ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

島根の旅〜足立美術館と「たたらと刀剣館」

2016-04-30 | 博物館・資料館・テーマパーク




原発を見学したあと一行はバスで移動。

夕食はこのようないかにもな宴席料理でした。
カニが出されたので久しぶりに面倒なのを克服して食べました。
驚いたのは甲殻類が大嫌いでエビフライですら食べない息子が

どうした風の吹き回しか、わたしよりも熱心に身をせせって
酢をお代わりしてまで食べていたことです。

一行が見学団の知らない大人ばかりで退屈していたせいかもしれません。



明日の見学にも大いに関係する名前ですが、この「玉鋼」というお酒は
この地方の有名な大吟醸だそうです。
玉鋼とは砂鉄を掬ってきて次の日勉強した「たたら製鉄」で作る鉄鋼で、
その中の純度の高い、日本刀を作る部分をいいます。

飲めないなりに少しだけ味見してみたところ、すっきりとした味わいでした。



そしてこのホテルに宿泊・・・あれ?この景色みたことあるぞ。
本当に偶然だったのですが、今回のご招待側が選んでくださったこの温泉、
皆生(かいけ)温泉といいまして、前に一度来ているんですね。

向こうに見えているのは後鳥羽上皇が流された隠岐ではなく、宍道湖のある半島です。



前回もご招待による宿泊だったのですが、そのホテルにはWiFiが気配もなく、

インターネットが全くできないという世界で、
隠岐に流された後鳥羽上皇の気持ちを味わうことができました。
今回のホテルはご覧の通り新しく、フリーWiFi完備です。

ただ、韓国人の団体旅行客と一緒でした。

夕方、食事に出るためにロビーに降りると、蛍光がかった原色を基調とした
ペラペラの化繊のパーカを制服のようにお揃いで着込んだ団体が
まさに到着してフロントから鍵を受け取っている最中であり、
その五月蝿さ、
おそらくにんにくからきている全体の臭いにまず驚愕しました。


フロントの人がわたしたちに鍵を渡す時、

「明日の朝食は7時半まで団体がいますので、それ以降にされた方が」

と心持ち声を潜めて意味深な忠告をしてきたので、同行の方が

「それは・・・・外国の方ですか」

すると、フロントマンはぴく、と表情を硬くして

「外国の方”も”おられます」

そこでわれわれは全てを察したのですが、それがチェックインする現場だったのです。


わたしはその日の夜、温泉には入りませんでした。
あの団体と同じ更衣室を使い、同じ湯船に入る。

いやでも見たくもないものを見てしまうでしょうし、それによって
ゆったり温泉気分を味わってリラックスなど到底望めないと思ったからです。

しかし、せっかく温泉地に来たので、次の朝、彼らが決してこないときを
(つまり朝の7時半までの時間)見計らって大浴場に行ったところ、
地元の常連客同士が「昨日の夜は団体さんがいて大変だった」とぼやいていました。

我々のグループの中からも、自動販売機がある階に行ったら、
部屋のドアを開け放して車座になって大騒ぎしていた、
別の階まで聞こえてきてうるさかった、そして何より匂いが凄かった、
(どうもキムチを持参しているらしい)という報告が上がっていました。

温泉の地元常連客も同行者も、このようにぼやきつつも決して

「韓国人」という言葉を使わず「外国の人」と言葉を濁していたのが印象的でした。


わたしは温泉でのバッティングを回避したせいで大して被害は被っていません。

ただ、朝エレベーターから降りると、前に塞がったままどいてくれないので、
そのまま真っ直ぐ進んだら、彼女らは横をすり抜けてエレベーターに入ろうとし、
そのときわたしの引いていたキャリーに脚を轢かれたらしく、
後ろから韓国語の罵詈雑言を浴びせられただけです。

あとはどこにいっても「残り香」がしていたくらいですかね。



朝の浜辺を出発までの一瞬だけ散歩しました。




本日最初の予定は足立美術館見学。



創設者である地元の実業家足立さんが「あっちに進め」とおっしゃっています。(たぶん)

横山大観のコレクションを集めるのが目的で美術館を作ったとか。



コレクションもさながら、ここの自慢はこの庭園です。

これは白砂を水に見立てた「枯山水庭」。

米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング
が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、
初回から13年連続で庭園日本一に選出されているのだそうです。
なぜ日本庭園専門雑誌がアメリカにあるのかはわかりませんが。

ちなみに2015年のランキング上位5位は、

1位・足立美術館(島根県)
2位・桂離宮(京都府)
3位・山本亭(東京都)
4位・養浩館庭園(福井県)
5位・御所西京都平安ホテル(京都府)

だったそうで、桂離宮より上だったとは驚きです。 




館内にはいくつかの休憩場所があったので、抹茶オーレをいただきました。

こんなところには珍しく、砂糖を使わずに飲むことができます。
向こうでTOが食しているのはアフォガートといって、アイスクリームに
コーヒーをかけて食する新感覚?のデザート。



庭園の一部としてある邸宅には、「生の額絵」があります。
それはいいんだけどプラスティックのプレートで「生の額絵」はやめてほしい。



玄関先には「衝立」があるものですが、

ここには「生の衝立」(またしてもプラスディックの札)があります。
今日の衝立の図柄は人物の後ろ姿がメインです。




見学が終わって物産店の横を通りかかったら目に付いた

「ちょい悪親父」のTシャツ。

ちょいワルは2014年12月現在で終わったんだよ!




菱田春草の「梅猫」をもとにデザインされたチャームを記念に買いました。

やっぱり本物の方が顔が可愛いですね。



次の予定地の近くの蕎麦屋で早めのお昼ごはんとなりました。




1日15食限定の特製そば。
ずずーっとすするなんてとんでもない。
歯ごたえがありすぎて、よく噛まないと食べられないそばでした。


さて、この後我々は3箇所の予定地を回りましたが、
いずれもそれは「たたら」に関する資料を見学する施設でした。

今回の旅行は、はっきりと見学する目的が決まっていたのです。
すなわち「原発とたたら」です。

「タタラ場」という言葉をもしかしたら宮崎駿のアニメ「もののけ姫」で知った、
という方もおられるでしょうか。
わたしはこの映画、公開時に劇場で見たきりなので記憶も定かではないのですが、
あのとき村の女たちが火を起こすためのふいごを踏みながら歌っていた、

ひとつふたつは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く泣く
(中略)溶けて流れりゃ刃に変わる

という「たたら歌」は、家の有線放送で時折耳にしていました。
たたらは「踏鞴」と書き、「鞴」つまりふいごを意味します。
一般に勢い余って数歩ほど歩み進んでしまうこと、足踏みすることを

「たたらを踏む」


といいますが、それがたたらを踏んでいるような足取りであるからです。

今回の見学では、このときの「タタラ場」のモデルとなったと言われる
たたら製鉄についてのいろいろを見学してまいりました。



まずここ。
奥出雲にある、「たたらと刀剣館」です。
到着したら、解説の方(多分館長さん)が待っておられました。



建物の横にあるモニュメントは「ヤマタノオロチ」を象ったもの。



ちゃんと大蛇の顔は風でふわふわ揺れるようになっていました。
つくば科学博で展示されたものだそうです。

なぜヤマタノオロチなのか、といいますと、須佐之男命伝説において、
スサノオが櫛名田比売(くしなだひめ)を救うために八岐大蛇を退治したあと、
尻尾から三種の神器の一、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出たからです。



天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を手にする須佐之男命。



天叢雲剣をたたらによる製鉄から再現したのがこの刀です。
両刃の剣は大変製作に手間がかかるそうです。 



昔、鉄を作る材料は砂鉄でした。
採取の方法にもいくつかあって、これは山を崩して砂を採取しています。

砂鉄を取るためには砂をふるって水に流し、純度の高い砂鉄を残すので、
下流の農民たちとたたら民の間には激しい争いがあったと言います。

「もののけ姫」でも、たたら製鉄による自然破壊がテーマとなっていましたが、
この争いは、為政者が農業の行われない冬に製鉄を行わせ、農民を作業に充てたりして
複合的な互恵関係を生み出すことで自然と解決していったといいます。



このような船で砂鉄を川底から掬う方法もありました。



鉄を作るには独特な形の炉が必要です。
まず、炉を作る場所を完璧に乾燥させなくてはいけません。



この炉を作るだけでも大変な労力と時間がかかるものなのです。
しかも、この方法によって「玉鋼」と呼ぶ刀にするための鉄が溶けたら
鉄を取り出すためにこの炉は周りから突き崩して壊してしまいます。



鉄は刀に始まり、火縄銃にも必要とされました。
たたら製鉄の歴史は1000年前には始まっており、鉄砲伝来は1543年。
15世紀後半には日本は鉄砲を輸出していたとあります。
写真は銘入りの火縄。鉄砲にも「職人」そして「名人」が生まれたということですね。




さて、このあとわれわれは館内で行われていた「刀打ち」の作業を
見せてもらうことができました。


続く。

 


島根の旅〜原子力発電所を見学

2016-04-29 | お出かけ

わけあってかなり前のことになりますが、週末、またしても旅をしてきました。
朝から晩まで一泊二日次々とスケジュールをこなす旅行で、
こういうのは「温泉にのんびりしに行く」 のとはまた違う楽しみがありますが、
とにかくこの時は疲れました・・・。

淡々と写真を貼りつつお話しさせていただきます。



行き先は島根。
空から見た島根県は本当に山の多い地方で、しかもその山の中に集落がポツポツとあります。
この理由も今回の見学で明らかになりました。
「縁結び空港」とあだ名された島根空港に降り立ち、迎えのマイクロバスに乗り込みます。



今回の見学先は、島根原発。

原子力発電所はどこも広報館を持っており、一般の人々に

原発とはなにかを周知させるための広報活動をしていますが、
今回の見学は関係各位のご尽力により、一般見学の見られない
ディープなところまで見せていただけることになっていました。


現在島根原発には3つの炉があり、1号機は運転終了、2号機は停止中。
我々が見学できるのは稼働予定を控えて炉心を入れる前の3号機です。

しかし当然ながら内部は一切写真撮影禁止。
見学に際して、前もって名前を通知し、現地ではパスポートナンバーと顔写真まで
きっちりと確認するという、アメリカ入国並みの厳しいチェックを受けました。



まず最初に広報館の応接室に通され、レクチャーを受けます。
ここで、原子力発電の仕組みを全く知らずにきた人も、たちまち

「僕は原子力に詳しいんだ」

と豪語できるレベルにはなれます。(たぶん)
わたしも、原子力で発電するということは、さっくりというと

「ウランが核分裂する熱エネルギーで水を沸騰させ、その蒸気でタービンを回す」

そして発電する、というシンプルなものであることを再確認しました。
タービンの冷却水と蒸気のために海水を取り込むので、原発施設が海辺にあるということも。

こうして限定的とはいえ一般人に内部を見学させるというのは
とりもなおさず、原発施設が現在進行形で安全、ことに災害のときの安全を
いかに担保するかについての取り組みを行っているかということを
世間に知らしめるためであろうと思われます。

われわれが強調されたのもそのことでした。

たとえば万が一地震が起きた時に原子炉を緊急停止させるための制御棒、

放射性物質を何重にも閉じ込めた容器をさらに頑強な建物で覆い、
海岸線には東北震災以降、15mを想定した防波堤が作られているなどです。

加えて発電所の放射線を測定監視し、データをモニタリングし、
情報を市民にあまねく公開周知させることを徹底しています。

原発が稼働していない現在、当発電所では安全対策のための工事
(竜巻が来た時に車を収納するための立体駐車場とか)や、
徹底的な模擬訓練(シチュエーションは前もって公開されない)
が実施されているということです。



福島第一原子力発電所事故では、地震が起こった段階で
制御棒は抑制し、原子炉を停止させることには成功しています。
しかし、想定外の津波に襲われ、冷やす機能そのものが喪失してしまったわけです。
そして、段階的に放射性物質を閉じ込める機能も失ってしまったので、
それらが爆発によって放出されてしまったという経緯があります。

ちなみに、東北から関東の太平洋側には5箇所、計15基の原発があります。

地震発生と同時にその全部の原子炉は自動停止し、冷却水、電源の確保、
放射性物質を閉じ込める機能も健全でした。

今回の熊本の地震でもぐらっとくるなり原発を止めろと野党議員の一部が
川内原発に電話をしてきたそうですが、川内原発は地震による影響は全くないとして

これらの勧告には対応しない構えです。

無事だったと発表されており、モニタリングポストも確認できるのにもかかわらず

「政府と電力会社の発表は信用できないからガイガーカウンターを持っている人は測れ!」

といたずらに不安を煽るツィートをした議員もいましたね。

「99%無事でも最後の1%で事故ったらおしまいだからゼロにすべき」

というのが反原発の理屈で、東北の件で「目に見えない恐怖」に脅かされた
経験者としてはそれもまあわからないでもありません。


ただ、”福島”以降、それを教訓として積み重ねられてきた各原子力発電所の取り組みを
全く無視してただただゼロにしろ、というのは、「子供の理屈」という気がします。

一旦稼働を始めた原子炉というのは、これも廃止派が常にいうことですが
廃炉、解体はできないものなのだそうですね。
全国にすでにある原発を廃炉解体できないまま、しかも停止状態であっても
ランニングコストをかけ続けるというのは、素人考えにも超無駄としか思えません。

だったらこのまま安全対策を多重に積み重ねていって災害やテロに備えつつ、
原発と付き合い続けていくしか方法はないんじゃないでしょうか。

わたしはこの見学でまるで子供レベルの感想ですが、安心しました。
日本人、日本の技術者は当たり前ですが決して馬鹿ではありません。
震災後、その安全対策は福島を教訓として、それどころか
あれ以上の規模の災害を想定し、
安全を確保する手段が講じられ、実現化されているのが確認できたからです。

例えば津波対策一つとっても、


まず東北以降設置された海抜15mの防波壁で止める。

もし防波壁を越えても、水密扉を閉めて建物に水を入れない。

建物内に侵入しても水密扉を閉めて遮断する。

という三段階の防護策が取れます。
しかしそれにもかかわらず冷却設備が壊れてしまったらどうするか?
福島では設備も電源も失われたので冷却ができなくなりましたが、
それを教訓に、今ではその時には代替冷却手段が使えるようにしています。

ガスタービン発電機、高圧、直流給電ができる車の常駐、
貯蔵タンクの設置、海水をくみ上げる各種ポンプなどの設置です。

「僕は原子力に詳しいんだ」の人がベントを遅らせて爆発した、
というのは今では語り草になっていますが、あのときはベントを行うことによって
爆発は防げても放射性物質の拡散は抑えることはできませんでした。
(結果として爆発したのでさらに悪い結果になったわけですが)
いまではフィルターがベントに付けられているため、将来ベントを行うことになっても
少なくとも放射性物質の拡散は最低限に抑えることができます。


福島では冷却水が途絶えたため、今にして考えれば

いたずらに自衛隊員の命を危険にさらすだけで”やってますパフォーマンス”以外の
何ものでもないヘリによる放水をしたり、放水車の提供を申し出た企業が
民主党の岡田の選挙区での自民支持知事候補の後援企業だったことから
政府が返答を3日間引き伸ばし、その間に横浜港に停泊していたドイツ企業の
放水車を「徴用」して行ったりと、政府民主党のこの期に及んで政局しかない
無能さがこの放水という一事を通してだけでも露わになりましたね。

これを受けてこの島根原発では原子炉や燃料プールを確実に冷却できるよう、
手段を多重化し、なおかつ電源が失われた場合にも水素爆発防止対策として
電源のいらない静的触媒式の水素処理装置を建屋内に設置すること、
そして外部には放水砲を固定設置し、放水車を多数常駐させています。

建屋周辺には、これでもかと赤い車が周りを取り囲むように駐車していました。
まるでこの世には赤い車しかないような眺めでした(笑)



「一般の人が見られないコアなところ」の見学については

安全対策にも関わる部分があるかもしれないのであまり細かく話せませんが、
印象に残ったことが2つあるので書きます。

まず、炉心棒というのは炉横の燃料プールに貯蔵してあって、
それを炉に移すときには上にわたしたレールを移動させる方式の機械で
真上に移動し、さらにガチャっとつかんで移動させること。

「それは・・・まるでUFOキャッチャーじゃないですか!」

と皆が驚きました。
もちろん運転は目視とか職人技に頼るということではなく(当然だ)
全自動コンピュータ制御で行うので「あ、落としちゃった」はありえません。


もうひとつは、炉をガラス越しに見学できるところに入るには、
まるで金庫の様な二重ドアを越えていかなくてはいけなかったのですが、
これはまずゆっくりと一つが開き、進むとそれが閉じ、
一旦完璧に狭い空間(広いエレベータくらい)に閉じ込められてから
炉につながるドアがゆっくりと開くわけです。

で、このときに鳴る音楽が「明日があるさ」なんですわ。
皆ドアが開閉している間神妙にその音楽を聴いていましたが、全員の表情に

「なぜこの曲・・・」

という疑問マークが浮かんでいました(笑)
この日の見学でいろいろな質問をぶつけていく中でわかってきたのですが、
原発関係者としては


「数年以内にはなんとか稼働できれば」

が悲願であるようです。
そこでふと、だからこそ「明日があるさ」の選曲なのか、などと考えた次第です。





さて、いろんなことを考えさせられた原発のコア見学でしたが、見学が終わり

レクチャーを受けた部屋に戻って、その部屋の前になぜか移されてきた
1号機運転開始20周年記念と25周年記念兼2号機運転10周年記念の植樹を
感慨深く眺めているとき、ふとここには売店とレストランもあると
説明の方がおっしゃっていたのを思い出し聞いてみました。

4時半まで、というので時計を見たらあと10分。
急いでみんなで駆けつけてみれば、なかなかいろんなお土産ものが充実しており、
わたしはりんごバターと豆腐にかけるだし入り醤油、ミルクジャムなどをお買い上げ。

ちなみに、説明の袋にはお土産として藻塩のパックが添えられており、
うちは家族三人分藻塩をゲットしてしまいました。
もう一生藻塩は買わなくて済みそうです。



案内の方(偉い人らしい)が


「わたしが作ってるわけではありませんが、大変好評なので是非」

とお勧め下さったみそソフトクリーム。略してみそクリ。(略すなw)
こういうことは率先するTOが早速一つ買い求めると、同行者は我も我もと。
わたしは息子と一つシェアしました。

みその存在感はあまりなく、どちらかというとキャラメルみたいな味がしました。
どこに味噌が練りこまれていたかは謎です。



さて、これでいつ見学をしたかばれてしまったわけですが(笑)

売店にはレストランも併設されており、美味しそうなメニューがありましたし、
とても香ばしいお茶なども無料でサービスされております。

大変景色のいいところですし、家族サービスついでにでいいから、
原子力の現場が
いまの日本でどのような取り組みをしているか、
原発行政の実際を見てこられることをおすすめします。




自衛隊資料館〜市ヶ谷・防衛省見学ツァー

2016-04-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

今回、防衛省見学ツァーが所属する防衛団体で組まれたとき、
午前か午後、どちらに参加するかというのに選択の余地はなく、

「もう先に聞いた人で午前中が埋まってしまった」

ということでしたので、自衛隊資料室を見る午後のツァーに参加しました。
前回の時のようにあまり自衛隊について詳しくない頃なら
それなりに初めて知ることもあったと思うのですが、今となっては
どれもこれもよくよく知っていることばかりでした。

しかしまあ、それはわたしにとってだけの感想かもしれないので、
とりあえずここでお話ししておきます。



市ヶ谷記念館の見学が終わったあと、途中で何処かに消えた人がいないか
チェックするために5列で並んで人数を確認し、次に進みます。

左手に自衛官の生活スペースである隊員宿舎を見ながらたどり着いた
この部分には、ここで生活する自衛官の福利厚生を預かったり、
あるいは飲食・買い物をするスペースがあります。

ところで、前回も感じたのですが、ここにはたくさんの自衛官が仕事をしていて、
庁舎同士の行き来もかなり多い割に、外で人を見かけないのです。
実は、この敷地内はすべての建物が地下道で繋がっていて、
傘をささずに離れたビルにも行くことができるということを初めて知りました。

前回はそんなことを言っていなかったような気もしますが、
わたしが単に聞いていなかっただけなのかもしれません。

とにかく、自衛官たちは外よりも地下道を通行することを好むようです。
というのは、外を歩く時には彼らは必ず着帽すべしという決まりがあり、
この近辺に前回喫煙所があったような気がするのですが、そこにも
外では(喫煙中でも)帽子をかぶること、と書いてあって驚きました。

つまり、地下道は外でないので、帽子を被らずに歩けるんですね。

庁舎前には「厳正な敬礼は市ヶ谷から」という、まるで学校のような
注意書きが書かれていますが、いずれにしても市ヶ谷、自衛隊組織の
中心ともなる場所ですので、一段と規律にはうるさいのに違いありません。

ところで、今メガホンで案内のお姉さんが注意事項を話しています。

「この庁舎の内部は写真撮影禁止です」

・・・・ん?
前回、わたしゃここを入ってすぐの福利厚生施設を写真に撮ったぞ。
案内の人も一緒にいたけど、その時何も言われなかったけどなあ。

中には隊員用のコンビニや売店があって、そこに置いてある商品には
いちいち「写真撮影禁止」と張り紙がされていた今回ですが、
前回から今回までの間に、なにか規制を厳しくしなければならない
不祥事があったのかもしれません。

入り口で中国人がツァーに参加しようとして乱入してきた話をしましたが、
その時に聞いたところによると、外国人であっても参加はできるそうです。
例えば中国人のツァー参加客を入れた時、どう見ても観光には関係なさそうな
自衛官の様子とか庁舎内の写真を撮りまくって怪しかった、・・・・とか?

さて、庁舎内は撮影禁止ですが、ここは何を撮ってもOK。
この建物の中にある自衛隊資料室です。



あーびっくりした(笑)
陸自の制服を着たパセリちゃん、これはよろしい、
しかし、扉の影から片目でこちらを覗いているピクルス王子、怖すぎ。
だいたいピクルス王子はキャラクター的に人相が悪いんだよな。四白眼だし。



自衛隊資料室は大変狭いものでした。
初っ端に自分の話を聞いていなかった参加者を叱りつけ、
さらには少しでも遅れた人がいたら急かしまくる自衛官のおじさんが、
入るなりとうとうと説明に入ってしまい、自由に見ることもできません。

わたしは話を聞きながらも、手だけはちゃんと写真を撮りました。

これは趣味の工芸コーナー。
手作り感溢れる木の人形の上に、紙で作ったチヌークがあります。
紙で作ると質感が本当っぽいのよね、チヌークって。



見学者にお辞儀してくれている陸自の装備人形。



陸自で行われている訓練の一部を写真でご紹介。
水上降下訓練というのは第一空挺団が毎年夏、房総半島の鋸南町で行う
洋上への降下訓練のことであろうと思われます。
洋上に降りた降下隊員はボートに拾ってもらい、岸まできたら
あとは泳いで帰って来るというもの。
問題はいつ落下傘を切り離すかなんですが、この段階で泳ぎが苦手だと
苦労するというか、溺れかける人もいたりして。

右上にはオスプレイが見えますが、もちろんこれは米軍との共同訓練です。



右は飛行試験機1号機。
この形、何かに似ていると思いませんか?C-1ですね。
次期固定翼哨戒機 (XP-1)と同時開発することで開発コストを下げる計画です。
現在X-C2は空自の岐阜基地で実験・開発が行われています。

左は「先進技術実証機」というもので、ステルス性やエンジンの制御など
先進技術の諸能力を盛り込んだ実験用の飛行機です。
皆さんは「心神」という言葉、ご存知でしょう?

この「心神」という名称はプロジェクトでは公式にも非公式にも使われていません。
どこかの航空博物館で確かにそう書いていたのをわたしはこの目で目撃しましたが、
あれは何かの見間違いだっに違いありません。

ただしマスコミやインターネット界隈では普通に「心神」が使われています。



海自コーナーにはなぜか特大の輸送艦「おおすみ」の模型が。
後ろのハッチからは今しもLCACが降ろされようとしているところ。

ところであれ?LCACってどうやって揚収するのかな?

輸送艦“くにさき”LCAC揚収作業
 


あくまでも自力でむりむりと突っ込んで行っております。すごい。
ってか、これきっと「くにさき」の後甲板に人はいられないだろうて。

で、冒頭写真の護衛艦操舵室を模したコーナーですが、これには

舵制御装置

船の進路を決めるための装置です。
艦橋から艦艇の最後尾にある舵で連結されており艦長が決定した進路が
舵輪を回すことによって舵に伝えられ進行方向が決まります。


という、割とすごく当たり前のことが書かれています。
後は

「昔の舵輪は大きくて回すのも大変だったが現在は油圧装置の開発によって小さい」

「舵輪の上についている左右30度ずつの目盛りは舵の角度を示します。
舷灯と同じように右が緑、左が赤で、舵の作動範囲である左右30°までが示されています。
目盛りの横にある赤と緑のボタンは、舵輪が故障した時に舵をとる装置です。
このボタンを捻ることでも方向を変えることができます」

「船では進路を決めるのが艦長か艦長に任命された航海長、もしくは当直士官であり、
車のハンドルに当たる方向操作を行うのは操舵員です」

あとは「面舵」が「兎面舵」(うむかじ)の転じたもの、「取り舵」が
「酉舵」と12支からきた故障であることを説明していました。
 
 

部屋の中央には、建築計画の時に施工会社から防衛庁に進呈された模型が。



青いベレーに青いマフラー。
そう、これは陸自海外派遣隊の制服。

東日本大震災、伊豆大島の大災害など国内はもちろん、ジブチ、スーダン、
そしてフィリピンにPKO活動に赴く我らが自衛隊です。

全く、電車の自衛官募集の広告を「きもい」とツィートした
偏差値28のガキどもを連れて行って汚泥に頭を突っ込んで顔を洗ってやりたい。 

「自衛隊の皆さんを死なせない」といったかと思うと、
「徴兵反対」とその同じ口で言い、そうかと思えば自衛隊募集を「きもい」。

自衛隊が募集で志願人員を一人も集めることができなくなったら、
その時にはたとえ法律的に「苦役」に相当しようが、
徴兵制を検討するしかないのだってこと、わかってるのかしら。

 

はい、こちらの後ろ姿がこの日の解説をしてくれた陸自隊員です。
若い時には戦車に乗っておられたそうです。

 

なぜかヒトマル式はなく、その代わりに榴弾砲の模型がありました。
案外自衛隊委員にはモデラーが多いらしく、(このブログの読者にもいますね)
先日は「いずも」の中で「いずも」のモデル(特製シール付き)が
結構内々で売れているという話を聞いて心和んだわたしです。

隊員が自分で作ったモデルを置かせてくれ、と持ってきたのかも。 





でたー!整理整頓自衛官(のキャラ)!
この二人を見ると、ついあのゲームがやりたくなってしまって困る(本当) 




空自の旧・現行装備が勢ぞろい。
きっと前に来た時にはすべての飛行機を検索画像とにらめっこしないと
ブルーインパルス以外はわからなかったと思います。
自分でも驚きますが、そんな時期がかつてあったんですねー。

いや、今だって機種特定能力はかなり怪しいのだが、という声が
どこからともなく聞こえてきた気がしますが、おそらく気のせいでしょう。




この部屋の展示中、最もここでインパクトのあったのは 
なんといってもこの巨大なコピー機だったかもしれません。
展示じゃないけど。
こんな機織り機みたいな機械を使っているのねえ。

さて、というわけで見学は行程を無事に終え、解散前に休憩時間が取られました。
わたしはスターバックスでラテのショートを注文したのですが、あまりにもアツアツで、
最後まで飲まないうちに時間が来てしまいました。

見学者にはもう少しぬるめのを出していただけるとありがたいです。

とはいえ、わたしの時間がなくなったのは、お土産を買っていたからでもあります。



そう、これ!迷彩パウンドケーキ。
朝霞駐屯地で見つけた時にはてっきりネタものだと思い買わなかったのですが、
ここで書いたところ「あれは美味しいです」という読者のコメントをいただき、
今度どこかで見つけたら買ってみようと思っていたところだったのです。




緑は抹茶、茶色はチョコレート、そしてグレーはゴマ。
要はこれらの材料を使ったマーブルケーキで、全く普通です。
そして、うちの家族全員が

「これは美味しい」

とちょっと感動したということを付け加えておきます。
皆様もどこかで見つけられた折には是非お試しを。



終わり。 

 


市ヶ谷記念館〜防衛省見学ツァー

2016-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

市ヶ谷記念館が法廷として使われていた時のことを書くのに、
昔のエントリを検索したら結構詳しかったので、それをベースに
前回のブログを製作したわたしです。

展示物についてはそれこそひとつ残らず紹介し尽くす勢いで
ここにアップしたので、今日は駆け足でいきます。



そう、駆け足で・・・・
と、いつもこの義足を見るとギョッとしてしまうのですが、誠にリアルな出来ですね。

わが国で義足が戦傷者に与えられた最初の戦争は西南戦争だそうです。
戦傷者に対し、できるだけ元の姿で故郷に帰してやりたい、という意図で、
オランダ製の義手・義足が配布されました。

日清戦争では戦傷というより凍傷や栄養不足で手足の切断をした負傷兵に
昭憲皇后陛下はお心を傷められ、

「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の
別なく、人工手足を」

との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、
敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
捕虜を含めて、義手、義足、義眼がすべての負傷兵に与えられました。

ここにある義足は、そのうち陸軍兵に御下賜されたもののひとつです。
このころは義手・義足は装飾としてのものでしたが、この後、
日露戦争のころにはそれらに機能的な仕組みによって
日常の動作ができるように工夫されたものが開発されるようになります。



左側の陸軍軍装は、阿南惟幾大将が着用していたもの。
右側は陸軍中将の正装です。



第20師団を率いてニューギニア戦線でオーストラリア軍と戦い、
そこで散華した小野武雄少々の遺書がありました。

同地で終戦を迎ええたとき、当初25,000名だった兵力は、
飢えとマラリアにより生還できたのはわすか1,711名でした。

 
右の大越兼吉中佐は日清戦争の奉天会戦において、伝令が負傷したため
自らが伝令となるも、腹部に銃弾を受け、自決をしております。
書翰(しょかん)というのは手紙の意です。



東京裁判ではこのように大きな地図が何度となく審理に用いられました。
これは、マッカーサー率いるGHQが、日本地図株式会社 (当時)に注文したものです。



前もお見せしましたが、降下始めの直後だったので、ついまた撮りました。
海軍落下傘部隊はメナド・セレベスに降下して戦果をあげています。 

インドネシアには昔から、

「我々を白い人の支配から解き放つ人々が白いものをかぶって空から降りてくる」

という言い伝えがあった、ということは一度ここでも書きましたが、
まさにこの瞬間のことだったのです。インドネシアの霊能者有能。 

 

マレーの虎こと山下奉文大将の手紙。
前回、山下大将の裁判と処刑を通していたく感銘を受け、日本人に対して
畏敬の念を持つに至ったケンワージー憲兵隊長の話をしましたが、
山下大将の人間の器の大きさに心打たれた人間は彼我双方に多くありました。

たとえば、東京裁判で日本人被告の弁護をしたジョージ・ファーネス大尉もその一人です。 

この達筆であるだけでない、格調高く流麗で気品ある筆致を見ても、
山下奉文という人のただならぬ人間力が感じ取れる気がしませんか。



これも前にもご紹介したけど、もう一度。
比叡が進水式を行った時、記念に配られた文鎮セット。

魚雷、スクリュー、錨に・・昔はわからなかったけど今ならわかる(笑)
砲塔の形をした文鎮までありますね。
ひっくりがえしたウォーターライン模型のうらには「ひえい」と書かれています。



昔東京裁判で裁判官席であった向かって左の窓際には、
このようにかつて軍人が持っていた刀が飾られています。
これは荒木貞夫大将が愛用していた軍刀で、今でも恐ろしいくらい光っています。

226事件の時には思いっきりこの人の話をしましたが、
日頃から若い将校たちを可愛がり、下克上の雰囲気を作る原因になったのも
この人のおおらかさであったという話もあります。
皇道派青年将校のアイドル的存在だったのに、いざ青年将校が蹶起すると
自重を求める立場に鞍替えしてしまいました。

東京裁判では終身刑の判決が出ましたが、恩赦により世に出てから
講演・歴史研究などを行い、講演先の十津川村で客死しました。


さて、1階フロアの展示物見学は約20分間自由に行われ、その後
一同は階段を上って2階に上がりました。
そこには前回もここでお話しした総監部長室すなわち三島事件の現場、
そして旧陸軍士官学校時代、天皇陛下や皇族方の控え室であった
旧便殿の間があります。



これが移転前の市ヶ谷庁舎。
今は正面玄関を入るとすぐに講堂だった部分に接続していますが、
この写真でいうと当時は緑の屋根の部分にありました。

そして、便殿の間は手前の角部屋の2階部分だったそうです。
三島由紀夫が人質を取り、自衛隊員に向かって演説をしたバルコニーと
それに続く部屋は、正面玄関とともに残されました。

つまり、存続と取り壊しの折衷策として、歴史的に意味の深い部分だけを
抜粋してつなぎ合わせたのが、現在の市ヶ谷記念館ということになります。



今回改めて広角レンズで部屋の全景を撮ることができました。
ここであの三島事件が起こったわけですが、移転に際して全てが交換され、
当時のままであるのは窓枠やドア、照明器具、壁の装飾などだけです。



しかし、そのドアには事件の時に付けられた刀傷が残されています。
案内は、「誰の刀傷かまではわかりません」と言っていましたが、
三島一行と自衛官の間で乱闘になった時の状況というのは、

総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、
川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、
すぐさま三島は日本刀・“関孫六”で背中などを斬りつけ、
続いて木刀持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、
「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。
この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、
大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。
この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った
。(wiki)

ということなので、おそらく三島自身の付けたものであると思われます。




最初に幕僚たちが突入し、刀傷が残ったのがこの右側のドア。



写真だけではわかりにくいので、傷の部分を丸で囲んでおきました。

わたしは防衛団体の宴会の時、三島事件のときに警衛として駆けつけ、
このときの乱闘で刀傷を負ったという元自衛官と話したことがありますが、
その方はこの刀傷の乱闘の後、反対側のドアから突入してきたということになります。

三島と盾の会との乱闘で負傷した自衛官は全部で8人でした。



三島が窓から外に出るときに見た同じ景色。
このバルコニーで三島は演説を行いました。
そして、その声をヘリの爆音で消され、自衛官たちに野次られた三島は

おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。
男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、
自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ」

諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか」

と問いかけ、そして絶望して同じ窓から部屋に戻って自決します。



事件後、警視庁から駆けつけた佐々淳行が、総監室に足を踏み入れたとき、

「足元のじゅうたんがジュクッと音を立てた。みると血の海。
赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」


と述懐したということですが、改装後の絨毯も、全く同じ緋色をしています。
同行者の誰も気づいていませんでしが、わたしは前回来たときに
この部屋の窓枠に水をたたえた湯飲みが置かれているのに注目していたので、
今回も同じ場所にそれを探すと・・・・。

今、この湯飲みには水ではなく塩が盛られていました。
水を交換するのを誰が行うかとか、いつやるかについて、
市ヶ谷記念館の管理の中で色々と話し合いが行われた結果でしょうか。



続いてとなりの「宮便殿の間」へと移動。
窓の下の通風孔は地下とつながっていて、夏の暑い間
クーラーのない当時でも陛下に心地よくおすごしいただけるよう、
冷たい空気が送られていたといいます。



窓の上枠にも網目のある小さな通風孔が確認されます。



両側に計二つ。
当時は今のようにクーラーの熱がなかったため、夏であっても
この程度の冷気で十分室内は冷えたものと思われます。

また、この便殿の間に限り、扉は外開きになっていました。
その理由は、

「陛下が御在所の際には、扉から人を迎え入れることはないから」

 

現在市ヶ谷記念館に移設されて保存されているのはこのふた部屋だけです。 
よくまあこれだけ必要最小限だけを残してコンパクトな記念館に作り変えたもので、
その建築と移設技術にまず驚かされます。

二階から玉座を臨むと、説明されたように「同じ高さ」には見えませんでしたが、
ここに腰をかけ、玉座の高いところにやんごとなき方々がつかれて、
それでようやくぎりぎり同じ目の高さになるのかと思われました。


続く。 


極東国際軍事裁判の址と「山河燃ゆ」~防衛省見学

2016-04-25 | 日本のこと



タイトルはここ市谷法廷で行われた

極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。

先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、同じ位置から撮った写真と並べてみました。
大きな違いは天井に埋め込まれている従来の照明以外に、

吊り下げ式の灯りが裁判のために(裁判長の意向だったらしい)つけられていることです。

ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。
報道陣席は右側が海外プレス、左側が日本人報道記者と分けられていました。



この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。

この部分に貼られている壁布は、当時のもので手織りです。



菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)の精緻な刺繍ががあしらわれています。


この組木の床ですが、「からくり箱」で有名な箱根細工の職人の手によるものです。

うちは箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに

そこで放置したまま置いておく人がいて、

いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、泣く泣く処分しました。

玉座につく天皇陛下のためにわざわざ一般用の隣に作られた

天皇陛下専用階段

年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。

江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。



その階段画像もう一度。
といっても、こうやって二つの階段を比べてもその違いはわかりません。
が、実は陛下がそのおみ足を乗せた途端、

膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる

ような仕掛け、つまり、階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し手前に傾斜をつけてあるのだということです。



さて、極東軍事裁判のとき玉座は取り壊され、同時通訳席が作られました。


このときに通訳モニターとして働いた日系アメリカ人、アキラ・イタミと
太平洋戦線で宣撫工作を行っていたハリー・フクハラについて先日書きましたが、
つまりここに設えられたガラスのブースから、イタミは裁判を見守ったのです。
そのときにもお話ししたようにイタミはその後拳銃自殺をしますが、
そのガラスブースから、彼は東京裁判の通訳を通して何を見ていたのでしょうか。


児島襄の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
当初、東条英機の判決通訳をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当通訳に、

「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから、代わってくれ」

と頼み込み、頼まれた方は快く

「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」

と引き受けたので通訳を交代したところ、
その広田が誰もが驚く「デス・バイ・ハンギング」の判決だったので、
わざわざ広田に変えてもらった通訳は真っ青になった、
というエピソードがありましたが、日系アメリカ人の悲劇を描いた
山崎豊子の小説「二つの祖国」でもこのシーンがありました。


「二つの祖国」はいまでは信じられないことですが、NHK大河ドラマ化されました。
「山河燃ゆ」、この配役、今見るとすごいです。

天羽賢治(松本幸四郎)天羽の父(三船敏郎)母(津島恵子)
天羽の弟1(西田敏行)戦死する弟(堤大二郎)
梛子(島田陽子)チャーリー(沢田研二)天羽の妻エミー(多岐川裕美)
天羽の妹(榊原郁恵)天羽の日本の恋人(大原麗子)


東郷茂徳(鶴田浩二)昭和天皇(高橋昌也)

弟の恋人マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)

中華料理屋の娘(アグネスチャン)


日系1世のクリーニング屋のオヤジに、三船敏郎って・・。

最後の三人は原作には全くでてこないキャラクターで、単なる顔見せですが、
このケントギルバートの記者の設定がすごい。

戦艦大和の建造を探る中で右翼の青年に暗殺される。
彼の暗殺後、賢治も日本から追放されて入国できなくなる。

まあ、当時戦艦大和の建造をアメリカ人が調べちゃまずいかもしれんね。

しかし皆さん、これはこれで(笑)観たくありませんか?


なんでも当時「山河燃ゆ」は「史上最低の大河視聴率」と言われたそうですが、
それでも平均視聴率21.1%、最高視聴率30%。

同じ燃ゆでも「花燃ゆ」がこの度歴代最低視聴率を更新したため、今となっては
この「山河燃ゆ」など、歴代ワースト20位以内にも入ってきません。


映画でもいいから是非一度、変な改変なしで「二つの祖国」を
映像化してくれないかなあとわたしはずっと思っています。



冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。

これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で

「昼のように明るく法廷を照らすこと」

とされたので、そのために急設した灯です。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。



こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。



しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、

クーラーがここには備わっていなかった

のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
だれてしまった時期があった、と児島襄の「東京裁判」には描かれています。



これは前回の見学の時の写真ですが、この前から2番目の長椅子の角の部分。
ここに証言台がありました。


各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。

ここに・・・。

さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。



極東国際軍事裁判は、東條英機らA級戦犯7人の絞首刑という
驚愕すべき厳しい判決が下されました。
この写真は最終判決を聞いたのち正面から出てきた被告たちです。



今市ヶ谷記念館となっている建物の正面5段の石段の上でこの写真は撮られました。

南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者だった人々。
カメラの放列の前に立つ様子は悄然とした様子はなく皆堂々として見えます。

東条英機の左斜め下が木戸幸一、壁際で一人だけ左を見ているのが荒木貞夫。
海軍大臣だったことで訴追された嶋田繁太郎大将は南大将の右上の粋なコート姿。
この被告のグループの中で英語が堪能であったこともあり、米軍との折衝を行うなど、
リーダーシップを発揮していました。


左に立っているMPは、


オープレー・S・ケンワージー中佐。

市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けています。

「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」

二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。

それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。

判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
被告たちは相談して、彼に全員の揮毫を贈呈しています。



ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。



わたしたち日本人との関わり合いで、
パル判事は偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。

決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。


パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が戦後の日本に膾炙し、
同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは

今よりさらに遅れたであろうことは、火を見るより明らかだからです。

しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。

2009年と言いますからごく最近分かったことですが、パル博士は
休暇中の裁判官の穴を埋めるために、短期間裁判官代行を務めただけで、

インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。

全体的にこの裁判は事務手続きにいい加減なところがけっこうあり、
一番ひどい例は用意された被告席に全員が座れないことが分かった時、
二人(陸軍大将だった阿部信行と226で青年将校たちに担がれた真崎甚三郎)
を訴追しないことにして帰らせたりしています。

パル判事の人事も国内手続きのミスと言うべきだったのですが、

ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。


このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。




この写真は珍しくカラーですが、誰かの(処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。

証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。




写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。

森山真弓元法務大臣。

森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。



翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し、官僚をへて政治家となり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。

どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。

「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓推奨とか、
なんだかフェミ臭い政治家でしたが、ご飯くらいは炊けたんじゃないかな(適当)





前回の防衛省見学ツァーの記事からも抜粋再掲してお送りしました。

続く。



 


舞妓さんの花簪〜京都・旅淡シリーズ

2016-04-24 | お出かけ

京都にはなんども来ていますが、高瀬川沿いに歩いてみたのは初めてです。




「サクラの仲間」・・・・・・

ソメイヨシノでないことはわかった。しかしあとはわからない。
というわけで「サクラの仲間」。
別にこれならわざわざ札をつけることもないと思うがどうか。




「サクラの仲間」が満開です。



河原にいきなりあった「友愛」の石碑。
民主党と鳩山のせいで、胡散臭さしか感じねー。(笑)



さきほどの「サクラの仲間」とはまた違う「サクラの仲間」。
(もう、すべての種類を『サクラの仲間』で乗り切る気満々)



元和キリシタン殉教の地、と書かれています。
日本のキリシタン弾圧事件として大きなものは三つあり、「元和キリシタン」事件は
幼い子供を交えた50名が火あぶりにされるという大規模なものでした。



江戸幕府のキリシタン弾圧は慶長17(1612)年に始まりました。
翌年には京都にも波及し、二回目の弾圧は元和年間に激しくなりました。
「元和キリシタン」の名前の由来です。

豊臣秀忠はキリシタン投獄者に対し老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ、
元和9年(1623年)10月31日、52人が大八車に積み込まれてここに運ばれ、
この写真の正面橋から下流を望む河原で一人残らず処刑されたといわれています。

元和キリシタンの殉教:橋本ジョアン、テクラとその子供たち




少しその辺を一周しただけでこんな歴史の痕跡が残っているなんて、
さすがは京都としか言いようがありません。
宣伝のつもりなのか放置してあるのか、正面橋のたもとにはお寺の鐘が・・。



カメラを持って写真を撮って歩いている人もたくさんいました。
ところで橋の向こうにあるいかにもな建物はなんでしょうか。



なんでもインターネットで調べられる便利な世の中になりました。
「本家 三友」とありますが、ここ、京都に残るお茶屋さんで、
いまだに営業を行っているそうです。

お茶屋、というのは芸妓を呼んで客に飲食させる店という定義があります。
料亭との違いは、料理をそこで作るか、仕出しを呼ぶか。
芸妓さんは料亭でも呼べますが、いったんお茶屋を通すことになっており、
花代(芸妓と遊んだお料金)は後日お茶屋に支払うことになっています。

よく言われるのは京都のお茶屋は一見さんお断り。
だから、いくら中国人観光客が所望しても、一般的にはお茶屋で芸妓は不可能です。

ただし、昨今では京都のお茶屋業界も貧すればなんとやらなのか、
外国人向けのお茶屋遊びという企画もあるそうです。
もちろん、中国人の中でもかなりのリッチな人や政府関係者むけだそうですが。

チャン・ツィイーが芸者の役をした「サユリ」という映画がありましたね。
あれを見て、芸者=娼婦だと勘違いした中国人が、このお茶屋遊びで
芸者さんに触ったり着物を脱がせようとするなど信じられない狼藉を働き、
顰蹙を買っているのに締め出すこともままならない、という構図もあるとか。

「粋」などという言葉はおそらく霊的に生まれ変わっても理解できない
文化の人々、ただでさえ、舞妓さんや芸妓さんを呼びとめたり触ったり、
写真を強制して眉を顰められているわけですが、これが超金持ちとなると、
金を出しているのだから何をしてもいい、とさらにやりたい放題に・・。

比叡山より高い京都人の誇りはどこに行った。



ついでですが、銀座の超有名なビルの関係者からTOが直接聞いたところによると、
彼らは階段で腰をかけてものを食う、トイレでは紙を流さずその辺に捨てる、
(掃除の人が日々泣いているそうです)ところ構わずトランクを広げて荷物の整理を始める。

なにより肝心の日本人の顧客がそれを嫌がって来なくなるのが打撃だそうです。



銀座も京都の花柳界も、日本人の中では「敷居の高い場所」であり続けてきたし、
またわたしなど日本のどこかにそういうところがあってもいいと思っていたわけですが、
昨今の遠慮を知らない中国人観光客によって、それらはただの「観光地」へと価値を下げてしまい、
そういう場所を必要とするような層が逃げ出してしまうという現象を生んでいます。

某老舗デパートに来るクレームにも、

「そんなに中国人客が大事なら専用のデパートに鞍替えなさってはいかがか」

というものがあると聞きました。




さて、鴨川沿いの道を歩くことにした、というところからもう一度。



京都の青春。
デートの最中、河原に座って語っていたところ、女の子がいきなり靴を脱ぎ
水に入って行ってしまい、男が慌てる。

「裸足で水に入ったりして危ないでー!」
「うふふ、気持ちいいからトモくんも入り」
「えー、俺ええわ」
「あかんたれやなー」

京都で学生生活をしたものなら誰でも一度は経験・・・しねーよ!



謎の物体。灯篭の土台かなんかでしょうか。



河原の高さにも歩道が整備されているので、ゆっくり散策したい人は
降りて川面を見ながら歩きます。



これも「サクラの仲間」なのですが、
まるで幼稚園でつくるティッシュのお花みたいです。
桜というよりシャクナゲのような咲きっぷりですね。



光源氏のモデルだとかの「源融」さんの在所にあった榎。
苔むした様子を見てもかなりの樹齢だと思われます。 



かなりの樹齢といえばこれも。
京都市博物館の敷地に立っているらしい、この傘型の木は何?
あまりに立派で大きいので目を引きました。



晩御飯を食べるためにハイアット(旧都ホテル)まで歩きました。
おなじみの京都市バス。
全く変わっていないようで時代の流れによって少しずつ変化しています。
最新のタイプはハイブリッド式ですが、時々企画として古いタイプを走らせる、
ということもやっており、そうなるとどこで知るのか「撮りバス」が
どこからともなく現れて、血相変えてバスを追いかけるのだそうです。


なんの世界にも「撮り」っているのねー。



今夜の夕飯はハイアットの和食にしました。



いわゆる懐石風の和食を息子が嫌うので(まあ気持ちはわかる)、
単品で注文できるということを前もって確かめてから来ました。

この鴨のローストはおいしかったです。



鍋焼きうどんを頼んだら、てんぷらと冷凍でないエビが入っていました。



寿司も単品で頼めたため、これに少し付け足して大満足。
それはいいのですが、デザートのフルーツ・・・・。

わたしたちがなんでも三人でシェアしていたためか、
イチゴが6つに切れていたのには驚きました。



石庭をイメージした粉砂糖の上に乗ったブッセ。
これは正直イマイチでした。ふわふわしていてフォークで切れないし。



わたしたちが美味しいご飯に舌鼓を打っていると、
いきなり横に舞妓はんが降臨!
なんと京都のホテル、ディナーを取っている客に「舞妓サービス」を行うのです。
どこぞのお茶屋さんに頼んで毎晩呼んでるんでしょうか。

これは中国人でなくても(笑)嬉しいサービス。
早速お断りして写真を撮らせていただきました。

とりたてて会話はしませんでしたが、
聞いたら色々とインタビューさせてもらえたんでしょうか。

舞妓さんの実態には当方全く詳しくないのですが、彼女はまだ修行中の
いわゆる「半玉さん」ではないかと思われました。
かんざしに「ぶら」と言われる文字通りブラブラがついていて、
これはまだなって1年未満の舞妓さんを表しているということだからです。


彼女のかんざしには桜の花があしらわれていますね。
舞妓が付ける花簪の意匠は月ごとに決まっており、四季の移り変わりを表現し、
その舞妓の芸歴・趣味を反映させるものなのだそうです。



他のテーブルで写真を撮られている舞妓さんの後ろ姿を見ると、
だらりの帯が比較的短いのもそう思った理由のひとつ。

彼女と一緒にお店の人にシャッターを押してもらって写真に収まる客もいました。



さて、明けて翌日。

前日はつい鴨川に靴を脱いで入ってしまっても仕方ないというくらい
気温が高く、まるで初夏のようでしたが、
夜、寝ながらすごい雨音がしているなあと思ったら、朝も降り続いていました。

雨の合間に、任天堂の屋根にはこの辺にたくさんいるらしいカラスが集まって羽繕いしています。



8時に朝ごはんを運んでもらうように注文しておいたら、
若い男性が雨の中これだけのものを持ってバイクでやってきて
ちゃんとセッティングして行ってくれました。
煮豆や御新香、ぬたなどいかにも京都の朝ごはんという感じ。

焼き魚やましてや納豆などというものは決して付いてきません(笑)
(関西人、特に京都人って納豆が嫌いな人が多いのです)
味噌汁のかわりにポットに入れられた薄いだし汁を、お椀に注いでいただきます。

わたしは関西で育って京都の薄味には馴染みがありますが、
知り合いの東北人など、京都出身の奥さんの実家に行くと
何を食べても「味がない」と感じるのだそうです。


これらは料亭の仕出しなので、宿泊費は結構なお値段になってしまいましたが、
昨今、京都のホテル代は高騰しているので、三人で泊まったと考えると
町屋の宿泊は決して高すぎるというわけではありません。
朝食を外に食べに行くつもりなら、ホテルよりも安いくらいです。



メッセージを書くノートをパラパラと見てみると、中国語のメッセージもありましたが、
ほとんどが台湾からの観光客でした。

というわけで初めて経験した京都町屋の宿泊、皆様にも熱烈お勧めします。


京都 町屋の宿


花籠京都

 


「マイバケットリスト・ニンテンドー」京都・旅淡シリーズ

2016-04-22 | お出かけ

さて、わたしたちが京都駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
町屋を改装したお宿のオーナーに道を聞きながら走っていたのですが、
小路に入ったとき、

「今任天堂の横きてるんやけど。え?どんつき(突き当たり)の右?」

と言ったのをわたしは耳にしました。
どんつき・・・京都やねえ・・・え?任天堂・・・・?
今や世界に有名な日本の企業のひとつ、おそらく子供から大人まで 
その名を知っている人間の数で言えばトップではないかと思われる
「ニンテンドー」がここに?

前に京都に来た時、南区の本社を息子が発見したのですが、
ここにも何かあるのかな、と思って降りてから確かめると、



あったよ任天堂旧社屋が。


旅館の真向かいには、なにやらレトロなレンガ造りのビルが。
任天堂は、1889年、ここで花札の製造業を興しました。
1947年に創業者の息子が「任天堂骨牌株式会社」という会社にしたというので、
おそらくですがそのときに建てられたのではないでしょうか。



誰に見せるつもりなのか全くわからないところに「任天堂」の立派な看板が。

「ニンテンドーって変な名前」

とアメリカ人の子供などは思ったりするそうですが、この名前、
当社が花札製造業であったため、創業者の息子、山内溥氏が

「運を天に任せる」

という意味のこの名前を考案したのだそうです。
創業時は個人営業だったため会社名などはありませんでした。

しかし、現在の社業もまた、「運を天に任せる」という意味では同じ側面を持つ
ゲームを扱っているんですよね。



創業者が山内氏ということで「山内任天堂」。
この社名に変える前には「丸福」だったので、そのときの
トレードマークである丸に「福」はそのまま残しています。

一番下には「京都正面大橋西」とありますが、その「正面橋」とは

ここに来るときにタクシーが入っていった、鴨川にかかる橋のことです。
正面橋の道沿いに、「任天堂」旧本社の入り口があります。

 

ところで少し不思議なのですが、そのまま任天堂前を通り過ぎると、
あの「高瀬川」が流れています。
そこに架かっているこの橋の名前もどうやら「志よめんはし」、
つまり「正面橋」のようなのです。 

この「正面」というのは、地図で見ると「お東さん」、東本願寺の正面から
東山の方向にまっすぐ伸びているのが「正面通り」なので、
どちらの橋も「正面橋」ってことになっているみたいです。
「鴨川の正面橋」「高瀬川の正面橋」で区別するんでしょうか。



ちなみにこの正面通り、間にお寺やなんや障害物があって途切れ途切れですが、
とりあえずその延長にある道はすべてそう呼ぶようです。 




今では任天堂は「ニンテンドー・オブ・アメリカ」があるくらいですが、
当時も輸出を行っていたようです。



トレードマークの「丸福」が窓の外ワクにあしらってあります。
どこをどう見ても錆びた形跡がないのですが、よっぽど長年手入れしてきたのでしょう。
この社屋、驚くことについ最近、といっても16年前ですが、
2000年まで使い続けていたようなのです。
こう見えて中は結構改装が行き届いて近代的だったのかもしれません。



チェックイン後、わたしたちは自転車でその辺を探索することにしました。
ところが、二台ある自転車のうち一台のサドルが高すぎて
(おそらく前の宿泊者の身長は190センチ以上あったと思われる)
調節する道具も見つからなかったため、息子が乗ってわたしは歩きました。

息子は、撮った写真をすぐさまインスタグラムにアップしています。



わたしたちが写真を撮っていると、欧米系の白人男性が一人でやってきて、
やはり熱心に写真を撮っています。
ガイドブックにおそらく「ニンテンドー発祥の地」として載っているのでしょう。



任天堂前から歩き出すと、すぐにわたしが目の色を変える博物館がありました。

「眼科・外科医療器具歴史博物館」

ただし、見学は前もってメールで・・・ってこんなの知らんかったし。



実際に奥沢眼科というのがあった場所みたいですね。
なおさら見てみたいじゃないかー。



そこからすぐ、高瀬川にぶつかります。
ここを上流に向かって川沿いに歩くことにしました。



息子の国語の教科書に載っていたので「高瀬舟」を読んだばかりです。
高瀬舟に乗せた罪人を護送する役目の役人と、弟を殺して
なおかつ晴れ晴れとした顔をしている不思議な罪人との舟の上での会話。

医師である森鴎外が安楽死を扱ったこの短編は、安楽死の是非を
問うというより、むしろ作者の肯定をより表しているように思われました。

そして改めて読むと、特に高瀬舟が川を下っていく情景描写の精緻さに魅かれます。

其日は暮方から風が歇やんで、空一面を蔽つた薄い雲が、
月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、
川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。
下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、
只舳
に割かれる水のささやきを聞くのみである。(高瀬舟)

この日は奇しくもこの情景に描かれたような、初夏を思わせる一日でした。



京都の街はほとんど角ごとにお地蔵さんがあります。
昔のままの姿のこともありますが、このようにケースで囲われたものも。



早速廃墟マニアの血が騒ぐ物件ハケーン。
廃墟なのに住人の使っていた簾やカーテンがそのままあるのがたまらんわー。

こういうところが買い上げられて町屋旅館になるんでしょうね。



高瀬川にはあちこちに人が往来するための橋が渡されています。
大きな橋のところまで歩けばすむことなのに、京都人は案外いらちです。



なんと、このお風呂屋さん現役です。
自転車が止まっていますが、京都は学生の街でもあるので、未だに
お風呂のない下宿暮らしをする学生もたくさんいるのです。
夜になったら提灯は灯るのでしょうか。




高瀬川って、人工の川だったってご存知ですか?
江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、
京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削されたのです。
大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられました。

ここは昔「船回し場」だったところで、昔はもっと広かったそうです。
なんか逆みたいですが、ここを通行する舟が「高瀬舟」だったことから、
川の名前が後から「高瀬川」になりました。



任天堂本社と同じ時代の雰囲気を持つ当時はモダンだった長屋。
今は廃屋となっているようなので、おそらくこの共産党のポスターは
誰にも
許可を取らずに勝手に貼っているんじゃないでしょうか。

各地で前回の選挙の時に起こった開票の不正や沖縄の米軍基地の前で
犯罪行為を繰り返すこの手の人たちですが、
憲法を守れと人にいう前に、まず法律を守れとわたしはいいたい。



それはともかく、その建物の反対側がこれ。
うーん、このシュールな玄関の形状、いいねいいねー。
どっちからでも外に出られて便利かもしれない。
あるいは中は2軒に分かれていたりとか?



そしてこの角に置かれた車避けの石はさらにシュール。
京芸の学生でも住んでいたのかな?



源融(みなもとのとおる)という人ご存知ですか。
わたしも知らなかったのですが、どうも光源氏のモデルだったらしいです。
ということはきっと男前だったってことなんでしょうね。

その男前がここに「六条河原院」というのを建てて住んでいたそうです。
なんでも夕顔と一夜を過ごしたというのがこの「河原イン」じゃなくて
「河原院」であった、という設定なんだとか。

源氏オタクなら聖地巡礼で訪れるべき場所でしょう。(適当)



鴨川沿いにひっそりと残る地蔵跡。
祀られている様子はないですが、取り壊されもしないでここにあります。



五条の橋を「牛若丸と弁慶の像」を見ながら渡り、
鴨川沿いに南に下ることにしました。


ところで、息子がインスタグラムに任天堂の写真をあげた途端に、
こんなリプライが来ていたそうです。

「マイ・バケットリスト!」

バケットリスト、すなわち一生のうち一度は行ってみたい場所です。
なぜ「死ぬまでにやりたいことのリスト」が「バケツリスト」かというと、

首を吊るときに立っているバケツを蹴るから、らしいですね。

それはともかく、世界的にはここを「聖地」としてバケットリストに入れる
熱心な信者さえいる任天堂も、京都人にかかると


「へえ、そいうたらそんな会社もありましたかなあ」

という感じで冷ややかにみられているのだそうです。
理由、お分かりですか?

それは任天堂が任侠が仕切っていた賭場の花札を作っていたということにあります。
そないな「下賎なもん」で身を起こした素性の悪い会社、いくら有名になったかて
京都の会社の代表やゆうてもろたら困ります、というところかもしれません。

ちなみに京都人的に「京都企業」として最も誇るべきはというと、
それはあの「島津製作所」なのだそうです。

創立は1875年、決して京都基準では「由緒正しい」というわけではありませんが、
日露戦争の三六無線の電池に多大な貢献をしたり、昨今では従業員から
ノーベル賞を出すなど、(田中耕一氏)超有名優良企業であり続けており、
なにより創業者が京都出身でありながら大名家の薩摩島津の名と家紋を拝領した、
というあたりが、権威主義の京都人を喜ばせるのかもしれません。




私は怒っている。”高市発言”を捏造する人たちに。

2016-04-21 | 日本のこと

ここのところ、震災関連のニュースに気を取られて更新の間が空き、
さらには頂いたコメントにお返事も滞りがちですが、
エントリ製作しようとしても、あの東北大震災のことを考えると
こちら(関東)で九州のことを高みの見物を決め込むような
呑気なタイトルでお話しするのがはばかられたと御理解ください。

書きたいテーマはたくさんあるのですが、今パソコンに向かっても
「それどころではない」感が罪悪感のようになって押し寄せ、
どうしてもこのような内容になってしまいました。

高市大臣の発言に対する野党とマスコミの狂乱ぶりについては
いろんな人が意見を述べているので後追いになりますが、
先日ポストに入っていた一冊の通販雑誌を見たことから
これはわたし自身の理解のためにも一度ちゃんと検証するべきだと思い
取り上げることにしました。 



さて、前からそうだそうだとは思っていましたが、左に傾きすぎて、
昨今では完璧にオルグ雑誌(通販はおまけ)に成り果てた通販生活。

震災後特に原発ゼロを前面に打ち出すオルグ雑誌の実態を隠そうともしなくなり、
菅直人さんにインタビューして「あの時の苦労」を語ってもらい労をねぎらう、
などという目眩のするような読み物を載っけているうちは笑って見ていましたし、
左翼の陣容とその主張を知るためにも、むこうが勝手に送ってくるうちは
これを拒まず通販も時々利用していたわけですが、今回、この表紙をみて、
わたしは
「ああもうだめだわ」と限界を感じ、電話を取り上げて
VIP専用ラインのオペレーターにカタログの即時停止を申しつけました。

makitaの掃除機紙パックや老舗のおかゆなど定期購入していたせいで
いつの間にやらわたしはVIP会員にまで出世していたんですけどね(笑)

「何かご不満な点でもございましたか」

丁寧に聞くオペレーターに、

「原発ゼロまではまあこういう考え方もあろうと思ってみてられましたが、
今回はもうダメですね。限界でした」

「それは誠に申し訳ありませんでした。
カタログはお送りしませんが、VIPメンバーにお名前を残してもよろしいでしょうか」

あー、別にどうでもいいです、ってわけでもないですが、オペレーターと
カタログハウスの思想について議論したり況してや文句を言う筋合いでもないので
かまいませんよ、がんばってくださいねと心にもないことを言って電話を切りました。

いやーこれ・・どう思います?
ISISの人質事件に次いでクソコラ大会にもなった「私たちは怒っている」。
岸井成格、田原総一郎、鳥越俊太郎ら煮しめたような左翼の言論人が
高市総務大臣の電波停止発言が「憲法と放送法の精神に反している」
としてみんなで怒っておるわけです。

通販生活の2016年夏号の凄まじさはこれだけではなく、なんと
メインの読み物は

『自民党支持の読者の皆さん、
今回ばかりは野党に一票、(ココ超大文字)
考えていただけませんか」

ですよ?



一番先に出てくるのが、橋下さんにコテンパンにやられて涙目だった
山口二郎(「安倍、お前は人間じゃない!叩き斬ってやる」の人)、



半世紀前にはお色気DJ()として一世を風靡し「レモンちゃん」と呼ばれた
フェミ活動家落合恵子、(すっぱいという意味では今もその存在感は現役)
毎年経済崩壊を予想している浜矩子(今回の落合恵子との対談では
『安倍政権が支持されているのは経済がいいからだけど、経済成長をすれば

幸せになれるという幻想からそろそろ目覚めましょう』だそうです。
それならもう経済学者なんていりませんよね)などの豪華執筆陣。



そして極め付け、なんと驚くことに「どこにでもいる政治的無知な劣等生」と
ソフトバンクの副社長にレッテルを貼られたシールズの奥田くんが
『投票したい野党がないと諦めている場合ではありません』とありがたいご意見を・・。

じゃー、自民党以外のどこに入れろっていうのかね奥田君(とカタログハウス)。


とにかく通販生活にもう今回で愛想も尽き果てたのですが、今日はこの、
周回遅れでわざわざ「私たちは怒っている」を表紙にしたセンスのなさを
論うついでに、彼らの高市発言への非難がいかに的外れで
わざと論旨をずらしてただ政権批判しているだけなのか検証したいと思います。

わたし自身かなり気が進まないだけでなく、
なぜ今のこの時期に、というご意見もございましょうが、
熊本の地震におけるマスコミ各社の態度、そして
この件で高市総務大臣を叩いている民進党始め野党の、地震を利用して
政権を叩こうとしている下心が眼にあまったからです。

たとえば、関西テレビがガソリンスタンドの横入りをツィッターで拡散されて、
非難が集まったとき、それを身内が嘘の情報で庇い立てしたり、仕返しに
(関係者かどうか確定してませんが多分)ツィートした人の個人情報を晒したり、
というニュースもありましたしね。

思うに、高市大臣への非難は、結局はこのガソリンスタンドの件と同じ構図です。
自分たちはやりたい放題やる、しかし自分たちを非難することは許さない、
政権には野党と協力して発言者に『恥ずかしい思いをさせる』(ホントーにこういった)
個人のツィートには情報を晒して『恥ずかしい思いをさせる』・・・。

いやはや、電波ヤクザとはよく言ったものです。
これではマスコミという権力の監視は一体誰が行うのですか。

さて、この電波雑誌(電波の意味違い)、この表紙に書かれたことを読んでみましょう。

「(高市大臣は)電波停止を命じる可能性について言及した。
誰が判断するのかについては
『総務大臣が最終的に判断することになると存じます』と明言している」

これは酷い印象操作だとわたしは思いましたね。
まるで高市大臣が恣意的にその法律を行使する意思を示しているみたいです。

では実際はどうだったのでしょうか。
この件でいろいろ調べてみたのですが、問題とされた答弁の前後を
曲解することなく抜粋するのが一番わかりやすいと思いましたので、
長くなりますが書き出してみます。
奥野というのはこのとき高市大臣に質問した民主党の奥野総一郎氏です。


奥野 最近、古舘伊知郎、岸井成格、国谷裕子など、
いわゆる政権にものを申してきたとされる
キャスターが降板となった。


たとえば『報道ステーション』では、一昨年の衆議院選挙のときに、
「アベノミクスの恩恵が富裕層にしか及んでいないかのような報道をした」
として、自民党から名指しで文書で注意がいっている。
『NEWS23』に対して、安倍総理が出演した際に、アベノミクスに批判的な
街の声が紹介され「街の声の実態が反映されていない」と指導の文書がいっている。

(批判的な声ばかりが紹介、と言っていないのに注意) 

昨年は、テレビ朝日の古賀問題、あるいは『クローズアップ現代』の問題で、
自民党の幹部が、テレビ局に対する停波、放送の停止について言及した。

昨年9月16日の『NEWS23』で、岸井アンカーが、
「メディアとしても安保法案の廃案に向けて、声をずっと上げ続けるべきだ」
と主張したことに対し、「放送法順守を求める視聴者の会」が
「一方的な意見を断定的に視聴者に押し付けることは、放送法に明らかに抵触する」

と質問状を送り、これが降板のきっかけになったという報道もある。
 
籾井会長は放送事業者として、公共放送の代表として、
「政治的公平性は1つの番組の中で求められている」のか、
「放送番組全体、NHKの番組全体で求められているのか」どうお考えか。


籾井勝人氏
 それぞれの番組の中でバランスを取っていく。


奥野 放送法4条1項の2号、政治的公平性は誰が一体判断するのか。
会長が政治公益性が取れてないと判断した時に、
編集権を行使して、変更を命じることはあるのか?

籾井 実務は分掌されているので各役員並びに現場の局長が判断する。

奥野 その権限でバランスが取れていない時は(会長権限で)変えることもあると理解する。

(・・・・えっ?)

バランスが取れている、取れていないの基準は何か? 誰が判断するのか?

籾井 その放送法に則って判断をする。つまり最終的には視聴者である。

奥野 それは視聴者なのか? 会長か会長の腹心が判断するのではないか? 
放送法の理解が間違って居る。

籾井 放送法に則ってバランスをとることを心がけるが、
万が一それに外れた場合もわたしが裁くのではなく、判断は視聴者の反応に委ねる。

奥野 個々の番組で政治的公益性が保たれているかどうかを最終的に判断するのは
最終責任者の会長ではないのか?極めて無責任な答弁だ。



(高市大臣に)
「放送法遵守を求める視聴者の会御中」として高市大臣の回答がなされた。
「基本的には、1つの番組というよりは、放送事業者の番組全体を見て
判断する必要がある」というものである。

しかし
「殊更に特定の候補者や候補予定者のみを、相当の時間にわたり
取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に
明らかに支障を及ぼすと認められる場合」

「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、
一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、
それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、
当該放送事業者の番組編集が、不偏不党の立場から逸脱している場合」

には政治的公平性は確保されていないと考える。

これは従来の答弁を変更したということか?

(変更したというより、全く別のカテゴリの話題だと思うんですがわたし。
こんなあほな質問に真面目に答えなければいけない大臣って大変・・。
ましてやこの議員、これで誘導尋問しているつもりですからね)


高市早苗氏 政治的な問題を扱う放送番組は
「不偏不党の立場から特定の政治的見解に偏ることなく、
番組全体としてバランスの取れたものであること」であるべきで、
「1つの番組ではなく事業者の番組全体を見て判断すること」である。

民主党政権時代も同じ答弁がなされている。
NHK会長は放送法第51条において、責任を果たしていただきたい。


 まったく同感だ、さきほどの会長の発言は職務放棄である。
ところで補充的答弁とは解釈が変わったのか。事情が変更したのか。

高市 事情の変更はない。
わかりやすく整理をしていくという意味で申し上げた。

奥野 電波法174条では総務大臣の権限として、放送を止めることができる。
個別の番組の個別の内容しだいで、業務停止処分はありうるのか。

高市 電波法上はその規定は存在する。
しかし実際は、放送法第4条に基づいた業務改善命令ですら行われたことはない。

奥野 特定の政治見解のみを取り上げて、相当な時間繰り返すというのは
極めて曖昧な概念だ。相当な時間って一体誰が判断するのか?

(これ、高市大臣に”大臣権限で停波もありうる”と言うように誘導しているんですね。
やっぱりこれも”日本史ね”と同じで、マスコミとのタッグで揚げ足をとるため
”仕掛けた”疑いが
このセリフで濃厚になったとわたしは思いました)


政権に批判的な番組を流したということで、総務大臣が恣意的に業務停止や、
番組を潰したり、キャスターを外されるということが起こりうるわけだ。
”一方的な政権批判は気に食わないから第4条をたてに停波もある”とはっきり言え。

(この部分、あまりにも発言者の頭が悪くて言ってることが無茶苦茶でしたが、
結局こう言いたいんだと解釈しました。原文はどこかで確かめてください。
つまり何としてでもこう言わせて言質を取るために誘導しとるわけです)

高市 民主党政権時代から第4条は法規範性を持つものだという位置付けだ。
その法規範性でいうと、もしある放送事業者が偏向報道を繰り返し、
それに対して
行政指導(実際には要請)をしてもまったく改善されなかった場合にも、

罰則規定がまったく行使されない、という約束はできない。

(ここで高市大臣は、規範性を担保するために法律には罰則を伴う、という
法治国家の大臣として当たり前のことを、聞かれたから答えているに過ぎません)


奥野 今回、この解釈の変更で、個別の番組についても責任を問われるということか。

(さすがは元民主。奥野選手、まったく人の言うことを聞いておりません)

自民党幹部が、個別の番組の停波について言及したそうだが、
それは報道の萎縮を生む。だから発言撤回しろ。

キタ━━━(;´Д`);━━━━!!!


(いや、そういう法律がある、という発言の何を撤回しろというのか。

マスコミがやりたい放題やって椿事件のようなことをまた起こしても、
法の執行は絶対にしないと約束しろ、とでもいうんでしょうか)

高市 撤回はしない。

将来にわたってよっぽど極端な例、放送法の、それも法規範性があるものについて、
何度も行政のほうから要請をしても、まったく遵守しないという場合には、
停波の可能性がまったくないとは言えない。

(全文読んでいる人にはなんの不整合もないこのラインですが、まさにこの部分を
取り出して言質を取ったつもりで騒いでいるのが『怒っている』のおじさんたちと
ガソリーヌ山尾を中心としたミンスィン党とカタログハウスなのです)



奥野
 今までそういう指導はBPO(放送倫理・向上機構)がやってきた。

BPOが改組されて、こうした問題を扱う検証委員会があるのだから
総務大臣が行政指導をすることはおかしい。

(公衆の面前で中指立てていた人が委員だったりするBPOね。
お友達同士でなあなあでやって監視の意味があるの?)



高市 BPOはNHKおよび、民間の放送事業者の団体だ。
総務省には行政としての役割がある。

昨年4月のNHKの事例(クローズアップ現代のやらせ)では放送法4条に
明らかに抵触する虚偽の放送が行われており、その後出された改善案についても、
誰が、いつ、どのように、という具体性に欠けていたので、行政指導を行った。

(これに対しNHKは約5時間半にわたり監査員の『文書警告』の受け取りや
局への
立入をを拒否した)

しかし、行政指導は法的に処罰するものでもなく、相手を拘束する権限もない。

こちらからの要請に放送事業者の協力を仰ぐという形だ。

奥野 停波とか業務停止命令を振りかざせば言うことを聞かざるを得ない。
行政指導もするべきではない。
キャスターの交代も結局そういうことなんだろう。そうだな?(ドヤ顔)


『さあ、これで責めるネタゲットじゃあ!』

という内心の奥野の声が聞こえてきそうですね。
案の定この後、高市大臣の発言をめぐって野党とマスコミは大騒ぎしました。

ところが、辛坊治郎氏が、この件についてこんなことを言っています。


【辛坊治郎】 言論弾圧報道の嘘と高市発言の経緯を辛坊治郎が懇切丁寧に解説w 【高市発言】


長すぎて観る気になれん、という人のために3行でまとめると、

「こういう答弁は官僚が前もって質問通告に応じて答弁を書くもので、
民主時代に平野大臣に同じ質問がされているのであらかじめ答えがわかっている。
民主はこの想定された答えを高市大臣に言わせて言論弾圧だと言質を取った」

ね?

わたし、これを見たのは何を隠そうたった今なんですが、辛坊さんの意見、
わたしと全く同じですよね。
「あちら側」に与せずちゃんと物を言ってくれる人がマスコミにいてよかったよ。
遭難事件の時は厳しく言いましたけど。ま、あのときはあのときってことで<(_ _)>

それにしても、こんなお粗末なネタでみんなが騒ぎ立てるなんて、
辛坊氏に言わせると「頭おかしいんじゃねえか」ということになりますが、
こういうことをやっている人たちって故意犯、誤用の方の「確信犯」なんですよね。

通販生活ももちろんそう。
周回遅れとはいえ、表紙にバーン!と載せれば、ネットを見ない人
(うちの母とか)
なんかはとりあえず騙せるはず、と思っているので、
印象操作で一人でも多く「自民以外に投票」するよう洗脳できればいいんです。
高市発言の真偽なんて検証されては逆に困るんですよ。

わたし、この通販生活が届いたとき、改めてその悪質さにショックを受け、

まず世間ではこの夏号のことをどう言っているか調べてみたのですが、
不自然に「すごい!ここまでするか」と自画自賛する?ツィッターとか、
この号に寄稿している人ご本人のツィートしかでてこなくて(笑)

まあ、普通の人ならこんなのわざわざ買って読まないよな。

悪質なのは、高市大臣の件のようにあえて物事を検証せず、

特定の政党の主張する偏向した内容だけを取り上げつつ、
通販を餌に無自覚な無党派層を刷り込もうとしているというところです。

ていうか通販の記事抜きでだれがこんな雑誌買ってくれるか一度やってみろっての。


民主→民進党も、自民を叩くことだけが存在意義の泡沫野党に成り果てました。
ブーメランが幾度刺さりまくっても立ち上がるそのガッツだけは評価できますが、
今回の左翼言論人を取り込んでの高市叩きはだいぶ無理があります。

国民は覚えていますよ。

おたくの三日震災復興大臣が、東北で知事相手にゴーマンかましまくった挙句、

「書いたらその社は終わりだから」

と報道陣を恫喝したことを。

また輿石東幹事長(当時)が番記者とのオフレコ懇談で

「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ! 
政府は電波を止めることができるんだぞ。
電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」

と語ったということがありましたが、 カタログハウスは、
どうしてこの「言論弾圧」に怒らなかったのかなあ(棒) 


ところで、7人の怒れるおっさんたちのその後について。
作曲家のすぎやまこういち氏が代表呼びかけ人を務める団体
「放送法遵守を求める視聴者の会」が、放送法をめぐって、
この7人に公開討論を呼びかけたのですが、結局期日までに
誰からも受けて立つとの意思表示はなく、逃亡したと世間では見られています。

ホームグラウンドでお山の大将みたいに好き勝手言うのは得意だけど、
アウェイどころか討論にすら、7人もいて誰一人勝つ自信がなかったってことですよね。
ここで「視聴者の会」を論破できれば賛同者も少しは増えたかもしれないのに・・。


そもそも本人たち、会見で「政府から直接・間接の圧力を受けたことはない」(岸井氏)
なんてバカ正直に言っちゃってるし。
結局「怒っている」アピールして、世論を焚きつけるだけが目的だったってことでしょうね。

笛吹けど踊ったのはカタログハウスくらいだった(しかも周回遅れ)ようですが、
まあとりあえずがんばってくださいね。





町屋体験と「幸せの黄色い新幹線」〜旅淡シリーズ

2016-04-20 | お出かけ

染井吉野がすっかり終わったある週末、京都に行くことになりました。
人と会う約束で行ったのですが、家族三人の旅であったので、
町屋に泊まるという体験にトライすることにしました。

せっかく京都に来たのだから、京都らしい宿に泊まりたい、という旅行者の
ニーズに応え、最近は町の角角に残る「町屋」、つまり昔ながらの
住宅を改装して一軒の家をホテルとして借りるという形態が増えています。
今回泊まったのはそんな町屋のひとつ。
さて、どんな体験ができるのでしょうか。



新幹線を待っていたら、「回送」と掲示がでてやってきたのは
ご覧のように黄色い新幹線。

「黄色い新幹線なんてあったっけ?」

その場でiPadを検索してみたら、これが「ドクターイエロー」という
異名を持つ、新幹線型点検車両であることがわかりました。
正式名称は新幹線電気軌道総合試験車
通常の新幹線と同じ車両数、重量を再現しており、その役割は

線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら走行し、
新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査線路とパンタグラフを走行しながら
チェックするという特別車両です。

当初口を開けて見送っていたので、ボディを撮り損ねましたが、
黄色い車体にはブルーのラインが入っていました。

なぜ黄色いかというと乗客が間違って乗らないように、ということですが、
ホームにいても戸が開かないので、乗る人はまずいないと思いました。



わたしはこの瞬間までこういうものの存在すら知らなかったわけですが、
このドクターイエロー、
旧車両の時からすでにあったんだそうですね。

写真のタイプは2000年(つまり16年も前)にはすでに導入されていたという
923系で、なんでもその内容は

1号車:通信・信号・電気測定車
2号車:データ処理・架線摩耗測定車
3号車:電源車(観測ドームあり)
4号車:倉庫
5号車:軌道検測車(921形、3台車で短車体)
6号車:救援車(観測ドームあり)
7号車:休憩室

だということです。
うーん、乗れないけど乗ってみたい!特に7号車。

この写真では探照灯の下に赤い光の見えるウィンドウがありますが、
これは前方監視カメラであり、赤い光は尾灯となります。
今映っているのは後後尾となります。




「へー、ドクターイエローって言うんだって」

と話しながらみていたら、後ろの方からどどどどっと人が走ってきました。
皆携帯を構えて、写真を撮るためにホームに群がっています。
なんでも、このドクターイエロー、「幸せの黄色いハンカチ」のイメージからか、

「見ると幸せになれる」

とも言われているのだそうです。
まあそれだけレアだってことでしょう。
わたしだってこの人生で初めて遭遇したくらいだし。

なんでもドクターイエロー、月4回、東京-博多間を2日がかりで往復してるとか。
一日目は東京駅から博多へ向かい、次の日に東京へ帰ってきます。

「のぞみ」停車駅のみを停車して走る「のぞみ検測」が3回、
全駅停車する「こだま検測」が1回の合計4回だそうです(最近の実績より)。


たまたまそのときにホームにいた人しか見られない「幻の新幹線」。
今回世の中にはこの黄色い新幹線の「追っかけ」をしている人たちがいたり、
「ドクターイエローの目撃情報を投稿するサイト」まであるということがわかりました。 

撮り鉄的にもこの新幹線は格好の好餌らしく、この後に発車した
広島行きののぞみに乗って進行方向側の窓から外を見ていたら、
田んぼのあぜ道のようなところに撮り鉄集団がずらっと鈴なりになっていました。

いずれにしても、めったに見ることのできない車両なので、そのとき
ホームにいた人たちが色めき立ったのも当然です。
発車までの時間、「柵から乗り出さないでください」のアナウンスが
なんども流れておりました。

このときのドクターイエローが「定期点検」だったのか、それとも
その前に起こった地震の影響を調査するために臨時運行されたものかはわかりません。




さて、そんなこんなで京都着。
ここ何年か、いつ行っても観光客でごった返している感のある京都ですが、
桜が一段落し、わずかですが喧騒がましになっている気がします。

京都駅からタクシーに乗って、「花籠旅館」というと、

運転手さん、全く知りまへんなー、と言います。
後から知ったのですが、最近雨後の筍のようにこのような
町屋を改装したタイプの旅館が増えているので、多すぎて名前だけでは
どこにあるのかわからないものなんだそうです。



運転手さん、電話で旅館と連絡を取りつつ、五条と七条のあいだにある
(つまり六条?)この「正面橋」から鴨川を渡りました。



「ここですわ」

言われてみれば、門のところに小さく「花籠旅館」と書かれたプレートが。
どうやらこの小道を入っていったところのようです。



そのとき左を見ると・・・
首輪をつけたお嬢さん猫にちょっかいかけていた野良っぽいトラ。
(お嬢さんはすっかり怯えておりました)

この辺は入り組んだ小路なので猫も住みやすそうです。



ガレージの向こうの4軒が並んだ長屋の一番左端が今夜のお宿です。

「昨今はこういうところを旅館にしてしまうのね」

この町屋タイプ、国内旅行者よりも、外国人に人気なのだとか。
普通のホテルは世界どこに行っても同じような部屋ですが、
こういうところだと、まるでつかの間京都人になった気分を味わえます。

旅館の右隣は現在空き家で、右端二軒は居住者がいるのだそうです。



というわけで、4軒長屋の一番端。
こちらが「花籠旅館」でございますえ。
躯体はもちろん長屋ですからそのままですが、内装も外装も
変えられる限りの部分を新しくしています。
オープンは昨年9月ということなのでまだ半年しか経っていません。



部屋の前に立って長屋の右側を眺めると、こんな感じ。
だいたい80年くらい前に建てられた物件だということでした。
お地蔵さんもその頃からあるのでしょうか。
きっちり80年前だとして1936年、昭和11年建築。
そんな古くからある建物に未だに人が普通に住み続けているのが京都です。

大きな地震に遭ったこともなく、小規模の空襲があったとはいえ、
一旦は原子爆弾の投下目標として「効果を明らかにするため」
あるときから爆撃を一切受けなくなったという土地ですから、
こういう戦前からの「町屋」がそこここにいまだ残されているのです。

廃墟マニアのわたしとしては(廃墟ではありませんが)そんな家が
まだ隣に繋がっているこのような家屋に住めるというだけでも大興奮でした。



しかし、いかに廃墟が好きでも、実際に古いままの家では色々と
生理的に辛いものがあります。
昨今の「町屋旅館」は古いテイストのインテリアを残しているものの、
あとは海外から来る旅行客のためにも、設備はホテル並みに整って

とにかく小綺麗で清潔で水回り完璧、というのが基本です。

スケルトンリフォームをしたということなので、古い家屋にありがちな
臭いの問題も全くありません。


土間にある自転車はチェックアウトしてからも4時間は借りることができます。
京都ではよく旅行者が自転車に乗ってうろうろしていますが、
ほとんどがこういう経緯で借りた自転車だったのかもしれません。

土間は左の「客間」と、奥の「台所」に繋がっています。



並びの他の三軒も、このような土間玄関のしつらえなのでしょうか。



入ってすぐの間は、窓際に長い作り付けのデスクがしつらえてありました。
小型のアクオス、そして小さいけど性能のいいBOSEのスピーカーは
Bluetooth対応でこの空間にジャズを流すといかにもな雰囲気です。
もちろんWiFiは完備、息子が速度を測ったらシリコンバレー並みの早さでした。



飾ってある花は、鉢植えも生花も本物です。
百合の花が馥郁たる香りを放っていました。



ここがいわゆる居間兼食堂。リビングダイニングというやつです。
ここにテレビを置かないあたりがいいセンスだと思いました。



居間から廊下を望む障子は雪見障子となっていて、坪庭が臨めます。
まだあまり時間が経っていないですが、もう少しすればツワブキやウルイが
落ち着いて、秋には色づいた紅葉が楽しめるのでしょう。



細い階段ももちろん全て新しく作ったものでした。



階段を上ると、ホールのようなスペースがあり、



その左と右には寝室があります。
この日TOが風邪なのか咳が止まらない状態だったので、わたしと息子が
こちらで寝ましたが、次の日の朝、障子からの光があまりに眩しくて目覚めました。

昔の人は日の出と共に起きていたから無問題?




案内には浴衣完備と書いてあったので、何も持たずに行ったら
どこを探しても浴衣もパジャマも見当たりませんでした。
仕方がないので京都駅前まで車を飛ばし、ヨドバシカメラビルの中にある
UNIQLOで適当なものを買ってきてそれを着て寝ました。

次の日聞いたところ、従業員が浴衣を入れるのを忘れていたそうです。



土間に吹き抜け。
チェックインの時には案内の方が迎えてくれてお抹茶を淹れてくれ、
お勘定をすませて説明もしてくれたのですが、そのときに

「京都の底冷えする冬にはここは寒そうですね」

とつい言うと、

「できるだけ各所にヒーターを置いて対処させていただいています」

とのことでした。
まあ、底冷えと暑いのは京都名物でもあったりするわけですから(笑)
それも含めて楽しむのが京都旅行というものなのかもしれません。



トイレはもともとそうだったのかどうかわかりませんが、
一階と二階に一つづつありました。
で、これが二階のトイレなのですが、夜寝る前に行こうと思い、
左奥にある照明のスイッチをつけようとしたところ、
真っ暗だったので床の段差に気づかず見事に躓きました。
もう少しわたしがドンくさかったら、そのまま両手を
ドアのガラスについて大惨事となっていたかもしれません。
幸いつまづいた反対の足でバランスをとり倒れることはありませんでしたが、
そのときにザラザラした壁に手の甲を擦って怪我をしました。

足元に常夜灯をつけてはどうですか、と次の日お節介ながら提案したところ、
帰ってから女将さん直々のお手紙と共に、お詫びの品が送られてきました。

手紙によると早速センサーを取り付けられたとのことです。

寝巻きの件も、電話では「(ユニクロで買った商品代を)返金いたします」
というお申し出は辞退し、お詫びも一切無用、と告げていたのですが、
お菓子と共に商品券が同封されていたのには恐縮してしまいました。

クレームに対する対応の早さとこの気遣い。
さすが世界の観光首都京都の旅館だと舌を巻いた次第です。




さて、家の中の探検も済んだので、わたしと息子は
TOが来るまでの間自転車に乗って外に出てみることにしました。



 


"DO LITTELE、DO NOTHING" ドーリットル爆撃隊

2016-04-18 | 博物館・資料館・テーマパーク


去年の夏見学してきた空母「ホーネット」艦内の博物館の展示に基づいて
今日は一つのテーマでお話しします。



唐突ですが、皆さん、今日は何があった日かご存知ですか?

1942年といいますから74年前、横浜横須賀を中心に、
アメリカ陸軍の爆撃隊による本土爆撃、
「ドーリットル空襲」があった日です。

 

「ホーネット」博物館はドーリットル隊の説明にわりと力を入れています。
パイロットの控え室には、映画「東京上空30秒前」がモニターで放映され、
そこでドーリットル航空隊が出撃を待っているような演出がなされていました。

というのは、先代の CV-8「ホーネット」はドーリットル空襲の旗艦として
ウィリアム・ハルゼー中将が乗っており、さらにはこの甲板から
ドーリットル隊のB-25が飛び立ったからに他なりません。

パイロットルームだけではなく、ここにはドーリットル隊の記念品が展示されています。
まず、写真のケースに見えるのは陸軍の軍服ですね。
カーキ色の濃淡のジャケットとシャツにベージュのネクタイと帽子。
もちろんボタンは金と、色彩的にパーフェクトなデザインです。
航空隊のクルーには必須のレイバン型サングラスが時代を超越してかっこいい。



冒頭の写真は中央の左が、ジミー・ドーリットル少佐
「パールハーバー」ではボールドウィン兄弟の長男が演じていましたが、
もう少し体重を減らせばかなり似ていたんではないかと思われる配役でした。
周りにいるのが整備員を含む航空隊の皆さんで、右側は飛行長でしょうか。

陸軍軍人になる前は、黎明期の飛行家でもあったドーリットルは、
航空に成績を上げた人物に贈られるハーモン・トロフィー、航空レースの覇者に
贈られるペンデックス・トロフィーをどちらも獲得していますし、
当時の不安定な飛行機で計器飛行の実験を史上初めて成功させたりしています。

学問的にもカリフォルニア大学バークレー校卒業後MITで学位をとっており、
アメリカ人の思う理想的なエリート軍人でもありました。

アメリカでは今日、ドーリットル准将はあの戦争の最大のヒーローのうち一人ですが、
その理由は、「ドーリットル空襲」を成功させたということに尽きます。 

あの爆笑映画、マイケル・ベイの「パールハーバー」でも、わかりやすく

「開戦以来日本に押され気味だったので、アメリカ全軍と
アメリカ人の士気を奮い立たせるため
ガツンと一発東京を攻撃する」


とその意義が説明されていましたが、ここで留意すべきは、この作戦、
「帝都を攻撃した」という事実さえ残れば、実際の被害はどうであっても、その後
色々と戦争が捗るであろうという下心で計画されたということです。

だから後半にもいうように、かなりその戦果は事実を歪めて伝播されました。



しかしとにかく「パールハーバー」について書いたときも同じことを言いましたが、

サイパンもテニアンもまだ取れていなかった当時、アメリカ軍が航空機で
本土を攻撃してから中国に逃げる、
なんて、いろんな意味でリスクが多すぎるわけです。

ルーズベルト大統領としては、これは「真珠湾の仕返し」というアピールを

国民に対してすることが第一の目標だったのですから、
たとえドーリットル隊の命は犠牲になっても、というかそうなったらなったで
アメリカ人はより一層復讐心に奮い立つであろうという下心もありました。

それを引き受けたとき、ドーリットルは自分自身を含め、攻撃隊全員が
生きて帰れる可能性はないかもしれないと覚悟したでしょう。

もし不時着したらどうなるのか」


という部下の質問に対し、

「日本だって文明国だから心配しなくていいい」

とは答えていますが、自分は内心不時着のおそれが出たときには
適当な施設を見つけて自爆することを考えていたようです。
(これは映画のセリフにも採用されており、実際にそう言うか書いたかしたらしい)

そういう、いわば「決死隊」を率いた隊長の名が、アメリカ人にとって

今日現在でもヒーローとして賞賛されるのは当然のことでしょう。




大戦中にアメリカ陸軍航空隊で使用されていたナビゲーションキット。
正副操縦士、フライトナビゲーターの航空士がブリーフィングに使うもので、
この皮のパッドにA4のノートと鉛筆(鉛筆でないとダメ)、
航空地図と必要な飛行機のスペックなどが書かれたマニュアルが入っていました。
パッドとして膝に置いて使えるように堅牢な作りとなっています。



奥の分度器みたいなのはマーク・トウェイン式爆撃照準器
アメリカ軍がトップシークレットで運用していたノルデン照準器については
以前このブログでもご紹介したことがありますが、ドーリットル隊は
この作戦に際し、ノルデン照準器を積まずにこれを携えていきました。

この名前は、これが制作されたのがマーク・トウェインが人生の大半を過ごした
ニューヨーク州エルマイラで作られたことからきているという説がありますし、
ノルデン照準器に比べてあまりにも原始的だからという説もあります。
(なんで原始的だとマーク・トウェインなのかよくわかりませんが一応)
また、「マーク・トウェイン」という言葉が船舶関係で何かの呼び出しに使われていた
とも言われており、何れにしてもはっきりした理由はないそうです。

ノルデン照準器のかわりにこのアルミ製の照準器を乗せた(というかポケットに入れた)
理由は、
あまりにもノルデン照準器が重かったからでした。
長距離飛んで本土を攻撃し、さらにはその後
大陸まで飛ぶという計画には
燃料はギリギリで、少しでも重量を減らす必要があったのです。

ちなみにノルデンの値段は当時の10,000ドル、マーク・トウェインは20セント。
ノルデン照準機は天候に左右されるなど、値段の割に使えなかったそうですが、
このときの戦果を見る限り、20セントの照準器の方はやはり「お値段それなり」で

全くその役目を果たした形跡はありません。(特に隊長機な)

というか、こやつら全体的にほとんど照準器なんて使わず、手当たり次第に
人を見たら攻撃していたようなのですが、これも安物の照準器が
結局役に立たなくてヤケクソになった結果、子供だろうが漁師だろうが、

とにかくジャップと見れば攻撃すりゃいい、と開きなおったとしか思えません。



フライトマニュアル。
これはかなり重たそうですが、本くらいは仕方ないか・・。



後ろにあるのがB-25Jの製品マニュアルです。

手前は、日本の模型メーカーの人が見たら激怒しそうなミッチェルのモデル。
わたしは模型の良し悪しはわかりませんが、それでもこれが
かなり雑なものだということぐらいはわかります。

手前は作戦参加記念の盾かなんかかな?



「日本が東京と横浜を敵機に襲撃されたと報告している」

ドーリットル空襲が成功した「らしい」と報じるNYTの紙面のようですが、
重要なニュースのタイトルをどうやらヘッドラインに4つ並べているようですね。

「犠牲者9名」「フランス大空襲」「リーヒ呼び戻される」


このときの犠牲者とは何の犠牲だったのかはわかりませんでした。
「LEHEY」とは元海軍軍人。

1940年にフランスがドイツに降伏してから駐仏大使をしていた
ウィリアム・リーヒは「呼び戻され」、ルーズベルト大統領の個人的な
軍事顧問、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 となりました。

それが1942年5月のことです。


つまりドーリットル空襲からすでに1ヶ月経っているということですが、

作戦の成否はこのころようやく日本の新聞などから成功だろうと思われた、
ということになるのです。




 パッと見てしばらく何の地図か全くわかりませんでしたが、
これは日本地図の上に
爆撃手が自分が爆弾を落としたところに印をつけ、
さらには色紙のように全員のサインが書かれた「記念寄せ書き」のようです。

この攻撃に加わった者のうち、戦死が1名、行方不明が2名、
捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還し、
8名のうち3名が軍事裁判にかけられ死刑、実は全員が死刑判決でしたが、
刑の執行を猶予されているうちに1名が獄中で病死。

戦後解放された爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーはキリスト教の伝道師となり、

日本で布教活動をしていたということです。
真珠湾攻撃の攻撃隊長淵田美津雄が伝道師になったのも、ディシェイザーの著書を

読んで感銘を受けたからでした。

ちなみに淵田はアメリカで伝導活動中、ドーリットルと対面したということが
自身の著作に書かれているそうです。


ところでアメリカでは今でもこのときの日本の捕虜死刑について感情的で、

まるで悪魔の所業かのように怒っているようですが、彼らはドーリットル隊が
なぜ裁判で死刑判決が出されたかの「理由」を知らされていないらしいのです。


前にもお話ししましたが、まず隊長のドーリットル機は小学生を含む民間人ばかりに
死傷者を出し、肝心の厚木基地は逃走の際素通りしただけで、要するに
軍施設には全くダメージを与えていません。

辛うじて13番機だけが横須賀鎮守府を攻撃し、「大鯨」にダメージを与えましたが、
あとは被害者は小学生だったり漁船だったり、これはもう国際法に照らして
どんなに弁護しても死刑不可避、というくらいの徹底した民間人殺戮となったのです。
決して意図したわけではなく冗談抜きで照準器が安物だったからかもしれませんが。


ところがですね。(笑)

英語のWikipediaで「Doolittle Raid」を見ていただければわかりますが、
肝心の日本側の被害(死者87名、重軽傷者466名、被害家屋262戸)
についてはここでも全く言及しておらんのですよ。奴らは。

爆撃機クルーの運命、たとえば彼らのうち一人が中国に不時着したとき
「落ちたのが肥溜めの上だったので幸運にも助かった」
なんてことまで詳細に書いているのにですね(笑)


「明らかに知った上で民間人に対する攻撃を行った」

とされる、校庭の生徒や、手を振った子供を攻撃したなどという事実は
アメリカではおそらくごく一部の学者しか知らないのではないでしょうか。

「パールハーバー」で描かれていたように、パールハーバーでは
日本側は民間施設も攻撃しまくり、逆にドーリットル隊は軍事施設にしか
爆撃をしなかった、とアメリカ人がいまでも信じている
(ドーリットル隊の名誉のためにそれだけを絶対に書かないので)
のであれば、そりゃ真珠湾であんなことを仕掛けてきておいたくせに、
捕虜3人も処刑しやがってジャップめが、と思ってもある意味当然です。

アメリカ人のいいところは「フェアネス」を重んじることのはずですが、
ことそれが国民的英雄の偉業に「ケチをつける」ことにつながるとなると、
これはもう官民一体で隠蔽にかかるものなんだなあ、と思ってしまいました。

まあ、未だに原子爆弾は正義の鉄槌だったなんて言って憚らない国だから

単純に考えても彼らの「公正」とはジャイアニズムに貫かれた
マイルールの下の「フェアネス」
に過ぎないってことなんでしょうけどね。

ちなみに日本側の記述によると、

「死者のうち9名が日本軍高射砲の破片によると認められている」

とちゃんと正直に?申告されており、かなり中立だと思われます。



余談ですが、中国の軍事パレードに出席した国連事務総長の潘基文が


「国連は中立であるというのは誤解だ。中立ではなく公正なのだ」

と日本側にその立場を責められて開き直ったことがありましたが、
それでいうと、アメリカ側の記述も「中立ではなく公正」のつもりでしょうか。
英語でいうと「naturalではなくfairness」といったことになります。

では公正と中立は違う意味なのか。
我が菅官房長官は「言葉遊びをするな」とこれに対して不快感を表明しましたが、
国連が都合よく片側につき、それを「正義」とすることが「公正」だというのは
随分と便利な解釈もあったものだと感心します。(嫌味です)



ところで、またしてもいきなりですが、皆様は小さいときにH・ロフティング作の
「ドリトル先生シリーズ」をお読みになったことがありますか?

今にして思えば「ドリトル」って「ドーリットル」じゃなかったのかしら、
とつい気になって調べてみましたところ、案の定、

「ドリトル」=「DOLITTLE」

で、正式には「ドゥーリトル」という発音が正しいらしいことがわかりました。
「Do little」、つまり「少ししかしない」→「やぶ先生」というのが
もともとのこの「ジョン・ドリトル」ネーミングの「語源」だったのです。

この作品は20世紀初頭に書かれ、1925年にはすでにあの井伏鱒二の手によって
最初の作品が翻訳されていましたから、決して

「ドーリットル空襲の司令官の名前の悪印象からドリトルにした」

というような、つまらない配慮による変更ではなく、
単に「ドゥーリトル」が当時の子供には言いにくいだろうと、
井伏大先生が考えたからでした。

それに、よくよく見ると「ドリトル」は「少しの働き」を意味する
「Dolittle」ですが、ジミーの方は「Doolitte」、つまりoが一つ多いのです。

わたしはこれまで「ドゥーリトル」とこの名前を表記してきたのですが、
これはうかつにも、一つ"o"の多い「Doo」に注意を払っていなかったためです。
で、本日から
発音も近いであろう「ドーリットル」に変えることにしました。

ちなみにこの一風変わった、(ドリトルも洒落で付けられた名前だし)
司令官の名前は、空襲後、彼我双方でネタにされております。

日本では爆撃後、

「ドーリットルの空襲はDo littleどころかDo nothingだった」

と言われたそうですし、逆にアメリカでは

「ドーリットルの偉業は決してDo littleではなかった」

とか

「Do Doolittle」 「Doolittle dood it!」

などというのが流行ったということです。
戦争の向こうとこちら側なので、もちろん言っていることは逆になるわけですが、
どちらもが「
ドーリットル」の名前をあえてネタにしているのが面白いですね。

 

続く。


 


舩坂弘陸軍軍曹の戦い 四月十七日の再会

2016-04-17 | 陸軍















 

 

 




舩坂弘超人伝説を制作していて、4月17日が近いことに気づきました。
奇しくも漫画中の羽田での二人の出会いは4月17日だったそうです。

舩坂氏の経営する大盛堂書店の名をアメリカに紹介するという意図のもとに

発足させたクレンショー氏の貿易会社「タイセイドー・インターナショナル」
の船出も4月17日であったということで、この日は生前の舩坂氏にとって、
もちろんクレンショー氏にとってもー「特別な日」だったということです。

舩坂弘の「超人伝説」を読んだとき、これは漫画にしてみたいなあと
思ったのですが、氏の著書、「英雄の絶叫」においても、最も氏が
その著書によって後世に残したかったのは決して自分の不死身ぶりではなく、
あの地で死んでいった戦友たちの姿であることは明白です。

不死身伝説は氏の遺志を慮ると少々不謹慎になるやもしれぬ、
と考えたこともあって、代わりに米海兵隊伍長で通訳をしていたクレンショー氏と
舩坂氏の数奇な友誼をテーマに描いてみました。



船坂軍曹の「不死身伝説」の前半は、主に彼の驚異的な体力と

運の強さの賜物でしたが、米軍機地に単独突入して銃撃を受け、
三日三晩経ってから奇跡的に復活した後、もし舩坂軍曹が
クレンショーと知り合わなければ、伝説が残らなかった可能性があります。


舩坂軍曹は二度捕虜収容所を脱走し、飛行機を爆破して自分も死のうと試み、
いずれもクレンショー伍長に(彼は舩坂の”見張り役”だった)阻止されました。

このときもし相手がクレンショーでなければその場で射殺されていたでしょうし、
漫画に描いた「ピアノ線が仕掛けられた罠」でいうと、
その少し前に脱出した
日本兵の捕虜は、実際にそこで射殺されたということです。




ちなみに舩坂氏が戦後実業家となって起こした「大盛堂書店」は、
昨今の書店の不振で規模が縮小したものの、まだ渋谷駅前で営業を続けています。

クレンショー氏は舩坂と再会した時には運送会社の副社長でした。

本屋を開業していた舩坂氏は、クレンショーに会うために昭和23年から
毎年問い合わせの手紙を各方面に配り、米国陸海軍省、外務省、
国防長官、参謀総長に至るまでくまなく連絡を取り続けました。

ちょうど手紙を110通書いたとき、米海軍の「ネイビータイムズ」が、
舩坂氏を取り上げたのがきっかけで、クレンショー氏の行方がわかったのです。


かつて、米軍基地で敵同士として出会った二人。
海兵隊に入ってから「人を殺したくなくて」通訳になろうと思い
日本語を勉強したというクレンショー伍長は、
まず自分の命を惜しまず突入してきた日本人に個人的な興味を持ち、
船坂軍曹に近づいてきました。

二人は生と死について語り、船坂軍曹はクレンショー伍長に、
「花は桜木、人は武士」つまり「桜の花のように散ることを侍は尊ぶ」
という精神を伝えようと試みたのですが、最後までこのことは
クリスチャンであるクレンショーには理解できなかったようです。


「その考えは勇ましいが、やっぱりそれでもなぜ死にたがるのかわからない」

舩坂氏がクレンショー氏を4月17日に日本に呼んだのは、
桜の散り際を彼に見せてやりたいと思ったからでした。
かつてどうしても理解できなかった「武士と桜木」
の思想を、その片鱗でも感じ取って欲しかったのでしょう。

彼は捕虜収容所で私に「神と平和」について教え、
私は彼に「大和魂の闘魂」を身を以て示したのである。


武士道についての研究は、今や世界で行われており、名著が数多くあります。

クレンショー氏は戦後、そういう武士道について書かれたものを読み、
「ユーカンナ フナサカ」が言っていたことを理解しようと
試みたことがあったでしょうか。

わたしは「あった」と断言してもいいと思います。
クレンショー氏が舩坂氏と再会してから5年後、彼は貿易会社を始め、
その傍らアメリカの子供達に日本語を教えていました。
彼が舩坂氏にしばしばこう語っていたそうです。

「これからの世界をリードするのはアメリカと日本である、
日本にはアメリカにない精神的な『もの』がある。
それを手本にしなければならない」

その「もの」とは間違いなく、武士道の精神でもあったはずだからです。
 

 


舩坂弘陸軍軍曹の戦い その「超人伝説」

2016-04-15 | 陸軍

市ヶ谷の記念館には何振りかの軍刀が展示されています。
出処不明の青龍刀などもあるのですが、このように



誰の所蔵品であったかはっきりと素性の分かるものもあります。
荒木貞夫大将の「日露戦争記念の関孫六」。
おそらくは何十年も手入れしていないと思われるのですが、
それでもこの不気味なくらいの光は・・・・。

またご報告しますが、先日島根県でたたらを見学してきました。
そこで日本刀になるための鉄が、最初の段階から

どれほど手をかけ精神を込めて作られているかを知った今となっては
この輝きも決して不思議なものには思えませんが・・。

この記念館展示を見るのはわたしにとって二度目なのですが、
前回は全く意識に上らなかった、(もしかしたらなかったのかも)
冒頭写真の日本刀。
今回はその所蔵者を見て、思わずあっと心の中で叫びました。

この3年の間に戦史を読んだり調べたりするなかで、
「超人」としてその名を記憶していた軍人の名前が記されていたのです。

それが、舩坂弘陸軍軍曹でした。

いつの頃からか、その名前のイメージは「不死身」「超人」という
ズバ抜けた身体能力と恐るべき運、の象徴のように伝播しています。

白い悪魔と恐れられた狙撃手シモ・ヘイへ、安定の悪い黎明期の飛行機で
何百機も敵機を撃墜したエーリッヒ・ハルトマン、
戦車やなんか壊しまくったハンス・ウルリッヒ・ルーデルらとともに、
「サイボーグ」とか「チート」と呼ばれる舩坂軍曹とは何をしたのか。

というわけで、ご本人の著書、「英雄の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」
から、その超人ぶりを探ってみました。

まず、舩坂弘軍曹が戦っていたアンガウルというのは、パラオ群島の一つで、
周囲わずか4kmの小さな島でした。
カナカ族が数百人住み着いていて、鉱石の産地でもありました。

もともと太平洋の要地というわけではなかったのですが、
昭和19年になり、戦況が日本に不利となると、防衛ラインがじりじりと
後退してきて、パラオ諸島まで追い詰められてきたのでした。

ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月、そして11月24日玉砕。
アンガウル島への上陸も9月17日のことです。

舩坂軍曹のいた宇都宮歩兵第14師団は、それまで満州に司令部を置いて
ノモンハン一帯の国境警備隊を務めていましたが、3月に南方への
動員命令が出されると、船坂軍曹もまた皆と同じように死を覚悟しました。

アンガウル島を守備したのは精鋭と言われた第一大隊を始めとする1382名。
この人数で迎え撃つアメリカ軍は2万人。
帝国陸軍がこの島で闘ったその日から舩坂弘の超人神話が始まったのでした。


●9月17日、13名の擲弾筒部隊が空襲と艦砲の嵐で10名戦死

舩坂、かぶっていた鉄帽が砕けるも無傷
この後舩坂隊3名は退却して反撃 

この後至近弾が足元で炸裂し大腿部を負傷
破片が大腿部の肉を25センチ切り取る重症だった
壊疽の予防をしてもらおうと軍医を呼んでもらったら、
黙って凝視しながら手榴弾を置いて行かれた

このままでは死ねないと思い、気が咎めたが持っていた日章旗を
傷口に当てゲートルで巻き止血をする 血が止まる


アメリカ側も決して楽な戦争をしていたわけではありません。
コウモリと蟹の気配が夜間も兵士の心をかき乱し、精神的に
異常をきたす者が続出していますし、指揮官がやられて撤退した
という局面もあったそうです。
それはたいてい日本軍からの「斬り込み隊」「肉攻」の成果でした。

「そこにひらひらと揚がった日の丸の旗を、私はわすれることができない」

●9月28日、擲弾筒を当てまくって敵を倒しまくっていたところ、
眼前で真っ赤に焼けた重迫撃弾が 炸裂
左腕上関節に破片が入り、またしても負傷、退却

米軍側の記録によると、このとき船坂軍曹の臼砲攻撃によって
一個小隊60名の将兵が全滅していました。
ちなみにこの間、舩坂軍曹は怪我をしていたはずの左足も使って戦闘しており、
終わった途端ばったりと倒れてしまいます。

●擲弾筒の弾を投げ続けたため、右肩捻挫していた
しかしそのまま9月末まで闘い続ける

戦闘の合間に船坂軍曹はゲリラに出て米軍兵の屍体から
食べ物を取って帰るも、それまで一緒に戦ってきた部下を失います。

やがて彼は微笑をすら浮かべて水筒を指差した。
<うんと飲めよ。松島!>
私の差し出す水筒の水を、彼はゴクゴクと音を出して実に美味そうに飲んだ。
その幸せそうな顔ーそれは私の一生が終わるまで忘れられないものである。
松島上等兵は水を飲んで間も無く息を引き取った。


●10月6日、敵に斬り込んで死ぬことを決意
屍体の間に横たわって近づいてきた米兵を三八式で射殺
その後銃剣で突入し、一人を刺す
左頭部に衝撃を受けて失神したが、6時間後
気がついたら
周りで米兵が全員(3名)死んでいた

ちなみに一人は舩坂の頭に銃剣を突き刺したままの姿だった


このころ、日本軍はもはや飢えと戦闘ショックで全員が幽鬼のようでした。
いきなり自決してしまったり、自分の血を飲み肉を食べるように
言い残して自分で引き金を引いて死んでいくのです。
しかし、舩坂軍曹始め日本兵たちは涙を流すだけで肉を食べようとはしませんでした。


●水を汲みに夜海岸線に行ったら目の前に潜水艦が浮上、
迫撃砲の集中砲火を浴び、左腹部に盲管銃創を受ける
次の日気がついたのでジャングルに這って逃げ込む
潜水艦乗員が捜索に来るが近くの茂みをつつかれるも見つかることなく無事

持っていた千人針を傷口に当て、雑嚢をかぶせて結び止血し、
尺取り虫のように這って陣地に帰還


陣地の兵隊は舩坂班長が生きて帰ってきたのを見て喜びましたが、
水を汲みに行ったのに手ぶらだったため皆そっぽを向きました。
傷からは蛆虫がわいて、うずうずと動くたび苦痛を与えます。

●痛くてたまらないので、小銃弾から火薬を抜き取って、
傷口に振りまいて消毒の代わりとする
焼け付くような痛みに襲われたが、
翌日になると蛆虫は減って
痛みも少なくなっていた



しかしそれでも苦しいのでついに舩坂軍曹は手榴弾を抜いて自決しようとします。
逡巡しながらも平穏な気持ちで右手に手榴弾を取り、安全栓をとり、
黒く突き出した右側の岩角にコツンと叩いて胸に抱いたのでした。

●信管が砕ける程力を込めて手榴弾を打ち付けたが、不発だった

どちらにしても盲管銃創で助かった兵隊を見たことがないので、
自分もすぐ死ぬだろうと思っていたら、手榴弾6個を発見。
自分が手榴弾で自決しようとしていたことなど忘れて大喜びし
これで米軍に一泡吹かせてやろうと意欲に燃える舩坂軍曹でした。

手榴弾全部を体に結びつけ、100メートル13秒くらいの速度で
司令部テントに走り、高級将校を巻き添えにして自爆することにし、
敵陣に近づき、丸一日茂みに潜んでチャンスを待ちます。

「南無八幡菩薩!我を守りたまえ!」
私は叢を飛び出すと、傷だらけの体に鞭打ってもう無我夢中で突っ走った。
(略)そのうち一人の米兵が、何気なく背後を振り返ったのである。

「ジャップ、ジャップ!オブゼアー、ジャップ!」

彼にとって何より幸いだったことは、その日本の斬りこみ兵は、
自分では疾走しているつもりであったろうが、実際には傷だらけで、
かろうじてよろよろと進んでいることであった。

<あとわずかだ!>

司令部は目前である。
(略)私が右手に握った手榴弾の信管を叩くべく固く握り直した瞬間、
左頚部の付け根に重いハンマーの一撃を受けたような、
真っ赤に焼けた火箸を首筋に突っ込まれたような暑さと激痛を
覚えると同時に、すうっと意識を失ってゆくのがわかった。

●10月4日、左頚部盲管銃創を受けて一旦”戦死”するが野戦病院で回復する

「屍体」となった舩坂軍曹の周りには米兵が群れをなして集まり、
ある者は唾を吐きかけ、ある者は蹴飛ばし、また砂を叩きつけたりしました。

駆けつけてきた米軍の軍医は、「屍体」の微弱な心音を聞き取り、
「99%無駄だろうが」と言いながら野戦病院に運ばせます。
そのときに軍医は、舩坂軍曹が握り締めたままの手榴弾と拳銃にかかった
指を一本ずつ外しながら、

「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

「日本人は皆、このように最後には狂人となって我々を殺そうとするのだ」

と語り、アンガウルにいた米全軍は、突撃してきた日本兵の
最後を語り合って「勇敢な兵士」という伝説を作り上げたのです。
このことを舩坂軍曹は、戦後、当時将校としてアンガウルにいた
マサチューセッツ大学の教授という人から手紙で知らされています。

「あなたのあのときの勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ります」

元駐日アメリカ大使館のオズボーン代理大使も、そのとき情報将校として
アンガウルにいてその話を耳にした一人でした。

「あのように戦って生き還られた奇跡的行為には驚きました・・」


このときまでに受けていた舩坂軍曹の身体の傷は

左大腿部裂傷

左上博部貫通銃創二箇所

頭部打撲傷

右肩捻挫

左腹部盲管銃創

火傷・擦過傷無数

左頚部盲管銃創

という壮烈なものでした。
このうち一つでも死んでいて不思議ではない重傷もあります。
なぜこれだけの傷を受けながら生きていられたのか。

たとえば左腹部を潜水艦にやられたとき、
彼は「死ぬもんか。死ぬもんか。死ぬもんか」とリズムをつけて
実際に口に出しながら這って茂みまで移動したといいます。

自決しようとした手榴弾が不発だったのは間違いなく彼の運ですが、
この生への意欲と、仲間の仇を取るために生きるという激しい気力が
その生をつないだとも言えましょう。

ただ、本人に言わせると、これは

「どんな傷でも1日寝ればよくなる”体質だったから”」

ということになります。体質かよ。
さて、というわけで死んだと思ったら野戦病院で3日目に蘇生した
驚異の日本兵舩坂軍曹ですが、その奇跡はここで終わらなかったのです。


ここから先は、捕虜収容所で舩坂軍曹が出会った一人のアメリカ兵が、
その「不死身伝説」に大いに関わりを持つことになります。


続く。


参考:「英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」舩坂弘著 光人社
 


防衛省見学ツァー再び〜市ヶ谷記念館

2016-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

2013年の3月、読者の方に市ヶ谷の防衛省見学ツァーを教えていただき、
午前中の回に参加して見たものをここでご報告したことがあります。
中でもインドネシアから友好の印として贈られたスディルマン将軍像について
書いたところ反響があったのも、つい最近のような気がしますが、3年前なんですね。
 
今回所属する防衛団体の企画で、新年の賀詞交換会、靖国神社昇殿参拝に続き、
この見学ツァーが申し込まれていたので、行ってきました。



わたしのカーナビはなぜかいつもこの道を選択します(笑)
本日国会は小委員会が開催されているようでした。



いつもの市ヶ谷ホテル(仮名)に車を停めて正門前に集合。
今回のツァーは雪の後の影響か、20名くらいの少人数でした。
人気のこのツァー、いつもはもっと人が多いのだそうです。

左手に見えているのは通信棟の巨大アンテナで、ここから
陸海空の全ての部隊への通信が一手に行われるため、棟入り口は撮影禁止です。

この前日の賀詞交換会の席上、わたしはここにお勤めの、昔でいうところの
情報将校と名刺交換してお話ししていたところ、偶然その方は観艦式で
わたしと同じ日に同じフネに乗っておられたことが判明し、驚きました。
さらには、そのフネの乗艦券を下さった方とその将校は同期。
またしても、あまりにも狭い世界に自分が首を突っ込んでいることを実感しました。



儀仗広場を見ると、思い出さずにはいられない「亡国のイージス」で
事件後、防衛庁に首相の車が到着するシーン。
後から聞いたのですが、あの映画のそこここには、現役の自衛官
(しかも当時の偉い人)がエキストラとして登場していたのだそうです。

「どこにいるかあててごらんなさい」

と言われ、制服のシーンだけを目を皿のようにして見直したのですが、
答えを聞いてびっくり、自衛官が制服を着て出ているとは限らなかったと・・。

って関係ないですね。次行きましょう。



案内は前と同じ、赤いコートの制服の女性でした。

ところで、わたしが受付を通るとき、ちょっとした混乱
(といってもざわめき程度ですが)があったので何かと注目すると、
何と中国人観光客らしい年配の女性二人が、このツァーを
どうやって知ったのか、参加したいと押しかけてきたので、
前もって名簿のための予約が必要であるからダメ、と断るのに
少し揉めていたようでした。

「日本語が全くわからないので断るのに苦労しました」

わたしと同行者(主催)にそのように説明したところ、

「この人が英語喋れますよ」

と同行者がわたしを指差して通訳にお使いだてしようとします。

「いや、もう大丈夫ですから」

しかし、日本語が全然わからないのにツァーに参加してどうするつもりだったのか。
なぜ、こんな防衛省の中に入りたかったのか。
中国人ならおそらく自国の国防省の中など一生見ることもないので、
開かれた日本国防衛の中枢たる防衛省内部を一目見ておきたかったのか。
それとも・・・・?

とわたしは渋々門を出て行く二人の中国女性を見ながら、このように思いました。
今やどこにでも出没する中国人観光客、彼女たちも日本旅行の記念に、
他の観光客が行ったことのない、珍しい体験をしてみたい!
という無邪気な思いつきの結果、押しかけてきたのだと思いたいですが、
どちらにしても、勇気あるよねえ・・・。



係の女性は、ここに防衛庁時代六本木(現在ミッドタウンのあるところ)から
2000年に移転してきた経緯などを話しています。



庁舎の前を通り過ぎると、そこには移転された旧陸軍士官学校講堂、
戦後は東京裁判の舞台になった講堂と、三島切腹の部屋、そして
天皇陛下御在所だった便殿の間だけをセレクトしてコンパクトにし、
1998年、この場所に移設した「市ヶ谷記念館」があります。

ツァーには陸自の制服を着た自衛官が増幅マイクを付けて
案内嬢とともに説明をしていたのですが、この前に来たとき、

「この建物は当時の大きさですか」

と参加者の一人がうっかり尋ねてしまい、

「先ほど、移設したときにほぼ10分の1になっていると説明したんですが。
ちゃんと聞いていてもらえばわかるはずなんですがね!」

とえらく機嫌を損ねた口調で反撃されていました。
まあ、人の話をろくに聞かずに質問する方もたいがいですが、
おっちゃんも何もそこまで怒らんでも(´・ω・`)



今回は、3年前にはなかった装備、広角レンズを投入しました。
というか、コンデジと広角一本で乗り切りました。

こういう建物の外観では本当に優れた画角が得られます。



全部収まってなんて美しいんだ、と今更ながら広角レンズに感謝。



ちなみに三島切腹の部屋にあった以前の建物。
昔はこの中央に桜、その前の陸軍士官学校時代は菊の御紋がありました。



桜の紋章は現在記念館入り口の玄関ロビーに飾られています。
隣の時計は昔の1号庁舎のシンボルだったもの。



参加された方はご存知かと思いますが、この後一行はずいっと中に入り、
右手にあるスクリーンに映される「市ヶ谷の歴史」を鑑賞します。



最初に必ず説明されるのがこの床は、昔からのものを忠実に、羽目板一つ一つに
番号を振って、再現したものであること。
つまり、ここで起こった歴史の登場人物が踏みしめた床そのものであるということです。
その際、必ず、東京裁判のとき証言台のあった場所に今置かれている椅子が
どこかが示され、たまたまそこに座っている人が感激?するという流れ。

ちなみにこの写真でも破損・紛失し組み木ではなく四角い板に変わっている部分が見えます。



この、1937年の建設当時には超モダンだったと思われる中央横の反響板は、
中央にあった当時の玉座に向かって斜めに設計されており、
そのために玉座が非常に遠く見えるという効果を生んでいます。
このドアからは、東京裁判のときに左側に並んでいた裁判官席に向かう、
ウェッブ裁判長やパル判事などが、何度となく出入りを行いました。



これが床に立って見た後方。



こちらが玉座から見た室内全景です。
これはとりもなおさず玉座におわす天皇陛下と同じ目線で見る景色でもあります。
そこで気づくのが、正面1階の5つのドアの部分、天井が異様に低いことで、
二階バルコニーがほとんどここからだと同じ高さであること。

これは天皇陛下を「見下ろす」という席にならないように工夫された設計で、
ドアの高さとバルコニー下の高さを全く同じにして、バルコニーを下に持ってきました。



ただ、それだと設計上二階の位置が建物の他の部分と合わなくなります。
そこで、わざわざ入ってすぐの部分にこのような傾斜を付けました。



こちら反対側。
左に座っている人がいるところまでかなりの傾斜が設けられています。



この写真でいうと、前から2列目の一番左あたりが・・・、



この写真での被告台であったということです。
二階席は被告家族席、被告はここに写っていない左手の窓際でした。

天皇陛下の御為に、をまず設計の中心に据えた講堂ですが、前回も
説明をした、「天皇陛下専用の階段」もそうですね。



右側は玉座に向かう陛下専用の階段。
こんなところに階段を二つ並べるなんて、と戦後接収したアメリカ人は
その一見不合理さをさぞ不思議に思ったに違いありません。

天皇を決して訴追せぬこと、という命令を合衆国大統領から拝していた
ジョセフ・キーナン検事は、戦後日本国民を「統治」していくためには
それがいかに重要なことであるかを、東京裁判でここを訪れた時に
この階段の造りを見て心から納得したと思われます。



というわけで前回と同じく玉座に上がることもできました。

市ヶ谷ツァー、続きます。



 



 


ピーボディ自然博物館~”ルーシーはダイヤを持って土の中”

2016-04-13 | アメリカ



昨年の夏、の滞米時、テレビで「ナイトミュージアム」を観ました。
ご存知とは思いますが、夜になると博物館の全てのものが命を持ち、
気ままに動き回るというのがお話のキモになっています。

この映画でセオドア・ルーズベルトのマネキンを演じたのが、ちょうど
その1年前自殺したロビン・ウィリアムスで、わたしはたまたま、
死ぬ直前にファンの女性と撮った、その生気のない幽鬼のような表情を見て
死相というのは本当に表れるものなのだと衝撃を受けたばっかりだったので、

思わず画面をまじまじと見てしまいました。

ルーズベルト(の人形)を演じたこのとき、彼は自分にそんな未来が来ることを

予想だにしていなかったのではないでしょうか。

それはともかく、この夜になったら動き出す展示物には、一体の恐竜の化石もありました。
骨のままぎゃっしゃんがっしゃんと縦横無尽に動き回る化石(笑)


ここピーボディ博物館の生きたときの姿のままに展示された恐竜の化石、
とくにこのブロントザウルスを見たとき思い出したのが、このシーンです。



ここの圧巻はなんといっても中央にあるブロントザウルスの骨。
もしこれに肉付けをしたらとんでもなく首が太いらしいことがわかります。

これは1877年に、 イエール大学の教授である考古学者のO.C.マーシュ
コロラド州で発見したものだそうです。

ところでわたしは知らなかったのですが、いつのころからか、

「ブロントザウルス」というのは「アパトザウルス」のことである

ということに世間ではなっていて、うっかり「ブロントザウルス」と言おうものなら
小学生の子供(自称きょうりゅうはかせ)に

「プロントザウルス?アパトザウルスっていうんだよそれは」

指摘されてしまったりしていたそうですね。

確かにウィキペディアの日本語版はいまだにその様な表記がされているのですが、
実はイエールのHPによると、2015年5月、つまりつい最近になってから、
少なくとも両者の間には7つ以上の相違点が明らかになったことで、
ブロントザウルスは存在するということがわかったと書かれています。

というか、わたしが知らない間にブロントザウルスは存在を否定され、
知らないうちにまた復活していたのでした。こりゃめでたい。

このホールは1926年にオープンし、ステゴザウルスと カンプトザウルスの骨が

ドラマチックに展示されていて圧倒されます。

 

本当に海を泳いでいたらどんなに怖かっただろうと普通に思ってしまう巨大な亀。
アーケロンといって、現存した最大の亀の骨だそうです。

 wiki

こうしてみると普通の亀なんですけど、問題は大きさ。
幅5mはゆうにあったと言いますが、産卵なんかは
やはり砂浜で行ったのだろうかなどと考えてしまいますね。
海に帰る子亀たちの大きさだけでも普通のウミガメくらいだったりして。

重さは2tだったそうですが、 革状の皮膚や角質の板で覆われているだけで、
これでもずいぶん軽量化されていたそうです。

残念なことにその甲に手足を引き込む事が出来なかったため、
捕食者に襲われやすく、脚鰭が一つ欠けている化石も珍しくないのだとか。
進化の段階で必要に応じて「やっぱり手足は収納式」となっていったんですね。 

しかし、こんな亀の足とかを食べちゃう他の動物って一体・・・。 



亀といえばこんな骨もありました。
レザーバックタートルと説明に書いてありますが、今でも
普通にこの名前の亀の種類はある様ですね。 



これも亀の甲羅?・・・・トライポフォビア的には辛いものがあります。

Gyptodon 、グリプトドンという名前で知られている亀的生物の甲羅ですが、
こんな生物だったと考えられています。



きもい。 




podocnemis、つまり「ヨコクビガメ属」の骨。
今でもこの種類の亀は卵も含めて食用にもされ、日本では
ペットにもなっているとのことです。

しかし、亀の甲羅って、こんな風にぱかっと外せるものなんですね。



中身ごとお骨におなりになった例。
亀の背骨って細いものなんですね。
こんなのでよく重い甲羅を背負って歩けるものです。



ジャイアントモアの化石。
モアはニュージーランドに生息していたダチョウの仲間で、世界で一番背が高い鳥です。



絶滅した原因は繁殖力の低さに加え、自然環境の温暖化や繁殖力の低さ、

マオリ族による乱獲(砂嚢に小石を溜める習性を利用し、焼け石を呑ませて殺す)など。

「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民にモアの骨を集めさせ、
「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、
原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説があるそうです。

なんのために骨を集めたのか謎ですが、いずれにしてもろくなことをしませんね。 



世界最古の鳥、つまり「始祖鳥」でいいんですかね?
ただ、昨年(2015年)の5月、中国の研究者が、

「今まで一番古いとされた鳥よりもさらに500万年昔の化石」

を発見したという話があったようなので、それが本当であればこの展示は
書き換えられなければならなくなりますが・・。



トリケラトプス的な頭蓋の並べられたコーナー。
手前の骨はどこがどうなっているのかもわかりませんが、
左奥のはトロザウルスといい、トロはスペイン語の「突き刺す」と言う意味。



こんなツノを持った動物は獰猛なのではないかという印象がありますが、
実はトリケラは草食動物であり、Tレックス、ティラノザウルスに捕食される方で、
ツノは求愛用だったという説もあります。

先ほどのトロサウルスも草食です。



edophosaurs、エダフォザウルスの化石です。
エダフォサウルスは約3億2,300万 - 約2億5,600万年前に生息していた爬虫類。



小さければペットショップで人気者になりそうですが、
いかんせん体長3mではなあ・・・。 



写真を撮りそこなったので何かわかりません。



uintatheres日本語ではウィンタテリウムと言う聞いたことない名前の、
サイ的生物ではないかと思われます。


 
骨にはツノがないので、トリケラのように頭蓋と一体化していなかった模様。 



これはわかる。ムースの先祖ですね。



馬の原型らしき生物。



こちらも馬っぽいですが、先ほどのと違って蹄がありません。
Chalicotheresとありますが、日本でなんと呼ばれているのかはわかりませんでした。



TITANOTHERESとありますが、ブロントテリウム科の生物です。



背中にある扇のような飾り?が骨でできています。



出土された頭蓋骨に復元作業を施す過程を表した展示。



バラバラに出土した頭蓋も元どおりに。フランスで発見されたネアンデルタール人。



左の二つはparanthoropus、パラントロプスの化石。
パラントロプスとは「人のそばに」と言う意味があるそうで、
200~120万年前にかけて生息し100万年前に絶滅しました。

1959年に発見されたこの化石には「ルイス・リーキー」
(発見した考古学者のメアリー・リーキーから)と名前が付いています。



160万年前の地層から出土した若い男性の骨格。
ほぼ完璧に近い形で発見された貴重なものです。

ケニアのトゥルカナ湖の辺で1984年に発見されたもので、
骨格には「トゥルカナ・ボーイ」という名前が付けられています。
当時の人類は今の算定法で類推した数字より8歳は若いらしいこともわかりました。 


またここには、人類の起源の発見に大きな発展をもたらした、
エチオピア出土のアファール猿人の骨のレプリカもありますが、
この名前「ルーシー」は、発見当時流行っていたビートルズの曲、
「Lucy In The Sky WithThe Diamond 」から付けられたそうです。



考古学発掘作業の現場を再現した展示。
右上にあるのはトイレットペーパーですか?
知り合いが奈良で発掘のアルバイトをしたことがあって、その話を聞くところによると

「気が遠くなるほど根気のいる地味な作業」

「毎日毎日歯ブラシで土を払い続けるだけ」

で、きっとあの人たち(学者)の脳みそは土色になっているにちがいない、
と、作業以外の彼らの「世間擦れ」に呆れていたのを思い出しました。


「ルーシー」を発見した時、当時の考古学者たちが発見に沸き立ち、
彼女のもたらす人類の起源を解くカギを「ダイヤモンド」に喩えたとしても無理ありません。
土色の脳みそが「サイケデリックカラー」に輝いたからこその命名だったんでしょうか。



儀式のために首狩りされて、縄でゆわえられただけでなく、
頭蓋骨に飾り彫りまでされてしまった方々。

こういう骨もかつては生きていた「誰か」だったんだなあなどと、
考古学者でもないわたしとしては、しょうもないことを考えてしまいました。





 



潜水艦「グラウラー」とギルモア艦長

2016-04-11 | 海軍人物伝

冷戦期に建造され、アメリカ海軍初の艦対地ミサイル「レギュラス」を
を搭載していた、潜水艦「グラウラー」について、イントレピッド博物館で
見学した関係からずっとお話ししてきたのですが、すこし寄り道です。


この「Growler」、日本語表記では「グロウラー」となっていますが、実際の発音に忠実に
ここでは「グラウラー」で通しています。

先日このグラウラーを航空機の「うろうろする人」のプラウラーと韻を踏んで?
「ガミガミ言う人」ではないかと仮定してみたのですが、どうやら魚の
「オオクチバス」の通名であるらしいことが各種調べにより判明しました。

そういえばガトー級の潜水艦というのはガトー(トラザメ)がそうであるように、
例外なく魚類の名前を付けられていたんでしたっけね。

というわけで、「グラウラー」という名前の米艦艇は全部で4隻存在します。
今日お話ししたい3代目の潜水艦「グラウラー」は、1942年に就役して日米戦争に従事しました。



「グラウラー」は1941年2月に発注され、11月には進水式を行い、
翌年3月に艤装艦長であったウォルター・ギルモア少佐の指揮下、就役しました。
すでにヨーロッパでは戦争が始まっていたため、発注から就役までの時間が短く、
就役した途端、「グラウラー」は太平洋戦線に投入されます。

「グラウラー」が第一回目の哨戒に出たのは1942年の6月。
早々に6月5日から始まったミッドウェー海戦において、
総勢19隻からなる潜水艦隊のうちの1隻として出撃しています。


その後、「グラウラー」はアリューシャンに向かいました。
キスカ島付近で哨戒中駆逐艦「霰」(あられ)と「不知火」を
それぞれ、沈没・大破せしめ、これが「グラウラー」にとっての初戦果となります。
「霰」も「不知火」も復旧させることに成功していますが、この時の被害の責任を負って
第十八駆逐隊司令は自決しています。

逆に、「グラウラー」艦長であるギルモア少佐は、この戦功に対し、
海軍十字章を授けられました。
冒頭の絵でギルモア少佐が胸につけているのは、このときの勲章か、
あるいはこのあとに授与された金星章であると思われます。
(十字勲章の色はブルーと白であるのに調べずに描いたので
赤と白ですorz)



27日の任務を終えて7月、真珠湾に帰還した「グラウラー」は、
8月に出航した第2回哨戒で対潜掃討中の千洋丸(東洋汽船)、輸送船「栄福丸」、
特務艦「樫野」、輸送船「大華丸」をそれぞれ撃沈しました。

彼我両方の潜水艦の使命は、当時通商破壊活動、つまり商船、輸送船を鎮めることでした。

この哨戒中、「グラウラー」は「氷川丸」を発見していますが、攻撃していません。
「氷川丸」は病院船であったにもかかわらず、戦時中なんども敵の攻撃を受けています。
緑の十字がついていても、偽装を言い訳の理由に攻撃する米艦がいたということですが、
少なくとも「グラウラー」は国際法に反することはしなかったのです。

これが艦長の指示であることは明らかで、この件からもギルモア艦長が
「海の武士道」を(アメリカだから騎士道?)重んじる武人だったことが窺い知れます。


第3回目の哨戒において、ソロモン諸島付近に派遣された49日間、

「グラウラー」には不気味なくらい何も起こりませんでした。
敵に発見されることも敵と交戦することもないまま、帰投したのです。

まるで次回の哨戒における悲劇のまえの静けさのように。


第4回目の哨戒作戦は、1943年1月1日から始まりました。
前回と同じく、ソロモン諸島が哨戒する海域です。

1月16日、トラック島付近の交通を警戒監視していた「グラウラー」は、
船団を発見し、輸送船「智福丸」を攻撃しています。
「智福丸」は陸軍の輸送船で、もしかしたら陸軍の師団を乗せていたのかもしれません。

土井全二郎著「撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い」という
戦記本で、一度読んで強烈さに今でも忘れられない一節があります。

「船が攻撃されて沈むということになった時、四角くくり抜かれた穴から
船底にいる陸軍の軍人たちの一団が一斉にこちらを見て、
”まるで豚が絞め殺されるような”叫び声をあげていたのを見た」

という生き残った船員の話です。
このときの「グラウラー」の攻撃によるものだったかどうかはわかりませんが、
いずれにしても航行中の輸送船の沈没によって、多くの軍人の命が、徴用された
船員たちと同じように失われていったのでしょう。 

 


そして運命の2月7日がやってきました。

「グラウラー」が輸送船団を発見し、水上攻撃を仕掛けるため接近していったところ、
彼らより早く「グラウラー」に気づいた別の船が、まっすぐ突っ込んできていました。


このときに遭遇した相手は特務艦「早埼」(はやさき)でした。
給糧艦であった「早埼」は、船団を攻撃しようとしている敵潜水艦を
見つけるなり、まともに戦っても勝ち目はないと思ってか、体当たりを敢行したのです。

「グラウラー」は敵船団に近づきながら海上で蓄電を行っていました。
しかも実際には「グラウラー」の方が先に「早埼」を発見しており、
その行動をレーダーにより察知していたにもかかわらず、艦橋にいたギルモア艦長以下

当直見張り員は「早埼」の動きに気づきませんでした。

どうしてレーダー室の方から艦橋に伝達しなかったのかも不思議ですが、
いずれにせよ、これが「グラウラー」にとって不幸な結果となります。

ギルモア艦長はこちらに突っ込んでくる「早埼」を認めるなり、

「いっぱいに取り舵!」“Left full rudder!“

と命じました。
「グラウラー」はそのとき17ノットの速力で航行しており、(最大速度は20ノット)
おそらく艦長は「早埼」の右舷側をすり抜けようとしたのだと思いますが、
転舵は間に合わず、艦体が「早埼」の中央部に衝突し、艦首部は5~6mにわたって折れ曲がり、
艦首発射管はこの衝撃で潰れ、衝突の衝撃で艦は50度も傾きました。


その後、「グラウラー」の艦橋に向かって「早埼」からは機銃が乱射され、
また高角砲も次々と撃ち込まれてきます。
艦橋に上がっていた当直見張り員のうち士官と水兵の計2名は即死。
生き残ったギルモア艦長以下全員も今や負傷していました。
重傷を負ったらしいギルモア艦長は、艦橋の手すりに身をもたせたまま、
き残った艦橋の乗組員に対して


「艦橋から去れ!」“Clear the bridge!“

と命じました。
副長のアーノルド・F・シャーデ少佐は、そのとき一緒に艦橋にいましたが、
軽い脳震盪から回復して艦長が艦内へ退避してくるのを待っていました。

ギルモア艦長も続いて避退しようとしましたが、ハッチにたどり着く直前、
機銃で撃たれて再び昏倒します。
次の瞬間、副長と艦内の多くはギルモア艦長の最後の命令を耳にします。


「潜航せよ!」“Take her down!“


副長は驚愕し、一瞬は逡巡も感じたと思われますが、彼がそれを選択するより早く、
ギルモア艦長は外からハッチを閉めてしまいました。
シャーデ副長はギルモア少佐の意図をすぐさま理解し、絶対である命令通り、

艦を急速潜行させて「早埼」の攻撃から脱出して危機を逃れました。

ギルモア艦長は、おそらく重傷である自分がハッチを降りることは
一人では不可能であり、一刻を争うこの時間に自分が助かることは、
「グラウラー」の全乗組員の命と引き換えであることを悟ったのでしょう。

彼は艦長として、自分の命を棄てて艦を救うことを選んだのです。


それにしても、外からハッチを閉めるくらいの力がのこっていたのなら、
とりあえず中に飛び込むくらいはできたのではないのかとも思うのですが・・。



戦死したギルモア少佐には、潜水艦隊の艦長として、初めての名誉勲章が与えられました。
副長のシャーデ少佐は、ギルモア少佐戦死後すぐさま艦長心得(代理?)となり、
この4回目の哨戒作戦となる航海をとりあえず終えます。

この写真は第6次哨戒のときのものだそうですが、真ん中がおそらく

シャーデ少佐であろうと思われます。

この後も哨戒に何度も出撃した「グラウラー」ですが、第10回目の哨戒時、
わたしがここでお話しした「パンパニト」と「シーライオン」とで
"Ben's Busters"(ベンの退治人たち)と称する潜水艦隊を組み、東シナ海に出ました。

この時の哨戒で「グラウラー」は択捉型海防艦「平戸」、そして対潜掃討中の

駆逐艦「敷浪」を撃沈しています。 

 
第11回の哨戒活動が「グラウラー」にとって最後の任務となりました。
哨戒中ルソン島近海で待ち合わせていた僚艦の前に、「グラウラー」はついに現れず、
 海軍は「グラウラー」の沈没は原因不明のまま、ということで処理したのでした。

軍の記録の常として「撃沈された」とは認めたくない心理が働いたのでしょうか。
僚艦の潜水艦「ヘイク」は、避退行動中に、グラウラーのいるあたりから
150もの爆雷の爆発音も聴取したという報告を上げていたというのに。


同日の日本側の記録によると、


「マニラ入港前夜、雷撃を受け万栄丸沈没。
対潜掃蕩を行うも、戦果不明。即日反転、ミリ(ボルネオの港)に回航」
(第19号海防艦)

「マニラ入港前夜、マニラ湾入口にて敵潜水艦の雷撃を受け、万栄丸沈没。

対潜掃蕩後即日反転、ミリに回航」(千振) 

とどちらもが対潜掃討攻撃を行っているので、「グラウラー」がこのどちらかの
対潜爆弾(あるいはどちらもの)によって戦没したことは間違いないことに思われます。

 
現在、アメリカのサイトを検索すると、皆一様にギルモア少佐のことを
「ヒーロー」という言葉で称えているのがわかるかと思います。
自らの生命の危険を顧みず、他を生かそうとする自己犠牲の精神。
それをアメリカ人もまた、「英雄的行為」として賞賛するのです。