ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

神への愛と悪魔の餌~アメリカアイスクリーム事情

2010-07-27 | アメリカ

昨日の「重量制限」、いかがでしたでしょうか。

人間とは凄いもので、ある意味どんな状況の中でも体重を増やすことができるタフな身体の構造をもっているものです。
ましてやこの食物が豊富な現代、むしろ逆にいかにその誘惑を断ち切らねばならないか、の方が、特にアメリカに住む人間にとっては大問題です。

「そりゃ太るわ」の記事の日に、三人に一人がブーデー(ミュージシャン用語)な東海岸の人々の野放図な食べっぷりをお伝えしましたが、四時間の時差を超えて西海岸にやってくると、はっきりいって「人種が別」。

特にこの辺りは東海岸より人種が多様で、「マイノリティ?それ誰のこと?」というくらいいろいろな人種が入り混じって住んでいます。
その中には先日お伝えした「ゲイという人種」もいて、この人たちがそうであるように、健康志向が全米でも最も高い地方ではないかと思われます。

どこの都市にも今ある「ホールフーズ」というオーガニックスーパーマーケットを、ボストンでもサンフランシスコでも利用するのですが、ここでは当たり前のように豆腐やみそ、ポン酢などの現地生産の日本食材も売っていて、しかもどれもオーガニック。
(さすがに納豆はジャパンタウンに行かないとありませんが)

アメリカではこだわる人は徹底的にこだわるのでベジタリアンはもちろん「ヴィーガン」(アニマルフード、動物の体から出たものも食べない。ミルク、チーズも×)もおり、日本発であるマクロビオティックの実践者も特にこの辺では多数。
おまけに宗教の戒律によって食べ方に決まりごとのあるユダヤ系も多いですから、パッケージに「コーシャ」(ユダヤ教徒飲食可)と断り書きをしてあるものが売られています。
ホールフーズはこういう「ややこしい」アメリカの食事情にも、実に細かく対応して今や大人気。
普通のスーパーより値段が高めのこのスーパーマーケット、今、アメリカの各都市津々浦々、どこにもあります。サンフランシスコには二つあり、今三店舗目を企画中とのこと。
それだけ利用者が多いということでしょう。



そして、勿論のこと絶対に砂糖は取らない、と決めている人もいます。
砂糖を取りたくない人が何で甘みをとるかというと、代替砂糖と呼ばれる一連の商品。

代替の砂糖としては、メープルシロップやモラセス、勿論ステビアも使用されますが、エリス中尉は日本でもこれを使用しています。

アガベというのはリュウゼツランからとった甘味料で、GI値が低いので砂糖を取らない人向けにこちらでは販売されています。
日本ではまだまだ高いですが、こちらでは色々なメーカーがこれを出しています。

ただ、これもやはり取り過ぎることで問題は起こってくるみたいです。
カロリーだってありますし、フラクトースの取り過ぎで中性脂肪も増える、と読んだことがあります。
なんでも取り過ぎは毒ってことですね。


さて、どんなに健康志向が高くとも、アメリカ人はアメリカ人。
基本食はピザ、コーラ、ホットドッグに・・・
そう、アイスクリームが大好きです。
冒頭写真はホールフーズのアイスクリームケースですが、通路全面、みんなアイスクリームとシャーベットばかり。
みんな種類が違います。ハーゲンダッツだけでこのありさま。
日本のように「一人分」だけ売っていません。(ハーゲンダッツに少しはありますが)
みんなパイントと言われるカップ売り。



徹底的に砂糖を控えていることからお分かりのように。身体に人並よりちょっと気を遣っているつもりのエリス中尉、アイスクリームというものを避けています。
我が家では例えばロイズの「チョコレートがけポテトチップス」を「悪魔のエサ」と呼んでいて、その定義は「身体に何一ついいことは無いが死ぬほど美味しい」というものなのですが、アイスクリームというのもこの定義で言うと「小悪魔のエサ」だと思っているからです。
(勿論、お付き合いではそのそぶりも見せない健啖家で甘い物好きに見せてはいますが。
人生、健康第一だけで過ごすのは味気ないですからね)

アメリカにはいるんですよ。
悪魔のエサってわかってるけど食べたい!
でも食べられない!
どうしたらいいの?

>身体にいいアイスクリームを作ってしまおう!

という人が。

「アイスヨーグルト」
「果汁だけのシャーベット」
「ライスドリーム(米汁)アイスクリーム」
「ソイ(豆乳)アイスクリーム」
そしてこの「アガべアイスクリーム」

これを買ったとき、店頭になかったのでお店の人に聞いたところ
「ああ、裏にあったよ。味は何がいい?」
「バニラ!」
「ちょっと待っててね」
三分後
「あったけど、シナモンだったよ。いい?」
「いい、いい。ありがとうね」
「アンタ砂糖きらいなんだね」
「私の国にはこんなものないのよ。アメリカにいるときしかアイス食べられないの」
「はあ~、それでそんな痩せてんのか」
「・・・・(´・ω・`)」

これ、砂糖OK,代替砂糖大っきらい!の息子が
「こっちの方がおいしいなあ」
といって大半食べてしまいました。
後味が砂糖のように舌に残らない、日本人好みの甘さです。
パッケージの天使くんがいいでしょう?
もしかして、これは・・・・

アガベ=神への愛、に引っかけた洒落ですか?


「・・・・・・・・・・・・」←ツッコミ待ち(´・ω・`)




カストロ通りの「陽気な」人々

2010-07-25 | アメリカ


皆さん、寒いです~!
今日は、特に霧が濃く、コートが欲しいくらいの寒さ。
車にヒーターを入れました。
この霧を日本に持って行きたい・・・。

・・というと、
「イヤミかいっ!」
と一斉に亜熱帯に位置する日本の方向から怒声が飛んできそうですが。

息子のサマースクールに向かう途中に、このようなレインボーフラッグはためく一角があります。
ここはカストロ・ストリートを中心とする街。

カストロって、ああ、スタンダールだったっけ、とすぐに答えた教養のあるあなたはご存じないかもしれませんが、ここは全米で最大のゲイ・コミニュティがある「ゲイの聖地」なのです。

日本でも最近では同性愛嗜好を大っぴらにする人が増えています。

しかしあくまでもそれは「芸能人のウリとして」という場合で、まだまだ一般には「実はそうだが表向きは・・・」という社会生活を送っている人が大半ではないかと思いますが、ここはゲイがゲイのまま生きられる、リベラルなアメリカの中でも最も「ゲイ・フレンドリー」な場所なのです。

この女性はアメリカのコメディアンで司会者、エレン・デネジェス。
ファインディング・ニモで「ドリー」の声を吹き替えした、といえば日本の方はピンとくるでしょうか。

彼女はゲイであることを公にしている人物の一人。
カリフォルニア州の法律により、女性と結婚しています。
芸能人らしく多数の女性と浮名を流し?離婚(勿論女性との)も一度しています。
この、同性婚を合法とする州法以外の、同性愛者の権利を向上させる活動家としてい知られている人物に、「カストロ通りの市長」と呼ばれた市会議員のハーヴィ・ミルクがいます。

ショーン・ペンが主役を演じた「ミルク」という映画をご覧になった方はおられますか?

ハーヴィー・ミルクは、失職した市会議員ホワイトが市長をその恨みで殺害した際、たまたま市庁舎内で出会い、ホワイトに声をかけてそれが彼の逆鱗に触れたため(『残念だったね』と言ったそうですが、おそらく皮肉だったのでしょう)暗殺されてしまいます。
彼は初めて同性愛者であることを明らかにして当選した政治家でした。

ミルク氏の死後、その裁判をめぐる活動からゲイの人権を訴えるムーブメントが活発になり、またその人権を確立するための運動をする人たちが全米はおろか世界中からやってきて元からゲイの多い地域であったここに住み、いわば「ゲイという人種」としての生活を営んでいる象徴的な街、それが「カストロ」なのです。

部屋の窓にこの「ゲイ旗」であるレインボーフラッグを掲げ、「ここの住人はゲイである」ということを宣言しています。


典型的なゲイ・カップル。
アメリカ人は太っている、という一般論はここには当てはまりません。
みんな見事に体を鍛えており、スマートで筋肉質です。
それでないとゲイ同士アピールしないのかもしれません。

マッチョの多いゲイ御用達の「ゴールド・ジム」。
ここを通るとき窓に面したマシンが見えますが、いつ見ても真剣な顔をした男性がずらり。
ここはおそらくマシン稼働率において全米で最も高い数字を持つジムであると確信します。
このマッチョゲイの牙城では毎日どのような物語が展開しているのでしょうか。
考えただけで軽くめまいが起きそうです。
ちなみに、この通りに面したカフェは、見事に男性カップル専用。
エレンのような女性ゲイも勿論たくさんいますが、カストロに住むのは圧倒的に男性。
しかし、たまたまですが、この写真のビタミンセンターの角には女性カップルが写っていますね。

どちらもいわゆるエグゼクティブで、医者と会計士のカップル、それも「老夫婦」(夫夫?)なんていうゲイのうちは、物凄い豪邸だったりします。
この家もおそらくそういうリッチなゲイのカップルのものでしょう。
結婚する、ということはファミリーを作る、ということ。
子供をアダプト(養子をとること)したり、自分の実子を男二人で育てているゲイも多いようです。
日本と違ってお金さえ出せば養子が容易に取れるので、そういうこともできるわけですが、今までの観察によると養子の性は男児より女児の方が多い気がします。

養子が男性だと、血のつながりがないだけに成人してからトラブルになることを最初に忌避しているのでしょうか。


先週ちょうどこの「エイズウォーク」のサインアップが通りで行われていました。
ゲイを中心にエイズへの理解を深めよう、というデモなのですが、これがまた物凄いことになります。
ゲイの方たちは、このときとばかり、いわゆる「ハードゲイ」な恰好を(したい人は、ですが)して街を練り歩きます。
黒革の帽子、どこがどうなっているのかわからない黒革のベルトだけでできた服?を身にまとった男性がぞろぞろ歩いていると、目のやり場に困る、なんてレベルではありません。
冒頭述べたように、ここはとてもそんな恰好で外を歩ける気候ではないんですが、祭の「ハレ」状態ですから寒さもなんのその、なのでしょう。


ちなみに、これだけ市民権を得ているようでも、初対面で「あなたはゲイですか」と(どんなにゲイらしく見えても)聞くのはタブー中のタブーです。
彼らが誇示するように大声でゲイであることを主張しなければいけない、というのも、実はまだまだ権利は確保されていないということの証左でもあるのかもしれません。

ACES HIGH 敵戦闘機につけたあだ名

2010-07-24 | 海軍



ACES HIGHからもう一日書きます。

今日画像はその綴じ込み写真。
キャプションには
「編隊を組んで飛行するロッキードP-38ライトニング。同社は1938年から45年にかけて、この”双胴の悪魔”(Fork-Tailed Devils、枝分かれした尾を持つ悪魔の意)を9、925機生産した」
とあります。
この飛行機、日本軍の搭乗員からは「ペロハチ」と呼ばれました。

今日は、この本でも目についた敵戦闘機の呼び名についてです。


敵機が現れたとき、通信でとっさに機種を特定し合うことは最重要事項です。
敵機はその機種によって対処法が変わってくるため一瞬で分かるコードネームが必要になってくるわけです。

しかしラバウルでの零戦は通信装置が無かったので、身振り手振りとバンクで意志疎通していたため、コードネームは必要ではありませんでした。
ですので、このころの日本側のは「あだ名」「愛称?」という範疇のものです。

ドーントレスやヘルキャットのように、そのまま呼ばれた機種もたくさんありますが、呼びやすいあだ名をつけられた機種もあります。

冒頭写真のロッキード社のライトニングP-38は、ヨーロッパ戦線では上記にもあるように「双胴の悪魔」と呼ばれて怖れられましたが、当初日本軍からは「メザシ」「ペロハチ」などと半分馬鹿にされたような呼び名が付けられていました。

メザシは見ての通り、体を表した名前です。
写真を見てもらうと分かりますが、編隊を組んでいる様子はより一層メザシ状です。

P-39エアコブラはその形から「鰹節」と呼ばれました。
「鰹節退治は最も愉快とするところです」
と、笹井中尉は実家への手紙に書いています。
「台南航空隊 昭和17年6月17日の映像」の日にふれた「海軍爆撃隊」の映像にも、このP-39が大量に撃墜されているのが板書されています。
「落とされても落とされても来る」
「しかも単機で来たりする」
と、手紙にはまた米軍搭乗員の勇気に感心していることが書かれています。

これも、胴の形はまさしく鰹節のそれで、さすがユーモアを重んじた海軍にはあだ名をつけるのが天才的にうまい人がいたようです。


ペロハチとは、P-38の数字の3を「ろ」と読み替えたもので、「ぺろっと喰える」という意味合いもあったようです。
この本について拙訳にてお伝えした本文に書かれていたように、当時ラバウルの航空隊には精強のパイロットが揃っていた上、戦闘機として失格の烙印を押されていた「月光」にすらあっさり撃墜されてしまったことから、ペロハチ呼ばわりされてしまったようです。

しかし、1943年の大野中尉の手記には若い隊員が「P-38ってのなぁ嫌な野郎だぜ。まるでお正月に揚げる奴凧みたいな恰好をしていやがってな。それでいて速力ときたら滅法速いんだ。俺ぁ二機追っかけたけどみんな逃げられちゃったさ」
と言っている個所があります。
(これも実際には『ペロハチってのは』と言ったのでしょうか)
ACES HIGHによると、この頃戦線には性能向上型のP-38が投入されていたということで、アメリカの凄いところは「ペロハチ」をペロハチのままにしておかなかったところでしょう。
加えて、このころにはそのP-38を愛機とするディック・ボングがこの地にあり、日本軍にとっての猛威となっていたわけです。

もう日本軍にとってペロハチは「ペロッと喰える」相手ではなくなってきていたのです。


この本には、日本機の種類がそれこそ日本の搭乗員の名前より多く登場します。

日本側があだ名をつけて呼んでいたのより、切実な理由でアメリカ軍は日本機にコードネームをつける必要がありました。
なぜなら、日本語というものに全くなじみがない国民だからです。

ヒリュー、シデンカイ、ショウリュウ、なんて、とてもじゃないけれど外国語の絶望的に苦手なアメリカ人には覚えられそうにないし、そもそも発音すらできないと思われます。
(そんなバカな、と思うなかれ。私の知り合いのアメリカ人は「サユリ」という名前がどうしても発音できず、最後まで覚えられませんでした)
当然彼らは勝手に日本機に英語の名前をつけていました。


最も有名なのは零戦に与えられた「ジーク」ZEKEでしょう。
零戦は「ハンプ」HAMPというコードネームも持っていましたが、こちらはあまり使われなかったのか有名ではありません。
ちなみにペロハチを撃墜した月光は「アーヴィング」(IRVING)です。

紫電改が「ジョージ」GEORGEだったのもご存知の方は多いと思います。
それにしても、自国の人名を敵機につけるセンスは日本人にはちょっと理解できません。

「フランク」(四式戦闘機)「ジャック」(雷電)「ジェイク」(零式水偵)
などの男性名はいいとして、
「リリー」(九九式軽爆撃機)ベティ(一式陸攻)ジュディ(彗星)
など、女性名の方が多いのは何故でしょうか。
自分の恋人の名前だったり母親の名前だったりしないんでしょうか。

広島に原子爆弾を落とした爆撃機の名「エノラ・ゲイ」は、搭乗員の母親の名前だった、と言うことでショックを受けていた詩人がいました。
それはこの詩人が日本人であったからです。

あくまでも彼らにとっては「単なる認識の都合としての名前」。
台風にも人名をつける国ですから、便宜上にすぎないということのようです。

しかし自分の母親の名前を持つ敵機を撃墜することになるかもしれないという可能性に思い至らないのがアメリカ人特有のドライさであり、日本人とは決定的に相いれない部分であると思います。

敵国の人物の名前をつけたのは唯一、
「トージョー」(二式戦闘機)
のみ。
というか、普通のアメリカ人が知っている日本人の名前ってこれだけだったんでしょうか。

練習機にはなぜか木の名前がつけられます。
攻撃してこない(はず)だから立木と一緒、という意味でしょうか。

「ウィロー」(九三式中間練習機)「サイプレス」(二式初歩練習機)「パイン」(九〇式作業練習機)「シダ―」(九五式一型練習機)「ヒッコリー」(一式双発高等練習機)
練習機を識別する場面が果たしてあるのかどうかはわかりませんが。
というか、そこまで覚えているオタク、いや記憶力抜群のパイロットって、いたんですかね。


それにしても・・・。

どういうつもりでつけたのか、悪意か、洒落か、それは分かりませんが、桜花につけられた「BAKA」と言うコードネーム、これに関しては私は絶対アメリカを許す気になれません。

日本側とて、ペロハチの前科がありますから、あまり言えたものではないのですが、どう考えてもこのBAKAはあの馬鹿です。

異国の罵り言葉は(場合によっては地方が違っても)今一つ怒りの沸点を高くするもので、ピンとこないためこれが日本人に知られたときどう思われるか、ということまでは、ただでさえ鈍感なアメリカ人のこと、おそらく考えていなかったのかもしれません。

しかし、一連の彼らの無神経さの中でも、この所業だけは―よりによって桜花を侮辱することだけは―糾弾されてもいいと思っています。



ACES HIGH ~機体の旭日旗

2010-07-23 | 海軍




空港で買った、アメリカの「二人の撃墜王」、ボングとマクガイアについて書かれたエース本、
ACES HIGHの綴じ込み写真です。
このページはディック・ボングの三葉の写真が掲載されているのですが、
彼の愛機であるP-38ライトニングがそのうちの二枚に写っています。
機体にペイントされているのはひとつひとつが旭日旗である「撃墜マーク」なのです。

日本でも、岩本徹三中尉、谷水竹雄飛曹長が、
機体に独特の撃墜マークを施したことで有名です。


前にも書きましたが、この本には、毎タイトルごとにその頃のボングとマクガイアの
「撃墜スコア」が掲げられています。
さすがはエースという言葉が公式に存在している国。
ボングを「ソーサ」と変えれば、そのまま「大リーグのホームラン競争」なのですが、
内容はともかく、タイトルとアオリは、ほとんど同じようなものと言えます。

ところで、ホームランなら何の問題もないわけですが、この「スコア」は、つまりが
「それだけの日本人が死んでいったということ」
綴じ込み写真を拡大にする気になれなかった私がそう思ったように、
ボングの愛機にペイントされた旭日旗の数を見て「それだけの数の日本人が・・」
と思わない日本人はおそらくいないでしょう。
本文によると「実際はこの数にとどまらず、おそらくその倍くらいだろうという僚機の証言がある」
ということで、さらに複雑な気持ちにさせられます。

ところで人間とは実に主観に支配された生きものであるとあらためて知る気になったのは、
谷水飛曹長の「星の撃墜マーク」とこの旭日旗を、
明らかに違う目で見ている自分に気がついたときです。

アメリカ人が、もし星の撃墜マークを見るときは、同じように感じるのでしょう。

ボングが撃墜数において一次大戦の撃墜王リッケンバッカーのそれに並んだとき、
アメリカ陸軍はボングを特令により一時帰国させています。

これは「エース」保護のための措置だと言われており、
さらにこの人材を失わせないため、かれに実戦を禁止し、
戦地復帰の際にはわざわざ教官の任務を与えますが、
ボングは自衛のためという理由のもとに禁令を破って飛び続けます。

再び帰国命令が出たボングの最後は、国内でのテスト飛行での事故によるものでした。

ボングが命令を無視しても飛び続けた理由には、
同じ陸軍のパイロットであるマクガイアへのライバル心があったことは否めません。

後世のノンフィクション作家が言うところの「撃墜競争」は、やはりあったのです。

戦争であり、やらなければ自分がやられるのであり、
お互いそうすることを国によって余儀なくされた時代だったと言ってしまえばそれまでですが、
それにとどまらず「数を競う」という行為を是ということは、この世の誰にもできないはずです。

むろん、それを断罪する人間もいていいはずはありません。


南京で「百人切り競争」の濡れ衣を着せられ、処刑された二人の日本の軍人がいました。
荒唐無稽で、例えば刀が一人人を斬ったらどうなるかということや、
日本刀の信じられない重さを知っているだけでも失笑してしまうような「創作」ですが、
その「戦意高揚のための新聞記者の捏造」を戦犯の証拠にされてしまったのです。

それにしても・・・。
ここで断罪された百人を切り殺す(ありえない)競争と、百機飛行機を撃墜する競争。
戦争と言う異常事態の中でも前者は処刑に値する犯罪であり、
後者には正当性がある、と神ならぬ身でありながら言いきることができるものでしょうか。

ましてや怪しげな創作である前者に対し、後者は「まぎれもない事実」でもあります。


撃墜数。

飛行機を降りれば一人の血の通った人間であるボングやマクガイアににとっても、それは「ただの数字」ではなかったと信じます。

いわんやそれによって失われた「撃墜数分の一」であるひとりひとりの命においておや。


川真田勝敏中尉 その二

2010-07-22 | 海軍人物伝


変わり映えしない画像ですみません。
なにしろ、今出先なものですから、画像が新たに制作できないのです。
川真田中尉の記事に思ったよりアクセスが多いので、立て続けになりますがアップさせていただくことにしました。

前回、笹井醇一中尉と海兵六七期同期、三五期飛行学生戦闘機専修の川真田勝敏中尉のラバウルでの戦績とその戦死についてお話ししました。


「全員が戦死した」と書いた、その35期の戦闘機専修学生で、この川真田中尉の後を受けたのも、やはり同級生の渋谷清春中尉でした。

この渋谷中尉も「緒戦ですでに相当な実戦経験を積み、その後、元山航空隊―二五二空で分隊長を務めて、今やコールマン髭を生やし、堂々たる指揮官の貫録を漂わせていた。若いながらもその風格は、部下も思わず惚れぼれするほどであった」
(「零戦隊長」神立尚紀著 光人社)

という、期待の隊長でしたが、11月28日に二〇四空に着任後、わずか二カ月後、1月23日の船団哨戒の際グラマンF4Fと交戦し戦死します。

戦後「死ななきゃラバウルから帰れない」という言葉は、激しい消耗戦であったラバウルの悲惨な戦いの表現として使われています。
士官搭乗員においてはそれは「ラバウルに行った中尉は大尉にならないと帰れない」と言われていました。
つまり、戦死して昇進しないと帰ってくることはできない、と内地で囁かれていたそうで、実際、飛行学生を卒業し、すぐさま実戦に出て、ただでさえ短い戦闘機乗りとしての寿命はその後数カ月、というのが当時中尉クラスだった六七期海軍兵学校卒士官の運命でした。

しかし、そこで実際戦っていた搭乗員たちは、決して「心ならずも巻き込まれた過酷な戦争」に絶望していたわけでも、ましてや死刑宣告を受けたかのようなあきらめの中で戦っていたわけでもありませんでした。

確かに実情は「死ななきゃ帰れない」であり、おそらく生きて帰ることは無いだろうという覚悟はあったものの、搭乗員たちの意気はまだまだ盛んであった、と大原亮治飛曹長は当時をこう語っています。

「そんな悲壮な気持ちではありませんでしたよ。
戦闘機乗りのモットーは“見敵必墜”、消極的な戦いをする者は一人もいませんでした」

もっとも、駆逐艦村雨の砲術長、鹿山誉大尉は、ブインで二〇四空の面々を見かけてこのような回想を残しています。

「本部は小さなテントの中に、二〇四空司令森田千里中佐、第二分隊長の宮野君(宮野善治郎大尉)髪を伸ばした同郷(徳島県)の川真田勝敏君がいた。誰も皆苦労の様子が顔に表れていて、海上部隊が文句を言えるどころではないと思った」

これが10月15日のこと。
戦闘以外でも、悪天候、そして基地の整備が間に合わないため、着陸時に零戦が大破したりして、まさに消耗の真っ最中だったことが覗い知れます。



同期生の証言や、残された手記からおそらく率先垂範のファイタータイプであったと想像される中尉は、そのわずかな戦歴に単独でも3機撃墜の記録を持っています。
中隊長としても期待され、大原飛曹長の言うように果敢に戦闘機を率いて戦をしたのであろう中尉自身にとっても、戦闘ではなく、悪天候に命を奪われるという最後はさぞ無念であったろうと想像されます。

今日は、残されたわずかな資料から川真田中尉がどんな人であったか伺い知ることのできる記事を挙げてみます。


昭和17年10月20日、ガタルカナル島攻撃におけるグラマンとの戦闘で「サムライ零戦隊」の著者、島川飛曹長の親友、玉井勘兵曹が未帰還となっています。
島川飛曹長によると、この出撃の少し前、川真田中尉はこの玉井兵曹に「貴様は卑怯だ」という叱責をしたというのです。

島川兵曹は「理由は分からないが」としながらも「玉井を卑怯者呼ばわりした川真田中尉」と、暗にその出来事を非難するかのような表現をしています。
(島川兵曹の記憶は「二人は同じ日に戦死」と記しているのですが、ここでは公式な記録にのっとっている「零戦隊長」の中の記述に準じます)
当事者二人はほとんど同じ時期に相次いで戦死してしまい、今となってはそのとき何があったのかは永遠に謎となってしまったのですが・・・・・。


さて、先日、国会図書館で海軍67期史を閲覧したときに、この川真田勝敏中尉について親友の今泉理氏が書いた思い出の記を発見しました。

それによると、江田島時代の川真田生徒はスポーツは何でも得意だったということで、泳ぎの下手な今泉氏の手を取り脚を取り教えてくれたのだそうです。
やはり、戦闘機専修の学生には運動の得意だった者が多かったようです。

今泉氏の記憶によると、川真田中尉は、もしかしたら思ったことをそのまま言ってしまう性格ではなかったでしょうか。

「貴様は胴長でスタイルが悪いからかがんだ方がいい、俺が立つ」
短足の私を庇って二人で写真を取るときは決まって彼は立ち私は腰を下ろしたものだった」

「貴様の声は歌にならないな」笑いながらよく歌ったのは”ああわが戦友”で、特に3番が好きだった。

 
さらに今泉氏の述壊。

向こう意気の強い荒武者風の彼のどこにそんな優しい思いやりがひそんでいるのだろうと考えさせられることは度々だった。何となく気が合って忘れられない男であった。
花も実もある武士とは云われるが二十歳にも届かぬ若さで、すでに彼には、私の遠く及ばない人間が出来上がっているように思われてならない。



ラバウルの「卑怯者」事件も、この率直にものを言う川真田中尉が、消極的な戦いをするなと部下を叱責したというのが真相ではなかったでしょうか。
指揮官としての責任を感じればこその「卑怯者呼ばわり」ではなかったかと、そして次々と失われていく仲間に恥ずべき戦いをするなという意味ではなかったかと、島川氏には川真田中尉のために釈明したいと思います。

兵学校の親友である今泉氏が生きて終戦を迎え、こうして私たちは川真田中尉のひととなりをわずかながらも知る機会に浴することができました。

しかし、誰にも知られず、戦記にも残らず、死んでいった若者たちの一人一人に当然のことながら物語があり、人生があり、彼を愛した人たちがあるのだということを、川真田中尉のことをこうやって追っていて、あらためて考えたことです。


最後に、川真田勝敏中尉が好きだった”ああ我が戦友”の歌詞を記します。


死なば共にと日頃から 
思いしことは夢なりや
君は護国の鬼となり 
我は銃火に未だ死なず




参考:サムライ零戦隊 島川正明著 光人社
   海軍67期史
   零戦隊長 神立尚紀著 光人社 

アメリカのエース本 ACES HIGH より

2010-07-21 | 海軍


ボストンからサンフランシスコに移動するとき、ローガン空港の本屋でこのような本を見つけました。
戦闘機パイロットに詳しい方ならご存知でしょうが、二次大戦中のアメリカのトップエースは、
どちらも陸軍士官で、リチャード・ボング(40機撃墜)とトーマス・マクガイア(38機)の二人です。
この”ACES HIGH”は、この二人の撃墜競争スコアを各章の小見出しにつけ、
同時に日米航空戦を語るという方式で書かれたノンフィクション。

勿論、まだ全部読んでいません。

息子なら専門用語さえ分かれば読んでしまいそうなんですが、エリス中尉、恥ずかしながら
読むスピードは(も?)完璧に子供に負けています。
何しろ彼は辞書など要らないからねえ・・・。

それはともかく、察しのいい方、あるいはこれまでこのブログを読んで下さった方なら
もうお気づきかと思いますが、この本を買ったのは、立ち読みして確かめたところ

「笹井醇一中尉の名前があった」

というただそれだけの理由。

しかしながら、笹井中尉の名前が現れる部分「だけ」を抜き出すと一瞬で話が終わってしまうので、
ここは「アメリカのエース本において日本人搭乗員の出てくる部分をご紹介」ということにいたします。


さて、まずはアメリカ側から見た「ラバウル航空隊」


1942年のニューギニアにおける航空戦は誇張ではなくいわば
『魔女の大釜』(不安定で危険な状態)であった。
米国空軍にとってそれは最悪の時期と言えた。
対する日本帝国海軍(IJNAF)は最盛期にあったからである。

ニューギニア北海岸のラエ基地には、日本の歴史の中でおそらく最も有名なファイター・ユニット、
台南航空隊があった。
この名はもともとこの航空隊が台湾の台南を基地にしていたことから産まれた。
この航空隊は文字通り1942年のほとんどの間を通じて、南西洋の上空を制圧し、帝国海軍に貢献した。

台南航空隊はおそらく海軍の最も優秀な搭乗員を集めたもので、有史以来全ての戦争を通して
最も「エリートぞろいの航空隊」であったと言える。


特筆すべきは、台南航空隊は四人ものトップエースを擁していたことで―西澤廣義、坂井三郎、
笹井醇一、奥村武雄など―彼らは全員一九四二年から四三年の間に活躍している。

同時に、大型の航空隊が、大規模な日本軍守備隊に付随する形で
ラバウルや暫定的にラエに進出していた。
陸軍航空隊の第十一戦隊、そして海軍航空隊の五八二航空隊であった。
後者はラクナイに基地を置いたが、1942年の11月半ばからはラエから出撃した。
そのころボングがニューギニアに着任している。




あのですね。
坂井、西澤、笹井とくれば!
誰か一人忘れていませんか?
そう、太田敏夫一飛曹(最終飛曹長)です。
いくら坂井三郎中尉が「太田はまだまだだった(ダッシュなしのAクラス)」なんて対談で言ったからって、
いくら坂井さんが「皆さん太田の実力を高く買いすぎですよ」なんて語ったからって、
いくら控えめな性格だったからって、名前くらい出してあげてください!

さて、せっかく16ドル出して買った本なので、読みますよ。←ちょっと怒ってる
読みますが、笹井中尉の出てくるのは二か所のみ。
もう一か所は1944年、ボング21機、マクガイア16機のスコアだったころの記述に、
このように現れます。


日本軍の航空隊の南西洋での力は衰退の一路をたどっていた。
航空機の生産は米軍のそれに比べ全く追いつかいていなかった。
(中略)
さらに、優秀なパイロットの不足が日本軍航空隊の弱体化に追い打ちをかける。

1942年当時、米軍搭乗員は世界で最も精練の、
最も能力のある搭乗員と対峙せねばならなかった。
しかし、彼らが相手にしているのは今や二流といえた。


伝説の撃墜王たち―坂井三郎、笹井醇一、西澤廣義―はもう、そこにはいない。
坂井は1942年8月8日、米海軍のアベンジャー雷撃機との交戦で負傷し、
その18日後の8月26日、ガタルカナル上空の爆撃機直掩の際、
笹井は米軍海兵隊(Marine Corps マリーン・コーア)のマリオン・カール准将に撃墜されている。
カール准将自身、18機撃墜の記録を持つエースであった。


西澤は―人は彼を『悪魔』と呼んだ―ラバウルから生還するが、
台南航空隊が再編され二五一空と名称を変えて帰ってくるとき再びこの地にに送られる。
10月、二五三空に着任するも、すぐさま下士官に昇進し、日本に帰国している。



坂井氏を負傷させたのは、SBDドーントレスでした。
この喰い違いは、坂井氏の最初の著書(アメリカではSAMURAI!というタイトルで出版された)
にTBFアベンジャーと書かれていたことに端を発しています。

近づくや否ややられてしまった坂井氏が当初敵機を誤認していたわけですが、
後にSBDであると訂正し、今日に至っています。
この著者は、坂井氏の伝記の初板を参考にしたものと思われます。

このSAMURAI!ですが、ちょうど七月、最新版が発売になるところで、
今アマゾンに予約販売をかけています。
そろそろ届くと思うのでアメリカに送ってもらおうと思っています。



おっと、ドーントレスかアベンジャーか、でしたね。
私ならアベンジャー”復讐”より、ドーントレス”勇敢”にやられた方がましかな。なんて。
そもそも日付が一日間違っているので(実際は八月七日)この著者が一日違いの資料をもとに
機種を誤認しているのかもしれません。

我々がノンフィクション作家に要求するのは
「歴史をどんな小さなことでも正確に記し後世に伝えてくれること」で、
そうであるに違いないという前提で本を手に取ります。


こういう小さい喰い違いでも印刷という媒体に載せてしまうと、歴史という観点では
わずか六、七十年前のことすら事実にコーティングをするように本当のところが分からなくなっていく、
という実例を見た気がします。
「それがどうした」と言われるような瑣末なことですが、
歴史は「それがどうした」の積み重ねですから。







参考:"ACES HIGH" BILL YENNE, Berkley Caliber




映画「 トラ!トラ!トラ!」 ~公平さがアダに

2010-07-20 | 海軍


いまさら「トラ!トラ!トラ!」でもなかろう、という向きもおありでしょうが、何しろ今になって初めて観たものですから、少しお付き合いください。

さて、この映画、日本ではどうだったのか知りませんが、アメリカでの公開は興業的に大コケだったそうです。

何故か。

この日米合作映画、どちらかの立場で物事を見ることなく、制作を彼我に分け「公平に」作られたものです。つまり、日本側の映像は日本が、(監督は深作欣二)米側はアメリカが制作しています。
その結果、サクッというと「アメリカ人には全く面白くもねえ映像の連続」になってしまったからだと思います。

真珠湾攻撃が奇襲になってしまったのは「日本からの先制攻撃をを渇望するホワイトハウス」の意向や、日本大使館の書類制作の不手際などの運命的な出来事が複雑に絡み合った結果であり、決して日本人は卑怯ではなかったする見解すら、特に勧善懲悪にカタルシスを見出す国民性のアメリカ人には受け入れがたかった(今もかな)のかもしれません。

その日のためにまなじりを決し、日夜備える帝国海軍と、情報部では無線を傍受し暗号を解読していながら政府の意向や油断の前に、現場では大事に備える心の準備のないままその日を迎えてしまったアメリカ側。

映画はむしろ、この点の対比をくっきりと描きます。

例えば両軍で同じように機雷の投的訓練を行うのですが、百発百中の出来に「よくやった」と微笑む日本側に対し、こちらはアメリカの訓練の様子です。(エリス中尉拙訳)


「一時間見てるが全く当たらんじゃないか。パイロットは目が見えるはずだろう」

「次は誰だ」
「アンダーソンです」

「ん、ちょっとはましだな。ま、君の部下は最後にはやってくれるだろう」
「私もそう望みます」

「次は誰だ」
「ディキンソン中尉です」

・・・・・・・・・・・・・(-_-メ)

「ディキンソン中尉に『お前は牛のケツに止まったハエを叩くこともできんのか』と俺が言ってたと伝えろ」
「イエスサー」(T_T))

この映画、淡々と時系列で実話が展開され、ノンフィクション的色合いが強いので、その点エリス中尉は評価します。
いきなりバッチメイク女優が、自爆した飯田大尉のことを知って泣き崩れるなどというシーンが一つもありません。
それだけでも評価したい。


日本側の登場人物で主役格は山本長官(山村総)南雲中将(東野英二郎)淵田少佐(田村高廣)源田中佐(三橋達也)。

貫禄の山本長官ですが、少しお太り気味・・・。
あ、これは、実際の山本長官も「気を遣われ過ぎていいものを食べすぎ、こっそり体の不調を訴えていた」という史実にのっとった役作りですか?
(多分違うと思うけど)

南雲中将は、実物と比べると少し「枯れ過ぎ」?
何しろ、この方には拭いがたい「黄門さま」のイメージが・・・。

「第三次攻撃は行わん!ええい山口(多門)、この菊の紋どころが眼に入らぬかあ!」

なんてね(^_^;)


淵田少佐の田村高廣がとても良いです。一緒に見ていた息子が「かっこいい!」と言っていました。
本日画像は訓練中の淵田少佐。
置屋の窓から芸者さんがきゃあきゃあ手を振っています。
京都出身の田村高廣にに関西弁でしゃべらせる演出には感心しました。(淵田少佐は奈良出身)
ただ、関西弁で「トラ、トラ、トラや!」
と叫ぶのはやりすぎだったかも。


かっこいいといえば、息子は日本側司令部がでるたびに流れる「いわゆるアメリカ人の考えるところの日本的な音楽」に「なにこれ~!」と笑い転げていましたが、それでも帝国海軍司令部がズラリと映ったり、搭乗員が鉢巻を締めたりのシーンのたびに「日本ってかっこいいよねえ」とため息をついていました。


この日本側の「かっこよさ」に対して、日本を侮りすぎて、なすすべもなくやられてしまった風の「かっこ悪い」アメリカ側。

日本側でしいてかっこ悪い部分を挙げるとすれば、

「休日で事務員がいないので自分でタイプするも、ポツポツ一本指打法でやっていたので開戦の通知が全く間に合わなかった大使館員」
でした。

日本がしたのはだまし討ちではない、ということもしっかり映画では描かれています。


「スニーキー・アタック」のせいにでもしないとおさまらないアメリカ人には、実に痛いところを突く映画になり、それゆえの大コケだったのでは、と思います。
誰しも自国sage映画は観たくないですものね。

さてその米国側キンメル司令長官、映画で、近くに落ちた機銃の薬莢を側近に手渡され「これに当たって死にたかった」なんて言っていますが、このおっさん、日本人は解剖学的に内耳に欠陥があるので飛行機で宙返りなんて絶対にできない、なんて大真面目に言ってたんですぜ。
ざまーみろぃ。



暁の中の海軍飛行隊出撃のシーンは美しく感動的です。
赤城から最初に飛び立った一番機が、滑走路を飛び立った瞬間一瞬姿を消し、再び舞いあがるのを見ていた南雲中将がこわばらせていた頬をにこっと緩め、「よし」という顔をする、こういったディティールを丁寧に描いて海軍ファンにはたまらない出来です。


一言言うなら、淵田少佐は雰囲気も体型も似ていると思うのですが源田中佐が少し体格良すぎるかな。
もう少し切れ味のいい日本刀みたいな雰囲気の役者さんの方がよかったと思うのですが。


この映画については、また書きます。






サンフランシスコのサマースクールその1

2010-07-19 | アメリカ

ボストンで一日二回の水泳やロッククライミングの日々を過ごし真っ黒に日焼けして体力をつけた息子ですが、ここサンフランシスコでは一気に「ナード(おたく)な日々」。
ここでのサマーキャンプは「レゴ・マインドストームキャンプ」
昔のレゴしかご存じない方、今、レゴとはブロック遊びではないんですよ。
コンピュータに組み込んでロボットとして動かすものなのです。
息子はここ数年毎年このキャンプでプログラムをやっているのです。

アメリカのサマースクールはボストンのように学校主催のものもありますが、多くは「サマーキャンプ業者」が主催しています。
いろいろなジャンルの業者が、夏の間普通の学校の教室を借りてそこで教室を開く、というものです。
ハーバードやスタンフォードなどの一流大学の教室を借りて、ハクをつけようとする業者もあります。
やってることは子供のサマーキャンプですが、お利口さんになった気分を味わえるかもしれませんね。

ベースボールキャンプ、お料理キャンプ、アート、演劇キャンプ、音楽キャンプ、勿論勉強ばっかりやるキャンプ、子供の興味に合わせて選ぶようになっています。
何が好きか、何に興味があるか、何が得意か、何をやっていきたいのかを夏のキャンプで知るのかもしれません。
息子の行っているのはこの「ブランダイス・ヒレル」高。
朝のドロップオフ要員。
親は車で入口を通り過ぎ、子供を落として(ドロップオフ)そのまま走り去ります。
彼らも夏休みの学生アルバイトです。
そのせいで、彼ら自身も楽しもう!って感じ満々。

アイアンマン、蜂、医学部らしい手術着着用、この赤ちゃんは勿論人形。
(医学部だから少しは歳をとっているのかも知れませんが、これ、大学生。若くて髪の毛が薄くなってしまう人、多いです(T_T)
毎日がハロウィーン状態。
スタッフの方がハイになっているように見えるのですが・・・。
このお兄さんたちは同じ学校で別に行われている「キャンプ・ガリレオ」のカウンセラー(先生のこと)。息子の学校とは「別のキャンプ」です。

生徒の数だけ用意されたデルのコンピュータ。
マインドストームへのプログラミングや、ゲーム制作をします。
しかし、一日パソコンに向かっているのかというとそういうわけではなく、何分かおきに強制的に外に追い出されるそうです。


この日の授業は、マインドストームでギターを作ろう!
ということで、迎えに行くとこれで「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を弾いて(弾こうとして)くれました。
向かいは、隣の初歩クラスの少年で、わざわざ見に来て
「おお~むちゃかっこええ!」と叫んでいます。

みんなの作品。みんなは指示通りの定型ギターですが、息子は「独自性を出すため」フレームの形を創作したそうです。指導中の先生。
このカウンセラーののトムもどこかの理系学生で、あまり先生らしくありません。

なかなかのイケメンです。
アルバイトなので、コンピュータ関係以外の指導はしないようです。
息子は毎日変わるプログラムを楽しみにエクステンド(延長)までして、フルに楽しんでいます。
おかげで体力を使い果たして(体は使っていないはずなので、気力か)帰ったら公文もチェロもブーブー文句を言いながらするので、昨日、母の小言二〇ミリ弾炸裂。

自殺の名所としてのゴールデンゲートブリッジ

2010-07-14 | アメリカ



ふむ。
「選挙には落ちたが推進していた売国法案が否定されたわけではない」とな。
誰かゴルゴ呼んでゴルゴ!←独り言ですのでお気になさらず


ウォーキングのことをアメリカではブリスクウォークといいます。
ボストンで州立公園をブリスクにウォークしてきた三週間が過ぎ、これからの一か月、ここを歩きます。
ゴールデンゲートブリッジ下の海岸。
冒頭写真はスタート地点。
建物は昔フォートとして使われていたもので、去年は入って中の火薬庫や大砲を見ることができました。
前方、ご存知アルカトラズ島。
ブリッジを後ろに歩いていくと、お休み処あり。
Hut warm というカフェです。「暖か小屋」って感じですか。
この辺、夏でも寒いですから、暖を取るために立ち寄る人は多数です。
さらに途中にこのようなものが。
これ、防空壕なんですよ。
このへんは『フォート』と呼ばれており、昔から外敵を防ぐための要塞としての設備があったところですが、
二次大戦中に作られたと思われるこの防空壕、何に対してか?というと・・・、そう、日本軍の攻撃に備えたものだったんですね。
土地が広いせいか、海岸沿いには昔の戦争の名残を今も見ることができます。
日系の帰米兵(KIBEI)が情報部で活動する為の学校もありました。

歩いていくと前方にサンフランシスコの高層ビルが。


20分歩いたのでそろそろUターンし、来た道を戻りましょう。

・・・いきなり帰ってきてしまいましたが、実はこのGGブリッジ、観光名所であるとともに
「自殺の名所」でもあります。
年間ここから身を投げる人は数十人と言われています。
言われています、というのは誰も見ていないときに飛び込んで遺体が上がらなければ
正確な人数がわからないからです。
何年か前、テレビ局だか映画だかが舗道に定点隠しカメラを仕掛け、飛び込む人の姿を
何人か捉えることに成功しています。
それによると、
「すたすたと普通に歩いてきたかと思うと、ひょいと飛び降りてしまう」人もいたそうで、
その直前まで何の悩みも無いかのように見える人がいとも簡単に死を選ぶものなのだそうです。

ブリッジ下の潮流。落下の衝撃に加え、年中低い水温とこの潮流のせいで
助かる可能性はほとんどないのが、自殺の名所となる所以です。
日本ならどこを歩いても身を乗り出せないように金網でふさいでしまうところですが、
アメリカやヨーロッパではそれを絶対にしません。
年間何十人が事故や自殺で墜落するというグランドキャニオンにも、柵を決して作ろうとしないのが
アメリカ人です。
訴訟社会ですが、日本のように事故があると責任を国や自治体に押し付けるという土壌がないからです。
「柵がないところで墜ちるのはあなたの勝手。全て自己責任でお願いします」というところです。
柵は大人の首くらいの高さ。その気になれば飛び越えるのは簡単です。

ところが、下に地面や先ほどのフォートレスがあるところには、このように
決して飛び降りられないように柵をしています。
この下に墜ちられると(地面なので確実に死ねますが)いろいろと迷惑だから、
どうしても墜ちたいなら海の上にお願いね、ということなんでしょう。

今日のなごみ写真、飼い主のブリスク・ウォークに短い脚で必死についていくミニチュア・ダックスくん。
耳が風になびく全力疾走((*^_^*))

追記:ここでの飛び降り自殺をドキュメンタリーで扱ったThe Bridgeという映画について別の日に記事にしました。
映画「The bridge」橋から飛ぶ人たち
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/1f8b82643ff7e168eee81730bc6ef5a9
というタイトルの記事です。


I left my heart in San Francisco

2010-07-12 | アメリカ

神奈川よっしゃあ~!←独り言ですのでお気になさらず

ボストン最後の日、ニューベリーストリートの風景です。
この日はヒートウェイブが去ったとはいえ、陽射しは肌に痛いほど。
古さと新しさが溶け合う街、ボストンに別れを告げました。
近代ビルと100年前の建物が並ぶコ―プリー・スクエア付近。
日本でもおなじみコール・ハーン。この辺りのお店はみな百年モノの建物の一階と二階にテナントを持っています。
ここは角の一軒全部借りている例。

土曜日、サンフランシスコに移動しました。
いきなりこれ。

寒そうでしょう。

これを書いている今、サンフランシスコ午前3時。
2時にきっかり眼が覚めてしまいました。
というのも、それがボストン時間の朝6時。
時差ボケ再び・・・・(T_T)
当たり前のことですが、アメリカ国内は時差があり、西部、中部、東部と2時間ずつ違います。
6時間かけて西に飛んできたので時間が4時間巻き戻ってしまったというわけ。

これから一か月住むアパートは、ジャパンタウンの近くにあります。
スチュディオという、一番小さなタイプですが、これくらいの広さに大人二人で住んでいる例は日本にはたくさんあるかと。
特にキッチンは、大所帯マンションのものと変わりません。

着いて早々買い物に出ましたが、さっそくボストンで買ったプラダの皮ジャケットが役に立ちました。
何回も来ていて「サンフランシスコは寒い」と分かっているはずなのに、暑い日本やボストンにいると頭では理解していながら、実際の感じより甘く見てしまうんですよね。
で、来てみて「やっぱり寒かった」と毎年毎年。
ボストンでもう少しセーター買えばよかったなあ、と思うのも着いてから。


さて。
I left my heart in San Franciscoという曲をご存じだと思います。
日本で流行った時期があるらしいんですね。
で、今初老と言われる年代の人たちは、みんなこの曲が好きです。
ジャズの仕事をしていたとき、一日に必ず一度、このリクエストが来たものです。
おかげで、当時は「嫌いな曲ナンバーワン」でした((^_^;)

何故、日本人がアメリカの一都市であるサンフランシスコへの愛を歌ったこの曲がこれほど好きなのか、実のところエリス中尉にもあまりよくわからないのですが、メロディは確かにドラマティックであり、なじみやすくもあり、素晴らしくよくできています。

しかし、この曲が名曲と言われるのは、サンフランシスコのことを知っている人が「そうそう、その通り」とうなずいてしまう歌詞の魅力が大です。

「小さなケーブルカーが星に向かって坂を登っていく」
という歌詞は、カリフォルニアストリートを西に向かって登って行く坂道のこと。
この坂の険しさは半端ではなく、その昔、坂で苦しんでいる馬が可哀そう!と思った人がケーブルカーの敷設を決心した、というくらいのものです。
冗談抜きで、ここを車で走ると後ろにひっくり返るのではないかと思えるくらいです。
そして、本当に、下から見ているとその通り、車もケーブルカーも空に向かって登っていくように見えます。
その一瞬を眼にしたとき、この歌詞の本当の意味が頭でなく「感覚で理解でき」たと思いました。
そう、それは暑いところにいて「サンフランシスコは寒いよ」と言われてもなかなか実感できない人が行ってみて初めてそれを理解するのに似ていました。


そして、まだサンフランシスコを知らないとき。
その中の歌詞、

The moaning fog may chill the air
I don't care!

(朝の霧が空気を冷たくする。でもかまうもんか)

の「構うもんか」が、どうしても大げさな表現に思えていました。
朝、空気が冷たいのは結構なことじゃないですか?としか、日本に住む身では思えなかったわけです。
しかし、実際にここに来てみて霧のせいで夏でも憂鬱なくらい寒い天気が繰り返されると、たいていの人間は それを
"I care"(構う)ということが実感できます。

つまり、そういう悪天候であったとしても、サンフランシスコそのものを愛しているから
気にならないんだ、と、反語的に讃えているわけですね。

確かに、天候だけでいうと、夏に夏らしい恰好で歩けず、冬は冬で雪も降らない、中途半端な一年がだらだら繰り返される街です。
日本のことを話していて、相手に「ああ、日本は四季(シーズン)があるからねえ」と言われ、あらためてここには春夏秋冬は無いんだ、と思ったことがあります。

しかし、それにもかかわらず、サンフランシスコは魅力的な街です。

最初にボストンから引っ越したとき、実はひどく落胆してしまったものです。

寒い。
モノが高い。
車を止めるところが無い。
コインパーキングが高い。
駐車取り締まりの車(民間)がいつも走り回っていて、一分でも過ぎたらチケットを切る。
中国人だらけで、そいつらが郵便局や免許局などでやたらいばる。
一軒家が無く、家と家の間がくっついている。
街並みにボストンほどの風情がない。
英語が分かりにくい。

しかしながら、住んでみると、なかなかこれがいろんな魅力を持っている街でして、まるで「一見美人ではなく、性格も複雑な女性が、深く付き合ったらいいところがたくさんあり、ふと見せる表情が美しく、その欠点も含めて好きになってしまった」
という具合に愛してしまうわけです。
これは私に限らず、みんながこういう風にいうんですね。
年がら年中霧が出てばかりいるわけでもなく、美しく晴れ渡った穏やかな日がそんな天候のあいまにふと現れる。
そのとき、サンフランシスコは人の魂を奪うように魅力的な顔を見せるのです。


そこでみんなが「心をサンフランシスコに置いてきてしまう」と・・・。

「人生がちょっとばかり複雑」に思える、大人の街といえるかもしれません。



YOU ARE THE FATHER!!

2010-07-10 | アメリカ
マイケルジャクソンが死んでから初めて彼の曲を聴いてファンになった人、多そうですね。
マイケルの曲に「ビリー・ジーン」って言うのがあります。

「ビリー・ジーンは恋人なんかじゃない
一晩躍っただけなんだ
ジェイムズは俺の子なんかじゃない」

という衝撃的な内容の曲ですが、日本人の感覚では「もう生まれて名前を付けている段階で『あなたの子よ』って言う?」と思いませんか?

それがですね。
アメリカではそういうことがしょっちゅうあるらしいのです。

先日、アメリカの最低お下劣番組「ジェリー・スプリンガー・ショー」を紹介しましたが、おる意味こちらの方がお下劣、という「モーリー」という番組が今日の話題。

この番組の売りはなんと「DNAテスト」。
誰の子供かわからない、あるいは男性が父親であることを認めない子供を持つ女性が番組に男を引っ張り出し、司会のMAURYに話をします。
モーリーはDNAテストの結果を読みあげ

YouARE the father!
あるいは
You are NOT the father!

とやるわけです。

実際の番組で説明します。

これが司会のモーリー。
ジェリーのように、この人も比較的説教はしませんが、女性を慰めたり、男性に皮肉交じりのサジェストをしたり、という程度。
この手の番組は実は他にもいくつかあって「俺のショーから今すぐ出ていけ」とか「もし彼女の話が本当なら今すぐあんたのケツを叩いてやる」なんて暴言を吐くのがウリの司会者もいます。
今日の女性は、この男性が父親だと言い張っています。
男性は「そんなはずはない・・」と逃げ腰。女性は口をきわめて男性を罵ります。

ところが、この子供の父親である可能性があるのは実はこの青シャツ君だけではありませんでした。
父親候補の残り二人。
こちらも「俺は絶対違う!」と言い張っています。

ここで、子供の大アップとともに三人の顔が写ります。

「これ絶対こいつの子供」と似ているのを視聴者に当てさせるサービスでしょう。
あなたはこの子、誰に似ていると思います?
子供が出ると、会場に来ている参加者が「オオゥ~」(かわいい~という意味のアメリカ人特有の叫び声)と一斉に叫びます。
そして、ブーイングに迎えられて、残り二人も入場。

モーリーがおもむろに取り出す封筒、ここにDNAテストの結果が入っています。
息を飲む瞬間。

「青シャツくん。ユーアーのっとザ・ファーザー!」

「うっそお!」
青シャツが父親だと思い込んでいた女性、ショックでスタジオを駆けだします。
(これもお約束)

モーリーが追いかけて、慰めとともに連れ戻し、残りの二人の発表。

「赤シャツ君。ユーアーのっとザ・ファーザー!」


赤シャツ、思わずガッツポーズ。黒シャツはぼーぜん。
残るは自分だけだからです。

そして可哀そうな黒シャツに死刑宣告が。

ああ、ちょうど字幕で宣告しているところが撮れました。
もう一度似ているかどうか比べる写真見てください。
左端が黒シャツ君ですが、一目瞭然で似ています。


黒シャツ君、涙目。女性も何故か浮かぬ顔。

といったハラホレヒレハレなストーリーが毎日毎日、一回の番組につき四組繰り返されます。
驚くことにこういう訴えはいくらでも・・それこそいくらでもあるようです。

我々恥を知る日本人に言わせると、公衆の面前で自分がいろんな男性と云々、みたいなことを言いたてる女性が一番信じられないんですがね。
それから、こういういきさつをテレビで放映されてしまった子供の立場は?
もう出だしからケチつきまくりとしか思えないんですが。

それでは最後に黒シャツ君に感想を伺ってみましょう。



字幕はモーリーが
「私は今経済支援とかについて話しているんではなく父親として・・・」と言っているところ。
誠意を表せっていうことですかね。
それを聞いていて黒シャツ君

「ぴー」

おっと、放送禁止用語を呟いてしまったようです。





そりゃ太るわ

2010-07-10 | アメリカ
日本で「体重を減らしたい」と悩んでいる方、どんな方もここにくればスリムと言われるおとぎの国、それがアメリカ。
日本人の「太ってると自分で思っている人」なんて、ここでは「スキニー」とまではいかなくても「そんなに痩せてるのにダイエットなんて」と言われること必定。
特にこの辺りは東洋系が少なく、周りを見回せば3人に一人は太った人。
体質的に太りやすいうえ、食生活にかなり問題があるみたいです。
そんなおデブさんの国、(東部)アメリカのスイーツ事情です。
ジュライ・フォースの日、「どうしてケーキにこの色を?」という食欲をそそらないケーキの画像をあげましたが、アメリカ人というのは日本人とかなり甘いものに対する感受性や何かが違うもののようです。
大抵のものが「虫がわきそうに」甘いです。
日本のお母さんがケーキを焼いてアメリカ人の子供に食べさせると「甘くないので美味しくない」とはっきり言われるそうです。
そして、食べ物が安いこともあって、大抵のものがものすごい量です。
息子がどうしても一度食べてみたいというので「マンチキン」とやらを買ってやりました。
ネタになるかなあと一度だけ、という約束で買ってやったのですが・・・。
この毒々しい蛍光オレンジの物体は、チョコレートスプリンクルです。
最低25個からしか売ってくれないんですよ。(あとは50個入り・・パーティ用?)
これ、息子がいくつか食べたあと。
私は絶対食べないし、この後どうすれば・・。
これ、25個で4ドル99です。安いですよね。
安いからって買ってみんな食べちゃうアメリカ人。
この弾金ドーナツ(わざとです)は、なんとドライブスルー。
いつもいつも、車がスルーしています。
本当にアメリカ人、ドーナツが好き。

そりゃ太るわ。

1ドル25セントのプレッチェル。大きさを比較するため、ホテルのカードキーを置いてみました。モールで焼きたてを売っていて、いつもその周りにはいいにおいが。
ふらふらと買って歩きながら食べるアメリカ人。

オーガニックスーパー「ホールフーズ」のイートインコーナーで息子が食べた(お断りしておきますが、本日の画像全て私は一口も食べていません)ピザ。
無茶苦茶でかいです。これで200円くらい。

ホテルの売店で売っていたM&M入りアイスクリームサンド。
この原色がどうして美味しそうに見えるのか全く理解できない。
青い色が絵の具のようにナプキンについています。
これも、一度だけ、と言って買ってやりました。
(これも、ネタになるかなあと、写真を撮るためだけに許しました・・・。ピンボケですが)
ホテルのおねいさん(かなりふくよか)が「これ、美味しいわよ!マイ・フェイバリットなの」と言いながら渡してくれたのですが息子「こんなの毎日食べてるからああなるんだ・・」
と一言。まあまあ(^_^;)
そう、アメリカと言えばアイスクリーム。
アメリカ人のアイスクリーム好きは半端じゃない。
学校の近くにある「ウルマンズ・アイスクリーム」。
冬の間豪雪地帯のこのへんではおそらくやっていないと思われる「アイスクリームしか売っていない」お店。

初老のウルマンさんは、売り子をカレッジの運動部か何かのアルバイトに任せています。
みんなぴちぴちのかわいいおねえさんばかりで、それがまた人気を呼ぶという商売上手。
「3か月で一年を寝て暮らす男」
と呼ばれているかどうかは分かりませんが、とにかく、いつ行っても車がいっぱい停まっていて繁盛しています。
みんな、買ったアイスをそこにあるテーブルで食べます。
「ドライアイスで持ちかえり」ということをしていないので、その場で食べるしかないのです。
画像では牛がいるように見えますが、柵の向こうは隣の家の庭で、ウルマンズの客のために牛の飾り?を置いて牧場ムードをだしているのです。
でも、ここはウルマンさんの家ではないようです。
暑いときにはもう長蛇の列。

ここのアイスクリーム、アメリカのものにしては甘さ控えめで、結構おいしいのですが、何しろ量が・・・


これ、キッズサイズで一番小さいカップ。
250円。
日本のアイスクリームの優に2倍半はあります。
息子はここのアイスが好きで滞在中何度か立ち寄るのですが、一度も全部食べたことがありません。
この上に3クラスくらいあって、一番大きいのは3段重ね。
誰が食べるんだ、と言いたいところですが、たいていの人が最低2段重ねを食べているから驚きます。
小さい写真の赤いシャツの男の子、こんな小さいのに手に持っているのはミドルサイズ。
(コーンにのせています)
よしよし、君も立派なアメリカの少国民だ。

いつもこういう彼らの食べっぷりを見ては内心つぶやいています。

「そら太るわ」




U.S.ARMYのリクルート

2010-07-09 | アメリカ
アメリカでテレビを見ていて「これは日本ではありえない」と思うコマーシャルはの一つに選挙前の知事の「対立相手をけなすもの」です。
シュワルツェネッガーの前の知事選は相手のけなし合いが凄かったです。
いわく「何とか候補の経済対策は無茶苦茶で、言ってることもどうこう」と、そんなこと言っていいの?と思われることまで糾弾していました。

こんな調子で日本の選挙も対立政党の弱みを明らかにしたほうがいいんじゃないですかね。なんかマニフェストは生きものだ、なんて言い方でのらりくらりとはぐらかしてたり、マニフェストに書いていないことをこっそり国会に通したりしようとする政党があるみたいですから。
ここで叫んでも何の影響もないかもしれないけど、言っておくが日本は日本人のものだからな!

さて、アメリカのコマーシャルです。
日本には絶対ないものの二つ目。
それは「自衛隊のリクルート」コマーシャル。
アメリカでは時々アーミーのコマーシャルを見ます。
かっちょいい映像と愛国心を否応にもあおる威風堂々な音楽とともに
「アーミーは君を必要としている」

日本の自衛隊がもしTVコマーシャルなどしたら朝日新聞あたりが「軍靴の響きが聞こえる」なんて騒ぎそうですね。
テレビもねえ・・。今どこの局も大変だっていいますが、誰も見ない韓流なんてねつ造していないで自衛隊のドキュメントかなんかやった方が視聴率取れると思うんですけどね。

エリス中尉、アメリカの軍隊事情については詳しくないのですが、こういうコマーシャルで見るのはいつもアーミー。
ネイビーやエアフォースは見たことないんですよ。
もしかして、アーミーだけが人材不足なのか、募集形態が違うのかはよくわからないのですが。

先日、息子の服を買いに「OLD NAVY」というアパレル店に行きました。
アメリカの常でとても広い店舗なのですが、そのときインディペンデンスデイ当日で、何故か店員が「OLD NAVY」と書かれたアーミー柄のTシャツを無理やり着せられていました。
(お掃除の黒人のおっちゃん、無茶苦茶似あっていて、「軍曹!」と呼んであげたかった)
何故「旧海軍(OLD NAVY)」で「陸軍」のシャツ?
という疑問は誰も持っていないようでしたが、さらにウケたのが、店のあちこちに置いてあった今日画像のリクルートパンフ。
「旧海軍」で陸軍の募集を・・・。
左には「士官になる」と書いてあります。
海軍士官になら、なってみてもいいがなあ。
どれどれ。

「陸軍士官になるにはいくつかの方法があります。
まず予備士官養成機関に入ること。(reserve officer's training corps)
(この最後のcorpsは何故かフランス風に『コーア』と読みます)←おせっかい
あなたはカレッジで歴史、肉体の鍛錬、指揮官としてのスキルを身に付けるための経験を積みます。
もし4年生大学を卒業しているか卒業予定なら、幹部候補生学校(officer candidate school)。高校生なら・・」
という調子。
訳すのが面倒になったので以下省略しますが、興味がある方はgoarmy.comまでどうぞ。

「誘い文句」。

「今のチカラが後のチカラに」
「基礎的な戦闘鍛錬―常に我々であるために」
「キミの最大限の可能性をアーミーの訓練と経験を通して知れ」
(軽い感じを出すためにところどころカタカナにしてみました)



で、何故か中国語のパンフレットがあったのです。(上の画像画像右、下画像左のパンフ)
いやあ、人口多いですからね。いまや中国人の手も借りたいってことですか。
中国と戦争になったらどうするのかな。
ロスアンジェルスあたりでは、あまりに増えすぎてロト(くじ引き)による市民権対象から「もういらん」とはじかれた韓国人が、永住権欲しさに軍に殺到しているそうです。
そんなに自国が嫌なのかしら。韓国の人って。(棒読み)

移民の国なので、民族や元の国籍など全く意味を持っていず、アメリカにに忠誠を誓い永住権を取得さえすればだれでもOK!
ステイツのために大いに戦ってくれ!そして何かあったら散ってくれ!というのがアメリカの姿勢。
二次大戦時、日系アメリカ人部隊がヨーロッパ戦線で活躍したという史実が語るように、彼らにとっては人種ではなく「旗の下の忠誠」が第一義なのだということが分かります。


中国人向けのパンフはやたら東アジア系を登場させて「君だけじゃないよ、ほら」って感じを強調しています。

で、大いにウケたのですが、この左側でトロンボーン吹いてる軍楽兵、軍服の名前は「オカモト」さんなんですわ。
いくら人種にこだわらないって言っても、こういうことにはもう少し気を遣った方がいいかもしれないね、アメリカ人。




ジュライ・フォース

2010-07-05 | アメリカ


「7月4日に生まれて」という映画以降、独立記念日がこの日であることが日本人にも有名になったようです。
アメリカ人は今日の題の様に「ジュライ・フォース」と言います。


その日が近づくと、町中に国旗が翩翻と翻ります。
一般の家も、国旗を飾り、ムードが高まります。
星条旗は実に美しいなあ、と思います。
(日本人も、もっとちゃんと国旗を掲揚するようになってほしいです)
ここはボストン・ティーパーティーもあった、独立革命の中心地。
人口比率としても、西海岸よりコケイジャン(ヨーロッパ系アメリカ人、特にイギリス系)が多いので、おそらくアメリカで一番独立記念日を盛大に祝う地方の一つではないかと思われます。

そういえば、昔住んでいたところには、実際そこで戦闘があったという広場があり、そこでまるで京都葵祭のごとく(?)当時の衣装に身を固めた人たちが、空砲まで持ち出して、臨場感あふれる模擬戦闘を芝居形式で見せてくれるのです。当たり前の話ですが、皆無茶苦茶似合っていて、これを脱いだらTシャツと半ズボンでどこにでも行く人種には見えませんでした。
史実にのっとった展開だったのだろうとは思いますが、外国人の私たちにはさっぱり理解できなかったのが今も残念です。


これは、息子の学校の前の道に飾ってある、独立戦争当時のキャノン。
これを撮った日、誰かが亡くなったのか、国旗がどこに行っても半旗になっていました。


街角にある「この街出身の戦死したベテラン(戦争に行った人たち)を讃える碑」。
記念日に間に合うように、今回なにか補修工事をしていましたが、それが終わったところ。

国のために戦って死んだ人たちをこうして悼むという、ごくごく当たり前のことが、町単位でも行われています。

そういえば、我が家がボストンに住みだしたのは2001年。
ご存知でしょうが、この年の9月11日、同時多発テロが起こりました。
その日、ボストンで見たことについてはまた別の日に書くこともあるかと思います。
その次の年、私たちがアメリカに着いて最初の7月14日のことです。

朝、いつもの道を散歩していました。
6時ごろで人通りのほとんどないマサチューセッツアベニューの舗道。
エリス中尉の歩く10メートルほど先にいて地面をついばんでいた鳩に、空から舞い降りてきた鷲が襲い掛かり、目の前でまさにわしづかみにしたかと思うとさらっていってしまったのです。

あまりの出来事に一瞬立ち止まって鷲の行方を眼で追ったエリス中尉でしたが、次の瞬間あることに気がつきました。

「インディペンデンス・デイに、鷲(アメリカの象徴)が鳩(平和の象徴)を・・・」

それがただの偶然というには、そのころのブッシュ大統領の動きはキナ臭く、同時多発テロをきっかけに「悪の枢軸」発言などもあり、つまりはイラク侵攻を着々と準備していたころだったわけです。
ある意味このアネクドートじみた小さな出来事が、後から考えても、実に象徴的にその後の経緯を語っていたと思われ、いまだに忘れられません。

アメリカ人はいい奴が多いし、アメリカ社会はある意味風通しがよく、よそ者には入っていきやすく、現にこうやってフリークーエント・トラベラーとして何度も立ち寄るほどに好きな国ではありますが、アメリカのこういう大国主義的な面は日本を追い詰めた戦前から全く好きになれません。
ジャイアニズムというのでしょうか。
911も、つまりはイラクに侵攻するためのの自作自演、という説が、アメリカ人の中にもいまだに色濃くあるようです。

しかし、どんな国であっても、自分の生まれた国を愛するのは、これまた当たり前のこと。エリス中尉も、現政権に満足したことは一度たりともなく、日本人の嫌な面もいっぱい知っているつもりですが、それでも日本人でよかったと思うし日本に生まれたことに誇りを持っています。

アメリカも、国としていかがなものかと思う面は多いとしても、彼らの愛国心の発露をこうやって垣間見ると、実に羨ましく感じます。そして、どんな国であっても自国を愛している国民が一番その国民らしく思える。
国、そして国旗国歌を愛することを素直に表明できない今の日本って、何なんでしょうね。
(その諸悪の根源はアメリカの『敗戦国に対する壮大な実験』であると思っていますが・・長くなるのでまた別の日に)


その日、この辺りでは、チャイコフスキーの「序曲1812年」に合わせてチャールズリバーに打ち上げられる花火に涙したり、恒例のホットドック大食い選手権をTVで見たり(チャンピオンはここのところずっと有名な日本人です)友人親戚を呼んで大好きなバーベキューを湖のほとりや自宅の庭でしたりするのです。

どんな方法でも、国を愛する気持ちさえあれば結構。
各自それなりにその日を楽しく過ごして下さいな、と異邦人の身としては敬意をもちつつ申し上げる次第です。
それでは、ハッピー・フォースと描かれたケーキで



お祝いしてください。

(-_-;)まずそう



アメリカのサマースクール

2010-07-01 | アメリカ

息子のサマースクールについてお話しましょう。
アメリカでもっとも古いボーディングスクール、と以前書きましたが、古さを売りにしているだけあって、創立は1866年。
日本は幕末、薩長同盟ができた年です。

以前我が家はボストン都市部に住んでいたのですが、日本に帰るときに今後夏ごとに参加できるサマースクールをあちこち訪ね歩き、探しました。
アイビーリーグのお膝元である東海岸、特にボストンなどのニューイングランド地方には優秀な学校がたくさんありますが、それはたいてい都市部を避け、教育環境としてふさわしいと思われる郊外に位置するものがほとんどです。
この学校も、ウスターソースの語源になったウーセスターとボストンの中間地点に位置します。
この学校に立ち寄り、関係者と話をして、国外移住者である我が家が夏ごとにサマースクールに参加する道筋をつけて帰国して以来、毎年夏はここに「帰ってくる」のを恒例としているのです。


これは、通学路。
アメリカ郊外の常で、道路を歩く人はジョギングする人だけ。自転車に乗る人はトレーニングしてる人だけ。
全ての人は車で移動。路線バスもありません。
通学はスクールバスか親の車。

薩長同盟当時の建物です。
東海岸は地震がないので、建物がやたら古いままで残っていて、さらにそれをいつまでも使い続けます。改装するのは内部だけ。

そんな歴史と伝統に育まれた由緒正しい学校で息子はどんな素晴らしい教育を受けられるのか、というと・・・・

アート=ビーズで何かを作る 絵を描く ビニールひもを編んでミサンガ?作り 
野外活動=アーチェリー、ロッククライミング(学校内で)ロープ渡り
演劇(週末発表会)
クッキング
水泳(朝、午後計2回)

もしかして、遊んでいるだけではないのか?
と思われた方、あなたは正しい。
アメリカのサマースクール、サマーキャンプというものは、こういうものなんです。
だからこそ、こちらで公文をやらなくてはいけないわけですよ。

この夏の間、思いっきり遊んで、体を鍛え、リフレッシュして9月からの厳しい勉強に備える、というのがアメリカ人の(ヨーロッパもかな)考え方。
我々日本人には「いくらなんでも遊ぶのが長すぎ」という感は拭えないのですが。



で、キャンプが始まる前の週末、恒例のバーベキューパーティーあり。
このバーベキューと、キャンプファイヤーでマシュマロを焼いて食べる(!!)というのが、アメリカ人における「夏休みの楽しい思い出」になるもののようです。
おそらく、うちの息子にとってもそうなるんでしょうね。