ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

不沈のサムと「シルバーサイズ」のアドミラル〜潜水艦ペット事情

2023-01-30 | 海軍

今日は、「シルバーサイズ」シリーズのちょっとした息抜きというか、
潜水艦などで飼われていたペットについて紹介があったので、
船のジンクスと共にこれをご紹介します。


潜水艦の乗組員は(その任務上当然かと思いますが)
「シルバーサイズ」の布袋さんの像のように、ジンクスを担ぎがちでした。

元々船は何かと担ぐ場面が多い乗り物です。
昔から言われる「7つの船の迷信」とは、

1、船に女性を乗せると不吉

このため船乗りたちは航海中は実際の女性を「諦め」、
船に女性のお守りをつけたり、裸体の女性画を飾ったりした。

2、進水式と命名式の神話

古来船の進水と命名には生贄を捧げていたが、
それがいつの間にか血の代わりにワインとなり、
現在ではシャンパンの瓶を割ることになっている。
この時瓶がうまく艦体で割れないと縁起が悪いと言われる。

3、金曜日に出港すると縁起が悪い


キリストが磔にされたのが金曜日だったから。
今ではそんなことわざはどこにも残っていません。

4、船上で口笛を吹いてはいけない

船上で口笛を吹くと嵐を呼び、手を叩くと雷を呼ぶ。

5、船の幽霊と呪い

船で命を落とした人がいるとその魂が留まって、
霊魂が事故や災難を起こす呪いをかける

6、バナナを船に積むと縁起が悪い

1700年代、バナナを積んだ船のほとんどが海上に姿を消し、
目的地にたどり着けなかったことから、
バナナは船にとって不吉なものと考えられていた。

また、船に積んだバナナはすぐに発酵して有毒ガスが発生し、
船乗りの命を奪うという説もある。
さらに、ある種の毒蜘蛛がバナナの房に潜んでいて、
それに刺されて多くの船員が死んだという説もあり、
船にバナナを積むのは縁起が悪いという迷信を強めている。

7、船の禁句

海運の初期から、「さようなら」「溺れる」などの言葉は
船上では使わないこととされていた。
また、「グッドラック」という言葉は不吉をもたらすと考えられていたため、
船員は口にすることができなかったという奇妙な説もある。

万が一、「グッドラック」と言われた場合、その不幸を覆すには、
素早くパンチを繰り出して(相手の)血を抜くしかなかった。


「グッドラック」と何気なく励ましたら、
いきなりゲンコツが飛んできて血を噴かされたら、
本当にたまったものではありませんね。

バナナを乗せない船はもうないでしょうし、
金曜日に出港するなと言われても、戦争中では
そんなこと気にしている場合ではなかったでしょう。


また、ジンクスや「縁起物」は、
その船ごとに伝統的に決まっていた例もあります。

ちなみに、第二次大戦の潜水艦で実際に担がれていた例としては、
USS「フライヤー」ではコーヒーは絶対にヒルズブラザーズ一択でしたし、


USS「レクイン」(ピッツバーグで今回見てきたあれです)では、
ピーナツバターはピーターパンでないとダメ、とかがありました。


ソントンじゃダメなのか

■潜水艦とお守りとしてのペット

かつてこのブログでも戦争と動物というシリーズで紹介しましたが、
そのジンクスの一つに動物があり、
潜水艦にはしばしば動物が持ち込まれました。

「軍艦猫」として最も歴史的に有名だったのが、
かつてこのブログでも紹介したことがある、
「アンシンカブル(不沈の)サム」
と呼ばれた白黒のハチワレ猫に違いありません。

World Of Warships - Head Over Keels: Unsinkable Sam 

しかし、ご覧になるとお分かりですが、
「不沈のサム」は船のお守りなどになっておらず、
むしろ彼が乗った船は3隻沈んだわけですから、
最後にはセイラーの間ですっかり怖がられてしまっています。




「シルバーサイズ」と同じ潜水艦USS「シラーゴ」SS-485では、
ハチワレの猫を飼っていたようです。
ちゃんと専用の救命ジャケットも作ってもらっていますね。
ジャケットには彼の「マックス」という名前が書かれています。

特に猫は、古来より「船のお守り」とされてきたので、
ジンクスを何かと担ぎがちなサブマリナーにとって、
ペットというより「守り神」的な意味があったようですが、
(結果的に不沈のサムことオスカーは別ね)

潜水艦に連れ込まれる方もいい迷惑ですが、
ご利益があったのか、「シラーゴ」は無事戦後を迎えました。

古来より、猫は船のラッキーシンボルとされ、
厄除けや幸運をもたらすとされてきましたが、
より実際的な理由としてはネズミの発生を抑えるためでした。

黒死病の発生には、船内のネズミが原因とされていました。

現在のアメリカ海軍は条件付きで船猫を許可しています。
まず第一に、その猫がすべての予防接種を終えていること。
次に、艦内の獣医治療施設に登録されていること。
そして最後に、指揮官がその猫を承認していること。

艦長が猫嫌いだったらアウトって話ですか。

これらの条件をすべて満たせば、艦猫は米海軍の艦艇に大歓迎されます。

最も海軍の船と一言で行っても大きさも機能も様々で、
ペットを飼えるスペースがある船もあれば、そうでない船もあるので、
この質問に対する明確な答えはありません。

ただ、言えるのは、艦内でペットを飼っている人は、
確実に海軍の規則には反しているということです。



というわけで、現在アメリカ海軍では猫を配備していませんが、
第二次世界大戦中は、猫を潜水艦に正式に「装備」しました。

もちろん任務は潜水艦の中をパトロールしてネズミを獲ることです。
猫がいないと、ネズミが食糧を食い荒らし、ロープを噛み切り、
船内に病気を蔓延させる可能性があるので切実だったのです。

現在、海軍の船に猫を乗せることは無くなりました。

現代の海軍の船には、すべての人員の動きを追跡する
高度な生体認証セキュリティシステムを搭載していて、
すべての乗員が記録されているのですが、猫を承認しない限り、
緊急時に猫の居場所を確認することができなくなり、
生存を追跡することは困難になってしまったからです。

もちろんこれは海軍だけの傾向で、普通の船には案外多くの猫が
船員たちの友人として、乗り込んでいるものです。


ところで第二次世界大戦中、海軍の艦艇における猫は大変人気があり、
この時期、多くの潜水艦にマスコットとして犬や猫が配備されました。


「ペニー」という黒い犬がいたのは、
USS「ガーナード」(Gurnard SS-254)

7回の哨戒を成功させ、叙勲もされた優秀艦です。
戦没しなかったのは黒犬のご利益でしょうか。

犬もペットとしてだけでなく、役目がありました。
巡視船が外国の海を航行する際に、
危険を知らせたりするなどの番犬としての任務です。




「ホランド型」という最初のアメリカの潜水艦のタイプ、
この31番艦USS S-31(SS-136)です。
この潜水艦にもペットを連れ込んだ人がいて、
その名前が「ザ・マリオット」であるというのですが、



猫?と思ったらキツネでした。
キツネもお守りになったのか、S-31はホランド型ながら
第二次世界大戦で8回もの哨戒に出て生き残りました。


驚くべきことに、「シルバーサイズ」にも、その時その時で
多数のペットが持ち込まれていたという記録があります。

まず、前部魚雷室で飼われていたのが、ネズミ。
これは、潜水艦の中に発生したネズミを捕まえてペットにしたのではなく、
「飼い慣らされた」とされています。

が、捕まえたネズミを飼い慣らした可能性も微レ存。

歴史的記録?によると、(つまり正式な文書に残っているらしい)
犬が乗っていたことが2回あったそうで、
一匹はエアデールテリア、もう一匹はジャーマンシェパードの雑種。

どちらかはわかりませんが、ちゃんとラッタルを登って「乗艦」し、
どちらの犬にも「アドミラル」という名前がついていたそうです。
(ありがち。南極探査船に乗船した三毛猫も船長の名前をつけられていた)

潜水艦は甲板に乗艦してからが大変だと思うのですが、
そこから先はやっぱり人間が抱いて下ろしてやってたんだろうな。



これはアメリカ海軍の公式写真として残されている、
USS「ホエール」Whale SS-239
の、まるでモップのような犬と水兵さんのツーショットです。

「ホエール」もこのモップ犬のご利益か、11回の哨戒を生き抜き、
11個の殊勲章を授与されました。


これもUSS「ホエール」ですが、なんと雄鶏を飼っていたようですね。

いや、これ・・・本当にペットだったのか?

まあ、いつもふんだんに食べ物が食べられたアメリカ海軍潜水艦だもの。
クリスマスの日でも、彼が丸焼きになってテーブルに乗ることだけは、
決してなかった。

と信じたい。

続く。


帝国海軍搭乗員装備〜フライング・レザーネック海兵隊航空博物館

2021-11-05 | 海軍

サンディエゴにある海兵隊航空博物館、
「フライング・レザーネック・エアミュージアム」の室内展示は
他の軍事博物館に比べると量的に微々たるものです。
その分フィールドの航空機展示が充実しているわけですが、
その少ない室内展示の中に、帝国海軍搭乗員の飛行服と
装備などがあったのでちょっとびっくりしました。

ちなみにタイトル画像は適当なのがなかったので
無駄に動感のある加工をほどこしてみました。

元写真


ガラスケース一つが全部帝国海軍コーナーです。
これにはちょっと驚きました。

考えたら、これまでわたしは海軍搭乗員の飛行服を
こんな近くで、まじまじと見たことがなかった気がします。
ブログ開設当初、飛行服の搭乗員を何人も描きましたが、
 その頃は搭乗員の写真という写真が全部白黒なので、
本当はどんな色なのかわかっていなかったのでした。

ここでこうやってあらためて実物を見て思ったのは、
まず色が想像より「茶色」だったこと。
もっとカーキというかオリーブドラブを想像していましたし、
パラシュートのハーネスもこんなグリーンだったのも意外でした。



どういう経緯でここに来た展示品なのかはわかりませんが、
おそらく今までで見た中で最も丁寧な解説がされています。
せっかくですのでABC順による現地の説明を中心として紹介していきます。

■ 第二次世界大戦の海軍フライトスーツ


【航空帽と飛行眼鏡】Flight helmet/flight goggles

タイプ30とあるので、サンマル式、1930年制式の航空帽です。
内側に毛皮がないので夏用です。
ラバウルなどの航空隊員の写真では暑いところなのに
毛皮のついた航空帽を被っている人が結構いましたが、
上空はどちらにしても寒いので冬用で通していたのでしょう。

航空帽の下に防寒用の毛糸の目出し帽みたいなのをつけていますが、
素材が綿なので、陸軍の「第二種航空覆面」(夏用)と思われます。

ちなみに海軍ではヘルメットのことを航空帽と呼びましたが、
何がなんでも違う名称にするため、陸軍ではこれを
「航空頭巾」
と呼んでおりました。(前にも書いたかな)
ゴーグルはどちらも「航空眼鏡」と一緒でしたが、
それは後期には同じ種類のものを装備していたからです。

ゴーグルのレンズ周りのステッチは
「眼鏡縫い止め糸」と名称があり、ゴーグルのフレームには
空気穴があけられています。



【航空手袋】Flight gloves

手首から先はスウェード、その他は表皮を使用しています。
海軍の手袋は名前を書くためのキャンバス布が手首部分に貼ってありました。

この手袋は状態が良く、一度も使用されていないように見えます。


【航空衣袴/こうくういこ】Flight suits

フライトスーツ=「衣袴」は陸海軍共通名称です。
衣袴なんて言葉、現在ではまず使われませんけどね。

フライング・レザーネック航空博物館(以後FLAMとする)の解説によると、

「初期のフライトスーツは硬くてしっかりとした生地で作られていました。
素材はウールギャバジンを分厚く織ったもので、
ツナギかあるいはツーピースというスタイルを採用していました。
戦争後期になると、日本でウールが不足してきたので、
製造業者はフライトスーツに
綿シルクや綿サテンを使いました」

物資欠乏は実用的な素材から始まったので、シルクやサテンなど、
夏用の贅沢素材を投入するしかなかったということです。

それから、海軍搭乗員はよくダブルの襟からマフラーを覗かせていますが、
このフライトスーツは救命胴衣で見えないものの、
どうやらシングルカラーのように見えます。

海軍と陸軍のフライトスーツの大きな違いはダブルかシングルかだったのですが、
戦争も末期になるとダブル襟のスーツはウールの不足もあってできなくなり、
シングルカラーになりました。
海軍のダブル襟が大好きなわたしにはなんとも残念な変更です。

右袖に旭日旗が付けられていますが、正式には
ここに付けるのは日の丸だったように記憶します。

不時着した航空機の搭乗員が、アメリカ兵と思われて
民衆にリンチに遭い、殺害されたという事件以降、
本土防衛にあたる搭乗員は日の丸をつけるようになったと。

日本人とアメリカ人の違いくらいわからないか、と思いますが、
ヘルメットやゴーグル、あるいはマスクなどで
顔や髪が隠されていると、一種のパニック状態になった民衆は
敵兵だと思い込んでしまったのかもしれません。

ちなみに、パイロットのことも、海軍は「搭乗員」
陸軍は「操縦者」と称していました。
何がなんでもおなじにしたくなかったのね・・。


「九七式縛帯(ばくたい)」Flight Harness Type 97

落下傘のハーネスのことは陸海軍ともに縛帯と呼んでいました。
この97式というのが紀元二千六百年であった1940年の3年前、
1937年制式であるということまでは流石にアメリカ人にはわからないでしょう。
97とはMk.97のことだと思っていたかもしれません。

「97式ハーネスは、本体に取り付けられたDリングから
二つのバネ付きフックを外すだけで、パラシュートパックを
取り外すことができたため、現場に大変好まれたタイプでした」

とあります。

【救命胴衣】 Navy Float Vest

「フロートベストは高品質の綿でできており、
22本のチューブ状のシリンダーにはカポック繊維が充填されています。
カポック繊維はパンヤとも呼ばれる落葉樹の実から取れるもので、
浮力を持たせるために最初のライフジャケットにあしらわれました」

こういう書き方をしているところを見ると、
アメリカ軍の救命胴衣は別のものを使っていたのかしら、
と思って調べたら、あちらも救命胴衣は「カポック」ですね。

もともとはインドネシア語による木の名前なのですが、
この頃の名残で、今でも自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。

というわけで、海軍航空搭乗員も、陸軍航空操縦者も、
航空装備一式を身に付ける順序は、

1、航空衣袴(つなぎ)を白絹のマフラーと共に着用

2、その上に救命胴衣をつける
胴衣の背中部分から出ている布を股に潜らせ、紐を胴に巻いて前で結ぶ

3、縛帯をその上から装着する
両足から履いて上に引き上げ肩にかける

以上

うーん・・・これは・・・。
いったん装備してしまったらトイレに行けなくなること必至。
まあ、基本軍用機にはトイレなんてないですけどね。

■ 第二次世界大戦における日本軍の「ギア」



搭乗員服だけでなく、その他の装備も展示されています。


【フライトコンピュータ】Flight Computer Type 4 Model

写真にはあるのに、どこを見ても現物が写っておりません。
「このフライトコンピュータは大戦中のものとしては
最もよく使われていたもので、搭乗員のズボンの腿の部分に装備されていました」

とあります。

その後色々調べるうちに、たとえばこの海軍搭乗員コーナーも、昔は
これらのものとか、フル装備の搭乗員の写真があったみたいなんですが、
いつのことなのか、規模が縮小されて展示が減ったようなのです。



海外のサイトで扱っていた同じ海軍搭乗員用フライトコンピュータ。
飛行中にフライトやナビゲーションに必要な情報を入力するもので、
表面のダイヤルとスライドは裏面に沿って回転します。
対気速度アームは左右に回転し、ハンドルに沿って上下に動きます。


【二式落下傘】Parachute Type 2

二式、すなわち1942年、昭和17年式の落下傘です。
日本軍の落下傘は独占企業だった藤倉工業株式会社が製作していたので
陸海軍の大きな違いはなかったとされます。

「タイプ2のパラシュートは、手動で展開され、
開傘には2.5秒を要しました。
パラシュートパックのタグには、
『注意ーパラシュートは毎月一回たたみ直す必要があります』
と書かれています。
パラシュートの梱包履歴カードは、このラベルの下に保管されていました」



1ヶ月に一度は畳み直さないと、いざという時に
開かないという可能性が大いにあったのですね。

「空の新兵」という陸軍落下傘部隊のドキュメンタリーで、
傘を畳むところを教わるシーンがありましたが、
なにやら定規を使って超面倒そうな作業を、
「命に関わる」ということで超真剣にやっていました。



【九二式航空羅針儀二型】Compass, Type 92 Model 2

別のサイトで見た製造プレートには「横河電機製作所」とありました。
横河電機は現在では工業計器の分野で国内第一位、世界第6位の大企業です。

大正年間に創立され、戦前は計測器メーカーとしては国内最大手でした。
航空・航海計器に強く、大戦中、軍需によって急拡大した企業です。
戦後はコンピュータの分野に進出し、工業計器・プロセス制御機器メーカーの
巨大グループを形成しています。

この羅針儀は三菱AM6零式に搭載されていました。


日本海軍の航空機用に製作されたもので、直読磁気式。
大変立派な木製の収納箱に収められています。

コンパスレンズの5時の位置に、錆びて変形したつまみがありますが、
これは周りのガイドを0〜360度回転させるための調整ネジです。

パネルの下部にある2つのつまみを回してネジを外すと、
引き出し式のコンパスを照らすランプと、補正調整機構があります。



木箱は持ち運びのために堅牢な革ベルトが取り付けられています。
機体に取り付けた後の木箱は不要になったのでしょうか。



前面のスリットポケットにはコンパス補正カードを入れます。



零戦のコクピットに装備された羅針儀(赤部分)。
また、中島の九七式艦上攻撃機(魚雷爆撃機B5N2ケイト)にも使用されました。



【速度計三型】Airspeed Indicator Model 3

速度計のことですが、これも三菱A6M零式戦闘機装備のタイプです。
数字が二重になっていますが、針が一周したら、
つまり16以上は内側の数字を読むようになっているそうです。


【ティーセット】Tea Set

ammo、つまり弾薬を加工して作ったティーセットだそうです。
残念ながら現地に現物はありませんでした。


【徳利・箸】

現地の英語の説明はありませんでした。
誰が見ても酒瓶と箸であることはわかるからでしょう。

箸袋は皮の留め具がついており、手洗い可能、
しかも二箇所に二膳の箸が収納できるようになっています。
二食外で食べられるってことですね。

搭乗員は機上では箸も使わなかった(握り飯)でしょうし、
酒徳利はさらに持ち込むはずがないのですが、
これらがなぜここに展示してあるのかは謎です。


「航空時計」

これも説明なし。
よく搭乗員が首から下げているあの時計ですね。
ストラップになる白い紐がついています。
それにしても保存状態がいいですね。


秒針付きで、文字盤には蛍光塗料が使われています。

搭乗員が状況開始前、時計を合わせるシーンを映画で見たりしますね。
隊長が少し前からカウントを始め、ゼロで
「テー」と整合させるというあれです。

なんだかんだ言って、この航空時計の実物を間近で見るのは初めて。
しかもそれがアメリカのサンディエゴだったという(笑)


零戦の模型の向こうに見えているのって、
もしかしたら墜落した零戦の機体の一部なんじゃないんでしょうか。

現地にもHPにも説明がないので、ご紹介できなくて残念です。
しかも、この写真を撮ったときにはわたし自身にもわかっていなかったという。


続く。





世界初の空母決戦、珊瑚海海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-23 | 海軍

さて、スミソニアン博物館の空母展示、空母の開発の歴史に続いて
空母の歴史を語ろうとすればそれは当然真珠湾攻撃から始まるわけです。

日本軍のこの歴史的な奇襲攻撃が「空母元年」の幕を開いたといえます。

■ 1941年の憂鬱な日々

次のコーナーは、連合国にとっての臥薪嘗胆な時期、つまりそれは
日本の立場から見ると日本が快進撃していた時期についてです。

「The Groomy Days Of 1941」

と題された最初の文章を見てみましょう。

太平洋艦隊の3隻の空母は真珠湾における戦艦と同じ運命となることから逃れたものの、
日本軍は少なくとも米国艦隊を封じ込めるという目的に一部成功しました。
彼らは今や、米海軍による深刻な脅威を恐れることなく、
東南アジアの征服を進めることができるようになったのです。

グアム、ウェイク、香港はすぐに陥落し、1941年が終わる前に
フィリピンとマレーシアが侵略されました。


12月10日、英国のみならず世界を震撼とさせたのは、
戦艦H.M.S. 「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦H.M.S.「レパルス」が
シンガポールから航空援護なしでマラヤ東部に向けて航行中、
サイゴンからの日本の航空機の攻撃によっていとも簡単に撃破されたことです。

1942年の春までに、ニューギニアの一部を除いて、
日本はオーストラリアの北にある南西太平洋地域全体を征服し、
戦争を続けるために必要な石油と原材料をタンカーと商船で持ち帰ることができました。

「インド洋の惨事」

と題された写真です。

セイロン島(スリランカ)を拠点とするイギリス艦隊の脅威に対抗するため、
そしてインドからの連合軍の援軍が、ブルーマとベンガル湾での
日本の前進を妨害するのを阻止するために、
空母攻撃部隊は1942年3月出航しました。

それは連合国海軍にもたらされる一連の災厄の始まりでした。

「日本の勝利」

他国の空母艦載機によって沈められた世界最初の空母の最後の姿です。
「勝利の神ハーメス」は、インド洋セイロン島でのイギリス軍施設への
日本の襲撃によって失われました。

運命の1942年4月9日 、英国の巡洋艦、駆逐艦、商船、航空機の損失はあまりに大きく、
英海軍東洋艦隊の残党はアフリカの東海岸に撤退することを余儀なくされ、
これにより残りのインド艦隊は完全に日本軍に掌握されました。

 

■ デスティネーション・トーキョー

Doolittle Raid

おなじみ?ドーリットル空襲の歴史的な位置付けは、
それまで優位だった日本に脅威を感じていた連合国が、
この出来事ですっかりやる気?を取り戻したことかもしれません。

現地の解説にもこのようにあります。

1942年4月18日、日本の首都が爆撃されたというニュースで、
連合国全体の士気が大幅に向上しました。
空母「ホーネット」から飛び立った16機の陸軍B-25爆撃機が、
日本のさまざまな標的に直接の攻撃を与えたのです。

ここでスミソニアンのテーマ的には、空母で始まり、空母で押されていた戦局を、
空母から飛び立った爆撃隊をきっかけに押し戻すことになった、という
「空母尽くし」で美しくまとまっていることにご注意ください。

 

The Doolittle Raid l Photos | Defense Media Network

空母の甲板から大きな爆撃機を発進させるというのは
あまりにも画期的で、飛ぶB-25の搭乗員はもちろんのこと、彼らを甲板から
飛ばせる「ホーネット」の海軍軍人たちも冷や汗ものだったことでしょう。

そもそも、空母というものは
「飛行機を積んで現場に行き、帰ってきた飛行機を甲板に着艦させて持って帰る」
ためのものです。

爆撃機B-25ミッチェルの場合、何とか飛び立つことはできても、
着艦することは物理的にも構造的にも100%無理なのですから、
真珠湾でアメリカ人の度肝を抜いたはずの日本側が、
この意表をつく作戦にそれ以上に驚いたのはいうまでもありません。

何度も当ブログでいうように、ドーリットル隊の日本攻撃の
実質的被害ははっきりいって「Do little」なものでしたが、実は
この作戦はどんな被害を与えたかということよりも、
それまでの歴史上何人たりとも考えつかなかった作戦を練り上げ、
形にしたということに意味があったといえましょう。

WORLD WAR II: The Doolittle Raid proved America and the Allies could win |  Features | albanyherald.com

スミソニアンの解説にもこうあります。

B-25の襲撃は完全な驚きであり、全機がほとんど、
または全く失敗することなく目標を達成しました。

よく言われるように、勝敗の転換点はミッドウェイ海戦でしたが、
ドーリットル爆撃が転換させたものは英語でいうところの「モラル」、
つまり国民全体の士気が大であったということになります。

ドーリットル隊のうちの15機の爆撃機が燃料を使い果たし、
8人の乗組員が作戦後中国で墜落しました。

彼らは1943年に中国大陸からイランに逃亡しています。


■ ザ・ファースト・オブ・メニー

この写真を貼るのは少なくとも二度目という記憶があります。
シカゴのオヘア空港の一隅にあるオヘアミュージアムを紹介したときです。

空港の名前となったエドワード「ブッチ」オヘア少佐
大きな目で日米戦を見た場合の「個人の勝敗の転換点」のシンボルとして
「サッチ・ウィーブ」を編み出したサッチ少佐と共に名前を挙げられています。

博物館の解説を見てみましょう。

 

戦争の初期にはアメリカ側は勝利と英雄に縁のない状態でしたが、
1942年初頭の災厄と敗北のなかから、戦闘において際立った戦果を出した
2人の戦闘機パイロットが出現しました。

「ブッチ」オヘア少佐(左)とJ・S「ジミー」サッチ少佐(右)は、
南西太平洋での最初の日米海軍の戦いが行われた時、これに参加していた
空母「レキシントン」戦闘機戦隊3(VF-3)の戦隊の仲間でした。

戦隊の司令官であるサッチは、優れた性能の日本のゼロ戦を戦うため、
戦闘戦術を編み出し、機動の開発を支援した貢献者です。

ブッチ・オヘア少佐は海軍の最初のエースになり、
卓越した空中戦で名誉勲章を授与されました。

1942年2月20日、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
「レキシントン」を攻撃してきた
5機の日本の爆撃機を4分で撃墜しています。

オヘアは1943年の夜戦中に撃墜され戦死していますが、
米海軍機によるフレンドリーファイアー(同志討ち)と言われています。

そうだったのか・・・知らんかった(´・ω・`)←ワスレテタダケカモ

「長生きしたければチームで戦え」

海軍のF4Fワイルドキャット戦闘機が、一騎打ちでは
日本のゼロ戦に勝てないことが明らかになったとき、

ジミー・サッチの哲学は発展しました。

いわゆる「サッチウィーブ」がその答えでした。

これはチームの攻撃的な戦闘機の狙いを捨てるように設計された独創的な着用戦術です。

図を見ていただけば、零戦と一騎討ちを避け、一機が逃げると見せかけて
進路を誘導し、そこに「ウィーブ」(編み込む)ように割り込んできた別機が、
零戦の進入路をカウンターして迎え撃つメソッドが描かれています。

「サッチウィーブ」は米海軍の標準的な手順となり、他の連合国空軍に採用されました。

■ ウェーク島攻撃

1942年初頭、米軍の空母部隊は、マーシャル諸島の日本軍の施設と、
1941年12月23日に米海兵隊駐屯地から日本軍に奪われたウェーク島に対して
報復攻撃を行いました。

写真は「エンタープライズ」所属のダグラスTBDデバステーター魚雷爆撃機で、
1942年2月24日、ウェイク環礁上空を飛行しています。

これらの先駆的な攻撃作戦は敵にほとんど損害を与えませんでしたが、
米国の空母パイロットたちにに貴重な経験値を提供しました。

 

■ 珊瑚海海戦

 

1942年1月、日本軍はニューブリテン島でラバウルを占領し、
そこで主要基地を構築していました。

日本の次の目的はポートモレスビーでした。
しかし珊瑚海のオーストラリアの基地は日本の空爆に対して脆弱ではありませんでした。

日本軍が計画したMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦、モ号作戦とも)では、
日本軍はソロモン諸島のツラギ島とニューギニア南東端のルイジアデス島に
水上飛行場を設置することを目的としていました。

しかし、4月中旬までに、真珠湾の米国太平洋艦隊のコードブレーカーは、
日本軍が南太平洋での攻撃の準備をしていること、
そしてポートモレスビーが目的であることを知っていたのです。

画像が不明瞭でもうしわけありません。
現地の説明によると、これは日本製の爆撃照準器で

IJIN BOMB AIMING APPARATUS MODEL2

というものだそうです。
初めて見聞きするのですがIJINで調べてもわかりませんでした。

説明によると、

「日本海軍では2種類の爆撃照準器が使用されていました。

1つはオプションの照準器で、もう1つはモデル2のような機械式の照準器でした。

このタイプの照準器は、通常の急降下爆撃ではなく水平爆撃に使用されました。

使われたのはほとんどが空母ベースの戦闘機と爆撃機です。

正しい爆弾の照準点は、ターゲット、そして風向、速度などの要素によって補正するために
さまざまなレバーとノブを調整することによって決定されました。
この照準器1932年に東京ケイキセイサクショによって製造されました」

トウキョウケイキセイサクショはおそらく現在の東京計器だとおもわれます。

同社の沿革には照準器を作っていたとの記述はありませんが、

古くは「三笠」「大和」「武蔵」の羅針儀も作っている会社で、
現在もレーダ警戒装置や慣性航法装置を防衛省に納入している会社です。

それにしてもIJINの漢字がなんだったのか気になるなあ・・・。

偉人?

■ 珊瑚海海戦

珊瑚海海戦の概要図です。

まず赤が日本軍、青が米艦隊で、右上の赤線は「翔鶴」「瑞鶴」。
左上からの赤線は「祥鳳」で、レキシントン艦載機に撃沈されたことがわかります。

沈む「祥鳳」

「祥鳳」は第二次世界大戦で最初に沈没した日本の船になりました。
魚雷二発を受けて数分の間に轟沈したということです。


そしてみ右下から進行している青線が「レキシントン」「ヨークタウン」です。

その「レキシントン」は駆逐艦「オネショー」(そんなのあるのか)「シムズ」とともに、
「瑞鶴」の高橋赫一率いる急降下爆撃隊に沈められました。

「ヨークタウン」の爆撃機に攻撃を受ける「翔鶴」ですが、
このときに「翔鶴」が受けたのは一発だけでした。

フランク・ジャック・フレッチャー中将は航空畑ではなく、
南太平洋に進出してくる日本軍を迎え撃つために集められた
連合国海軍の司令官(TF17)でした。

フレッチャーは二隻の空母、二隻のオーストラリア海軍の巡洋艦を含む
補助艦隊としての巡洋艦、駆逐艦、油槽艦の指揮を執りました。

アダム・オーブリー・W・フィッチ中将は「レキシントン」勤務などの経歴もある
海軍の最も経験豊かな搭乗員で、機動部隊の航空指揮官として組織を行った人物です。
高木中将率いる真珠湾攻撃にも出撃した「翔鶴」「瑞鶴」含む機動部隊に対し、
これを「レキシントン」「ヨークタウン」で迎え撃った珊瑚海海戦は、
歴史始まって最初の空母艦隊同士の決戦となりました。

高木武雄中将は帝国海軍の空母機動部隊を指揮し、
ポートモレスビー、ツラギなどへ進攻を阻む同盟国の軍艦を撃破し、
オーストラリアの海軍基地の空襲による撃破を試みました。

2隻の大型巡洋艦に加えて、軽空母「祥鳳」が
五藤存知中将の護衛艦隊に配属され、侵攻グループを保護していました。

五藤存知(ごとうありとも)などという軍人名をアメリカで見ることになろうとは・・。

「戦闘の生存者」

ダメージを受けたドーントレスがかろうじて「ヨークタウン」に着艦しました。
日本の空母が攻撃されている間、「レキシントン」のレーダーは、
こちらに向かってくる日本の爆撃機を察知していました。

その後「 ヨークタウン」は、日本の雷撃機によって発射された8つの魚雷を
身をよじるようにしてかわしましたが、
363 kg爆弾がフライトデッキを直撃し、4階下のデッキまで突き抜けてから爆発し、
乗員のうち66人が重度の火傷によって亡くなるという惨事になりました。
しかし「ヨークタウン」は生き残ることができました。

「淑女の死」Death of A Lady

フレデリック・シャーマン大尉による必死の機動にもかかわらず、
レキシントンは魚雷と爆弾に見舞われながらなんとか航行を続けましたが、
1時間以内に火災が発生し、午後12時47分に突然、
貯蔵タンクからのガソリン蒸気が発火し、壊滅的な内部爆発が船を揺さぶりました。

さらに爆発が続き、火事が制御不可能になったため、
午後5時7分、シャーマン大尉は総員退艦を命じました。

乗員が舫を伝って海に脱出している様子がわかります。
近くには駆逐艦が控えていて怪我人を収容しました。
このとき艦内に取り残された乗員は一人もいなかったそうです。

駆逐艦に移乗したシャーマン艦長は魚雷による沈没を命じ、
彼女は216名の乗員の亡骸と共に海に姿を消していきました。

 

続く。

(前回の予告は何かの間違いで、ミッドウェイはこの次でした。<(_ _)>)


真珠湾攻撃と空母〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-19 | 海軍

スミソニアン博物館の空母展示、館内に艦内を再現し、
パイロットのレディルームを再現しただけではありません。

ちょっとした「空母の歴史コーナー」が展開されていました。

 

■ 史上初の軍艦での離着艦

このブログでも何度か取り上げたことのある、
ユージーン・イーリー(Eugene Ely)USS「ペンシルバニア」に着艦した瞬間です。

Eugene Ely and the Birth of Naval Aviation—January 18, 1911 | National Air  and Space Museum

自動車のセールスマンだったイーリーが歴史に残る飛行家になったのは、
たまたま彼が飛行機の操縦を始めた時期にカーティスに出会い、さらに
海軍の初期の軍事的野望をかなえる計画の段階に関わったからといえます。

最初の実験は軍艦からの離艦でした。
カーティス・プッシャーというこの飛行機をの写真を見ると、
よくもこんなもので空を飛ぶ気になるなというくらいデンジャラスです。

しかもパイロットの服装がスーツに革靴、身を守るものが
上半身に巻いた自転車のチューブと皮のゴーグルっていうね。

Eugene Ely Taking Off From Uss Pennsylvania Photograph by Us Navy/science  Photo Library

USS「バーミンガム」で行われた史上最初の航空機離艦実験の瞬間です。
ランディングする甲板が下向きになっているのはツッコミどころ?

これじゃ飛行機は普通落ちますよね。

と思ったらこの後想像通りカーティス・プッシャーは下降し、
車輪が海面に取られてイリーは水浸しになりながらなんとか海岸に着陸しました。

しかし、これが記録としては史上初の発艦ということになりました。

San Bruno and the birthplace of naval aviation | Local News |  smdailyjournal.com

発艦が完璧なものではなかったにもかかわらず、海軍は
今度はさらに難問である着艦に挑戦することになりました。

「ペンシルバニア」の甲板には、着艦ロープが何本も
砂袋に繋げられて飛行機の制動を止めるために設置されています。

飛行機の機体にフックをつけ、甲板のロープをひっかけて止める、
という着艦のセオリーはこの時に生まれ、現在も変わっていません。
カーティス・プッシャーもホーネットも、理論としては同じ方法で着艦しているのです。

これが1911年1月のことです。

Eugene Ely

わずか9ヶ月後、「死ぬまで飛び続ける」と豪語したイーリーは
その言葉通りUSS「メーコン」からの着艦エキジビジョンの際、
機体が着艦失敗して海に落ちる前に甲板に飛び降り、首の骨を折って死亡しました。

「観客は記念品を求めて残骸に群がり、手袋や帽子を綺麗に持ち去った」

という嫌な逸話が残されていますが、彼の手袋と帽子は
おそらく彼とともに甲板にあったものだと思うし、
この写真によると皆残骸を遠巻きにして眺めていますよね。

「手袋と帽子を持ち去った」

のは、甲板にいた人のような気がするのですが、まあどうでもいいか。

■ 最初の空母

空母「ラングレー」USS Langrey CV−1 1922

と写真を出したところでなんですが、「ラングレー」は実は
アメリカ海軍最初の航空母艦ではありません。

実は石炭輸送船を改造した「ジュピター」が最初となります。
全長165mで排水量1万1千トン、航空機の格納とマシンショップのために
十分なスペースがあるとされていました。

その後ノーフォーク海軍工廠でフライトデッキや艦載機エレベーターに
様々な改装が試みられたすえ、USS「ラングレー」が1922年に誕生しました。
「ラングレー」の名前は、偉大な天文学者であり、第三代スミソニアン協会会長
サミュエル・P・ラングレーに敬意を表して付けられました。

就役後何年にもわたって「ラングレー」は、初期の海軍航空の基礎、
戦略やその組織を含む体制づくりに大きな成果を残しました。

1937年にはUSS「テンダー」(航空輸送艦)に改造されて就役していましたが、
1942年2月27日、ジャワで陸軍の飛行機を輸送中日本軍の攻撃によって沈没しています。

空母「レンジャー」USS Ranger CV-4 1934

1920年代の終わり頃、アメリカ海軍は「ラングレー」、「レキシントン」
そして「サラトガ」の三隻を保有していました。
その3隻の運用経験は初めて空母として起工されることになる
次世代の空母USS「レンジャー」に生かされることになります。

1934年の6月4日に命名が行われた「レンジャー」は、わずか1万4千500トン、
最高速度は時速55kmで、米国で最も遅い「艦隊」空母という特徴?がありました。

排気は、飛行中に水平位置にスイングできる6本の煙突(3本は横)
によって払われるという仕組みになっています。

実際のところ「レンジャー」の低速、装備兵器の少なさ、そして限られた武器庫などは、
彼女が太平洋の戦線にでることに向いていたとはとても言えませんでした。

しかしながら、彼女は第二次世界大戦に突入した1942年、大西洋艦隊にあって
北アメリカで効果的に戦い、さらにアメリカ軍の侵攻作戦をサポートし、
戦争期間、最後は練習艦として任務を全うしました。

 

■ 開戦時の空母事情

 

最初の空母は1917年から1920年半ばまでに装備されましたが、
アメリカにおける初期のそれらは巡洋艦や商船、補助艦などを改造したものでした。

この期間、大英帝国ではH.M.S「ハーメス」が最初の空母として建造されています。

1922年のワシントン会議の結果、当時の海軍保有国はいずれも
戦艦と巡洋艦から改造された第二世代の空母を保有することになります。
その時点で米国、英国、日本に2隻、フランスに1隻、つまり
世界には7隻の空母が存在していました。

そしてそれらの中でも当時空母「レキシントン」「サラトガ」は、世界でも最大、
かつ最強の軍艦とされていました。

USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941 (80-G-416362).jpg

空母 レキシントン USS Lexinton  CV-2

USS Saratoga(CV-3)

空母「サラトガ」USS Saratoga CV-3 a.k.a "Sara-maru"

 

1930年代になると艦載機のオペレーションを最初から目的として建造された
空母第三世代が登場します。

しかし英国は1939年から1941年、といっても特に1941年の12月までに
10隻の空母を敵との交戦によって失うことになり、
アメリカが戦争を始めた頃の空母保有数は、

日本ー9隻
英国ー8隻
アメリカー7隻

という状態でした。

 

ここにモニターがあっていきなり日の丸が現れたので、
おお!と注目してしまいました。

ここで放映されていたフィルムは、当時の3主要海軍が
1941年12月7日当時運用していた空母を紹介しています。

フィルムで紹介されていたのは「翔鶴」に続き、

「瑞鳳」

しかしこうして漢字で表す日本の軍艦の名前って、なんて美しいんでしょうか。

わたくしごとですが、MKの名前にはこの時代の空母に使われている
ある漢字が含まれていて、このことをわたしはすごく気に入っています。
(本人はそうでもないらしいけど)

■ 真珠湾攻撃当時における日米主要人物

空母というものの歴史を語ろうとすれば、日本海軍について触れないわけにいきません。
この分野で日本は先陣を切り、当時は先に進んでいたということもできます。

帝国海軍聯合艦隊司令 山本五十六

まずはご丁寧に人物紹介から始まりました。
あくまでスミソニアンによる解説をとご理解ください。

真珠湾を奇襲するという計画は、海軍航空隊の組織と管理に精通した、
海軍航空隊の確固たる支持者である山本提督の発案でした。

山本は、その少し前である1940年、イギリス艦隊がタロントにおいて
イタリア艦隊を攻撃し成功したのからこの攻撃の着想を得ています。

彼はアメリカの工業力と戦争遂行のための潜在能力を知悉しており、
敬意も抱いていたことから、開戦には当初反対の立場でした。

山本元帥は1943年4月18日、ソロモン諸島上空で乗っていた航空機が
ガダルカナルのヘンダーソン基地から飛び立ったP-38戦闘機に撃墜され、
戦死しています。

淵田美津雄帝国海軍少佐

淵田少佐は第一艦隊の空母航空隊の指揮官であり、真珠湾攻撃の第一陣となる
183機の艦載機を率いて飛びました。

淵田は1924年海軍兵学校を卒業し、この攻撃までに

飛行時間は3000時間に達したベテランでした。

この奇襲攻撃に際して淵田が発したドラマティックな通信文は

「トラ・トラ・トラ(Tiger...Tiger...Tiger)」

でした。

淵田はこの攻撃で得た栄達とともに戦争中海軍に仕え、

終戦の時には大佐とし海軍総隊兼連合艦隊航空参謀となっていました。


あの、「トラ・トラ・トラ」って、タイガーのことじゃないんですが・・。

あれはハワイ奇襲攻撃作戦の間だけ使用する通信略語として、
「ト」の次に「ム・ラ・サ・キ」(紫)をつけて作った

「トム」「トラ」「トサ」「トキ」

の四つの略語のうちの「トラ」に、たまたま「奇襲成功」の意味が当てはめられただけで、
実際には深い意味はなかったっていうじゃありませんか。


淵田大佐はああいう人なので()自分の干支が寅ということから
こいつは縁起がいいわいと普通に喜んでいたそうですが、

これが、

「トサ・トサ・トサ」

「トキ・トキ・トキ」

になる可能性だってなきにしもあらずだったわけです。
もし

「トム・トム・トム」

だったらアメリカ軍は、これはアメリカ人を表すよくある名前の連呼、
つまり『アメリカ人をやっつけろという意味』だとか言ってたかもしれません。

しらんけど。

南雲忠一帝国海軍中将 第一航空艦隊指揮官

真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しました。
南雲は水上艦勤務が長く、巡洋艦、戦艦、駆逐艦艦長の経験を積み
艦乗りとして高く評価されてきた指揮官でした。

彼は大成功となった真珠湾攻撃に続き、インド洋と太平洋南西における
連合国への空母攻撃を成功させました。

南雲提督は最終的に中部太平洋方面艦隊司令長官として
1944年8月、サイパン攻撃の際洞窟において自決しました。




続く。

 

 


大日本帝国の池と留魂碑〜江田島旧海軍兵学校

2021-02-05 | 海軍

「赤城」の慰霊碑のあと、大講堂の来客用入り口の方向に案内されました。

「足元に気をつけてください」

注意を受けるまでもなく、道でもなんでもない坂の斜面を
所々にでている岩を避けながら歩いていくのですが、
うっかりしていると砂で滑りそうです。

「ちょっと面白いものをお見せしましょう」

連れてきていただいたのは、大講堂の画面上に見えている池の前でした。

「あれ、おわかりですか。日本列島があります」

いわれてみれば日本列島に見える形が海に見立てた池に確認できます。

「四国がないような・・・・」

「四国ありますよ」

あー、あったあった。

小さくて草が生えていないので、見つけられませんでした。
いつこんなものができたのかはわかりませんが、
経年劣化でセメントの日本列島のあちこちに亀裂が入っています。

縁起を担ぐ向きには実に不穏な状態に見えてしまったりするでしょう(笑)

「日本列島の上にあるのが朝鮮半島なんですよ」

「おお、確かにあります」

「当時あそこは日本でしたから」

なるほど。

「韓国軍から見学がきてもこれは見せられません」

歴史的な事実だったとはいえ、お互い気まずいことになるのは必至(笑)

 

さらに、北海道のうえをみていただくと、1905年の
ポーツマス条約で割譲された樺太らしきものが見えます。

池の奥側にも何か陸地をかたどった造形物があります。

「あそこは何を意味しているのでしょう」

「北方領土じゃないでしょうか」

全く島に見えないんですが、この池のテーマから鑑みるに
日本の領土であることは間違い無いでしょう。

しかし、国後島などの現在ロシアとの間で問題となっている
島にしてはちょっと離れすぎてやしませんかね。

そこで考えたのですが、この池が建造された当時、
北方は北方でも、

占守島

を意味しているのではないでしょうか。
え?物理的に全く形が似ておらんぞ、って?

 

占守島は1875年(明治8年)以降、樺太と交換されたので
日本領として北洋漁業の操業が行われ、陸軍要塞もありましたが、
昭和20年8月18日、ポツダム宣言受諾の三日後に、
ソ連軍が侵攻してきて、日本軍との間に

「占守島の戦い」

といわれる激戦が繰り広げられたところです。

その後ソ連が一方的に自国領土編入を行い、
実効支配されたままになっているのはご存知の通り。

 

この池、どこから水が流れ込んでくるのかわかりませんが、
もし池の水を抜いたらいろいろと年代物のゴミが出てきそう。

夏場はこの池のせいで蚊が湧いたりしないのかな、
と余計な心配をしてしまいました。

戦後、連合国軍がここに進駐してきたときも、
当時の大日本帝国の領土を表している池だと彼らが気付いたら、
おそらく1日で壊してしまっていたと思われるのですが、
今日まで残されているそのわけは・・・・・・。

もともと素人仕事というか、地図そのものがあまり正確でないので、
地図を現したものだと
連合軍の誰も気づかなかったんじゃないか、
とわたしは思ったのですが、いかがなもんでしょう。

 

 


そのあと旧八方園神社の斜面下の道の案内がありました。

ここに「留魂碑」という石碑があることは、校内の移動の際
マイクロバスが前を通ることが何度もあり、知っていました。

歩いてその前を通るのは昨日に続き二度目で、
近くで碑を見たのは初めてです。

間近で碑文の写真を撮ることができましたので、
その文字も書き起こしておきます。

留魂碑之記

われら海軍兵学校四十一期会員は 

明治四十三年九月十二日入校

大正二年十二月十九日卒業

同三年十二月任官

第一次世界大戦勃発直後 我が国海上防衛の第一線に立てり

大正五年はじめて級友の死に際会せる時 

われわれは生まれた時と所を異にするも 

倶に志を同じくして江田島に集まり 

互いに死生を誓い 生涯同じ道を進むものなり

死後は 魂の故里江田島に集まらんとの議起り 

之を決定して大正八年十月五日古鷹山麓教法寺の境内にこの留魂碑を建立せり

題字はわれらの敬慕する校長山下源太郎大将の筆になるものなり

爾来われわれは時に留魂碑の下に相集まり 

戦没級友の霊を慰め同期の誓を固めきたれり

昭和四十七年留魂碑の永久保存のため之を母校の一隅に移して

海上自衛隊第一術科学校に寄贈し その管理を託すことになりぬ

同年十月二十五日移転移管を完了せり

先人いわく死生命あり忠魂不滅と

 

碑文中、

「大正5年の初めての級友の死」

とありますが、その少し前の第一次世界大戦で戦死者を出さなかった
海兵41期生徒たちが、初めてクラスメートの死に直面したのは
戦争ではなく、戦艦「金剛」艦内で事故が起きたときでした。

この事故が起こった当時、41期は全員が中尉になっていました。
海上自衛隊では卒業と同時に士官任官しますが、当時は卒業後
士官候補生として遠洋実習航海を行い、卒業1年後任官になりました。

この碑文によると、彼らは2年後、中尉に昇進していたことになりますが、
自衛隊でもそんなものなのでしょうか。

 

さて、「金剛」の事故で負傷したこの中尉は、事故後、
定係港である横須賀基地の海軍病院に運ばれましたが、亡くなりました。

海軍兵学校の「クラス」の繋がりはどの期も大変濃かったといいますが、
この41期は一入だったようで、その後彼らは級友の死をきっかけに、

死後は魂の郷里江田島に集まろう」

という思いを込めて、事故の三年後にあたる大正8年、
古鷹山山麓に海軍兵学校設置のために移転していた
教法寺境内にこの「留魂碑」を建立したのでした。

海軍兵学校41期には中将になった草鹿龍之介、保科善四郎
硫黄島で戦死し「ルーズベルトに与うる書」を遺した市丸利之助
沖縄決戦で「沖縄県民かく戦えり」の打電を残して自決した太田實
そしてキスカ作戦で奇跡の日本軍撤退を指揮した木村昌福がいます。

彼らのうち誰一人として、卒業時にクラスヘッドだったとか、
恩賜の短剣組だったという優等生はいないという意味では
(草鹿14位、保科28、市丸46、太田64、木村後ろから12位)
なかなか面白い?クラスでもあります。

この「留魂碑」は、碑文にもある通り、昭和47年に
永久保存のため本校に移動保存されました。
(そのため碑文は現代仮名遣いとなっています。)

その当時41期生はほとんどが80歳となっており、
上記で生存していたのは保科だけ、その保科も
平成3年に100歳の長寿で亡くなりました。

ところでこの「留魂碑」揮毫を行ったのは、彼らが在校時
校長であった山下源太郎中将です。

山下源太郎というと、戦前の人ならば誰でも知っていたという
センセーショナルな事件で、40過ぎて授かった息子を失っています。

それは、佐世保鎮守府長官のときに、当時10歳の四男が、
精神不安定のため待命になっていた海軍大尉飯島弘之に
計画的に刺殺されるという凄惨な事件でした。

この揮毫を行ったのはその4年後で、山下が佐世保の事件跡地を買い取り、
そこに愛息の慰霊碑を建てるなどしていた(今でもあるらしい)頃ですが、

察するにまだその心の傷も癒えていなかったことでしょう。

 

阿川弘之著『米内光政』の作中にはその事件が登場します。

山下の三男、佐世保市内八幡小学校の三年生だった四郎は、
二月九日の午後、授業を終ってしばらくキャッチボールをして遊んでいたあと、
級友たちといっしょに校門を出た。

そこへ、緋の着物と銘仙の羽織を着た若い男が近寄って来て、
「長官の坊ちゃんはどれか」と子供らに聞き、
「貴様が山下だな」
「うん。僕、山下だよ」
答えて八幡谷の坂を下って行こうとする四郎に、いきなりつかみかかった。

泣き叫ぶのを坂道の途中にねじ伏せ、隠していた海軍ナイフで
右の耳下から左耳下へ、頸部を掻き切った。
先生や近所の大人や巡査がかけつけた時、子供はすでに絶命していた。

市役所の方へ逃げて行く犯人が、間もなく逮捕された。

「なぜあんなことをやったか」
と聞かれて、「僕を侮辱するからだ」と男は答えた。

子供の遺体は、取り敢えず担架にのせて海兵団の医務室に運び込まれた。
急報を聞いて来た山下夫人の徳子は、ランドセルを背負ったまま
血に染まって死んでいる息子を見ると、
「四郎ちゃん」と言ったきり、気を失った。

これだけでも大事件だったが、犯人が飯島弘之という
海軍大尉だとわかって、騒ぎが大きくなる。
いろんな噂が立った。

飯島弘之は今でいう統合失調症で、自分の待命とは
何の関係もない佐世保鎮守府長官の、しかも息子を、下調べまでして
計画的に殺害したのは、全て被害妄想からきた行動だと言われているようです。

 

さてその山下の書いた「留魂碑」の文字なのですが、どういう理由なのか、
ノの字の払いがわざわざ消されています。

揮毫者の何らかの意図があっての省略だとしか思えないのですが、
山下源太郎がかつての教え子の早すぎる死と、愛息子の死を
重ね合わせた心情に意味があるのではないかというのは考え過ぎでしょうか。

一般見学のスタートとなる江田島クラブを出ると、
向かいの校舎の屋上角にこのような拡声機があるのを
ご覧になったことがあるかたも多いと思います。

わたしはこれをずっと海軍兵学校時代からある校内放送の
スピーカーだと思っていたのですが、このとき伺った説明によると、
これは戦後になって設置されたものなのだそうですが、
当時江田島には消防署がなく、火事になったときには
このサイレンで近隣に知らせるということをしていたのだそうです。

進駐軍が付けたのかどうかは聞き忘れましたが、
ここには進駐軍時代も、海上自衛隊になっても
消火用の車があったからだそうですが、道を少し行ったところに
消防署ができてからは使われなくなりました。

理化学講堂は現在武道具などを保管する物置として使われていました。

 

旧海軍兵学校跡見学・おわり


八方園と砲艦「赤城」慰霊碑:おまけ 軍神廣瀬の兄〜江田島旧海軍兵学校跡

2021-02-03 | 海軍

もういつのことだったかというくらい昔の話になりますが、
江田島の旧海軍兵学校跡を見学した時のことをお話しします。

このときの解説とご案内は海上自衛隊幹部の方にしていただきました。

まずいきなり例の「号令を聞いて育ったのでまっすぐ育った松」について

「ここは内海なので海からの強風を受けることがなく、
そのせいで松もまっすぐ育ったといわれていますね」

と科学的な「ネタバラシ」がされるというある意味ディープな始まりとなりました。

この時の話によると、兵学校時代からの松は年々寿命でその数を減らしており、
ついこの間も一本切ったということでした。

この写真に写っている桜も昔からのもので、すでにもう寿命が来かけているため、
その後ろに代替わりの桜が植えられたそうです。

次に赤煉瓦の横に移動しました。

赤煉瓦の横にあるこの建物、実はかつては特別な・・・・
そう、宮様専用の「おとうじょ」であったとか。

写真を撮り忘れましたが、この右側にある建物がそれ以外の、
つまりシモジモの者たちが使える厠所だったそうです。

どちらも作りが堅牢なので現在危険物倉庫として使っているんだそうですが、
たかがトイレなのにどんだけ丈夫に作っていたんだよっていう。

 

 

さて、次に見学させていただいたのは「八方園」です。

以前卒業式に参列した時、赤煉瓦から出ていく時左手に小高い丘があり、
そこに上っていく階段があるのに気がついたので、近くの自衛官に

「あの上に何があるんですか」

と聞いたら誰も知らなかったということがありましたが、
実はそこがあの八方園だったのです。

 

手すりのないおそらく昔のままの階段を上っていくと、
そこには思ったよりずっと開けた平地が広がっていました。

平地は長方形に切り開かれており、その一端には
いわゆる八方園、
方位版があります。

八方園にはご覧のように、国内と海外、
いろんな土地の方位を表す黒曜石の方位盤があります。

「八方園をどうやって知ったのですか」

案内の幹部に質問されました。
とっさにわたしは何が最初だったか思いを巡らせました。

兵学校の入学生が、最初にここに連れて行かれ、方位盤で自分の故郷の報告に
頭を下げることと、何より大切な皇居への遥拝を行うことを教えられたついでに、
上級生がひょいと腕時計を外して(当時の腕時計は超高級品)方位盤の横に置き、

「見ておれ」

といってその場を去ると、時計はその日のうちに持ち主のもとに戻り、

「いいか、兵学校生徒は決して不正やごまかしはしないのだ」

と誇らしげにいったという「兵学校物語」か。

それとも、映画「あゝ海軍」で、東北出身の主人公が母危篤の報を受けるも
幹事の勧めも断って兵学校に残ることを選び、ここに駆けつけて
故郷の方向に一心に手を合わせていたあのシーンだったか。

あるいは、戦後の幹部候補生がここにやってくると、少なくない者が
押し戻されるような「拒否の気」を感じるという(それはつまり
兵学校卒の”先達の霊”が海自幹部を海軍の後継者として認めていないという話)
ことを書いたエッセイだったか。


しかし、この時受けた説明によると、八方園は戦前のものとは同じではないそうです。

そう思って見ると、土台はコンクリート製であり、
明らかにデザインも戦前のものには見えません。

長方形の広場の方位盤の反対側には、碑が立っています。

ここには兵学校時代天照御大神を祀った神社がありました。
戦後進駐軍が来てから取り壊されてしまったのですが、
その後このような石碑がその跡地に建てられました。

この長細い敷地のほとんどはかつて神社の参道となっており、
この碑の場所に御神体があり、その手前に拝殿があり、と
本格的な神社であったようです。

現在はただただ長細い空き地となっている神社跡地ですが、
当時の写真などを見ると、一番奥に御神体を納めた本殿の手前に拝殿、
さらにその20メートルくらい手前に鳥居もあったことがわかります。

兵学校 八方園神社

 


ここにいるとき、八方園全体の地形が江田島全体からみても

小山のように小高くなっていることに話が及びました。

「昔は周りが海で、ここは島だった可能性もあります」

そういえば昔、兵学校のグラウンド部分は、かつての海を
海軍によって埋め立てられたものだと聞いたことがあります。

このとき、兵学校がここに建設する前の江田島の写真と地図を見せていただいたのですが、
驚いたことに、八方園以外は湿地のようになっているではありませんか。

なんでもこのとき埋め立てられた面積は7万4千坪=約24万4千㎡、
東京ドームの敷地面積4万7千㎡の5倍余であったといいます。

 

「本当に海だったんですね・・・・」

写真をつぶさに見ていくと、そんな昔の写真に、
江田島に現在存在する建築物がすでに写っています。

「水交館はこの頃からありました」

そして、現在の岸壁のところには兵学校生徒の練習船
「東京丸」が停泊しているのが写っています。

東京丸

このリンク先にもあるように、東京丸は海軍兵学校が築地から移転後、
5年もの間、赤煉瓦の完成まで兵学校生徒の宿舎となっていました。

おそらくわたしが見せてもらった写真は、ごく初期の、
まだ整地もろくに行われていない状態で撮られたものでしょう。

「坂の上の雲ではここが撮影に使われたということですが、
実際には秋山真之も広瀬武夫も、赤煉瓦の校舎完成前に卒業したそうですね」

わたしがいうと、

「寝床はハンモックでしたから、そのときの生徒も
ずっと船の中で兵学校の生活を送るのは
大変だったと思います」


どこかにこの写真がないか検索してみたら、赤煉瓦生徒館の改修について
詳しく述べているサイトの中におなじものがありました。

海上自衛隊幹部候補生学校庁舎
(海軍兵学校第2生徒館・
東生徒館
)大改修物語

これにもいかに練習船「東京丸」での学生生活が大変だったか書かれています。

ところであれ?

海軍兵学校がここにできることを決めた時、海軍は、というか国は、
この地域から神社とか民家に住む人を立ち退かせ、そのときに立ち退いた
一般人の子孫を、先の水害の時に第一術科学校が災害出動してご恩返し云々、
という話があったと思うのですが、ほとんどが海だったというのに、
「立ち退かせた」という人たちは当初いったいどこに住んでいたんでしょうか。

 

 

続いては、上ってきたのと反対側にある階段 を降りていきます。

昔かつてのままに木々の深く緑生茂る小山の斜面を降りたところに、
こんどはこんなものが見えてきます。

「軍艦赤城戦死者之碑」

「赤城」で検索すると航空母艦の情報しかトップに出てきませんが、
この「赤城」は、

「摩耶型砲艦」

の4番艦で、1890年に竣工した「最初の赤城」です。
砲艦というのは英語でいうところのガンボートで、沿岸・河川、
内水で活動する戦闘艦艇のうち、比較的大きなものがこう呼ばれました。

「赤城」は典型的な汎用水上艦で、日清戦争で活躍したことで有名です。

その活躍とは、軍令部長樺山資紀らが座乗していた輸送船「西京丸」
(民間船だったが徴用され巡洋艦代用に改造されて戦線投入された)

とともに清国海軍の艦隊と遭遇した「赤城」は、「遼遠」「定遠」「鎮遠」など
6隻の清国艦の集中砲火から旗艦「西京丸」を守り抜いたということです。

画面右上が清国海軍と戦う「赤城」と艦長坂元八郎太大尉
このあと坂元艦長は砲弾を受けて戦死し、少佐に特進しました。

赤城の奮戦(坂少佐)【明治海軍軍歌】

当時はこんな歌もあったようです。
上の錦絵も、この歌詞も「坂元」を「坂本少佐」と間違えております。
軍神なのに・・・・。

 

「赤城」はその後日露戦争における旅順攻略作戦などにも参加し、
民間に払い下げられて「赤城丸」となりました。

現存するこの「赤城戦死者の碑」というのは、「赤城」が軍艦として
戦闘に参加した際、戦死した英霊を慰めるという意図で建立されました。

「赤城」で戦死したのはもちろん坂元少佐だけではなかったのです。

ここからはわたしの想像ですが「赤城」が民間に払い下げられ、
造船会社で武器を全て取り除いたとき、不要になった主砲を一本保存して、
慰霊碑を作ろうという話が持ち上がったのではないでしょうか。

これは、この当時、まだ坂元少佐の戦死を始め、日清日露戦争で活躍した
「赤城」の記憶が人々の中に鮮明だったということだろうと思われます。

砲身をそのまま碑にするにあたり、書を浮き彫りに溶接するなど、
日本には明治時代にすでにこんな技術があったんですね。

砲の、というか碑の裏側に回ってみると、日付はなく、

琴石齋西道仙

という人が揮毫したということしか書かれておりません。

この名前、いったいどこで切れるのかさえわかりにくいですが、
本名、

「西道仙」(にし どうせん)1836−1913

琴石齋というのは雅号というかペンネームのようです。

西道仙は明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者で、
wikiによると晩年は「あちこちで揮毫しまくっていた」そうです。

たしかにこの達筆ですから、書家という肩書きがあってもよさそうな感じです。

この碑が建立されたのは、これらの情報を総合する限り、
「赤城」が民間に払い下げられた1911年から西道仙が亡くなる1913年まで、
この2年の間のできごとであることだけは確実です。

 

ところで超余談ですが、「赤城」について調べていて、
旅順攻略作戦のときに「赤城」が衝突事件を起こしていたことを知りました。

原因は濃霧で視界が悪かったからということですが、このとき沈んでしまった
砲艦「大島」の当時の艦長は、廣瀬勝比古中佐と言います。

廣瀬中佐には海軍軍人のお兄さんがいたんですね。
廣瀬ファンで伝記も読んだという人以外知らなそうですが。

このとき「大島」艦長だったのが海軍兵学校10期の広瀬勝比古。

この「大島」沈没の事故が起こったのは、実は驚くなかれ日露戦争中の
1904(明治37)年5月18日でした。

6歳年下の弟の武夫がその2ヶ月前、同じ旅順港で閉塞作戦参加中、
沈みゆく船内に部下を探しに行って戻ってきた時爆死し、
その部下思いの指揮官ぶりから、国を挙げてその死は称賛され軍神になったばかりです。

このとき兄廣瀬は、幸い?沈没事故で命を落とすことにはなりませんでした。

わたしはここでふと考えてしまったのです。

あの軍神広瀬の海軍軍人の兄という人が無名な理由は、
この事故でうっかり?助かってしまったからではないのかと。

どんなネット媒体を当たっても一切描かれていないのですが、
このときの事故で「大島」の130名もの乗員は全員救助されたのでしょうか。

ここからはわたしの予想です。

このとき「大島」には助からなかった乗員、つまり廣瀬の部下がいたと思われます。
このことがニュースになれば、艦長だった広瀬兄がその責任上、
わずか2ヶ月前、部下の命を救うために戦死した弟と比較されることは
免れなかったでしょう。

そしてそのことは「軍神広瀬の美談」に味噌をつけるとして、
海軍内の暗黙の了解のうちに「大島」の艦長が広瀬兄だったことは
秘匿されたのではなかったでしょうか。

それどころか、海軍は衝突の末「大島」が沈没したことそのものを隠し、
事件から1年も経ってからようやく喪失を公表しています。

 

海軍軍人としての広瀬勝比古はその後も海軍に奉職し、
艦長職を歴任しながら40代で予備役に入り、最終階級は少将でした。

まあ、普通といえば普通でそこそこの経歴ですが、あの軍神の兄にしては
海軍からも世間からも無視されすぎではないでしょうか。

そしてその理由はと考えると、わたしにはやはり大島事件のせいとしか考えられないのです。




 

旧海軍兵学校跡見学、もう1日続きます。

 

 


スキャパ・フローの自沈艦隊とフォン・ロイター少将の決断 後編

2020-11-22 | 海軍

第一次大戦の敗戦後、連合国の戦利品にドイツ艦隊の軍艦が奪われる前に
艦隊司令であるフォン・ロイターは全部自分自身の手で沈めてしまいました。

「スキャパ・フロー」はヨーロッパでは誰でも知っている事件ですが、
こんな歌があるくらいですから、きっとわたし(個人)が思う以上に
この、「自沈艦隊」への決断は称賛されているのかもしれません。

Scapa Flow 1919

爽やかなカントリー風の曲調ですが、作者はスコットランド出身です。

また、現在は武漢肺炎の関係で閉館していますが、
「スキャパ・フロー博物館」というものもあるのだとか。

いずれもフォン・ロイター提督に「してやられた」側のイギリス側ですが、
これは、イギリス人全体の自沈への評価を表していると考えられます。

さて、それでは今日は後編として、沈んだ艦隊の現代にまで至る
「その後」についてお話ししましょう。

 

■ サルベージ

スキャパ・フローにあった74隻のドイツ艦艇は、戦艦16隻のうち15隻、
8隻の巡洋艦のうち5隻、50隻の駆逐艦のうち32隻が沈没しました。


艦腹を見せている「セイドリッツ」

残りは浮いたままであるか、より浅い海域に曳航されて浜辺に運ばれました。
曳航され浜に揚げられた艦艇は後に同盟海軍に分散されましたが、
沈没した艦艇のほとんどは最初はスキャパ・フローの海底に沈んだままでした。

 

なぜ放置されたかというと、当時はスクラップ鋼鉄が大量に余っていたため、
引き揚げの費用は利益にならず、割が合わないと判断されたのです。

終戦後、多くの軍艦が解体されました。

沈没したままになっていた艦艇については、航海に危険であるという苦情が
地元民から寄せられたため、1923年に回収会社が設立され、
沈没した駆逐艦のうち4隻が引き揚げられています。


バーデンで進行中のサルベージ作業

この頃、起業家のアーネスト・コックスなる人物が現れ、 海軍から
26隻の駆逐艦を250ポンド(現在の11,000ポンドに相当)で購入しました。

彼は、ドイツの古い乾ドックを使用して駆逐艦を浮揚させる作戦を開始し、
1年半かけて26隻の駆逐艦のうち24隻を引き揚げるのに成功し、
その後、より大型の船舶の作業を開始しました。

必要は発明の母とはよく言ったもので、彼はこのとき、水中の艦体の穴に
パッチを当て、空気をポンプで押し出して水を押しのけ、
水面に上昇させて牽引できるようにする新しい回収技術を開発し、
この技術を使用して、数隻の船を浮揚させることに成功しました。



しかし、この方法には滅法費用がかかることが判明します。
たとえば「ヒンデンブルク」引き揚げの費用は現在の金額で130万ポンド。


「ヒンデンブルグ」

おりしも1926年の石炭ストライキにより操業はほぼ停止しましたが、
コックスは代わりに、沈没した「セイドリッツ」から石炭を掘り出し、
ストライキの終わりまでそれを使用してに電力を供給しました。

しかし「セイドリッツ」の引き揚げで大惨事が発生します。

最初に浮揚させるための試みの間に再び沈没し、その際、
引き揚げ装備のほとんどが破壊されてしまいました。

しかしコックスは全くめげずにもう一度挑戦し、艦体ががに海面に現れたとき、
ニュースカメラにその瞬間の彼と艦を目撃するためそこにいるように命じています。

コックス

アーネスト・コックスという男はいつもシミ一つないお洒落な衣装で現場に現れ、
ポーズをキメて自分を撮らせるのが常でした。

まあ要するに「そういう風な人」だったということなのですが、
彼の「こんな人ぶり」を表すのがこの経緯です。

コックスがたまたまスイスに休暇に行っている間に、
問題の「セイドリッツ」は皮肉にも偶然浮き上がってきたのです。

するとコックスは、労働者に再び彼女を沈めるように命じ、
それから
スコットランドに戻って、自分が見ている前で3度目の浮揚をさせました。
(もちろんニュースカメラもスタンバイさせていたに違いありません)

コックスの会社は最終的に26隻の駆逐艦、2隻の巡洋艦、
そして5隻の戦艦を調達することに成功し、残りの持分を鉄鋼業者に売却し、
その後引退しました。

彼に与えられた最後のキャッチフレーズは

「海軍を買った男」

会社は、第二次世界大戦の勃発により作戦が停止する前に、
さらに5隻の巡洋艦、巡洋艦、戦艦を取得しています。


■ 沈められた艦隊の「価値」

残りの沈没船は、深さ47メートルの深い水域にあり、それ以来、
それらを引き上げようとする経済的動機はしばらくはありませんでした。

しかし現在、彼女ら沈没船の所有権は幾度も変更され、小さな鉄片を回収するために
マイナーな回収がいまだに行われているのだそうです。

というのはこの頃の艦船からは最初の核実験「トリニティ(三位一体)テスト」
が行われた1945年以前に製造された低バックグラウンド綱
(核爆発の影響を受けていない大気中で組成されており、したがって

放射性核種で汚染されていない)が回収できるとわかったからです。

低バックグラウンド鋼はガイガーカウンターなどの
放射線に敏感なデバイスに使用されるため、スキャパ・フローは
限定的な用途とはいえ、宝の山といっても過言ではないのです。

2001年、海底に残っていた7隻は 1979年の古代遺跡および遺跡地域法 によって
保存されており、ダイバーはそこを訪問するためには許可が必要です。

 

ちなみに、前回お話しした、

「艦隊を沈めたロイターを呼びつけ、激怒しながら彼を非難した
フリーマントルとそれを『無表情で』見ていたロイターの図」

というのは1957年に亡くなったイギリス軍人ヒュー・デイビッドの目撃証言です。

David目撃者

当時HMS「リベンジ」乗組で、二人の提督が対峙しているのを、
デイビッドはわずか数フィートの距離で目撃しており、そのときのことを
手紙に残して歴史的な瞬間を記録してくれたというわけです。

デイビッドの証言については、BBCが特集を報道したこともあったようです。

 

最近の動きですが、2019年、3隻の戦艦「マルクグラーフ」「 ケーニッヒ」および
「クロンプリンツ・ヴィルヘルム」は、引退したダイビング業者により
ebayで中東の会社にそれぞれ25,500ポンドで販売されました。

巡洋艦「カールスルーエ」はイギリスの個人入札者に8,500ポンドで売却されています。

 

■100周年記念イベント

2019年6月21日、ドイツ公海艦隊の100周年記念に
2回目となる追悼式が行われ、フォン・ロイターの3人の曽孫が出席しました。

■ 沈没艦隊全リスト

名前  タイプ  沈没/曳航  その後

【バーデン 】戦艦  曳航 1921年に標的として沈没、英軍の管轄下に移送

【バイエルン】戦艦  沈没14:30  1933年9月に引き揚げ

【フリードリヒデアグロース】  戦艦  沈没12:16  回収1937

【グロッサークルフュースト】 戦艦 沈没13:30 1938年4月引き揚げ

【カイザー 】戦艦  沈没13:15  1929年3月引き揚げ

【カイゼリン 】戦艦 沈没14:00  1936年5月引き揚げ

【ケーニッヒ】 戦艦 沈没14:00  引き揚げられず

【ケーニッヒアルベルト】 戦艦 沈没12:54  1935年7月引き揚げ

【クロンプリンツ・ヴィルヘルム 】 戦艦 沈没13:15  引き揚げられず

【マルクグラフ】  戦艦 沈没16:45  引き揚げられず

【プリンツレゲンドルイトポルド】 戦艦 沈没13:15 1929年3月引き揚げ

【ダーフリンガー】 巡洋戦艦  沈没14:45 1939年8月引き揚げ

【ヒンデンブルク】巡洋戦艦  沈没17:00  1930年7月引き揚げ

【モルトケ】 巡洋戦艦  沈没13:10  1927年6月引き揚げ

【セイドリッツ】巡洋戦艦  沈没13:50 1929年11月引き揚げ

【フォンデルタン】巡洋戦艦  沈没14:15  1930年12月引き揚げ

【ブレンセ】巡洋艦  沈没14:30  1929年11月引き揚げ

【ブルマー】巡洋艦  沈没13:05 引き揚げられず

【ケルン】巡洋艦  沈没13:50  引き揚げられず

【ドレスデン】巡洋艦  沈没13:50  引き揚げられず

【エムデン】巡洋艦  曳航 1926年に廃止、フランスに移される

【フランクフルト】巡洋艦  曳航 1921年標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【カールスルーエ 】巡洋艦  沈没15:50  引き揚げられず

【ニュルンベルク】巡洋艦  曳航 1922年標的として沈没、英軍の管轄下に移送

【S32】駆逐艦 沈没 1925年6月に引き揚げ

【S36 】駆逐艦 沈没 1925年4月に引き揚げ

【G38】 駆逐艦 沈没 1924年9月に引き揚げ

【G39】 駆逐艦 沈没 1925年7月に引き揚げ

【G40】駆逐艦 沈没 1925年7月に引き揚げ

【V43 】駆逐艦 曳航 1921年に標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【V44】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V45】駆逐艦 沈没 回収1922年

【V46】駆逐艦 曳航 1924年除籍、フランスの支配下に移される

【S49】駆逐艦 沈没1924年12月引き揚げ

【S50】駆逐艦 沈没 1924年10月に引き揚げ

【S51 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【S52】 駆逐艦 沈没 1924年10月に引き揚げ

【S53】 駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【S54】 駆逐艦 沈没 部分的に回収された

【S55 】駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【S56 】駆逐艦 沈没 1925年6月に引き揚げ

【S60 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、日本軍に転籍

【S65】 駆逐艦 沈没 1922年5月に引き揚げ

【V70 】駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【73 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【V78 】駆逐艦 沈没 1925年9月に引き揚げ

【V80 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、日本軍に転籍

【V81 】駆逐艦 曳航 ブレーカーに向かう途中で沈没

【V82 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V83】 駆逐艦 沈没 回収1923

【V86 】駆逐艦 沈没 1925年7月引き揚げ

【V89】 駆逐艦 沈没 1922年12月引き揚げ

【V91 】駆逐艦 沈没 1924年9月引き揚げ

【G92】 駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V100 】駆逐艦 曳航 1921年に除籍、フランスの支配下に移される

【G101 】駆逐艦 沈没 1926年4月引き揚げ

【G102】 駆逐艦 曳航 1921年に標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【G103 】駆逐艦 沈没 1925年9月引き揚げ

【G104 】駆逐艦 沈没 1926年4月引き揚げ

【B109 】駆逐艦 沈没 1926年3月引き揚げ

【B110 】駆逐艦 沈没 1925年12月引き揚げ

【B111 】駆逐艦 沈没 1926年3月引き揚げ

【B112 】駆逐艦 沈没 1926年2月引き揚げ

【V125】 駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V126】 駆逐艦 曳航 1925年除籍、フランスの支配下に移される

V127 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、日本軍に転籍

【V128 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V129 】駆逐艦 沈没 1925年8月引き揚げ

【S131 】駆逐艦 沈没 1924年8月引き揚げ

【S132 】駆逐艦 曳航 1921年沈没

【S136 】駆逐艦 沈没 1925年4月引き揚げ

【S137 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【S138 】駆逐艦 沈没 1925年5月引き揚げ

【H145 】駆逐艦 沈没 1925年3月に引き揚げ

 

ちなみに、日本が戦利品として分け与えられた沈没艦隊のうち
駆逐艦2隻は、いずれも未編入のまま終わっています。

第一次世界大戦で日本が得た艦船で、実際に使用されたのは
「エレン・リックマース」「ミヒャエル・イエプセン」などの汽船で、
いずれも軍用ではなく運送船としてでした。

ドイツの軍艦は使い方がわからなすぎたってことなんでしょうかね。

 

終わり。

 


スキャパ・フローの自沈艦隊とフォン・ロイター少将の決断 前編

2020-11-21 | 海軍

戦争に負けたらその国の海軍は艦艇を戦勝国に接収されるのが慣習です。

第一次世界大戦が終わった後、敗戦したドイツは休戦規定にのっとって
処分される艦隊を敵国の港に乗員ごと移送したのですが、このとき、
敵の手に落ちる艦隊を自らの手で沈めてしまった提督がいました。

 

ドイツ降伏の1918年11月の後から、最終処分がベルサイユで決定されるまで、
連合国は公海艦隊のほとんどをイングランドのスキャパー・フローに収容すると決め、
その指揮を執ることを艦隊司令の

ハンス・ヘルマン・ルードヴィヒ・フォン・ロイター少将
Hans Hermann Ludwig von Reuter (1869ー1943)

に要請しました。

Overview: Scapa Flow - The German Valhalla - Submergedフォン・ロイター少将

今にして思えば、敵国の司令官に捕虜の管轄を全て任せるようなものですが、
そのあたり、第一次世界大戦ごろまではいわゆる「騎士道精神」に基づく
性善説が生きていたということなのかもしれません。

結論から言うとこの「信頼」は手酷く裏切られることになり、これ以降
敵指揮官に同種の権限が与えられることはなくなったと思われます。

 

さて、連合国は当初誇り高きドイツ海軍公海艦隊司令である
フランツ・フォン・ヒッパー提督に艦隊の移送を指揮させようとしたのですが

提督は、ドイツ艦隊を中立国ではなくイギリスに運ぶ措置に激怒し、
任務を拒否し、
自分の後任にフォン・ロイターを指名したということです。

しかし、フォン・ロイターもまたヒッパー提督と同じ考えでした。

ドイツ代表団がベルサイユ条約に署名する最終期限が近づいた
1919年6月21日、彼は74隻ほとんど全ての艦を自沈させてしまったのです。

 

この「自沈艦隊」についての顛末を最初からお話ししましょう。

■ 降伏

第一次世界大戦でドイツの敗戦が決まったあと、海軍で最初に降伏したのはUボートでした。
これらの中には日本軍に転籍したS60、V127のように
外国に譲渡されたものもありました。

その後、艦隊は途中までお出迎えにきた王立海軍のHMS「カルディフ」の先導で、
合計74隻の船がスキャパ・フローに収容されることになりました


ドイツ艦隊を率いるHMS「カルディフ」


「エムデン」「フランクフルト」「ブレムゼ」がスキャパ・フローに到着


■ 収容された”艦隊”

敵港に艦艇ごと収容されたドイツ軍は、敗戦に続くこの軟禁状態に完全に士気を失いました。

規律の欠如、貧しい食糧、娯楽の欠如および遅い郵便サービス。
これらの問題が累積し「一部の艦では言葉では表せない汚物を生んだ」と言います。

 食料は月に2回ドイツから送られましたが、単調で質の悪いものばかり。
乗員たちは気晴らしを兼ねて魚やカモメを捕まえることで、栄養の補給をしていました。


駆逐艦の舷側から釣り糸を垂らすドイツ人水兵たち

 

艦艇の乗員の上陸はおろか、他の艦同士の相互訪問さえ禁止されていたばかりでなく、
ドイツへの郵便は最初から、後に着信も全て検閲されました。

艦艇にはかろうじて軍医が乗り込んでいましたが、歯科医は一人も乗っていませんでした。
(なぜか特攻に行く『大和』には歯科軍医を乗せていたわけですが)

しかしイギリス軍は捕虜艦隊への歯科治療の提供を拒否しました。 
理由はわかりません。

単に人員がいなかったのかもしれないし、イギリス海軍的に
歯科治療は人道上最低限の権利とまではなっておらず、そもそも
歯牙治療に緊急性はないとされていた時代だったとうことなのでしょうけど。

 

それでも捕虜の帰国事業が行われていなかったというわけではありません。

ロイターの指揮下にある乗員の数は、到着した頃の2万人から
継続的に送還されて、徐々に人数が減っていきつつありました。

スキャパ・フロー全景


 ■ 自沈計画決行

1919年5月にヴェルサイユ条約が締結され、艦隊の運命を知ったフォン・ロイター少将は、
彼の艦隊の艦が戦利品として押収され、連合国間で分けられるという屈辱受け入れ難く、
艦艇を自沈させるための詳細な計画を準備し始めたといわれます。

それからは秘密裏に、ある一点の目標に向かって静かに作戦遂行準備が進められ、
全艦隊の関係者が心をひとつにして、決行のチャンスを待ち続けました。

そして運命の1919年6月21日がやってきました。

その日スキャパ・フローの艦隊は演習のため不在にしていました。
英艦隊が出航し終わった午前11時20分頃、ついに信号が全捕虜艦艇に送信されました。

「すべての指揮官と魚雷艇の艇長たちに告ぐ
本日付『パラグラフ11』ようそろ  抑留中隊司令」

「パラグラフ11」とは前もってフォン・ロイターが伝えていた艦隊を沈める暗号です。
その文章は、彼が配布した書類の11段目以降に次のように書かれていました。

「われわれの政府の同意無しに、
敵が艦艇の所有権を得ようとした時のみ、
それを沈めるのが私の考えである。

講和において我々の政府がこれらの艦船を引渡す条項に同意したならば、
我々を今の状態に追いやった連中の永遠の不面目という形で
引渡しは実現するだろう


ちなみに「ようそろ」という文中の言葉ですが、
英語の「Acknowledge」(認知する・知らせるなどの意)
当ブログ独自に海軍らしくこう解釈してみました。

各艦の間で手旗信号と発光信号が繰り返されると、全艦隊の乗組員たちは
一斉に、しかし静かに素早く行動を起こし、すぐに解体が始まりました。

シーコックとバルブが開かれ、内部の水道管が破壊されました。
舷窓はすでに緩められており、水密扉と復水器カバーは開いたままであり、
一部の艦艇では隔壁に大きな穴が開けられているものもありました。

艦尾から沈む「バイエルン」


艦隊には正午まで見かけに顕著な変化はありませんでした。

そのうち「フリードリッヒ・デア・グロース」が右舷に傾き始め、
すべての艦のメインマストに帝国ドイツ海軍旗が掲揚されると、
乗組員は次々に艦を放棄し始めました。


転覆していく「デフリンガー」

スキャパ・フローに停泊していたイギリス海軍艇はは3隻の駆逐艦でしたが、
そのうち1隻は修理中で、7 隻のトロール船と多数ボートがあるだけでした。

第一戦闘艦隊司令シドニー・フリーマントルは12時20分にこの非常事態の報告を受け、
飛行隊の演習を中止し、全速力で母港に戻りましたが、
彼が到着したときにはすでに浮かんでいるのは大きな船だけでした。

このときの目撃者の証言によると、

「フロッタ島を一周したときに私たちの見た光景は、
まったく言葉では言い表せないものでした」

「ドイツ艦隊のかなりの半分はすでに姿を消していました。
ボート、浮き輪、椅子、テーブル・・・・。
港はありとあらゆる人間の残す残骸の1つの塊のようでありました。

「最大のドイツ戦艦である『バイエルン』の船首は垂直に屹立していました。
と思ったら数秒後、ボイラーが破裂し、煙の雲の中海中に消えていきました」

 

フリーマントル司令は、艦を沈ませないよう、または浜に引き揚げるようにと、
可能な限りの小艦艇に必死になって無線を送り続けましたが、無駄でした。

 

最後に沈んだのは17:00の巡洋艦「ヒンデンブルク」で、その時までに
15隻の主力艦が沈没し、 生き残っていたのは「バーデン」け。
結果4隻の軽巡洋艦と32隻の駆逐艦が沈没しました。

この騒ぎで9人のドイツ人が射殺され、約16名が
救命ボートで陸に向かって漕いで戻る途中に負傷しました。


降伏するために岸に向かう途中射殺された水兵たちの墓

その後1,774人のドイツ人が逮捕され、捕虜収容所に送られました。

 

■ フォン・ロイター少将 vs. フリーマントル司令

フリーマントル司令はフォン・ロイターと彼の部下の将校数人を
HMS「リベンジ」(よりによってこの名前)に引っ立て、「無表情」な彼らを前に、

「これは不名誉な行いであり、
貴官らのやったことは敵対行為の再開だ!」

と激しく非難しました。

しかし、そう言いながらも後日個人的な見解として、フリーマントル司令は

「非常に不愉快でかつ屈辱的な立場に置かれていながらも、
尊厳を保ち続けていた
フォン・ロイター少将に、私は同情を禁じ得なかった」

とも述べています。
おそらく一人の海軍軍人として通じるものがあったのでしょう。

ちなみに、この場面に遭遇した「リベンジ」乗組のイギリス海軍の若い将校は、

「この1日の最もドラマチックな瞬間は、英独両海軍の提督の会合でした」

と手紙に記しています。

「二人の男性はどちらも同じくらいの背の高さで、
どちらも背が高く、そしてとても見栄えがよかった(good Looking)」

とも。
彼がこの二人の提督の会話を覚えている限り書いているので、
翻訳しておきます。

二人は立ち止まると、ドイツ少将が敬礼を行い、次の会話が始まりました。

フリーマントル「貴官は降伏しにここに来られたのか?」

フォン・ロイター「左様。私自身と部下を降伏させるために来ました。
(急激に沈んでいく艦を払うような仕草をしながら)
他には何もありません」

沈黙

フォン・ロイター(VR)「私はこのことについての全責任を負う。
将校たちや下士官兵には何の関係もない。
彼らは全て私の命令で行動したのです」

フリーマントル(FM)「この裏切り行為(小声で強く非難する口調で)、
基本的な裏切り行為によって貴官はもはや抑留された敵ではなく、
我が軍の戦争捕虜として扱われることを理解しておられるのでしょうな」

VR「完璧に理解しております」

FM「処分が決まるまで上甲板に止まっていただきたい」

VR「Frag lieutenant(秘書官)を同行してもよろしいか」

FM「許可しましょう」

 

 

この世紀の大事件に対して、イギリス側は当然激怒しましたが、世界には
必ずしもそう思わない人たちもいたということをぜひ書いておきたいと思います。

まずドイツのいくつかの艦艇を獲得することを望んでいたはずの
フランス海軍のウェミス提督は、個人的な考えとして次のように述べています。

「私はドイツ艦隊の沈没を本当の恵みだと考えています。
これらの艦が存在していたら起こっていたに違いない
各国の分配についての厄介な問題を、結局、解決したのだから」

ラインハルト・シェアー提督はこう高らかに宣言しました。

喜ばしいことである。
降伏の汚辱のシミはドイツ艦隊の盾から一掃されたのだ。
艦隊の沈没は、ドイツ艦隊精神が死んでいないことを証明した。
この最後の行動は、ドイツ海軍の伝統に忠実なものだった」

長くなるので二日に分けますが、各提督のお言葉の最後に、わたしの個人的な感想を
一言述べさせていただけるならば・・・

かっこいい。かっこよすぎるわこのおっさん。

 


続く。

 


第三次閉塞隊員慰霊碑〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-16 | 海軍

お話ししてきた昭和2年発行の「旅順閉塞作戦記念帖」シリーズ、
全部隊について説明を終えたところで、最終回の今日は
記念帖に掲載された
その他の写真についてあますところなくご紹介していきます。

まず、冒頭の絵画ですが、当時の白黒写真で撮られているのは、
忘れもしない、舞鶴地方総監部の見学の際、大講堂で見たあの絵です。

これが今現在の同じ絵画。

第二次閉塞作戦で閉塞船「福井丸」を自沈させる直前、姿の見えない
杉野孫七兵曹を探して船内に戻ったものの、ついに捜索を断念した
廣瀬武夫海軍少佐が今から端艇に乗り移ろうとしているシーンを描いたものです。

この絵に緊迫感を与えているのは、この直後に爆死する
廣瀬少佐は舷で部下が先に端艇に乗り移るのを見守っており、
その姿は闇に溶け込んではっきりとしていないことでしょう。

誰もが知る物語だからこそ決定的な表現をあえて避け、
見るものの空想にその後を任せたという表現方法は、
別の言い方をすると、戦後の進駐軍を含む軍事色追放の中でも
「見逃され」、後世にその姿を残すことができた理由かもしれません。

そのことは、かつて省線万世橋駅のたもとにあった廣瀬中佐と
杉野兵曹の像が昭和22年には撤去されたという事実を思うと
あながち間違っていないのではないかという気がします。

昭和2年の記念帖の解説には、

旅順閉塞大油絵額

海軍機関学校所蔵のものにして額縁は蠣殻の附したる
閉塞船船材を以て造られあり。

(原版 海軍機関学校寄贈)

とあります。

わたしが見学した時、案内してくれた自衛官は、この牡蠣の付着した木材が
廣瀬中佐の「福井丸」のものであると断言していたのですが、
この記念帖ではただ「閉塞船」とだけ言及しています。

額縁の一部には、当時船体に使われていた金属の留め金も残されています。

わたしが見学に行った舞鶴地方総監部にはむかし機関学校があり、
大講堂は機関学校のものであったということから、これはずっと
ここにあったと思われます。

「原版海軍機関学校寄贈」

所蔵、ではなく寄贈なので、ちょっと意味がわからないのですが、
原版は機関学校が持っていて写真を寄贈してくれた、
という解釈でよろしいのでしょうか。

もう一つ当時の写真と現在のを比べてみると、黒い金属が
記念帖の写真では絵の上部に見えるのに、今のは下にあるとか、
蠣殻の付着状態が両者で全然違っているとか、相違点があります。

現在は昔の額を額ごと新しい木材で装丁しているので、
もしかしたらその作業の段階で修復が施されたのかもしれません。

第三艦隊下士官兵第三次閉塞参加志願書綴

伊集院第三艦隊参謀の集めたるものにして
大正14年5月27日 皇太子殿下水交社に行啓の際
天覧に供し尚還啓(行啓先から帰ること)の際
特別の思し召しに依り東宮仮御所に御持ち帰られ
皇太子妃殿下の尊覧にに供せられたるものなり。

写真の左半に示せるものは血書なり。

(伊集院海軍少将未亡人寄託
本校参考館所蔵)

第三次閉塞には募集人員に対して多くの志願者が
血書をもって参加を希望してきたことは、
以前当ブログでも書いたことがあります。

志願のため血書をしたためる水兵さんを描いたものですが、
意気込みのあまり椅子から立ち上がって中腰になっています。

当ブログが以前調べたところによると、応募者二千人の中から選ばれたのは77人。
そういえば帝国海軍が生まれてから終戦で終了するまでのあいだに
「海軍大将」は全部で77人でしたよね。
海軍兵学校も77期まででしたし・・・。

でっていう話ですが。

写真の志願書は、まず右側に

平遠艦長 海軍中佐 浅羽金三郎殿

とあります。
志願書を軍艦の艦長に直筆で送ってなんとかなったんでしょうか。

「平遠」は名前からもわかるように、日清戦争で降伏し、
日本海軍に接収後編入されていた装甲巡洋艦です。

「平遠」は旅順港閉塞作戦にも参加し、その後、
旅順攻略戦において哨戒からの帰投中触雷し、沈没しました。

Kinsaburo Asaba.jpg

艦長であった浅羽金三郎中佐はこの沈没で戦死し、大佐となりました。

左のページは血書で認められているということですが、
血書にしては線が妙に安定?しているので、もしかしたら
上の図の水兵さんのように指を切って直接書くのではなく、
ザックリと思いっきりよく切ってどこかに貯めたものを
筆で書いたのではないかと思われます。いたたた・・・。

右者?隻決死隊募集之有候ニ付テハ
決死心ヲ以テ志願仕(つかまつ)リ度候間??
許可相成度??奉祈願上候也

決死者 (住所)高澤善太郎

時々全く解読不明な文字があるのですが、とにかく、
「決死者」として参加を熱望していることはわかります。

高澤善太郎さん、果たして77名の閉塞メンバーになれたのでしょうか。

閉塞後上陸して人事不省のうちに捕虜となるも
延命を拒否して亡くなった「相模丸」の指揮官、
湯浅竹次郎海軍大尉の出発前の遺書です。

湯浅少佐

閉塞決行の前日にしたため、家族に送られた遺墨には
こうあります。

古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト
今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス 武士ノ面目之ニ過ギズ

願エレバ最早人事ニ於テ缺クル事なし 
天佑を確信し笑を含んで死地に投ず 愉快極まりなし

三十七年五月一日 

相模丸指揮官 海軍大尉湯浅竹次郎

前半がカタカナ送りで後半が平仮名になっていますが、
これには何か意味があったのでしょうか。

湯浅少佐が使用していた双眼鏡です。
買ったばかりであったのか、本体はまだ光沢を放っており、
ケースも全く経年劣化は見られません。

旅順開城となってから、さっそく閉塞作戦の痕跡の検証が始まりました。
この写真は旅順鎮守府の機関長」が撮影したと説明があります。

右上に見えている水路が旅順港口で、

1 報国丸

2 米山丸

3 弥彦丸

4 福井丸

「弥彦丸」と「福井丸」の間には

5 露国船舶

が沈んでいる、ということです。

なお、不鮮明ですが、福井丸の左に見えているのは
史実によると「千代丸」のはず。

同じ場所を少し角度を変えて撮ったもの。
弥彦丸の右側に小さな船がいますが、煙突から煙が出ているので
航行中の日本船であろうと思われます。

 

ほぼ海抜0地点から撮られた閉塞の状況写真。
こうしてみると、「米山丸」が最も閉塞に成功しているように思えます。

旅順開城当時、現地を見聞して行われた報告をもとに制作された
旅順港閉塞状況の模型です。

構内の軍艦は敗残の敵艦隊にして
港口付近に沈没せる多数の汽船は
壮烈なる我が閉塞船並びに

我が閉塞を妨害するの目的を以て
敵自ら沈置せる船舶なり。

この模型は開城後早速設置されたらしい旅順水交社が制作し、
その後海軍兵学校に寄贈されたということです。

実際の閉塞作戦においてもしこれだけの船が港口を塞いでいたら
旅順艦隊はしばらくの間外に出ることはできなかったでしょう。
しかし説明のように湾内にはロシア艦隊の艦が結構な数放置されていました。

開城後、旅順にはこの模型と同じ閉塞隊の記念碑が建てられました。

旅順に於ける第三回閉塞隊記念碑

第三回閉塞隊戦死者の遺骸を露軍が埋葬せし跡に
久保田金平氏の設置したる記念碑にして
同氏は多年旅順に在りて我が戦死将卒の忠魂を
慰籍するに心力を盡(つく)し毎年祭典を行えり。

「慰籍」という言葉から、詳細はわかりませんが、
この久保田という人は、現地にロシア軍が埋葬していた遺骸を荼毘に附して
内地の故郷に送るというような事業をしていたのかもしれません。

模型は旅順水交社から海軍兵学校に寄贈され、
教育参考館に所蔵されていたそうです。

模型右側の木札にはこのように記されています。

此の記念碑は我が旅順閉塞舩隊員の
壮烈無比の行動に対し 露軍が潔く感動し
その戦死者を厚く葬りたる跡に建てられたるものにして
碑は閉塞舩朝顔丸のプロペラーの一般を用い
その礎石は閉塞舩に搭載しありたるバラスト用石塊なり

説明はありませんが、記念碑の周りに立てられた砲弾も
実物であろうかと推察されます。

ロシア軍が廣瀬武夫海軍中佐の遺体を収容し
立派な葬礼で葬っていたということは、
この記念帖が発行された昭和2年ごろにはわかっていなかった事実です。

 

旅順港閉塞船記念帖シリーズおわり

 

 


第三次閉塞作戦 削除された「捕虜」の情報〜旅順港閉塞船記念帖

2020-08-13 | 海軍

オークションで手に入れた海軍兵学校昭和2年発行の写真集、
「旅順港閉塞戦記念帖」の写真を挙げながらこのことを調べていますが

調べれば調べるほど、部下を探しに行って戦死した廣瀬武夫以外
他の死亡した軍人の名前が残されていないことが異様なことに思えてきます。

廣瀬少佐を閉塞作戦の象徴としたのであとは省略、ということなのでしょうか。

しかし、わたしに言わせれば、そもそも廣瀬の行動って
軍隊の指揮官なら普通というか当たり前のことをしただけですよね?

勿論わたしも、その指揮官としての責任感の強さを称賛することに
やぶさかではありませんが、それをいうなら本閉塞作戦中、
行方不明になった人員を探すために必死で船内を駆け回った、
という指揮官や指揮官附はほかに何人もいたわけです。

 

この際だから言ってしまいますが、実を言うと、わたしは昔から
軍神廣瀬について、モヤモヤするものを感じていましてね。

廣瀬は指揮官の当然の義務として足りない人員を探しに戻りましたが、
結局最後は捜索するのをやめて端艇に乗り込もうとしています。

決して自分の生を引き換えにしてまで部下を救おうとしたわけではありません。
端艇乗艇後、たまたま直撃弾を受けなければ、第二次作戦の経緯を見る限り、
無事に生還し、杉野曹長だけが行方不明のうちに戦死認定されて終わったでしょう。

つまり、わたしがかねがね思っていたのは、偶然爆死しただけなのに、
「軍神扱いまでするのはやりすぎではないか」ということなんですが、
今回、こうして作戦全体についての実相を知るにつけ、
その思いはよりはっきりとし、そこに「官製の美談」の匂いすら感じます。

指揮官として当然の行動をとって、その結果偶然死んだ廣瀬が軍神で、
反転命令を受けながらも、他の船が突入していくのを見て後を追い、
その結果戦死した第三次作戦の何人もの指揮官が名前も残されていないのは
あまりにも不公平としかいいようがないではありませんか。

しかし、(変な言い方ですが)死んだ者はまだ良かったのです。

日露戦争全体で見る限り、閉塞作戦は序盤の戦いでありました。
この効果がないことが決定したからこそ、陸軍は地上からの作戦、
最終的には二百三高地へと駒を進めることになったわけですから、
長い目で見ればそれもまた勝利への布石の一つではあったといえます。

ですから、閉塞作戦は失敗であったことをよくわかっていた彼らも、
終わり良ければ全てよしで、自分自身を納得させてきたのに違いありません。

 


さて、今日ご紹介する冒頭写真の軍人は

第三次閉塞 愛國丸指揮官

海軍大尉 犬塚太郎

階級が大尉であるのを見て、この人は戦死しなかったのだな、
とちょっとほっとしてしまったわたしです。

Taro Inuduka.jpg

犬塚大尉は兵学校25期。

旅順作戦に参加していた時には「笠置」分隊長という配置にいました。
25期で大将になったのは山梨勝之進だけで、
最終的に中将にまでなったのはこの人を入れて三人だけでした。
そのうちの一人は、閉塞作戦記念帖の発行された昭和2年当時、
海軍兵学校の校長だった鳥巣玉樹です。

犬塚の兵学校でのハンモックナンバーは32名中18位だったそうなので、
中将までいったのは結構な出世であると言えます。

閉塞作戦で生還したあと、日露戦争で皇族武官に任命されたことから
要所で東宮武官、秩父宮別当など皇室関係の役職に就いていたことが
そのキャリアを出世コースに乗せたのではないかと思われます。


さて、閉塞作戦において殿(しんがり)の12番船「愛國丸」指揮官に任命され、
犬塚は五月二日の午後6時、出航を行いました。

天候が不順になり、風浪が激しくなってからの状況から
「愛國丸」について言及している当時の文書を書き出しながら進めます。
極力現代文に翻訳します。

「遠江丸」は前続船が反転して転針したらしいと思い、
西微北に向かって進んだが、ついに僚船に会わなかった
偶(たまたま)前方遥かに二個の灯光を発見したので
速力を増してこれを追跡したところ、敵探海灯の照映により
其の一隻は十一番船「相模丸」であることを知り、
他の一隻は十二番船「愛國丸」であろうと推定した

 

又、海軍大尉犬塚太郎の指揮した十二番船「愛國丸」は
午後十時三十分頃若干の前続船が針路を反転したらしいと認め
かつ、駆逐艦、水雷艇らしきものが頻繁にと汽笛を鳴らし
発光信号を行いながら高声に叫ぶを聞いたがそのなんたるかを解せず。

この文章から新たな情報がわかりました。

作戦総指揮官から発せられた中止命令は、護衛と作戦後の人員収容のために
現場海域にいた駆逐艦、そして水雷艇にも伝えられたということ。

そして彼らは閉塞船に対して、発光信号だけでなく叫ぶなど、
あらゆる手段で
命令変更を伝えようとしていたことです。

しかし、そんな状況でも信号が読み取れないだけでなく、
ましてや声など全く聞き取れず、
何かを伝えようとしているようだが
さっぱりわからない、という焦燥の状態だったようです。

よってしばらく前続船の行動を窺い、反航するもの多きを見、
又、一旦回頭したのに更に旅順口に向進した船があるのを認め
反転していたのをもう一度元に戻してその航跡を追った。

これによると、互いが全く見えなくなったわけではなく、
通信を受け取って反転する船、直進する船を見て後を追うため
再反転する船の様子を、犬塚大尉の船は全部見ていたことになります。

犬塚大尉はそこで「愛國丸」もまた旅順口に向かうことを決断しました。

そしてその後、「遠江丸」「相模丸」「小樽丸」「江戸丸」と一団を形成し、
旅順口に向かっていったという話は何度かしてきました。

その後敵に発見され、流弾雨飛の中、

又港口の中央線を直進していた愛國丸は
港口の距る約七鍵の位置に至るや

俄然敵の敷設水雷に羅りて運転の自由を失う。

よって犬塚指揮官は其の位置に爆沈せしと欲し
投錨を命ずるや
浸水急激にして忽ち沈没せり。

敷設水雷に「羅った」というのは、一部が爆破された状態で
身動きできなくなったということでしょうか。

この時の「愛國丸」の近くにいたのは「江戸丸」でした。
「江戸丸」は港口に向けて転針しようとしたとき、前方に
「愛國丸」らしき一船を認めた、と証言しています。

そしてこれを追い越ししようとしたのですが、それができず、
後方に付いていこうとしたところ、「愛國丸」は

「俄然沈没する」

に及んだところでした。
この後「江戸丸」の船橋に命中した敵の一弾は指揮官高柳大尉の命を奪います。

高柳大尉に代わって指揮を引き継いだ永田中尉は、その後
「愛國丸」と並ぶ位置に船首を港口に向けて船を爆沈させました。

「愛國丸」が港口に向かうところから、もう一度記述を抜粋します。

愛國丸は突進中敵の敷設水雷に掛かり忽ち進退の自由を失いしが
犬塚指揮官は之を以って砲弾の命中せるなりと思惟し
擱岸せしめんよりは寧ろ其の位置に爆沈するに若かずとなして
投錨の命せり。

船が動かなくなったので、犬塚大尉はそこで爆沈させることを決定しました。
しかし、投錨が終わるか終わらないうちに船尾はすでに沈没し始め、
其の時に初めて敷設水雷に船体がやられていることに気が付いたのです。

犬塚指揮官は直ちに総員退去を命じ、人員点呼を行おうとしましたが、
すでに其の時には海水が上甲板まで迫っていました。

かろうじて一隻の端艇を卸すために「ボートホール」を切断しようとしたところ、
急速に沈没が始まり、わずか1分にも満たない時間で沈んでしまいました。

海に投げ出された乗員を収容したところ、24名のうち8名が欠員していました。

「愛國丸」乗員全24名の写真です。
ほとんどの乗員が長刀、短刀、超銃、短銃いずれかの武器を持っています。
最前列で銃を撃つポーズを決めている水兵さんは助かったのでしょうか。

さて、すぐさま行方不明の8名の捜索が始まりましたが、

「波高くして形影を認めず」

全く行方はわからないままでした。

第三次閉塞 愛國丸指揮官附

海軍大尉 内田弘

 

この8名は指揮官附海軍中尉内田弘と同乗すべき配置なりしを以て
或いは同官と共に退去したるものなるべきかを想い
午前四時十分沖合に向かいしが 内田中尉を始め
海軍中機関士 青木好次以下下士卒六名は竟に
全く其の行衛(ゆくえ)を失えり

「愛國丸」指揮官附の内田中尉は海軍兵学校27期卒。
中尉任官後初の配置であった「笠置」から今回
指揮官附として第三次作戦に指名されてきました。

内田中尉の行方はこの時を境にわからなくなり、
行方不明者のまま戦死認定され、死後大尉に昇進しました。

 

資料には、収容人数についてはこのように記しています。

第三回閉塞は天候の険悪と端舟の破壊とのため
最も悲惨の結果を生じ(この部分削除対象)惨烈をを極め
八隻の乗員百五十八名(内戦死四名負傷二十名)
翌朝敵に収容せられしもの十七名(内一名死亡)に過ぎず。

捕虜になって死亡したのは湯浅少佐と野村少佐の二名ですが、
このときには湯浅少佐が捕虜になったという情報は伝わっていません。

爾餘七十四名は遂に其の失踪を明らかにせざりしが
海軍にその後開城の機会ありし明治三十八年十一月 旅順口白玉山の麓なる
旧露国墓地を発掘し 第三回閉塞隊員の遺骸を検ずるに及び
朝顔丸指揮官向大尉を始め指揮官附海軍中尉糸山真次 
機関長 海軍大機関士 清水雄菟以下
十四名の相接して埋葬せられたるを発見し

この外 白石大尉以下佐倉丸の乗員九名 
湯浅少佐以下相模丸の乗員三名 笠原中尉以下小樽丸の乗員六名
及び氏名不詳の海軍軍人七名(内中尉一名大機関士一名)を発見せしが
五躰の腐乱して其の容貌を識別すべからざる 其の屍体の状況により
奮闘の状を想見せしむ。

ちなみに「五体の腐乱」という部分は削除線で消されています。

そしてこの後の記述に驚かされました。

又敵に収容せられし小樽丸機関長岩瀬大機関士
及び同船乗組
下士卒七名、相模丸乗員下士卒九名
岩瀬機関士
閉塞の当夜頭部を負傷し終に
三十七年十月十九日旅順海軍病院にて没
他の十六名は旅順開城の際我が軍にて収容せり。

この文章からはごっそりと捕虜になった下士卒たちの情報は削除されました。
棒線がかけられているのは削除部分であり、ご丁寧にも検閲を行った人が、
上の欄に

「注意!!!(!三つ付け)」

と叱責するように殴り書きで読めないコメントをつけています。

ここで閉塞後の各隊の状況に関する記述は終わり、次からは
収容の状況が始まります。

ともすれば閉塞船の戦いと被害ばかりが語られますが、
この作戦で収容のために出撃していた駆逐艦や水雷艇などにも
敵の攻撃で多くの犠牲が出ているのです。

例えば水雷67号艇は「三河丸」の掩護の際被弾した砲弾が
舵機室で炸裂し、機関兵曹と下士官一名に重傷を負わせ、
機雷敷設艦「蒼鷹」では一等水兵が被弾して死亡しました。
他の収容艦も、ほとんどが敵の弾丸の中任務に従容と当たっています。

「愛國丸」の9名の乗員は、「遠江丸」31名の乗員とともに
水雷艇「隼」に収容されて帰還しました。

 

続く。

 

 


第三次閉塞作戦 「悲劇の朝顔丸と新発田丸」〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-04 | 海軍

ごぞんじのように閉塞作戦は三次にわたって行われ、
後に行くほどロシア側の警戒と反撃も大きくなったため、
日本側の規模を拡大しただけ犠牲も大きくなっていったわけですが、
wikiなどを見ても、第三次作戦の扱いは廣瀬中佐の戦死があった
第二次作戦に比べると記述の量が圧倒的に少なく、簡単です。

「第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。
12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、
天候不順により
総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。
しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。
結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた」

wikiでも作戦の推移についてはこれだけ。

しかし、わたしがオークションで手に入れた昭和2年発行の
海軍兵学校発行「旅順閉塞作戦記念帖」には、やはり一番多く
そのページを割いて写真などが掲載されています。

まず、第三次作戦のパート最初に現れるのが、冒頭の

第三次閉塞総指揮官 

海軍中佐 林三子雄(はやしみねお)

で、林中佐は第一次・第二次を務めた有馬良橘中佐の後任として参加しました。

まず、第三次作戦の失敗の原因は、総指揮官であった林中佐が悪天候のため
決定した「行動中止」の命令が全軍に伝わらなかったということです。

しかしどの記述を見ても「後続艦に命令が伝わらず」
としか書かれていないので、当ブログではもう少し深堀りして、
この時の状況を細かく推理してみることにします。

まず、閉塞船間の通信は手旗と発光信号に頼っていたはずです。

後年日露戦争の勝因のひとつ、とまでいわれる36式無線が完成したのは
1903年、本作戦の一年前で、その気になれば搭載できたのかもしれませんが、
そもそも閉塞目的で自沈させる予定の船に
最新秘密機器を搭載することは
現実として不可能だったと考えられます。

余談になりますが、欧州発祥の海事手旗信号を日本に最初に取り入れたのは
島村速雄であり、アルファベットだったそれを現在の形にしたのは
なんと第一次・第二次閉塞作戦の指揮官だった
有馬良橘その人だそうです。

有馬は、手旗信号に使用する文字は直線で表現できるカタカナが適当と考え、
「セマホア式手旗信号」を基本に、いかに片仮名に適用できるか
種々研究を重ね、
実験を繰り返したといわれています。
(wikiの手旗信号の欄に記載されている釜谷忠通はこの後の制定を行った)

 

しかし手旗信号、発光信号の欠点は、天候や波などの条件に成否が左右されることです。

 

そこで三次作戦において指揮官船から後続の船に送られた
「行動中止命令」が順番に4番船まで伝わったところから想像してみましょう。

おそらく指揮官が行動中止を決意するくらいの荒天下であったことが災いして、
後続の船は手旗を受け取れるような船位におらず、そこで連絡網が途切れ、
通信ができなかった5番船以降の閉塞船8隻は、予定通り旅順湾口に進んでいったのです。

不幸だったのは、後続部隊が反転した指揮官船隊すら発見できなかったことで、
これも波風が高く互いの航路が離れてしまった結果でしょう。

そしてこの後です。

前にもこの経緯については当ブログで解説していますが、再び触れておくと、
林中佐は反転したのち後続船が少ないのに気付き、再び反転して後を追いました。
しかし「新発田丸」の舵機の故障で、追いつかないまま全てが終わってしまったのです。

全てが終わった5月3日の午前5時30分、旅順口外で漂泊していた
「新発田丸」が発見され、すぐに乗員が収容されました。

作戦後、上層部は「高砂」に

「新発田丸の舵機を検査し、もし修理の見込みがなければ曳航するように」

と指令を出していますが、「高砂」だけでなく「赤城」も、
「新発田丸」が作戦に参加できなかった理由を報告しているものの、
同船の「曳航の要無きを観て直に帰隊せり」としています。

作戦には参加できないが、取り敢えず曳航はしなくても自航走できる、
という程度の故障であったということでよろしかったでしょうか。

 

ところで突然ではありますが、過去当ブログ記事の訂正とお詫びをしておきます。

前回当ブログで林中佐について書いた時、わたくし、実は
「三笠」艦内の資料を参考に
(←この部分大事)

「林中佐は新発田丸で閉塞作戦中戦死した」

と書いてしまったのですが、これは間違いであることがたった今わかりました。
林中佐は閉塞作戦では亡くなっておりませんでした。


林中佐はこの作戦の直後、本来の配置であった「鳥海」の艦長に戻っています。
そして南山攻撃援護戦でロシア軍の砲撃を受けて戦死したことが、
アジ暦で検索できる当時の死亡報告書に記載されていたのです。

何を言ってもちゃんと調べなかったわたしが悪いので言い訳にしかなりませんが、
「三笠」に展示してあったこの林中佐のブロンズ像の説明に、
「新発田丸」の乗員が戦死した中佐を偲んで贈ったとだけ書いてあったので、
てっきり「新発田丸」の帰路戦死したのかと勘違いしてしまったのです。

実際は閉塞作戦直後、自分たちを無事に作戦から連れ帰った指揮官が
戦艦の艦長に戻ってすぐ戦死してしまったので、隊員たちは
林中佐に対する感謝を込めて像を作り、遺族に贈ることにしたというわけです。

うーん、「三笠」の解説はちょっといやかなり説明不足であるような気が・・。

此の写真は指揮官船であった「新発田丸」の乗員一同です。
こういうときの海軍の慣習として、指揮官と幹部は中央に位置します。

つまり、中央の幹部は

「新発田丸」
指揮官 遠矢勇之助海軍大尉

指揮官附 中村良三海軍大尉

機関長 河井義次郎機関少監

ということになります。

ところでこの記念帖、全閉塞船12隻の指揮官、そして指揮官付きのうち、
大アップで写真が掲載されているのは8隻だけで、
「新発田丸」の指揮官ならびに指揮官附の写真はありません。

これだけの危険な大作戦に参加したのであるから、
指揮官の写真くらい全員載せてしかるべきだと思うのですが、
どうしてこのような恣意的な選抜が行われているのでしょうか。

このことを推理する前に、第1小隊の3番船だった
「朝顔丸」についてお話ししましょう。

第三次閉塞朝顔丸指揮官

海軍少佐 向菊太郎

わたしが三次作戦について初めて知った当時、最もその悲劇性に胸打たれたのが
「朝顔丸」とこの向菊太郎少佐についての運命でした。

向少佐率いる「朝顔丸」は、指揮官から作戦中止の命令を受け取りました。

そして一旦は帰投に向かいましたが、間違って突入した僚船がいることを知ると、
彼らを置いていくことはできぬと再び反転し、仲間の後を追ったのです。

「海軍少佐向菊太郎の指揮せる二番船朝顔丸は
一旦新発田丸に続航せしも  僚船の依然進行するを見て
再針路を展示単独前進せるものの如く 午前四時過ぐる頃
忽然として鮮生角の南方に現れ港口に向かいて奮進せり。

時に三河丸以下六隻は悉く爆沈し敵砲は専ら隊員の帰路を背撃し
其の勢稍弛まんとするのを観ありしか 

今や朝顔丸の単独突入せんとするや砲火再激甚となり
全要塞の砲弾忽ちこの一舟に集中す。

隊員は猛烈なる十字砲火と強度なる探海灯光とを冒して
港口に驀進せしが終に舵機を破られ 午前四時三十分頃
黄金山低砲台の海岸に擱座して爆発せり。

之の閉塞船最後の爆沈とす」

 

第三次閉塞朝顔丸指揮官附

海軍大尉 糸山貞次

向大佐(作戦時中佐)附きであった糸山中尉(作戦時)は、
このとき25歳という若さでした。

全員が熱烈志願した「朝顔丸」の乗員と向少佐(中央左)。

向少佐の左がおそらく糸山中尉、向少佐の右横が機関長である
大機関士、清水雄莬 同列左端は

二等兵曹、伊藤周助であろうと思われます。

向少佐以率いる18名の乗員は、果敢にも先陣の後を追い、
単身旅順港に突入を試みるも、陸上からの集中砲撃を浴び、
黄金山付近で船は撃沈され乗員全員が戦死しました。

沈没したとされる黄金山下の「朝顔丸」の写真が掲載されていました。

これは閉塞作戦後、ロシア海軍の将校が撮影したもので、その後、
旅順攻撃により「旅順開城」(降伏して敵に陣地を明け渡すこと)成った際、
日本軍が入手に成功した貴重なものです。

岩の向こうに見えている船が「朝顔丸」ですが、その船首部分を
よく見ていただくと、うっすらと「3」が描かれているのがわかります。
これは、閉塞作戦の「三番船」を意味します。

そしてこの部分をさらによくご覧ください。

写真の解説によって初めてわかったのですが、手前の岩には
「朝顔丸」の乗員の遺体が少なくとも2体確認できます。

救命胴衣とともに岩の上に仰臥して倒れている遺体は、
この記念帖の解説によると向指揮官であると「伝えられている」
(おそらく士官の制服と背格好から判断)ということです。

手前の遺体はうつ伏せになっているようですが、この二人は
沈没後脱出してここまで泳ぎ付き、息絶えたのでしょうか。

5月の旅順は決して温暖な気候ではないので、岩にたどり着き
収容を待っているうちに低体温症で力尽きた可能性もあります。

兵学校にこのとき寄贈された向菊太郎司令官の「勤務日誌」です
もし戦後逸失していなければ、今でも教育参考館に所蔵されているはずです。

数冊の勤務日誌は、この不鮮明な写真からも窺い知れるように、
精緻な筆致で実に丁寧に記載されており、特に旅順港外の地図は
砲台、そして探照灯がどこにあるかという所在まで精細に記入され、
わかりやすいように色が付けられている(開きページ上)そうです。

向少佐の几帳面で周到な性格の一端が現れています。

 

なお、上野の谷中霊園の一角には向家の墓所があり、
「朝顔丸」の手すりの一部が残されて今も見ることができます。
100年以上前の鎖は錆びてしまっていますが、まだかつての形を保っているようです。

谷中霊園 向家の墓

 

さて、もうお分かりいただいたでしょう。

記念帖には名前すら掲載されなかった指揮官船の「新発田丸」指揮官、
遠矢勇之助大尉と「朝顔丸」の向菊太郎大尉(戦死認定、死後少佐)の違いを。

反転命令を下した総指揮官が乗っていたばっかりに(?)、
作戦中止に伴い、戦いもせずに生きて帰ってきた者と、
あえて命令に従わず
死地に飛び込んでその結果散華した者。

遠矢大尉にも「新発田丸」にもなんの落ち度もなく、彼らもまた
作戦遂行のためには命を失うことなど厭わぬ覚悟のもとに参じていたはずなのに、
本人には如何ともし難い成り行きの結果、方や国難に殉じた英雄として、
方や生還してきたことを忸怩として恥じずにいられないような
ある意味屈辱的な扱い(なかったことにされるという)を受けたのでした。

そして、此の閉塞作戦の記念帖において、「新発田丸」の遠矢大尉と
同じ扱いを受けた指揮官は何人もいたのです。

 

続く。

 


機関科問題と閉塞作戦の機関長たち〜旅順港閉塞作戦記念帳

2020-07-31 | 海軍

オークションで手に入れた古本、海軍兵学校昭和2年発行の
「旅順閉塞戦記念帳」というアルバムをご紹介しています。

作戦後、揚収され損ねて清国にたどりつき、そこで戦闘には参加しません、
と宣誓して帰国を許されたのにしれっと第二次作戦に参加していた
齋藤大尉と島崎中尉というキャラも発見し、思ったよりこの仕事で
新しくいろんなことがわかりそうな予感がしてきました。

次のページには何人かの参加者の写真と記念品
(おそらくこのとき兵学校の申し出に応じて寄贈されたもの)
の写真がありました。

まずこの人物は、

第二次閉塞作戦弥彦丸指揮官附

海軍中尉 森初次

まず「弥彦丸」の指揮官というのが例の齋藤七五郎大尉で、
森中尉は齋藤大尉の副官という立場で作戦に参加していました。

先ほどお話ししたように、齋藤大尉は清国から帰ってきたばかり、
国際法違反上等でぶっちぎりの戦闘参加している状態です。

第一回作戦の40日後に行われた第二次作戦に投入されたのは
「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」の4隻でした。

そして「福井丸」の指揮官が廣瀬武夫少佐、指揮官附だったのが
士官ではなく、あの杉野孫七海軍兵曹長だったのです。

第二次作戦がどうなったか3行でいうと、

1番船「千代丸」がまず発見され、砲撃を受け港口から100mの地点で自爆。
「福井丸」、その隣で「弥彦丸」も駆逐艦攻撃により沈没。
「米山丸」被雷沈没。

廣瀬・杉野ら15名が戦死。(第一次作戦の戦死者は1名)

ということになります。
船を沈没させるのが作戦目的とはいえ、敵の航路と関係ないところで

撃沈された場合、全く効果は期待できません。

現に旅順艦隊はこの翌普通に湾の外に出ることができました。

森中尉は作戦後揚収され、駐在武官などを務めたのち、
艦隊参謀と戦艦の艦長などを歴任し少将まで出世しました。

兵学校から記念品の寄贈を求められた頃は予備役に入って2年経っており、
おそらく喜んでこの提出に応じたものと思われます。

そして寄贈されたのが閉塞作戦当時使用していた双眼鏡で、
撃沈された「弥彦丸」とともに海に沈み、どういう経緯か、

数ヶ月後に引き揚げられて持ち主の手元にもどってきたようです。

しばらく海に沈んでいたのに全く型崩れしていない双眼鏡ケース。
かなりの高級品と思われます。

当時は海軍が支給するのではなく、士官は自費で双眼鏡を買い求めていました。

兵学校に寄贈された品にはこのようなものもあります。
「米山丸」の指揮官附であった島田初蔵海軍中尉は、
閉塞作戦時、敵の銃弾が左肩を貫通し、負傷しました。


島田初蔵中尉

ところでこの「血染めの胴着」の説明には、

「島田少尉候補生委託」

とあります。

この「島田候補生」は島田初蔵中尉の息子ではないかと考え、
さらに島田中尉について検索したところ、大尉任官後に乗組んだ
防護巡洋艦「松島」が兵学校35期卒業生が遠洋航海で
訪れた
台湾馬公での爆沈事故を起こし、死亡していたことがわかりました。

事故が起こったのは1909年ですから、島田大尉は若干30歳です。
そこで計算してみると、昭和2年に候補生となっていた島田大尉の遺児は、
父が事故死したとき、まだ1歳にもならない赤子であったことになります。

おそらく遺児は、写真と母の語る思い出だけでしか知らない父の遺品を
自分が父の意思を継いで入学した兵学校に自分の手から託したのでしょう。

さらに、兵学校卒業生の名簿を検索したところ、昭和6年の59期卒業生に

「島田武夫」

という名前が見つかりました。
閉塞作戦の英雄、廣瀬武夫と同じ名前であることから考えても、
この卒業生が島田大尉の遺児であることは間違いないと思われます。

まことについでのついでながら、島田武夫生徒のその後について調べたところ、
彼は潜水艦乗りになり、昭和19年、艦長として乗っていた伊171
ラバウル近海で駆逐艦「ハドソン」等に探知され、機雷攻撃を受けて沈没、
戦死後の最終階級は中佐、没年齢はおそらく35歳になるかならないかでしょう。

ところで、この「米山丸」には、岡山県出身の二等兵曹、
塩谷巳之資という人が乗っていて、のちに岡山県教育委員会が発行した
閉塞船についての冊子で思い出を語っています。

塩谷二等兵曹は島田中尉がやられたとき機関銃の配置にいましたが、
島田中尉に代わって自分も体に数カ所弾傷があるのにもかかわらず
血塗れのまま後部の乗員を指揮し、「前後左右に駆け回りて号令」
を行い、皆はこれに励まされ獅子奮迅の勢いで目的地に達し、
予定通り船を爆発し終わることができました。

そして錨を打ち、端艇を下ろすことになったとき初めて傷の痛みを感じ、
指揮官の正木大尉に

「私も負傷しました」

というと、正木大尉は気にも留めない風で

「よろしい」

と一言返事をしただけだったそうです。
なにがよろしいのかわかりませんが、大した怪我だと思わなかったのでしょう。

端艇の舫を断ち、皆で力を合わせて無事にこれを降ろし、
塩谷兵曹は数間の高さから飛び乗り、他の乗員とともに端艇を漕いで
収容艦に乗り移りました。

この頃には塩谷兵曹の気力は衰え、限界に近づいていました。
皆彼の傷の深刻なことに気づくと、彼の忍耐力と勇気を褒め称えました。

左上顎の盲管砲創は、弾片が深く骨膜に達し、その位置さえわからず、
前膊部盲管砲創及び下腿部の傷は、X線(この頃もう使われてたんですね)
で初めて弾片の存在が明らかになったほどでした。

 

そしてこの写真です。

当時の海軍発行の刊行物では異例の措置と思われるのですが、
杉野孫七海軍兵曹長の写真が、島田中尉と森中尉、
二人の士官と同じページに、二人に両側を固められる形で掲載されていました。

わたしは今まで杉野兵曹長のこれ以外の写真を見たことがないのですが、
このアルバムの大きな写真から強烈な違和感を感じました。

この・・・・描いてません(そこかい)

どうも写真全体と髭の色の調和が取れてないんですよね。濃すぎるし。

あくまでも印象に過ぎませんし、もしそれが当たっていたとしても
髭を描かないといけなかった理由に全く見当がつかないわけですが。

 

 

さて、「杉野は何処」の杉野さんがでてきたので、皆様にクイズがあります。
戦前、秋葉原にあった廣瀬中佐と杉野兵曹の銅像などのイメージから、
この二人が上司と部下として強く結びついていたような印象をもちますが、
それではこの二人、指揮官と部下という関係になって、どのくらい年月が経っていたと思います?

正解は・・・・1ヶ月以下2週間程度なんですねーこれが。


わたしがそれを断言する理由は、以下の通りです。

第一次、第二次閉塞作戦の指揮官は全く同じメンバーが選ばれましたが、
下士官・兵については、任務があまりにも危険なことと、参加希望者が
殺到していたことから(皆血判状などをもって応募していた)、
第一次作戦に参加した者は第二次には参加できないということになっていました。

唯一の例外として林紋平二等兵曹という者だけはあまりに熱心に懇願するので
海軍も根負けしてどちらも参加することを許していますが、後全員は、
杉野も含めて今回募集に志願し採用された下士官兵だったのです。


廣瀬少佐が姿が見えない杉野を探しに船に戻り、諦めて戻ってきて、
脱出のための小艇に乗り込んだ途端爆弾が直撃する不幸に遭ったことから、
廣瀬は「部下思いの指揮官」として後世に軍神とまで讃えられたわけですが、実は
廣瀬の杉野についての認識は今回初めて指揮官附きになった下士官、という程度で、
おそらく個人的な会話はほとんどないまま当日を迎えているはずなのです。

そこで改めて思うのが、自分の部下を一人も失うまいと最後の最後まで
危険を押して探しに戻る廣瀬武夫という人の指揮官としての強烈な責任感の強さです。

行方不明の部下が長年の付き合いだろうが最近知り合ったばかりだろうが、
彼のこの時取った行動におそらくなんらの違いもなかったであろう、と考えると
そのことはより一層彼の資質が一流であったことを裏付けるものに思えます。

次のページには5人の写真が掲載されています。

まず、真ん中から。

第一次閉塞仁川丸機関長

海軍大機関士 南沢安雄

右上から下、

第一次閉塞天津丸機関長
第二次閉塞千代丸機関長

海軍大機関士 山賀代三

第一次閉塞報国丸機関長
第二次閉塞福井丸機関長

海軍大機関士 栗田富太郎

左上から

第一次武揚丸機関長

海軍中機関士 大石親徳

第一次閉塞武州丸機関長
第二次閉塞米山丸機関長

海軍少機関士 杉政

ところで、彼らの階級、「大機関士」「中機関士」「少機関士」
って一体なんですか、と思われませんでしたか?

わたしもこの階級表記に注意したのは初めてのことだったのですが、
この名称はいわば機関科に対する兵科の差別の現れであることを知りました。

どういうことか説明しましょう。

この当時機関学校卒士官は部隊指揮にも制限があり、昇進が制約され、

さらに艦上勤務においても機関長止まりとされていました。

この写真の5名は、本作戦参加の機関士官です。
しかしながら、彼らの扱いは特別枠だったとはいえ兵曹長の杉野よりも
後回しになっていることに留意ください。

機関下士官は制度上は一応武官に分類されていましたが、戦闘指揮の資格はなく、
非戦闘員で格下扱いの「将校相当官」(もどきって感じ?)に分類されていたのです。

たとえばこの写真の大機関士、南沢、山賀、栗田の3人は兵科でいうと大尉、
大石中機関士は中尉、少機関士である杉さんは少尉相当です。

ついでに佐官に相当するのが機関大監、機関中監、機関少監といい、
少将相当は機関総監でしたがこれが最高位(つまり少将より上にはなれない)でした。

機関科については最初の頃民間からの採用がなかった(人がいない)ため、
兵学校の
成績下位者をほぼ強制的に機関士官にしたりしたことから、
兵科が機関科を蔑視するような土壌が作られてしまったのは否めません。

その後蒸気推進軍艦などの導入で機関科士官を将校に変更することが検討されましたが、
これに反対したのは案の定海軍軍令部であったということです。

 

しかし、実はこの閉塞作戦は、機関科の地位向上に大きく寄与する結果となりました。

作戦参加者の70%を機関科将兵からの志願者が占めたうえ、
さらにこの写真の彼ら機関科士官たちは作戦においても大いに活躍しました。

たとえば、このときに兵学校に寄贈されたこの軍帽ですが、
持ち主は「少機関士」だった杉政さん。

杉海軍少機関士は、第二次閉塞作戦での「米山丸」の機関長でした。

「米山丸」は自沈後乗員の脱出のために2隻短艇を用意しており、
杉少機関士は左舷から海面に卸した短艇に乗員半数を乗せ、
自ら指揮してこれで引き揚げ、連れ戻すことに成功しています。

しかし、引き揚げの際、短艇は敵銃弾を受け、弾孔から浸水を始め、ついに
海水は膝まで浸かるほどになってきました。
杉機関長は自分の首巻を最も大きな弾孔に詰めてこれをふさぎ、
この軍帽で海水を汲み出し、皆を叱咤激励してなんとか帰還を果たしています。

この一件はたまたま23年後、まだ杉機関長が存命で、閉塞作戦記念に
取っておいたこの思い出の品を寄付できたから歴史に残りましたが、
他の機関士官たちは歴史には残されていないまでも、閉塞作戦以降、

日露戦争において専門知識を現場で発揮し、その存在をアピールしました。

機関科士官が実戦において評価された結果、1906年(明治39年)には、
機関科士官の呼称は兵科将校に準じることになりました。

ですから、彼らが「大機関士」と呼ばれていたのは、日露戦争が最後となります。

少将相当しか昇進できなかったのが、改正後は最高位として機関中将がが創設され、
「機関大佐」「機関中尉」など階級名も兵科と同じに変わりました。

それまで禁じられていた軍服のエグゼクティブ・カール着用も認められました。
ちなみにイギリス海軍で機関科のエグゼクティブ・カールが許されたのは
呼称が改正されてから実に12年経った1915年のことです。

Executive curl - Wikipediaエグゼクティブカール、日本語では「蛇の目」とも

 

イギリスも階級社会ゆえ、旧勢力(この場合海軍兵科)がこの動きに
反発するという構図は日本と全く同じであったようです。

アメリカ海軍ですが、さすが移民大国で階級が社会に実質存在しないせいか、
機関科と兵科は1900年までに統合され、アナポリスで教育が行われていました。

そのため兵科士官ポストと機関科士官ポストを行き来し、
どちらも経験する士官が(特に飛行機関係は)いくらでもいました。
こういうリベラルさがアメリカ海軍の強さの一因だったと言えないでしょうか。

 


イギリスで機関科が認められるきっかけが第一次世界大戦であったように、
日露戦争は確かに機関下士官の地位向上に一定の効果はありましたが、
軍令承行に関する改正は、あくまで将校相当官の機関官に対しては不可のままでした。

帝国海軍の最も深刻で根の深い人事問題がこの機関科問題で、
そもそも神様扱いされた東郷平八郎をして機関科のことを

「釜焚き風情」

と言わせてしまったあたりから、解決の見通しは皆無に等しかったのです。

海軍は結局この問題を解決しないまま77年の歴史を閉じてしまいました。

ちなみに杉機関士はのちに海軍機関中将になりました。
そして後年、浸水した短艇に、前述の重症だった「米山丸」の塩谷兵曹を
「臥せしめて」帰ったことを回顧録に記しました。

そこには何十年も前の出来事がこのように書かれていたといいます。

「君の気の毒さ今に忘れず」

 

続く。

 

 

 


軍艦香取征戦記念写真集〜楽しき哉、征戦!

2020-03-06 | 海軍

第一次世界大戦に派遣された軍艦「香取」が、任務を終え、
帰国してから制作された記念アルバムである

「軍艦香取征戦記念写真集」

を、新橋駅前の古本市で手に入れたわたしは、その前半部分を
参加士官などをご紹介するかたちで、ついでに
当時の日本がどうして第一次世界大戦に参戦したのかについて、
紐解いてみました。

さて、今日はいよいよアルバムの後半です。
参加メンバー全員の集団写真が続いた後、「香取」が
「征戦」で訪れた地で撮った写真が紹介されています。

ところで、ウィキペディアによる「香取」の艦歴によると第一次世界大戦で

1914年(大正3年)10月14日、第一次世界大戦において香取は中部太平洋に進出、
マリアナ諸島サイパン島を占領した。
この時に艦内神社から分祀をおこない、同島ガラパン町に香取神社を創建した。

ということが書かれているだけです。

しかしアルバムを見る限り、寄港したのはサイパンだけではありません。

まず出航準備(中央)そして出航(右)

「満々たる大洋を航して征途に向かう」

とあります。
おそらく横須賀港を出ていくところでしょう。

左には

「南鳥島の鳥」

と、洒落なのかなんだかわからないカラスの写真がありますが、
「香取」が最初に寄港したのは南鳥島でした。

■ 南鳥島

アルバムの記事には、各寄港地についてのデータが、
大正3年10月現在の情報をもとに記載されています。

まず、上陸場のコンディションについて。

「島の南方どこそことあそこに二箇所あるも、東北のは使用されていない」

「桟橋は長さ30メートル、甚だ粗造なり。
上陸する船はまず浮標に達し、索をたどり着陸すること」

「水深は小艇には十分である」

にはじまって、潮流、天候、地質、水について述べられています。

「井戸二個あれども塩味を帯び雑用にも適せず。
住民は天水を使用している。
簡単な蒸留器を旱魃の際に使用しているという」

えーっと、つまり当時南鳥島には人が住んでたんですね。

そこであらためて南鳥島の歴史を調べてみると、

1864年(元治元年) - アメリカ人が来訪し、マーカス島と命名

1879年(明治12年) - 日本人斉藤清左衛門が初めて訪れる

1896年(明治29年)-水谷新六ら46人が移住し、集落に「水谷」と命名

1898年(明治31年) -「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカの領有権を主張
               それに対し大日本帝国も軍艦「笠置」を配置し、牽制した(南鳥島事件)

 

という経緯で、大正3年当時は日本の領土となっていたわけです。

さらにアルバムによると、大正3年現在の島の人口は

42〜3人(うち女性9名、子供3人)だが、4月から8月までは80人になる

で、家屋は15軒。
季節労働者が東京で雇われて滞在していたようです。

というのは、東京に本社を持つ

「南鳥島合資会社」

というのが

「鳥糞を採掘し、余力を以て鳥類鰹を捕獲」

していたからだそうですが、それにしても不思議な会社ですね。
鳥の糞を集めるのが主事業・・・肥料にでもしてたのかな。

この「鳥糞」についても記述があって、

「鳥糞は島の中央部一面にあり、地下五尺まで採掘する。
レールを海岸倉庫まで通し、これを運搬する。
一年で役3000トン、時価15〜20円分が産出される」

だそうで、結構な産業だったらしいことがわかります。

軍艦ファンにはちょっと興味深いカットかもしれません。
太平洋を航行している「香取」の甲板を、艦橋から撮ったものです。

「香取」は前にも述べましたがイギリスのヴィッカー製で、
動力は当時のものならば当然ですが石炭。

航行中のスタックからは黒煙が立ち昇っています。

左上は、サイパンに到着した後、香取が出した作業艇と、
サイパンの「土人」のボートが並ぶ様子。

右は登江丸という補給船が煉炭を補給しているところです。

■ サイパン


ガラパン地区というのは今でもサイパンの繁華街となっているところですが、
この頃から島の中心として建物がそれなりに立ち並んでいた様子がわかります。

さて、戦艦「香取」はこのときサイパンを「占領した」となっていますが、
それまで領有権を持っていたドイツと交戦したなどの記録はありません。

これはどういうことかというと、ドイツは、領有権を有していながら
本国から遠く離れたこの島の開拓、および先住民への教育政策を一切せず、
同島を罪人の流刑地にしていただけだったので、
チャモロ人とスペイン入植者が少数いるだけの荒廃した島となっており、
留守宅に入るが如き無血占領だったのではないかと推察されます。

冒頭写真は「マリアナ群島占領地『香取』守備隊員」とありますが、
これってつまり「香取」の乗員の選抜メンバーですよね。

ということはこの写真の花型の写真の真ん中は、「香取」艦長、
ということになろうかと思います。

守備隊は、サイパン上陸後、なぜか病院で記念写真を撮っています。
士官3名、軍医1名、下士官2名、水兵4名。

写真に写っている誰一人としてにこりともしていないので
彼らがどんな心境で占領軍?幹部と一緒にいるのかは謎です。

ちなみにここはガラパンにあった病院で、占領軍は
ここを長官舎にしていました。

サイパンにはチャモロ人(画像はチャロム土人とある)、
カナカ土人という先住民族が在住していました。

右下はガラパンにあったドイツ語学校です。
ウィキの情報の通りであれば、これは原住民のためではなかった、
ということになりますが、ドイツ人の子供がいたとは思えないので
やはりこれは原住民にドイツ語を教えるための学校だったのではないでしょうか。

 

不思議に思ったわたしは、ドイツ語でサイパン島がどう書かれているのか
検索してみようとして驚きました。
ドイツ語ウィキペディアがないのです。

ドイツ人、自分とこの領土だったことそのものを全く忘れてないか?

 

そこでアルバムの資料をみると、当時の住民内訳がありました。

日本人 27

ドイツ人 13

スペイン人 8

カナカ族 1362

チャモロ族 1310

サモア族 67

オレアイ族 40

ドイツ領のはずなのに、ドイツ人が13人て・・・・。
その内訳はといいますと、

島司令 ドイツ人(ベーメー、測量士出身)

副司令 ドイツ人(フワッケル、所掌は警察、軍、税務、土木)

病院長、教師二人、郵便局長もドイツ人です。
そして、収監されていた囚人が15人。

おそらく住民の13人は純粋な居留者で、囚人は含まれないのでしょう。

そのほかにもサイパンにはサモア人が住んでいたようです。
日本人の目から見ても当時のサモア人は「美人」に見えたのでしょうか。

ちなみに後年、トラック島の原住民の娘と結婚した実在の男の話が

「私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人」

という歌に歌われました。

 

そして商人「アントニー」の家、と説明のある豪邸。
おそらくチャモロ人の実力者で島一の富豪の家でしょうか。

瀟洒な仕立ての背広を着てドレスを着た娘たち、そして
息子と写真に収まる「アントニー」に、占領軍幹部が
皆で表敬訪問に行ったらしい様子がうかがえます。

ちなみにアルバムの解説には「土人生活状態」として次のようにあります。

 

「チャムロ」族は土人中の優等族にして皆上着及び袴を穿ち
多く帽子を戴けり
婦人中には白粉を用いるものさえあり

性質従順にてまた勤勉なりという

朝は早く起き洗面し朝食としてコーヒーとパン(豪州より輸入)を取り
正午ごろ昼食をなし3時ごろ茶を喫し6、7時ごろ
夕食をなす 
食べ物は支那米及びトウキビを粉にしたパン魚獣の肉にて
野菜は多く食せず

酒は麦酒1日一本はチャムロ族に限り許可せられ居れり

結婚期は女子は18歳より20歳を最多とす
この種族の処女は結婚するまで頗る品行厳格なるも
一度結婚後は宗教上離婚すること能わざる

「カナカ」等の種族は男は褌一本のみ女は腰に布を巻く他
全く裸体にして(略)

耳の下部に穴を穿ち貝殻・ビンロウズ・鼈甲の輪を嵌めおれり

女子は12歳より結婚し14歳より子を産するも児童の発育悪しく
夭死する者多きを以て結婚期の遅きチャムロ族の方が
却って繁殖力大なりという

右下はサイパンのラウラウ湾に停泊する「香取」から上陸する小艇上。

真ん中は上の「アルペン」の家族と記念写真を撮る士官たち。
バン・アルペンはラウラウ湾付近に住んでいたドイツ人で、

年齢四十六従順なる男なり

6年前この地に移住し開墾に従事する

とわざわざ記述されています。

占領したといっても、現地のドイツ人とは友好的で
なんのトラブルもなかったらしいことがわかります。

 

右下に、かつてドイツ守備隊がガラパンに上陸したとき、
という写真があります。
どうしてこんな写真が手に入ったかというと、実は
米西戦争でサイパンを占領したアメリカがドイツに売却したのは
1899年、つまりドイツ領だったのはたった15年だったのです。

その間、ドイツがほとんど開発や定住を行わなかったので
日本は無血占領することができたということなんですね。

■ ロタ・グアム・パラオ・トラック

マリアナ群島守備隊、征戦をそれなりにエンジョイしております。
無血占領で一発も使わずにすんだため余った銃弾を消費すべく、
ロタ島に鹿狩り隊を編成して上陸し、戦果をあげました。

グアムにも寄港したようです。
下の写真は

「椰子の浜辺に涼風薫として苦熱を忘る」

トラック、ボナペ、パラオの島々。

「香取」は寄港したのではなく、通過しただけだったと思われます。

■パガン島

マリアナ諸島守護隊として、「香取」はパガン島という
北マリアナ諸島の面積48㎢の島にも寄港しています。

 

マリアナ諸島を「香取」が出航したのはいつかわかりませんが、
帰国したのは12月5日とはっきりしています。
つまりこの征戦とは9月19日出航から3ヶ月のことであり、
マリアナ諸島を占領したのは10月14日、滞在期間は
およそ1ヶ月しかなかったということになります。

■ 小笠原諸島

「香取」は帰国途中、小笠原諸島に立ち寄りました。

大将時代の練習艦隊の遠洋航海アルバムをご紹介したとき、
やはり小笠原諸島の「正覚坊」という亀園の写真がありましたが、
当時すでに東京都となって長かった小笠原には日本社会が根付いていました。

アルバムでは当時の人口を、群島全て合わせて4,000人ほど、としています。

当時はパパイヤもバナナも国内では手に入らない珍しい果物でした。

そして左の写真。

「内地に帰着し久しぶりの上陸
累々として前に置かれたるは征戦中の記念品」

とあります。

この書き振りから推察するに、「香取」のマリアナ諸島占領には
全く戦争に往ったという悲壮感はありません。

何もせずに敵地を占領、現地では住民との親交を深め、
珍しい土地で見たことのないものを見て、狩をしたり
ボートレースをしたり、ドイツ人家庭で歓談したり(多分)
乗員一同にとって、実に楽しい「征戦」だったのではないでしょうか。

 

ところで、この6年後、パリ講和条約の結果を受けて、マリアナ諸島が
日本の正式な委任統治領となるわけですが、この歴史的事実に対し、
第二次世界大戦後、
戦勝国の側はもちろん日本国内のメディアが

「日本は権益目的で第一次世界大戦に参加し、
ヨーロッパで皆が戦っている隙に青島始め
マリアナ諸島を盗んだ」

なんて鬼の首とったように断罪しているのは、前にも説明したように
日本の第一次世界大戦参戦の経緯からみても、
なんだか日本に対してのみ悪意ありすぎじゃない?と思います。

本当に日本のメディアって、日本嫌いだなあ・・・。

「映像の世紀」、おめーのことだ。

 

軍艦香取征戦記念写真集シリーズ 終わり

 


軍艦香取征戦記念写真集〜特務士官と分隊

2020-01-10 | 海軍

さて、第一次世界大戦に参戦した日本がマリアナ諸島に派遣した「香取」。

わたしが偶然手にした写真集は、戦争が終結し、帰還した「香取」乗員
総員に記念として配られたものであったと思われます。

名簿の最初には、大正3年11月30日現在のものであるとあり、
これは「香取」が日本に帰国する5日前のステイタス、つまり
まさに征戦に参加したメンバーの名前が刻まれているとしています。

配られた何百冊もの「征戦記念写真集」のうち、失われることなく
令和の世になって奇しくもわたしの手元にやってきたこの一冊は、
間違いなく第一次世界大戦に参加した「誰か」が所有していたものです。

そして、わたしはその持ち主の手掛かりがうっすらとわかる書き込みを
辛うじて二箇所、見つけることができました。

まず、士官の名簿、楠岡準一中尉の名前の上に、

「分隊士」

と鉛筆で書かれています。
海軍の艦船は、何名かごとの分隊に分けられ、士官が
分隊士という名称の指揮官として割り振られていました。

楠岡中尉はガンルーム士官の最先任なので、おそらく、
彼の担当は第一分隊であったと想像されます。

つまりこの写真集の持ち主はこの中にいるということになりますね。

それにしても、海軍軍人に限らず、昔の人は写真を撮るとき
なぜか全くレンズと明後日の方を見る人が多いですね。
この写真でもなぜか前列の下士官が皆それをやっています。

こういう写真で笑うのはご法度だったらしく、誰一人として
楽しそうにしている人はいませんが、よくよく見ると、左下に
背中の後ろから手を回して、水兵さんを抱きかかえている
下士官がいたりします。(どちらも真顔)

第8分隊の人数を数えてみると、きっちり50名でした。
それにしてもこの分隊、誰一人としてレンズの方向を見ていないんですが、
特に二列目の下士官グループは、示し合わせたように海の方を向いています。

男がレンズを見てましてやにっこり笑う、なんてかっこ悪い、
という感覚の時代だったのかもしれません。

この第11分隊は38名、特に下士官グループの顔の角度が徹底してます(笑)
たまに海を見ていない人が(前列真ん中、二列目右から三人目)いますが、
その二人はなぜか全く逆の方向を見ていたりして・・・。
どういう意味があったんでしょうか。

 

それはともかく、分隊は全部で11あります。
士官次室士官、ガンルーム士官、つまり中尉と少尉は11人。
彼らが11個分隊の分隊士となったということでもあります。

そして、あの東郷平八郎元帥の息子、東郷實少尉が
分隊士を務めたのは、この第11分隊だったはずです。

 

写真集の最初にある乗員名簿は、これが即ち階級順となっています。
艦長から東郷少尉までの士官に続いては

「機関長」

として、機関中佐大須賀久以下機関将校7名。

「軍医長」

として軍医中監、中軍医、少軍医。
軍医の場合は、一般で言われているように「軍医中佐」ではなく
軍医中監、軍医中尉、軍医少尉ではなく中軍医、少軍医といいます。

そして

「主計長」

として海軍主計中監、軍医と同じように中主計、少主計。

それらが全部紹介されてから、初めて下士官となります。

 い

下士官の最高位、准士官として写真に写っているのは15名。
この中で勲章の数が多いのが兵科、機関科の兵曹長で、
全部で五名いました。
あとは上等兵曹、そして機関兵曹です。

 

持ち主が、兵学校出の士官より特務士官を深く尊敬していたのでは、
と思われる書き込みが准士官室の写真にありました。

特務士官各位(兵曹長)

熟練技術者

とわざわざ言わずもがなの解説をしているのを見て、
なんとなくそんな気がしただけですが・・・。

准士官、特務士官は、いずれも下士官兵から昇進した、
いわゆる「叩き上げ」の士官です。
叩き上げという言葉が泥臭すぎるというなら、現場で経験を積んだ
専門性を持ったベテランとでも言いましょうか。

軍艦の運用には高度な専門知識が各部に求められます。
装備品、機関、兵器のどの扱いも、「熟練技術者」が実質的な
運用の要(かなめ)となって初めて全てが上手く回るわけですが、
残念ながら帝国海軍は兵学校偏重が行き過ぎて、特務士官を
「スペシャル」からきた「スペ公」などという蔑称で呼び、
下に見る傾向があったのは恥ずべき因習だったと言えましょう。

その点アメリカ海軍は、CPOを完璧に士官とは別の、
専門技術集団として扱い、それなりの待遇と地位を与えていたので、
逆にCPOの方が実権を握ってブイブイ言わせていたようですね。

「ミッドウェイ」にもCPOのアイランドがちゃんとあって、そこは
彼らが逆に士官を揄して言うところの

「シルバーのフォークとナイフとナプキンでマナーのお稽古」

をするような仰々しさはないものの、彼らのプライドを満たすに十分な
立派な設備が用意されていましたし、そこにあった「クレド」?には、

「CPOは神である」

ということまで書かれていたものです。

「ミッドウェイ」のシステムは戦後のものですが、戦前もまた同じく、
戦艦「マサチューセッツ」には、CPOだけが使用できる特別食堂があり、
そこではちゃんと給仕がついてシルバーとナプキンで食事ができました。
やはり彼らの軍艦における待遇は大変良かったということを表します。

我が日本海軍のCPO、兵曹長、先任伍長は、その専門性の高さでいうと、
少尉や中尉が赤子とすれば大人というくらいの実力差でしたが、
袖に桜が三つつくこの軍服を着ているだけで軍隊では下級となります。

 

名簿の順番はこのあと、

一等兵曹 二等兵曹 三等兵曹

一等機関兵曹 二等機関兵曹 三頭機関兵曹

一等看護手 三等看護手

一等筆記 二等筆記 三等筆記

一等厨宰 二等厨宰 三等厨宰

一等水兵 二等水兵 等水兵 四等水兵

二等木工 三等木工

一等機関兵 二等機関兵 三等機関兵 四等機関兵

一等看護 二等看護

一等主計 二等主計 三等主計 四等主計

従僕 給仕 剃夫 割烹

一番下は民間人だと思われます。
理髪師のことを剃夫と言ったんですね。

 

ところで、阿部豊監督の映画「戦艦大和」で、出撃に際し、
「大和」を降ろされた年配の下士官に、若い士官が

「親父のような年齢のお前に命令することになってしまったが、
これも軍隊だ。許せ」

声をかけられた下士官は涙を堪えながら敬礼し、

「武運長久をお祈りいたします」

と答えるシーンがあります。

わたしが選ぶ戦争映画の名セリフのうちの一つですが、
これほど、士官と下士官における階級と実力経験のねじれという矛盾のなかに
生まれた互いへの尊敬と愛情を表す切ない会話はまたとないのではないでしょうか。

しかし、実際においてはそのような美しい関係は理想論に過ぎず、
士官が父親のような年齢の下士官を「スペ公」と呼ぶような
蔑視とそれに対する反感などが日常的に渦巻いていたのかもしれません。

この写真集の持ち主が、わざわざ特務士官の集合写真にこのように書き込んだのは、
やはり彼にもそういう海軍のあり方に対する反発があったからかもしれない、
と考えても、あながち間違いではないという気がします。


続く。

 


FIRST TO DIE〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊式

2019-12-23 | 海軍

九軍神慰霊祭は、主催の青年団や地元の人たち、岩宮旅館の関係者、
自衛官(陸自隊員の姿もあった)、自衛隊OB、そして
旧軍に関心が深く遠隔地から慰霊に訪れた(わたし含む)人、
そしてごくわずかの報道関係者(産経新聞記者)、さらには
高松の金刀比羅宮で行われた掃海隊殉職者追悼式でお見かけした
戦史研究家の久野潤氏の姿もありましたが、当初想像していたよりも
ずっと小さな規模で、参加人数も決して多いものではありませんでした。

しかし、昭和41年からずっと今日まで、この慰霊祭は
途絶えることなく続いてきているのです。
わたしはその理由をこのように考えました。

 

日本が敗戦し、三机から「九軍神の聖地巡礼」の人々の姿が
かき消すようにいなくなったあとも、おそらく三机では
国のために命を捧げて散った若者たちに対する敬慕の耐えることなく、
彼らがこの小さな漁村に遺していった物語の数々は親から子へ、
子から孫へと語り継がれていったのでありましょう。

そんな三机に時は流れ、昭和40年、九軍神の遺族がこの訪れたのをきっかけに、

「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」

浄財によって須賀の森の一角に慰霊碑が建立されました。

GHQによるWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)のせいで、
昨日まで称えていた軍神を、戦犯と掌を返して罵るような風潮が日本中を席巻しても、
戦後世代が旧軍は悪とし慰霊を旧軍懐古として日本そのものを否定しても、
三机の人が、地元に伝わる軍神たちの物語を大事にしてきたからこそ、
このささやかな儀式も、ごく自然に世代を超えて受け継がれてきたのでしょう。

 

慰霊祭開始の挨拶をしたのは、青年団の責任者という人です。
出席者はおおむねスーツなどだったのに対し、青年団のメンバーは
普段のスタイルで参加しており、この催しが彼らにとって
決して特別なものではない日常の延長にあることを窺わせます。

先ほど自衛官から手ほどきを受けていた青年団メンバー二人の介助で
国旗と海軍旗の掲揚が行われることになりました。

慰霊碑横に置かれたプレーヤーから流れる喇叭譜君が代。
日の丸と旭日旗が自衛官と地元の青年の手で掲揚されます。

掲揚が告げられたとき、わたしは旭日旗のことを海軍旗でも
自衛艦旗でもなく、「鎮魂旗」と称しているのに気がつきました。

ここに揚げられているのは海上自衛隊の自衛艦旗ですが、
九軍神のみたまにとっては海軍旗と言わなければなりません。

しかし戦後の日本で自衛艦旗を「海軍旗」と称することはタブーとなっているため、
どちらでもない「鎮魂旗」という言葉が生み出されたのでしょう。

なぜタブーなのかと考える時そこに忸怩たる思いをもたずにいられませんが、
いずれにせよこの名は慰霊にふさわしいと思われました。

鎮魂旗掲揚台を寄贈した海上自衛官、そして作家であり
呉市海事歴史科学館、通称大和ミュージアムの館長、戸髙一成氏の名前も見えます。

寄贈されたのは今から11年前のこの日、12月8日でした。

続いて神主が「修祓の儀」を行いました。
修祓とは、神式の行事に先立って、罪穢れのない
清浄な世界を作り上げるための「清めの儀式」です。

罪穢を祓い去ってくれる四柱の神々を祓戸大神(はらいどのおおかみ)といい、
神官は神々に祓詞(はらいことば)という祝詞を奏上しお願いをします。

そして次に神官は罪穢れを祓い清めるため、大麻(おおぬさ)を
慰霊碑、次に神饌物(捧げ物)を振りました。
それが済むと、起立低頭した列席者の頭上で御祓が行われます。

そして、神官が九軍神となった死者の魂に「誄詞」(るいし)といって、
死者を偲び、その生前の功績をたたえ哀悼の意を表わすことばを捧げました。

この三机における慰霊祭で毎年変わらず捧げられている言葉なのかどうか、
初めて出席するわたしにはわかりかねましたが、その誄詞中の、

「誰一人結婚することなく若い命を捧げた」

ということを悼む文言は、ことにわたしの胸に刺さりました。

映画「海軍」では、艇附の下士官が最後の出撃前に妻を呼び寄せ、
狂おしく抱き合う様子が描かれていましたが、実際には全員が
独身のまま若い命をあたら散らしていきました。

26歳の隊長、岩佐直治中佐には郷里の前橋に婚約者がいましたが、
休暇で帰郷した際、親にも相手にも理由もいわず婚約を破棄しています。
その話がなぜ今日に伝わっているのかというと、岩佐大尉は訓練時
宿泊していた岩宮旅館の女将、チヨさんに

「死んでいくのに結婚しては、相手を傷つけることになるからね」

そう打ち明けたからでした。

婚約者が理由も告げぬ突然の婚約破棄にショックを受け、一時悲嘆に暮れても、
自分が任務を果たしたとき、必ず戦死の報とともに誠意は彼女に伝わり、
やがて自分を許してくれるだろう、と思ってのことに違いありません。

しかし、岩佐大尉のように誰かに打ち明けたりしなかっただけで、
他の軍人たちも多かれ少なかれ、密かな思いを心のうちにあきらめたり
別れを告げたりして、この世との未練を断ち切って逝ったたものと思われます。

「死ぬことよりも、自分がこの世に血を残さずに往くのが辛い」

とは、「回天」乗組員が遺した言葉ですが、誄詞の一文は
それだけが心残りであろう御霊を慰撫しているように聴こえました。

参列者が順次神前に歩み出て、献花を行い、
二礼二拍手一礼を行いました。
まず青年団のメンバー。

十名の特殊潜航艇乗員が投宿していた岩宮旅館、そして
松本旅館の関係者。
右側は岩宮旅館の現女将です。

続いて自衛隊関係者、わたしを含むその他の参列者が献花を行いました。

最後に参拝を行ったのは、陸自と海自のOBからなる豫山会の皆様です。
豫山会とは、愛媛県出身の軍人会を母体として継続している
一般財団法人の団体で、明治45年創立、かつてはあの
秋山好古もその名を連ねていました。

その歴史を見ると、陸軍が中心の軍人会だったようですね。

戦後は、青少年に対する社会教育活動の振興助成や体育の奨励、
青少年の育成事業を行っているということです。

正面で参拝しておられるのが豫山会代表理事河野氏(陸自OB)
後ろの四名は全員が海自OBで、こういうときにも
最先任が中央に、つまりかつての序列通りに並んでおられます。

豫山会の方が追悼の言葉を捧げられました。
この方も海自OBです。

コメントにもありましたが、海上自衛隊の練習艦隊は、例年
江田島を出航したのち、三机にに寄港して九軍神の碑に献花を行います。

平成26年度海上自衛隊練習艦隊 九軍神慰霊碑献花式

中畑康樹海将が練習艦隊司令の時ですね。
献花式には地元の中学生も参列しているようです。

というわけで式次第は滞りなく終了しました。
再び国旗と追悼旗が降下されることになり、神主さんが
プレーヤーのスイッチを押す係に(笑)

掲揚の時と同じメンバーの手で両旗が降納されました。

最後に神職が霊前に挨拶をして慰霊式の終了です。

式終了後、皆で椅子を片付け、談笑している出席者。
だいたいここに見えているプラス数人が全出席者数となります。

例年夜夕方6時(当然真っ暗)から行われる慰霊祭が
今年昼間になったのは、12月8日が日曜日に当たったからです。
いつもは執行を行う青年団が自分たちの仕事を済ませてから準備を行っているので
夕方から始めざるを得ないということでした。

陽が沈んでからの須賀公園での慰霊祭はかなりの厳しい寒さになるらしく、
わたしは前もって防寒対策をしっかり行ってくるように、
といわれていましたが、幸いなことに晴天に恵まれた昼間だったため、
寒いどころか陽に照らされて座っていると暑ささえ感じました。

この日は直会終了後、車で松山まで帰りましたが、夕方開始のときには
ほとんどの参加者は岩宮旅館に宿泊をするのだそうです。

慰霊碑の正面にあたる岸壁から三机湾の内海を臨む。
参加していた自衛官に写真モデルになってもらいました(嘘)

いつから慰霊祭に自衛官が派出されるようになったのでしょうか。
彼らにすればこの日など休日出勤ですし、例年は残業となります。
何人かにうかがってみたところ、呉地方総監部から、あるいは
愛媛地本からきたという自衛官もいました。

さて、慰霊祭の後の直会は、先ほど待ち合わせした町民会館の集会室?
というかキッチン付きの和室で行われました。

開始前、わたしをこの慰霊祭にお誘いくださった提督が、町民会館の
二階フロアに、特殊潜航艇関係の展示があるといって
ご案内くださったのですが、驚いたのがこの写真です。

ガラスケースの上に九軍神となった若者たちの顔写真を引き延ばし、
一人ずつ額に入れて飾ってあったのです。

「普通の市民会館でこんなのはまずないでしょうね」

いずれも真珠湾の特殊潜航艇突入を扱った英字新聞です。
左の九軍神の写真を掲載した署名記事のタイトルは

「FIRST TO DIE」

死を第一義として、というようなニュアンスでしょうか。
右二つは2009年の発行で、ハワイ湾突入の「最後の一隻」の残骸を
調査潜水艇が発見した時のニュースを報じるものです。

なぜこんな大発見を日本の新聞がこれと同じような一面トップどころか
ほとんど無視し報じなかったのかが不思議でたまりません。
(もちろんその理由はわかっていますがこれは嫌味で言ってます)

真珠湾に侵入した特殊潜航艇のうち4隻は、目標に到達できず
座礁したか、沈められたか(そういうアメリカ側の報告もある)、あるいは
打ち上げられていたのを発見されたわけですが、この時発見された一隻は、
アメリカでの最近の研究によると、魚雷二本を「オクラホマ」に命中させ、
撃沈せしめたということが明らかになっています。

この日の追悼式での誄詞による文言でも、攻撃は全く成功しなかった、
というようなことがいわれていましたが、「オクラホマ」の沈没原因を
検証したうえで、アメリカの研究者がそう発表したからには、
かなりの真実に近づいた結果に違いないと少なくともわたしは信じています。

攻撃の結果は彼らに対する崇敬の念になんの変化ももたらすものではありませんが、
それにしても日本側がその研究結果にどうしてここまで無関心なのか、
わたしはこれを知った日からずっと違和感を抱き続けているのも事実です。

こちらは九軍神の慰霊を続ける三机の人々の姿を報じる新聞記事。
ちなみに朝日新聞です。

「戦死の報で真相知り涙」

というのは、岩宮旅館で彼らの世話をした岩宮旅館の、
現在の女将の伯母という人が取材に答えていった言葉です。

11月の末に休暇から戻った彼らが三机から母艦「千代田」とともに
姿を消してから3ヶ月後、大本営発表によって彼らが軍神となった、
と知ったとき、日本中の誰よりも驚いたのがおそらく
彼らの滞在した旅館の人々だったと思われます。

故人となった女将の伯母は、

「新聞の写真を見て家中で泣きました。
一人ひとりの顔が脳裏に浮かんでは消えました」

と記者に語りました。

新聞などの媒体が当時「九軍神」の遺影に使った元写真です。
海軍の報道部にとって都合のよかったのは、捕虜になってしまった
酒巻少尉は一番右(前列)にいて加工しやすかったことでしょう。

この写真は甲標的の整備員も揃って写っている貴重なものです。

同じメンバーが「千代田」艦長原田覚と写した写真。
「千代田」の先任である士官とともに岩佐大尉だけが(右から2番目)
前列に座っています。

シドニー湾に特殊潜航艇で突入した伴智久、八巻悌次、
松尾敬宇、中馬兼四大尉、そして、マダガスカル攻撃で雷撃を成功させ、
英軍艦2隻に大きな打撃を与えたものの、その後陸上で英軍と交戦、
戦死した秋枝三郎(海兵66期)が写っています。

Midget submarine crews (AWM P00325-001).jpg

wikiの鮮明な写真も貼っておきます。
各人の後ろにいるのが彼らの艇附です。

開戦2ヶ月後に撮られた第4期のメンバーです。
この中に「回天」開発の黒木弘大尉がいるのではないかと思うのですが、
(左から2番目?)名前がなかったのでわかりません。

直会は青年団の皆さんが心を込めて用意してくれた寄せ鍋でした。
冬の味覚である牡蠣まで入っています。

わたしの近くには予科練だったという92歳の方が座っていて、
皆にその元気ぶりを感心されていました。

出席者の一人、久野淳氏の竹田恒泰氏との共著、
「日本書紀入門」。

会もたけなわの頃、青年団のメンバーの一人が誕生日
(12月8日!)であるということで、身内からケーキが贈られ、
皆で「ハッピーバースデー」を歌うことになったとき、

「こんな日なのにハッピーはいいのかどうか」

という声もあがったのですが、別の人が、

「いいんだよ、ハッピーで」

とひとこというと、全員が納得していました(笑)

ホールケーキにしたかったのだけど、何しろ地元の小さなケーキ屋で
予約しないと無理、といわれてしまったのでショートケーキ詰め合わせです。
誕生日ケーキなのにサンタが乗っています。

この時の話によると地元の青年団でも若い人が少なくなって
人材不足は深刻なのだそうですが、そんな中、手作りの慰霊祭を
毎年欠かさず続けてくれている彼らの誠意には敬意を払わずにいられません。

和やかなまま直会がお開きになり、わたしはここを離れる前に
もう一度岩宮旅館によってみることにしました。

そこには九軍神始めここで訓練をしていた特殊潜航艇乗員たちの
生きた証が史料館として展示されているのです。

 

続く。