ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

笹井中尉のイモ掘りと星一徹のちゃぶ台返しの関係

2011-07-31 | 海軍

                      お断り:本文の内容に嫌な予感のする方は、すぐにこのページを閉じてください。

 

この絵を描いていて気づいたんですが、明子姉ちゃん、身体を反射的に避けてますね。

先日、車で移動中、テレビで「巨人の星」をやっていました。
我が家にはテレビはない!したがってNHKの料金も払っていない!
と胸を張って言ったことがあるのですが、よく考えると、あったんですねー。
車の中に。
勿論運転者は見られませんが、前部座席のヘッドレストに右左一つづつ、
小さいモニターが埋め込んであるのです。
そう、国際線エコノミーの映画モニターみたいな感じですね。

これは、ディーラーのナカガワさん渾身の特別仕様。
長距離ドライブのときDVDを観るためにだけつけてもらいました、
ですから「地デジも観られますから!」ってナカガワさん、胸を張っておっしゃったときには
ちでぢって何それ」状態だったんですけどね、わたしの地デジに対する認識は。

そこで力いっぱい余談ですが、わたしは断言します。
何デジになろうがテレビは観ない!とくにNHKは観ない!
管総理の北朝鮮献金問題をニュースにせず、韓流の捏造押し付け、君が代を流さず
国際試合の表彰式も流さない、反日の放送などだれが観るかってんだ。
NHKがカーテレビに課金するなら明日にでも配線切ってやる。どうせ観てないし。

という固い意志の下に、いつもは決してみないTV。
このときはDVDの切り替えの時に

♪「重い~コンダーラー 試練のみーちーをー 」

と流れてきたので「お」と切り替えをストップ。
リアルでは観たことはないものの、これはまぎれもなくあの名作巨人の星。
嫌がる息子に無理やり視聴させました。
(フジ、TBS、NHKの皆さん、視聴率が欲しければ古いアニメ再放送なんていかが?
きっと誰にも批判されないわよん)

以下親子の車中での会話。
「なにこいつー、かっこわるー」
「それはこの世界では超イケメンってことになってる花形満さん」
「なんでこのヒトさっさと投げないのー」
「投げるのに30分(CM込みで)かかるときもあるらしいから今日のはましな方」
「うっわーこの女の人ブサイクー、なんでガソリンスタンドで働いてるの」
「明子さんは世間から身を隠すためにあえてそういうところで働いてるの。
でもこのあとイケメンでお金持ちの花形さんと結婚してダイヤの指輪はめる身分になるから」

(今にして思えばオタクだった父の趣味で、実家にはこの川崎のぼるやちばてつや、手塚治虫、
白土三平つげ義春なんかが全巻揃っており、わたしはそれを読んで育ったんですよね・・・。
キャンディキャンディやベルばらじゃなくて。ちなみに実家に帰ればまだあります)

本題です。

集団社会心理学に「星一徹のちゃぶ台返し」という、サブリミナル効果についての
ある確立した学説があるのをご存知ですか?

昭和40年代の代表的アニメ、「巨人の星」で、星飛雄馬の父一徹は、
この画像のようにしょっちゅう「キレて」はちゃぶ台をひっくり返すオヤジである、
といつの間にか社会は認知し、
「ちゃぶ台返し」=「星一徹のように」
という認識が世に膾炙していました。

しかし、ある時、ある学者がこの点について調べたところによると、
星一徹がちゃぶ台をひっくり返したことは一度もなかったのです。
本日画像のように、息子を張り倒したときと、あと一回、はずみでひっくり返したことはあっても、
ちゃぶ台の縁をつかんで「えいやあ!」とひっくり返したことは一度も無いのだと。

世間はなぜ、このようなイメージで彼を認識するのかー。
研究者は、この難題に取り組み、ある日、このような仮説を導き出しました。

「テレビ番組のエンドタイトル・ロールに、毎回本日画像が流れているので、
これを見た人々の中に、
『放映で毎回観る映像』→『しょっちゅうやっているイメージ』→『ちゃぶ台つかんでえいやあ』
が刷り込まれてしまった」
というものです。

いかがでしょうか。
ちなみに、上記の文章には、一部激しい脚色があることをお断りしておきます。

 

そして、本日の本題中の本題である「笹井醇一中尉のイモ掘り」についてです。

笹井中尉が昭和17年、ラバウルで「イモ掘り」と海軍用語でいうところの
酔ってする器物損壊行為を目撃されたのは、報道カメラマン、吉田一氏によってです。
この吉田氏描くところの笹井中尉イモ掘りの状況―。

「そのとき、部屋の奥で、いきなり、ものの壊れる激しい音がした。
山下大尉が、機敏に立ち上がると、部屋を飛び出していった。
だが、物を投げ出す音や打ち破る音は、すぐには止まなかった。
しばらくすると、手荒く酔った笹井中尉を、山下大尉がなだめながら連れてきた」

これが、吉田証言による、最初のその情景です。

文中の「手荒く」という言葉にご注目ください。
これはこのころの海軍の間での「酷く」を言い表わす流行り言葉です。
吉田氏も当時海軍に従軍していましたのでこのように海軍用語を日常的に使っていたようです。

さて、この光景をたまたま目撃した吉田氏が戦後、本「サムライ零戦記者」を書いたため、
本家「大空のサムライ」を書いた下士官の坂井さんも知らなかった(報道班員は士官と同じ待遇)
このような笹井中尉の一面が書き遺されてしまいました。

しかし、後にも先にもこの一度しか「イモ掘り」は目撃されていないのです。

戦後、光人社の名編集者、「大空のサムライ」も手がけた高城肇氏は、
笹井中尉を始めとする搭乗員遺族のインタビューと、遺された手紙などから
「非情の空」という戦記小説を書きました。
ノンフィクション、ではありません。あくまでも実在の人物をモデルにした「戦記小説」です。

これは「台南航空隊撃墜王物語」という副題の通り、
「台南空の五人」を軸に、史実を織り交ぜて描かれています。
先日「時には昔の話を~台南空の五人」という項で、
高城氏は高塚飛曹長の言ったこと創作したのではないか、と書いたのを覚えておられるでしょうか。
高城氏はこの著書で史実を正確に伝えようとしたのではなく、
あくまでも、情報を自分の解釈で色づけした「小説」を書いているのです。

なぜか。理由は一つです。
「その方が面白いから」

例えば、このイモ掘りについて、高城氏は、端々に自分の解釈による言葉を付け足しています。
吉田表現の「物の壊れる音がした」の後には、こんな風に。

「やったな!」という風に一瞬、皆が顔を見合わせたとき

これは、ちょっとした表現ですが、
「皆はしょっちゅう笹井中尉がこのようにしているのをこれまで目撃しており、
『またやったな』ということをお互い眼で確認し合った」
という印象操作されてしまう文章です。

そしてさらに、決定的な表現として

この当時の笹井中尉は、酒を飲むとすさんで<イモ掘り>をすることが度々あり、
酔後に悔いを残すのであったが、周囲の者たちは、何故か中尉のこの乱行を責めなかった。
(中略)
笹井中尉自身は、自分がなぜそう荒びるのか、明確には理解できていなかったらしい。

と、大胆にも言いきってしまっているのです。
たった一回の目撃証言をもとに、その心情にまで筆を進め、脚色、水増ししたといっていいでしょう。

繰り返しますが、これは小説、です。

この高城表現によって、すっかり星一徹と同じように「笹井中尉はしょっちゅうイモ掘りをやっていた」
という刷り込みをさせられてしまい、さらにそれを伝承するライターも現れます。

森史郎氏の「攻防」には、このイモ掘りについてこのように表現されています。

笹井醇一中尉の「イモ掘り」が始まったのだ。

いかがでしょうか。
初めて起こることを人はこのように表現をしません。あくまでも
またいつものイモ掘りが始まったのだ」
と読みとれる表現であることにご注目ください。

つまり、笹井中尉の名誉のために言うと、このときのように「手荒く」イモ掘りしたのは、
たった一回のことだったかもしれない(もちろん、でなかったかもしれませんが)、
たまたま吉田氏に現場を見られてしまい、おまけに本に書かれてしまったがために、
こうやっていつの間にか回数まで創作されてしまった、という可能性が大だということです。


星一徹の名誉を学者が回復したように、ここでエリス中尉がこの仮説をここに発表したいと思います。

 

・・・・・・・ところで。
「思いコンダラ」の曲調って、今聴くと軍歌そのものだと思いませんか。

 

 

 

 


Someone's Junk, Someone's Treasure

2011-07-28 | アメリカ

買い物って楽しいですよね。

しかし、買い物の如何なる部分を楽しく思うのかは人によって様々でしょう。
中村うさぎさんのように皆が観ている中、シャネルやエルメスの店で
「これいただくわ!」
とカードを取り出して注目されることそのものが好きな人も(少数ですが)いるでしょうし、
「正価のものがこれだけ安く買えた!」
と達成感を感じる人、あるいは自分の生活がそれによって「充填された」と満足する人、
買い物そのものが目的で、家に帰って品物の山を眺めてため息をついて後悔する人。

消費行為はそれだけで各々の人生とのかかわり方の根幹にもかかわってくるのです。

かく言う私ですが、
「必要な買い物」
「必要ではないが楽しみとして行う買い物」
の間には、きっかりと線を引いて臨みます。

後者については「ゲーム」そして「出会い」だと割り切ります。
品物を手に取りながら、自分の現在のそのアイテムについてのかかわりや、必要度、
今持っているものとの兼ね合い、あるいはコストパフォーマンス、(この値段に価値が見合うか)
そう言ったことをめぐらせつつ、
「買う」
「買わない」
の脳裏での攻防戦を行うわけです。

ですから、たとえ1000円以下のものであっても、買うかどうかに異常な決断を要するのです。
そう言う意味ではわたしは非常な「ケチ」であるともいえるでしょう。

余談ですが、不肖わたくし、いままでこのブログでファッション好きを自認してきました。
しかし、新作のコレクションをデパートや銀座のンモトマで値段も見ずに買っている、
と思われては困ります。
はっきり言いますが、そういった買い方はお金が余っていてセンスの無い人のすることです。

流行りのものを人に先駆けてそれも本店で手に入れる、などと言うことは、
芸能人やファッションを仕事にしている人ならいざ知らず、そこに付加されている
「雰囲気」「新作」「ブランド」のための代金は、一般の生活を営むものには
あまり必要のない、いわば「かなり無駄な」出費ではないでしょうか。

というわけで、高いものを正価で買うことと「お洒落」の間には何の関係もない!と、
ここに断言しておきます。

さて、アメリカにくるとこの「楽しみとしての買い物」をします。
買わなくても見て歩くだけで十分楽しめてしまうのです。
いいものを安く探すのもゲームのような面白さがありますが、何より
「え、これ誰が買うの?」というものを見つける喜びが・・。
(これは『買い物』とはいいませんけどね)

そう、とんでもないものがとんでもない値段で売られている国、アメリカ。

Someone's Junk, Someone's Treasure
(誰かのゴミは別の人の宝物)

いかに価値のなさそうなものでも、それに価値を認める人は何処かにいる、
この言葉が日本よりぴったりくるモノにお目にかかれるのです。

一体だれが買うんだろう・・・・。
絶句するようなセンスのもの、壊れて使えないもの、そういうものも、
ちゃんと値段が付けられて売られています。

今日は、モールにある「アウトレット靴店をご紹介しましょう。
 

いちいちサイズを店員さんに言いつけて持ってきてもらわなくても、ここでは
各サイズがこのように手にとれるところに置いてあるので、実に気楽に靴が選べます。
自分のサイズが在庫にあるかどうかも瞬時に分かるというわけ。


可愛いマドラスチェックのサンダル。
元々の値段を書いてくれています。
ここにはとんでもない高額商品はありません。
  
せいぜいここでの「高級品」は左のワイツマンやコーチくらい。
でも、どちらも日本では高いですから、もし気にいったものがあればお得です。
ワイツマンは日本ではやたら高く、黒いブーツは日本で正価9万円。
先日ネットで5万円くらいになっているのを見つけました。
そしてここでは330ドル。
ボストンは消費税が高いですから、2万8千円くらいでしょうか。
ピンク柄のコーチのレインブーツ、可愛いですね。

ルブタン風「セクシーかなんかしらんが誰が履くねんこんな靴」、
日本にも進出している良心的なお値段のスティーブ・マッデン。
しかし、こういうお安い値段で作られていると、残念ながら合皮で、固いんですよね。
この過酷なデザインの靴は、20分立っていることすらできますまい。

そして、ここでのSomeone's junkをご紹介しましょう。まずは、


だははは。
これ何?靴?それともラマ?
写真を取るために履いてみましたが、そのまま置いていたらペキニーズが二匹?
ここボストンは極寒の地なので、趣味はともかく確かに冬場役には立つに違いありませんが。

そしてこのお店のSomeone's junk大賞発表。
なんか違うジャパネスク。誰が履くねん。
もともといくらの靴かは知れませんが、ここで50ドルで売られていて、さらに後ろの赤札によって
50パーセント引きになっても、だれも買わず山積みになっているという・・・・。
アメリカでは、ティーン向けに「原宿」というブランドがあって、例えば

このようなセンスのものを「キュート」といって買う女の子もいるわけですが、
なんだかこの路線を狙ってはずしたって感じのデザインですね。
見ようによってはキッチュですが、そう言う方にとってはこれもtreasureってことで。

さて、勿論ここでは何も買わず別のお店に行って、この日さらに
「someone's」グッズを見つけましたよ。
 取っ手、取れてます。
おまけに、いたるところに修復不可能なシミ汚れが。
ところが驚くなかれ、このバッグ、こんな状態なのに万引き防止タグが付けられていて、
驚くなかれ、600ドル(5万円くらい?)するんですよ。
何となればこれはハイエンドブランドの「ジミー・チュウ」のものだから。
おそらく正価20万円くらいするのでしょうが、金具もなくなっているし、
鞄職人でもない限り、修復することはおそらく不可能。
てか、日本ならまずこんなもの店頭に出ませんよね。
でも、ここに次に立ち寄ったとき、無くなっていたので、この値段でも誰かさんにとっては
treasure」となったようです。よかったよかった。



そして同じ場所で60ドルで売られていた謎の黒い折り畳み傘。
どうみても日本で500円レベルなのに、仔細に点検したところ(暇だなあ)
この外カバーがなくなり、御丁寧にも先のプラスティックが割れているこの傘
プラダのものらしい。

洋服ブランドとしてのプラダは大好きです。
気にいって手に取ったものがプラダである確率は非常に高いというくらい。

しかしこのブランドって、バッグが今一つなんですよね。
うっすらと「眉唾な感じ」、特にこういうナイロンものに関しては
「いや、それ原価100分の1でしょ?」っていううさんくささがありますよね。
それがこの傘にいかんなく現われています。
ロゴがなければただのダサい傘。ブランド名と言うベールを剥がせば、
後には500円の実用傘以外の価値はほとんど何も残らないというこの現実。

アメリカ人は実質的なのでこんなもの売れるはずがないと思って次にチェックしたら、
こちらも売れてしまっていました。

「誰かにとってのゴミ」も必ず「誰かの宝物」になるので、こうして売られているというわけです。


というわけで、さんざんこの日も笑わせていただいたあげく何も買わずにモールを後にしました。
今日は「戦わずして大勝利」ってことで。
・・・・・ん?

もしかしたらこの攻防戦、買ったら負け?




潜水艦イー57降伏せず

2011-07-25 | 映画

     

池部良という俳優さんが亡くなったとき、一般の有名人の死とは少し違う感慨を持ちました。
実は父の若いころにどことなく感じが似ているので、他人のような気がしないのです。
身内を二枚目映画スターに似ているなどと実にあつかましいのですが、亡くなってもいることですし、
そのあたりは子の欲目に免じてご容赦ください。


池部良。
圧倒的に海軍軍人姿の似合う美男俳優のひとりであったとは思いますが、
それでは演技は上手かったか?ということになると、非常に微妙です。

若い時に出ていた映画は皆が棒読みの様にしゃべる時代だったせいかとも思ってみましたが、
ルーカス&コッポラプロデュースのアメリカ映画MISHIMA(このDVDも手に入れました)などでも、
もうすでにこの頃中堅と言われる頃なのですが、この頃ですら演技が生硬に思えます。

しかし、この人が画面に出ると文句なしに画面が華やぎ他を圧する。いわば役者として華がある。
スターではなく、「スタア」の風格です。
「名優必ずしも演技巧者ならず」というのはこの人のためにある言葉ではないでしょうか。

さて、この映画、1959年作品。
監督は「連合艦隊」の松林宗恵。脚本は須崎勝彌の黄金コンビです。

昭和20年、太平洋戦争の敗戦色濃くなった夏、
河本少佐(池部良)を艦長とするイ号潜水艦57(実在するがこの話はフィクション)は、
早期講和を計画する大本営の密命を受けて、
某国外交官親娘をアフリカ沖のカナリー諸島まで送り届ける任を負う。

「和平工作などまっぴらだ」
とその任務を渋る河本少佐。
それを説得するのが、またまた登場、戦争映画といえばこの人、
藤田進(この人も演技は実に微妙ですが・・・・・でも大好き)。
司令は言わずと知れた大河内傅次郎。安心の配役です。

この「和平など望まない、軍人として死ぬことをより選ぶ」
という河本少佐の覚悟は、映画のラストへの伏線となっています。

この艦にはいかにもインテリがよく似合う、軍医役の平田昭彦、そして熱血士官の三橋達也、
と、松林監督お気に入りの「海軍軍人」が勢ぞろい。

船に女は乗せないのがジンクスだった、と書いた直後に、これはいかなることか、
この映画のもっともセンセーショナルな(映画的には売りの)部分は
「男ばかりの潜水艦に何故か若い外国人娘が乗ってくる」
ということ。
このフランス語をしゃべる親子が何国人かは映画では語られません。

それにしてもこの娘、ミレーヌがまたなんだか演技が輪をかけて微妙な、と思いきや、女優ではなく
「当時の駐日イタリア外交官の娘」であったことが判明。
つまり、全くの素人起用だったのです。

このあたりに当時の日本映画のお財布事情が透けて見えます。
1959年ごろといえば、
「ハンドルの値段は?」「180円」「してそのこころは」「ドル(360円)の半分」
というジョークがあったと言うのをご存知ですか。
天下のハリウッドスターをとんでもない駄作に出演させてしまうという盛大な無駄遣いさえ、
ジャパンマネーの力で可能となった現在(例:ゲイリー・オールドマン@レイン・フォール)
からは信じがたいことですが、
ほいほい外国から女優さんを呼んでくるなんて、当時、ものすごいぜいたくだったのです。
ましてや、日本の戦争映画に出てくれる連合国側女優?を探すのは、いろんな意味で難しかったと。
で、知り合いを探せば元同盟国外交官の娘にちょっときれいめのお嬢さんがいたので、
日本滞在の思い出に出演してもらった、ってことなのだと思います。(たぶん)

日本の映画界も稲川素子事務所の誕生まではまだ四半世紀を待たねばなりません。
この映画を作るのがもうせめて30年後なら、日本にはジュリー・ドレフュスがいましたのに・・。

さて、潜水艦の中といえば、密封された男たちの汗と脂と排泄物とその他いろいろなものが混然一体となり、
きれい好きや潔癖症なんかには気の狂いそうな阿鼻叫喚の世界。
男でもうんざりするこの艦内、ミレーヌはなんと貴重な水で水浴びしたい!とわがままを言いだします。
まあ同じ女性としてこの気持ちはわかるが、そもそも潜水艦に女を乗せるなとあれほど(略)
ついにはヒステリーを起こすミレーヌ。

「誰のために俺らこんな苦労してんだよ!腹立つから水浴び覗いてやる!」

なんて穏やかでない一触即発状態になる乗組員。(辛うじて一人が背中を見ただけ。残念でした)
つか、何のためにこの親子が乗っているのか、彼らにはまだ知らされていないのです。
そりゃモヤモヤしますがな。いろんな意味で。

そうかと思えば暑さで病気になった彼女のために氷まで作らなくてはならなくなります。
そのためには貴重な水とともに一切クーラー送風を犠牲にしなくてはならないのですが、
軍医の中沢中尉を始めとした皆の献身的な努力により、氷を得たミレーヌは回復します。

この中沢中尉が・・・・
何度もしつこいようですが、10年若ければ笹井醇一中尉役をして欲しい俳優ナンバーワンの
平田昭彦に実にはまり役です。
中沢軍医はミレーヌ親子につきっきりなので日本語より英語の台詞の方が多いほどです。
因みに平田、池部共に日本語より英語の方が演技できているような気が・・・おっと。
平田昭彦は優しく思いやりがあり、英語でジョークもさらっと言ってしまうソフトな知性派でありながら
「しかしわたしは帝国海軍の軍医です」
と、最後の一線できっぱりと軍人として死ぬ覚悟を見せる、という実に男前な役をしています。

最初は「下品で野蛮な日本人なんて」と人種差別丸出しのミレーヌ、
病気の辛さで「死んでしまいたい」と口走る彼女を叱責する中沢軍医や、命を捨てて艦を守る乗組員の姿、
なかでも自分のためにに貴重な卵を届けてくれた若い水兵が、
敵発見のための潜航の際避退できず、艦上に脚を挟まれたまま壮絶な戦死をするのを見て、
その考えを改めるのでした。

河本少佐はそこで初めて艦の任務を明かすのですが、
やはり「和平工作」という任務は、皇国の勝利を信じ死を覚悟している皆には全く納得いきません。

さて、このイ―57の無線が暑さで一週間壊れて大本営との連絡が取れなくなっている間に、
ポツダム宣言が受諾され、この任務は全くの無駄となってしまいます。
帰還を命じられるも、総員命を捨てる覚悟でいた河本少佐以下乗組員はそれを拒否。
ミレーヌ親子を敵に渡した後、決死の攻撃を決意します。

そして河本少佐は艦内に「第二種軍装に着替え、総員集合」を命じます。

そう、松林監督が「連合艦隊」で沈みゆく大和の有賀艦長に史実とは違う第一種軍装を
「死に装束として」着せた、と言う話を覚えておられますでしょうか。
監督の旧軍軍装姿にこめる思い入れがここでもいかんなく発揮されます。

着替えて甲板に上がって来た先任将校の三橋達也(髭を生やしたバンカラ風士官)に、
「馬子にも衣装だな」
と冗談を言う河本艦長。
海軍軍人同士なら、二種軍装姿を見るのがこれが初めて、ってわけでもなかろうに、
わざわざこのシーンを作った監督の真意が・・・・・・。泣かせます。

そして、この映画のもっとも(個人的に)しびれた本日の画像シーン。
総員を集めた艦長は、通信将校に「只今から言う文を打電せよ」と命じます。
司令部に向けて

「伊号第57潜ハ任務ノ解カレタ事ヲ確認シ
只今ヨリ敵駆逐艦ト戦闘ニ入ラントス
全員士気旺盛ニシテ ソノ責任ヲ 全ウセリ
伊号第57潜水艦長 ヲハリ」

続いて敵艦隊に向けて

「日本潜水艦伊57ハ 降伏セズ 戦闘ヲ 開始スル」

もとより生きて帰る気など全くない戦闘。
なぜ、このような不合理な戦いにあえて命を賭けるのか。
しかしながらその理由や意味など彼らは問うこともなく、自らの命を日本人以外から見れば
ファナティックとしか理解されない一途さの中に投げ出してしまう。
最近の戦争映画が「命の重さ」や「戦争と言うものの残酷さ」を全面に謳っているのと違い、
(例:男たちの大和、君を忘れない、今君のためになんたら、ローレライ、出口のない海etc)
このころの戦争映画は命や戦いの意味を平時の価値観に立って問うことをしようとしません。
おそらく実際の彼らがそうであったように。

あえていえば、最近の戦争映画には決定的に無い何かが、ここにはあります。
そして、さらに言えばこの頃の戦争映画の方が結果として訴えるものは大きく、なんといっても
戦争映画として、純粋に面白いのではないかと思うのですが。
 


潜水艦でありながら洋上をまっすぐに進み敵駆逐艦に向けて体当たりしていく伊57。
純白の第二種軍装を血に染めて、中沢軍医も、志村大尉(三橋)も、次々と斃れていきます。
伊57の体当たりを防ぐためにミレーヌ親子の乗った駆逐艦が立ちはだかり、
河本艦長は絶叫します。

「どけーっ!どいてくれ!」

彼らが死を引き換えにしたものは何だったのか。
その数日後原子爆弾が投下された、という文章でこの映画は終わります。

「潜水艦イー57降伏せず」は、その死が全く無駄でかくのごとく戦争は無慈悲なものだ、
という角度から彼らの戦いを描写してはいません。
そこに覗えるのはただひたすら母国に、そして何よりも己の信念に殉じる男たちの生き方。

「公」に死ぬため白の第二種軍装に「私」を包み隠した河本艦長、いや池部良。
まさに総員一丸、人艦一体となって敵に突入していく護国の鬼そのものと化しています。

軍人を演じるのに小賢しい演技などいらん!
松林監督が想いを込めた第二種軍装が似合っていれば良し!
したがって池部良は最高の軍人俳優である!

って三段論法で独断してしまいますがいいですか?
ただし戦争映画以外での演技については当方関知せず。



潜水艦イ-57降伏せず - goo 映画


アメリカのビフォーアフター番組に見るテレビ番組の作り方

2011-07-22 | アメリカ

アメリカに来ると、テレビを見ます。
日本では決して見ない(持ってないし)テレビを、こちらなら見る気になる理由は唯一つ。
「面白い事をやっている番組が一つくらいはどこかにある」から。

事実上は100近いチャンネルがあって、そのチャンネルは一日中ほぼ同じ傾向の内容を放送しています。
スポーツ、ニュース、移民のためのスペイン語チャンネルは勿論のこと、

「映画ばかりのチャンネル」
「SF、ミステリー映画専用(Sy-Fy)」
「歴史モノばかり(ヒストリーチャンネル)」
「子供番組専門(PBS)」「アニメ専門(cartoon)」
「お天気や災害関係ばかり(ウェザーチャンネル)」
「料理、食べ物(フードチャンネル)」「旅行(トラベルチャンネル)」
日本でも観ることができるようになった「ディスカバリーチャンネル」は、「ナショジオ・チャンネル」
とともに、自然科学系の番組です。

そして、通販チャンネルや芸能チャンネルとともに、主婦が好きなんだろうなあと思える、
「家を買ったり、リノベーションしたり、ということばかりショーにしているチャンネル」。

今日は、この中からTLCの「MOVING UP」という「お引っ越し番組」を紹介します。

アメリカ人が家を購入するときは、日本のように新築をすることはあまりなく、
大抵年月を経た家を自分なりに作り変えていく方法を好みます。
この番組は一口で言うと、ビフォーアフターものなのですが、いかに変わったかはポイントでなく、
引っ越しした人が、以前自分の住んでいた家が新しい住人によって作り変えられた様子を見て、
あれこれ(文句を)言うのが番組のテーマ
、という妙な企画です。


実際に画像で説明していきます。
登場する転居家族は三組。まず
ある家から引っ越すおじさん。

おじさんの家に引っ越す夫婦。

夫婦の引っ越したあとの家に引っ越すカップル・・・・ん?

男性カップルです・・・・。

この辺りがアメリカですねえ。
年寄りの白人男性と若い東洋人男性のゲイなのですが、当たり前のように「夫婦」として
番組に出演しています。
誰もゲイとかホモとか口にしません(当たり前か)。
この番組は、引っ越しと家の改装を中心に、各カップルの人間模様も時おり垣間見せる、
というよくある作りになっているのです。
このゲイカップル、W(ダブリュー)とイアン(じーさんの方)は、二人の馴れ初めを語ったり、
ノーマルな?夫婦のキーシャとイブがペンキ塗りの時にこういうマネをして

いちゃいちゃするというような愛情表現は残念ながら見せてくれませんでした。
しかし、狭いアパートから引っ越すにあたり、イアンはWに、すっぱらしいプレゼントをします。
 

なんと!ピアノですよ。
左画像のキャプションを見てもらえば分かりますが、ピアノが欲しくてたまらなかったWに、
イアンがこの際大盤振る舞いプレゼント決行、と言うことのようです。
うーん、この二人の関係、一体何なの?イアンって、仕事は何?
視聴者はそんなことも思いながら「覗き見」する気分でこういう番組を見るのです。(たぶん)
「じゃーん!」といってピアノを誇らしげにWに贈呈するイアン。
熱く抱擁するかと思ったら、そのシーンは自主規制によりカット(たぶん)。そのかわり

喜んでさっそく演奏を披露するW。なかなかお上手でした。

さて、番組は

1「自分が長年住んでいた家を思い入れたっぷりに紹介」
2「いよいよお引っ越し、胸キュンの日」
3「新しい家を渾身の力を込めてリノベーション」
という順序で進んでいきます。

ご存知と思いますが、アメリカの家は壁を塗り替えることをよく家人が行います。
これがやりたくて仕方がない、と言う人もいるようで、ホームセンターには実にバラエティに富んだ
壁塗り用の便利グッズと、勿論気の遠くなるような色のバリエーションがあります。
そして、彼らはペンキ塗りのみならず、多少の工事なら自分でやってしまいます。

 

 

前住人の残して行った棚を撤去したり、暖炉まで作り変えてしまっています。
ところで、三枚目画像で
W?学校に行っているよ」
ってイアンが言っていますね。(映っているのは床の張り替えに来た知人の大工さん)
未だ学生なのかW
いやそれとも学校の先生か?
こんなに年が離れていて、本当に愛はあるのか?
もしかしてパトロン?それともただの養子?

と、多分視聴者は興味を(以下略)

さて。
このあとインテリアショップで好みのインテリアグッズを買い、カーテンやクッション、ベッドカバー、
全て自分たちのテイストでデコレーションし、各自死力を尽くした改装は終わりました。

ここからがメインイベント。


実はこのショウは、この司会者が仕切っています。
これから、改装済みの新居を、前の住人(キーシャとイブ)に見せ、その様子を録画したのを
見るのですが、ここで「彼らがなんていうか、ドキドキしませんか?」って聞いていますね。
これに対しイアンは「昨日は寝られなかったよ」なんて言うんですが、

WHY?

前の持ち主がどんな感想を持とうが、新しい住人に何の関係があるのだろう?
などと突っ込んでは番組になりません。
これはそういうショウなのです。(たぶん)
 

こうやって真剣な顔で彼らの反応を見るイアンとWの二人ですが、キーシャとイブ、
さすが名は体を表す。
KYです。

二人が選んだ「エインシェント・アジア風」のインテリアを画像のように
「わからないねえ。古代の伝統、っての?wwww」とか
(この二人はWとイアンを見ていないので、Wが東洋人であることは全く知らない)
「まったく気にいらないわ。私たちの好みとは全然違うし」「ヘンな色の壁」
とか、クサしまくり。
さすがに二人はムッとして?
「好みが違うから改装したんだよ!何言ってるんだこの人らは」
(キーシャの口マネをして)「気にいらないわ!って、もういいから俺たちの家から出て行けよ」
「この旦那はかみさんの言うことをそのまま言ってるだけだな(尻にひかれてるんだきっと)」
とか、こっちも言いたい放題。

でも、この「カゲ口言い放題」が、えてしてアメリカのテレビでは売り物になります。
皆いい人、悪口も無し、めでたしめでたし、は視聴者にすぐ飽きられてしまいますから。
これに限りませんが、アメリカのショウはワンパターンの繰り返し。
人が変わるだけです。
しかし、実にいろんな人が次々と出てくるのでそれだけで番組が続いてしまうんですね。
日本のように面白いことを言うために雇われた「ひな壇芸人」などおりません。
面白い一般人はその辺にいくらでもいるのです。
たとえ面白くなくても、覗き見趣味だけで十分楽しめてしまうわけです。
(低俗な興味には違いありませんが、この覗き見趣味こそ大衆を引きつけるポイントかと)
だからこそワンパターン番組にはが必要となってきます。

というわけでこのKYはやらせですね。(確信)

そして今度はそのキーシャとイブの渾身のリノベーションによる家を、前の住人のおじさんが見る番です。
人のインテリアを貶しまくったくせに、この二人はおじさんが何を言うかビビっています。

 

ところが、ディレクター的にはマズーなことにこのおじさん、「実にいい人」。
人の気分の悪くなるようなことは決して言いません。


10点満点で?と聞かれて「うーん・・・6・5かなあ」と言うくらいですから、
あまり気に行っていないのは明白なんですけどね。
このおじさんのお気に入りだった部屋のペンキの色を、KY夫婦は
 

趣味悪うー!と言ったり、まるでピーマンの色じゃーんと笑っていたわけです。
(自分が同じような色の服を着ている件はスルー)

このピーマン部屋のアフターは右画像。
見かけによらず派手色好きらしいおじさん、かつてのお気に入りの部屋を地味色に変えられてしまい、
ただ悲しそうに「なんだかなあ」と煮え切らないコメント。
まあ、このおじさんも実のところ
「後の住人がどう部屋を変えようとその人たちの自由だが・・・」
って思ってただけなのかもしれませんが。

そこでテレビ的に美味しく終わらせるのが仕事のこの司会者、
「しいて言えば、豆をすりつぶしたベビーフードの色・・・・って感じ?」
と善良なおじさんに無理やり悪口らしきことを言わせて
どんな味だよ!」「オホホホ!」
という、しょーもないオチをKY夫婦に(なんとか)つけさせています。
許さん。
・・・ってそういう話じゃないんだけどさ。

テレビのやらせはここでも必要悪ってことのようですね。

 

 


士官候補生東京見学行状記

2011-07-19 | 海軍

海軍兵学校では遠洋航海に出発する前に東京にしばらく滞在し、
これが一番の目的である皇居遥拝と陛下拝謁、その後東京見物を許されていました。
今と違い簡単に長距離の移動などできなかった時代ですから、
地方出身の候補生にとって産まれて初めての東京は見るもの聞くもの珍しく、
文字通り「お上りさん状態」であったと思われます。

東京出身の級友を案内に立ててあちこちを見て歩くわけですが、銀座は特に皆の要望が多かったそうです。
(『銀座の達人』であったとされる笹井候補生はおそらくこのとき大活躍だったのではないかと)

「東京市中見学」と名付けられたこのコースは、
ほとんどが地方出身の候補生たちのために海軍省が企画したものでした。
そのコースとは、上野博物館、動物園に始まり、海軍館、東郷神社、明治神宮、靖国神社等々。
「お上りさんコース」です。
何日かに渡ってその日程は組まれており、おおむね午後三時には終了して現地解散。

修学旅行ではないので皆が一緒に泊ることはなかったのですが、
おそらく宿舎も用意されていたのではないかと思われます。
しかし、証言によると、関東出身の候補生の実家に、数人単位で転がり込んでいたようです。

昭和13年のこと、その年卒業して遠洋航海を控えていた66期の某氏は、
東京の自宅に数人の級友を泊め、そのメンバーで勝手知ったる銀座に繰り出しました。
今でもありますが、銀座天国(テンプラ屋)の二階の座敷でテンプラで一杯やっていると、
天国の女中さんが血相を変えて駆け込んできました。

「あなた方と同じ短い上着の海軍さんが、
お向かいの銀座パレスでボーイさん相手に大変な剣幕で・・・・
早く何とかしてください」

短い上着の海軍さん。
そう、「川真田中尉の短ジャケット」でお話ししましたね。
これこそ候補生の象徴、短ジャケット。

銀座パレスというのは、当時のカフェーだそうです。
カフェーというのは、いろんな解釈がありましたが、ここは一般にいう西洋料理の店、
今の「カフェ」に近い営業形態だったのではないかと思われます。

彼らがおっとり刃で駆けつけてみると、何と同級生のY候補生ではありませんか。
お酒も入って真っ赤になって怒っているY候補生の言い分はこうです。

「このボーイ、俺が田舎者だと思い馬鹿にしとる!
ライスカレーを食わせろと注文しとるのにできませんと抜かしよる。
表の看板に何と書いてあるか!西洋料理と書いてあるではないか!
ライスカレーは西洋料理ではないのか!」

はい。ライスカレーは、西洋料理ではないのです。
あなたたち海軍さんが発明した(も同然の)日本料理なのです。

という返事を誰もしなかったのは仕方がないこととして、この候補生がここまでキレたのは、
花の東京のしかも銀座で「できません」とボーイに言われたことに地方出身者の引け目から
ついカッとなって過剰反応してしまったのでしょうね。
傍目にはスマートな海軍さんですが、都会に「あがって」いたのかもしれません。
同級生は
「ここは銀座でも一流のカフェーで、ライスカレーを食べさせるところではない」と、
一生懸命説明してやっと納得させ、ボーイさんたちにチップを渡して連れ出しに成功しました。



さて、自宅に同級生を泊めることになった家庭は、やはりそれなりに一生懸命接待をします。
この候補生宅では、家族総出のうえ、近所の国防夫人会にまで応援を仰ぎ、
交代で食事などの準備に忙殺されました。
その婦人会の主催で一度は料亭での宴会が催され、7人の候補生のうち三人が酒の勢いで
FU一枚となり、料亭の池に飛び込んで体操を披露しました。

この「酒に酔うとFU一枚云々」の話は、蛮勇のなせる逸話としてあちらこちらに残されていますが、
同級生の家の妙齢の妹たち(三人)と母上にFU一枚の酒火照りの身体を団扇で煽がせた
某候補生、というのに、エリス中尉は蛮勇くん大賞を差し上げたいと思います。(本日画像)

そして、候補生といえどそこは好奇心の強い若い男の集団。
必ずこういうことを言いだす奴が現れても不思議ではありません。

「江田島のクラブで約束した、念願のチングを見学させろ」

チングとは海軍隠語で、ウェイティング、つまり待合、お酒を飲んでついでにちょっとドキドキ、
みたいなこともできるかもしれない、みたいなところ。
当然ながら少尉候補生に出入りの許されているところではありません。

勿論実家には内緒で一同打ち揃ってチングに繰りこみ、さらにSを数人呼び痛飲に及びました。
連れて行けと強要するやつがいればついていくやつもおり、さらについては来たものの
「憲兵隊に知られたら大変だ」
と一人廊下をうろうろする真面目な心配性君もいるわけです。
どうしても泊まっていくとゴネる一人を引きずるようにして引き揚げた一同ですが、
当然のことながらこれが全員にとって最初のSプレー体験になったということです。

ばれなくて良かったですね。

(因みにこのとき
連れて行けと言った奴=帰らないとゴネた奴=池に飛び込んで体操した奴=団扇で煽がせた奴)


さて、東京市中見学コースと言うのは先ほども言いましたように
地方出身者を対象に行程が組まれていましたから、
当然のことながら少数派である東京出身者にとっては
極めて有難迷惑な時間潰しとしか言いようのないものです。

ならば、東京出身者は別行動、参加自由、とならないのはいかにも日本の組織。
仕方なく皆と一緒にコース見学です。

その日のコースは、よく知っていて、しかもさして面白くもない
海軍館、明治神宮、東郷神社というもの。
何人かの東京出身者は仕方なく明治神宮と東郷神社までは神妙についていったものの、
海軍館見学の段になって我慢できなくなりこっそり途中でエスケープ。
海軍館は地下に「白十字」という喫茶店がありました。

「たりーな」「やってらんねーよ」「何度も来たことあるっつーの」
とそこでコーヒーを飲んでいたら、そこに現れたのは鬼の指導監事、M中尉その他。

「貴様ら、こんなところで何をズべッておるかあ!」

たちまち鉄拳の雨が降ってきました。

でも、このM中尉たち、
自分たちも見学を早く切り上げて一服しようと思ってここに来たのでは?


 


なでしこジャパンの勝利をアメリカで観た

2011-07-18 | 日本のこと

おめでとう!なでしこJAPAN!

たまたまですが、野球サッカーとスポーツをテーマに続けて書くことになりました。
これが書かずにいられましょうか。
日本時間では夜中の3時という試合時間ですが、ここサンフランシスコでは朝8時。
昨日ボストンから移動してたので、ちょうどいい時間でTVを観ることができました。

ドイツに勝った後も日本では
「アメリカは今まで一度も勝ったことがないラスボスだから絶対無理」
と言われていたようですが、ここアメリカでは?
アメリカのスポーツ番組がどのようにこの試合を伝えていたかということを中心に、
TV画面を撮ったお見苦しい写真でお送りします。
この試合の解説は、もと選手の女性、FIFAの関係者、アナウンサーの三人。

この人たちの解説は実に冷静で、しかも公平。
アメリカが点を入れられても日本のアナウンサーのように「ああああ~」
「残念~」
なんて感情的になる瞬間は一度もありません。
「今のフォーメーションは日本がクレバーでしたね」とか、
「どちらのチームもここはしがみついても点がほしいところです」とか、
まさに実況そのもので、スポーツ実況はこうあって欲しいという御手本のような。
勿論、澤選手の急襲をアメリカがしのいだ時は
「何と言うデンジャラスなサワでしょうか、何とかアメリカは助かりました」
くらいのことは言っていましたが。

何が何でもつまらないおしゃべりで時間を埋めることをせず、
特にありがちな「選手の素顔」なんかをだらだらしゃべったりしないのが特によかった。
ただ、何度か彼らが触れたのは
「日本の津波、そしてフクシマの災害」。


「彼女は友人を先般の地震の際、津波で亡くしました」
「彼女の知り合いは福島にいて・・・」
何度かこのような解説があり、わたしも初めて知ったくらいなのです。
それから今回日本チームがかつてのチャンピオンドイツを、それも開催国で破った、
それは驚くべきであるということを彼らは何度も繰り返していました。

アメリカ側については、一度だけアフガニスタンにいる戦闘部隊がみんなで応援している
映像が何故かはさまれました。
オバマ大統領の「観に行けなくてごめんね」というメッセージも紹介していました。

アメリカでは女子サッカーは人気がありますから、選手の素顔をドキュメンタリー風にした番組を作ったり
ナイキなどは彼女らを使ってCMを撮っています。
しかし、国民が「それ一色」になることがないお国柄なので、実に淡々としています。
やっぱり、文明国ほどスポーツをスポーツとして捕える姿勢が潔いのかもしれません。
日本での放送実況が、あまり見苦しいものになってないといいなあとふと思いました。
観ている観客は思いっきりいれ込めばいいんですけど、実況にあからさまに応援されると
あまり敵国側としてはいい感じしませんからね。


延長30分で「すかー」って感じに入れられたときのゴール寸前。
このときは、なぜか日本選手の足が止まっているように見えていたので、
なんとなく「やっぱり入れられたか」って感じでした。

倒れた選手に手を差し伸べてからプレイに戻る澤選手。
かっこよかった。


1対1の同点に追いついたときの宮間のゴール寸前。
 
同点に追いついたときの澤アニキの雄姿。
こちらのアナウンサーも澤選手とGK(とくにPK戦での)を絶賛していました。
フリーキック。
レッドカードが出たとき「ああーもう駄目かも」って思ってしまいましたが。
入れられても入れられても何となくふわっと入れ返して、
全然彼女らは精神的に落ち込む瞬間がなかったんですね。
波に乗っているときって、こんなものなのでしょうか。
このキックも実に危なげなく防いでいましたね。
そして、PK戦二点目先取の瞬間。 
愕然とするアメリカ選手。この人きれいですよね。そういう意味でも人気があるようで
「結婚してくれ!」と写真付きのプラカードを持っているお調子者のファンがいましたよ。



この「信じられない!アメリカに対して」と言う字幕は、はからずも
常勝で、日本には今まで一度も負けたことのないアメリカが負けたことに、
素直にびっくりしている様子が現れています。
しかし、監督のインタビューは


「我々は少しのミスはあったものの、決して出来が悪かったわけではない。
しかし、それ以上に日本が頑張ったということだ。
選手たちが実に信用できる(画像部分の台詞)プレイに終始したということだ
ほんの小さな違いがこの結果を生んだ」というもの。そして、



ワムバック選手(キャプテン?)は
「勝ちたかった。私たちはいいサッカーをしたと思っている。
決勝戦に相応しい試合だった。日本選手はどんなときも決してあきらめなかった。
日本の人たちは彼女らを誇っていい。心からおめでとうを言わせてもらう」
というこちらも実に男前なコメントを残しておられます。
日本選手はあきらめなかった、と二回繰り返して言っていました。
(この人も凄く人気がある選手です。
ワムバックはプレジデント!というカードをあげている観客がいました)

そして、解説者は
「我々は今まで日本チームを『小さなサッカーをするチーム』だと思ってきた。
しかし、その小さなサッカーで彼女らは世界一をつかんだ」


そして解説の女性は「オメデトウゴザイマス」と日本語を披露。
男性司会者に「意味は?」と聞かれて、
「もちろん、おめでとうってことよ!」となでしこの勝利を讃えてくれました。

そうそう、そう言えば試合の途中に
「彼女らのニックネーム、NADESHIKOは、PINK FLOWERのことだそうです」
という紹介がありました。
しとやかな日本女性のことを例える花だから、という紹介まではしていませんでしたが・・・。
だいたい、しとやかに相当するぴったりな英語って、無いように思います。
Graceful,modest,gentle,このあたりの混合かな。

もしこういう意味だとアメリカ人が知ったら
「なぜサッカー選手のニックネームが・・・・?」って思うかもしれませんね。


勿論こちらでは表彰式を放送しましたよ。
日本ではわざわざカットしたそうですね。

 


Take Me Out To The Ball Game

2011-07-16 | アメリカ

ボストンの某校で夏季キャンプに参加して二週間目。
いつものドロップオフ(車でエントランス前に子供を落とすこと。スタッフが迎えてくれるので親はそのまま走り去る)
の場所がいつもと違う雰囲気。
なんだかレッドソックスのユニフォームを着たお兄ちゃんがテンションハイでお迎えしています。


「な、なにこれ?場所間違えたのかな」
そこでふと気づけは、このような看板が。
そう、この学校では今週からこの
「レッドソックス・サマーキャンプ」が開催されるのでした。
長年この学校のキャンプに参加していますが、どうも今季初の試みで
「本物のレッドソックスの選手だかコーチだかの関係者の指導を受けて
君も明日のレッドソックスプレイヤーを目指さないか?」
という趣旨のものが始まったようです。
息子のキャンプはこの派手―なお迎えの向こうでいつも通りのドロップオフでした。

この緑色の物体は、レッドソックスのマスコットです。
アメリカのこの手のものって、どれもセサミストリートに見えてしまいますが、これなんだろう。
カエル?
どうやらワリーというらしい。
(以下わりーわりーというシャレ自粛)
お母さんが無茶苦茶喜んでます。
このキャンプに参加させるからには、親も熱心なレッドソックスファンでしょうからね。



何年か前松坂投手がレッドソックス入りしたとき、スポーツ用品店で松坂大輔人形を見つけました。
今ならネタのために絶対購入するか写真にこっそり撮ってブログにアップするのですが・・・・。
それは誰にも似ていない謎の東洋人の人形でした。
これは野茂投手人形のデザインをそのまま流用したと言われてもおそらく納得したでしょう。
髭を生やしたアメリカ人を見たら「バースや!」と言ってた関西人みたいなノリだったのかも。

当時地元のスポーツ紙が、でかでかと松坂選手の大アップ写真を表紙に載せてるのも見ましたが、
何しろボストニアンのマツザカに対する期待たるや凄いものだったようです。
ボストン響の常任を長らく小澤征爾氏がつとめていたこともあって、ボストンの人々は
「日本」に対して特に親近感を持っているらしいこともうすうす感じました。

そういえばシアトルに旅行に行ったときパーキングの料金所にいたおじさんが
「おお、日本人か、昨日イチロー見た?見てない?凄かったんだよおお」
と声をかけて来ましたっけ。
スーパースターこそがその国の印象アップに多大な貢献をしていると感じたものです。

アメリカにいると、嫌でもこのキャンプのようなものを目にしたり、このように話しかけられ、
野球がアメリカの文化に占められる大きさを意識せざるをえません。


このキャンプ、指導者のほとんどは勿論二軍選手などではなく、おそらくアルバイト。
おそらく何人か、球団関係者が混じっているのではないかと思われますが、


他のひょろひょろした若者たちと少し違うたたずまいの貫禄のある人を発見。
ちょっと年配のようだし、何の根拠もなくこの人を勝手にレッドソックス関係者と認定。
二軍コーチってとこでしょうか?

馬鹿もん!これは、あの有名なジミー・ドゥーガン(←適当)ではないか!
っていうことはないかな。

ジミー・ドゥーガンで思い出したのですが(自分で適当に思いついた名前で思い出すという)
ジミー・ボートンっていう大リーガー、知ってます?

1939年生まれのピッチャーでニューヨークヤンキースなどに在籍し、アメリカ人であれば
野球に詳しくなくても名前くらい知っている、という、日本で言えば落合選手ってところでしょうか。
野球に詳しくない日本人であるところのわたしは勿論聞いたこともない名前でしたが、
あるパーティーでジム・ボートン夫妻と同席したことがあります。
また理由はいずれ書くこともあろうかと思いますが、911の起こった後のサンクスギビング、
ニューヨーク州の田舎の宿での出来事でした。

その911でがれきの撤去にそれこそ死ぬ思いで従事している消防士たちをねぎらう食事会を
地元の有志が企画したもので、その同じテーブルに奥様とともに座っていた寡黙な男性が、
ジム・ボートンその人だったわけです。

奥様はとても明るい社交的な方で、私たちにしきりに話しかけ、
近くにあるノーマン・ロックウェル美術館のことなどでひとしきり話が弾んだ後、
「ところで、野球はお好き?」
と聞いてこられました。

これは「大好きです!イチローも頑張っているし」
などという私たちの答を期待して
「うふふ、うちの主人ね、元大リーガーなのよ。ヤンキースにいたの」
「ええっすごい!サインいいですかー」

と言う話につなげるための(後から思えば)伏線だったわけですが、知識もなければ興味もなく、
さらに空気も読めないうちのTOったら、
「好きではありません!」(直訳)
って答えてしまったんですよ。

いかん!いかんぞお!
ここはアメリカ、野球国家。ここで実は野球が好きか嫌いかなんて問題ではないんだ。
「好きですか」と聞かれれば
「あまり詳しくはありませんが・・・・」
くらいソフトに答えるのが会話の潤滑油っていうか、社交ってもんだろうが。
と、横から心の中でTOに突っ込むも遅し。
奥様、がっかりした顔をして、(ごめんなさい・・・<(_ _)>)
「あらああ・・・・・でも、イチローはすごいわよね!」
と会話をそちらにつなげ、場がしらけないようにして下さいました。
いい人でよかった。

そして、その会話を横で黙って聞いていた男性が次の瞬間、司会者に呼ばれて壇上に。

「皆さん!驚きのゲストが今日はここに来ております。
元大リーガー、ニューヨークヤンキースの名ピッチャー、
ジム・ボートンです!」

どよめく会場。ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿

たまげる私たち。( ゜д゜ )( ゜д゜ )

さらに往年の名ピッチャーが、演説の時におそらく必ずすると思われる話のつかみが、
「この間、あるところで、ヤンキースにいた、と言ったんだ。そしたら、
『本当か!俺ジミー・ボートンのファンなんだけど、彼のことなんか知ってる?』
って聞かれちまってさ。HAHAHA」
皆「HAHAHAHA」

だったという・・・・・。
まあ、ジョークとはいえアメリカ人でもこんなですから、日本人が知らなくて当然ともいえますが。

本日タイトルのTake Me Out To The Ball Game、
「私を野球に連れてって」は、まさにアメリカと言う国の野球の歴史を感じさせる、レトロな曲。
しかし、今日もこの曲は必ず試合前にスタジアムにいる全員によって歌われます。
日本人大リーガーの進出以来日本でよくも知られるようになりました。



この子供たちの中から、レッドソックスのスターが生まれる(かもしれない)ころもきっと、
この歌は歌い続けられているのです。

このキャンプ、息子の「普通のキャンプ」と違って、おそらくかなり遠くから参加している家庭も
あるのでしょう、ものすごい人数の子供たちが気合一杯で集まってきていました。
どこまで「英才教育」をしてくれるのかは知りませんが、
将来のチチロー(イチローの父)を夢見る方は、息子さんを参加させてみてはどうでしょうか。

何、英語が分からない?
あなたがもしまったく分からなくても、このキャンプなら息子さんはきっと全く大丈夫ですよ。
野球の世界に国境はありませんから。
(と美しくまとめてみたけど、責任は持ちません)




 


時には昔の話を~台南空の五人

2011-07-13 | 海軍

「大空のサムライ」ファンならずとも、海軍や海軍搭乗員に興味をお持ちの方ならよくご存知の写真です。
昭和一七年の五月から八月までの間に、ラバウル台南空の基地で撮られた五人の写真。

これは英語で書かれたマーティン・ケイデン著「サムライ!」にも掲載され、そのキャプションにはこうあります。

一九四二年、ラエ飛行場、私(坂井)たちが配属されたころの日本の「リーディング・エース」たち。
(後列左より)高塚、笹井、そして私、(前列左より)太田、西沢。
全員が終戦までに戦死、しかし西沢は103機を撃墜しその後日本のトップエースとなった。

いろいろと知ってしまった今となっては突っ込みがいのあるキャプションではありますが、
それはともかく。
戦後戦闘機パイロットを語る上でこの五人を知らない人はいないというくらい有名になったのはひとえに
坂井三郎著「大空のサムライ」の功績でしょう。

今日はあらためてこの五人について語ってみます。

さて、後列左の高塚寅一少尉は、中国戦線からのベテランで、このとき二十七歳。
二十七歳にしては老けていないか、とちらっと思わないでもありません。
高塚少尉は昭和15年、シナ事変における十二空零戦隊の重慶攻撃メンバーでもあります。
中国戦線の航空隊の写真を見ていると、どこにでもと言ってもいいほど、この髭の高塚さんがいます。
明らかに若い時からこの顔です。
おそらく「産まれたときからこういう顔の人」だったのでしょう。

高塚飛曹長にまつわるエピソードは、本当にありません。
どんなパイロットだったのか、どんな性格だったのか、結婚していたのか。
たったひとつ、笹井中尉戦死の日に
「笹井中尉はもう飯を食わんと言ったぞ」
「笹井中尉の箸箱はオレが使うぞ」
と言ったことになっています。
誰かがこう言ったのを聴いたのはカメラマンの吉田一氏。
しかし、それが高塚飛曹長であったということは吉田氏の著書には全く書かれていないのです。

この部分は大変僭越ながら、戦記小説「非情の空」を書く際、作者の高城肇氏によって創作された、
とエリス中尉は踏んでいます。
この写真が有名になったので、高城氏が話を創作上「結び付けた」のではないでしょうか。

昭和17年9月13日戦死。

真ん中はこのブログに来る方なら御存じ、笹井醇一少佐(最終)。

兵学校では熱烈な戦闘機志望で、35期飛行学生の間では飛行技術においてはその飛行技術や
「一見派手だが実は繊細」(同級生談)なパイロットの資質を認められていました。
御存じのように初陣に出てから坂井さんの指南によりその才能を実戦で開花させたというわけです。

従軍画家の林唯一氏は、ラバウル従軍直後、他の従軍記者などからすでに笹井中尉が頭抜けた撃墜記録を持っていることを聴かされており、現地では「海軍航空隊の至宝」とまで呼ばれていたらしいことを書き遺しています。

同級生の回想録によると、彼ら海軍兵学校67期の同級生はそのころ戦地から伝わってくる「軍鶏」(笹井中尉のあだ名)華々しい活躍を称賛し、羨望しそして奮い立ったということです。

昭和8月26日、戦死。享年24歳。

後列右は坂井三郎中尉最終)。
海兵団からの海軍生活を始め、高塚少尉と同じく操縦練習生の38期を首席で卒業。
笹井中尉より2歳上の26歳で、勿論このころはベテランというべき飛行歴です。 
戦後大空のサムライの著者になったことから彼一人が敵機を撃墜したかのようにヒーロー視され、
これも当然のことながら反感も買ったようですが、もしそういうことがなかったとしても
坂井中尉が優秀なパイロットであったことは疑いようもない事実でしょう。
ガダルカナル攻撃の際敵機との交戦に傷ついて長路単独で生還を果たしたことも、
この強靭な精神にしてとことん強運の坂井氏だからこそ可能であったわけです。

前列左、太田敏夫飛曹長(最終)は、46期操練卒。
この操練は、戦争末期に予科練習生の「丙」に組み入れられました。 
操練といえばもともと難関を経たベテランパイロットであるはずなのに、「甲乙丙」の「丙」とは、と彼らには
かなり面白くない改名だったのかもしれません。

坂井氏はその太田飛曹長の飛行技術の巧みだったことを著書で語りながら、一方では
「撃墜王との対談」で光人社の高木肇氏に
「太田はまだまだダッシュなしのAクラスくらいだった」
と語っています。

坂井氏には戦後様々な毀誉褒貶があり、それに対する個人的な反発も逆に驕りもあったでしょうし、
何と言っても一般人ですから、その発言一言一句に歴史的な責任を持たせるのも酷と言う気がしますが、
だからといって戦死してしまった者の飛行技術をこんな形で論評するという坂井氏の発言は、
実に稚気じみているという気がします。

まあ、この「稚気」と言うことを念頭に置いたうえで、太田兵曹長が「誰と比べて」だめだったのか、
「誰と比して」まだまだだったのか、という「坂井氏の言いたいことの真意」に思いをはせると、
言ったことをあたかも「歴史の特ダネ」みたいに捕える必要もないと思うんですけどね。

さて、その太田さん、「報国号」の前で小さな女の子と並んで立っている写真を遺しています。
たとえ坂井氏の著書による「好青年な彼」を語る言葉がなかったとしても、
この立ち姿からはその温厚で人に好かれるその性格は透けて見えます。
この一枚の写真だけで、太田敏夫という人間が分かってしまう気がする、そんな写真です。

昭和17年10月21日、戦死。享年23。

そして前列右、西沢広義中尉(最終)。
以前アメリカで買った「Aces high」(同タイトルのマーチもありますね)
という「アメリカのエース本」でも、かなり大きくスペースを割いて紹介されていました。
日米間における両軍を通じて、米側からはトップ・エースと今でも認識されているためです。
撃墜したとされる敵機数は全く確定できないものの、かれが天才的な戦闘機パイロットであることは
疑いようもないことだったようです。

その「エーセズ・ハイ」によると、ラバウル上空での連合軍にとっての彼らはまさに
「悪魔」(西沢廣義のあだ名。しかし、これも戦後になってつけられたと思われる)でした。
彼らが戦死し、あるいは一線を離れた昭和17年暮れからは、ラバウルでの日本軍は
彼らにとってすでに脅威ではなくなっていた、という記述がそこには見られます。


昭和19年10月26日、輸送機で移動中撃墜され、戦死。享年24。

 


ところで、この五人の写真ですが、どういういきさつで撮られたんでしょうね。

カメラマンが斎藤司令か小園副長に
「台南空精鋭の荒鷲、っていう写真が欲しいんですよ、お願いします」
(笹井中尉に向かって)「じゃ、分隊士、先任と西沢と、そうだな、あと二人くらいで撮ってもらえ」
なんて?命じて、集めさせたのでしょうか。


エリス中尉が台南空の五人を初めて知ったのは、
というより、こうやって海軍そのものにどっぷりと興味を持つきっかけになったのは、
何を隠そう「大空のサムライ」というタイトルのyou tubeを見てからです。

そのころは下士官と士官の違いですら分かっていなかったという(遠い目)

「大空のサムライ」から抜粋した文章でこの五人の紹介をしたにすぎない内容でしたが、
まず、坂井氏を除く全員のあまりの戦死時のの若さに胸をえぐられたような衝撃を受けました。

このyou tubeには加藤登紀子の「時には昔の話を」が使用されていました。
そう、映画「紅の豚」のエンドタイトルに使われた、あの曲です。
飛行機を愛し、空の戦いに身を投じ、あたら若い命を散らして行った搭乗員たちに捧げる
あの映画のエンディングがこの写真の五人の笑顔に重なり、二度目の再生のときには
涙を流していました。

爾来。
この写真を見ると、自動的に脳裏にはこの「時には昔の話を」の再生が始まってしまうのです。

 

ところでこのyou tubeなのですが・・・・。
歌詞の髭面の男は 君だね のところにくると高塚少尉の写真になります。
・・・わざとかな?

 

 

 

 

 

 


三島由紀夫 映画「憂国」

2011-07-10 | 映画

                   

ボストンで「戦場のメリークリスマス」と一緒にこの「憂国」の豪華ブックレット付きDVDを購入しました。
たまたま目に着いたからという理由で何の気なしに手に取ったのですが、
これがなかなか貴重なDVDであったことがその後わかってきました。

三島の遺族(夫人)がこの作品を忌避し、上映の禁止は勿論、
オリジナルフィルムを焼却処分にしてしまったためながらく幻の作品となっていたのですが、
夫人が亡くなってその後、2006年、
平岡家(三島の本名は平岡公威)からネガフィルムが発見されたため復刻し、
ようやく陽の目を見たのです。

海外では三島文学の評価は非常に高く(ノーベル賞の候補に挙がったこともあります)
かつ三島自身も「滅びの美学」を体現する日本の象徴的人物として一般に有名です。
先日記事にした「戦場のメリークリスマス」に彼らが三島的なものを見ていたのではないか
(つまり刀、武士道と死と隣り合わせのエロスといった)、とそのイメージから語ってみました。



太宰治がまたそうであるように、三島文学に対してはその人物人生を含めた熱烈なファンがいる一方、
(わたしが太宰を嫌悪しているように)嫌いとなると徹底的に嫌いな人間がいる、といった
好みが両極端に分かれる作家のひとりではないかと思います。

わたし自身はごく一般的な読者としての範囲を出ていない知識しか持っていなかったわけで、
本日画像、「憂国」のスチール写真についても、何処かで観たことのある
「腰の軍刀にすがりつきの図」(笑)みたいなものだと思っていたくらいでした。

画像を描くためにあらためて細部を見ることになり、これが割腹して果てた三島自身演じる陸軍中尉と喉を突いて後を追ったその妻で、二人が横たわっているのは掃き清められた白砂だったことを初めて知ったのです。
(描くとき筆のテクスチャーにさんざん苦労したこの背景ですが、何とか砂に見えてます?)
そして、今までそこにあることすら気付かなかったのですが、
軍刀は男性の首を貫いていたのです。
モノクロである上に画像が荒く、実はどうなっているのかわからなかった男性の胴体部分は、
もしカラーであれば鮮血で紅く染まっているのでしょう。

   

このタイトル「憂国」ですが、英語題は「Patriotism」、つまり「愛国」です。
英語辞書を引くと愛国心と引いても憂国と引いても、この同じパトリオティズムが出てきます。
つまり「国を憂う」という直接の単語は英語には存在しないということです。
しかし、画像右側、三島自筆の意外とかわいらしい字で書かれた英文のタイトルをご覧ください。
(LOVEのOがハート型なのがおわかりでしょうか)
三島自身がこの映画の英語タイトルを憂国の英訳である「パトリオティズム」でなく

「愛と死の儀式」

と名付けていることは非常に興味深い事実に思われます。



二・二六事件に加わることができなかった武山信二中尉。
今や彼らを反乱軍として討つことを命ぜられ、公と義の狭間での苦悩の末、
自らの命を切腹によって断ち、妻麗子とともに死ぬ。


30分ほどのこの映画は、全編ワーグナーの楽曲が流れる中、三島と妻の麗子役の女優、
二人きりの出演者は「至誠」と書かれた掛け軸のある舞台で台詞の無い演技をします。

今回何かで「三島の演技が下手」という感想を目にしたのですが、
ほとんどがイメージ写真のようなアップや象徴的な映像がコラージュのようにフラッシュされ、
演技は「していないに等しい」と言いきってもいいでしょう。
それはまるで連続写真を見ているかのような気にさえなります。

三島はある時から、醜悪ともいえる不可思議な自己顕示行為に奔走し、それらは
「天才文学者三島由紀夫」の熱心な信奉者を酷くがっかりさせたと一部では見られています。
そしてその最たるものに「アクション映画で主役のやくざを演じたこと」がありました。
この「からっ風野郎」での演技者としての惨憺たる姿と「憂国」での三島は少し異質に見えます。

ここで三島本人はその鍛え上げられた肉体を惜しげもなく誇示するものの、軍帽を目深に被り、
三島由紀夫であることをその軍帽に、そして軍服によって覆い隠し、名も無い一軍人を「演じて」います。


二幕目では、同じく死を覚悟した最愛の美しい妻と最後の愛の交歓が行われるのですが、
この部分を「死を目前にした壮絶なエロス」として語るには、その映像はあくまでも観念的で、
表現方法からもまるで聖なる儀式を粛々と取り行っているようです。
そして最もこの部分を冷え冷えと見せているのは、三島が女性の肉体に耽溺しているように見えないこと。
最も印象的なシーンは、事後、褌と目深に被った軍帽だけで、軍刀を床について足許に妻を侍らせている姿。
かれが同性愛者であったというのは、文学上の戦略において作られた「仮面」であったと言われ、
ここでの三島からはむしろ強烈なナルシシズムだけが感じられます。


そして、この映画の最も生々しく生気に満ちた部分が、二人が自決するシーン。

かれはいつのころからか「切腹による自殺」を世間に公言しており、たとえば体を鍛える理由を
『切腹したときに腹から脂肪が出ることのないように』などと語っています。
「憂国」での切腹シーンは、まるでその願望を映像で予行演習するかのごときで、
飛び出した腸には豚のものを使うなどという、省略され観念的な他のシーンとはあまりに対照的な、
グロテスクなほどのこだわりとリアリティを見せています。



小説「憂国」は三島が「私の小説で何か一つ読むならばこれを読んで欲しい」と語ったという作品ですが、
切腹の描写はこれでもかとばかり凄惨なもので、必ずしもそのものに美を見出していたわけではないようです。
三島にとって切腹はあくまでも観念上の様式としてあるもので、自らの人生を自らの手で終わらせる、
その様式美の極ともいえる「死の儀式のかたち」にこそ、表現者としての興味の対象があり、
それこそ自らがその方法を終焉に選んだ理由だったのでしょう。


市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした三島の遺体を解剖した医師によると、その首には三箇所の切り傷が見られ、
それは介錯の森田必勝が興奮のため太刀筋を誤った形跡であると言われています。
あるいは三島の激しい苦悶がその姿勢をして介錯を受け損なったというのもあるかもしれません。

本来武士の切腹の作法というのは、介錯によって確実に命を絶つために
「形だけ」刀を腹に突き立てるものと言われています。
後に続いた森田の腹部の傷はかすり傷程度で、その頸椎は一太刀で切断されており、
おそらく彼は「非常に安楽な切腹死」をしたと思われます。
しかし自ら映画で演じたシーンをなぞるかのように、三島の自ら突き立てた刀はその腹腔深くを抉りました。
それはまさに「介錯無しで切腹する者の斬り方」だったそうです。

おそらく彼は、切腹による自殺を決意してからというもの、何度も何度もその方法を反芻したでしょう。
「憂国」では小説と映画と言う形でシミュレーションをし、
また写真家に連続写真による自らの切腹シーンも撮影させています。
なんども疑似体験されていたはずのその本番で、三島が苦悶をわざわざ選んだのはなぜだったのか。


いまわの際、吹き出す血を、飛び出す己の腸を―その凄まじい苦痛も含め―
三島があくまでも表現者としての冷徹な目で観ていたのではないか。
そしてもしかしたら、それを観たいがため彼は最後の「計算違い」をあえてしたのではないか。
これはわたしの想像です。


「憂国」で使われた「序曲と愛の死」はワーグナーの楽劇、「トリスタンとイゾルデ」の劇中曲です。
主人公トリスタンを歌う歌手ををドイツ語で「ヘルデン・テノール」(英雄的テノール)
そして彼の死を「ヘルデンハフター・トート」(英雄的な死)と言います。


三島が自らこの映画を「愛と死の儀式」と名付けたように、「憂国」のテーマは「思想」ではありません。
もしかしたら三島由紀夫にとって「憂国心(パトリオティズム)」は、ヘルデンハフター・トートと言う名で麗々しく飾られた己の死を完遂するための公の大義にすぎなかったのではないでしょうか。

最後の瞬間、
かれは皇国思想を信奉する思想家でも、ましてや自衛隊員に決起を呼びかけた煽動者でもなく、
己の作り上げた美学の殉教者としてその人生を終焉せしめることに恍惚としながら至福のときを迎えた、
そう思えてなりません。

 

 

 

 


宜候(ようそろ)

2011-07-07 | 海軍

昔、マンガで「さあ出発だ」「やったるで」
みたいな場面で男たちが「ヨーソロー」
と言っているのを見て「何語?」と不審がっていたものです。
今は亡き鈴原研一郎先生のマンガだったかと・・・。

いつの間にか(本当にいつの間にか)、それがどうやら海軍用語らしい、と言うことを知ったのですが、
このようそろ、表題にあるように

「宜しく御座候(よろしくござそうろう)」が変化したもので、「了解」「問題無し」の意

です。
これは幕末海軍からの航海用語で、船を直進させるための操舵号令です。
候、という古めかしい言葉を、昭和の世になっても海軍は受け継いでいたんですね。



この、幕末海軍時代にできた海軍用語が連綿と受け継がれている例はたくさんあって
「面舵」
「取り舵」

というのもその一つ。
これについてはもしかしたらご存知でない方が多いかもしれません。

そこで本日画像を見ていただきたいのですが、船の舳先を干支の子(ね)として、
時計と同じにぐるりと取り囲むように考えたとき、3時と9時の位置にあるのが卯(う)と酉(とり)。


船の舳先を「とり」の方向、つまり左に向けることを「とり舵」
舳先を「う」の方向、つまり右にかじを取ることを「う舵」・・・・あれ?


う舵では言いにくいので(たぶん)・・・なまっただけかもしれませんが、「うむ舵」→「おも舵」

に変化したのだそうです。
風や波の強いところで発せられる号令ですから、少しでも口を大きく開ける発音のものに
変化していったとしても何の不思議もありませんね。

映画「男たちの大和」での発音法は
「おもーかーじ」
「とーりかーじ」

ようそろはもちろん
「よーそろー」

です。
両者のリズムをあえて一緒にならないようにしているのは、たとえ音声が聴き取れなくても
リズムで判断できるように、という工夫だと思われます。

昔は船頭の号令ですが、戦艦などでは航海士がかけました。
そして、なんと今でも海上自衛隊では同じ意味で使われているのです。

「何と今でも」
などと言ってしまいましたが、先日「海軍のジンクス」でお話ししたように、
海上自衛隊というのは、日本海軍が培ってきた操船技術などのノウハウやマンパワーを維持して、
つまり実質解体することなく続いた組織。
海自は我々が思うよりよりずっと「旧海軍」そのものなのだそうで。
そう言えば、第二種軍装、まったく同じですよね。

かわぐちかいじの「ジパング」でも「おもーかーじいっぱいー」ってやってました。
(先日ようやく読破しました。最後の二巻がなかなか出なくて・・・)

横須賀には上陸所の向かいに土産物屋があり、そこは大きな看板をあげていて
「此処は土産の買い処」と書いてあったそうですが、ここに入港して内火艇の艇指揮をする士官は
「『此処は土産の買い処』ようそろー」
とかけ声をかけていて、初めて聴くものは
「海軍と言うところは実に適切具体的な面白い号令を下すものだ」と感心したということです。

因みに先日横須賀探訪を果たしたときにここが
「此処は土産の買い処」であったと思しき場所を写真に撮ってみました。
マクドナルド・・・・・・(´・ω・`)



さて、映画「タイタニック」で、救命ボートを下ろす時に
「ステディー・・・ステディー」(steady
と言っていたのを覚えておられる方はおられませんか?
このステディーは、落ち着いている、とか安定した、固定した、という意味に使われますが、
これが海外の船乗りにおける海事語の「ようそろ」です。

語源の意味の違いが「結構です」に対し「安定させる」であるのは面白いですね。

ついでに説明すると、右に切る面舵を「starboard」取舵は「port」といいます。
starはオール、boardは船の横腹の意。

昔の帆船は右舵で舵と利用のオールを用いたことから右に取る面舵をstarbord
船の左舷部分をportというので左に舵を切る取り舵をport
となったのです。
ちなみに左=portの由来は、船は荷の積み下ろしを必ず左舷で行うからだそうです。


そして、海軍用語はどこまでもキャリーオーバーされます。
海軍は航空隊もこの「ようそろ」を、目標補足、針路決定の際に

「筑波山よーそろー」

という感じで普通に使っていました。



昭和19年のこと。
陸軍の飛行第九八戦隊が、海軍の指揮下で作戦するために
鹿屋基地で訓練を受けることになりました。
海軍式に慣れていない陸軍の御一行様は、全てに面食らうことになります。

「バス」「ゴーへー」「チェスト」など、なにかと用語が敵性語。
陸に住んでいるのに休暇は「上陸」。
ハンモックをロープでくくる起床動作。
何と言っても空中に上がって「宜候」は一番かれらをびっくりさせたのではないでしょうか。

それにしても、江戸時代に始まった船の号令を、最新科学の粋を集めたイージス艦でも使い続けている、
というのは海軍組織の伝統の継承を感じますが、さて、現在の戦闘機ではどうなのでしょうか。

なんと。

スクランブル発進のときに「よーそろーもうちょいレフト」とか
「飛行管制所より報告、進路ようそろ、"海猫"上がります」などと言っているらしいのです。

こちらでもよーそろ現役のようです。



追記:

この稿は震災前に書いたものですが、その震災の当日岩手県釜石湾にいた海上保安庁の
巡視船「きたかみ」が、懸命の操舵で津波を乗り切る様子が音声で残されていました。
聞き取れた部分だけ書き取ってみましたので、ようそろがこのように使われている
という参考にあげてみます。

「現在面舵いっぱいです」
「防波堤が今完全に埋もれている状況」
「あ、潮位あがってきました!」
「戻せ!戻せ!」
「はい、取り舵いっぱい」
「現在10度」
「コース70度行け」
「70狙う」
「これ地震?」
「はい、取り舵
「現在の時刻1524(ひとごーふたよん)」
「70度」
よーそろいいですか?船長、今」
はい、よーそろで
じゃよーそろ
今、よーそろ
「引き波です!押されています!」
「戻せ!」「戻せ!」






How are you?

2011-07-04 | アメリカ

たかがスーパーで売っているTシャツの画像をこんなに馬鹿でかくしおって、と思われたでしょうか。
今いるボストンの「T・J・MAXX」でこっそり激写してきました。
大きくしたのはプリントされている謎の日本語を読んでいただくためです。
これ、何でしょうね。
Enrich your luck(それも変だけど)かなんかの直訳かしら。

昔、ロスアンジェルスのホテルの売店で胸元にハスの花と一緒に
「冷静」
と書かれているシャツを見てTOと大笑いしていたら、お店の人に
「あんたら笑いすぎ」とあきれられました。
(きっとcalmかなんかを直訳したのかと)
何故そんなにおかしいのか説明してくれ、と言われたけど、難しかったです。
「いやあの、普通こういうのは怒っている人に向かって言うような言葉で」
お兄さんはそれでも何がおかしいのかさっぱり、って顔をしていました。


外国人に「毎日が地獄です」シャツを贈呈したことのあるエリス中尉が言うのもなんですが、
外国語の書かれたTシャツだけは一生着ない方がいいかもしれませんね。

おされな日本のモデルさんがdiarrheaとプリントされたTシャツを素敵に着こなしていたり、
金髪碧眼の青年が「痔」と書いたのを得意になって着ているのは問題外としても、
直訳で「間違ってはいない」という文でも「それをわざわざTシャツにして着るか?」
というものはあまりに多いです。


「人は何故こんな危険を冒してまで、異国の文字の
(しかも意味の良くわからない原語の)入った衣服を着ずにはいられないのか」

とあらためて考えずにはいられません。

よく思うのですが、取りあえず外国語を知っていても、それを自国語と全く同じ感覚で判ずることは、
おそらくバイリンガルであっても不可能なのではないでしょうか。

言葉で説明できない部分、翻訳しきれない部分が、言葉にはまつわるものだからです。
翻訳というものはあくまでも便宜上の作業であり、
たとえば「犬」「鉛筆」などの意味のはっきりした名詞以外の対訳が果たして正確なのかというと、
そこには非常にあいまいな部分もある。
文化の違いというものを考慮すると、必ずしも完全に同じ意味とは限らないからです。
「勿体ない」「まったり」のように日本語にあっても外国語に無い言葉、
(逆に日本語に無いのはニュアンス、アイデンティティ、プライバシーとかですね)
だってあるわけですし。

故ナンシー関画伯がデーブ・スペクターのギャグが全く面白くないことについて、
エッセイの最後でこのように揶揄したことがあります。
「住めば都はるみ、という言葉の本当の面白さがわかるのかー?」
デーブは画伯の「芸能人いじり」(彼女の芸風ですが)に我慢できなかったらしく
さんざんむきになって反論したあげく、件の決め台詞(質問じゃないのに・・・)には
「僕、わかってるよ。これでいい?」と答えました。

・・・・・いや、これに反論するってことは、やっぱりわかってないかもなあ、と
おそらくこれを読んだ日本人の大半は思ったのではないかと思います。
画伯が指摘したのは異国人であるデーブが決して理解しえないネイティブな笑いであり、
デーブの取っている笑いがあくまでも
「日本語を完璧に理解していないガイジンが言うからこそおかしい」というものであることを指摘したのであって、
「住めば都はるみを理解できること」そのものが問題ではないってことでしょう。


ネタなんだか実話なんだか知りませんが、以前アメリカに住んでいたときに聞いた話で、
サミーという名前のアメリカ人が自分の名前を漢字で書いてくれ、と言ってきたので

「寒」

と書き、「どういう意味だ」と聞かれたので

「COOLって意味だよ」

と答えたらサミーはとても喜んでいた、というのがあります。
確かに間違ってはいない。「寒い」の英訳は「COOL」でもある。
しかし「さみ~!」と人が言うときそれはあくまでcoldです。
おそらく今後誰もかっこいいという意味だと喜んでいるサミーに教えてあげないのが
サミーにとっての不幸でしょう。
そして、サミーは何故日本人がこれを見ると爆笑するのか、永遠に分からないままでしょう。


さてところで、エリス中尉は今アメリカ合衆国に滞在しています。
アメリカにいて一番よく聞く言葉はおそらくThank youとならんで本日タイトルの
How are you?

ではないかと思われます。
中学校で教科書の最初に「I have a book.」と載っていたので、
人生でおそらく実質的には一度使うかどうかというこの
「わたしは一冊の本を持っています」
という英文を最初に鮮やかにインプットしてしまった「クラウン教科書使用校」出身のわたしですが、
その他の大抵の教科書はこの
How are you?
から始まっていたのではないでしょうか。
え?うちはThis is a pen.だったよ、って?まあいいです。

問題はこれに対する返事ですが、あなたの教科書はどうなっておりました?
I'm fine. Thank you.
ではありませんでしたか?

そう、このI'm fine. Thank you.が現在のわたしのちょっとしたストレスになっているのです。

お店のレジに立つ。ホテルのフロントに立つ。
まずそこでHow are you?と聞かれないことはないでしょう。
日本のお店では「いらっしゃいませ」ですから当然こちらの返事を期待されていないわけですが、
ここアメリカでは客からもコミニュケーションに参加させることから「取引」が始まるのです。
アメリカ人であれば生まれたときからこういう文化の中にいるわけですから、
何の問題もなくそのコミニュケーションをすることができます。
観察によると、しかしfineは少数派で、どちらかというとgood派が主流。
しかし、その人の年齢や、性格、バックグラウンドなども
もしかしたらこのときの返事でうかがい知れるのではと思うほど、言い方は様々。

ところが教科書でI'm fine, thank you.とインプリンティングされている日本人としては、
これ以外の応用ができない。
少なくともこのわたしにはとっさにこれしか出てこないカラダになってしまっているのです。

そして住んでいた時期も含めて10年間の観察によると、こういうときの彼らを見ていると、
必ずGood.とか何とかのあと、これもほとんど(年輩の人は必ず)
How are you?と聞き返しています。
このやりとりはもしかしたら教科書通りかもしれません。

しかし、この聞き返しもまた、日本人であるわたしにはどうしても自然にできない。
心の準備をして「よし言うぞ」みたいな覚悟が必要です。
そしてたまにはFine.以外の別のことも言ってみたいのですが、
そして相手にもごく自然にHow are you?と尋ねてみたいのですが・・・。

アメリカ人のこのフレンドリーな態度は、全く儀礼上の表層的なもので、
何と答えようと相手はみな全く意に介していないとはいえ、
このへんは異邦人にはいつもハードルが高いのです。

さらに、取引が終わり、日本だと「ありがとうございました」の代わりに
Have a nice day.あるいは
Have a nice weekend(あるいはholiday,afternoon)
なんてくるのでそれに対して
Thank you. You too!
と答えるわけですが、ここで問題が。お店の人で

Have a good one!

と言うひとがたまーにおりまして、これがここ数年わたしが悩まされている謎の言葉。
one
とは?買ったものに対する「good one」なのかしら、
だとしたら返事にyou tooはへんよね、などと当初悩んでおりましたが、
息子の学校のカウンセラーがある日別れ際にこの
good one」を使っていたのを聞いて以来、さらに謎は深まるばかり。


英語が理解できて、意味が分かっても、
おそらく全くその本質的なところまで感覚的に分かることは一生ないんだろうなあ、
とアメリカに来るたびに思うのです。




海軍のジンクス

2011-07-01 | 海軍




こと命にかかわるミッションに臨む団体でジンクスを担がないものはないでしょう。



昔から船には女性は乗せない、ということになっていました。
船の神様は女神なので、女性を乗せると怒りを買うという理由からです。
女性が嫉妬深いので、自分以外の「女」を認めない、という一般論からのジンクスでしょう。

船の守り神と信じられていた猫を乗せることも、二次大戦中でさえ行われていました。
この守り神は船にはびこるネズミを取ってくれるので一石二鳥だったわけです。


いきなり余談ですが、以前「ネズミ上陸」という稿で
「船のネズミを取ったら御褒美に上陸許可がもらえた」という話をしました。
このネズミは「二度使い禁止」、
つまり一度捕えたネズミさんを二度と再利用できないように髭を切ったらしいのです。
むんずと身体をつかんでわざわざ髭切ったんでしょうか?

しかしこれでうげげ、などというのは早い。
なんと御褒美上陸にはネズミのみならず
「ゴキブリ上陸」というものが・・・・・

これは

「ゴキブリ100匹につき一回上陸」・・・うわああああああああっ

というもので・・・・・・。取ったゴキブリを壜かなんかにためておいて、毎日数えて
「うふふ、あと17匹で上陸だ
なんて楽しみにしてたんでしょうか。

そして、ちゃんと百匹あるかどうか

「ゴキブリが一匹、ゴキブリが二匹、ゴキブリが三匹(中略)・・・ゴキブリが99匹、
おいっ一匹足りんぞ!上陸は認めん」


って、数えてたんでしょうか・・・・数えたんだろうなあ。軍の規則だから。
そして、数合わせのために人のゴキブリ瓶から盗んだりとか・・・まさか、まさかね。


それた話を戻しまして、ジンクスです。
アポロ13号は、13というキリスト教国には縁起の悪い名前がついていたため、
やはり計画当初からそれについての逡巡やらなんやらが各方面から湧きあがっていたのですが、
この辺りが科学の最先端を突っ走るものの驕りとでも言うのでしょうか、
NASAはそのジンクスをあえて破るために
「13時13分」
に発射をしたというのですね。

・・・・なんと挑戦的かつ何と不遜な。


そして、結果は皆さんご存知の通り、だーかーらー云わんこっちゃない、I told you so.というもので、
飛行士が生きて帰ってきただけが不幸中の幸い、という盛大な事故を起こしてしまいました。
さしものNASAも、これ以降ジンクスに挑戦するようなマネはしていないようです。
(してませんよね?)


飛行機乗りも当然非常にジンクス担ぐ人は多かったようです。
第一次世界大戦中のドイツの撃墜王リヒトホ―ヘンは出撃前決して写真を撮りませんでした。
何故か愛犬と一緒に写真を撮ったその日、彼は撃墜され25歳の生涯を終えています。


伊33潜の痛ましい事故に、不思議と3がまつわっていたことから、
その後、帝国海軍の潜水艦乗りの間には3を忌み嫌う、というジンクスが生まれました。
しかし、一般的に昔から船乗りは「偶数」を嫌いました。

「4」が縁起が悪いのは当たり前ですが、何故偶数なのかというとその理由は
「2で割れてしまうから」
なのだそうです。
船が真っ二つ、という言葉を想像するからだったようですね。

さて、このブログです。

気づいている方はおそらく一人もいないと思いますが、海軍について書くときは必ず奇数日に掲載しています。
震災までは月が変わるときは海軍ネタが二日続くことがあったのはそのためです。
海軍は偶数を嫌う、というジンクスに配慮しているわけです。


で、今日画像のマンガ。
最近オムライスの上にグリーンピース、って見ない気がしますね。パセリは添えてあっても。
黄色いタマゴに赤いケチャップ、ここにはやはり緑が美しい、ということで
必ず昔はグリーンピースが乗っていたようです。

その数が必ず奇数であることを、賄いの兵は厳しく叩きこまれたのだそうです。


ところで、海軍とジンクスについて調べていて、大日本帝国海軍そのものがこれまでのジンクスを破った、
あることに気づきました。


昭和20年の敗戦、そして帝国海軍の消滅。
しかし、海軍は全く死んでしまったわけではありませんでした。


戦後日本近海に散らばる二次大戦の遺物である機雷の撤去に始まり、
その後朝鮮戦争において、旧海軍軍人で組織された部隊が、
掃海艇での機雷撤去に「従軍」した話をご存知でしょうか。
(阿川尚之氏や桜林美佐氏がこのことについてノンフィクションを著していますので、
興味がおありの方は是非一読をお勧めします)

帝国海軍の関係者は、終戦で海軍がこの世から消えてしまったと思われる時期にも、
いや、消滅直後から、海軍の再興にに思いを巡らしていました。
彼らは極秘のうちに計画を練り、来る日に備えたのです。

そして幸いなことに、この掃海活動があったゆえに、海軍の人的伝統と作戦活動は、
敗戦によっても終わりとならなかったのです。

阿川氏の著書によると、
米軍は当初から日本海軍の再興再建については考えていなかったということです。
日本海域は米軍が守り、せいぜい保安庁があれば沿岸警備は事足れり、
という認識にすぎませんでした。

しかし、朝鮮戦争勃発によって、米軍は極秘にですが旧海軍の出動を要請することになり、
掃海艇の活動はそのマンパワーを継続させるという結果に繋がりました。

しかしこの作戦は過酷なもので、「戦死」した「軍人」もいるのです。

その後、元海軍大将、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎を始めとする海軍出身者が懸命の働き掛けをし、
ついに昭和二十七年、保安庁とは別個の海上警備隊として、
現在の海上自衛隊の元になる海軍組織が誕生したのです。

極秘のうちに募られた士官はほとんどが帝国海軍の元士官でした。
彼らの結束と海軍に対する帰属意識は驚くほど固く、
そのため募集はその少し前に発足した警察予備隊(現在の陸自)と違い、
非常に順調だったと云われています。

彼らもと海軍士官は、自分たちの教わったやり方を若い世代に教えるため、
放っておいても旧軍の伝統とやり方は新しい組織であるはずの海上警備隊に引き継がれることになります。
現在の海上自衛隊が、隊内のしきたり、伝統、方法に置いてもっとも旧軍のそれを色濃く持っている、
というのはこのためだそうです。



さて、そして、みごと大日本帝国海軍は戦後七年目に不死鳥のように甦りました。
この年日米間で締結した船舶貸借協定に基づき、
翌二十八年、米海軍が横須賀基地で正式に計十隻の船舶を警備隊に引き渡したとき、
老提督野村吉三郎の目には涙があったと伝えられます。


・・・・え?ジンクスの話はどこへ行った、って?

そう、かつて世界には海軍に関するこのようなジンクスがありました。
「いったん滅びて消滅した海軍が甦ることは決してない」

日本国海上自衛隊は、歴史上そのジンクスを初めて打ち破る存在となったのです。