ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

NEは燃料噴射推進の『ネ』 日本のジェットエンジン開発物語〜スミソニアン航空博物館

2020-06-30 | 歴史

 

さて、スミソニアン航空宇宙科学博物館の一隅にある
「ジェットエンジン搭載機の歴史」コーナーから、まずは
アメリカ海軍が最初に空母で運用したジェット機ファントム、そして
次にジェットエンジンの誕生に関わった二人の英独の技術者、
フォン・オハインとサー・ウィットルをご紹介してきました。

今日は、その後の各国の航空機技術者たちがトライした
ジェットエンジンとその搭載機について展示からご紹介していきます。

最初は、やはり我が日本の橘花からご紹介しましょうかね。

スミソニアン博物館別館のウドヴァー・ヘイジーの方には、この橘花を含め、
貴重な旧日本軍機の膨大な?コレクションを観ることができ、
当ブログでも一連の軍用機についてご紹介してきましたが、ここでは
唯一のジェット推進機として「橘花」が取り上げられています。

中島 橘花 1945

「ドイツのメッサーシュミットMe262との表面的な類似にもかかわらず、
キッカはもともとオリジナルデザインに基づいていました。
動力はNE20ターボジェット、オサム・ナガノが開発したものです。
1945年8月7日に完成し、初飛行を行いました」

これが現地の英語の説明です。

英語でいうなら「イッツ・コンプリケイテッド」とか「ロングストーリー」
で、この文章にはいろいろと解説が必要です。

別館展示の「橘花」についてその諸事情をあまさず書いた当ブログ、
「橘花と燕」という欄で、全てお分かりいただけると思いますが、
その時に参照したスミソニアンのキュレーターと、これを書いた人は
全く別人らしく、こちらの解説員は、

「橘花は(いろいろあったけど)日本がオリジナル開発した」

ということをどうやらわかっているようです。
それでは続いて解説を翻訳してみましょう。

中島「橘花」は、日本のプロトタイプ戦闘機で、1945年8月7日、
初飛行を行いました。
永野治の設計によるNE20軸流ターボジェットエンジンを搭載し、
種子島時休とともに完成させましたが、
第二次世界大戦投入するのには間に合いませんでした。

種子島は1927年ごろからタービンエンジンの研究に没頭していましたが、
上の理解は戦時中ということもあって広まりませんでした。

日本の初期のユニットは遠心圧縮機タイプでしたが、
ドイツで開発された軸流式圧縮機タイプ、
BMW 003ターボジェットエンジンのデータを参考に、
それに対応するエンジンが設計されました。

BMW 003

ちなみに文中NE 20とありますが、これは「エヌイー20」ではなく
「ネ20」であり、

「ネ」とは燃焼噴射推進器の「ね」

であることをぜひお断りしておきたいと思います。
これは永野治によれば、合同で研究していた陸軍が、海軍とは違って
公式には英語を極力使わない習慣があったため、忖度して海軍では
TR(ターボ・ロケット)と呼ぶものを「ネ」としたのだそうです。

ついでに、陸軍での名称付与基準で飛行機は「キ」発動機は「ハ」だったそうです。

パネル下にはちゃんと橘花の模型が展示してありました。
あらためて添えられていたスペックを書いておきます。

中島 橘花

橘花は日本で設計された軸流式ターボジェット機で、
完成を前に第二次大戦は終了し、実戦投入はされなかった。
メッサーシュミットMe262に似ているが、こちらは
後退翼はなく、尾翼もMe262のように後傾していない。

1945年8月7日に完成し、初飛行は二回にとどまった。

木更津海軍基地で行われた橘花のテスト飛行の写真です。
スミソニアンの資料によると、最初のプロトタイプは8月までに
初飛行を行う準備ができていたそうです。

Susumu Takaoka.jpg

テストパイロットはタカオカ・ススム(高岡廸)海軍中佐
8月7日に初飛行を行い、12分の飛行に成功しました。

この時に使用した燃料は松根油だったということなので、
普通の燃料で実験できていれば、時間は伸びていた可能性はあります。

スミソニアンの解説では、機体は4日目に行われた二度目の実験で
東京湾に墜落したとなっているのですが、ウィキペディアによると、
滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損した、とだけあります。
これは、後に紹介する永野随想によると、スミソニアンが正確です。

事故の原因についてはどちらも同じ記述、つまり

「高岡中佐が離陸補助ロケットの燃料終了による加速度の減少を
エンジンの不調(バーンアウト)だと勘違いし、
スロットルを戻して取る必要のない安全策をとったせい」

としていますが、スミソニアンの方には少し突っ込んで

「技術者が二基のアシストロケットを機体に間違った角度で付けたこと」

も高岡中佐の勘違いを生む原因となったと触れています。

ところで、ここでもういちどスミソニアンで名前を挙げられている
日本の技術者について触れておきましょう。

ジェットエンジン 発祥地だった秦野 航空機時代の魁に | 秦野 | タウン ...種子島時休(1902ー1987)

海軍機関学校卒、海軍大学を経て東大航空科に進み、
フランス留学から帰国後海軍航空本部で勤務。

海外で研究の進むジェットエンジン有用性を痛感し、
部下の永野治(1911ー1988)らと海軍航空技術廠で研究を行いました。

日本初のジェット機である橘花の試験飛行に成功するも、
試験飛行中に終戦を迎えました。

戦後は日産自動車、石川島重工業などの勤務を経て
防衛大学校の教授も務めています。

永野治は海軍委託学生として東京帝大卒業後海軍航空廠に入り、
(ちなみにこのときの面接官は航空本部長だった山本五十六)
九六式陸攻や零戦、月光などのエンジン対策を行っていました。

同じ発動機部に配属された種子島少佐が、レシプロエンジンよりも
自分の好きなジェットエンジンの開発実験を始めたため、
海外から伝わってくるジェット機開発の情報を受けて永野もまた
設備の拡充が行われたジェット機開発に取り組むようになっていきます。

1943年、以前にもお話ししたように、巌谷英技術中佐が、
ジェットエンジンの資料をドイツから持ち帰りましたが、
詳細資料を積んだ伊号は連合軍に撃沈され、無事だったのは

メッサーシュミット Me262に搭載されたエンジンに関する見聞ノート
15分の一に縮小されたキャビネ版の断面図写真
メッサーシュミット Me163コメート」の組立図
Me262およびMe163の取扱説明書

だけ。
普通に考えてこれから実物を作るのは無理です。

おりしも日本本土にはB-29の空襲が相次ぎ、軍部は一刻も早く
迎撃できるロケット戦闘機の出現をと焦りを強めていたころで、
この緊急事態に、陸海軍と民間6社による研究会がもたれました。

不眠普及の苦闘の結果、BMWエンジンの断面写真を参考に、ジェットエンジン
「ネ-20」の完成にこぎつけたのは1945年6月のことでです。

この期間、永野は幼い息子を赤痢で亡くすという悲劇に見舞われていますが、
妻が懇願する中振り切って仕事に出かけ、死に目にも遭えませんでした。

 

戦後は日比谷にあったアメリカ占領軍情報教育局で海外のエンジン技術を学び、
石川島重工業に技術者として入社。

その後戦中の重工業が合併してできた日本ジェットエンジン株式会社(NJE)の
研究科研究部長に就任し、航空自衛隊のためのエンジン調達の基礎を作り、
その後も後進の技術者の育成にあたりました。

 

また、スミソニアンでは、日本でジェットエンジン研究していた
この人物も紹介しています。

別のルートでやはりジェットエンジンの開発を行っていた、
シゲオ・タマルがいる。
イタリアのスゴンド・カンピーニに影響を受けたタマルは、
110馬力の小さな軸流式圧縮機で動かすピストンエンジンを開発し、
これはのちに空技廠の特攻機桜花22に使用されることになった。

この田丸茂雄という名前を検索していたら、なんと永野治先生の

「戦時中のジェットエンジン事始」

という随想が見つかりました。

サー・フランク・ウィットルをはじめとして、イタリアのカンピーニ
ハインケル、フォン・オハインなど、知ったばかりの名前がずらずらでてきます。

永野の師とも言える「種子島さん」の詳しい話もあり、橘花開発における
スミソニアンの資料は、ここから多くが採用されているようでした。
この永野治の回想する橘花の初飛行前後の思い出を書いておきます。

このような慌ただしさと緊迫の空気を背景として
8月7日に橘花の初飛行が見事に成功したのであ る。
そ れは感動の一瞬であった。

高岡迪少佐の操縦する橘花が木更津の空に浮き上ったのを目にした時には
手足が機械人形のようにひとりでにはねまわるのを止めることができなかった。

広島原爆の翌日とて不気味なニュースが流れてきたが、
我々の気持の高まりにはほとんど影響することはなかった。

ところが、正式の試験飛行に予定された8月10日には、
敵機動部隊の大空襲を受けて、木更津飛行場も哨煙に包まれて
試飛行など思いもよらぬ始末、
翌11日は荒れ模様の小雨気味の中を
初飛行の軽荷状態とちがって、
全備重量に離陸促進 ロケットを使っての離陸に、
あとで考えれば計画上の無理があり、
離陸を思い止まった高岡少佐操縦の機体は引き潮の海中に突入沈座した。

血相変えて馳け寄った私の耳に高岡少佐の
“錯覚だったかな?” というつぶやきが永く残った。

我々は1号機の潮出し修復と、2号機の整備に狂奔した。
しかし、その努力もす ぐに無用となった。
それから4日後には終戦を迎えたからである。
あっけない幕切れであった。

それでも私達の心には、やることをやり遂げたという深い満足感 が残った。


なお、スミソニアンの解説には、橘花とMe262の違いについて
いきなり、

Kikkaは片道自殺ミッションのパフォーマンス要件を満たすために作られたので、
Ne-20エンジンのサイズも出力もドイツの戦闘機に設定された目標とは違いました。

と確信的に書いてあります。
日本が作る飛行機は特攻用だと決めてかかっているんですね。

 

前にも書きましたが、スミソニアンでは無理やり橘花を
「オレンジブロッサム」と翻訳して、あたかもジェット機開発も
散りゆく花と
特攻を重ね合わせた桜花と同じ目的だったような
アメリカ人特有の思い込みのもとに
印象操作を行っているのです。

名前をどう解釈しようと勝手だけど、
民間人の上に焼夷弾を落としにくる

あんたらのB-29を迎撃するために
日本も必死の思いだったんだよ!

とこう言うのを見ると日本人のわたしとしてはなんとももどかしいというか
歯痒い思いが湧き上がってきます。

確かに永野氏は戦後、自分たちの航空機で多くの若者が死んでいったことを
悔いる発言を残しているようですが、それは世間の趨勢から
そういう反省をするのが正しいと思われる状況にあったからでしょう。

戦後すぐに書かれた随筆からは、橘花開発は防衛のための背水の陣だったこと、
そしてなにより、技術者として目の前にある未知の挑戦に挑み、
それを成し遂げた純粋な充実感と喜びだけしか伝わってきません。

そしておそらくこれが永野氏はじめ古今東西兵器にかかわってきた技術者に
共通する本質をあらわしているのであろうと思われます。

 

最後に、せっかくスミソニアンが両者の比較をしてくれているので
これを挙げておきましょう。

実験的プロトタイプKikka:

翼幅: 10 m   
長さ: 8.1 m
高さ: 3 m   
重量:空、2,300 kg
重量   4,080 kg      
エンジン:(2)Ne-20軸流ターボジェット、     
推力475 kg          

 

Production Me 262 A-1a:

12.65 m
10.6 m
3.83 m
4,000 kg
6,775 kg
(2)Junkers Jumo 004 B軸流、  
推力900kg

 

続く。

 


フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者〜スミソニアン航空宇宙科学博物館

2020-06-28 | 航空機

冒頭写真はスミソニアン博物館の初期のジェット戦闘機、
ファントム、Me262、ロッキードXP80ルル・ベルが展示されている
その反対の壁を飾っている壁画です。

初期のジェット戦闘機として我が帝国海軍の「橘花」が参加していますね。

その反対側がこうなっております。
どうも右に行けば行くほど時代も進んでいっているようです。
ジェット旅客機やファントムII、MiGも仲良く同じ方向を向いて飛んでいます。

というわけで今日はスミソニアン博物館の展示から、世界のジェット機史、
というパネル資料をご紹介していきたいと思います。

まずは導入部として、

「ジェット推進のパイオニアたち」

というこのようなケースが登場しました。

「HERO'S AEOLIPILE」

どう読むのかもわからないこの後半の単語ですが、
検索すると

「アイオロスの球」(またはヘロンの蒸気機関)

という人類史上最初に作られたジェット推進の理論による機器だそうです。

ドラムの中の水を熱することでノズルから蒸気が噴出し、
これをタービンとして回転する仕組みで、アイオロスとは
ギリシャ神話の風の神の名前です。

何か実用的なことに使われたわけではなく、
この真理によってそのうち何かうまれるのではないか、
という期待のもとに、見せ物になっていただけのようです。

ただ、アメリカ海軍のボイラーメーカーの技術徽章は
このアイオロスの球が象徴としてデザインされています。

 

さて、というのは歴史を紐解くにあたっての「つかみ」で、
ジェット推進システムの歴史は一挙に近代に飛びます。

 

ピストンエンジンによるプロペラ機構は、一度は
航空機推進のための究極にして最後の方法と考えられていましたが、
この動力に限界を感じる技術者たちもたくさんいました。

時代や存在する地域も様々で、互いの存在もその研究も全く知らない
技術者たちは、それぞれが独自の方法でその研究を推し進めました。

これらの創造的な個人がジェット推進の新技術に、それぞれが
多大な貢献をすることになり、推進の先駆者と呼ばれるに値します。

そしてその下には50人ほどの世界中の技術者の名前が推挙してありますが、
ここに 日本人の名前を見つけました。

「Osamu Nagano」永野治

そして

「Tokiyasu Tanegashima」種子島時休

海軍技術将校だったこの二人は、先ほどの絵にも描かれていた
日本初のジェット推進機「橘花」を
開発製作したのです。

そしてその人たちを指して、当博物館では

「これらのあまり知られていない技術者たちの中には、
大きな進歩に寄与した人々、間違った推論を探索して除外した人々、
努力そのものは報われずとも、その功績がジェット推進の分野に
さらなる関心を集めることに役立った人々が含まれます」

という言葉で称えています。

この二人と橘花については説明を後に譲るとして、
コーナーの中央で紹介されているこの二人、

ドクトル・ハンス・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
そのパイオニアの中のパイオニア、つまり、世界で一番最初に
ジェット推進を形にした技術者を今日はご紹介します。

まず、右側の

サー・フランク・ウィットル(1907−1996)

はイギリス空軍士官の身分のまま、ケンブリッジ大学で
遠心式ターボジェットこそが次世代の推進機構として戦力化すべき、
という論文を発表した天才ですが、彼の論文は軍需省に認められず、
試作のための協力も得られないという目に遭います。

しかも彼の論文は普通の雑誌で公開されていたため、
目の利く各国の技術者が猛烈に後追いを始める結果になりました。

そんなころ、ゲッティンゲン大学を出たばかりのドイツ人、

「乾杯〜」(立ってる人)

ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハイン(1911−1998)

は、ジェットエンジンを作り上げていました。

23歳のフォン・オハインは、大学時代「ぎこちなくて」スピードに限界のある
ピストンエンジンに代わるものとして、ジェット式推進に興味を持ちました。

真理は同じところに帰結するとでもいうのか、全くウィットル論文を読んでおらず、
その存在も知らないのに、彼の立てた理論は、細部こそ違っていましたが、

ウィットル考案の機構に非常に似たものだったそうです。

彼がデザインした世界初のターボジェットエンジンを、あの
エルンスト・ハインケル(左隣で乾杯している人物)に見せたところ、
即採用となり、ハインケル社で本格的な開発が始まりました。

ターボジェットを搭載したハインケルの飛行機はHeS 11で、
量産が始まったのは戦争が終わった1945年からのことです。

彼が持ち込んだデザインは史上初の試みながらクォリティが高く、
彼は名実ともに
ジェットエンジンを人類の歴史にもたらした人物となりました。

かたや、論文の粗探しをされて無視され放置されたウィットルは、
「栄光なき天才たち」のネタにされてもいいような不遇なスタートでしたが、
転んでもただで起きないタイプとみえて、空軍中尉の身分のまま
「パワージェット社」という会社を起業し、持論に基づく
遠心式ターボジェットエンジンの試作を猛烈に始め、結果的に

フォン・オハインとほとんど同時に

試作型を完成させることに成功しています。

しかし当時、ハインケル社はナチスとドイツ空軍に冷遇されていたため、
初のジェットエンジン搭載についても積極的な公開がされず、その結果当時は
ウィットルのジェットエンジンが世界初だと喧伝されていました。

これはオハインが開発したジェットエンジンを搭載して
初飛行に成功したハインケルHe178 V1です。

リベット溶接した単座式のコクピットで翼は木製、
尾輪タイプの引き込み式着陸装置がついています。
インテイクのダクトはシートのアルミニウムに取り付けられた部分にあり、
ジェット排気パイプは薄いクロームスチール製でした。

可変式排気ノズルは飛行中の推力制御用に設計されましたが、実際
固定ノズルは簡素化、時間、及びコストの点で選択されていました。

下はハインケルHe178V1のエンジン搭載概略図です。
ベンチテストのために取り付けた短い吸気口と翼にマウントした
ジェットパイプのため当初重量が450kgになりましたが、
これを長いダクトに取り替えながら、重量15%減となる
380kgにまで抑えることに成功しています。

左、ハインケル178V1     1939

右、グロスター 28/39 1941

グロスター E.28/39

ウィットルがフォン・オハインとほぼ同時に完成させた、
ウィットルW1、W1Xターボジェットエンジンは、
イギリスのグロスターに本拠地を持つ、グロスターエアクラフト社によって
イギリス初のジェット機に搭載されました。

ところでウィットルというひとが航空機の世界に進んだのは、
小さな時に父親が彼に与えたおもちゃの飛行機がきっかけだった、
とスミソニアンの説明には書かれています。

男の子なら小さい時に飛行機のおもちゃを与えられるのは普通ですが、
才能の花開くきっかけはどこにあるかわからないものです。
だから古今東西、世の中の親というものは、あらゆる可能性を少しでも多く
我が子に用意してやろうと思うのでしょう。
(ちなみにウィットルの父親は自動車整備工だった)

首席で空軍士官学校を卒業後、航空学校を経て戦闘機パイロットになった彼は、
若くして教官となり、のちに自分でテストパイロットも務めています。
その後やおらケンブリッジに進んでエンジンの論文を書き出すのですから、
まさに飛行機のことならなんでもやってみたい(そしてできた)人だったんですね。

しかし、彼の開発はフォン・オハインほどうまくいったわけではありません。

確かに、自社であるパワージェット社で完成させた最初のプロトタイプは
関係筋の関心を引き、契約にもなんとか漕ぎ着けましたが、

このころの絶え間ない開発の繰り返しとエンジンの問題によるストレスは、
ウィットルの精神に深刻な打撃を与えました。

彼の喫煙量は1日3パックに増加し、頻繁に激しい頭痛、消化不良、不眠症、
不安からくる皮膚湿疹、心臓の動悸などのさまざまなストレス関連の病気に苦しみ、
体重は激減しましたが、1日
 16時間仕事をするためにベンゼドリン(アンフェタミン)
を嗅ぎ、夜間は鎮静剤と睡眠薬を飲んで無理やり眠るという生活をしていました。

 この期間に彼は精神を蝕まれ、「爆発的な」気性は顕著になったといわれます。


人と協調できない偏狭な性格のせいでその後も軍需省と製作を請け負った
ローバーや他の業者
の技術陣とは最終的に対立してしまったほどでした。

The genius who invented planes without propellers | Express.co.uk空軍士官姿のウィットル

彼を評価したのはアメリカでした。

というか、ハインケルの情報をすでに得ていたはずのアメリカは、
ジェットエンジン研究を、同盟国のウィットル論文をお借りして枢軸国より早く
ものにする漁夫の利作戦にでたのです。(たぶんですけど)

1941年、アメリカ政府の要請により、ジェットエンジンW1Xは
ゼネラル・エレクトリック社に研究のために貸し出され、
GEの技術陣はあっという間にウィットルの設計をベースにして
ゼネラル・エレクトリックI-Aターボジェットエンジン
を完成させてしまいました。

ベル XP-59A

GEのエンジンを使って製作したアメリカ初のジェット航空機です。

二基のウィットルタイプ=GE IーAエンジンを搭載し、
1942年10月1日に初飛行を行いました。

テスト飛行を行ったのベル専属のテストパイロットロバート・M・スタンレー

Bob Stanley海軍時代のスタンレー

スタンレーは初めてジェット機を操縦したアメリカ人となりました。

余談ですが、彼もまた技術者で、のちにスタンレーという会社を起こし、
リバーシブルピッチプロペラやスタンレー式射出シートなどを開発しています。

1977年、家族でカリブに旅行に行った帰り、自家用ジェットが墜落し、
彼と妻、息子と孫、もう一人の息子とフィアンセ、盟友、
その全員が死亡するという悲劇的な事故で亡くなっています。

 

スタンレーが操縦したベルXp-59Aはテスト飛行で時速626kmを記録し、
高度は
およそ1万メーターに達しました。


さて、そのころになると、世界でジェットエンジンの研究開発が
日進月歩の熾烈な競争になっていたわけですが、ウィットルは
根本的問題のある持論に固執し、元々の性格もあって周囲と対立していました。

エンジン製作を請け負ったローバー社でも嫌われて次第に排除され、
いつの間にか開発の最前線から遠ざけられるようになっていたのです。

彼が作ったパワージェッツ社も、弱小で設備もろくにないまま、
王立航空研究所の1部門にいつのまにか吸収されてしまいました。

しかし、彼の人生の最後の日々は決して惨めだったというわけではありません。
 

まず1948年5月に、ホイットルは、ジェットエンジンに関する研究の功績により
英国王立委員会から賞金100,000ポンドを贈られ、
 大英帝国騎士団長(KBE)としてナイトに叙爵されました。

退役後の彼はBOACで航空機用ガスタービンのテクニカルアドバイザーとなり、
世界中を回ったり、自伝を書いたりの悠々自適な生活を楽しみ、

シェルで機械工学のスペシャリストとして新型パワードリルを開発、
そのあとはブリストルエアロエンジン社でまたしてもエンジン開発を試みています。

その間、アルバートメダル受賞始め、世界中の大学から名誉学位を授与されていますし、
国際航空宇宙殿堂入りも果たしていますし、いまだにイギリスでは
最も偉大なイギリス人のトップ50くらいにはつねに名を連ねています。

日本語のwikiではなぜか彼が閑職に甘んじ鬱々と過ごしたようなイメージで
惨めな老後だったような印象操作をしていますが、これは間違いでしょう。

 

69歳の時、彼はアメリカの海軍兵学校にNAVAIR研究教授として招聘されました。
そこで彼は境界層についての研究をし、
「 ガスタービンの空気熱力学:航空機の推進力に関する特別な参考資料」
というテキスト(おそらく兵学校用の)を残すなどしています。

 

そしてわたしが最後にぜひ書いておきたいのが、同時期にジェットエンジン研究をして、
たまたま同じ時期にそれを完成させたドクトル・ハンス・フォン・オハインと、
サー・ウィットルはアメリカのライトパターソン空軍基地で再会を果たしていることです。

Aerospaceweb.org | Ask Us - Jet Engine Development仲良しです

フォン・オハインも一足早く航空推進研究所に招かれ渡米していました。

ここで思うのがアメリカという国の、世界の頭脳を分け隔てなく取り入れ
自分のものにしていこうとする貪欲さと懐の広さですね。

二人の技術者としてのピークはすでに過去のものになっていたかもしれませんが、
アメリカはその実績に報いる意味で、後進の育成のために招聘したのでしょう。

ところで、ウィットルは最初フォン・オハインのエンジンがあまりに
自分の設計したものと似ていると思ったため、てっきり
自分のアイデアを盗用したのかと動揺したそうですが、すぐにそうではなく
全くオリジナルのものであると理解したそうです。
やはり、天才は天才を知るといったところでしょうか。

そして二人はしばしば一緒に講演旅行を行うほどの仲の良い友人になりました。

サー・ウィットルとの会話で、ドクトル・フォン・オハインは次のように述べています。

「もしあなたに十分な資金が与えられていたら、エンジンは
私たちよりおそらく6年は早く完成していたでしょう。

そしてヒトラーかゲーリングが、イギリスが時速500マイルで飛ぶ実験機を持ち、
それが実用化されていると聞いたら、第二次世界大戦は起こらなかったに違いありません」

 

これ、ブラピ(フォン・オハイン)とマット・デイモン(サー・ウィットル)
で映画化するっていう案はどうでしょうか(提案)

 

続く。

 

 


マクドネル FH-1ファントム ジェット機のマイルストーン〜スミソニアン航空宇宙科学博物館

2020-06-26 | 航空機

スミソニアン博物館には、ご覧の

マクドネル FHー1ファントム

を展示しているコーナーで、ジェット機の歴史を紹介しています。
まずはこの1945年に制作された、世界最初のジェット戦闘機について
展示の内容をご紹介していきたいと思います。

FH-1ファントムは、アメリカで生まれた史上初の純粋なジェット推進機で、
離陸と空母からの発艦が可能であり、最初に海軍と海兵隊に導入された
ジェット戦闘機です。

海軍の要望に応えてまだ若かったマクドネルエアクラフト社が1943年、
XFD-1として開発し、1945年の1月には初飛行を行っています。

1946年には、アメリカ海軍のジェームズ・デイビッドソン少佐
XFD-1を海上のUSS「フランクリン・D・ルーズベルト」から発艦させ、
着艦にも成功しました

■史上初の空母離着艦実験

デイヴィッド少佐の操縦するXFD-1。
フックが降りているのでこれから着艦でしょう。
ちなみに冒頭写真はファントムを後ろ下から見上げているので、
画面上方にこの着艦フックがあるのが確認できます。

ファントムの前のデイビッド少佐(右二人は中将ズ)

ファントムは60FH-1sだけが製造タイプになりました。
運用上のキャリアこそ、より優れたパフォーマンスを備えた
新しいジェット戦闘機の出現によって制限されることになりましたが、
汎用性、耐久性、そして戦闘における効果は、
その後の航空機設計の成功への道を開いたといえます。

XFD-1の初発艦の準備をする「ルーズベルト」の乗員たち。
前年の1945年12月に、イギリス海軍がジェットエンジン搭載の

ハビランド・ヴァンパイア

の空母離着艦実験に世界で最初に成功していたため、
こちらはアメリカ最初の実験となりました。

ファントムの配備が始まったのは実験成功の翌年1947年7月からです。
最初に受領した部隊はVF-17A、彼らはU.S.S「サイパン」
艦載機搭載部隊としての選抜試験をうけ、訓練してきたメンバーであり、
1948年から正式に部隊運用を開始しました。

彼らはこれで世界で初めてジェット戦闘機を艦上で運用した部隊となりました。

VF-17Aのパイロットは176回にわたる離着艦を繰り返し、
戦闘行動をシミュレートしましたが、ファントムはそのすべての要求に
完璧に応え、空母ベースのジェット機の運用に多ける基本的なコンセプトの
健全性を証明し、ここに海軍航空の新しい時代が幕を開けたのです。

FH-1ファントムを最初に運用した海兵隊ユニットはノースカロライナの
チェリーポイントにあった海兵戦闘機隊122です。

MF-122は、「フライング・レザーネック」という曲技飛行チームを結成し、
この機体を使って高い評価を受けました。

「レザーネック」は海兵隊の別称で、昔は革製だった立ち襟からきています。

アレスティングケーブルを超える機体を息を飲んで見つめる「FDR」乗員たち。

デイヴィッドソン少佐の空母「FDルーズベルト」からの発艦試験は
それまでのピストンエンジン搭載戦闘機時代の終了と、
ジェット時代の始まりを表していました。

ターボジェットによる機体の急激な加速力と減速力が
発艦と着艦に適しているかについては懸念もありましたが、
ファントムはそのテストにパスし、それらを証明したのです。

■艦隊におけるファントム運用

File:FH-1 Phantom of VF-17A on catapult of USS Saipan (CVL-48) on 6 May 1948.jpg

USS「サイパン」のカタパルトから射出される寸前のFH-1。
矢印が何のためについているのかはわかりません。
ここに立っているジェット後流で危ないという意味かな?

ファントムは空母から発艦するのに122mあれば十分でしたが、
カタパルトがジェット時代のスタンダードになったわけは、
それだけ甲板のスペースを駐機に使えるという理由によるものです。

LSO(着艦信号士、ランディング・シグナル・オフィサー)が、
アプローチしてくるファントムのパイロットに、正しい高さとスピード、
角度を機体が保っているかの信号を送っています。

シグナルパドル(わたし着艦うちわと勝手に呼んでました)は
1950年代まで着艦の補助に用いられましたが、高度の高い位置から
アプローチしてくる新しい飛行機のために、そのうち
フレネルレンズ式着艦装置に置き換えられていきます。

このシステムは、着艦デッキの中心線に並行のビームを投影し、
適切な機位を教えるものですが、近づいてくるパイロットには
黄色い楕円が見え、彼らはこれを「ミートボール」と呼びました。

初着艦で、着艦フックを最初のアレスティングケーブルにかけるXFD-1。
ファントムは安定した時速153kmでのアプローチを行いました。

■ ファントムの遺産

時速966kmのF2H-1 バンシー(Bansheeスコットランドに伝わる妖精の名前)
はFH-1の発展型で形はほとんど同じというくらいそっくりでしたが、
より大きなエンジンと燃料タンクを持ち、翼と尾翼はより薄く、しかしながら
翼の面積は大きく改良してありました。

空母「ルーズベルト」での実験の結果から、その性能に感銘を受けた海軍が
注文したのがこのバージョンです。

およそ900機がH-1からH-2に移行するまでに生産され、その中には
夜間戦闘機、写真偵察機、戦闘爆撃機などのバージョンを含みます。

ファントム1のサウンドデザインコンセプトはバンシーによって発展し、
それはF-101 ブードゥーに引き継がれ、最終的には
F4H-1 ファントムII で結実したといってもいいでしょう。

マクドネル F2-H2 バンシー

編隊飛行を行うバンシー。

F2H-1からこのF2-H2に変更された点は、翼の先に増槽を付け、
航続距離が1・5倍も伸びたことです。
ウェスティングハウスの強力なエンジン二基が取り付けられ、
高度1万5千mでの任務にも耐えました。

マクドネル F2H-4 バンシー

これがバンシーの最終形となったバージョンです。
空中給油ができるプローブを備え、航続距離が伸びたことで
核兵器の輸送任務も可能になりました。

ノーズに探索レーダーを搭載し、4基の20ミリ銃を搭載したタイプは
1959年まで部隊に配備されていました。

マクドネル F-101A ブードゥー

ニューヨークのエンパイアステート航空科学博物館で展示されていた
F-101ブードゥーをご紹介したばかりです。

バンシーをさらに進化させたのがこのブードゥーです。
(そうだったのか)

長距離護衛戦闘機としてデザインされ、空軍が運用していました。
航続距離、高高度での使用に抜群の安定感を誇り、
1954年時点ではアメリカで最も強力な戦闘機とされていたほどです。

 

カナダ空軍では1980年までサービスを行なっていました。

スミソニアンに展示してあるファントムはどこから撮っても
広角レンズでもない限り機体が全部画面に収まりません。

スミソニアン航空宇宙博物館のFH-1は、先ほどご紹介した
海兵隊のMarine Fighter Squadoron 122(VMF-122)
が運用していたもので、1954年4月、418時間の飛行を終え、
1959年、米軍によって寄付されたものです。

次回からは他の国のジェット機開発について引き続きスミソニアンの展示からご紹介します。

 

続く。


急降下爆撃の父 アル・ウィリアムズ少佐〜アメリカ海軍航空の黄金時代

2020-06-25 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」シリーズ、
海軍航空のパイオニアを紹介するコーナーは前回で終わったのですが、
別のコーナー、つまり当時盛んに行われた飛行機の性能を競う
エアレースで有名だった飛行家たちを紹介しているところに、
海軍軍人の名前を見つけたのでついでに紹介しておきます。

彼、アル・ウィリアムズの名前は、エアレーサーの一人となっていました。

■ エアレース

エアレース、そしてエアショーはいわゆるゴールデンエイジにとって
最も視覚に訴え、かつ刺激的な見せ物のひとつでした。

エアレースそのものは航空技術の進歩にさらに勢いを与えるもので、
競技者と彼らの乗った航空機は、軍事航空、あるいは航空発展の分野で
大いなる栄誉と名声を得たものです。

国際的なエアレースが最初に行われたのは1920年のことでした。

「ピュリッツァー・トロフィーレース」というのが最も大掛かりなもので、
これは年に一回定期的におこなわれるようになりました。

1930年に始まった短いコースを競う「トンプソン・トロフィーレース」
いわば航空のクロスカントリーである「ベンディックス・トロフィーレース」、
水上機専門の「シュナイダーカップ・レース」というものもありました。


1922年のシュナイダーカップレースが行われたのはイタリアのナポリです。
優勝したのはイギリス軍のビアード大尉でした。

シュナイダーカップに出場したスーパーマリンS.6E
これもイギリスチームの飛行機です。

この水上機は時速644キロの新記録を出した機体です。

そしてこの人物が1925年のシュナイダーカップ優勝者。
これ、誰だと思います?

ボルチモアで行われたレースでカーティスR3C-2に乗り勝利したのは、
アメリカ陸軍大尉、ジミー・ドーリットルでした。

ドーリットル、まぢで天才的なエアレーサーだったようで、
1931年、第一回ベンディックス・トロフィーでも優勝しています。

スーツ着てますが、これで飛行機乗ったんでしょうか。

このエアレースを描いた絵は、当時の新聞に掲載されたもので、
タイトルは、

「ジェームズ・H・ドーリットル トンプソントロフィーレース 1932年勝者」

なんと、ドーリットル、トンプソンカップでも優勝していたのです。
絵に描かれた飛行機の機体のずんぐりとしたシェイプ、これは

Gee Bee モデルR スーパースポーツスター

という機体で、彼が優勝したことで有名になりました。

右の方でおまわりさんが男の子の腕を掴んでいますが、
この二人の少年はドーリットルの息子たち、ジェイムズJr.とジョンです。

彼ら兄弟もまたパイロットになり、弟は空軍大佐で退官しましたが、
兄は1958年、陸軍少佐のときに38歳で自殺しています。

偉大な父の名前が重荷になったとかいう理由でないことを祈るばかりです。

 

さて、エアレースが盛んに行われたのには、仕掛け人がいました。

クリフ・ヘンダーソン(Cliff Henderson1895-1984)
は、こういった国際エアレースのマネージングディレクターで、

各種エアレースのスポンサーを集めてくる天才的な才能を持っていました。

Cliff Henderson (Clifford William, 1895-1984).jpg

ベンディックスもトンプソンも、この人の企画によるもので、
女性だけのエアダービーの仕掛け人でもありました。

陸軍の世界一周飛行をアレンジしたのもこの人です。

ついでに奥さんは女優だったりします。

女性ばかりのレースは「見せ物」として大変人気を博し、
アメリア・イヤハートなど有名な女流飛行家が排出されました。

その女性飛行家の中でエアレースの世界記録を塗り替えまくったのが、
当ブログでもかつてお話ししたことがある、

ルイーズ・セイデン Louise Thaden 1905-1979

です。
涼しい顔をして記録を次々と塗り替え、各種大会に優勝し、しかし
若いうちにあっさり引退して航空に関する著述を行っていました。

この人の凄いところは、男女混合のレースでも優勝していることです。

女流飛行家列伝「タイトル・コレクター」

 

■ アル・ウィリアムズ

さて、本日冒頭のスミソニアン博物館による似顔絵は
海軍軍人であり海軍パイロット、エアレーサーだった

アルフォード・ジョセフ・ウィリアムズ
Alford Joseph Williams(1896-1958)

中尉時代

です。

1917年にアメリカ海軍で航空士になったウィリアムズは、
1923年のピューリッツァートロフィーで速度新記録を樹立し優勝しました。

海軍航空のみならず、航空のパイオニアでもあったわけです。

ウィリアムズは米海軍だけでなく、米海兵隊、および米陸軍航空隊にも
所属していましたが、その経緯については後述します。

ちなみに彼が世界記録を立てたのは海軍のテストパイロット時代です。

彼はこの頃の手探り状態の軍航空における研究および試験パイロットとして
積極的な役割を果たしました。

彼本人もレースの優勝者として「スピードキング」というあだ名を奉られたほどです。

 

 

ニューヨーク州ブロンクスで石工の息子として生まれたウィリアムズは、
フォーダム大学の法学部(KKさんの在学しているところですね)に入学しました。

青い目に薄茶の髪、身長178センチメートル、体重66キロという
恵まれた体型をしていた彼は、卒業後2シーズンだけ
ニューヨークジャイアンツでプロ野球選手をしていたそうです。

彼の軍歴はその後ニューヨーク州兵に私兵として入隊し、
歩兵部隊に配属されるところから始まっています。

第一次世界大戦が始まり、彼は海軍予備役(USNRF)に2等級として入隊し、
マサチューセッツ工科大学の海軍航空部隊で航空訓練を受け、
訓練終了後の1918年、海軍少尉に任官します。

その後少尉のままペンサコーラで砲術および主飛行教官を務めた後、
テストパイロットに任命されることになります。

中尉任官後ピューリッツァートロフィーレースに出場するために
高速飛行機を割り当てられ特別な訓練を行うようになったとき、
彼は海軍の主任試験パイロットという重職にありました。

 

ところでいつの時代も組織というのは内部で対立があるものですが、
このころのアメリカ海軍航空は特に母数が少ないだけに
色々と覇権争いやら意見の食い違いによる摩擦があったようです。

ウィリアムズは前回お話しした「海軍航空の父」であり飛行船事故で亡くなった
ウィリアム・A・モフェット少将の弟子筋に当たると目されていたのですが、
このモフェット(当時大尉)とのちに海軍大将になるアーネストJ.キング大尉
当時親の仇同士のように対立している関係だったせいで、ウィリアムズは
その真ん中に立ってえらいとばっちりを受ける羽目になっています。

モフェット大尉が第一次世界大戦でヨーロッパにいる間、キング大尉は
自分の天敵であるモフェットの弟子、ウィリアムズ中尉を航空からはずして
なんと海上任務に移してしまうのです。

怒ったウィリアムズは辞表を叩きつけて辞めてしまいます。

いやいや、そういうことならモフェットになんとかして貰えばいいんじゃね?
と今の我々は考えてしまいがちですが、当時は通信手段が手紙しかなかったので、
モフェットがそれを知ったとしても遠隔地からはなんともしようがなかったのでしょう。

そこでとっとと海兵隊に移転したウィリアムズは大尉からキャリアを始め、
前歴を考慮されてすぐに少佐に昇進しました。

そして海兵隊にいた1930年代に、新しい戦闘機の戦術に取り組み、

「ダイビング爆撃」の手法の開発を担当しています。

つまり、彼は艦爆の「急降下爆撃の父」なのです。

この発明と開発にはアメリカ軍にとって計り知れない価値がありました。
来たる第二次世界大戦で、まさにそれが証明されることになります。

急降下爆撃を最初に行ったのは海兵隊、ということは知っていましたが、
これはウィリアムズがもしキング大尉に意地悪されていなければ、
海軍にその「栄誉」が与えられていたかもしれない、ということでもあります。

 

しかし、ウィリアムズはその海兵隊で任務を全うすることはありませんでした。

彼は独立した空軍の存在を肯定するという立場でしたが、
それを言ってはまずい場所(具体的にはどこかわからず)で率直な見解を述べたため、
口が災いして

海兵隊を辞任することを余儀なくされました。

二つ目の軍隊を辞めざるを得なくなったら、大抵の人はもう軍隊はいいわ、
ということになりそうですが、彼はそうでなかったのです。
それだけ航空、軍事航空の世界にどっぷりと浸かって足抜け?できなかったのでしょう。


そんな折、第二次世界大戦が始まってしまいました。

1941年、彼は陸軍航空隊に志願し、ベテランパイロットとして
数千人の陸軍パイロットに技術を教える教官という適職を得ることができました。

 

というのが、彼が海陸海兵隊の三隊を全て経験した理由です。
逆に、彼がもし航空という分野に執着していなければ、いずれの場合も
辞めるというまでには至らなかったに違いありません。

もし最初の水上艦への移動を受け入れていたとしても、
味方のモフェット少将は飛行船の事故で死ぬ運命でしたから、
彼が航空に戻れる可能性はまずなかったものと思われますし、
海兵隊をやめた理由も、独立空軍の創設という
航空愛のなせる止むに止まれぬ思いであったからです。

通勤風景

陸軍引退後、彼はピッツバーグの航空会社の営業マネージャーとなり、
F8Fベアキャット戦闘機の民間版ともいえる

グラマン G-58 ガルフホーク

を売りながらそれに乗って通勤していたそうです。

ガルフホーク展示場にて。

彼が乗っていたグラマン「ガルホーク」複葉機は、UHC、
スミソニアン別館の展示で見ることができます。 

彼はさらにその後、ガルフ石油(アメリカの大石油会社)
の航空部門に迎えられることになりました。

 

ところで彼はドイツ空軍のメッサーシュミットを実際に操縦したことがあります。
彼はレポートでその優秀さ、繊細さを熱っぽく語りました。

「そこにMe 109がわたしを待っていました。
実際にコックピット内の装備器具を研究する初めての機会です。


コントローラーは軽くて触ると繊細でした。
エンジンはまるで夢のように聞こえ、空冷ラジアルのような振動はありませんでした。

パラシュートを所定の位置に固定し、タキシングを行いました。

素晴らしかった。
離陸位置に向かいながら、垂直尾翼とラダーがかなり小さいにもかかわらず、
ラダーのプロペラブラストが驚くほど心地よい反応をもたらすことがわかりました。


離陸はスムーズであり、離陸までの距離はホーカーハリケーンの半分、
スーパーマリンスピットファイアの約4分の1であると推定しました。


空中で約130キロまで減速し、機首を引き上げ、落下させました。
エルロンは優れた制御を行いました。

メッサーシュミットの最も楽しい機能は、コントロールに対して
敏感でありながら機体の軸が
全くブレないということです。 
それは、ピアニストのタッチが忠実に再現される楽器のようでした。
荒っぽい操縦のパイロットは、きっと自分が恥ずかしくなるに違いありません。


メッサーシュミットMe109は今まで飛行した中で最も優れた飛行機です。
ドイツ第一線の単座戦闘機の一つを勉強する機会を楽しんだことは、
わたしにとってとても幸せな日となりました。

知る限りでは、わたしは空軍のメンバー以外でMe109を操縦した
唯一のパイロットになったはずです。


わたしは飛行機を美しく操縦することができたと思います。

 15分の時間を使って計器とコントロールに慣れ、その後、ロール、ダイブ、
インメルマンなどのさまざまなタイプの操縦に15分を費やしました。
30分後、着陸し、再び離陸し、フィールドを周回しました。


109は、飛ぶのと同じくらい簡単に離陸し、着陸する飛行機でした。」


彼がねっからのテストパイロットであったことが、この
まるで恋人のことを語るような興奮したレポートから伝わってきます。


海軍航空のパイオニアシリーズ 終わり

 

 


モフェットフィールドと「アクロン」の事故 W.モフェット少将〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-23 | アメリカ

ウィリアム・A・モフェット William A Moffet

アメリカ海軍航空の父

1914年 ヴェラクルーズで下院議員の栄誉メダルを受賞

1921年 海軍航空部門における最初のチーフとなる

1922年 海軍航空隊で認定された初の航空偵察員となる

 

【ハンガー・ワン】

モフェット少将にたどり着く前に、かなりの寄り道をします。
話はちゃんとつながっていきますので我慢してお付き合いください。

サンフランシスコ空港から南に向かって車を走らせたことがある方は、
しばらく行くとフリーウェイの左側に、異様に大きなドームが見えるのをご存知でしょう。

わたしもサンフランシスコ在住以来気になっていたのですが、その当時は
気になったらすぐ目の前の四角いもので調べることができるような
便利な世の中にはまだなっていなかったので、このドームが
アメリカ海軍とNASAの所有であることを知ったのはごく最近のことです。

ベイエリアに住むほとんどの人間は生まれた時からこれを見ていたはずで、
というのはこの「ハンガーワン」なる構造物、できたのが1933年なのです。

ハンガーという限りは何かを格納するためのものですが、
それではなんのために作られたのかというと・・・・・、
そう、当時は海軍の先進的偵察武器であった飛行船なのです。

先日当ブログで墜落事故についてお話ししたあのUSS「メイコン」
姉妹船「アクロン」の専用格納庫として建造され、ごく短い期間、そこには飛行船と
小型の軽飛行機が格納されていました。

メイコン格納中

当時にしてその巨大な格納庫ドアは電動式だったそうです。

その後相次ぐ飛行船の事故があり、特に「メイコン」が事故で失われてからは
この巨大な格納庫の使い道がなくなりましたが、そこで壊してしまわないのが
土地とお金のあるアメリカの素晴らしいところです。

 

1965年、米国海軍史跡に指定されてからは

「海軍歴史記念碑」

「サンタクララ郡歴史的遺産」

「アメリカ歴史的土木工学遺産」

「カリフォルニア州土木ランドマーク」

「国定歴史建造物」

などに次々と指定されました。
沿岸防衛における重要な貢献、芸術的価値が評価されたものです。

しかし2003年、ハンガーに隣接する湿地の堆積物から有毒な化学物質が検出され、
ハンガーワンに使われていた鉛の塗料と、格納庫のコーティングに使用されていた
ポリ塩化ビフェニル(PCB)ではないかと言われるようになります。

このため、 格納庫は解体して土地を再利用するか、有毒廃棄物を取り去って
建物を保存するかという選択を迫られることになりました。

1996年に、モフェット海軍基地そのものはすでに閉鎖されていましたが、
海軍は建物を保存する方向で動き、ハンガーワンから有害なコーティング部分をはがし、
防腐剤スプレーして骨格を残すことを提案しました。

この頃ハンガーワンは歴史保存協会によって

アメリカの絶滅危惧歴史遺跡

の11のうちの1つに指定されています。

2011年、とりあえず海軍とNASAが出資して、外装パネルを外す作業が始まり、
この工事はおそらく西海岸の歴史で最も大きな足場を必要とするものになりました。

そうやって外側は外れましたが、さてここからどうすべえ、
と海軍は途方に暮れていました。(たぶんですけど)

メディアや世間からそれでなくとも

「海軍はハンガーワンを回復する義務がある」

などとやいやい言われていたわけですが、しかし海軍の方は
ご予算の関係もあり、NASAにその義務がある、
と出資を押し付けようと
涙ぐましい努力をしていたのです。

しかしそこに、

ぐーぐる が あらわれた!

なかまになりたそうに こちらをみている

なかまにしますか? はい いいえ

という経緯で、Googleが手を差し伸べてきたのです。

つまり具体的にいうと、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、
エリック・シュミットが、Googleのお膝元マウンテンビューにあるこの施設を、
8機のプライベートジェット用に一部使わせてくれたら、

改造費用の35億円くらいちゃっちゃと出しますよ、というありがたい提案です。

結果、Googleはこの格納庫を60年間の契約でリースしていて、
その間有害物質の除去を並行して進め、修復も2025年に完了することになりました。

 

【モフェット連邦飛行場】

さて、そのハンガーワンのあったのがかつての海軍基地モフェット・フィールドでした。

海軍が撤退してからはNASAエイムズリサーチセンターが所有していますが、
その一角にはかつて空軍の「オニヅカ・エアフォースフィールド」がありました。

オニヅカとはチャレンジャー事故で亡くなった、エリソン・ショウジ・オニヅカ
(鬼塚承次)大佐の名前から取ったものです。

その一角にはいくつかの大学のブランチキャンパスを有しています。
(ちなみに超私事ですが、今見たらその中に息子の大学も含まれていました)


さて、もともとサニーベール市の持ち物だったこの土地を海軍が買ったのは、
海側にそびえる山脈のせいでサンフランシスコのような霧が出ない、
という気候的なメリットを考慮されたからだそうです。

サンフランシスコ空港はサンフランシスコ市ではなくサンマテオ市にありますが、
これも同じ理由で、海岸沿いを山で隔てられるのが
ちょうどサンマテオより南の地域で、飛行機の離発着に支障がないからです。

フーバー大統領によって議会で承認されたのが1931年、すぐに建設が始まり、
1933年の開隊は、

「エアベース・サニーベール CAL」

という名前で行われることになりました。
本来なら
マウンテンビューという地名を使うところですが、海軍のお歴々は

「パイロットが山腹に衝突するイメージを持つかもしれないから」

といらない心配をして名前を市から取ったそうです。

今も昔も航空関係者は縁起を担ぐ傾向にあるということですが、
特にこの頃の航空は不安定で、特に飛行船は事故が多かったので
ゲンでもなんでも担げるものは担いでおこうという思考だったのでしょう。

しかし、オープンを8日後に控えた1933年4月4日、

USS「メイコン」の姉妹船「アクロン」が山に衝突ではなく、
海に墜落して多数の乗員が失われるという悲劇が起こりました。

 

 

【飛行船アクロンの事故】

USS「アクロン」(ZRS-4)は、1931年に建造された硬式飛行船です。

全長239mの「アクロン」と「メイコン」は、当時建造された最大の飛行物体で、
海軍が鳴り物入りで格納庫を作ったのも、いかに彼女らが期待されていたか、
ということを表していたといえましょう。

船の「キールレイド」に相当する飛行船の建造始めの儀式のことを
「ゴールデン・リベット」というのだそうですが、
「アクロン」のゴールデン・リベットを行ったのが、当時海軍航空局長だった

ウィリアム・A・モフェット少将

でした。(ふう、やっと名前が出てきた)

処女航海後、偵察任務を成功させ順風満帆(飛行船にも使うのかな)
だったアクロンですが、運命の事故で失われる前に、2度大事故を起こしています。

USS Akron Accident (1932)

1度目がこれ。
尾部が繋留から外れ、風に煽られて地面に機体を擦り破損。

A sailor hanging on a cable attached to USS Akron in flight over Camp Kearny, San...HD Stock Footage

2度目はもっと酷いもので、係留作業中機体が浮き上がってしまい係留作業中の水兵を
三人空中に吊り上げて二人が落下して亡くなるという悲惨な事故でした。

亡くなった水兵の写真。まだ10代かもしれません。

そして「アクロン」が喪失することになる事故が起こりました。

「アクロン」の艤装士官たち。


1933年4月3日に、ニューイングランドの海岸沿いを航行していた
「アクロン」は悪天候に遭遇し、操舵装置を失った状態で失速し、
波に捕まって海に沈没していったのです。

76名の乗員のうち助かったのはわずか3名。
通信士と水兵、そして機関兵で、飛行船ということもあって
救命ジャケットを積んでおらず、ほとんどの死因が溺死か低体温症でした。

また、救出に出動した別の飛行船も墜落し、乗員が二人亡くなるという大惨事です。

そして、この飛行船に命を吹き込んだ、海軍航空局長の
ウィリアム・モフェット少将も、「アクロン」に乗り込んでいて亡くなったのです。

 

死の直前、飛行船の中と思われる

 

モフェット少将は1890年にアメリカ海軍兵学校を卒業し、
南北戦争では南軍に私兵として入隊し、昇進しました。

海軍軍人として米西戦争、グアム、マニラの戦い、メキシコ革命、
ベラクルスの戦い、そして第一次世界大戦に参加し、
このときに航空が取り入れられ始めたアメリカ海軍で、航空のための
基礎的なプログラムを立ち上げるなどし、海軍航空部門で
最初の航空局長となったこともあり、

「海軍航空の父」

とされていました。

この地位にあって、彼は海軍航空機の戦術の開発、 空母の導入
および民間航空機産業との関係を調整するなど、道筋を付けたのです。

独立した空軍の創設を提案し、特に海軍嫌いだったビリー・ミッチェルに対しても、
その意見を支持していた海軍内の「航空派」でもありました。

しかし厳密にいうとモフェットは、航空機よりも軽い航空機、つまり飛行船支持派でした。
当時の航空機より、「船に近い」飛行船を彼が支持したのも
彼がもともと艦乗り出身でであったことを考えるとなんとなく納得がいきます。

しかし、彼の命は彼が支持していた飛行船によって奪われることになったのでした。

 

【事故の余波】

「海軍航空の父」の命が航空事故で失われたことで
海軍飛行船の関係者はもとより、アメリカ中に激震が走りました。

ルーズベルト大統領は、

「勇敢な士官たちと下士官兵の命が奪われたことは国家的損失です。
わたしは国民や彼らの遺族とともに彼らに哀悼の意を捧げるものです。

飛行船は交換することはできても、国家は、彼ら、モフェット少将と
海軍の素晴らしい伝統を
最後まで維持し続けて一緒に亡くなった
『アクロン』乗員たちのような人材を失う余裕はありません」

とスピーチしました。
誰もが硬式飛行船の終わりの始まりを予感しました。

姉妹船「メイコン」には「アクロン」の教訓からライフジャケットが搭載され、
それはすぐに「メイコン」が海に不時着し沈没するという事故において役立ち、
ほとんどの乗員の命が救われる結果となっています。

ちなみに乗員の生死の割合は「アクロン」とまったく逆で、
乗員72名のうち
70名がライフジャケットによって助かりました。

 

さて、ここでもう一度、事故が起こった直後オープンを予定していた
サニーベール航空基地の話に戻りましょう。

この正規の大事故を受け、急遽航空基地の名前は

「モフェット・フィールド」

に変更されました。

 

そして、海軍飛行船にとって決定的な「メイコン」の墜落事故が2年後に起こりました。

海軍は、飛行船の運用に関してはすっかりやる気をなくして格納庫は不要になりましたが、
運用コストの高さもあって
モフェットフィールドそのものを閉鎖しようとしました。

しかしそこに陸軍が入ったり陸軍と海軍がそれで揉めたりして(中略)
基地そのものは稼働を続け、1990年代にP3Cの基地になったときに
最盛期を迎えています。

 

さて、例のハンガーワンですが、テレビ番組「ミス・バスターズ」(怪しい伝説)が
ここを気に入って?一枚の紙を7回以上折りたたむことができない、
という伝説を否定する
実験を行ったことがあります。

実験に使う紙は格納庫の全幅を覆う大きさのものが用意されました。

「ミス・バスターズ」は、このほかに格納庫を利用して

「ヘリウムでサッカーを膨らませることでキック距離を長くできる」

「コンクリートで作った飛行機は飛ぶ」

などの神話をテストしています。

結果がどうだったのかは調べてないので知りませんが、
多分どちらも伝説に過ぎないということになったのではないでしょうか。

 

 

続く。

 

 

 


「戦う愚か者」 ピート・ミッチャー大将 〜 海軍航空のパイオニアたち

2020-06-21 | 海軍人物伝

マーク・アンドリュー・’ピート’・ミッチャー 
Mark Andrew ’Pete' Mitscher 1887ー1947

海軍航空部隊のベテラン司令官

1917年 海軍航空士

1919年 NC-1での大西洋横断チームに参加

1922年 ワシントンDCの海軍基地司令

1922年 デトロイトでの国際航空レース海軍チームのキャプテン

1923年 セントルイスでの国際航空レース以下同文

Vice Admiral Marc A. Mitscher during World War II (80-G-424169).jpg

「ベテラン司令官」とキャッチフレーズにありますが、それは
彼、ピート・ミッチャーが参加した戦闘を書き出すだけで十分理解できます。

第一次世界大戦

第二次世界大戦

 ドゥーリトル空襲 ミッドウェイ海戦 ソロモン諸島キャンペーン

 フィリピンシー海戦(マリアナ沖海戦)レイテ沖海戦 硫黄島の戦い 沖縄上陸戦

まさにその個人史が近代海戦史そのものなのです。
しかしながら、その名前はハルゼーやスプルーアンスほど有名ではありません。

その理由は、彼が極端に寡黙で必要以外のことは公に喋らず、ましてや
ハルゼーやマッカーサーのように自己宣伝やそれにつながるスピーチもほとんど好まない、
真のサイレント・ネイビーであったことにあるとされます。

写真は第二次世界大戦の頃に撮られたものですが、小柄で痩せていて、
深いシワが刻まれた顔は歳より老けて見え(50代に見えます?)
聞き取れないくらいの低い声でボソボソと喋る姿は完全な陰キャで、
人によっては全くとっつきの悪い困難な人柄に見られていました。

しかし決して冷酷だったり自分のことにしか興味がないというわけではなく、
身近に彼と接した者は、彼の驚くほど優しい笑顔にほっとさせられるのが常でした。

特に自身が創世期のパイロットの草分けであったこともあり、
パイロットたちには畏敬されていただけでなく絶大な人気がありました。


【不遇の海軍兵学校時代】

ニミッツと同じく彼もドイツからの移民の息子です。
しかし、母方にウィスコンシン州議会の議員である祖父を持ち、
父親のオスカーもものちにオクラホマシティの市長になるという具合で、
決して労働階級の出ではありません。

ミッチャーはその父親の希望で海軍兵学校に入りましたが、
本人に海軍や軍事、ましてや国防に対する熱意も関心もないので、
その頃の彼に人生後半の成功を予想させる要素は全くありませんでした。

「名前がイケてない」

として彼についたあだ名は、オクラホマ出身であることから

「オクラホマ・ピート」

2年になる頃にはそれは短縮され、彼はピートになりました。
彼の本名にはピの字もないのにAKA「ピート」であるのはそういうわけです。

彼が2年生になったときのことです。

兵学校でグループ同士の喧嘩がもとで死亡者が出るという不祥事が起こり、
彼はその罪を問われて退学させられました。

不条理なことですが、彼が手を下した事件ではなかったにかかわらず、
成績が悪く日頃の態度もよくなかったため、退学組に入れられてしまったのです。

慌てた父親は入学の時に推薦者となった下院議員にもう一度頼み込み、
ミッチャーは再入学ということで1年からやり直すことになりますが、
本人がそれを希望していなかった場合、大変辛いものであった可能性があります。

事実年下の上級生からはいじめを受け、彼の性格はより内向きになり、
そのせいで非社交的で反抗的な人物というレッテルを貼られることになります。

寡黙でとっつきにくい後年の彼の印象は、この経験によって形成されたのは
ほぼ間違い無いのではという気がします。

1910年、ミッチャーは131名中103番という成績でアナポリスを卒業しました。

【海軍パイロット第33号】

不遇な兵学校時代にミッチャーは当時話題だった航空に興味を持ち始め、
任官後いくつかの艦艇勤務を経たのち、パイロットを志願します。

海軍パイロット第33号として水上機軍団に配属になったのが1916年のことでした。

 

彼の運命が変わったのは、ちょうどその頃、航空を取り入れた海軍が
大西洋横断というチャレンジングなミッションを計画し、
彼にそのパイロットを務めるチャンスが与えられたことでしょう。


1916年ごろ(29歳)のミッチャー

 彡⌒ミ
(´・ω・`) まだ20代なのに・・

「海軍航空の黄金時代」の最初にこの海軍の壮挙について書きましたが、
海軍が派出した3機のカーティスNC飛行艇のうち成功したのは1機だけで、
操縦していた機は濃霧で途中リタイアを余儀なくされています。

しかし成功しなかった2機もやはり歴史的な飛行に成功したという扱いで、
彼には海軍殊勲賞を授与されることになったのです。

兵学校を退学させられた超劣等生が、ある瞬間から「パイオニア」となり、
いずれ海軍航空界の「クラウンプリンス」になろうとは、
周りはもちろん本人ですら予期していなかったことでしょう。

それに彼は少尉時代に赴任先で見染めた女性とすでに結婚していたので無問題。
って何の話だ。

ちなみにこの時一緒にチャレンジを行ったメンバーのうち、彼を含む三人が提督になりました。

 

【ドーリトルレイド】

その後彼は「アローストック」乗組、「ラングレー」「サラトガ」飛行長、
「ラングレー」「サラトガ」副長、水上機母艦「ライト」艦長を経て
空母「ホーネット」の初代艦長に就任します。

彼もまた最初の航空メンバーとして、空母運用の基礎を築いた一人です。

 

真珠湾攻撃によって日本との戦争が始まったのはその2ヶ月後でした。

緒戦の敗戦続きで落ち込んでいるアメリカ国民を奮起させるために
空母から飛び立つ陸軍機で東京を奇襲する、という計画については、
可能かどうかが「ホーネット」艦長であるミッチャーに打診されて決まりました。

右ミッチャー大佐

そしてドーリトル中佐率いる16機のB-25爆撃機が日本から1,050キロの発射海域の
「ホーネット」甲板を飛び立ち、首都を含む本土を攻撃したのです。

 

【ミッドウェイ海戦】

先日お話しした映画「ミッドウェイ」にも、「ホーネット」艦長である
ミッチャーらしき配役は全く確認できなかったわけですが、(見逃していたら<(_ _)>)
まあつまりそれだけ一般には無名だったということに他なりません。

結果だけ言うとアメリカが勝利したミッドウェイ海戦ですが、
あの映画でも強調されていたように、「ホーネット」は
魚雷爆撃部隊であるVF-8を隊長のジョン・ウォルドロン中佐以下、
ショージ・ゲイ少尉を除く全員を失っています。

出撃前のVF-8ワイルドキャット、「ホーネット」甲板にて。


「ホーネット」から出撃した第8魚雷隊。

このときの「ホーネット」はまだ就役して2ヶ月であり、
搭載している航空団の経験もまだ浅いものでした。

飛行長であるリング中佐と血気盛んなウォルドロン中佐の間に、
日本軍の迎撃計画についての口論が起こり、ウォルドロン中佐は
自らの魚雷爆撃隊を投入することを強くミッチャーに進言し、
戦闘機の護衛なしで空母艦隊に向かって行きましたが、
零戦の要撃隊に全機撃墜されることになったのはご存知の通りです。

「ホーネット」の他の航空部隊は敵を見つけることができず、
帰還できなかった航空機もあり、戦闘結果なしの損失率50%となりました。
このためミッチャーは自らの指揮が失敗に終わったと感じていました。

特に、第8航空隊のメンバー、とくにウォルドロン中佐の戦死については、
強く自身の責任を感じ、後悔していたとされます。

そのため、彼は部隊全体に対し名誉勲章を確保しようと奔走しましたが、
その働きは成功しませんでした。

最終的に第8魚雷航空隊のメンバーは海軍十字章を授与されています。

 

この失敗はもちろん海軍内でも事後に問題にされ、精査されました。
ミッチャーは、リングとウォルドロンの間で論争になった時、
ウォルドロンの意見を却下したのですが、結果としてそれが失敗だった、
つまりミッチャーとリングの判断ミスだった可能性もあるのだそうです。

しかし、この件についてはなぜか戦闘日報が提出されておらず、
判断のしようがなくなっていて、彼のミスだったかどうかは今もはっきりしていません。

日報がなくなったのはミッチャーを守るための海軍の隠蔽だったという説もあるそうです。

 

ミッドウェイ作戦の前にミッチャーは少将に昇進していました。
ハルゼーは彼をガダルカナル、ソロモン諸島の戦闘司令官に任命します。

「ジャップとの航空戦はおそらく地獄になるだろうと思っていた。
だからわたしはそこにピート・ミッチャーを送り込んだ。
奴は『戦闘馬鹿』だと知っていたからね」

さすがハルゼーらしい口の悪さですが、この「戦闘馬鹿」は、
原文通りだと「Fighting Fool」となり、悪口というより、
1932年の同名の映画(西部劇もの)から引用しているのではと思われます。

彼が無口な「戦う将官」であることは、誰もが認めるところでした。

 

【カミカゼ特攻の脅威】

高速空母機動部隊タスクフォース58を司令として率いるミッチャーは
トラック島の襲撃を実施したとき、

「トラック島なんてナショナルジオグラフィックの記事でしか知らなかった」

と言ったそうですが、彼は常にこのような「ドライな」一言を渋く呟くという
ユーモアのセンスを持っていたようです。

タスクフォース司令時代、首席補佐官だったのはアーレイ・バークでしたが、
彼の前職は駆逐艦艦長でした。

バークが人事長などの役割より現場の戦闘指揮官を好んでいた話は有名で、
駆逐艦が燃料を補給するため空母に横付けしている現場に
バークとともに立ち会ったミッチャーは
近くの海兵隊員にこういったそうです。

「その駆逐艦が追い払われるまでバーク大尉を確保しておきたまえ」

ただしミッチャーは、水上艦出身のバークが参謀になったことを
決してよくは思っていなかったという話もあります。
空母のことは飛行機屋にしわからん!という信念を持っていたのかもしれません。


その後ミッチャーは司令としてパラオ、フィリピン、硫黄島、沖縄を転戦しますが、
この間彼を心から悩ませたのは日本軍の特攻の洗礼でした。

1945年5月11日には、旗艦「バンカーヒル」に零戦の突入があり、このため
乗員の半数が死傷、彼は旗艦を「エンタープライズ」に替えましたが、その後
またしても特攻機の突入を許し、ミッチャーはウルシーの長距離特攻を受けて
損傷した「ランドルフ」に乗り換えることになりました。

夜昼24時間問わずやってくるこの攻撃によってタスクフォースの乗員の精神は
限界に達するまでに消耗し、ニミッツもこのことを重く見ていたのは有名です。


【戦後 海軍航空を死守】

対日戦は勝利しましたが、軍事費は大幅に削減されることになり、
ここに軍の必要性をめぐって政治的駆け引きが勃発しました。

つまり、陸軍航空の擁護者たちの主張というのは、
原子爆弾の開発により、戦略爆撃機が今や提供できる壊滅的な破壊力が
国家を守ることを可能にするなら陸軍や海軍そのものは要らない、
という極論に近いものだったのですが、ミッチャーはこれに対し
真っ向から反対して海軍航空の断固たる擁護者であり続けました。

彼の声明はこのようなものです。

「日本を打ち負かしたのは空母の力である。

かの国の陸軍と海軍航空を倒したのは空母の優位性であった。

空母は我々にその本土に隣接する基地を与え、空母の力は最終的に
彼らが被った最も破壊的な空の攻撃をも可能にしたのである。

しかし空母の力が日本を打ち負かしたと言っても、それは単に
空軍が太平洋での戦いに勝ったということではない。

我々が航空と地上両面バランスの取れた統合の力の一部として
空母の力を行使したのである。

陸上に拠点をおくだけの空軍、海軍の協力のない空軍には
これらの壮挙は決して行うことはできなかったであろう」

それからすぐ、彼は海軍作戦部長への就任を打診されますが、
「その任にあらず」としてこれを辞退したため、その職には
チェスター・ニミッツが就くことになりました。

ミッチェルは1946年には海軍大将に昇進しますが、翌年2月3日、
現役のまま心臓発作のため海軍病院で死去しました。

 

続く。

 


高高度記録ブレーカー アポロ・ソウセック少将〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-19 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」で紹介されていた
海軍航空のパイオニアたちを紹介しています。

今日は、武器としての航空機を操縦する技術を極限まで昇華させ、
限界に挑んだひとりのヒコーキ野郎についてお話ししましょう。

アポロ・ソウセック Apollo Soucek

高高度飛行記録保持者

1924年 アメリカ海軍航空士

1929年5月 普通機による高高度記録39,140フィート達成

1925年6月 水上機による新記録達成

1930年 新型水上機で43,166フィートに記録を塗り替える

1937年 「レキシントン」の第2戦闘機部隊司令官に

ソウセック(Soucek)という苗字からおわかりのように、彼は
現在のチェコ共和国の移民の息子です。
チェコ語で発音すると「ソウチェック」となりますが、英語では
「ソウセック」「スーセック」のような発音になると思われます。

彼の父親は鍛冶屋でしたが、ボヘミア(当時のオーストリア=ハンガリー)
からアメリカに来て、アメリカで子供を儲けました。
長男にアポロ、そして弟にはゼウスという気宇壮大な名前をつけましたが、
どちらの息子も海軍航空で限界に挑むという選択をし、
決して名前負けしない人生を送ったと思われます。

 

【高高度記録挑戦】

1929年5月8日。

この日、アメリカ海軍のアポロ・ソウセック中尉は、ライト・アパッチXF3W-1
連邦航空局 (FAI)の高高度世界記録を樹立しました。
ワシントンDCのNASアナコスティアから飛び立ったソウセック中尉のアパッチは
高度11,930メートルに達したという公式認定により、
この功績に対しフライング・クロス勲章を授与されました。

しかしながら、本人はこの日12.192メートルまで行った、と主張していたそうです。
というのは彼はその飛行中、大気温度-51°Cを確認したから、というのが理由です。

ちなみに彼の乗ったライト・アパッチを見てみましょう。

 

・・・・・ちょっとお待ちください。

コクピットは外にむき出しですよね?
こんな飛行機で気温マイナス五十度の吹き曝しに生身の体を晒すなんて
どんな罰ゲーム?

と思ったら、チャレンジのために特別な装備を用意していました。
せっかくの男前もだいなしです。

ちなみにこの毛皮のフライングヘルメットはスミソニアンに所蔵されています。

Lt. Apollo Soucekヘルメット

彼の着ている革のスーツは裏が毛皮になっており、本人によると
素肌に毛皮が直接触れるようにしていた(つまり下着なし?)そうで、
エスキモーの衣装から着想した特別あつらえなのだそうです。

Soucekヘルメットの背面

後ろから見たところ。

ところで彼の弟ゼウス(何度見てもすごい名前だな)もまた海軍航空士になり、
記録に挑戦した人物なのですが、アポロの高高度記録挑戦にあたって、
彼はゴーグル内の湿気が氷結するのを防ぐための電気加熱式ゴーグルを開発しています。

これらの装備一式は全て高高度に達した時の寒さに照準を合わせたので、
地上温度32℃という猛烈な暑さの中、さらに彼は

「装備の途方もない重荷の下で汗をかく」

という苦痛に耐えながら離陸しました。
ですからむしろマイナス50度の寒さには楽に耐えられた、ということですが、
この頃の飛行記録挑戦は文字通り人間の体力と耐久力の限界への挑戦でもあったのです。

寒さはともかく、よくぞ30度の気温でこの装備を身につけ、
熱中症を起こさなかったものです。
当時は飲み物を持ち込むことなどきっとできなかったでしょう。

彼は高高度記録への挑戦を2度目は水上機で行いました。
最初の実験から1ヶ月後、450馬力のプラット&ホイットニーR-1340を搭載した
アパッチの水上機バージョンで13,157 mの記録を樹立しています。

【海軍でのキャリア】

彼は海軍兵学校を卒業しています。
在学中のあだ名は「Soukem」。

兵学校時代の「Soukem」

「信頼できる男が欲しいとき、Soukemがそこにいれば、
彼はきっと何かしてくれる」

とアナポリスの仲間に言われるほど頼れる男だったようです。
兵学校では野球とサッカーを課外活動に選びました。

ところこれを作成している現在、警官によってアフリカ系アメリカ人が
逮捕の際窒息死させられたという事件をきっかけに暴動がおきているわけですが、
アメリカの黒人差別というのは公民権運動まで公的に行われていました。

軍における差別問題については、セグレゲート(分離)によって編成された
タスキーギ航空隊やバッファロー大隊について何度か触れた関係で
当ブログでも何度か扱ってきましたが、黒人部隊の指揮官育成のために
ごく稀に国策としてアフリカ系が士官学校に入学することがあっても、
その扱いは周りの学生からのものも含めて非常に微妙なものであったと聞きます。

しかしながら、彼の時代、移民の二世であってもヨーロッパの白人系ならば
普通に軍学校に入学し、周りから特別視されることもなく、(むしろ慕われて)
その後エリート中のエリートである航空士にもなれたということのようですね。

陸軍士官学校でも、アイゼンハワーブラッドレーがいた「星の降り注いだクラス」には
史上初のプエルトリコ人学生、ルイス・エステベスが在籍していました。

EstevesWP.jpgエステベス

エステベスはその後クラスで一番先に少将にまでなっています。

つまりアメリカの軍隊は(海軍でも艦艇に普通にアフリカ系がいた)
一般社会よりかなりリベラルで、特に黒人以外、ヨーロッパ系であれば特に
出世に何の支障もなかったということになります。

 

さて、ソウセックは兵学校卒業後、少尉任官しました。
最初に乗った艦はUSS「ミシシッピ」です。
そのあとペンサコーラで航空士官としての訓練を受け、海軍最初の空母
「ラングレー」にパイロットとして乗り組みました。

ラングレー

その後は偵察員として戦艦「メリーランド」、機雷敷設艦から
大西洋横断航空のための航空士の休息、給油、メンテナンスを行う
「エアクラフト・テンダー」となった「アローストック」
空母「サラトガ」、「レンジャー」、「ヨークタウン」と、
航空司令官として空母の勤務が続き、第二次世界大戦中は
戦没した「ホーネット」の飛行長でした。

サンタクルーズで日本軍の飛行機にめためたにされている「ホーネット」(-人-)

「ホーネット」沈没は、確かアメリカ軍が放棄したため、日本軍が
魚雷を打ち込んで引導を渡したと記憶するのですが、この戦いで
スーセック大佐は戦闘中の行動に対してシルバースターを授与されています。

しかし何をして授与されたのかまではわかりませんでした。

大尉時代のアポロ・ソウセック。
1932年、USS「サラトガ」にアサインされたVF-1のボーイング F4B-2前で。

スーセックの少将昇進は1947年、イギリスの駐在武官、艦隊司令を経て、
航空局長の職にあるとき心臓発作を起こし、退職希望を出した18日後、
現役の少将のまま自宅で亡くなりました。

58歳と早い死ですが、自分より先に愛妻に先立たれたことが原因だったかもしれません。

彼は死後海軍中将に昇進し、夫婦共にアーリントン国立墓地に埋葬されました。

ちなみに、ちょっと気にしている人のために、彼の2歳下の弟、
ゼウスの写真も見つけてきました。

 Zeus “Zeke, Soak 'Em” Soucek

海軍兵学校は1923年クラスで、卓越したサッカーとラクロスの選手でした。
あだ名は「ジーク(Zeke、零戦かよ)」とか兄と同じく「ソーケン」だったようです。

彼が挑戦したのはPN-12水上飛行機の滞空記録で、36時間1分の世界記録を立てました。

そして、もう一つおまけに。
アポロ、ゼウス兄弟には妹がいたことが判明。(お墓コーナーで見つけました)
この名前もすごくて、なんと

ヴィーナス(Venus Soucek)

ただし、彼女は1904年に3歳で死亡しています。(-人-)

 

続く。

 

 


兵士から提督へ プライド中将とシュルト大将〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-18 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館プレゼンツ、海軍航空のパイオニアたちシリーズ、
今日はパイオニアのなかでも一水兵から提督にまで出世した
二人の軍人をご紹介しようと思います。

能力がずば抜けていれば、一兵卒から大将になることは不可能ではありません。

有名なところでは、アーサー・パーシバル
シンガポール陥落で山下奉文に投降したことで有名になった中将は、
一兵卒からの叩き上げです。

「モンテ・クリスト伯」を書いたデュマの父親である
トマ=アレクサンドル・デュマ
陸軍中将まで出世しましたが、
残念ながらこの人はナポレオンとの折り合いが悪く、軍追放されています。

我が日本陸軍には、一兵卒からのスタートではないものの、
歩兵二等軍曹で優秀だったため中途で陸士を卒業し、陸軍大将になった
武藤 信義(むとう のぶよし1868-1933)という人もいます。

しかし、日本海軍では水兵から将官になった例は寡聞にして知りません。

 

能力があれば出世ができるという点ではリヴェラルなアメリカ海軍でも
さすがに水兵から提督という例はそうたくさんないのではないかと思われます。

それを可能にしたのは、おそらく当時超特殊であった航空機操縦という技術であり、
航空黎明期の発展と開発にとって彼ら特殊技術者の存在が不可欠であったからでしょう。

洋の東西を問わず、近代の軍隊ではこのような「大出世」は、組織的にも、
状況的にも
まず不可能になってきているのではないでしょうか。

 

アルフレッド・M・プライド 
Arfred Melville Pride 1897–1988

セイラー・エアマン・アドミラル

アメリカ海軍史上水兵から提督に昇進した最初の人物

1922年 戦艦から飛行機を発艦させた最初のパイロットに

1921-1924年 空母の着艦装置アレスティングギアの開発を行う

1931年 海軍の回転翼機のパイオニアになる

Alfred M. Pride.jpeg

プライド大将がパイオニアとしてその名前を挙げられるのは、
前述の通り「初めて」の快挙を数多く上げたからですが、
それらの業績ゆえに、海軍兵学校出でも予備士官でもない一水兵から
海軍大将にまで昇進した初めての人物であり、この「初めて」が、
なによりいかに彼が優れた海軍軍人であったかを物語っています。

【水兵からのキャリア】

マサチューセッツにある名門タフツ大学で機械工学を学んだ彼は、
第一次世界大戦が起こったので海軍に入隊し、予備軍の
マシニスト・メイト(機械工)、つまりシーマンからキャリアを始めました。

しかし工学科出身であることを見込まれてすぐに飛行訓練を受けることになり、
それによって
彼は海軍の正規部隊に入隊し、一時フランスで戦争を体験します。

当時、前述のホワイティングらが中心となって進められていた
空母推進計画に、彼は航空士としての立場で参加することになり、
「ラングレー」に乗り組みそこで実験的な飛行を行った後は
空母「サラトガ」「レキシントン」の開発にも加わることになります。

そこで適材適所を勘案した(らしい)海軍によって、彼は
軍人の身分のまま
マサチューセッツ工科大学(MIT)で航空工学を学び、
その後は本格的に海軍航空と空母運用に関わっていくことになりました。

艦船での航空運用に熱意を燃やしていた当時のアメリカ海軍は、
その頃オートジャイロというヘリコプターの前身である
回転翼機を試験的に取り入れようとしていましたが、
これを操縦して空母に着陸させたのがプライドです。

1923年に成功した初のオートジャイロですが、こんなもので
空母に着艦するというのはなかなかのスリルだったのではないでしょうか。

また、彼が開発を行ったという着艦装置アレスティングギアですが、
1920年代に行われていた実験というと、カール・ノルデン
T・H・バースが開発した横索式のものでした。

カール・ノルデンって、ノルデン照準器のあの人ですよね。
大金をかけた割に大した精度にならなかったノルデン照準器ですが、
アレスティングギアはうまくいったようで何よりです。

最初のアレスティングギアは、ここでもお話ししたことがある
飛行家ユージーン・イリー「ペンシルバニア」に着艦した時のもので、
彼は結局実験のときに装置が引っかからず海に落ちそうになった機体から
飛び降りた際、首を骨折して死亡していますが、このときから
すでに9年経っており、かなりの進歩を遂げていました。

HMS「フューリアス」上の実験

ちなみにアレスティングギアの「決定版」は、1930年代以降、
イギリス海軍の司令官C・C・ミッチェル(という呼び名だった)が
設計した装置であり、この人物はカタパルトの設計も行い、
それらの功績に対してアメリカ政府から自由勲章を授けられています。

 

【第7艦隊司令】

第二次世界大戦中、プライドは空母USS「べローウッド」(CVL-24)
最初の指揮官を務めました。
「ベローウッド」にとってもそうですが、水兵から出発し、
空母の艦長になったのも間違いなく彼が初めてだったと思われます。

彼は海軍少将に昇進し、パールハーバーの第14管区の指揮官、
艦隊指揮官を歴任し、1953年から1955年までは第7艦隊司令を務めましたが、
その頃7Fの担当は中東でしたので、おそらく彼は日本には来ていません。

彼が現役中に航空運用のために書いた多くの論文は、現在、
スミソニアン国立宇宙博物館のアーカイブに保管されています。

 

 

フランク・シュルト Christian Frank Schilt 1895−1987

エアレーサー、コンバットフライヤー

1919年 海兵隊航空士になる

1921年 地形技術隊写真班員になる

1925年 デトロイト新聞主催トロフィレースで2位

1926年 シュナイダーカップ・レースで2位

1928年 ニカラグア火災で救出作戦に加わり殊勲賞を受賞

Schilt CF USMC.jpg

フランク・シュルトは海兵隊の最初の飛行士の一人です。

彼もまた第一海兵隊の対潜哨戒水上機部隊に兵士として入隊しました。
これは第一次世界大戦に海外派遣されたアメリカ初の航空ユニットでした。

彼はそのまま海兵隊航空基地で訓練を受け、1919年飛行士になりました。
その後中尉の身分で海兵士官訓練学校に入学しています。

 ウェストポイント博物館の展示をご紹介した時、アメリカには当時
陸軍地形部隊なる測量と探検?を行うエリート部隊があったと書きましたが、
彼はその海兵隊版の航空写真係になり、ドミニカ共和国の海岸線を調査し、
地図を作成するという任務を行いました。

1925年カーチスF6Cホークの横のシュルト大尉

写真班の任務についている間、彼はノーフォークで開催された
シュナイダーインターナショナル水上飛行機レースで2位を獲得しました。

ちなみにこのレースの前年度の優勝者は、ジェームズ・ドゥーリトル
彼は東京空襲で有名になる前は飛行家として数々の実績を残しており、
飛行レースで幾度も優勝しています。

 

シュルトは海兵隊最初の飛行士としてだけでなく、飛行機で
人命救助を行ったことで有名です。
イラストの右上は、彼が操縦するO2Uコルセア複葉機
が、
カラグアの大火災で救出作戦を行っているところです。

災害発生時、ニカラグアのマナグアに赴任していたシュルト大尉は、
危険を冒して火災で包囲された地点と安全地域を10往復し、18名の負傷者を救出、
さらに現地に交代の指揮官と医薬品などを運びました。

と書くと簡単ですが、当時の飛行機はブレーキがなかったので、
着地すると翼を引きずって機体を止めていたのです。

加えて現地はアメリカの占領をめぐって敵対していた革命家の
サンディーノ軍に遮断されており、航空機は銃撃を受けるという危険の中、
山岳地帯で不安定な気流、覆いかぶさる雲という悪条件が重なり、
彼が無傷で10往復できたことは、

「ほとんど超人的なスキルと最高位の勇気の生んだ偉業」

であるとされました。

 
この偉業に対し、ホワイトハウスで叙勲されるシュルト大尉。
隣に立っているのはクーリッジ大統領です。

第二次世界大戦で、彼は1945年2月、ペリリュー島の島司令官でした。
ペリリューの戦いが終わって3ヶ月後のことです。

終戦後は沖縄の防衛司令部勤務にいたこともあるそうです。

彼の最終勤務地は海兵隊本部の航空局長で、
1957年に海兵隊を引退すると同時に大将に昇進しました。

海兵隊大将になったということを、英語では「フルジェネラル」と表現しています。

 

引退と同時に昇進するという話は自衛隊でもあるようですが、
それは名誉的な意味だけでなく、退職後の緒待遇にも関係してくるので
昇進を受ける側にとっては二重に喜ばしいことなのだそうですね。

 

 

続く。

 


「海軍空母の父 」ケネス・ホワイティング大佐〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-16 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館展示に沿って、「海軍航空の黄金時代」というテーマで
話を始めたわけですが、
ここまで進んできても、何を持ってこのころが
「黄金時代」だったのか、正直
いまいちわからないわたしです。

 

そもそも「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話であり、ヘシオドスによると、
かつてクロノスが神々を支配し、人間が神とともに生きていた時代のこと。

その世界は調和と平和に溢れ、争いも犯罪も起こらず、(まあ隣に神様がいればね?)
あらゆる産物が自動的に生成され、働く必要もなく(金持ち喧嘩せずの論理)
人々は不老長寿で安らかに死を迎えたというのです。

スミソニアンの定義する「黄金時代」はいつかというと、1930年代まで。
つまり
飛行機というものができてすぐに世界大戦が始まり、
その必要から起こったヨーロッパでの技術革新を受けて

アメリカも後続ながらその潮流に身を投じると同時に、
繁栄に向かって
官民一体で突き進んでいった頃にあたります。

英独のように黎明期の技術を世界大戦である意味疲弊させることなく、
(イギリスでは第一次大戦が終わるや否や飛行機廃止論が席巻し、
負けたドイツは言わんもがな)アメリカの航空は、いわば
人間が神々と
無邪気に暮らすかのような幸福な時期を過ごしたという意味で、
スミソニアンは「黄金時代」と名付けたということなのかもしれません。

ちなみにギリシャ神話では、クロノスに取って代わったゼウスは
白銀時代と呼ばれる次世代の人間を滅ぼしてしまいます。(おいおい)

続く青銅時代神話の英雄が活躍する英雄の時代、さらに鉄の時代となるにつれ
人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなったというのですが、
スミソニアン的には現代の航空機の世界は何の時代に当たるのでしょうか。

 

さて、今日はそんな海軍航空の黄金時代に基礎を築いた
海軍軍人であり飛行家でもある人々を紹介していこうと思います。

うむ、ある意味これは「英雄の時代」でもあったってことかな。

 

さて、最初は冒頭にあげたスミソニアンの似顔絵の人物です。

ケネス・ホワイティング大佐
Cap. Kenneth Whiting 1881-1943

航空母艦開発のパイオニア

Kenneth Whiting - Wikipedia

1914年 オーヴォル・ライトに操縦を学び、海軍航空士に

1918年 ヨーロッパの海軍航空基地司令に

1922年 海軍初の空母「ラングレー」の副長に就任

以降、「レキシントン」「サラトガ」の設計にも参画する

 

彼をして人に「アメリカ海軍空母の父」と呼ばしめることもあります。

最初の6隻の米海軍空母の5隻の設計または建設に何らかの形で関与し、
米海軍に就役した最初の空母「ラングレー」の指揮官代理、そして
最初の2隻の米空母の副長を務めているからです。

米海軍における空母力の開発期、彼は多くの点で革新に導き、
それは今日の空母にも生きているのです。

【潜水艦】

海軍での彼のキャリアは潜水艦から始まりました。

この頃からアイデアマン?だったホワイティングは、乗っていた潜水艦
「ポーポイズ」が6メートルの海底にいるとき、常日頃から考えていた

「潜水艦の魚雷発射管から乗員は脱出することができる」

という仮説を証明するため、皆に宣言して自ら実験しています。

「ポーポイズ」はすぐに浮上して彼を回収し、実験は結果的に成功しましたが、
どういうわけかホワイティングは事後そのことを公言したがらず、
代わりに部下の中尉が「実験の結果」として上にこれを報告しています。

ちなみに海中に出てから浮き上がるまでの時間は77秒だったそうなので、
成功したとはいえ、彼は脱出中あまりの苦しさに、

「こらあかんわ」

と自分の中では失敗認定していたのかもしれません。知らんけど。

 

【海軍航空】

最初に空を飛んだ海軍士官として当ブログで紹介した
セオドア・スパッズ・エリソンもまた潜水艦勤務で、彼の友人でした。

実は海軍が飛行機を取り入れることになり、少数の士官に
グレン・カーティスが航空操縦法を伝授することがきまったとき、
最初に手をあげたのはホワイティングでした。

彼は仲が良かったエリソンに

「一緒にやらないか」

と誘ったのですが、どういうわけかホワイティングは採用されず、
エリソンが結局海軍航空士官第一号になってしまったのでした。

悔し涙にかきくれながら(知らんけど)潜水艦勤務をしていたホワイティングに
今度はオーヴィル・ライトが生徒を取るという話がやってきます。

今度は誰にも言わずに(たぶん)そのチャンスをモノにし、結果的に
ライトの最後の海軍将校の弟子となったホワイティングは、
1914年に海軍飛行士第16号に指定されることになりました。

その後フロリダ州のペンサコーラ勤務となったホワイティングは、
ヘンリー・マスティンと一緒に水上飛行機の設計の特許を取っています。

マスティンは現在横須賀にいる駆逐艦に名前を残した軍人です。

 

【空母を提唱】

 彼は1917年の段階でカタパルトとフライトデッキを備えた船の取得を
国務長官に提訴しますが、その提案はあっさり却下されました。

第一次世界大戦後にアメリカ合衆国に戻ったホワイティングは、
海軍作戦局の航空部門に配属され、マスティンら海軍飛行士とともに
空母の必要性について認めさせる計画を推し進め、USS「ジュピター」
空母に改造するプランをついに認めさせました。

「ジュピター」は改装され、アメリカ海軍最初の空母「ラングレー」になりました。

 

1919年には、戦艦「テキサス」から発進した航空機がターゲットを発見し、
正確に攻撃するという実験を成功させ、艦砲よりも精度の高い攻撃砲であるとして、
その後海軍がすべての戦艦と巡洋艦に水上飛行機を搭載させることに成功しています。

新しく設立された航空局に転勤したホワイティングはさらに空母計画を推進しました。

 1922年1月、彼はこう言っています。

「ラングレーは海軍にとって実験用の空母となるでしょう。
決して完璧ではありませんが、必要な実験には十分に役立ちます。

第一次世界大戦のせいで海軍は空中戦術や航空機の開発ばかりを行い、
対潜戦に焦点を当てて全くこの部分に手を付けませんでした。

空母運用は成功するでしょうし、将来の海軍にとって
絶対に必要なものであることを、わたしの心は少しも疑っておりません。

わたしたちは議会に『適切な設計をされた空母』を求めていますが、
おそらく
それを作るのに3年から4年かかるでしょう。

議会はそのチャンスをくれるでしょうか」

ホワイティングが望んだ「適切に設計された」空母は、
この発言の5年後、

USS「サラトガ」(CV-3) そしてUSS「レキシントン」(CV-2)

として就役することになります。

【ラングレー】

ホワイティングは1922年「ラングレー」の初代副長に就任しました。
同時に最初の指揮官として米海軍空母を指揮する最初の人物となったのです。

ただし「ラングレー」は戦闘艦隊に加わることはできず、その存在目的は
空母作戦の基礎を打ち立てる『実験室』として機能することでした。

ヴォートVE-7を操縦したバージル・C・グリフィン中尉は1922年10月17日、
アメリカの空母から史上初の発艦を行い、

America's First Aircraft Carrier – USS Langley (CV 1) #Warfighting ...その瞬間

ゴッドフリー・シェバリエ大尉が1922年10月26日に
最初の着艦をエアロマリン39Bで行いました。

その瞬間

LCDR Godfrey Chevalier.jpgシュバリエ中尉

そして1922年11月18日、彼ホワイティング自身が操縦する航空機が
世界で初めて空母上からカタパルト発射されました。
使用された飛行機は
Naval Aircraft Factory PTでした。

ホワイティングは「ラングレーツァー」の期間中、空母航空の
多くの基本的なポリシーを確立したとされています。

「ラングレー」にパイロットのためのレディルーム
(控え室、ブリーフィングルームとも)を設置しました。

着艦を評価・支援するために手動のムービーカメラで撮影し、
艦内に備えた暗室と写真ラボで艦上でそれが観られるようにしました。

当時まだ「ラングレー」には着艦を誘導する信号システムがなかったため、
ホワイティングは自分が飛行しない時には、飛行甲板の左舷後部の隅から
すべての着陸を観察していました。

これは、パイロットが機体が着艦のためにアプローチしてきたとき、
ホワイティングの姿が見えればそれは期待の姿勢が下向きすぎで
つまり危険であるという合図にもなります。

ホワイティングはその際 ボディランゲージで合図を送っていましたが、
ベテランパイロットが、その信号を送る専門の係を置くことを提案し、
 " 着陸信号士 landing signal officer "  "landing safety officer" (LSO)
が生まれることになります。

 LSOのコンセプトは、進化し高度な形で今日も空母で使われています。

 ホワイティングはまた、空母指揮官はパイロット資格を有すること
という条件を海軍に決定させるにあたって、多大な影響を与えました。

 

【その後】

1927年にホワイティングは米海軍2番目の空母、USS サラトガ (CV-3)
の建造を監督し、初代
副長として1929年5月までその勤務を続け、
そして1929年、初めて艦長に就任することになりました。

その後、ノーフォーク海軍航空基地司令を経て、1933年6月15日に指揮官として
古巣のUSS 「ラングレー」、空母USS「 レンジャー 」(CV-4)
 勤務後、
USS 「ヨークタウン 」(CV-5)USS 「エンタープライズ」 (CV-6)の計画策定を支援。

そして1934年6月、彼は再びUSS 「サラトガ」に戻り、指揮官を務めました。

その後地上勤務に回りましたが、最後まで現役でいたかったらしいホワイティングは、
1940年6月30日に58歳で退職リストに載せられても現役勤務を続けました。

(当時のアメリカ海軍ではやめたくなければ続けてもよかったんでしょうか)

第二次世界大戦が始まった時にはニューヨークの航空基地の司令でしたが、
肺炎に苦しみ、現役のまま心臓発作で亡くなりました。

彼の遺灰は遺言により、コネチカット州のロングアイランドサウンドの海に撒かれました。

 

彼の名前は、海軍航空基地ホワイティングフィールド、そして水上機母艦
USS「ケネス・ホワイティング(AV-14)」に残されました。

ホワイティングフィールドにある銘板にはこのように記されています。

ホワイティング・フィールドは、ケネス・ホワイティング大佐を
記念してその名前を受け継ぐものである。

彼はアメリカ海軍軍人であり、潜水艦と航空のパイオニアであり、
海軍航空士第16号であり、我々海軍の『空母の父』であり、
1943年4月24日、現役のままで死んだ。

 

続く。

 

 


攻撃機と戦闘機 アメリカ海軍航空の黄金時代〜スミソニアン航空博物館

2020-06-14 | 歴史

海軍航空の黄金時代シリーズ、今日は攻撃機と戦闘機を挙げます。

■ 攻撃機

攻撃機の定義を改めて考えてみると、

「地上や洋上の目標の攻撃を主任務とする航空機」

ということになろうかと思います。
空対地、空対艦ミサイル、誘導爆弾、通常爆弾、ロケット弾などを搭載し、
任務や目標に応じて搭載兵装を変更できる多用途機を指します。

爆撃機との違いはというと、攻撃機が指向性のある武器を搭載し、
水平攻撃をするのに対し、爆撃機は自由落下する爆弾を落とすため、
自分が「ダイブ」する急降下爆撃をおこなうということでしょうか。

 

我が航空自衛隊では色々あって「攻撃」という表現が使えないので
支援戦闘機と呼ばれていたことがあったそうですが、
「攻撃」がダメで「戦闘」はいいってどういう基準なんだか・・・。

攻撃は最大の守備であるという言葉もあったかと思いますが、
専守防衛の旗印に忠実になるとこういう言葉さえ排除してしまうんでしょうか。

日本という国が陥っているこの自縄自縛(またはセルフ制裁)状態が
解けるには「先の戦争」から何年経過を待たなくてはいけないのでしょう。

 

さて、という枕詞(または繰り言)はいい加減にして、粛々と
アメリカ海軍初期の攻撃機を紹介していきます。

 

ダグラス Douglas DT-2 1922

ダグラス航空会社によって初めてプロデュースされた軍用機で、
特商的な魚雷爆撃機DTシリーズは、米海軍のために
様々な任務を遂行しただけでなく、有名な

「ダグラス・ワールド・クルーザー」Douglas world cruiser

の基本的なデザインを提供することになりました。↓

Douglas World Cruiser

ダグラス・ワールド・クルーザーとは、1923年に、米陸軍航空局が
飛行機で地球を周回する最初のミッションのために製作した水上機です。

略称DWCは、ジャック・ノースロップが同社で行った最初のの主要プロジェクトでした。
デュアルコックピットは視認性を高め、乗員の意思疎通を容易にしていました。

シカゴ 、1924

世界一周は「ボストン」「シカゴ」「ニューオリンズ」「シアトル」
と名付けられた4機の飛行機で行われ、最初に墜落してしまった
「シアトル」以外は5ヶ月かけて平均速度時速70マイルで

無事世界一周して帰ってくることができたようです。

この後しばらく、ダグラスはこのロゴを使っていました。
やはり飛行機は3機しか描かれていません。(´・ω・`)

DT-2ですが、この写真で背景に写っている戦艦「アイダホ」
魚雷攻撃部隊19(VT−19)として乗り組んでいました。

マーチン Martin BM-1 1930

454キロ爆弾を搭載することができたこの急降下爆撃機は、
海軍と海兵隊のために開発され、1930年代半ばには空母に搭載されました。

写真のBM-1はちょうどアレスティングにフックをかけるところで、
着艦しているのは初期の空母USS「サラトガ」です。

35機生産され、そのうち7機が事故で失われているのですが、
英語版wikiにはその事故状況が書かれているので理由だけ挙げておきます。

  • 着艦のテスト中に墜落
  • 燃料がなくなってから「ダラム」に着艦しようとした
  • 悪天候時に「アリゾナ」に強制着陸し失敗、修理不能な損傷
  • カリフォルニア沖で「レキシントン」から夜間作戦中落水
  • 訓練中急降下からのリカバリーに失敗し、海につっこむ
  • 「メリーランド」への着艦を誤って海に墜落
  • 「バージニアビーチ」でオーバーランして横転

ほとんど全てが着艦の失敗ですね。
この頃の空母着艦はさぞ高度な操縦技術が要求されたという気がします。

今が簡単だと言っているわけではありませんが。

ヴォート Vought SBU-1 1934

ヴォートが手掛けた海軍のための最後の複葉機がこれです。
複座の哨戒爆撃機で、227kgの爆弾が搭載可能でした。

SBUは1930年代の後半から空母ベースの航空隊に採用されました。

この写真は哨戒部隊2B(VS-2B)が編隊飛行を行っています。

ダグラス Douglas  TBD-1
デバステーター Devastator 1935

綺麗なフォーメーションを組んで飛んでいるのはUSS「レキシントン」所属の
第2魚雷部隊(Torpedo Squadron2VT-2)のデバステーターです。

デバステーターはアメリカ海軍最初のモノプレーン爆撃機で、
空母の格納庫に収納するために翼を折りたたむことができ、
半引き込み式のランディングギアを備えていました。

搭載可能な魚雷の重さは454kgと大重量も可でした。

ダグラス Douglas SBD-1  
ドーントレス Dauntless 1938

「勇敢な」「怯まない」という意味のドーントレスをその名に持つ
第二次世界大戦前期の日本軍の強敵となった攻撃機。

ドーントレスは、空母ベースの急降下爆撃機として要求される要素を
全て兼ね備えていたといっても過言のない名機でした。

つまり、安定性、後続性、そして頑丈で頼もしいこと(ruggedness)です。

SBDシリーズの典型であるこのドーントレスは、海兵隊の第2爆撃部隊
(VMB-2)の所属で、通常とは違う発射メカニズムを持つ爆弾を持ち、
ダイブフラップには穴が開いているという画期的なデザインでした。

設計したのはその名を聞いて納得、エドワード・ハイネマンです。

 

■ 戦闘機

ヴォートVought VE-7SF 1918

VE-7は第一次世界大戦の期間、空戦のために製作された
アメリカン・デザインの戦闘機です。

完成したときには戦争が終わっており、参加はできませんでしたが、
海軍はこの設計を採用してさまざまなミッション、訓練、偵察、
そして戦闘用に投入しました。

空母運用機としてはVE-7シリーズは1920年代におけるパイオニアでもあります。

これら3タイプ、いずれも違う製造会社の飛行機は、
1920年代半ばごろ、戦闘任務の中心的役割を果たし続けました。

ボーイング Boeing F2B-1

駆動性に優れアクロバティックな動きが得意なF2B-1は、
当時の海軍のシンクロナイズドスタントチームだった
「スリー・シー・ホークス(Three Sea Hawks)」に使用され
一般に大変人気があったということです。

The Three Seahawks Creation三鷹大将

おそらく彼らが米海軍に結成された最初の曲技飛行チームです。

このチームは1928年1月に最初のデモンストレーションを行いました。
危険なパフォーマンスで一般人からは「スーサイド(自殺)トリオ」という
縁起でもないあだ名が付けられたため、海軍としてはすぐ正式に
「スリー・シー・ホークス」(三海鷹)というチーム名を与えました。

F2B-1はエンジンを停止せずに倒立飛行を行うことができなかったので、
安全に逆さまに飛行できるようキャブレターが変更されています。

チームは1年間活動しましたが、 パイロットは新しい任務を命じられたため、
解散しました。

今でもそうですが、どこのアクロバットチームもそれが本職ではなく、
戦技を磨くための
トレーニングの精華としての技披露が目的なのです。

 

カーティス Curtiss F6C-3

1920年代後半のアメリカ海軍の複葉戦闘機です。
 カーチスエアクラフトと同社自動車部門によって建造された

「カーチスホーク」飛行機の一つで、海軍以外には海兵隊で採用されました。

 

ヴォート Vought FU-1  1925

これは偵察を主目的とした戦闘機で、フロートをつけることもでき、
主に艦隊の戦艦に搭載されてオペレーションされました。

ボーイング Boeing F4-B-4 1928

F-4B-4は有名なボーイングの戦闘機シリーズ最後のバージョンです。
それまでの機のどれよりも大きな垂直尾翼と操縦席のヘッドレストが特徴で、
その頑丈さと優れた性能、機動性により、
海軍の空母パイロットに絶大な人気がありました。

この写真は第6戦闘機隊の記章であるあの有名な爆弾を抱えた
「フェリックス・ザ・キャット」のマークをつけた
(複葉機の頃からあったとは・・・・)F4-B -4が今まさに空母に着艦し、
アレスティングワイヤーにフックがかかった瞬間です。

グラマン Grumman XFF-1  1931

オリジナルの「フィフィ Fi-Fi」XFF-1は米海軍のための
その後継続する戦闘機ラインの最も最初のバージョンです。

航空機の歴史にとって重要なのは、この機体が史上初めて
ランディンギアを完全に引き込み収納することができたことで、
複座式にもかかわらず当時の多くの単座戦闘機の性能を上回っていました。

USS「レキシントン」の第5戦闘機隊はFF-1によって構成された唯一の部隊です。
従来のものに比べて燃料搭載量を増やしたSF-1は哨戒機として開発されました。

 

グラマン Grumman F3F-2 1935

 

「フライング・バレル(空飛ぶ樽)」という名前がぴったりの
ずんぐりとした機体はスマートさからは程遠いですが、頑丈そうです。

飛行するF3F-1 0232号機 (空母レンジャー艦載、 VF-4戦闘飛行隊所属、1939年撮影)まさに樽

海軍と海兵隊で運用された艦上戦闘機です。
アメリカ海軍で運用された最後の複葉戦闘機となりました。

 

ブリュースター Brewter F2A-3
バッファロー Buffalo 1937

前にある模型が邪魔になってしまいましたが、
こちらに別の飛行機がいるつもりで見てください。

こちらにもフライング・バレルというあだ名がついていました。
F2Aはアメリカ海軍が初めて採用した単翼の戦闘機です。

製造にあたって多くの新機能が採用されたにもかかわらず、
戦闘という任務には失敗したと言われています。

というわけでアメリカでは目立った活躍はしていませんが、
輸出先のフィンランド空軍では(輸入にあたってあのノキア社が資金を出し、
機体に「NOKA」の銘が入れられた)冬戦争でソ連軍機を456機撃墜、
約21対1の圧倒的なキルレシオを挙げ、35人ものエースを生みました。

そのせいで空飛ぶ樽だったバッファローがフィンランド限定で
「タイバーン・ヘルミ(Taivaan helmi:「空の真珠」の意)」
とまで賞賛されました。

樽から真珠へ、えらい出世です。

日本軍機と交戦した機体は、空母運用のための様々な装備が付いており、
鈍重なため惨敗したが、こちらは軽かったから性能を発揮できた、
という説もあるようですが、フィンランド空軍型のエンジンは低馬力で、
いずれにしてもこれがフィンランド空軍でだけどうしてこんなに活躍できたのか、
今でも理由はよくわかっていないのだそうです。

 

というわけで、1930年代までの米海軍航空機の紹介でした。

続く。

 


アメリカ海軍の航空機・水上機と偵察機〜スミソニアン航空博物館

2020-06-12 | 航空機

航空黎明期からの海軍航空についてお話ししてきましたが、
今日はスミソニアン博物館の海軍航空コーナーから
海軍の航空機についてご紹介していきます。

海軍航空コーナーはこのような一角にまとめられています。
それではフライング・ボート、水上機から参りましょう。

■ 水上機

カーチス Curtiss H-16  1918

グレン・カーチスのフライングボートの開発は、
第一次世界大戦中のアメリカ軍用航空史における
いくつかのハイライトの一つです。

H-16は最初の双発によるアメリカ製の飛行機を改良したもので、
1914年の大西洋横断計画に合わせて作られました。

カーチスのHボートと呼ばれる型では最後のもので、
海軍とカーチスのコラボによってプロデュースされ、
1928年まで哨戒爆撃機として任務を行いました。

ホール・アルミナム Hall Aluminum PH-2,1931

これなど実に我が海軍の二式大艇に似ていますね。

 海軍航空機工廠PNで開発された双発複葉機です。
その血統を遡れば第一次世界大戦のイギリスの フェリクストウの飛行船に辿り着きます。

フェリクストウF.5は日本でもライセンス生産されています。

1919年(大正8年)海軍は本機を爆撃用飛行艇として採用することを決め、
完成機を計12機購入したうえでイギリスから技術者を招聘して
製作技術を取り入れ、F-5号飛行艇として横須賀航空工廠、
呉の広廠、愛知航空機で62機が生産されています。

F5号艇

これが日本海軍における最初の制式飛行艇であり、さらには
日本で本格的に製造された初めての飛行艇であったことは特筆すべきでしょう。

PHは米国海軍と沿岸警備隊によって少数購入されました。
1944年まで沿岸警備隊によって対潜水艦や捜索救難任務に使用されました。

コンソリデーテッド Consolidated P2Y-1 1932

長く細長い機体にユニークな翼。
卓越したアレンジのP2Yーフライングボートは1941年まで
部隊配置されて活躍しました。

エンジンが翼の上部に設置されるという形は以降のバージョンに継承されました。

この写真は、パトロール中隊10のP2Yのテイクオフの準備が整ったところで、
後ろに第一次世界大戦のビンテージである「フォースタッカー」
=fourstacker(4本煙突の)駆逐艦が映り込んでいます。

 

バーリナー・ジョイス Berliner Joyce OJ-2 1933

コーネル大学とMITで航空工学を学んだヘンリー・バーリナーが創設した
バーリナー・ジョイス社が作ったアメリカ海軍初期の偵察機です。

モデルは当時の水上機用カタパルトに設置されている状態です。

OJは、陸軍での運用にも容易に対応し、400馬力のエンジンと、
オープン、あるいは密閉型の
2種類のコクピットを備えていました。

機体は全て金属で構成され、それをファブリックでカバーしていましたが、
翼のパネルだけは木製でできていました。

OJの総生産量は39機で、2機が巡洋艦「オマハ」に装備される形で
1933年から1935年までの2年間だけ運用されていました。

 

Berliner-Joyce OJ-2 of VS-5.jpgタイプ「サンディエゴ」

タイプは全部で三作られ、事故で喪失したのは4機だけ、
さらに事故によって失われた人命はゼロという珍しい飛行機です。

 

 

コンソリデーテッド Consolidated XPB2Y-1
コロナド Coronad 1937

コロナドという名前はサンディエゴの海軍基地から取られたのだと
そこに行ったことがあるとすぐに気がついてしまいますね。(自慢気)

 

巨大な4基エンジンを積んだコロナドは、1930年台半ばにできた
小型のP2Yとその後継のPBYカタリナ飛行艇から大幅な設計変更をしています。

それは引き込み式になった翼端のフロート、深い船体(機体)、そして
双発エンジンの先行モデルの2倍の総重量を特徴としていました。

砲塔その他の改良を加えられたPB2Yシリーズは、第二次世界大戦中
輸送用航空機として使用されました。

「ミッドウェイ」始め海軍を描いた戦争映画では必ずと言っていいほど
その姿を見ることができる水上機の代表選手です。

今でも現役で飛んでいる機体もあるくらいなので、映画の撮影に
楽勝で借りることができたいうのがその原因でしょう。

コンソリデーテッド Consolidated PBY-5A
カタリナ Catalina    1940

カタリナは第二次世界大戦中運用された軍用水上機のうち、
最も成功した機体であったといっても過言ではありません。

Isaac Machlin Laddon (4728516487).jpg設計はアイザック・ラドン

ユニークな引き込み式、上に折り畳まれて飛行中翼端となるフロートという
超画期的な卓越したデザイン。

最大対気速度、高度は圧倒的というほどではありませんが、その射程、
耐久爆弾負荷、頑丈さ、そして第二次世界大戦中米国海軍及び
その他の連合国の主要な哨戒爆撃任務を広範囲に実行する能力がありました。

3000機以上のカタリナがアメリカ、カナダ、そしてソ連で生産されています。

ちなみに、日本海軍の水上艇、二式大艇航空隊の司令官だった日辻常雄少佐は、
PBYに乗艇した経験を持ち、

「二式大艇と比べ飛行性能は圧倒的に劣るものの、ポーポイズ現象が無く
離水も簡単で機内はガソリン漏れの心配が無い」

と評価したそうです。
これって二式は機内でガソリンが漏れることがあったってことですかい。

それにしても「圧倒的に二式の性能が上」ってすごいですね。
戦後二式(コードネーム『 エミリー』)を接収して飛行実験した米軍も
その性能には驚愕したという話がありました。

米搭乗員の中では「フォーミダブル・エミリー」と呼ばれていたとか・・。

 

■ 偵察機

ヴォート Vought 02U コルセア Corsair 1926

複葉機のコルセアが存在するとは知りませんでした。
この名前を最初に使用したのは02Uで、地上から、あるいは
水上艦からオペレーションするために車輪がついているか、
あるいは水上艦搭載専門でこの写真のようにフロートを付けていました。

このコルセアはちょうどターンテーブル式カタパルトから発進したばかりで、
USS「ウェストバージニア」から哨戒任務に出かけるところです。

カーティス Curtiss 0C-2 ファルコン Falcon 1927

「ファルコン」という名前の複葉機もあったとは・・・。

偵察機ファルコンシリーズは偵察任務の他に戦闘機、爆撃機としても
1920年代に海兵隊で使用されていました。

F8Cとして知られている海軍と海兵隊のファルコンは、
空冷式ラジアルエンジンを換装したものです。

Curtiss A-3 Falcon (SN 27-243).jpgファルコン

グラマン Grumman J2F-2 Duck 1937

ダックってもしかしたらあひるちゃんですか。
しかし変わった名前をつけるもんだ。
と思いつつ機体を見ると・・・これはアヒルとしか言いようなし。

というか前も同じことを書いた記憶があります。


フロートの形がなんともアヒルのくちばしチックな趣き。

ダックはグローバー・ローニング(Grover Loening)社の
水陸両用機とルロイ・グラマンFFー1戦闘機の「幸せなマリアージュ」
の結果生まれた水上艇でした

Grover Loening (4729167240).jpgローニング

ローニングはドイツ生まれのアメリカ人で、コロンビア大学を卒業し
オーヴィル・ライトの会社で設計技師を務めた後、
独立して航空製造会社を興しました。

ルロイ・グラマンにとっても最初の水陸両用機JF-1は1934年に
ローニング OL シリーズに置き換えられています。

Leroy Grumman.jpgグラマン(結構悪人顔)

古典的な手法で作られたダックは実用性に優れ、ロジスティクス、
(物流)空海救助の役割を大いに果たしました。

胴体下部とフロートが繋がっている構造だったため、フロート内の空間に
燃料や貨物の他、並列のシートに2名まで人員を乗せて輸送が可能でした。

また、尾部には着艦フックを装備しており、空母への着艦も可能だったとか。

カーティス Curtiss 02C-1 ヘルダイバー 
Helldiver 1929

第二次大戦時の軍用機の名前の多くは、その初代が
すでに複葉機として存在していたってことみたいですね。

カーティスのヘルダイバーはその名の通りダイビング・ボマー、爆撃機です。
(ただしヘルダイバーは地獄の降下者ではなくカイツブリという意味だったりする)
ファルコンでの成功はこの最初の有名なヘルダイバーにつながりました。

ファルコンを進化させたものがこの02Cであり、海兵隊の偵察機に採用されます。

冒頭写真はヘルダイバーのSBC-3で、1935年製作されたものです。

後半では初期のアメリカ海軍の攻撃機と戦闘機をご紹介します。
続く。

 

 


マット・ガース大佐の出撃と戦死〜映画「ミッドウェイ」

2020-06-10 | 映画

1976年版映画「ミッドウェイ」最終日です。

 

こちら帰還前の友永大尉機。
米機動部隊らしきものを発見しました。

艦影早見表と慎重に見比べて「ヨークタウン」級空母であると断定、
すぐさま「赤城」に連絡しようとしますが、無線機が故障していました。

「エンタープライズ」の艦爆隊は、そのころ
アメリカの潜水艦「ノーチラス」と交戦したのち、機動部隊に戻る途中の
駆逐艦「嵐」を発見しました。

しかし、これはアメリカ側の記録に基づく情報で、「嵐」の生存者は
「赤城」の傍を離れていなかった、と証言しているそうです。

ミッドウェイ海戦については今日も研究が続けられていますが、
わかっていないことや双方の証言が一致しないことが多々あります。

それはともかく、史実においてもこの後マクラスキー隊は、
駆逐艦の方向を索敵した結果、ついに機動部隊を発見したのです。

「敵空母4隻発見!」

マクラスキー隊の艦爆は先陣を切って「加賀」を襲いました。
日本側は急降下に気づかず、対空砲も間に合いません。

甲板後部への投弾、続いて3発が次々と命中。

見張り員が雷撃機の動向と発艦直前の直掩機に気を取られていたせいで
艦爆の急降下の発見が遅れたのでした。

換装中の爆弾が甲板に出ていたところをやられたのですから被害大です。

「1隻消したぞ!」

敵を仕留めたという搭乗員同士の通信を聞きながら
にこりともせず息を飲んでいる機動部隊司令部。

「Bull's eye!」(ダーツのターゲットの形状から、当たりという意味)

続いてヨークタウンの艦爆隊が「蒼龍」へ攻撃開始。
また、航空機発進中の「赤城」も続いて攻撃が行われ、
第二次攻撃隊準備機にや魚雷などに誘爆して大火災が発生しました。

ちなみに「赤城」には盲腸から復帰した淵田中佐が乗っていて、
零戦が爆風で吹き飛ばされた時両脚骨折の重傷を負っています。

わずか6分の間に、戦況も、歴史もが変わりました。

しかし「飛龍」は他の三隻の空母から離れていたため、
艦爆の攻撃を受けていません。

あっという間にやられてしまった空母三隻を、「飛龍」から
呆然と眺める友永大尉以下日本軍の搭乗員たち。

なんかわかりませんがものすごくかっこいい?シーンです。
ところで二枚目写真の一番右、もしかして佐藤允さんじゃないですか?

「太平洋の嵐」の流用がここにまで・・・orz

そしてその光景を海に浮かんだまま眺めるゲイ少尉。

もののあはれを感じている場合ではありません。
南雲長官は「長良」に移乗することになりました。

「赤城」は舵が効かなくなり火災が起きていたものの、
被弾は1〜2発で機関部は健在であったため曳航も検討されますが、
結局爆発が相次ぎ、最終的には駆逐艦の雷撃により処分されました。

「飛龍」の小林道雄大尉は真珠湾作戦にも参加しています。
映画では山口多聞に

「前回連絡のあったところを飛び、運を信じて探すんだ」

と命令され空母を求めて飛び立ちました。

「ヨークタウン」に飛行隊が帰還してきました。

ガース大佐は司令として、そして一人の父として
生き残って帰ってくる搭乗員たちを見守ります。

そして着艦した彼らの顔を一人一人確かめるのでした。

これは有名な実写映像です。
向こうに駆逐艦の姿が認められます。

甲板に降りたときジャンプし、着艦フックが掛からずに、そのため
構造物に激突してしまいます。

操縦席から後ろがぽっきり折れてしまうのですが、
なんと搭乗員は無事で助け出されるというこの映像、
これをトム・ガース大尉の帰還シーンに流用しました。

ガース大尉が乗っていたのは確かF4Fワイルドキャットでしたが、
帰ってきたときにはなぜかF6Fヘルキャットになっております。

それはともかく、とりあえず生還を果たした息子を見て
父親であるガース大佐は、艦橋をかけおります。

おろおろと担架についていくガース大佐。
本当にこの人いままで何の仕事をしていたの。

「父さん」

今まで顔を合わせると上官として敬語を使っていたトムが、
この時は息子となって発した言葉に、父は思わず微笑みます。

「トム、真珠湾で会おう」

「下艦するときには僕と春子の写真を持って降りてくれないか」

「もちろんだ、任せておけタイガー」

「ありがとう、父さん」

( ;∀;)

「ヨークタウン」には小林道雄大尉率いる艦爆隊が・・・・、
って、この変な日本軍機、どこかで見た覚えがありませんか?
そう、忘れもしない「パールハーバー」ですよ。
あのときもかなり突っ込みましたが、このアサヒビールの蓋みたいな
旭日模様の日本機の元々の出所は、アメリカ制作の映像のようです。

実際の飛龍第一攻撃隊は、99式艦爆と零戦から成っていました。

小林大尉は、米軍のレーダー網を突破するために低空で飛行し、
「ヨークタウン」に肉薄し、爆弾を抱いたまま戦闘機と交戦しました。
ミッドウェイ海戦を語るこの映画で小林大尉がフィーチャーされているのは
この時の果敢で正確無比な攻撃が米軍の戦史でも称賛されているからです。

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敵戦闘機の防御を潜り抜け生き残ったたった8機の艦爆は、
爆弾3発を命中させ、「ヨークタウン」は動力を失い航行不能になります。

小林大尉は対空砲の攻撃で戦死しました。
「飛龍」に帰還したのは艦爆5機、そして零戦1機です。

フレッチャーは「アストリア」に移乗しますが、かる〜く
ガース大佐に

「君は間に止まってフライトオペレーションをしたまえ」

「飛龍」艦爆隊の報告を聞いた友永大尉は出撃を行います。

友永機の右側タンクの破口は応急処理しかできていませんでした。
「飛龍」もとパイロットは、整備員が

「友永大尉の艦攻は修理のいとまがなく、片道燃料で出撃した」

と言っていたことを証言しています。
しかし友永大尉自身は米艦隊までの距離が近いので十分帰れる、
と言って出撃して行きました。

「ヨークタウン」ではここでとんでもないことが起こります。

トムを見舞った後、艦橋から双眼鏡で外を見ていたガース大佐に、
いきなり同僚が、

「マット、飛行機が余ってるので一緒に飛んでくれるか」

と頼んできたのです。
いや、正確には「搭乗員より飛行機の数が多いから」
と言っていましたが、こんなことってあり?

あるわけないですよね?
大佐ったらもう現役パイロットを退いて久しいはずで、
そんな人にいきなり艦爆で爆弾落としてこいはないと思うの。

しかしガース大佐はかる〜く

「シュアー」

とか返事してさっさとフライトスーツに着替えて飛び乗ります。
うーん、なんてフットワークの軽い大佐なんだ。

海軍情報部にフレッチャーから戦闘経過が伝えられました。

「敵の空母三隻が燃えている」

ロシュフォール大佐は相変わらずのノリで

「ハーレルーヤ〜」

などとはしゃぎ、攻撃中止を提案しますが、ニミッツは

「わたしが四隻目の空母をやりたい!」

と渋〜く呟くのでした。

ここで有名な友永大尉の最後が描かれます。

実はアメリカ側の戦闘詳報では、ジョン・サッチのF4Fが友永機と思われる
隊長標識をつけた艦攻を撃墜し、艦攻は墜落する前に魚雷を投下したが
命中しなかった、となっているそうです。

日本側の戦闘詳報によると、黄色い尾翼の友永機は対空砲火で被弾炎上し
「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」とあり、
この映画では日本側の記録が元になっているのです。

友永大尉が機体を突入させたことを表すために
映画では特攻機の突入したフィルムを挿入しています。

その後「飛龍」の橋本俊雄大尉の第二中隊は魚雷二本を
「ヨークタウン」に命中させ、帰還した、というのが日本側の記録です。
映画もその情報に忠実に描かれています。

こちら突如現れる実写フィルム。
「エンタープライズ」甲板から出撃する24機の艦爆です。

「ホーネットは?」

「もうあまり残っていません」

「ホーネットに連絡を。すぐに出撃だ」

老骨に鞭打って飛ぶガース大佐。
眼下に燃え盛る敵空母三隻を認めました。

「飛龍」甲板で山口少将自ら攻撃から帰った橋本大尉の報告を聞いていると、

そこにガース大佐の艦爆が急降下してきました。
これは実写映像のようですが、本当だとすればこの角度で降下する
艦爆のパイロットは真っ逆さまに落ちていく感覚だったでしょう。

ガース大佐の艦爆が投下した爆弾は甲板のど真ん中にヒット。
実際には艦爆隊は飛龍の飛行甲板の日の丸を目標に突入し、炎上せしめ、
「航行不能となった「飛龍」は駆逐艦「巻雲」の雷撃によって処分されました。

実際は、

「赤城、被爆大、総員退去」

との報告を受けたとき山本長官は渡辺(右隣)と将棋を指していて、

「ほう、またやられたか」

「南雲は帰ってくるだろう」

とつぶやいただけでそのまま将棋を続けていたらしいのですが、
もちろん、これでは映画が台無しになってしまうので、その代わりに

「陛下にはなんとお詫びすればよろしいでしょうか」

と尋ねる細萱中将(黒島亀人?)に向かって

「任せて起きたまえ。
陛下に詫びなければならないのは私一人だ」

と重々しく答えております。

「エンタープライズ」では帰還してくる航空機を見守っていました。

満身創痍の(という設定の)機体を操り、アプローチするガース大佐。

昔取った杵柄操縦でこの局面を乗り切れるのか?

ガース大佐、後ろにも人が乗っていることをお忘れなく。

しかし残念無念、着艦失敗してこの瞬間2名が戦死されました。

実写映像では投げ出されたコクピット部分に人が駆け寄っていますが、
手の施しようもなく見守るだけです。

こちらカタリナPBYに救出されるゲイ少尉。

そして「エンタープライズ」がハワイに帰国しました。

全く顔に火傷していないトム・ガース大尉が運び出されるのを・・、

なぜか佐倉春子が近くで眺めています。

彼女はガース大佐の計らいで本土に送られずにすんだようですが、
だからといって日系人が帰還する軍艦の出迎えに来て
こういう場所に立ち入ることはまず不可能だったはずです。

気軽に二人で帰還してきた「エンタープライズ」を出迎える
ニミッツ提督とロシュフォール大佐。

「こんな大勝利だったとマットは知っていたでしょうか」

提督と情報大佐がこんな風に語るガース大佐って一体何者?
それはともかく、ニミッツはこう答えます。

「彼はこう言ったに違いない。
『何でもありませんよ、提督。
山本はすべてにおいて勝っていた。強さも、経験も、自信においても。
われわれは日本軍より優れていたのか、それともただ幸運だったのか』と」

英語の原文を見てもよく意味がわからないのですが、
とにかくこの映画では、決してアメリカ側は日本軍に対し、

ミッドウェイで楽勝だったわけではなく、苦しい戦いの末
得た勝利であるということを強調しているようです。


日本側におけるミッドウェイ海戦の記述は、ともすれば
南雲長官の指揮官の資質とか甘く観ていたとか情報の扱いの杜撰さとか、
敗因を追求するばかりで、圧倒的な戦力差があったように語られがちですが、
この映画に限らず、アメリカ側はどうやらそう思っていないらしい、
(あるいはそうではないことにしている)ということを最近ある筋から聞きました。

アメリカの国史教科書などで語られる日米戦争は、ミッドウェイ海戦に限らず、

「いかに日本が強かったか、そしていかにその強い敵に我々は勝ったか」

ということを強調しているものが多く、その強かった敵に対して、
東京裁判の頃から、特に軍人は素直に称賛を送っていたといいます。

方や、外でもないそのアメリカのGHQによって贖罪史観を植え付けられた
日本人は、自国軍の精強さを称えるどころか、彼らを顕彰することすら
大っぴらにはできないような空気に支配されて今日に至るわけですが。

おっといつもの愚痴になってしまいました。

 

とはいえ、時代とインターネットの発達によって、歴史認識も様変わりしつつあります。
たとえば、我々に忸怩たる思いを抱かせるところの、アメリカ人の


「原子爆弾投下の正当性=戦争を早く終わらせるために仕方なかった」

というあの主張もそうで、現代ではとくに若者の間では、

「いかなる理由であっても原子爆弾は人類に対し使うべきではなかった」

という意見が多数を占め始めているのだということです。
当事者(この場合原爆を落とすことを決定し賛成した国民)がこの世からいなくなると、
歴史がニュートラルに語られだすということの一例かもしれません。

最後はウィンストンチャーチルのミッドウェイ海戦への賛辞、

「海戦史上、今回の闘いほど激しく心震わせるような衝撃的なものはなかった。
合衆国海軍、その航空部隊、兵士たちの能力が輝かしく発揮された。
その勇気、そして指揮官たちの能力の高さがその根底にある」

が流れて映画は終わります。

 

大変通好みの、というか戦史ファン向けのマニアックな映画で、
ミッドウェイについて多少のことを知っていなければ、
あまり面白いと感じないという嫌いはありますが、日米両国が
死力を尽くして戦ったというそのことを称えるというスタンスは
観終わったあとに、なにかスポーツの試合の後のような
互いに健闘を讃えあいたいような清々しい?気持ちにさせられます。

 

わたし個人としては、これで「ミッドウェイ入門」レベルくらい、
特に時系列に沿って理解することができましたので、
これもまた
次の機会につなげてさらに知識を深めていく所存です。

 

終わり。

 

 


「勇敢な搭乗員が15名・・・」〜映画「ミッドウェイ」

2020-06-08 | 映画

1976年版「ミッドウェイ」、三日目にしてやっとのこと、
日本海軍の航空隊が出撃するところまでやってきました。

出撃準備シーンは「太平洋の嵐」から流用されているといえ、
あのジョン・ウィリアムスが担当した音楽はシーンに重厚さを与え、
日本映画における日本軍の描き方と遜色ない演出がされています。

この点はこの映画の及第点といえましょう。

 

さて、出撃準備に備え、「赤城」「加賀」の搭載機は雷装で、
そして「蒼龍」「飛龍」のはミッドウェイの再攻撃に備え爆装する、
ということを源田実中佐から南雲長官に報告させています。

南雲機動部隊が発進させたミッドウェイ空襲隊は、友永丈市大尉指揮、
合計108機の編隊でした。

源田はのちに、爆装は命中率がよく滑走路を使用不能にするために
800キロ爆弾を装備したと言っています。

米軍偵察機PBYの「ストロベリー5」は、南雲艦隊を発見した、
と打電しました。

さらに別のPBYは、ミッドウェイに向かう
多数の日本機を発見しました。

「フレッチャーよりスプルアンスへ、
敵空母二隻戦艦1隻発見」」

「ニミッツの推測と全く同じ方向だ!」

「”Ahoy, Captain Browning, Let's get to battle stations."
と打電しろ」

こちらミッドウェイ。
連絡を受けて基地隊長はパークス少佐率いる戦闘機隊を出撃させました。

 

ここでDVDの翻訳は、

"I see'em, Kark. Alright, everybody"
(彼らが見えたぞ、カーク、いいか、みんな)

を、

「カークだと思います・・・まあいい」

とわけのわからない誤訳をしています。
「カーク」が日本機のコードネームだと勘違いしたんですかね。
カークは通信している相手だっての。

「ワンパス(一航過)で何機落とせるかな」

と嘯き奇襲をかけた結果、先頭集団に損害を与えることはできましたが、
零戦隊が逆襲に転じ、あっという間に隊長機が撃ち落とされてしまいました。

ミッドウェイ守備隊の編隊をほとんど壊滅させ邪魔者の居なくなった
日本側航空隊は、ミッドウェイ攻略に取り掛かりました。

攻撃隊長は友永丈一大尉。
本物とはあまり似ていませんが、まあそれはよろしい。

友永丈市 - Wikipedia本物

ミッドウェイへの日本軍の攻撃が始まりました。
ちなみにこのとき、映像撮影のために派遣されていた映画監督の
ジョン・フォードは重油タンクや戦闘指揮所などが爆撃されるのを
目の当たりにしていました。

このとき友永大尉の97式艦攻は左翼主タンクを対空砲に射抜かれています。

この映画の細やかなところは、ミッドウェイの滑走路を爆撃し
使えなくすることを目標としていたのに、それにも関わらず
生き残った米軍機が滑走路に降りるのをみて友永大尉が
嘆息する様子までが描かれていると言うことで、事実大尉は

「カワ・カワ・カワ(ミッドウェイに対し第二次攻撃の要あり」

と打電し、攻撃が不十分であると伝えています。

これを受けた草鹿龍之介(パット・モリタ)は、南雲長官に対し、

「いまだに脅威であるミッドウェイを叩くために直ちに
第二次攻撃隊として全機出撃させるべきではないか」

と具申するのですが・・・、

魚雷を装備しているので攻撃しても効果がない、という南雲中将。
中将は米軍の空母に向かわせるべき、といいます。

源田は、友永隊が戻れば、敵艦隊の出現に備えて
雷装して出撃させる、と断言しました。

すると南雲は現在待機している第二次攻撃隊から

「魚雷を降ろして陸用爆弾に換装させる」

ことを決断しました。
友永隊に敵艦隊を任せて、もう一度ミッドウェイを
爆撃することにしたのです。

というわけで換装作業中。

ミッドウェイ基地隊の活躍によって、フレッチャー少将は
南雲機動部隊の位置を特定し、攻撃のタイミングをうかがっていました。

そしてこの人、スプルーアンス少将も、「エンタープライズ」そして
「ホーネット」から総勢117機からなる攻撃隊を発進させる決心をしました。

しかし、日本側の偵察機(利根4号機)が1機帰還の途についていません。
その4番機は、敵艦隊10隻を視認したと報告してきました。

それを聞いた南雲は、

「山口(多聞)少将が直ちに攻撃隊を発進させよと言っておる」

として途中で換装を中止させます。

「しかし・・・・」

「いいからやめさせるんだ」

この後、南雲は戻ってきた友永隊全機を雷装しているしていないにかかわらず
直ちに発進させよといって源田中佐をドン引きさせるのでした。

「発艦中に友永隊は海に落ちてしまいますよ!」

「うーむ・・・それでは収容させて雷装を」

搭乗員の総員配置が始まりました。
エレベーターに乗ってハンガーデッキから甲板に上げられる艦載機。

総員配置が告げられました。
搭乗員控室から雄叫びをあげながら駆け出し、愛機に飛び乗る搭乗員たち。

マット・ガース大佐は、搭乗員たちが乗機するのを見送っています。
この中に息子のトム・ガース大尉がいるのです。

フェリックスが爆弾を抱えている部隊マークは、
「エンタープライズ」の乗組のVF-6航空隊のものですが、
ガース親子が乗り込んでいるのはたしか「ヨークタウン」だったような記憶が。

まあこの際細けえことはいいっこなしだ!

スプルーアンスとともに発進を見送るガース大佐。
ますますこの人の立場がわかりません。
空母乗組の航空のトップということなら艦橋下階の航空指揮所にいるべきなのでは・・・。

映画「1941」のドイツ将校みたいに見学者として乗っているのかしら。

マット・ガース大尉は微笑みさえ浮かべて空母を発進していきます。

こちらは実写映像。
映画に採用された映像はすべてカラーで撮影されたものです。
(そのせいでいろんな不整合が起こっているのですが今はさておき)

こちら「大和」艦上の聯合艦隊。
南雲中将からの打電が山本長官に伝えられます。

「敵艦隊発見、ミッドウェイの250哩、これに向かう」

「ミッドウェイの近くだと?真珠湾じゃなくて、か?」

「南雲中将は計画よりも二、三日早く撃破するつもりなのでしょう」

細萱戊子郎(ほそがやぼしろう)中将、あだ名はボッシー(嘘)

英語でありながら日本軍の将官たちの会話は非常にスクエアですが、
こちらはさすがにアメリカ人だけあって、ガース大佐が
スプルーアンス中将に何も言わずコーヒーを手渡しすると、

「おー、サンクス、マット」

と受け取ったりして和気藹々かつラフな感じです。

繰り返しますが、この映画の問題点は、細部が結構いいかげんなことで、
ミッドウェイ海戦には参加していない機が突如現れたり、
さっきの画面と違う飛行機が現れて、多少なりとも知っている人にとっては
話を理解することすら難しい状態になることです。

たとえば、これはSBDドーントレスだと思うのですが、(ですよね)
この直前に出撃していたのはTBDデバステーターという設定だったはずです。

 

それはともかく、このデバステーター雷撃隊は
戦闘機の護衛なしで「赤城」を攻撃しようとしています。

山口少将はこれに対し、淡々と、

「無茶だが大変効果的だ。
彼らにかまっている間我々は攻撃することができない」

状況的に左にいるのは加来止男艦長ではと思われます。

しかしこの俳優(ジョン・フジオカ)ってば、山口多聞の要素ゼロ。

掩護なしの攻撃なので、後席の銃手はもう必死ですが・・・。

実際のホーネット雷撃隊は、15機全部が零戦隊によって
あえなく全滅させられる運命にありました。

もちろんこれは戦闘機の支援がなかったことが原因で、
彼らの技量の問題ではなかったことは明らかです。

まあ、強いていえばTBDが旧式になっていたことと、
この頃の日本側戦闘機隊がまだベテラン揃いだったせいもあります。

 

この攻撃でTBD一機は「赤城」艦橋に接近したのち墜落し、
この瞬間草鹿参謀長は「死を覚悟した」とのちに語っています。

空母に乗っている司令官以下皆さんも、

” I'm hit! I'm hit! Oh, Jesus!"(やられた!やられた!神様)

交戦中の悲鳴のような雷撃隊の通信をただ聞いているだけ。

そしてウォルドロン少佐が戦死。

「赤城」に渾身の雷撃を放ったゲイ少尉機も撃墜されて海に墜落・・。

しかしここでも大変残念なことに、この実写映像は雷撃機ではありません。
この頃にはまだ飛んでいなかったヘルキャットです。

このヘルキャット搭乗員は、浮かんでいる機体から脱出していますが
実際ゲイ少尉も、撃墜された後機体から海に脱出して生き残りました。

ホーネット雷撃隊のたった一人の生存者、ゲイ少尉は、
撃墜される直前に雷撃を行いましたが、「赤城」に当たっていません。
しかしながら、戦闘後、全滅した雷撃隊に与えられた名誉勲章推薦状には、

「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、
日本の空母に最初に大打撃を与えた」

とあり、ホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになったそうです。

Improbable: Ensign George Gay at Midway

ちなみに全滅した雷撃隊と、たった一人生き残ったゲイ少尉(赤丸)。
前列ど真ん中で写った一人だけが生きながらえたとは・・・。

「損傷報告、戦闘機一機軽傷、艦艇損傷なし、死傷者なし」

源田少佐の報告に対し、この映画の南雲中将は、

「A whole squadron. 15 brave crews.」
(飛行中隊全員だ・・・勇敢な搭乗員が15名・・)

と呟きながらうっすらと涙をうかべるのでした。

もちろんこの後の展開を知っている我々には、この段階で
敵に同情している場合かというツッコミどころはあるものの、
善意に解釈すれば、武士の情け、もののあはれの気持ちを持つ日本人、

を表現してくれているのかもしれません。

わたしも最初このシーンで思わずグッときてしまったのですが、
大変残念なことに、雷撃機は二人乗りなので
「15名」ではなく×2で30名と言わなくてはいけないところです。

それまでの戦闘で散々二人乗りの雷撃機が出てきた後だというのに、
折角のいい台詞がこれって、ちょっと脚本雑すぎね?と思いました。

こちらレスリー少佐率いる「ヨークタウン」のSBD爆撃機隊。
爆撃準備を呼びかけ、ボムベイのスターターをオープンにしただけで、
なぜか爆雷が投下されてしまいました。

あわててマニュアルで作動させるように呼びかけますが、

「もう遅い!落としてしまいました」「俺もだ」

「こんな電気式スイッチを発明したのはどいつだ?」

「ヤマモト以外にいるか!」

ちょっとちょっと、そこで八つ当たりはしないで欲しい。

さて、こちらは第3雷撃隊です。
日本の空母4隻を発見しました。

「大当たり(ジャックポット)だ!」

指揮官ランス・マッセイ少佐。

「右舷から12機、左舷から14機が来ます!」

雷撃隊の上空では、ジョン・サッチ少佐率いる戦闘機隊が
対ゼロ戦術「サッチ・ウィーブ」を試そうとしていました。

6機の戦闘機隊で零戦を5機撃墜、被撃墜1機だったので、
この戦法はアメリカ人搭乗員に自信を持たせましたが、
この戦闘においては、援護するはずの雷撃隊を守れませんでした。

TBDデバステーター10機が撃墜され、帰還中の2機も燃料切れで
結局全機損失という結果で、隊長を含む24名中21名が戦死しています。

そして、この映画の主人公であるトム・ガース大尉は、
サッチ少佐の戦闘機隊に参加していたという設定です。

そして果敢に戦うも敵の銃撃を受け、コクピットに火災が発生。
叫ぶトムの顔はすでに真っ黒です。

手袋をしたままでこの時代にはなかった形の消化器を取り上げ、
叫びながら火を消した途端、手袋が両手から失くなって、
ひどく火傷をした両手が現れるという不思議な場面です。

 

ニミッツ提督はこの時点で

「ミッドウェイ基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、
1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」

とキング大将に報告しています。
この時点で日米海軍の戦いは、日本側が勝利をおさめましたが、
これは長い戦いのほんの序盤にすぎなかったのです。

第3雷撃隊は魚雷攻撃も行いましたが、全て不発に終わりました。
南雲機動部隊には一難去ったというところですが、ここで南雲中将、

「アメリカ人たちもまるで侍のように我が身を犠牲にするものだ」

などと悠長なことを呟くのでした。

・・・(´・ω・`)

 

続く。


「デスティネーション・ポイントラック」〜映画「ミッドウェイ」

2020-06-06 | 映画

映画「ミッドウェイ」1976年版、続きです。

ニミッツが「ガッデム・スカルプ・ハンター」(恐ろしいやつだ)
と評したところのワシントンの海軍省から派遣されてきた
ヴォントン・マドックス大佐を演じているのはジェームス・コバーン

マドックスは架空の人物で、コバーンのでばーんもこのシーンだけです。

何を言いに来たかというと、日本のミッドウェイ作戦は
アメリカ機動部隊を惑わすための陽動作戦だということです。

前回も書いたように、ワシントンでは、日本の真の狙いは
ハワイと西海岸だと思っていたわけですね。

次のシーンでは「赤城」艦上での軍艦旗掲揚のため、
喇叭譜「君が代」がなぜか5小節目から始まります。

「トラ・トラ・トラ!」では、三船敏郎演じる山本提督乗艦で、
「海行かば」が生演奏されるというとんでもないことになっていましたが、
この映画に関してはそんなにおかしな表現はありません。

ブリッジのウィングに立って軍艦旗を見下ろしているのは
南雲忠一中将と参謀長の草鹿龍之介少将

草鹿を演じたのはノリユキ・パット・モリタ
後年「ベストキッズ」のミスター・ミヤギ役でブレイクしました。
ミヤギ役は最初三船敏郎にオファーされたそうですが、
三船はこれを断り、モリタに話が行ったそうです。

ところで、南雲中将はジョージ繁田ほどイケメンではなかったし、
モリタもまた草鹿龍之介にちっとも似ていません。

本物に似ている役者は近藤信竹を演じたコンラッド・ヤマくらいですが、
これも演じられる俳優の母数が少なすぎた結果だと思われます。

旗艦「赤城」に乗艦した南雲は、航空参謀源田実がコロナ肺炎、
じゃなくてインフルエンザにかかって到着が遅れるほか、
真珠湾攻撃の立役者だった淵田美津雄が盲腸で参加できない、
と聞いてガックリ気を落とします。

ちなみに淵田自身はこの盲腸についてどう言っていたかというと、

「腹がひっくり返るほどに痛み出した。(略)
そして盲腸の切開手術をやるという。
これには私は弱った。伝え聞いた艦隊司令部も弱ったらしい。
空中攻撃隊の総指揮官が手術して動けないとあっては、
作戦にヒビが入るからである。
しかし手術をしなければ助からないという。
しかしうちの軍医長は外科の名手であって、
赤城は艦隊の手術担任艦であった。
彼はすでにメスを取り上げている。私は観念した」

「飛行甲板からは爆音が伝わってくる。私はもうたまらない。
空中攻撃隊総指揮官ともあろうものが、盲腸なんぞを患って、
この重要戦機に陣頭に立てないとはシェ〜ムである。
わたしはこっそりと、病室を抜け出した」

「やっと飛行甲板によじ登ったとき、私はクラクラと
目の前が暗くなって脳貧血で倒れかかった。
飛行甲板にいた搭乗員たちは、びっくりして、
隊長、隊長と呼ばわりながら(略)寝かせてくれた。
私は寝転びながら、手を振って(略)搭乗員たちを激励した」

 

相変わらずルー大柴のような淵田節が全開です(笑)

なんかこの人の描写はいちいち真面目なのかわかりかねますが、
まあそういうことで作戦に参加できなかったわけです。

ちなみに淵田は後年山本五十六を凡将呼ばわりしていて、
その根拠の一つが、このミッドウェイ海戦で旗艦「大和」が
後方から作戦指揮を執ったことであり、これが作戦の失敗と断言しています。

そして「赤城」が柱島より出航。
地元の漁師たちが旗を掲げて見送っています。

彼らに向かって甲板から帽子を振り返す乗員たち。
BGMは軽快で勇しく、心躍るような輝きに満ちていて、
さすがは油の乗り切った40代のジョン・ウィリアムズです。

ここはハワイの日系人強制収容所。
ヘストン演じるマット・ガース大佐が、息子の恋人である
佐倉春子(クリスティーナ・コクボ)を訪ねてきました。

小さな部屋に家族全員で押し込まれている収容所の一室で
春子に紹介された両親は、大佐が握手の手を差し伸べるのに対し、
丁寧にお辞儀をしています。

父親のお辞儀は、両手が体に沿って下に降りていくという
正式な日本風の仕草で(手がお尻にあったり両手を揃えるのは間違い)
彼らが日系一世であることを表しています。

二世である娘は、いきなり、初対面の海軍大佐に向かって

「Damn it, I'm an American!
ドイツ系やイタリア系アメリカ人と何が違うんですか?」

と食ってかかるアナーキーな「今時の娘」でした。

彼女がアメリカにとって有害な人物である可能性はないことは
言葉を交わしただけでわかりましたが、問題はなぜ彼女が
ハワイに来て急にトムに会いたくないと言い出したかです。

「両親は人種の違う男性との結婚に反対なんです」

(´・ω・`)

こちらが盲腸ならあちらは皮膚病。

どうしてミッドウェイの時に示し合わせたように
彼我の有名な指揮官がこんなかっこ悪い病気で参加できなかったのか、
この歴史のいたずらにはつい戦慄を感じざるを得ません(嘘)

ウィリアム”ブル”ハルゼーJr.中将は、乾癬が悪化して入院し、
やはりミッドウェイ乾癬じゃなくて海戦に参加することができませんでした。

なんでも痒さで夜は全く寝られず、そのせいで体重は9キロ減るという有様、
もうこれはいかに医者嫌いでも入院しなくては死ぬレベルです。

ダニのせいで起こる疥癬と違い、乾癬は元々の体質的な素因(白人)
精神的・肉体的なストレス(司令官の重責)、や紫外線不足(艦内生活)、
高脂肪の食生活(アイスクリーム好き)から発病するというデータがあり、
それでいうならハルゼーはかかりやすい条件を皆持っていたことになります。

ハルゼーのシーンはいずれも病院のベッドで薬を塗られて寝ているだけなので、
ロバート・ミッチャムは撮影をわずか1日で終了しました。

ニミッツが訪問するシーンでは、ハルゼーは自分の後任に
レイモンド・スプルーアンスを推薦します。

艦隊司令フレッチャーは、ワシントンの仮定を保留しつつも、
とにかく日本艦隊を待ち受けて足止めする、と豪語します。

その地点名仮称は「ポイント・ラック」

窓の外の木が邪魔で港が見えないとぼやくハルゼーの下に
彼に機動部隊指揮官を推薦されたスプルーアンスがやってきました。

「私でやっていけると思いますか?」

「俺のやりそうなことではなく君のやりたいことをやれ」

スプルーアンス、思わず握手の手を出してしまって、

「感染りたいのか?」

思うんですけど、握手とハグ、それからパンなどの
食べ物を手で食べる文化の国でコロナの感染ヤバかったですよね。

監督は実写フィルムに極力カラー映像を選んだそうです。
これはもしかしたら本物の「ヨークタウン」?

「ヨークタウン」を視察するニミッツらがスタスタと歩いて
艦載機エレベーターに乗り込んでいますが、外付けのエレベーターは
当時の古いタイプの空母には存在しませんでした。

さらに、この後ニミッツらは右側に歩いて行きますが、
そちらに行っても何もないので、海に落ちることになります。

さて、父親に言われて春子に会いにきたトム・ガース。
彼女の気持ちを確かめるために。

「もう愛していないの」

「顔を見ていってくれ」

思わず金網越しに体を寄せ合う二人(´;ω;`)

しかし、敵国の女性と付き合うトムのことは
部隊中の噂になっていました。

「ヨークタウン」の航空参謀に任命されたガース大佐ですが、
自分の息子が乗り込んできたのに驚きます。

急な配置換えを、トムは父親が春子と遠ざけるために
同期の飛行隊長に頼んで仕組んだことだと思い込んでいます。

「俺は知らなかったんだ」

という父親に、息子は「サー」をつけて嫌味っぽく挨拶し、
敬礼してさっさと乗り込んで行きました。

これはアラメダの「ホーネット」で撮影したのではないかと思われます。

そこまで言われては父親がすたる。

ガース大佐は聞かれちゃ困る手段でFBIの極秘情報を手に入れ、
さらにコネを辿って情報部の同期と面会し、
春子の一家を本土に戻す措置を取り下げて欲しいと頼むのでした。

「俺に不正を犯せというのか?」

とためらう同期を泣き落としとキレ芸で丸め込むガース大佐、
結構なワルです。

「ヨークタウン」艦上で(後ろで艦載機整備中)対峙する親子。

拗ねる息子に、父親は、自分ができるだけのことをやったこと、
彼の上司も力になろうとしてくれたことを告げ、最後に

「お前は飛ぶことで給料をもらってるんだ、タイガー、(愛称)
写真を見て泣くためにここにきたんじゃないだろう?
しっかりするんだ!
ジャップがお前のケツにホットショットで火をつける前にな」

と叱咤するのでした。

ごもっとも・・・。

さて、こちらは帝国海軍の作戦中。
フレンチフリゲート礁で補給をした偵察機が真珠湾へ、
というK作戦ですが・・・、

敵艦がいて補給ができず失敗してしまいます。
いつの間にか真珠湾を敵艦隊が出航していたことを知り
焦燥を深める連合艦隊司令部。

アメリカ軍は22機のPBY(水上艇)で偵察を行うことを決定。

PBYカタリナ、この映画では大活躍です。

こちら、あと36時間でミッドウェイ攻撃を始めるというのに、
司令部が無線封止してしまったため、K作戦がどうなったのか、
真珠湾から機動部隊が出撃したのかもわからない「赤城」。

しかしこちらは日本がダッチハーバーを攻撃し始めたという情報を受けて、
飛行隊のパイロットをフレッチャーが激励する段階に。

スプルーアンスにも、日本がアッツとキスカを攻撃し始めた、
という情報が伝えられます。

もしかしたらワシントンの言う通り、日本の攻撃目標は
ハワイと西海岸か?という疑いを司令部が持ち出した頃、
PBYの偵察機がついに聯合艦隊を発見したのでした。

日本側も、アメリカに発見されたことに気付きました。

司令部に入ってきたロシュフォール中佐に

「君は正しかった。目標はミッドウェイだ」

ロシュフォールは喜びもあらわに、

「Enigma!」

と叫んで周りに怪訝な目で見られております。

エニグマはこの場合ドイツの暗号機のことではなく、
「謎解きがあたった」という意味で使われています。

ニミッツは、発見された攻略部隊が主部隊ではなく、
本物はあとからやってくる、とそこまで予想しました。

しかしアメリカ軍の誰もが、その予想の正しさを証明することは
この時点では不可能です。

すごく見覚えのあるシーンですが、これは「トラ・トラ・トラ!」
からの流用で、使用されている「赤城」の模型については
当ブログでご紹介したばかりです。

このシーンも「トラ×3」でしょう。(艦橋が右舷にあるし)

艦内ではインフルエンザが治った源田実が南雲中将に着任挨拶を。
出航してずいぶんになると思うけど、今までどこにいたの?

南雲長官は源田中佐にミッドウェイの北東の捜索を命じます。
さらに、索敵機以外の航空機を待機させると主張するのですが・・、

草鹿少将は第一次攻撃でかたをつけるべきだと主張。
南雲長官はこれを退け、草鹿は思わず源田相手に

「真珠湾で我々を勝利に導いた男が突然臆病になったか」

と不満を漏らしてしまうのでした。

どちらが先に本艦隊を見つけるかが勝敗を分けます。
フレッチャーは索敵機を出すことにしました。

そしてその朝を迎えました。
「赤城」艦上では出撃の準備が粛々と行われています。
このシーンももちろん既存映画からの流用です。

なにしろ、制作にあたって用意できる第二次大戦中の軍用機は
3機しかなかった(そのうち一機はPBY)ため、致し方ありません。

暁の出撃再び。
長い長い一日が今始まろうとしています。

それはいいんですが、甲板の向こう側で見送りをする整備員が、
万歳しながらぴょんぴょん跳ねているのはいかがなものでしょうか。

そこは帝国海軍伝統の帽振れだろうが!

続く。


映画「ミッドウェイ」〜A-Fとは何処なるや

2020-06-05 | 映画

1942年の今日、6月5日はミッドウェイ海戦が始まった日ですので、
1976年作品「ミッドウェイ」についてお話しします。

戦争映画については人よりたくさん観ているつもりのわたしですが、
今までなんとなしに避けて通っていたのがミッドウェイ関係です。

その理由は単純で、日本が負けるから(笑)

どうせヘンテコで前近代的な描写のインチキ日本軍が
七面鳥撃ちされて醜態を晒すのを観て、アメリカ人が真珠湾の敵討ちとばかり
溜飲を下げるのが関の山だろうと決めつけていたのでした。

今にして思えば、これはいわゆるひとつの、

「パールハーバー」(マイケル・ベイ監督)トラウマ

というやつだったんですね。

コメント欄でこの映画は決してそんなことはない、と教えていただき、
恐る恐る観てみたところ、非常に公平に、日本とアメリカの戦いを
歴史上の人物に敬意を払いつつ、真摯な態度で語った良作だと感じました。

監督のジャック・スマイトは、ミネソタ大学の学位を取る前、
陸軍航空隊に入隊し、パイロットとして太平洋戦線にも参加しています。

そのことが、作品の視点を非常に抑制のとれたものにしており、
結果的に後世にある程度評価されるものになったと感じました。

どこかの「パールハーバー」とはえらい違いです(嫌味)

タイトルはいきなり、どうみてもドゥーリトル空襲に出撃するために
甲板を飛び立つB-25ミッチェル。

三船敏郎の名前はアメリカ人俳優に次いで五番目に現れます。

タイトルの東京空襲の映像は、ここでもご紹介したことがある映画、
「東京上空三十秒前」(Thirty Seconds Over Tokyo)からの流用です。
この映画の戦闘シーンは、最初の字幕にもあるように
極力実写フィルムから取られていますが、それ以外の戦闘、航空シーンは
ほとんどが既存の映画から取ってきていて、このことは
この映画に結構なツッコミどころを与えています。

映画冒頭、黒塗りの車から参謀飾緒を付けた海軍軍人が
いかにもな日本庭園の中を走っていきます。

彼は渡辺安次中佐(クライド・クサツ)
聯合艦隊の専務参謀として黒島亀人と共に影響力を持ち、
FS作戦を中心になってまとめた人物です。

ロケ地はサンフランシスコのティーセレモニーガーデンだと思われます。

玄関を入ると、いきなり床の間のある部屋があり、そこに
着物姿でお茶を飲んでいる人たちが・・・!

「山本長官はどこに・・・?」

なんと、山本五十六の自宅という設定です。
玄関にいきなり開けっ放しの部屋があるのもおかしいですが、
この部屋の畳の敷き方も変です。

お茶を飲んでいた一人が中庭に案内しますが、
この中年の三人はいったい山本長官の何?

「東京が空襲を受けました!」

「何、東京が・・・?」

山本五十六、なぜか夏の第二種軍装を着込んで庭に座っています。
4月18日なので参謀の着ている第一種が正しいんですが、
映像的に白の制服が緑に映えると判断されたのかもしれません。

こちら、ハワイのパールハーバー、カネオヘ基地。
と言う設定ですが、このどんよりした天気といい、
生えている独特の植物といい、どうみてもサンフランシスコの
バッテリー(砲台)のうちのどれかです。

彼がジープで坂道を下っていくシーンでは
よくみると遠くにベイブリッジが映り込んでいます。

 

ここにやってきた一人の軍人、それは
マット・ガース大佐(チャールトン・ヘストン)でした。
ちなみに彼の乗っているジープのフロントグラスは一枚面ですが、
1942年当時ガラスをこのようにする技術はまだありません。
このタイプが出てきたのは第二次世界大戦後でした。

何重にも鉄格子の扉を通り抜けた先にあるのは諜報部?
ここでガース大佐をお迎えするのは、いつも軍服の上にガウンを着て
ろくにお風呂に入らなかった、(実話)

ジョセフ・ロシュフォール大佐(1900〜1976)

日本人にはあまり名を知られていませんが、予備士官で、
クロスワードパズル始めゲームが異様に得意であることが認められ、
海軍の暗号解読チームに加わったという天才肌の人物です。

諜報活動のために、日本語の専門的なトレーニングも受けており、
その「仕上げ」その他色々のために一度は来日もしたそうで、
「アドルフに告ぐ」に出てきた諜報員並みに日本語が喋れたと思われます。

Joseph rochefort.jpgかなりのイケメン

映画でも描かれているように、ロシュフォール大佐の暗号解読が
ミッドウェイでアメリカに勝利のきっかけをもたらしたと言ってもいいのですが、
ニミッツがサービスメダルの授与を推薦したとき、彼は

「面倒の種になる」”make trouble"

といってあっさり断っています。

そこでふと思い出すのが我が海軍の黒島亀人ですが、
両者に共通するのがお風呂に入らなかったということ。

天才肌の軍人=変人=風呂に入らない

という漫画的キャラが、偶然にもミッドウェイ海戦においては
日米双方に生きていたということでもあります。

 

ガース大佐は、ここでロシュフォール大佐と、
東京空襲の報復として日本軍がどこを攻めてくるか
あれこれと会話します。

「日本海軍の司令部間での無線連絡が多くなっているんだ。
何かが起こっている」

次にガース大佐が現れたのは・・・・。

おやここは、サンフランシスコのプレシディオではありませんか。
太平洋艦隊の司令部があるところ、つまりハワイという設定ですが。

昔要塞があった関係で、今でもここは一部陸軍が
地本に相当するリクルートの事務所を置いていますが、
軍が撤収してからはレストランや郵便局、銀行、そして
ディズニーの博物館などがあって、普通に一般人が行き来しています。

映画が撮影された1976年はまだ陸軍が使用していました。
今でもここ一帯を「プレシディオ」といいますが、
もともとPresidioとは要塞という意味があります。

公開時、将官たちの年齢が行き過ぎている、という批判があったそうですが、
チャールトン・ヘストンは映画撮影時53歳ですから、

大佐定年年齢54歳としてちょうどいい感じの配役です。

「キャプテン!」

階級を呼ばれて振り向くと、そこには息子のトムが。
彼はここカネオヘのVF-8に配置されたといいます。

「あそこの隊長は昔ラングレーで私の列機だったよ」

「ラングレー」はアメリカ海軍が初めて持った航空母艦です。
ガース大佐が航空士官であることがここでわかります。

その夜ガース大佐は、三年ぶりに再会した息子の口から、
彼が日本人女性と結婚したがっていることを打ち明けられます。

彼女とその家族がハワイの抑留施設に入れられていて、
数日中に本土に送られるので、なんとかして欲しいと訴えるのでした。

「僕が日本人と結婚したいって不愉快かい?」

と息子が聞くのに対し、ガース大佐は

「racial bigot(人種偏見主義者)呼ばわりはやめてくれ」

といいつつも、何しろ今は真珠湾攻撃の6ヶ月後なので
タイミングが悪いがなんとかしてみる、と約束します。

さてこちら聯合艦隊旗艦。

日本海軍の模型を使ったシーンの多くは
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の
から取られています。

評価の高い当作品ですが、ここが残念というか、泣き所なんですよね。
スマイト監督は、模型による特撮を全く行わず、
130分あまりの上映時間のうち、30分以上を
実写や他の映画からの流用ですませてしまっているのだそうです。

元軍人だけに、撮りたいテーマありきで、映像のクリエイトには
全く興味がなかった、ということなのかもしれません。

んん?
山本提督、今度は冬の第一種軍装で出てきたぞ?
なぜさっきのシーンから季節が逆行しているのかな?(棒)

 

それはともかく、当作品での三船は大変流暢に英語を話しますが、
吹き替えを、俳優のポール・フリーズが行っています。

フリーズは「三船敏郎御用達」の声優で、アメリカ人の三船の声のイメージは
この人だったのですが、先日お話しした「1941」では吹き替えなしだったため、

全てのアメリカ人はこの作品で初めて三船敏郎の声を聴くことになりました。

日本語のwikiポール・フリーズの欄には、なぜかこのことが
全く書かれていませんが、英語の方にはクレジットされています。

この映画の特色は、山本提督以外の聯合艦隊の軍人たちが
日系アメリカ人俳優によって演じられていることです。

いつの頃からか、アメリカ映画の日本軍人役は、ほとんどが
アジア系(中華コリアン)でお手軽に済まされるようになりましたが、
これは、日本人から言わせてもらうと、アメリカの鮨屋のオーナーが、
昔は日本人か日系人だったが、今は以下略、というのに似ています。

中韓系の演じる日本人は、アメリカ人から見たら同じに見えるかもしれませんが、
特に旧日本軍人は、似て非なるもの、我々にはどうにも珍妙に見えるものばかり。

(例・パールハーバー、ファイナルカウントダウン、その他)

まだこの頃は日米の大々的な合作というプロジェクトは一般的ではなく、
さらに、字幕を嫌うアメリカ人観客の嗜好に合わせたのでしょう。

これは、1976年当時、こんな日本人の雰囲気を持った日系アメリカ人が
アメリカの映画界にまだたくさんいたということの証拠でもあります。
今の日系アメリカ人で、彼らのように旧日本軍人の演技ができる役者を
これだけ揃えることはおそらく不可能でしょう。

このときに日本軍人役をした日系人のうち何人かは
実際に日系人部隊陸軍第442部隊に加わった経歴があり、
パット・モリタをはじめ何人かは強制収容所に収監された経験を持ちます。

 

聯合艦隊図上演習中。

聯合艦隊旗艦の上で行われている会議では、
いわゆるMI作戦(ミッドウェイ攻略作戦)について、
軍令部の近藤信竹中将が、

「(図演によると)米空母がほぼ無傷な状態であり、
ミッドウェー基地にも敵戦力があるため、
MI作戦は中止し、米豪遮断作戦に集中すべき」

と懸念を述べたという史実が再現されています。

真ん中、南雲忠一中将を演じるジェームズ・シゲタ
海兵隊に入隊し、朝鮮戦争出征の経験があります。

この繁田さんは南雲忠一にこれっぽっちも似ていませんが、
日本人将官を演じるにあたり、役作りに腐心したそうで、
その真摯な態度は三船敏郎を感激させるほどでした。

後年「ダイハード」で、彼は墜落する富士航空に乗っていた
日系人社長の役で強い印象を残すことになります。

彼は2014年に85歳で亡くなり、ハワイの国立太平洋記念墓地に
アメリカのために尽くしたひとりの退役軍人として葬られました。

最近HULUで配信された「ビバリーヒルズ青春白書」を見ていたら、
主人公のスティーブが結婚する日系人女性の父を演じているのが
シゲタさんで、監察医の役で前述のクライド・クサツが出ていました。

日系人の俳優そのものがいかに希少だったかということでしょう。

 

さて、史実ではこの図演で近藤の具申に対し、山本長官は、

「奇襲が成功すれば負けない」

と言ったとされますが、(作戦を推したのは幕僚だったという説もあり)
映画では南雲長官に同様の反論させています。

ここはハワイのカネオヘ基地。
ここで使われるのがPBYの実機で、この水上艇は
いまだに世界中に機体が残されています。

ガースとロシュフォール中佐がお出迎えしたのは
御大ニミッツ提督。(ヘンリー・フォンダ

フォンダはニミッツ提督を演じることになった時、
髪の毛を白く染め、さらに左手の指をいつも閉じて
薬指がないということを表現していたそうです。

わたしは出演シーンのたびに左手に注目していたのですが、
たしかに言われてみると左をグーにしていることが多かったようです。

Chester Nimitz as CNO (cropped).jpg薬指にご注目

偶然ですが、山本五十六も爆風で吹き飛ばされて
指が欠損していたのは有名ですよね。

この撮影で三船はわざわざ山本の失った指の部分を
短くした手袋をあつらえて登場したそうですが、
どちらも映画を見ている者にはわからないレベルの演出です。

移動の車で、ロシュフォール中佐が、暗号で読み取った
「A-F」がミッドウェイではないかという仮説を披露しました。

「しかしなんの証拠もないじゃないか」

アメリカ統合参謀本部では、日本軍の攻撃目標をハワイ、
陸軍航空隊ではサンフランシスコと考えていました。

というわけで、偽の電報で日本軍が引っかかるか
ロシュフォール中佐のアイデアが実行に移されます。

「ミッドウェイの蒸留施設がこわれました・・・と」

ぽちぽちぽちぽち

そして見事に引っかかる日本軍。

「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」

これでしっかり

AF =ミッドウェイ

が証明されてしまいましたとさ。

これを受けて「大和」上では再び連合艦隊の作戦会議が。

細萱中将の北方部隊がアッツ&キスカを攻略している間に
本来の目的(ミッドウェイ)から機動部隊を引きつけるというわけ。

「空母の指揮を執るのはおそらくハルゼー提督でしょう」

と出してきたのはロバート・ミッチャムのプロマイド写真。

「勇敢、タフで危険を恐れない男ですが、
我々はその強さを彼自身に向かわせましょう」(直訳)

そして聯合艦隊は、二式大艇二機を投入した真珠湾作戦の時の
『K作戦』に続く『第二次K作戦」として今度は潜水艦と二式で
ミッドウェイに向かう米艦隊への哨戒網を貼る計画を立てましたが、
結論として暗号が解読されてしまったため、
中継地であるフレンチフリゲート礁は封鎖され、失敗しました。

問題は、この報告を受けても、聯合艦隊は暗号が解読されている
可能性を疑わず、さらにはなんの対策も取らなかったことです。

日本人の陥りがちな正常性バイアスを見る気がするのですが、
・・まあ、後からならなんとでもいえますわね。

さてこちらアメリカ参謀本部の作戦会議中。
手前にいるのはニミッツ提督ですが、図上に置いた手の
薬指を折りたたんでいる様子にご注目ください。

この会議では、ニミッツが日本軍の侵攻に備えて
太平洋南西部からフレッチャー少将の第17任務部隊を
ハワイに呼び戻すことを決定しました。

第17任務部隊は、珊瑚海海戦でポートモレスビー防衛を成功させ、
日本海軍に打撃を与えたものの、自身も主力空母「レキシントン」を失い、
「ヨークタウン」は中破し燃料が漏れ出している状態でした。

そこでなんとか帰ってきた「ヨークタウン」のために、
メカニックが
総動員で働くことにになりました。

ところでこのシーンに写っている後ろの艦のマストの形状は
どう見ても1942年のものではないですよね。
後ろのボートにも、短距離UHFアンテナがはっきりと見えているそうです。

それから、ここにきて修理をしている人たちに声をかけ、
励ましているガース大佐なんですが、諜報部に行ってみたり、
参謀本部にふらふら行ってニミッツと気やすく話したり、
甲板の修理を見に行ったり・・・・。

この人の本業ってなんなんですか?(大疑問)

 

続く。