いきなりですが、訂正があります。
追悼式前日、神職によって行われた祭祀について
「慰霊というより掃海隊の安全祈願ではないか」
と推察してみたのですが、文献を当たったところ、
それは全くの間違いであったことがわかりました。
今回は、そういったことを交えてお話しさせていただこうと思います。
戦後日本近海における機雷除去による掃海活動について書かれた
「掃海」(水交社発行)は、実際に掃海に参加した隊員の手記を中心に、
触雷事故の全ての状況を詳しく知ることのできる資料です。
そこに記された海軍兵学校69期卒の姫野修氏が行なった講演内容によると、
●昭和27年平和条約が初効し、日本が独立したのをきっかけに、
海上平安ゆかりの琴平に殉職者顕彰碑を建立することになった
●国家再建の尊い礎石となった殉職者の偉業を後世に伝え慰霊を行い、
遺族の方々をお招きして慰霊祭を行うことになった
●趣意書発起人は地元観光事業促進協議会会長を始め、
全国32の港湾都市の首長が名を連ねた
●当時の総理大臣吉田茂氏もそれを諒とし揮毫を快く引き受けた
●最初の慰霊祭は昭和27年6月23日に行われた
とあります。
顕彰碑に香川県の庵沼町産の巨大な石を選定したので、
琴平までトレーラー輸送するのに途中通過する橋という橋を
全て補強しながら進む必要があり、その作業のために
6月23日の慰霊祭当日、まだ石碑は金刀比羅宮の石段の中途にあり、
ついにその日には除幕式は行えなかったという話もありました。
折悪しくも前日に上陸したダイナ台風も影響を及ぼしたそうです。
また前回、追悼式が5月最終週週末になったのは、旧海軍記念日であった
5月27日に合わせたのではなかったか、と推論を述べたのですが、
このことも微妙に間違っていたことをお伝えせねばなりません。
それはもう少し後に譲るとして。
呉地方総監が本宮に拝礼を行うシーンを見るために、
本宮前で到着を待っていたのですが、待てども待てども総監は現れず。
そのうちに「立て付け」のリハーサルが始まる時間が近づいたので、
諦めて一気に一番上から慰霊碑前まで階段を降りてくると、会場では
ちょうど儀仗隊が最初の儀仗を行うために整列しているところでした。
音楽隊を始め儀仗隊、そして執行官である呉地方総監も、
ほぼ本番の通りに通しで行います。
違うのは、一種礼装に当たる制服を着ていないことだけ。
この一連のリハは、主に儀仗隊と音楽隊のために行われるもので、
後ろのテント前列には「地方総監」「国会議員」「遺族」など、
役割を書いたプラカードを下げた隊員が並んでいます。
予行に立ち会う自衛官も、必ずするべきところでは敬礼を行います。
弔銃発射の姿勢。
とにかく、儀仗隊の出来が追悼式の出来を左右するというくらいで、
フェイリアー・イズ・ノット・アン・オプション。(なぜ英語)
失敗は決してゆるされません。
それだけにリハーサルは入念を極めました。
とりあえず代役で一通り流れをリハするようです。
これは呉地方総監役が献花を行なったというところ。
最後の国旗降下までを通して行いました。
この国旗を掲揚、降下する隊員たちにも厳しくチェックが入りました。
終わった後も繰り返し行われる着剣、脱剣作業の練習。
この後、呉地方総監が参加しての「リハーサルの本番」が行われるのですが、
肝心の総監がまだ到着しておりません。
例年呉地方総監は食事の後「神椿」から本宮まで登って参拝を行い、
そこから降りてきてリハーサルを行います。
みんなが到着を待つ状態になってしばらくして、
「総監は現在高橋由一記念館のところを通過しております」
という状況報告が入りました。
これで皆が心の準備を行い(多分)、リハ本番に備えます。
呉地方総監池海将が、ご遺族(の役)を案内して入来するところから始まります。
この隊員さん、役得として、海将や一佐にこの通り丁重に扱われることになります。
式次第は国旗掲揚から。
儀仗隊は捧げ銃を行う前に、このように俯く姿勢をとります。
捧げ銃(つつ)は儀仗隊隊長の号令によって行われます。
練習艦隊の記事で、指揮官が「掛け声をかける」などと書いてしまいましたが、
正しくは掛け声でなく「号令」(当たり前ですね)。
また「号令をかける」という言い方も間違いで「号令は発するもの」であり、
「号令を発する」のは「号令官」というのが正しい、
ということをご指摘いただきましたので、ここに訂正させていただきます。
左手で銃の中央部を持ちながら上に引き上げて体の中央で構え、右手で銃の下部を持つ。
これが自衛隊における捧げ銃のやり方です。
興味深いのは、「捧げ銃」で調べると、どこの国の軍隊においても
「非武装時は敬礼を行う」
と書いてあることです。
つまり敬礼とは「銃がない時の捧げ銃」であり、捧げ銃とは逆に
「銃の敬礼」であることを改めて認識しました。
儀仗隊指揮官は幹部がつとめ、儀仗隊の先頭には一人だけ海曹が加わります。
地方総監は国旗掲揚に続き殉職者の霊名簿奉安を行います。
祭事でいうところの「降神」で、御霊に降りてきていただくための儀式です。
最初の追悼式が行われた昭和27年には、祭主は兵庫県知事が勤めました。
厳密には、昭和49年まで祭主は金刀比羅宮であり、遺族50名ほどに対し、
海上幕僚長が招待されて参加するという形になっていたそうで、
自衛隊の掃海部隊は第1掃群司令だけが代表で出席していました。
ところが、昭和50年からは
「慰霊祭」とは別に「追悼式」が
行われることになったのです。
実はわたしが昨日立ち会った神式の祭祀、あれが「慰霊祭」で、
かつては旧海軍記念日の5月27日に行われていました。
(つまり今回の慰霊祭は5月26日で海軍記念日ではなかったことになります)
なぜこんなことになったかというと、自衛隊に逆風が厳しかったこの時代、
「宗教色の強い慰霊祭を自衛隊が行うのは憲法20条に抵触する!」
と騒いだ連中がいたというのが理由でした。
そこで、祭事である慰霊式を追悼式の前日に行うことにして、追悼式は
祭主に代わる執行が呉地方総監によって執り行われることになったのです。
当時、この不条理な圧力に対して受け入れがたいとしたのは、
当然かもしれませんが、自衛隊ではなく主催者であった金刀比羅宮でした。
この時、呉地方総監が神社側を説得し、神社側は
「不本意ながら今の世情では仕方ない」
とこれに妥協したという経緯がありました。
このことは、当時の呉監管理部長の書簡に残されている事実であります。
こうして現在、掃海殉職者追悼式は、呉監の企画、準備、そして
執行の下で行われ、掃海隊群が追悼式の中心的役割を果たしています。
なお、神職によって行われる「慰霊祭」には、呉地方総監をはじめとする
海上自衛隊幹部などが「招待を受けて個人的に」参加している、
という形を取っているということです。
つまり慰霊祭は掃海隊の安全祈願のための祭祀ではなく、
あくまで永代供養されるべき殉職者の慰霊だったのです。
音楽隊は、弔銃発射の時に儀礼曲「命を捨てて」を奏楽します。
先日取り上げた小説「海軍」には、真珠湾攻撃で「九軍神」となった
特殊潜航艇乗員たちの葬列を送るためにこれが演奏されたとありました。
「命を捨てて 益荒男が 立てし功は あめつちの
あるべき限り 語り継ぎ 言いつぎゆかむ 後の世に」
このような時に演奏する曲は、陸自と空自には公式に存在せず、
必要に応じて隊長が適当な曲を選ぶことになっていますが、
海上自衛隊は海軍時代の儀礼曲を現在も採用しています。
第11代東京音楽隊長である谷村政次郎氏の著「海の軍歌と禮式曲」には
わたしも参加が叶った平成26年度練習艦隊による
ホニアラ島からのご遺骨帰還式典における捧げ銃の場面で、この
「命を捨てて」が演奏されたことが書かれています。
「多くの参会者の中で、この曲名を知っていた人はほとんどいなかったであろう」
おっしゃるように、自衛官以外では谷村氏とわたしだけだったかもしれません。
弔銃発射は捧げ銃(指揮官は敬礼)の状態から始まります。
音楽隊が「命を捨てて」をワンコーラス演奏するのがこの時です。
号令が発せられると、着剣した剣の取り外しを行います。
脱剣はほぼ一瞬で行わなくてはいけません。
この部分は何度か繰り返して練習をしていました。
脱剣した銃を抱くように斜めに構え・・・・・、
「弔銃発射用意!」
銃を構え、第一斉射。
その後「命を捨てて」の最初8小節が、三倍速くらいで演奏されます。
それが終わると発砲、また演奏、発砲。
合計三斉射が行われ、クライマックスである弔銃発射は終わります。
指揮官の号令のタイミング、斉射のタイミング、指揮者のタイミング、
全てがぴったりと合って初めて滞りなく終了します。
呉地方総監が献花のリハーサル。
最初に行う呉監だけがリハを行います。
式次第には音楽隊の追悼演奏もあります。
この時のアナウンスでは、「軍艦」「海ゆかば」「掃海隊の歌」など、
確か4曲がコールされていたと思うのですが、本番では2曲でした。
コンパクトにすることで、高齢の方が多いご遺族に配慮したのかもしれません。
演奏が終わり、霊名簿を降納します。
これも祭事で言うところの「昇神」で、御霊にお帰りいただくのです。
国旗掲揚台に正対した儀仗隊の前で国旗が降下されます。
音楽隊は国歌を奏楽しています。
無事にリハーサルが終わったと思ったら、儀仗隊になんと
掃海隊群司令自らのご指導ご鞭撻が行われました。
「儀仗隊は慰霊式の花形なんだから・・・・」
という最初の言葉だけ聞き取れました。
あとは姿勢や間隔の取り方などについての注意が行われたようです。
さらに総監、群司令、司会など幹部がみんなで打ち合わせ。
本番の追悼式に向けて慎重に調整を行なっていました。
追悼式会場から退場する時、車のあるところまでは階段を登りますが、
白い制服の彼らが団体で歩くと、参道の注目が一斉に集まります。
神宮の一角に自衛隊の慰霊碑があることを全く知らなかった人が、
自衛官を見ることで初めてそれに気づく、ということもあり、
彼らの姿そのものが、広報の役に立っていると言えるかもしれません。
続く。