今年の掃海隊殉職者追悼式に参加して気づいたのは、参加者に配られる
資料等が新しい内容になっていたことです。
編者は元航啓会の会長で、幹候(部内)2期の細谷吉勝氏。
「苦心の足跡」でも三項を手がけておられ、実際の部隊は
「カルガモ艦隊」と言われた頃の第101掃海隊におられました。
「語り継ぐ 太平洋戦争後の掃海戦」
と題された小冊子は、大東亜戦争末期における日米の機雷攻防戦で
日米彼我で日本列島の周りに敷設された機雷の状況に言及し、
さらに、戦後すぐ始まった掃海活動の実態、方法とその苦労、そして
実際の触雷事故と掃海隊員の殉職、そして現在に至る
殉職者の顕彰と追悼の歴史を、数字や地図など加えて述べています。
断片的な掃海についての知識でなく、これを最初から読み通せば、
戦後掃海の歴史が明快に分かる資料になっています。
従前の資料に不備があったというわけでは決してありませんが、
参加者に新たなアプローチで知識を共有してもらおうとするこの姿勢は、
呉地方総監部の殉職者追悼式に対する誠実さの現れであると言えましょう。
さて、山門の茶屋で冷たい甘酒を飲んでまた席に戻ってきました。
わたしの座っている場所から前列は、前列が地方総監や来賓の政治家、
水交会会長など、挨拶を行う来賓が並び、その後ろが掃海隊指揮官です。
海軍の艦内帽を被った方は献花の時は会社名とともに紹介されていましたが、
もしかしたら航啓会に属しておられたという方かもしれません。
待つことしばし、呉地方総監が来場されました。
呉に着任されて慰霊祭と追悼式の執行者となるのは初めてとなりますが、
前日の立て付けに参加したカメラマンのMかさん(仮名)の報告によると、
総監は、彼女が参考になれば、と差し出したこれまでに撮った追悼式の写真集を見て、
霊名簿奉安や降納などの所作について熱心に研究をされていたということです。
この写真で総監の入来に椅子から立ち上がっている背広の男性は、
当金刀比羅宮の権宮司、琴丘(ことおか)泰裕氏です。
今年出席された殉職者のご遺族は6家族10名。
わたしが最初に参加し始めた頃に比べてもかなり少なくなっています。
テントの中央は通路となっており、前列のご遺族の後ろには、
歴代呉地方総監、その後ろには歴代掃海隊群司令が並んでいます。
歴代呉地方総監は31代の山田氏を始め、道家氏、杉本氏、伊藤氏が、
掃海隊群司令は、第二代の河村氏、福本氏、徳丸氏、岡氏らが出席されていました。
一番最後に政治家が入場。
この日出席した政治家は、自民党の大野恵太郎氏、三宅しんご氏、
そして国民民主党の党首である玉木雄一郎氏でした。
写真にはかろうじて玉木氏の顔の一部が写り込んでいます。
前回出席した2年前、玉木氏は違う党の議員だったと思いますが、
さらにその前にはそれとも違う党だったと記憶します。
党名ロンダも大概にして戴きたいという気がしますがそれはともかく。
今回は、伊勢志摩サミットの後、玉木議員と並んで、ボリスジョンソンを風刺した
漫画を安倍首相だと勘違いして共に生き恥を曝した山井議員が離脱して、
今や絶滅も間近の泡沫野党国民民主党首としての追悼式参列です。
政治家の追悼の辞は、殉職者の霊名簿が奉安され、黙祷の後に、
水交会の会長や掃海隊群司令などとともに行われました。
去年、もはや何党にいるのか誰も知らない元民主の小川淳也議員が
実に不快な追悼の辞を行なったことを前回も書きましたが、
玉木議員の追悼の辞は、至極まっとうな、殉職隊員への弔意を真摯に述べ、
彼らの遺業を讃える文句のつけようのないものでした。
前回の追悼の辞の時も玉木氏には同じ印象を受けましたし、というか、
要は小川とかいう議員が特殊だったということなのでしょう。
昨年の追悼式が終わった時、小川議員は皆が退場する前に、文字通り
逃げるように真っ先に会場を出て行きましたが、玉木議員は会場に残り、
遺族の前で頭を下げ、退場していく参列者の波の中でただ立っていました。
わたしは出口に向かいながらなんとなく玉木議員の前に出てしまったので、
成り行き上挨拶をしなければならない雰囲気になり、
「ありがとうございました」
と言って頭を下げました。
もちろんわたしは政治家としての彼を全く評価していません。
一連の政府批判のための批判もさることながら、一躍彼の名を高めた
加計学園問題での発言、特に身内である獣医師会からの献金については、
「ますます疑惑が深まった。受け取っていないならそれを証明しろ」by玉木
と思っていることに変わりはありませんんが、
慰霊式に出席してまともな弔辞を上げるだけの良識はあるわけで、
そこに対しては国民の一人として謝意を述べたのです。
もちろん、心の中では、
「ただしそれは今日の出席に関してだけだがな」
と付け加えていたわけですけど。
ほとんどの列席者にスルーされていた玉木議員は、わたしに対し、
あの、いつもの、目を見開いたような表情で挨拶を返しました。
あとで、同じ地方防衛団体の方々と歩きながら、
「玉木議員とか変なことを言って目立っている野党議員って、
いわゆるポジショントークをしているだけじゃないのかという気もします」
というと、相手は即座に、
「違いますよ!玉木は大平さんの娘婿ですからね。裏切りですよ」
と口角泡を飛ばし、玉木がいかに悪いやつかを力説するのでした。
いや、それこそが政治がある意味プロレスみたいなもので、
彼は野党党首を「演じている」ってことの証拠だと思うんですが。
あと、最初に弔辞を読んだ大野啓太郎議員の
「今日のような空の色、今日のような山の緑、今日のような空気感を
(殉職した)皆様方も感じておられたのかと思います」
というような(正確ではありませんが)最初の言葉は胸に響きました。
続いて行われたのが儀仗隊による敬礼ならびに弔銃発射の儀式ですが、
わたしは、儀仗隊を配しての国旗掲揚、呉地方総監による霊名簿奉安、
そしてハイライトとも言える弔銃発射など、追悼式の様子は
招待されて参列しているという立場上、撮影しないと決めています。
そのため、わたしは例年、前日の立て付けを見学させていただき、
弔銃発射のリハーサル写真だけをここでお見せしていたわけですが、
今年は前日に別の見学会があったため、儀仗隊の写真等は一切無しです。
弔銃発射などはMかさん始め写真を上げておられる方がいると思いますので、
式典の様子をご覧になりたい方は検索してみてください。
弔銃発射は、儀礼曲「命を捨てて」の演奏の後、
同じ曲の頭8小節がが超高速で演奏されるたび発射、
これを三回繰り返して行います。
この「命を捨てて」は海軍時代から伝わる鎮魂の儀礼曲で、
真珠湾の九軍神の葬礼の時にも演奏されたという記録があります。
続いては呉地方総監を筆頭とする献花が行われます。
献花の間中、音楽隊は斎藤高順 作曲の「慰安する」という鎮魂曲を
繰り返し、繰り返し演奏し続けます。
作曲者の斉藤高順は陸軍戸山学校出身、戦後は小津安二郎の映画
「東京物語」の音楽を手がけ、世界での小津ブームと共に
評価が高まっている作曲家です。
この曲のデータは見つからず、いつ作曲されたものかは不明ですが、
嘆きを表す導入部と、長調になって救済を感じさせる中間部のコントラストが
大変美しい佳曲で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑における拝礼の際も取り上げられます。
一番最初に献花するのは殉職者ご遺族のみなさま。
今年参列されたご遺族のうち二名は、毎年そうされているように
お身内の遺影を抱いて、前に進まれました。
遠目にも、写真の人物はまだ幼さの残るセーラー服の青年であるのが認められます。
写真を献花台の上にこちらを向けて立て、受け取った一輪の白菊を
供えながら、写真に向かって何か話しかけられたようにも見えました。
わたしはこの日何も考えずに黒いウールのスーツを着てきてしまい、
テントの下で蒸されて汗が噴き出し、ハンカチが手放せない状態でしたが、
この瞬間、涙が不意にあふれ、持っていたハンカチを目元に押し当てることになりました。
ふと気がつくと、左前の元掃海隊群司令も同じように目を拭っています。
献花は参列した全員が行うことになっているので、大変時間がかかります。
最初は個人名が呼ばれますが、後の方になると、水交会単位、そして
地本関係単位、自衛官単位でまとまって前に進み出て献花します。
この写真は最後の自衛官の献花となったときの様子です。
追悼式には管区の海上保安庁からも列席します。
戦後、まだ海上自衛隊が生まれる前に、掃海業務は
昭和23年に発足した海上保安庁の下設置された
「航路啓開所(本部)」
とその地方組織によって行われていたのです。
この時に広島に置かれた第六管区本部航路啓開部の末裔が、
現在の第六管区海上保安本部です。
この写真右側に写っているのは、一番最後に、
「幹部・海曹・海士代表」
として献花を行った三名です。
この後、追悼電報の披露に続き、呉音楽隊による追悼演奏が行われました。
「掃海隊員の歌」「海ゆかば」「軍艦」
の三曲です。
「掃海隊員の歌」の歌詞を一番だけあげておきます。
「独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き
大国民の度量をもて 雄飛の秋(とき)は迫りけり
今躍進の機に臨み あ 掃海は世の鑑」
昨年は、二番までを指揮者が歌いましたが、今年は
指揮者が変わったせいか、演奏だけが行われました。
この「掃海隊員の歌」を作詞した姫野修氏は、掃海業務に当たった方です。
今回、会場で歌詞を読みながら聴いていて、七番の
「天覧賜う和泉灘 嘉賞の御言戴きて
全員感泣奮励し 内海航路も啓開す」
という部分に気が付いたので帰ってから調べてみたところ、
作詞者の姫野氏ご自身の講演内容にそのことが述べられていました。
昭和二十五年三月天皇陛下の四国行幸があり
ご寄港先の小豆島土庄港の掃海を完了、十五日行幸当日は
播磨灘の掃海を実施しつつ遙拝を行いました。
三月三十一日は御召船山水丸が四国から神戸にお帰りの余次、
和泉灘で掃海部隊の御親閲を忝うしました。
呉・下関の三十二隻の掃海部隊は二列縦陣で登舷礼を行い、
陛下は悪天候を冒して御召船の甲板にお立ちになり大久保長官のご報告に
掃海業務の成果を嘉せられたと洩れ承つております。
昭和天皇は、終戦後の昭和21年2月から9年かけて全国を御巡幸されています。
掃海部隊はその任務に対して陛下からのお言葉を賜り、歌詞にもあるように、
「全員感泣奮励した」
のでした。
掃海任務そのものが様々な経緯を孕む政治的な事案であったこともあり、
殉職隊員の家族がその死因について世間に公表しないように、と
口止めされていたこの時代に、陛下から直々に暖かい労いの言葉を賜った
隊員たちの感激はいかばかりであったでしょうか。
会場出入り口には弔電が披露されています。
地元選出の国務大臣平井卓也、呉市の寺田稔、山本博、宇都隆史議員。
広島市長、三原市長、山口県下松市長、光市長など、発起人に名を連ねる市長。
そして、陸自中部方面総監、岸川陸将からです。
追悼式後には遺族と関係者が慰霊碑の前で記念撮影を行うのが恒例です。
参列者はほとんどが直会のため式場からバスで移動するのですが、
わたしは周りにいたオールドネイビーの皆様が、
「歩く?」「歩こうか」
「たまには歩かないとダメだよ」
と言いながら階段を降り始めたので、なんとなくつられて
所属防衛団体の人たちと一緒に階段を歩き出してしまいました。
下りですし、体力的には全く問題のない距離ではあったのですが、
この日の湿度と日差しは思ったより酷く、考えなしに選んだ
ウールのスーツはまるで魔法瓶のように熱を溜め込んで汗が噴き出し、
たまりかねたわたしは食事会前に車に着替えを取りに行くという羽目になりました。
続く。