至 平成30年12月19日

という日付を眺め、

「やっぱり退官されるんですねえ」

と互いに頷きあっていました。

自衛隊の人事というのは、別の元将官に伺ったことがあるのですが
本人にもどうなるのか大抵直前まで全くわからないものだそうですね。
いきなり退職を勧告されることがあるかと思えば、池海将のように
本人のご意思と予想に反して任期が延びることもあるようです。

それにしても会場となった宴会場の広いことにわたしは驚きました。

「囲む会」というからてっきりこぢんまりと円卓を囲むような
パーティをわたしは予想していたのですが、聞いたところ、
この日の「囲む会」の出席者は全部で500名くらい。

さっきまでわたしが囲まれていた所の大久野島のうさぎより
ちょっぴり少ない数の人数で海将を文字通り囲むことになっていました。
今更ながら池海将のご勇退を惜しむ人々の数の多さと、
それからうかがえるご本人の人望の厚さに感じ入った次第です。

いよいよ開会となりました。
呉地方総監部を代表して、幕僚長の小峯雅登海将補の開会の辞。

最初に挨拶をされたのはご存知衆議院議員寺田稔先生。

通称大和ミュージアム、呉海事歴史科学館の開館に際しては
大変尽力されたということを聞いてから支援しているのですが、
先般ある防衛団体で、寺田議員の憲法改正論をうかがい、
その方向性にわたしの考えとの類似性を見出すとともに、
なんと明晰に物事を分析しそれを自分の言葉で平易に語ることができるのかと、
その弁を裏打ちする学識の豊かさにも感じ入ったものです。

続いて呉市長新原芳明氏。

呉地方隊指揮官として海将が地下司令室の一般公開など、
呉の観光事業にも大きく貢献されたことの感謝を述べつつ、
呉音楽隊定期演奏会で池海将が「恋ダンス」を披露したことを
空気読まずに「ネタバラシ」してしまわれました。

おっと、それは今日のサプライズのはず(笑)

 

挨拶の後歓談となりましたが、この間海将夫妻は海将旗と一緒に
全員と写真を撮って声を交わしてまわります。

とにかくテーブルが沢山あるので終えられるのに莫大な時間がかかりました。

わたしたちのテーブル担当の配膳係の女性は、実に甲斐甲斐しく
料理をお皿に綺麗に盛り付けては持ってきてくれます。

同じテーブルの招待客とは自然と社交が始まり、自衛官を含む
何人かと名刺交換をし、現場のお話として

「今は景気が良いので自衛官の募集には苦労している」

という内情などを聞かせていただきました。
後、中国地方の陸自駐屯地でMCV(装輪装甲車)が配備予定なるも、
それはいつになるかわからない、というお話とか・・・。

その方は司令官クラスなので新制服に身を包んでおられましたが、

「うちは調達がまだ進んでおらず、これを着ているのはわたしだけです」

そういう話になると周りの人が一斉に

「従来の制服の方が・・・・」「わたしは前の制服の方が・・」

と言い出すのはいつもと同じ、もはや様式美とでもいうべき最近の傾向です。

この時にうっかり?このわたしに向かって、

「是非一度基地においでください」

とお誘いしてしまわれた基地司令官がおられました。 ̄ー ̄)☆キラリ
ふっふっふ、わたしにその言葉を放ったが最後、
万難を排しても行ってしまいますよ?

海将夫妻が全てのテーブルを回り終え、しばしの歓談後、
ついに本日の「囲む会」のメインイベントが始まりました。

知っている人は皆知っている、今年2月の呉音楽隊演奏会における
呉地方総監自らがステージに立ち踊った35秒の奇跡。
海将池太郎より皆様への総監として最後のプレゼンツ、「恋」ダンスです。

ところでその様子をお伝えする前に、こちらをご覧ください。

職場の上に立つ「名物ボス」を紹介したテレビ番組、
「Dear ボス」をご覧になった方はおられますでしょうか。

芸人さん二人が呉地方隊に潜入し、総監にインタビュー、
ついでに「海上自衛隊ではこんな仕事をしている」と紹介するため
体験取材としてダメコンまでやってしまう、というものです。

ちなみにうちにはテレビがないため、これを見るため都内のホテルに一泊しました。
(ただし翌日早朝、近くで用事があり、かつホテルはサービスチケット使用)

その後編で、池総監が官舎に部下を呼び手料理を振る舞うシーンがあります。
なんと官舎では「池や」ののれん、オリジナルはっぴ着用の総監がお出迎え。

背中に書かれたモットーは「諦めず、侮らず、欺かず」の
「三つのあ」をもじって

閉店まで諦めず、注文を侮らず、隊員を欺かず。

総監自らが工夫を凝らした天ぷらと唐揚げの並ぶ豪快な食卓。
たれには焼酎を混ぜるという工夫の天ぷらは、池海将がイギリス王立国防大学に
留学中、日本文化を知ってもらうために披露したのが最初だったとか。

エビ天も整列休め状態に真っ直ぐな姿勢で揚がっています。

その時お呼ばれしていた隊員さんが池総監の「恋ダンス」のことを
暴露したのがきっかけで、全国ネットでダンスを披露することに。

自分でも口ずさみながら踊る総監ですが・・・・・

2月から時間が経ち忘れてしまったのか途中でブレイクダウン。

納得いかないのでもう一度最初からやり直し。

そうなんですよねー。天ぷらの工夫にもそれを感じます。
何しろ愚直たれがモットーの方ですから。

しかし二度目もあえなく失敗・・・。

しかし、この大舞台で総監として最後のステージに立つことになり、
ストイックな池海将がその後どれだけ血の滲むような練習をされたか、
想像に余りあります。

パートナーを務めるのは、呉音楽隊の同じメンバー。
右から2番目は呉音楽隊きっての踊り手で、きっと総監は
この隊員からビシバシ厳しい指導を受けたのではないでしょうか。

呉音楽隊の演奏会でもそうでしたが、あえてサプライズのため、
ヒーローの登場は途中から。

出てきた池総監を見て皆が軽くどよめいたのは、総監が
おそらくこの場にいるほとんどが初めて見るフライトスーツ姿だったからです。

P3-Cパイロットである海将のフライトスーツ姿、わたしも初めてです。
海将補時代に年次飛行で飛ぶこともがあると伺ったことはありますが、
流石に呉地方総監になってからは飛行機を操縦することはなかったはず。

(奥様が『もう周りも飛んでもらっては困りますよね』とおっしゃっていたので
そう解釈したのですが違っていたらすみません)

しかしフライトスーツの肩にはちゃんと三つ桜の階級章が、
左胸のネームタグには燦然とウィングマーク、その下には

「T. IKE  PILOT JAPAN NAVY

の文字があるではないですか。

ところで今気づいたんですが、池さんの名前って、英語読みでは
「アイク」(アイゼンハワーの愛称)となります。

さらに見ると、靴は流石にピカピカの普通のものですが、手袋は
布手袋ではなく、皮のフライト用をつけておられます。

細かいところまでこだわりますなあ。

「Dear ボス」ではここまでは順調だったのですが、確か
このあたりで二回とも失敗してしまったんですよね。

さて今回は?

お?おお?

おっとお、難なくクリア!
やりましたね。

ここさえ突破すればあとは勢いで行ってしまいましょう。

しかしわずか35秒のダンスが見ていてどれだけ長く感じたことか。

テレビ番組でもそうでしたが、こういうことをしていても
愚直に完璧を目指そうとしている様子が全身から溢れ出てます。

全然おふざけに見えないんですよね。

これぞまさに愚直たれの真髄。生ける愚直たれ、いや踊る愚直たれ。

無事に恋ダンスが終わり、共に踊った隊員たちからも拍手を受けますが、
池海将、もうすでに次の行動を考えているのがお分りいただけますか。

それは何か。
自分をステージに乗せて踊りを伝授し、一緒に汗をかいてくれた
部下に対し、厚い感謝とともにその労をねぎらうことです。

真っ先にダンスリーダー(かどうか知りませんが)に振り向き握手。

女性隊員は両手でそれに答えます。

三人全員にあまりある熱い気持ちを込めて全身全霊お礼を言う総監でした。


海将を囲む会、この後は池総監のこれまでの歩みが紹介されました。

続く。

 


バッテリー・ボウテール〜ゴールデンゲート 防衛の要所

2018-12-18 | 軍艦

先日我が日本にも大久野島の砲台跡のような遺跡があったことを知り、
もう一度、アメリカで観た砲台跡のご紹介をすることにしました。

アメリカから帰ってずいぶん経ちますが、今更アメリカ旅行記です。


今回、秋の気配が見えた東海岸からまた灼熱の?サンディエゴに行き、
暑いのか寒いのかわからないサンフランシスコで最後を過ごして、
その1週間には思いつく限りの「もう一度行きたい場所」を隈なく制覇しつつ、
元地元民ならではのショッピングを楽しむことも忘れませんでした。

今回、サンフランシスコ空港のハーツレンタカーで選んだのがこれ。
一人なので大きな車である必要はないのですが、なぜかここには
好きな車を選んでいい「プレジデント・サークル」に大型車しかなかったのです。

その中でも比較的小型の日産ローグを選んだのですが、これがまたいい車でした。

まず、シフトが軽い。アクセルも反応が良く、サンフランシスコの急傾斜も
なんのそののパワーで、全くストレスがありません。

おまけに、追い越してくる車があれば室内の左右のランプで
こちらから来ますよ、と警告してくれるだけでなく、運転中、
車線変更しようとウィンカーを出した時に、その後ろから車が来ていると、
ピンピン!と警告音を出してくれるのです。

どんなに左右確認をしていても、ちょうど車が死角にいる場合、
車線変更でひやっとした経験は誰でもあるかと思いますが、
この車だけはこのアラームが付いていたのでとても楽でした。

今年101を走ったら楽天のビルが高速沿いにできていました。
ソフトバンクも同じサイドのもう少し南側にありますが、
後ろに回ってみればまるで書き割りのように人気がないビルでした。

まあ、ここにビルを建てるのは看板みたいなものですから、
実態はそんなになくてもいいのかもしれませんが。

今年も一応クパチーノのアップル本社に一度だけ行ってみました。
去年はショップが工事中だったので、見るだけ見ておこうと思ったのです。

ここでしか買えないアップルのティーシャツも、様変わりしていましたが、
なんというか、あまりセンスがいいシャツがないという感じ。

昔のようにパーカや帽子、赤ちゃんのよだれかけまで揃っていることはなく、
本当にTシャツとカップくらいしかもう売っていません。

息子用とわたし用に買ってみましたが、ユニセックスであるためか、
きつかったり余ったりするところがあって女性にはいまいちな着心地。

この日に限らず、サンフランシスコでの日々は、ただ心の赴くまま
行きたいところにハンドルを向けていたので、午前中クパチーノにいて、
午後からゴールデンゲート自然公園にいるというような毎日でした。

クパチーノの外にいるだけで辛くなるジルジリと日差しの強い地域から、
1時間走れば風の冷たく寒いランズエンドに行けてしまうのです。

というわけで今年もまたやってきたオーシャンビーチ。

この日はナイキ・ミサイル・サイトに行こうと思っていたので、
現地がオープンする12時半まで時間を潰す必要があったのです。

この辺りにもホームレスがいるらしいのにちょっとびっくりしました。
ずっとここにいるので皮膚が厚くなって寒さが平気なのでしょうか。

他の地域では明らかに見ることのない植物などもあります。

市内観光のバスのルートになっているようです。
わたしが通りかかった時、ちょうどバスから人が降りてくるところでした。

丘の上から温水スパ、サットロ・バスの遺跡が見られるところに来ました。
海水の溜まっているところが本当にバスだったかどうかは確かめてません。

ここにあったサンフランシスコ観光局作成の案内ボードより。

うーん、見れば見るほど左奥の鳥居が謎だわー。

それはともかく、今緑が青々と覆っている右側の山の斜面は、
こんな風に山を切り崩し、道路も鉄鋼線を入れて作っていたのね。

奥にある建物は今のクリフハウスと同じですが、この写真は
1922年に撮られたもので、前の建物が火事で焼けた後再建したのです。

ところで、これ、覚えておられます?

1924年の我が海軍兵学校遠洋航海のアルバムに、
「金門公園の海岸に建てられたる家」というキャプション付きで
掲載されていた写真なんですが、この建物は1907年に消失したはず・・・、
つまり、行ってもいない景色をあたかも見たかのように載せている、
と鬼の首を取ったように当ブログで摘発したことがあったんですね。

実際、練習艦隊が金門に訪れた時にはおそらく上の工事も終わり、
クリフサイドは今現在とほぼ同じ状態になっていたはずです。

この文章にある「Yelamu Ohlone」(イエラム・オーロン)とは、
サンフランシスコのこの一帯に住んでいた300人足らずの
ネイティブ・アメリカン(俗にいうインディアン)のことです。

彼らはスペイン人がここにやって来た頃に改宗したりして、
いつの間にか吸収されてしまいました。

1860年ごろ、最初のアメリカ人たちがここにたどり着き、
やったことは徹底的な「山野の彫刻」でした。

土地を削ったり形作るだけでなく、彼らがしたことは
人工的に緑地帯、森林を作ることも含まれていたのです。

1880年代にはあのアドルフ・サットロ(Adolf Sutro )が
この一帯を「プレジャーグラウンド」として開発しました。

そのサットロがここに作ったのが、「サットロ・バスズ」でした。
夏も寒くて海で泳げないサンフランシスカンのために、
サットロはなんと、巨大な温水プールを作り上げたのです。

その後経営が思わしくなくなると、なぜか都合よく建物は全焼し、
サットロは巨額の保険金を手に他の地方にトンズラした・・
かどうかは知りませんが、まあ、そういうことです。

今でもこの地域にはその遺跡を見に来る観光客が絶えず、ある意味、今も
サットロの企画した「プレジャーグラウンド」となっていると言えます。

お風呂だった部分には海水がたまり、更衣室かシャワー室だったらしい
小さく区切りのついた部分はまるで路上アートの展示ブースみたいです。

写真の上半分は全盛期のサットロ・バスで水遊びに興じる人々。
泳いでいるのを見ている人がいっぱいいますが、この時代
温水プールというものが物珍しかったのだろうと思われます。

その下の

「勝利を定義するものは何か?」

という記事は、ジョン・ハリスというサンフランシスコ在住の男性が、
新しくオープンしたサットロ・バスズを友人たちと訪れ、入場料の
25セントを払ってから、アフリカ系だった彼だけが入場を拒否された、
という差別を法の場に訴えたという事件を表しています。

カリフォルニアでは1880年には州法として、ディブル民権法
(写真右がそのヘンリ・ディブル)が制定されており、
ハリス氏の訴訟の拠り所はこのディブル法でしたが、
実際問題としてアフリカ系をバスに入場させると、その他全員の
白人客が嫌がって来なくなるため、どうしてもそうせざるを得ない、
という経営側の主張に妥協するような形で、結局裁判は
ハリス氏の訴えである「損害賠償金1万ドル」とは程遠い、

「ハリス氏を二回拒否した賠償金50×2=100ドル払うこと」

という判決が出されました。

制定されたばかりのディブル法が「試された」形になったこの裁判、
確かにハリス氏は勝訴しましたが、タイトルの言うように
これが本当の勝利だったのかどうかは誰の目にも明らかでした。

クリフハウスには何回も来てご飯も食べ、
そこに温水プールがあったことはよく知っていましたが、
そんな人種差別事件があったことをこの看板を見るまで知らなかったので、
まだまだ知らないことがたくさんあるものだと嘆息しながら、
ナイキ・ミサイルサイトに向かったわたしでしたが、
その欄でもお話しした通り、site を sight と間違ってナビに入力したため、
ブリッジをまた戻って来てしまいました。

しかし、怪我の功名というのか、ブリッジを渡った後、
もう一度ナビを入れ直そうと適当なところを探して車を停めたら、
そこは何と、今まで知らなかった旧砲台跡だったのです。

去年、ブリッジの向こう側のフォート・ベイカーで、偶然
砲台跡を見つけて調べたところ、その昔、ここには
本土を防衛するため、それこそ針山のように、バッテリー、
砲台が設置されていたことを知りました。

ここは「Battery Boutelle」(バッテリー・ボウテール)という砲台です。
どうも響きがフランス語ぽいですが、フランス語の「瓶」(bouteille)とは
惜しいところで少し綴りが違うみたい。

1899年にフィリピン近郊で活動していたボウテール中尉の名前だそうです。

かつてここには5インチ砲が3基設置されていました。

このグーグルマップをご覧ください。
赤いマークがわたしがたまたま車を停めたバッテリーですが、
全部でこの画面だけで見える7つのブルーのマークは、
全て砲台が3基単位で存在し、今も遺跡として残されている部分です。

「針山のように」というのは決して大袈裟な表現ではないのがお分りいただけるでしょう。

この一帯をフォート・スコットといい、完成は1900年ごろです。

上グーグルマップの一番上の「バッテリー・クランストン」で
1915年に撮られた砲兵の写真です。

一つの砲台にはこれだけの人員が配置されていたということですね。

どの写真も砲身の位置が低すぎないか?
と実は不思議だったのですが、謎が解けました。
ピラーマウントは「ピラー」(柱)というだけあって、それ自体が
高さを変えて、砲身そのものを持ち上げることができたのです。

これもクランストン砲台の写真です。

 

1912年、つまり現役時代のここバッテリー・ボウテール。
不鮮明ながらピラーマウントには砲が設置されているのが確認できます。

砲は飛距離7マイル(11.265km)、1分間に30発連射することができました。

1900年から1917年まで、砲台は稼働していたようですが、
第一次世界大戦が始まった時、砲は取り外されました。
野戦砲兵隊の任務に使われたからです。

CANONの落書きが・・・(笑)
中には砲のカートリッジなどを収納したのかもしれません。

石段を上がってみました。
ピラーマウントだけが残されています。

これは一番右側の砲座跡。

三つある真ん中の砲座跡。
とにかく誰でも立ち入ることができ、保護されてもいないし
見張りもいないので、落書きし砲台、じゃなくてし放題。

砲台には砲を接続するためのリングが壁に据え付けてありますが、
こんな落書きをする人も・・・上手いのか下手なのか判じ兼ねますが、
とにかくこれがカウであることはよくわかる。

半地下にあり、窓には鉄格子。
これは弾薬を収納していた弾薬庫に違いありません。

ナイキミサイルを見に行こうと思っていたため、これ以上は
進みませんでしたが、この海側は

バッテリー・ゴットフリー(Battery Godfrey)

と呼ばれる砲台跡で、そこはボウテールの2倍以上大きな
新しい12インチ砲をテストするために作られたものでした。

この写真でも、砲がまだ完成したばかりでテスト中らしいことがわかります。

「ゴールデンゲート・オーバールック」と名付けられた
ちょっとした高台に登るとこんな景色が見えます。

ボウテール砲台はこのさらに右側に1基、
全部で4基の砲台になる予定でしたが、何かの都合で中止され、
結局廃止されるまで3基のままでした。

兵士たちが休息を取るために隊舎もありました。
ただしそれは自分の割り当ての砲台のすぐ近くで職住一体だったそうです。

士気を高めるために、フォート・スコットフィールド(この横にある)
では、行進などの訓練も行われました。

軍隊の基本ってどこでも行進なんですね。

近くで見ると気がつきませんでしたが、真ん中の砲台は
完璧にヒビが入っていて、今度地震でも来たら崩れるかもしれませんね。

1943年、アメリカ戦争省はこの砲台をこの地域にある他の12の砲台と共に
遺跡として残すことを決定したといいます。

1943年といえば、第二次世界大戦が激化していた頃だと思いますが、
わざわざそんなことを政令として決める余裕があったということですね。

フォートとバッテリーがこの地域にどれだけあったかを示す地図。
赤い四角は全てバッテリーの所在地です。

スペインの領地だった頃、1900年から1915年にかけてのバッテリー、
そして冷戦時代のナイキミサイル発射場と、時が移ろうにつれ武器を変えつつも、
ここランズエンドは常にサンフランシスコ防衛の要所であったのです。

 

 

 

 


海上自衛隊 東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミング コンサート」後編

2018-12-17 | 音楽

東音の定例演奏会が行われるのはいつもクリスマスが近づき
街がイルミネーションで彩られ、華やぐ頃です。
冒頭写真は表参道を通り抜けたら全ての街路樹がライトアップされていたので
iPadで撮ったもの。
こんな時に限って信号が赤になってくれず、これが撮れたのは青山通り手前ですが、
表参道ヒルズあたりの車道からの眺めはもっとすごかったですよ。

すみだトリフォニーホールのロビーにもツリーが飾ってあります。

この、ピアノを弾いているらしい人の彫刻、なぜピアノがないんだろう?
てっきりわたしは、ピアノと一緒に飾ってあるのが本来の姿で、
今ピアノが貸し出されるかなんかで出払ってるのだと解釈していたのですが、
何回来てもこの状態なので何の気なしに調べたところ、
ピアノは最初からなかったことがわかりました。

船越桂という彫刻家の作品で、作品名は「エアーピアニスト」。
・・・・じゃなくて「彫刻」だそうです。

この人の作品、「永遠の仔」の表紙に使われてましたよね。

船越桂 作品

見る人に想像してもらうために床にピアノの影だけがあります。

 

ジングル・ベルズ in Swing ピアポイント/ヘンデル

さて、第二部からはぐっと楽しい雰囲気に。

Jingle Bells in Swing / James Pierpont, George.F.Handel  龍谷大学吹奏楽部

ジングルベルで始まり、「もろびとこぞりて」「赤鼻のトナカイ」(部分)
の合間に各パートがソロを披露するというお祭りっぽい盛り上がりで始まりました。

音楽隊長の樋口二佐はパーカッションセクションの中に紛れ込み、
クリスマス仕様の(多分違うけど)赤いスティックで演奏に参加です。

第2部からは「司会業」に復帰した荒木三曹が、

「日本で最初にクリスマスを祝ったのは1551年、山口県で
宣教師が日本人信徒を招待してミサを行ったのが事始め」

と紹介して演奏されたこの曲、ジングルベルはピアポイントという人が
なんと1857年には作曲していたんですってね。

ちなみにピアポイントは牧師で、あのモルガン財閥の創始者、
ジョン・ピアポイント・モルガンの叔父さんです。

プログラムに「G・F・ヘンデル」と書いてあるのは、途中でてきた
「もろびとこぞりて」の作曲者という意味だと思うのですが、
正確には「もろびとこぞりて」の作曲者はヘンデルではなく、
アメリカ教会音楽の第一人者、

ローウェル・メーソン Lowell Mason (1792- 1872)

であることをちょっとお知らせしておきたいと思います

確かにヘンデルのメサイアにはイントロ・ドンをやったら間違えそうな
出だしのものがあり、これから取られたのではないかという説もありますが、

Handel Messiah: Lift Up Your Heads

これぐらいで作曲者呼ばわりするのだったら、童謡『春が来た』は
「トランペットヴォランタリー」を参考にした!とか、
「上を向いて歩こう」はベートーヴェンのP協奏曲「皇帝」!とか、
「北の宿から」はショパンのピアノ協奏曲とか、ドラえもんは
チャイコの交響曲5番!とかいうのはどうなるのって話ですよ。

これは元々の編曲者がクレジットにヘンデルと書いているようですね。
ここでこっそり訂正を要求しておきたいと思います。

 

デイ・バイ・デイ / ストーダール&ウェストン サミー・カーン

このクレジットもプログラムには間違いがありました。
プログラムには作曲者の
「ストーダールとウェストン」しか名前がなかったのですが、
このメンツで
一番有名なのは作詞のサミー・カーンだったりするわけです。

えー、どれくらい有名かというと、ディズニーのピーターパン挿入歌の
作詞をしたとか、「ダイハード」で有名になった「Let it snow×3」とか。


それにしても東京音楽隊というのはなんたる人材の宝庫、と唸ったのが
このデイ・バイ・デイの演奏でした。

「宇宙戦艦ヤマト」や音楽まつりでの「海をゆく」「軍艦」「われは海の子」
などを歌ったホルンの川上亮司海曹長、そして去年は三宅三曹と「美女と野獣」を
披露し、音楽まつりでは海自代表で冒頭の「消灯ラッパ」を吹いたトランペットの
藤沼直樹三曹、この東音専属男性歌手二人に加え、いずれも管楽器の二人が加わり
合計4人で「男性コーラス」を披露してくれたのです。

ここで絶賛してもその素晴らしさは到底伝わらないと思いますが、
とにかく軽快なラテンのリズムに乗せた四人のハーモニーは完璧。
流石に全員管楽器奏者だけあって、ピッチが気持ちいいくらい合う合う。

「Day by day  I’m fallin' more in love with you」(日に日にあなたへの愛は増してゆく)

で四人がドライブ感満載のリズムに乗ったコーラスで歌い出し、続いて川上海曹長が

「There isn't any end my devotion」(私の献身は終わることがない)

と渋い低音でキメるわけです><

Jazz Vocals with Swing! The Four Freshmen- Day By Day

世界一有名な男性4人コーラスといえば?
そう、ダークダックス・・じゃなくてフォーフレッシュメンですね。
今回のアレンジに一番似ていると思われる彼らの演奏をお聴きください。

しかしこんな素敵な男性コーラスが手持ちのメンバーでさらりとできてしまう、
これほどお得でかつ応用自在の音楽団体が他にあるでしょうか。
(あったら是非教えてください)

個人的には『I find that』の前の休符の時、真ん中の人が
いちいちビシ!っと宙を指差すイケメンポーズにシビれました(笑)

 

ところで「人材」で思いだした余談ですが、隣に座ったミスター元将情報によると、
東京音楽隊にはシエナ・ウィンド・オーケストラから来た人もいるんですね。
誰だろうと思って調べてみると、Wikiには「シエナの創設メンバー」とありました。

こういう人も普通に学科試験を受けたんだろうか?と不思議な感じがします。

見上げてごらん夜の星を / いずみたく 永六輔

このクレジットにも作詞者の永六輔が書かれていなかった件。
坂本九の不朽の名曲を三宅三曹が歌いました。

素直で、人の心に真っ直ぐに届く歌声。
こういう曲を歌うときの三宅さんは自然で微塵も外連味がなく、
彼女のキャラクターともあいまって最高に素晴らしい。

君の瞳に恋してる Can't Take My Eyes Off You 

いくら原題が日本人には覚えにくいからといって、「君から目が離せない」を
「君の瞳に恋してる」という解釈はないだろうと思うのですが、

とにかくそういう題で日本でもヒットしたボーイズタウンギャングの曲です。

元曲はもっと古くからあったのですが、BTGがディスコ調でリバイバルさせました。
吹奏楽バージョンもyoutubeで見つけましたが、この日の演奏は
こんなにネムい感じじゃなかったなあ。(でも一応貼っておきます)

《吹奏楽ヒット》君の瞳に恋してる


チム・チム・チェリー シャーマン兄弟

(Richard M. Sharman/Robert B. Sherman)

メアリーポピンズの原作ではあまり出てこない煙突掃除屋の
バートが、ディズニー映画では思いっきり主人公っぽくなって、
この歌をメアリーと並んで歌うわけです。

メアリーポピンズの原作、小さい頃大好きで何度も何度も読んだものです。

この東京佼成ウィンドの演奏はとにかく熱田公紀氏のアレンジがよろしい。
この夜の演奏も同じ楽譜で行われていたと思います。

後半に選んだ曲はヴォーカルの二曲以外は、随所で奏者がアドリブソロや
ソリ(複数の同種楽器がソロを取る)を発揮できる曲ばかりで、この曲も、いかにも
ビクトリア朝時代のロンドン!(原作の舞台はもう少し後ですが)といった雰囲気の
「ドンぱっぱ」な三拍子からいつの間にかジャズワルツになり、
そこで何人かが、ここぞ!と立ち上がりソロを聴かせていく、という構成です。


しかし、自衛隊の音楽隊って、(一般のオケもそうですが)ー〜二昔前とは
個人の技術が段違いに高くなっているよなあとこれを聴いて思いました。

わたしが持っているCDの奏者のソロなんかと比べても、
その技術何よりセンス
には明確な差があります。


アヴェ・マリア グノー

再び三宅三曹の歌声でクリスマスならではの「アヴェ・マリア」。
この曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集第1集ハ長調の前奏曲の上に、
それを伴奏となるようにシャルル・グノーという19世紀半ば、
フランス音楽の基礎を築いたという噂もある作曲家がメロディをつけたものです。

バッハが聴いたらどう思うかは謎ですが、このアイデアは秀逸です。
音楽界のアイデア賞です。

どうしてもメロディとバッハの原曲が合わないところを1小節、
原曲の方を削ってごまかしていますが、それはさておき、

グノーの「アヴェ・マリア」はシューベルト、カッチーニのとともに
「三大アヴェ・マリア」と言われるくらい有名です。

ちなみにわたしは聴きすぎて好きも嫌いもないシューベルトとグノーより
カッチーニの「アヴェ・マリア」に心惹かれます。
この作曲者が実は実在したバロック時代の作曲家カッチーニの作品ではない、
という逸話も含めて。

寺井尚子(Naoko Terai)  Ave Maria /Caccini ( Vavilov )

実はこの曲、近代どころか最近の1970年、ソ連の作曲家
ウラディーミル・バビロフという人が、すい臓がんで困窮のうちに没する
死の直前に作曲した曲だということがわかっています。

道理でこんないい曲なのについ最近まで聴いたことがないと思った。
なぜかいつも自作を古典作曲家の名前で発表する癖のある人だったみたいですね。

なぜそんなことをするのかほとんどの人にはわからないと思いますが、
彼の専門が古楽器であったこと、「作曲家」が近代において
古典風の作品を発表するのは第一線では認められていないという
音楽界の風潮がさせたことではなかったかとわたしは思っています。

 

閑話休題、ところで隣のミスター元将と音楽まつりの話になり、

「海自のステージでの三宅さんと中川さん(横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹)
のデュエットは素晴らしかった」

という意見で二議一決を見ました。

「中川さんはとにかく上手い。三宅さんは可愛い感じ。
二人とも全く違うタイプだからこそいい」

また、これもこっそり聴いたところ、この日は三宅由佳莉三曹の
誕生日だったそうです。
帰りに駐車場のエレベーターに同乗した人たちも
関係者に聴いたらしく
この話をしていました。

「でもお誕生日おめでとう!とかはなかったね」

まあ・・・色々考えてもそれはしないでしょう。

アレルヤ!ラウダムス・テ A・リード

吹奏楽に興味がある人でアルフレッド・リードの名前を知らない人はいません。
1960年以降日本で行われるようになった吹奏楽に道筋をつけたのは
リードの作曲した卓越したコンクール曲の数々であり、そのほかにも来日して
洗足音楽大学で教鞭をとり、アマチュアバンドを指揮した功績により、
「現代日本の吹奏楽の父」といっても過言ではない働きをしたからです。

「エル・カミーノ・リアル」(カリフォルニアに同じ名前の道路がある)
「アルメニアン・ダンス」「春の猟犬」など、名曲を多く残している彼も
また陸軍航空隊軍楽隊で副指揮者やライブラリアンをしていた経験があります。

アルフレッド・リード/アレルヤ!ラウダムス・テ


「アレルヤ!ラウダムス・テ」とはラテン語で
「ハレルヤ、我ら主をほめたたえん」という意味。

ファンファーレの後はクラリネットのソロによって
内省的な祈りを感じさせる美しいメロディが続きます。

ところでこのダラス・ウィンドシンフォニーの演奏のyoutubeが
パイプオルガンの写真であることにご注目ください。

オリジナルスコアでリードはそのクライマックスに
パイプオルガンを指定しているのです。(4分少し前から)

この日のステージに電子ピアノが置かれているのでわたしは
何に使うんだろう、と注目していたのですが、
曲のクライマックスで突然パイプオルガンの音が聴こえてきたので、
合点がいきました。

しかし同時にこのすみだトリフォニーホールの立派なパイプオルガンを
なぜ使わないのかと一瞬ですが非常に残念に思ったのも事実です。

まあ簡単に言いますが、パイプオルガンは昨日も話に出たように、
各種ストッパーの操作など、わかっていないと音も出せない楽器ですし、
第一ホールを借りる料金にオルガン使用料まで含まれていないとなれば、
キーボードでパイプオルガンの音を出すしかなかったのでしょう。

ただなあ・・・これ実際のパイプオルガンで聴いてみたかったなあ・・。


さて、プログラムの曲が全部終わり、聴衆がアンコールをリクエストすると、
なんといきなり

行進曲 「軍艦」瀬戸口藤吉

が始まってしまいました。
はて、海上自衛隊的にはこの曲が演奏されたらそこでも今日は終わり、
ということになるはずですが・・・?

スミスとリードで練習時間を使い果たしてアンコールの余力がなくなったのか、
とわたしが失礼なことを考えていると、「軍艦」が終わってから
ジングルベル in Swing調のジャズっぽいクリスマスソングが演奏されました。

イントロとかまるで「Sing、Sing、Sing」(ただしメジャー)なので、
なるほど、これと引っ掛けたのか、と思ったら、ロビーのボードに

「本日のリクエスト」

軍艦  シング・シング・シング

と書いてあって目を疑いました。
そ、そっちがメインだったの〜?

ちなみにこの日ご一緒したのは某携帯大手会社勤務という方で、

「御社はFウェイ大丈夫なんですか」

と一応聴いてみると

「うちは大丈夫です。わたしが過去入り込むのを撃退しました」

「おおすごい。もしかしたら今正義は勝つ!って思ってます?」

「いやいやw」

「もしかしてザマーミロとか」

「いえいえw」

こちらの方も本日の演奏会には大変感動されたようで、口々に

「相変わらず楽しいコンサートでしたね」

と言い合いながら外に出ました。


ところで今日、郵便物の中に、来年二月にサントリーホールで行われる
東京音楽隊定期演奏会のお知らせを発見したので、プログラムをチェックすると、
なんと予定曲に

「華麗なる舞曲」C・T・スミス

の曲名が・・・・・。

うーん、やる気ですね、隊長!

今から俄然楽しみになってきました。


というわけで、ハートウォーミングな今年の定例演奏会のご報告を終わります。
最後になりましたが、演奏会参加にお気遣いを頂きました皆様に、
心よりお礼を申し上げます。

 

 


海上自衛隊 東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミング コンサート」前編

2018-12-16 | 音楽

平成という時代の最後の年末、異常な暑さのあとにいきなりやってきた
信じられないくらいの寒さに関東一円が震え上がった12月の週末、
第59回東京音楽隊定例演奏会に行ってまいりました。

この時期「ハートウォーミングコンサート」と銘打って行われる
すみだトリフォニーホールでの演奏会は、例年時節柄、
クリスマスの曲を交えて観客を楽しませてくれるのが慣いです。

最近東音関係の印刷物で見る、八分音符の連符が
可愛らしい音楽隊員で表されているロゴのように、
今回も心温まるハートウォーミングな演奏会となりましたので
ご報告させていただきたいと思います。

 

入場すると、パイプオルガンの演奏席のあるデッキに譜面台が
セッティングされています。

「ファンファーレ的な曲で始まるんだな」

と予想していたら、案の定そこに並んだ金管楽器奏者によって

トランペット・ヴォランタリー(J・クラーク)

を演奏するという幕開けになりました。

中世イギリスのセントポール大聖堂のオルガン奏者、ジェレマイア・クラーク
アン女王の夫だったデンマーク王室のジョージ王子の行進のために作曲したものです。

Jeremiah Clarke, Trumpet Voluntary-Trompeta Voluntario.

この題名についてちょっと説明させてください。

「トランペット」と題名にあり、その通りトランペットで演奏されている曲ですが、
元々はクラークが自分が演奏するために書いたオルガンの曲なのです。

それにしても「ヴォランタリー」というこの題名、「ボランティア」と同じ
「自発的に」という意味ですが、不思議なタイトルだと思いませんか?

 

超どうでもいい知識ですが一応説明しておくと、ヴォランタリーとは音楽用語で、

礼拝の前後に演奏されるオルガン曲の総称なのです。

「ご詠歌」みたいなもんですかね。ちょっと違うか。

とにかく、英語圏では元々の題名に関係なく、そうした曲を全て
「ヴォランタリー」と呼ぶことになっているのです。

そして驚くことに「トランペット・ヴォランタリー」も元々は固有名詞ではなく、
パイプオルガンの専門用語です。
詳細はこのエントリ全部紙面が必要なので省略しますが、とにかく、

「パイプオルガンのトランペットというストップ(音色を選択する装置の一つ)
を使って、礼拝前後に演奏するオルガン曲」

という一般名詞であり、この曲の本当の題名は「デンマーク王子の行進」とそのまんまです。

元々トランペットの曲でもないのに、なぜ現在この「デンマーク王子」という
トランペット・ヴォランタリーだけが独立して、しかもそういう題名になり、
オルガンでなくトランペットで演奏されているかと言いますと、
後世になってヘンリー・ウッド卿という指揮者が、トランペット、弦楽、
そしてオルガンでこの曲をアレンジしたからなのです。

 

同曲は、チャールズ王子とダイアナ妃の結婚式にも使われ、
また現在でも、従軍牧師ばかりからなる陸軍部隊、

イギリス王立陸軍牧師部隊

の公式曲とされています。
同じ曲ですが貼っておきます。

Royal Army Chaplains' Department March (British Army)

編曲がより軍隊調な行進のテンポであることにご注目。

しかしさすがはキリスト教国家、英国には牧師さんの部隊があるんですね。
日本でも「救世軍」がありますが、元々はこの「サルヴェーションアーミー」も
聖職者の軍隊から派生している組織です。

ロイヤル・チャプレンズ・アーミーの司令官は将軍位であり

「チャプレン・ジェネラル」

という階級が与えられています。

というわけで、音楽解説をしているつもりが、ついつい
ミリタリー系の方向にそれてしまいましたが、次行きます。

 

ところで冒頭写真は、わたしの座っていた席から撮ったのですが、
2階席のど真ん中という絶好の場所でした。
おまけに隣には旧知のコアな音楽隊ファンである元将官。
音楽隊の「中の人」しか知り得ない情報も教えていただけるという、
超スペシャルお得なお席です。

『近年自衛隊音楽隊には、普通に音楽大学を出て入隊を希望する人が
オーディションを受けに来るのだけど、とても残念なことに
日本の音大には得てして専門が良ければ学力は大目に見るところもあるらしく、
オケは落ちたけど自衛隊なら就職楽勝!とばかりに意気揚々と受けにきた音大卒でも
一般学力が基準に達しない場合にはお帰りいただくことが結構ある』

という笑えない話を聞かせてくださったのもこの元将官です。

そのミスター元将が、

「今日はハープの荒木さんが協奏曲をやりますよ」

とおっしゃるので改めて舞台を見ると、ステージ中央に
神々しくも美しい楽器、ハープが燦然と鎮座しています。

音楽まつりで開演前に調弦しているその様子を、今まで
せっせと写真に撮ってご紹介してきたところの荒木美佳3等海曹は、
東京藝術大学を卒業後、自衛隊初のハープ奏者として東京音楽隊に入隊しました。

今回は彼女が協奏曲のソリストとしてステージに乗った最初の日だっただけでなく、
ハープ協奏曲が行われた自衛隊史上初の出来事だったのではないでしょうか。

ハープ協奏曲 変ロ長調 G・F・ヘンデル

世の中にハープ協奏曲はそんなにたくさん残されていませんが、
この「音楽史上初めて作曲されたハープのための協奏曲」は、
誰でも一度くらいはどこかで聴いた事がある、と思うかもしれない、
というくらい有名な曲です。

Marcel Grandjany - Handel Harp Concerto

2:10からはカツラをかぶっていない「ありのままのヘンデル」のお姿がみられます。
なんでわざわざこんな絵を描かせて後世に残しちゃったかね。

さてそのヘンデルやバッハ、モーツァルトなどの時代、
協奏曲というのは、終始の直前、カデンツァと言いまして、

「演奏者が自分で作曲し、自分の卓越したスキルを見せびらかす

という聴かせどころを持っていました。
この伝説のハープ奏者グランジャニのカデンツァを、8:15から聴いてみてください。


指揮者が指揮をする手を降ろし、ハープのソロになる部分からは
全て奏者が作曲したオリジナルなのです。

荒木三曹のカデンツァは典雅ながら華やかな聴かせどころを持ち、
緩急のバランスの取れたものだったと思います。

そういえばわたしは生でハープ協奏曲を聴くのは初めてでした。
会場のほとんどの人もこの楽器が真ん中にあり、後ろには
ハープシコードが通奏低音(これも通常奏者の’裁量’で演奏される)
が奏でる様子を見るのは初めてだったのではないでしょうか。

ちなみに冒頭写真は休憩時間に撮ったもので、真ん中にあった
ハープシコードを皆で片付けているところが写っています。

残念だったのは吹奏楽でアレンジされていたため、
ただでさえ聴こえにくいハープシコードの通奏低音が
増幅させてもほとんど聴こえてこなかったことでした。

そもそもハープシコードは広いコンサートホールで演奏するのには向きません。

 

ヴォカリーズ セルゲイ・ラフマニノフ

荒木三曹が「一仕事」(本人談)しなくてはいけない前半は、
彼女がいつも担当している司会のお仕事を、男性隊員が行いました。

その司会によって「ラフマニノフの作品で最も有名な曲」と紹介された
「歌詞のない歌」=ヴォカリーズを、三宅由佳莉三等海曹が歌いました。
おそらく彼女がこの曲を取り上げるのは初めてだったのではないでしょうか。

知らない方のために、同じ吹奏楽アレンジの本田美奈子バージョンを貼っておきます。

Vocalise / 本田美奈子. (Vocalise / Minako Honda.)

高音が出なかったのか、吹奏楽のアレンジなのでそうなったのかはわかりませんが、
原曲の嬰ハ短調を半音落としてハ短調にしており、キリ・テ・カナワやフレミング、

キャスリーン・バトルのような声のビブラートを駆使したB#音のトリルには
トライしていないようですが、そういうことは差し置いても十分美しいと思います。

この人、上手かったんだなあ・・・。惜しい人を亡くしたものです。

三宅三曹のヴォカリーズは低音がアンサンブルにかき消される瞬間も
あるにはありましたが、編成を考えるとそれもまた宜なるかなと。

おなじヴォカリーズを太田佐和子二等海曹のピアノ伴奏でぜひ聴いてみたいものです。

 

ルイ・ブルジョワの讃歌による変奏曲 C.T. スミス

Variations on a Hymn by Louis Bourgeois : Claude Thomas Smith

クロード・トーマス・スミスというアメリカの作曲家は、
陸海空、夜戦陸軍軍楽隊のために必要以上に難しい曲を書いています。
別名難曲メーカーと異名を取っている(かもしれない)ことと
若い時に陸軍軍楽隊に所属していたこととの間には何か関係があるのでしょうか。

いや、ないと思いますが、作る側の立場になって考えてみると、
初見ですらっと合わせられてしまう曲を書くことはプライドが許さない、
みたいなことを考える人だってね、いるわけですよ。

「演奏者いじめ」みたいな超絶難しい曲を書いて、

「ふひひひ、皆苦しむがいい、特にホルンとトランペットな」

と内心ほくそ笑むような人だってね。いるわけですよ。
スミスがそうだったとは言いませんけどね。


ところで同じスミスの難曲シリーズ「華麗なる舞曲」Danse Folâtre
東京音楽隊隊長、樋口二佐はかつて横須賀音楽隊長時代にチャレンジしており、
個人技難易度C続きのともすればカオスで終わってしまいかねないこの曲を
打楽器奏者らしいキレのいい棒で見事にすっきりと聴かせていたのを思い出しました。

本作は「華麗なる舞曲」のようなパワー系の出だしでまさにスミス節ですが、
0:58から、変奏のテーマとなるルイ・ブルジョワの詩篇が始まります。

詩篇ってナーニ?という方向けに、一応貼っておきます。
キリスト教のご詠歌ってところですね。これも。

Old Hundredth-Bourgeois All-Parts.wmv

わたしはこの曲を生で聴くのは初めてだったのですが、
2:19から始まるオーボエのソロとそれに続くアンサンブルが好きすぎて・・・。

スミスの曲は、個々の楽器の見せ場が多く、(しかもそれが難しい)
特にこの曲もトランペットが大活躍。

6:09からのトランペットソロはよくよく聴いていただくと
二人で掛け合い演奏しているのがお分かりになると思います。

クライマックスは「詩篇」のメロディが各楽器に現れ、
フーガのように聞こえる壮大なもの。

しかし賛美歌を素材に使いながらこれほどアメリカーン!な色で仕上げてしまう、
やっぱりアメリカ人の作った曲だなあと思いました。

それと普通のメロディを普通にやればいいのに(笑)
あえて随所に不協和音を多用することについては、
ある評論家も

「スミスは晩年になればなるほど不協和音を使用する頻度が増えていったが、
この側面は彼の音楽のより広範な特徴になっている」

と書いています。


前半のプログラムはファンファーレ的「トランペット・ヴォランタリー」
に始まって、全て個人の演奏をフィーチャーしたものが続きましたが、
最後のこの曲こそ、東京音楽隊みんながソリスト!な曲だったというわけ。

曲が終了後、頑張ったトランペット、ホルンセクション、オーボエなどは
指揮者にコールされて盛大な拍手を受けていました。


そうそう、この曲を依頼したのは英語ウィキによると
米海兵隊音楽隊指揮者、作曲家であった

ジョン・R・ブルジョワ大佐

だったそうです。
フランス系のブルジョワ大佐、もしかして、詩篇を作曲した
ルイ・ブルジョワが自分のご先祖だった、なんて事情でもあったのかな?

 

後編に続く。

 

 

 


スタンフォード "ザ・ディッシュ”を歩く〜シリコンバレー

2018-12-14 | アメリカ

大久野島で散々うさぎの話をしたので、今日は思い切って気分を変えて
リスと遭遇したアメリカの思い出話をします。

え?全く気分が変わっとらんって?


リスといえば当ブログ的にはもうおなじみ、シリコンバレーの
スタンフォード大学近くにあるスタンフォード・ディッシュです。

正式名称は「The  Dish」。

スタンフォード大学横の小高い丘(標高46m)で、
1961年にスタンフォード大学のリサーチセンターが開設しました。

Dishとはレイディオ・テレスコープ、日本語で言うところの電波望遠鏡のアンテナを
英語ではお皿に見立ててこのように称するのです。

当時4億5千万の費用をかけて作られたものですが、この金額は
アメリカ空軍の出資によってまかなわれたということです。

元々の設置目的は大気圏の化学組成を調査するというものでしたが、
のちにザ・ディッシュは宇宙ロケットや衛星などとの通信用になりました。

そして現在も米国政府の管理下で学術や研究の目的のために使用されています。

NASAの衛星と通信を行っていた時はおそらく非公開だったと思うのですが、
現在、ディッシュのあるこの一帯には3.5マイル(5.6km )のトレイルがあります。

小道以外には立ち入ることもできませんし、バーベキューもピクニックも禁止、
犬の散歩も厳禁ですが、毎日1500〜1800人は訪れる人気のコースとなっています。

さて、その1500人の一人となるべくやってきたディッシュ入り口。

電柱には、いなくなった黒猫を見つけてくれた方には
賞金を出しますという飼い主の切実な訴えが貼られていました。

7月22日からいなくなってこの時すでに2ヶ月経過しています。
どこかの家で保護されているといいのですが・・・。

午後の予定に備えて歩き出したのは、8時ちょうどぐらいでした。

シリコンバレーは9月下旬でも昼間は猛烈に暑いので、
歩くのは朝方がいいと思うのですが、やはり夏休みが終わったので
よそから来ている人が大幅に減ったということなのでしょう。

それと、残念だったのはリスがあまりいなかったことです。

何年か前に初めてきた時には足元がリスだらけで感動したものですが、
今回門の周りには1匹もおらず、延々と歩いていってやっと一匹目に遭遇しました。

10月近くなってすでに冬眠期にでも入ったのかな?と思ったのですが、
後でしらべるとカリフォルニアジリスは、冬がそう寒くない地域では
冬眠せず結構一年中活発に活動しているということでした。

単にまだ彼らの食事時間には早かったのかもしれません。

「ディッシュ」が近づいてきました。

ちなみにこの中は公園ではないので、設置されているのは道だけ。
ピクニックテーブルもベンチも、もちろんトイレもありません。

トイレといえばこの付近は日本のようにコンビニもレストランもない住宅街で、
もしその必要性にかられたらみんなどうしているんだろうと心配になります。

しかしディッシュ側は研究施設を公開してやっているだけでそんなもん知らんがな、
という態度なので、今後もそういう設備の設置は行われないでしょう。

ディッシュが近づいてきて初めて2匹目のリス発見。
本当に今年は変な感じです。

給水設備なのかわかりませんが、白い土管に
ちょこんと後ろ姿が見えました。

手前にいたリスはこちらを見ると向きを変え・・・、

白い土管に向かって走っていきます。

友達のいる土管の淵に駆け上りました。

気のせいかこちらを見ているような・・・。
この辺りのリスはとにかく警戒心が強く、カメラを向けるだけで
何事かを察知して逃げてしまいます。

上空からは定期的に肉食の猛禽類が狙っていますし、
アライグマ、キツネ、イタチ、蛇などに捕食されるので、
敵に囲まれて生活しているとこうなるでしょう。

尻尾を友達のとくっつけると安心感があるのかも・・。

標高46mの円形コースは、右左どちらからいっても必ず一回か二回、
「心臓破りの坂」が待ち受けています。

その一つがこれ。
とはいえ、普通に歩いているぶんには心臓が破れることもありません。

何度もここにきていますが、霧がかかっているのは初めて見ました。

霧は大抵の山より低いところに筋のように立ちこめることもあります。

というわけで、ディッシュの前を通り過ぎるところまでやってきました。
ここでだいたいコースの半分くらいです。

ここから一旦下り、また坂を登っていきますが、この日は
コースにも霧が立ち込めていました。
8月に歩くのとはやはり気温もかなり違います。

ところで、この直後、向かいからやってきたおばあちゃま二人のうち
一人がわたしを呼び止め、

「ちょっと、あなたそんな大きなレンズ持ってるんだからあれ撮ってみて」

とおばちゃん特有の唐突さで命令してきました。

言われるがまま撮った電信柱の上。
肉眼では風速計や風向計と見分けがつかなかったのですが、
シャッターを押して、モニターを彼女に見せると、

「あら、そんなに拡大できるのね。
じゃ一番大きくして。
いいえ、それじゃなくてもっと右を見せてちょうだい」

画面に鷹が写っていることを確認した彼女は、連れに

「だからいったでしょ?あれは鳥だって」

と嬉しそうに宣言しました。

「もう一回ちゃんと撮ってみます。
それにしても良い目してらっしゃいますね」

と振り返って声をかけると、

「そうなのよー」

本当に肉眼ではわたしの2.0の視力でも見えなかったんですよ?

杭ごとに1匹ずつリスが乗っていたこともあるこの一帯にも
全くその姿はなく、ようやく見つけた1匹。
むしろこんな時にこんなところに一匹でいるリスって一体?

地面に平行に伸びた木の幹で腕立てのようなエクササイズを
実行している女の人。

先ほども言ったようにコースから逸れることは禁じられていますが、
彼女はためらうことなくスタスタと脇道に入っていったので驚きました。

ところでうちの近所の公園で毎朝木の枝にぶら下がってエクササイズしている
おばさんがいるんですが、いつか枝が折れるんじゃないかと思って見てます。

公園もあるんだからそこの鉄棒にぶら下がれよ。

朽ち木と電信柱とディッシュ。
基本ディッシュの中は道路以外いっさい手をつけず自然のままです。

今回、そこここに巣を張っていたのがクモ。
レース編みのような綺麗な巣に思わず目を奪われました。

よく見ると蜘蛛の糸はくまなく朝露がビーズのように連なって、
まるで精緻な首飾りのようです。

水色の軀をしたクモの美しさとともに自然の芸術を見た気がしました。

ここまで来るとあとは下りだけです。
スタンフォード大学のフーバータワーが右手に見えています。

かつてのリス地帯には山鳩が餌を探して歩いているだけ。

と思ったら、最後にやっと見つけた呑気なリスさん。
猛烈にお食事中です。

片手で草の茎を抑えてもう片方の手で実を刮げて口に入れています。

この麦のような草の実は彼らの大好物なのでしょう。
カリフォルニアジリスも他の齧歯類と同じく、
ほほ袋にできるだけ溜め込んで巣に持って帰り貯蔵する性質を持ちます。

両手で一生懸命口に食べ物を入れる様子はいつまで見ていても飽きません。

出口まであと少しという時、目の前をリスが横切りました。

 

草地にたどり着いてホッと一息。

というわけで、ちょうど1時間半かけて門まで帰ってきました。

スタンフォード・ディッシュは9月から2月までは6時半にオープンし、
夜7時半に閉門します。
wikiによると冬場の閉門は以前は17時だったようですが、

「それでは仕事が終わってから運動できない!」

みたいなクレームが出たのかもしれません。

しかし、冬場、夜の7時にここに入るのはかなり勇気がいると思う・・・。

この写真にも「警告」としてマウンテンライオンが出ます、
というポスターがありますが、
これは正確にいうと、

「マウンテンライオンがどこかにいるはず

というお知らせなんだそうです。

実はここでマウンテンライオンが実際に目撃されたことは一度もなく、
2011年、マウンテンライオンが通った形跡が見られた
という程度のことだそうですから、たまたま迷い込んだ個体が
残した痕跡に過ぎないのかもしれないし、っていうか、
それは何か他の動物の間違いだったのでは?とも考えられます。

ちなみに、マウンテンライオンというと別種のようですが、
実はピューマのことです。

ピューマか・・・確かにピューマと出くわしたら怖いよね。

今年も一周走破(歩き、だけど)を果たした「ザ・ディッシュ」、
リスの姿もこの「草ソムリエ」みたいな子が見納めとなりました。

「うーん・・・陽を浴びた草の香り、コクのあるボディ、いい仕事してますねえ」


ちなみにカリフォルニアジリスの寿命は6年だそうです。
みなさん、また会いに来るからねー!

 

 

 


化学兵器は「ただちに」廃絶することができるのか〜大久野島 毒ガス工場跡

2018-12-13 | 日本のこと

大久野島休暇村の、いかにも60年代に建てられたホテルの
典型的な和室での一夜は一人で宿泊したこともあって怖かった、
と書いたところ、unknownさんが

「こんないわく付きの廃墟の島でお泊りしたら怖いでしょう」

とコメントして来られたわけですが、わたしはこれを読んで、
あっ、とあの訳の分からない恐怖の原因に合点が行ったのです。

全く自慢にならないのですが、わたしは何をするにも事前に下調べをして
これからの体験に備えるというまめなことを一切行いません。

何も知識のない真っさらな感性のアンテナが新しく体験する事象、
あるいは物事に触れる時に生まれる何かを大切にしたいから・・・

というのは全くの嘘で、基本無精者だからです。

今回も、島の歴史は勿論、実際にどんなことがあったのかについて、
島の大きさすら、wikiを見ることすらせず現地に赴きました。

到着するなり毒ガスについての展示を丹念に観て、その結果
ここがどんなところであったかが初めてわかってきたのですが、
それでもその夜、一人で床の間の和室でパソコンに向かいながら
何やら得体の知れない気味の悪さを終始感じていたのにも関わらず、
今ならはっきりと感じるであろう、この小さな島に漂う
毒ガス製造に携わって不慮の死を遂げた人々の怨念については
不思議にその気味の悪さと結びつけて考えることをしませんでした。

帰宅後こうやってここでご報告するために調べるにつけ、
じわじわと遅まきながらその凄惨さに気づくことになり、

「よくまああんなところに一人で泊まったなあ」

と自分の無精さにむしろ感謝している、というのが正直なところです。
無知とはなんと怖いもの知らずであることよ。

今では跡形も無くなっていた病院跡を通り過ぎると、
もう既に廃社になり、御神体の無くなったらしい神社の跡でした。

ちなみにこれが更地にされていた病院全体の建物です。
左に灯台に続く山道の階段が見えます。
建物の前庭が真っ白ですが、これは進駐軍が撤収後、まず
病院を「無毒化」するためにさらし粉を撒いたのでしょう。
おそらくこののち建物は倒壊処分にされたのだと思われます。

さて、神社の鳥居前には

「皇化隆興」「萬邦威寧」

皇国の隆盛がいや増し、全ての地が
天皇陛下のご威光によって安寧でありますように。(たぶん)

という石碑が建てられています。

毒ガスを作るための工場しかなかったこの小さな島に、
いや、だからこそ祈りの場が人々には必要だったのでしょう。

現地の説明には、

毒ガス工場が開所された際、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とし、
1932年に現在地に移転しました。

とだけありますが、これではあまり意味がわかりません。
それまで神社はどこにあって、なんという名前だったのでしょう。

鳥居の注連縄はもう右側が外れかけているのですが、
何も対処している様子がありません。

「忠海兵器製造所 従業員一同」

と鳥居の寄進者名が刻印されています。
毒ガス工場の正式名称は

陸軍造兵廠 火工廠 忠海兵器製造所

でした。

昭和八年二月吉日、と寄進した年月日が反対側に。

陶器で作られたらしい狛犬は完璧な姿で残っています。
備前焼のような土の色をしていますがどうでしょうか。

参道をまっすぐ進んでわたしは思わず息を飲みました。
神社がここまで廃墟になってしまっているのを初めて見ます。
いつ崩落しても不思議ではない状態なので、立ち入り禁止になっていますが、
どうして取り壊しにしないのでしょうか。

拝殿は閂をかけ、扉を閉めていたものと思われますが、
雨風に打たれて扉は破れ、天井の板が剥がれて落下しています。
破れた扉越しに見える本殿の銅製の階段だけが当時の形を残しています。

 

かつてここに工場があった頃には、神職が神事を執り行い、
元旦には島に住む人々が初詣にやってきた神社。

説明には

境内では様々な行事(毎月8日の大詔奉戴日、四大節、式など)
が行われました。

とあります。

戦中は大東亜戦争が始まったのが12月8日であることから
毎月8日は「大詔奉戴」の日として神事が行われていたのです。

また、四大節とは元旦、紀元節、天長節、明治節。
式というのは学童の入学式、卒業式です。

 

神社が正式に取り壊されなかった理由とはなんだったか考えてみましょう。

敗戦となり、工場の関係者と陸軍軍人たちが最初に行ったのが
製造していた毒ガスを主に海に投棄することで、その後は
進駐軍が毒ガスの廃棄作業、そして朝鮮戦争の期間、実に十年も
ここにいたわけですから、その期間を通じて誰かがこの神社の
御神体を持ち出したりすることなど全く不可能だったことは確かです。

ただ、進駐軍は研究所や発電所などを残して他の建物を毒ガスと一緒に
焼却処分にしてしまったものの、流石に神社に火を放つことは、
おそらく畏れもあってそれを行うことはできなかったのでしょう。

ということは、この神社は本殿のご神体ごと、ずっと放置され、
長い年月そのままになっていたのではないでしょうか。

島が日本人の手に戻った時、ご神体をどこかに合祀した、
という話は今回どこを検索しても出てきませんでした。

鳥居を奉納した一ヶ月後、全従業員の名前を刻んだ石碑が建てられました。

裏表合わせてだいたい150名くらいの名前が彫られています。
工場が稼働を始めた最初のメンバーの有志だと思われます。

神社の境内に当たるところに殉職碑があるのに気づきました。
こちらも神社と同じく、今ではその役割を失ってしまっているようです。

神社はわかるとしても、殉職碑まで・・・・。
奇異な思いを抱きつつも思い切って後ろにまわってみました。

殉職者の名前が刻まれているでもなく、ただ

昭和十二年三月建之(これを建てる)

とだけあります。

おそらく最初に死者を出したのは、最も危険だったイペリットの
製造工場だったでしょう。

毒ガス資料館のパンフレットより。

製造工員はゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで
体を防護して作業を行いましたが、イペリットガスはその隙間から浸透し、
皮膚、目、咽頭を犯して結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎を引き起こしました。

しかし、当時は有効な治療法を持たず、火傷の手当と同じことをしていたそうです。

赤と言われたくしゃみ剤は名前はいかにも軽微なようですが、
これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまうのです。

緑である塩化アセトフェノンは吸い込むと肺組織をおかし、
肺水腫状態となって死に至るというもので、比重が重いため、
窪地や洞穴に流れ込んで人体に深刻な害を与えました。

昭和15年には、特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校しました。
この入学式が行われたのも神社の境内です。

写真は昭和18年、青年学校修了者と養成工の合同卒業式の様子です。

挨拶しているのは陸軍軍人。軍人は右手に階級順に並んでおり、
左の椅子に座っている紋付の一団は家族であろうと思われます。

工員服の青年と一緒にいる女子卒業生たちは、おそらくこの後
風船爆弾の気球部分を作らされたと思われます。


神社の参道から海を望む景色は、昔のままに違いありません。

慰霊碑が放置されていたことに不思議な思いを抱きながら
歩いていくと、「本物の」慰霊碑が現れました。

昭和60年になって新たに建立された慰霊碑は、元の慰霊碑で
鎮魂されていた死者を含め、戦後にガス障害で亡くなった
全ての死没者の追悼のために建立されたものです。

竹原市長の「化学兵器廃絶宣言」兼慰霊文です。

化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺戮することでは
核兵器・生物兵器と同じであるから、直ちに廃絶されねばならない。

「直ちに」という言葉になんかものすごい嫌な思い出があるのは
わたしだけではないと思いますがそれはさておき、
これを、

「現実世界においてこんなことをここで言っても全く意味をなさないんじゃ」

と思ってしまうわたしってひねくれ者?
広島の原子爆弾犠牲者慰霊碑の、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

に通じるものを感じます。

 

現状としては、CWCの禁止条約が締結された後も、

イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン16を使用

クルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器が使用される

シリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された

北朝鮮はCWCに加盟せず、現在も化学兵器を保有している

地下鉄サリン事件

米国における炭疽菌入り郵便物 リシン入り郵便物事件

金正男氏の殺害事件ではVXが検出された

など、主にテロ組織側によって化学兵器は非常に「魅力的な」
兵器であることが窺える事案が相次いでいます。

ちなみに大久野島の資料館では、イランへの医療支援として、
イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦を
そのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたことが縁で、
その関連資料も展示しているということです。

新たに建立された慰霊碑の銘文は広島大医学部の教授によって書かれました。

西本幸男氏は第15代学部長であり、専門は呼吸器内科学。
難治性喘息や気管支喘息の重症化要因を研究テーマにした学者です。

戦後は広島大学が中心となった組織が、毒ガス障害者への健康診断や
後遺症の研究を継続して行っているということです。

昭和17年に陸軍造兵廠忠海製造所従業員診療所だった
呉共済病院忠海病院は、被災者の指定医療機関となっています。

いわゆる「平和学習」で千羽鶴を持ってくる学校が多いのでしょう。
専用の「千羽鶴奉納所」が設けてあります。

「これからも戦争について学び、平和の大切さを僕たちから広めていきたいと思います。
そして争いのない平和な世の中を作っていきます。」

そうですか。

「それでは平和とはなんですか」

と聞くと、多分この子からは、

「戦争しないこと」

という答えしか返ってこないんだろうと思われます。

決してバカにしていうのではありませんが、自分のその頃を思い出しても
子供の考える(学校で考えさせられる、ということもできる)平和なんて、
まあせいぜいこんなものでしょう。

ただ、慰霊碑に刻まれた竹原市長の碑文がこれとほぼ同じレベルである件。

おそらくこういうのって、

「戦後日本人の考える平和の希求のあり方」

のスタンダードなんだろうな。
間違っていないけど、具体的なことは何も言っていないというね。

崖の上に、誰でも見たらわかる「危険」という看板を立てるのは日本人だけ、
と先般書きましたが、こういう当たり前すぎて意味のないことを子供から大人まで
異口同音に公言する傾向にあるのも、世界で唯一日本だけのような気がします。

なんて言ったら真面目な人たちに非難されちゃうかしら。

昨日見送った「ホワイトフリッパー」が突堤に到着するところを目撃しました。
朝早いのにたくさんの人が乗り降りしていましたが、この一団は
ほとんどが休暇村で働いている人たちのようです。

島に一つあるインフォメーションセンターの近くまでやってくると、
「自動交換機室跡」とだけ説明のある防空壕的な建築がありました。

何を自動交換するのかの説明がなかったのですが、電話かしら。

レンガで脚を組んだ藤棚は一部倒壊の恐れがあるらしく
内部に立ち入り禁止の札がかかっています。

wiki

毒ガス資料館の前を通り過ぎ、休暇村が見えるところまで帰ってくると
そこには毒ガス工場時代の研究所だった建物がありました。

実はこの建物があまりに近代的なので、わたしはてっきり
休暇村建設時代のものかと思い写真を撮らなかったのを後悔しています。

この内部の写真も検索すれば出てきますが、昭和2年に作られたとすれば
当時としては超ハイテクモダーンな建築様式だったはずです。

毒ガスの研究と薬品庫として使われていました。

その隣にあったのがこちらは昭和2年と言われても全く驚かない、
検査工室。

毒ガスの製品検査をする施設があった、ということはここで
動物実験などが行われていたと考えていいのかと思います。

同じ検査工室の建築中写真。
山の斜面を大幅に切り開いてその場所に作ったことがわかります。

それから90年が経ち、山肌は鬱蒼とした木々で覆われています。
驚いたのはこの建物と休暇村の間の空き地が自転車置き場になっていて
休暇村で働いている人が普通に周りに出入りできるらしいということです。

建物の脇には当時からあったらしい「歩行中禁煙」の木の注意書きが見えます。
進駐軍はなぜか検査工室を焼却処分にせず、何かに利用していたようです。

右手の山肌の見えている斜面の麓に今休暇村があります。
三軒家工場群では「あか」(くしゃみ剤)が製造されていました。

激症を引き起こすイペリットが製造されていたのはこの山の
向こう側の中腹あたりになります。

チェックアウトは10時。
歩いてフェリー乗り場まで行くとちょうどフェリーが到着しています。
前で切符を見せているのは昨日同じフェリーに乗っていた人だと思われます。

この人も休暇村で一人宿泊したんですね。

島で最後に撮影した大久野島うさぎ。

ところで大久野島シリーズの2回目以降のタイトルである疑問形は
この歴史の証言者となっている島に滞在して沸いた様々な心の声です。

「疑問」=「不思議」→「不思議の国のエリス」\(^o^)/
と言いたくて
わざわざ疑問形のタイトルにしてみました。

その答えが得られたものもあり、永遠に解決されないと
わかって書いているものもありますが、
何れにせよ、
「不思議の国のアリス」のように、うさぎに導かれてここにきた人々もまた、
各自の感受性の程度や方向性の違いこそあれ、この島に滞在して
何の疑問も感じずに帰っていくということはないと思われます。


元来わたしは「平和」「人権」などと大声で叫ぶある種の層に対して
徹底的な不信感と胡散臭さを感じるという、自他共に認める捻くれ者ではありますが、
人類が兵器を持つことを止める未来など決して来ないとわかっていても、
たとえそれが大海に投じる一滴の真水のようなものであっても、
声を上げ続ける大久野島のような「犠牲者」が有る限り、人類の終末は
少しでも先に延ばすことができるという希望を捨てていないのもまた事実です。

(お断りしておきますが、それは『平和』とは別次元の話です)

というわけで、

「平和」「化学兵器廃絶」

などという左翼ワードをポエムのように瀬戸内海に向かって叫ぶ、
などというヌルいやり方ではなく、化学兵器の違反使用国はバシバシ制裁する
役割を持つと言われるOPCWで、
「被害者」としての立場に立って旗を振り、
テロリスト側を締め上げていく方向に向けた「超絶具体的行動」、
つまり化学兵器の廃絶に向けた手段を問わぬ戦いが、この島を基点として
今後繰り広げられる未来を心から期待しつつ、
大久野島シリーズを終わります。



「大久野島~不思議の国のエリス」シリーズ 終わり

 

 


皇軍兵器の何たるかを彼らは知っていたか〜大久野島 毒ガス工場跡

2018-12-11 | 日本のこと

瀬戸内海に浮かぶ小島、大久野島。

昨今の「うさぎの島」のイメージはまるで取ってつけたようなもので、
実はその実態を昔から知る地元の人たちにとっては、おどろおどろしい
「毒ガスの島」という負の面だけが語られて来たらしいことを、
わたしは島を訪問し、現地の遺跡を目の当たりにすることで知りました。

阪神基地隊司令夫人やHARUNAさんら元地元民の証言もまた、
それを裏付けるものとなって、わたしはある仮定に行き着きました。

それは、

「うさぎの島というのはあくまでも客寄せのための”方便”で、
実は毒ガス工場があったという『負の歴史遺産』を見せるのが
大久野島の真の目的なのではないだろうか」

つまり、

「うさぎが目当てでやって来た客が否が応でもここの凄惨な歴史に気づき、
目を向けることになるのを」

誤用でない方の確信犯的に期待しているのではないかということです。

オウム真理教の地下鉄サリン事件を経験した我が国は、
ハーグに本部を置く化学兵器禁止機関(OPCW)の査察を積極的に受け入れ、
査察局長には陸上自衛隊第101化学防護隊長出身で、オウム真理教の
査察を統括した経歴を持つ秋山一郎氏をノーベル平和賞授賞式に出席させたこともある
「化学兵器廃止問題の優等生国家」でもあります。

大久野島の展示を見る限り、ここがOPCWの深謀遠慮によって
その負の歴史を語り継ぐ役割を負わされているようにはあまり見えませんでしたが、
少なくとも生きた歴史の語り手として、その高邁な理想に向かって
物言う立場を担っていることは間違いないことに思われました。

さて、島を一周歩いたら、部屋に入って時間になったら食事に出かけ、
温泉に入るしかすることがないこの島での一夜が明けました。

わたしは旧型の温泉宿客室で一人で眠るのは、高松の掃海隊追悼式以来
人生で二度目だったのですが、実はちょっと、というかかなり怖かったです(笑)
シティホテルやビジネスホテルならなんでもないのに、床の間付きの座敷が
なぜこんなに怖いのか、ちょっと自分でもその理由がわからないんですが、
枕元の灯を消す直前までiPadを見て平常心を保ち、いよいよ眠くなってから、
えいやっと電気を消し数分以内に寝るという方法で一夜を乗り切りました。

休暇村内に温泉は二ヶ所、つまり廊下の端と端に男女浴室が一つづつあり、
わたしはせっかくなので夕食前と翌朝早くにどちらも行ってみました。
ちょうど湯船に浸かった目の高さに開閉自由の窓があり、開けてみたら
日が暮れて暗いというのに大量のうさぎが走り回っていたのには驚きました。

うさぎって夜行性だったのか?

すぐさま調べてみると、以下のことが判明しました。

うさぎは正確にいえば薄明薄暮性(はくめいはくぼせい)の動物で、
明け方(薄明)と夕方(薄暮)など、昼や夜ではないこれらの時間帯に

行動が活発になる生き物なのだそうです。

まったくの夜行性ということではなく、夜行性に近いと表現されることもありますが、
とにかく犬や猫と同じく、日中は基本じっとしていることが多いとか。

翌朝は、朝ごはんを食べてからチェックアウトの時間まで
島内の昨日行っていないところを歩いてみることにしました。

ホテルを出ると、明け方で行動が活発化したうさぎが
懸命にビニールシートを喰いちぎり引きちぎっております。

まさかとは思うけど食べてるんじゃないよね?

島の南西部分の小高い山部には展望台と灯台があるというのを
フロントで聞いて、そこに行ってみることにしました。
この階段はそこに続いている道の一つなのですが、昔からあるらしい
この舗装された階段を登り切ってしまうと、あとはとんでもない
未舗装の山道が続いています。
それこそ清水門の二倍くらいの高さに脚を上げなくては
登れない階段があって、小柄な人には無理じゃないかというくらい。

そんな山道を登っていくと、まず東屋が現れました。
向こうに浮かんでいるひょっこりひょうたん島みたいなのは
「小久野島」(こくのしま)という名前の周囲1.6kmの無人島。

その昔、神功皇后三韓征伐へ向かう途中、床浦神社に戦勝と航海安全を祈願し、
ご自分の冠と沓(くつ)を海中に投じられました。
その時、神功皇后は冠が流れ着いた所を冠崎、沓が流れ着いた島を大沓島
横の小さい島を小沓島と名付けられたという故事があるそうですが、
後にそれが大久野島と小久野島になったと伝わっています。

さらに続く道沿いに進んでいくと、夜明けで活発化したらしい
うさぎさんたちに早速遭遇しました。

わたしが急に現れたせいか、なんかすごく驚いているんですが。

このびっくりうさちゃん、わたしが通り過ぎてから慌てて道に出てきました。
餌をくれそうな人だと判断したのかもしれません。

それともカバンの中の餌の匂いを嗅ぎつけたかな。

振り向いてカバンに手を入れると、タッタッタ、と駆け寄ってきます。

ういやつじゃのう。餌を遣わす。

おねだりした子にうさ餌を撒いてやると、そっくりの兄弟がやってきて
一緒に食べ出しました。

仲間と群れずに一匹だけでいた孤高のうさぎ。
なぜかこのうさぎだけは餌をねだってくることもしませんでした。

大三島の尻尾と本土が見えるこの高台には、昔探照灯が設置してありました。

巨大な探照灯をこの円形の部分に置いて海上を照らしたようです。

毒ガス工場時代より前の、芸予要塞時代のことです。
ここを「探照所」と呼んでおり、台座の半円部分は探照灯の可動域です。
この写真に写っているのは肩章からもわかるように陸軍軍人ですね。

明治時代とはいえこのような大掛かりな仕組みになっていました。
見にくいですが、「電灯井」(でんとうい?)というのは
英語で言うところのエレベーターで、探照灯そのものが
地下の収納庫に出し入れできると言うものです。

操作は下で行ったようですが、人力で動かしていたようですね。

背中を反らして背筋を鍛えているうさぎ。

朝一番の訪問者だったのか、人の姿に走り寄ってくるうさぎ。
皆が足元でお愛想を始め、そのうち争うように
ストールやバッグに手をかけようとしてぴょこぴょこし始めます。

うむ、これが本当の

”うさぎぴょこぴょこみぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ”

というやつか・・・。

(審議中)

柵を超えればそこは崖。
崖から落ちたらそこは海。

そんな誰にでもわかることをわざわざ看板にするのは
世界広しといえども日本だけだとわたしは断言します。

サンフランシスコのソーサリート、GGB付近の自然公園は
一歩踏み出せば真っ逆さまのところにベンチは作りますが
柵はもちろん危ないとか命を大切にとか命のホットラインとか、
そういう余計な看板の類は一切作りません。

訴訟天国で何かと無茶な訴えをする人が多い割には
日本のように先回りした警告などは無駄だと思っているようです。

フランスでも思いましたが、これは「自己責任」の問われ方の違いです。
政府が行くなというのに危険地帯に行って人質になるのは
世界的に見ても自己責任に帰結するべき事案であって、
むしろあれに同情したり英雄扱いする層が現れる国が異常なんだと思います。

 

話がそれましたが、このお節介な立て札の向こうに見えるのは大三島。
中学時代「少年の船」団員に学年から二人ずつ選ばれて
(基準はなんだったのかいまだにわからず)瀬戸内海クルーズした時、
大三島に寄港して現地の中学生と交流行事したことがありましたっけ。

あの時に仲良くなった女の子、まだこの島に住んでるのかな・・・。

明治27年に初めて点灯したという石造りの灯台があります。
当初は石油を使用して点灯していましたが、大正年間にアセチレンガスに、
さらに昭和11年になって電灯式に変わっていき、昭和33年、
無人化されて現在は呉海上保安部が管理している、とありますが、
なんとこの灯台は2代目で、平成4年に竣工したばかりのものだそうです。

初代の灯台は高松の四国村(博物館)に移設されているのだとか。

光達距離は25km、光度は8500カンデラ。

灯台の光り方を灯質ということを初めて知りました。


灯台に立って真後ろを振り向くとお地蔵様の祠がありました。
木の立て札には由来が書いてあったのかもしれませんが、
すでに何も読めない状態になっていました。

灯台からは下り坂になり、反対側の海岸に出られることが判明。
石段と木の階段を降りていくと、「大久野島燈台」の石碑が埋もれていました。

夏の間はここが海水浴場になるそうです。

海岸に面した山裾には昔病院がありました。
建物は撤去され、その跡はただ空き地になっています。

もしかしたら戦後島内を無毒化作業した時、被災した患者を収容していた
病院もまた焼却処分してしまったのかもしれません。

かつての病院。

白い長い裾の白衣を着ているのは看護婦、しゃがんでいるのは
着物を着た女性患者ではないかと思われます。

写真を撮るためにイメージフォト?的に絵になる二人を配したのかもしれません。

毒ガスを扱っていた工場ではその作業中事故が起こり、それによって死亡したり、
明らかに障害が出た例もあったわけですが、当時は被害が出るたびに
処する安全対策が取られたため、年々障害は少なくなっていたという証言があります。

ただしそれは直接的な事故による被害者のことであり、当時何もなくとも、
そこで生活し仕事をしながら、ガスで汚染されている空気を長期間吸うことで
のちに起こってくる恐ろしい障害とは全く別の話でした。

大久野島の工員を募集するとき、軍は毒ガスという言葉を一切使いませんでした。

「化学を応用した皇軍兵器」

それが毒ガスのことであるのは、工員という立場になってみれば
誰にでもわかったわけですが、その時には彼らは厳格な機密保持を誓約させられ、
軍人のみならず非軍人も、男も女もすでに秘密兵器を製造する
軍の組織の末端に組み込まれていたのです。

 


事故による毒ガス被害に遭った人(死亡第一号は建設会社松村組からの転職者だった)
の、その後の経過は、
当時実験台にされていたうさぎの辿った死に至る経過そのもので、
人々はその死に様を、ただ凝然と見守ったそうです。

彼らが息を引き取っていった病棟のあった場所には、何も建てられず、
ただこの水栓だけが当時を知る痕跡として遺されています。

 

 

続く。