ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「フィアレス」プラムサテンのフライトスーツ 〜ハリエット・クインビー

2025-02-14 | 飛行家列伝
 
今日はまず、スミソニアン航空博物館の展示から、
黎明期の飛行家のファッションを取り上げます。

飛行機が発明され、航空ブームが巻き起こると、
製造業者は、より機能的なヘルメット、手袋、スカーフ、
その他安全のためのアクセサリーなどを飛行家のためにデザインしました。

航空ファッションにも世間の関心が高まり、雑誌や新聞は
「アヴィエート」aviateのための服装について、
パイロットだけでなく、乗客についても取り上げ始めました。

人それぞれ、手持ちの衣服を組み合わせて間に合わせる人もいれば、
トレードマークとなる特別なフライングスーツを作る人もいました。

自らの経験をもとにパイロット自身が衣装をデザインすることも多く、
フランスの飛行家、ユベール・ラタム(Hubert Latham)という人は、
飛行中に飛行機の木製部分から破片が折れることによるダメージを考慮し、
フェンシングで使用されるキャンバス地の裏地付きスーツを提案しました。



ちなみにラタムは二度英仏海峡横断に挑戦した飛行家でしたが、
彼の死因は飛行機事故ではなく狩猟中水牛の角に突かれたことでした。
享年29歳。合掌。

■ レザージャケット



レザーのフライングジャケットを着用したイギリスの飛行家、
クロード・グラハム=ホワイト(1879−1959)
レザーは高価でしたが、保温性、耐久性、不浸透性から
初期の頃より飛行服の素材としてパイロットに好まれてきました。

レザージャケットの便利な点は、普通の服の上にさっと羽織れば十分で、
着陸時にコートが油で汚れていても、飛行機を降りて、
彼らを賞賛する人々に挨拶する前に脱ぐことができることです。

■ エディス・バーグのホブルスカート


ハート・O・バーグ夫人エディスは、ホブル(hobble)スカート
というファッションを「生んだ」とされる人です。

この写真でバーグ夫人の横にいるのはあのウィルバー・ライト
彼女の夫、ヒューバートがライト兄弟の欧州における代理人だった関係で、
「乗客として飛行機に乗った最初のアメリカ人女性」となりました。

写真で注目していただきたいのは、彼女のスカートの裾部分です。

飛行機に乗るわずか2分間のため、彼女は飛行中に
スカートが捲れ上がらないように、膝の少し下にロープを巻き、
飛行が終わってもそれを付けたまま現場を後にしました。
ついでに帽子も飛ばないようにスカーフで結んであります。

「ホブル(hobble)」とは「足を引きずって歩く」という意味があります。

このときバーグ夫人が飛行機を降りて歩く姿を見たフランスのデザイナーが、
これにインスパイアされ、この姿と日本の着物をミックスして、
ホブルスカートなるデザインを発表したのです。

この流行は、第一次世界大戦が開始すると急速に廃れました。
流石に戦争中はこんな罰ゲームみたいなスカートは履いてられませんよね。

実際に、これを履いていたせいで転んだり、逃げ遅れて
亡くなった「ファッションヴィクテム」の女性もいたそうですし。


写真では男性がスカートを指差しながら、

「ありゃなんだ?歩行速度制限スカートだろ!」

と揶揄しています。

飛行機に乗る女性にとっては「捲れ上がらない」という一点においてのみ、
非常に機能的だったということもできますが、ファッション的には
纒足とかハイヒールのような自由な行動を制限することによって生まれる何か
(セックスアピールとか)を狙っていたのかもしれません。知らんけど。

■フライトヘルメット




スミソニアンの説明によると、「ウォレン・ヘルメット」と言って、
W・T・Warrenというイギリスのパイロット&発明家が発明した
飛行用の保護ヘルメット断面図です。

素材は皮で、内部には鋼鉄のバネが仕込まれて衝撃を吸収します。
装着感を高めるパッドは馬の毛を使ってあります。



1912年、壁に頭突きして性能を実験しているウォレン本人。
後ろの笑っている人たちは皆パイロットらしいです。

この写真はとても有名ですが、間違って
「フットボールの練習」というキャプションが付けられたりしています。


「ブラウンヘルメット」

ブラウンヘルメットは厚手のフェルトと革でできており、
上部は額と後頭部を部分的に覆っています。

下部は革で覆われた厚さ3枚のフェルトで、
目の上に突き出ており、前方への転倒時に顔を保護します。
耳あてには穴が開いています。

防寒とそれほど強くない衝撃なら有効ですが、
衝撃吸収効果はウォーレンのヘルメットほど高くありません。

■フライトクローズ

「短時間用飛行服」

ファルマン複葉機に乗るL.D.L.ギブス中尉。
手袋はしていませんが、マフラーは必須として着用しています。

短時間飛行なので、コートは革製ではなく厚手の布製で、
厚手の毛糸の靴下を履いたロートップのブーツを履いています。

このギブス中尉ですが、どの軍隊所属かなど一切わかっていません。
(航空服だけで、制服姿の写真が残されていないので)
おそらくイギリス陸軍か海軍ではないかと言われています。

あるサイトによると、ギブスはファルマン飛行機のデモをスペインで行い、
その際、飛行機の準備が遅れたことに激昂した群衆が石を投げつけ、
ギブス中尉にナイフで襲いかかり、彼が逃げると、
残されたファルマンとそれを収納していた小屋を焼き払ったそうです。

その際、暴徒たちがスペイン語で叫んでいたのが、

Aviation is impossible!(航空は不可能)
Down with science!(打倒科学)
Long live religion!(宗教万歳)

だったとかなんとか。
うーむ・・・・きがくるっとる。



「水上飛行装置」

長時間飛行や水上飛行では、飛行服は暖かさが決め手となります。
ロバート・ロレインは、フライトの前に機内で写真に収まりました。
スカーフを首にしっかりと巻き、キャップのフラップを下げて
耳を寒さから守るだけでなく、エンジンの轟音を防ぎます。

手袋は必須で、コートの袖には手首に密着させるゴムがあるのが理想的。
ロレインはこれから水上を飛ぶので救命ベルトをしており、
コンパスとマップケースは膝に縛り付けてあります。

ロバート・ロレインイギリス陸軍少佐は、黎明期のパイロットで、
「ジョイスティック」という言葉を使い出した人物です。

ジョイスティックの「JOY」はご想像通り「喜び」という意味で、
飛行する喜びを込めたとかなんとか。

この写真ではイマイチですが、ロレイン少佐は大変なイケメンで、
女性にMM、引退後は俳優に転身、彼の死亡記事には

「ロバート・ロレインは今世紀で最もハンサムな
ロマンティック俳優の 1 人として記憶されるだろう」


と書かれたそうです。

これなら納得のイケメン

■ 女性用フライトスーツ


スカートが捲れて困るなら、スカート風のズボンにすればいいじゃない、
ということで登場したこのようなフライトスーツ。

分厚いツィード生地でできています。

写真はマチルド・モアサン(Matilde Josephine Moisant、1878- 1964)
アメリカで2番目に飛行機の操縦免許を取得した女性です。

左胸に卍(左まんじ)のマークをつけていますが、
これは普通にグッドラックチャームでナチスとは全く関係ありません。
左のイラストは、右の写真を元に描かれたものですが、卍のチャームは
いらぬ誤解を招くことを恐れたのか微妙にぼかしてわかりにくくしています。



本日の主人公、ハリエット・クインビー(右)とは知り合いでした。
ちなみにクインビーが免許取得第1号です。


1929年、ブランシュ・スコットのフライトスーツ。


「プラムサテンのフライトスーツ」

生前のハリエット・クインビーのトレードマークは、
プラム色のサテンのフライトスーツでした。
1911年の新聞には次のような記載が見られます。

ハリエット・クインビー嬢のプラムカラーのサテンでできた飛行服は、
ブラウスとニッカーボッカー、そしてモンクフードという組み合わせです。

ニッカーボッカーの内側の縫い目はボタンで閉じられており、
ボタンを外すとウォーキング・スカートになります。
ブラウスは長い肩の縫い目でカットされていて、脇の下で留めます。

そして、クインビー嬢が履いているのはハイトップレザーのブーツ。

これはクインビーのマネージャー、A・レオ・スティーブンスが
彼女のフライトを宣伝するために発行したポスターのコピーです。

ファッションの細部が気になる女性読者に向けて、
大変詳細にスーツの縫製について説明までしています。

■ ハリエット・クインビー

アメリカ人女性として初めてパイロット免許を取得したのが
このハリエット・クインビーです。

彼女は1875年ミシガン州の貧しい農家に生まれていますが、
最後まで自分の出生地を、カリフォルニアの裕福な家庭の出身で、
アメリカとフランスで十分な教育を受けたと人々に思い込ませていました。

彼女には上品な美貌が備わっていたので、人々は容易くそれを信じました。

若い時田舎から都会に出るなり雑誌記者として職を得たのも、
おそらくはその美貌が大いに実力を底上げたからに違いありません。

サンフランシスコでは、サンフランシスコ・クロニクル紙など
数紙の新聞に寄稿していましたが、そもそも記者という職は
当時、女性が参入することの少なかった分野でした。

しかも彼女は当時最先端だったタイプライターを最初に使ったり、
まだ車が珍しい頃に黄色い車を乗り回したりと、
同業のジャーナリストの中でもいつも目立っていたと言います。

そして彼女はニューヨークに進出して記者としてのみならず、
ドラマ評論や脚本を書いたり、写真を撮ったりしました。

なんか映画にも出ているという(後ろは多分サンフランシスコ湾)

美しく整った顔立ちのクインビーは、
自分の人生は必ず成功すると信じて疑いませんでした。
自分の才能と機知、そして美貌を武器に、
当時の女性が夢にも思わなかったことを成し遂げたと言えます。

美しき異端者であった彼女は社会の慣習を進んで無視し、
結婚よりもキャリアを選んで、彗星のように人生を駆け抜けました。


宣伝のモデルにもなりました

彼女が航空の世界に足を踏み入れたのは、
写真家、文芸・演劇ライターと名乗り活動していた35歳のときです。

イベントで航空に魅了され、飛行を学ぶことを決意したのですが、
そのころは航空の世界にまだ女性がおらず、今なら
希少価値の点でも自分は一躍有名になれると計算したのかもしれません。


モワサンとマドモアゼル・フィフィ

彼女はそのとき見事にレースで優勝したパイロット、
ジョン・モワサンに飛行を教えてくれるよう頼んだのですが、
レッスンが始まる前に、モワサンは飛行機の墜落で亡くなりました。

猫かわいい

John Moisant’s Flying Cat 
– History’s Most Renowned Feline Aviator flew the English Channel to Dover 猫が気になった方のために

普通こんなことがあれば、ためらったりしそうなものですが、
クインビーは全く怯みませんでした。
ジョンの代わりに弟アルフレッドに操縦を習い始めたのです。

モワサンの妹であるマチルドと親しくなったのもこのときでした。

■ 英仏海峡横断成功

タバコを吸い、車を所有し、飛行機を操縦し、一人で世界中を旅し、
おまけにプロの作家とか写真家を名乗る女性。

彼女は多くの崇拝者をいつも従えていたそうですが、
世間的に当時は過激な女性とみなされていました。

颯爽としていながら女性的なイメージ。
小柄で色白な彼女のあだ名は「ドレスデン人形アヴィアトリクス(Aviatrix)」
(女性飛行士のこと)「陶器の人形」「緑の瞳の美女」などでした。

彼女が自らデザインしたプラム色のサテンの飛行服は、
過激と言われながらもすぐにファッション・トレンドとなっていきます。



当時1回の航空ショーでパイロットは1,000ドルもの収入を得ることができ、
レースの賞金となると10,000ドル以上が手に入りました。

操縦免許を手にするなり、クインビーはエキシビション・チーム、
「モワサン・インターナショナル・アビエーターズ」に入り、
2万人近い観衆の前でスタテン島上空を夜間飛行して1,500ドルを稼ぎました。

プラム色のサテンブラウスにネックレスを光らせ、
ハイヒールのレースのブーツにタックインしたズボンを履いた彼女は
大会やレースに出場するたびに観衆を魅了していきます。

航空ショーに参加するかたわら、彼女は一連の記事で自分の冒険を語り、
一方で民間航空の経済的可能性を熱心に宣伝し、
飛行が女性にとって理想的なスポーツであることを宣伝するなど、
ジャーナリストとしての使命にも燃えていました。

1911年、世界的な名声と富を目標に、クインビーは
女性では初めてとなる英仏海峡横断に挑戦しました。

濃霧の中、ブレリオ単葉機でドーバーからカレーへの飛行を開始した彼女は
「前がまったく見えず、下の水面も見えず・・・
私にできることはただひとつ、コンパスを見続け」

て、無事に海峡を渡ることに成功したのです。

しかし、彼女は不運でした。

この二日前にタイタニック号が沈没したため、
本来大々的に報道されるべき彼女の偉業は新聞の一面を飾れなかったのです。

■墜落死

彼女は現在でも当時の最も有名な女流飛行家とされていますが、
飛行家として活動したのは、わずか一年でした。

英仏海峡横断成功を世間から無視されて、失意の中、
それでも飛び続けた彼女は、1912年7月1日、
海峡横断から3ヵ月も経たないうちに、悲劇的な最後を迎えるのです。

それはボストン湾で行われた航空大会での事故でした。

70馬力の新しいブレリオ単葉機で飛行していた彼女は、
非常に危険なアウトサイドループ(バント)を完了しようとして
ミスにより機首を下げてしまい、操縦不能に陥ります。

3の部分で失速

このとき同乗者が機外に放出されたため、機首はさらに下がり、
明らかに緩い安全ハーネスを付けていたハリエットも放り出されました。

ハリエットと同乗者は300メートルの高さから墜落し、
ボストン湾の浅瀬に落下してどちらも即死でした。

救出されるクインビー

皮肉なことに、乗員を失った無人の機体はその後水平になり、
ほぼ完璧な無操縦着陸で地上に戻ったといいます。


Harriet Quimby: Pioneer aviator tragically killed.

「フィアレス」は、ドン・ダーラー著のクインビーの伝記のタイトルです。

生前、彼女は色褪せない不滅の存在になることを望んでいましたが、
その短い生涯で、「恐れを知らず」成し遂げた数々の功績により、
それは実現したといってもいいでしょう。



ベッシーとロキシー〜ベシカ・レイシェ博士 女流飛行家列伝

2025-01-16 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の黎明期の女流飛行家のコーナーを見ていて、
この写真が目に止まったことから、彼女を紹介する気になりました。

■ 女性による史上初単独飛行達成者


Bessica Faith Medler Raiche M.D.

写真うつりがどうというより、この雑な切り抜きのせいで
女性である被写体の気持ちにならずとも、残念すぎる肖像です。
ネックレスをしていなかったら男性と思ったかもしれません。

どうせならこちらの写真を使って欲しかった

添えられた説明を読んでみましょう。

ベシカ・レイシェは、この時代の女性には珍しい2つのキャリアを追求した。
1910年、彼女は夫と一緒に作った飛行機で単独飛行した。
それ以来、彼女は医学の学位を取得し、開業医となった。

1910年当時、アメリカでは(というか世界でも)、
当時登場した飛行機に乗る女性はもちろんのこと、
医学博士も少なかったということがわかります。

(我が日本ではもう少し早い時期に楠本イネ、吉岡弥生、
そして同時期には荻野吟子などが女医として活躍している)

ますます興味が出て、彼女を飛行家列伝で取り上げることにしたのですが、
まず、Raiche をどう発音するのかわからず、YouTubeを検索してみました。

ところが、三本見つかった動画の発音が皆違います。

Women's History Month - Bessica Raiche
この動画はレイチ、もう一つの公開できない動画はリシェと言っています。

Throwback Thursday - Rockford's Aviation History
こちらは、研究者?がテレビの番組でインタビューを受けているもので、
この人の、レイヒという発音はもしかしたら正しいのかもしれません。

しかし、この人が飛行家として活躍していた1910〜1920年ごろは、
サイレント映画の時代で、音声のあるニュース映像がなかったため、
今となっては「レイヒ」だったかどうかも確かめることはできません。

Raicheがフランス系の名前であるということなら、可能性としては
フランス発音で「レシェ」が一番近いのではないでしょうか。

ですので、本稿では中をとって?レイシェとします。


まず、 THIS DAY IN AVIATION という航空版「今日は何の日」サイトには、
1910年9月16日、として次のように紹介されています。

1910年9月6日: 
ベシカ・フェイス・カーティス・メドラー・レイシェ医学博士は、
何の訓練も受けていなかったが、夫のフランソワ・C・レイシェとともに
ニューヨーク州ミネオラの自宅で製作した飛行機で単独飛行に成功した。

そして、これは「女性が単独飛行した史上初」であるというのです。

今まで何人もの女流飛行家を紹介してきた当ブログですが、
どの飛行家たちも、何らかの形で功績を上げてきたからこそ名前が残るので、
果たして誰が何の「史上初」なのかわからなくなっていました。

ところが、名前の読み方も世間的に確定していないらしいこの飛行家が、
「史上初の女性」とされていることを知り、正直驚きました。

記憶を辿る限り、女性で初めて操縦をしたのは、
ざーますメガネのお嬢様飛行家、ブランシュ・スコットだったのでは?
と思い、あらためて自分のログを読んでみたのですが、

ブランシュ・スコット〜空飛ぶトムボーイ

彼女がカーティスに操縦を習ったことは分かりましたが、
意外と「史上初」のタイトルではなかったことが確認できました。
(超音速の飛行機に乗った最初の女性という記録はありましたが)

この「今日は何の日」の記事では、その辺の経緯もちゃんと記してあります。

レイシェが単独飛行を行う2週間前の1910年9月2日、
ブランシュ・スチュアート・スコットも、
グレン・ハモンド・カーティスの指導を受けながら、
飛行機で単独飛行に成功している。


スコットは飛行機とその操縦に慣れるためにタキシングの練習をしていた。
カーティスは、飛行機のスロットルに細工をして、
離陸するのに十分なほどスロットルが進まないようにしていたが、
折から吹いた突風のせいで、飛行機は意図せず離陸してしまい、
このことによってブランシュ・スコットはアメリカ人女性として
初めて単独で飛行機を操縦したと考えられている。


なんと、レイシェの2週間前にスコットが飛行成功していたんです。

しかしですね。
おそらくカーティスの、

「お預かりした大事な(金持ちの依頼主の)令嬢に何かあっては大変だから」

という配慮からスロットルにストッパーをかけていたことで、
つまりその飛行は「意図的なのものではなく、つまり偶然」とみなされ、
アメリカ航空学会はこれを正規の記録として認めませんでした。

そしてベシカ・レイシェを初の「意図的な女性の単独飛行者」としました。

「自分の意思で、飛ぼうと思って飛んだ」

ということが、カーティスの名前や超富豪のパパの力より優先されたのは、
当時のアメリカの組織が今ほど堕落していなかったということでしょうか。



同協会が彼女に授与したダイヤモンド入りの(翼の真ん中)金メダルには、

「The First Woman Aviator in America(アメリカ初の女性飛行家)」

と刻まれています。
(冒頭絵でレイシェが右手に持っている一つがそれです)

■ 夫婦で飛行機を制作


ベシカ・メドラーを一言で表すなら「多才な女性」に尽きます。
まず、当時の女性としては珍しい医学博士ということはお伝えしましたね。

1900年、ベシカは25歳でタフツ大学医学部に入学し、3年後に卒業。
ニューヨークの小児病院に勤務した後、開業しています。

1904年、ニューハンプシャーで開業していたとき、彼女は
フランス移民の息子、弁護士のフランソワ・レイシェ博士と結婚しています。

彼らの間には一女が生まれました。

医師という職業以外に、彼女は言語学者であり、芸術家でもありました。
そちらはプロではありませんでしたが、タフツ大学に入学する前、
フランスに留学して、そこで絵画と言語学を学んだのです。

これからわかるのは、彼女の実家が半端なく裕福で、
かつ女性も教育を積むべきと考える知的な層だったということです。

ブランシェ・スコットも資産家のお嬢様でしたが、まあ要するに、
女性(に限らず)飛行機に乗るなんてのは、本人のやる気以前に
経済的なバックアップがないと何も始まらなかったんですね。

彼女が飛行機の世界に興味を持ったのは、フランスで
オーヴィル・ライトのライト・フライヤーの実演を見たからでした。
史実としてのそれは1908年8月8日のことです。

この時期、彼女は医師として順風満帆に仕事をしていたので、
おそらく夫の故郷であるフランスに、旅行か何かで訪れていたのでしょう。

ライト・フライヤーの飛行を見た彼女は、ぜひ飛行機で空を飛んでみたい、
と思うわけですが、驚くのは、それを「飛行機づくり」から始めたことでした。

■ 自作飛行機

その後、アメリカに戻った彼女は、夫婦で飛行機を作り始めました。

ライトの設計図を使いましたが(どうやって手に入れたんだろう)
オリジナルの重いキャンバス地のカバーの代わりに、竹と絹で重量を減らし、
家にあるグランドピアノを分解してピアノ線を利用するなどして、
全ての部品を家の中で完成させ、外に持ち出して組み立てました。



複葉機の全長は28フィート6インチ(8.687メートル)、
翼幅は33フィート(10.058メートル)。
C.M.クラウトが製作した約30馬力のエンジンを搭載していました。

そして、1910年9月16日、ニューヨーク州ヘンプステッド・プレインズで、
レイシュは自家製飛行機に乗り、単独飛行を成功させました。

この日、彼女は5回の飛行に挑戦し、最後の飛行は1.6キロを記録しました。
着地したとき窪地で飛行機が傾き、機体から放り出されましたが、
彼女は無傷で、飛行機もわずかに損傷しただけですみました。

このとき夫のフランソワでなく彼女が操縦したのは、
ただ単に彼女の方が体重が軽かったからですが、
このことで彼女はアメリカ航空協会に認定された、
アメリカ初の女性による単独飛行機飛行のタイトルを得たのです。

その後夫婦はフランス・アメリカ飛行機会社を設立し、
さらに数機の飛行機を製造したのですが、1925年に離婚しています。

■「ベッシー&ロクシー」の像



ところで、冒頭のレイシェ博士の肖像、気になりませんでしたか?
なぜ犬を左手に乗せているの?って。

これは、レイシェ夫妻が最初に飛行機を飛ばした、
ニューヨーク州ミネオラのロングアイランド駅に建てられた、
他ならぬベシカ・メドラー・レイシェ博士のブロンズ像をもとに、
当ブログ絵画部が実物のように書き起こしたものです。

ミネオラが飛行の歴史に重要な役割を果たした、ということから、
レイシェ博士が選ばれたのは納得なのですが、それではこの犬は?


1901年(これはレイシェ博士がまだボストンで勉強していた頃です)
ロングアイランド鉄道のガーデンシティ駅に、
ロキシー(Roxie)という名の子犬が迷い込んできました。

子犬はいつのまにか駅に住み着いて、列車に乗り込んだり、降りたり、
その間乗務員や乗客にかわいがられるようになり、十分に餌を与えられて
いつのまにかLIRR(ロングアイランド鉄道)のマスコットになりました。

犬は、いつでも車両に乗り降り自由、どこに座ってもよろしい、
という「公式パス」を与えられていた上、
ガーデンシティの駅長の「養子」となって、駅舎で寝泊まりしていました。



これはイラストなのですが、セオドア・ルーズベルト大統領の右にいるのは、
他でもないこのロキシーくんで、有名犬となった彼はなんと、
大統領専用車で保養地のあるオイスターべイを訪れ、
「夏のホワイトハウス」と呼ばれる、サガモア・ヒルの
大統領の自宅を訪問するという栄誉を得るまで出世しています。


1903年、電車犬になってロキシーがずっとつけていたタグ。

「俺ロングアイランド鉄道犬のロキシーだけど、お前どこ犬よ?」

と刻まれています。(なぜ他の犬にマウントをとっているのかは謎)
冒頭イラストでレイシェ博士が持っているもう一つのメダルがこれです。

そんなロキシーが亡くなったのは1914年のことでした。
14歳というのは、犬としてはまあまあ長生きでしょうか。

以下、彼の死を報じる新聞記事です。

6月12日-
ロングアイランド鉄道の犬、ロキシーはもういない。

ロングアイランド全域で知られ、何年もの間、
ロングアイランド鉄道の列車で毎日のように乗車していた犬は、
昨日午後遅く、ジャマイカのヴァンウィック通り76番地にある獣医師、
W・L・ジョンソン博士の自宅で、
1年以上続いた長引く病気の末に息を引き取った。


ロキシーは水腫を患っており、
冬の間、獣医師によって手厚く看護されていた。

14歳の犬、ロキシーはおそらくロングアイランドで最も有名な犬だった。
何年もの間、彼はファンから贈られた首輪をつけていた。

松の箱に入れられたロキシーは、今朝、
ロングアイランド鉄道の高張力部門総監督である
A・G・スラックの自動車で最後の走行をした。

ロキシーの遺体は、スラック氏と鉄道の電灯部門の主任である
C・F・ヤングに付き添われてリトアニア州メリックに運ばれ、
ロキシーの親友であったミス・エルシー・ヘスの家の前に埋葬された。

石切り職人が墓を示す小さな石碑を寄贈することを約束しており、
これには適切な碑文が刻まれる。


ロキシーを偲ぶ花輪は、鉄道会社の従業員やその他の人々から贈られたもので、
今日、墓の上に置かれる予定である。



その後、彼のストーリーは
「マイルズ・オブ・スマイルズ」という絵本にもなっています。

ところで、この絵本のロキシーの柄が本当なら、
わたしの解釈(ブチ白犬)は大いに間違っていたことになりますが・・
まあいいや。

というわけで、レイシェ博士は犬とは何の関係もないことがわかりましたね。

ブロンズ像「ベッシー&ロキシー」は、ロングアイランド鉄道の依頼で、
ドナルド・リプスキーというアーティストが製作しました。

何かこの駅に象徴的な存在の像を作る話になったとき、飛行家か犬か、
どちらも捨て難いので、一緒にしてしまおう、となったのだと思うのですが、
いくら何でも女性が犬を高く片手で掲げ持つデザインは・・・。

と思ったのはきっとわたしだけではないでしょう。
(にも関わらずその絵を描いてしまうのはおそらくわたしだけでしょう)

しかし、いずれにしても、2023年に完成したばかりというこの像は、
ミネオラ駅の広場で目にした者の興味をそそらずにいられません。

飛行服の女性、そして彼女が捧げ持つ犬。

多くの人が、自分のデバイスでその由縁を即座に調べ、
そして同時にこの地方にゆかりの深い二つの大きな存在について知るのです。

「実際には交わることのなかった二つの道が、
ミネオラと20世紀初頭の交通機関という共通点によって一緒になった」

作者はこのブロンズ像についてこのように説明しています。


さて、ドクター・ベシカ・レイシェの最後についても述べておきます。
1912年、彼女はカリフォルニア州ニューポートビーチに移転し、
そこで生涯開業していました。

産科と婦人科を専門とし、患者からの評判も大変良かったそうで、
オレンジ郡医師会の会長も務めるほど医師として実績もあったようです。

1932年4月9日、ニューポート・バルボア島の自宅で死去、享年56歳。
死因は心臓病の合併症によるものでした。

彼女は今、カリフォルニア州サンタアナの墓地に眠っています。




レイモンド大佐とフライトオフィサークーガン〜ハリウッドセレブIN航空隊

2024-12-11 | 飛行家列伝

ジェームズ・ステュアート、クラーク・ゲーブルと、共に
第二次世界大戦に陸軍航空隊に入隊したスターを取り上げてきましたが、
今日は二人ほどビッグネームではないものの、戦争が始まったとき志願し、
航空隊に貢献した二人のハリウッドセレブをご紹介します。

■ ジーン・レイモンド大佐 USAFR


まず、ジーン・レイモンドという俳優の名前を知っている人は、
日本人にはあまりないのではないかと思います。
(日本語のwikiのページはない)

しかし、アメリカでは俳優としてだけでなく、歌手、作曲家、脚本家、
監督、プロデューサー、つまりハリウッドセレブとしての顔と、
軍パイロットという肩書きで広く知られる存在です。



しかし、この顔にも、出演した作品名にも正直全く記憶がありませんでした。
10 Things You Should Know About Gene Raymond 航空隊での写真は1:12~

まあ、そういう才人でセレブだったということでよろしいでしょうか。
(適当)

1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻したとき、
当時31歳の俳優、ジーン・レイモンドは、
アメリカもいつか戦争に巻き込まれると確信していました。

共和党支持であった彼は、自費でパイロットになるための飛行訓練を受け、
1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が勃発すると、
即座に映画製作のキャリアを中断して少尉の任命を受けました。


レイモンドが陸軍入隊試験で面接をした中佐の合格通知です。

1942年2月13日、ワシントンD.C.空軍司令部
覚書:
陸軍航空部隊A-2本部参謀長補佐ワシントンD.C.へ

私は、ジーン・レイモンド氏の合衆国陸軍への志願に際し、
個人的に面接を行いました。

彼の人格、性格、知性、そして一般的な適性は、
将校としての任務に適任であります。
人を扱った経験、パイロットの等級と航空経験、
そしてこの種の仕事に対する主体性と興味、
いずれも情報部の任務に適任であると考えます。

レイモンド氏の申請が承認された場合、空軍戦闘司令部本部に配属し、
G-2課に配属されることが望ましいと考えます。

その計画・訓練ユニットで、動画、シルエット、
模型、写真などの視覚情報訓練に従事するのが適任と思われます。

私はレイモンド氏がこの特別な仕事に十分な資格を持っていると信じます。

ローリス・ノースタッド 空軍中佐




米国陸軍宣誓(暫定)

私ジーン・レイモンド(自筆)は、合衆国陸軍の暫定的大尉に任命され、
内外を問わずあらゆる敵から合衆国憲法を支持し擁護すること、
同憲法に忠誠を誓うこと、
この義務をいかなる精神的留保や忌避の目的もなく自由に負うこと、そして、
これから就く職務の義務を十分かつ誠実に果たすことを厳粛に誓います:

ジーン・レイモンド(サイン)



当初はB-17の偵察員として大西洋沿岸の対潜哨戒に従事。
次に情報学校に通い、卒業後の1942年7月に、イギリスに展開していた
第97爆撃隊に配属になり、同地に渡りました。

第97爆撃隊は、1944年になってからですが、
当ブログでも取り上げたルーマニアのプロイェシュチ爆撃、
そして一連の「ビッグウィーク」、フランティック作戦に参加しています。

具体的に彼の任務について記された資料が見つからないのが残念ですが、
ここでおそらく淡々と、偵察任務を果たしたのでしょう。

あっという間に第8爆撃機司令部の作戦将校補助
(アシスタントオペレーションオフィサー)に昇進してしまいました。



1943年にはアメリカに戻るも、軍隊に在籍し、B-17フォートレス、
B-25ミッチェル、B-26マローダー
の爆撃機、
戦闘機P-39エアコブラの操縦をマスターしました。

写真は、T-33シューティングスタージェット練習機のコックピットで
指導を受けるジーン・レイモンド大佐ですが、上記以外にも、
退役するまでT-39 セイバーライナー、KC-97 ストラトファイター、
KC-135ストラトタンカー、輸送機C-141 スターリフター
の操縦もしました。

もしヨーロッパの戦争が長引いていたら、その時には
自分が爆撃機の操縦席に座ろうと考えていたのでしょうか。

彼が、1942年のヨーロッパ戦線という、アメリカ航空隊にとって
暗黒の時期における実戦に参加しそれを知っていたことを思うと、
単純に、その勇気には感嘆させられますし、何より
これだけの機種の操縦を次々とこなすのは努力だけでは無理でしょう。

何をやらせても器用にこなしてしまうその才能は、
飛行機の操縦にも大いに発揮されたようです。


B-25マローダー移行クラスでのレイモンド。
若いクラスメートに混じっていると、どう見ても上官。


1943年、こちらは大尉時代のレイモンド。
司令の視察のようですが、今からB -25に同僚と乗り込むところです。

第二次世界大戦が終わった後、レイモンドは
1945年10月22日に少佐として現役を解かれましたが、
その後も予備役としてアメリカ空軍に留まりました。



そして1968年8月13日、5,000時間以上の飛行時間を記録し、
司令パイロットのウィングマークを授与され、
大佐として米空軍予備役から退役したのでした。

このアイゼンハワージャケット(通称アイクジャケット)は、
ロスアンジェルスのパシフィック・パリセーズ在住のリタイアした大佐、
ジーン・レイモンドが寄贈した、と書かれています。

パシフィック・パリセーズは豪邸が多く、
ハリウッドセレブなどが数多く住むことで有名な地域です。


■ ジャッキー・クーガン
「キッド」の子役から航空士官に



それでは、国立空軍博物館プレゼンツ、
「航空士官になったハリウッドセレブシリーズ」第二弾は、

ジャッキー・クーガン(Jackie Leslie Coogan)1914−1984

と言われても、こちらも聞いたことがないという方が多いかもしれません。
しかし、この写真を見ていただければお分かりでしょう。


チャップリンの無声映画「キッド」で捨て子の少年を演じました。
クーガンは映画史上初めての子役スターとなった人物ですが、
彼が巨額のお金を稼ぐと、母親と義父がそのお金を使い果たし、
彼には1ドルも残されていなかったことから、25歳になった時訴えを起こし、
その結果クーガン法(California Child Actor's Bill)が制定されました。

この法律によると、18歳以下の子役は、「クーガン口座」というのを持ち、
報酬総額の一定割合(15%)がその口座に振り込まれて、
保護されることが義務付けられています。


それにしてもこの可愛い子供がああなるのか、
と考えたあなた、こんなもので驚いてはいけない。



さらに時は過ぎ、1964年。
彼は「アダムス・ファミリー」のフェスター・フランプになっていました。
つまり、俳優としては、レイモンドより有名だったということになります。

さて、それでは彼はいつ、どんなきっかけで陸軍に入隊したのでしょうか。

■ フライトオフィサー ジャッキー・クーガン



ジャッキー・クーガンが陸軍入隊したのは1941年3月4日でした。
つまり、レイモンドやクーパーのように開戦がきっかけだったのではなく、
その前から志願入隊していたことになります。



彼の入隊の理由というのは、女優ベティ・グレイブルとの破局でした。
彼らの結婚生活は1937年から39年まで、たった2年間で終わりました。

失意のクーガンは、半ばヤケクソで陸軍に入隊しましたが(たぶん)
特に目標があったわけではなかったので、
軍隊では平凡な兵士、歩兵にでもなるのだろうと考えていたそうです。

しかし、入隊してみると、彼は他の兵隊より有利な点がありました。
俳優だったおかげで?個人的にパイロット免許を取っていたのです。

彼は大学を卒業していないため、学位が必要な軍パイロットには
普通ならばなれないのですが、戦争が始まったことで事情が変わりました。

大学を出ていなくても唯一パイロットになる道があったのです。
それがフライト・オフィサー=グライダーパイロットでした。

彼はテキサス、続いてカリフォルニア州のグライダー学校で訓練を受け、
卒業してフライト・オフィサーとなりました。

■フライトオフィサーとは

ところで「フライトオフィサー」というタイトルに違和感を感じた方、
あなたは大変鋭い。

このタイトルは、第二次世界大戦中、の1942年から1945年までの間、
アメリカ陸軍航空隊でのみ使用された階級です。

1942年9月に創設され、陸軍のグライダーパイロットに限り、
訓練終了後すぐさまこのタイトルを与えられ、グライダーパイロット、
航法士、航空機関士として勤務しました。

「ブルー・ピックル」と呼ばれたフライトオフィサーの徽章

限定的な階級であったため、第二次世界大戦が終了すると同時に
陸軍航空隊はフライトオフィサーの階級を廃止しましたが、
その時までに彼らは全員戦争中に士官に昇進するか、除隊していました。

普通部隊の階級でいうとウォラントオフィサージュニアグレード、
WOJGと同等で、今日の階級では准尉に相当します。

ちなみに大戦後、陸軍ではパイロット要員を確保するため、
フライトオフィサーの代わりに准尉を航空に確保する作戦を取りました。

このプログラムの養成士官はほとんどヘリコプターパイロットで、
年齢枠も広く、17歳から訓練開始することができたそうです。

■ グライダーパイロットとして

さて、クーガンはその後、有名なフィル・コクラン大佐によって結成された、
第1エアコマンドーグループでの危険な任務に志願します。

1943年12月、クーガンの所属部隊はインドに派遣され、
ビルマへの夜間空中侵攻(1944年3月5日)の際、
イギリス軍部隊をWACO CG-4Aグライダーを使って輸送し、
日本軍戦線の100マイル後方の小さなジャングルの空き地に着陸させました。

上の写真のクーガンの左腕には、「チャイナ-ビルマ-インド」
を表すパッチが装着されています。


ビルマに飛ぶ前の第一エアコマンドグループメンバー全員。
前列右で銃を持っているのがクーガンです。


WACO CG-4Aグライダー部隊の名簿。

CG-4Aが大きく評価されたのは、1944年のフランス空挺侵攻でしたが、
この部隊はその数ヶ月前にビルマのジャングルでの戦闘で使用していました。

寄贈者:ジャッキー・クーガン(カリフォルニア州パームスプリングス)


L-2連絡機の「ホップ」が終わった後、
飛行時間を記入しているクーガン。

このときのクーガンの戦地での戦いを書き表した文章があります。

地球の反対側のビルマでWACOグライダーの操縦席に座っていたジャッキーは
まさに兵士が経験したくない最悪の戦闘状況に陥っていた。

北大西洋より、冬のロシアより、一年中悪臭が漂う
パプアニューギニアより、ガダルカナル島の海岸より、彼の戦場は
第二次世界大戦における地球上で最も過酷な場所であった。

ミャンマー近郊の地域で兵士たちは、年間平均200インチのモンスーン雨、
熱中症、感染症、そして日本軍の銃弾と同じくらい
兵士を殺したり無力化したりする現地の病気に身を晒していた。

この夜、ジャッキーはジャングルの上空を暗闇の中、
別の飛行機に牽引されて、何か起こっても打つてのない上、
安全に着陸できる場所もなさそうなまま飛んでいた。

彼はチンディットと呼ばれるイギリス軍特殊部隊を満載した飛行機を
敵陣の後方100マイルまで安全に運び、
日本軍部隊の通信回線を遮断するという任務を負っていた。

この夜、ジャッキーはアメリカ空軍特殊部隊の一員として、
敵陣の背後に連合軍を着陸させた最初のパイロットとなった。

彼は巧みに、地元の原住民しかいない地域に機体を着陸させた。
しばらく後のインタビューで、ジャッキーは、着陸したとき、
特にグライダーの前部を開けてジープを運転して出てきたときは、
地元の人から神のように崇め恐れられたと述べている。

原住民のうち 2 人がジャッキーの後をついて回り、
毎晩バナナの葉で彼のベッドを作ってくれた。

4 日間、彼は疲れ果てていたが、特殊部隊の主力が着陸できるように、
より大きな滑走路を建設するために働いた。

しかし、空から来た「神」として原住民から扱われた。

ジャッキーは、主力部隊の到着は夜間だったとも述べている。
彼は、英兵とグルカナイフ使いからなる特殊部隊を誘導するために、
照明弾の設置を手伝った。

部隊を運ぶために合計 57 機のグライダーが送り込まれたが、
到着したのは 37 機のみで、戦闘部隊は 350 名ほどしか残らなかった。


この作戦の犠牲は甚大だったが、最終的に任務は成功みなされた。




クーガンは1944年5月に米国に戻り、12月に除隊しました。





■ クーガンが鹵獲した日章旗



スミソニアン所蔵のクーガンのフライトジャケットです。
それはどうでもよくて()ジャケットの下部分をご覧ください。



ビルマ戦線でジャッキー・クーガンは日章旗を拾って帰ったようです。
自分の現役時代に着ていたジャケットとともに博物館に寄贈したそれは、
ジャケットの下にくしゃくしゃに(しかも裏向けに)敷かれていて、
仮にも他国の国旗に対し失礼としか思えない展示をされていました。

この時も逆さまに持ってるし

添えられた説明によると、この日章旗の寄せ書きは、クーガンが
日本人将校(大佐)の遺体から盗んだ?ものだとのことです。

日本軍の上陸部隊は、インダウ近郊の北ビルマ鉄道を挟んだ
英国陣地を急襲し、結果として失敗に終わりました。
現地には日本軍の兵士たちの遺体があり、クーガンはおそらく
その中の高位と目される軍人の持ち物を「漁った」のでしょう。

これは当時戦地にいた多くのアメリカ軍人がやっていたことでした。

旗には”May you have new military fortune forever!”とあったそうで、
これはつまり「武運長久を祈る!」だったのではないかと思われます。

そして、興味深いのは、この寄せ書きをしたのは、

富山高等学校の級友一同
大阪帝国大学卒業生一同

と書かれていたということ。

帝大卒の予備士官がこの時期果たして大佐にまで出世できるものなのか、
この陸軍大佐の経歴を知りたいと思いましたが、それもなりませんでした。

せめて旗を広げて展示してくれていたら何か手がかりも得られたでしょうに。


続く。


「コンバット・アメリカ」クラーク・ゲーブル陸軍少佐〜国立空軍博物館

2024-11-22 | 飛行家列伝

以前、オハイオの国立空軍博物館の展示から、
ジェームズ・ステュアート准将についてお話ししましたが、
今日はその時に少し触れた、クラーク・ゲーブル少佐を取り上げます。

■ キング・オブ・ハリウッド

アメリカが第二次世界大戦に参戦した当時、
1901年生まれの俳優クラーク・ゲーブルは40歳。
徴兵年齢を大きく超えていましたが、彼は志願して、
1942年8月12日にロサンゼルスでAAFの二等兵として入隊しました。

俳優としてのゲーブルについて、今更説明するのもなんですが、
彼が大スターになるきっかけとなった「在る夜の出来事」で
アカデミー主演男優賞を獲得したのは1934年、そして、
「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じたのは1939年のことです。

「戦艦バウンティ号の叛乱」も入れると、アカデミー賞作品に3度出演し、
この頃のゲーブルは押しも押されもせぬ大スターの名を獲得しており、
人々は彼を「キング・オブ・ハリウッド」と呼びました。

その彼が、なぜ入隊したのか。
それは、彼の妻の死がきっかけであったといわれます。

その生涯で5回結婚し、その他にも多くの女性と恋愛関係にあった彼ですが、
最初の3回の結婚は、言うたら彼が成り上がるための
「ラベンダー・マリッジ」(便宜結婚)という色合いが強いものでした。

ちなみに最初の妻は先輩女優で、2番目の妻の紹介者。
2番目の妻は17歳歳上のパトロネス兼マネージャー兼演技コーチ。
3番目のはテキサスの社交界の名士で大金持ちというラインナップです。

4番目の妻、キャロル・ロンバードと結婚した時には、
ゲーブルはすでにスターとして成功していました。

ある意味、ロンバードはゲーブルにとって、初めての
利益関係なしの純粋な恋愛相手だったのかもしれません。


『風と共に去りぬ』の出演料を前妻との和解離婚のために費やし、
既婚者同士のダブル不倫から結ばれた二人でしたが、
その結婚は彼の私生活で「最も幸せな時期」だったと言われます。

しかしそんな二人が新婚生活を送っているとき、真珠湾攻撃が起こりました。

■ 愛妻の死

ジェームズ・ステュアートなど、一部の俳優たちは現役に志願し、
彼の愛妻キャロル・ロンバードも、「戦争努力の一環として」
ゲーブルに入隊を提案したのですが、彼自身はそれには消極的で、
自身は国策映画に出演したり債権の宣伝をするつもりでした。

自分が軍隊に向いていない、と考えたようです。

一方、ロンバードは年明け早々国債販売のための宣伝活動に参加しました。


債権ツァーでのキャロル・ロンバード

1942年1月16日、彼女は母親とクラーク・ゲーブルの広報担当者、
オットー・ウィンクラーとともに故郷のインディアナ州に赴き、
戦時国債の集会に参加し、一晩で200万ドル以上を集めました。

イベントが終わり、1日も早くロスアンゼルスに戻りたかったロンバードは、
飛行機に乗るのが怖いという母親とウィンクラーの説得を押し切り、
当初の列車の予定を変更して、トランスコンチネンタル&ウエスタン航空の
ダグラスDST 機を手配し、乗り込みました。

その後、彼女らの乗った飛行機は、ラスベガス空港付近の山に墜落し、
彼女らと米陸軍兵士15人を含む乗客22人全員が死亡したのです。

The HORRIFYING Last Minutes of Carole Lombard

CAROL LOMBARD CRASH 1942

直接的な事故の原因は乗務員の操縦ミスでしたが、
間接的には戦争がその事故の遠因になったと言えるかもしれません。

なぜなら、真珠湾攻撃の直後だったこともあり、アメリカ当局は
特に太平洋沿岸から日本軍爆撃機が領空侵入してくる可能性を警戒して、
夜間飛行誘導用の安全ビーコンを切るよう通達していたからです。

そのため、TWA便のパイロットは、通常なら受信できたはずの
飛行経路での警告を受け取ることができず、それが事故につながりました。

このことから、キャロル・ロンバードは、第二次世界大戦の
最初の「アメリカ人戦争犠牲者」と宣告されています。

ゲーブルは、妻の死の後、スタジオや関係者の反対を押し切って、
以前は二の足踏んでいたアメリカ陸軍航空隊入隊を決行しました。


■ 陸軍航空隊への入隊


ゲーブルは、フロリダ州マイアミビーチの士官候補生学校に入学し、
その年の1942年10月28日に少尉任官して卒業します。

写真は彼の志願を受け付ける、

「Oath and Certificate Enlistment」
(宣誓と入隊証明書)


で、" I Declare to~"で始まる宣言文が手書きされています。
(すまんが彼の字はマジ読めない)

ところで、妻の死からたった9ヶ月で士官に?と驚かされますが、
実際、ゲーブルが入隊したのは8月12日、友人の撮影監督、
アンドリュー・マッキンタイアと共に入学したのは17日。
9ヶ月どころか、たった2ヶ月の訓練で士官任官してしたことになります。

しかし、これは映画俳優の彼が特別扱いされたからではなく、
入隊したのが陸軍航空隊USAAFのOCSクラス42-Eという、つまり、
パイロットとかではなく、爆撃「搭乗員」養成コースだったからです。

B -17の胴部銃手の資格を得たゲーブル

しかし、その後、アメリカ陸軍は彼を特別扱いしました。
当然と言えば当然です。

まず、約2,600名の卒業生のうち、成績が700番前後だったにもかかわらず、
彼が卒業生を代表してスピーチを任されました。
もっともこれは、学校側ではなく、同級生の総意だったそうですが。

そして、卒業生に任官状を手渡した、当時の航空隊司令、
ハップ・アーノルド将軍その人から、
「彼(とついでにマッキンタイア)にしかできない特別任務」
が下されました。

それは、第8空軍(戦略空軍)の航空銃手募集のために宣伝映画を作ること。
当時の新聞はこのことを次のように報じています。

”陸軍省外の情報筋によると、昨日、ミスター・ゲーブルが、
空軍司令官のH・H・アーノルド中将と協議したと分かった。
ゲーブルは、任命されれば、空軍のための映画を製作するとされている。
軍服を着たもう一人の俳優、ジミー・ステュアート中尉は、
すでに同じ任務に当たっている。”


ジェームズ・ステュアートとクラーク・ゲーブル
(ちなみに、女性関係の派手さに関して言えば、二人は対極にあった)

任官前のゲーブルが「ミスター」なのに対し、ひと足さきに陸軍入りした
ステュアートが「中尉」と呼ばれていることにご注意ください。

ゲーブルは爆撃機訓練学校に入隊して航空砲手になるつもりでしたが、
陸軍上層部が彼をそんな地味な?配置に置いておく筈もなく、
彼はマッキンタイアと共にフロリダの砲術学校で基礎知識を学んだ後、
ワシントンのフォート・ジョージライトで写真コースを受講させられます。

順調に陸軍の思惑どおりコース終了した彼は、終了後中尉に昇進しました。


ゲーブルが中尉に昇進した時の宣誓書です。

就任宣誓

私、クラーク・ゲーブル(自筆)は、
アメリカ合衆国憲法を守るために一時的に任命されましたので、
アメリカ合衆国憲法を支持し、忠誠を尽くすことを厳粛に誓います:
神よ、我を助けたまえ。

クラーク・ゲーブル陸軍中尉

フロリダ、マイアミビーチにて1942年10月28日、
私の前で宣誓し、署名した

アール・ジョーダン中尉
航空隊簡易裁判所

■ 1943年、イギリス

1943年、ゲーブルは第351爆撃隊所属中、大尉に承認されました。
これは6人からなる映画部隊指揮官という地位に相応しい階級です。

マッキンタイアに加え、脚本家のジョン・リー・メイヒン、
カメラマンのマリオ・トティ軍曹とロバート・ボールズ軍曹、
録音担当のハワード・ヴォス中尉という構成の部隊で、ゲーブルは
命じられたリクルート映画の制作のためにイギリスに駐留していました。

元MGM社撮影監督のマッキンタイア中尉は、ゲーブルの入隊に伴い、
訓練と任務に同行させられた、いわば「道連れ入隊」でしたが、
陸軍の意向によって本業の撮影に専念することになり、
この撮影のほとんどを担当し、また、メイヒンが脚本を担当しました。

主演とナレーションはもちろんゲーブルです。

第351爆撃隊に所属している間、ゲーブル大尉は
観測員&銃手として公式には5回の戦闘任務に就いたとされます。

【第1回目の任務】

最初の戦闘任務は 1943 年 5 月 4 日。
第 351 爆撃隊が作戦行動を開始する前の慣熟任務でした。

このとき彼の爆撃隊はRAFの部隊と共にアントワープにある
フォードとゼネラルモーターズの工場を「模擬攻撃」しています。

ゲーブルは無線室に設置された機関銃から数発発砲した際、
極寒の中で革手袋をはめていたため、軽い凍傷を負うことになりました。
(もしかしたら見た目重視のオシャレ手袋だったのか?)

【第2回目の任務】

1943年7月10日、第351爆撃飛行隊第508爆撃飛行隊のB-17、
「アルゴノートIII 」でフランスのヴィラクブレーの飛行場を爆撃する任務、
つまり初めての実戦を体験したということになります。

この任務は雲のせいで目標に爆弾を投下せずに帰還せざるを得ず、
しかもドイツ軍の戦闘機に攻撃されるという苦い結果になりました。

【第3回目の任務】


第4回目の任務を終えてB-17の横でリラックスするゲーブル大尉
彼の左のロバート・W・バーンズ中佐は1970年、陸軍少将として引退した

1943年7月24日、第351 飛行隊の先鋒機を務める「アルゴノート III」
(ロバート W. バーンズ中佐指揮)で、ノルウェーの
ノルスク・ハイドロ化学工場を爆撃する任務に就きました。

【第4回目の任務】

1943年8月12日、ルール地方のゲルゼンキルヒェン合成油工場を爆撃。
悪天候の中、作戦に参加した330機のB-17のうち25機が撃墜されるなど、
この日は第8飛行隊にとってこれまでで最も危険な任務となりました。

第351飛行隊のフォートレスは撃墜こそされなかったものの、
11機が損傷、1機が帰還中不時着し、乗組員1名死亡、7名が負傷しました。

ゲーブルは、ドイツ軍戦闘機が編隊に5回接近してくるたび、
トップターレット(上部砲塔)銃手の後ろに身を隠していましたが、
20mm 砲弾が編隊を組んでいた別のB -17の飛行甲板から飛んできて、
それはゲーブルのブーツのかかとを切り落としながら飛び込み、
頭から 1 フィート離れたところに突き抜けていきました。
(つまりフレンドリーファイア)

後からゲーブルが記者に語ったところによると、ゲーブルも乗組員も、
その時は無我夢中だったのが、高度 11,000 フィートまで降下し、
酸素を止めて周囲を見渡したとき、初めて砲塔の穴と裂けた靴の踵、
機体に全部で15個の穴が空いているのに気づいたということです。

【第5回目の任務】

ゲーブルの最後の戦闘任務は、1943年9月23日、
フランスのナントの港湾地域への早朝攻撃でした。

彼はバーンズ中佐らとともに、B-17「ダッチェス」に乗り組みました。
この時のミッションでは悪天候で半数が集合できず、
しかも残り半分は迎撃戦闘機によって大きな被害を受けましたが、
幸いにも爆撃機の損失はありませんでした。

この時ゲーブルは、撮影クルーを爆撃機のいつもの腰部に残して、
自分は機首の銃手の配置に就いています。
(記述はありませんが、機首銃手が手が離せなかったか、
あるいは負傷したのかもしれません)



公式の任務以外に、広報担当として、メディアのインタビューも受けました。
女優ビービー・ダニエルズのインタビューを受けるゲーブル。

相手の目をじっと見つめ、右手をさりげなく女性の椅子の背に置いています。
まるでいつでもその手を彼女の肩に乗せられるかのように・・。
意識的か無意識かはわかりませんが、これは実に女心をくすぐるテクですね。

でも、これはゲーブルだから許されるのであって、
その辺のおっさんがやったらそれはただのセクハラ行為だ。

■「コンバット・アメリカ」

5回の戦闘任務を完遂したクラーク・ゲーブル大尉は、
航空勲章を受章し、後に殊勲飛行十字章を受章しました。

その最後の3回の任務は、特に危険な編隊指揮機に搭乗しており、
実際にも僚機が何機も撃墜されて指揮官クラスを失っていたことから、
彼はその任務を果たしたことに対し、忖度なしの賞賛を受けました。

しかも、公式任務数5回となっていますが、共に勤務した兵士たちは、
ゲーブルは実際には非公式に他の任務にも参加しており、
この5回は全体のほんの一部に過ぎないと証言しています。


ゲーブル大尉は、1943年11月5日に第351飛行隊を離れ、
5万フィートを超える16mmカラーフィルムを持って米国に帰国します。
最終階級は陸軍少佐でした。

そして1944年、ゲーブルがナレーションを担当した映画
「コンバット・アメリカ」が劇場で上映されたのでした。

"Combat America" with Clark Gable

B-17の離陸シーンは43:00くらいから、
ミッション中のB-17内を撮影した映像は46分すぎから始まります。
54分ごろ爆撃機の爆弾槽が開き、爆撃が開始されます。
そのあとはほとんど最後まで迎撃戦闘機との戦いが続き、
僚機が火を噴くシーンも収められています。

乗組員たちの冷静で淡々とした会話は驚くべきで、最後に誰かが
「Goodnight Sweetheart」を歌い出すと、乗組員が唱和したりしています。

1931 HITS ARCHIVE: Goodnight Sweetheart - Ray Noble (Al Bowlly, vocal)

現役任務をとかれ、帰国した後もゲーブルはAAF予備役将校でしたが、
戦後、俳優として映画制作のスケジュールが殺到すると、
軍任務を果たすことが実質不可能になり、1947年9月26日に退役しました。

1960年11月16日に心臓発作により逝去。



ハリウッドの数多のスターの中で、「最も男らしい男」
「王のように歩き、王のように振る舞い、王のように生きた」
と評されたクラーク・ゲーブルは、
「男であること」について、次のように語っています。

「男が持つべきものは、“人生の賭け”に対する希望と自信だ。

戦いに対するプリンシプルを持ち、
物事に対し不誠実になる前に、長々と言い訳を並べる前に、
死に対する覚悟を決める。

それだけのことなのだ


続く。


ジェームズ・ステュワート准将のA-1ジャケット〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-30 | 飛行家列伝

国立アメリカ空軍にはこれまでもご紹介しているように
第二次世界大戦時の爆撃機パイロットから寄贈された
A-2タイプのフライトジャケットが展示されています。

その中には、誰でも知っている軍人のものとともに、
軍歴のある映画スターのジャケットもありました。

そのスターとは、知らぬもののない俳優、
「アメリカの良心」と呼ばれた男、ジェームズ・ステュワート。

■ ジェームズ・ステュワート准将



映画に詳しくなくともこの俳優の名前を知らない人は
あまりいないかと思われます。

「スミス都へ行く」「フィラデルフィア物語」「めまい」
クリスマスになると放映されるという「素晴らしき哉、人生!」
そしてわたしが好きな「裏窓」「グレン・ミラー物語」。

これらの作品に見られる佇まいや雰囲気を裏切らない、
ゴシップとは無縁だったという清潔なパーソナルライフ。

そんなステュワートが、実は俳優としては最高位となる
陸軍准将の肩書を持っていることはご存知でしょうか。


冒頭の写真は、ジェームズ・ステュワート准将が、第二次世界大戦当時
イングランドから出撃するB-24ミッチェルに乗り組んだとき
着用していたA-2ジャケットで、本人から寄贈されました。

寄贈者名のところに「USAFR(RET)BEVERLY HILLS, CAL」
と普通に書かれています。

従軍して戦争に参加した映画俳優は特に第二次大戦時たくさんいましたが、
おそらくこの人とクラーク・ゲーブルは、
その人気&知名度と軍へのガチ貢献度で双璧かもしれません。


まるで戦争映画の一シーン。

ミッション前に最後のブリーフィングをするスチュワートとB-24クルー。
博物館の説明を見てみます。

ジェームス・M・ステュワート米空軍准将(退役)

1941年3月22日、ジミー・ステュワートは米軍に徴兵された。
下士官として陸軍航空隊に配属され、
カリフォルニア州モフェット・フィールドに駐留した。
同基地での9ヵ月間の訓練期間中、延長コースも履修している。

真珠湾攻撃が起こったとき、彼は訓練過程を修了し、
結果待ちの状態だったが、その1ヵ月後正式に辞令を受ける。

民間人として400時間以上の飛行時間を記録していたため、
モフェットで基礎飛行訓練を受けることが許可され、
パイロットのウィングマークを取得した。

それから9ヵ月間、彼はAT-6、AT-9、B-17の操縦を教習し、
メキシコのアルバカーキの訓練学校で爆撃機を専門に履修した。

1943年秋、ステュワートは 第703爆撃飛行隊の指揮官として渡英。
同爆撃隊の装備はB-24ミッチェルであった。

現場で戦闘飛行を開始したステュワートは、翌年、
1944年3月31日に第453爆撃飛行隊の作戦将校に任命され、
その後、第8空軍第2航空師団第2戦闘航空団の参謀長に任命された。

ステュワートは20回の戦闘任務で終戦を迎えた。
彼は米空軍予備役に留まり、1959年7月23日に准将に昇進。
1968年5月31日に退役した。

こうしてみるとガチもガチの軍歴ではないですか。
これはアメリカ陸軍が、彼の人気を最大に宣伝に活用するため、
ちょっと、というかかなりの近道をさせた結果か?と思ったのですが

そうでもなかったことがわかりました。



ドーリトルの名前が記されたAAFの爆撃ミッションに対する勲章授与命令。

ジェイムズ・M・ステュワート
0-433210 陸軍航空部隊 少佐 米国陸軍

1944年2月20日、ドイツ上空での爆撃ミッションにおいて
戦闘航空団編隊の副長として収めた並外れた功績に対して

有視界爆撃が可能な場合は副機長が指揮を執るという条件で
計器爆撃のブリーフィングを受け、編隊は
敵戦闘機の激しい反撃を受けながら目標に向かった

目標地点に到達したとき、目視爆撃が可能であることが明らかになり、
ステュワート少佐は編隊の指揮を執った

苛烈なる戦闘機の攻撃と、その後の激しく正確な対空砲火にもかかわらず、
ステュワート少佐は果敢に先頭の位置を維持した

ステュワート少佐は、激しい戦闘機の攻撃と、
その後の正確な対空砲火にもかかわらず、編隊をまとめ、
爆撃目標上空での爆弾投下を指示することに成功した

ステュワート少佐が発揮した胆力、統率力、巧みなエアマンシップが、
この任務の成功に大きく貢献したものである

(カリフォルニアにて入隊)


フランス空軍のクロワ・ド・ゲール叙勲命令書。

通達第343号
フランス共和国臨時政府大統領、陸軍総司令官、引用:

軍令部

「フランス解放のための作戦において発揮された例外的な戦功に対し」

ジェームズ・M・ステュワート大佐
0433810
第2爆撃師団

フランス空軍のヴァラン少将から
クロワ・ド・ゲール・パルム勲章を受けるステュワート大佐

フランス開放のための特別任務に参加したことで授与されました。


ステュワート大佐の戦闘地域での傑出した功績を称える手紙。

第2戦闘爆撃航空団(N)、0-488210
ジェームズ・M・ステュワート大佐

1. 貴官は1944年7月〜12月ならびに1945年2月〜5月、
第8空軍の第2戦闘爆撃航空団(H)に参謀長として配属された

また、1943年8月から1944年3月まで第703爆撃飛行隊の飛行隊長、
1944年3月から1944年7月まで第453爆撃群(H)の群作戦将校、
1944年12月から1945年5月までこの軍の作戦将校、
1944年12月から1945年2月までは当飛行団の作戦将校として
貴官の職務遂行は傑出していた

貴官は、この司令部の多くの構成部分の管理組織と効率性、
およびそれらの調整に参謀長として最大の責任を負っていた

SAFのORSが発表し再評価した数字と、
24航空師団が別途作成した数字によると、この飛行隊の爆撃能力は、
1944年8月から1945年2月までの間、明らかに向上した

1944年8月から1945年5月までの期間、この地域で24爆撃飛行隊は
24航空師団の全飛行隊の中で第1位となるまで改善された

これは貴官がこの司令部に所属したことが直接反映されていると評価する

貴官は、任務への積極的な参加によって証明されるように、
最も強烈な忠誠心と愛国主義を示した

貴官の主体性、的確な判断力、人格、職務への真摯な献身は、
司令部の円滑な運営と、隊員の戦意と効率性に計り知れない貢献をした

この場を借りて、貴官の卓越した職務遂行を称える
貴官と共に仕え貴官とともに奉仕し、貴官と関わることができたことは、
この上ない喜びである

航空隊指令 ミルトン・W・アーノルド大佐


B-24の搭乗員と話しているステュワート中佐。
ただポケットに手を入れて立っているだけなのにオーラが半端ない。

ちなみに、ステュワートはプリンストン大学建築科卒業。
学業も優れていて、大学院にも合格していたのですが、

そちらには行かずにいきなり映画界に身を投じ、端役からのし上がって、
戦前にはすでにアカデミー俳優として名声を得ていました。

第二次世界大戦直前、俳優として初めてとなる陸軍志願入隊者となります。

彼の両祖父は南北戦争に参加、父は米西戦争に参加しており、
男は必ず戦争が起こると入隊することが家訓のようになっていたからでした。

1941年に航空二等兵として入隊したときにはジェームズ33歳。
年齢制限をオーバーしていたため、大学卒業者であり、
民間認可のパイロット資格をすでにもっていたこともあって、
予備士官待遇で航空隊任務に応募しました。

ウィングマーク取得後は少尉任官し、俳優としても
航空兵募集目的の宣伝映画に出演し大いに貢献しています。(後述)

彼は当初、自分が有名俳優であることから、軍にへたな忖度をされて
真っ当な戦闘任務に就けなくなることを懸念していたそうです。

そこで戦闘任務への参加を自ら上官に訴えて、ヨーロッパに派遣され、

実際にミッションにも参加してそこで指揮を執りました。
このことで彼は二等兵からわずか4年で大佐にまで昇進します。


アメリカ人にここまでスピード昇進の軍人は滅多にいませんから、
そういう意味では陸軍の忖度は大いにあったと考えるべきでしょう。

戦後も彼は陸軍空軍の予備役にとどまり、1945年10月に
12名の委員の一人として空軍協会の設立にまで携わりました。

搭乗員としては現役時代戦略空軍でB-47とB-52で移行訓練を完了し、
予備役時代年次飛行も欠かさず遂行しています。

1957年ステュワート大佐は准将への昇進候補に指名されました。

これに反対したのは初めての女性大統領候補とまでいわれた上院議員、
マーガレット・チェイス・スミスでした。
彼女がなぜステュワートの昇進に反対したかはわかりません。

その2年前に彼女が空軍予備役中佐に任命されていること、
女性議員という立場でおそらく人類史上初めてF-100に同乗し、

「音速の壁を破った最初の女性議員」という異名をとったことが、
何かしら関係あるかもしれませんし、ないかもしれません。

ただ、彼女は、軍における女性の永続的な地位を確保するというテーマを
ライフワークとしており、女性軍統合法を成立させたりしているので、
そういうジェンダー的な公平性からこれを反対した可能性もあります。
知らんけど。

これに対しメディアを中心とした世論が

「彼は毎年予備役で積極的に訓練を受けている。
B-52の最初のパイロットとして18時間を過ごした」

として彼の昇進を後押ししたこともあって、1959年7月23日、

ステュワートは准将に昇進し、アメリカ軍史上最高位の俳優となりました。

ベトナム戦争中はB-52で非番の監視として爆撃任務に参加しています。
(このとき58歳)

そして1968 年、60 歳の定年で退役しました。

最後に、戦時中に彼が出演した短編宣伝映画、

「ウィニング・ユア・ウィングス」Winning your wings

を上げておきます。

航空機からA-1ジャケット(たぶん冒頭画像と同じもの)を着て
颯爽と降りてきてフランクに語り出すジミー。
給料や年齢、学籍との兼ね合い、入隊してからの訓練や生活など、
参加希望者の質問に答える形で入隊を誘っています。

さりげなく「ウィングマークをつけていると女の子にモテるぜ」という、
アメリカ男の本音というか下心をくすぐるシーンもあり。

後半はB-17爆撃機の紹介となります。
映画が制作された当時は乗組員が9人であったことがわかります。

Winning Your Wings, 1942

最後に、ステュワートは息子をベトナム戦争で失っています。

「テキサス魂」撮影中で落ち込んでいた彼を励ましたのは、
共演者だった彼の親友、ヘンリー・フォンダでした。

「テキサス魂」原題:「シャイアンソーシャルクラブ」の二人

そもそも、ステュワートが映画界デビューしたのも
ハリウッドにくるようにというフォンダの誘いがきっかけです。


親友同士のツーショット;若い頃


軍服とカウボーイ姿で


貫禄の大俳優となってからも仲良し


続く。


「日系二世ヒーロー 」ベン・クロキの選択

2024-03-21 | 飛行家列伝

今回アメリカ陸軍航空隊が枢軸国の資源供給を断つべく、
ルーマニアのプロイェシュチ貯油所に対して行った爆撃、
タイダルウェーブ作戦についてお話ししてきましたが、資料を見るうち、

本作戦に日系アメリカ人の搭乗員が参加していたことを知りました。

国立アメリカ空軍博物館の展示には、このベン・クロキという
日系二世の存在については触れられていなかったので、
今日は少し寄り道ということで、日系アメリカ人として生まれ、

アメリカを祖国として戦ったこの人物についてお話ししたいと思います。

■ 陸軍入隊まで


ベン・クロキ(1917年5月16日 - 2015年9月1日)は、
第二次世界大戦の太平洋戦域での戦闘作戦に従軍した
アメリカ陸軍航空隊唯一の日系アメリカ人でした。



ベンは日本人移民の黒木庄助とナカ(旧姓横山)の間に生まれました。

黒木一家はネブラスカ州ハーシーで農場を経営しており、
地元のハーシー高校で成績優秀な彼は副委員長を務めています。

多分左から2番目がベン

1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した後、
ベンの父親は彼と弟のフレッドに米軍に入隊するよう勧めました。

日本との開戦後、日系人への反発と差別が起こるのを見据えた彼は、
たとえ自分の祖国に矛を向けることになっても、
息子たちは自分が骨を埋める国に忠誠を示すべきと考えたのです。

さっそく陸軍の募集事務所に赴いた兄弟二人。
日系人ということで門前払いになるかもという懸念もありましたが、
意外なことに、担当者は国籍は問題ないとあっさり採用許可を出しました。

担当者も、今アメリカ人が地球上で一番敵視している人種が軍隊に入ったら、
大変な目に遭うであろうことは想像がついていたはずですが、
なにしろリクルーターにはノルマもあるし、事務所の成績も上げたいわけ。

目の前の二人は日系人ですが、それでも志願者には違いありません。
まあ、はっきり言って入隊を許して彼らがどうなろうと、
彼個人にはどうでもいいことですから、問題ないZE!
(確かに彼らにとっては)として入隊者二人ゲット、という流れでしょう。

このとき担当者が「Kuroki」という名前をポーランド系だと勘違いした、
というまことしやかなエピソードもあるそうですが、
いくらなんでも彼らがポーランド系に見えるはずはありません。

彼には後二人弟がいましたが、そのビルとヘンリーも
従軍を許可されていることからも、その話は後日出たネタだと思います。

 爆撃隊に配属

彼はフロリダ州フォートマイヤーズの第93爆撃群に配属されますが、

そこで日系アメリカ人の海外勤務は許可されないと告げられます。

しかし彼は指揮官に嘆願し、とりあえず事務官として
イギリスの基地に転勤することを許されました。

そこで彼は当時需要のあった航空砲手に志願します。

航空隊の爆撃任務は消耗率も多かったので、彼の志願は聞き入れられ、
すぐさま砲術学校に送られてわずか2週間の研修を終えて、
B-24リベレーターの胴部砲塔砲手になりました。



ある日の任務で彼のB-24はスペイン領モロッコに不時着し、
スペイン当局に捕らえられて3ヶ月後に解放され、
再びイギリスに戻って所属していた飛行隊に復帰しています。


もしかして人気者?



1943年8月1日、

彼はルーマニアのプロイエシュチにある石油精製所破壊作戦、
「オペレーション・タイダルウェーブ」に参加。

健康診断の結果、クロキは入隊規定より5回多く飛ぶことが許されますが、
彼本人は、それを、国内にいる弟のフレッドのためだったと言っています。

30回目の任務で、彼は対空砲火による軽傷を一度負っただけでした。

■ 帰国後与えられた勧誘任務


米国での休養と回復の間、クロキは陸軍から、
健常な日系アメリカ人男性に米軍への入隊を奨励するため、
多くの日系人収容所を訪問するよう指示されました。

そこで彼は二世の志願者を募るリクルーターと共に、

日系人強制収容所、トパーズ、ハートマウンテン、ミニドカを訪問し、
講演活動をして入隊を啓蒙してまわりました。

強制収容所ができる前に入隊していたクロキは強制収容所の実態を知らず、
日系であるというだけで、同じアメリカ市民が、
武装警備と鉄条網に囲まれた収容生活をしているのを目の当たりにし、
一生忘れられない衝撃を受けることになります。

その活動は『タイム』誌を含むニュース記事によって取り上げられました。

■ 「二つの祖国」

帰国後の彼は、もう戦線に赴く義務も果たしていたので、
ベテランとして軍服を脱いで退役生活を設計し直しても良かったはずですが、
彼は自分の信念のため、それを選びませんでした。

クロキが選択したのは、父母の祖国、日本を敵として戦うため、
太平洋戦線に爆撃手として参加するという道だったのです。



このレターは、一旦却下されたクロキの転属願いを
陸軍長官ヘンリー・スチムソンの名の下に許可するものです。

クロキ軍曹については、その素晴らしい戦績を鑑み、
私が先に言及した方針の規定から除外することを決定し、

これを謹んでお知らせすることといたします。

という文章が読めます。


その後、クロキはテニアン島を拠点とする
第20アメリカ陸軍航空隊第505爆撃群第484飛行隊の
B-29スーパーフォートレス「サッド・サキ」の搭乗員となります。



「Sad Saki」(悲しいサキちゃん)とは、もちろん、
日系人であるクロキと攻撃先の日本に因んだ名前でした。

また、乗組員たちは彼のことを

「Most Honorable Son」

と呼びました。
彼はサッド・サキの尾部砲手として、
日本本土上空など28回の爆撃任務に参加します。


B-29から見た東京空襲

当然ですが、彼は太平洋作戦地域、それも日本本土攻撃において
空戦任務に参加した唯一の日系アメリカ人となりました。

終戦までに、彼は58回の戦闘任務を完了し、技術曹長に昇進しています。



ニューヨーク・タイムズ紙は、真珠湾攻撃から50周年にあたる

1991年12月7日の社説で、

「ジョージ・マーシャル元帥はクロキに会いたいと言った。
ブラッドリー、スパーツ、ウェインライト、
ジミー・ドーリトル各大将も彼に
会いたいと言った」

と書いています。



■ 従軍後の戦いとキャリア

彼は見た目こそ日本人でしたが、心は純粋にアメリカ国民でした。

有色人種ゆえに耐えなければならなかった偏見や差別、
不平等ゆえにより熱烈な愛国者になったのか、
愛国者ゆえにそのハンディに立ち向かえたのか、それはわかりません。

偏見を跳ね除けるために敢えて父母の国と直接戦うことを選び、
祖国への忠誠心を戦争という手段で証明しようとしたことが、
あるいはアメリカ人からも評価されない可能性もあったのです。

驚くべき強い意志でアメリカ人であることを証明した彼でしたが、
戦後も人種的平等の必要性と人種的偏見に対する反対を訴え続けるため、
これらの問題を論じる一連の講演ツアーを行いました。


その資金は彼自身の私財、ラルフ・G・マーティンが彼について書いた伝記
『ネブラスカから来た少年』
 The Story of Ben Kuroki』
からの収益金から捻出されました。

この講演で彼は、

「私は自分の国のために戦地に赴く権利を求めて

地獄のように戦わなければならなかった」

と述べたそうです。


戦後、彼はネブラスカ大学に進学し、

1950年に33歳でジャーナリズムの学士号を取得しました。

そして新聞社で記者や編集者を務め、1984年に退職しました。
2005年8月13日にはネブラスカ大学から名誉博士号を授与されています。

2015年9月1日、カリフォルニア州カマリロのホスピスケアにて死去。
98歳でした。



AVC Tribute Videos: Ben Kuroki

YouTubeの自動翻訳ができないので、ざっと日本語訳しておきました。
途中、省略している箇所がありますので念のため。


1941年12月、西ネブラスカのベントン。
「アメリカンドリーム」を求めて日本からの移住し、
農業に従事していた両親のもとにベンと兄フレッドは生まれた。

彼の両親は日の出から陽が沈むまで、1日の休みもなく
重労働をしながら彼らを育てた。

1941年12月7日の真珠湾攻撃が起こったとき、父親は息子たちに、
軍隊に志願して国への忠誠を証明するべきだと言った。

彼とフレッドは150マイル離れた航空隊の募集事務所に赴き、
おそらく日系アメリカ人として最初の志願兵となった。

彼とフレッドはテキサスのシェパードフィールドに送られ、
2週間の試用訓練を受けたが、実情は悲惨で、フレッドは
すぐさま航空隊から追い出されて塹壕掘り部隊へ移動させられ、
ベンは連日連夜KP(残飯処理などの厨房の下働き)をしていた。

彼はそんな仕事も文句一つ言わずに耐えた。

一歩間違えれば、あるいは一度でも疑わしいことがあれば、
忠誠を証明するチャンスが危うくなることを恐れて、
彼は卵の殻の上を歩いていた。

彼は祖国のために戦う権利を逃すまいと一人必死に戦っていた。

彼に初めての任務が与えられたのは1942年12月13日。
B-24の銃手の配置であった。
彼はのちに、最初に遭遇した高射砲は恐ろしかったが、

しかし、不思議なことに彼は、そこで
入隊以来初めて平和な気持ちを感じた、と言っている。

「誰もわたしの国籍を問わず、皆が家族として一緒に戦っていた」

B24搭乗員の平均寿命は10回だったヨーロッパで、
彼の24回目となるミッションは、
「ヒトラーのガスステーション」と呼ばれた、
ルーマニアのプロイェシュチ製油所への爆撃だった。

低空飛行によるプロイェシュチは、アメリカの軍史上でも、
最も多い5人の戦功賞受賞者を出している。

陸軍は、ベンに25回任務を達成したら帰国していいと言ったが、
ベンは彼の愛国心を証明するためにも留まることを望み、
さらに5回を加えた総計30回のミッションに志願した。

陸軍は彼に帰国命令を下し、その後、
日系人強制収容所で演説をさせている。

彼に命じられたのは、収容所の若者に、当時組織されたばかりだった
日系人部隊442部隊への入隊を説得することだった。

(そのことについて)彼は甚だ居心地悪く戸惑っているようだった。

自責の念に駆られる、といい、なぜなら、
このとき彼がおそらくそのうちの誰かに影響を与えたがゆえに、
彼らはリストに乗り、その後究極の犠牲を払うことになったからだった。


その後収容所から出た日系二世兵士たちは、アメリカ軍の中でも
最も過酷だと言われたヨーロッパの地域で陸戦に参加することになる。

ベンはコロラド州デンバーでタクシーを拾おうとしたことがある。

陸軍のフルドレスユニフォームを着ていたにも関わらず、
後ろのシートに乗っていた(乗合タクシー?)民間人がドアを閉め、

「最低のジャップと一緒なんてごめんだ!」

と彼に言った。

ベンは自らと彼の国の権利ために戦うべきだった。
そして30回のミッションを終えた今、彼はもう十分に

自分の愛国心をアメリカ合衆国に証明したと思っていたのだが、

(現実はそのようなものだった)。

彼は日本と戦うための任務に就きたいと志願した。

陸軍の規則で、日系アメリカ人は航空攻撃のために
日本上空に飛ぶことを禁じていた。

一旦断られた彼は、ヘンリー・スティムソンに直訴までして、
ついにはテニアンに飛ぶB-29「オナラブル・サッドサキII」の搭乗員として
彼の祖父母と叔父叔母、姪と従兄弟が住む国の上空を28回、

爆撃するミッションのために飛んだ。

彼のもっとも印象的だったミッションは、
200機のB-29の編隊で東京上空から焼夷弾を落としたときのものだ。

ベンは尾部砲手としてB-29に乗っており、
目的地上空から離れた後、空は1時間は炎で真っ赤だったと言った。

その夜、8万人の日本人が死んだ。

いうまでもないが、彼は女子供も残虐に絶滅させる作戦に疑問を抱いていた。
しかし彼はアメリカ人であり、アメリカは彼の父親の祖国と戦争をしていた。

結局彼は58回の任務をほとんどかすり傷一つ負わずに達成し、

戦後、差別と偏見との戦いという59番目のミッションに着手した。

彼がどこで語ろうと、人々は今や耳を傾ける。


ある年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が主催する
年次フォーラムでスピーチするため、ジョージ・マーシャル、
ジョナサン・ウェインライト、クレア・シェンノート将軍が出席した。

そのときウェインライトとマーシャルの間に誰が座っていたか。
技術軍曹、ベン・クロキだった。



■ 叙勲



【二等軍曹として】

殊勲飛行十字章(×3)

オークリーフ・クラスター付航空勲章(×5)
第二次世界大戦従軍記章

【技術曹長として】

殊勲飛行十字章

オークリーフ・クラスター(×5)付航空勲章
第二次世界大戦従軍記章


続く。



別れの戦費国債ツァー〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-13 | 飛行家列伝

国立アメリカ空軍航空博物館の展示より、
再びB−17メンフィス・ベルについてお話ししていますが、
一応主要クルーについての紹介を終わったところで、
正直わたし自身あまり興味がないのですが、
博物館にあった爆撃群司令官について触れておきます。




■ 爆撃隊司令官、スタンリー・レイ大佐



スタンリー・T・レイ少将
Stanley Wray

陸軍士官学校を2位で卒業したレイ少将は、少尉時代に建設に関わり、
コーネル大学で土木工学の修士をとったり、バスケと野球の指導で
体育将校としても勤務していたり、工兵学校終了後、
マサチューセッツ工科大学で軍事科学・戦術の助教授に任命されるなど、
何かと多才な軍人として、飛行訓練も受け、爆撃群の指揮官になります。

1942年、マクディルの第91爆撃群司令官に任命され、
パイロットと地上要員の組織編成を行った後、
グループの第一部隊を率いてイギリスに渡り、この間に銀星章、
オークリーフ・クラスター付き航空勲章、パープルハート、数々の表彰を受け、
B-17による有名なサン・ナゼール上空での低空飛行のリーダーとして、
英国空軍の殊勲十字章を授与されました。



1958年初めに少将に昇進。
指揮官パイロットおよび技術オブザーバーとして活躍。



■ 任務達成ウォーボンドツァー

25回任務を達成した機体は国内に呼び戻し、
メンバーに国債を売るための全国巡業をさせる、というのが
アメリカ陸軍の一石三鳥作戦でした。

まず、目標をクリアすれば生きて帰れる、という希望をクルーに与えること。
彼らをヒーローとして称賛し、航空志願者を増やすこと。
そして、彼らを客寄せにして戦費を集めること、の三つです。

いかに金持ちの国であっても、
国民からお金が集まってこないと戦争は継続できません。

そんな思惑の元に、25回ルールを設定し、
たまたまそのころリーチがかかっていたベルが対象に指定されました。

博物館の一角にある

メンフィス・ベル 25回任務達成国債ツァー

の展示には、こうあります。

USAAF (アメリカ陸軍航空隊)は、
メンフィス・ベルとその乗組員を戦略爆撃の代表として選び、
戦意高揚と士気高揚のため、全国30ヵ所以上を巡って
戦費購入を促進するための宣伝ツアーを大々的に行いました。

メンフィス・ベルとその乗組員は 新聞で賞賛され、
大勢の観衆から英雄として迎えられて国民的有名人となり、
戦争継続努力に対する国民の決意を高めました。


パターソン空軍基地(現在のライト-パターソン空軍基地)
に着陸したメンフィス・ベル
木材のゴミに乗ってちょっとでも高いところから見ようとする人たちも



ボンドツァーで最初に立ち寄ったワシントンDCでの記念写真。
1943年6月16日。

後列左から:

セシル・スコット軍曹(ボール・ターレット)
ジェームズ・ヴェリニス副機長
ロバート・パターソン陸軍次官
チャック・レイトン航法士官

ロバート・モーガン機長
ヴィンス・エヴァンス爆撃士
USAAF司令官 ヘンリー ’ハップ’ アーノルド将軍
ボブ・ハンソン(通信士)

前列左から:


トニー・ナスタル(胴部砲手)
ビル・ウィンチェル(胴部砲手)
ハロルド・ロッホ(上部砲手)
シュトゥーカ(マスコット犬)
ジョン・クィンラン(尾部砲手)


ちなみに、ナスタルはレギュラーメンバーではなく、

ベルでの任務は一回だけでしたが、25回任務は達成していたので
ボンドツァーに参加することになりました。

ベルのメンバーにはあまり馴染みのない戦友だったかもしれません。 



副機長ヴェリニス大尉の犬、シュトゥーカは11番目のメンバーでした。
写真で彼らが乗っているのはベルではなく、ヴェリニス大尉の別の機です。

ちなみによく見ると、ドイツ機撃墜マークの横にあるのは
トニー(本名はキャシミールなのでCA)ナスタルの名前。

ナスタル軍曹が25回のミッションを遂行したうちの一つ、
「バージニア」に、ヴェリニス大尉も乗っていたことがわかります。

前にも触れましたが、ボンドツァーでのシュトゥーカの人気は絶大でした。
カメラマンは皆犬を撮りたがって、後を追いかけ回していたそうです。


ハッチに「シュトゥーカ」の名前
身動きできない状態で繋がれていてちょっとかわいそう

映画「メンフィス・ベル」では、尾部砲手のところにこっそり行って、
銃を撃たせてくれと副機長(テイト・ドノバン)が頼むのですが、そのとき

「ただし犬はやらんぞ」

と先手を打ち、砲手のハリー・コニックJr.が、

「あんなノミだらけのいりませんよ」

と軽く受け流すシーンがあります。
お風呂に入れていたかどうかはわかりませんが、少なくとも
ペットショップで購入した犬なのでノミはいなかったかと。



この博物館のあるオハイオ州デイトンにも訪れました。

モーガン機長、ヴェリニス副機長、
オーヴィル・ライト
エドワード・ディーズ。


彼らがいるのはここはNCR、ナショナル・キャッシュ・レジスター社
当時は名前の通りお店にあるレジスターを製造する会社でしたが、
現在は、それから進化したATMやバーコードシステムを扱う情報会社です。

それにしても、レジの発明者はともかく、
人類初の飛行機を創造した偉人を目の前にしているというのに、
この二人の人事感、さらに全員のよそよそしさはいったいどういうことなのか。

機長と副機長腰に手を当ててるし。
どちらもよっぽど話がかみあわなかったのかな。

■ ウォーボンドツァーと共に終わったロマンス

さて、明日はバレンタインデー。

ということで、しつこいですが我らがメンフィスベルの女好き機長、
ロバート・モーガンとマーガレットの恋が
実際どのように終わったかについて、検証します。(意味不明)

The Memphis Belle, Cleveland, Ohio, & The Romance That Ended On The War Bond Tour 1943.

このビデオでは、なぜマーガレットとモーガンが結婚せず、
しかも国債ツァーの終了と同時に別れたかを説明しています。

0:00~:38 タイトル
0:38~うp主の自慢
1:30~メンフィス・ベルの名前の由来、元になった映画のこと、
ノーズアート、マーガレット・ポークのこと
3:00~戦費国債ツァーについて
4:00~クリーブランド
5:49~マスコット犬シュトゥーカについて
7:29~モーガン機長、マーガレットとの再会の瞬間


ここの部分では、お別れの理由をこのように説明しています。

「モーガンはマーガレットにウェディングドレスを贈りたがったが、
マーガレットはこんなに慌ただしい時ではなく、
もう少し落ち着いてから挙式をしたいと考えていた」




それに、彼女はモーガンに会うためにクリーブランドに向かったものの、
毎日のように目に飛び込んでくる新聞記事を気にせずにいられなかった」




「そこにはモーガンから写真やサインをもらおうと、
彼の周りにひしめき合う女性たちの写真が掲載されていた」

再会した後も、彼女は、モーガンの異様なモテっぷり、
公認の婚約者を物ともせずお構いなしに群がる女性たちに、
嫌な思いをさせることになります。

「彼女はモーガン大尉とツァーで同行していたため、
彼を探す女性たちからじゃんじゃんかかってくる電話を
ホテルの部屋で取り次ぐ羽目になった」


しかもこの男、やっぱり自分が結婚歴があることを言ってませんでした。

「ロバートが以前に少なくとも2〜3回結婚していたのを知ったのも、
この頃だった」

というか、相手のことを何も知らなかったのね。
知る暇もなかったとはいえ、そんな大事な情報を、本人からでなく、

新聞や雑誌のゴシップ記事で知る婚約者の気持ちやいかに。

彼女も大統領の血筋を引く良家の令嬢という育ちのよさゆえ、
こういう恋愛に戸惑い、疲弊して、すぐに気持ちが醒めたってことですね。



当ブログでは二人の「お別れの理由」は周りに騒がれすぎたのが原因では、

と最初予想しましたが、それはほんの一部分に過ぎなかったようです。

要するにモーガン本人がとんでもないクズ男だったことはもちろん、
よく知りもしないのに周りに騒がれて婚約までしてしまったと。

もっとも、そういう男だと知って近付く女性も一定数いますが、
賢明な彼女は、ある出来事をきっかけに、すっぱり彼に見切りをつけます。

9:10~破局の原因になった出来事

次のツァー先、デンバーにマーガレットは同行しなかったので、
彼が宿泊しているブラウンパレスホテルのスウィートルームに電話すると、
なんと電話に出たのは女でした。
(モーガン、なぜ自分で電話を取らないのか)

怒り狂ったマーガレットはその場で婚約を破棄し、
婚約指輪をボブの父親(なぜ父親)に手紙で送りつけ、
この「戦時に咲いたパイロットとノーズアートガールの恋」は、

あっけなく終わりました。

マーガレットは、すぐさま陸軍関係者に電話をして、

婚約破棄のことを伝えています。

彼らの結婚を宣伝してイベントを盛り上げたかった陸軍関係者は慌て、
彼女になんと思いとどまるように懇願しますが、時すでに遅し。

彼女の気持ちが変わらないと知った関係者は往生際悪く、

別れるならそれでいいが、せめて内密にしてもらえないかと頼みますが、
どこから漏れたのか、8月3日に新聞にすっぱ抜かれてしまい、
彼らのウェディングベルは永遠に鳴らないことが世間に知れ渡りました。




10:30~すぐさま別の女性と結婚するボブ・モーガン
B-29「ドーントレス・ドッティ」とモーガン

あー、またモーガンネタで終わってしまった。


続く。



トーキョータンクと上部砲手の関係〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-10 | 飛行家列伝

オハイオにある国立空軍博物館の展示より、
B-十七爆撃機メンフィス・ベルにまつわることをご紹介するシリーズ、
メンフィス・ベルに関わった人々を紹介してきましたが、
いきなり興味深い単語を見つけたので余談に突入します。

■余談・トーキョータンク

上部砲塔砲手は技術軍曹が兼ねる、と言う話をしたことがありますが、
飛行中の燃料のマネージメントも技術軍曹が責任者となります。



これはB-17の燃料タンクの配置図となります。
翼の片側にエンジンが2基ある訳ですが、それぞれがタンクを持ちます。
(212と213のグレーとブルーのタンク)

そのタンクに充填するには翼端のトーキョータンクからフィーダータンクへ、
そしてエンジンタンクに送られるのですが、まあそういう操作をするのも
技術軍曹の責任という訳です。

この「トーキョータンク」が日本人としては気になってしまうでしょ?
というわけで、余談としてこれを説明します。

Tokyo Tanks、それは、ボーイングB-17スーパーフォートレスと、
コンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機が搭載していた
自己密閉式の燃料タンクの名称です。

なぜ東京なのかですが、要はB-17の航続距離(戦闘錘で約40%増)が
東京まで飛べるほど長い、ということをいいたかったのだと思われます。

実際は第二次世界大戦中、日本を爆撃できる航続距離を持つB-17は
(少なくとも米軍の基地からは)存在しなかったという点では誇張でした。



トーキョータンクは、セルと呼ばれるゴム状の化合物でできた
18個の取り外し可能な容器で構成されており、
飛行機の翼の内側に片側9個ずつ設置されていました。
(図のオレンジ5と黄色4のセル)

タンクは、2つの翼の接合部(荷重を支える部分)の両側に設置されており、
合計容量270USガロン(1,000L)の5つのセルは、翼に並んで置かれ、
エンジンに燃料を供給するメインタンクと燃料ラインでつながっています。

トーキョータンクは、すでに6つの通常翼タンクに搭載された
1,700米ガロン(6,400 L)と、爆弾倉に搭載可能な補助タンクに搭載可能な
820米ガロン(3,100 L)に加え、1,080米ガロン(4,100 L)の燃料を追加し、
合計で3,600米ガロン(14,000 L)の搭載を可能にしました。

タンクは取り外し可能でしたが、主翼パネルを取り外さなければならないので
日頃は取り外したり点検することはありませんでした。

燃料をセルからエンジンタンクに移すには、爆弾倉内の制御弁を開き、
燃料が重力で排出されるようにしますが、これが技術軍曹の仕事です。

タンクの欠点は、セル内の燃料残量を測定する手段がなかったことです。
「だいたいどれくらい残っているか」を把握するのも、
おそらくは技術軍曹のカンに頼っていたかもしれません。


さて、というわけで、皆が専門性のある配置で課せられた任務に邁進する中、
技術軍曹はその全てを把握して全体の調整ができる能力が問われます。

オールラウンドな調整役、トラブルシューターといったところでしょうか。



以前、上部銃手兼フライトエンジニアとして乗り組んだ二人に触れました。

実は上部銃手として一定期間乗り込んだのは3人いて、
前回の二人は「すぐに(怪我で)リタイアした人」と、
帰国後の国債ツァーに参加した人、ということになります。

もう一人の上部銃手は、メンフィス・ベルの最初のメンバーです。

■ 最初の上部銃手、レヴィ・ディロン


例によって少し老け気味の写真しかこの人には残っていません。

レヴィティカス・ディロンLeviticus 'Levi' Dillon は1919年7月15日、
ヴァージニア州フランクリン郡ギルズ・クリークで生まれました。

「レヴィクティカス」という本名は通名「レヴィ」となり、
これからお気づきのようにディロン家はユダヤ系だったことがわかります。

日本語では「レビ記」といったりするヘブライ聖書の言語が
まさにこの「レヴィティカス」なのです。

彼の両親、ギリアムとジュディには、レヴィの他に
アヴィ、アイダ、ジョン、ルビーの兄妹がいました。
高校を卒業後、陸軍航空隊に入隊したディロンは、
一等兵としてマクディルの第91爆撃グループでB-17の訓練を受け、
1942年航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就くことを許可され、
同時に二等軍曹に昇進し、メンフィス・ベルに乗り組みました。

つまり彼はベルの最初の上部砲手として、
最初の5回の戦闘任務のうち4回を飛行したということになります。

一回抜けているのは、彼がサン・ナゼールを爆撃する
3回目のミッションで負傷したからで、
それは公式記録には残りませんでしたが、
彼はこのことでメンフィス・ベルで最初に負傷した乗組員となります。

■ベル初の負傷者

それではその怪我について、ご本人に語っていただきましょう。

「敵機の機関銃の弾丸が私のいた砲塔上部を貫通し、右大腿部に命中した。
熱い火かき棒のような感触で、私の飛行服に火がついた。

ヴェリニス大尉(副機長)がやってきて、火を消してくれた。
それから救急箱を持ってきて、私のスーツを切り開き、
傷口に包帯を巻いて止血してくれた。
深い傷ではないように見えたし、ちょっとした怪我だと思っていた。

基地に着陸したとき、病院に行って手当てをするように言われたけど、
リバティバス(乗員のシャトルバス)に乗り込んでいるのが見えたから、
リバティに乗り遅れたくなくて何も考えずに飛び乗ったんだ。」

上部砲塔はエポキシガラスなので、狙われた場合、
最も簡単に銃弾を通してしまいます。

弾丸が命中して火がついたのがわかっていて、病院に行かないっていうのは
ちょっと感覚が麻痺しすぎていないかと思うのですが・・。

続きです。

「その日の夜、バーでビールを飲んでいたら」

弾が当たったのにビール飲むな。

「誰かが私の足を見て『おい、血が出てるぞ!』と言った。
見ると、案の定、血が足を伝っていた

さすがの彼もケンブリッジにある赤十字の救護所に行きました。
そこで彼は忘れられない体験をします。

救護所で彼の傷の手当てをしてくれたのは、フレッド・アステア
(ハリウッドの映画スター)の姉のアデル・アステアだったのです。

■ アデル・アステア


アデル・アステア

フレッド・アステアについては説明するまでもないでしょう。(ないよね?)
人類史上で最も燕尾服の似合うラッキョウ系ダンサー&俳優&歌手です。

彼女は9歳でダンサー、ボードビル芸人としてデビューし、
3歳下の弟のフレッド・アステアとともに舞台で成功を収めていました。


ブロードウェイ時代、弟とのペア、アデル21歳、フレッド18歳

ブロードウェイや映画で27年活動をした後、彼女は
芸能活動を通して知り合ったイギリスの貴族
チャールズ・アーサー・フランシス・キャベンディッシュ卿と結婚し、
芸能活動から惜しまれながらもあっさりと引退してしまいました。

キャベンディッシュ卿がニューヨークのJ.P.モルガン社に就職した時
再会したのが縁だったそうです。


外交的で美しく、機知に富みエレガントな立ち居振る舞いの彼女は、
イギリス紳士に大人気で、プリンス・オブ・ウェールズや
ウィンストン・チャーチルとも交友を持っていました。

結婚後はチャールズがアルコール依存症となり、
アデルはその介護のため自分も鬱を発症したりしています。

1942年、戦争が始まって、アデルがノブレスオブリージュとして
国に貢献する方法を探していたとき、ロンドンに駐在していた
アメリカ空軍情報部長のキングマン・ダグラス大佐に出会いました。


ダグラス大佐(ちなイエール大学卒)

ダグラス大佐は、はアデルに、ピカデリー・サーカス近くにある
アメリカ赤十字の「レインボー・コーナー」食堂で働くことを提案します。

彼女はそこで兵士のために、1週間に130通もの手紙の代筆をしてやったり、
兵士たちのコンシェルジュのような係を務めたり、時には彼らとダンスを踊り、
ロンドン滞在中は兵士たちの必需品の買い物を手伝ったりしました。

ブリッツ(ロンドン電撃戦)が始まると、彼女は勤務時間を増やし、
週7日レインボー・コーナーで奉仕をしました。

レヴィ・ディロンの傷の手当てを行ったのも、この頃のことだと思われます。

救護所にいたというのはディロンの勘違いで、
医師免許がなくてもできる程度の傷の手当ては
レインボー・コーナーでも行われていたのではないでしょうか。

彼女は多くの兵士たちから感謝されましたが、そのことは
彼女自身に新たな目的と充実感を与えるものとなり、
個人的な困難に対処する助けとなったのは間違いありません。

1944年3月、チャールズは長期にわたるアルコール中毒の結果、
わずか38歳で亡くなり、アデルは3年後、ダグラスと再婚します。

ダグラスは最終的には少佐で退役しますが、
陸軍の情報将校だったことから戦後の新しいCIA創設に尽力しました。


1950年からはCIA次長を務めたほどの「大物」です。


■濡れ衣で降格処分

ベル5回目、ディロンにとって4回目のミッションの後、
彼の名前はクルーリストから消えることになります。

何が起こったのでしょうか。

大勢が自由行動に出ていて、基地に戻る途中のこと、
ゲートでちょっとした騒ぎがありました。

一人の中尉が下士官の腕を掴んで、こいつに上着を破かれたと言いましてね。


彼らが我々のうち何人かを身元確認のため呼び戻した時、
中尉はなんでか僕を指差して、
「こいつがやった」
と言ったので驚きました。

そもそも僕は彼とは知り合いでもなんでもなかったし。
後から犯人は判明したのですが、僕は黙っていました。」

ディロンは降格させられ、第306爆撃グループに移動しました。

その後の彼の軍歴などはわかりません。


■ 最初の上部砲塔砲手 ユージーン・アドキンス


老けてないか?と思ったけど実は少佐の時

ユージーン・アドキンスは基礎訓練の後マクディルに配属され、
学生士官候補生の訓練プログラムに参加して、その後幹部候補生になりました。

そこではベルの機長ボブ・モーガンと何度も一緒に飛行しています。

その後彼はドナルド・W・ガラット中尉の操縦する
「パンドラの箱 Pandra's Box」に配属されてイギリスに渡りますが、
たまたま彼が搭乗しなかった日、パンドラは撃墜されます。

その日B-17にはハロルド・スメルザー少佐が機長として乗っていましたが、
墜落しながら少佐は他の機に手を振っていたそうです。

パンドラの箱の10名の搭乗員は全員が戦死しました。


その後配属が決まらず「浮遊搭乗員」状態だったアドキンスですが、
メンフィス・ベルに乗り組むことが決まります。

しかし、彼の任務は長く続きませんでした。

2月4日のミッションで、銃からカバーを外すために、2分、
たった2分、手袋を外して窓の外に出しただけで、
彼は
凍傷にかかってしまったのです。

apple TVの「マスター・オブ・ザ・エアー」でも、最初の方に
機内で手袋を外してあっというまに凍傷になったというシーンがあります。

ましてや機外。
彼は機外が
零下50度であることを知りませんでした。
知っていたら、離陸前にカバーを外していたことでしょう。
これまでの任務ではそこまで高高度ではなかったのでしょうか。

しかもそれはこれから敵と戦わなくてはならなくなってからのことだったので、
彼は持ち場を動くことができず、凍傷にかかった手で7時間そこに立って
次々とやってくるドイツ軍機相手に弾丸を撃ち続けました。

攻撃の切れ間には、少しでも暖かい(と思われた)無線室に潜り込んで
ジンジンと痛む手を温めようと、両足の間に手を挟んでいました。

それでも、彼は自分がどれだけ酷い状態かわかっていませんでした。
着陸するなりすぐさま彼はオックスフォードの病院に運ばれましたが、
入院を要する重症で、切断するかどうかという瀬戸際だったそうです。

しかし医師たちの懸命な治療により、なんとか手を失わずにすみました。

メンフィス・ベルにはそれ以来、次の搭乗員が乗ることになります。

アドキンスはその後B-29、B-50、B-36、B-52に搭乗し、
最終的には1961年に少佐の階級で退役しました。

ところで上部砲塔砲手の任務は、士官と下士官どちらでもOKだったんですね。


続く。



「腹部砲手の死」〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-27 | 飛行家列伝

映画「メンフィス・ベル」で心に残った戦闘シーンといえば、
ガラスドームに囲まれた銃座を敵の弾が破壊し、
他のクルーがそこに入るためのハッチを開けたら、
ドームがなくなって銃手がぶら下がっていたというものです。

Ball Turret Scene - Memphis Belle
今日はそのボール・ターレットとそこに配置されていた搭乗員、
セシル・スコット軍曹についてのお話です。

まず、B-17のボール・ターレットの説明から始めましょう。




機体中央下部のDFのペイントの下側のレドーム、これがボールターレット。
いかにもとってつけたような部分ですね。
機体のお腹部分にあることから「ベリーガン」と呼ぶこともあります。



こちらでもどうぞ。
飛行中の銃口は後ろ向きが基本位置の模様。



これは国立空軍博物館のメンフィス・ベルを前から見た場合。
タイヤの向こうに見えているのがボール・ターレットです。
これも銃口は後ろ向きに固定されています。



外から見ると結構な大きさに見えますが、
決してそんなことはありません。
左下のハンガーみたいなのが気になりますが、なんでしょうか。


内部がどうなっているかはこれが一番わかりやすいかもしれません。
ボールに入り込んでハッチを閉めると、全体が360度回転し、
下方と水平位置の敵機に狙いをつけます。

爆撃機を下から攻撃してくる戦闘機を機銃で追尾すると、
砲塔と一緒に回転する状態でした。

遊園地のアトラクションなら楽しそうですが、
高高度の空中でガラスボウルに閉じ込められて逃げ場はなく、
時には敵機がこちらを狙って撃ってくるわけです。

まず恐怖心を克服することから始めなければならなかったでしょう。

B-17 Ball Turret Gunner (Dangerous Jobs in History)
「第二次世界大戦の最も危険な仕事の一つ」

このビデオでは、ターレットの中にどうやって入るか、
銃手がどんな姿勢をとるかに始まり、
アルミニウムとプレキシガラス製のボールは容易に銃弾が貫通し、
銃手は命を落とすことが多かったこと、
また、もし機の機械系統が破壊されて、強制着陸を余儀なくされた場合、
ボールは中から開けられなくなり、
銃手は脱出できないまま着陸で押し潰されて生存できなかった、
などということが説明されています。

WW2 Ball Turret with Twin .50 Cals at the Big Sandy Shoot 実物で銃撃してみた

Ball Turrets - In The Movies
映画に出てくるボールターレットシーン。
「メンフィス・ベル」では、ターレットに入るラスカルが、

「前のミッションのことでただ神経質になってるわけじゃないよ。
だって俺ってこんなネズミ捕りみたいなところに座る配置だからさ」

それに対してヴァージが、

「隅々までちゃんとチェックするから安心しろよ」

みたいなことを言っています。
これは伏線で、実際には冒頭のシーンのようになるわけで、
いくら不備がないかチェックしていても攻撃されれば終わりというわけです。


映画といえば、こちらはワイラー監督のドキュメンタリー映画のポスター。
なんと、ポスター図柄のメインがボールターレットガンナーです。

「最も危険」であるからこそ、このようにクローズアップされるわけですね。

■ セシル・スコット



映画「メンフィス・ベル」でボールターレットガンナー、
リチャード「ラスカル」ムーア軍曹を演じるのはショーン・アスティン
映画出演時は19歳だったはずです。



これがメンフィス・ベルの「最も危険な配置」にいた男、セシル・スコット。

Cecil Harmon Scott は、身長の低い青年でした。
俳優のショーン・アスティンがそうであったように

世界で一番危険な仕事、といわれたボールターレットの砲手だった彼は、
実に穏やかな表情の好青年で、実際に肝も座っていたとみえて、

"攻撃される前は、たいてい恐怖を感じるものだが、
飛行機が近づいてきて攻撃し始めると、もう大丈夫だ"

などという言葉を残しています。

セシルが軍隊に入る決心をし、募集事務所で手続きをしたとき、
入隊基準となる最低身長に1/4インチ足りなかった彼は、リクルーターに

「君の身長は兵隊として小さすぎるし、体重も軽すぎる」

と言われて最初は受け付けてもらえませんでした。
そこで彼は少しでも身長を伸ばすために毎日鉄棒にぶら下がり、
また、体重を増やすためにバナナを食べまくりました。

4分の1インチなんてせいぜい6ミリですから、
当時のアナログな身長計では誤差範囲でなんとかなったのかもしれません。
体重も、食べまくって増やしてなんとななる程度だったのでしょう。

意気揚々とペンシルベニア州ハリスバーグの事務所に戻り再検査を受けて
めでたく数字をクリアした彼は、空軍の二等兵として受け入れられました。

しかも、突然彼は陸軍航空隊から指名を受けます。

陸軍は、突如小柄な航空搭乗員の必要性に気がついたのでした。
B-17爆撃機の砲塔の中で丸くなっている砲手。
こればっかりは、小さくて体重の軽い者にしか務まらないということを。

航空隊の求める人材の条件を、今度こそドンピシャでクリアした彼は、
熱烈に望まれてB-17のボールターレットガンナーに就職。
そして出征。

ついには1942年8月1日にワラワラで軍曹に昇進することになりました。


彼はイギリスに行ってからメンバーに「スコッティ」と呼ばれていました。
いかにも背丈の小さな彼にふさわしいあだ名です。

後年、副機長のヴェリニス軍曹がロンドンで犬のスコッティ(テリア)
を買ってきましたが、彼がその名前をすでに持っていたため、
犬の方は名前を「シュトゥーカ」と付けられたに違いありません。

ちなみにスコットは左から2番目

メンフィス・ベルの乗組員の多くがそうであったように、

セシル・ハーモン・スコットの家庭も大恐慌の影響を受けています。

彼の父ロスはペンシルベニア州の木材伐採会社の経営者でしたが、
やはり厳しい時代をそれなりに経験していました。

夫婦には子供が7人いましたから、彼らは育ち盛りの子供たちのために
十分な食料を家庭の食卓に並べるのにかなり苦労をしたそうです。

セシルの身長が人より小さかったのはそのせい・・・?
いや、単に遺伝だよね。たぶん。

セシルの妹、メアリーは、幼い頃の思い出として、
雪を食べたことを語っています。

「メープルシロップときれいな雪を混ぜると、本当においしかった・・」

メープルシロップは地産なので我々が思うより安かったと思います。

セシルの学歴については、色々とサーチしましたが、

たとえば物故者のデータを集めたサイトなどでも、近しかった人が

「とても静かな人でした」

と思い出を書いているくらいで、メンフィス・ベル以外のことは
第二次世界大戦が始まるまでゴム会社で働いていたこと、
戦後はフォードで働いていたことくらいしか情報がありません。

戦争が始まった時、彼は25歳くらいだったと思われます。

イギリスではスコッティと呼ばれた彼は、危険な配置に就き、

ドイツの戦闘機からメンフィス・ベルを守るボールターレットの砲手として
他の乗組員から頼りにされていました。

彼はその時のことを戦後このように語ります。

「砲塔の中で7時間過ごしたことがあるけど、悪くなかったよ。
あそこからならすべてが見渡せたしね。
敵の戦闘機の位置がこちらから見て高すぎて狙いにくかったら、
チーフ(パイロットのボブ・モーガン)に高度を少し上げるように言って、
そいつを狙うんだ」

彼の証言には、どう訳すのか悩んでしまったこんな文章がありました。

時々スコットは、その「ベリーガン」の位置から、
ドイツ軍のパイロットがプロペラにぶら下がって、
機を失速させて下からこちらを撃とうとしているのを見た。


これは原文のままだと「hanging on their propeller」となるのですが、
いくらなんでもパイロットがプロペラにぶら下がるわけがないので、
わざとストールさせるため(trick)、迎角を大きくして、
という意味ではないかとわたしは解釈します。

「そうやって彼らはこちらの爆ボムベイの爆弾に当てて爆発させ、
飛行機ごと吹き飛ばそうとしていたんだと思います。」


その後、彼らがその失速状態から抜け出せず、
墜落していくのを見届けるのも、ターレット内のスコッティの役目でした。

いずれにしても凄惨な話です。


ターレットに彼の名前が書かれている

第8空軍の他の多くの砲手と同様、スコットは多くの敵機を銃撃しましたが、
公式には彼の成績となったのはたった1機の「損傷」だけでした。

なぜなら、彼自身が自分の銃撃で相手の飛行機を撃墜したと認識しても、
彼のような配置の砲手が「撃墜」のクレジットを得るには、
第三者の確認が必要で、実際にはそのようなことは不可能だったからです。

上の説明動画は、のちの詩人、第二次世界大戦中腹部砲手だった
ランダール・ジャレルの詩の一節で終わっています。

ボールターレットガンナーの死

母の眠りの中から僕は国に落とされた
そして濡れた毛皮が凍りつくまで、その「腹」の中で蹲っていた
地上から6マイルも離れ、人生の夢から解き放たれた
僕は真っ黒な対空砲火と悪夢のような戦闘機で目を覚ました
僕が死んだとき、彼らはホースで砲塔から僕を洗い流した


ジャレルは次のように解説しています。

「小さな球体の中で逆さまになっている砲手は、
まるで子宮の中の胎児のように見えるのです。
戦闘機は炸裂弾を発射する大砲でこちらを攻撃してくるのです。

最後のホースというのは蒸気ホースでした」




セシル・スコットは戦後 フォード・モーター・カンパニーに就職し、
そこで定年まで30年間勤務。
1979年、ニュージャージーで63歳の生涯を閉じました。



続く。


一度だけのミッション トニー・ナスタル〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-21 | 飛行家列伝

前回まで、二人の腰部砲手、ウェストガンナー、
右のスコット・ミラーと左のビル・ウィンチェルを紹介してきました。

途中から参加したため、25回の回数に達していなかったミラーは
国債ツァーに加わらなかった、ということを覚えておられるかと思います。

今日はそのミラーの代わりにツァーに参加したもう一人の右腰部砲手、
19歳のトニー・ナスタルの話をしようと思います。


一度だけなので彼をメンフィス・ベルの乗組員としていない媒体も多く、
例えばwikiには載っていても、メンフィスベル・メモリアルアソシエーションの
HPでは乗組員として数えられていないのが彼の存在です。

メンフィス・ベルに一度だけ乗ったメンバーは彼だけではなく、
特に機長は25回のうち4回はモーガン大尉以外で、
C・L・アンダーソン大尉は2度、ジョン・ミラー大尉は1度、
メンフィス・ベルの指揮を執っていますが、彼らとナスタルの違いは
つまり公債ツァーに参加したかしなかったかということでした。

1度のミッション➕ツァーに参加してスポットライトを浴びたことで、
その後の彼の人生には常に注目されるものになります。


■ キャシマー・アントニー”トニー”・ナスタル
Casimer Anthoniy Nastal

写真を見てもお分かりの通り、彼は当時19歳と大変若い軍曹でした。

ナスタル軍曹は 1941 年に兵役に入り、447BG、8AF など、
このときすでにさまざまな爆撃機での実績を重ねていました。

彼は先にメンフィス・ベル同じ飛行隊に所属していたB-17爆撃機、
ジャージー・バウンスに搭乗し、6回ミッションを行っています。



ところで「ジャージー・バウンス」と言う言葉でピンときた人いますかね。
ここで盛大に余談に突入しますが、「バウンス」はジャズ用語です。

この頃の爆撃機には、乗組員たちの気分を表す愛称がつけられましたが、
機長が全権的に自分の妻や愛称をゴリ押しするわけでもなく、
流行っていたジャズのタイトルが選ばれる例もありました。

「ジャージー・バウンス」はご存知ベニー・グッドマン楽団のヒット曲で、
1942年ごろ、4週間連続でチャート一位となり、そののちも
グレン・ミラーやエラ・フィッツジェラルドなどがカバーしました。

映画「ミッドウェイ」のサントラにも収録されています。

Jersey Bounce

この名前がつけられた爆撃機はアメリカに3機、イギリスにも何機かあり、
「ジャージーバウンス3」は撃墜されたことがわかっています。

余談ついでに、ジャズの曲名をつけた爆撃機を紹介しましょう。

B-17G「Ain't Miss Bea Heaven」
「Ain't Misbeheavin'」(『浮気はやめた』のもじり)

Fats Waller - Ain't Misbehえavin' - Stormy Weather (1943)

B-17F「Baltimore Bounce」(ボルチモア・バウンス)

B-17G「Blues in the Night」(ブルース・イン・ザ・ナイト)

B-17G「Mairzy Doats」

B-17F「Memphis Blues」(メンフィス・ブルース)

B-17G「Minnie the Moocher」(ミニー・ザ・ムーチェ)
Cab Calloway - Minnie the Moocher ( Remastered 720p )
麻薬中毒の少女の話

B-17F「Mr. Five-by-Five」

B-17G「Old Black Magic」(オールド・ブラック・マジック)
"That Old Black Magic"から取られた
Marilyn Monroe - That Old Black Magic (Bus Stop)

B-17G 「 Paper Dollie」(ペーパー・ドーリー)
「Paper Doll」から
The Mills Brothers - Paper Doll

B-17G 「 Pistol Packin Mama 」

B-17G 「 Shoo Shoo Baby 」


B-17G 「Shoo Shoo Baby aka Silver Fox 」

B-17F 「Star Dust 」(スターダスト)
スター・ダスト(Stardust) - ザ・ピーナッツ (The Peanuts)

スターダスト  (耳コピ英語なのに発音がすごい)

B-17G 「 Sweet Adeline 」(スィート・アデライン)
Sweet Adeline - The Mills Brothers (1939)

B-17F「Yankee Doodle Dandy」


閑話休題、話を元に戻します。
ナスタルがジャージー・バウンスに搭乗してミッションを行ったのは
6回でしたが、かなり過酷な任務となったようです。


ジャージー・バウンス時代のナスタル:おそらく前列左

最終的に、彼がスコット・E・ミラーの後任として、

ベルの右腰部砲手に配属されたときには19歳、同機の最年少乗組員でした。

ナスタルが搭乗したのは、ベルが25回目にリーチをかけていたときです。
彼はベルが第二次世界大戦中のヨーロッパ戦域で必要とされた
25回目の任務にここで偶然立ち合うことになりました。

彼はこの1回で国内に帰還し、ツァーに参加することを要請されます。

それは彼が、ジャージー・バウンスを含むいくつかの爆撃機で
ミッションを重ねてきた結果、これが彼にとっても
25回目の任務完遂となったことが考慮されたからです。

ベルのメンバーの中には、帰国後戦闘に復帰ことはなく、
退役して市民生活に戻った人もいましたが、若い彼は、
ほんの短い間ツァーに参加すると、すぐに前線に復帰し、
最終的に55 回のミッションに参加し、生き残りました。

■ 戦後の生活

終戦後、民間人として彼は堅実な人生を始めました。
イリノイ州でハーリー・マシン社の「Thor」(ソー)という洗濯機

のセールスマンをしていたナスタルと、同じスペースで
ユーレカ掃除機の宣伝をしていたドリスが出会ったのは、
コモンウェルス・エジソンという商業施設でした。
それ以来彼らは51年間の人生を共に歩んできました。

トニーはジュエル・フードストア(イリノイに展開するスーパーマーケット)
の店舗を回ったあと、アーチウェイクッキーのセールスマンとして働き、
子供を二人設けて、引退後はアリゾナに夫婦で移り住みました。



ごくごく平凡な、一市井人の穏やかな人生です。

しかし、彼の人生には、ヨーロッパで一度だけ任務で乗り込んだ
メンフィス・ベルの名前が最後まで賞賛と共について回りました。

妻のドリスはいいます。

「トニーの飛行機の歴史について尋ねる電話や、
サインをして送り返してくれという写真が届かない週はありませんでした」

「でも彼に会ったとき、わたしは彼が
戦争の英雄であることさえ知らなかったんです」

結婚して、彼は妻に当時のことを話しました。
メンフィス・ベルの一員として、沿岸から沿岸までの防衛工場を訪問した
1943年の戦時国債ツアーは、特に楽しかったということ。

「デトロイトで乗組員は、タイガー・スタジアムで行われた
デトロイト・タイガース対ニューヨーク・ヤンキースのダブルヘッダーを、
ジョー・ディマジオといっしょに見に行ったんだ」

「僕はデトロイト出身だったから、その試合の合間に
5万人の観客に向かって戦争公債について話すことになったんだ。
何を話したかはまったく覚えていないけど、そのとき
タイガースのチーム全員のサインボールをもらったことは覚えてる」

西海岸に向かう途中、クルーはハリウッドに1週間滞在しています。


その時の仕事は、ウィリアム・ワイラー監督が1943年に制作した
ドキュメンタリー「メンフィス・ベル」のナレーションの録音でした。

「ハリウッドにあるウィリアム・ワイラーの邸宅で開かれたパーティにも
何度か参加させてもらったよ」

この間女優と知り合ってあっという間に深い関係になり、
自分が結婚したのも忘れて結婚しようとした搭乗員もいましたが、
もちろん彼にとって、そんなのは別世界の話でした。(たぶん)

当時、ワイラー監督は、グリア・ガーソン主演の1942年の

『ミニヴァー夫人』でアカデミー監督賞と作品賞を受賞しており、
ハリウッドに豪邸を構えていたのですが、その家の
トロフィー・ルームには、ワイラーが撮影のために

メンフィス・ベルに乗り込んで5回ミッションに同行したことに対し、
軍人に与えられる航空勲章が飾られていたそうです。


コスプレじゃないよ

戦争中、戦闘任務に5回成功した者には航空勲章が授与される決まりでした。
撮影に同行というのも、陸軍軍人としてのワイラー少佐にとっては
「ミッション」とする旨陸軍が取り計らったんですね。

それから約半世紀後の1989年、ワーナー・ブラザースの最新作

『メンフィス・ベル』の撮影がイギリスで開始され、
ナスタル夫妻と他のクルーがアドバイザーとして招かれました。

この撮影の補助?監督は、ワイラーの娘、キャサリン・ワイラーでした。

この撮影の時、現場に参加した何人かの元クルーは、助言に呼ばれたはずが、
実際は映画フタッフがその助言を聞き入れなかったことを
かなり不満に思ったと書き残していますが、彼らの妻たちは
監督の一人が同世代の女性であったことで、頼みやすかったのか、

「私たち妻たちグループでキャシー・ワイラーに、
撮影で使っていたB-17の中に入ってみたいと頼んだの」

そしてどうやら彼女らはその願いを聞き届けてもらったようです。

「実際入ってみないと、その狭さと窮屈さは想像できないわ」

ただ一度だけ乗ったメンフィス・ベルのおかげで、
彼とその妻はほかの人が一生出会えない出来事に出会い、
その「特別」を心から楽しんだようです。


続く。




ハイ・フライト〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-15 | 飛行家列伝

国立空軍博物館展示のメンフィスベルについて、
乗組員をさらっと紹介するつもりが、機長副機長爆撃担当と、
いきなりトップ3人の女性関係が派手すぎて時間を取られてしまいました。

 チャック・レイトン 航法士



本日ご紹介するナヴィゲーター、チャック・レイトン
見るからに純朴そうな青年なので、おそらくここからは
あっさりと進めていくことができると信じたい・・


・・・・とここまで書いてから、実際にレイトン大尉について調べたのですが、
写真の印象が、本当にその人となりを表す例であることがわかりました。



たとえばこの団体写真なんですが、メンバー(部下)の後ろから
半分だけ顔を出している彼の様子からはいい人の雰囲気しかしません。
少なくとも真面目そうです。

他の士官3人がどいつもこいつも女性関係とんでもなかった?せいで、
わたしは彼にも品行素行その他一切全く期待していなかったのですが、
実際の経歴とその後の人生を知ると、少しでも彼を疑ったことを
すまんかったと土下座して謝りたいほどの好青年であることがわかりました。

チャールズ「チャック」レイトンは1919年5月22日、
インディアナ州生まれ、ミシガン州育ち。

オハイオ・ウェズリアン大学で化学を学んだ後、
1942年1月20日にナビゲーター訓練のため、
米陸軍航空士官候補生プログラムに入隊し、その後
1942年に中尉任官、ナビゲーターのウィングマークを取得しました。

その後、B-17フライング・フォートレスの訓練を修了し、
B-17「メンフィス・ベル」のナビゲーターとしての任務を完遂。

ナビとしての彼の力量については一般に言及されていませんが、
メンフィス・ベルに最初から最後まで乗務し、機をその度無事に
任務先から基地に戻したのですから、相当な技量を持っていたことでしょう。

写真のキャプションで彼はこう語っています。

「リード・ナヴィゲーター(編隊の先頭機のナヴィゲーター)には
フォーメーション全体の全責任がかかってくる。
ときどき、その責任の重さが怖くなりました」

メンフィス・ベルは編隊のトップを任されることが多かったのですが、
さすがはそのナヴィゲーターであった彼ならではの言葉です。

25回の任務を完遂したメンフィス・ベルの航法士として、
見事任務を果たした彼は、その後、1943年6月から9月まで、
乗員とともにアメリカ全土を回る戦時国債ツアーを行いました。

戦争債券ツアーの後、レイトンは少佐に昇任し、
1945年11月27日に終戦を受けて名誉除隊しました。


彼の経歴には15歳での駆け落ち経験も、出撃二日前に結婚したことを忘れて
他の女と結婚することも、犬を餌に女の子を部屋に連れ込むとかもなし。
おそらく結婚相手も普通に出会い普通に恋愛して選んだのでしょう。

彼の訃報記事を探して読んでみましたが、さらにこんなことがわかりました。

現役を退いた後、チャールズはミシガン州立大学に入り直し、
改めて学士号と修士号を取得して教職に就き、
数学と科学の教師、指導カウンセラーとして働いていたと。

他の3人の士官と比べたら神々しいくらい清潔で実直な青年ですね。
いや、決してその3人を悪くいうわけではありませんが。

彼が教鞭をとったイーストランシング高校の同僚は彼を、

「彼は真の『ピースメーカー』でした。
特別な思いやりを誰に対して持っており、
決して敵を作らない穏やかな人物でした。

とても謙虚で、第二次世界大戦での任務には誇りを持っていましたが、
世間の注目を浴びることは好まない様子でした」

と語っています。
その言葉を裏付けるように、彼の訃報記事の出だしはこのようなものでした。

「イースト・ランシング高校の何百人もの出身者、学生にとって、
チャールズ・レイトンは友人でありカウンセラーだった。
しかし彼が第二次世界大戦の英雄であることを知る人はあまりいない」


彼は実生活で、戦時中の任務について自慢話をするどころか、
ほとんど語らなかったのだということがうかがい知れます。

そんな彼ですから、帰国後、英雄として騒がれ、注目され、
派手な場所に出たりすることを内心嫌がっていたに違いありません。

彼の人生の唯一の妻であるジェーン・レイトンは、
彼が1991年に亡くなったとき、亡夫から聞いていたであろう話として、

「帰国してからの国債ツァー、そしてヨーロッパでワイラー監督が
5回『ベル』に同乗して撮ったドキュメンタリーが
オスカーを取ったことが彼らを全米で有名にしましたが、

彼らはそれを『26回目のミッション』と呼んでいました」

と言っています。
これはどういうことかというと、乗組員の誰もが、
撮影されることを苦痛に感じていたという意味です。

メンフィス・ベルの搭乗員たちは、ワイラー少佐の映画撮影に際し、
必要な考証と助言のためにわざわざイギリスまで飛んだにもかかわらず、
映画スタッフは彼らに対し全く配慮をせず、多くの助言は無視され、
映画の登場人物や事件はすべて、何人もの人物や行動を合成したつぎはぎで、
何一つ本当のものはなかったことに失望していました。

レイトンもまた、映画の中での自分のキャラクターの描かれ方に
最後まで不満を持っていたと言います。

しかも、それから数十年後、彼らは同じような経験を繰り返すことになります。

彼が亡くなる前年に公開された映画「メンフィス・ベル」で、
おそらく彼は強い失望と不満をふたたび感じたに違いありません。


1990年作品の「ベル」の航法士、フィルは、小説によると、

「誰よりも自分の運の悪さを信じており、
何かあって死ぬのは絶対に自分だと思い込んでいる」


陰キャというか屈折した青年で、D・B・スウィーニーが演じています。

壮行パーティでハリー・コニックJr.が「ダニーボーイ」を歌っている時、
酔っ払って外で「死にたくねーーー!」と叫んでいたのはこの人です。

あまりにも死にたくなくて(?)最後のミッションで
「ベル」の脚部が片方手動でしか動かせなくなった時、
「死ぬもんか!死ぬもんか!」
といいながら降着装置のハンドルを回す、という役回りでした。


いずれにしても、実在のレイトンと似た要素はゼロのキャラクターです。

レイトンはこれを見て、ワイラー監督とそのチームに対して感じた
「全くこちらのことを配慮していない」
というネガティブな感情を数十年ぶりに蘇らせたにちがいありません。

■ スコット・ミラー 右腰部銃手



ウェストガンナー、というのがどこの配置のことか、
文面ではピンとこないと思いますので、
とりあえずこの図を見てください。


飛行機の胴体(ウェスト)に左右に一人ずつ銃手が配置されます。
これがウェストガンナーです。

この図は、映画「メンフィス・ベル」の登場人物配置の説明ですが、
映画の腰部砲手にはシカゴ出身で粗暴な荒くれ者のジャック(下)、
アイルランド出身、赤毛で信心深いジーン・マクベイが配置されています。

スコット・ミラーの配置はチンピラジャックと同じ右腰部でしたが、
写真を見る限り、ミラーも二人のどちらにも当てはまる要素がありません。

さて、このスコット・ミラーですが、本当の名前は
エマーソン・スコット・ミラー

エマーソンが気に入らなかったと見え、上から注意されたのにもかかわらず、
ファーストネームではなくミドルネームのスコットを名乗っていました。

彼はメンフィス・ベルの国内国債ツァーには参加せず、それどころか
帰国すらさせてもらえずにイギリスに取り残された何人かの一人でした。

理由は、以下の理由でベルの任務に途中から参加した結果、
彼個人の搭乗数が「マジック25」に達していなかったからです。

彼の代わりにツァーに参加したのは、同じ配置のトニー・ナスタル軍曹でした。


ミラーは1942年5月16日に航空砲手として戦闘任務につく資格を得ました。

一旦ワラワラでリチャード・ヒル中尉のB-17に配属されたのですが、
どういうわけか、ハネウェル社で自動パイロット制御メンテナンスを行う
技術者としての訓練を受けるため、ミネアポリスに転勤させられました。

彼が転勤してすぐ、ヒル中尉の機は定期訓練飛行で山に墜落し、
乗員全員が死亡しています。(その後片付けをさせられたのがモーガン)

彼は戦闘配置のない技術者としてイギリスに送られましたが、
自分には向いていないと感じ、飛行中隊の司令官のところに行って、
戦闘飛行機に乗りたいと申し出ました。

司令官はむしろその言葉を聞いて嬉しそうにしていたそうです。

というわけで、彼は凍傷を負った銃手の後任としてベルに配置されますが、
そのときベルはすでに10回ミッションを行った後だったというわけです。

ミラーがメンフィス・ベルに乗って行った任務は16回でした。

モーガン機長はミラーも帰国してツァーに参加させてほしいと言いましたが、
回数が足りていないということでそれは却下されたそうです。



この制服はスコット・ミラーの遺族の寄贈による展示です。



ミラーの遺族は軍グッズ一切合切を博物館に寄付しました。

ミラーは1943年7月4日に別のB-17に乗って25回目の任務を終えましたが、
帰国後のパレードも記者会見も映画スターに会うこともありませんでした。

メンフィス・ベルのコーナーが創設されることになった時、
博物館がスコット・ミラーの家族と連絡を取ったところ、

「彼らはトランク一杯の遺品を寄贈してくれた」

博物館スタッフは語ります。

「彼は自分の命を危険にさらし、そして一旦は忘れ去られていました。
しかし、この寄贈品によって、彼の名前は
何世代にもわたって記憶されることになるでしょう」



最後に、チャック・レイトンの死亡通知に添えられていた
カナダ空軍のパイロット、ジョン・ギレスビー・マギーJr.の詩を、
当ブログ的には2回目になりますが紹介しておきます。

当ブログで坂井三郎の「大空のサムライ」の英語版を紹介した時、
序文としてこの詩が掲げられていたのを翻訳したものでした。

マギーJr.は訓練中空中衝突の事故で殉職し、
戦闘を一度も経験せぬまま亡くなったパイロットでした。

この詩は彼が高高度のテスト飛行の経験から着想を得たものです。

 High Flight 高高度飛行

ああ、僕は地上の不遜な束縛から逃れ
笑いに包まれた翼で大空を舞った;
太陽に向かって登った
そして百のことをした
君が夢にも思わないようなことを

太陽に照らされた静寂の中で
そこでホバリングし
叫ぶ風を追いかけ、足跡のないホールの中を
僕の熱心な船は、足のない空気のホールを通り抜けた

上へ、上へ、長く譫妄のように燃える青を、
風の吹きすさぶ高台を、いともたやすく駆け上ってきた
ヒバリも鷲さえも飛んだことのない場所を

そして、静かな高揚した心で
そして、静かな高揚した心で、僕は宇宙の高みへと足を踏み入れた
そして手を差し伸べ、神の御顔に触れるのだ

続く。



爆撃士官「キッド・ワンダー」〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-28 | 飛行家列伝

B-17爆撃機、メンフィス・ベルのメンバーから、今日は
パイロット以外の士官のうち一人を紹介します。

「アメリカ軍の爆撃スキルと装備は私の知る限り世界一だ。
このことに疑いを挟む余地はない」

と自らの強さを力強く断言したのは、ヴィンス・エバンス大尉、
メンフィス・ビルの爆撃士です。

船なら「砲雷長」に相当する爆撃機爆撃担当の士官を日本でなんと呼ぶのか、
ちょっとわからなかったのですが爆撃士とここでは書きます。

英語では、爆撃担当の下士官兵のことも、
爆撃機から爆弾をリリースする士官も、Bombbardier、
ボンバルディアというフランス語源の言葉になります。

さらにこの単語の読み方ですが、フランス語ならボンバルディエ。
しかし、ピッツバーグでよく散歩したオハイオ川のほとりにあった会社、
カナダの「Bombardier」はボンバルディアと読むらしいです。

さて、メンフィスベルのボンバルディアである、
Vinson ‘Vince’ Evans ヴィンソン「ヴィンス」エヴァンス 

メンフィス・ベルの写真を見ても、動画を見ても、
この人物の特徴的な顔は、一目で他の人との見分けがつきます。



映画「メンフィス・ベル」で爆撃手を演じたのはビリー・ゼインでした。

あの「タイタニック」のローズの金持ちの婚約者役、
あの見るからにキレやすくDV亭主になりそうな(というか実際殴ってたし)
冷酷かつ完璧にエレガントな男っぷりが印象的な俳優です。

「メンフィス〜」では、医学生であるとついた軽い嘘に自分が苦しめられる、
内心に葛藤を抱えた複雑な育ちの青年士官という役どころ。

最後のミッションでメンバーの一人が重傷を負った時、
医学生なら助けられるだろ?と皆に詰め寄られて
医学部は1週間でやめたんだ〜!とぶっちゃけるシーンが忘れられません。

■ 生い立ち

人は彼を「キッド・ワンダー」と呼びました。
それは、彼が次に何をするつもりなのか誰にも予想がつかなかったからです。

妹のペギーによると、こんな逸話がありました。

「11歳くらいのとき、父の車でダウンタウンに来ていた彼が、
こっそり自分で運転して家まで帰ってしまったことがありました。
父親はダウンタウンで置き去りにされ、立ち往生です。

家にいた母親は車が帰ってきたのを見ましたが、
11歳の彼は運転席に座るとほとんど外から姿が見えなかったので、
母親は無人の車が帰ってきたように思ったそうです。

彼がどうやって古いウィペットのクラッチとブレーキペダルを踏めたのか、
わたしたちにも誰にも全く想像がつきません」

彼は1920年にテキサス州フォースワースで生まれ、
高校を卒業後、ノース テキサス教育大学に通いました。

その後若くして起業し、伐採会社を経営して成功していましたが、
ヨーロッパで戦争が激化すると、実業に興味を失った彼は、
血気盛んな青年らしくスリルと興奮を求めて
真珠湾攻撃の直前にパイロットを目指して空軍に入隊しました。

ただ、ソロに十分な資格が得られず、爆撃機に転向することになりました。
つまり操縦の技術は今ひとつだったってことでしょうか。
しかし、配置されたところで、彼は才能を発揮しました。

彼は爆撃手として必要な素質を持っていたのです。


■ 派手だった女性関係

モーガンもそうでしたが、二十歳そこそこの搭乗員を色々と掘り下げても、
英雄的な話なんぞ滅多にあるものではなく、
だいたい出てくる話は女関係くらいのものです。

ということで、なまじメンフィス・ベルで有名になってしまったため、
他の男子ならまーそういうこともあったよねー程度で忘れられる話が、
彼の場合もこうして歴史に残ってしまうのだった。🙏

それでは彼の「ザ・クズ」エピソードの数々をどうぞ。

大学卒業後すぐに事業を始めていたヴィンスは、
航空隊に入りワラワラに着任する頃には、すでにバツイチとなっていました。
(モーガンはそのころバツ3ですが、この人は特殊だと思います)

そして第91爆撃隊の一員としてイギリスに向かう二日前、
ディニー・ケリーという女性と結婚しました。
つまり彼らは二日間だけの甘い新婚生活を送ったわけですが、
この二日が彼らの結婚のピークであり最後でもありました。

なぜなら彼はそれっきり彼女のもとに戻ってこなかったからです。

イギリスに到着するなり、彼は基地近くの農家の娘と仲良くなり、
彼女に会うために毎晩基地からこっそり抜け出し、朝になると
彼女にもらった新鮮な卵と牛乳を持って戻ってくるようになりました。

そのおかげで、彼はしばらく「エッグ・オフィサー」と呼ばれていました。
そしてその農家の娘というのは、モーガンに言わせると

「彼女『も』本当に可愛かったよ」

「も」ってなんなんだ「も」って。

それはモーガンに言わせると、エヴァンスが狙った女の子たちは
例外なくほとんど可愛かったからという意味だそうです。

また他の乗組員の証言によると、エヴァンスは、イギリスツァー中、
農家の娘の他に少なくとも 2 人の女性となんかあったそうです。

一人は、エヴァンスがロンドンで出会ったケイというナイトクラブの歌手。
農家の娘、ナイトクラブの歌手って本当に好みのレンジが広いな。

このケイという歌手とは割と本気だったようで、
戦後は彼女とイギリスで結婚するつもりだという噂もあったほどです。

そして彼女と任務以外の時間をずっと一緒に過ごすためにロンドンに滞在し、
早朝にモーガンや友人に電話して「試合」の予定があるかどうかを確認し、
そうでない場合はそのまま彼女の部屋にいたそうです。

すでに「ゲーム」が始まりかけていて、慌てて基地に戻った彼が
爆撃機の出発ぎりぎりに滑り込む、ということもありました。

「機がすでに離陸線に向けてタキシングしていたところに、
遅れた彼は走ってきて、飛行機に”スクランブル”をかけてきました。」

戦地にいる士官で、しかも航空だからおおごとにならなかったみたいだけど、
海軍ならこれ懲戒(下手すれば軍事裁判)だよなあ・・・。

まあ、我が帝国海軍でも、中尉が呉から出航する軍艦に乗り遅れ、
早船をチャーターして追いつき、なんとか乗り込むも新聞沙汰、
という事件があったといいますが・・。

【ゆっくり解説】悲報・帝国海軍中尉、遅刻して置いてかれる。

この海軍中尉もクラブの歌手、じゃなくてレスのエス(エスはシンガーのS)
つまり置屋の芸者と後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんでいたのかしら。


そして帰国してからの彼のお相手ですが、これがなんとハリウッド女優でした。

メンバーはアメリカに帰国した時、ヨーロッパでワイラーが撮影した
陸軍省の映画の背景音声を吹き込む仕事のため、
ハリウッドに立ち寄るということがあったのですが、そこで彼は
魅力的なスターレット、ジーン・エイムズに出会ってしまいました。



二人の間に新たな火花が飛び交い、アメリカに帰国した途端、
彼はイギリスの彼女、ケイの記憶を失ってしまいました。

戦後、彼は脚本家としてハリウッドで仕事をするようになりますが、
そのきっかけとなったのは、このときウィリアム・ワイラーが彼を
メンフィス・ベルの映画の一種の「技術顧問」扱いしたことでした。

そのため彼は他の乗組員よりもハリウッドとカリフォルニアで
多くの時間を過ごし、女優と浮き名を流すことにもなったわけです。

それにしても可哀想なケイ。そしてディニー。
・・・・あれ?・・・ディニー?DINNY?



彼が爆撃手として配置されるノーズの下の文字、見えますかね?
DINNY・・・これって・・二日間結婚していた人。

エヴァンスはこのことについて新聞記者に問われ、こう言い放ちました。

だって仕方ないじゃないですか。
僕たちは結婚する数日前に知り合ったばかりだったんだし」

そう、そして二日後ヨーロッパに行っちゃったんですよね。
なら結婚なんかするなっつーの#

メンフィス・ベルのマーガレットも、ディニーもそうでしたが、
男たちがヨーロッパに戦いに行ってからの半年、
彼女たちは婚約者と夫の無事だけを祈り、彼らのことだけを考えて
帰ってくる日を指折り数えて待っていたのです。(そのはずです)

しかし、ああしかし、若い男、ことに明日の命を知れない
有り余るエネルギーを持て余す男たちにとって、半年は長すぎました。

帰ってくるなり女優と派手に付き合い出したことは、
いやでも彼女の耳に入り、(新聞記者の口から聞かされたりする)
彼の不実さに激怒した彼女は、

「彼が自分のところに戻ってきて、ちゃんと説明しない限り
わたしは絶対に離婚しない!

と宣言し、彼の妹も彼女に味方して兄を責め立てました。
彼の妹ペギーは、兄について後年しみじみとこう語っています。

「私の兄は真の’スカートチェイサー’でした。」

スカートチェイサー、意味はお分かりですね。
しかも彼は、ほとんど目先のことしか考えない短慮な男でもありました。

「ある日、エヴァンスから電話がありました」

ボブ・モーガンはインタビューで回想しています。

「絶望的な様子で彼は言いました。
『ボブ、僕を国外に出られるようにしてもらえないか?』と」

前にも書きましたが、当時モーガンはB-29に乗るための訓練中でした。

この新型爆撃機に魅せられた彼は、メンフィス・ベルの後も軍に残り、
B-29に乗って日本への攻撃に加わるわけですが、ベルのメンバーで
たった一人、彼についてきたのがこのヴィンス・エヴァンスでした。

その理由は、モーガンのように新型機に魅せられたからでも、
モーガンを慕っていたからでも、ましてや国を思ってのことなんかでもなく、
とりあえずディニーから逃げるためだったのです。

「なぜ彼がそんなに切羽詰まっていたかですか?
それはですね、ヴィンスはジーンと結婚したみたいなんですけど、
自分がまだディニーと結婚していたことを忘れていたらしいんです」

んなわけあるかーい(笑)

B-29に乗るのも命の危険があることは彼も百も承知だったでしょうが、
ことをうやむやにできるなら死も覚悟して、ってことだったんでしょうか。


エヴァンスと女優のジーンは1944年の9月17日に結婚しましたが、
一児(ヴァレリー)を設けたあと、すぐに離婚しています。

その子供については何もわかっていません。

■ 航空搭乗員としてのヴィンス・エヴァンス

機長、ボブ・モーガンは彼についてこう言っています。

「彼は乗組員にとって点火プラグみたいなもので、
他にあんな人材はいませんでした。
第 8 空軍で最高の爆撃手の一人でもありました」

メンフィス・ベルが爆撃任務の多くで先頭機に選ばれたのには
彼の爆撃スキルがその理由だったと言われています。

また25回の任務を遂行する戦闘航空乗組員の心理について、
エヴァンスはこんな洞察を提供しています。

「面白いことですが、何回爆撃任務を行っても、
恐怖から完全に抜け出すことはできません。
最初の 5 ~ 6 回の襲撃では、かなり緊張し、そのとき、あなたは
『私は生きてこの任務を終えることはできないだろう』と思います。

それについてちょっと運命論者となってしまうわけです。

そして20回目くらいになると、あれ、もしかしたら、
自分にはチャンスがあるかもしれないと考え始めるんですが、そうなると
自分で自分の心をバイオリンの弦を張り直すように締め変えます。

そして最後の 5 つのミッションに緊張して臨むんです


ボンバルディア、爆撃手の配置は、エポキシガラスのノーズの先端です。
戦闘中ここにいることがどんな危険なことかおわかりでしょうか。

ワイラー監督の「メンフィス・ベル」では、ここを攻撃されて負傷したり、
破損した先端から落下したナビゲーターがいたことが描かれています。


■ 戦後

戦後、人々はこの爆撃機エースが作家としても才能があることに気づきました。

実際彼は子供の頃から物語を書いており、素晴らしい想像力を持ち、
大学時代、彼は短編小説を書いて多くの注目を集めたこともありました。

ハリウッドに関わったことをきっかけに、彼は脚本を書きました。
ハンフリー・ボガート主演の「大空への挑戦(チェイン・ライトニング)」
ロック・ハドソン主演の「大空の凱歌(Battle Hymn)」
などの作品に彼の名前が残されています。

彼はエネルギッシュな人物で、執筆活動以外にも、
メキシコでボートを操縦し、ロサンゼルスでレストランを経営し、
カリフォルニア州ポモナでレースカーを運転したりしていました。

しかし、彼がこんなお金のかかる道楽にのめりこめたのは、
裕福な資産家、マージェリー・ウィンクラーと逆玉結婚したからでした。

彼はその潤沢な資産を元に牧場経営、レストラン経営をはじめ、
なかでもえんどう豆のスープのレストランは大成功し、
エヴァンス夫妻はロナルド・レーガンとも親しいセレブとなりました。

1979 年、ヴィンスはロンドンで100 年以上の歴史のある
イングリッシュ パブを購入して事業拡大しています。

■ 空に散ったボンバルディア

1980年4月20日、エヴァンスは妻、23歳の娘ベニシアとともに、
24歳のパイロット、ナンシー・マインケンの操縦する
エヴァンスの専用機でパロアルト空港を離陸しました。

エヴァンスが操縦士免許は持っていたものの計器の資格がなかったこと、
そしてその日曇っていたことが事故につながりました。

彼らの飛行機は、計器着陸の指示を求める無線を最後にレーダーから姿を消し、
その日は悪天候と暗闇のため2時間で捜索は打ち切られました。

翌日早朝、飛行機の残骸と彼ら全員の遺体が丘の中腹で発見されました。

事故を報じる新聞記事

息子のピーターは、飛行機に乗っておらず命拾いしています。
妹のペギーによると、事故の前、彼は病気の母親を見舞い、

「お母さん、早く良くなってね。
元気になったらメンフィス・ベルを見に連れて行ってあげたい」

といったそうです。

エース爆撃手であり、ロマンティックでエネルギッシュな実業家、
「キッド・ワンダー」の旅が終わりを告げたのは、その10日後でした。

妹のペギーは、

彼は残りの人生においてその名前に忠実に生きたのだと思います。」

と語っています。


続く。


ヴェリニス大尉と愛犬シュトゥーカの物語〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-25 | 飛行家列伝

メンフィス・ベルの搭乗員について、国立空軍博物館の展示をもとに
順番にお話ししていこうと、機長のボブ・モーガンから始めたところ、
この人のパーソナルライフ(というか女性関係)がぶっ飛んでいたので、
つい一項を割いて、彼の6人の妻と恋人について語ってしまいました。

なんというか、モーガンの天然さと、ベルのノーズアートのモデル、
マーガレット・ポークの品格が際立つ話でしたね。

今日もベルのクルーの紹介をしていこうと思います。
ということで、副機長のジム・ヴェリニス大尉です。

■ ジェームズ・ヴェリニス大尉 副機長

"今、クルーは、任務終了まで25回しかないことを知っている。
士気は上々だ。”


ジム・アンジェロ・ヴェリニス

任務終了まで25回、ということは、これから任務開始ってことですね。

前にも書きましたが、メンフィス・ベルの副機長として帰国し、
国債ツァーに参加したヴェリニス大尉が実際にベルの副機長として飛んだのは
一度だけで、後2度、機長としてベルを率いました。

彼が選ばれたのは、ベルの前に彼自身が率いるB-17で任務を行い、
通算25回に相当する実績を上げていたからだと思われます。

博物館には彼がツァーのため渡欧していた6ヶ月のうち、
2ヶ月しか埋められていない「1日1ページ日記」が展示されており、
上の言葉はそこに書き記されたある日(任務開始前)の記述です。

しかし、任務が始まってから2ヶ月目、ヴェリニス大尉は
同じ日記にこのように書き記しています。



”コンバットの影響は着実に出ている。
みんな家に戻ることばかり考えている。
現在までに隊員の約3分の1を失ったわけだが、

まだ任務の半分も完了していない。
なんて危険な毎日なんだ!!!!


ヴェリニス(Verinis)という姓はギリシャ系です。
ギリシャから移民してきた両親はアイスクリーム店を営んでいました。

彼はコネチカット州ニューヘブンで育ち、大学卒業後、
航空士官候補生として1941年 7月に陸軍航空隊に入隊します。

航空訓練で最初の単独飛行となったとき、
彼は着陸の際水平飛行にできず機体を失速させてクラッシュしています。

そのとき彼は全身にガソリンをかぶったまま機内に閉じ込められ、
火が出る前にコクピットから引きずりだされて出され、
命は助かったものの、顔と頭を何針も縫う怪我を負いました。

結局ソロで飛ぶ戦闘機には「飽きた」として、ヴェリニスは、
B-17のファーストパイロットの資格を取りました。

ヴェリニスを含む搭乗員たちはヨーロッパに送られたものの、
しばらくは編隊飛行の練習などで出撃させてもらえませんでした。
彼は、そのむしゃくしゃする思いを日記にこのように綴っています。

10月13日
「まだ何もさせてもらえない」

10月15日
「アンクルサムはいったい何をしていることやら」

10月17日
「最近はよくポーカーをやっている」

10月23日
「誕生日おめでとう、俺!
ケンブリッジのアメリカンバーでちょっとしたパーティーを開いた。
魅力的な英国の女の子が集まるレックス ボールルームに行ってきた!」

そしてこの1週間の間に、事態は動きました。
機長として彼が率いるB-17が決まったのです。

10月31日
「今日、航空団本部は我々を引き継いだ。
これで戦闘の準備が整った。
もう出撃までそう長くはかからないだろう。」

1月12日
「私には新しい飛行機が割り当てられた。
”コネチカット・ヤンキー”と名付けることにした。
彼女の”歪み”を直すのに忙しい」



「コネチカット・ヤンキー」の指揮を取ることになったヴェリニス大尉
(後列左)

ヴェリニスの個人認識用ブレスレット

BBCのインタビューに答えるヴェリニス大尉


映画で副機長のルークを演じたのは、テイト・ドノバン
上層部との話し合いでシャッターにポーズするルークは、
このとき「女の子が目当てでプールの監視員をした」などと言っています。

女の子が好きで陽キャラという彼の映画での描かれ方は、
キャラ付けというやつで、実際そうだったかどうかはわかりません。

この俳優テイト・ドノバンですが、ディズニーのアニメ、

「ヘラクレス」で主人公ヘラクレスの声優を務めています。

(さらに余談中の余談ですが、ヘラクレスのテーマソングを歌っていたのは、
『デスペレートな妻たち』でブリーに言いよる不気味キャラの薬剤師、
ジョージを演じるロジャー・バートだと知った時は衝撃でした)

ところで、実際の写真でも、映画でも、マスコット犬を抱いているのは
この副機長ということになっています。

今日はメンフィス・ベルのマスコット犬についても話します。


■ マスコット犬 シュトゥーカ


マスコット犬シュトゥーカはヴェリニス大尉の飼い犬でした。

シュトゥーカはドイツの急降下爆撃機、ユンカース 87 の名称です。
Sturzkampf-flugzeug (シュトゥルツカンプ-フルークツァウク)
という単語の短縮形で、英語に訳すとそのまま「急降下戦闘機」という意味。

1943年の春、メンフィス・ベルの副操縦士であるジム・ヴェリニスは、
元気いっぱいのスコティッシュテリアの雌の子犬にこう名付けました。

シュトゥーカの物語は、1943年の2月か3月頃から始まりました。
ヴェリニスは、メンフィス・ベルのナビゲーターであるレイトンとともに、
ある日リラックスするためにロンドンに小旅行に出かけました。

彼らが通りを歩いていてペットショップの前を通りかかったとき、
窓を通して小さな子犬が目につきました。
小さな犬は覗き込んだ彼に強くアピールしたので、
彼は店に入ってすぐに彼女を買い求めたのです。

「正確な値段は覚えていませんが、アメリカドルで50だったと思います。」

この「急降下爆撃機」がアメリカ軍に与えた最大の攻撃はというと、
兵舎の寝室の床に置かれた主人の靴下を噛み砕くことでした。

帰国後、副機長の連れていた犬はすぐに話題になり、

「実際に酸素供給装置を備えた小さな箱に入れられて
メンフィス・ベルの爆撃任務に参加した」

という噂がまことしやかに新聞記事になったこともありますが、
ヴェリニスはそれを否定しています。

「どこからそんな話がでてきたのかわかりませんね。
誰かがでっち上げたんだと思います。
もし爆撃機が高度 10,000 フィート以下しか飛ばないなら、
シュトゥーカを乗せて飛ぶこともあるかもしれませんが、

そもそもミッションの時はそんな低空で飛行しませんから

映画メンフィス・ベルでは、最後のミッションからベルが帰ってきたとき、
地面に寝そべっていた犬(黒のスコッチテリアではない)が、
機影も見えず爆音も聞こえないのに、ぴくんと耳を立てて頭をもたげ、
エプロンに向かって一目散に走り出すシーンがありました。






ミッションに参加しなかったシュトゥーカはもちろんですが、
実際にも彼の飼い主は25回のミッションを生き残り、
彼らは一緒にアメリカに行くためB-17に乗り込みました。

「そのときが彼女にとって初めての飛行機搭乗体験だったと思います。
エンジンがかかり、飛行機が動き始めると、彼女は緊張して、
前後に走りまわりましたが、吠えたり叫んだりはしませんでした。」

これまでにも書いたように、機長のボブ・モーガンは腕のいい操縦士で、
それゆえ特に公衆の面前では、ここぞとスタントを行うのが常でしたが、
彼女は最初こそ少しびっくりしていたものの、すぐに慣れて、
新しい都市に到着するたびに飛行機の中で振り回されても全く平気どころか、
あらゆるワイルドな事態を楽しんでいるかのように見えたそうです。

どこにいってもシュトゥーカは群衆に大好評でした。
人々はこの可愛らしい犬に熱狂し、彼女はというと、
自分が注目を集めることを楽しんでいるようだったそうです。

各都市に到着するたびにメンバーは地元でパレードを行いましたが、
シュトゥーカはまるで女王様のように見物人に迎えられました。

メンフィス・ベルを報じるマスメディアのカメラマンは、
こぞって「空飛ぶ犬」の画像を求めて彼女を追いました。

そして今でも良くある話ですが、犬は、女の子を誘うための餌、
じゃなくて、格好の口実にもなってくれます。

「でさ、今泊まってる部屋にその犬がいるんだけど、見にこない?」

「え〜?犬なら見たいわー」

彼女らはホテルのドアを開けるとそこにシュトゥーカがいるのを見ると、
例外なく驚いて、こう言ったそうです。

「へえ、本当に犬を飼っていたのね」

ちょっと待て。
「彼女”ら”」?

どうもこの言い方だと、ヴェリニス大尉、ツァーの間中、
犬の話で女の子を誘って何人も部屋まで連れ込んでいた模様。

そして女の子たちも彼の犬話を単なる口実だと思っていた模様。
口実とわかっていてあえて連れ込まれてあげる的な。

あっ!

今気がついたんだけど、マーガレットとモーガンがツァー後別れたのは、
モテモテの搭乗員たちが、このように各地で遊びまくっているのに、
公式な「婚約者」同伴のモーガンにはそのチャンスがなかったからか?

それとも、彼女がいるのに同じように羽目を外したからか?


■ シュトゥーカの ”ショートスノーター”

その頃、シュトゥーカがウィスキーが好き、という噂が広まりました。

何人かが面白がって犬にソーサーいっぱいのウィスキーを渡すと、
驚いたことに彼女はそれを本当に飲んでいたそうです。

「彼女は少しよろめき、おどけた様子でどこかへ行って
横になって眠っていました。」

これ普通に動物虐待でしょう。
犬はアルコールを体内で分解することができないので、お酒は絶対ダメ。
シュトゥーカのその後って、どこにも書いていないけど、
天寿を全うできた気がしない・・・。


ところでお酒といえば、「混合酒一杯(少なめ)」を語源とする、
「ショートスノーターshort Snorter
というものをこ存じでしょうか。

大西洋を飛行機で横断する搭乗員が「お守り」にしたもので、
1ドル札にいろんな人のサインを書き込んで、それを携帯します。



上はヴァンデンバーグ将軍が1942年に作ったショートスノーター。

ハップ・アーノルド、アイゼンハワー、ルイス・マウントバッテン提督、
共和党のジョン・タワー
(当時海軍にいた)など有名人のサインがあります。
(ちなみにタワーは後年航空機の墜落事故で死亡している)

名前を書くスペースがなくなったら、新しい1ドル札でまたそれを始めます。
これを大量にコレクションしている搭乗員もいたそうです。

戦闘の無事ではなく、あくまで「太平洋横断の無事」を祈るものなので、
ヨーロッパからアメリカに帰国する搭乗員は皆これを持つのですが、
シュトゥーカも犬の分際で自分のショートスノーターを持っていたそうです。

さすがの有名犬、彼女のショートスノーターには

「クラーク・ゲーブル、バージェス・メレディス、
映画『ベル』を作ったウィリアム・ワイラーなどのサインがあった」

ということです。

挨拶するメンフィス・ベルのメンバーとシュトゥーカ

5:54で彼女がヴェリニス大尉によって一瞬紹介されています。


続く。



モーガン大尉の6人の妻〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-23 | 飛行家列伝

さて、国立博物館のメンフィス・ベル展示から、
25回ミッションを達成して帰国後ツァーを行ったメンバーについて
さらっとお話ししていくつもりだったのですが、
機長のロバート・モーガン大佐(最終)という人について
「メンフィス・ベル」のモデル、マーガレット嬢との関係を始め
色々とすごかったので、彼の功績とかメンフィスベルの戦歴とは
全く関係ないことですが、余談としてお話ししておくことにします。

【生涯に6度の結婚】

ベルのミッション25回終了後、帰国して戦債ツァーに参加した彼は、
その後も軍に残り、少佐に昇進して太平洋戦線に赴きました。

彼はサイパンから発進する
B-29スーパーフォートレス「ドーントレス・ドッティ」
の機長として日本本土への爆撃任務を行い、
その年の終戦を受けて現役を引退し予備役にとどまりました。



ちなみにこのB-29の愛称、「ドーントレス・ドッティ」は、
彼の4番目の妻
ドロシー・ジョンソン・モーガンにちなんでいました。

4番目!とわたしも最初は驚きましたが、よくよく読むと、
彼は生涯に結婚した相手だけで6人、お付き合いした人は数知れず。

「(自分の人生には)酒と女と歌が多すぎた」

と自ら豪語する、派手な女性遍歴の持ち主だったのです。


いわゆるMMK

■最初の結婚 ドリス

最初の結婚はなんと彼15歳のとき、公立高校の13歳の下級生、
ドリス・ニューマンと駆け落ちしたときにさかのぼります。

駆け落ちながら、正式に婚姻届を出したらしく(出せたんですね)、
結婚日は1931年6月6日、そして9日後の6月15日に離婚。
(見つかって連れ戻され、怒られて諦めたパターン)

このことは公式にはなかったことにされていたのですが、
彼がなまじ有名人になってしまったことでジャーナリストに掘られ、
ゴシップとしてすっぱ抜かれたという形です。

ですから、今でもこの結婚歴は媒体によってはなかったことになっています。


この頃から、彼の実家モーガン家には次々と不幸が連続しています。
まるで息子の15歳駆け落ち事件がきっかけだったかのように。

まず、回復不可能なガンにかかった妻が悲観して拳銃自殺。
まだ若い母を失ったボブは、これに打ちのめされます。
そしてほどなく大恐慌が起こり、父が経営していた家具製造会社は
ほとんど倒産に追い込まれ、父は家を売る羽目になり、
しばらくは自分の会社の倉庫で警備をしながら暮らしていたほどです。

しかし、よほどガッツのある実業家だったのか、モーガン父はその後
頑張って会社を立て直し、復帰どころかなんなら前より事業を拡大し、
息子をアイビーリーグに入れられるほどの生活水準に戻しました。

実業家の鑑(かがみ)、まさに尊敬すべき父親です。

ところが息子ときたら(学業の方はちゃんとやっていたようですが)
またもや、女性関係でやらかしてしまうのです。

■第二、第三の結婚 アリス、マーサ

やらかしというのは、大学在学中となる彼20歳の夏に
アリス・レーン・ラザフォードという女性とまたしてもノリで結婚。
本人の証言によると、

「結婚生活は秋まで続いたが、また離婚になってしまった」

ひと夏の恋ならぬ結婚だったわけですね。


そしてその次の結婚はこのときから3年後、23歳のときです。
少尉に任官したときに、ウィングマークを彼の制服の襟に留めた女性、
ペンシルバニア大学の同級生、マーサ・リリアン・ストーン嬢

3度目の結婚をしました。

彼がウィングマークを取得したのは真珠湾攻撃の6日後で、
結婚はその2週間後だったということなので、
1941年の12月年末に結婚式を行ったと考えられます。

しかしながら、その結婚は予想に違わず、彼が
第91爆撃隊に配置転換された翌年5月にはもう終わっていたようです。

つまり半年も保たなかったということです。
せめて半年くらい付き合っていれば、戸籍に傷をつけずに別れられたのに。

まあ、アメリカ人に「戸籍に傷」なんて概念ありませんかね。

そんな早く離婚するならなんで結婚する?と問いただしたくなりますが、
当時の男女は「お付き合いイコール結婚」でしたし、なによりこの頃、
ボブはとにかく仕事で怒られっぱなしで、かなりの心労が重なり、
与えられた任務をこなすだけでいっぱいいっぱいの状態でした。

その上、彼は仕事でもやらかしが多かったようです。

「マクディルに駐留している間、よく湾内の対潜哨戒に駆り出された。
潜水艦を見つけたことは一度もないけれど、ある日曜日、
きれいな芝生のある大きな家でパーティーをやっていたので、
僕は飛行機をパンチボウルに落とすくらい低空飛行させてみた。

後からパーティーをしていたのが司令官の家だったと知った。

翌朝、指揮官に呼び出され、散々叱られて、
"あの提督の指揮下にいる限り、昇進はないと思え"と言われた。」


その後、モーガンはワラワラに転勤しますが、そこでも彼は
軍の規則で義務付けられている制帽の着用を拒否し、
裸で飛び回っていたため、ウェストポイント出身で
予備航空士官を毛嫌いしていた士官に連日叱責され、
あらゆる汚れ仕事を押し付けられるという目に遭っています。

「訓練中の飛行機が山中に墜落し、搭乗員全員が死亡したとき、
彼は遺体を回収しに行く仕事を私に命じた。」


士官学校卒が「本チャン」ではない大学出の士官、
正規軍と対等に飛行できるようになったパイロットを虐める、
というのはアメリカでもあったことなんですね。

その頃、彼は「メンフィス・べル」マーガレット・ポークと出会いました。

彼女とは婚約指輪を贈るところまで行ったはずなのに
どういうわけか、結婚には至らなかったのはお伝えした通りです。

これまでの3回、ほとんど脊髄反射で付き合うと同時に結婚してきた彼が、
なぜマーガレットとはあれだけ騒がれていたのに結婚しなかったのでしょうか。

写真を見てもわかるように、モーガンはMMでした。

背が高く(おそらく185cmくらい)すらっとして端正な顔立ちにブルーの瞳、
育ちの良さそうな物腰にアイビーリーグ出身の学歴。
しかも今一番ホットな職業であるミリタリーパイロットです。

こんな優良物件、女の子が放っておくはずがありません。

彼自身が言うように、彼の周りには常に女の子が群がりよりどりみどり。
おそらくマーガレットは、そのうちの一人として
たまたまつきあっていただけの女性だったのではないでしょうか。



映画でも到着後機長がコクピットの写真を手に取るシーンがあります。
任務の間、彼がマーガレットを思っていたのは嘘ではなかったでしょう。

帰国したモーガンは迎えにきていたマーガレットにキスし、
その写真は翌日新聞の第一面を飾りました。


後ろの士官の無関心なこと(笑)

そして、その後、彼女は6月から始まった戦時公債ツァーに同行しましたが、
わずか2ヶ月後には彼らの恋愛は終わっていたといいます。

まあなんだ、勢いで結婚しなくてよかったね、としか・・・。

■第四の結婚 ドロシー

モーガンは、帰国後のツァー途中でボーイングの工場を見学し、
そこでB-29に魅せられてこの爆撃機に乗るキャリアを選択しました。

彼が4度目の結婚をしたのはB-29指揮官となる頃のことです。
相手は、彼のB-29の名前となったドロシー・ジョンソンでした。

ドロシーとは1979年に離婚していますが、彼女との間には
ロバート・ナイト・モーガンJr.という男児始め、
4人の二男二女を設けています。

ドロシー・ジョンソン・モーガン逝去のお知らせ

彼がB-29でサイパンから出撃した回数は26回で、
1944年の11月から1945年の3月にかけてのことです。

そして戦争が終わると、予備役に籍を置いたままかれは
一般人としての生活に戻りました。
飛行時間は2,355時間、引退の正式な日は1945年9月9日でした。

マーガレットとの再会

父の遺した家具会社を経営しながら民間パイロットを目指しました。
B-29についてきてくれた爆撃手のヴィンス・エバンスは
ウィリアム・ワイラーの伝手で映画の脚本家になっていたため、
彼の人脈からTWAのパイロットの仕事を紹介されたのですが、
どう言う理由か、就職にはつながらなかったようです。

そこで実家の家具会社を存続させつつ、VWビートルの販売をしていました。
ドイツの工場に爆撃を落として英雄になった男がドイツ車を売るというのは
なにやら皮肉に思えますが、本人的にはなんともなかったのでしょうか。


そしてドロシーとの結婚生活ですが、専業主婦の彼女とのあいだに子をなし
生活に追われるうちに、モーガンの悪い癖が頭をもたげてしまいました。

ドロシーはモーガンが初めて半年以上結婚生活を持続させた相手ですが、
それは彼女を特に愛していたからとかではなく、子供も生まれたこと、
そして彼がその頃すでに「制服マジック」が解けたただの男となり、
以前ほど女性が群がってこなくなったからだったんだろうと思います。

現に、50年代、彼らの夫婦仲は崩壊と修復の繰り返しだったそうですし。

そんなとき、かつてのパイロット時代の栄光の残渣というか、
残光が、彼の男心?に火をつけてしまうのです。

あるとき、出張でボブはメンフィスに行き、
モーガン・マニュファクチャリング社の関連工場を訪れました。

その際、下心満載でボブはマーガレットに電話をかけて連絡をとり、
独身だった彼女もそれに応じ、
二人は再会してしまいました。

それではご本人の自伝から、このときのことを語っていただきましょう。

『束の間の悲しい時間、

私たちのロマンスは再び燃え上がった。
私たちは何度か会った。
いろいろな場所で会う約束をした。
手紙を書き、愛し合い、議論した。
それはすぐに終わった』。


・・・まあそうなるでしょうな。

言うてこの頃はまだどちらも30代ってところですから、
焼け木杭に比較的火もつきやすかったんでしょうけど、
ボブ、これ不倫ですよ?

一つ言えることは、あのとき結婚しなかったことが
このときの焼け木杭に火をつけたということでしょうか。




■ 第五の結婚ーエリザベス

ドロシーと1979年5月24日に離婚したモーガンは、
6月には5番目の妻エリザベス・スラッシュと結婚していました。

これエリザベスと不倫してたってことだよね?

ときにボブ・モーガン60歳。
彼らのハネムーンは、航空アーティストのロバート・テイラーが描いた
メンフィス・ベルの版画にサインをしに行くことでした。

エリザベスとの結婚は、彼女が1991年肺がんで他界するまで続きました。

彼女の死のおよそ1年前、彼らは1990年公開の映画
「メンフィス・ベル」の撮影を見学に行き、宣伝活動もしました。

そのとき出席していた8人の元クルーとともに、モーガンは
映画スタッフに本物の台詞やディテールに関する提案をしたにもかかわらず、
監督のマイケル・ケイトン・ジョーンズは彼らの協力を断っています。

その結果、映画はボブ・モーガンが見事に控えめに言ったように、
『歴史的に不正確な』ものになってしまいました。

このことは元クルーたちにとっては苦い記憶となったことでしょう。

■ 第六の結婚ーリンダ

エリザベスが亡くなってわずか3ヶ月弱後の4月、モーガンは
航空講演会の広報担当だった47歳のリンダ・ディッカーソンと知り合い、
4ヶ月後には25歳の歳の差結婚式を挙げていました。

相変わらず切り替えと結婚に至るまでの時間が短か過ぎ。



このとき二人は、よりによってメンフィス・ベルの前で結婚式を挙げました。
エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ准将が司祭役となり、
副機長だったジム・ヴェリニスがベストマンを務めるという演出です。

しかし、この企画には批判も多くありました。

「有名な爆撃機の翼の下で開催されるこの結婚式は、
今は亡きマーガレット・ポークの記憶への侮辱であると強く感じる。
モーガン大佐の宣伝のための安価な策略であり、極めて悪趣味だ。
ましてやマーガレットがそのアイデアを喜ぶなどと誰が思うだろうか。」

彼らの結婚を報じるシカゴ・トリビューンの記者に、モーガン自身が

「ポークさんとは結婚しませんでしたが、
戦時中のロマンスを共有した間柄ですので、自分がモデルの
グラマー・ガールを描いた爆撃機の機首の下で行われる結婚式を
認めてくれるでしょうし、喜んでくれると思います」

ぬけぬけと?こう語ったのが反発を呼んだようです。
マーガレット・ポークは1990年に68歳でがんのため亡くなっていました。


■ マーガレット・ポークとメンフィス・ベルの銅像

冒頭の写真は、メンフィス、オーバートン・パークの退役軍人プラザにある
マーガレット・ポークと「メンフィス ベル」の乗組員の記念碑です。

ポークとモーガンは結局結婚することなく終わりましたが、
だからこそ?彼女が死ぬまで二人は良い友人だったそうです。

戦時ツァーの終了とともに別れた後、彼女は航空会社の客室乗務員になり、
28 歳で結婚して数年後離婚しています。

弁護士だった父親の財産を相続した彼女は、その後結婚せず、
さまざまな慈善団体、特にアルコール乱用に対処する団体を支援し、
「メンフィス・ベル」の存続のためにも寄付を惜しみませんでした。

退役軍人プラザの記念碑は、ベルというより彼女を称えるためのもので、
それはあたかも彼女の名を冠した爆撃機が飛ぶのを見上げているかのように、
頭を空に向けて傾け、右手で目を太陽から守っている彼女の姿です。



像の石灰岩の台座の裏側には、彼女の「愛の物語」を伝える銘板があります。


続く。

”デアデビル”オマー・ロックリアとジェニーJN−4〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-21 | 飛行家列伝

潜水艦内部ツァーまでの時間潰しとして観た、
シカゴ科学産業博物館、MSIの展示から、
今日は「飛ぶもの」=飛行体をお送りします。

■ カーチスJN-4D ”ジェニー”と
命知らずのバーンストーマー



このパートは「スモーラー・エアクラフト」と言って、
文字通り小さめの航空機がドームの天井を飛翔しているように
生き生きと展示されています。

この「ジェニー」も、よくよく見れば、ループを描いて
上下逆さまになった瞬間が再現されているのです。

1917年のカーチスJN-4D、通称「ジェニー」は、
軍事、レクリエーション、商業航空に大きな影響を与えた飛行機です。

何千人ものアメリカ人に初めて飛行機を見せることで、
航空の魅力を広く伝える働きをしました。


ジェニーのパイロットは、人々の目を引くために
飛行機をドラマチックな体勢に宙返りさせています。

まさに、バレルロールで逆さまになっている真っ最中。



よく見ると翼の上でスタントしている人がいます。


はい、これが実際の写真。
本当にこんなことやってたんですね。

写真に写っている人は
「デアデビル・オマー・ロックリア」
(命知らずのオマー・ロックリア)

という伝説のエアリアル・スタントマンで、
ジェニーの翼に脚だけでぶら下がって手を離すスタントを行なっています。


右上の筆記体は、

I'm all smashed up from doing stunts.
(わたしはスタントに完璧に打ちのめされた)

エアリアルスタンドのブームがきていたのでしょうか。
「フライング・デアデビルズ」というポピュラーソングの一節だそうです。

ちなみに「daredevils」というのは「向こう見ずな人」という意味です。

Free Stock Footage Flying Daredevil

どんな歌か調べましたがYouTubeにはありませんでした。

あと、この映像で翼にぶら下がっている人なんですが、
体重をもう10キロ減らした方が安全の面でいいのではないかと思います。


【スタントパイロットとバーンストーマーの登場】

 第一次世界大戦後、多くの元戦闘機パイロットが、
戦争が終わって使わなくなった余剰のジェニーを軍から購入し、
スタント・パイロットとして新たなキャリアをスタートさせました。



当ブログ的には繰り返しになりますが、
初めてアフリカ系アメリカ人女性としてプロのパイロットとなった
ベッシー・コールマンも、飛行技術をN-4ジェニーで習得しています。

彼女はテキサスに生まれ、フランスで飛行機の修行を積み、
シカゴに住んでいましたが、その場所は偶然
MSIからほんの1キロ離れたところだったそうです。



「バーンストーマー」
という存在について以前ここでも説明しましたが、
バーン=納屋という語源からおわかりのように、
スタントで人を集めつつ、農家の畑に飛行機を着陸させて、
集まった人々からお金を取り飛行機のライドを体験させる、
(基本的にどさ回り)というようなことを生業にしていた人です。

アメリア・イヤハートの最初の飛行体験も、
街にやってきたバーンストーマーに乗せてもらった飛行機でした。

ちなみにアメリカのディズニーワールドには、
「グーフィーのバーンストーマー」
なるジェットコースターライドがあるそうです。

Barnstorming

ジェニーを使ったバーンストームを紹介する番組です。

バーンストーマーは農家と契約して、
農家にも売上の一部を渡すことで場所を借り、
宣伝を行って人を集めるようです。
現代でもやっている人がいるんですね。

田舎では地域のちょっと刺激的な出し物として定着していて、
おそらくこれを楽しみにしている人も多いのでしょう。


【ジェニー・ストーリー】 

工場で大量生産されたアメリカ発の飛行機として、
カーチス JN-4D "ジェニー" は飛行を一般に公開しました。

なぜ愛称が「ジェニー」になったかというと、それは間違いなく、
JNという機体番号からと思われます。(調べてませんが)

ジェニーは、多くのアメリカ人にとって最初にその目で見た飛行機となり、
たくさんの飛行機の撮影現場で使われることになりました。

ジェニーは頑丈で機動性に優れていたので、
空中アクロバットが盛んに行われる一方、
初心者パイロットに最適の単純で信頼のおける操作性を保ちました。



1)後部のメインコクピットにはパイロットが搭乗

2)前部コクピットには乗客のための席

3)機体を牽引するプロペラ

4)ダブルデッカー(バイプレーン・複葉機)の翼は
一つの大きな翼を持つ飛行機より軽量でかつ強度に優れていた

5)フラップの補助翼(エルロン)のタイプにより、
飛行機は旋回、バンクをすることができた
このためバレルロールのようなスタントが可能となった




上の24セント切手は、アメリカ政府が
ジェニーを使用した航空便サービスを開始した記念に発行されました。

デザインで機体が逆さまになっているのは、
決してアクロバットをしているところを再現しているのではなく、
単に印刷した人が「間違えた」結果で、何枚かしか存在しないため、
これがレア切手になっているのだそうです。

まあ、郵便配達ではまず逆さまに飛行することはありませんから、
これを見たアメリカ人も「?」となっていたかもしれません。


当博物館に展示されているジェニーの現役時代の姿です。
今からフライトを行うところで、離陸の順番を待っているのだとか。

ジョン・L・ブラウンという人がかつてこのジェニーを購入し、
輸送パイロット兼バーンストーマーとして生計を立てていました。

彼のジェニーの尾翼には、価格表が記されています。



3分3ドル、5分5ドルで、宣伝をするためのバナーをつけたら
2航過飛行2ドル、3航過3ドル、5航過5ドルと明朗会計です。

1933年、彼はシカゴの A Century of Progress World's Fair で
このジェニーを使用した後、その飛行機を博物館に寄贈しました。


【命知らずのオマー・ロックリア】

MSIの模型でスタントをしている姿を再現された、
オマー・ロックリアについて最後にご紹介しておきます。



オマー・レスリー・"ロック"・ロックリア
Ormer Leslie "Lock" Locklear
(1891年10月28日 - 1920年8月2日)


は、アメリカのデアデビル・スタントパイロット、そして映画俳優でした。

彼のイケてる容姿と飛行サーカスはハリウッドの目に留まり、
航空郵便機が空中で悪者と戦うアクション映画、

『The Great Air Robbery』(1919年)

で主演を務めるまでに出世します。

20歳のころ、故郷フォートワースで有名なバーンストーマー、
カルブレイス・ペリー・ロジャース(当ブログでは紹介済み)
と出会った彼は、航空機に魅了されるようになりました。

そして1917年、アメリカ陸軍航空局に入隊し、
陸軍で訓練を受け、飛行教官として仕事をしていました。

第一次世界大戦末期、少尉だったロックリアは、
軍に人を集めるための広報部門に所属していましたが、
その頃実際に見たバーンストーミングショーより、
自分の普段の飛行活動の方がはるかに素晴らしい!と感じたことから、
陸軍の二人の同僚を誘って退役して、

「ロックリア・フライング・サーカス」

を結成し、活動を始めました。


でこういうことをやっていたと

彼のスタントグループは大成功で、マネージャーともども大金を稼ぎ、
そのお金で豪奢でモダンな生活ができていたといいます。

彼のトレードマークであるスタントは、
飛行機から別の飛行機に飛び移るという危険極まりないもので、
さらにその後、その技を発展させた「死の舞踏」という技は、
2機の飛行機に乗った2人のパイロットが空中で場所を入れ替わるという
文字通り命知らずのパフォーマンスでした。

彼のスタントが有名になると、ハリウッドでは
彼は映画のスタントマンとして引っ張りだこになります。

そして今や「世界一の航空スタントマン」と言われ、
自身が映画界に進出する道が開かれることになりました。



そしてロックリアは、パイロットたちが航空便を飛ばす様子を描いた映画
『The Great Air Robbery』の主演に契約することになりました。

撮影ではロックリアがカーチスJN-4「ジェニー」で、
飛行機から別の飛行機に乗り換え、地球上数千フィート(おそらく)で
飛行機の尾翼に立つ空中スタントを披露します。

映画はスタントパイロットの活躍を扱った戦後映画の第一弾として、
おおむね好意的に評価されました。

『The Great Air Robbery 』は商業的にかなりの成功を収め、
これに気をよくした彼はハリウッドでのキャリアを続けたいと思いました。

というか、航空ショーでのバーンストーマー生活は結構過酷なので、
もうこれから足を洗おうと考えたのかもしれません。

そして1920年4月、『スカイウェイ・マン』に出演する契約をしました。



しかし、この映画でのスタント飛行の場面は多くなく、
ロックリアの航空機が教会の尖塔を倒すとか、
航空機から電車に飛び移るという二つのスタントはいずれも問題が多く、
ほとんど失敗と酷評されることになりました。

パーソナルライフも、こういう人にありがちな不幸な結果となりました。

最初の結婚はあまりにも二人の性格が違いすぎて早々に別居となりましたが、
相手のルビー・グレイブスは離婚をあくまでも認めず、
二人はロックリアが亡くなるまで法的には夫婦のままでした。



グレイブスと別居中、ロックリアは未亡人のサイレント映画女優、
ヴィオラ・ダナと交際を始め、ロックリアが死ぬまで付き合っていました。

ゆえに彼女は目の前で恋人の死を目撃することになりました。

【事故死】

『スカイウェイマン』の撮影のころ、ロックリアは、
家庭生活が乱れていただけでなく、映画会社に契約の意思がないことを知って
大きなプレッシャーを感じていました。

撮影予定最後となるスタントは最初昼間に行われましたが、
彼は夜間飛行を許可するよう要求して、スタジオはこれを許可しました。

珍しい夜間飛行によるスタントということで、大々的に宣伝されたため、
現地には撮影を目撃するために大勢の人々が集まっていました。

フィールドにはカーチス「ジェニー」を照らすため、
大きなスタジオのアークライトが設置され、
機体が最後のスピンに入るとライトには水がかけられました。

飛行機が油井のそばで墜落したように見せるために、
油井の桟橋に向かって飛び込むというシナリオでした。

この撮影の前に、ロックリアは照明係に、

「ライトを消しても、僕は自分のいる場所がわかっているから大丈夫」

として、デリックに近づいたらライトを消すように言っていました。
一連の空中操縦を終えたロックリアは、降下の合図を出しました。

そして、観客や撮影クルーが見守る中、
彼と長年のフライトパートナー、エリオットの操縦するジェニーは、
スピンの初期状態から抜け出せないまま、油井のプールに墜落し、
大爆発と火災を引き起こして二人は死亡しました。

事故後の調査で、5つのアークライトが完全に点灯したままであったため、
パイロットはそれで目が眩んだのではないかとの憶測が流れました。

普通ならそこで映画はおじゃんになるところですが、
この頃の映画界のモラルはいい加減というか、商魂たくましく、
夜のシーンを除く全編がすでに完成していたため、
フォックスは『スカイウェイマン』の公開を急ぎました。

致命的な事故を利用することを決定したのです。

「ロックリアの壮絶(そして致命的)な
最後のフライトを映し出すフィルムの全貌」

センセーショナルな事故の報道と合わせて広告キャンペーンを打ち、
映画の内容は急遽、彼の以前の功績に焦点を当てるものに変わり、
模型展示と展示飛行を組み合わせたドキュメンタリー作品になったのです。

映画の公開時に、フォックス映画社は利益の10%を
ロックリアとエリオットの家族に寄付することを発表しました。

ロックリアの家族って・・・別居していた元妻ってこと?

それでは故人はおそらく納得しないと思うがどうか。



ロックリアの死亡診断書です。

配偶者はルビー・ロックリアのまま。

死亡日時1920年8月2日、
死亡原因、飛行機事故による全身粉砕と火傷、
埋葬地はテキサスとあります。

死亡時年齢27歳、職業飛行家。



続く。