さて、スミソニアン航空宇宙科学博物館の一隅にある
「ジェットエンジン搭載機の歴史」コーナーから、まずは
アメリカ海軍が最初に空母で運用したジェット機ファントム、そして
次にジェットエンジンの誕生に関わった二人の英独の技術者、
フォン・オハインとサー・ウィットルをご紹介してきました。
今日は、その後の各国の航空機技術者たちがトライした
ジェットエンジンとその搭載機について展示からご紹介していきます。
最初は、やはり我が日本の橘花からご紹介しましょうかね。
スミソニアン博物館別館のウドヴァー・ヘイジーの方には、この橘花を含め、
貴重な旧日本軍機の膨大な?コレクションを観ることができ、
当ブログでも一連の軍用機についてご紹介してきましたが、ここでは
唯一のジェット推進機として「橘花」が取り上げられています。
中島 橘花 1945
「ドイツのメッサーシュミットMe262との表面的な類似にもかかわらず、
キッカはもともとオリジナルデザインに基づいていました。
動力はNE20ターボジェット、オサム・ナガノが開発したものです。
1945年8月7日に完成し、初飛行を行いました」
これが現地の英語の説明です。
英語でいうなら「イッツ・コンプリケイテッド」とか「ロングストーリー」
で、この文章にはいろいろと解説が必要です。
別館展示の「橘花」についてその諸事情をあまさず書いた当ブログ、
「橘花と燕」という欄で、全てお分かりいただけると思いますが、
その時に参照したスミソニアンのキュレーターと、これを書いた人は
全く別人らしく、こちらの解説員は、
「橘花は(いろいろあったけど)日本がオリジナル開発した」
ということをどうやらわかっているようです。
それでは続いて解説を翻訳してみましょう。
中島「橘花」は、日本のプロトタイプ戦闘機で、1945年8月7日、
初飛行を行いました。
永野治の設計によるNE20軸流ターボジェットエンジンを搭載し、
種子島時休とともに完成させましたが、
第二次世界大戦投入するのには間に合いませんでした。
種子島は1927年ごろからタービンエンジンの研究に没頭していましたが、
上の理解は戦時中ということもあって広まりませんでした。
日本の初期のユニットは遠心圧縮機タイプでしたが、
ドイツで開発された軸流式圧縮機タイプ、
BMW 003ターボジェットエンジンのデータを参考に、
それに対応するエンジンが設計されました。
BMW 003
ちなみに文中NE 20とありますが、これは「エヌイー20」ではなく
「ネ20」であり、
「ネ」とは燃焼噴射推進器の「ね」
であることをぜひお断りしておきたいと思います。
これは永野治によれば、合同で研究していた陸軍が、海軍とは違って
公式には英語を極力使わない習慣があったため、忖度して海軍では
TR(ターボ・ロケット)と呼ぶものを「ネ」としたのだそうです。
ついでに、陸軍での名称付与基準で飛行機は「キ」発動機は「ハ」だったそうです。
パネル下にはちゃんと橘花の模型が展示してありました。
あらためて添えられていたスペックを書いておきます。
中島 橘花
橘花は日本で設計された軸流式ターボジェット機で、
完成を前に第二次大戦は終了し、実戦投入はされなかった。
メッサーシュミットMe262に似ているが、こちらは
後退翼はなく、尾翼もMe262のように後傾していない。
1945年8月7日に完成し、初飛行は二回にとどまった。
木更津海軍基地で行われた橘花のテスト飛行の写真です。
スミソニアンの資料によると、最初のプロトタイプは8月までに
初飛行を行う準備ができていたそうです。
テストパイロットはタカオカ・ススム(高岡廸)海軍中佐。
8月7日に初飛行を行い、12分の飛行に成功しました。
この時に使用した燃料は松根油だったということなので、
普通の燃料で実験できていれば、時間は伸びていた可能性はあります。
スミソニアンの解説では、機体は4日目に行われた二度目の実験で
東京湾に墜落したとなっているのですが、ウィキペディアによると、
滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損した、とだけあります。
これは、後に紹介する永野随想によると、スミソニアンが正確です。
事故の原因についてはどちらも同じ記述、つまり
「高岡中佐が離陸補助ロケットの燃料終了による加速度の減少を
エンジンの不調(バーンアウト)だと勘違いし、
スロットルを戻して取る必要のない安全策をとったせい」
としていますが、スミソニアンの方には少し突っ込んで
「技術者が二基のアシストロケットを機体に間違った角度で付けたこと」
も高岡中佐の勘違いを生む原因となったと触れています。
ところで、ここでもういちどスミソニアンで名前を挙げられている
日本の技術者について触れておきましょう。
種子島時休(1902ー1987)
海軍機関学校卒、海軍大学を経て東大航空科に進み、
フランス留学から帰国後海軍航空本部で勤務。
海外で研究の進むジェットエンジン有用性を痛感し、
部下の永野治(1911ー1988)らと海軍航空技術廠で研究を行いました。
日本初のジェット機である橘花の試験飛行に成功するも、
試験飛行中に終戦を迎えました。
戦後は日産自動車、石川島重工業などの勤務を経て
防衛大学校の教授も務めています。
永野治は海軍委託学生として東京帝大卒業後海軍航空廠に入り、
(ちなみにこのときの面接官は航空本部長だった山本五十六)
九六式陸攻や零戦、月光などのエンジン対策を行っていました。
同じ発動機部に配属された種子島少佐が、レシプロエンジンよりも
自分の好きなジェットエンジンの開発実験を始めたため、
海外から伝わってくるジェット機開発の情報を受けて永野もまた
設備の拡充が行われたジェット機開発に取り組むようになっていきます。
1943年、以前にもお話ししたように、巌谷英一技術中佐が、
ジェットエンジンの資料をドイツから持ち帰りましたが、
詳細資料を積んだ伊号は連合軍に撃沈され、無事だったのは
メッサーシュミット Me262に搭載されたエンジンに関する見聞ノート
15分の一に縮小されたキャビネ版の断面図写真
「メッサーシュミット Me163コメート」の組立図
Me262およびMe163の取扱説明書
だけ。
普通に考えてこれから実物を作るのは無理です。
おりしも日本本土にはB-29の空襲が相次ぎ、軍部は一刻も早く
迎撃できるロケット戦闘機の出現をと焦りを強めていたころで、
この緊急事態に、陸海軍と民間6社による研究会がもたれました。
不眠普及の苦闘の結果、BMWエンジンの断面写真を参考に、ジェットエンジン
「ネ-20」の完成にこぎつけたのは1945年6月のことでです。
この期間、永野は幼い息子を赤痢で亡くすという悲劇に見舞われていますが、
妻が懇願する中振り切って仕事に出かけ、死に目にも遭えませんでした。
戦後は日比谷にあったアメリカ占領軍情報教育局で海外のエンジン技術を学び、
石川島重工業に技術者として入社。
その後戦中の重工業が合併してできた日本ジェットエンジン株式会社(NJE)の
研究科研究部長に就任し、航空自衛隊のためのエンジン調達の基礎を作り、
その後も後進の技術者の育成にあたりました。
また、スミソニアンでは、日本でジェットエンジン研究していた
この人物も紹介しています。
別のルートでやはりジェットエンジンの開発を行っていた、
シゲオ・タマルがいる。
イタリアのスゴンド・カンピーニに影響を受けたタマルは、
110馬力の小さな軸流式圧縮機で動かすピストンエンジンを開発し、
これはのちに空技廠の特攻機桜花22に使用されることになった。
この田丸茂雄という名前を検索していたら、なんと永野治先生の
「戦時中のジェットエンジン事始」
という随想が見つかりました。
サー・フランク・ウィットルをはじめとして、イタリアのカンピーニ、
ハインケル、フォン・オハインなど、知ったばかりの名前がずらずらでてきます。
永野の師とも言える「種子島さん」の詳しい話もあり、橘花開発における
スミソニアンの資料は、ここから多くが採用されているようでした。
この永野治の回想する橘花の初飛行前後の思い出を書いておきます。
このような慌ただしさと緊迫の空気を背景として
8月7日に橘花の初飛行が見事に成功したのであ る。
そ れは感動の一瞬であった。
高岡迪少佐の操縦する橘花が木更津の空に浮き上ったのを目にした時には
手足が機械人形のようにひとりでにはねまわるのを止めることができなかった。
広島原爆の翌日とて不気味なニュースが流れてきたが、
我々の気持の高まりにはほとんど影響することはなかった。
ところが、正式の試験飛行に予定された8月10日には、
敵機動部隊の大空襲を受けて、木更津飛行場も哨煙に包まれて
試飛行など思いもよらぬ始末、
翌11日は荒れ模様の小雨気味の中を初飛行の軽荷状態とちがって、
全備重量に離陸促進 ロケットを使っての離陸に、あとで考えれば計画上の無理があり、
離陸を思い止まった高岡少佐操縦の機体は引き潮の海中に突入沈座した。
血相変えて馳け寄った私の耳に高岡少佐の
“錯覚だったかな?” というつぶやきが永く残った。
我々は1号機の潮出し修復と、2号機の整備に狂奔した。
しかし、その努力もす ぐに無用となった。
それから4日後には終戦を迎えたからである。
あっけない幕切れであった。
それでも私達の心には、やることをやり遂げたという深い満足感 が残った。
なお、スミソニアンの解説には、橘花とMe262の違いについて
いきなり、
Kikkaは片道自殺ミッションのパフォーマンス要件を満たすために作られたので、
Ne-20エンジンのサイズも出力もドイツの戦闘機に設定された目標とは違いました。
と確信的に書いてあります。
日本が作る飛行機は特攻用だと決めてかかっているんですね。
前にも書きましたが、スミソニアンでは無理やり橘花を
「オレンジブロッサム」と翻訳して、あたかもジェット機開発も
散りゆく花と特攻を重ね合わせた桜花と同じ目的だったような
アメリカ人特有の思い込みのもとに印象操作を行っているのです。
名前をどう解釈しようと勝手だけど、
民間人の上に焼夷弾を落としにくる
あんたらのB-29を迎撃するために
日本も必死の思いだったんだよ!
とこう言うのを見ると日本人のわたしとしてはなんとももどかしいというか
歯痒い思いが湧き上がってきます。
確かに永野氏は戦後、自分たちの航空機で多くの若者が死んでいったことを
悔いる発言を残しているようですが、それは世間の趨勢から
そういう反省をするのが正しいと思われる状況にあったからでしょう。
戦後すぐに書かれた随筆からは、橘花開発は防衛のための背水の陣だったこと、
そしてなにより、技術者として目の前にある未知の挑戦に挑み、
それを成し遂げた純粋な充実感と喜びだけしか伝わってきません。
そしておそらくこれが永野氏はじめ古今東西兵器にかかわってきた技術者に
共通する本質をあらわしているのであろうと思われます。
最後に、せっかくスミソニアンが両者の比較をしてくれているので
これを挙げておきましょう。
実験的プロトタイプKikka: 翼幅: 10 m |
Production Me 262 A-1a: 12.65 m
|
続く。