ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

スカイラブの軌道上ワークショップと3人の地上実験クルー〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-30 | 博物館・資料館・テーマパーク


今、スミソニアン博物館の、マイルストーンコーナーという
歴史的な機体の数々を順次ご紹介しているわけですが、
その中には、月着陸船やジェミニ計画のカプセルなど、
歴史的でありかつアメリカの宇宙開発を物語る展示もあります。

そして同じ空間に、1950年代の米ソの宇宙開発競争から、
近年の国際協力に至るまで、米ソの宇宙開発競争の歴史をたどる
大規模な展示のほとんどは、そのテーマのどちらにも属するというわけです。

■マイルストーンとしての米ソ宇宙開発競争関連展示

今日のテーマに入る前に、このコーナーの展示を
ざっと網羅しておこうと思います。
当ブログではこれからこのテーマについてしばらくお話しするつもりです。

「宇宙開発競争の軍事的起源」
Military Origins of the Space Race

宇宙開発競争の根底にあるのは、文字通り「核」でした。
ロケットは、イコール熱核弾頭を地球全域に飛ばすことができるツールです。

このコーナーでは、米ソの二大大国が、最終的な核攻撃の手法を
互いに相手より早く開発しようと競争に突入していった事情が説明されます。

軍事的起源の実例としてドイツのV-1「バズボム」
そしてV2ミサイルが展示されています。

「宇宙を見つめる目」
Secret Eyes in Space


長い間秘密にされてきた偵察プロジェクトや、
最近機密解除されたスパイ衛星カメラ「コロナ」などが紹介されています。
最初の偵察衛星「ディスカバラーVIII」の実物も展示されています。

「月への競争」
Racing to the Moon


ソビエトの月面宇宙服「クレチェット」アポロの宇宙服など、
アメリカとソ連両国の公的な成果を紹介します。

「月探索」
Exploring the Moon


アポロ11号の月着陸以降、月面の写真を地球に送信したり、
土壌の化学分析を行ったり、その他、科学実験を行うために開発された
さまざまな機器、そしてアポロ月着陸船(Lander)も含まれています。

「宇宙における恒久的プレゼンス」
A Permanent Presence in Space


科学的発見の継続と宇宙協力の時代の幕開けのために、
恒久的な宇宙ステーションを設置しようとする
米ソ両国の取り組みについて紹介しています。

アメリカの宇宙ステーション、スカイラブ軌道上のワークショップ
(これは今日のテーマですが)その内部などが展示されています。

「有人宇宙飛行の50年」
Fifty Years of Human Spaceflight


では、冷戦時代のあの1961年、ソ連と米国が
どのように競争して人類を初めて宇宙に送り出したかを検証しています。

ここではアポロ1号やソユーズ11号などの悲劇についても語られます。

ソユーズTM-10宇宙船、コスモス1443「メルクール」宇宙船
ロシア人を月に着陸させるという「未完成のミッション」のために作られた
宇宙服などが展示されています。
ところで、ソ連とアメリカ両国の宇宙船があるのは当然として、
ガガーリンの宇宙服までがここにあるのはなぜなんでしょうか。

「ハッブル宇宙望遠鏡の修理」
Repairing the Hubble Space Telescope 


広視野惑星カメラ2(WFPC2)と、1993年に望遠鏡の光学系を修正した
補正光学宇宙望遠鏡軸方向交換(COSTAR)を特集しています。

ここにはハッブル宇宙望遠鏡の実物大試験機が展示されています。



正直なところ、わたしはスミソニアン博物館の中にあって、
この構造物が、あまりに建物の壁と同化していたので、
歴史的な何かとは全く思わず、前まで行ってみることもしませんでした。

写真を見たところ、どうも内部を覗き込むことができるような
通路が設けられていて、わたしの撮った冒頭写真では、
人が中に入っていっているではありませんか。

今後いつワシントンDCなんぞに行けるのかもわからないのに、
その時はどうしてこれほどぼーっとしていたのか、自分で自分を叱ってやりたい。

で、わたしが宇宙ステーションを模した建物の一部だと思い込んだこれは、

「軌道上ワークショップ」The Orbital Workshop

という、これだけ聞いたら何のことやらという展示でした。
これを説明するには、まずスカイラブから理解していただく必要があります。

■スカイラブ計画


日本語だと同じ表記になってしまいますが、Loveではありません。
スカイラブはSky Lab、つまり空の実験室の意味があります。

スカイラブは、NASAが打ち上げたアメリカ初の宇宙ステーションです。
1973年5月から1974年までの約24週間にわたって滞在し、その間
3人の宇宙飛行士による3つの別々のクルーによって運用されました。

運用されたのはスカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4の3基。
軌道上ワークショップを含み、太陽観測、地球観測、数百の実験を行いました。

2022年現在、スカイラブは米国が独占的に運用する唯一の宇宙ステーションです。

スカイラブの構成要素

スカイラブは、ワークショップ、太陽観測所、そして
数百種類の生命科学と物理科学のラボなどで構成されています。



地球低軌道へはサターンVロケットを改造し無人で打ち上げられました。
サターンVロケットは、スプートニクショックの後のアメリカが
ソ連に追いつけ追い越せで作り上げ、アポロ月面着陸に使用されたことで有名です。

第1段がボーイング、第2段がノースアメリカン、第3段がダグラスと、
アメリカのビッグ3に配慮しまくって製造されております。

アポロ計画の余剰品のロケットや宇宙船を使用して
科学的探査を行うことを検討する、アポロ応用計画として
宇宙ステーション建設が立ち上がり、それはスカイラブ計画となりました。

スカイラブを打ち上げたのがサターンVにとっては最終飛行となります。

スカイラブには、アポロ望遠鏡マウント(マルチスペクトル太陽観測所)
2つのドッキングポートを持つマルチドッキングアダプタ
船外活動(EVA)ハッチを持つエアロックモジュール
スカイラブ内の主要な居住空間である軌道ワークショップが含まれます。

電力は、巨大なソーラーパネルを見ればお分かりのように、
ドッキングされたアポロCSMの太陽電池と燃料電池から供給されました。

ステーションの後部には、大きな廃棄物タンク、操縦噴射用の推進剤タンク、
そして放熱器なおが設置されています。

スカイラブでは、運用期間中、宇宙飛行士がさまざまな実験を行いました。


■ 軌道上ワークショップ

軌道上ワークショップは、アメリカ初の宇宙ステーションである
スカイラブの最大の構成要素です。

そこには、居住空間、作業・保管場所、研究機器が設置され、
3人の宇宙飛行士であるクルーをサポートするために
必要とされる物資のほとんどが収容されているのです。

スカイラブは2基製造されています。
1973年5月にはそのうち1基が地球軌道に打ち上げられました。

そして地球からの飛行が到着するのを待っていたのですが、スカイラブ計画は
それからスペースシャトル開発への取り組みに移行したため中止されました。

スカイラブ計画が中止された後、NASAは1975年に
バックアップのためのスカイラブを国立航空宇宙博物館に移管しました。

というわけで、軌道上ワークショップは1976年から
当博物館のスペース・ホールに展示され、
若干の改装を施されて居住区は歩けるようになっています。

居住区を歩ける
居住区を歩ける?

うわあああああ(血の涙)

この一文ほど最近自分自身を打ちのめしたものはありません。
ぼーっとして気づかなかった自分が改めて憎い。

このバックアップの宇宙船についても書いておきます。

もし軌道上での救出ミッションが必要となった場合、そして
ステーションが何らかの深刻な損傷を負った際に備えて、
NASAはバックアップのアポロCSM/サターンIBに2名の飛行士を乗せて打ち上げ、
救出に向かわせるというプランを立てていました。

幸い、この車両は一度も飛行することなく終わり、スミソニアンにあるわけです。


居住性・食糧・寝室

製造にあたっては工業デザイナーが関わり、居住性を重視する提言を行いました。
食事や休憩のためのワードルームや窓の設置、色使いなどについてですが、
肝心の宇宙飛行士たちはその類の配慮に疑問を持っていたようです。

ただ、持ち込む本や音楽については各自のこだわりがあり、
当然のことながら、食糧については大変な関心事でした。

宇宙開発の黎明期には食事は「実験のため」の意味合いが強く、
一に栄養二に機能性だったため、味は二の次三の次で、
ほとんど飛行士にとって苦痛でしかなかったようです。

その伝統は初期のアポロ計画まで受け継がれました。
NASAのボランティアが実験的に宇宙食で過ごしたところ、
4日間でもアポロ食で暮らすことはほぼ拷問に近いと結論を下しました。
相も変わらずキューブやチューブの形のそれは、悲惨なものでした。

そこで、スカイラブの食事は、栄養学的な必要性よりも
食べやすさを優先させることで、以前のものより大幅に改善されたのです。
(当社比)


各宇宙飛行士には、プライベートな空間も一応用意されました。
カーテン、寝袋、各自のロッカーを備えた、
小さなウォークインクローゼットサイズのプライベートな寝室です。

設計者はまた、飛行士の快適さと地球での検査結果を得るために、
正確な排泄物が取れるシャワーとトイレの設置にこだわりました。
人体からの廃棄物のサンプルは研究のために非常に重要な資料なので、
万が一救助ミッションが行われる事態になってもこの確保が優先されたはずです。

スカイラブでは、尿を飲料水に変えるなどのリサイクルシステムはなく、
廃棄物を宇宙に捨てるという処理も行いませんでした。

軌道上ワークショップの下には液体酸素タンクがありますが、
エアロックを通過したゴミや廃水を保管するために使用されたのみでした。


■ 運用の歴史 完成と打ち上げ



1969年8月8日、マクドネル・ダグラス社との契約を受注し、
オービタルワークショップは1970年2月にNASAのコンテストの結果
「スカイラブ」と改名されました。

スカイラブは1973年5月14日に改良型サターンVによって打ち上げられます。

打ち上げと展開の際に、サンシェードと太陽電池パネルの1つを失い、
ステーションの電力は大幅に不足するという事故に見舞われました。

有人ミッションは、スカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4が行われ、
スカイラブ5はスタンバイしていましたが中止になっています。


スカイラブ2司令 ピート・コンラッド


スカイラブ3司令 アラン・ビーン

スカイラブ4司令 ジェラルド・カー

3人ともなんか同じようなタイプに見えるのはわたしだけでしょうか。
ヘアスタイルのせいかしら。


ちなみにこれがスカイラブのシャワー施設。
起源よく入っているのはコンラッドですが、
この人はすきっ歯で有名?でした。

今なら「信頼できない」とか言われて宇宙飛行士になれなかったかもですね。

入浴は、温水の入った加圧ボトルをシャワーの配管に連結し、
中に入ってカーテンを固定した後行います。

シャワーの上部にプッシュボタン式のノズルが硬質ホースで接続されていて、
1回のシャワーで約2.8リットルの水が使用できます。
水は個人衛生水タンクから汲み上げる仕組みで、計算量しか搭載していないので、
液体石鹸と水の使用は慎重に計画され、入浴は週に1回と決まっていました。

宇宙シャワーを最初に使用した宇宙飛行士の感想は、

「予想以上に使用するのにかなりの時間がかかったが、いい匂いで出てくる」

シャワーを設置し使用済みの水を放散する時間を含めて、
全行程でなんと約2時間半かかるのだとか。
苦行か。

シャワー操作手順は以下の通り。

1、加圧水筒にお湯を入れ、天井に取り付ける
2、ホースを接続し、シャワーカーテンを引き上げる
3、水を吹きかける
4、液体石鹸を塗布し、さらに水を噴射してすすぐ
5、液体をすべて掃除機で吸い取り、アイテムをお片付け


宇宙で入浴する際の大きな懸念事項の1つは、
水滴が間違った場所に浮かんで電気ショートを起こすことです。
したがって、真空水システムはシャワーに不可欠なものでした。

排水は廃棄袋に注入され、そのまま廃棄タンクに入れられます。

また、スカイラブでは、クルーごとに色分けされた
縫い目のあるレーヨン製のタオルが420枚搭載されていました。

使い捨てか・・まあどっちにしろ洗濯できないしな。



最初の有人ミッションであるスカイラブ2は、
悲惨な状態のままであったステーションの修理がミッションとなりました。
乗組員は日除けを展開してステーションの温度を許容レベルまで下げ、
オーバーヒートを防ぐことに成功しました。

クルーは2回の宇宙遊泳(船外活動:EVA)を行い、
スカイラブとともに28日間軌道上に滞在しました。

スカイラブ3の打ち上げ日は1973年7月28日、続いて
1973年11月16日にはスカイラブ4がほとんど立て続けに打ち上げられ、
ミッション期間は段々伸びて59日間と84日間となりました。

宇宙空間で2ヶ月半っていうのもなかなかの拷問のような気がします。

また、中止となったスカイラブ5以外にも、
レスキューのためのスカイラブが待機していたそうです。


5名乗りのレスキュー用モジュール これはひどい。
アフリカから奴隷を運んでくる船か。

宇宙空間に出てしまえば、何というか覚悟も決まるのですが、
1972年には奇特なことに、56日間、地球上の低圧で過ごした
スカイラブ医療実験高度試験(SMEAT)の3人のクルーがいました。

SMERTクルーのエンブレム
 
クルーのクリッペン、ボブコ、ソーントン

医療実験装置の評価、そしてスカイラブのハードウェアのテストのために
完全重力下での宇宙飛行アナログ試験として行われたものです。

医療知識は得られた、と穏便な?書き方をしていますが、
SMEATの主な目的は、スカイラブミッションで使用するために提案された
機器と手順を評価することの他に、
試験室に閉じ込められたクルーの生理学的データの基準値を取得し、
ゼロGで生活するスカイラブの軌道上のクルーと比較することでした。

その結果、スカイラブの尿処理システムの欠陥が明らかになりました。

彼らの尊い犠牲のおかげで、(死んでませんが)
スカイラブのトイレは、軌道上でのミッションの後、
宇宙飛行士から広く賞賛されることになったのでした。

宇宙にいけないのに、宇宙並みの苦労をしたクルーですが、
そんな彼らの様子は報道陣によってカメラに収められたりしました。

宇宙でもないのに酸素マスクを着用していたため、
入場時に報道陣と話すことはできませんでしたが、
報道陣の一人にサイン入り写真を渡すなどして大いに楽しんだようです。

サインをもらった中には、NASAの関係者も多数いたということですが、
なぜ彼らが地上クルーのサインを欲しがったのかは謎です。

そして、宇宙ほど危険でないとはいえ、クルーは1/3バールの圧力、
そして70%の酸素濃度にさらされ、
閉回路テレビに逐一チャンバー内の行動を映像に撮られていました。

これはある意味宇宙にいるよりストレスかもしれません。

56日間のSMEATシミュレーションでは、スカイラブの模擬シャワーも使用され、
クルーは「良い経験になった」(棒)と述べています。

■実験成果

これで終わるのも何なので、実験成果について書いておきます。
実験は大きく6つのカテゴリーに分けられました。


1、生命科学 - 人間の生理学、生物医学の研究、概日リズム(マウス、ブヨ)

2、太陽物理学と天文学 - 太陽の観測(8台の望遠鏡と個別の装置)
コホーテック彗星(スカイラブ4)、恒星の観測、宇宙物理学

3、地球資源-鉱物資源、地質、ハリケーン、土地と植生のパターン

4、材料科学 - 溶接、ろう付け、金属溶解、結晶成長、水・流体力学

5、学生が提案した19種類の研究
器用さの実験や、低重力下でのクモによる網紡ぎの実験など

6、その他 - 人間の適応性、作業能力、器用さ、生息地の設計・運営


スカイラブ2は、ステーションの修理があったため、
実験に費やせる時間が予定より少なくなりましたが、
スカイラブ3号とスカイラブ4号は、クルーが環境に慣れ、
地上管制官との快適な作業関係を確立し、当初の計画を上回る成果を上げました。

ジョン・ホプキンス大学のリカルド・ジャッコーニは、
スカイラブに搭載された太陽からの放射の研究な度によって、
X線天文学という分野の誕生に寄与した功績を讃えられ、
2002年のノーベル物理学賞を共同受賞しています。

どう考えてもこの件で一番ご苦労様だったのは地上クルーの3人ですね。
彼らには決して各種勲章は与えられませんが。


続く。


ユンカース・ユモ004BとホイットルW.1X〜スミソニアン航空博物館

2022-04-27 | 航空機

スミソニアン博物館の「マイルストーン」機体シリーズには
この二つのエンジンも歴史的な意味から展示されています。

Junkers Jumo(ユンカース・ユモ)004B
Whittle(ホイットル)W.1X

ジェットエンジンの開発の歴史について、当ブログでは
同じスミソニアンのジェット推進シリーズをご紹介してきたのですが、
そのときこの展示を覚えていれば取り上げたものを、
今になって気づいたので、また改めて焦点を当てることにしました。

ピストンエンジンからジェットエンジンへの転換は、
航空史におけるまごうかたなきマイルストーンでした。

この発明以降、従来より遠くへ、速く、
かつ低コストでの移動が可能となったのです。

ユンカース・ユモはドイツ、ホイットルはイギリスのエンジンです。
この頃アメリカは技術的に後進国で、ジェットエンジンについては
蚊帳の外技術だったのですが、なぜか21世紀の今日では、
そのどちらもがアメリカの国立博物館に展示されているのが歴史の妙ですね。



この二つのエンジンを開発した二人の技術者は
ドクトル・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
この二人は全く別々の場所にありながら、それぞれが独自に
ジェットエンジンという発明を通して新しい時代を切り拓きました。

■ ホイットル W.1Xエンジン

Whittle W.1Engine

世界最初の遠心流たーボジェットエンジンの一つです。
イギリスの軍人でありエンジニアであったフランク・ホイットル卿は、
1932年にこの設計の特許を取得し、
1936年にはPower Jets Ltd.を設立しました。

当ブログでは以前、フォン・オハインとサー・ホイットルについて、
(そのときはWhittleをウィットルと表記していますが、今回はこちらで)
特にホイットルの不遇ぶりと晩年の二人の出会に至るまでを
”フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者”という項で
これでもかと書き連ねたことがあるので、今日はその時に書かなかったことを
何とか探し出して書いてみたいと思います。

【パワージェッツWUの”将来性”】

ホィットルが最初に開発したのは、1930年代の終わる頃でした。
パワージェッツWU(WUはホイットル・ユニットの意味)と名付けられた
この実験用ジェットエンジンについてはイギリス政府は無関心でした。


ホイットル中尉(当時)

これは、前段でも書いた、遠心式ターボジェットについての
ウィットル論文に対する軍需省の評価が低く、
ほぼほぼ無視されていたということが祟ったと思われます。

しかし、ウィットルが画期的なアイデアであるところの
ジェットエンジンに関する論文をどういうわけか気前良く公開していたため、
各国の目端の効く技術者たちが、このアイデアを後追いし始めていることに、
お役所はようやく気づいたというところかもしれません。
(全く想像で言っているだけですので悪しからず)

ともあれ、突如興味を示した航空省が、科学研究部長のパイ博士(Pye)ら
視察団を送り、パワージェッツWUのデモンストレーションが行われました。

この実験結果については、ある資料は失敗だったといい、
ある資料は非常に成功したとされていて、実際どうだっかは不明なのですが、
WUは飛行に用いるには非力で重かったというのは事実でしょう。

開発中に圧縮機の弱さや燃焼の不安定などのアクシデントもあって、
ホイットルらは苦労したというのも事実だと思いますが、
航空省はこのターボジェットに可能性を感じたのだと思います。

これまでにイギリスが装備してきたレシプロエンジンと併用して
軍備においてそれどころか競合する存在になることを見抜いた研究部は、
実験そのものではなく将来性を買い、エンジンを購入すること、
そしてホイットルのパワージェッツ社の運転資金として
そのエンジンを貸し出す、という形で資金提供をすることを申し出ました。


そして、英国航空省は、1939年にこのエンジンを発展させたものを
グロスターE.28/39テスト機で評価することを決めたのです。

W.1の開発が進むと同時に、グロスターは地上試験用に
プロトタイプのW.1Xを搭載しました。
このときエンジンは開発者の名前をとって
「ホイットルスーパーチャージャー式W1」
と命名されていたそうです。



【W.1ジェットエンジン空を飛ぶ】

1937年にベンチテストされたホイットルWUとは異なり、
W.1は航空機への搭載を容易にするために左右対称に設計されました。

W.1の新基軸的なところは、

ヒドゥミニウムRR.59合金製(高強度、高耐食性、高耐熱性)の両面遠心圧縮機
逆流式ラボック(Lubbock)社製燃焼室(燃料が燃焼する空間)
「もみの木の根」形状で固定された72枚のブレードによる

水冷式軸流タービン部
ファース・ビッカース・レックス78(ステンレス)を使ったタービンブレード

などが採用されていたことです。
水冷式は後に空冷式に変更されています。

W.1型では、その後コンプレッサーの関係で2Gに制限されることになります。
ジェットパイプの最高温度は597℃になりました。


あら飛んじゃった

しかし、新しい設計の開発が超長引いてしまったため、
この際飛行不能と判断された部品と試験品などを使って、
テストユニット「アーリー(初期)エンジン」を作ることになりました。

これを組み立てたのが、ワンオフ(一回しか使わないつもり)の「W.1X」

1941年4月に行われたタキシング試験で、公式には飛行不可能なエンジンが
グロスターE.28/39の動力源として短い「ホップ」を行い、
1ヵ月後に正式なW.1エンジンとなって飛行試験にこぎつけたのです。

誰かは知りませんが、飛行機の前で写真を撮っている人たち
(多分メガネの人がサー・ウィットル)はさぞ嬉しかったことでしょう。

この後、飛行可能なエンジンを取り付けられたE.28/39が
史上最初の公式飛行を行ったのは1ヶ月後でした。

1942年2月、E.28はW.1Aエンジンで飛行試験を行い、
このとき高度4,600mで時速430マイル(690km)にまで到達しています。



さて、ここで登場するのが、あわよくばこの新技術を
ノーリスクで手に入れたい、と虎視眈々と狙っていたアメリカ
でした。

1941年に英国を訪問したヘンリー・ハップ・アーノルド将軍(でたー)は、
アメリカで飛行させるためにW.1Xの機体現物と、
より強力なW.2B量産型エンジンの図面、ついでに
パワージェッツ社の技術チーム一抱えを、
アメリカにまるっと空輸するよう手配しました。

さすがは技術はないが、やる気と金だけはたんまりあるアメリカ。(当時)
スケールが違う。

そうやって空輸されたW.1は、まずゼネラル・エレクトリックI-A、
次いでゼネラル・エレクトリックI-16の原型となり、
W. 2Bはというと、1943年には推力750kgfを発生するまで開発されました。

(イギリスから連れてこられた技術陣がその後どうなったかは不明)

GE社の改良型であるIA型は、1942年10月2日に、ここでも紹介した
米国初のジェット機であるベルXP-59Aエアラコメットに搭載されています。


その後W.1Xは耐用年数を終えると英国に返還されましたが、
1949年11月8日、パワージェット社からスミソニアン博物館に寄贈され、
再び大西洋を渡ってアメリカにやってきてここにあるというわけです。


タイプ ターボジェット 
推力:5,516 N(1,240 lb)/17,750 rpm、
3,781 N(850 lb)/16,500 rpm(初飛行のため減衰) 圧縮機。
圧縮機:単段、ダブルエントリー、遠心式 燃焼器:10個の逆流室 
タービン:単段、ダブルエントリー、遠心式 単段軸流式 
重量:254kg(560ポンド)


■ ユンカース・ユモ004Bエンジン

Junkers Jumo 004B Engine

スミソニアンの説明はいきなりこんな言葉から始まります。

「フォン・オハインのエンジンの最初の成功にもかかわらず、ドイツ当局は
ユンカースから、より有望なターボジェットを開発することを支持しました」


ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハインが発明した
ジェット推進システムに最初に興味を示したのは、
これも前述の通り、ハインケル社でした。


エルンスト・ハインケル(左)とオハイン(当時23歳にしては老けてない?)

オハインはハインケルでターボジェットを搭載した初の航空機、
He 178V1を開発したのですが、残念なことに(ラッキーだったという説も)
ハインケル社がナチスとドイツ空軍に冷遇されており、
初のジェットエンジン搭載についても全く日の目を見ませんでした。

ハインケルHe178 V1

冷遇されていたハインケルとオハインでしたが、英国科学省のように、
やはりこの技術の可能性を見出した人物が現れたのです。


左から:シュエルプ、ホイットル、オハイン、
1978年オハイオ・デイトンの国立空軍博物館にて

この一番左の人物、
ドイツの技術者ヘルムート・シェルプ(Helmut Schelp)、
そして、

ハンス・マウヒ(Hans Mauch)
の二人は、ドイツの航空エンジンメーカー各社に声をかけて
独自の開発プログラムを開始するように促しましたが、
どの会社も新技術に懐疑的だったため、なかなか軌道に乗りませんでした。

1939年、シェルプとマウヒが各社を訪れ、進捗状況を確認したところ、
ユンカース・モトーレン・ヴェルケ(Jumo)部門の責任者が言うには、

「コンセプトが有用であっても、それを手がける者がいない」

そこでシェルプは、ユンカース社のターボ/スーパーチャージャーの
開発担当、アンセルム・フランツ博士に白羽の矢をたて、
開発チームを立ち上げさせました。


アンセルム・フランツ博士(Dr. Anselm Franz)

プロジェクト名はRLMの109-004

この109-は、第二次世界大戦中のドイツのエンジンプロジェクトに共通で、
有人飛行機用ロケットエンジン設計の識別にも使われています。

フランツは、保守的でありながら革新的な設計を選択しました。

「軸流」と言って、エンジン内に連続的でまっすぐを空気の流すという
新しいタイプのコンプレッサー(軸流コンプレッサー)を利用する点で、
フォン・オハインと異なるアプローチを採用したのです。

この軸流圧縮機は、効率にして約78%という優れた性能を持つだけでなく、
高速の航空機にとって重要な、より小さな断面でできていました。

開発においては、実に戦略的というのか実質的というのか保守的というのか、
生産の迅速化と簡素化のために、理論上のポテンシャルを追求せず、
それどころか大きく下回るエンジンの生産を目指しています。

そのため、より効率的な1個の環状燃焼器ではなく、
6個の「フレーム缶」を使ったシンプルな燃焼エリアを選択しました。

タービンの開発においても、開発用エンジンではなく、
すぐに生産に移れるエンジンの試作に取り掛かったのも同じ理由からです。

フランツの堅実すぎるアプローチはRLMから疑問視されていたそうですが、
004は生産と使用を開始する運びとなりました。

【テスト飛行】


Me262戦闘機のナセルに搭載されたJumo 004エンジンの正面図


1940年10月、ディーゼル燃料式004A試作1号機の初試験が行われました。
RLMとの契約では最低推力が600kgfに設定されていたのですが、
最高推力は430kgfに留まりました。

その後航空省のコンサルタントの協力を仰ぎ、問題解決して
8月には5.9 kN、12月には9.8 kNで10時間耐久飛行に成功しました。


1942年7月18日、試作機のメッサーシュミットMe262
004エンジンを搭載して初飛行し、
その後RLMは80基の生産を請け負う運びになります。

Me262試作機の動力源として最初に作られた004A型エンジンは、
材料の制約がなかったので、ニッケル、コバルト、モリブデンなど、
希少な原材料を使っていたのですが、よく考えたらこれでは
大量生産することができません。

そこでフランツは、燃焼室を含むすべての高温金属部品を、
アルミニウムのコーティング軟鋼に変更。
タービンブレードはクロマジュール合金(クロム、マンガン、鉄70%)、
という風に仕様を変えて構造を簡略化しました。

こだわりすぎると良くないってことですね。

【欠陥調査と本格的な生産】

その後、1943年に004B型はタービンブレードの故障を起こしますが、
ユンカースチームはこの原因を特定することができませんでした。

材料の欠陥、粒径、表面の粗さといった点もチェックしまくった結果、
ブレードの固有振動数が故障の原因であることを突き止めたのです。
ブレードの周波数を上げることによって、
エンジンの運転回転数を下げて解決しました。

なんだかんだで大変だったため、
ようやく本格的な生産が開始できたのは、1944年初頭のことです。

そしてこのジェットエンジン設計における工学的な細部の課題は、
結論としてMe262の戦線への投入を遅らせる原因になりました。

それではMe 262が早く投入できていたら戦況は変わったのか?

と言われると歴史にイフはないとはいえ、
これくらいでは勝敗が覆ることは決してなかっただろうとしか言えませんが。


アンセルム・フランツ博士は、多くのドイツ技術者の例に漏れず、
戦後アメリカに渡ってアメリカ空軍のために研究を行い、
その結果ライカミングT53ターボシャフトエンジン
ハネウェルAGT-1500タービンを開発しています。

T-53はベル社のUH-1ヘリコプターに、
AGT-1500はM1エイブラムス戦車に搭載されました。


ちなみに、1932年の段階で、ハンス・フォン・オハインはこう言っています。

”The airplane rattled because it had piston engines...
It was not as romantic as I thought it would be...
I thought flying should be elegant.”

ピストンエンジンのせいで飛行機はガラガラとウザい・・
これって僕基準ではロマンチックじゃないんだ・・
飛行ってのはエレガントじゃなくちゃ)

日本のあの飛行機設計者もそうだったようですが、
技術者というのは時としてスタイリストでロマンティストですね。

しかしこれが彼がジェットエンジンを作るモチベーションとなりました。
そして奇しくも同じ時期に、ジェットエンジンの着想を得ていた
サー・フランク・ホイットルは1929年、こう言っているそうです。

”Why not increase the compressor compression ratio
and substitute a turbine for the piston engine?”

(コンプレッサーの圧縮比を上げて、ピストンエンジンの代わりに
タービンを使ってはどうかな?)

二人が戦後アメリカで出会ってソウルメイトになったという話は
以前ここでもしていますが、同時期の技術者として
二人には元々前世からの因縁めいたものがあったのかと思わされます。



最後に、スミソニアン博物館におけるものすごい写真を。

左から

「ボーイング727の父」ジョン・スタイナー、
ハンス・フォン・オハイン、
アンセルム・フランツ、
チャールズ’チャック’イェーガー准将、
サー・フランク・ホイットル


わかる人にしかわからない、絢爛豪華なメンバーです。



続く。



偵察衛星の「隠れみの」だったディスカバラー計画〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

当ブログのスミソニアン博物館の空中軍事偵察の歴史を扱った
「ザ・スカイ・スパイズ」 シリーズが終わって久しいわけですが、今回
このディスカバラーXIIIなるなにやら装置満載のお釜について調べていて、
これがかつては「スカイ・スパイズ」シリーズの一環だったことがわかりました。

昔のスミソニアンの資料を見ると、明らかにこれは偵察機器としての扱いで、
しかも他でもないスカイスパイズのコーナーにあったんですから間違いありません。


ところが今現在は、グラマンの「マイルストーン」展示の、
宇宙開発的なコーナーにあるわけです。
隣のモニターではX-15のテスト飛行の映像などを繰り返し放映し、
後ろには「パイオニア」と「パーシングII」ミサイルが聳え立っております。

理由はわかりませんが、このお釜がいつのことなのか、グラマンに
「マイルストーン」認定されて展示方法が変わったのだとしか理解できません。

■ ディスカバラー(Discoverer)XIII

ディスカバリーではなく、DISCOVERERです。
皆さんもあまり聞き覚えがないかもしれません。

ディスカバラー衛星計画は、実は今日に至る
「宇宙からのスパイ(偵察)」時代の嚆矢となった軍事作戦でした。

なるほど、この展示が「スカイスパイズ」にあった訳がわかりましたね。

「ディスカバラー」。

それは高度に分類されたアメリカ空軍とアメリカ中央情報局、CIAが計画した
「コロナ偵察衛星プログラム」の初期に使用された「カバーネーム」でした。

そして、ここにあるDiscoverer XIIIカプセルは、
「打ち上げ軌道から回収されたアメリカ最初の人工物」
として、ここマイルストーン展示にふさわしいとされたのでありましょう。

多分ですけど。


 1960年8月11日。
アメリカ海軍は、ハワイ北部の太平洋上から、カプセルカバー、パラシュート、
そしてディスカバラーXIII再突入カプセルを回収しました。

再突入カプセル(Reentry Capsule・リエントリーカプセル)とは、
宇宙飛行後に地球に帰還する宇宙カプセルの部分のことを言います。

カプセルの形状は空気抵抗が少ないため、最終的にはパラシュートで降下し、
陸上や海上に着地するか、航空機に捕獲されます。

「ディスカバラー」とは、極秘プロジェクトだったコロナ光偵察衛星の愛称でした。
ディスカバラーXIIIには、カメラやフィルムは搭載されておらず、
カプセルの中には診断用の機器しか入っていません。

しかし、1週間後の「ディスカバラーXIV」からは、カメラとフィルムを搭載し、
なんとその後、1972年5月のコロナ計画終了までに、
120機以上のコロナ衛星が、ソ連や中国などの撮影に成功しているのです。


この前日、バンデンバーグ基地から打ち上げられた
人工衛星「ディスカバラーXIII」は、空軍のC-119によって空中で回収されました。

航空機の後ろに見える空中ブランコのような装置には、
カプセルのパラシュート索を引っ掛けるためのフックがいくつも付いています。

C-119の愛称は「フライング・ボックスカー」
「ボックスカー」という名前に日本人ならピンときてしまうわけですが、
あちらは爆撃機で、こちらはフェアチャイルド社製造の輸送機です。

双銅の、P-38を思わせるような独特の機体で、ボックスカーの意味は
有蓋の貨車なので、あまり深い意味はなかったのだと思います。


■冷戦と偵察

1950年代、アメリカとソビエト連邦の冷戦が深まるにつれ、
アメリカ人のソ連に対する警戒感はますますひどくなっていきました。

海の向こうから伝わってくる共産主義国家特有のプロパガンダもさることながら、
この秘密主義の巨大国家の軍事力に対して実質的な情報が全くなかったことも、
この恐怖を増大させたと言っていいでしょう。

そこでアイゼンハワーは、鉄のカーテンの向こう側の有益な情報を提供するため、
ソ連領上空の写真を撮影する新しいシステムの開発を許可したのです。

アメリカ初の人工衛星計画

この命令によって開発されることになったシステムのひとつが
コードネーム「アクアトーン」Aquatoneでした。
当ブログでもお話ししましたが、防空システムの届かない上空に
高高度偵察機U-2を飛ばして、偵察撮影するという計画です。


犠牲者も出た

これは確かに多くの成果を得ましたが、国際法違反であった上、
当初からソ連のレーダーとミグ戦闘機に追尾されていたので、
結局1960年までソ連領内での20数回のミッションしか行えませんでした。

そこで次の新しい計画として、偵察衛星を飛ばすことを考えました。
軌道上からソ連の詳細な画像を送ることができる衛星の開発です。



1956年7月までに、秘密の高度偵察システムの開発計画が承認されました。
これは、あの失敗計画、バンガード計画が緒につく2ヶ月前だったといいます。

これは偶然でしょうか。
そんなわけありませんよね。

この計画は、秘密だったとはいえ、国家初の衛星計画だったってことです。

というわけで、U-2を製造したロッキード社が開発を受注したのですが、
予算はというとたった300万ドル(現在の金額で約2800万円)。
まあ、やる気がないというわけではないが優先順位は低かったってことですね。

その後企画開発は粛々と進められ、フィルムを露光し、軌道上で現像し、
その後スキャンして地球に送信するシステムを開発しました。🎉

信号情報パッケージ、後にミサイル発射を探知するための赤外線センサー、
スピン安定化写真システム(これってもしかしてジンバル的な?)も研究されます。
小型の帰還カプセルの中に露出したフィルムを戻すという方法も開発されました。


打ち上げはソーThor)中距離弾道ミサイル(IRBM)を使います。

IRBM「ソー」は、ダグラス・エアクラフトの製造です。
核弾頭を2,600kmの範囲に飛ばすことができる兵器システムで、
全長約18.6メートル、底面の直径2.4メートルの大きさです。

エンジンはロケットダイン社のMB-3パワープラントを搭載。
ケロシンのロケット推進剤と液体酸素(LOX)を燃焼させて推力を発生させます。

ロケットは3段式で、ソーの上に、バンガードロケットの2段目を改造して搭載。
第3段はスピン安定化型X-248ロケットモーター、エイブルで、
これも海軍がヴァンガードロケット用に開発したものでした。

この仕組みは1958年に最初のパイオニア探査機を月に打ち上げるために採用され、
後にNASAのデルタロケットの基礎となっています。

しかしながら、計画が遅々として進んでいないらしいことが明らかになりました。
というのも、あの「スプートニク・ショック」による不安と、
秘密であるはずのこのプロジェクトをどこでかぎつけたのか、マスコミがこれを
「空のスパイ」(Spy in the Sky)
などと呼び始め、プロジェクトの安全性が懸念されるようになったのです。

そこでアイゼンハワー政権は、思い切った行動を取らざるを得なくなります。

偵察衛星の開発を加速させると同時に、上空からの偵察という
微妙なテーマに関する世論の議論を避けつつ計画を軌道に乗せるために。

コロナ計画誕生

「プロジェクト・コロナ」と名付けられたこの計画で、
ロッキード社は、この小規模で集中的な取り組みの契約を継続し、
カメラの下請けにはフェアチャイルド・カメラ&インスツルメント社
帰還カプセルやSRV(衛星再突入車)の開発には
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。

この後の開発についての詳細は省きますが、注意したいのは
この時に開発された推進システムなどは、のちの宇宙開発プログラムに
そのまま採用されたりすることになります。
「アジェナA」と呼ばれる推進システムもその一つでした。

フェアチャイルド社の開発したカメラは、近地点約190kmの軌道から
衛星の地上軌道に対して、垂直方向に70°の範囲を
最大12mの解像度で撮影することができるものでした。

70mm判のアセテートフィルムが露光されると、
スタック最上段のSRVに送り込まれ、地球に戻されるという仕組みです。


SRVの大きさは直径83cm、高さ69cm、質量約135kg。
お椀の外側は、再突入時の熱シールドとして、アブレーション材で覆われています。



内部には金メッキを施した「バケツ」があり、
積荷のフィルムから熱を反射させる効果があります。

大気圏に再突入すると、パラシュートが開き、最後の降下が行われます。
有人カプセルと同様、機器の安全を考えた場合、水中で回収したいのは山々ですが、
懸念される可能性もありました。

アメリカ海軍よりもソ連の潜水艦の方が先に
ペイロードを拾ってしまうことです。

そこでこれを避けるために、空輸による回収が提案されたのでした。
フェアチャイルド社のC-119「フライング・ボックスカー」貨物機に
特殊なブランコ状の装置をつけて、降下するSRVのパラシュートを引っかけ、
内部にウィンチで運ぶという方法です。


問われるパイロットの操縦技術

コロナ計画は(アメリカがコロナをCOVID-19としか呼ばないわけがわかりますね)
アメリカ政府の最高機密とされ、1960年代を通じて、
冷戦における二大国のパワーバランスを維持するのに役立つ、
最重要の情報をアメリカの政策立案者に提供し続けていました。

それにしても、どうしていまだにその名前に認知度がないのか、
ほとんどの人がこれまで一般のニュースや印刷物で見たことがないのかというと、
それは、事柄上、国家最重要機密として長年その存在は秘匿されていたからです。

計画に投入された費用は、こちらは広く広報されたアメリカの宇宙計画に
匹敵するだけの額だったと言いますが、にもかかわらず、
1995年に当時の大統領ビル・クリントン政権がその機密を解除するまで、
アメリカ国民はその事実を知りませんでした。



1960年、アイゼンハワー大統領と二人の空軍将校が、
ホワイトハウスで行われた式典で回収されたカプセルを見学しています。

一般に向けては、カプセルは科学衛星ディスカバラーシリーズの計画の一部、
という報道がなされ、その真の使命については知らせていない、
ということをおそらく大統領はこの時報告されたと思われます。

それにしても、何も知らないでこの写真を見たら、
まるで大きな金だらいかカレーを作る鍋みたいですな。


金メッキが施された再突入カプセルは、宇宙の軌道から戻ってきて回収されます。
この段階で、上部ロケットステージと熱シールドはどちらも投棄されています。

その後パラシュートを開いたディスカバラーXIIIは海に落下し、
ヘリコプターによって引き揚げられました。

これ以降のモデルは海に落ちる前に空中でキャッチされるようになっています。



スミソニアンのカプセルはゼネラルエレクトリック社製。
カプセルが用済みとなった1960年に米空軍からNASMに寄贈されました。

もしソ連がそれをおこなっていなければ、史上初めて
軌道上から回収された人工物として、このマイルストーンコーナーにあるわけです。
本コーナーでのキャッチフレーズは、

"ディスカバラー衛星計画は、今日まで続く
宇宙からのスパイ時代の幕開けとなった"


初期の偵察衛星に搭載された写真システムは、いちいち地球に戻し、
実験室で電子的に現像しなけれなならないフィルムを使用していました。
現代の衛星では画像を送信することができるので、
衛星はその分長く軌道に留まって多くの画像を取得できます。



この写真は、ソ連のチュラタム発射基地をアメリカの偵察衛星が撮影したものです。
これはディスカバラーXIIIの成功以降に開発された衛星でした。

赤い線が付けられている部分には2本の避雷針と、
ロケットは発射台の上に白い形で確認することができます。
それに挟まれた巨大なN-1が写っています。

早朝なので長い影が地面に写っており、その存在がよくわかります。



■初めて宇宙に打ち上げられた星条旗

実は、ディスカバラーXIIIカプセルの中にはアメリカ国旗が搭載されており、
この軌道上から回収された人類初の物体に密かに格納されていた米国旗は、
1960年8月15日にホワイトハウスで行われた式典で公開されています。



「大統領、このカプセルの中には、多くの遠隔測定装置や科学機器、
そしてもう一つパッケージがあります」

右から2番目のアメリカ空軍参謀長、トーマス・ホワイト元帥は、
アイゼンハワー大統領に今こう言っているところです。

「アメリカ国旗です」

ディスカバーXIII再突入カプセルに入るように慎重に折られた
幅90、高さ61センチのアメリカ国旗は、
こうして軌道上から戻った最初の宇宙記念品となりました。


アイゼンハワーは、広げた旗を手に取りながら、礼と共に

「この旗がすべてのアメリカ人の目に触れて、この偉大な業績を
思い起こすことができるような場所に置かれるよう努力するつもりです」

と約束しましたが、残念ながら事柄上公にしにくい任務だったこともあってか、
1961年のアラン・シェパードの弾道飛行の時の星条旗が「宇宙初」となり、
すっかり忘れられていました。

この旗は確かに、史上初めて軌道上から回収されたものですが、
「初めて飛行したもの」ではありません。

その理由を説明します。

先ほども申し上げたように、ディスカバラー計画は、CIAと米空軍による
一連のコロナ偵察衛星(軍機密任務)の公的な隠れ蓑でした。

そもそも再突入カプセル「ディスカバラーXIII」は、次の打ち上げから始まる
宇宙からのフィルムリール返還のために開発されたものだったのです。


ロッキード社の先行開発部門「スカンクワークス」で働く人々にとっては、
いくつかのカプセルのうちどのフライトが最初に成功するか知る由もありません。

つまり、ディスカバーXIII以前、太平洋から回収されるまでに打ち上げられ、
失われたいくつかのカプセルにも、実は国旗が仕込まれていたのでした。

これは単なる偶然なのですが、、ディスカバラーXIIIのミッションは、
ハワイがアメリカ合衆国50番目の州になったことを記念して
50星の米国旗が初めて公式に掲げられた直後に行われました。

そして、ディスカバラーXIIIが初めて地球を周回して無事に戻ってきたので、
その内部に収められた米国旗が「最初に軌道から帰還した国旗」となったのです。

あくまでも偶然だったのですが。

五十個の星がついたばかりの国旗がこのような快挙となったことを
アメリカ上層部はラッキーな偶然と考えました。
ホワイト元帥はアイゼンハワーに向かって、

「この旗が49番目の州(メリーランド)上空宇宙空間の軌道から放出され、
50番目の州であるハワイの近辺で回収されたことは、重要なことです」

と胸を張りました。

この後、アメリカの宇宙ミッションでは、カプセルに記念品を入れて
飛行させるという公式・非公式な伝統が生まれました。

その後のディスカバラー(コロナ)の飛行では、いつの間にか
打ち上げチームのメンバーが無許可でコインやらニッケルやらを勝手に乗せ、
それが後から発見されるという由々しき事態が相次いだため、
ワシントンは現場に、記念品打ち上げの習慣を止めさせる責任を課す
厳しい言葉のメッセージを送った、と記録には記されているのだとか。


スミソニアン博物館には、マーキュリー7の一人であるアラン・シェパードが、
自分でも知らないうちに、マーキュリーカプセルに混入していた?
(というかすっかり忘れていたらしい)アメリカ国旗が所蔵されています。

シェパードは何の気なしに星条旗を丸めて船内の配線の束に貼り付けていて、
それは着水した後のカプセルから発見されました。

「1961年5月5日、米国初の有人宇宙飛行としてNASAの宇宙飛行士
アラン・B・シェパードが15分間の軌道下飛行に同行したこの旗は、
米国で初めて宇宙に飛び立った旗らしい


と、スミソニアンは記述しています。
これは間違いで、つまり初めて宇宙に飛び立った旗というのが、
ディスカバラーXIIIの国旗であることは皆さんもうお分かりですね。

でっていう話ですが。


続く。


映画「緯度0大作戦」〜護衛艦「いそなみ」の海軍軍人たち

2022-04-23 | 映画

日米合作といいつつ、実質アメリカ側の制作が逃げてしまい、
東宝がアメリカ人俳優を使って作ることになった映画、
「緯度0大作戦」原題”Latitude Zero”。

どうにも「大作戦」という言葉がいただけませんが、
かつて、原題「ミッション・インポシブル」のあのシリーズに
「スパイ大作戦」と名づけていたということからもわかるように、
昭和の時代にはこれがイカしていたのだと考えられます。

どんな原題もダサくしてしまうことに定評のある日本映画宣伝部ですが、
今なら「ラティチュード0」になった可能性も微量子レベルで存在します。



さて、マリクの支配するブラッドロックでは、彼とその情婦が
世界的な遺伝子治療の権威、岡田博士と娘を脅迫しています。



手術でこんな姿に作り替えてやる、という、
若い娘にとっては死ぬより恥ずかしい生体手術だけでなく、
岡田博士を殺して直接脳からデータを取り出されたくなければ、
12時間以内に大人しくデータを渡せというのです。


「電波がこの島から発信されてるわ」

岡田博士は隙を見てメガネの裏側に仕込まれたGPSを発信しました。
当時はSF世界の技術だったことが今日では日常になっています。



岡田親子を囮にアルファ号を誘き寄せようとしていたマリクには
手間が省けたというところです。



岡田博士からの信号を受信したアルファ号は救出に向かうことになり、
地上にその日戻る予定だった3人は、ぶっちゃけノリで
救出作戦に参加する名乗りを上げたのでした。



準備として、彼らは「免役風呂」に入らされます。
効能は放射能だけでなく、たぶん打身捻挫リューマチなどで
ただし効果は24時間しか持続しません。



彼らが肩まで浸かっていると、女性用脱衣所から妖しい音楽と共に、
同行するアン・バートン医師が現れました。



全員が凝視する中、湯船に入ってきます。



彼らはマッケンジー艦長の指示を受けて免疫風呂に入浴。



頭まで3秒浸かるだけでOKです。
奥に海坊主がいますが、アルファ号乗員の甲保ですのでお気になさらず。



入浴を全員が同時に終了し、さて上がる順番ですが、



女性を先に上がらせようとして失敗し、がっかりする3人。

これは本作品唯一の「お色気シーン」となりますが、
日本制作だけあってギリギリ寸止めという最小限の露出で、
観るものの想像力にお任せするという演出となっています。

ここで男女が全裸のまま科学講義を行うシーンも撮影されましたが、
当時の公序良俗の観点から過激すぎるとして削除されたそうです。



湯から上がるといきなり湯の効能テストが始まりました。
なんと撃たれても弾を受け付けないのです。



湯上がり後に支給されたスーツは金とプラチナの合金素材で、
お湯の効能に加え、さらに熱を防ぐのに優れています。



さてこちらブラッドロック研究室。
マリクとルクレティアは、岡田博士親子に見せつけるため、
得意の人体改造手術に取り掛かりました。

「マリク!やめて!」

寝台に縛られて連れてこられたのはブラックモスではないですか。



マリクは部下であったはずの彼女の脳をライオンに埋め込み、
飛べるように禿鷹の翼をつける悪魔の手術を決行するつもりです。


変なケダモノに押さえつけられながら脳の移植手術を見せられ、
岡田博士の娘鶴子は気絶してしまいました。



「地上では最近心臓移植手術がようやくできるようになったらしいが、
わしはこれから人間の脳をライオンに移植してみせる」


ふと気になって調べたところ、札幌医科大学の和田寿郎教授が
日本で一例目となる心臓移植手術を行ったのは1968年、
つまりこの映画の前年だったことがわかりました。

その時ルクレティアがアルファ号の到着をモニターで発見しましたが、
マリクは悠々と手術を行っています。



岡田博士救出には、アン・バートン博士以外の全員が参加します。
マッケンジー艦長は、もし一日で我々が帰ってこなければ
その時は待たずに帰還せよとバートンに命令しました。



それはつまりこれが最後かもしれないという意味です。
最後にアルファ号を出ていくジュール・マッソンを彼女は凝視し、



彼もその視線に答え、



額にキスして別れを告げました。
この人たちいつの間に・・・。



崖の上には全員背中に背負ったジェットパックでひとっ飛び。

島の各部には電磁波が巡らせてあり、身動きできなくなったりしますが、
彼らはその度チームワークで突破していきます。



岡田親子とコウモリ男が見守る中、マリクの手術は終了しました。



黒い蛾の脳と羽を持ったライオン、グリホンの誕生です。



「さあ、マッケンジー博士を探し出してやっつけるんだ」

ちょっと待って?

黒い蛾って、こんな姿にされてきっとマリクを恨んでるよね?
素直に命令に従ったりするかな。

わたしだったら、マリクと、特に自分の憎き天敵、
ルクレティアを真っ先に手にかけると思うけど。



アルファ号ご一行様が、崖崩れなどに遭いながら進んでくると、
彼らを待ち受けていたのは大ネズミの群れでした。

これらもマリクが作ったもので、ブラッドロック島を護衛しています。
大ネズミというだけあって人間を喰い、30秒で骨だけにしてしまいマウス。



指から熱線が放出される武器でも撃退しきれず、
さらに高濃度の酸が満たされた川に脚を漬けた甲保が負傷したので、
彼らは甲を支え、ジェットパックでひとっ飛びしてネズミから逃げました。

ネズミはそのまま沼で溶けてしまいましたとさ。



マリクがいよいよ岡田博士の脳を取り出そうとした時、
間一髪、アルファ号一同が現場に雪崩れ込んで乱闘となります。



彼らを迎え撃つのはやはりマリクの「創造物」コウモリ人間たち。


ルクレティアは麻酔の入った注射器でマッケンジーに襲いかかりますが、
逆に突き飛ばされてしまい、そこにはマリクのナイフが・・・。



マリク、最愛の人を自分の手で殺めてしまったのです。

「ルクレティア、すまなんだ〜〜」



一筋の涙をこぼしながら愛する人の腕の中で死んでいくルクレティアでした。



そしてその身体は見ている間に灰になって崩れてしまいました。
これが海底に住む人間の標準仕様なのでしょうか。



海底で待機させていたアルファ号をバートン博士が浮上させました。



まず岡田博士と鶴子を救出し、アルファ号に送り届けます。

「マッソン博士は?」

つい私情を交えずにいられないドクター・バートン。
直に全員が無事収容されると、ちょっとの隙に彼らは抱き合うのでした。



黒鮫号にかっこいい制服に着替えて乗り込み、指揮を取るマリク。
まず、電磁波でアルファ号を身動きできなくさせます。


黒鮫号全景



マリクはアルファ号をレーザー砲で攻撃する命令を出しました。


ところがびっくり、この出撃前に施された改造で、
アルファ号は空飛ぶ潜水艦になっていたのです。
非常事態なのでテストする時間もなく、これが「初飛行」となりました。



夢中になってレーザー砲の発射桿を握って放さないマリク、
マッケンジー憎しで崖に引き付けられていることに気が付きません。

部下の陳が必死で警告しますが聞く耳持たず。
自分が仕掛けた島の磁界バリアに自らを追い込んでしまいました。



その時、マリクの目に信じられないものが飛び込んできました。
ライオンと禿鷹の体に脳を埋め込まれた黒い娥です。

彼女はやはり自分をこんな身体にしたマリクを恨んでいました。
巨大化された身体で一度もマリクの命令に従わず、
チャンスを見て襲いかかってきたのでした。

レーザー胞を猫パンチして向きを変え、崖を崩落させて
身動きできなくなった黒鮫号と共に自分も自滅させる気です。



逆になぜこんな手術をした相手がまだ自分の命令を聞くと思ったか知りたい。



黒鮫号の爆発はブラッドロック島そのものを消してしまいました。



爆発はいきなり美しい夏のラティチュード・ゼロに変わりました。

そこにはジュール・マッソンとアン・バートン博士、
いつの間にか付き合い出している田代健と岡田博士令嬢鶴子の
二組のカップルが木陰でのお茶を楽しんでいる姿がありました。



彼らの笑顔をカメラにおさめるロートン記者。









マッソンも田代も、岡田親子もここに残り、
伴侶を得てここで暮らすことを選択したのでした。



地上に帰るのはロートン一人です。
ジャーナリストとしてここのことを地上に伝える責任があるからでした。
しかし、彼がマッケンジー艦長に

「あなたはここでの発明は人類福祉のために使うんだと言いましたが、
いつになったらここのことを地上に知らせるんですか」


と尋ねると、マッケンジーは、

「それはわからないが、全人類が平和に共存できる日が必ずくる。
その時まで我々はここで仕事を続けている」


と答えるのでした。







ロートンがどうやって地上に送り届けられたのかは描かれず、
画面にはその頃ピークだった学生運動の映像が流れます。


ベトナム戦争の死者。



飢饉に苦しむビアフラの人々。



激化する反戦運動。



実は弾道ミサイル研究であった宇宙開発。



その時、太平洋に一隻の護衛艦が航行していました。


これは海上自衛隊護衛艦「いそなみ」です。
「あやなみ」型護衛艦で、1958年から就役していた甲型警備艦で、
デッキと艦橋が撮影に使用されました。

映画では、宇宙船回収作業のために航行中という設定です。



初の自衛艦による宇宙船回収作業の補助ということで、
「いそなみ」には取材の新聞記者が乗り込んでいます。

「艦長、宇宙船の着水時間が決まりましたが」

「大気圏突入はちょうど11時ということです」


艦長は階級章が一佐ですが、双眼鏡が二佐(艦長職)となっています。
「いそなみ」は艦長が一佐で間違いないと思うのですが。

それはともかく、この艦長ですよ。
どこかで見たような・・・。

しかし、宝田明の自衛官姿、かっこよくないですかー?

その時です。



「右舷30度、救命ボート発見!」

緯度ゼロからの地上への輸送は、ゴムボートでした。



たまたま居合わせた記者陣はこれ幸いとインタビュー開始。
ところが、ロートンの話が荒唐無稽すぎて誰も信じません。

海底の国に残った二人の科学者のこと、死んだとされる地上の学者は
そこで研究を続けていること・・・。

記者たちはロートンがおかしくなったとして大笑いさえするのでした。



そこに艦長がアメリカ軍の軍人を連れてやってきます。



彼らを見て呆然とするロートン。



「いそなみ」の艦長は田代博士だし、乗り組んでいる米海軍人は
さっき別れたばかりのマッケンジー艦長ではありませんか。

「いそなみ」艦長は、

「私を田代博士と間違えているんです」

と淡々と言いながら、

「ヘイスティング艦長と艦橋にいますから」

と二人を残して去りました。

「宇宙船回収の任務で派遣されたグレン・マッケンジー大佐です」

マッケンジーは自分をマッケンジー大佐だと自己紹介しました。



そこに、「いそなみ」幹部がロートンのカメラのフィルムを
現像して持ってきてくれました。

「これを見れば全て信じるでしょう」

しかし、



「何も写ってませんが」



「待ってください、まだ証拠がある!」

ロートンは財布に詰め込んだダイヤモンドを見せようとしますが、
出てきたのは真っ黒の土塊だけ。

「マッケンジー艦長がくれたんだ」

「ふふっ、うちは代々続いた古い家だが、
人にダイヤをやれるような金持ちはいませんでしたよ」

そして、「ヘイスティング大尉」に看護師を連れてくるように命じます。
しばらく病室でじっとしていていただきたい、というマッケンジーに、
ロートンは思わず、

「皆宇宙開発ばかり夢中になっていて、自分達が住む地球に
実は何があるのかどうして知ろうとしないんですか」


と飛躍したことを言ってしまいます。



そして「ヘイスティング大尉」が看護師を連れてやってきました。



「はっ・・・・・あなたは・・・!」

しかし、ペリー・ロートン、もう逆らう気力もなく、
呆然と看護室に連れて行かれてしまいました。



その頃、艦橋の「いそなみ」艦長は、ニューヨークの某銀行から
電報を受け取り、二人の米軍人に手渡しました。

ヘイスティング大尉がそれを読み上げます。

「”発送人不明の人物より受け取ったダイヤ600ctを
貴殿の帰還まで保管すべく、当行でお預かりしております”」

「ははあ。彼がどうしてこの艦に助けられたかがわかったよ」


金持ち

「いずれにしても彼がこの艦でいちばんの金持ちってことですね。

・・ああ、こちらは司令部からです。
『宇宙船の着水地点はタンゴ(T)エクス(X)面。

直ちに急行せよ』」

「艦長に指示の変更を伝えてくれ」



「経度ヒトナナロク、緯度、ゼロ」

「ゼロ!」






終わり。


映画「緯度0大作戦」〜海底2万マイルの国

2022-04-21 | 映画


「緯度0大作戦』は、1969年に本多猪四郎が監督し、
円谷英二が特撮を担当した特撮SF映画です。

アメリカ人プロデューサー、ドン・シャープとウォーレン・ルイスの二人が、
1960年代にラジオドラマとして企画したSFドラマが原型で、
なぜそれが日米合作映画になったかというと、ラジオの企画がポシャり、
三大ネットワークの一つABCで映画化することも失敗したため、
アメリカがダメなら日本とばかり東宝映画に売り込んできたのだそうです。

確かにこの頃、日本人は戦後の進駐軍の刷り込み教育が功を奏し、
アメリカ文化に憧れを持ち、また劣等感から外人偏重の傾向がありましたが、
なんかその足元を見られているようで不愉快なのはわたしだけでしょうか。

合作映画にすれば自分達の制作会社だけでは苦しかった資金面も折半、
あとは売上でなんとかなるという皮算用もあったようです。

この日米合作にあたって、このブログで何度も名前が出てきたところの、
戦前ハリウッドで活躍したヘンリー大川こと大川平八郎が、
裏方として両国の交渉と通訳を務めています。

大川はハリウッドの文化慣習についても知悉していたため、
戦後は国際的なフィクサーとして映画界に影響を持ち続けました。


そして、撮影は日本で行うこと、費用は日米で折半すること、
米人俳優のキャスティングと出演料はシャープのプロダクションが負担、
ということで日米間の合意が取り決められられました。




さて、それではとりあえず始めましょう。

ここは太平洋、ギルバート諸島沖。
日本の誇る世界最大級の海洋観測船「富士」が海洋調査中です。

ちなみにこの模型は全長13mという超大型の鉄製で、
なんとエンジンにはクライスラー製を搭載して稼働させています。



「富士」は「潜水球」と呼ばれる調査用小型潜水艇を搭載しています。
この模型は13mの「富士」模型に合わせて作られたものです。

現在調査団ではクロムウェル海流の調査中という設定。



潜球に搭乗して調査を行なっているのは、海洋学者の田代健博士(宝田明)
同じくフランス人海洋学者ジュール・マッソン博士(岡田真澄)
ジャーナリストのペリー・ロートン(リチャード・ジャッケル)という、
ちょっとお茶目な信号トリオ。

日本側キャスティングの決め手は一にも二にも「英語が喋れること」でした。
なぜなら撮影では全て英語で収録し、後から日本語を吹き替えたからです。

そこで、先日紹介した「世界大戦争」でも流暢な発音を披露した宝田、
日本のインターナショナルスクール(セントジョセフ)出身の岡田真澄、
陸士&東大卒の平田昭彦、日系カナダ人俳優の中村哲などが選ばれました。

ちなみに宝田明は中国語も通訳なしで喋れるほど堪能だったそうです。

ところで、たった今知ったのですが、これを制作している4月1日、
宝田明が製作総指揮&主演を行った三宅伸行監督作品、
「世の中にたえて桜のなかりせば」が公開されました。

岩本蓮加&宝田明 W主演!映画『世の中にたえて桜のなかりせば』予告

宝田明さん、3月14日に87歳で亡くなっておられたんですね。
偶然とはいえ、当ブログではほんのたまにこれに類することが起こります。

合掌。



3人の調査活動中、海底火山が噴火し、潜水球は浮上できなくなりました。
「富士号」からも係維が切れてしまいます。



意識を失った3人を潜水球の窓から覗く潜水服の二人あり。
この目元だけでこれが平田昭彦だとわかってしまうわたしである。



田代とロートンが目覚めると、そこはベッドの上。
身体にかすり傷ひとつ負っていないのを二人が訝しんでいると、



必要以上に身体を露出した金髪のお姉ちゃんがやってきました。

身体を覆うわずかな布は金色で、どう見てもショーに出るダンサーですが、
こう見えて彼女アン・バートンは医者です。


重症のマッソン博士の診察は、聴診器を使わず半裸で枕元に座り、
その手を握ってにっこりするだけ。
一体どんな最先端医療による治療なのでしょうか。

マッソン博士役の岡田真澄はフランス人という設定ですが、
彼はフランス生まれで母親がデンマーク系ですから不自然ではありません。

マッソンは夢現の境を朦朧としながら
しっかり枕元で微笑む半裸のお姉さんに一目惚れするのでした。


着替えを用意された二人が潜水艦というには広すぎる内部を探検していると、
60インチくらいのモニターで海底爆発の映像を眺めている男性がいました。



男性は自らを、海底火山の観測をしていた潜水艦アルファ号艦長の
クレイグ・マッケンジー(ジョセフ・コットン)と名乗ります。

制作にあたって東宝がアメリカ側に依頼したのは、
主役は日本人が誰でも知っている俳優であることでした。

そこでオーソン・ウェルズの名作「第3の男」に出演し、
知名度も高かった彼に白羽の矢が立てられ、
主役の敵役には「80日間世界一周」などで知られていた俳優、
シーザー・ロメロもキャスティングされました。

ここまでは良かったのですが、彼らが来日してから事件が起こります。
撮影に入った途端、シャープの制作会社が倒産してしまい、
彼らの受け取った小切手が不渡りになっていたことがわかったのです。

元々、なんだって日本くんだりで撮影を行うのか、
と彼ら俳優陣はかなり不思議に思いながら来日したようですが、つまり
シャープは日本と組むしかないほど経済的に逼迫していたのでした。
それが証拠に、撮影も始まらないのに会社を倒産させてしまったのです。

このような事態になると、通常ハリウッド俳優は撮影に入るのを拒否します。
本人が良くても組合、エージェント、マネージャーが許しませんからね。

東宝はギャラをこちらで持つから、と彼を必死でコットンを引き留めましたが、
撮影終了半年後まで待ってくれというのが精一杯。

当時の円(1ドル360円)では大手映画会社が一俳優のギャラすら
すぐに用意できなかったということになりますが、
実際予算のほとんどが俳優へのギャラで消え、その制作費はあの戦争大作
「日本海大作戦」のそれをはるかに超えるほどでした。

前払いのギャラをあてにして、女優の妻も出演させるため同伴し、
日本の滞在費を自費で賄っていたコットンは、撮影前にして
持参したトラベラーズチェックも底を突きかけていました。

その時、ちょうど来日したシーザー・ロメロが、コットンに言ったのです。

「向こうは日本的な信念と価値観でこちらを判断する。
僕たちは残って全てのアメリカ人が卑怯でないことを見せてやろう」

それで彼は帰国を中止して撮影を行うことを決めたのでした。

映画製作直前、確信犯的or故意犯的に会社を倒産させたシャープに対し、
東宝側は「日本的価値観」からカンカンに怒っていたと思われますが、
ハリウッド&アメリカ的ビジネスの常識からいうと、
俳優がたとえ俺らには関係ないと知らん顔して帰ったとしても、
同義的にはともかく、非難には当たらないとされます。

しかしロメロは、この件でアメリカ人俳優、ひいてはアメリカ人が、
日本からいい加減な連中と見られることを潔しとしなかったのです。
(参考;映画研究家岸川靖氏のライナーノーツ)



さて、映画に戻ります。

二人は自分たちのいる潜水艦の様子がどうもおかしいのに気づきました。
アメリカの原潜でも、どこの国のものでもないどころか、
壁に張られた銅版には、「進水1805年」となっているのです。



ロートンが艦長にそんな馬鹿なと食い下がっているところに、
バートン医師が、マッソン博士の容体が一刻を争う状態だと報告しに来ました。

すぐさま艦長はは帰港命令を下します。

アン・バートン役のリンダ・ヘインズは、この映画かデビュー作でした。
9本の映画出演後、引退して、こんな本に書かれています。

ブロンドシャドウ:女優リンダ・ヘインズのキャリアとミステリアスな失踪

「映画監督のクエンティン・タランティーノと著者ら筋金入りのファンが、
何年もかけて彼女の行方を探し続けた。
タランティーノは私費を投じて執拗な追跡を続け、
ついに彼女の居場所を突き止めたが、フロリダの自宅には
彼らのうち一人しか入れてもらえなかった。

ミステリーであり、伝記であり、有名でない才能の総合評価である
『ブロンド・シャドウ』は、リンダ・ヘインズという
謎の真相に迫ろうとするものである。」



アルファ号は艦長の命によって「緯度ゼロに帰航」することになりました。
緯度0とは、赤道と日付変更線の交差する点であり、そこに陸地はありません。



そのときアルファ号の動きを虎視眈々と見張っている怪しい二人がいました。

悪の組織ブラッドロックのボスであるマリク(シーザー・ロメロ)と、
彼の愛人、ルクレチア(コットンの妻、パトリシア・メディナ)です。

彼女は、コットンとまとめて出演をオファーされ、日本に同行していました。



マリクは部下の黒い蛾(ブラック・モスでいいのに)が艦長を務める
「黒鮫号」(ブラックシャークでいいのに)に、
アルファ号の待ち伏せと撃沈命令を下しました。

黒い蛾さんを演じるのは元タカラジェンヌの黒木ひかるという女優です。
この名前は聞いたことがありませんでしたが、
この人の夫の曾我廼家明蝶という俳優の名前には見覚えがあるような。

マリクの愛人ルクレツィアは、露骨に黒い蛾に敵意を見せます。
マリクは二人の女性を張り合わせ、うまく繰って利用しているというところか。


黒鮫号の襲撃は今日に始まったことではないようです。



魚雷に続き「追跡ミサイル」を撃ってきます。
ホーミング誘導によるもののことでしょう。(適当)

巧みな操艦とミサイルをヒットする仕組みによって、
次々と攻撃をかわしていくアルファ号のマッケンジー艦長。

アルファ号の操縦は、タコ坊主のような乗員と艦長二人だけで足りるようです。
きっとAI搭載に違いありません。



投影によるダミー合成法、電子防御網と、会うたびに
いろんな装備が増えていくアルファ号にマリク、興奮して大喜び。
相手が強いと俄然やる気が出てくるタイプのようです。

しかし、またしても失敗した黒い蛾には怒り心頭の模様。
お仕置きくるか?



アルファ号が逃げ込んだのは電磁シールドで守られた緯度0基地。
海底2万メートルにある地上そっくりの世界です。

地上の人間たちはあずかり知らぬこの海底世界では
1世紀前からマリクの支配するブラッドロックと緯度0基地か
善と悪(マッケンジー曰く)の抗争を続けていました。

マッケンジーは204歳、マリクは一つ下で203歳。
1世紀以上前の元同級生がそれぞれの道を選んだ結果敵味方になったのです。



緯度ゼロ基地の中央にフーバータワーに似た塔があります。
二人はアンダースタンフォード大学出身に違いありません。(誰うま)


アルファ号のポートは、艦体をサポートするアームが出る先進仕様です。


岸壁に待っていた電動式救急車に、まずマッソン博士が乗せられました。

今気づいたのですが、マッソン博士のファーストネーム、Julesって、
「海底2万マイル」のジュール・ベルヌから取ってますね。


ハープシコードのバロック風音楽をBGMに、ここからは
緯度0基地の世界が映し出されていきます。



模型みたい、と思ったらこれは模型で作った緯度ゼロの全景だそうです。
ここには支配者もなければ国家も存在しません。

19世紀から存在し、老いも死もなく、欲望や政治的分裂など
表世界の常識とは全く無縁でありながら、
人類の技術的・文化的進歩を海の底から実は密かに援助しています。

人口太陽は朝6時に昇り、夜8時に沈むようセットされていて、
全ての科学的な発明は、地上で死んだとされる学者が
こっそり亡命してきて、ここで永遠の生命を得て行っているのです。



自然にあふれた(ように見える)緯度0の海底の世界。



金色の水着でうろつけるくらいなのできっと気温調節も完璧なのでしょう。



スパの外では水着の女性がくるくるとトランポリンで飛んでいます。
金色の水着は海水から採取する豊富な金からできています。


「マッソン博士はどこにいますか」

「ここだよ、回復病棟だ」


この世界の病院は、目覚めると自分のレントゲン写真等身大が横にあり、
医者に隅から隅まで体の細部を見られるというとても恥ずかしいものです。



緯度ゼロ病院の院長、姿博士はおなじみ平田昭彦。
黒縁七三分けでまるでマッサージ師のような衣装を着せられ、
歴代の出演映画中間違いなく最もカッコ悪い役です。

ここの最新の医療は重症のマッソンも一日で回復させました。



緯度ゼロ基地の世界は来たばかりの二人には不思議なことばかりです。

植木鉢の敷石に使われているのは本物のダイヤモンドと聞いたロートンが
目の色を変え、持って帰っていいかマッケンジーに尋ねると、
彼はニヤニヤして、どうぞと言いながら

「ここでは研磨にしか使わないんだが」



マリクがまたしても悪巧みを始めました。

彼が今考えているのは、マッケンジーと同盟を結んでいる日本人物理学者、
岡田博士を誘拐し、岡田の研究である放射能免疫の技術を盗むついでに
彼らを囮にしてアルファ号を誘き寄せるという作戦です。



岡田博士役には、最初に配役されていた佐々木孝丸が
(『戦艦大和』の有賀艦長、『日本敗れず』のNHK理事など)
病気で降板したため、日系カナダ人で英語が喋れる中村が配役されました。

中山麻里は、中山エミリの叔母さんにあたり、
祖父がイギリス人ということでもちろん英語が堪能です。



マッケンジーは彼らに惜しみなくここの技術を見せびらかします。
共産圏から亡命したとされる学者など、世界の最高頭脳が
ここで開発を行っていますか、岡田博士もここに呼ぶべき資格を備えた学者です。


「岡田博士はどんな発明をしたんですか」

「放射能に対して人間に免疫をつける血清の開発だ」

ちなみに海底で行った研究をどうやって地上に生かすかというと、
これが笑ってしまうんですが、地上に送り込んだスパイ?が、
世界の実験室の資料にこっそりここの研究結果を忍ばせたりするんですって。



さりげなくファイルを取り替えて挟んでます。
ちゃんと気づいてもらえるといいですね。


その岡田博士親子が乗った船を、マリクの手下黒い蛾の黒鮫号が襲い、
彼らを拉致してしまいました。


マリクは血清の方程式を渡すように岡田博士に迫りますが、



もちろん岡田博士は跳ね除け、二人は監禁される身に。



ルクレチアがいなくなると、早速黒い蛾がマリクに縋って、
二人を連れてきた「ご褒美」が欲しいのーとねだります。

「何が欲しいんだ」

「二人っきりになりたいのお」

なんだこの女。ただの純愛か。



ところがマリクは彼女を鳥籠のような檻に閉じ込めてしまいます。



そして別室の趣味の悪い虎皮を敷いた椅子にふんぞりかえり、
スイッチ一つで室内の装飾棚をするすると開くと、そこには・・



マリク博士が作り替えたという得体の知れない生物が・・・。



「お父さんに血清を渡すようにいうんだ。
君もあんなふうになりたいかね」

「いやああああああ」

そりゃ特に若い女性ならこんなキモいの嫌だよね。
全然可愛くないんですもの。

ってそういう問題じゃないか。

続く!



リフティングボディM 2-F3〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-19 | 航空機

スミソニアン博物館の宇宙開発コーナーの隅には、
全く目立っていないのですがこんな奇妙な形の航空機があります。

これはちゃんと飛行機としての機能を持つのだろうか?
などと考えずにはいられないスリム感のないシェイプですが、
別の角度から見てみると、


予想とは(どんな予想だ)全く違う上部の佇まい。
これはあれかな、特殊な用途のための実験機かしら。

現地に説明のパネルもなかったので(あったのかもしれませんが見つからず)
NASA 803  FLIGHT RESEARCH CENTER
という機体に書かれた文字だけを頼りに調べてみたところ、
これは、「リフティングボディ ノースロップM2-F3」
という機体であることがわかりました。

リフティングボディ?バーベル持ち上げるアレかな。
それウェイトリフティングや。


■リフティングボディとは

バーベルならずとも、何かのボディを持ち上げるもの。
この名前からはそういう雰囲気が漂ってくるわけですが、
何なのか、リフティングボディ。

wikiによると、

「極超音速での巡航を前提とした航空機、ないしはスペースプレーン等のような
大気中を飛行することがある一部の宇宙機に使われる、
機体を支える揚力を生み出すように空気力学的に工夫された形状を有する胴体」

んん?それって普通の宇宙船やロケットと何が違うの?
正直ちょっとこの日本語は分かりにくいですね(分かりますが)。
この英語の方が説明としては分かりやすいかと思います。

「リフティングボディとは、固定翼機や宇宙船において、
本体そのものが揚力を発生する構造のことである」

分かりやすくて短く収まっています。英語の人有能。
本体そのものが揚力を持つように空気力学的に工夫するのは当たり前ですから、
リフティングボディが何かの説明にこの部分はいらんってことですわ。

それにしても、この機体の形状を特に下から見て、
皆様何か思うことはありませんか?

そう、翼らしい翼がないのです。

人が鳥のように空を飛ぼうと思った時、その機械には鳥のような翼をつけましたが、
こちらは全く鳥の翼的なものはなく、厚みのある紙飛行機、という感じです。

リフティングボディは従来の翼を持たない胴体であり、
胴体そのものが揚力を発生する固定翼機や宇宙船の形状をしています。

翼がない、というのはイコール「揚力面をなくす」ことであり、
これは亜音速での巡航効率を最大にするということを期待してのことです。

皆様は、音速を超えることを目的にしたX−1、そして
スカイロケットなどがどうやって発進したか覚えておられますよね。
大型爆撃機のペイロードとして離陸し、空中からドロップされたその形状は、
やはりほとんどミサイルのような、翼の小さなものでした。

これは、亜音速、超音速、極超音速飛行、あるいは宇宙船の再突入のためには、
翼の抵抗と構造を最小にする必要があるからです。

そうして翼の抵抗と構造をミニマムにした結果、リフティングボディは、
機体全体で揚力を得ることができるような構造となっています。

(という説明を読めば読むほど、紙飛行機のことだよね、と思ってしまったわたし)


■リフティングボディ前史と開発史

最古のリフティングボディは、アメリカのロイ・スクロッグス(Roy Scroggs)
という仕立て屋さんが考案した「The Last Laugh」かもしれません。


スクロッグスと「最後に笑う者」

無尾翼のダート型をしたリフティングボディ。
スクロッグスは1917年にデルタ翼の特許を取っています。

安全性、経済性、STOL性能をもたらす飛行機を作りたいという彼の執念は、
多くの人から嘲笑され、奇抜なアイデアは航空専門家に否定されました。

スクロッグスがこの実験機に付けた名前「最後に笑う者」は、
そんな世間に対する挑戦的な意味で付けられました。

機体は90馬力のカーチスOX-5エンジンが2枚羽根のプロペラを駆動するもので、
テストでは3mの高さまで上昇しましたが、特許出願後、
空港で飛行試験を試みたところ、誘導路に乗り上げて転倒し、破損。

失意のうちに彼は開発を諦めたわけですが、後年、
コンコルドの翼型実験で低速を試すために設計されたハンドリーページHP.115は、
「The Last Laugh」と非常に似たデルタ前縁角のスイープを持っていました。

そして、スペースシャトルは最終的にデルタ翼が採用されました。

つまり、スクロッグスが最後に笑うためには、リフティングボディは
低速では効率が悪く、その研究が盛んになるのは、
あと50年、エンジンの進化を待たねばなりませんでした。


リフティングボディの研究最盛期は1960年代から70年代にかけてです。

ソ連との宇宙開発競争真っ最中の時期から、アポロ11号によって
勝ちを手にし、ノリに乗っていた頃にかけてということになります。

アメリカは小型・軽量の有人宇宙船を作るための研究として、
リフティングボディのロケット飛行機を何機も製造し、
ロケットで打ち上げられた再突入機は何機か太平洋上でテストされました。


左から;X-24A,、M2-F3 、HL-10リフティングボディ
冒頭写真の機体は真ん中のM2-F3 どれもいわゆる「翼」がない

航空宇宙関連のリフティングボディの研究は、宇宙船が地球の大気圏に再突入し、
通常の航空機と同じように着陸するというアイデアから生まれたものでした。

大気圏再突入後、マーキュリー、ジェミニ、アポロなど、
従来のカプセル型宇宙船は、着陸する場所をほとんど制御できませんでした。

中には、地球の自転と移動の関係を勘違いしてコンピュータに打ち込み、
ただでさえピンポイントで場所を選べないのに、
えらく離れたところにカプセルが落下して苦労した回もあったくらいです。

その点、翼を持つ操縦可能な宇宙船は、着陸範囲を広げることができます。

しかしそのためには、宇宙船の翼が再突入と極超音速飛行という
動的および熱的ストレスに耐えられるような翼が必要となってきます。

そんな翼、作れるのでしょうか。

そこで、ストレスに耐えられないなら翼をなくせばいいじゃない、となって、
翼がなければ胴体そのものに揚力を持たせればいいじゃない、となり、
翼をなくすという案に辿り着いたというわけです。


NASAによるリフティングボディのコンセプトの改良は、
1962年にNASAアームストロング飛行研究所から始まりました。

最初のフルサイズモデルが、木製の無動力機であるNASA M2-F1でした。

カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で行われた最初の実験では、
まず、ポンティアックが機体を運ぶところが見ものです。


なんか楽しそう

そしてC-47の後ろに牽引されたM2-F1が放出されました。
M2-F1はグライダーなので、着陸範囲を広げるために
小型のロケットモーターを搭載していました。


ふざけてんのか

M2-F1はすぐに「空飛ぶバスタブ」と呼ばれるようになったそうです。


■「600万ドルの男」オープニングタイトル


スミソニアン博物館に展示されているノースロップM2-F3は、
1967年ドライデン飛行研究センターで墜落したノースロップM2-F2をもとに
再建された重量物運搬用機体とされています。

墜落した機体を元に、って何なんでしょうか。


 1967年5月10日、NASAの研究用航空機である無翼機、
M2-F2リフティングボディがカリフォルニアの砂漠に墜落しました。

この映像がそのまま使われたテレビ番組のオープニングがあります。

The Six Million Dollar Man Opening and Closing Theme (With Intro)

まさかと思いますが、どなたかこのテレビ番組をご覧になったでしょうか。
主人公のスティーブ・オースティンなる人物は、この事故で重傷を負い、
バイオニックインプラントのおかげで、超人的な強さ、スピード、
視力を持つサイボーグとなって、悪と戦うというヒーローものです。

映像を見ていただくと分かりますが、 M2-F2は、
飛行機というよりボートのような外見をしています。

前述のように、NASAは、宇宙からの再突入をより制御し、耐熱性を持たせる
リフティングボディ、無翼飛行の実験を行っていました。

わたしが撮影した下からの写真を見ていただくと、リフティングボディは、
機体の下部がとにかくぽってりと丸く、上部を見ると驚くほど平らです。
これは、揚力を得るために設計された形状で、
翼の代わりに機体の姿勢を制御するための垂直尾翼を持っています。

ボディはアルミ製、エンジンはXLR-11ロケットが搭載されていました。

オープニング映像でもわかるように、B-52爆撃機の翼の下に搭載され、
高度13,716mまで上昇後、エンジンを点火、その後滑空降下し着陸します。

これらの飛行により、パイロットが無翼機を宇宙から飛ばし、
飛行機のように着陸させることができることが実証されたのでした。



12年間のリフティングボディ飛行のうち、重大な事故が1回だけ起きました。
それが「600万ドルの男」のタイトルになった映像のときです。

16回目のテスト飛行で、ブルース・ピーターソンの操縦するM2-F2は、
機体が制御不能になり、時速250マイルで地面に突っ込み、
何度も転がりながら静止したため、ほぼ壊滅状態に陥りました。

墜落の原因は、フロー・セパレーション(境界層剥離)によって引き起こされた
制御の不安定さからくるダッチロールの発生とされています。




ピーターソンは何度か手術を受けましたが、顔の怪我、頭蓋骨の骨折、
片目を修復する「バイオニックインプラント」は当時ありませんでした。

事故で破損したM2-F2をベースに、先端フィンの間に第3垂直尾翼を追加し、
制御特性を向上させる改造が施されたM2-F3が製造されました。


つまり、「600万ドルの男」オープニングで飛び、墜落するのは、
他でもないスミソニアンに展示されているのと同じ機体ということになります。

このリフティングボディシリーズは、
NASAとノースロップ社の共同プログラムによって建造されました。
機体名の「M」は「manned」「F」は「flight」バージョンを意味します。

まず、最初のバージョン、M2-F1およびM2-F2の初期飛行試験により、
有人による宇宙からのリフティングボディ再突入のコンセプトが検証されました。

1967年5月10日にM2-F2が墜落したときには、すでに貴重な情報が得られており、
新しい設計に寄与していたため、この墜落は計画の失敗という意味ではありません。

ただ、M2-F2は横方向の制御性に問題があったため、ノースロップ社で
3年にわたる設計・改修の末、M2-F2を再建しました。

1967年5月の墜落事故では、左翼と着陸装置が引きちぎられ、
外板や内部構造にも損傷があったため、飛行研究所のエンジニアは、
エイムズ研究所や空軍と協力して、より安定性を高めるために
中央のフィンを持つ機体の再設計を行いました。

当初、機体は修復不可能なほど損傷していると思われましたが、
オリジナルの製造元であるノースロップ社が修理を行い、M2-F3と改名する際に、
第3垂直尾翼を追加して、先端尾翼の間の中央に配置し、
制御特性を改善するように改造されたというわけです。

M2-F3は依然としてパイロットにとって厳しい機体でしたが、
センターフィンの採用によって、M2-F2の特徴であった
パイロット誘起振動(PIO)の高い危険性を排除することができました。

■運用

M2-F3は1970年6月2日、NASAのパイロット、ビル・ダナが初飛行を行いました。


繋がれてる人がDana

改良された機体は、以前よりもはるかに優れた安定性と制御特性を示しました。
ダナはM2-F3で高度20,200m、マッハ数1.370を記録しました。

その後27回のミッションでM2-F3は最高速度マッハ1.6を達成。
最高到達高度は、20,790mでした。

このM2-F3は、1967年から1972年にかけて27回の飛行を行っています。

その実験の全てを成功させ、多くはスペースシャトルの実施に生かされました。
このリフティングボディの研究により、無動力着陸が安全であることが実証され、
シャトルには着陸エンジンが不要ということがわかったのです。

■ スミソニアン国立航空宇宙博物館のM2-F3

軌道上の宇宙船に搭載されているような
RCT(リアクション・コントロール・スラスター)システムを搭載し、
機体制御の有効性に関する研究データを取得しました。

M2-F3は、リフティングボディプログラムの終了に伴い、
現在の多くの航空機に使用されているサイドスティック型コントローラと
同様のサイドコントロールスティックの評価実験も行っています。


1973年12月、NASAはM2-F3をスミソニアン協会に寄贈しました。
現在は、1965年から1969年までドライデンのハンガーでパートナーだった
X-15 1号機とともに、国立航空宇宙博物館に展示されています。


■リフティングボディ実験のレガシー

1990年代から2000年代にかけての先進的なスペースプレーン構想では、
まさにこのリフティングボディ設計が採用されています。


HL-20実物大模型

例えば、HL-20人乗り打ち上げシステム(1990年)、
プロメテウス(2010年、中止)などがそうです。



HL-20の技術を発展させたドリームチェイサーは、現在のところ、
無人の補給船としての運用が想定されています。
ヴァルカンロケットに搭載して垂直状態で打ち上げられ、
滑空帰還して通常の滑走路へ着陸するのです。



2015年、ESA(欧州宇宙機関)のIntermediate eXperimental Vehicle(IXV)
がヴェガロケットで打ち上げられ、弾道飛行によって
低軌道からの地球帰還実験をシミュレートする飛行実験を実施。
史上初めてリフティングボディ宇宙船の再突入を成功させました。

IXVは、FLPPプログラムの枠組みで評価されうる、
ヨーロッパの再使用型ロケットを検証することを目的とした、
欧州宇宙機関の揚力体実験再突入機です。

このM2-F3は、これらの重量級無翼リフティングボディの第1号です。

無翼機の形状だけで空力的な揚力を得るというコンセプトは、
スペースシャトルの設計そのものに生かされることになりました。


リフティングボディのコンセプトは、NASAのX-38、X-33、
BACのMulti Unit Space Transport And Recovery Device、
欧州のEADS Phoenix、ロシアと欧州の共同宇宙船Kliperなど、
多くの航空宇宙計画で実施されてきました。

リフティングボディは、SpaceX社のファルコン 9ロケットにも採用され、
その設計原理は、ハイブリッド飛行船の建造にも利用されています。

続く。


マッハ2の偉業 ダグラスD-558-IIスカイロケット〜スミソニアン航空博物館

2022-04-17 | 航空機

スミソニアンの歴史的航空機シリーズの一つだと思うのですが、
ちょっとメインとは外れたところ(エスカレーターの横)に
こんなロケット機が展示されています。


ダグラスD-558-2スカイロケット(D-558-II)


いかにも近未来的なシェイプの航空機。
これはダグラス・エアクラフト社がアメリカ海軍のために製造した
ロケットおよびジェットエンジン搭載の研究用超音速機です。

■クロスフィールドの最速記録マッハ2



1953年11月20日朝、奇しくもライト兄弟が人類による動力飛行をおこなってから
50年目の1ヶ月前に当たるこの日、A・スコット・クロスフィールドは、
音速の2倍であるマッハ2で飛行した史上初のパイロットになりました。

この偉業を可能にしたのが、ロケット推進による空中発射の実験機、
ダグラスD-558-2号機「スカイロケット」です。

このテスト飛行で、スカイロケットは高度6万2千フィートから急降下中に
マッハ2.005(時速1291マイル)を達成しました。

その数秒後、XLR-8ロケットエンジンは燃料を使い果たして停止したため、
クロスフィールドはすぐさま地上に滑走し、
エドワーズ空軍基地のムロック・ドライレイクに着陸しました。

同じスミソニアン博物館のマイルストーンシリーズで、
音速を破ったX-1「グラマラス・グレニス」を紹介したばかりですが、
ダグラスD-558-II「スカイロケット」もまた、このX-1はじめ、
X-4、X-5、X-92Aといった初期の遷音速研究用航空機の一つです。

D-558-IIの初飛行は、1948年2月4日、
ダグラス社のテストパイロット、ジョン・マーティンが行いました。

この日から1956年までの間に、NACA(NASAの前身)、海軍・海兵隊、
そしてダグラス・エアクラフト社の共同プログラムにより、
単座・双翼の3機が飛行しましたが、初飛行から5年目にスカイロケットは、
世界で初めて音速の2倍の速さで飛行し、航空史にその名を刻んだのです。


「D-558-II」という機体名の「II」は何かと言いますと、
当初3期で計画されていて、第1期の機体は直線翼、
そして後退翼(swept wing)の第2期機が最終的に選ばれたからという説、
単にフェーズIIだったから、という説もあります。

ちなみに第3期は、第1期、第2期の試験結果を具体化した戦闘機で
モックアップを製作する計画でしたが、実現には至っていません。



後退翼が特徴

主翼の掃角は35度、水平尾翼の掃角は40度です。
主翼と尾翼はアルミニウム製で、胴体は非常に大型、
主にマグネシウム製でできています。

マリオン・カール中佐の最高度記録(非公式)


X-1と同じく、D -558-IIも、発射は大型機の翼の下から行いました。

これは、1953年8月21日、ボーイングP2B-1S「スーパーフォートレス」から
ドロップされる瞬間のスカイロケットテスト機です。

母機の「P2B-1S」は改称で、ダグラス・エアクラフト社は、
降下艇としての役割を果たすためにこの爆撃機を改良しました。

この日、この超音速研究用ロケットプレーンは、
エドワーズ空軍基地上空3万フィート(9,144m)で投下され、
この飛行中、マッハ1.728に達しました。

この日の出来事は、ワシントンAPはこのように打電しています。

海軍は月曜日、海兵隊のパイロット、マリオン・E・カール中佐
8月21日にダグラス・スカイロケット調査機で
83,235フィートの高度新記録を打ち立てたと発表した。


この名前を当ブログは何度となく必要に応じて記しているわけですが、
第二次世界大戦の戦闘機エースで、ラバウル航空隊と死闘を演じた
あのマリオン・カール中佐が、戦後は
テストパイロットとして活躍していたことを書くのは初めてかもしれません。



「スーパーフォートレス」機内で飛行服(耐圧スーツ)を身につけている
マリオン・カール中佐(左)。

海軍によると、この非公式な世界記録は、
新しく開発された高高度飛行服のテスト中に樹立されたものでした。

飛行服のテストのつもりで高度を上げて行ったら、
機体がいつの間にか記録を更新するくらい高く上がっていたので、
この際記録としてカウントしておこうということになったのでしょうか。

それまでの高度非公式記録は、2年前にダグラス社のテストパイロット、
ビル・ブリッジマンが同じ飛行機で打ち立てた79,494フィートだったので、
カールはこれを4000フィートも更新したことになります。

しかしながら、全米航空協会の規則では、高度記録への挑戦は
地上から離陸した飛行機でないとダメとされていたため、
この空中発射による記録はニュースにはなったものの、
公式記録としては認められることはありませんでした。

ちなみにブリッジマンの記録も空中発射された飛行機で作ったもので、
同じ条件だったので非公式記録となります。


■D -558-I スカイストリーク(ジェットエンジン)


左:マリオン・カール

「スカイロケット」の先代のD-558-Iは「スカイストリーク」Skystreak
何かに似てますよね・・・F-86?

第1期のD-558-1は、ジェットエンジンと直立翼を採用した機体です。
テストパイロットとしてのマリオン・カールは、このバージョンで
時速650.8マイル(1048km)の世界最高速度を記録したのです。

この機体は、真っ赤な色だったことから、
「クリムゾン・テストチューブ」とあだ名をつけられていました。

建造されたのは全部で3機、カール中佐が記録を立てたのは2号機でしたが、
その後のテスト飛行で圧縮機の分解により発射に失敗し墜落、
パイロットは死亡し、機体も失われることになりました。

あくまでも一般人の印象ですが、X-1があまりにも有名なのと、
せいぜいスカイロケットを知る人がいるのみで、
スカイストリークはほぼ無名と言っていいかと思います。

それはX-1がロケットエンジンで、スカイストリークが
普通にターボジェットエンジンだったから、と思い切って言ってしまいます。

D-558-Iは降下中だけとはいえ、ジェットエンジンでありながら
長時間の遷音速飛行を一応達成しているのですが・・・・。

X-1の超音速飛行はこれと比べると短時間であり、
航空工学的な実績は、ある意味こちらの方が評価されているらしいです。

さて、そこでD558-1を何とか改造して、ロケット動力とジェット動力、
両方に対応できるようにしようとしたのですが、不可能とわかったので、
全く別の機体であるD558-IIが誕生することになりました。

1947年に契約が変更されてD558-1の代わりに
3機の新しいD558-2を代用することが決定します。

この3機のテスト飛行の結果、多くの貴重なデータが得られました。
例えば、遷音速と超音速における翼と尾翼の荷重、揚力、抗力、
そして緩衝特性の関係などについてです。

■なぜ遷音速か

遷音速の研究機はなぜ必要だったのでしょうか。

その理由の1つは、マッハ0.8から1.2までの速度範囲について、
それ以前の正確な風洞データがなかったこと。

もうひとつは、従来のP-38「ライトニング」のような戦闘機は
音速に近づくと、密度の増加や気流の乱れによる衝撃波の発生で急降下し、
機体がバラバラになってしまうというリスクがあったからです。

遷音速の限界に耐えられる機体を作ることによって、
危険を回避し、衝撃波にも十分耐えられる安全性の確保ができますね。

NACA、陸軍航空隊、海軍を中心とする航空関係者は、特に現場で
遷音速域での圧縮効果に耐える構造強度持った機体を切望していました。


このとき陸軍は最初から「ロケットエンジン派」でX-1にも出資しましたが、
海軍はより保守的な設計を好み、D-558-Iを推しています。
NACAは保守的でしたが、X-1の研究も支援しています。

各団体の傾向がちょっとずつ違うのが興味深いですね。

ダグラスD-558-IIは結局米海軍とダグラス・エアクラフト社、
全米航空諮問委員会(NACA)の共同研究プロジェクトとなりました。

そして海軍は結局1945年6月22日、ダグラス社に対して、

翼と尾翼が直線的で薄く、ターボジェット推進を持つD-558型機6機

の製造に関する注文書を発注しています。

開発責任者は、エドワード・H・ハイネマン主席技師でした。

海軍はジェット機推しだったと先ほど書きましたが、
DC -558のダグラス社との契約の際、第1期が直翼ターボジェット機、
第2期がターボジェット推進とロケット推進による掃射翼機、
と2つのフェーズに分けることが決まりました。

ダグラスと海軍は、その後、戦時中のドイツの後退翼機の捕獲データ
(これってもしかしてコメート以下略)を分析し、
アメリカの科学者ロバート・T・ジョーンズの研究と合わせて、
D-558の契約を変更し、予定していた3機を削除して、
ターボジェットとロケット・エンジン、両方を搭載した後退翼機
3機に置き換えることに決定しました。

そこでさしもの保守的な海軍も、
旋回翼機がマッハ1越えの推進力を得るためには
ロケット推進が必要としてこれを付加することに合意したというわけです。

さらに、第2期機にの製作で、ターボジェットとロケットエンジン、
この両方を搭載するためには、新しい胴体が必要ということもわかりました。

そこで、主翼よりも薄く、可動する水平安定板を採用し、
主翼と水平尾翼が音速越えの際に受ける衝撃波の影響を受けないようにし、
衝撃波の際も、ピッチ(機首上げ下げ)制御ができるようにしました。

ダグラス社がD-558-IIを製造している間、NACAは以前ここでも紹介した
ラングレー風洞でのテストや、無人機による実験のデータを提供しました。



リアクションモーターズのLR8-RM-6 4室ロケットエンジン1基を搭載し、
旋回翼機で燃料はアルコールと液体酸素でした。

ただし、フェーズIIの3機には元々、ウェスティングハウス社の
J34-W-40ターボジェットエンジンも搭載されていました。



全長12.80メートル、翼幅27.62メートル、
主翼の前縁は35°、尾翼は40°に後退しています。

空虚重量は4,273キログラム、最大離陸重量は7,161キログラム。
1,431ℓの水/エチルアルコールと1,306ℓの液体酸素を搭載しました。

制作された1948年2月4日から6年半の間に、
3機のロケットプレーンは合計313回の飛行を行っています。



ターボエンジンは胴体前部のサイドインテークから供給されますが、
これが使われるのは離陸、着陸の時で、高速飛行用には、
4室構造のリアクションモーターズ製LR8-RM-6エンジンが使われます。

機体はコクピットからの視界が悪かったため、従来の角度のついた窓を持つ
盛り上がったコクピットに再設計されています。

D558-1型と同様、緊急時にはコックピットを含む前部胴体が分離され、
前部胴体が十分に減速した後、パイロットはパラシュートで
コックピットから脱出することができるようになっていました。


■運用の歴史

スカイロケット3機の飛行回数は、
1番機123回、2番機103回、3番機87回の合計313回でした。

スミソニアンに展示されているD-558-2 #2は、
アメリカ海軍が、遷音速および超音速での空力情報を得るために
ダグラス・エアクラフトに発注した6種類の研究機のうちの1つに過ぎません。



D-558-1とD-558-2は細部の設計が大きく異なりました。

D-558-1は、音速のマッハ1程度が限界でしたが、D-558-2は、
ロケットエンジンによりマッハ1を軽く超えることができたそうです。

高負荷のロケット推進機は地上から発射させることは
安全性にも問題があるため、ダグラス社はスーパーフォートレスを改造し、
爆弾倉から空中発射できるようにD-558-2#2、#3を改造しました。

同時にD-558-2#2を全機ロケット推進に変更しています。

そして、ターボジェットエンジンがあったスペースを燃料の増槽にするとか、
機体にワックスを塗って抵抗を減らすなどの工夫、
そして約72,000フィートまで飛行してわずかに急降下する飛行計画により、
クロスフィールドはスカイロケット唯一のこのフライトで、
マッハ2.005(時速1291マイル)に達し、
航空史にその名を刻む快挙を達成したというわけです。



スカイロケットのパイロットたちは、記録を打ち立てただけでなく、
遷音速および超音速飛行領域で旋回翼機を安定的に制御して飛行させるために
何が有効で何が有効でないかを理解し、重要なデータを収集しました。

また、風洞試験の結果と実際の飛行値との相関関係をより明確にすることで、
設計者の能力を高め、軍用機、特に掃射翼の航空機を
より高性能にすることにも貢献したのです。

その後、X-1やセンチュリーシリーズの戦闘機は、この初期の研究機から
安定性や操縦性などのデータを得て世に生まれることになりました。


続く。

世界初!民間有人宇宙飛行 スペースシップ・ワン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

何度も書いていますが、スミソニアン航空宇宙博物館に足を踏み入れると、
歴史的なマイルストーンとなる航空機が最初に現れます。


リンドバーグが大陸間横断の偉業を打ち立てた、
「スピリット・オブ・セントルイス」号とわずかな空間を隔てたところに
スペースシップ・ワンはあります。

この民間の有人航空機は、宇宙に飛び立ち、到達し、
そして無事に帰還して商用宇宙飛行の未来の嚆矢となりました。


したから見ただけでは全く全体像の掴めないこの機体には、
いかにもお役所仕様ではない遊び心が溢れすぎてダダ漏れのデザイン。

アナログなおっさん二人がグーグルのインターンシップに紛れ込み、
最後に入社の栄光を勝ち取るという映画「インターンシップ」で、
グーグル本社の映像にこれが映っていたのにはちょっと驚きましたが。


わたしがスミソニアン博物館を訪れたのは2018年でしたが、
その前に撮られた写真に撮られた写真では、こんな展示となっています。

定期的に展示の態勢を変えていろんなポーズを見せる心配りかもしれません。


で結局どんな形なのかというとこれなんです。
いやこれは新しいわ。

従来の航空機のどれにも似ていない斬新なシェイプをしております。

■ 初めての民間宇宙船

2004年、スペースシップ・ワンは、3人を乗せて軌道下で宇宙飛行を行い、
最初の民間開発宇宙船アンサリXプライズで1000万ドルを得ました。

アンサリXプライズというのは、Xプライズ財団によって運営され、
そのものズバリの有人弾道宇宙飛行を競うコンテストのことです。

スペースシップ・ワンはその受賞対象である、

     1、宇宙空間(高度100 km以上)に到達する
2、乗員3名(操縦者1名と乗員2名分のバラスト)相当を打ち上げる
3、2週間以内に同一機体を再使用し、宇宙空間に再度到達する

という三つの受賞条件を満たしたというわけで、
言わば鳥人間コンテストの大規模なものみたいな感じだと思います。

ところで、この三つの条件の3番目の意味がよくわからんのですが、
1回成功してもまぐれかもしれないから、ってことなんでしょうか。

スペースシップ・ワンは、2週間以内に見事おなじ弾道飛行に成功し、
受賞対象になって賞金を獲得したということになります。

ところで、このスペースシップ・ワンの出資者、誰だと思います?


ポール・アレン

言わずと知れたマイクロソフトの共同創業者ですね。
2018年10月といいますから、わたしがスミソニアンで
スペースシップワンを見た2ヶ月後にリンパ腫で亡くなっておられます。

マイクロソフトを退社してからは慈善事業に参入し、
このスペースシップ・ワンへの出資もその一環だったそうです。

余談ですが、彼は第二次世界大戦時の兵器に造詣が深く、マスタングや
シャーマン戦車、なんなら一式戦闘機「隼」までコレクションしていました。

深海調査船で「武蔵」「インディアナポリス」などの
軍艦の沈没地点を明らかにしていたのも記憶に新しいところです。

アンサリXプライズについても話しておきます。



アメリカの起業家、ピーター・ディアマンディス(Peter Diamandhis)は、
1995年Xプライズ財団を設立しました。

スミソニアンでスペースシップワンの隣に展示されていた
「スピリット・オブ・セントルイス」で大西洋横断を行ったリンドバーグが
1927年に受賞したオルティーグ・プライズの、

「ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを
無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる」

という条件を満たすためにその壮挙を成功させた例に倣い、
この目的ありきの賞が、リンドバーグの時航空業界に拍車をかけたように、
アンサリXプライズによって宇宙開発に刺激を与えることが目的でした。

賞のアンサリという名前は、イラン系アメリカ人であるビジネスパートナー、
アヌーシャ(Anousheh)とアミール(Amir)・アンサリから取られています。


左から:ハミッド・アンサリ、パイロットのブライアン・ビニー
プライズ出資者アヌーシャ・アンサリ、設立者ピーター・ディアマンディス
そして出資者のアミール・アンサリ

アンサリ何人いるんだよっていう。

出資者のアンサリーズは賞金の1000万ドルを出資しています。

このアヌーシャは2006年に、スペースアドベンチャーズ社が仲介して、
ロシアのソユーズ宇宙船でのプライベートトリップに加わり、
国際宇宙ステーションに宇宙飛行士として飛びました。



彼女は宇宙旅行者としては女性初めて、そして
イラン系初のイスラム教徒の女性として宇宙へ行った人物となりました。

ちなみに彼女は10代でイランから米国に移住したイラン系アメリカ人で、
先ほどの写真のうち夫はハミド、アミールは義弟だそうです。

事業で成功した彼らは、宇宙事業に出資して
念願のアンサリX賞を設立したというわけです。

宇宙に対して早くから関心を持っていた彼女は、ロシアで訓練を開始し、
当初は、日本の実業家、榎本大輔氏のバックアップとして参加しましたが、
榎本が健康上の理由で宇宙飛行を断念したため、
彼の代わりにソユーズTMA-9のフライトクルーとなり、
打ち上げ後、国際宇宙ステーションで8日間を過ごしました。


左から:
バージン・ギャラクティックのオーナー、サー・リチャード・ブランソン
スペースシップ・ワンの設計デザイナー、バート・ルータン
スポンサー、ポール・アレン

まさに今飛び立つスペースシップ・ワンを見ています。
全員が指差し確認している状態って、なんなんだ。
やっぱりついついこのポーズをやっちゃうのでしょうかね。

バージン・ギャラクティックというのはご想像の通り、
バージン・アトランティックのバージングループの傘下にあり、
会長のリチャード・ブランソンが設立した宇宙旅行ビジネスを行う会社です。
(ちなみに今現在従業員は30名)


スケールド・コンポジッツ社より技術提供を受け、
宇宙船「スペースシップツー」を開発した会社で、
米国ニューメキシコ州とスウェーデンに「スペースポート」を持っています。

昨年12月、日本の実業家、前澤友作氏が100億だかなんだか払って
ソユーズで宇宙に行きましたが(一応話題になってましたかね)
今後もヴァージン・ギャラクティック社は、
年500人の観光客を一人当たり25万ドル(2885万円くらい)の料金で
宇宙へ送る計画を立てています。

ただし前澤氏のような宇宙ステーションまでというプランではなく、
弾道飛行で、大気圏と宇宙のおおよその境界とされる
地上100kmを若干超える高さに到達するだけということになります。

それでも完全な無重力になる時間はおよそ6分間あるそうなので、
それくらいなら一度くらい経験してみたいと思う人もいるかもしれません。

同社はその後、「スペースシップツー」を開発し、
(その間事故などにも見舞われたようですが)2021年7月11日、
創業者のリチャード・ブランソンら6人が搭乗して
高度80kmに到達し、3分間の無重力体験を行ったのち、
1時間後に無事帰還することに成功しました。

■” あなたもスペースシップ・ワンで宇宙へ”

The story behind Virgin Galactic - SpaceShipOne to ... 

動画の最初で大きな飛行機が宇宙船を運んでいるのがわかりますが、
これが「ホワイトナイト」(White Knight)と名付けられた母船です。

宇宙船がホワイトナイトからリリースされると、
スペースシップ・ワンのロケットエンジンが点火されます。

その接合された翼は「feathered 」ポジションに回転し、
大気圏への飛行を安定させるのです。

人々は、宇宙旅行のチケットを購入するような日がやって来ることを
長い間夢見てきました。

1964年、パンアメリカンワールド・エアウェイズは、2000年から
軌道宇宙ステーションへの定期便飛行を開始するとして、

「ファーストムーンフライト」クラブ

の受付を開始しており、1964年以降、9万3000人が、
その順番待ちリストに名前を連ねました。

その会員証・会員ナンバー1043、ジェームズ・モンゴメリー様

これは1968年から1971年にかけて行われたパンナムの
まあ言えばマーケティング・キャンペーンに過ぎません。

ふざけていると考える人もいましたが、パンナムは大真面目だったようです。

この企画は、1964年、オーストリアの一人のジャーナリストが、
ウィーンの旅行代理店に月への飛行を依頼したのが始まりでした。

旅行代理店がパンナム航空とアエロフロート航空に依頼を出したところ、
パンナムは企画を立て、最初のフライトは2000年だと回答したのです。

このとき、SF映画「2001年宇宙の旅」が公開されたこと、
1968年にアポロ8号が成功したことで一層関心が高まりました。

パンナムがウェイトリストを保存していることがメディアに漏れると、
会社には問い合わせが殺到しました。
さらにはアポロ11号による人類初の月面着陸が成功し、
この夢のようなプランにお金を出す人は増加していきます。

このカードに記載されている名前のジェームズ・モンゴメリーとは
当時のパンナムの販売担当副社長でした。

カードの裏面には「スペースクリッパー」が描かれ、
順番待ちリストを示すシリアルナンバーが印刷されていました。


最終的には90カ国から93000人が申し込みをし、そのリストには
ロナルド・レーガン、バリー・ゴールドウォーター、
ウォルター・クロンカイト、ジョージ・シャピロ
など、
(中にはシャレで申し込んだ人もいたかも)多くの公人が含まれました。

パンナムはもし計画が実行されたら何年後でもリストの順番は維持される、
と最後まで言っていたようですが、その後財政危機に陥ってしまい、
2000年までに破産して影も形も無くなってしまったのは皆様の知るとおり。

そして、リストに名前を連ねた人々のほとんどは、自動的に、そして確実に、
月ではない別のところに行ってしまったということになります。



ところで、その2001年宇宙の旅のプロモーションアートを手掛けた
「スペースアーティスト」のロバート・マッコールが描いた絵が、
ここボーイング・マイルストーンオブ・フライトホールに展示されています。

人々が宇宙旅行をすることのできる未来は案外近いのかもしれません。


ところで、さっきちらっと話が出た「日本人実業家榎本氏」ですが、
皆様この人のことご存知でした?

失礼ながらわたしは全く名前にも聞き覚えがなかったのですが。


氏は、前述の宇宙飛行士不適格事件で、料金の返還を求めて、
仲介を行ったSpace Adventures社を訴えた末和解しています、

医学上の問題で不適格と見做された場合は、代金の払い戻しは行なわれない、
という契約条項を氏は知った上で契約した、というのがSA社の主張ですが、
ご本人によると、それは法を盾に取った「言い訳」だそうです。

つまり、このとき、Space Adventures社は
氏の代わりに搭乗した富裕な実業家女性アヌーシャ・アンサリ氏から
「別の投資」を受け取るために氏を追いやったのだと。

「医学的な問題」というのがどの程度交代に足る理由だったか、
ということが争点になったんだと思いますが、
どちらにしてもなんだかドロドロした話になっていたんですね。


ところで、前述の前澤氏が宇宙に行くことが決まった時、
わたしはメディア発表をアメリカにいるときに見ましたが、
現地報道の様子は「ふーん、で?」というような冷たいものでした。
前澤氏のプロフィールもその事業についてもほとんど触れられず、
肩書きも「日本のミリオネア」だけだった記憶があります。

前澤氏がアメリカ人だったら反応は違っていたのでしょうか。

一部の億万長者だけが宇宙旅行を経験できる現代ですが、
すでに利権やお金の絡んだ美しくない話も裏では起こりつつあるのでしょう。

これも人の世の常といったところです。

因みにリチャード・ブランソン氏は2005年にこんなことを言っています。

「手頃な価格のプライベート宇宙旅行は、
類の歴史に新しい時代を開きます。
軌道に乗る、月にいく。
このビジネスには限界というものはないのです」

一般市民がその恩恵に与ることができるようになるのは何年後でしょうか。


続く。

バイキング・ランダー(着陸船)とカール・セーガン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館のマイルストーン航空機展示場には、
アメリカが打ち上げた二つの歴史的なカプセルと並んで、
火星探査機バイキング Viking Lander
が展示されています。

バイキング計画(Viking Program)
は、NASA、アメリカ航空宇宙局が1976年に行った火星探査計画です。

それは一対の宇宙探査機、バイキング1号とバイキング2号で構成されおり、
結論として火星の着陸に成功しました。

この二部構成からなる宇宙船は、火星の秘密を解き明かす端緒となり、
その成果は、惑星探査に対する国民の熱意を刺激することにつながりました。

それにしても、凄いものです。

スミソニアン博物館に足を踏み入れると、ゲートを入った瞬間、
あなたはアメリカ初のジェット機、最初の音速機X S-1、
月着陸ロケット、ジェミニ計画のフレンドシップ7、
そして火星探査着陸機を同じ空間の中に一望できるのですから。

これらはどれ一つとっても、特別展を開いて展示する価値のある
歴史的な航空機ですが、アメリカ合衆国というところは、
それら全部を一つの博物館どころか、その一つの部屋に集めて
さっくりとひとまとめにして見せているのです。

20世紀は文字通り「アメリカの世紀」だったと言っても、
少なくともこの空間に立ってこれらを眺めたことのある人なら、
賛同していただけるのではないかと思います。

■ スミソニアンのバイキング・ランダー

宇宙船バイキングは、母船であるオービターと、着陸船ランダーの
2つの主要部分から成っています。

オービターは軌道から火星の表面を撮影するため設計され、
着陸したランダーのために通信中継ポイントとして機能しました。
ランダーは表面から火星の調査をするために設計されたものです。

ランダーは、火星表面と大気の生物学、化学組成(有機物と無機物)、
気象学、地震学、磁気特性、外観、物理特性を研究するという
ミッションの主要科学目的を達成するための機器を搭載していました。

360度円筒形のスキャンカメラ2台が搭載され、
中央部からは、先端にコレクターヘッド、温度センサー、
マグネットを搭載したサンプラーアームが伸びています。

脚の上部からは、温度、風向、風速のセンサーを搭載した気象観測ブームが伸び、
地震計、磁石、カメラのテストターゲット、拡大鏡も搭載。

内部区画には、生物学実験とガスクロマトグラフ質量分析計、
また、蛍光X線分析装置もこの中に設置されています。

着陸機本体の下には、圧力センサーが取り付けられています。
科学実験装置の総質量は、約91kgでした。



説明板にあった略図

実物を見ても目に止まるのが長いブームです。

これは掘削ブームであり、調査のために火星の土を集めることができました。
ブームで集められた土は、宇宙船の上にある3つのキャニスターに収められました。


「あなたはそれらを見つけることができますか?
ヒント:一つには上にじょうごがついています」

と説明板に書いてあったので、わたしも探してみました。
ここには二つのキャニスターが写っています。

それにしても、地面の土をすくって缶に入れている探査機、
なかなか遊んでいるようで可愛らしいものです。

そういえば、火星の石をひっくり返してばかりいる探査機が、

「あいつもしかしたら、石の裏のダンゴ虫でも探してるんじゃないか」

とNASAの人が疑う、という漫画があったのを思い出します。
(いしいひさいちだったかな)

ここに展示されているのは、1976年に火星の表面に到達した最初の
アメリカの宇宙船となった二つの宇宙船と全く同じ機能を持つものです。



ミッションの計画中、そして着陸船が火星で活動している間、
科学者とエンジニアはこの複製を使用し、着陸船がさまざまなコマンドに対し
どのように反応するかをモデル化していました。

宇宙船が火星にランディングし、データを取集する機能がもたらしたものは、
それまで科学者たちが火星について知っていたことにとって
革命とも言える新しい事実でした。

火星が何でできているのか。

火星がどのように形成されてきたのか。

そして太陽系の進化について。



■バイキング計画

松任谷由美が「ボイジャー〜日付のない墓標」という歌を歌っていたのは、
ボイジャー計画が実行されてしばらくたった頃だったでしょうか。

小松左京のSF「さよならジュピター」と言う映画の挿入歌だったそうですが、
あの「妖星ゴラス」のように、ブラックホールを避けるために
木星を爆発させて軌道変更させるというこの話も、
「ボイジャー」と言う題そのものも、元はと言えば
このボイジャー計画にインスパイアされたのに違いありません。

さて、そのボイジャー計画ですが、1970年後半、
NASAが宇宙空間での探査のために打ち上げた「深宇宙探査機計画」です。

ボイジャー計画では、無人惑星探査機ボイジャー1号と2号を打ち上げられ、
撮影された画像は多くの新しい科学的発見をもたらしました。

それらは電池がきれるとされる2025年ごろ(あ、もうじきだ)まで
宇宙空間で漂いながら稼働する予定です。

ボイジャー1号と2号(イメージ図)

しかし、このバイキング計画は、NASA創設の初期から、
「より野心的なボイジャー火星計画」として発展したものです。
つまり、宇宙を漂いながら撮影を続けるボイジャーと違い、実際に
火星という目標を決めてそこに降り立ち、探査を行うというのです。

バイキング1号は1975年8月20日に、2号機は1975年9月9日に打ち上げられ、
いずれもケンタウルス上段のタイタンIIIEロケットに搭載されました。

バイキング1号は1976年6月19日に火星周回軌道に入り、
バイキング2号は8月7日に火星周回軌道に入ります。

これは、わかりやすくいうと、降りるべき場所を探していたんですね。

火星を1ヶ月以上周回し、着陸地点の選定に必要な画像を返した後、
軌道船と着陸船は分離し、着陸船は火星大気圏に突入し、
さらに選定された場所に軟着陸することに成功しました。

まずバイキング1号が1976年7月20日に火星表面に着陸。
その頃火星軌道上に到着したバイキング2号は、9月3日軟着陸に成功します。

そして着陸機が火星表面に観測機器を設置する間、
軌道上から軌道周回衛星が撮影やその他の科学的作業を行なっていました。


■生命体の探索〜火星人はいたか

昔、火星人といえば、誰がか考えたか、タコのような生物とされていて、
漫画でもそのような認識が随分と浸透していたような気がします。
なぜタコだったのか今となっては謎ですが、このバイキング計画では、
三つの目標のうちの一つが、火星に生命体が存在した証拠を探すことでした。

ちなみにあと二つは、

「火星表面の高解像度画像を獲得する」

「待機と地表の構造並びに素性を明らかにする」

ことです。

火星にタコのような火星人はいるのか。いたのか。
このことを、化学物質を採取し、
それを分析することによって探ろうとしたのです。


各々のバイキングランダーは、地表から土をすくい取り、
分析のためにそれを小型のロボット化学実験室に回しました。


バイキングは、火星の土から生命の構成要素の多くを検出しましたが、
しかしながら、火星に生命が存在したと言う証拠は見つかりませんでした。

それこそ、石の裏のダンゴムシでもいいから、何かその痕跡があれば、
人類はそこにいたかもしれないタコ(かどうか知りませんが)星人について
あれこれと思いを巡らすこともできたのですが。

とはいえ、ご安心ください。
科学の進歩は、少し前にわからなかったことも明らかにしているのです。

確かに、ミッション期間中、NASAは

「バイキングランダーの結果は、2つの着陸地点の土壌に
決定的なバイオシグネチャーを示すものではなかった」

と発表して世界をガッカリさせましたが、
試験結果とその限界についてはまだ評価が終わっていない状態なのです。

後年送られたフェニックス着陸船が採取した土からは、
過塩素酸塩が発見されました。

過塩素酸塩は加熱されると有機物を破壊する性質があるので、
バイキング1号2号の両方で分析した土壌に含まれた有機化合物を
過塩素酸塩が壊した可能性も捨てきれない
と言うのが現段階の見解です。

つまり、火星に微生物が生息しているかどうかは、
まだ未解決の問題ということなのです。

さらに2012年4月12日、科学者の国際チームが、
1976年のバイキング・ミッションの解析による数学的推測に基づき、
「火星に現存する微生物生命」
の検出を示唆する可能性のある研究を報告しました。

さらに2018年にはガスクロマトグラフ質量分析器(GCMS)を使い、
結果の再検討をおこなってそこで新しい知見が発表されています。




バイキングが送ってきた劇的なカラー写真の多くは、
火星の空の色をはっきりと捉えていました。

火星の空、それは予想していたような青ではなく、
サーモンピンクだったことは人々を驚かせました。

着陸船はまた、土壌を分析し、風を測定し、大気をサンプリングしました。


そして火星の「地理」です。

この明瞭な写真は、バイキング1号と2号の撮影したものを合成してあります。

真ん中を横切る亀裂のような線は、
バリス・マリネリス(Vallis Marineris)峡谷
左側に二つ見えている点はタルシス火山(Tharsis)
そして白く雪か氷を頂くのは北極と名付けられました。

大量の水から形成される典型的な地形を数多く発見したことで、
オービターからの画像は、火星の水に関する考えに革命をもたらしました。

巨大な河川、渓谷の存在そして洪水の跡。
水は深い谷を作り、岩盤を侵食し、何千キロも移動していました。

かつては雨が降っていたと言う証拠です。

また、ハワイの火山のようにクレーターがあり、
また、泥の中の氷が溶けて地表に流れ込んだと考えられました。
地下水の存在も明らかになったのです。



■カール・セーガン


火星探査機バイキングってこんなに小さかったの?

と驚く人もいるかもしれません。
これはモックアップですが実物大で、ランダーは
1.09mと0.56mの長辺を交互に持つ6面のアルミニウム製ベースからなり、
短辺に取り付けられた3本の伸ばした脚で支えられていました。

脚部のフットパッドは、上から見ると2.21mの正三角形の頂点を形成します。




横に立っている人物はカール・セーガン。
場所はカリフォルニアのデスバレーです。

コーネル大学の天文学者であった
カール・セーガン(Carl Sagan)
は、着陸地点の選択とバイキング計画全体を支援した人物です。

彼は、1970年から1990年代にかけて、宇宙探査の興奮を
同世代のアメリカ人(とここには書いています)に明確に伝えました。

彼は、自身のPBSテレビシリーズ「コスモス」(1980)、
ジョニー・カーソンとの「トゥナイト・ショー」などの番組に出演し、
雑誌、本などでの魅力的な執筆を通じて、
科学者と一般市民との間に知識の架け橋を作り、
その魅力を広く世に伝えました。


壇ノ浦の合戦、安徳天皇の入水、平家ガニという掴みから
DNAについて語るカール・セーガン。

■スミソニアン航空宇宙博物館のオープン


バイキング1が着陸に成功したのは、おりしもアメリカ建国200年の節目で、
その祝賀の雰囲気の中でした。(それに間に合わせたんでしょうけど)

1976年7月1日のその時、建国200周年の祝祭イベントの一つとして、
ここスミソニアン航空宇宙博物館がオープンしたのです。

リボンカットを行ったあと手を叩いているのは
現職の大統領だったジェラルド・フォードで、リボンカットは
バイキングのオービターが送ってきたシグナルと同時に行われたのだとか。

ここスミソニアン航空宇宙博物館が、いかにアメリカの科学、文化、
そして国力の象徴であったかを物語る写真です。



バイキング計画プロジェクト費用は打ち上げ時におよそ10億ドルで、
2019年のドル換算で約50億ドル(約5,761億323万7,700円)相当します。

このミッションは成功とみなされ、1990年代後半から2000年代にかけて、
火星に関する知識の大部分を形成するのに貢献したと評価されました。


続く。


”スペースウォーカー”ジェミニVI〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館に一歩足を踏み入れた途端、
その歴史的価値においてはどれも一級の航空機が並んでいて、
大国アメリカのこの世紀における底力に誰もが圧倒されますが、
特に、ソ連とその科学力を持って世界一を争った
航空宇宙開発の足跡であるところの宇宙船などは壮観の一語につきます。

今日はそんな宇宙開発展示の一つについてお話しします。

◆ジェミニ計画

ジェミニ計画(Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局、
NASAの、二度目の有人宇宙飛行計画です。

1958年から始まったマーキュリー計画と、有人宇宙飛行が目的だった
アポロ計画の間に当たる、1961年から1966年にかけて行われました。

ジェミニ計画の目標は「スペースウォーク」。
ジェミニ4号は、宇宙で活動することに向けた大きな一歩である、
宇宙船外における人類の活動を初めて可能にしました。


宇宙飛行士、エドワード・H・ホワイトは、ジェミニ4号の活動中、
このスミソニアンにあるカプセルの右側にあるハッチをあけて
宇宙空間に21分浮いたとき、初めて宇宙を歩いたアメリカ人となりました。


このとき、窓から出ていった予備の耐熱グローブは回収することができず、
しばらくスペースデブリとなって宇宙を漂っていたとか(回収済み)

ホワイト飛行士

残念なことに、アメリカ人で初めて宇宙を歩いたホワイトは、
この成功からわずか1年半後、アポロ1号訓練中の火災によって
ガス・グリソム、ロジャー・チャフィと共に殉職してしまいました。

アポロ1号の火災事故については、映画「アポロ13号」でも取り上げられ、
「ライト・スタッフ」では、ラストシーンで映るガス・グリソムの映像に
彼が事故で亡くなるという字幕が重ねられています。

話を元に戻します。

ジェミニ計画で最初のジェミニ1号が打ち上げられたのは1964年、
2号は翌年の1965年で、いずれも実験的な無人飛行でした。

ジェミニ初めての有人飛行となったのは3号で、このときは軌道を3周し、
その次の4号が初めて船外活動に成功したというわけです。

この時ジェミニ4号の機長ジェームズ・A・マクディビットとホワイトは
4日間にわたる宇宙飛行を記録し、アメリカ国内の滞在期間を更新しました。

以降ジェミニ宇宙船は1965年から1966年までの間に
2名ずつ10名の宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

その中にはアポロ11号乗員ニール・ームストロング、バズ・オルドリン
アポロ13号船長だったジム・ラヴェル
「マーキュリー・セブン」だったウォルター・シラー
そしてガス・グリソムの名前がありました。

宇宙開発競争の主要部分とも言えるジェミニ計画は、
いわば「基礎」となったマーキュリー計画によるカプセル打ち上げと、
より洗練されたアポロ計画との重要な架け橋だったと位置付けられています。

ジェミニ計画の飛行士は、順次打ち上げられた12号までのカプセルにおいて、
軌道を変更する方法、ランデブーして他の宇宙船とドッキングする方法、
そして宇宙を歩く方法などを学ぶことができました。

ジェミニは実用的な宇宙飛行の先駆けとなったのです。

そして対外的なことを言えば、この計画により、アメリカは
東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において
決定的に優位に立つこととなったとされています。


◆人類初の宇宙遊泳者 アレクセイ・レオーノフ


先ほど、ホワイトについて「アメリカ人最初の宇宙遊泳者となった」と書きました。
それは、彼が「世界初」ではなかったからです。

世界で初めて宇宙を歩いた男。

それは、アメリカと開発競争を争っていたソビエト連邦の宇宙飛行士、

アレクセイ・レオーノフ
(Alexey Arkhipovich Leonov, 1934- 2019)

でした。

レオーノフは、世界で初めて宇宙に飛んだ男ユーリイ・ガガーリン、
ソユーズ1号で事故死したウラジーミル・コマロフらとともに
選抜されたソ連最初の宇宙飛行士の一人です。

レオーノフが世界で最初に宇宙遊泳を行ったのは1965年3月18日。
ボスホート(Voskhod)2号で打ち上げられ、約10分間、遊泳を行いました。

ジェミニ4号でのホワイトの宇宙遊泳は22分間で、これは、
彼がなかなか帰ってこなかったせいと言われていますが、
アメリカは先を越されてしまった分、せめてソ連より
1分でも長く滞在しようとしたという可能性もあるかもしれません。

当時の米ソの宇宙開発競争が、国家の威信と覇権をかけた、
それはそれは熾烈なものだったことを考えると、
これはあながち間違っていないのではとわたしは思います。


アレクセイ・レオーノフについてもう少し書いておきます。

この人はソユーズ11号に乗り込む予定でした。
しかし予定の三人のメンバーのうち一人に結核の陽性反応が出たため、
(これは後から誤診だったとわかる)
全員交代を命令されて彼も任務を降りざるを得なくなりました。

ところが、代わりにソユーズ11号に乗ったのが予備メンバー。
経験と訓練不足もあって、帰還時空気漏れ事故を回避することができず、
カプセルの中で全員が窒息死するという惨事に見舞われました。

殉職した飛行士たちの国葬

乗員交代の命令が降ったとき、レオーノフはこの措置に反発し、
結核の疑いのある者だけを交代させ、自分ともう一人を残すように、と
かなり強く要請したのですが、叶いませんでした。

しかしこのとき彼が予定通り乗り組んでいたら、
おそらく事故は回避されていたと考えられており、その理由は二つあります。

まず、酸素漏れの原因となった自動制御のノズルを、
レオーノフは手動に変えておくべきだと忠告しようとしていました。

つまりこの時点で空気漏れの事故は防げたはずというのが一つ。

それからカプセルの酸素が抜けていく音に気づいた乗員は、
ノズルがどこにあるのかわからず、探すために音声を切っています。

空気漏れの音が座席の下からしていることに気づいた時には手遅れでしたが、
レオーノフであれば、万が一そうなってもすぐに対処できたはずでした。

こうなると、諸悪の根源は、ラボの健康診断での誤診ということになります。
ここさえ間違わなければ、そもそもメンバーが交代もなかったのですから。


さて、このアレクセイ・レオーノフさんですが、
この写真を見てもなんとなくうかがえるように、大変気さくな人柄でした。

絵を描くのが大好きで、ご本人が持っている絵は自分で描いたもの。
宇宙開発の任務に携わっていた時期から、
趣味として宇宙などを題材とした絵画を描いていたそうです。

また数度の来日経験があり、気さくな人柄でテレビ出演や
トークショーなどを何度も行い、日本ではサインも日本語で書いていたとか。

2019年10月に85歳で亡くなりましたが、原因はコロナではありません。


◆コールサインは”ヒューストン”



ジェミニ4号に話を戻します。

これはジェミニ4号内部のホワイト飛行士(右)と
船長マクディヴィット飛行士で、リフトオフを待っているところです。

スミソニアンにはこれが反転した写真が展示されています。
ホワイトの肩の🇺🇸を見れば、こちらが間違っていたことがわかりますね。


さて、この両国の快挙で初めて人類が宇宙船の外に出ました。

それは宇宙飛行士が月面を歩くこと、そして宇宙ステーションの建設、
人工衛星の修理、化学機器の整備など、あらゆる可能性につながりました。

この宇宙遊泳は、人類が宇宙に踏み出すための偉大な一歩だったのです。

うわーみんな頭良さそう。あたりまえか。

ヒューストンコントロールセンターに最初に指名された
NASAの航空ディレクターたち。
彼らはジェミニIVのミッションディレクターとして働きました。

左上から時計回りに:

グリン・ラニー(Glyinn Stephen Lunney)
ジョン・ホッジ(John Dennis Hodge)
クリス・クラフト(Christopher Columbus Kraft Jr.)
ユージーン・クランツ(Eugene Francis "Gene" Kranz )

全ての宇宙飛行の実行のためには、多くを地上支援に頼ります。
ジェミニ4号以降、地上管制システムは、それまでの
フロリダ州ケープカナベラルからテキサス州ヒューストンの
ミッションコントロールセンターに移転しました。

コールサイン「ヒューストン」で知られるこのセンターは、
何十年にもわたる宇宙飛行のミッションを通じて、
冷静で科学的な管理と問題解決の象徴となりました。

ちょっとこの写真の面々を紹介しておきます。

【グリン・ラニー】

ジェミニ計画・アポロ計画のフライトディレクターです。

アポロ11号の月面上昇やアポロ13号の危機などの歴史的な出来事に立ち会い、
アメリカの有人宇宙飛行計画における中心人物と言われています。

「アポロ13」ではジーン・クランツ(エド・ハリス)が目立ちましたが、

「世界は、宇宙飛行士を破滅させる可能性のある大惨事を回避しながら、
宇宙飛行士を安全に月のモジュールに移動させる即興の傑作を組織したのが
グリン・ラニーだったことを記憶するべきである」

と述べる作家もいます。

【ジョン・ホッジ】

イギリスの航空宇宙技術者だったホッジは、カナダに渡って
戦闘機の研究をしていましたが、それが中止されるとNASAに入り、
フライトディレクターとして活躍しました。

【クリス・クラフト】

クリストファー・コロンブスというファースト&ミドルネームがすごい(笑)
彼はこの名前もあって、宇宙開発時代は大変な時代の寵児だったようです。

ところで、この4人のうち、いわゆるトップ工学系大学を出ているのは
バージニア工科大学を卒業したこのクラフトだけです。
アメリカって特に科学系は学歴ではなく実力主義だなあと思います。

それと、白人系であれば、他国籍でも軍事産業参加OKなんだなあと。


1957年、いわゆる「スプートニク・ショック」の後、アメリカは
始まったばかりの宇宙開発計画を加速させますが、
「人間を軌道に乗せる」問題の研究に誘われた彼は、有人宇宙計画、
マーキュリー計画の最初の35名のエンジニアの一人となりました。

「アメリカの有人宇宙飛行計画の始まりからスペースシャトル時代まで、
その推進力であり、功績が伝説となった人物」

と言われています。

【ジーン・クランツ】

映画「アポロ13号」でエド・ハリスが演じたジーンとはこの人です。

Gene Kranz: other famous quotes

うーんかっこよすぎでないかい。

実物もよし。
例のあのベスト(奥さんお手製)が似合ってます。


奥さんはミッションのたびにベストを手作りしていたため、
何種類もあったらしく、赤や黒のバージョンもあります。

クローズカット&フラットトップのヘアスタイルと共に、
妻のマルタがフライトディレクターの任務のために作った、これらの
さまざまなスタイルと素材の「ミッション」ベストはあまりにも有名で、
彼は今でもアメリカの有人宇宙開発の歴史のレジェンドです。

「タフで有能」の権化だった彼の語録は「クランツ・ディクタム」として、
映画やドキュメンタリー映画、書籍や定期刊行物の題材になりました。

2010年の宇宙財団の調査では、クランツは
「最も人気のある宇宙ヒーロー」の第2位にランクインしています。

空軍のテストパイロット出身で、マクドネル社を経てNASA入局。
ジェミニ4号の時にはまだマクドネルに所属していました。

アポロ13号打ち上げの時にフライトディレクターだった彼は、
彼らを地球に帰すNASA一丸となったミッションの指揮を執りました。
映画では、

「Failure Is Not An Option」
(失敗は選択肢にない=許されない)

というクランツのセリフが有名になりましたが、これは彼の発言ではなく、
管制クルーの一人がインタビューでなんとなく言った言葉を
脚本家がドラマチックに取り上げてクランツに言わせたと言われています。

ただ、クランツは、のちにこの言葉を自伝のタイトルにしています。


ジェミニ4号のミッション・コントローラーと話をする
NASAのディレクター、デーク・スレイトンDake Slayton(左)。

第二次世界大戦中はB-25ミッチェルの操縦士だったスレイトンは
戦後は空軍で戦闘機のテストパイロットをしていたところ、マーキュリー計画で
7名の宇宙飛行士の一人に選ばれますが、心臓に疾患があったため、
療養している間、ディレクターとしてNASAの宇宙開発事業に携わりました。




最後にちょっといい写真を。

スレイトンと、先ほどのアレクセイ・レオーノフのツーショットです。

後のシリーズで実物の展示写真と共にお話しする予定ですが、
スレイトンは1973年2月、ドッキングモジュール・パイロットとして
アポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
に参加することになりました。

アメリカ人クルーはロシア語を学び、ソ連に渡ったのち、
ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで
2年間の訓練プログラムを開始することになりました。

彼はスカイラブ計画中も管理職の役割を担っていましたが、
来るべきフライトに備えて1974年2月にディレクターを辞任しました。

そして、1975年7月15日、アメリカからアポロ宇宙船、
ソ連からソユーズ宇宙船が打ち上げられます。

7月17日に2機の宇宙船は軌道上でランデブーし、アメリカ人宇宙飛行士は
宇宙飛行士のアレクセイ・レオーノフ、ヴァレリ・クバソフ
クルー・トランスファー(乗員交換)を行いました。

この時スレイトンは51歳。
当時宇宙飛行を行った宇宙飛行士としては最高齢でした。


アポロ1号、そしてソユーズ11号と、宇宙飛行士が犠牲となった
宇宙開発戦争における悲惨な事故のうち二つを紹介しましたが、
それでもなお、人類にとって、当時、宇宙は
命をかけてチャレンジする価値のある未知の領域でした。

アメリカで最初に宇宙を歩き、その後アポロ1号の事故で殉職した
エド・ホワイトは、宇宙飛行からカプセルに戻る時、
ミッションコントローラーだったクリストファー・クラフトに、
このように通信しています。

”I'm coming back in…
And it’s the saddest moment of my life.”
(帰還する・・これは僕の人生で最も悲しい瞬間だ)

よっぽど宇宙が楽しかったんですね。

続く。


「月に触れてください」アポロ17号の月の石〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館のマイルストーンコーナーには、
文字通りのマイルストーンとして月の石が展示されています。

わたしが写真を撮ったとき、意識したわけではありませんが、
たまたま横にいて月の石を触ろうとしていたのは、
「NASA」の文字が書かれたTシャツを着た少年でした。



アポロ計画でアポロ11号が月面着陸させたのと同タイプである
LM-2と同じコーナーに、それはあります。


月面上で撮られた写真には、宇宙飛行士たちが持ち帰る前の、
地面(っていうか月面ですが)に転がった岩が写っています。

「あなたが触るのはこの岩の一部分です」

左に書かれているのは、

「アポロ計画の最後のミッションとなったアポロ17号のクルーは、
1972年の12月、この石のサンプルを地球に持ち帰りました」

そして、石は航空宇宙局から貸与されているものであるという説明です。


斜めに丸くくり抜かれたウィンドウは、
中央におそらく盗難防止のための分厚いアクリルガラスが嵌め込まれ、
その下の部分に手を差し入れるようになっています。

誰も見ていない隙に大掛かりな機材を使って
台座ごと根こそぎ掘っていくことができないようにかもしれません。


元々宇宙飛行士が持ち帰ったという「月の岩」はこれ。
写真に写っているのが結構大きなものであったことがわかります。

ここで展示されている岩があったのは、
「タウルス・リットロウの谷」と名付けられた場所で、
鉄分が豊富な火山岩であり、緻密で暗灰色または黒い玄武岩です。


アポロ17号の持ち帰ったサンプルは111キロあったそうですが、
それが一つの塊だったかどうかはわかりませんでした。

わかっているのは、主にアポロ15, 16, 17号によって採取されたのが
2415サンプル、総重量382キログラムであったということです。

アポロ計画において、月の石はハンマー、レーキ(熊手)、スコップ、
トング、コアチューブといった様々な道具を使って採集され、
ほとんどはここに展示してあるような採集前の状態が写真で記録されています。

石は採集時にサンプル袋にいったん入れられ、それから汚染を防ぐため、
特別環境試料容器に格納されて地球へ持ち帰られました。


月の上にあったというその岩は、一体幾つに刻まれたのか、
こんな小さなピースになり、それが埋め込まれています。


スライスされたばかりの月の岩。
ここに展示されているのは、星印の部分となります。


そしてその部分を触っている、見知らぬアメリカ人の手。



違うところに展示されている月の石らしいですが、
微妙に形が歪んでいますね。
なぜこの形にカットしたんだろう・・・。

◆月の一部にタッチしよう!

展示の横の説明にはこんな言葉があります。

月の実際の部分に手を触れること。
それはあなたを人類の宇宙への冒険に誘います。

最後のアポロ月面ミッションであるアポロ17号の乗組員は、
このサンプルを1972年12月に地球に持ち帰りました。

1969年7月から1972年12月の間に月に着陸した6回のアポロ計画は、
合計約382kgの岩と土のサンプルを地球に持ち帰りました。

これは月の歴史と構成について知るデータを地質学者に提供しました。



1960年代までは、月は文字通り「到達できない場所」でした。
しかし1969年以降、人々は月に到達することができるようになり、
それ以降人類の視野は根本的かつ大々的に変えられることになります。


プエルトリコのアレシボとバージニア州グリーンバーグには
巨大な電波望遠鏡が設置されています。

Arecibo Telescope

これらを使用して収集されたこの月のレーダー画像は、
北極(中央下)、岩の多いクレーターからの反射、
古代の溶岩流からの暗い反射がはっきり確認できます。

画像に「ブルース・キャンベル」と書かれていますが、
アメリカの俳優くらいしかヒットしませんでした。

◆月の一部を持ち帰るために

月に到達するまで、アポロ計画で乗組員に課された訓練の一つに
月のさまざまな、かつてないほど困難な場所に着陸し、
地球に持ち帰るためのサンプル標本を選択するためのものがありました。

特に最後のアポロ計画のために、NASAは、乗組員に
地質学者を加えたというくらいです。



アポロ17号のメンバー、左から月面着陸操縦士ハリソン・シュミット
船長(ミッション・コマンダー)ユージン・サーナン
司令船操縦士ロナルド・エヴァンス



この左のシュミットが学者代表で送り込まれた?地質学者です。

当初クルーにはサーナン、エバンスと別の飛行士が指名されるはずで、
シュミットは18号に搭乗する予定でしたが、
アポロ計画そのものが17号で打ち切りということが決定したため、
この決定を受け、科学者らの協会が

「17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、
地質学者そのものを月面に赴かせるべきである」


とNASAに圧力をかけたと言われています。
それほど月の物質を持って帰ることが重視されていたということでしょう。

アポロ宇宙飛行士たちが持ち帰った月の石から貴重なデータを得ることは
研究者たちのアポロ計画の一つの大きな目的でした。

そしてこの科学者からの要望を考慮して、着陸船操縦士に指名されたのが、
地質学の専門学者であるシュミットだったというわけです。


地質学者ハリソン・シュミット、大きな岩を調査中。



シュミット、石採集中。

ちなみに、船長のサーナン、操縦士エヴァンスはどちらも海軍軍人でした。

サーナンはF -J-4フューリー、A-4スカイホークの艦載機パイロット、
エヴァンスは宇宙飛行士のテストの合格を受けたとき、
「タイコンデロガ」の艦載機であるクルセーダーのパイロットでした。


月周回軌道が2011年に撮影した、アポロ17号の月着陸地点の写真です。
この写真には、月面探査機の軌跡、宇宙飛行士たちの足跡が作った道、
そして月面探査機が降下した後がはっきりと写っています。

◆ ルナ・ディプロマシー(月外交)

アポロ17号のハリソン・シュミットは、月から採取した一つの岩を分割して、
親交国の政府、アメリカ50州、そして領地に配布することを選択しました。

それはまだ彼らが「月の上」にいるときに、司令官ジーン・サーナンは、
アポロが将来の世代のために挑戦の扉を開いた、と声明を発表しました。

「確かに今は、そのドアにはヒビが入っているかもしれません。
しかし、アメリカだけでなく、世界中の若者たちが共に手を取り、
学び、働くことができる、そんな将来が確実に訪れるはずです」


確かにその後、宇宙においてそれは理想に近づいたかもしれませんが、
また最近、ロシアという宇宙大国の一つが戦争を起こすことで
そこにも亀裂が入っているというのが現実です。

◆月の石の所在場所

アポロ計画によって持ち帰られた月の石はそのほとんどが
テキサス州ヒューストンの宇宙センター内にあります。

市場に出て売買されたものもあり、2002年には月試料実験室施設から
火星の岩石資料が入った保管庫が盗まれたこともあります。(回収済み)

日本では、1970年の大阪万博においてアメリカ館で実物が展示され、
連日長蛇の見学者が訪れたのが有名です。

2005年の愛知万博でも大阪万博のものとは別の月の石が展示され、
国立科学博物館には常設展示されています。


◆月の石捏造説


アポロ月着陸陰謀説を紹介したので、ついでにこちらも挙げておきます。

「アポロの回収した月の石は偽物で、アメリカの砂漠で拾ってきたもの」

アポロ着陸が陰謀なら、当然石もありえないということになるわけで、
こういうことを言う人が出てきてもさもありなんです。

実際には地質学者の研究により、月の石は年代的にも成分も、
地球の石とは全く異なる特徴を示していることや、
地球には存在しない組成を持っていることが発表されています。

そもそもこの捏造論者は、アメリカを始めとする地質学者、物理学者が
これまでに発表した論文をちゃんと調べず発言しており、
そのことも各方面から指摘されているようです。

しかも、現在進行形で世界各地の機関が、しかも分析機器の進歩を見込んで
少しずつ小出しにして研究が進められており、
過去にも多数研究論文が発表されているのですが、この名誉教授は
自分の専門外の研究についてそういったことについて確認せず、
捏造を学術的に反論しようともしていないことから、
トンデモ扱いされているようです。



1969年9月15日、アポロ11号の宇宙飛行士、

月着陸船パイロット エドウィン・E・オルドリン・ジュニア、
司令船パイロット マイケル・コリンズ、
船長 ニール・A・アームストロング

が、ワシントンDCのスミソニアン博物館の当時の博物館長
フランク・テイラーに2ポンドの月の石を見せています。



彼らは1969年7月、月面にこのように書かれた碑を遺してきました。

We came in peace for all mankind.
「我々は平和裡に月にやってきた 全人類のために」

冒頭の写真の男の子が成人する頃には、
人類が「手を取りあって」「平和に」宇宙に行く未来が来るといいのですが。


続く。





X-15とニール・アームストロングと『ファースト・マン』〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-07 | 航空機

スミソニアン博物館にはグラマンが提供した
「マイルストーン」(歴史的)機の展示コーナーがあり、
そこに並ぶ古今の航空系展示物を見ているだけで圧倒されます。

ソユーズやアポロ11号の月面着陸機などに目を奪われますが、
とにかく歴史的に「初めて」都冠のつく機体ばかりなので、
気がつけばノースアメリカンのX-15のような、
「航空機の究極の完成形」とまで言われる機体も、
どちらかといえばひっそりとそこにあったりします。

X-15。

それは将来のハイパーソニック航空機を可能にする、
重要な飛行データを収集した歴史的な機体であり、
大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の
ギャップを埋め、橋渡しをしたといわれています。
これらのロケットパワーの研究用航空機は、マッハ5、
つまり音速の5倍である「極超音速領域」を調査しました。

驚くべきことに、X-15は、今現在でも、依然として
世界史上最も速く、そして高く飛んだ航空機です。

1959年に行われた最初のテスト飛行以来、X−15は
マッハ4、マッハ5、そして6に達し、飛行中に
高度100,000フィート(30,500m)を遥かに超えて
190回以上の飛行を行った最初の航空機となりました。

スミソニアンのX-15、機体番号66670
製造された3機のうち一番最初のものです。
現存するのはこの機体とあともう一機です。

この66670は記録を樹立した機体ではありませんが、
82回のミッションの過程でマッハ6に達しました。


■X-15の機体


わたしがこのホールに立ってこの写真を撮りながら思ったのは、
なんて翼の小さな飛行機なんだろう、ということです。
翼というものがほとんど意味を持たないような・・・、それは
ロケットに申し訳程度に翼をつけてみただけ、というように見えました。



スピードが目的で建造された飛行機に、飛行を安定させるための
大きな翼は全く必要がないのです。


なぜなら、X-15は自分で離陸せず、ボーイングB -52で
高度12,000メートルまで運ばれ、翼の下からドロップ発射されるシステムでした。


一階のフロアからは下腹しか見えません。


2階からはほぼ真横から見ることができます。
この時は、10代の少年が食い入るように説明を読んでいました。

ここに訪れる青少年の中から将来のパイロットが生まれる確率は高いでしょう。

彼が見ているX-15機体図


スペースの関係で90度傾けました

胴体は長く円筒形で、後部フェアリングにより外観が平らな感じ。
背中と腹部の厚いウェッジフィン・スタビライザーが付けられました。

引き込み式着陸装置は、機首車輪の台車と2つの後部スキッドなので、
着陸の動画を見ると、只事でない感じの土煙が上がっています。

パイロットは着陸直前に下部フィンを切り離してパラシュートで落とします。
なぜなら下部フィンがスキッドの邪魔になるからです。

また、時速4,480km、高度37kmで作動する射出座席がありましたが、
計画中には一度も使用されたことはありません。
パイロットが着用したのは、窒素ガスで加圧できる与圧服でしたが、
高度11km以上では、コックピットも窒素ガスで0.24気圧に加圧され、
呼吸用の酸素はパイロットに別途供給される仕組みでした。

■ X -15のテスト飛行

「大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の橋渡しをした」

と先ほど書きましたが、X-15プログラムの199回に渡るフライトで得られた
貴重なデータは、全てマーキュリー、ジェミニ、アポロ、そして
スペースシャトルプログラムに生かされました。

特に、新しい耐熱素材、そして空中と宇宙の間を移動するための
飛行制御システムの開拓はこれがなければ生まれていなかったでしょう。


カリフォルニアのエドワーズ航空基地のランウェイ上にあるX-15.
上空に飛んできているのは牽引をするB-52です。





X -15のノーズには
BEWARE OF BLAST「爆風注意」とラベルされています。
同じ注意書きがエンジン部分にもあります。


X-15のテールは厚いくさび形で、極超音速でも安定するためのデザインです。
また、推力はリアクションモーターXLR11液体推進ロケットエンジン2基。

X-15の特徴である黒い塗装が施された機体の素材は「インコネルX」
ALLOYXともいうニッケル—クロム—鉄合金で、
チタン、ニオブ、アルミニウムを含有し、高温および低温下で耐腐食性を持ちます。

その特徴は、高温下で強度、耐酸化性が高く、極低温でも耐性を持ち、
耐腐食性が良好ということです。

前方を示す黄色い矢印のペイントの上には、

U.S AIR FORCE X-15
A.F. SERIAL NO. 56-6670

その後ろの黄色いRESCUEの下には、

EMERGENCY ENTRANCE
 CONTROL ON OTHER SIDE


とあります。

■X -15のパイロット

実は、その上の部分には、歴代パイロットの名前が記されています。

スコット・クロスフィールド NAR
ジョー・ウォーカー NASA
ピーターセン大佐 USN
J.B. マッケイ NASA
ラッシュウォース少佐 USAF
ニール・アームストロング NASA
エングル大尉 USAF
ミルトン・トンプソン NASA
ナイト少佐 USAF
ビル・ダナ NASA
アダムス少佐 USAF

機体にはスペースに限りがあるので、軍人はタイトルだけで、
一般人(NASA)はファーストネームあるいはイニシャルが付けられています。

アルバート・スコット・クロスフィールド(ライトスタッフに出てましたね)
のNARは、彼がノースアメリカン所属のテストパイロットだったことを表します。

クロスフィールドはアカデミックなメソッドで訓練された
「エンジニア/テストパイロット」第一世代の一人で、
1959年、最初にX -15を操縦しました。


X-15実験前のクロスフィールド

クロスフィールドが操縦するX-15 機体番号は66671


2番目に名前があるジョー(Josepf)・ウォーカー
X-15を初めて高度108キロメートルまで飛ばしました。


ウィリアム・J・ナイト(Knight)少佐は、1967年に
実験機のX-15A-2で有翼機の速度記録、7,274 km/hを樹立しました。

有翼機で宇宙空間に達した5人のパイロットのうちの1人でもあります。

■X-15フライト3-65-97事故

テスト飛行は一度悲惨なクラッシュ事故を起こしており、
X-15フライト3-65-97、あるいはX-15フライト191とも呼ばれています。

享年37

1967年11月15日、マイケル・J・アダムスが操縦したX-15は、
発射後数分で機体がバラバラになり、パイロットが死亡、
機体が破壊されるという悲劇に終わりました。

この日、X-15の上昇に伴い、アダムスは、搭載されたカメラが
地平線をスキャンできるように、計画された回転マヌーバを開始。
高度7万m23万フィートで、急速に密度を増す大気圏に降下中のX-15は、
マッハ5(5,300km/h)のスピンに突入します。
機体そのものにスピン回復技術が備わっていなかったにもかかわらず、
アダムスは技術を駆使してX-15のコントロールを維持することに成功しました。

しかし、その後機体は急速なピッチング運動が激しくなり、
ほぼ垂直に急降下して機体は分離、地面に墜落したのです。




X-15という歴史的機体の実験に関わったテストパイロットは12名。
8名のパイロットが地球から80キロ上空の飛行を体験し、
このうち2名がのちに宇宙飛行士になりました。

一人はアポロ11号で人類初めて月に降り立ったニール・アームストロング
もう一人はスペースシャトルに乗り組んだジョー・イーグルです。

ちなみにチャック・イェーガーが優秀なテストパイロットでありながら
宇宙飛行士のテストも受けられなかったのは、学位を持っていなかったからです。

宇宙でのアクシデントに対処するのに、科学技術のアカデミックな下地が必要、
とされたのですが、国家的規模の事業のフロントに立つ宇宙飛行士に
NASAは結構「イメージ」を重視していたんだろうとは思います。

時代的に当然ですが、選ばれた宇宙飛行士は後のアポロ計画に至るまで
全員が見事に白人男性ですし、選考の際には、夫婦仲がうまく行っているか、
などということも一つのポイントになったといいますから。

ニール・アームストロングと映画「ファースト・マン」



ライアン・ゴズリングがアームストロングを演じたこの映画の最初は、
X-15、66672の機体でテスト飛行を行うアームストロングが、
機首を下げるタイミングを遅らせて、予定された着陸地点を通り過ぎ、
エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで行ってしまって、
教官のチャック・イェーガーにダメ出しされるシーンから始まります。

イェーガーはニールを「注意散漫だ」と決めつけるのですが、
映画を最後まで見た人は、彼がなぜ上空で機首を下げなかったのかを、
彼の娘の死と重ね合わせて納得するという仕掛けです。

ここスミソニアンの解説には、ただ、

「ニール・アームストロングは、X -15のリサーチパイロットという任務に
大変誇りを持っていました」

とだけ書いてあります。

アームストロングのX -15での飛行は通算7回、総飛行時間は2,450時間、
高度63.2kmに到達し、マッハ5.74を出すという成績でした。

映画「ファースト・マン」では、彼がX-15の臨界点で見た世界も、
そしてジェミニ8号で見た宇宙も、そして月面もが、ニールにとっては
幼くして死んだ愛娘のいるところに繋がっているとして描かれます。


シー宇宙飛行士(享年38)

そして、宇宙飛行士の訓練の一環として行われるT-38の操縦訓練中、
事故死する宇宙飛行士エリオット・シー(See)の葬儀や、
アポロ1号のメンバーが全員死亡した火災事故なども描かれ、
(カプセルのハッチがその瞬間ガコン!と歪むのが怖かった・・)
宇宙と「死」の近さが映画を通じて強調されます。

ただ、アームストロングが宇宙飛行士に転職したのは、
娘の後を追うことを望んでいたからというのは、少し穿ち過ぎの気がします。

なぜなら、彼が宇宙飛行士応募に願書を出したのは、
ジョン・グレンの地球軌道周回が成功したことを受けてのことであり、
これは、彼が、宇宙飛行士の任務における安全性(つまり生存の可能性)
が高まったと判断したからと考えられないでしょうか。

彼は「死」に魅入られていたというより、ただ、死を恐れなかった。
なぜならそこに愛する娘が待っていると信じていたから。
という方が納得がいくのですが。



続く。


映画「世界大戦争」〜人類最後の日

2022-04-05 | 映画

映画「世界大戦争」最終日です。

この映画では戦闘機同士の交戦が緊張した世界の引き金となり、
あっという間に核戦争になってしまうという仮定を描いていますが、
いかに映画というフィクションでも、あまりにこの過程が短絡的過ぎて、
もう少しリアリティを持たせてくれ、と思わずにいられません。

初見、ギリギリで核が回避されるエンディングだと決めてかかり、
さあ、いつになったら東西首脳の話し合いが行われるんだ、と思っていたら、
そういう各国の政府の動きなど全く描かれることなく、というか、
最初から最後まで連邦国と同盟国の首脳や政府は登場せず、
現場の軍人が汗を流したり神に祈ったりしているうちに、
どこかの誰かがいつの間にかあっちこっちで核のボタンを押しているのです。


ただ、前回も書いたように、この映画、ハリウッドの
「渚にて」を日本版でやってみたかったというものなので(多分)、
彼方でもそうだったようにまつりごとレベルは全くお呼びではなく、
ただ、昨日まで平和の中に生きていた市政の人々の姿を描くことだけが
最初から最後までその目的となっているのだと思われます。



というわけで、いつの間にかこの世界では戦争が始まっていました。

学校は休みになり、生徒たちは血相変えて家に走って帰り、
それを見た焼き芋屋の親父は気が動転しております。



冴子が横浜での高野とのお泊まりから朝帰りしてきたとたん、
人々が避難をはじめ、街は混乱に飲み込まれていきます。



都心部なら地下鉄に逃げこむという方法もありますが、
郊外で一体どこに避難しようというのでしょう。

核爆弾の発射についてはなんの公式発表もなく、ただニュースは

「最悪我が国も被害に遭うでしょう」

「政府は最後まで諦めていません」

と訳のわからん報道をするのみ。
どこに落ちるかわからないのに、皆、どこに逃げるつもりなのか。


保母の白川由美が今や一人で切り盛りしている保育園には、
次々と園児の親が子供を迎えにきていました。




横浜のホテルに雑役婦として出稼ぎに来ているこの母親は、
東京の保育園に病気の娘を迎えに行こうと必死ですが、
品川まで来たところで電車も止まってしまいました。

彼女は人波に逆らって歩いて保育園まで辿り着こうとします。


その頃、同盟国軍基地ではミサイル発射準備が粛々と進みつつありました。
なんといつの間にか発射命令が下されたようです。

彼らが見つめる地図上の日本には、全国に4つもミサイル基地があります。



人々の逃げ失せた街には、宗教に救いを求める信者たちが、
太鼓を叩き、題目を唱えながらその辺を練り歩き、
野良犬あるいは元飼い犬が埃の中を徘徊しています。

「放送は、いかなる事態になりましても最後まで続けさせていただきます」

ラジオのアナウンサーの声に、時計屋の鳩時計の鳩が鳴く音が重なります。

「渚にて」のコカコーラの瓶とか、サンフランシスコのゴーストタウン、
教会に救いを求める人、というあのシーンの日本版でしょうか。



娘の元に走り続けた母親はついに力尽きて路上に倒れました。



保母の白川由美は、最後まで子供たちのそばを離れず、
サイレンが鳴り響く中、いつも通り絵本を読んでやっています。



日本から離れていく「笠置丸」船上で、高野は
首都がミサイル攻撃を受けるという最悪のニュースを知りました。


たまらなくなって無線室に駆け込み、恋人の冴子に向けて打電を始めます。



その時たまたま高野の部屋で無線機の前に座っていた冴子は、
恋人からの無電を受け取りました。

「サエコ」「サエコ」



冴子がそれを受け取ったことを知った高野。

「コウフクダッタネ サエコ コウフクダッタネ」

愛してるはもちろん、逃げろとか助かってくれとか一切なし。

この時点で家にいることから、高野は冴子がおそらく逃げずに
家族と一緒に最後を迎える決心をしたことを知ったのでしょう。


落涙しながら彼女は返信を打ち、嗚咽します。

「タカノサン アリガトウ」

こういう時どちらからも「アイシテル」が出ないのが昭和30年代。
この頃の日本人の語彙には「愛している」はなかったのかもしれません。


誰もが覚悟を決めているように描かれますが、この段階になってニュースは、

「現在両陣営のいずれも宣戦布告はしておりませんが、
事態は予測を許しません」

え?さっき開戦したって言ってなかったっけ?



茂吉の家族は全員が晴れ着に着替えました。(冴子は朝帰りのまま)
食卓にはありったけの心尽くしのご馳走が並べられ、

「まるでお正月みたい」

子供たちは大喜びです。
流石に上のこまっしゃくれた女の子は、

「でもいいの?
父ちゃん、どこかに逃げないとってラジオが言ってるわよ?」

などと不思議がっていますが、7歳と5歳ならもう少し
世間の騒然とした様子や戦争・核の意味もわかるのでは?

とにかく、親父である茂吉はこの娘の問いを一笑にふし、

「べらぼうめ、9000万日本人どこに潜り込めるってんだ」

都内では避難しようとする人の多くが動けなくなっていました。
おそらく今朝別れたきり離れ離れで最後を迎える家族も多くいるでしょう。

どう足掻いても同じ運命なら、せめて家族一緒に過ごしながら最後を迎える、
というのが茂吉夫婦が下した結論でした。



「冴子、お前幸せかい?」「母ちゃんは?」



真っ青な顔をして頷く冴子と吉。

ここでまたラジオがアバウトすぎるニュースを伝えます。

「両陣営の邀撃戦闘機はかなり撃墜された模様ですが、
その主力は依然として攻撃を続けております。
この情勢ではミサイル戦争に発展するのも時間の問題と思われます」

「しかし日本政府は決して希望を捨ててはおりません
日本の皆さん、決して希望を捨ててはいけません。
世界の皆さん、希望はまだあります」

希望がゲシュタルト崩壊しそう。ってかこの状況で希望って何?


病気のお吉は食後の薬を忘れずにちゃんと飲み、
先日植えたチューリップの芽が出ているか確かめに庭に出ます。

必死で「日常」を演じようとする茂吉とその妻ですが、
空気読まないリアリストの冴子がそれをぶち壊します。



チューリップの芽がまだ出ていないねえ、などという両親に向かって、
ヒステリックにこんな言葉を投げつけるのです。

「その方がいいわ!土の中なら死なずに生き残れるかもしれないもの。
これからどんなことになっても・・・!」

「冴子!」

咎める母親に彼女はキッと目を据えて、

「この地上に生きているものが皆無くなってから、
チューリップは芽を出すのよ。花を咲かせるのよ。素敵じゃない?
まだ芽を出さなくてよかった!」

そしてワッと泣き出すのでした。


茂吉は一人2階に駆け上がって物干し台から沈みゆく夕陽を眺めます。
よりかかったら崩れ落ちそうな手すりに手をついて。

「俺たちは死ぬもんか!死んでたまるか!
母ちゃんには別荘建ててやるんだ!
冴子にはすごい婚礼させてやるんだい!
え・・おおっ・・春江は・・・スチュワーデスにさせてやるんだ!
一郎は大学にいれてやんだよ・・お・俺の行けなかった”でえがく”によ!」




その時です。
ミサイル基地(もはやどちらのかわからない)から
次々と、各地に向けた核ミサイルが発射されていきました。

抑止力のための核などという言葉がちゃんちゃらおかしくなるくらい、
あらんかぎりの核爆弾が、一斉に上空に放たれていくのです。

一体倫理観とかどうなってるのこの世界。



ここで初めて登場するのがミサイル防衛隊という謎の組織。

おそらく陸上自衛隊のミサイルを扱う部門を、
お為ごかしに「防衛」とつけて誤魔化しているのだと思います。

でも、撃たれる前に向こうを撃たない限り「防衛」なんぞできないんです。
核ミサイルは撃たれてしまったらその時点で終わり。
というか、この頃の自衛隊は迎撃ミサイルは持ってなかったのかな?

ところでこのゲートの警衛の人、ここで立ったまま一生を終えるんだね。



「目標あり!方向340、高度720、距離630、ミサイルです!」



「どっちへ飛んでるんだ」

「大型ミサイル、推定落下地点東京中心部です」


詳しいことはわからないけど、これは軍事考証皆無だと思う。



「東京落下まであと124秒!」



その時、首相官邸の閣議室に、内閣総理大臣がただ一人座っていました。

「最後まで日本政府は努力をしている」って、一体なんだったんだろう。
他の大臣は、首相官邸地下5階の核シェルターに避難済みでしょうか。

総理が一人残っているのは、自分の病が進み、
もう長くないことを知っているから、とか・・・。

そしてナレーターは冷酷なこの事実を告げるのでした。

「そしてこの日、世界は第三次世界大戦に突入した」



明日が来ることを疑わず眠る子供。



全ての預かり園児が寝てしまった保育園でその時を待つ保母。



眠ってしまった子供たちを抱きながら無言の茂吉家族。
よく見ると、家族の輪の中に文鳥の鳥籠も加えられています。



冴子は手のなかの高野の写真を見つめています。


不気味に時計の針の音が響き、人々はただ沈黙したまま・・



しかし誰もが最後まで自分の持ち場を動かず、
ただそこでその時を待つだけでした。


東京の中心部、国会議事堂に向けて光が飛翔してきます。
周りの建物には明かりが煌々と灯ったままです。



一瞬の閃光の後、国会議事堂が、東京タワーが、空港が、街が砕けました。
この非常時に走っている電車が、旅客機が、紙のように宙を舞います。


絵丸出しの富士山からは、爆心地の都心からキノコ雲が上がるのが見えます。



特撮班渾身の核爆発シーンがこれでもかと。

飴のように捻じ曲がる東京タワー、溶岩流に飲み込まれる議事堂。
「俺の考えた最高に恐ろしい核爆発」って感じです。

これでは東京都下の生物はどこに逃げてもひとたまりもありません。
チューリップの球根はもちろん、おそらく核シェルターも無意味でしょう。



溶岩流に見えているのは実際の溶鉄を使用して撮影されています。
なんで核が落ちて東京都内に溶岩が流れるのかって話ですが、
おそらくビル群の鉄骨が瞬時に溶けてしまって、ということかな。

核って、瞬時に鉄骨を広範囲に渡って溶かすものだったっけ?



そして「黒い雨」が降りしきります。

撮影で降らせた水は実際にドブ水のような汚い水で、
このため照明が汚れて現場からは文句が出たという話です。

爆発から生き残った人々も、これを浴びて全滅する予定。


先に核を撃たれた側(多分連邦国側)の報復攻撃が始まりました。



弾道ミサイルがベーリング海に待機する潜水艦から発射されていきます。


まず報復として、モスクワへの核爆弾が。



負けじと今度は同盟国がニューヨークを攻撃、続いて同盟国のよしみで?
ロンドン、パリを次々と壊滅させていきます。

この都市壊滅シーンのために、映画スタッフは、
各国首都の模型を作り、前半に登場させたんですね。

これらの破壊シーンは、天地を逆にミニチュアをセッティングし、
建物は下から圧縮空気を噴き出して破壊できるように、
お菓子のウェハースで作ってあります。



これがウェハースって、凄いですよね。



素材が素材なので、保存中ネズミが齧って困ったそうです。



さて。
ここは一夜が明け、平穏な波のない海上の商船「笠置丸」。

昨夜の爆発が起こす暴風で、船は木の葉のように波に揉まれましたが、
なんとか生き残ることができて迎えた人類ほぼ絶滅後の朝です。

呆然としている船員たちの中に、高野もいました。



笠木丸船長の東野英治郎が船員に問いかけます。

「皆、東京の最後を見たな」

誰も生き残っていないのに、それでも君らは帰りたいのか、
戻れば残留放射能で被爆するかもしれないのに、死ぬために戻るのか、
と乗員一同の意思を再確認するための問いでした。



その時、笠智衆がニコニコしながらコーヒーを運んできました。

「何がどうなろうと、熱いのをグッと飲んで、ああーこらうまいと思うのが、
なんつったらいいんかな、わしにはうまく言えないが、
人間が生きている権利ですよ・・・それだ。

人間は誰でも生きていく権利があるというのになア。
それを人間が奪い取るなんて、どっか間違ってるんだ。

みんなが今東京に帰りたいというように、
生きていたいと言えばよかったんだ」


自分の娘や保育園の子どもたちも一瞬にして消えてしまったというのに、
笠智衆、なんなんでしょうこの呑気な平和ボケ爺さんは。

「もっと早く人間皆が声をそろえていやだ、戦争はやめよう、
と言えばよかったんだ・・。

人間は素晴らしいものだがなあ。
一人もいなくなるんですか・・地球上に」

え、そういう設定なの?



「東京へ帰る。ホウ」

「ホウタサー」

「238度」

「238度サー」

「ホウ」もわかりませんが、この「サー」ってなんですか?
もしかして「Sir」?


ただ海を凝視するだけの高野。
彼の帰る先には何もありません。
せめて愛する人の眠る地で自分も果てることだけが今の願いです。



老いた江原の耳朶には、最後に聴いた子どもたちの
「お正月」の歌が鳴り響いていました。






最近、日本で核シェルターが売れているという話を聞きました。

まさかと思っていたら、あれよあれよと攻め込まれたウクライナを
他人事ではない、と考える人もいるということなのでしょう。


終わり。



映画「世界大戦争」〜開戦

2022-04-03 | 映画
 
東宝映画の知られざる終末映画、「世界大戦争」二日目です。


官房長官

この世界では、具体的に米ソの名前を出さず、
東西両陣営を「連邦軍」「同盟軍」と呼んでおり、朝鮮半島有事も
38度線を挟んで起こっている、という言い方をしています。

映画公開の1961年には朝鮮戦争は既に終わっていましたが、
終戦ではなく、分断状態のまま休戦しただけなので(実は今でもね)
東西緊張が再び起こるなら同じところが導火線になると考えたのでしょう。

よもやこの時点で次の東西衝突がベトナムで起こるとは、
少なくとも映画関係者には全く読めなかったのだと思われます。

この世界の日本政府は、原水爆の使用禁止を世界に要求する、
という姿勢で一貫していますが・・・・なんだろう、この違和感。

世界唯一の被爆国だから核使用に強い発言権を持つ(はず)というこの考え、
「憲法9条があればどこも攻めてこない」というアレにに通じるような・・。


プレスクラブの運転手の間でも、アメリカの記者が本国に引き上げる、
などという噂が乱れとんでいました。


結婚が決まった恋人同士、冴子と高野。
日比谷公園をそぞろ歩きながら将来に向けた希望を語り合っております。
昔は日比谷公園ってデートスポットだったそうですね。

しかし二人の会話は、とてもデートにふさわしいものとはいえません。

「今度戦争が起こったら、わずか四個の水爆で日本は無くなるんですって」

「日本は元寇の役で蒙古から火薬の洗礼を受け、広島と長崎で原爆を受け、
第五福竜丸で水爆の洗礼を世界で最初に受けた国なんだ」


映画の性質上、カップルの会話が物騒なのは仕方ないとしても、

「だから日本の若者は、決して同じことを繰り返してはならない」

なんだ憲法9条派か。

だから、被爆国日本がいくら原水爆の悲劇を繰り返してはならないと言い、
核を保有しないことを決めても、日本以外の国はどうなんですか。

現にこの映画でも、日本国内に4ヶ所「極東ミサイル基地」があって、
原爆だか水爆ミサイルを日本以外の国が管理しているというのに。



さて、その連邦国軍の本土ミサイル基地。
基地司令(ハロルド・コンウェイ)が、何を思ったか、

「ここにある核ミサイルを押すだけで世界が終わりになるんだ!」

と唐突に部下に力説し始めます。
(パネルの前の右側の人は、確か「妖星ゴラス」にも出ていたかと)

その時です。

壁の赤いパネル「The Outbreak of War」=開戦のランプが点灯し、
けたたましくアラームが鳴り響きました。

つまりミサイル発射準備発動です。


当ブログがスミソニアンシリーズ制作で得た知識によると、
当時のアメリカの弾道ミサイルはガスを充填しなければなならないので
発射までえらく時間がかかったということですが、この世界のは
すぐさま発射OK状態になるという当時としては画期的なシステムです。



発射までの承認システムも実際はもっと複雑だという記憶がありますが、
ここは上から連邦国大統領、ミサイル軍連邦国総司令、
最後に連邦軍ミサイル軍極東基地司令とランプが点けば、発射OK。

電光掲示板だけの表示なんて、もし間違いがあったらどうするの?
と他人事ながら心配してしまいます。

っていうか、起こるんですけどね。間違いが。


「神よ 我を赦し給え」

軍人も一人の、核を恐れ神を畏れる一人の人間ってか?

かっこいい場面にしたい映画制作の意欲はわからんでもないが、
これだけは軍人なら言わないだろうし、言ってはいけないことだと思う。


ぽちっとな



しかしその時です。

「アタックオーダー?アーユー・ドリーミン?」

なんと偉い人が電話をしてきました。
発射命令が間違いだったのか?

「しかし、大統領と総司令のオーダーランプが!」

「いいからすぐさま中止しろ!」

「では中止命令を出していただかなくては!」

「そんな命令は出ておらん!きっと装置の故障だ」

こんなミサイル軍は嫌だ。

ひいいいい

あと3秒というところで、エンジニアが電源をぶち切り、
なんとか発射は止められました。

電源プチっとしたくらいで弾道ミサイルみたいなものが止められるの?



エンジニアが駆け込んできていうには、誤作動の原因は回路の故障だと。
なんでそんなの電源止まった瞬間にわかるんだよ。

「Thank God, thank God・・・・」

思わず半泣きでエンジニアに抱きつく基地司令。

ハロルド・コンウェイ、渾身の演技ですが、これも多分
軍人なら絶対やってはいけないことだと思う。



茂吉はプレスクラブの運転手として38度線に転勤するワトキンスを乗せ、
オリンピックに向けて完成したばかりの首都高速道路を走っていました。



首都高の銀座付近

グーグルマップで映画と同じ建物を数寄屋橋付近に見つけました。

茂吉はワトキンスから戦争になるかどうかを聞き出そうとします。
彼の関心はもっぱら買った株が値上がりするかどうかでした。



彼が帰宅すると、妻が庭にチューリップの球根を植えていました。
彼らは春になってその花を見ることになんの疑いも持っていません。



そのころ38度線では。

ご覧の連邦国軍側の戦車群は無人という設定です。
装軌式の車体に12連装の戦術核搭載ミサイル発射台、回転式のマストを備え、
V-107ヘリコプターから遠隔操作するシステムが出来上がっています。



無人戦車に指令を行なっているV-107のコクピット。
全員東洋系で英語を喋っているので、実際なら韓国軍だと思われます。



ヘリからの音声コマンドで戦車は走行、展開、攻撃を行います。
この時代にしてはすごい先進技術といえましょう。

でも、攻撃されやすい脆弱なヘリから戦車を無線で操作する意味って・・・。



しかしそこに敵のMiG、じゃなくてMiG21をモデルにした
「MoK」(モク)という後退翼の戦闘機が現れて、
指令機のバートルごと戦車隊を壊滅してしまいました。



この時核弾頭弾が使用されたことで、一気に緊張は高まります。



日本政府は連日閣議を開きました。

国家非常事態に日本政府がどう対処するのかということについては、
映画「シン・ゴジラ」でもパロディが試みられていましたが、
この世界の日本政府もなんだかグダグダしています。

いうなら、聞こえのいい理想論とお花畑な防衛至上主義ばかり。

そもそもこんな事態になるまでに、国内に4ヶ所も核ミサイル基地を建設され
しかもその管理運用も自国でやらせてもらっていないらしいのに。

「日本政府は唯一の被爆国として強いこともかなり言ってきた」

とか言っていますが、さて、「強いこと」ってなんだろう。
「過ちは繰り返しませぬから」っていうアレのことかな。(嫌味です)




首相は最後まで諦めず、戦争回避を訴える覚悟です。
しかし気になるのが、首相の顔色の悪さです。

実は首相、肝臓の病で緊急手術をするように言われているのですが、
この状態で任務を全うしようとしているのです。

この非常時に職務を投げ出すことを潔しとしていないのかもしれませんが、
どんな要職もその人でなければできないことなどありません。
すぐに退任して、健康な人に後を任せるのが勇断というものだと思うけどな。



その夜、原爆遺族の親父から焼き芋を買った冴子は、
屋台の上に置いてある旧約聖書(ヤコブ書)を手に取ります。

そして開いたページの第4章を、思わず朗読し始めるのでした。

「汝らのうちにおける戰と争いとはいずこよりか来れる。
汝らの個体のうちに戦えるその欲より来るにあらずや」

(あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか) 




彼女の声に世界の首都の風景が重なります。

「汝らが貪り得ず、殺し、妬みて取ること能わず。
争い、戦いて得ることなきはあたわざるが故なり」


(あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。
あなたがたは、求めないから得られないのだ) 



ニューヨークだけが本物で、あとは皆模型の景色です。

もちろんこのシーンのためだけにに模型の首都を作ったのではありません。
それは最後まで見ていただければわかります。




「願いて受けざるは欲のためにに費やさんとして悪しく願うが故なり」
 
(求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、
悪い求め方をするからだ)



「この世に対する愛情は神の仇となるを知らず。
されば、この世の友たらんとする人は神の仇となる」


世を友とするのは、神への敵対であることを知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである)



病気療養中だった「笠置丸」給仕長の笠智衆は、明日から船に戻りますが、
それまで娘(白川由美)が保母をしている保育園の手伝いをしています。



この保育園では、病気の子供を泊まりで預かってくれるようです。
横浜のホテルで雑役婦をしている母親は、週に一度娘に会いにきています。



笠智衆がいよいよ出発という時、保母である娘は
これから長い航海に出る父のために、子供たちの歌をプレゼントしました。

ところで、画面右の滑り台を滑っている男の子、
演技を全く無視して本気モードで遊びまくっています。
よっぽどこの滑り台が気に入っていたのでしょう。



「もういくつ寝ると〜お正月〜」

船員の彼は今度航海に出たら日本でお正月を迎えることができません。
目を潤ませながらお正月フルバージョン(2番まで)に聞き入るのでした。



こちら同盟国北極ミサイル基地。



ソ連軍っぽい兵士ですが、もちろん英語で喋ってます。
星を赤ではなく青にしているあたり、ちょっと気を遣っている?



この人物は現地視察中の同盟国ミサイル基地司令です。
ウォッカの飲み過ぎが、胴回りに明かな影響を及ぼしています。



なんだって北極にミサイル基地が?

北極の氷山の斜面で核弾頭の発射実験とかやってるんですが、
氷山に向けて核弾頭とか撃ってたらどうなると思います?



ほらー言わんこっちゃない。雪崩が起きてしまいましたよ。
君らアホなの?死ぬの?


雪崩のせいであちこち電源がショート、小爆発が起こり、
ミサイル基地のドアが開かなくなるわ、発射台へのトンネルが塞がれるわ、
・・・・だからこういうことも予測できるでしょって話ですが、
このとき、さらにショッキングな報告が上がってきました。

「今の振動で核弾頭の起爆装置が動き出しました!」

あー、こんなミサイル軍もいやすぎる。
たかが振動で簡単に起爆する核弾頭装置って。

っていうか、連邦国軍も同盟国軍も一体何をやってるんだろうか。



その時決然と動いたのはウォッカ司令でした。(名前知らなくてごめんね)
自分が核弾頭の中に入って導線切ってくるってんですよ。

いや・・・わかんないんですけど、核弾頭って、そんな簡単に
ヒューズ剥き出しにしてチョキっと切ったりできるわけ?
この頃の核弾頭の配線って、ハンダ付とかそんな感じだったの?

「もし爆発したら、敵の攻撃と思われて、全面報復が発動される。
そうすれば世界の終わりだ!」


それは事故で自爆しましたすみませんと素直に言えばいいと思うがどうか。
あ、皆死ぬから説明する人がいなくなるのか。



と言うわけで、司令自ら装置を停止する作業に取り掛かりました。
ペンチとか入ったアタッシュケースを副官に持たせて梯子を登っていきます。
マニュアルはいらんのか。

下から部下が声をかけます。

「気をつけてください。外す時が一番危険です」



時間が迫ってきます。
5分の間に作業を済ませないと基地が全滅です。

時計が0を差し、皆が目を瞑った瞬間、
頭上ではヒューズの束を持った指令が汗を拭っていました。



いいぞ同盟国司令。ハラショー。

わたしには、ここで映画が何を言いたいかがわかりました。
この世界、誰一人として核戦争を起こしたい人なんていないわけです。
今の世界もそうでしょうが、誰一人として戦争を起こしたい人なんていない、
ウラジミル・プーチン以外は、ということを表しているのです。

じゃあなんでこうなってしまうの、ということについては
古今東西あらゆる賢人が解釈を試みてきたのですが、
結局いつの時代になっても戦争は始まってしまうのです。

今回、ウクライナで起こったように。



ちょうどその時、38度線で停戦したと言うニュースがもたらされました。
協定成立です。
連邦国軍側でも皆が喜びに沸いています。



その頃、現在の横浜の港の見える公園に、高野と冴子の姿がありました。
高野の勤務する船が急に出港することになったのです。

一度出港したら何ヶ月も帰って来られないのが船乗りの運命。
今のこのご時世、もしかしたらこれっきり生きて会えないかもしれません。

冴子は横浜まで一丁羅の着物を着てやってきました。
彼女にはその予感があったのでしょうか。


彼らはその夜、港のホテルで二人だけの結婚式を行いました。



38度線の休戦で世界がわずかばかりほっとしたその瞬間です。
ベーリング海で、連邦国軍戦闘機のF-105と、



どう見てもMiGなMoKが交戦状態に入ってしまったのです。



こちら連邦国軍パイロット。
同盟国軍パイロットのヘルメットには青い星が付いています。
MoK機は核弾頭を使用してきました。

「運命的な衝突」「世界危機」

報道がセンセーショナルな言葉で煽り立てる中、さらに、
シリア国境ではトルコ・アラブが停戦協定を破棄し交戦状態に。

ベトナムでクーデターが起こり人民蜂起、
第7艦隊と中共軍戦闘機との間に交戦が・・・・・、と
いっぺんにあらゆる紛争が顕在化してしまったのです。



この後に及んで日本は、核兵器の使用禁止を世界に訴えるだけでした。

実際なら、連邦国側の同盟として何もしないわけにはいかないので、
少なくとも自衛隊の派遣か、連邦国の後方基地として機能するでしょう。

少なくともこんな他人事みたいな態度は取って居られないと思います。



横浜のホテルで過ごした次の朝、
出港する高野の乗った船を一人見送る冴子の姿がありました。



自沈するためにオーストラリアを出港したグレゴリー・ペックの潜水艦を
涙ながらにエバ・ガードナーが見送るシーンの日本版です。

これを見て、当作品が「渚にて」を再現したかったのだとわかりました。

続く。






映画「世界大戦争」〜同盟軍対連合軍

2022-04-01 | 映画

新東宝の映画を紹介してほしいという一部のマニアックな期待に応えるべく、
今回一字違いで少し違いますが、東宝のSF作品を取り上げます。

「世界大戦争」。

いきなり結論を言うと、東西緊張から第三次世界大戦が開戦し、
日本どころか世界が破滅することがわかったとき、
そこで生きる一つの家族はどうその日を迎えるかと言う終末ものです。

昔読んだSF小説で、小松左京か筒井康隆か星新一だったかも忘れましたが、
東京に某国から核が誤って発射されてしまったというところから始まり、
着弾するまでの人々のパニックを描いた作品に似ていると思いました。

もっともこの小説は、混乱と諦めの果てに迎えた最後の瞬間、
着弾した核は不発であり、人々が喜んでいると、はるか彼方から
何発かのミサイルが接近してきていたという救いようのないオチでしたが。
(この短編、どなたか誰の作品かご存知ありません?)


さて、本作、制作は1961年、昭和36年、松林宗恵監督、
プロデューサーは田中友幸、特撮円谷英二という黄金トリオによる作品です。

1961年というと、米ソ冷戦について宇宙開発に絡めながら
書いてきた当ブログにとっては特筆すべき年です。

米ソ間にはあの「U-2撃墜事件」が起こっており、これはすなわち
アメリカが偵察方法をより宇宙に深化させていくきっかけとなりました。

国内では那覇基地から核ミサイルが誤射されたという事故も起こっています。

しかしわたしが最も強く感じたのが、その前年に公開された、
ネビル・シュートの小説の映画化である

「渚にて」 ”On The Beach” 

の影響でした。


常陸宮殿下がプレミアを鑑賞されたと封じるニュース付きです。

On The Beach ≣ 1959 ≣ Trailer


「ワルツィング・マチルダ」につい涙を誘われます。

そういえば、中学生の時にオーストラリアの姉妹都市から訪問留学生が来て、
クラス委員ということで「お世話係」を任されたわたし、

「オーストラリアにワルツィング・マチルダって曲あるでしょ」

と話しかけたところ、彼ら(男女合わせて6人くらいいたような気がする)
誰一人として知らなそうだったので、実際歌ってやった思い出があります。

前もって読み込んでおいた、「これが世界だ!オーストラリア」には
これが第二の国歌と書いてあったのに、なんで?
と不思議でたまりませんでしたが、子供は知らなかったりするのかな。

閑話休題。

当時の緊迫する世界情勢を受けて、大手映画会社は

東宝『第三次世界大戦 東京最後の日』

東映『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』

と同時に似たような企画をあげています。

その後すり合わせでもしたのか、最終的に東映は怪獣ものに流れ、
東宝が「世界大戦争」とタイトルを変更して制作することになりました。


「渚にて」は、すでに核爆弾の曝露で北半球は全滅しており、
残る南半球も汚染の南下で人類滅亡が避けられないとなったとき、
ほとんどの人々は配布される薬剤を使って安楽死することを選び、
人生を肯定しながら静かに最後を迎えるという内容です。

核による終末を描くことは当時の創作界の「流行」だったのは確かですが、
この映画に描かれた、騒乱も暴動もパニックも混乱も強奪もない、
ただ美しく死にゆこうとする人々の恐ろしいまでの諦念は、
必要以上に?日本人の琴線に触れた可能性があります。

潜水艦ごと自沈するため出航する潜水艦長(グレゴリー・ペック)、
彼を愛しながらそれを陸から見送る美しい女性エバ・ガードナー、
愛車の運転席で排気ガス自殺するフレッド・アステア、
配布された薬を飲んで死ぬ潜水艦乗員アンソニー・パーキンスとその新妻、
という具合に、個人が「そのとき」をどう迎えるかが描かれますが、
つまり東宝映画はこの日本版をやりたかったのだと思うのです。



それでは早速始めましょう。
音楽:團伊玖磨先生というだけでその有り難さにひれ伏してしまいます。

ヴォーン・ウィリアムズを映画担当にした国策映画、
「北緯49度線」みたいな重みと気合を感じますね。

團伊玖磨 - 世界大戦争 (1961)

ロマンティックな緩徐部分は2:40あたりから、
メインテーマは4:28から。



映画はいきなり平和な繁栄する首都の姿を映し出します。
まずは登っていく東京タワーのエレベーターから見える景色。

この頃の東京は一般の家屋らしい民家が四谷や麹町などに多いのに驚きます。


まだ路面電車の走る都内の通勤風景。


プロ野球ナイター戦。



今はなき松竹歌劇団のグランドレビュー。



製鉄所、羽田国際空港、築地市場、船の進水式。
戦後16年経って、戦後の焼け野原から奇跡の復活を遂げた東京の姿です。


今日は11月15日、七五三です。

七五三参りで賑わう神社に、一組の家族の姿がありました。
田村茂吉(フランキー堺)と妻お由(乙羽信子)、
歳を取ってから設けたらしい二人の子供、7歳の春江と5歳の一郎です。

ピカピカの黒塗りの高級車を参道に乗り付けてきたので、
どんな富豪の家族かと思いきや、これは茂吉が運転手をしている
プレスセンターの公用車で、通勤途中、家族を乗せてきただけでした。

堂々と公用車の無断使用とは、おおらかな時代だったんですね。

おおらかといえば、境内で外国人の男性が、振袖の女の子に、

”Hey, little girl, can I take a picture? Huh?"

と言いながらほぼ無許可でシャッターを切っておりますが、(字幕なし)
この英語もかなり失礼な感じだし、今なら色々とアウトです。



路面電車の線路があるので、幹線道路でしょう。
おそらく今では全く面影もなくなっていると思われます。



プロの運転手が運転しながら喫煙というのが許されていた時代。
シートベルトもしていませんが、そもそもこの時代そんなものはありません。



そのとき、カーラジオが不穏なニュースを伝えました。
同盟国軍が北大西洋で大掛かりな軍事演習をおこなっているというのです。

この世界では、米ソではなく、「同盟国」「連邦国」という名称が使われます。

ソビエト連邦という名前からわたしは当初勘違いしていたのですが、
連邦国がいわゆる西側陣営で、同盟国が東のようです。


こちらは同盟国パイロットだと思われます。
全員が英語を使っているため、どちらかわかりにくいのが問題です。


その時、同盟国(ソ連)の対潜哨戒機が、演習海域で
連邦国側のと思われるミサイル潜水艦を発見しました。


対潜哨戒機とされるのはこの頃特有の後退翼機です。
ツポレフのつもりかな?



哨戒機の連絡を受け、連邦国側の潜水艦が同海域に進入しました。
鯨のようなノーズの形に時代を感じさせます。

連邦国ミサイル潜水艦はその後対潜網(いつの時代だ)で拿捕されてしまい、
これが両陣営に最初の大きな緊張を生むことになります。



「コレワタイヘンナコトニナルカモシレナイ」

茂吉が運転する車の後部座席で連邦国記者のワトキンスが呟きます。
この記者役がジェリー・伊藤(本名ジェラルド・タメキチ・イトウ)。

ブロードウェイでデビューしてすぐ朝鮮戦争に出征し、
その時日本人女性と結婚したのが縁で日本の俳優・歌手になりました。



さて、こちらいかにも昭和30年台の光景。

欧米人から見れば立派な?アジアの貧民窟ですが、
この頃の日本の庶民の家庭ってこんなものだったんだと思います。

白黒テレビのアニメ(漫画映画)に見入る姉弟の風貌も
これぞまごうことなき「昭和の子供」。

そして脚を投げ出して編み物をしている美人がヒロイン、冴子(星由里子)
最初、冴子が兄弟の母かと思っていたのですが、
カツオとワカメの歳の離れた姉サザエさんと同じく、彼女は彼らの姉です。

事情を深読みすれば、田村茂吉は冴子が生まれてから出征し、
戦争が終わって帰ってきて、やっと暮らしが立ち行くようになって
二人の子供を改めて設けたということなのかもしれません。

茂吉のうちはこんなあばら家(失礼)なのに、下宿人を置いていて、
冴子はいつの間にかその高野という航海通信士と好き合っています。



その夜、その高野が乗り組んでいる「笠置丸」の乗員は、
怪しい光が海上に落下するのを目撃しました。
光は空中で一瞬赤く不気味に光ります。

「なんだろう、あれは・・・」


同じ頃、高野家では夫婦が晩酌を楽しんでいました。
そしてしみじみと、

「俺たちもここまで来たなあ。
戦争で裸一貫引き上げてきたこの俺が」


ここで映画は「終末」を予感させるちょっとした伏線を見せます。

表から聞こえる焼き芋の呼び声を耳にした3人は、焼き芋屋の親父が
広島で身寄りをなくし、売上を原水爆廃止運動に注ぎ込んでいる、
という噂話から、こんな不吉な会話を行うのです。

「焼き芋屋の親父に何ができるもんかい。縁起でもねえ」

「でもお父さん、今度水爆が落ちたら皆その場で蒸発してしまうのよ」

当時の世界情勢は現在進行形で米ソ冷戦が核と強く関わっていたため、
現在の日本人より、その危機感は具体的で切実だったかもしれません。

現にこの後、キューバ危機も起こったわけですしね。



しかし正常バイアスで強くそれを否定せずにいられない茂吉。

「そんな馬鹿なことあるかい。
そんなことになったら神も仏もいねえってことになるじゃないか」



さて、こちら東京プレスクラブ。
場所は丸の内のどこか?


茂吉が運転手仲間と売りに出されたテレビを見ていると、
放映されている歌番組に臨時ニュースの字幕が映し出されました。



和田弘とマヒナスターズかな?

臨時ニュースに変わると、地中海沿岸で軍用機が撃墜されたと報じられます。
世界のあちこちで小さな衝突が多発しています。



色めきたった茂吉は早速証券会社に電話をします。
戦争なので上がる株を買っておこうというわけです。


ここは首相官邸。

前にずらりと各報道局がテントを出しています。
入り口に一番近いのが朝日新聞とNHK。
おそらく力のある順番に並んでいるのでしょう。



事態を受けて日本政府の閣議が始まりました。
この内閣のメンバーは、

総理大臣 山村聡
外務大臣 上原謙
防衛庁長官 河津清三郎
官房長官 中村伸郎
厚生大臣 熊谷卓三
文部大臣 生方壮児
法務大臣 土屋詩郎

「もし何かあったら我が国も連邦国陣営の一環である限り
攻撃を受けることは覚悟しなくてはいけない」


そうならないための最善の努力を、と閣議は締められました。


そんな事態を夢にも知らない恋人たち。
商事会社でOLをしている冴子のもとに高野からの電話がかかってきます。



船の給仕長が胃を切除したので、その見舞いに行ってから帰る、と高野。
当時の横浜港ですね。


彼が向かった先は保育園でした。
おりしも運動会が行われています。



療養中だった給仕長、江原(笠智衆)の娘は保育園の保母です。
彼は運動会の手伝いにやってきていたのでした。



高野が下宿の田村家に帰宅してきました。


待ちかねていた冴子は、背広の上着を受け取ってそれをハンガーに掛け、
男が服を脱いで立っている後ろから着物を着せ掛けてやるのでした。

そして得意そうにアマチュア無線のライセンスを取ったことを報告します。

下宿人の高野の自室は二階にあり、しかも和室なので、
冴子は彼が留守の間に遠慮なく部屋に入り込んで勝手に掃除をしたり、
なんなら私物の無線機で練習してライセンスを取ったりしていたわけです。

昭和の時代は、鍵のかかる自室などそもそも存在しないものでした。


さて、ここはどこにあるのかはわからない、連邦国極東ミサイル基地。

ってことは、日本政府は連邦国の同盟国として(ややこしいな)
国内の基地での核保有を唯々諾々と引き受けたことになるんですけど。

え?ミサイル基地を管理しているのは日本ではなく、連邦国だからセーフ?

なわけあるかーい(笑)


そのミサイル基地で輸送機の到着を確認するのはマック中尉。
(もしかしたら大尉かもしれません)
輸送機6機が空輸してきたのは大陸間弾道ミサイルでした。



こちら連邦国軍ミサイル基地のCICの様子。
自衛隊との連携とか関与は一体どうなっているんだろう(棒)


マック中尉にミサイルの受領を命じ、潜望鏡を覗く基地司令役、
ハロルド・コンウェイという俳優の名前、覚えておられます?

そう、「地球防衛軍」のインメルマン博士ですよ。

コンウェイは、その後の本多猪四郎監督の「宇宙大戦争」でも
同じインメルマン博士で出演しています。

今回英語のサイトで初めて知ったのですが、コンウェイは元々税理士で
日本で本業の傍ら外人役として各種映画に出演していた「兼業俳優」です。

そのサイトの紹介を翻訳しておきます。

「20年以上にわたって複数の映画に出演し、英語と日本語を自在に操った。
日本では『ミステリアン』(1957年)のマーカライトFAHPの開発者、
デグレイシア博士役が有名で、この時の芝居がかった日本語が
外国人俳優として、印象的だったと言われている。

また、『GODZILLA vs. THE THING』(1964年)の撮影では、
他の英語圏の俳優とともに、日本版には収録されていないが、
他の英語圏のマーケットで上映されたシーンに出演している」

コンウェイ氏は1996年、85歳で亡くなるまで日本に在住していました。


輸送機の後部からぞんざいにずるずると引き出されるミサイル。
核兵器なんだからもうちょっと丁寧に扱おう。



林立するミサイル。

新しく6基が追加され、全部で12基ということになります。
憲法9条的には、日本が保有している武器じゃないからいいのかな?


その時、基地レーダーが航空機の接近を感知しました。
サイレンと共に、ミサイルが地下に沈んでいきます。

アメリカのミサイルは、冷戦当時「サイロ」に収納されており、
核爆弾の攻撃を受けても生き残ることができたと言いますが、
彼方がサイロからの発射を設計されていたのに対し、こちらは収納式です。

当時の核ミサイルも、もしこの技術があれば採用していたでしょう。



低空で侵入した同盟国の偵察機は、あっさりミサイルの撮影に成功。
連邦国、偵察機を全く迎撃しないのはどういうわけなのか。

しかしこれで、極東に核が存在するということがわかってしまいました。


目には眼を、ミサイルにはミサイルを。

というわけで、同盟国軍は情報を得るや否や、ミサイルを稼働させ、
発射事態に備えて準備を整えました。



その夜、高野ら二人が結婚の許しを得るシミュレーションをしていると、



それを茂吉が聞いていたため、なし崩し的に許可が降りました。
よかったですね。


翌日、ワトキンスが高野に会うため、茂吉に自宅まで案内させました。
航海士である高野が見たという怪しい光についての取材です。

ジェリー伊藤の英語はネイティブ、日本語はかなり拙い感じです。

ちょっと驚いたのは宝田明の英語で、なかなかの発音です。
宝田は海軍技師の息子で、武官として駐在していた朝鮮で生まれており、
大学教育は受けていませんが、英語は喋れたようです。

高野はワトキンスにオレンジ色で周りに紫の輪が見えた、と証言し、
ワトキンスは、それはナトリウム爆弾であろうこと、そして
偵察用のスパイ衛星が飛んでいたのかもしれないと推察しました。


ところで、先日来当ブログではアメリカの偵察衛星シリーズを取り上げ、
1960年当時、アメリカが「スパイ衛星」を打ち上げまくりながら、
それを表向きは科学衛星だと言い張っていた、と書いてきました。

しかし、それから1年も経たぬのに、大衆映画のセリフに出てくるくらい、
その存在は周知のものとなっていたってことなんですよね。

天網恢恢疎にして漏らさずってやつかしら。

続く。