ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

三菱航空資料館~零戦の増槽と牛車

2012-02-29 | 海軍



前回この資料館見学について書いた際、二〇ミリ弾の弾着痕について少し書いたのですが、
その後チェックのために映画「零戦燃ゆ」を見ていたら、加山雄三の下川大尉が
「二〇ミリ機銃は炸裂弾だから、一発当たれば敵機は木っ端みじんに吹っ飛んでしまう」
とおっしゃっていました。
(加山雄三が偉そうなのでつい敬語)
あのような小さい弾痕としては残らないということみたいですね。

ぞうそう、と言う言葉を日常で口にしたことがありますか。
わたしが初めて増槽という単語を目にしたのは、海軍飛行機についてものの本を読んだときで、
「ぞうそう」と口の端に乗せたのは、考えてみたら今回が初めてだった気がします。

その「今回」とは。
ここ、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所の一隅、
かつては格納庫であった建物を航空資料室として一般に開放している、その展示室の、
零戦の「増槽」について説明していただき、それについて質問をした時のこと。

増槽とは、零戦開発者の堀越二郎技師が設計主務者として開発した
九六式艦上戦闘機三菱A5Mから採用された、言わば「スペアタンク」のことです。
この九六式は、堀越技師が自ら「零戦よりこちらが会心の作だった」と言い切る、
日本海軍最初の全金属単葉戦闘機。

広い中国大陸における中国戦線に投入する為に開発された、この九六式戦闘機でしたが、
バランスが良く、運動性能に優れていたこの機の欠点とも言えるのが航続距離の短さでした。
増槽タンクはそれを補うために初めて採用され、前期の切り離せないタイプから、
後期は着脱可能なものに進化しました。



映画「大空のサムライ」の、模型の飛行機が戦闘の際、一斉に増槽を落とすシーンについて
書いたことがあります。
模型の増槽はマグネットで取り付けられており、スイッチを地上で押すとマグネットが切られて
落下する、という仕組みだったそうですが、このシーンの採用は、この映画の主人公であった坂井三郎氏のこだわりでもあったという話です。

落とされた増槽がくるくると縦に回転しながら落下していった、という証言に忠実にしようと
スタッフが苦心をした様子などは、DVDの特典映像で見ることができます。

燃料のあるなしにかかわらず戦闘開始時には増槽を落とすのは、その重さが運動性能を
妨げることと、敵の攻撃による弾着で引火爆発することを防ぐ意味があります。
勿論このタンクの中にガソリンが大量に残っている状態で捨てるのは、大戦末期の
「ガソリンの一滴は血の一滴」と言われたころでなくても勿体ないので、
普通は翼(機内)のタンクを温存し、増槽のガソリンから先に使用したそうです。



増槽をつける整備兵。映画「零戦燃ゆ」より。

ところで、このドロップ式タンク、地面に落ちた後のことを誰も考えなかったわけではありません。
南洋の海上がよく戦場となった、特に二一型の零戦では、増槽を回収することなど、
全く考えられてはいなかったと思いますが、欧州戦線では、しばしばそれは回収され、
タンクに使用されていたアルミニウムの合金がリサイクルされました。

ドイツ軍などは
「落下したタンクの発見者には礼金をだす」
というおふれまで出したそうですが、切迫したドイツのお財布事情を覗わせます。
そんな敵に対してリサイクル資源を与えないように、なんとアメリカ軍は紙で作ったタンクを
使用している部隊もあったということです。



ここに展示されているものではありませんが、メイドイン・ジャパンの「木製増槽」。
なんと、大戦末期、日本は木や竹で増槽を作っていました。
ベニヤを曲げて加工してあります。
どういう状態で撮影された増槽タンクかはわかりませんが、大きく破損していません。
意外と丈夫だったのでしょうか。
防水処理もされていたようですが、これを見ると継ぎ目に油染みのあとがあります。
おそらく「何時間か持てば十分」という程度の規格であったようですね。



この増槽を作っていたのは動員された女子学生でした。
網目が浮き出している増槽が、御覧のように飛燕用のものです。
表面に貼られているのは紙だそうです。
日本が金属製でなくこのようなものを作っていたのは、勿論相手にリサイクルされないため、
ではなく、ひとえに・・・金属不足。


ところで、この三菱の工場見学にTOが最初に来たとき、参加者の戦中派おじさんが、
戦時中の想い出を熱く語り出してしまい、時間が押してここの見学ができなかった、
と言う話を最初にしました。

そのおじさんの話、というのが、なんと
「動員で、ここで製作された零戦の機体を、牛車に乗せて運んだ経験」
だったというのです。



この資料館にあった資料をご覧ください。
まさにその光景が絵に描かれています。
ここ小牧に飛行機工場があったのはアメリカも勿論周知の上ですから、
こういう輸送隊はグラマンのターゲットとなりました。
その方はこの図のように牛車での零戦の機体を運搬している最中、グラマンに襲われ、
牛と零戦を放置して逃げるしかなかった、という話をなさっていたそうです。

牛・・・・・(/_;)

ところで、つい最近、インターネットを見ていた息子がこんなクイズをしてきました。
「自転車を最初に発明した国って、どこだか知ってる?」

なんと、答えは日本、とそのサイトには書いているそうです。
「えー、だって、日本で自転車なんてどこにもなかったじゃない」
「それはね、自転車を走らせる平らな道がなかったから、アイデアだけで終わったらしい」

この資料室で「何故牛車でないといけなかったのですか?」と案内の方に聞くとその答えは
道が舗装されておらず
牛車のゆっくりとしたスピードで機体を運ばないと、破損する恐れがあったから」

ああ、この理由も「でこぼこ道」でしたか・・・・。

先ほどの「零戦燃ゆ」では、四隅にコロをつけた台車に翼を乗せ、数人で運んでいましたが、
これは工場内のことなので、道は舗装。、当時はどうだったのか知りませんが。
因みに、劇中、三菱の技術者に

「試作機を牛車に乗せて各務原(かがみがはら)の飛行場まで運んで行きましてね。
私達も自転車でくっついて行くんですが・・・ありゃ疲れましたね」
「夜通しだからね・・。それに牛のお伴じゃあ」

と語らせています。
各務原は岐阜にあり、ちなみにグーグルマップで徒歩所用時間をはかったところ、
約二〇キロ、軽く四時間(多分牛はもう少し遅いかと)とのことです。



これを見ても、日本という国は、当時先端の技術を技術として持ちながら、
それを滞りなく運用するための経済的基盤、周りを取り巻く環境のお粗末さは、
インフラ整備などという言葉以前の段階だったということでしょう。

一部の科学技術が突出していたものの、全体で見ると実は
日本は、竹槍をもって銃と戦っていたとしか言えない状態であった・・・。

竹の増槽、そして牛車による運搬。
いずれも、国力の違う相手に戦いを挑んだ日本の、悲しき現実だったのです。















明治村~文明開化のお味

2012-02-28 | つれづれなるままに

      

昔、我が連れ合いであるところのTOが小学校の修学旅行でここに来たとき、
この「大井肉店」の前を通り、
「いいなあ、牛鍋。いつか大人になったら、これを食べてみたい」
と思ったそうです。

かく言うわたしは、結構な大人になってからも一度ここに来ていますが、
その時、この牛鍋の「お値段」を見て
「こんな高いすき焼きを食べる人がいるのね・・・」
大人になったら、というより、いつかこれくらいお金を払えるようになったら、食べてみたい、
という風に思いました。

以来幾星霜、このような二人が出会い、結婚し所帯を持ち、一人の生命体を生み出して、
再び同じ場所に訪れたわけです。

もう、これは食べるしかないでしょう。牛鍋。いざ。



この建物は、1863年、神戸開港に合わせて、居留地に建てられました。
そう、前日までいた、あの神戸居留地です。
当時も一階で牛肉販売、二階で牛鍋を供する店でした。
美しいレースのような飾りがついたこの建築物は、当時すでに神戸に点在していた
外国人の商館や住宅を模して造られた「最新のデザイン」。

今、一階にはショウケースの中に肉の蝋見本があり、購入も同じようにすることができます。
二階で牛鍋を食べたい人は、階下のインターフォンを鳴らして、二階に上がって行きます。


横浜で最初に牛鍋屋がオープンしたのが1862年のこと。
この神戸の店は、流行りを読むに敏な大井肉店の店主が、最初の牛鍋店オープンの
一年後に作ったということになります。
何しろ当時は今と違って、流行り全国に伝播するのにも時間がかかった頃ですから、
一年というのは「先取り」と言ってもいい時期だったのではないでしょうか。

最初の頃の牛鍋は「肉が固くて、お世辞にも美味しいと言えない状態」であったと、
うちにあった「漫画日本の歴史」には書いてありました。
「うまいうまい」と口では言いつつ内心、

「流行ってるからには美味いんだろうが、オレ的には正直そうでもないんだよな。
でも、この味が判らないなんて、恥ずかしくって言えない」

などとみな思っていたようです。
何しろトレンドは「文明開化」ですからね。


1871年に書かれた仮名垣魯文の「安愚楽鍋」には、
「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴」
とあります。
つまり
「文明開化真っ盛りのいまどき、牛鍋を食べないなんて、遅れてるぅー」
と言いきってるわけですね。

全てに魔改良を加える日本人のこと。
ことに食べ物の工夫に関しては、それはあっという間であったらしく、
「これ不味いんじゃね?」という正直な言葉を誰かが言いだす前に、
牛鍋はすっかり「誰が食べても美味しいもの」に変化していたようですね。




お昼の時間を大幅に過ぎていたわけでもないのですが、何しろ平日のため、
客は私達だけ。
いこっていた炭をあらためて熾すところから支度が始まりました。

 

コースは松5000円、竹4000円。
さすがにこの値段では若い女の子など、気軽に入れませんね。
今日は竹しかございません、ということで、竹二人前+肉追加で行くことにしました。
(松があったらTOがここぞと頼んでいたかもしれないので、ご予算的によかったかも)

小さいお膳を人数で囲むのですが、正座ができないので小さいスツールのようないすを
お尻の下に敷いて、キャンプファイアーのように座りました。



仲居さんに最初をやっていただくのですが、なんと!
最初に白砂糖をお鍋に敷き詰めてしまいました。



そして、明治村秘伝のわりしたを投入後、肉を焼いて行きます。
お店の方によると、これが「関西風」であるとのこと。
そういえば我が家のすき焼きの作り方は、ほぼこの通りだったように思います。
鍋に砂糖を入れることはせず、最初に牛脂で鍋に油を敷いていましたが、
ここのやり方は「肉の脂が多いので、油は敷かない」とのことです。



仲居さんは、如才なく店の歴史などの説明をしながら手際良く肉を焼いてくれました。
普段牛肉のあまり好きでない我が家の面々(特に息子)ですが、牛肉の美味しさと言うより、
わりしたの甘辛さでご飯がすすんだ、って感じです。
このわりしたは「秘伝のたれで門外不出」。
よく聞かれるのですが、決して売ったりはしないで、全国でここでだけ味わうことができるのだ
と仲居さんは胸を張っておっしゃっていました。

しかしTOは後で一言、
「関西風にしては辛くなかった?」
まあ、関西と言っても京都と神戸はだいぶ違うんですよね。
このお店ももともと「外国人相手に肉を売る店」であったそうですから、
どちらかというと「外国風」=「こってり」という解釈で味付けをしたのかもしれません。

ところで。

我々はこの日、昔の「夢」を叶えることができたわけですが、息子は初めての明治村で、
「いつか大きくなったら」「いつかもう少しお金が使えるようになったら」
という人生の「いつになるかわからないけど叶えたい目標」を持つこともなく、
なんとなくいきなり牛鍋を食べて終わってしまったわけです。

どんなつまらないことでもいいから「いつかは・・・」という先の目標があった方が、
それが叶ったときの嬉しさが、人生をよりオトクにしてくれる気がするんですよね。

息子は、いつかここで牛鍋を食べることがあっても、懐かしさを感じるくらいで、
おそらく今日の我々のような感慨は持たないでしょう。
日頃の「何かと与えすぎる罪」についても、心の中で軽く反省した次第です。




その昔はこの窓から神戸港に行き交う船が望めたのであろう窓。
もしかしたら連合艦隊の艦船が見えたこともあるかもしれません。












三菱航空博物館~零戦

2012-02-27 | 海軍

明治村における野望達成の話の前に、三菱の航空博物館に行った話をします。
画像は、零式艦上戦闘機のコクピットに座った位置からの眺め。
靖国神社の遊就館にも零戦はありますが、ここは階段でこの高さに上がって、
座席に座ることもできるのです。

零戦の操縦席に座ってみたい!という方。ここおすすめです。
ここは正式には三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所といいます。
この工場では戦闘機、ヘリ、民間輸送機、そして宇宙機器などを製作しているのです。

去年の末のこと、TOは所属しているクラブで催されたここの見学ツアーに参加しました。
ところが、最初の工場見学の段階で
「オレの、オレの、オレの話をきけー!」な参加者のおじさんが、
「五分だけでもいい」どころか案内の人を食う勢いで自分の戦時中の体験談を始めてしまい、
(それはそれで興味深い話ではあったようですが)
ツアーの行程を全部消化しないうちに、帰る時間が来てしまったというのです。
それで、その結果省略されたのが

「航空資料博物館」

そう、ここです。
この零戦始め、三菱が戦時中から戦後に手掛けた航空関係の資料のある、
このツアーの目玉とも言える資料室、御一行様はを観ることができなくなってしまったと。
・・・というわけで、TOにとってはリベンジ再訪。
わたしにとってはもちろん初めての見学となったわけです。

見学には前もって予約が必要です。
常駐の解説員が説明をしてくれるからです。
この日、説明してくれたのは、元自衛隊のパイロットであったという方。
この方が現役だったときには、もう大戦経験者の旧陸海軍出身パイロットは、引退していた、
とのことです。



冒頭写真の零戦がここにあります。この資料館の目玉の一つ。(目玉は三つあります)
復元された零式艦上戦闘機、五二型。


戦後何十年もヤップ島で野ざらしになっていた零戦。
しかし、野ざらしは野ざらしなりに、現地の人が保存していたようです。
勿論、これを復元すると言っても、使える部品はごくごく一部。



成形した後、使わなかった部分や内部の部品はこうやってまとめて展示されています。
座席は(何十年とはいえ)雨ざらしになったくらいで、このようにペラペラになってしまうくらい
「薄かった」ということですね。
せめて後頭部の後ろまで高さがあれば助かった命も多かったのかもしれないと考えると、
この座席に穴まで開けられた「軽量化」が、人命軽視の象徴にすら思えないでもありません。

しかし、安全への配慮よりなにより、機能性と機動性をまず優先したこの戦闘機が、
まるで全ての俗を超越した剣豪の持つ銘刀のように思えるという一面もあります。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
この言葉に通じる、日本的な、あまりに日本的な滅びの美学。



不思議なくらいピカピカのプロペラ。展示にあたって汚れを落としたのでしょうが、
それにしても綺麗ですね。
ヤップ島の写真では、カウリングごと下に落っこちてしまっていたようです。
銃弾を(プロペラだけで)三発受けています。



右の方の小さい銃痕はともかく、この二つの銃弾は20ミリクラスの相当大きなものに見えます。
コルセアなども二〇ミリを搭載していましたが、係の方によると
「(破痕が)大きいからと言って20ミリとは限らない」ということです。


左は「三式十三耗機銃弾薬包」右は「二式十三耗気銃弾薬包」



左半分が海軍使用、緑のシールの説明が陸軍の銃弾。



二十ミリ銃弾にも99式があるとは知りませんでした。
「これは零戦の20ミリですか?」
案内の方に聞くと、なぜかもう一人のさらに年配の係の方が登場。
「99式、つまり昭和14年の制式ということは、零戦の発表前に作られたものですね」
自分で自分に確かめるように呟いたら

えらくびっくりされました。

こういうところですから、おそらく戦闘機、零戦のトリビア博士級のオタクが訪れ、
解説の方は「オレの、オレの、オレの」知識を熱く披露されることもしょっちゅうでしょう。
ですから、決してこれしきの知識にびっくりされたわけではないと思います。

さらに、出てきたもう一人の方が
「はっきりとはわかりませんが(ここにある零戦の搭載ではなく)21型のものでしょうね」
とおっしゃるので
「ああ、飴色の・・」と、ふとつぶやいたら、

さらにびっくりされました。

まあ、親子三人連れの、しかも唯一の女性である母親が他の二人を差し置いて熱心、
というのもあまりないパターンで、かれらには意外だったかもしれません。

それはともかくこの20ミリ弾は零戦に搭載するために零戦制式の一年先がけて作られた
「第一号」であった、という理解でいいですか?

ここに訪れる大きな収穫として、零戦の操縦席を間近に見ることができ、さらに運が良ければ
座ることもできる、と言うことがあります。


復元されたとはいえ、そこに座ると「この風防からどのような空が見えたのか、と
想いをはせずにはいられない操縦席。
ヤップ島にこの機が墜落した時、搭乗員がどうなったかまではわかっていないようです。

 

写真を撮っていたら「次のツアーが来るので早くしてください」と、せかされました。
どうもこの方はカメラマンのようでした。
どうして広い館内のこの写真を、しかもわざわざ人が見ているときに割り込んで撮るのか、と
少しむっとしたのですが、笑顔で交代しました。

この後、彼らは他のところの写真も時間をかけて撮りまくっていました。
次のツアーが来るのにも相当時間があり、なぜ彼らがたまたまそこを見学していたわたしを
どけてまで、このときここの写真を撮りたかったのか、全く謎でした。



零戦の試作第一号を組み立てている歴史的な写真。
なぜ画面の右上に時計があるかと言うと、これは館内に置いてあったデジタルフォトフレーム
(時計付き)で再生されていた画像だからですw





当然ですが、逐一人の手で行っています。
今、垂直尾翼をつけよう、と言うところのようですが、組み立ての工員は一人でやっていますね。
ちなみに、先ほどのジュラルミンのプロペラは、手で持つことができます。
いかに軽いか、と言うことを実感することもできるのですが、なんといっても、
「本当に戦闘に参加して銃痕のあるプロペラを触ることができる」というのは凄いですよね。
ちなみにわたしは横着して片手で持ちあげようとして
「片手じゃ無理です」と笑われました。





上の写真を正面から見たところ。
翼の下にいる背広の人が、もしかしたら堀越さんではないか?などと想像してみる。

係の方たちとは、零戦の「省エネ力」ならびに航続性について熱く語ったのですが、
やはりいかに省エネタイプの性能を備えていても、誰が操縦してもそうであるわけではなく、
やはり名人のような操縦の達人の手によって初めてキャパシティが極限まで引き出されるらしい、
そういう意味ではやはり名刀は人を選ぶと言うものだったそうです。
名器ストラディバリウスが弾き手を徹底的に選ぶのと、全く同じですね。


先日語った日航パイロット藤田怡与蔵氏が、真珠湾攻撃から帰ってきて母艦に着艦したとたん、
計器が燃料ゼロを指して止まった、と言う話をどこかで読んだ気がします。
(確認していません。違ったらすみません)
「こんな話を覚えているのですが」
と係の方にその話をすると、
「ああ、坂井三郎さんも同じようなことを書いていましたよ」
とのことです。

色々質問をさせていただきましたが、飛行機の話から話が弾んで、国防や国家意識、
果ては話題は息子の教育方針に及び、
「いや、自信を持って息子さんを立派に育ててくださいよ」
と背中をたたかれました。 (ノД`)・゜・。


ここについてはまだまだお話したいことがあります。また後日。








 


明治村に行った

2012-02-26 | つれづれなるままに

明治村に今まで一度も行ったことがない、という人にあったことがありません。
TOなどは学校の修学旅行で来たそうですし、わたしも小さい頃二回、大人になってから一回、
という具合に、ディズニーランドレベルの頻度で日本人が訪れる施設と言えましょう。

ただし東北北海道、九州の人にこれを聞いたわけではありませんので念のため。

時間を置いてまた訪れると、そのたびに発見がある。
常にその姿を変えていっているので、来るたびに新しいものがある。
子供の時に訪れた人が、自分の子供に見せるために連れてくる。

まさにディズニーランドのようなリピーター心理が、明治村リピーターにもあるわけです。
歳を経て、価値観が変われば、同じものを観ても違う感慨を持つ、というあたりも同じ。

今回はどんな姿を見せてくれるのか、明治村。いざ。

車を停めたので、正門ではなく、駐車場直結の北入り口から入村?。
平日だったので車も十数台しか停まっていませんでした。




園内を走る蒸気機関車があったはずなのですが、動いていません。
予算の関係なのだったら、さみしいですね。
 

背ばっかり伸びてもまだ反抗期の息子。
「明治村なんぞ興味ねえ!早くホテルに帰ってコンピュータしたい!」
と車の中でブーたれるので、
「明治村ってさー、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルがあるんだけどなー」
「え?」
目の色が変わる息子。
かれは今、建物をバーチャル世界に建築するコンピュータゲーム「マインクラフト」に夢中。
相変わらず世界のどこにいるのかわからない「友達」と一緒に、
何がおかしいのかげらげら笑いながら、「ビョードーイン」などを作ったりしています。

フランク・ロイド・ライトは昔からそんな彼にとって「クールな建築家」の代名詞。
「OK!帝国ホテル見たらすぐ帰ろうぜ!」

北口から入ったら最初に帝国ホテルがあるんだから、そういうわけにもいくまいよ。



どこかの学校の遠足があり、ホテル内とこの前の広場には息子と同じ年らしい小学生が
子供らしくきゃあきゃあと走り回っていました。
 

昔、皇居のお堀端にあったパレスホテルの宣伝文句は
「宮様も外人もお泊りになったホテル」
でした。
宮様はともかく、外人がお泊りになったくらいのことが宣伝になるのなら、
マリリンモンローやチャップリンもお泊りになったこの帝国ホテルはどうなるのでしょうか。

後に公民権運動活動家になった、ハーバード大学初の黒人博士号取得者、
ウィリアム・デュボワ
は、1936年、まさにこのフロントで忘れ得ぬ体験をしています。
(Deboisという綴りなので、フランスから入植したアフリカ系の末裔と思われます。
日本で時々見る『デュボイス』という読み方は間違いであると判断し、デュボワと称します)

彼がチェックアウトの支払いをしていると、白人のアメリカ女性が
当然のように割り込んできました。
アメリカのホテルであれば彼女は優先されたのでしょうが、
このホテルマンは、そちらを見向きもせずにデュボワへの対応を続けたのです。
勘定がすべて終わると、彼に向って深々とお辞儀をしてから、
初めてその厚かましい女性の方を向いたのでした。

いたくこれに感動したデュボアは、帰国してからこの出来事を新聞に寄稿しています。

母国アメリカでは決して歓迎されることのない一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、 われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種で あり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、
心から理解してくれているのだ。

アメリカ黒人の、日本人に対する「被差別人種同士の同朋意識」についてはまた書くことも
あろうかと思いますが、とにかく、その出来事が起こった、そのフロントが、まさにこれです。

超余談ですが、今現在、帝国ホテルにはデュボワという審美歯科があります。
関係あるのかな。



このデザイン、部屋に欲しい!
「フランク・ロイド・ライトのライト」と、フランク・ロイド・ライト本人。



帝国ホテルを出て、いきなりおやつ休憩に入る我が家の面々。
だって、「コロッケー」が美味しそうだったんですもの・・・。
息子など、帝国ホテル見たら帰ろうぜ、とか言っていたのに、
「これ、一周してきてからもう一回食べていい?」

帝国ホテルの周りはなぜか裁判所、留置所、監獄など、穏やかでないものが立ち並んでいます。


 

裁判所。っていうよりちょっと進化したお白州、って感じですね。
廷吏?が一緒に横に座ってあげているのが、なんともヒューマニティ・・・かな?



それにしても、法曹関係者一同、なぜ法服がチャイナ風なのかしら、と思いません?
これはですね、中華風ではないんですよ。
法服のデザインを任されたのは国学者で東京美術学校の歴史教員であった、黒川真頼
服飾史にも通じていた黒川は、聖徳太子立像からインスパイアされた
古代官服風のデザインを法服として採用したのです。
聖徳太子の時代、中国風、というのがはやりのデザインだったのかもしれませんね。

因みに、当時の東京美術学校は同じデザインを学生と先生の制服にしていました。
ある事件で法廷で証言することになった黒川先生が、判事と間違えられたことがあるそうです。
このデザイン、制定から終戦後の昭和24年まで変わらず使用されました。


さて、寄り道しましたが、裁判が終わって判決が「収監」ということになりました。
容疑者は犯人に出世し、刑務所でお勤めをする運びとなります。


金沢にあった刑務所、監房が一部引っ越してきています。
入ったところにまず看守がいて受付をしてくれるのですが、その横に、
囚人が看守に見張られながらお手紙を書くことのできるブースがあります。
二人の囚人が、故郷に切々と便りをしたためていました。

 

なんだかそっくりな人たちです。モデルが同じなんでしょうか。

独房を覗ける廊下を進んでいくと、ある人は黙々とお布団を上げており、


ある人はお食事中。この人も同じ顔ですね。

 

今日も元気だご飯がうまい。
右は刑務所の食事メニューですが、真面目そうな女子小学生が座りこんで書き写していました。
「明治村見学で一番印象に残ったことは」という課題でも出てるんでしょうか。
それにしても、どうして学校ってのは、いちいちこうやって「課題」を与えるかねえ。
こんなことしている時間があれば、少しでも多くの展示を観た方がいいと思うんですが。

高校時代、映画鑑賞会の後に感想文を書かされたことを思い出しました。
同級生の男子が「主演女優の誰それの胸が小さかった」って書いてたなあ・・・。

入って左にこのような独房が並んでいるのですが、二人が出ようとするので、
「あ、こっちまだ観てないんだけど」
といって右の廊下を進もうとしたら・・・。



TOと息子、
「ミッションインポッシブルだー!」
今この後ろにイーサン・ハントがいて、だんだんスクリーンが近づいてきてるわけね。

順序は飛びますが、次に医療関係の施設を巡ってみましょう。


日赤病院の病棟。
昔子供の頃、ここを訪れたとき、離被架という医療器具が展示されていました。
リヒカと読むのですが、術後の傷に布が掛からないように体に乗せる鉄製のドームです。
その名前と鉄製の鎧のようなその形が強烈な印象だったのですが、
今回はどこにもその離被架はありませんでした。
どこにいったのか離被架・・・。

 

これは明治時代に開業していた「清水医院」。
当時にしては超モダンな建物を建てた清水医師、ハイカラ先生だったんですね。



医学者、北里柴三郎の細菌研究所。
東京、白金にあったそうです。
風光明媚なこの地にあると、まるで高原のホテルみたいです。



それにしても、昔の病院や研究所って、どうしてこんなに浪漫的なのかしら。
「サナトリウム」「風立ちぬ」「肺病」
なんて言葉をつい思い浮かべてしまいます。
「離被架」も、たしか夭折した詩人が短歌に詠んでいた覚えが・・。



ところで、小さい時にここに来たことのあるTOは、
「大人になったら絶対ここで・・・・」
という、ある野望を持っていたそうです。
その野望が数十年の年月を経て今回叶った、という話を次回にしたいと思います。



同じ園内バスに乗り合わせたイタリア人観光客。
三人組で興味深そうに写真を撮りまくっていました。




旅しながら淡々と写真を貼る~名古屋

2012-02-25 | つれづれなるままに

                   

神戸を後にし、次に降り立った新幹線の駅は、名古屋。
「旅しながら淡々と写真を貼る」シリーズ復活です。



ドアを蹴飛ばしてるように見えるけど、脚挟まれてるのね・・。
わたしに依頼してくれてももう少しだけましな絵が描ける、ってれべr

名古屋駅前はもの凄い発展を見せ、高層ビルが立ち並んでスカイスクレーパーとなっていましたが、
宿泊したのは訳あって、車で20分ほど走ったところにある小牧。
そう、小牧長久手の戦いの小牧ですね。
ここがまた、なんていうんでしょうか。

     

外に人が歩いていないんです。これ、正面のビルが駅ビル。
なのに、このがらんとした、人気のない空間。
まるで・・・・キリコの絵みたいな、書き割りのような街でした。
駅ビルには泊ったホテルがあるのですが、2時過ぎにチェックインしたら
「レストランはこの時間営業していません」
仕方がなく、教えてもらって向かいの複合スーパーに行きました。
ホテル外のレストランをフロントに紹介してもらってフードコートを勧められたのは、初めてです。

さすがにここには人はたくさんいましたが、これがどこにでもあるダサいショッピングセンター。
フードコートでは地元の高校生がデートの真っ最中。
英語を教えてもらうふりをして、女子に異常接近しているいがぐり高校生。
女の子はすごく可愛くて、言っちゃなんだけどこのいがぐり君にはもったいないくらいでした。
いがぐりの下心が全開すぎて、女子、若干引き気味。
こういうところでデート、っていうのもなんだか気の毒に思えましたが、
まあ、本人たちにとって場所はどうだっていいのかも。

「言っちゃ悪いけど、魅力のない街だなあ」
「まあ、皆、学校卒業したらどとっとこかに行ってしまうかもねえ。何もないみたいだし」
「中途半端に便利な田舎っていうのが一番つまらない」
「でも、日本って、どこに行ってもこんな感じのところだらけよね」

ちょいと立ち寄っただけで、地元の人には失礼ですが、こんな会話をしました。

「京都の人って、プライド高くて威張ってるけど、例えばこういう土地にくると、
京都って日本でも別格の都市だってよくわかるよね」
「あれだけの文化があればそりゃ威張るよなあ」
「彼等から見ると、こんなところは、化外の地か、はたまた人外魔境か」
「パリの人みたい。パリと京都って姉妹都市なんだよね、そう言えば」

神戸出身のわたしですら、前日までいた神戸と比べて
「ここに生まれて、このショッピングセンターが青春の思い出の場所、
とかじゃなくて、よかったかもしれない・・」(これは本当に思ったことよりかなり控えめな表現)
と思ってしまったくらいですから。

それにしても、自治体ももうすこし魅力のある街づくりをする努力をしたらいいのに、
とは余計なお世話?

ご安心ください。
やはり、それなりにある文化レベルを誇示すべく?
駅前の「キリコ陸橋」(勝手に命名)には、このようなアートもありましたよ。



作品その一。
「あらわれる」玉置久実さん作。
土管の上にセッティングされた溶接彫塑です。
あらわれたんですね。
これは・・・シロクマでしょうか。
シロクマがあらわれて・・・で・・・・何?
「現れる、洗われる、表れる、顕れる、あらゆる可能性を持つこのあらわれるという5文字。
この作品の題にあなたが思い浮かべる漢字、それがこの作品と、作品に対峙する観る者との
一瞬のセッションから生まれるイマジネーションの広がりなのだ」
↑お節介とは思いますが、勝手に作品解説してみました。
多分全然違うと思います。



作品その2。
環 坪井憲人さん作。
この作品、作品の良し悪し以前に、木でできていて、ひび割れてすでに耐用年数がきていました。
雨ざらしになるんだから、もう少し材質を考えなきゃあ・・。
それも意図的に計画された作品?なら何も言いますまい。


作品その3。潜む力。坪井由香梨さん作。

うーん、何て言うんでしょうか。
なぜか男性の作品だと勝手に思っていましたが、女性のようです。
ダイナミックですね。
でも、見れば見るほど「生理的な不快感」や、心の奥底にある何かをしゃもじでこそげるような、
むずがゆさみたいなものがこみあげてくるのはなぜでしょうか。
駅前の、善男善女が通過するコンコースに置くのに、もうすこし何というか、爽やかな、或いは
心温まる作品を作ろうと言う気が、作者に全く覗えない気がするのはなぜでしょうか。

「気持ち悪い」という感覚を、作品の意図(この場合は内在する力)が凌駕して打ち勝つには
よほどの構成力がないと、ただのグロいオブジェどまりで終わってしまうと思うのですが、
そういう意味では全く力不足。
「中二病」とでも呼ぶべき、偽悪にとどまっているのが残念です。


・・・おっと、マジになって評論してしまいました。



吉五郎親子の像
威圧的にチビを見おろしているのが吉五郎?
それとも怖くてすくんでるように見える子供の方?

このあたりにはどうやら偉人有名人、或いは象徴的なものがないと見え、
古くから伝わる「吉五郎と言うキツネの親分」を銅像にしてしまっています。
親子の感動的な逸話でもあったのかと思って調べてみましたが、そうでもなく、
そもそも吉五郎と言うキツネも実際にいたわけでも何でもなく、郷土史家が古老から聞いた
昔話(キツネが人をだましたとかの類)を創作して伝説を作り上げただけのことのようです。

吉五郎は100匹のキツネを治める親分であった、というのですが、
キツネの生態を全く無視していないか?この話。

無理やり何か象徴を作ろうとしても、かえって「何もなさ」が強調される結果になるような
気がするのはわたしだけでしょうか。

フードコートでは、よせばいいのにTOが「たこ焼き」を頼みました。
関西、大阪以外でたこ焼きを食べようっちゅう気になぜなるのか、全く理解できません。
案の定一口食べて「・・・外側がパリパリしてる・・・このたこ焼き」
クリスピー・タコときたか。
だから言ったでしょう?絶対美味しくないからやめた方がいいよって・・。

さて、そろそろホテルに帰りますか。



ホテルのロビーには噴水のような水場があり、昔ここで泳いでいたのかもしれない金魚が、
節約のため水を流すのをやめたプールのふちに置かれた水槽で飼われていました。
栄枯盛衰と言う言葉がつい脳裏をよぎりました。




小牧が目的ではなく、所用の目的地に単に近かった、というだけで立ち寄ったので、
勿論何かを期待していたわけでも何でもないのですが、
それでも全くいいところなしに思えたこの小牧で、逆転ホームランがありました。

メニューからは全く美味しそうな様子の伝わってこないこの和食レストランのメニュー、
「名古屋膳」。
名古屋コーチンを小鍋の水炊きでいただくのですが、これが、絶品。

何が絶品かって、鶏ですよ。鶏の旨み。
大抵の鶏肉と言うのは「味のない味」がして紙でも噛んでいるようなのですが、
ここで食べた名古屋コーチンは、噛みしめると鼻の奥に抜けるような滋味とも言うべき、
鶏本来の味が感じられ、
「ああ、鶏肉って、こんなに美味しいものだったんだ」
と感動すらしてしまいました。

名古屋コーチンはブランドですが、あらためてこのブランドの威力を思い知った次第です。

さて、所用にひっかけてなぜ小牧に来たかということを説明する時がやってきました。
ご存知の方はご存じと思いますが、ここには、三菱の小牧工場があります。

正式には三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所
ここと、明治村見学を今回の旅行にねじ込みました~!

待て次号!
 おことわり

iPadで記事を確認したら、何故か「あらわれる」という作品の画像がいがぐりカップルに
なっており、どうしても修正できません。
もしかしたら、見られなかった方もいるかと思い、「あらわれる」をもう一度アップします。







神戸、我が街

2012-02-24 | つれづれなるままに



またもや事情により旅に出ている我が家です。
先日まで神戸居留地、オリエンタル・ホテルに宿泊して居りました。

画像はオープン当初、1904年のオリエンタルホテル。
今と違い、ホテルの前に砂浜の海岸があることにご注目ください。
このころ海岸線は今と全く別のところにあります。
その後どんどん埋め立てて土地を造り、今では砂浜など全く無くなりました。
ホテルの前の道が、今の「海岸通り」であると思われます。

泊ったのは、1945年空襲で全焼したこの初代の建物の位置(海岸沿い)から移転、
その後阪神大震災で大打撃を受けまたしても立ち直った5代目です。

神戸の人間にとって「オリエンタル」は特別の響きを持つホテルです。
近年になってポートピアホテルやオークラなど、新しいホテルが次々できましたが、
この老舗ホテルは、神戸人にとって別格と言うか、特別な意味を持っていたような気がします。

震災前はこれもレトロなバーが地下にあり、他のホテルにはない重厚な空気や、
港街に立ち寄る世界中の人々の運んできたエキゾチックな雰囲気を楽しんだものです。



先日まで新神戸駅には「新神戸オリエンタル」と言うホテルがあったはずなのですが、
新神戸に着いてびっくり、クラウンプラザに身売りしてしまったそうです。
タクシーに乗って「オリエンタルホテル」というと、
「港の方じゃないですね」
と念を押されました。
埋め立てた港沿いに「メリケンパーク・オリエンタル」と言うホテルがあるのです。

因みにこの時、実家の母と妹と昼食を一緒に食べるため待ち合わせをしたのですが、
案の定間違えてそちらに行っておりました。
最初から「旧居留地のオリエンタル」と言うておろうが。



知らない人には何の感慨もない普通の駅前の景色ですが、このそごうの建物を見ると
「ああ、帰ってきた」と神戸っ子は思います。
震災で打撃を受け大変なことになっていた地域ですが、もう何の痕跡もありません。



神戸に帰ってくるといつも、空の広いこと、空気の明るいことに驚きます。
今回何となくTOにそれを言うと、かれも全く同じことを考えていた、と言いました。
TOも関西の出身です。



プラン・ドゥ・シーという会社がホテルのコンセプトを手掛けたそうですが、
居留地のモダンではなく、どちらかというとモダン・オリエンタリズムを打ち出しています。
コロニアル風、とでもいいましょうか。
個人的にはレトロなバタ臭さ、というのがこの地には相応しいと思っているので、
若干この「はやりの演出」は残念でないこともないのですが。


画像左のアロマ・ディフューザーがエレベータホールで得も言われぬ芳香を放っていました。
LINARIのもので、一階のショップで購入することができます。
この香りが気にいったので、今回買って帰りました。


ところで、昔「火垂るの墓」について書いたとき、この作品で清太少年の回想に出てくる、
連合艦隊の艦観式についてお話したことがあります。
港にすぐ迫っている山の斜面電飾で描かれた「錨と神戸の市章」が再現されていました。
わたしが覚えている限り、ずっとこのマークは不変だったはずなのですが、


変わっていたみたいですね。
今回ホテルの窓からちょうどこのライトが見えました。
何分かおきに三種類が交互に現れていましたがKOBE2012というものは初めて観ました。
どうして錨と市章、やめちゃったのかなあ。

ちなみにこれが神戸の市章です。
「かうべ」の「か」をデザインしてあります。
神戸が「こうべ」になってもこの市章は変わりません。

居留地付近の街並みです。
震災後、イメージを壊さないような街づくりをしてはいるようですが、
こうして写真に撮ってみると、全く特異性は感じられない「普通の街」になってしまっています。
思い入れを持つ者としては、非常に寂しい思いがします。
それでも大阪都心などと比べると段違いに風情はあるのですが。

久しぶりに神戸に来たので、母、妹と三宮元町を「思い出散歩」することにしました。



いつまでも変わらない神戸大丸。
アーケードにも昔のままの店を見つけては「あれ、まだある!」と喜んでいました。
大森一樹監督が映画で描いた「元町ヤマハ」も健在でした。



私事ですが、わたしの父は医師で、当時この通りの近くに診療所を開いていました。
それもあって、我が家のお出かけは必ず三宮、元町。
大阪には少なくとも子供のころはめったに家族で行くことはなかったように覚えています。

神戸文化会館で行われたピアノの発表会の後、ここにあった不二家で食事をしたり、
映画を見た後、やはりこの並びにあった中華料理に行ったりしたものです。
発表会で着るドレスは、母が作ることもありましたが、大抵はこのアーケード内にある
子供服「ファミリア」で買った姉妹色違いのワンピースなどでした。


時々母は「ちょっと待ってて」と私達に言って、自分だけお店に飛び込んで出てきません。
幼稚園の頃でしたか、「ここ、何?」父に聞くと、父いわく
「いったん入ったら、お店の人が皆で手や足を引っ張るのでなかなか出て来られない所」
それを聞いて、心底怖かった覚えがあります。


元町は子供の目にも「お洒落で華やいだ街」に映りました。
ファミリアのスモック刺繍の入ったブルーのドレスとエナメルの靴の装いが嬉しかった、
あの日のことを今でもはっきりと思い出すことができます。



明けて次の朝、朝食を食べたレストラン。



「ホワイトオムレツ」をオーダーしたのは、日本人ではない従業員。
最近、こういったサービス業に日本人以外が就いているのが目につきます。
日本人は、一体どこで仕事をしているんだろう?
就職難とか有効求人倍率低下とか、世に仕事がない話はいくらでも聞くけど、
こういう「肉体労働」なら、いくらでもあるのかなあ。

どの外国人労働者も、一応日本風にちゃんと躾けられて働いてはいるのですが、
何かのはずみで「違うなあ」と思うことがあります。
ここのウェイトレスは、接客の間ずっと鼻をすすっていて、少しそれが気になりました。
まあ、ホワイトオムレツが一回で理解できたので、良しとしましょう。

ちなみにクロワッサンは不合格。
大磯の吉田首相別荘に毎日トースト用のパンを届けていたフロインドリーブのある、
「パンの街」神戸なんですから。
少なくともバターをけちったクロワッサンを出すのだけは、やめていただきたかった。

 

お洒落な町並み、粋なお店に美味しいレストラン。
港の埠頭に歩いて散歩に行け、車で5分走ればそこは山の上。

神戸に生まれ育った者にとって、ちょいとロマンチックなシチュエーションは、
気づいたら生まれたときから周りに、当然の如くあるわけです。

この点について、よく「神戸の女子はすれっからし」などと言われたりします。
傍から見ると特殊な舞台装置でも彼女らには日常。
夜の海も100万ドルの夜景も「何を今さら。とっくの昔に体験済み」というわけ。

こういう環境や風土が形成する気質があるとすれば、
わたしもまた神戸っ子の一人として、それを色濃く持っているのかもしれません。
それがどういう気質となってわたし自身を構成しているかは、
残念ながら自分のことなので分からないのですが・・。



住めば都といいますし、世界のどこにもその土地なりの良さがあると思いますが、
やはり人は生まれ育ったところにこそ、一生心を残して生きていくのかもしれません。
いつかは帰りたい・・・そう思いながら我が街神戸を後にしました。








オタクは検閲を超える

2012-02-22 | 海軍

         

「不思議な検閲写真」という項で、戦時中の出版物に対する軍検閲の概要について
実例を挙げつつお話しました。

例えば、海軍軍艦の公表写真などでは、山を消したり、時には描き加えたりして
背景の景色が修正し、地形が全く分からないように工作してありました。
戦時中の国民はこのような写真ばかり見せられていたわけですが、それでも人間のすること、
たまに「不思議な」検閲写真が人前にさらされたりすることもあった、という内容です。

不思議な検閲写真には、検閲官の知識の無さからだけではなく、
検閲すべき写真があまりに多すぎて、仕事が雑になったという作品?
もかなり多かったようです。

隼などの戦闘機の写真などは、カウリングの上にある機関銃口を、
最初は綺麗に修正して、何もないようにして発表していたのですが、
だんだん写真が多くなってくると、
ただ銃口を真っ黒に墨で消しただけという写真が出回っていたそうで、
つまり「ここに銃口があります」とかえって強調する結果になってしまっていたということです。

機械的に消すことだけして、それが何のためなのか考えることもしない、
「マニュアル人間」は往時にも健在であったと言うべきでしょうか。
しない方がましな検閲の例と言えましょう。

そこで冒頭写真ですが、これは、ある方の個人的な所蔵写真。
写ってはいけない部分が写っているのにもかかわらず、戦時検閲を逃れた貴重なもの。

しかし残念ながら、軍検閲の無い、平和な世になっても、
今度は倫理道徳的諸事情により世間に公表できません。
然し航空機マニアが見れば垂涎の「お宝写真」(らしい)です。

肝心のところを消してしまったので、何が何だかさっぱり分からなくなってしまいましたね。
あー残念だ―(棒)。

先日「軍艦の甲板上で乗員が行進をしている写真の甲板部分がぼかされていた」
という話を「始業始め」という項でお話したのを覚えておられますか?
この写真が撮られた艦には写真現像室があったそうで、
基本的には従軍カメラマンしか使用できないことになっていたようですが、
当時カメラを趣味にする士官は多かったので、中にはカメラマンと仲良くして現像してもらったり、
現像室を使わせてもらった人もいたそうです。

その後知ったところによると、お上のみならず、軍関係者が艦や飛行機を撮った場合、
当然のこととしてアンテナなど機密にかかわる部分は「自主規制」したようです。
しかし、自主規制してもしなくても、例えば軍艦勤務の士官の持ちこんだカメラが、
艦の沈没によって海の底に潰えてしまい、それらの写真も陽の目を見ずに終わった、
というようなことは、それこそ星の数ほどあったのでしょう。

ところで、ある艦隊勤務の士官は、離艦直後に自分のフネが被弾したのを見て、
まず思ったのが

「しまった!部屋にカメラ忘れてきた!」

だったそうです。
この非常時に、実に不思議なことを人間は考えるものです。
しかしこれもまた戦争の真実かもしれません。
カメラが時として「家一軒買える」ような貴重品であったことも大きな理由かもしれませんが、
戦っていたのもまた「一人の人間」であると妙に納得してしまう逸話です。

話がそれました。

「オタク」という人種がいます。マニアと言う人もいます。
かの士官が「カメラオタク」というレベルだったのかどうかは聞き洩らしましたが、
「てっちゃん」「飛行機オタク」「カー××」(←検閲対象?)・・・。
乗り物に萌える層は昔も今も一定数変わらずいるものです。

カメラがまだ庶民にとって高根の花であった戦時中、
「てっちゃん」、しかも中学生、となると、写真を撮る代わりに何をするかというと、
なんと「サイズを測ったりする」のです。
巻き尺を持って、こっそり機関庫に忍び込んだりするそうです。
何のために?
それを疑問に思うようではあなたはオタク道失格です。
オタクとはそういうものなのです。
そして憲兵に逮捕される可能性があってもやってしまう、それがオタクの気概というものです。

そういやつい先日列車を止めてニュースになってたオタクがいましたっけ。
これは今調べて知ったのですが、鉄男ではなく、駅の写真を撮っていた

75歳の

男性だったそうです。
カメラマニアだったわけですね。
これだけの騒ぎを起こせば彼も我が道を逝く行くマニアとしてもって瞑すべし、
と言いたいところですが・・・・。
この男性、書類送検されたそうです。合掌。


この例に見られるように?マニアの熱意は時として則(のり)をも超えるもの。
当時の飛行機好きにとっては、軍の厳しい検閲があっても、いやあったればこそ、
その秘密のヴェールの下を垣間知りたいという情熱はますます燃えるばかりでした。

基地の近く住んでいると、実際軍用機を目にするわけですが、
オタクはそのようなものも、ただ漫然と見るのではなく、

「浜名湖上空で引き込み脚の九三双軽の試作機が脚の出し入れのテストをしている」

などと観察し、その後

「双発引き込み脚の重爆が飛んでいる」
などという情報を交わし、その後新聞で
九七重が発表になれば、

「二年前の開発段階から、俺ら実は知ってたもんね!」

とワクワクして、誰にともなく得意になってみたりするもの(らしい)です。

よく零戦のことを「ゼロセン」と呼ぶ一般人はいなかったという説を目にするのですが、
実際はそうではなかったようです。
ミッドウェーの敗戦も、全く報じられないのに田舎の中学生が知っていた、と言う話を
渡部昇一氏がしていたことがありますが、いかに秘匿しても、
「人の口に戸は立てられない」(これも渡部氏談)のです。
ゼロセン、という呼称は、人づてに伝わって、その名を耳にした「オタク」は数多くいました。

漫画家の岡部冬彦氏もその一人で、氏は

「中島製の重爆『深山』の性能が軍の要求を満たせないので試作だけに終わったようだ」
などという話を始め、
「水兵さんから聞いたのだが」
という、当時のオタク・ネットワークにより、ゼロセンという呼称をすでに聞き知っていたようです。

そして、「ゼロセンと言うからには、昭和15年に制式になった戦闘機だろう」
ということまで予想していたそうです。

ご存じかとは思いますが今一度解説しておくと、昭和になってから制式になった兵器は
皇紀何年の下ひとけたか二けたをとって名付けられています。つまり

「皇紀年号下2桁」+式+機種名 例 九一式魚雷 九六式陸上攻撃機

この名称は皇紀2589年の89式(1925年)に始まり、2602年の二式(1942年)
まで採用されました。
このセオリーを知っているので、昭和15年、つまり皇紀2600年の制式であることも、
オタクとして当然予測されることだったわけですね。

この制式の名称についてはまた日を改めますが、
とにかくこのように機密事項もなんのその、創造力と漏れ聴く情報をつなぎ合わせ、
その推測も、結構正しかったりするから、オタクは侮れません。

零戦については、横須賀在住の者などが

「最近見る単発低翼引込脚のスマートな戦闘機がどうやらそのゼロセンらしい」

という具合に得た情報を、はがきで全国にバラまいたりしていたようです。
まだこの頃ははがきの検閲などもあまり厳しくなかったようですね。
つまり、いくら秘匿してもオタクの情報収集力の前には軍の機密も堅牢たりえなかった、
ということでしょうか。

さて、戦前の軍艦オタクは、18インチ砲九門6万トン、世界一の戦艦「大和」「武蔵」
の噂を、当然ながらアツーくその口の端に乗せておりました。

今でもそうですが、まるでまだ見ぬ恋人を語るように、それがどんなものか思いめぐらせ・・。
今のオタクと違ったのは、彼らが、それらの戦艦がいつ発表になるのだろうと
ドキドキワクワク、心待ちにしていたことでしょう。

しかし、眼を凝らせば飛行機は空を飛んでいるし、いくら検閲しても修正できないニュース写真の、
一瞬画面に映る機体を目の底に焼き付けて、あーだこーだと分析するオタクたちを以てしても、
この「海軍関係者にすら秘匿された」戦艦については、さすがに情報は噂の域を出ず。


とうとう、その姿を見ぬうちに戦争は終わってしまいました。
そして、彼らは、終戦後になって「大和」「武蔵」の存在と、その戦いと、そしてその最後を、
同時に知ることになってしまったのです。

「あの噂はやっぱり本当だったのだ・・・・」

戦前からの「大和」「武蔵」オタクたちは、逢えぬまま往ってしまった恋人の、その実像を
少しでも知るために、戦後、あらゆる資料から彼女らの在りし日の姿を追い求め、
本で、絵画で、映画で、それを何とか再現せんと情熱を傾けます。

今現在、この日本にいる熱烈な大和武蔵ファンの源流がここにあると言えましょう。

ところで・・・冒頭の写真ですが、よもやまさか、この翼の断片と引き込み脚の形状から、
この機体がなんであるかわかっちゃう、なんて人・・・・


・・・・いませんよね?(ドキドキ)










副官の花道

2012-02-21 | 海軍

「あなたも副官」シリーズ、その2です。
つまりはおやじ、本部長のカバン持ちと雑用が任務であり、
車の手配やら宿の女中への心付けから、機密費の管理、宴会の仕切り、お茶くみ、
そんなことを慣習の違う陸軍と一緒になってやらねばならず、
どんなに一生懸命やっても、例えば井上大将のような厳しい上官からは
「フッカンノバカ」と言われてしまう・・・
(未確認情報)

「人格が認められない職業ナンバーワン」
と人の言う、この貧乏くじかはたまた罰ゲームのような配置に、
あなたはもうすっかり嫌気がさされたでしょうか。
しかし、どんな辛い道にも一条の光が差す瞬間というものはあるものです。

さてあらためて確認ですが、あなたの上官は航空本部長。軍事参議官です。
これはときとして海軍大臣代理として公式の場に出席することもあります。
その一例が「報国号」の献呈式。

「報国号」とは。
一般市民や非軍需企業などからの献金により調達され、
軍に納入された航空機につけられた愛称です。
陸軍でも同様の機体があり、こちらは「愛国号」と呼ばれました。

機体の納入は、一般的に、地域住民や企業・団体の構成員が資金を出し合って
メーカーから機体を購入、これを軍に寄付するという形でされることになっていました。
中には、資産を持つ篤志家が個人で機体の購入資金を寄付するケースもあったそうです。
そして、今日あなたが航空本部長のお供で出席するのは・・・・・・

まあどうしましょう。

全国芸妓組合の報国号、その名も「全日本芸妓組合号」献呈式@銀座歌舞伎座

ちなみに、この飛行機は偵察機彩雲です。

先日長い歴史に幕を下ろした歌舞伎座ですが、この正面玄関に到着すると、なんと。
赤いじゅうたんの敷かれた入口階段の両脇には、
白紋付裾模様で盛装した日本髪の綺麗どころがズラリと勢ぞろい。

ああ、あなた、大丈夫ですか。
本部長ですら照れくさそうにしておられます。
ましてや若い(あなたは大尉です)あなたは舞い上がっちゃって
右手右足同時に出して歩いてしまいそうですね。

案内されたところは花道の幕の内側。
幕がさっと上がり、あなたは何百ものお姐さんから熱いまなざしで一挙一動を見つめられながら
―もちろん本部長の後にくっついて――壇に立ちます。
だだっ広い舞台の上には、あなた、本部長、そして報道部長の三人のみ。
司会進行役の報道部長や、大臣代理の本部長は何かしらすることがありますが、あなたはただ、
脂粉の香の中に立ちつくし、粋なお姐さん達の品定めを受けるのみ。

「あら、あれチョット好い男ぢゃない、花駒姐さん」
「そうねえ、やっぱり海軍さんはいいわねえ。でもなんだか気が弱そうだわね」
「インチになりたいってほどぢゃないわね」

なんて、ひそひそされているかもしれません。
さて、式は滞りなく進み、献納者代表の立派なお姐さんが、前列中央から進み出て、
鍛え抜かれたよく通る声で
「わたくしどもはこのたび全国の組合員に呼びかけ海軍機を献納いたします」
と献納書を差出します。受ける方は

「皆さん方の海軍にお寄せくださるお志をありがたく頂きます。
この航空機を大日本芸妓組合号と命名し、現下の熾烈な航空決戦に
貴重なる新戦力の一翼を担って活躍してもらうことにいたします。
皆さんの燃ゆるがごとき報国の志を大一線将兵に伝えるとともに、
全海軍を代表して心よりお礼を申し述べます。
ありがとうございます」

という大臣代理の答辞が行われ、万雷の拍手とともに
「大日本帝国海軍万歳」の声が歌舞伎座を揺るがします。

内藤清吾軍楽少佐の式による海行かば(栄誉礼)の軍楽吹奏の裡に、お姐さん達の
「海軍さん、しっかりやってください」
の声が聞こえます。

一生のうち、歌舞伎座の舞台に立ち、このように熱い声援を受けることなど、
歌舞伎役者でもないあなたにとっては、
おそらく二度とない鮮烈な思い出となるに違いありません。


実はこの副官という仕事、棄てたものでもないのです。
損な役回りのようで、このような役得もあり、
さらに海軍省中枢の仕事に携わるわけですから、
あなたがそのうちお役御免になり、実地部隊に戻ったとき、
それが生きてくるということもあるのですよ。

そう、何かと中央に「顔が利く」ようになってくるのですね。

航空隊の幹部と言うのは、大抵赤煉瓦の生活を経験したことがありません。
ですから、とかく中央との折衝を敬遠し、物資の調達などでもやればなんとかなるのに
何とかしようともしないであきらめてしまいがちなのです。

しかし、赤煉瓦務めの霊験あらたかなあなたは、例えば、
部品が軍需部工廠から調達されないまま部隊に放置されているトラックや乗用車を
手をこまねいて見ているのではなく、航空本部に電話一本。
かつての知り合いを辿って、交渉はあっという間です。
たちまち部品がごっそりと届き、隊の車両は稼働率100パーセント。

「今度の隊長は大したものだ」
あなたの株は大いに上がるでしょう。

副官というものはなっても決して嬉しくなく、やっていても楽しい仕事ではありませんが、
今与えられている任務を誠意をもって取り組むことは、後々の財産と成り得るわけです。
そう、その配置を離れたときに、自分が何をなしてきたか、
その御利益によって初めて成果を知る、というわけ。

説教臭いことを言いますが、これはどんな仕事にも通じることかもしれませんね。

・・・・ということですので、今日もまた、お茶くみから頑張ってみましょう。
貴官の健闘を祈る!






一日副官

2012-02-19 | 海軍

副官という職は、読んで字のごとく官に副えると言うくらいで、羨望の職とは言い難く、
むしろ人格を認められているとは言えない配置、と言われていました。

ただ、恰好だけは、飾緒(斜めにかけているモール)が銀色で、
これは陸海軍の皇族就き武官と同じ色だったので、
陸軍省や宮中では副官も間違えられて相当な敬意を表されました。
ちなみに陸軍の副官は黄色いタスキだったので、すぐに副官だと分かってしまい、
それなりの待遇を受けました。

今日はこの「人格を認められているとは言えない職業ナンバーワン」、
一日副官になってみましょう!


あなたは、恰好だけは立派な副官となって赤煉瓦の海軍省に出仕します。
まずは着任のあいさつから参りましょう。
直属上官の総務部一課長T大佐です。

「副官の仕事は大変でご苦労だ。本部長は気短かだが、竹を割ったような性格だ。
左手が不自由だからよろしく頼むよ」

いきなり不安にかられるあなた。やっぱり副官は大変な仕事?

続いて総務部長、航空本部長などのオエラ方に恐る恐る伺候。
左手が不自由、というのは、どうやらシナ事変の爆撃隊参加の際やられて、
義手になっておられることのようです。
名誉の負傷により栄誉の閑職、といった方でしょうか。
「おお君が新しい副官か。しっかりやれ」
続いて、部内を挨拶して回ります。

「エス(芸者)のお披露目でもあるまいに・・・

あなたはいささかうんざり。
仕方ありません。エスも副官も、第一印象は大切。
これも仕事のうちだから我慢せい、とO大尉に慰められながらお座敷を、
いや各部署を引きまわされます。

各部署に雁首を並べている佐官の皆さんが、申し合わせたようにこう聞くので、
あなたはきっと驚くでしょう。

「君も体を壊したかね」

ちょちょ、ちょっと待って下さい。
ここは身体を壊して一線で働けない人たちの吹き溜まりなんですか。
もしかして窓際ですか。
「どこも悪くないのに気の毒に」
そんなこと初日に言われたら、どん引きするんですが。


さて、副官の仕事とは何か。それは
差使随従」さしずいじゅう。

そう、四文字でいえばいかにも偉そうに見えますが、なんのことはない
「カバン持ち」またの名を「腰ぎんちゃく」

「副官、今日はついて来んでええよ」
と言われぬ限り、何処へでも一緒に行くのがあなたのお仕事。
そして、責任のある仕事も任されます。
それは機密費の管理!
凄いですね。副官保管の金庫のカギを任されたあなたは、めったにお目にかからない百円札で、
自分のお金ではない巨額の機密費の管理を任されるのです。
これを男子の本壊と言わずして何と言うのでしょうか。

ちょっとまて、こういう仕事のために主計科短現士官というものがいたのではないか?
と思われたあなた、あなたは正しい。
しかし、当初はこのように兵科将校がやらされていたのです。
あなたはまだ大戦初期の頃の副官ですからね。

このように副官の仕事は「副官ハンドブック」に書かれており、それと首っ引きで、
航空本部長の出張の時には車の手配から、女中さんへの心付けまで、
実に細やかな気配りを要求されることになります。

「おい副官」と呼ばれれば答えられるところに影のように立っている仕事ですから、
当然のように宴会でも大活躍。
宴会で縁の下の幹事を務めるのが副官です。
この宴会も海軍内ではたいして問題はありませんが、陸軍との合同宴会、これが大変。


一言で副官と言っても、陸軍の副官と海軍の副官は、その待遇においてずいぶん違いました。
例えば東条大将の副官で当時飛ぶ鳥落とすと言われたほどの陰の実力者某大佐ですら、
宴会には別室を用意し、親玉の宴会終了までひたすら待っていなくてはいけませんでした。

当然というか勿論というか、海軍のように副官も同じお座敷で、
ヘタするとおやじを差し置いてSにMM(モテモテ)、

「おーい副官、こっちにも回さんか」


などと言われて頭をかきつつも和気あいあい、などという無礼講は
陸軍ではまず考えられないことなのです。

したがって、陸軍主催の宴会には
「副官用の末席を用意してください」とあなたはわざわざ頼まなくてはいけません。
きっと、陸軍の副官は驚いてこう言うと思います。

「あんたがた、それでよく酒や食い物が喉を通りますな。私だったら味も分からんと思う」

車に乗るとき、陸軍の副官はここでもきちんと、助手席に座ります。
同席などとんでもない、のです。
しかし、海軍のあなたはおやじの隣りが指定席です。
ヘンに上官に気に入られてしまうと、何かと問題な配置ではあります。

さて、仕事にも慣れてきたあなたは、こんな場面にも立ち会います。
大本営陸海軍部作戦会議にあなたのボスが出席。
このような重大な局面であなたはまず何をすべきか。

そう。お茶汲みです。

あたしたちお茶汲みするために副官になったんじゃないんです!

なんて、甘っちょろいことは言わんでいただきたい。
何しろ、ここは作戦室。
エラい人も男のいれたお茶など飲みたくもないでしょうが、余人は何人たりとも立ち入り禁止。
あなたと、陸軍の副官、二人で協力し合ってお茶くみをせねばなりません。
そして心をこめて入れたお茶を運んで「おう、海軍の副官、貴官のいれた茶はうまいぞ」
なんて陸軍のお偉方に言われるようになったら、
あなたも海軍副官として仕事冥利に尽きるというものです。

たぶん。

しかし、いくら顔なじみになってお茶を褒められても、海軍式に東条大将をつかまえて
「いやあ、ありがとうございます総長!」
なんて言ってしまってはいけません。
ほら、皆ものすごーく不機嫌になってしまったでしょう?
はて、オレなんかまずいこと言ったけ、と首をひねっているあなたに、
陸軍の副官が陰でこういうではありませんか。

「あまり僕らをひやひやさせんでくれ給え。
君が東条閣下を総長と呼び捨てするたびに、

そのはねかえりがいつ我々の方に来るかと冷や汗ものだよ」

そう、陸軍では少将以上には○○少将閣下、と閣下を必つけなくてはいけないし、
大佐以下には××大佐殿、と言わなければならないのです。
海軍士官のあなたは「少将、大佐」が敬称であると教育されているのですが、
陸軍にはそれがとてつもなく失礼に聞こえるのです。

めんどーくせー組織だな陸軍てのは、などとたとえ陰でも言ってはいけませんよ。
あなたや他の海軍軍人がそういう態度だから、陸軍は「海軍は礼儀知らず」なんて言うのです。

さて、せっかくここまで来たので、もう一日、副官をやってみてくださいね。
次号にむりやり続きます。


おっと、本日挿絵は一体何だ、って?


阿川弘之氏の名著「井上成美」で、「コーキ」という井上大将のオウムが
「フッカンノバカ」
としゃべっていた、という記述があったのを読んだ方は覚えておられますか?

あれ、阿川氏は書いていませんでしたが、
いったい誰がオウムにそれを教えたんだと思います?




二人の「滝」~映画「太平洋の翼」

2012-02-17 | 映画



漫画「紫電改のタカ」をご存知の方は、本日画像の人物を見て、
「源田司令以外全く覚えがないぞ」と思われるかもしれません。
それもそのはず、これは、紫電改のタカから各パーツを抽出して、
映画「太平洋の翼」に登場する人物を創作してみたという、冷や汗企画。

この映画を観たとき、まず思ったのが
「これは・・・・映画版紫電改のタカではないか!」

1963年公開のこの映画は、実在の第343海軍航空隊、通称剣部隊をモデルにし、
史実とはほとんど無関係のストーリーを展開させた、戦争映画の名作。
実在の人物を架空のストーリーに出演させる。
これは、まさに「紫電改のタカ」のパターンですね。

さすがに実名を使うわけにいかないので、それを彷彿とさせる名前がつけられています。
実在の人物、創作上の人物を画像左上から紹介していきましょう。

滝司郎大尉(加山雄三)
三人の隊長のうち「二枚目キャラ」で主人公のような位置づけですが、これは
鴛渕孝大尉をモデルにしています。
画像は、紫電改のタカから、滝城太郎と、白根少佐をミックスしました。
謹厳で冷静、任務遂行のために内心の逡巡を覆い隠し、
非情な命令も出す隊長として描かれています。

矢野哲平大尉(佐藤充)
勿論、菅野直大尉です。
この絵は、マンガの米田次郎二飛曹を少し成長させてみました。
やんちゃな感じがでていますでしょうか。
この映画では、しょっちゅう冗談を言い「わっはっは」と呵々大笑する明るい隊長。
隊長三人の言い合いについて
「我々は鐘と笛と太鼓ですから」
とうそぶきながら、リンゴを投げ空中ですらりと切る、
「実は凄腕」な士官搭乗員として描かれています。


安宅信夫大尉(夏木陽介)
林喜重大尉です。
物静かで、沈思黙考型、この安宅大尉が、なぜか
「戦艦大和の特攻に護衛として着いていき、大和と運命を共にする」
という創作になっています。
監督はじめ特撮監督を含む映画スタッフの「大和愛」が、ダダ漏れ状態の演出です。
航空隊とはあまり関係なさそうな大和に、登場人物も愛を惜しみません。

画像は、マンガで心優しい動物好きに描かれていた米田一飛曹をモデルにしました。


稲葉喜兵衛上飛曹(西村晃)
創作の人物ですが、わたしがこの映画で一番気にいった登場人物が、この
「黄門様」西村晃が演じる「撃墜王」稲葉上飛曹。
中国戦線からの古参搭乗員という設定で、安宅大尉の部下です。

「戦争のやりかたを変えて、あなたを護ることに決めた」

と、まるで息子のような年下の隊長を泣かせます。
西村晃はデビュー以来悪役が多く、例えば「太平洋の奇跡 キスカ」などでも
救出作戦にイチャモンを付ける軍司令部の
なにがしを演じたりして、
なにかとアクの強さを感じさせる俳優ですが、

この映画での西村は、背の低さ(でも動きが敏捷)といい、眼付の鋭さといい、
全く凄腕のベテラン戦闘機乗りそのもので、はまり役です。

特に、大和の護衛につく決心をした安宅大尉に従う稲葉上飛曹が、
滝大尉に向かって、最後に投げつけるような敬礼の、もうかっこいいことといったら・・・。

実際に海軍予備飛行学生で特攻隊員であった西村晃は、
特攻に出撃しましたが、乗り機の不調で引き返し、
そのまま終戦を迎えています。
この画像は、滝城太郎のライバル、黒岩一飛曹をモデルにしました。

丹下太郎一飛曹(渥美清)
やっぱり、渥美清って凄いなあ、と画面に登場するたびに思ってしまいます。
もう、全人格的にセリフが、演技が、とんでもなく巧いんですよねー。
矢野大尉の部下で、明るい矢野大尉と丁々発止のやりあいをするのですが、
これが全編なんとも「愛すべき寅さん」です。

しかし、この丹下一飛曹、戦艦大和を愛するあまり、飛行靴に「戦艦大和バンザイ」
と書いた
紙を入れて落とし、それが伊藤整一司令(藤田進)に当たりそうになります。
この愉快な一飛曹は、熱烈な大和の信奉者で、その愛に殉じるために天一号作戦に
命令にも逆らってついていく、「監督はじめ皆の大和愛の結晶」として描かれます。

大和の護衛に最後まで残ることを選んだのは、安宅大尉、稲葉兵曹、丹下兵曹以下一名。
「名前を聞こう」という司令に答え、四人がそれぞれ名乗りを挙げて艦の前を航過。
丹下一飛曹はあの「寅さん口調で」
「千葉県出水郡長者町出身、海軍一等飛行兵曹、丹下太郎!」

バックに流れる音楽がそれまでの「敷島艦行進曲」から「同期の桜」に・・・(涙)
音楽は、團伊久磨。さすがの重厚感。
流行りだったのか、「ウルトラセブン」のテーマのようなホルンのフレーズが多用されております。

画像の丹下一飛曹ですが、適当なモデルが見つからなかったので、エリス中尉オリジナル。
(でも、並べてみると、モデルの有る無しで絵のレベルの違いがまるわかり・・・orz)

千田中佐(三船敏郎)
勿論のこと、源田司令がモデル。
世界のミフネ起用で、えらく重厚な源田司令になってしまいました。
紫電改のタカで実名登場している源田司令の方が本物に近いので、髭を付けてそのまま流用。

ちなみに、飛行長加藤少佐を演じているのがわたしの好きな平田昭彦ですが、
これは実際の三四三部隊でいうと志賀淑雄飛行長になります。
鴛渕、菅野、林の三隊長をそれぞれ「知将、勇将、仁将」と呼びました。
言い得て妙ですね。


「太平洋の翼」は、戦争ものの中でも非常に脚本が劇画的、漫画的といえる作品だと思います。
まず、千田大佐が「えりすぐりの搭乗員ばかりで航空隊を作る」と、
三人の隊長とその部隊を呼び寄せるのですが、おのおのが
フィリピン(滝大尉)、ラバウル(矢野大尉)、硫黄島(安宅大尉)という激戦地から、
仲間を失いながら内地に集結する様子で映画の約半分が費やされます。

安宅大尉の部隊を揚収するのが、伊号潜水艦で、この艦長が、
「潜水艦長をさせたら歴代日本一の俳優」(エリス中尉独断)、池部良
拾いあげた安宅、稲葉の二人に「君たちは・・」と呼びかけ「熱いお茶でも飲みたまえ」
と勧めるジェントルマン艦長です。

硫黄島付近海域で、しかも暑い潜水艦の中できっちり一種軍装を着こんでいるのが、
現実にはありえないけど、これも「軍服フェチ」松林宗恵監督の作品ならでは。
胸をはだけて汗まみれの汚らしい池部良なんて、リアルでも何でも見たくもないので、
この「間違い」はエリス中尉的には大歓迎。

それはともかく、各自の脱出劇それぞれにドラマがあり、例えば矢野大尉の部隊が
ラバウルから脱出するのにアメリカの魚雷艇を騙して乗っ取り、味方を間違えて雷撃してしまう、
などというのは、「紫電改のタカ」に出てくるエピソードそっくり。

うーむ、これは・・・・。


ちなみに、ちばてつや作、漫画「紫電改のタカ」の連載は、この映画の公開後半年の
1963年に始まっています。
戦記もの、とくに戦闘機パイロットを主人公としたヒーローものが一世を風靡していた頃。
「気乗りしない」状態で連載を始め、最後まで葛藤しながら描き続け、挙句は
「失敗作」とちば氏が自ら言い切るこのマンガですが、
今でこそ当たり前の「戦争そのものに疑問を投げかける作り」こそが、実は当時異色でした。

映画「太平洋の翼」の脚本は、これもいつもの須崎勝彌氏。
相変わらず女性の描き方がなんだかなあの脚本家ではありますが、
今見ても「すべらない」ユーモア満載で、渥美清の起用だけでなく、
例えば菅野大尉、じゃなくて矢野大尉の突っ込みなどもなかなかのものです。


「決して命を粗末にするな。特攻は決してするな。生きて戦え」

千田中佐は隊結成にあたり、このようにまず厳命しました。
しかしながら、結果的に安宅大尉は天一号作戦に殉じ、滝大尉もあの名言
「出て行け!日本の空から出て行け!」
という怒号と共に敵機に突っ込んで自爆します。

「紫電改のタカ」の主人公たちは、望まぬ特攻に否が応でも身を投じねばなりませんでした。
ユーモアや、「実在の人物の巻き起こす虚構の面白み」そのものを、先発の「太平洋の翼」に
手本を求めたに違いない、ちば氏の「紫電改のタカ」ですが、
「日本を守るために自ら命を捨てた」滝大尉ら太平洋の翼の主人公たちよりも、
価値観や死生観が現代の人間により共感を得る設定である作品だったと言えましょう。


「生への執着と死することへの疑問」
がこうした戦争に関する創作物中に、テーマとして謳われ出したのは、
もしかしたらこのマンガのヒットがきっかけの一つになっているのかもしれません。

「太平洋」の滝司郎、「紫電改」の滝城太郎。
二人の同姓の主人公は、同じように自爆戦死しましたが、
両者の死に向かう意識は、方向性を異にするものと言えます。
一方が「公(大義)のため私を自ら放棄した死」なら一方が
「私を公により捨てざるを得なかった死」とでもいいましょうか。

しかし、特攻に散華した多くの英霊は、このいずれかの道を選んだであろうこと、そして、
どちらの「滝」も戦争を強く唾棄し、自分の死が祖国の再生に意味を持つことを願って往った、
そのことは確かだと思います。









 


しのぶれど 色に出にけり

2012-02-15 | つれづれなるままに

サンフランシスコのゴールデンゲート下の公園の写真です。
今日はこのような当たらずとも遠からずの画像が
無難
なので・・・・・・・・・つまり、今日語ることは、実在の人物の話だと御理解下さい。

我が家の近所には、皆が散歩に訪れる広い公園があります。
この公園があるから現在の住処を決めたようなもので、四季折々の植物が
~ことに桜の季節は~目を楽しませてくれ、住民の憩いの場となっています。

うちでは住民税の支払いの用紙が来て、その決して安くない金額を目にすると、
「あの公園の維持代は、全てうちの払った住民税でまかなわれている」
と呪文のように唱えることにしています。
するとあーら不思議、
「あの公園のためならば、これくらいの住民税、喜んで払おうじゃないか」
という気になってくるのですね。
(そうでも思わないとやってられん、ということでもありますが)


そのお気に入りの公園に、わたしは息子を学校に送り届けた後、毎朝散歩に行きます。
アメリカでも継続して行っている唯一の運動なのですが、
何ごとも決めるのが嫌いな性格ゆえ「気分が乗らなければ中止」したり、歩きに行っても、
なんだかしんどいなあ、と感じたらすぐやめてしまう、といういい加減な態度で、
だからこそ、もうかれこれ10年は続いている習慣です。

ipodでベアリングできるサングラスで音楽を聴きながら歩いていると、
ベートーヴェンではありませんが、意識的にものごとを思索する時間を持とうと思えば、
散歩をするのが一番であるとあらためて思います。

だいたい同じ時間に一定の時間歩くことが習慣になると、
そこで見かけるのもだいたい同じようなメンバーになってきます。

公園の高いところからは、お天気のいい日に富士山が見えるのですが、
その高台に、お天気のいい日は必ずやってきて、山に向かって手を合わせている老夫婦。
何か富士山に思い入れでもあるのでしょうか。
二人は、帰って行くときも、いつもまるでこれが見納めでもあるかのように何度も振り返り、
名残りを惜しむかのように最後に一礼するのです。

あるいは、公園の主である立派なカラスを何羽も従えて散歩している婦人。
彼女はドッグフードを袋に携えて散歩に来ており、カラスたちに餌をやりながら歩きます。
野良猫に餌をやる行為は禁じられていますが、カラスなら、むしろ食べ物を求めて、
ごみ集積所を荒らす狼藉ガラスが減ることになり、一石二鳥。
カラスは彼女の手から直接餌をついばむほどなついています。

伴走者と共に走る盲目のランナーもときどき見ますし、歩くことよりおしゃべりが目的の主婦、
ときどきホームレスが出張してきてベンチでご飯を食べていることもあります。

そして、愛犬家グループ。

このグループもいくつかあって、たとえば飼っている犬が全て柴犬、という「柴犬クラブ」。
何匹もの柴犬がまとまって歩いていると、犬相風体に個体差があるのがよくわかります。
(わたしはこの柴犬が大好きなので、つい人間より犬の観察をしてしまいます)

しかし何も同じ時間に犬の散歩で集合しなくても、と思うのですが、
どうも犬同士のつきあい、というものもあるようですね。
何人もが公園の広場で集まり、一定時間を過ごしたら三々五々ではなく、
ぞろぞろとこれも何故か一緒に引き上げていきます。

わたしは、学生時代始め子供を連れていく公園や学校、つるむことを避けてきた人間ですので、
万が一、犬を将来飼うことがあっても、これだけは嫌だなあと思います。

それはともかく、共通点が犬を飼っている、というだけの愛犬家グループは
独身かと思われる若い女性から、リタイアしたらしい老人まで年齢層はまちまち。
アメリカで見る愛犬家グループもだいたいこんな感じでしたが、違いがあるとすれば、
朝の時間にはあまり若い男性を見かけないことでしょうか。

毎日グループを目の端に見ていると、その構成人員もだんだん把握できてくるのですが、
わたしはグループの中に、ある「二人」を見出すようなりました。

いかにも自由業的な雰囲気を持つ中年男性と、若い女性です。
どちらも大型犬を連れていて、犬同士も仲良さそうですが、それだけでもない。
なんとなくいつその集団を見ても、その二人がひとところにいるわけです。

あるころからそのことに気づき、見るともなく、観察が始まりました。
(といっても、日中はすっかり忘れていて、散歩のときだけ思い出すという程度ですが)
少し遊び人風の髭を立てた男性は、いつもさりげなく女性の近くにいて、
傍から見ていると、下心のオーラ全開にみえます。
彼女の方もまんざらでもないらしく、何かそわそわした感じで接しているのがこれもまるわかり。


男性は独身ではないでしょう。
女性も、朝の8時にゆっくり犬の散歩に行けるくらいですから、
仕事はしていない、つまり自由業でもなければ、主婦と考えるのが自然です。

これは・・・・。


わたしはもともとこういうことが身の回りで起こっていた場合、それを知るのが誰よりも最後。
「あの二人、つきあっているらしいよ」と周りに教えてもらって、
「ええー!全然知らなかった」
と驚いては、みんなに笑われている方です。
このことは何を表わすかと言うと、わたしは、身の周りや知人の動向に関しては、
「知人フィルター」により見えない部分、死角を持ってしまうのではないかということです。
これは、よくいえば「基本的に知人を信用してしまいやすい性格である」
ありていに言えば「おめでたい人間である」とも言えます。


そんなわたしでも、通りすがりの人間関係(例えば不倫とか)は、
まるで説明書きでもついているようにわかります。
皆さんもそんなものではないでしょうか。


しかし、こんなこともありました。
ある集まりに出席したとき、出席者の一人、ある男性Aさんとわたしは知りあいでした。
知り合いと言うだけで別に特別な付き合いはありません。
その集まりには、Aさんの連れてきたという、Bさんと言う女性がいました。
ちなみにAさんは妻帯者です。

あれ?と思ったのは、Bさんのわたしに対する態度。
何か妙な電波を感じるのです。
初対面で挨拶もしないまま会が終わりになり、近くにいても声をかけて来ない。
しかし、無関心というわけではなく、わたしにどう見られているかを逆に探るような視線と、自意識が
彼女の硬い表情から感じられ、それゆえわたしは「はて?」と彼女に初めて関心を向けました。

そして、同時にAさんとBさんの関係に疑問を持ちました。
Bさんにしてみると、わたしはAさんの知り合いの「訳のわからない女」。
とりあえずAさんとの関係を探られ、また値踏みされている、そんな気がしました。
なぜ彼女がそうするのかというと、理由は一つです。


公園に話を戻しましょう。
先日都心を中心に雪が積もった日がありましたね。
あの超寒い、足下のお悪い中。
犬は喜び庭駆けまわりたくとも、ほとんど飼い主の方がめげてしまったらしく、
その日の公園にはわたしのようなジョギング、ウォーキングの人しかいなかったのですが、
こんな時だからこそチャーンス!とばかり、彼らが

たった二人(+二匹)のデートをしているではありませんか。

それがなぜ計画的な待ち合わせの結果だと分かったかと言うと、
すでに極寒の公園に一人(と一匹)でたたずんでいた男性が、
携帯電話で彼女に居場所を告げているのを聞いてしまったからです。
(またこの人の声がでかくて・・)

そしてその日を境に、その後はわざわざ公園の外れで待ち合わせ、
皆の集合時間よりすこし早く落ち合って、逢瀬を楽しんでいるようです。

これを読んでいる皆さん。(犬を飼っている人限定)
あなたの連れ合いが、やたら犬の散歩に熱心で、多少の悪天候でも、いや、むしろそんな日こそ
そわそわと「モカが出たがってるから」などと言って携帯持参で出ていくとき、
もしかしたら、このようなことが彼あるいは彼女の身に起こっているかもしれませんよ。

それにしてもこの二人、いったいどこに向かっているのでしょうか。



仲間内の中で好意を持っている異性がいて、それゆえに散歩に行くのにワクワク、
というような「ひそかな楽しみ」など、賞味期限は一瞬のこと。
運悪くどちらかが「我慢できない人」だと、無粋にもそれを野暮な恋愛沙汰に発展させて、
不倫の一つもしてしまったりするのでしょう。

一つ言えることは、皆さん。
いくら忍ぶれど、秘密の恋なんて周りはもちろんのこと、
案外、通りすがりの人間にすら見破られているかもしれない、ってことではないでしょうか。


まあ、わたしのような「身近な人間関係には鈍感」っていう人間もいることですし、
通りすがりの人間に何を思われても、知人や家族にさえバレなければ痛くも痒くもない、
という向きには、何をか言わんやですが。








笹井中尉の三段跳び撃墜

2012-02-13 | 海軍

     

笹井中尉生誕94周年記念スペシャルです。

撃墜された敵機の前で撮られた笹井中尉の写真から、
ボケた画像をもとに、不鮮明な部分は想像力で補い、肖像をねつ造しました。
パソコンに落として拡大しても元の画像が粗いとアップが鮮明に描けません。
去年亡くなったときに描いたジョブズの画像などは元写真が恐ろしく鮮明なので、
それだけリアルに描きやすかったわけですが。

さて、今日タイトル、笹井中尉の「三段跳び撃墜」について。
坂井三郎著「大空のサムライ」でも有名になった、
笹井中尉が師匠の坂井氏が見守る中、一航過において三機を撃墜した
という胸のすくような撃墜話です。

初版の「坂井三郎撃墜記録」によると、陸攻隊の攻撃を容易ならしめるために、
偵察を兼ねて敵兵力を少しでも削ぐ、という意味で毎日のように行われていた
「モレスビー詣で」の何処か一日に、それは行われたということになっています。

初版の「坂井三郎空戦記録」には、実はこの三段跳びが図解で示されています。
4コマに分けてみました。
ちなみに列機の皆さんは上空で少し後ろを飛んでいます。

機速を伸ばして最後尾の敵の後上方、絶好の位置に辿りついた笹井機
左に大きくひねり込んで襲いかかる
一撃で三番機を仕留めた笹井機、直後に急上昇


急上昇したところはちょうど二番機の500メートルの位置
同じ攻撃法でひねり込みながら50~60メートルまで近づき二番機を撃墜
操縦員がやられたらしく機はきりもみ状態で落ちて行った


 

後ろで何が起きたか隊長機は気付き、機首を上げ宙返りの態勢に入ろうとする



宙返りのため笹井機と直角に背中をさらした一番機、至近50メートルから敵機要部を撃ち抜く
機はGがかかった状態だったので片翼が飛び、回りながら落ちて行った


この後坂井氏は両手を操縦桿から放して手を叩き、その成長ぶりを喜んだと書かれています。
笹井醇一中尉の戦歴については、戦後「大空のサムライ」に語られたからだけでもなく、
大戦中から海軍関係者の間ではすでに華々しく喧伝されていたようです。

例えば全く事情を知らないでラバウルに赴任してきた従軍画家の林唯一氏なども、
新聞記者から「坂井などと並ぶ、海軍航空隊の至宝と言われている」と噂を聞いて、
それを戦中の著書に書いていますし、
あるいは海軍兵学校の同級生などもその活躍を喜んでいた、という文章が
少し探せばあちこちから見つかります。

「チョットどもるような早口を、眼をしばたたかせながら語る笹井の風貌から、
日本一の零戦乗りの強靭さを察することは難しいが、
飛行機乗りにならねばと頑張りとおした根性こそ、
彼をして撃墜王たらしめた原動力であったろうか」
兵67期 吉村五郎氏

「気性の強い点では、我々同期の飛行学生仲間では随一であったと思う。
戦闘機に進んだのも、撃墜王の勇名をとどろかせたのももっともなことである」
兵67期 肥田真幸氏

「その後私は12連空、11連空の教官配置を廻りながら
次々報道せられて来る華々しき活躍振りを羨ましく思いつつ
武運長久を祈っていたものであったが」
兵67期 入谷清宏氏


その、戦中から世間につたわるところの評判と、「サムライ」における笹井中尉の「天才ぶり」、
図解したような「絵にかいたような胸のすく撃墜」。
どれも、ヒーロー笹井中尉を称賛するものばかりです。

しかし、と言っていいのかどうかは分かりませんが、
ここで虚心坦懐に「台南空行動調書」を読んでいきましょう。
ここでは「エリート戦闘機隊」として名を馳せた台南航空隊といえど、
絵にかいたような圧倒的な勝利は、なかなか読み取ることはできないのです。

例えば、朝5時45分1直の発進から、午後3時の帰投である7直まで、
およそ丸一日上空哨戒を続けても、「敵ヲ見ズ」が数日続いたり、
「撃墜」とあっても大抵誰のものによるか分からず、共同撃墜となっていたり、
あるいは不確実であったり。
アメリカ側の認識でも「このころのラバウルでは圧倒的に日本が強かった」
ということになっているのに、です。

そして、本日タイトルである「笹井中尉の三段跳び撃墜」ですが、
このように図解までされて生き生きと描写されている撃墜劇について、
記録されているはずの戦果を求めて、台南空の行動調書を一枚一枚丹念に見ていっても
「笹井中尉が単独で3機撃墜したという記録はどこにもない」のです。

このような状況で、しかも撃墜したのが士官であり、
列機が何機もそれを眺めていたわけですから、まさか未確認不確実になるわけもないでしょう。
もちろん不確実扱いで3機撃墜したとされる日すらありません。


これは・・・・・。


巷間伝わる笹井中尉の活躍を、あらためて創作により色付けして、
エンターテイメント小説として分かりやすく、ヒロイックに描写した結果が
「三段跳び撃墜」だったのでしょうか。
笹井中尉のみならず、台南空の搭乗員たちを生き生きと活写するついでに
読み物として読者サービスを「盛った」エピソードがほとんどなのでしょうか。

しかし考えるまでもなく、彼らは「映画の登場人物」ではないのです。
その命をかけて戦争をしていたのです。
実際の戦いはもっと地味で、悲壮な毎日の連続で・・・・
もしかしたら「大空のサムライ」や「零戦ブーム」が一部の元軍人たちに受け入れられなかった
という理由も、このあたりにあるのかもしれません。

実際に元軍人の口から
「本に書かれたことは、大概綺麗ごとで実相とは程遠い。
しょせん歴史は声の大きなものが作って行くんだなあ」
と嘆く声を聞いた人もいます。


もし笹井中尉が戦死することなく、戦後坂井氏と一緒に「笹井・坂井株式会社」を経営していたり、
肥田氏が予想するように、航空自衛隊に入ってパイロットを続けていたら、
このエピソードが坂井氏の口から語られることはなかったのかもしれない、などと考えてみます。

しかし、そうではないかもしれないと薄々知りながらも、この物語の登場人物を愛するがゆえに、
そうあってほしいと何より願っているのは、戦争を知らない我々であることも確かです。
さればこそ、敵上空宙返りの逸話や、容易に行動調書から真偽を確かめることのできるこの話を
誰もはっきりと検証せずにいるのかもしれません。



映画「日輪の遺産」

2012-02-11 | 映画


「M資金」という言葉をご存知でしょうか。
終戦後、GHQが占領中に接収した財産を基金にして作ったもので、
現在でもどこかで運用され続けているとされる 秘密資金です。
M資金詐欺というものが世間をにぎわせるようになり、有名になりました。

このM資金の「マーカット」 ならぬ「マッカーサー資金」とでも言うべきマッカーサーの隠し財産、
それをフィリピンから山下将軍の手で持ち帰った日本軍が、マッカーサーと壮絶な奪い合いをする、
という浅田次郎の同名小説を元にした映画がこの「日輪の遺産」です。

マッカーサーから奪った秘宝を日本の再興のため、
軍の密命を受けて管理することを任されたエリート青年将校たち。
彼らが任務の果て、終戦の8月15日に下された命令は、
そのため徴用された19人の少女たちと引率の教師を口封じのため殺害することだった。

何て魅力的な題材でしょう。
堺雅人、中村獅堂、八千草薫
獅堂の老後と言われれば思わず膝を打ってしまうくらいのはまり役、八名信夫
その他、堅実な演技をする役者で固めたというのに、

つまらない脚本ですべてを台無しにするという日本映画の最近の黄金のパターンを、
この「日輪の遺産」は、みごとに受け継ぐ結果となっています。

「八月壱拾五日のラストダンス」で、どうしようもない××映画に突っ込みまくり、
思わせぶりな絵とともにエンターテイメント読み物にしてしまう、
という 新しい境地に到達したエリス中尉ですが、この映画でもそれをやってしまうのだった。
しかしお断りしておきますが、この映画「八月壱拾五日」とは見応えの点で比べ物になりません。
何と言っても、配役にお金がかなりかかってるし。

映画は、これも日本映画のお約束パターン、「現代」から始まります。
ハワイに住む退役日系軍人、かつてマッカーサーに仕えた老人(ミッキー・カーチス)が、
やはり日系の記者(中野裕太)に語り出します。

ところが彼、イガラシがマッカーサーの口から「マイ・トレジャー」とつぶやくのを聴くシーン直後、
さらに場面は日本のある女学校の卒業式に。
市会議員を務め、山を買いまくった資産家の老人(八名信夫)とその妻(八千草薫)。
老人が式典途中亡くなり、老いた妻が語り出します。

なんだって、語り手が二重構造なのかしら。
全体的にまとまりのない構成で、ごちゃごちゃしているのはこのせいだと思います。

それでは最初から、淡々と「突っ込みどころ」を挙げていきます。


まず、真柴少佐(堺雅人)が陸軍から密命を受ける場面。
田中司令が会議中「畏れ多くも陛下におかれては」と言っているのに
阿南陸将(芝俊夫)がふんぞり返ったまま。 

まず、このように軍人や軍隊の描き方がユルいのが非常に目につきます。
真柴少佐、小泉主計中尉(福士誠治)とヨコハマグランドホテルにいるとき、
望月曹長(中村獅堂)が、なんと出されたサンドイッチに真っ先に手を出し、
さらに、小泉中尉にお茶を入れさせたりします。
少佐と中尉と曹長ですよ。
海軍ならともかく、陸軍なら口もきけないレベルの階級差だったのでは?

この望月曹長は非常に軍人精神のたるんだ奴で、
「そういう気分になりません」という理由で玉音放送を聴くのをサボって風呂掃除をします。
そして、なぜか級長だからという理由でやはり玉音放送を聴かず風呂掃除する女学生久枝
どっちも上官や先生から怒られると思います。
というか当時の日本人としてこれはありえないのでは・・・・。

玉音放送後、二人が風呂掃除している間に他の少女たちは集団自決をしてしまうのですが、
彼女らがそれを決意した時間や経緯が、観ている方には皆目わからない。

青酸カリを中尉から盗んだのは話を寝ているふりして聴いていた美少女スーちゃんで、
どうやら彼女は運ばされている箱の中身が金塊であることを知っていた模様。
だからこそ「皆で死んで日本のために金を守る」と決意するのはいいとしても、
なぜ、久枝が皆の集団自決からハブられたのかが、まずもって理由不明。


任務を行う間、粗末な小屋で少女たち、先生(ユースケ・サンタマリア)、
軍人3人が一つ屋根の下、雑魚寝するというのもヘンです。
そして、真柴少佐は参謀飾緒のついた軍服を上下着こんだまま寝ているんです。
真夏ですよ?どんな無精者でも、着たままは寝ないでしょう。
ましてや帝国軍人においておや。

そして、「いてもたってもいられず、身体だけはきれいにしてやりたいと思いまして」
小泉中尉が子供とは言え13歳の少女たちの背中を流してやる。
うーん・・・・・。

そもそも重い砲弾(実は金塊)を運ばせるのになぜ12,3歳の女学生を使うのか?
という大疑問に関しては、
「引率する教師が平和主義者のアカ教師だったから、この際まとめて始末」
ってことだと思いますが、だとしてもそんなことしている場合かな?って気もします。

そして、最も笑いどころは、本日画像右下。
軍首脳部から直々に命を受けた真柴少佐らですが、何故か連絡してくるのは昭五式(旧式)の

マントを八月に

着こんだ謎の陸軍軍人で・・・・・・・これ誰だよ!
帝都物語じゃあるまいし。
その謎の軍人が「女生徒ら全員を秘密保持のために始末せよ」という命令を伝え、
青酸カリを渡して行くのですが、これがどこから出たものか最後まで分からず。

「女学生など殺せません!」と、命令の撤回をお願いに阿南陸将を訪ねたら、
あーら、びっくり、阿南閣下ったら切腹の真っ最中。
それでもお構いなく声をかける真柴少佐。
阿南閣下、苦しい息の下から「そんな下命はしておらぬわ!」
切腹中に、しかも人生最後の瞬間に、覚えのない命令を責められる阿南陸将も大変だー。(棒)


このマント男、なぜか生き残った久枝を殺しに現れ、真柴少佐に斬られます。
終始側車(サイドカー付きのオートバイ)に乗っているのに、なぜかいつも一人で行動。
たとえ斬り殺されても誰も気づいてくれないので、単独行動はやめた方がいいと思います。


集団自決のあと、「引率の義務がある」と壕に入って行く先生をみんなが見送りますが、
久枝は全員の自殺にも、先生が壕の中で引き金を引く音にも、全く動じず、叫びもせず、
泣くことすらしないのです。
真柴少佐が地面を転げまわっているのに、彼女の冷静ぶりは不気味なほど。
また、眼の前で真柴少佐がマント男を斬り殺しても平然としている。
度胸がすわり過ぎで、こっちが軍人ではないか、ってレベル。

最後がまたアリエナイザー(知ってます?)の集大成。
終戦後、小泉中尉はGHQに乗り込み、マッカーサーに取引を持ちかけます。
財宝のあり場所を教える代わりに、復興の債権をアメリカが引き受けてはくれないか。

ちょっと待った。

マッカーサーにすれば「それはもともとわしのもん」でしょ?
当然答えは「ノー」ですよね。
それを聴いた小泉、眼の前でイガラシの銃を奪い(笑)自殺してしまいます。
それを見たマッカーサー、急に物分かりがよくなり、その条件を飲むのでした。
小泉は財宝のあり場所も教えずに死んだっていうのに、なぜ?


ほどなく米軍基地となった敷地内の壕のなかから財宝が見つかります。
その周りには「鬼となって財宝を守る」と死んでいった少女たちの骸骨。
マッカーサー、それを見るなり「父の遺産など無かったのだ」
と財宝をあきらめ、周りを囲ってしまう。
「草花を植え、緑でここを覆い、永久に開放してはならぬ」

? ? ?
いや、10万20万の金額じゃないのよ?
当時の900億ですよ?

かたやこちらは戦後数十年、なぜか大金持ちの名士になり、その資力で
壕のある米軍基地の周りの山を買い占める望月。
周辺をガッチリ買い占めて、そのうち基地が返還されたあかつきには、
金塊をゲットしたうえ地上げしまくる、少女らの菩提をあらためて弔う、という算段です。
しかし、それも政府民主党の迷走のおかげで先の見えない話。
財宝も骸骨もそのまま、望月は死去したというわけ。

望月の死後、孫と婚約者、婿を連れて基地内の壕を訪れた久枝。
なんと壕の前にいると、祠から全員の幽霊が出てきて、久枝に声をかけるのです。

しかしここで驚いてはいけない。
後ろで見ている孫娘と婚約者にも彼らの幽霊がばっちり見えるのです。おまけに

「あの大きいのが松さんね」

「あの美少女がスーちゃんだな」

・・・・って、おばあちゃんから聞いた話と幽霊を平気で照合すんなっての。

真柴司郎の戦後も、観ている方には気になるところだと思うのですが、老久枝があっさり
「昔うちの離れを借りて剣道の教室をやっていた真柴さん」
と説明するに終わります。
陸大卒で「恩賜の軍刀組」だった軍人が、なんで剣道教室で糊口を凌がなくてはならんの?
かつての部下も地上げで儲けて市会議員まで成り上がったってのに、なぜ助けないの?
おまけにいつの間にか真柴は死んだようですが、どうやって死んだか、
生きている間財宝を守ることに関して何かをしたのか、一切説明なし。


そして、題名の「日輪の遺産」。
ここで最初に帰って思い出していただきたいのがそもそもの設定。
「マッカーサーの父親が、フィリピン独立のために隠しておいた資金」つまり強奪した金。
これを日輪の、つまり日本の復興資金にしようって考えからしてそもそも間違ってませんか?

「八月壱拾五日のラストダンス」で「終戦を知らずダンスをする兵隊と看護婦」が
映画に描きたいイメージとしてあったように、この映画の製作者は、
「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」
という、西條八十の「比島決戦の歌」を日本人が当のマッカーサーの前で歌う、
というシーンをどうしても描きたかったと見え、なんと全編通じて8回、この曲が歌われます。
それも、マッカーサーの前でそれを歌う日本人は二人います。
その一人、小泉主計中尉の口から
「こんな醜い歌をあいつらは口ずさんでいたんだ」と言わせることが
この映画の第一目的だったのではないかと思われるほどです。

あまりにしつこいくらい繰り返されるので、オチが読めてしまってうんざり、という
これもいつものお約束パターン。
「山本五十六」でも言いましたが、最近の映画の製作者って、伏線の作り方が実に稚拙。
「自分がどこかで見た表現」の二番煎じしかできなくなってしまっているみたいですね。

というわけで、こうしてあらためて書きだしてみると「八月壱拾五日」レベルの
「なんじゃあこりゃあ映画」であることは決定なのですが、
にもかかわらず、この「日輪の遺産」は不思議にせつない印象を残す映画です。

何を言うときも微笑んでいるように見える堺雅人の、
だからこそ注目せずにはいられない、不思議な演技。
こんな男に「守ってやる」と言われたら、さぞ頼もしく思ってしまうであろう、
中村獅堂の「曹長」の無骨な男っぷり。
そして「死んで鬼になり国を建て直す宝を護る」という少女たちの決意が、
当時の軍国少女たちの持っていた純真な魂を思うと、決して荒唐無稽に思えないこと。

何より、全く評価されていないようですが、バーバーの「弦楽のためのアダージオ」を思わせる
加羽沢美濃の美しい挿入曲が、この映画のそういった美点に光を与えて、
辛うじて?映画の品格を支えているようにも見受けられます。

最後にもうひとつ。
 



かつて自分に下命したA級戦犯梅津の入院している病院を訪ねる真柴司郎と、
語り部の一人、日系通訳のイガラシ。
陸軍士官の制服のあんなにお似合いだった真柴少佐が、こんなさえない男に・・・(T_T) 

それはともかく、この二人の後ろにMPとナースがいるのですが、
字幕に出ないのをいいことに、この二人、実はこんな会話をしています。

「ロバート中尉の病状は?」
「良くなると思うわ」
「それはいいニュースだ。ところで、今晩食事でもどう?
「いいわよ!」
「ほんと?」
「今夜ね」
「後でねー

おい・・・・。

 



 


二〇四空の「ラバウル海軍航空隊の歌」の話

2012-02-09 | 海軍

「歩かされる陸軍はご免こうむりたい」という理由で海軍に籍を置いた軍医がいます。
短期現役の二年間を過ごしたところ「海軍の捨てがたい良さにひかれてしまい」
永久制軍医科士官に志願しました。

小林勝郎軍医中佐です。

「あなたは行進曲軍艦を完璧に歌えるか」
の日に「シンコペーション」とあだ名を付けられた軍医中尉の話をしましたが、
それはこの小林軍医の若き日のエピソードです。

小林軍医は好事家を超越したアマチュア音楽家で、
大学時代はオーケストラに籍を置いていました。
自身で作曲をし、指揮をすることもできたようです。

軍艦比叡乗組みのとき、天皇陛下の御乗艦を迎えるために「栄光」という名の管弦楽曲を作曲し、
内藤軍楽隊長の提案でこれが「御前演奏」されたこともあるのです。
プログラムには「小林軍医大尉作曲」と書かれ、
陛下の侍従部官長が「本当に君が作曲したの?」とふしぎそうに聞いたそうです。

一口に管弦楽曲と言いますが、オーケストレーション(管弦楽法)は
メロディが書けるだけの人にはできることではありません。
音楽大学では対位法や和声が演奏科の学生の必須ですが、これらを勉強しても
編曲したり作曲したりはできないのが普通で、
好きでオーケストラを振っていたくらいの知識ではここまでできるものではありません。

小林軍医はまた、必ず軍楽隊の練習に立ち会い、時間があればずっと傾聴していました。
いつの間にか軍楽隊の隊員とも仲良くなり、一度は「こっそり」指揮をさせてもらったそうです。
なぜ「こっそり」であるかというと、、軍楽隊の指揮は軍人以外には決してさせない、ということが
規則で決まっていたからなのだそうで。

軍医は軍人のうちに入らなかったのでしょうか。

 

おそらくこのとき写したのであろう、軍楽隊最高位まで昇進した
内藤清伍少佐
と小林軍医大尉の、比叡甲板での写真があります。
(本日画像)
例の「栄光」は、この内藤隊長のチェックを受けたそうですが、
手直ししなければいけなかった和声や技法上の間違いはごくわずかの部分だったとのこと。


戦後、小林軍医は「医師、音楽家」という肩書で、
実に充実した二足のわらじを履きこなす日々を送ったようですが、
おそらく90歳にはなっておられる写真に覗える御尊顔すら銀髪の超ナイス。
この比叡艦上の大尉時代は、さらにすらりとした長身で髭を蓄え、なかなかの男振り。
イケメン軍医大尉(兼作曲家)だったわけですね。

小林軍医が、この比叡、そして厳島(水雷敷設艦)の乗組みを経るうち、開戦を迎えました。
昭和18年4月、軍医は第二〇四海軍航空隊軍医長に任命されます。

以下、小林軍医説明するところの二〇四航空隊です。


この第二〇四海軍航空隊は司令(大佐)以下2千名近い隊員から成っており、
医務科には私の下に分隊長、分隊士他に37名がいた。

小林軍医がラボウルに着任してほんの数日後、大変な事件が起こります。
山本元帥乗り機がブーゲンビル島のブイン飛行場に向かう途中で撃墜されたのでした。

忙しい軍医としての任務をつとめながら、マラリアにかかるなどの大変な目に会い、
それでも珍しい果物に舌鼓を打つような毎日に慣れてきた頃のこと。

そのころのラボウル周辺の空中戦は日に日に激化する一方で、二〇四空では、
歴戦の飛行士官はじめ下士官兵にもだんだんと疲労が・・・・・、
特に精神面での疲労が濃くなっていました。
月に一、二回は日本から学徒兵を主体にした若い搭乗員が補充増員されるのですが、
空中戦の経験が浅く、もしくは皆無なため、最初の空戦で散華してしまうのです。

隊全体を虚無感に近い士気の低下が色濃く包むようになってきました。
それを憂えた小林軍医は医療チーム一丸となって可能な限りの療法を試みたのですが、
なかなか良い効果は期待できない状態でした。


―勇壮な歌でも歌わせでもしたら、彼らの士気鼓舞にわずかでも役に立つかもしれない―


そんなふうに思いだしたおり、小林軍医は、海軍輸送航空隊の若い主計大尉が書いた、
ある詞を入手します。
それが「ラボウル海軍航空隊の歌」というタイトルでした。
単純かつ勇壮なその詞に、さっそくメロディを付けようと、小林軍医ははりきります。

数日間毎夜、南十字星を見上げて、歌詞を口ずさみながら
私は、芝生の上を歩きまわったのだった。
行進曲風で堂々としていて、いくらか悲壮味があり、しかも歌いやすい曲をと念じて。

 二週間かかって曲は仕上がりました。

さて、ここで皆さんがあの

「銀翼連ねて南の戦線」

というあの歌がこのように産まれたのだ、と勘違いしてしまってはいけないので説明すると、
今に残る軍歌「ラバウル海軍航空隊の歌」の作曲者は古関裕而
日本作曲界の大重鎮です。
こちらの「ラボウル海軍航空隊の歌」は、勿論のこと、そのヒットソングが生まれる以前に
作曲されています。

レコード会社専属の専門作曲家の作るものと違い、
こちらは隊付きの軍医が隊員のために、ごく私的に書いたもの。
完成後、譜面は東京の内藤少佐に送られ、少佐の指揮により、この曲は
JOAK(NHKの前身)から放送されました。
本人も作品使用料をいくばくか貰ったようです。

しかし、残念なことにいつの間にか楽譜は何処かに消えてしまい、作曲した本人ですら
始めと終わりの数小節しか思い出せない「幻の曲」になってしまったのでした。


軍医はガリ版を刷ってこの曲の譜面を印刷し、隊員に配るところまではしたようです。
しかし、その頃から戦局は一層激しさを増し、敵機の来襲も頻繁になってきて、
それをもとに歌唱練習をみんなで行う、などということは全く不可能となってしまったのでした。
隊員が口ずさむ機会があれば、生存者によってそれが伝わるというチャンスも
あったのかもしれませんが・・・・。

 

さて、こんにち「ラバウル海軍航空隊の歌」として認知されているところの「本家」ですが、
ラバウルにいた航空隊員で当時この歌を知っていた者はいませんでした。

それもそのはず、
この歌が作曲されたのは昭和19年1月。

小林軍医の所属した海軍二〇四航空隊は同年2月には第一陣がトラック島へ移動。
一カ月を待たずして2月20日、海軍航空隊はラバウルからの総引き上げを決行します。
海軍ラバウル航空隊はこのとき消滅しました。

皮肉にもこの曲が巷でヒットし、皆がメロディを口ずさむようになるのはその後のことです。

本当の「ラバウル海軍航空隊の歌」この幻の曲なのかもしれません。
少なくとも二〇四空の航空隊員たちは、この曲の楽譜と歌詞を一度は目にしたはずだからです。
中には譜面を見てこのメロディを口ずさむことのできた隊員もいたかもしれません。








映画「フルメタル・ジャケット」とミリタリー・ケイデンス

2012-02-07 | 映画

マシュー・モディーンという俳優は、(実は)個人的に好みのタイプ、というだけでなく、
「バーディ」「アルジャーノンに花束を」(TV)など、演技力が無ければできない役をこなし、
なおかつ「メンフィス・ベル」の堅物で煙たがられているが実は腕のいい機長、というような
「優等生」役、ラブコメにも違和感のないロマンティックな容姿を持つ、良い俳優だと思っています。

そのマシュー・モディーンを一躍有名にしたのが、スタンリー・キューブリック監督作品
ベトナム戦争に参加する海兵隊の若者を描いたこの映画、「フルメタル・ジャケット」。

1987年の映画なので何をいまさら感がありますが、
戦争映画で最も人気があるとも言えるこの作品を、今回(大画面で)観直してみました。

画像は、ラストシーン、瀕死のベトコンの女性スナイパーにとどめをさすことを躊躇う
ジョーカーことジェイムズ・T・デイヴィス
自分の友人を何人も撃ち殺した憎むべき相手であるはずなのに、
「Shoot me」と虫の息の下から訴えるのが女性だからか、ジョーカーは当初
「彼女を置いていけない」などと甘ったれたことを口走り、仲間に罵倒されます。

引き金を引く瞬間のジョーカーの画像を描いたのですが、
こうしてできた絵を見ると、何かに似ている気が・・・・。
バックにゴッホ調の怪しい線を入れたせいもあるかと思いますが、このキレた感じの目は・・、
これは・・・まるで・・・。

「時計仕掛けのオレンジ」の主人公ではないですか。
はっ。あれもキューブリック。これもキューブリック。

この映画におけるマシュー・モディーンの役どころは、
高校時代は新聞部、ヘルメットに「Born to kill」と書き、胸にはピースバッジを付ける
海兵隊下士官。
ベトナムで「何故だ」と問われて「ユングの二重構造です」とさらりと答えるインテリです。

白皙に眼鏡をかけ、繊細な精神を持つ草食系男子、というところでしょうが、
その彼がためらいつつもこのような瞬間を経て女性を撃ち殺し、
「ミッキーマウスマーチ」の猥雑な替え歌を歌いながら戦火のベトナムを行進する。
「生きているのがハッピーだ」とうそぶくように述懐しながら。


人を兵士に変えるシステムがあるとすれば、例えばこの映画の前半で語られる、
アメリカ海兵隊の錬成システム、80日の地獄の訓練がそれでしょう。

そこでは、まさに草食系だろうが肉食性だろうが、繊細だろうが愚鈍だろうが、
ひとしなみにその世間的な観念や常識、平和とか倫理とか、人権とかの概念を
ゲシュタルト崩壊レベルにまで打ち壊してしまうような激しい「人格否定」が行われます。

ある意味、軍隊の非人間的訓練の代名詞ともなった、それがこの映画のハートマン軍曹
今や鬼軍曹と言えばハートマン、ハートマンと言えば鬼軍曹、というくらいです。
え?ハートマン軍曹を知らない?
それでは。



お分かりいただけたでしょうか。
こんにち、アメリカのテレビでもしょっちゅうこのハートマン軍曹のパロディを目にします。
例えば去年の夏滞米していたとき、あるペン型携帯染み抜き剤のCMはこうでした。

軍服に誤ってシミを付けてしまう新兵たち。
ハートマン軍曹?が、一人一人に上のように罵声を浴びせながらそれを責める。
新兵たちは後ろ手で件のしみ抜き剤を問題の兵士にパスし、
ハートマンが一巡して問題の兵の前に帰って来た時にはシミは跡かたもなく消えている。
ハートマン軍曹、驚いて言うには
「なんだ?なんてこった!貴様はフーディニ(伝説の奇術師)の方法でも使ったのか?」


それから、この映画で皆が訓練のランニング中に歌う、歌ともなんともいえない代物ですが、
これは軍伝統の「ミリタリー・ケイデンス」という、一種のワーク・ソングというべきものです。
このミリタリーケイデンスを、何故今日のタイトルに入れたかについては後述するとして、
このケイデンス(ジャズ理論でもよく使う言葉でこちらは終止法を言います)も、
こちらではCMなどによく使われます。
ケロッグのコーンフレークの宣伝で、女子サッカーや男子野球のチームが
「おれたちタイガー」などというケイデンスを唄うCMはずっと継続して流れています。

ケロッグは歌っているのが子供でもあり、健全で真っ当な歌詞なのですが(多分)、
ミリタリーの方は、それは大変下品で卑猥で、下ネタを抜けば後には何も残らないというレベル。
そしてこれこそが、軍隊と言うものの「殺人マシーン養成システム」の一端を担っているわけです。

戦後日本では、例えば先日わたくしエリス中尉が、呉は海軍兵学校、いやさ、術科学校で、
「体罰なんてしたら大変なことになる」と言った案内係の言葉を憂えたわけですが、
「自衛隊は大切な国民の皆さんの子女をお預かりする場所」でありますので、
たとえ軍人精神を注入するためであっても、体罰などとんでもない、と公的にはされています。
そして、おそらくその技術を磨き、研鑽する目的も、決して敵を殺すことにはあらず、ただ
「専守防衛」という気高き一言に集約されているものと思われます。

しかし。

昔読んだクラウゼヴィッツの戦争論に、文言は忘れましたが
「世界のどこかで戦争が起こっていなかった時は、歴史上一瞬たりとて無い」
とあったように、そして戦後の戦争はほとんどがアメリカの関係するものだったように
(ざっと数えただけで朝鮮戦争に始まりその数20以上。勿論日本はゼロね)
この映画の訓練が行われていたとされるとき(も)、アメリカは戦争真っ最中。
海兵隊を卒業したら、すぐさま実戦配置され、戦地に行く運命です。
そこで国防だの専守防衛だのというお花畑のような言葉でなく、はっきりと
「敵を殺せ!殺さなければ死ぬのはおまえだ!そしておまえらはマリーン・コーアとして死ね!」
という言葉が、地獄の訓練と罵詈雑言で自我を失った脳髄にねじ込まれるわけです。

クリスマス。
彼らが歌うのは聖歌ではなく「ハッピーバースデイ、ディア ジーザス」
つまり、キリストの誕生日だから、それを祝うが、クリスマスを祝うのではない、という意味です。
そして、軍曹は祈りの言葉の代わりにこう続けます。
「神様に我々の殺す奴らのフレッシュな魂を捧げるのだ」


自我をとことんまで叩きつぶし、何者でもなくさせてしまうための訓練の一環として、
トイレには人数分の便器が、仕切りもなく対面式に配されています。
プライバシーなどという言葉はマリーン・コーアの殺人マシーンには必要ないのです。

ただでさえ落ちこぼれているうえに、徹底的にハートマン軍曹からにらまれ、そのため
「おまえ以外の全員に罰を与える」(本人は指をくわえさせられてそれを見学)
という、ある意味、最も残酷な懲罰を与えられ続け、精神を病むレナード(ゴーマー・パイル)
は、この広い便所で、卒業式の夜、ハートマン軍曹の胸を撃ち抜き、自殺します。

しかし、精神崩壊を免れ、自分を撃たずにすんだ卒業生も、すぐに
「ハートマンの罵詈など子守唄だった」とさえ思える、戦場の地獄を知ることになるのです。


ハートマン軍曹を演じたR・リー・アーメイは、
実はこの映画に演技指導に来ていた現役軍人でした。
実際に海兵隊で教官だったアーメイが、模範演技をしたとたん、キューブリック監督が、

「あ、ティム(もとのハートマン役)さー、もうやんなくていいわ。
こっち(アーメイ)の方が本物の軍曹っぽいし。
てか、本物だし。悪いね!
後の方になんかちょこっと代わりに出番作るからさ、メンゴメンゴw」


とか言って、アーメイをハートマン役に代えてしまったのでした。

ヘタな俳優も、軍人の役なら何とかサマになる、という例はありますが、この軍人さん、
並みの俳優よりよっぽどカンが良かったらしく、
一シーンに何テイクもカットを撮るので有名なキューブリック監督をして

これまで仕事をしてきた中で最高の俳優の一人で、
1シーン撮るのにたった2、3回のテイクで十分
だった 」


とまで言わせています。
そのセりフはほとんど彼自身が決め、おまけに縦横無尽のアドリブ三昧。
(キューブリックは基本的にアドリブを許さない監督であると言われている)
出身地や本人の家族を侮辱、ありえない罵倒の連続に、出演者は本気で腹を立てたとのこと。

これはきっといかにもデリケートそうなマシューだったに違いない、と独断してみる。

そして、このハートマン軍曹パワーは日本の映画配給会社にまで及びました。
戸田奈津子という翻訳者がいますね。
ときどきヘンな翻訳をすることでも有名な超大御所ですが、彼女の翻訳を、キューブリックは
「逆翻訳」させ、なんと「汚さがない」とダメ出ししてしまったというのです。
女性にはとても大きな字では書けない?ような文句の連続ですから、無理はありません。
だいぶマイルドな表現になってしまっていたのでしょう。
かくして、彼女はキューブリックによって切られ、代りにアメリカ在住の男性が翻訳を手がけました。

なぜキューブリック自らが日本語の翻訳までチェックすることになったのか。
これは、ハートマン軍曹の役を引き受けることになったアーメイの出した条件が
「私のセリフを翻訳のときにそのまま訳すこと」というものだったからだそうです。
鬼軍曹恐るべし。


戦争そのものが人間の人格を全く顧みない所業であれば、そこに身を投じることが分かっているとき、
その非人間的な空間にあっても自己崩壊しないだけの非人間性を見につけているべきだという、
このハートマン式の訓練は、至極理にかなっているということができます。

知性と言うものがみじんでも残っているなら、単純なランニングのリズムに、
羞恥で口にするのもためらわれるような猥雑な文句を乗せたミリタリー・ケイデンスは、
まさに雑で、タフな、「戦場向き人間」にはもってこいの歌であるともいえましょう。


士気を高め、歩調を取るほかに、銃の装填のリズムや意思疎通、
ガス抜きやうさ晴らしなどのために取り入れられているケイデンスですが、
卑猥であるだけならまだしも、中には非常に笑えない残酷なものもあり、
おそらくは「通過儀礼」のように、歌うことを兵に強要する例も多くあったのでしょう。
退役軍人は、しばしばケイデンスを無理やり歌わされることが不快だったと述懐しています。


日本ほどではないにしろ、戦争を語るものに妙にナーバスになる層はアメリカにもあるようです。
例によってそのような論陣から「これは反戦映画である」とレッテルを貼られたキューブリック監督、
「これは反戦映画ではない、戦争をそのまま描いただけだ」とおかんむりであったということです。

しない方がいいに決まっている戦争について、そのまま描くことが許されず、
何らかのメッセージを込めないと逆に好戦的だと決めつけられるって風潮は、
なんとかならないもんでしょうか。
日本映画やテレビで、この映画のような
「本物の軍人がリアルに口にした平和的でないセリフや荒っぽい生態描写」があったら、
いろいろ面倒なことが起こるんだろうな。
何しろ、敵機撃墜と言っただけで目の色変える人すらいるからねえ・・。


しかし、妙に論点のずれているうえ、逆に戦争が「ドラマ」のように描かれる傾向のある
昨今の日本の戦争関係の映画って、反戦や厭戦を謳おうとするあまり、
妙にノスタルジックになってしまっていないか?と思わずにはいられません。

残酷で、非人間的で、猥雑で、下品で。
「フルメタル・ジャケット」の主人公は、ベトナム戦争です。
それがベトナムの真実の一面であったのなら、それを描くことは
それだけで十分意味があるではないですか。

ちなみに、ハートマン軍曹をクビになったティム・コルセリですが、
ヘリから誰彼かまわずベトナム人に発砲し、「よく女子供が殺せるな」と仲間に言われて
「簡単さ、逃げるのが遅いからな」と笑う、狂気じみた兵士を、一シーン入魂で演じています。

このキレ具合は、あれだな。
「キューブリックの野郎~!馬鹿にすんなよ!見とれや~!」
という私怨がこめられた迫真の演技と見た。

それから、ハートマン軍曹役で役者としてブレイクしたアーメイは、
(でもやっぱり本業軍人。もう退役していますが、割と最近叙勲されていました)
次々と「軍人役者」としていろんな映画やテレビ番組に出演。
その中にはなんと

トイ・ストーリーの「軍曹」役

が。
ええええ~っ(笑)