ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

Uボートの艦上生活〜シカゴ科学産業博物艦 U-505展示

2023-05-29 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505本体。

その艦体周辺には、Uボート艦内から発見された実物の装備や武器について
パネルによる解説と共に観覧者が理解を深める展示があります。

その中でおそらく最も全ての老若男女の興味を引いていたのが、
Uボートでの生活を窺い知るこのコーナーではないでしょうか。

LIFE ON BOARD A U-BOAT
(Uボートでの艦上生活)

と示された一角には、前にも紹介した通信室をはじめ、
乗員たちの食器などと共にキッチンなども再現されています。

■ 水密&耐圧ハッチ
Watertight & Pressure-proof Hatch




劣化していないことからおそらくレプリカでしょう。

Uボートにあったのと同じサイズのハッチが設置されています。
もしかしたら、校外学習などで来たキッズは、
ここを実際にくぐってみることもあるのかもしれません。



Uボート艦内にこれと同じハッチは、
合計4つの隔壁と、上部の司令塔をそれぞれ密閉するためにありました。




わたしも今回いくつかの隔壁ハッチをくぐりましたが、
体をかがめて分厚い隔壁ハッチをくぐるのは大変だと思いました。

映画「Das Boot(Uボート)」で、急速潜航の際、手の空いた乗組員が
人間バラストになるためにだーっと艦首側に走っていくシーンで、
ハッチをくぐる時には、上部に手をかけて足を放り込むか、
手を伸ばして頭から飛び込んで床で一回転していたのを思い出します。

映画なので多少は誇張したのかもしれませんが、
いずれにしても非常時には非常時の発地の潜り方があった模様。



荷物をかかえているとまた一段と大変そう。



水密&耐圧ハッチは、区画を完全に切り離す役目をします。
ある区間で事故があった場合、ボートを救うために
そのコンパートメントだけを閉鎖するのです。

もちろんそうなればUボートの空気は、
その時点で艦内に残っているだけしかありませんから、
一刻も早くどこかで浮上することを目指します。



椅子みたいにしてなごんでいますね。
語らうときのソファがわりになることも多かったのでしょう。

■ Uボートでの生活



【缶入りパン】

どこの国の軍隊でもそうですが、ドイツ軍においても
Uボートの乗組員は、軍のなかで最高レベルの食事に恵まれていました。
哨戒に出撃する際には、それこそスペースに詰め込むだけ
豊富な生鮮食品を詰め込んだものです。

そして生鮮食品がなくなった時のための缶詰を大いに利用しました。
中には缶詰入りのパンもあったようです。

この缶入りパンがどうしてここまで腐食しているかというと、
見つかったのが、Uボートが捕獲されてから50年後だったからです。

この缶詰は1995年になって、U-505のビルジから
作業を行なっていたメンバーの手で発見されました。

腐食のせいで外側が崩れ、中のパンも炭化したようになっていました。



【陶器の皿】

これも世界共通ですが、潜水艦は必ず陶器の食器を乗せていました。
なぜなら士官はどこの国の海軍でも、船の中で基本的には
陶器の食器で食事をしなければならなかった?からです。

比較的階級ヒエラルキーによる待遇の違いが少ないとされる潜水艦ですが、
それでも士官と下士官兵とは厳密に差異化が設けられました。

士官は食事を陶器の食器で食べること、必ず食事をサーブされたこと、
そしてキッチンの仕事は一切なかったこともその一部です。



お皿の後ろを見てびっくり。

制作元はJäger Eisenberg(イェーガー アイゼンベルグ)社とあります。
アイゼンベルグは、ドイツのテューリンゲン州にある町の名前です。

Jäger Eisenbergt画像検索

日本ではあまり知られていないのですが、1869年に創業し、
ドイツ海軍にもこのように食器を卸していました。

1960年にはやはりドイツの製陶会社カーラKahlaに吸収されたそうですが、
いまだにebayやアンティーク陶器市場では名前が見られます。

社名の下にはナチスドイツ軍のワシとハーケンクロイツが描かれ、
その下にはおそらくクリークスマリンのM、
製作された年らしき「1942」という数字が見えます。

その下の部分に1999、24、1という数字が
逆さまに描かれていますが、現地の説明によると、

「USS『ガダルカナル』乗務のパン職人が
このU-505の皿を記念品として受け取った」


ということなので、もしかしたらこれと関係しているのかもしれません。
ただ、説明不足で、このパン職人がいつ、誰から、
どんな理由で記念品としてもらったのか全くわからないままです。

ビルジから缶詰パンのミイラが見つかったのと同じ年、
艦内から回収されたお皿が何かの式典で
「ガナルカナル」のパン職人だったという理由だけで
これをもらった(けどいらないので寄付した)ってことでしょうか。




【水筒】

この標準的なドイツ軍使用の水筒は、アルミ製。

素材が何か分かりにくいですが、胴体はフェルトカバーで覆われています。
アルミより、フェルトなど布地の方が劣化しにくいんだな。
フェルトは、濡れると中身を冷やすことができたので、
ごく自然に冷たい水を保温しておくのに便利でした。

そして、その外側には精巧な皮のストラップ付き。
水筒の構成物をまとめて肩にかけることができました。

やはりこの水筒も、1995年の修復の際ビルジで発見されたそうです。

何年もかけて内部を修復保全していたということがわかりますね。



【アルカリ・エアフィルター】

ぱっと見にはこれがなんだか全く想像もつきませんが、エアフィルターです。

常に密閉された潜水艦内の環境では、
常時非常時を問わず常に呼吸用空気を用意しておくことが最重要でした。

このアルカリフィルターは、二酸化炭素中毒を防ぐために
U-505に装備された空気循環システムに設置されました。

U-505 は何百ものフィルターを搭載していたそうです。
一つのフィルターではあまり長時間役に立たなかったのかもしれません。

博物館のスタッフは、やはり1995 年、
ボートのビルジでこのフィルターを発見しました。

発見時ビルジはもうすでに水に浸かっていたわけではないと思いますが、
それでも潮水にさらされていたせいで、錆に覆われています。

■ 「食う」



【ギャレー】

これがU-505のキッチンを正確に再現したものだったら、
ほとんどのアメリカ海軍の潜水艦より機能的に見えます。

コンロはこれもアメリカ軍と同じく電気式ですが、
アメリカ軍のより現代のオール電化なコンロに近いというか。

鍋やフライパンを使っている時にボートが傾いても
滑ってひっくり返らないようにガード柵がついていますし、



シチュー鍋は専用のストッパーで抑えられています。
これだけスープが入っていたら、もし何かあって急に揺れたとき、
調理をしている人は大火傷間違いなしですが。

ちなみにコンロの周りの壁にあるものはほんものではなく、
本物のキッチンの写真が貼られています。



「ギャレー」は飛行機でもそうですが、キッチンのことです。

59人のセイラーのために調理が行われたこの小さなキッチンには、
たった1人しか立つことができませんでした。



100 日以上続くパトロールのために、
12 トン強の食糧が U ボートに積み込まれましたが、
給養は、ボートのバランスを保ち、ダイビングの動きを円滑に行うために
消費された食料とキッチン用品のすべての分量を正確に数え、
ボート全体の正確な積み込み場所をいつも同じ状態に維持するという、
戦闘の成果に直結する重要な責任を担っていました。


鍋になにかを投入中


国民食じゃがいもの皮むき中


ドイツ人もコーヒーがお好き

■ 「寝る」



アメリカの潜水艦の寝室が鉄とキャンバスで構成されていたのに対し、
ドイツのUボートは木目があしらわれています。
1隻しか見たことはありませんが、ソ連の潜水艦も木が多めだったな。

とはいえ、これは間違いなく士官以上艦長以下の寝室でしょう。



【バンク】

U-505には59名が乗艦していましたが、寝台は35しかありませんでした。
これはどういうことかというと、
バンクを共用する=常に誰かが寝ている=冷える間がない
ホットバンク方式発動です。

前方と後方の魚雷室はそこで働く乗組員が寝ていましたが、
これらのエリアには爆発性の高い魚雷が保管されていました。

魚雷の横で寝るのは安全性で別になんともないのかと思っていたのですが、
人間の安全性はともかく、寝台が邪魔になるので、
魚雷が日常の整備を受けたり、装填または発射されるたびに、
寝台を折りたたんで邪魔にならないように移動する必要がありました。
まあ、そういう状態の時はそもそも誰も寝ていないので、無問題ですが。

もちろん5 人の将校は寝台を共有する必要はありませんでした。
これも士官特別待遇の一部です。




寝る前に本を読んでいるのかそれとも休憩時間か。
チェスをしているのは二人とも士官のようです。


バンクで本を読む人その2。



哨戒後半らしく、ぼーぼーにひげを伸ばしたおじさんばかり。
談笑している人たちをバンクからガン見している人。



■「遊ぶ」


食う寝るときたら次は「遊ぶ」です。

【フォノグラフレコード】

音楽は、U-505でも人気のある娯楽でした。
まあ、あれこれ選べるほど娯楽があるわけではないですが。

U-505捕獲後、米軍はなんと艦内から87枚ものレコードを発見しました。

そのうち6枚がマーチで、残りは、当時のポピュラー曲、
または軽いクラシック音楽がほとんどでした。

いくつかはフランス語のシャンソンなどで、これは
潜水艦の母港であるフランスのロリアンで
乗組員が購入して持ち込んだものでしょう。

映画「Uボート」でも、艦長の好きなレコードはシャンソンでしたよね。
実際のU-505乗員は「リリー・マルレーン」があったと言っています。

ここにある2枚のタイトルは次の通り。

●映画音楽特集 ルッベ作品
マックス・メンシングとウォルターラオツケ・オーケストラ演奏

●Vous n'êtes pas venu dimanche (あなたは日曜日に来なかった)

ルネ・サルヴィルとサン・ジニエ作曲、
ルイ・ヘンネヴとL. パレックス演奏、

エレヤン・セリスとオーケストラ演奏

Elyane Célis - Vous n'êtes pas venu dimanche



【スカート・トランプとサイコロ】

ドイツの国民的カードゲームであるSkatと呼ばれる
32 枚のカードデッキの一部です。
U ボートの船員を含むドイツ軍兵士の間で人気のある娯楽でした。

U-505から発見された歪な手彫りの木型のサイコロ。

「Uボート最後の決断」では、「もののわかった」チーフが、
後ろで禁止されているダイスによる賭けが行われているのを知っていて、
「今から後ろに行くぞ」と予告してやめさせるシーンがありましたね。

ドイツ海軍でも、公式には乗組員がサイコロを使ってギャンブルをすることを
規則で禁止していたため、このサイコロを彫った乗員は、
隠しやすくするためわざと小さくした可能性があるそうです。

賭けがなぜダメだったかは・・トラブル防止かな?


トランプだけなら問題なし



説明がないので想像ですが、後ろにあるのクリスマスツリーですよね。
アコーディオン伴奏でクリスマスキャロル演奏かな。

大西洋では一応そこにいるのは皆キリスト教国の人のはずなので、
クリスマスには暗黙の了解で戦闘は起こらなかったんだろうな。

・・・・と信じたい。


続く。






T5音響魚雷〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-26 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されている
アメリカ軍によって捕獲されたドイツ海軍のU-505シリーズです。




このU-505のアングルは、最上階から降りてきて
展示室の最後に振り返ったときに見えるもので、
別のアングルでも何度かお見せしていますが、
U-505が魚雷を発射した瞬間が再現されています。

おそらく、潜水艦の魚雷発射の実際にこれほど肉薄した
博物館展示は、世界のどこを探してもないだろうと確信します。



そして、実際の魚雷発射孔が、こんなはっきり見られることも。



発射されている反対側の発射孔のドアも開いています。



アップにしてみました。

G7魚雷の直径は533ミリだったということなので、
発射孔の大きさもそれにプラス何センチというレベルだと思います。

内部にライトのようなものが見えますが、
光っているだけでそうではないと思われます。



ところで、上から見た最下階に、前回紹介した
G7e訓練魚雷が展示されているのですが、
デッキのような仕切りの向こうにも、魚雷らしきものが展示されています。

今日はこちらの展示物をご紹介しましょう。

■T5音響魚雷



こちらには輪切りにされた魚雷が横たわっているのでした。

T5(V)音響魚雷 Acoustic Torpedo

は、敵艦艇のスクリューの音を検出し、その方向に向かって航走しました。
この音響技術は非常に複雑で、また驚くほどにセンシティブでした。

そのホーミング(追跡)ギアを司るエレクトロニクスは、
11個の真空管、26 個のリレー、1,760 のワイヤ接続、
および 33,000 ヤードにわたるワイヤ
で構成されていました。

最後のパトロールで、U-505 は3基の T5 音響魚雷を搭載していました。

そして、軽空母「ガダルカナル」を旗艦とするタスクグループとの攻防で
T5を1 発だけ発射しましたが、それは失敗しています。

アメリカ海軍がボートを拿捕したとき、残されていたT5 魚雷は、
すぐさま研究され、効果的な防御法が編み出されることになります。



【開発】

T5はドイツ海軍では正式にはTVですが、アメリカだと
テレビの意味になってしまうので、ここではあえて5を使っているようです。


さて、連合軍の護衛艦が攻撃艦を武器で圧倒するようになって、
ドイツ軍は対護衛艦用兵器の開発を急務としました。

音響ホーミング魚雷の研究は1934年にすでに始まっていましたが、
技術の成熟は遅々として進んでいませんでした。

音響魚雷は2つの水中聴音器をベースにしたもので、
これらを並べて設置することで、
魚雷が目標の音の特徴に合うように誘導できるのです。

もう少し詳しく説明すると、
パッシブ・アコースティック・ターゲティング・システム
磁歪発振器を備えた2つのホーン受信機からなり、プロペラの音波を拾います。
そして受信方向を空気-電気式オートジャイロシステムを介して
魚雷の舵に伝達するのです。

魚雷が発する自己ノイズの問題で、達成できる最高速度は25ノット程度、
また、センサーは12~19ノットの速度で動く目標にしか反応せず、
護衛艦がそれ以上の速度で移動すると、追尾が難しくなってしまうので、
やむを得ず、装薬距離(ターゲットまでの距離)は250mに短縮されました。

つまり魚雷を撃つには少なくともこの距離まで
接近しなければならなかったということです。


遅々として進まなかった研究でしたが、1942年初頭に最初のモデル、

T IV(G7es)ファルケ Falke(隼)

が誕生します。
このバージョンは、速度20ノットでの最大射程が7,500メートルでした。



しかし、速度が遅いことととマグネティックピストルがないこともあって、
次世代に引き継がれるまでの短い期間しか使用されませんでした。
しかも完成して6ヶ月で次のバージョンができたので、
これを搭載した潜水艦はわずか3隻だけにとどまりました。

そして次世代型として生まれたのが、

T Vb(G7es)Zaunkönig(Wren・ミソサザイ)

です。


隼からミソサザイへ。
日本語ではそこはかとなくダウングレード感が漂いますが、
ドイツ語では特に鳥の強さに問題はなかった模様。


【T5の効果が過大評価され”がち”だったわけ】

音響魚雷は、発射した後、くるりと向きを変え、自分を撃ったボートを
振り向きざまに沈めようとすることも少なくなかったため、
(少なくとも1隻、U972はこれで沈んだと言われている)
これを発射した後は、できるだけ早く深く潜って逃げる必要がありました。
(その際指定されていた安全深度は60mというものでした)

そして音響機雷の性質上、艦尾管から発射させた後は
艦内艦外共に完全に沈黙すべし、とされていました。

TVは、T III型をベースにし、磁気ピストルと接触ピストルを併用し、
速度24.5ノット、最大射程5,750メートルを実現しました。

しかし、魚雷そのものが目標に当たる前に自爆することが多く、加えて
発射するUボートは前述の理由で急いで深く潜る必要があったため、
目視できず、早期爆発を命中と誤認しがちという問題がありました。

その結果、戦時にはあるあるですが、魚雷の精度がやや誇張されて主張され、
性能とその効果を正しく見極めるのに、要らん時間がかかってしまいます。

御大デーニッツが、

これ、もしかしたらあんまり効果ないと違うか?

とT5の効果を疑い始めたのは、1944年の春になってからのことでした。


【ダメダメだった連合国の対抗策】

連合国は、この「ミソサザイ」が運用開始される前から、
これに関する多くの情報を持っていました。
スパイがいたのか、どうやって情報を盗んだのかは謎です。

さすがはスパイの本場イギリスですね。知らんけど。

とにかく、ドイツで音響魚雷が使用されていることを確認すると、
すぐに対音響魚雷装置、「フォクサー」Foxerを導入しました。

簡単にいうと、ノイズ式のデコイです。


HMS「ハインド」Hind U39
の後部デッキにある「フォクサー」デコイ

このノイズメーカーは、軍艦の後ろから曳航され、
魚雷の音響センサーに対する囮の役割を果たしました。

しかし、こちらもこちらで問題だらけでした。

音響魚雷をおびき寄せるためとはいえ、発する音が大きすぎ
護衛艦の位置を数キロ先まで高らかに宣伝することになり、
本来なら気づかない距離のUボートまで呼び寄せてしまいがちだったこと。

写真を見てもわかりませんが、デコイの発進と回収に多大な時間を要するわ、
サウンドブイを曳航するだけで船の速度は大幅に遅くなるわ、
そもそも引っ張っている護衛艦の操縦性が低下するわ、
さらに、護衛艦のセンサーやソナーにも干渉を及ぼすわで、
実際はほとんどその役割を果たせなかったといっても過言ではありません。

そんなこんなであまり良くできていたといえなかったフォクサーですが、
Uボートの乗員にとっては、それなりに脅威だったらしく、
攻撃でよくない結果になると、それをフォクサーのせいにして、

”verdammte Radattelbojen”
「忌々しい車輪のサドルブイ(?)」


などと罵っていたそうです。

【真実のT5の戦果】

追撃してくる駆逐艦やコルベットに対して成功を収めたこともあったものの、
音響誘導がまだ非常に不正確だったため、
「ミソサザイ」TVはしばしば敵艦の背後で起爆したりしていました。

そしてその掛け値無しの戦果についてこんな話があります。

1943年9月20日から24日にかけて行われた、20隻の潜水艦からなる
「ロイテン」グループによる輸送船団ON-202に対する攻撃で、
ミソサザイTVが初めて大規模に投入されることになりました。

このとき、ロイテングループのUボート指揮官は、

魚雷の爆発音を聞くたびに命中したと思い込み、
戦闘後に商船9隻、護衛艦12隻の撃沈を報告しました

が、実際の戦果は

商船6隻、護衛艦は駆逐艦1隻、フリゲート1隻、コルベット1隻

でした。

まあ、なんだ。
商船の数はわりと近い線いってたってことでドンマイ。


さて、ここにあるのがT-5なので解説は一応ここまでですが、
ついでなので、この後もお話ししておきますと、
ドイツ軍が取った対抗策は、次世代の開発で、
船のスクリュー音に正確に反応する音響魚雷を導入しました。

音響魚雷の二代目、

T XI (G7es) Zaunkonig II
ミソサザイ2

です。
このツァウンコーニッヒというネームを現場は気に入っていたのか、
同じ名前の二代目として名付けています。

この第二代音響魚雷は、射程距離と感度が向上し、
9ノットで移動する目標を追跡することができるようになりました。
また、ツァウンコーニヒIが水深15mから発射できたのに対し、
ツァウンコーニヒIIは水深50mから発射可能でした。


現地ではTV魚雷がこのように文字通り輪切りで展示されています。

【機首 NOSE PIECE】



TV魚雷の機首には、音を感知するハイドロフォンが装備されていました。
発射されると魚雷は4分の1マイル(400メートル)直線を移動します。
その後、ハイドロフォンが最も大きな音を探索し始めます。

ここで問題になったのが、その「最も大きな音」が、実質ほとんど
魚雷を発射した当のUボートのスクリュー音だったことです。
(笑っちゃいけないけど笑)

魚雷がUボートの音をターゲットとして検知したが最後、
それはくるりと振り向いてこちらに向かってくるのだから、これは怖い。

だからUボートは発射して、TVが400メートル直進している間に
急いで潜航して身を隠す必要があったのでした。

【弾頭 WARHEAD】



弾頭には、ピストルまたは信管で起爆される
600 ポンド以上の爆薬が装填されていました。

T5 魚雷には2 種類のピストル:衝撃式と磁気式が含まれていました。
衝撃式=インパクトヒューズは接触時に発火し、
衝突の衝撃で振り子が動き回路をつなげます。

弾頭のコイルは、尾部の送信コイルと連携して、単純な磁場を形成、
魚雷が船の磁場に入ると、信管が作動する仕組みでした。

【バッテリーコンパートメントと魚雷本体】


外側にはTVと魚雷の名前がステンシルされています。

TV魚雷の胴体部分は、すべての電気魚雷と同仕様です。
本体にはモーターに電力を供給し、魚雷を目標に向かって推進させる
バッテリーが内蔵されていました。

ボディには、ステアリング機構に空気を供給する
5つの空気フラスコも保持されていました。

【尾部構造 TAIL ASSEMBLY】



ノーズピースが敵の音を感知すると、エア・ジェットが
尾部の後部舵に指示を出し、魚雷をノイズの方向に向けます。

テールの電気モーター、ステアリング コントロール、
深度維持装置、スクリューがこの一連の動きを実現させます。

そして着弾時、尾部の黒いゴム製送信コイルと弾頭の受信コイルが衝突し、
魚雷の磁場を乱して導火線を作動
させます。


魚雷の展示ケースの横で放映されていたビデオです。
魚雷発射管に装填するところだと思われます。



ドイツ海軍ではなんというのかわかりませんが、
おそらく砲雷長を務める士官だと思われます。



Uボートの砲雷長なのでおそらく中尉か、
U-505は艦長・副長が中尉だったので少尉だと思いますが、
それにしても若いですね。

続く。






訓練魚雷G7e〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-24 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているドイツの潜水艦U-505。

展示されるとき、最初に地下レベルの大きな穴を掘り、
そこにまず艦体を据えて、それからあらためて
周りをゼロから作り上げて現在の建物にしたというから驚きます。

その驚くべき最後の過程については、このシリーズで扱うつもりですが、
とにかくそういった設置を最初にした関係で、最上階から
展示されている大きなドームに入り、壁際の通路にそって
下に降りながら、潜水艦の近くまで行く作りになっています。

最初のコーナーを通り過ぎたところで下を見ると、
艦体の横に魚雷が展示されているのが見えます。



こんな風に。



透明ケースの上に木造のデッキを模したものが飾られ、
本物の魚雷が外装を剥がれた状態で横たわっています。
デッキ素材は二つのケースの中央にあるもので、
ケースの向こう側には全く別の魚雷が収められています。
手前にあるのは、

無震動電動魚雷T III (G7e )
訓練用(Practice Torpedo)

無振動電動魚雷T III(G7e)は、開戦時のドイツ最新鋭タイプでした。
型名の「e」には電気推進式という意味があります。
ちなみに蒸気式の同型モデルは「G7a」でした。

ドイツは第一次世界大戦の終結以来、秘密裏に電気魚雷を開発していました。

なぜ「秘密裡」だったかというと、敗戦国になったせいで、
ベルサイユ条約の締め付けを受け、兵器の生産が制限されていたからです。

こっそり開発されたため、戦艦「ロイヤル・オーク」の沈没後、
スカパ・フローの海底からその一部が発見されるまで、
英国はドイツが電気式魚雷の開発に成功したことを知りませんでした。

【スカパ・フロー奇襲】

第二次世界大戦開戦後まもなく、ドイツ海軍軍令部は
スカパ・フロー軍港の英本国艦隊を潜水艦で奇襲攻撃しました。

作戦の指揮を執ったのは
潜水艦部隊司令官カール・デーニッツ代将。


U47潜水艦がスカパ・フローに深夜侵入し、偵察による情報から
空母1、大型艦5、巡洋艦10に攻撃を加え、
「英本国艦隊撃滅」をする予定でしたが、当日現地には艦隊は留守。

敵を求めて反転したU47は「ロイヤル・オーク」を発見、
磁気信管付き爆雷を失敗しながら何度も発射し、
最終的には2発が艦体中央部艦底下で爆発しました。

装甲のない艦底を打ち破られた「ロイヤル・オーク」の艦内では
火薬庫の誘爆が壊滅的被害を及ぼし、海水が艦内に奔入した艦は
やがて水面から姿を消し沈没しました。

第二次世界大戦ではイギリスの戦艦・巡洋戦艦は5隻沈んでいますが、
(少なくね?)本艦がその最初の犠牲となり、また、
第二次世界大戦において潜水艦に撃沈された3隻の戦艦の一つでもあります。
最終的な艦の犠牲者数は833名にのぼりました。

この作戦の成功でデーニッツは少将に昇進し、
ナチス・ドイツのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣はこの成功を

「第一次大戦でのドイツ艦自沈の場所での報復の成功」

として、ドイツ国民の戦意高揚のために大いに利用したということです。

【電気式魚雷の利点】


この魚雷は、蒸気機関式魚雷に比べれば射程は短いものの、
無通電の利点は欠点を補って余りあるものと考えられていました。

電気式魚雷は、空気動力 (蒸気式) 魚雷とは異なり、
安価で、製造が容易で、水中に気泡の跡を残さないので、
昼間の攻撃に適していたといえます。

その優秀さでG7e魚雷はドイツの標準魚雷となりました。

このG7e 練習用魚雷は、戦闘で魚雷を適切に維持、装填、発射する方法を
U ボートの乗組員が訓練するために設計されました。

訓練用魚雷なので、発射ごとに回収され、再利用されていました。


それでは最下階に降りて近くで魚雷を見てみましょう。

訓練弾頭 Training Warhead】

小さなライトが点灯し、赤と白にペインティングされているのは、
訓練生が水中で訓練魚雷を見つけやすくするためです。

何しろ訓練のために何度も使うわけですから、打ちっぱなしじゃなく、
必ず回収に行かなくてはいけなかったわけで。

暖冬には、機首のプロペラの回転が停止すると、
同時にチャンバー(内部)を空気で満たすエアボトルが搭載されていました。
内部に空気が入ると浮力で弾頭が浮きます。

どうなるかというと、鼻先を出して、尻尾が沈んでいる状態になるので、
機首の色だけは赤白で塗っていたというわけですね。

訓練では、発射後弾頭を回収するとまた装填し発射しました。




【バッテリーコンパートメント
 Battery Compartment】

ドイツ海軍で使用されていたほとんどの魚雷は、
長さ8フィート (2.44 m)、重さ 1,567 ポンド (710.78 kg) の
鉛蓄電池Lead-acidから電力を供給する仕組みでした。

T-IIIのユニークな特徴として、発射前に
バッテリーを予熱する必要があったということが挙げられますが
その理由は、電池が熱を持つことでより多くの電力を供給できたからです。

この効果を上げるため砲台を加熱する面倒な作業が不可欠だったそうですが、
低温下での魚雷が射程30 ノットで 1,400 ヤード (1,280.16 m)とすれば、
温度を上げることで5,470 ヤード (5001,77 m) まで伸ばせました。

この部分をどうやって加熱したかはわかりません。

ただ、魚雷そのものが気まぐれで、しょっちゅう整備する必要があり、
さらに毎回温めなくてはいけないという厄介なものだった模様。


機首部分から後ろに進んでいます。



【モーター】

左上の赤い「7」の印がついている部分がモーターです。

電気魚雷はモーターがシャフトを回転させ、
ギアボックスを駆動して、それがプロペラの動力となりました。

魚雷が水中で「死ぬ」まで、モーターは
約55分間作動することができました。



【深度維持装置】

深度維持装置は、上下の動きを感知することで深さの変化を知らせる
小さな振り子のしくみの装置でした。
写真の赤いマークのある部分の内部にこの振り子があるようです。

魚雷の推進で、水面を機体が突き破って外に出ないことは
衝突まで魚雷の存在を検出されないために重要です。

魚雷が航行する深さは、信管の種類によって異なります.

衝撃信管魚雷は水面直下を走り、対象に衝突しますが、
磁気信管魚雷は目標の下部を通過し、
船体の中心で爆発するほど深く潜って走ります。



【ジャイロスコープ】



ジャイロセンサーは、魚雷を発射する前に
意図したコースを維持するための装置で、スピンドルが魚雷に支持を与え、
ジャイロスコープを適切な角度に設定します。

発射されると、魚雷は「ザ・リーチ」と呼ばれる一定の距離を直進します。
次に、圧縮された空気が放出されてジャイロスコープを回転させます。

回転するジャイロセンサーは常に動きの変化に抵抗するため、
魚雷が設定した角度から外れると、
ジャイロセンサーが舵を切って魚雷を巡航に戻すのです。




【空気ボトル】

ボンベのようなものが4本くらいありそうです。
これらのボトルはジャイロスコープに空気を供給しました。
方向舵と深度舵は制御するために圧縮空気を必要とします。



【ギアボックス】

ひとつの回転シャフトがギアボックスに動力を供給し、
ギアボックスが一方向の回転を 2 つの反対方向に回転する
プロペラ シャフトに変換しました。

この逆回転により、単一の回転するプロペラのトルクが中和されて、
魚雷が回転したり弧を描いて移動したりすることができます。



【スクリュー】

魚雷の二つのスクリューは、水力を提供するだけでなく、
一つのスクリューのトルクを打ち消すためにありました。

逆回転するスクリューは別々のシャフトに配置されています。



【インパルスピストン】

高圧空気を破裂させると、インパルスピストンが魚雷発射管に滑り込み、
魚雷の発射ができるようになります。

ピストンの「耳」は、チューブの溝にぴったりはまるようにできています。
溝はチューブの端近くで止まり、ピストンを「オンボード」に保ちます。

その後、水圧でピストンは元の位置に戻ります。

この魚雷発射システムは、魚雷を発射した後に
気泡がチューブから排出されるのを防ぐ効果がありました。

泡が見つからない魚雷は、敵に検知されずに攻撃を行うことができます。



【トルピードブック(説明書)】

U-505に搭載された各魚雷には、魚雷ごとに
それぞれのメンテナンスログがありました。

このログは、魚雷の製造過程から始まり、寿命などを記録しています。
ログによると、この特定の魚雷は1944年3月8日、
U-505に搭載される前にU-471に搭載されていたと書かれています。
(右側ページ上から三段目の桝手書きで)

そして製造した工場はどうやらキールにあった模様。



【魚雷深度舵設定ゲージ】

Ruderausschlagmesser ルーデルアウシュラグメッサー
舵設定ゲージ


ですが、ドイツ語の用語というのはかっこいいなあ。
クーゲルシュライバー(ボールペンの意)並みに無駄にかっこいい。

それはともかく、このルーデルなんとかも、
魚雷の整備士がメインテナンス中に使用して、
深度舵が適切に機能しているかどうか確認するための道具です。





【U.Z.O. ターゲティング双眼鏡】

ターゲティングというのは、監視用とかではなく、
浮上中魚雷を発射するために使ったのでこのように称します。

U.Z.O

U-Boot-Ziel-Optik (U.Z.O.)
U-Boat aiming optic= U ボート照準光学

のことで、ブリッジに搭載されたU.Z.O.下の司令塔にある
魚雷データコンピューター(初期の電気機械式アナログコンピューター)
に接続されています。

これは目標に向けられると、魚雷の進路など、
コンピュータにインプットするためのデータを提供しました。

ブリッジに取り付けられていたということは、艦外にあったわけですが、
Uボートが急速潜航しなければならない場合に備えて
1,000 フィートまでの圧力に耐えるように設計されていました。

この双眼鏡は真鍮製で、重さは 11 ポンドもあります。



「Nicht anfassen」=手を出すな

と書かれています。



【魚雷ジャイロスコープ】

これがジャイロの本体です。
繰り返しますが、魚雷を意図したコースに保つためのものです。

発射する前に、スピンドルが魚雷に入ることで、
ジャイロスコープを適切な角度に設定しました。

発射後、魚雷は「リーチ」と呼ばれる一定の距離を真っ直ぐ進みました。

次に、圧縮空気が放出され、ジャイロスコープが回転しますと、
回転するジャイロスコープは常に動きの変化に抵抗するため、
魚雷が事前設定された角度から方向転換するたびに、
ジャイロスコープが舵をトリガーして魚雷をコースに戻しました。



【魚雷ストップウォッチ】

潜水艦映画で何度か見たシーンで、
発射した後、インパクトが聞こえるまでの間、
一人がこのストップウォッチを握りしめていましたっけ。

U ボートの乗組員は、ショットの成功または失敗をマークするために
このストップ ウォッチを使用していました。

予想された時間に爆発音が聞こえた場合、通常は
魚雷がそのターゲットにヒットしたことを意味していました。

発射時間が長すぎたり、爆発が早すぎたりした魚雷は、
目標を逃した可能性が高いということになり、
その結果を息を殺して待っていたのです。

続く。



メインバラストタンクブロー〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-22 | 歴史

シカゴにある科学産業博物館のU-505展示から、
今日は「浮上と潜航」についての操作関係です。

まず冒頭の写真はU-505が実際に搭載されていた装備で、
ユンカース製のエアコンプレッサー実物です。

エアコンプレッサー、つまり空気を圧縮するものですよね。


コーナーの説明には、

「Uボートはどうやって潜航&浮上を行うのか」

とありますが、ここで潜水艦の潜航浮上の仕組みを今一度説明しておきます。

潜水艦の潜航・浮上のために不可欠な働きをする装置はバラストタンクです。
手っ取り早く言ってしまうと、バラストタンクに海水を入れたり出したりして
その重さで潜航したり浮上したりするわけです。



前にもシルバーサイズ潜水艦シリーズで説明しましたが、
潜水艦を潜航させるときには、バラストタンクに海水を注入し、
艦の重量を増加させてアルキメデスの原理的に沈み、
逆に浮上する時には空気を入れて海水を出すのですが、
バラストタンクの海水をどうやって排出させるかというと、
「気畜機」に圧縮されて蓄えている空気を注入するのです。

「気畜機」というのは帝国海軍以来の日本の潜水艦用語ですが、
それがようするに、ここに展示されているエアコンプレッサーです。

このエアコンプレッサーを使った浮上までの一連の動きを、

「メインタンク・ブロー」

といいます。

英語では「メインバラストタンク」ですが、
号令でどのようにいうのかはわかりません。

バラストタンクは「メインタンク」「メインバラスト」などとも称します。

余談ですが、帝国海軍では「メンタンブロー」で通っていたようですね。
航空機畑で「Go ahead」が「ゴーへー」だったみたいなもんでしょうか。



このユンカース・フリー ピストン・コンプレッサーは、
U-505に搭載された 2 つのエアーコンプレッサーのうちの 1 つで、
艦体の後方に配置され、もう 1 つは機関室にあり、
主要なディーゼル エンジン配置の一部でした。


ユンカースのエアコンプレッサーは革新的なデザインでした。
名前にあるように、何が「フリー」かというと、ピストンです。

ピストンはシリンダー内にあり、従来のように
クランクシャフトには取り付けられていませんでした。


これはフリーピストンのエンジンの図です。

ピストンがクランクシャフト等の出力伝達軸に機械的に結合されておらず、
蒸気、燃焼ガス、液体金属等の作動流体を介するというのが定義ですが、
フリーピストン・エンジンのコンセプトが最初に成功したのは、
実fはこのエアコンプレッサーであり、代表的な使用例がUボートです。

このシステムの利点は、高効率、コンパクト、低騒音・低振動であること。
設計がシンプルなので、標準的なコンプレッサーよりも省スペースで、
潜水艦という厳しい重量制限が求められる環境には理想的でした。

しかし、このコンプレッサーの操作は超絶複雑だったため、
U-505 の乗組員は、コンプレッサーをちゃんと操作し続けるためには
定期的な修理が必要であると不満を漏らすレベルだったそうです。


How U-boats Dive & Surfaceシリーズの続きです。

Buoyancy(ボイアンシー) =浮力

という言葉がここのポイントです。

【ボイアンシー・ステーション】

他のタイプのボートとは異なり、潜水艦は
重量を増減することによって浮力 (または浮く傾向) を調整できます。

希望の深度に到達するために、U-505 の乗組員は一連の制御を操作して
潜水艦の重量を変更し、必要に応じて潜水または浮上を行います。

【U-505の潜航と浮上】

潜水艦の浮力が「正」(ポジティブ)の場合、それは浮上しています。
これはつまり艦体が置き換えていた水より重量が軽くなった状態です。

潜航するためには、ベントバルブ(通気弁)を開け、
艦体内側と外側の間にあるバラストタンクの上部から空気を放出すると、
タンクの底にあるフラッドバルブから水が流れ込みました。

潜水艦の艦体に取り込む水は負(ネガティブ)の浮力を生み出し、
それが彼女を水没=潜航、サブマージさせることになるのです。

逆に浮上するためには、ベントバルブを閉じます。
その後圧縮空気がタンクに吹きこまれ、水を排出して艦体が軽くなり、
海面に浮上するというわけです。

【ダイブ・プレーン(潜舵)とトリムタンク 】

U-505を操舵するには、ボートの可動式潜舵を調整して、
潜水および浮上時の艦体の角度を制御します。

潜水艦が目標の深度に達すると、艦体の平衡を維持するために
ダイブプレーンを水平にします。

トリム(日本では”ツリム”だった模様)という言葉は、
艦体の前後の傾きという意味であり、艦体前後に二箇所設置され、
艦体のバランスの微調整は、それらの浮力比を操作して行います。


ここで、アメリカ海軍の初年兵への教育用に製作された、
例によって大変わかりやすい映画をご覧ください。

Submarine Ballast Tanks

バラストタンクも皆が同じ場所にあったわけではなく、
アメリカ海軍では、潜水艦の型式で形状も違っていたようです。

■ バラストウェイト



展示の片隅にひっそりと置かれていた実物のバラストウェイト。


この写真に見えるのは・・・バラストではないでしょうか。

場所がどこだか説明がないのですが、潜水艦の艦底が見えているような。
作業をしているのはシップビルダーで、乗組員ではないので
船舶の建造中の写真だと思われます。

バラストウェイトは、ボートを水中で直立状態に保つものです。
前後ではなく、左右に傾かないようにするものですね。

すべての船は、この目的のために一定量の固定バラストを搭載しています。
一般的に設置するバラストの重量は、船舶の内容物の重量と、
重心への近さによって決まってきます。

Ballast Operation

一般の船の場合。

バラストウェイトの重さのおかげで、たとえ強風で海が荒れても
船が転覆したり、またが沈みすぎたりすることがありません。

ちなみに、映画「Das Boot」(『Uボート』)でも描かれていた、
急速潜航のときに手の空いた乗組員が、だーっと前方になだれ込んで
重力を前に傾ける「人間バラスト」になっていたシーンですが、
この鉄のバラストは、バランスを取るために最初から装備してあるので
動かすことはできません。

■ 浮上チャレンジ Buoyance Challenge

博物館にはここに「浮上チャレンジ」という体験コーナーがあります。



操作パネルと浮上する潜水艦の模型の入った水槽(状のタワー)、

左側にはエアーコンプレッサー、右側にはバラストウェイトがあります。
しかし、このバラストを見て、気がついたことが。

この写真は博物館のHPのものですが、
わたしが見に行った2022年の夏には、
バラストウェイトは4つしか置いていませんでした。

写真を撮った時にはこんなたくさんあったのに、
いったいどこに分散してしまったのでしょうか・・。



わたしが通りかかった時には、例によって誰かが操作中でした。

こういうとき、空くのを待って何がなんでもトライしてみたい、
という前向きな好奇心をいっさい持たないわたしは、
ここにある体験コーナーのどれも写真を撮るだけで通過しました。

このコーナーは、U-505がどのようにして深度を調整できたか、
それをシミュレーションで理解するというものです。

自分の調整を試すことができるのは高さ3mの水槽(状のもの)。
ここでU-505のカットモデルやバラストタンクを駆使して、
浮力調整にチャレンジしてみましょう、というわけです。



わたしが見ていたチャレンジャーは、U-505の浮上に成功したようです。

Uボートはさまざまな制御装置を操作することで、海上で体重を変化させ、
必要に応じて素早く潜水や浮上を行うことができました。


で、どんな複雑なものかと思ったら・・・・・。
これはつまり「メインタンクブロー」か「ベント開け」をボタン一つでできると。

あなたのミッション:
下のライトに点滅されている水深ポイントで
ニュートラルな浮力を維持してください


任務が完了したら、緑のランプが点灯する仕組みです。


公海では(high seasと表現されている)、たった一つのミスで、
ボートの潜航を瞬間遅らせてしまい致命傷になったり、また、
潜航の時間が少しでも長すぎると艦体をクラッシュさせることになります。

つまり、Uボートのバラストタンクには、いかなるときでも
その状況、その時その時の潜水艦の目的ー潜望鏡深度、潜航深度、
平衡浮力に対し、適正な割合の水と空気がなければなりません。



右側のプラズマスクリーンには、自分が操艦しているボートの状態が
刻一刻と映されているので、こちらも確認しながら行います。

そして、ミッションをやり遂げたチャレンジャーは、
スクリーンに映し出される海上の自分の船の姿に、
成功の合図(どうするのかはしらんけど)を送るというわけです。


続く。


ワンゼ・ボルクム・ナクソス 三つのレーダー探知機〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-20 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505シリーズ続きです。

アメリカの博物館らしく、ここにもいくつかの体験コーナーがありますが、
エニグマ体験はどうやらいつからか廃止されたようで、
現在は潜望鏡体験浮揚体験、そしてこの操舵体験が用意されています。



操舵席に座ると、スクリーンには映像が映るというだけで、
ここでは「体験」というほどのシミュレーションはできないと思います。

やっていないので予想ですが。



誰かが置いたピンクのサングラスが気になりますが、
で、今スクリーンに映っているのは、

「1944年6月に捕獲される前、U-505は
30時間以上続いた爆雷攻撃を含む4回の攻撃を回避しています。

U-505は
『リーサル・ウォー・マシーン』(致命的な兵器)でした!

連合国の商船を8隻沈没させ、合計45,000トン以上を葬り・・」



そして多くの人命が失われました。

1944年6月4日の朝に起こったことは、
歴史を作ったのです」


という文章ですので、つまりは
大西洋の脅威であったU-505が、我がリーサル・ウェポンである
タスクグループに捕獲されるまでの経緯を述べているのだと思われます。


パネルでU-505の動線(赤)と、
タスクグループ22.3の青の、6月4日に向けての動きが示されます。

アメリカの諜報機関がU-505の存在を把握した、
1944年5月16日から始まった赤と青の線は、
6月4日についに交わることになります。



これは電光でないパネルで、赤がU-505ですが、
4月9日から23日まで、左上からアフリカ西岸にむかって南下する
動きが書き加えられています。

このときU-505はフランスのブレストから出航していました。

■ ディーゼルエンジン部品



「Uボートはいかにして推進したか」

というコーナーに、このようなものがありました。
芸術品ではないですが、とにかく私の感想は、美しい、の一言です。
機械のパーツというのはどうしてこうも心惹かれるシェイプなのでしょうか。


U-505には、このスペア・ピストンを含む、
90日の哨戒に必要なスペアパーツ一式が搭載されていました。

1,100ポンドのピストンと、コネクディングロッドは
海上で交換することができましたが、これはどうも
ドイツならではの技術だったらしく、一般的にはそうではなかったようです。

【ディーゼルエンジンと電気モーター】

海面上ではディーゼルエンジンがUボートを推進し、
水中では電気モーターが動力を供給しました。

U-505には2,200馬力の9気筒ターボチャージャー付きである
ディーゼルエンジンが2基搭載されており、
それぞれがスクリューを回転させていました。

ディーゼル動力を使用したU-505の最高速度は18.3ノットでした。
平時は12ノットで巡航し、航続距離は11,000マイルとなっていました。

ときにU-505のディーゼルエンジンルームの室温は100°F(38℃)を超え、
騒音は通常営業でも文字通り耳をつん裂くようなものでした。

それだけならまだ許容範囲ですが、ディーゼルの煙は艦内に充満して
乗組員の食べ物全てをディーゼル燃料の味に変えました。

こんなものをしばらく食べていたUボートの乗員は、
ボートを降りたあと、きっと長生きできなかったに違いありません。

その後の乗員の平均寿命を知らないので完全に偏見ですが。


【潜航時の電源】



Uボートが潜航する時、乗組員が呼吸するための唯一の空気は
ボートに残存した空気と、少数の酸素ボンベから取られました。

U-505は水中でディーゼルエンジンを使用することはできませんでした。

これは、エンジンが利用可能な全ての空気を消費して排気を生成し、
人間が吸う空気がなくなってしまうからです。

そこで、ダイビングの前にディーゼルエンジンを切り離し、
二つの500馬力のバッテリー駆動の電気モーターを動かして、
ボートを水中で推進できるようにしていました。

電気モーターで航走するとき、U-505は最高速度7ノットに達しました。
航続距離63マイルを超えぬよう水面に浮上し、
ディーゼルエンジンを使用して充電することを余儀なくされました。

■ Uボートはどうやって敵を探したか


【レーダー探知機】

1942年半ばには、あまりにも頻繁に連合軍機が出現するようになり、
ビスケー湾を横断するUボートは、夜間や真っ暗闇でも航空機に攻撃され、
前代未聞の精度で攻撃されるようになりました。

デーニッツはレーダーが原因であるとほぼ正確に推測していましたが、
あるとき、Uボートの一隻が、
ほぼ完全な暗闇の中で、低空飛行する敵の航空機と遭遇した
ことが、その推論が正しかったという裏付けとなりました。

加えて予想するに、低空飛行していたということは、敵航空機は、
視界が悪すぎて、浮上したUボートを目視できていなかったことになります。

なのに、その機は通り過ぎた途端、突然バンクして強力なライトを点灯し、
同時に砲撃とロケット弾で攻撃してきた
のです。

損傷を受けたものの、なんとか帰還したそのUボートの報告により、
連合国が浮上したUボートを探知できる新しい空中レーダーを開発したかも、
というドイツ軍の疑念はこれで実証されることになります。

そこで、ドイツ側としては、連合国のレーダーにUボートが補足されたとき、
それを知るための警報装置を迅速に開発することが不可欠となりました。

というわけで、ドイツ軍はいくつかのレーダー警告受信機を急遽導入しました。

U-505はレーダー探知機を使用して、
自艦が追跡されているかどうかを判断していました。

探知機が連合国軍のレーダー信号を拾うと、
そのつどUボートは水中に潜って身を潜めていました。

Uボートの乗組員にとって、どれくらい水面にいられるかということ、
いつ潜航するかのタイミングを正確に知ることは死活問題です。

海上を航走していると、移動そのもののスピードは上がっても
敵艦艇や航空機から発見されやすくなりますし、
水中を移動するのは安全には違いありませんが、潜水艦の宿命として
空気を補充し、電気モーターのバッテリーを再充電しなければならず、
そのための長時間の浮上は、危険にさらされることになります。


【U-505が搭載した三つのレーダー探知機】

米軍に捕獲された時点で、U-505には3つのレーダー探知機がありました。

FuMB-9 Zypern ツーペン (Wanse ワンゼ)



Zypernで検索すると、こんな映像が多量に出てきますが、
ツーペン(としか聞こえない)はキプロスのドイツ語名です。




ツーペン(笑)またはFMB-9ワンゼ:ルンドディポール

Wanzeは、ドイツの電子機器メーカーHagenuk(ハゲヌク、今は携帯会社)
が、在来型のMetoxをさらに進化させ、レーダー周波数を
120〜180cmの範囲で自動スキャンするように開発したものです。

しかし、微調整はまだオペレーターが行う必要がありました。
アンテナはルンドディポール(丸いダイポール)と呼ばれ、
2本の垂直偏光ポールが円筒に取り付けられていました。

円筒の上部は円筒形の金網の枠で囲まれており、
どこか金網の籠のように見えました。


 Wanse 検出器は、アンテナの 8 の字型のパドル
(写ってませんが)を介して信号を受信しました。
FuMO(フーモ)50レーダーに使用されているのと同じアンテナです。

ワンゼはメトックスが廃止されたのと入れ替わりに、
1943年8月から導入されたのですが、9月10月と、それは
連合国軍の航空機を早期に警告するという役目を果たさず、
ワンゼを搭載したUボートが何度か奇襲攻撃を受けたことから、
1943年11月5日、この装置は役立たずとして廃止されることになりました。

ですから、1944年の6月時点で、どうして
U-505がワンゼをまだ搭載していたのかが謎です。


FuMB-10 Borkum(ボルクム)

ボルクムはボルス海にあるドイツの島です。

Borkumは、Wanzeが禁止された直後に導入されました。
これは実のところ「つなぎ」というやつで、より信頼性の高い機器が
利用できるようになるまでの応急処置として意図されたものでした。

応急というだけあって、水晶アンプにラジオ受信機を取り付けただけの
非常にシンプルなもので、味方のレーダー周波数が検出されると、
艦内のラウドスピーカーで警告を発するだけ
の代物でした。

しかも、探知距離は非常に短く、
航空機が接近している方向を示すことはできず、さらに、
味方の新しいASV Mk IIIレーダーも探知することができませんでした。

つまり、U-505には、ダメ認定されたワンゼと、
その応急措置であるボルクムが同居していたことになります。


U-505に限らず、他のUボートでも
ボルクムは終戦まで使用されていました。

日本と同じで、要はドイツもあまりにお金がなくて、個々のUボートの
改良や装備の入れ替えまで手が回らなかったというところでしょうか。




FuMB-7 Naxos(ナクソス)

ナクソスというと、クラシック音楽のレーベルでしかしりませんでしたが、
言われてみれば合点がいく、ギリシャの島の名前なのでした。


U-505が搭載した3つすべてが島にちなんだコードネームです。
相変わらず武器兵器装備の名前に文学的に凝るドイツ軍ですね。


ところで1942年まで、ドイツ軍が全く知らない間に、イギリスは
センチメートル波長で作動する新しいASVレーダーを開発していました。
ドイツの科学者はセンチメートル波長を実用的でないと考え、
レーダー警告受信機をメートル波長で調整していたのです。

ドイツがそれを知ったのは1942年初頭、ロッテルダム上空で撃墜された
RAFスターリング爆撃機の残骸から
英国の新しい10cm H2Sレーダーが発見されたときでした。

実はイギリス軍の中でも、この空洞マグネトロンを実戦配備させるかどうか、
大きな論争が行われたことがありました。

マグネトロンの主要部品は、壊れやすい当時の真空電子機器とは異なり、
大きな銅の塊だったので、万が一マグネトロンを搭載した航空機が
撃墜されても、ブロックが生き残る可能性が高く、
回収されてしまったらドイツ人科学者に解析されてしまう、
とイギリス側は懸念していたというのですが、
その「万が一」が言っているはしから起きてしまったのがこの件です。

イギリスの懸念通り、回収されたマグネトロンは
ドイツの研究グループによってあっという間に解析されました。

しかし、ドイツ空軍が情報を独り占め?したせいで、海軍、
クリーグスマリンに届いたのはほぼ1年後の1943年12月でした。

どこの国の軍もみんな仲間同士仲良くしよう。



ナクソスはテレフンケン社Telefunkenが開発したもので、
RAFの爆撃機から捕獲した対潜用ASV Mk IIIレーダーに対抗したものです。

ドイツ側も捕獲したレーダーを利用した開発を考えましたが、
それよりこのレーダーへの対抗を講じるのが急務だったのです。

今回は8〜12cmの波長をカバーすることができ
イギリス空軍のH2Sレーダーも探知することができました。

このニュースはイギリスに伝わり、H2Sが航空機を死に至らしめるとして、
RAF関係者をちょっとしたパニックに陥れました。
また、マグネトロンをドイツ軍に奪われる可能性を考慮し、
しばらくの間、RAFは、将来の納入を、
捕捉の可能性が低い対潜任務用の沿岸軍機に限定していたそうです。

さて、対抗策であるナクソスですが、当初探知距離が非常に短く、
実際に使用するには何だったので、一連の新しいアンテナ設計が行われ、
最終的にFliege(フライゲ)セミパラボリックシステムが導入されました。

フライゲは「飛ぶもの」という意味で、
機器の形が蝶ネクタイに似ていることからきています。

しかし、このアンテナは防水性がないため、潜水する際には
取り外して持ち込まなければならないという面倒な欠点がありました。

ナクソスは信頼性の高いユニットで、後のバージョンでは
接近する航空機の方向を示すこともできたのですが、
探知距離が5,000mと短いため、Uボートへの警告は1分前が限度でした。

イギリスはすぐにドイツの新性能機器に気づきます。

ナクソスに対抗する新世代のイギリス製レーダーを開発、
さらにドイツはこれを知ると、装置のさらなる改良を続けました。

ドイツは終戦になった時も、アンテナを毎分1,300回転させて、
その角度を潜水艦内のブラウン管ディスプレイに直接表示できる
後発のナクソスZMを開発中だったそうです。

お互い切磋琢磨ってやつですか。


というわけで、U-505が搭載していたのは、

「ダメダメなワンゼ」
「ワンゼの応急措置としてのボルクム」
「信頼度のあるナクソス」


だったわけですが、前者2台は全く使われなかったのかというと
どうやらそうでもなかったらしく、
3 台のレーダー探知機を合わせて、当時可能な
すべてのレーダー・スペクトルをカバーできていたということです。




続く。


エニグマ暗号機捕獲〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-18 | 軍艦

シカゴ科学産業博物館展示のU-505について解説しています。

■無線室 Radio room



U-505の無線室を再現したコーナーです。

●日誌

手前に置いてある紙類の一番左は(半分しか写っていませんが)航海日誌。
機関長は石油、燃料について、通信士は無線のメッセージを、
航海士はコースの変更等を文書化しました。

ログブックは、乗組員用の艦内用品店での購入の収支、
艦内のライブラリやレコードコレクションの目録などが記されています。

●指数表ブック
インジケーター・テーブルブック(複製)


オレンジ色の、ナチス海軍マークの本は、エニグマ暗号表を操作するために
ショートシグナルブックレット、または
ショートシグナルテーブルブックと合わせて使用されます。

無線オペレーターはローターとプラグをエニグマにセットし、
この本を使用してメッセージを暗号化またはコーディングするわけですが、
そのためにローターの初期開始位置を検索し、それに従います。

このブックレットには1944年3月から6月までの設定が掲載されています。

●エニグマコードブック

無造作に重ねられた白とピンクの紙束はレプリカのコードブックです。

NR.7 ZUM KURZSIGNALHEFT 1844

この言葉で検索すると、

「第二次世界大戦中、ドイツ海軍(クリーグスマリン)のUボートが
無線メッセージを暗号化して短縮するために使用した暗号張」

と解説されます。
ここにあるのは、U-505を捕獲した時撮影されたものを複製した紙です。
コードブックには毎日のエニグマの設定が含まれていました。

コード化されたメッセージは、
両端のエニグママシンの設定が同じである場合のみ意味がありました。

U-505でキャプチャされたコードブックで、連合軍は
1944年6、7、8月のコード設定を知りました。

●ヘッドフォン

ヘッドフォンは4つ。
無線オペレーターはU-505の無線室に24時間詰めていました。
そして重要な通信を聞く時これを着用していました。

●翻訳辞書

ここには写っていませんが、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、
そしてイタリア語五カ国言語の海軍辞書(MWF)がU-505にありました。

海上で船が遭遇する際の典型的な海事用語やフレーズの辞書で、
異なる国籍の船の間で略語を介して長いメッセージも伝達するために
船には必携というべき辞書でした。

当時、海軍のみならず民間も全ての船は、この辞書を携帯していました。


■ エニグマ暗号機

さて、無線通信室にコードブックがでてきましたが、
次にそのエニグマ暗号機についてお話しします。

第二次世界大戦中連合国が最も欲しかったドイツの装備、
それは「エニグマ」だったでしょう。

当ブログでもこの暗号機については、アメリカ各地で
本物のエニグマ暗号機を目にするたびに何度となく解説してきました。

Uボートと戦うアメリカの戦争ものでは、
エニグマの奪取を描いたものが多かったのも、
それだけ一時はこの装備が勝利の鍵を握っているとされていたからです。

そして、捕獲したU-505が展示されているここシカゴの科学産業博物館でも
当然ながら「エニグマ暗号機」が登場するのでした。



冒頭のパネルに写っている赤いノートは、

予約マニュアル手続き士官
R.H.V
重複コピーなし


とあり、その横の「S」と書かれたバインダーには

「これは軍機である!悪用は罰せられる!」
艦隊無線信号任務の信号キー


とあります。

【エニグマ暗号機】

戦争中、軍事計画が敵に漏れないようにするのは最重要事項でした。
ドイツ軍はエニグマという暗号機を使用して、
無線で送信されたメッセージを暗号化、および信号化しました。

それぞれのエニグマ暗号機には、
アルファベットが書かれた複数のローターが含まれていました。

文字がキーボードに入力されるとローターが回転し、
全く別の文字列になって出力されます。

【クラックできない難解コード】



暗号を破ることを英語でクラック(破壊)といいますが、
エニグマ暗号機のメッセージはまさにクラックできないものでした。

連合国は実に何年もの間、エニグマのメッセージを解読できませんでした。

まず、装置の複雑さから、一見無数の暗号設定が可能だったこと。
エニグマの4ローターバージョンでは、

31,292,000,000,000,000,000,000,000
(31 セプティリオン septillion

を超える暗号化、または構成が可能でした。

しかもドイツ軍は毎日機械の設定を変更し、
たとえ機械そのものが敵の手に落ちたとしても、
連合国が特定の日に全ての組み合わせを試すことは
不可能だと信じていたのです。

【コードブレーカーたち】



しかし、これはドイツが世界の頭脳を舐めていたと言っていいでしょう。

第二次世界大戦が始まる前でさえ、ポーランドの数学者のチームが
ドイツ軍が1920年代に使用し始めた最高機密である
エニグマコードの解読に向けて大きな一歩を踏み出していたのです。

1939年、ドイツがポーランドに侵攻したとき、
ポーランドの暗号解読者はいち早くフランスに亡命し、
フランスの諜報専門チームと調査結果を共有し、
レプリカのレプリカ暗号機を構築することができました。

その後、イギリスとアメリカのコードブレイカーは、
このときのポーランドのチームの貴重な洞察に基づいて構築を行い、
エニグマの問題を体系的に解き明かすことに邁進しました。

イギリス軍は暗号解読者を支援するために、いくつかのUボートから
コードブックそのものを大胆にキャプチャすることさえしました。

捕獲された資料の各部分は、諜報活動を改善するために使われました。

しかし、今思ったのですが、この頃のUボートは
コードブックと暗号機本体が狙われていたこともあって、
いきなり爆雷で沈められるという攻撃はされなかったのではないでしょうか。

エニグマの暗号が連合国にバレていることを
ドイツ軍に悟られないように、気づかないふりをしてあえて攻撃させ、
それに対して葛藤するという話がどこかにありましたが、
それらもあって、この頃「絶好調」と感じていた
楽天的なUボートもいたかもしれないと思ったり・・。

【エニグマ暗号機
U-505が暗号解読班にもたらしたもの】

そんなとき、タスクフォースの甚大な努力奮闘の結果、
U-505がほぼ無傷でアメリカ軍の手に落ちました。

そのことは、ある言い方をすれば、
「Windfall of Intelligence」


を連合軍にもたらしたといっても過言ではないでしょう。
ウィンドフォールというのは「風で落ちる」そのままであり、
風に吹かれただけで落ちてくる果物や木の実のことです。

思いがけない大きな恩恵、しかも棚ぼた式に手に入った収穫、
つまり容易く諜報を解く鍵を手に入れたという意味となります。

なぜならば、U-505の艦体そのものを無傷で捉えることによって

900ポンドに及ぶコードブックと関連文書

2台のエニグマ暗号機


がおまけで付いてきたからです。



ところで、ここにはかつて「エニグマ体験」できるコーナーがあったらしく、

あなた自身の作成したメッセージをコーディング&デコード

エニグママシンを使用して、秘密のメッセージを送受信するのが
どういうものかを確認してください。

まず、ローターとの組み合わせを独自に設定する。

コード化されたあなた自身のメッセージを作成する。

着信したエニグマメッセージをデコードできるか確認する。


と書かれていたのですが、それらしいコーナーはありませんでした。

【M4 エニグママシン】


エニグマは、キーボード、スクランブラー、
ランプパネルから構成されており、ランプパネルには、
26のアルファベットがすべて書かれています。

キーボードで文字を押すと、スクランブラーに電流が流れます。

元の文字は暗号化され、新しい文字がパネル上のランプに点灯します。
新しい文字は、元の文字以外のアルファベットとなって現れます。

通常、メッセージのエンコーディングは2人で行われ、
一人は機械を操作してメッセージを入力し、
もう一人はランプを観察して、現れた文字を記録しました。

そして、最終的に暗号化されたメッセージは、
モールス信号を使って送信されます。

メッセージを受信すると、暗号化された文字がエニグマに入力され、
同様に2人目のオペレーターが点灯するランプを観察して文字を記録し、
実際のメッセージを読み取るというわけです。



キーボードとランプ盤の26のアルファベットはドイツ語配列で、

英語・米語のキーボード形式とは異なる配列でした。

数字や句読点はなく、26文字のアルファベットだけ。
数字や句読点は全てアルファベットで記す必要がありました。



Q W E R T Z U I O
a s d f g h j k
P Y X C V B N M L

スクランブラーユニットは3つのローターで構成されており、

各ローターには26文字のセットが円形に印刷されています。

ローター1個で26通りのポジションが取れるので、
3個を組み合わせると、26×26×26の17,576通りの組み合わせが可能。

その後、4つ目のローターが追加され、
組み合わせの可能性は456,976通りにもなりました。

送信側と受信側で同じ位置を設定しなければ、
メッセージを解読することはできません。

キーを押すと、右端のローターが1文字分、つまり1/26回転分進み、
1回転すると、真ん中のローターが1文字進みます。
真ん中のローターが1回転すると、左端のローターが1文字分進みます。

これにより、1つのメッセージの中で、
同じ文字が2度表現されることがないようになっていました。

ローターの回転開始位置を示す設定は、

ナバルキー(Schlussel M)と呼ばれていました。

毎日ドイツ時間の午後12時になると、海軍キーが変わります。
また、状況に応じてランダムな間隔で異なるキーに変更も可能でした。

出航するUボート艦長には、哨戒予定時間をカバーするだけ
十分な海軍キーが渡されますが、もし、予想以上に哨戒が長引いたら、
他のボートから新しい鍵を入手する必要がありました。

暗号化されたメッセージを送受信することが不可能になるからです。

この海軍キーはトップシークレットで、厳重に管理されました。

キーとエニグマ装置が敵の手に渡ったら、鍵の有効期限が切れるまで、
暗号通信は敵に公開されることになるからです。

キーは水溶性の紙に印刷されており、
ビルジに落とすと勝手に溶けてしまうようになっていました。


エニグマは、第2次世界大戦中、ドイツ軍のすべての部門で使用されました。エニグマが漏洩した場合の被害を抑えるために、
各軍はそれぞれ独自のエニグマ鍵のセットを使用し、たとえば
海軍のモデルはエニグマM(M=Marine)と呼ばれていました。

エニグマMはさらに4つの鍵に分けられていました。

第1は外洋軍艦のための「ヒドラ」
第2は内地軍艦のための「ハイミッシュ」
第3は造船所のための「ウェルフト」
第4はUボートのための「トリトン」

このほかにも、戦争中、特殊なキーが多数存在しました。

ほとんどのメッセージは、Allegemein(一般)または

Offizier(将校のみ)に指定されていました。

一般的なメッセージは通常の鍵で暗号化されますが、
士官専用は機密性の高い情報を含んでおり、二重に暗号化されます。

メッセージはまずOffizierのキーで暗号化され、
Allegemeinの鍵で再び暗号化されます。

無線オペレーターが最初のメッセージを解読すると、
そのメッセージは通信士に渡されるので、通信士は、
士官用キーを使って、2つ目の暗号を内密に解読するのです。





さて、ここからは実際に展示されているエニグマ実物の紹介です。

エニグマ・マシンにより、ドイツ軍は複雑なコードシステムを使用して
秘密裏に通信を行うことができました。

エニグマの複雑性から、ドイツ軍は、自分たちの暗号を解読するのは
連合軍には事実上不可能だと思い込んでいました。

しかし、
連合軍のコードブレーカーズの創意工夫とドイツ軍の失敗
(つまりU-505の捕獲を始めとした実物の流出ですねわかります)
により、連合軍は、1943年11月から終戦までの間、
Uボートを介して送受信されるほとんどのメッセージを
読み取ることができていました。

このM4エニグママシンは、U-505で発見されたものに似ています。


まーなんですね、繰り返しアメリカ側としては、
ドイツの「慢心」について指摘しておりますね。

さすがに、同盟国がエニグマを読んでいるのではないか、
という疑念を抱かざるを得ない、いくつかの事件が起こったため、
デーニッツの強い要望で何度も調査が行われたのですが、
海軍情報部は常に同じ結論に達していました。

エニグマの解読は不可能であると。

しかし、ドイツ軍が知らなかったのです。
エニグマの機械が海軍の鍵とともに無傷で捕獲され、
それがイギリスの暗号解読者にとって大きな助けになったということを。

ドイツ側は、正常バイアスに陥っていたのか、これらの事件は
スパイ行為と同盟国のレーダーの有効性に起因すると決めつけました。

一応デーニッツは予防策として、4輪エニグマを導入し、
これはイギリスの暗号解読者を一時混乱させましたが、
すぐに四輪エニグマも捕獲され、解読が捗りました。

【プリンター付き M4エニグマ・マシン】



そしてこれがU-505で回収されたエニグマ実物です。

この機械と900ポンド(408.23kg)のコードブック、
そして出版物が発見され、回収されました。

コードブックはエニグマの成功に不可欠でした。
エニグマコードは本の指示に基づいて毎日再構成されていました。

これにより、この非常に複雑で解読が難しい秘密の言語に、
さらに別のレベルのセキュリティが提供されていたのです。


回収されたそれらはすぐさま連合軍の暗号解読作業を支援するために、
ワシントンD.C.のアメリカ海軍情報部に送られました。

この機械にはチッカーテープ印刷装置が取り付けられています。

【エニグマローター(箱入り)】



エニグママシンの「心臓部」はローターシステムでした。
1942年以降にUボートで使用された4ローターのマシンには、
交換可能な3つのローターと、所定の位置に留める一つローターがありました。
実際には合計8つのローターから選択することができました。

この箱には5個のローターが収納されており、
毎日3個を自由に組み合わせて使用していました。



ローターの仕組みをわかりやすく見せるために、
分解した状態を宙に浮かせて展示しています。



マシンのシリアル番号 (M7942) は、キーの下の小さなプレートにあります。

エニグマはドイツの主要な暗号機であり、第二次世界大戦中、
軍のすべての部門で使用されました。

エニグマは、ローターそのものをさまざまな方法で組み合わせ、
各ローターの設定を変更することによって、
マシンには2,070億を超えるローターの配置が可能になりました。

これだけの可能性があったならドイツ軍が
絶対敗れまいとたかを括っていたとしても当然かもしれませんが、
驚くべきことに、連合軍のコードブレイカーは、
傍受した無線メッセージを分析するだけで、
ローターの構成を推測する方法を見つけ出していました。

コード解読後、連合国はU ボートのメッセージを傍受すると、
わざと護送船団を彼らの周りにルーティングし、
護送船団を仕留めようとやってきたU ボートに
ハンターキラー グループを差し向けるという作戦を取りました。

このように、エニグマ暗号を解読することは、
大西洋の戦いに勝利する上で重要な役割を果たしたのです。

エニグマ解読の戦いにおいて、集められた情報を、
イギリス人は「ウルトラ」と呼び、アメリカ人は「アイス」と呼びました。

民族性の違いみたいなのが現れていますね。
アメリカの「アイス」は「いずれは溶ける(解ける)」という願望か?


【鉛の錘付きコードブック】


リード(鉛)のウェイトのついたコードブックです。
これが何のためについているか知ると、あなたは感心するでしょう。

このコードブックはUボートとドイツ軍の航空機が通信する際の
必要な暗号が記されているのですが、鉛のおもりで裏打ちされているため、
本がボートの外に、あるいは航空機から投げ出されると、
鉛の重さで速やかに海に沈み、浮くことも、
波間に漂ってその後岸に打ち上げられることもありません。


しかし、今現在、ここにあるということは・・。
そう、U-505では総員退艦が命じられてから、
ボートごと爆破することで、個別にコードブックを始末する必要もないと
総員が信じていたために、ボート内に残され、回収されてしまったのです。

U-505の捕獲で、連合国は最も手に入れたかったものを手に入れました。
それがエニグマ本体であり、コードブックの存在でした。

このことは、事実上大西洋の戦いにおける最大の情報押収となり、
海軍の暗号解読チームは、13,000時間のコンピュータ作動時間を節約し、
戦争の残りの期間における暗号解読によって、
連合国の勝利に大いに寄与することになったというわけです。

それを思うと、このときのUボート乗員が、総員退艦の時、
自爆装置を作動しただけでボートを離れたことは、
ドイツ軍上層部がもし知ったら、腹切りものの失策であったと言えましょう。

幸か不幸か、アメリカ側は捕獲したことを極秘扱いにしたので
ドイツ側も戦後までこれを知ることはなかったわけですが、
当のUボート乗員たち、特に上層部艦長以下士官たちは、
むしろそれをありがたく思う気持ちもあったに違いないと思います。


まだ浮いているUボートを放置していち早く脱出することが、
結果的に数多の同胞の命と軍の装備を失い、自国の敗北を早めることになる。

もし彼らがそのとき未来に起こることをこのとき知っていたら、
それでも、彼らは自らの命を優先する行動を取ったでしょうか。

Uボート艦長の中には、敵の手に艦が落ちることがないように
あえて自らの命を犠牲にした軍人もいたそうですが・・・。


続く。



「ゲハイム!」ペリスコープ〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-16 | 軍艦

シカゴ科学産業博物館展示のU-505について解説しています。

艦首から艦尾にかけて外装中心の「サブ・ファクト」シリーズは終わり、
ここからはU-505艦体の外の展示を紹介していきます。



そこでまずこの写真を見ていただきたい。
皆様は潜水艦をこんな角度から実際にご覧になったことがあるでしょうか。

シカゴの科学産業博物館のU-505は、Uボートという敵国ドイツの軍艦を、
大変な労力と資金その他を惜しげもなく注ぎ込んだ結果、
世界最高レベルの軍艦展示として内外に高く評価されることになりました。
それは、こんな角度から艦体をみることができるという
この一例にも如実に現れています。

それにしても、この完成度の高さには、これまでアメリカ国内で
さまざまな展示艦を見てきたわたしにとっても、驚きでしかありません。

ここに至るには、関係者の熱意から始まって、議会への働きかけ、
政財界への資金調達への努力、技術の結集、
さらには展示についてのノウハウの一切合切と、
何一つ欠けても辿り着くことができるものではないということを、
地方で朽ちていったり、経済上の理由で維持できなかったり、
できてもボランティアに多くを頼っているケースからも知っているからです。

ここでふと疑問に思ったことがあります。

自国の軍艦ですらここまで完璧な姿で残っている例はほとんどないのに、
なぜ敵国ドイツ軍の潜水艦に巨額の資金をかけて保存したのか。

と、いうことです。

しかし、わたしもそうであったように、その疑問は、現地に足を運び、
Uボート捕獲のストーリーを実際に知ることによって氷解するでしょう。

つまり、この永久保存は、Uボートを「生け捕り」することを計画した
ギャラリー大佐と、彼が率いたタスクフォース22.3の快挙を
後世に伝えるための記念であり、彼らへの勲章
という意味があるのだと。

しかもおかげで、後世の我々は、おそらくドイツ人も見たことないレベルの
Uボートの「生きた証」をこうやって目にすることができるのです。



例えばこの写真ですが、これは冒頭の写真と同じく、
U−505の艦尾の下から真上を向くと見える景色となります。

■ 二連装2㌢対空銃-twin 2cm Anti-Aircraft Gun



いくつかの装備は艦上から外されて、
観覧者が間近に見ることができる場所に設置してあります。



二連装の対空機関砲のマウント数はどこにも明らかでなく、
「複数」とだけ書かれていたり、数には全く触れられていなかったり。

「サブ・ファクト」でも触れたように、
潜水艦にとって最大の脅威である航空機と戦うために
対空砲はいくつか装備されていましたが、
U-505の対空機関砲装備には、1942年11月11日、
イギリス空軍の水上機によって負った重大なダメージが関係しています。


艦長だったペーター・ツェッヒ中尉が総員退艦を命じたところ、
士官たちが命令を聞かずにボートのダメコンを行い、
その結果なんとか母港に帰ることができたという、あのときの爆撃ですね。

どのくらいすごかったかというと、爆弾を落とした水上機が
その爆風で墜落してしまった
というくらいの凄まじい破壊力で、
潜水艦本体の修理には丸6ヶ月かかったというものでした。

このとき墜落した航空機の部品を拾い上げたU-505の乗員は、
それで乗員のために斧の形の帽子につけるピンを作ったりしています。

それはともかく、そんなことがあったので、修理の際にU-505は
新たに二連装の2㌢対空機銃2門に加えて、
3.7cmnの対空砲1門も新しく拡張した司令塔に装備されました。

航空攻撃の恐ろしさを身に沁みて知ったからですが、
結局、この後U-505が先頭で対空砲を発射する機会はありませんでした。

タスクフォースの攻撃の時は、まず爆雷でダメージを受け、
それが致命的だったのでいきなり総員退艦せざるを得ず、
浮上したUボートから脱出するのに精一杯で、
航空機を攻撃どころではなかったからです。



新しくマウントした対空機関砲を掃射するU-505の乗員。



2cm(20mm)FlaK 38ラウンド

U-505は最後の哨戒のためにこの高爆発性の2cm弾を
8,500発装填していました。



しかし、おっと、アップにしたら大きさがよくわかりませんね。
右のアクリルケースの中に収められているのが弾薬です。



後ろにはアメリカ軍の戦闘機の写真が・・・・。

■ Seeing Above the Surface ペリスコープ



U-505の展示室は、大きなドーム状の上部から進入し、
壁沿いに造られた通路をUボートを見ながら降りていくようになっていて、
ボートと同じレベルには、司令塔とその先から出た
ペリスコープだけが切り取られた形で展示されています。



ほんもののペリスコープはドームの高さの関係で外に出せないので、
ここにレプリカとして実物大が展示されているのです。

ここでは潜望鏡を実際に除く「チャレンジ」ができるそうですが、
その前に、U-505が搭載していたペリスコープ実物を見ましょう。

Close look at an original German U-Boat (U-505) Submarine Navigation Periscope,



これはナビゲーションペリスコープです。
スコープを上げたとき、白だと水平線に溶け込みやすいため、
工場出荷時は白く塗装されています。

しかし、多くの場合、艦長の判断でボートの上部艦体の色に合わせて
グレーに塗装することが多かったようです。

【材料】

ドイツはメインチューブにブロンズではなくステンレス鋼を使用しましたが、
必要なだけ複雑な形状に成形しやすかったことから、
先端には混合素材を使用していました。

【光学】

光学系は、真上から水平線下10フィートまで
100フィートの視野を提供します。



ところで、Uボートにはご覧のように二つ潜望鏡があります。

側面にあるレバーで操作されるナビゲーションペリスコープの隣が
アタック・ペリスコープというのですが、ナビゲーションの先端は
攻撃用よりも視野が広く、そのため
「バルバスシェイプ」=球根状になりました。

【震動の低減】

潜望鏡チューブの周りを潜航によって水が通過すると、
チューブそのものが振動し、このため視界が悪くなります。

振動を抑えるためにボートは低速で進むことを余儀なくされますが、
ドイツではこの問題を低減するため、ワイヤーケーブルを
コルクスクリューのようにチューブに巻き付けていました。

これで振動が減らせたんですね。

【チューブ】

ペリスコープの長さは7.7m、メインチューブの直径は180ミリ強、
重さは415キログラムとなります。

チューブは使用時に司令塔の天井にある、水と圧力のブッシング
(配管と接続先の間に取り付ける固定金具)を通過します。
これは油圧ピストンと同じ仕組みです。

メインチューブはこの目的のため、また腐食を防ぐため
ステンレス鋼でできているのです。

【行方不明の潜望鏡】

戦争が終わった時、アメリカ海軍はU-505の潜望鏡を
二つとも取り外してその光学技術を研究しまくり、
まだ試験中だった他のユUボートでスペアとして使ったりして、
色々やっているうちに
どこに行ったかわからなくなりました。
(おい)

1954年にU-505が展示のためにシカゴに到着したのですが、
アメリカ海軍はついぞ潜望鏡を見つけることができませんでした。

ほぼ50年経過した2002年になって、そのひとつ、
ナビゲーションペリスコープの方が、
サンディエゴの海軍研究所にあることが判明し、
科学産業博物館はこれを取り寄せてここに展示することに成功しましたが、
アタック・ペリスコープが現在どこにあるのか、わかっていません。

適当なことやってんじゃねーアメリカ海軍。



これがU-505の実際の潜望鏡のビューイングヘッドです。
ビューイングヘッドはドイツ語でEinblickkopf といいます。

【ビューイングヘッド・フィルター】

レバーを動かすと、接眼レンズの前にオレンジ、あるいは
ダークグレーのフィルターをかけることができました。
太陽が逆光の時、あるいはもやのかかった状況で使用します。

【ビューイング・アングル(視野角)】

レバーで先端のレンズを回転させることによって、
艦長がボートを浮上するかどうかを決定する前に
頭上に敵機がいないかどうかを確認するために使用しました。

また、ナビゲーション目的で星を観察することもできます。

【倍率】

レバーでは倍率を1.5Xから6xまで変えることができます。

【復元】

この潜望鏡がアメリカ海軍から回収されたとき、
ビューイングヘッドと先端はすでに数回塗装されていました

潜望鏡を展示するために行う保存作業中に、昔ドイツで行われた
塗装の層が、現在のものの下にあったことがわかったので、
学芸員は、オリジナルのドイツでの修復の層が
どれくらい残っているのかわからないため、
あえてペイント層を残し削らないことにしました。

塗り替えられた色がその都度違うのが明らかになりましたが、
ドイツでは黄褐色、そして明るい色が塗られ、
アメリカ海軍がスペアとして使った時に、灰色に塗られていました。

【ハンドグリップ】

ハンドグリップは(映画でもお馴染みですが)、潜望鏡を使用しないときに
スコープを収納チューブに下げるように折り畳まれます。
これを折りたたむと、潜望鏡は回転させることができました。


Uボートに搭載されている全ての洗練された機器の中で
潜望鏡はおそらく特別だったかもしれません。

Uボートが敵の船に忍び寄り、水中で魚雷を発射する方法は
戦争の初期、絶大なる有利をドイツにもたらしました。

潜航中、ユーボートの乗員は潜望鏡を使用して水上を見て、
忍び寄り、駆逐艦を避けて商船を標的にしました。



【U-505の二つの潜望鏡】

二つの潜望鏡のうちアタックペリスコープは主に日中、
魚雷発射に備えて水面にいる敵艦艇を標的にするために使用されました。

ナビゲーションペリスコープは、対潜哨戒艇や航空機を避け、
夜に星を頼りに航行する場合に使用されました。

どちらの潜望鏡も司令塔から操作されました。



説明がなく、単に背景として写り込んでいました。
ドイツ語なので、艦内でみつかった潜望鏡のマニュアルでしょうか。



Tafelってドイツ語でテーブルですよね。
これもドイツ語のマニュアルっぽい。



ヘッド部分の設計図・・・?



使用例



使用例その2

それはそうと、この人の髪型は一体どうなっているのだろうか。



修理中?


Geheim!(ゲハイム)=「秘密!」

【Hinteres TurmーAngriffs Sehrohr Ata SR C/2】
後部砲塔 攻撃ペリスコープ Sta SR C/2 



U-505 のアタックペリスコープには、
水平線のみに向けることができる小さな固定レンズがありました。
乗組員は主にこの潜望鏡を使用して、
日中に攻撃する船を探して表面をスキャンしました。

水を切り裂くアタック ペリスコープ チューブの部分は非常に細いため、
水面にほとんど跡が残らず、連合軍の船が発見するのが困難でした。

しかし、チューブのサイズが狭いということは、
潜望鏡に入る光の量が制限されるため、
つまり、デバイスは夜間にはあまり効果的ではありませんでした。

【Vorderes Turm -Nachatluftziel-Sehrohr NLSR C/8】
前方砲塔 - 夜間空中ターゲット -
ナビゲーションペリスコープ NLSR C/8 



U-505 の航空航法潜望鏡には、回転して真上、
または地平線に沿って下の眺めを提供できる大きな丸いレンズがあります。

U-505 の乗組員は航空航法潜望鏡を使用して上空で連合軍の航空機を探し、
表面をスキャンして連合軍の船を探しました。

レンズが大きいほど、このペリスコープに入る光が多くなり、
夜間の使用に最適です。

晴れた夜には、潜望鏡は星のパノラマビューを提供し、
乗組員はそれを使用してボートを航行できました。
空中航法潜望鏡は、攻撃潜望鏡の視野が最も限られている
夜間の攻撃中にも使用されました。



ところで、上から見たレプリカの司令塔の中では
こんな光景が常に展開しております。


攻撃用と航空航法用の潜望鏡を備えたコンニングタワーが再現されており、
海上をパトロールする気分を味わえます。

高解像度液晶ディスプレイを搭載した潜望鏡で、
魚雷の発射や自艦の方位確認、浮上判断など、時間との勝負に挑みます。

攻撃用潜望鏡では、"艦長"になって敵のターゲットを特定し、
ロックオンすることを目指します。



航空航法用潜望鏡では、"ウォッチオフィサー "となり、
重要な視覚・航法情報を探し出す。航空機や敵の駆逐艦に発見される前に、
港を特定したり、潜水することができれば、パトロールは成功です。

しばらく待っていたのですが、この二人の艦長と見張士官が
いつまでたってもパトロールを止めようとしなかったので、
あきらめてまたの機会にしようと立ち去りました。

まあ、またの機会はおそらくないんですけどね。



現場では気づかなかったけど、
怖い顔してハッチを上ってくる水兵さんがいる・・・。

これはきっとゲハイムだな(意味不明)

続く。





"ハイホー・シルバー!”サブ・ファクトIV〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-14 | 軍艦

潜水艦のことを「鉄の鯨」に喩えるのは言い得て妙だと
この写真を見るとつくづく思うわけですが、
シカゴの科学産業博物館にある捕獲されたU-505の展示から、
「サブ・ファクト」シリーズの4日目です。



今日はStern、艦尾部分です。

■ ディーゼルエンジン・ベント



そこで早速行き詰まってしまいました。

「U-505のディーゼルエンジンの排気は、甲板のすぐ下、
艦側面のクラムシェルのような通気口を通じて排出されました」

とあるのですが、この「クラムシェル」がどこにあるのかわかりません。



側面に確かに穴はありますが、これは違いますよね。



しかし、裏に回って左舷側を見ると・・・。



もしかしてこれのことでしょうか。「アサリ貝の通気孔」

なぜ右舷側からそれが無くなっているのかはわかりませんが、
U-505はここに展示するに至ってとにかくあちこちを改装しているので、
何かの事情で穴を塞いだものの、その後再現できなかったのかなと思ったり。

この排気システムは、ディーゼルエンジンから発生した煙を冷却して
最小限に抑え、エンジンによって生成される火花を消すための
大きな「ウォータージャケット」付きパイプでできていました。

要するにディーゼルは水冷式だったということでよろしいか。

ウォータージャケットというのは現在でも
内燃機関で冷やしたいところだけを冷やすシステムとして使われます。

この頃の水冷エンジンの冷却は、とにかく
オーバーヒートしないことが重要視されていました。(今もか)
そのため、内燃機関でシリンダーヘッドの周囲に設けられ、
大量の冷却水をボア周辺全域に渡って流す通路があったのですが、
それをウォータージャケットと呼ぶわけです。

夜間は特にボートの位置を悟られないように、
火花を発生させない仕組みが必要でした。

■ 舵ーRudders



Uボートのこの部分を照らすライトの演出、
海中を構想するかつての姿を想起させて効果的で素晴らしいですね。

この写真における下に折り畳まれた「翼」のような部分が舵です。

この博物館の展示の素晴らしさは、海に浮かべる形式の展示と違い、
艦体がほぼ半永久的に劣化しない状態で、かつ、
海中にあれば、決して人が肉眼で見ることができない、
このような下の機関をはっきりくっきりと確認できることです。



わたしもアメリカ国内でいくつか潜水艦を見てきましたが、
こんな角度から潜水艦の艦体を見たのは初めてのことです。

しかし、この写真を何の予備知識もなしに見せられたら
これは潜水艦の後部だと初見で言い切れる人はあまり多くなさそうですね。



で、この縦部分が舵であります。

舵は言わずと知れたボートを方向転換するための装置で、
両舷に一つずつ合計二つあります。

どちらもブリッジ、司令塔、または制御室から
電気を通じて制御することができます。

ここで、U-505が捕獲されるに至った米軍の攻撃について思い出してください。

駆逐艦USS「シャトレーン」が海上から投下した爆雷の一つが
U-505の電気系統のコントローラーをノックアウトし、
舵が右に動かせなくなってしまったんでしたよね。

そのためハラルト・ランゲ艦長は、緊急操舵装置が作動するのを待たず、
乗組員に総員退艦を命じたということも。

そのまま浮上したので、U-505の舵はずっと右に切れたままになっており、
タスクグループが見ても、舵がスタックしているのは明らかで、
ボートは右舷に向かってきつい縁を描きながら完全に浮上していました。

駆逐艦「ピルズベリー」は、暴走する潜水艦に何とか接近しようと
ぐるぐる跡をつけながら奮闘を続けていましたが、
そのうち、Uボートの艦首が「ピルズベリー」に衝突し、
エンジンルームを含む二つのコンパートメントを浸水させてしまいました。


もうこうなったら艦体をUボートから引き離すべきかと全員が思った時、
アルバート・デビッド中尉が指揮する乗艦隊のうち誰かが、
潜水艦の甲板に飛び移って、乗艦隊のホエールボートを
ロープで手繰り寄せることに成功したのです。

この快挙は、空母の艦橋から息を呑んで見ていたギャラリー大佐に、

「まるで野生の馬にロープをかけるカウボーイを見ているようだった」

と感嘆せしめ、最初の男が潜水艦に乗り込んだ瞬間、大佐はTBSを引っ掴み、
「ピルズベリー」に向けて高らかに放送したのでした。

「Hi Ho Silver!Ride 'em cowboy!」

「ハイホー・シルバー」は西部劇「ローンレンジャー」の決め言葉ですが、
それって「ハイヨーシルバー」じゃないのと思った人もおられますかね。

アニメ「紅の豚」でも、ポルコ・ロッソと空中戦をするカーチスが
(わたしこのカーチス大好き)
「ハイヨー・シルバー!」
と言ってましたものね。

実は、アメリカ人でもこのセリフをなぜか

「ハイヨー、シルバー!」

だと思っている人が圧倒的に多く、実にどうでもいい話ながら
歴史の争点?になっているらしいんですね。
いわんや日本人においてをや。

"Hi Yo, Silver / Hi Ho, Silver "
ローン・レンジャーのキャッチフレーズの濁った?歴史。

(ちなみにハイヨーではなくハイホーが正解)
後半の、

「Ride' em cowboy!」

「行け行けカウボーイ!」という感じでしょうか。

これは1942年のカウボーイ映画のタイトルで、日本では
「凸凹(でこぼこ)カウボーイ」というタイトルで上映されたようです。

ギャラリー大佐は間違えずにセリフを覚えていたってことのようです。

■ 後部潜舵



後部潜舵、リア・ダイブプレーンとガードです。
三つの円の真ん中の丸の部分だとお考えください。



ラダーの「縦」に対してこちらは横に突き出しているものです。
Uボートの潜舵は、潜航した場合、ボートの深度、
そして角度を変更、または維持するための装備です。

実は恥ずかしながらこのわたし、ラダーとダイブプレーン、
具体的にどう違うのか認識があやふやだったんですが、
この実物を見て、初めて得心がいきました。

「シルバーサイズ」では言葉だけだったので理解できなかったのです。

こちらはコントロールルームから制御され、
前方の潜舵は深さを制御し、後方は角度を制御しました。


ちなみにこれが艦首側を前方から撮影したものですが、



深さを制御する前方の潜舵がこちらとなります。



ダイブプレーンは最大限の効果を得るために、
スクリューの後ろに配置されていました。

そして、スクリューのシャフト?カバーが、スクリューの外に張り出して、
スクリューのガードの役目をしており、それはさらに
潜舵のガードにつながっています。



「ロッキン」のTシャツのおじさんが手をかけている部分は、
ちょうどそこでガードがねじれていて、潜舵が取り付けられています。
プロペラにものが当たらないようにする役目と同時に
潜舵のガードと補強の役割を果たしているというわけです。

■ スクリューとスクリューシャフト

つい図には原語通り「プロペラ」と書いてしまいましたが、
英語ではスクリューのことを普通に「プロペラ」といいます。


U-505の2基のエンジンは直接駆動です。

つまり、それぞれが減速機なしで二つのクラッチを介して
スクリューシャフトとスクリューに直接接続されているのです。



どのくらいダイレクトかというとこのくらいです。
視覚で囲んだ部分にエンジンが2基あり、
艦内のシャフトがそのまま外に突き出していってスクリューに直結します。

ちなみに赤線はわたしが書き込んだものですが、
下の平行線が目の錯覚で内側に歪んで見えますね(どうでもいいけど)



潜水艦をスクリューの位置とエンジンの位置で輪切りにしたところ。
ちなみにこれはU1の設計図ですが、ほぼ変わりないと思われます。



スクリューの羽は3枚。
素材はソリッドキャストブロンズで、
500rpmで33,000ポンドの水力を発揮します。

そしてボートを最高速度18ノットで推進しました。

参考までに、これが現存しているUボートの生きたエンジン。
2:40まで何やら色々と準備をし、ベルが鳴るとエンジンが動きますが、
後方の大きな舵輪がずっと回っているのに注意。

Start Up of a WW2 Submarine Diesel Engine of a German U-Boat 🔊

動き出してからおじさんがステップの上に乗って色々とノズルを
仔細ありげに調整して見せますが、何のためかは全くわかりません。

このエンジンはタイプXIIIということなので、U-505(IX)より
かなり後のものだということになります。

メインテナンスがいいのか、元々堅牢な作りなのか、
ディーゼルエンジンのメカニックがいて、

「音が大変滑らかだ。
彼らがこれをコンピューターを全く使わずに作ったことは驚きだ」


とYouTubeのコメント欄に投稿しています。
他のコメントもエンジンそのものの設計への賛辞が多く、

「従来の潜水艦に乗ったことがあるなら、
これらは工学の傑作であり、見事に考え抜かれ、組み立てられ、
重要な機器にはバックアップシステムがついていることを知っているだろう。

これらのマシンを設計したエンジニアは、純粋な天才です」

そして、このエンジンをメンテナンスしている人に対しても。

「このエンジンが非常によく整備されていることがわかるだけでなく、
この老人が自分のしていることを理解していることがわかる。

冷静に手順をこなし、調整すべきところは素早く、
しかし決して急がずに調整する姿にそれが表れています。
この人は、自分の仕事を愛しているのだとわかる」


また、わたしがこのメカニックのおじさんが、
何か意味ありげに触っている、といったことについては、
別の太陽光発電の施工業者という人がこう言っています。

「わたしも仕事で毎日手を動かしていると、
しばらくして『何か』がただ流れてくるのを感じる。

映像に見られるこの男性の手を見ていると、
全てのタッチに確かな意味があることがわかります。
ある特定のレンチを引き抜く瞬間の、

そして空気の流れをテストする様子のスムースさには
畏敬の念を抱かずにはいられません」

世界のメカニックオタクたちの陶酔のツボがよくわかるコメントです。


続く。




司令塔後部 サブ・ファクトIII〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-05-12 | 軍艦

歴代艦長のエンブレムの話から、
第二代艦長ペーター・ツェッへ中尉の悲惨な自死にそれてしまいましたが、
気を取り直して、「サブ・フェクト」三日目をお送りします。

今日はU-505の司令塔、コニングタワー周辺についてです。
ここは他でもないそのツェッヒ中尉が自決をした現場なのですが、
ほとんどの展示と同じく、司令塔は公開されていません。

■ 艦体の銃痕



黄色い丸で囲まれた部分、そのほかにも
点々とU-505の艦体にはアメリカ軍から受けた銃弾の痕が確認できます。



赤い丸で銃痕を囲んでおきました。

爆雷によってU-505が浮上したあと、
タスクフォースの駆逐艦3隻が一斉に弾丸を発射し、
同時に戦闘機が50口径の航空機中で射撃を行いました。

最初からできるだけ完全な形で捕獲することが目的であり、
攻撃で沈むようなことがあっては元も子もないので、
司令官、ダン・ギャラリー大佐は、艦体に大きな穴を開けないように
対人弾薬のみを使用することを命じたということです。

人はどうなってもいいからボートに大きな穴開けるなですかそうですか。

赤丸で囲んだところを見ていただくと、銃痕の大きさが
20ミリ、40ミリ、50口径と3種類確認できます。
(司令塔上側は20ミリ、その他は40か50口径)



対人弾薬ってこんな強力なものなんですね。
てか、本当に対人弾薬しか使ってないの?

■デコイ



連合国のレーダー技術が進歩するにつれ、
ドイツ軍はレーダーデコイを配備し対抗するようになりました。

レーダーデコイは風船や浮きブイで展開され、
レーダー波を反射すると浮上したUボートに見えるよう設計されていました。

使用されるタイプによって、標準的な魚雷発射管から発射されるか、
デッキで手作業で組み立てられるかのいずれかでした。

多くのUボートが30個ものデコイを搭載していました。

デコイ作戦が始まると、潜水艦はデコイを放出したのち
素早く駆逐艦の動きと反対方向に移動して脱出をします。

この図では「A」「B」で記されているところにデコイがあります。


【A アフロディーテ・デコイ
Aphrodite Decoy】



よくわからんのですが、多分黄色い丸で囲んだ部分、



これがアフロディーテという美の女神的なデコイ製造機のようです。



”アフロディーテ発射!”(厨二的だのう)の図

1943年9月に配備されたアフロディーテ・デコイとは、
なんのことはない直径約25インチの大きさのゴム風船で、
水面上に浮かび、浮き筏で海面に固定された状態で漂いました。

ラインの長さは50メートルで、ラインには
レーダー反射板として3枚のアルミホイルが取り付けられていました。

一般的に、装置は上甲板で組み立てる必要があり、
そこで水素を充填した缶で風船を膨らませていましたが、
U-505の場合は、このバルブから甲板の下のタンクに貯蔵された
水素ガスを使用して風船を膨らませていました。

バルーンからぶら下がるアルミホイルのストリップが
ちょうど水面の近くに垂れ下がると、連合国のレーダーは
これを浮上したUボートと検出して、だまされてくれるというわけです。

展開後のバルーンの寿命は3〜6時間といったところでした。

ちなみになぜアフロディーテなどという名前かわたしなりに考えたのですが、

アフロディーテ=アプロディーテ=Ἀφροδίτη
=泡の女神

であり、泡(アプロスaphros)から生まれたのち、
西風(ゼフィルス)が彼女をキュプロス島に運んでいった、
という起源を、泡(ガスですが)で水に浮かぶ様子とかけたのかも・・。

まあ、いずれにしてもデコイを開発した人が、ロマンチストで
なかなかの詩人であったことが窺い知れますね。


【B BOLD キャニスター】

艦体の写真を何度も見たのですが、それらしいものは見つからず。

U-505の場合は、後部魚雷室のトイレにある
「Pillenwerfer(ピル)  Port」から投入されていました。



綴りも「bold」「bolde」と2種類あって
どちらが正解かわかりませんが、とにかくソナーデコイの種類です。

これは直径3.9インチほどの金属製の容器の中に、
海水と混ざると大量のガスを発生する水素化カルシウムを入れたもので、
特殊なチューブから発射され、放出されると
海水が特殊なバルブに染み込み、化学物質と反応します。

このバルブが開閉することで、水素が泡を発生するので、
約20~25分で化合物が枯渇するまで、キャニスターは一定の深さに留まり、
ソナーなどの水中探知機では、この泡の雲は
水没したUボートと誤認
されることができました。

しかもこれ、ソナーオペレーターがよっぽど熟練していない限り、
実際のターゲットと区別することは、ほぼ困難だったそうです。

連合国はこれを「潜水艦バブルターゲット」(SBT)と呼んでいました。
BOLDは1942年以降、広く使用され、終戦まで改良を続けていましたが
最後のものはBOLD 5で、水深200mまでの使用を想定するものでした。

U-505がタスクグループに捕捉された時、
ボールドデコイを多数放ちましたが、この時の米軍は騙されませんでした。

デコイが装備され始めた頃、連合国側はかなり混乱し、
Uボートがレーダー・デコイを使って追っ手を振り切ることに
成功したことも少なからずありましたが、
この頃は対抗策は十分に開発されていたのかもしれません。

Uボートの使用したデコイには他に次のようなものがありました。

【ジークリンデ Sieglinde】

Uボートの側面に設置され、かなりの距離まで射出することができた

電気モーターを搭載しており、6ノット(時速11km、6.9mph)で移動し、
周期的に上昇または潜行することで、実際の潜水艦の動きを模倣した


これにより、本物のUボートは追撃してくる艦船から逃げることができた

通常、ピレンヴェルファー(またはボールド)デコイ
と組み合わせて使用された

「ジークリンデ」はドイツではよくある女性名ですが、
やはりわたしはワーグナーの「ワルキューレ」を思い出します。

もしこの名前を取ったとすれば、彼女は人妻でありながら
そうと知りながら双子の兄ジークムントとの間に子供を作ってしまい、
夫から彼を逃したというところが命名のポイントかと思います。

さすがはドイツ、武器にワーグナーの楽劇の登場人物の名前をつけるとは。


【ジークムント Siegmund】

耳をつん裂くような爆音を連続して発するたいソナー装置で、
敵の聴音機をブラックアウトさせることを目的としていた
Uボートはこれを鳴らすや否や、短時間の間に逃走することができた


というわけで、このジークムントという名前があることからも、
ジークリンデは間違いなく「ワルキューレ」から取られており、
こちらもジークリンデの双子の兄から取られているとわかりますね。

ジークムントは早めに死んでしまうので、
単に「ジークリンド」の双子の兄というだけでつけられたかと。

【テティス Thetis】

1944年2月に就役

浮遊ブイ、金属板、鋼管で構成されたやや小さな帆のような形のもの
魚雷発射管から発射することができた

一度に数ヶ月間浮遊させることができるため、戦略的意図としては、
各Uボートがビスケー湾を横断する際にこのデコイを放ち、
連合軍のASW部隊を混乱させることが期待された


ここまできたらテティスもそれなりの意味があるはず。
と思って調べたところ、Thethisはギリシャ神話の「海の女神」でした。

かつて彼女は、夫ペーレウスの間にできた子供の不死性を確かめるため
赤子を水の満ちた大釜に投じては溺死させる
というDQN行動ですっかり夫から距離を置かれていたのですが、
ペーレウスがアルゴー船の冒険に参加したとき、
ヘーラー(誰?)に説得され、彼と子供(DQN行動で生き残った唯一の子)
の乗った船を荒波と岩礁から救ったという話がありました。


というわけで、航空攻撃から逃れるため、
その技術力と信頼を厨二病満載のネームにこめたデコイを装備し、
当初はそれなりに効果を上げていたUボート軍団ですが、
その頃連合国は新しい空中レーダーASV Mark IIIを導入しており、
デコイのシグネチャーには全く反応しなくなっていたため、
ドイツ軍は、この取り組みが完全に時間の無駄だったことを悟りました。

Radar, Air-to-Surface Vessel, Mark III 
(ASV Mk.III)

は、第二次大戦中にRAFが使用していた水上捜索レーダーシステムで、
1943年春から終戦まで、沿岸司令部の主要レーダーとして活躍しました。

RAFがレーダーを使ってUボートを探知していることに気づいたドイツ軍は、
1942年夏、Metoxレーダー探知機を導入しました。

これにより、潜水艦が航空機のレーダーに表示されるよりもずっと前に、
航空機の接近を警告することができるようになります。

秋口には、潜水艦が近づくと消えてしまうという報告が頻発し、
すぐさまこれに気づいた英国空軍は、
新しいマイクロ波で動作するASVを開発しMk.IIをIIIに置き換えていきました。

同時期に導入された他の対潜技術も相まって、
1943年の晩春にはUボートの損失が急増していきました。
ドイツ軍がイギリスの新しい武器の功績に気づいた時には、
Uボート部隊はほぼ壊滅し、大西洋の戦いは最終局面を迎えていました。

1943年10月にはマイクロ波探知機ナクソスが導入されましたが、
感度はメトックスに遠く及ばず、ほとんど影響を与えませんでした。


■ 司令塔後部



さて、さくさくと次に進み、次に
司令塔の後ろ側にあるものを紹介していきます。



わかりにくいので日本語で図を作り直してみました。

【対空砲】



航空機は潜水艦の天敵です。

なんなら同じ海軍の中でも、航空機と潜水艦は天敵同士だったりします。
これは模擬演習などで戦ったりする関係で自然とそうなるようです。

いわんや敵味方においてをや。

潜水艦にとって、航空機の恐ろしさは、駆動の素早さの違い。
安全に潜水する前に攻撃を加えてくることです。


というわけで、U-505にも浮上した時に航空機と戦うため
3門の対空銃が装備されていました。


 twin 2 cm FlaK 30 AA guns

2センチ砲(ドイツはインチではない。清々しい)の発射速度は毎分240発。


3.7センチ自動砲FlaKは毎分50発連射できました。
FlaKはFlugabwehrkanone、ドイツ語で対空砲のことです。



射撃手ができるだけ素早く発砲できるように、銃座の近くに
耐圧性(水に潜るので)の弾薬貯蔵容器が配置されていました。

この写真に写っているかどうかは自信がないので言及しません。

【フリー・フラッド・ポート】



フリーフラッドポートFree Flood Portは、Uボート特有の仕組みなのか、
アメリカ海軍の潜水艦では見たことも聞いたこともありませんが、
直訳すると「洪水しないようにするポート」という意味なので、
水&空気抜き穴といったらいいいでしょうか。

ボートが浮上または潜水した後、とじ込められた水と空気を
メインデッキの下部分から素早く排出するための穴だそうです。


この写真があったので、これがそのフリー・フラッド・ポート(かもしれん)

この仕組みはトリミング、あるいは艦体を水平にするために役立ちます。

潜航する際はつねにボートは「トリム(ツリム)」を行いますが、
ツリムが良好とは、浮力と重量が一致し、
前後左右の釣り合いが取れているという状態です。



大体その辺の艦体図を上げておきました。

【司令塔の変更】


戦争が激化するに従い、ますます激しさを増す連合軍の空の脅威に対し、
ドイツ海軍はより一層の防御を重ねていきます。

U-505の司令塔前方にはもともと10.5センチ甲板砲がありましたが、
これは取り除かれて新しく対空砲に置き換えられました。

ますます高まる火力の必要性に対応するために、
司令塔自体も何度も再建が重ねられていきます。



何の説明もありませんが、この2枚の写真がもし
同じ潜水艦の使用前使用後だとすると、
それはかなりの改装が加えられたことがわかりますね。



続く。



ツェッヒ艦長の自決 サブ・ファクトII〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-10 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505の外観についての
「サブ・ファクト」二日目、今日はコニングタワー(司令塔)からです。



今更ですが、潜水艦を仮に縦三つにブツ切りしたとき、
真ん中部分は「Amidships」と称します。

句切れのないこのままで「船の中心」という意味を持つ一つの言葉です。
転じて「みぞおち」「真ん中」というときにも使われます。



まずはそのアミッドシップスに位置する司令塔について。

Uボートの司令塔は前方に2段階の「波消し」「風止め」がついています。
前回説明しましたがこちらの画像の方がわかりやすいかもしれません。

肝心の潜望鏡がありませんが、これは展示の関係上取り外して
別のところに置いてあります。(こちらの説明は後回しにします)

■ 第2U戦隊徽章


司令塔の前方にペイントされた潜水艦と雷状の文字マークは、
フランスのロリアンを拠点にした第2U(ボート)戦隊のエンブレムです。

第二次世界大戦中、Uボート戦隊は、一般に
先の大戦の英雄の名前をちなんで名付けられていました。

U-505が所属していた第2U戦隊は、
第一次世界大戦で5隻のUボートを指揮し、111隻の船を沈め、
「ブルーマックス」(プール・ル・メリット勲章)を授与された、
ラインハルト・ザルツヴェーデル Reinhold Zaltzwedel大尉に因んで

「ザルツヴェーデル戦隊」
Saltzwedel Flotilla

と名付けられました。


名前のイメージそのもの ラインハルト・ザルツヴェーデル大尉



このエンブレムは青い勝利のルーン文字(初期ゲルマン語のアルファベット)
の「S」を右から左に通過するUボートが描かれています。

■ キャプテン・インシグニア



Uボートでは、乗組員を一つのアイデンティティに結束する目的をもって
艦長を讃えるエンブレムを艦長が代わるたびに制定していました。

これはドイツ海軍の公式の許可によるものではありませんでしたが、
エンブレムの多くはこのように司令塔に大々的にペイントされていました。

U-505もまた、1941年8月26日に就役してから、1944年6月4日、
アメリカ海軍のタスクグループによって捕獲されるまでの間、
少なくとも400日以上の間、タワーにエンブレムを飾っており、
その間戴いた艦長の数に応じてそれは3種類ありました。

まず、捕獲されたときのエンブレムを紹介します。

1943年11月8日〜
ハラルト・ランゲ Harald Lange 中尉



最後の艦長、ハラルト・ランゲ中尉のエンブレムは帆立の貝殻です。
これはシェル石油のマークとは何の関係もありません。
(と現地の説明にわざわざ書いてある)



1941年8月26日〜
アクセル=オーラフ・ロエヴェAxel-Olaf Loewe大尉


それでは初代艦長のロエヴェ大尉のエンブレムとまいりましょう。



手に斧を持った「ランパント・ライオン」の徽章。

「ロエヴェ」という名前からピンときた方もおられるかもしれませんが、
艦長の姓がライオンを意味していることからデザインされたようです。



Rampant とは、特にライオンが後足で立っている様子そのものの意で、
紋章にあしらわれるライオンは例外なくこのランパントです。

ライオンが斧を持っているのは、ロエヴェ大尉が卒業した
海軍兵学校の1928年クラスのシンボルが斧だから、という理由でした。

この凝った意匠は、艦長本人を大いに喜ばせたでしょう。

ロエヴェ艦長は父親も叔父も海軍軍人という海軍一家の出で、
巡洋艦を渡り歩き、海軍兵学校の教官も務めていました。

部下から人気もあり戦績も挙げ評価された艦長でしたが、
病気でボートを降り、あとは海軍中枢で活躍しました。

【自殺したUボート艦長】

1942年9月6日〜
ペーター・ツェッヒ Peter Zschech中尉



ライオンなしの斧だけ。
二代目艦長のペーター・ツェッヒ中尉のシンボルです。




ところで、検索していたら、ミリタリーグッズを売買するネットストアで
かつてこのようなものが売られたことがあるのがわかりました。

手作りの小さなバッジのようなもので、同じものが二つあり、
二つセットで売られていたものですが、ソルドアウトしていました。

商品に添えられた説明文ですが、

「U-505は何種類かの司令塔エンブレムを使いましたが、
帽子に着用するバッジとして採用されたのは
斧とオリンピックの五輪の輪だけでした。

斧をシンボルとするペーター・ツェッヒ中尉が着任した時
すでにコニングタワーには斧が描かれていましたが、
前任のロエヴェ大尉のシンボルはライオンだったので、
なぜこのような斧があったのかは謎です

いやいやいやいや。

通販サイト管理人は知らなかったようですが、
ここまでお読みになった皆様はもうおわかりですね。

ロエヴェ大尉のシンボルのライオンが斧を持っていたことを。

このバッジは、ロエヴェ艦長時代にUボートを攻撃したのち
撃墜された敵の飛行機の外壁から作られたもので、
U-505の乗員全員が帽子につけていたものだそうです。



サイト説明に「オリンピックの輪」という言葉がありましたが、
これにもこだわりがあります。

ツェッヒ中尉が士官学校を卒業したのが1936年。

この年はオリンピックイヤーで、ナチスとヒトラーが、
思いっきり全力で我が党の国威発揚大会に利用したところの
あのベルリンオリンピックが行われた年だったことから、
ツェッヒ中尉のもう一つのシンボルが五輪になったようです。

で、この頃のU-505の司令塔正面には五輪が描かれていたらしいのですが、
現在、それを証明する写真はどこにも残っていません。


現存するU-505の出撃写真。
左は第2U戦隊のマークとランゲ艦長のエンブレム、
右はツェッへ艦長の斧のエンブレムが確認できます。
司令塔の横にいる黒い制服の人影が艦長でしょうか。

ところで、このペーター・ツェッヒ中尉ですが、
当時のUボート艦長でめずらしく個人のウィキページを持っていたため、
どれどれ、と覗いてみたら(英語のみ)、

Uボート艦内で自殺した艦長として有名

であったことがわかりました。
そのこのうえもなく不名誉なタイトルとは、

「海軍艦艇の現役指揮官として初めて自殺」

「哨戒中の潜水艦内で自殺した初めての潜水艦乗員」

「水中で自殺した唯一の海軍軍人」

と、まあ・・・壮絶です。

どうしてこんなことになってしまったのか。
本論からは寄り道になってしまいますが、ご紹介しておきます。


ペーター・ツェッヒ
(Peter Zschech、1918- 1943、享年25)


は、ドイツの潜水艦U-505の2代目司令官でした。

父親は海軍の軍医で、駆逐艦出身です。

U-505の最初の指揮官はKapitänleutnant Axel Löeweロエヴェ艦長で
彼は艦長として非常に評価され成功していましたが、
1942年10月に前述のように、病気のため解任されました。

ロエヴェの後任には、U-124の監視士官を1年間務めた
Uボート将校、ペーター・ツェッヒ中尉が就任することになりました。

この時点でツェッヒ中尉はまだ20代前半だったりするのですが、
戦時中なので十分ベテラン扱いだったのかもしれません。

ツェッヘは部下から「お硬い」指揮官と評されるタイプでした。
最初の指揮では、大変野心的といえば聞こえはいいですが、
悪く言えば結果を逸る傾向にあったという噂も残されています。

しかも部下の士気には無頓着で、常に不機嫌で取っ付きにくく、
ボートの修理中乗員に陸戦訓練を強いるなど、
不可解な命令を下して、すっかり乗組員から嫌われていました。



たとえばこんな話もあります。

4回目の哨戒に出撃する時、乗員は、潜水艦隊のジンクスに従って、
激励の花輪を出港してすぐに片付け始めたのですが、
下士官がこれは縁起を担いでいるので、という説明をしたにもかかわらず、
ツェッヒ艦長はなぜかこれに激怒して、花輪を元に戻させました。

乗員のほとんどは、このことに不満をもち、
あの花輪のせいで不運に見舞われる、と口々に囁き合いました。

そしてその嫌な予感は的中します。

1942年11月11日、それはツェッヒ艦長のもとで
U-505が最初の戦時哨戒に出撃してから1ヶ月めのことでした。

U-505はカリブ海で航空攻撃を受けて大破してしまうのです。

ロッキード・ハドソンから前甲板に投下された250ポンドの爆弾の直撃は、
甲板砲を艦体から引きちぎり、艦体を大きく損壊させました。



そして後から思えば、おそらくはこのとき、艦長が下した自らの命令が、
その後の彼を破滅に導いたのかもしれません。

というのは、このときツェッヒ中尉は総員退艦を命じましたが、
部下の士官たちは真っ向から逆らい、これを事実上無視したのです。

安易にボートを捨てる選択をする前に、可能性のある限り
救う努力をすべきではないかと艦長以外全員が考えたため、
事実上、命令への叛逆は、幹部たちが艦長を無視する形で実行されました。

そして、ほぼ全員が火傷や負傷を負っていたにもかかわらず、
魚雷間の誘爆の危険を乗り越え、2週間にわたる必死の努力を続けた結果、
なんとかボートを沈めることなく維持することに成功してしまいました。

U-505は、12月12日にフランスのロリアンUボート基地に帰着し、
戦時中に最も大きな被害を受けたUボートとして、
帰港に成功するという複雑な栄誉を手に入れることになったわけです。

しかし、総員退艦を命じて無視された艦長にとっては大きな恥辱であり、
命令が結果として「間違い」だったことが証明された結果、
艦長の心情と部下との間にできた亀裂の深刻さはいかばかりであったか。

しかも、ツェッヒ中尉にとっての不運は、ここで終わりませんでした。

U-505の修理には6ヶ月を要しましたが、
ようやく出撃したとたん、度重なる機械の故障により、
わずか数日で修理のために引き返さなければならない事態に・・・

しかも、これが6回連続で起こりました。

何かの祟り?お祓い推奨?というわけではなく、
ここがナチス統治下のフランスだったことが具体的に祟っていたのです。

つまりレジスタンスのフランス人造船所労働者による妨害工作のせいでした。

しかしながら、6回も出撃しては戻ってくるということがあると、
その理由がどうあれ、その責任は艦長に押し付けられがちで、さらに
口さがない連中のジョークのネタにされてしまうのが世の常ってもんです。

あるUボートがその撃沈数で目覚ましい総トン数を記録し、
戦いの末無念にも総員と共に海に沈むUボートもあったその当時において、
U-505はほぼ1年間ビスケー湾を出ることさえできなかったのですから。

そして代表的なそのジョークとは、

「他のUボートが総員撃沈されている中 必ず帰ってくる艦長
その名はツェッヒ


という心ないものでした。


【運命の哨戒】

1943年10月10日。

U-505は6回の失敗の後、ようやく哨戒に成功し出発することができました。
これはU−505にとって10回目の哨戒となります。

出港して14日後、アゾレス諸島沖で浮上中の連合国駆逐艦2隻の注意を引き、
U-505は深度爆雷の集中攻撃を受けることになりました。

少なくてもこんなことは、Uボートの乗組員にとって
想定内の範囲であり、これを無事に切り抜けるかどうかは
全員で立ち向かうべき戦時の「ルーチン」というべきものでした。

しかし、潜水艦の天井を眺めながら降り注ぐ爆雷に耐えている間に、
ツェッヒは精神を崩壊させてしまいました。

艦長として哨戒に出て初めて深度爆雷の洗礼を受ける以前に
度重なるアクシデントと采配ミスで部下の信頼を失っていたということが、
おそらく彼の心の中の何かを「誤作動」させてしまったのでしょう。

深度爆雷の嵐が続く中、ツェッヒ艦長は部下の目前で、
無言のままワルサーPPKピストルで自分の頭を撃ち、
司令塔の床に崩れ落ちました。

瞬間の出来事でした。

副長のパウル・マイヤー(Oberleutnant zur See Paul Meyer)中尉
次の瞬間から、速やかに艦長代行として指揮を執り始め、
Uボートの「標準的な手順」で残りの攻撃を乗り切り、
結果、軽い損傷でボートを港に戻すことに成功しました。

しかし、驚いたことに、マイヤー中尉の軍規の迅速な回復は、
上から称賛されるでもなく、海軍はU-505に起きたトラブルを、

「全般的に指揮官クラスに規律が欠如しているという証拠」

とみなした上で、マイヤー中尉に叙勲どころか、

「マイヤー中尉の全ての責を免じる」

などという斜め上な処分を言い渡したのみ。

これが幹部とU-505の乗組員全員に残っていた士気を
さらに著しく低下させることになります。

このあとのU-505の処分については、上層部が乗員の解散と分散を推奨し、
肝心の乗員本人たちもそれを希望していたにもかかわらず、
カール・デーニッツ総司令官は、それを押しとどめました。

理由は、この話が他のUボートに広まった場合、
それが艦隊全体に与える悪影響を懸念したからです。

そのため、メンバーはそっくりそのまま次の艦長に受け継がれました。


【事件の及ぼした影響】

海軍で一般的にいわれていることでしたが、ひどい事件や出来事は、
一つの艦にとどまらず、艦隊全体の士気をだだ下がりさせてしまいます。

少なくとも、U-505については戦後次のように解釈されました。

のちにU-505がカナリア諸島の南西でアメリカ軍に攻撃されたとき、
標準的な手順を踏んで艦を適切に沈没させることができず、
海面でそのまま捕らえられた唯一のUボートになったことの根底には、
これらの出来事の複合的な影響による、U-505乗組員全員の
ぬぐいがたい戦意の喪失と士気の低下があったからだ、と。

さらにそれは以下の結果をも生んだという説があります。

”タスクフォースの航空部隊から攻撃された時、
U-505の乗組員はほとんど一度にパニックに陥った。

しかも、新しい艦長はすぐさま浮上し、航行不能になる前に、
あるいは大きな損傷を受ける前にボートを放棄した。

このことは、乗員たちに
前艦長の最初の哨戒における、
あまりにも諦めの早い総員退艦命令を彷彿とさせた
に違いなく、
前回のトラウマから、艦に留まって戦う意志を一切削がれたからだ。”


事実U-505は、連合国によって、無傷のエニグマ機、
その月の海軍の暗号帳、その他様々な秘密文書とともに捕獲されました。

おそらくもっともまずかったのは、この時連合国の手に
U-505に搭載されていたG7esホーミング魚雷が渡ってしまったことです。

これによって連合国はフォクサー・デコイシステム
改良する技術を奪うことができました。

これらの失態は、全てUボートを適切に自沈させなかった乗員のせいであり、
その原因は、ツェッヒ事件の影響にある、というのが
その一連の出来事についての一部の歴史家たちの解釈です。


【否定される士気低下説】

しかし、U-505の元乗組員、ハンス・ゲーベラーが、 彼の回顧録、

『Steel Boat, Iron Hearts: A U-boat Crewman's Life Aboard U-505』
(鉄のボート、鉄の心:あるUボート乗員のU-505での体験)

で語ったところによると、全く別の側面が見えてきます。

つまり、ツェッヒ艦長の自殺は、乗員の士気を削ぐどころか、
むしろその後それが団結と士気を高めた、というのです。

なぜなら、ツェッヒ艦長は最初から乗組員に対していつも不機嫌で
はっきりいって好かれるどころか嫌悪されていたので、
死んでむしろ、乗員の心はひとつになったというのが彼の説です。

これは、当の乗員本人がいっていることなので、
(というか嘘をついても仕方のないことなので)おそらく本当でしょう。

少なくともゲーベラーにとっては、という注釈付きですが。


あのとき、Uボート乗員が攻撃を受けてオロオロとパニックに陥り、
艦長が簡単に船を諦めて総員退艦を命じた、というのは間違いで、
彼によると、実際は深度爆雷の攻撃で後部区画が浸水し、
舵が詰まって補助舵が効かなくなったことが決定的な退艦理由であり、
乗員たちはパニックどころか、攻撃を受けている間、
熟練したプロフェッショナルな対応をしていたというのです。

要はギャラリー大佐率いる米軍タスクフォースが、最初から
Uボートの完全な形での捕獲を計画していたということもあって、
練りに練った精密で巧緻な作戦を繰り広げたため、
たまたまターゲットにされたUボートは
それになすすべもなかった、というところだったかもしれません。


結局、ツェッヒ艦長の就任期間は9月6日から10月24日までとなり、
それから二週間、副長のパウル・マイヤー中尉が指揮を執り、
帰港して11月8日からあらためてランゲ中尉が艦長に就任しました。


わたし個人も、前艦長の自殺が捕獲される失態につながったというより、
アメリカ軍の用意周到で大胆な作戦が功を奏した、とする説を推します。



続く。






サブ・フェクトI〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-05-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、ハンターキラータスクグループによるU-505の捕獲と、
Uボート乗員たちの捕虜になるまで、その後の待遇について書きました。

ここからは、展示の順番に従って、U-505の解説をしていきます。



ここからは、潜水艦の重に外観まわりのスペックと
その機能などの紹介となります。

「サブ・ファクト」

Underseeboot 505 Typ IX C

全長:76.5m
高さ:9.5m

乗員:54名
重さ:750トン

最大深度:230m
ビーム:6.4m

吃水:4.70m

最大速力:
33.7 km/h; 20.9 mph 海上航走時
13.5 km/h; 8.4 mph 潜航時

航続距離:
47.450km 水上
217km 水中

■ 艦首部分



【艦首デッキ】



軍艦の甲板は松の木の素材が一般的でした。
潜水艦の甲板を定義するなら
「外側を移動するための安定した水平なプラットフォーム」
となります。

ここに木材を使うことでボートの重量が軽く抑えられます。

表面は柔らかい松材をカーボリニウム、またはウッドタールで塗装しました。
これは防腐剤としてのものですが、黒く塗ることで
航空機が上空から潜水艦を見つけにくくするカモフラージュとなります。

【魚雷チューブ発射ドア】


展示ではまさに海中で魚雷が発射された瞬間を再現していて、
どこが発射ドアかとてもよくわかるようになっています。


U-505には6つの魚雷発射管がありました。
前方の左舷側、右舷側に各2つずつ、計4本、
後方には両舷に2つずつです。

魚雷室の乗員は、艦長が魚雷発射の命令を出す直前に
これらのドアを開けます。
すると、圧縮空気ピストンが魚雷を発射し、
魚雷は次に自走式となって目標に向かいます。

【前部潜水舵 Forward Dive Planes】



俯瞰図と断面図の潜舵の位置が示されています。
特に右側の潜舵の形が、これを見ただけでは不可解ですね。



というわけで、この画面上方の潜舵をご覧ください。
今までアメリカ海軍の潜水艦の潜舵を見てきた目には斬新です。

この潜舵の前にあるバーはなんなのでしょうか。



横から見たところ。

U-505の潜舵は艦体外側に1基ずつ付いています。
潜舵は水中で深度を変更したり、
艦長が指示した深度を維持するための装置です。

乗組員は、コントロールルームのダイビングステーションから
このダイビングプレーン、潜舵を調整しました。

そして、潜舵の前にある湾曲したバーの正体ですが、
なんと破片などから潜舵本体を保護するためのガードなのです。

アメリカ潜水艦の潜舵にはない工夫ですね。

【ハイドロフォン】



断面図によると艦体の下の方にあります。

ハイドロフォンというのは聞き馴染みのない言葉ですが、
要は水中聴音機です。
ソノブイみたいなものと考えればいいかもしれません。

音が水中では遠くまで届くという原理を利用したこの機器ですが、
潜水艦は水中マイクやこのハイドロフォンを使って敵を検出しました。

U-505には上の図の二箇所に水中聴音機が備わっていました。

最初に設置されたのは、前進潜舵の上にある

Gruppenhorchgerätグルッペンホルヒゲレート
(集合型聴音装置)

で、その後、ボックスキールの前部に追加されたのが

Balken Gerätバルケンゲラート =Balcony Apparatus
(バルコニー聴音装置)

という。集合型の改良タイプで効果的なパッシブソナー水中聴音機でした。
U-505はこのバルコン・ゲレートを採用した最初のUボートの一つであり、
U-505が捕獲されたことによって、連合国側は
最新のUボート技術に関する重要な情報を得たことになります。

■ 艦体中央部



【魚雷装填ハッチと装備】

U-505は最大22発の魚雷(3,500ポンド)を搭載することができました。
出航前に乗組員はハッチから魚雷を搭載します。(写真)

一部は魚雷室に保管されますが、残りは
メインデッキの下の耐圧チューブに保管することになっていました。

海上でこの保管チューブから積載ハッチに移動するためには
小さなクレーンを起こして甲板の下から魚雷を回収し、
積載用台車を使って行うことになっていました。

【水密救命艇用コンテナ】



具体的にどこにあるか見ることはできませんが、
甲板の左舷寄り、魚雷装填ハッチのすぐ近くには、
救命艇を格納している水密式のハッチがありました。

ギャラリー大佐率いるタスクグループに攻撃された後、
U-505は損壊して浮上し、総員退艦が行われました。

一部の乗組員は、一人乗りの膨張式救命いかだを使用しましたが、


一人乗り

他の乗組員は、この水密コンテナに格納されていた
25名乗りの膨張式救命艇を展開するために、
全員が前甲板に駆けつけました。


25人乗り

しかし、彼らは全員が筏に乗らず、負傷した艦長、
ランゲ大尉を真ん中に寝かせるため、20名もの乗組員が筏に乗らず、
海に浸かって救出されるまでの間船端につかまっていました。

アメリカ軍に救出される可能性などあるかどうかもわからないのに、
これは何とも胸を打たずにいられない話です。
映画「Uボート」でも描かれていたように、
どこの国でも、特に戦時中の潜水艦乗員の仲間意識は
ある意味血より濃い側面があったのかもしれません。

【アンテナ】



セイルの端から艦首まで張られたラインがアンテナです。



U-505のアンテナには二つの目的がありました。

第一に、それは潜水艦基地との間で無線を送受信するための
高周波無線アンテナとしての役割。
そして第二は、網やその他の危険な物体が
外から司令塔に巻きつかないようにする防汚装置としての役割でした。

写真はわかりにくいですが、司令塔の上から見張をする乗員の前を
艦首までつながっていくアンテナが写っており、
もう一つは三方から艦首に伸びるアンテナが確認できます。

正面すぎて見にくいですが

【スプレー&ウィンドディフレクター】



まず、中央の写真をご覧ください。
この5名の乗員たちは、Uボート航走時に見張を行うメンバーです。

見張りに支障をきたさないように、Uボートには
波飛沫が司令塔にかからないようにするため、あるいは、
司令塔の側面と見張り場所の頭上に風をまっすぐ向けるための
スプレー&ウィンド・ディフレクタープレートが装備されていました。


セイルの端から垂れ下がるようにかぶさっている部分です。
ちょうど正面の部分にプレートがありませんが、
これはタスクグループの航空爆撃の際吹っ飛ばされました。

司令塔の周りにもいくつかの弾痕が確認できます。

この剥がれたプレート部分は見つかっていません。

【磁器コンパス収納所】


U-505の磁気コンパスは、制御室ではなく甲板に設置されていました。
写真にも写っているように司令塔の根本に出っぱっている部分です。


司令塔の根本をごらんください。



これですね。

わざわざ外付けした理由は、潜水艦の鋼製船体の
妨害的な磁気効果から装置を保護するためです。

しかし、さすがはUボート、精巧なプリズムとミラーの配置により、
乗組員は制御室から磁気コンパスを読み取ることができました。

磁気コンパスは、電子ジャイロコンパスのバックアップとして機能し、
大変効果的でしたが、電気的な故障時には使用できませんでした。


次は艦体中央部からです。

続く。



タウホレッター(潜水艦水中脱出ラング)〜シカゴ技術産業博物館 U-505展示

2023-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回に引き続き、アメリカ軍が収得した
捕獲潜水艦U-505の捕虜たちの持ち物シリーズです。


グッズの背景になっているのは捕虜になったU-505の乗員たちです。

彼らが捕虜になったとき、爆破沈没したはずの潜水艦が
確保されてしまったとはまだ知らされていなかったと思います。

とりあえずは死なずに済んだ、と言う気持ちと捕虜になっちまった、
という状況で全員(´・ω・`)としていますが、シャワーを浴びて髭を剃り、
もしかしたら散髪もしてもらったのか、こざっぱりしていますね。


こちらもU-505乗員たちで、たぶん散髪髭剃りしてもらう前

全員白いシャツにズボンという同じスタイルです。
これは駆逐艦の甲板上でしょうか。

それでは展示品の説明をしていきます。

■ エスケープ・ラング



アメリカ海軍の「モムセン・ラング」について説明したことがありますが、
さすがはドイツ海軍、ちゃんと潜水艦からの脱出用に、この

「タウホレッター Tauchretter」=水中脱出肺

を緊急呼吸装置兼救命具として開発し、搭載していました。
仕組みとしてはモムセン・ラングと同様、
ユーザーの呼気を濾過して再循環させる仕組みでした。


バッグの中にある小さな酸素ボトルは、
救命具のように肺を膨らませ、呼吸用の空気を供給しました。

水深やユーザーの呼吸の強さにもよりますが、
エスケープラングは5分から2時間(幅大きすぎ)使用できました。

U-505の乗組員が脱出するときに多くが装着していたということです。

「ダイビング」

というと、特に日本語では水中に潜る意味ですが、20世紀半ば頃までは、
「呼吸できない空間にいる」という意味もありました。

たとえば1900年頃、消防士用の空気供給装置付き水冷式防火ボンネットは
「ファイヤーダイバー」と呼ばれ、1940年代にも、
呼吸装置を装着した人は「ガスダイバー」と呼ばれていたのもこれが語源です。

このような呼吸器から発展したのが、潜水救助器具であり、
鉱山など、陸上でも使用されるようになりましたが、
それらは水中での空気供給という役割に絞られてきます。

その仕組みについてもう一度説明しておきます。

通常の呼吸をする空気には、21%の酸素が含まれています。
一回の呼吸で、吸った空気から約4%の酸素が抜け、
それに見合う量の二酸化炭素(CO2)が吐き出されます。

原理的には、一定量の空気を酸素がなくなるまで
何度も「呼吸」することができるということになりますが、
吐き出された二酸化炭素は空気中に蓄積されていきます。

健康な生体は、血液中のCO2含有量を「測定」して
呼吸をコントロールしているため、
呼吸した空気中のCO2含有量がすぐに増えると、
まず耐え難いほどの息苦しさを感じるようになります。

また、吸入した空気中の二酸化炭素が多すぎると、5%以上で意識障害、
8%以上で長期的な意識混濁に次ぐ死亡という生理的な危険性が生じます。

そのため、空気中の二酸化炭素を呼吸回路から除去する必要があります。

そこでどうするかというと、呼気をソーダ石灰に流し、
CO2を水酸化ナトリウムと結合させ、さらに水酸化カルシウムで再生します。


かつてダイビングのライフセーバーには、
他の水酸化物とともに生焼けの石灰(CaO)が使用されていました。

これはCO2と直接結合して炭酸カルシウム(CaCO3)を生成し、
多くの熱を発生させて水中の冷却を打ち消す役目をします。
しかし、これだと浸透した水が生石灰と非常に激しく反応し、
肺に重度の火傷を負う危険性もありました。

また、生石灰は気づかないうちに水分と結合し、消石灰となり、
それだけではCO2を素早く結合することができません。

そこでCO2結合で失われた空気量は、酸素の添加で補う方法が取られました。

また、呼吸する空気中のCO2を化学反応で結合させ、
同時にO2を放出する物質も潜水救助器具に採用されています。

器具使用時は、同じ空気を何度も吸ったり吐いたりしますが、
ソーダ石灰を入れたカートリッジと酸素供給により、
窒息することはありません。

口に咥えるマウスピースには、2本の短いチューブが取り付けられており、
1本のチューブは石灰のカートリッジに通じています。
ここで呼気中の空気からCO2が濾過されます。

残った空気は、さらに呼吸袋(対肺)に流れ込みます。
抽出されたCO2の量は、小型の高圧ボンベの酸素で置き換えられます。

ここで再び息を吸うと、空気は呼吸バッグから2番目のチューブを通って
マウスピースへと戻っていきます。

鼻呼吸を絶対にしてはいけないので、着用者はノーズクリップを装着します。


さて、この器具を潜水艦の救助に使用するときですが、どうするかというと、
もし緊急事態により、あなたが潜水艦から脱出する必要が生じた場合、
まず、可能であれば、船内の空気が水で圧縮され、
残った気泡の圧力が水深の圧力に対応するまで待たなければなりません。

したがって、潜水艦の出口シャフトの下端は、
ハッチを開けたときに空気が逃げないように、
「エア・トラップ」といって艦体の天井より低く設計されていました。

ちょっと待つと内圧と外圧が均一化されて
ハッチを開けられるので、乗組員は外に出ることができるのです。

ある作家が、この時の様子を下のように書き表しています。

事故が起きた直後、『潜水救助隊出動!』の号令で、
乗組員は救助器具を装備した・・・。

沈没艦からの脱出は、艦内の圧力差をなくすことで初めて可能となる。

そのためには艦内を満タンにする以外に方法はない。

クルーは深呼吸をして、「潜水救助」の呼吸器を口元に持っていき、
マウスピースのタップを開けて
ノーズクリップを装着する。

酸素ボンベのバルブを、呼吸袋が背中で膨らむまで開ける。
そして皇帝にまた『万歳!』を叫ぶ。

最後の救いの道が開く。
重い、怖いという人もいるが、こうするしかない。

バルブを緩めると、水がゴボゴボと音を立てながら部屋の中に上がってきて、
待っている人たちの足元を洗い、体を這い上がり、頭上で閉じていく。

その結果、どうなるのか?
救世主の酸素が彼らを支えているのだ。
しかし、光は消えてしまった。
手探りで、彼らの腕が触れ合う。


右手は酸素ボンベのバルブを握り、間隔をあけて栄養ガスを流入させる。
左手は圧縮空気ボンベのバルブを握り、装置内の圧力差を麻痺させる。

数分後、部屋は圧縮ガスの層を除いて水で一杯になる。
コンパニオンウェイが開かれ、ハッチから次々と人が出てくる......。

一人目の男はすぐに光に向かって上昇する。
「ダイビングセーバー」の中で膨張していた空気は、細かく組織され、
優れた実績を持つ圧力開放弁から泡を吹いて逃げ出す。

水深6mで5分間の休憩を挟み、光に照らされ、
救助の準備が整った仲間のもとへ昇ることができるのだ。

救助隊員は水面に浮き、垂直に泳ぐ姿勢になる。

安全に機能する脱着装置を使用することで、
泳いでいる人は呼吸装置から解放される。

.「潜水ライフセーバー」での救助は、
最高度の冷血さと規律が要求されることに疑いの余地はない.。


”ドイツ海軍の潜水救助器の歴史”

第一次世界大戦の少し前、軍事用の潜水艦が開発されると、
同時に事故が起きたときの救出方法も論じられるようになりました。

最初の試みでは単純な「呼吸袋」が使用されましたが、
この袋は浮力補助具としては有効でも、浮上する人が完全に上昇するのに
十分な酸素を賄うほどではありませんでした。

1903年からイギリスのSiebe Gorman社に勤務していた
Robert Henry DavisとHenry A. Fleussは、水中や鉱山で使用する
「ドージングバルブ」という再呼吸装置を開発しました。

1907年には高圧ボンベから酸素を供給し、
水酸化ナトリウムを含む中間カートリッジで二酸化炭素を同時に吸収する
という仕組みの潜水艦用救助装置が発明されています。

このドレーゲル・ダイブ・レスキューヤー
口腔呼吸器を通して浮上する人に約30分間酸素を供給しました。

ドレーゲル社(Dräger)の潜水救助器は、
キール湾での潜水艦SM U 3の沈没後、帝国海軍に救助装置として提供され、
1912年以降、ドイツの潜水艦で使用されることになります。

今現在も潜水器具を作り続けているドレーゲルHP

このときの救助具は、泳がずに浮上できるように浮力をつけられましたが、
その後発明された水中潜水用救助具はおもりを備えていたので、
潜って負傷者を捜索・救出することも可能でした。

時代は降って1939年以降、オーストリアの生物学者であり、
水中ダイビングの第一人者だったハンス・ハスは、
現在の標準的な浮力潜水具の前身となる潜水救助具を開発しました。



圧力容器には酸素や圧縮空気の代わりに入れられた適切な混合ガスが、
バルブで自動的に注入されることで、
より深い深度での潜水救助が可能になりました。

ハンス・ハス

その後、呼吸のたびに発生する二酸化炭素を吸収し、
消費された酸素を手動または自動で補給する酸素循環装置へと発展します。



第二次世界大戦時のドイツ製潜水救助器具の原型は、現在でも
レオパルド2戦車の河川潜水の緊急安全装置として使用されています。

■ エスケープ・ラング、その他



2)エスケープラング用ゴーグル

Uボートの乗員は、水中で潜水艦から脱出することを余儀なくされた場合、
脱出用のラングとゴーグルを着用しました。

この装置は、たとえば壊れた電気モーターのバッテリーから
有毒ガスが艦内に漏れたといった場合や、
潜水艦が浮上している間に海中で修理を行う場合に使われました。

U-505は、米軍に攻撃され捕獲されることになった最後の哨戒中、
魚雷発射管のドアが開いたまま動かなくなってしまったため、
このゴーグルを数回着用しています。

ゴーグルは小さ区折りたたんで脱出用のラングと共に
一緒に保管しておくのが決まりでした。

3)脱出用ラングマウスピースとノーズクリップ

ゴーグルの下の部品をご覧ください。
脱出ラングのノーズクリップは、鼻孔を挟んで閉じ、
マウスピースから息を吸ったり吐いたりしました。
我々が「常識として」よく知っていることですが、
アクアラングでは決して鼻呼吸は行いません。

バッグ内に仕込まれたアルカリカートリッジに接続された
マウスピースのホースを加えて呼吸を行います。

4)アルカリ・カートリッジ

蛇腹状のホースにつながっているのがアルカリカートリッジです。
炭素(C)を呼吸し、酸素(O2)をバッグに戻して再び吸入させることにより
呼気(CO2)をリサイクルしました。



5)エスケープラングエアボトル

一番上の瓶状のものです。

ゴムびきキャンバスバッグ内の圧縮酸素のボトルは、
必要に応じて使用者に追加の酸素を提供しました。

バッグから突き出た小さなハンドルにより、
使用者は空気の流れを調整することができました。

U-505が潜水しながら索敵活動を行なっている時、
乗組員は酸素を節約するために寝台に静かに横になり、
タウヒレッター(水中脱出ラング)を使用しながら
静かに器具で呼吸することを余儀なくされました。

6)クロージャー・スプリング

真ん中の金色のチューブです。

脱出用ラングのゴム張りのキャンバスバッグの底は、
バッグの端から滑り落ちる仕掛けの、
たいへん独創的なスプリングクリップで閉じられていました。

フィルターを交換したり、酸素ボンベを充電する時
取り外しができなければなりませんが、同時に、
機密性に十分な強度を備えている必要がありました。

このスプリングはその役目を果たす道具です。

7)アルカリ顆粒

シャーレの上の、葛粉のような白い粉はアルカリ顆粒です。

粒子は常に空気中の炭素を吸収するため、マウスピースのバルブを閉じて、
粒子がボートの大気にさらされるのを制限する必要がありました。

そうしないと、粒子がすぐに容量一杯になり、
使用者の呼気から炭素を引き出すことができなくなります。

■ 映画に登場した「タウホレッター」

Uボートの映画に登場した脱出ラング、タウホレッター出演シーンを
書き出してみました。

「Uボート(ダス・ブート)」

●艦内の火災を鎮火させた後換気をするために使う

●「幽霊ヨハン」がこれを使ってディーゼルエンジンの下への
水の侵入を食い止める

●チーフエンジニアが破壊されたバッテリーセルをバイパスした時
これを使っていた

●ジブラルタル沖280m深海で立ち往生した時、
寝台に横たわりながらダイビングレスキューを使い、
空気を節約して修理の時間を稼いだ

「Uボート最後の決断」

艦内で髄膜炎が蔓延したので残りの乗員が使用した

「U-47出撃せよ」

艦内での酸素節約のために使用
U-47は当時もっとも成功したUボートと評価されたが

1941年哨戒中に行方不明となり戦没認定された

「モルゲンロート」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

モルゲンロートは「朝」「赤」という意味で、
早朝に昇り始めた太陽の光に照らされて
山肌が赤く染まる現象をさす。登山用語。

日本未公開

「オオカミの呼び声-深海の決断」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

日本未公開

■ レザージャケットとショーツ



ウール&レザージャケット

ウール&レザーというよりこれはファッション用語的には
ムートンジャケットではないのか、と突っ込んでしまうわけですが、
このジャケット、このままのデザインでユニセックスに着用できますよね。

これが制服だったのかというと、それは微妙なところです。

映画「Uボート」も、アメリカ映画「Uボート最後の決断」でも、
ご覧になった方はご存知だと思いますが、
Uボート乗員に乗務中強制される服装規程はなく、
皆が好き勝手な格好をしていました。

また、映画では、それが各々のキャラクターを表す手段となっていました。

規定がなかった理由は、潜水艦の環境は基本劣悪で、
狭い艦内に男たちが詰め込まれるといったものだった関係で、
何を着るかなどということは、全く優先されなかったからと言われます。

一応海軍支給の制服はありましたが、乗員たちはそれに
セーターやジャケット、帽子などのアイテムを好きに着ていました。

このおしゃれなムートンジャケットですが、
こんな感じのアイテムは、大変持込み衣類として人気がありました。

基本ムートンは裏地付きですし、軽いし、水に強くておまけに暖かさは抜群。
おまけにこのデザインも現代に通用する優れものです。

このジャケットは、U-505の軍医、
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ローゼンマイヤー医師
潜水艦から脱出したときに着ていたものです。

ローゼンマイヤー医師はその後USS「シャトレーン」に救出され、
バミューダに他の乗員と共に移送されたわけですが、



バミューダでU-505の皆さんはこんな格好だったそうなので、
ムートンのジャケットはもう必要がなくなったのでしょう。

「シャトレーン」の乗組員、ロバート・ロルフグレン
おそらく何かと引き換えにお土産として手にいれ、持ち帰りました。

ショーツ(錨マーク入り)

Uボート勤務というと寒いイメージばかりを持ちがちですが、
西アフリカ沖で哨戒していたときは大変気温が高くて
Uボートの乗員艦上での日々の作業は不快指数マックスだったそうです。

作業中の乗組員の基本スタイルは、Tシャツ、短パン、デッキシューズ。

不快な暑さの中耐えられるようにできる限りの工夫をしていました。

先ほどの軍医は海に脱出するとき、温度差を考えて
一応ムートンのジャケットをわざわざ羽織ったのだと思いますが、
ほとんどの乗組員は、タスクグループに捕捉された時、
作業中であったことから、この格好をしていたということです。

紺色の短パンの裾に金色でアンカーのマーク入り。

これはおそらく海軍支給のものだと思いますが、
もともとはスポーツ用だったのではないかと思われます。


続く。



映画「戦場のなでしこ」〜映画の裏の「真実」

2023-05-04 | 映画

映画「戦場のなでしこ」続きです。
ソ連軍に派遣された従軍看護婦たちが、実は慰安婦にされていた、
という歴史の裏側の真実を描いた衝撃作である本作品。

映画に描かれていることだけでも十分に悲劇ですが、
本作のベースになった看護婦長、堀喜身子
の手記と照らし合わせると、史実は映画よりずっと悲惨でした。

後半では、映画に描かれなかった真実の「なでしこ」について解説します。




派遣看護婦の第一陣が帰らず、第二陣から何の連絡もないのに、
第三次派遣の要請が来るに及んで、これはおかしい!と
吉成軍医も婦長も疑念を抱きますが、総務課長の張(大友純)は、

「敗戦国民が我々に従うのは当然だ!」

と居丈高に逆ギレしてきます。


さて、看護師として派遣され、ソ連軍の将校宿舎で
慰安婦にされた看護婦5人の中で、一人無事だったのは荒井秀子でした。



看護婦村瀬知子が、ソ連軍将校に手籠にされてしまってから、
ふらふらと荒井秀子の部屋に行くと、そこにはまだ無事な彼女の姿が。

何かスケジュールの都合で?秀子の部屋にはまだ誰も来ていなかったのです。

そこで決心した村瀬知子は、ソ連軍将校が姿を表すと、
必死で立ち塞がり、彼女を守りました。

荒井秀子が吉成大尉との結婚を控えていたため、
せめて彼女だけは、と思ったのでした。

四人の女性は、口々に、
「秀子さんがわたしたちの最後の希望よ!」
といい、彼女を守り切る決意を固めます。

しかし、こんなことがいつまでも可能であろうはずがありません。
たまたま今回の相手が温厚だっただけかもしれませんし。


そこで女性たちは最後の手段に出ることにしました。

監禁されたということになっていますが、
互いの交流は可能だったようです。


何も知らない第三次派遣隊が送られてくる、と情報を得た田崎京子は、
これ以上犠牲を増やしてはならない!と
ここを脱走し、実態を皆に訴えに戻ることを決意しました。



京子の必死の脱出劇が始まりました。
追手の銃弾を逃れ、ワンピースにパンプスで山中を全力疾走です。



力尽きて途中倒れていたところ、彼女を救ったのはロシア軍の救急隊でした。


半死半生で第八救護隊に戻ってきた彼女は、苦しい息の下から
派遣された看護婦たちの無残な運命について語ります。

実に映画的な展開に思われますが、驚いたことにこれは事実でした。

第4回目の応援看護婦の要請を受けた日、掘婦長が回転ドアを押したら、
ドアの外から全身血みどろの女が倒れ込んできて、
それは第一次派遣の大島という看護婦だったというのです。

そして彼女は、

「もう、ソ連軍へ派遣を出さないで・・
慰安婦に、慰安婦にさせられますから・・」

それだけを言うと、瞼を閉じて、2時間後に亡くなったということです。



実情を知った吉成軍医は一人馬を駆って城子溝に向かいました。

宇津井健が疾走するシーンがロケされたのは富士山の御殿場です。
自衛隊の演習場を借りたのではないかと思われます。

一方、堀婦長はソ連軍司令部の将校に真相を訴えに行きます。



その頃徳は、他の看護婦たちに守られ、これまでひとり無傷だった秀子を
面白半分に手にかけようとしていました。



ちょうどそのとき、吉成が御殿場に到着。
馬で正門を突っ切って、直接基地に乗り込んできました。



出てきた女性士官の日本語での問いに、吉成は
日本人看護婦がここで慰安婦にされていると言うことを訴えますが、彼女は、



「我々の軍隊は厳しい軍紀で統率されており、
そんなことは決して起こらない!」

と断言。
まあ、彼女の中ではそうなんでしょうけど。



そこに論より証拠、徳の手から必死で逃れてきた秀子が、
表に逃げ出して衆人環視の中、吉成のもとに駆け込んできました。

奇しくも彼女の出現が吉成大尉の言葉を裏付ける結果になった、
と思いきや、ソ連軍、徳の言い訳を(ロシア語で字幕がないのでわからず)
真に受けて、どういうわけだか吉成の方を逮捕にかかります。



隙を見て馬に飛び乗り、秀子を置いて走って行く吉成大尉。

5秒前まで晴れてたのにいきなり雪積もってんぞおい。



「わたしに構わず逃げて!」

と叫びながら半袖のドレスとパンプスで雪の中を走る秀子。
女優も楽ではない仕事だと思うシーンです。



「撃たないで!撃たないで!」

空がまた晴れはじめました。



その頃、仕事をサボタージュして同僚が帰るのを待っている看護婦たちに、
陳は日本軍のやったことを論いながら、彼女らを口汚く罵っていました。



そして、

「お前ら日本人、何をされても文句を言える立場ではない。
言うことを聞かないなら、中国人の中に放り出して、
皆になぶりものにさせてやる!!!」


とえぐい脅迫をするのでした。
実際にこんな中国人は少なくなかったと思われます。



その頃、堀婦長は、単身ロシア軍の司令部に乗り込み、
これまでの実情と調査を訴えていました。


そしてこのブレジネフ眉毛の司令は、その訴えを受けて
軍の内部を調査することを命じたのです。



看護婦を慰安婦扱いしたものたちに罰則を。



そしてそれを計画立案した徳には最も厳しい処罰が降りました。



相変わらず字幕がないので分かりませんが、おそらくは
お前死刑な、と言っているような気がします。



言われた徳は慌てて逃げたため、追われてそのまま銃殺されてしまいました。



しかしその頃、残された看護婦たちは、自らの運命に絶望し、
吉成と婦長を待ちながら、死ぬ覚悟を決めつつありました。



故郷の思い出を語る者、歌を歌う者、
そして互いに化粧を施す者・・・・。



必死の脱出で実情を知らせた末亡くなった礼子にも化粧をしてやります。



中には二人の帰りを待とうという者もいましたが、それより敵が来て、
死に遅れたら取り返しがつかなくなる、と死を急ぐ声が勝ち、


吉成たちがもどったときにはもう手遅れでした。



ここで、堀喜身子の手記から、実際に起こった経緯を書いておきます。

真相を伝えに戻ってきて亡くなった大島看護婦を埋葬すると、
その後についてどうするかが看護婦部隊の中で話し合われました。

ここで驚くことに、この後に及んで堀婦長は、
くじを引いて三人のさらなる派遣を選抜していたらしいのです。

堀婦長、なんでそうなる。なんでそうする。

そして残った22名に、院長と民会本部に実情を訴えることを命じましたが、
堀婦長が救護所に戻ったら全員が青酸カリで死んでいた
というのです。

これって、堀婦長がまだこの状況で3人追加で送ろうとしたからじゃないの?
軍隊と一緒で、看護婦も当時は上官に逆らえないわけだし。

その後、ソ連の憲兵隊が調査に訪れて、現場の惨状に驚き、
(そりゃ驚くわ)翌日には、

「ソ連軍の命令で納得いかぬものがあれば、憲兵隊に問い合わせよ」

という布告が出されたのですが、解放されたはずの看護婦たちは
なぜかその後病院に戻ってきませんでした。

この事情もまたびっくりです。

憲兵隊の調査の後、彼女らは確かに解放されていたのですが、
どういうわけか、自分らの意志で帰ることを拒否し、
なんと、現地のダンスホールで働いていたのです。

これは、当時の一般女性の持っていた貞操観念から、

「女性の純潔を汚され、本来死ぬべきであった自分が
おめおめと生きて日本に帰っても、誰にも会わせる顔がない」


と絶望し、自暴自棄に身を投じてしまった結果ではないかと思われます。

中でも悲惨だったのは将校宿舎に送られ慰安婦にされた最初の六人でした。

彼女らはすでに梅毒に侵されており、ソ連兵をお客に取って
病気を感染させることで、彼らに「復讐」していたのです。

驚いた堀は彼女らを診察し、密かに治療薬を調達して与えましたが、
彼女らの病状はすでに薬では効かないくらいに進行していました。

そして9月、堀ら看護婦隊に引き揚げ帰国命令が下ります。

堀はダンスホールの女性たちに、一緒に日本に帰るよう説得しましたが、
夕刻の集結時間、駅にやってきたのはそのうち三人だけでした。

しかも、その三人は、堀に食糧と金を渡すと列車を降りていきました。
残された堀の耳に聞こえてきたのは、

「婦長さん!さようなら!」

という声と、3発の銃声でした。


映画では、戻ってきた秀子ら、慰安婦にされていた看護婦が、
泣きながら思い出を語ったり頬を擦り寄せたりするシーンが延々と続き、
彼女らが「綺麗なまま死んだ」ことが精一杯強調されます。


しかし、より悲惨で残酷な最後を遂げた、つまり
映画のいうところの「美わしい」まま死ねなかった看護婦たちの
凄絶な最後については、それが史実だったにも関わらず何も語られません。



終わり。



映画「戦場のなでしこ」〜従軍看護婦の悲劇

2023-05-02 | 映画
 
昭和21年6月、日本敗戦後に中国の長春第八陸軍病院で働かされていた
22名の従軍看護婦が集団自殺を遂げたという事件がありました。

この事件について現場でそれを知る立場だった堀喜身子婦長は、
後年詳しい経緯を手記にまとめて発表し、世間に衝撃を与えました。

この実話をベースに昭和34年新東宝が制作したのが、
本作、「戦場のなでしこ」です。

当時扇情的なエロティシズムが売りの作品が多かった新東宝が、
慰安婦にされた従軍看護婦の実話を映画化製作するということには、
あるいは眉を顰める向きもあったかと思われましたが、
この作品の演出において、俗世間の思う「新東宝臭」は封印されています。

「日本人の正しさ逞しさをバックボーンにした」

という監督の石井輝男の言葉からは、実際の被害者を描くにあたり、
鎮魂の思いを込め、悲劇の伝承を目的に制作されたことが伝わりますし、
また、実際に内容を見ても、問題のシーンはかなり抑制され、
象徴的な表現に終始しており、それでいて史実であったところの悲劇は
ちゃんと受け手に伝わる作りとなっています。

ただ、映画の個人的感想としては、あまりに悲劇に感情移入しすぎて、
特にラストシーンでは表現の抑制が効かず、暴走気味と感じられました。

具体的にいうと、女優さんたちの泣きの演技がオーバーリアクションで、
ちょっと辟易してしまったというのが率直なところです。


今回わたしがこの映画をセレクトしたのは、前回の映画シリーズで
「陸軍の美人トリオ」という米陸軍WACものを取り上げたことから、
同じ女性を使った戦争映画を並べてみたかったからですが、
はっきりいって共通点は「女性」と「戦争」という2点のみ。

色んな意味で状況が違いすぎて、比較にもならなかったことを告白します。



ナプキンのような紙片にマジックインキ(本当)で書かれた献辞が現れます。

「この一編を
異国の地に春なき青春を散らせた
白衣の天使たちに捧ぐ」




ここは終戦後の新京駅。

今や敗戦国民となった日本人に牙を剥く中国人暴徒の群れから逃れて、
内地に戻ろうとする日本人たちが、列車を待っています。


ここでは特に婦女子対する注意喚起が行われていました。

「進駐軍から身を守るため、髪を短く切って男に化けるように」



そこに、ソ連軍が元従軍看護婦を徴用にやってきました。
(この徴用は軍正規ルートによるもの)



実在に婦長で、この事件を著した堀喜身子の手記によると、
婦長の堀婦長始め、一団の看護婦たちは、
長春の紅軍第八救護所で務めることになりました。


看護婦の一人、小田みちこを演じるのは大空真弓



荒井秀子看護婦を演じる三ツ矢歌子


彼女らが送られた長春の病院には中国人(満人)が主に入院していました。

日本語を喋る病気の子供(満州の学校では日本語教育がなされた)
につきそう母は、夫を日本人に殺されたこともあって、
日本人看護婦の手当を拒否し、激しく日本を罵ってきます。



満人の医学生、陳(鮎川浩)は落ち込む彼女らに優しく声をかけるのでした。

「彼らも今にわかるから気にしないでください。
日本人、中国人、わかりあえる。日満友好ですよ!」


この映画では、ソ連軍、中国人を悪という色に塗りつぶすことなく、
善意の人々をそこここに登場させて、バランスを取る配慮がなされています。



そのとき病院に派遣されてやってきたのは、吉成陸軍軍医大尉(宇津井健)
おっと、もう終戦後なので「元」が付きます。



吉成と荒井秀子は恋人同士でした。

「もう心配ないよ。日本に帰るまで一緒だ!」

頼もしい男の言葉に秀子は涙ぐみます。



徴用された日本人看護婦の生活は厳しいものでした。

満人看護婦がお腹いっぱい食べているのに、彼女らに与えられるのは
必要最低限の食事だけで、水を飲んで空腹をごまかさなくてはなりません。



しかし若い彼女らは女子らしいお洒落心も捨てていません。

小田みちこ看護婦の望みは、内地で恋人を作ること、
得意の歌をステージで披露できるような仕事。
そして今一番欲しいのは唇を彩る口紅でした。

「秀子さんの持ってる口紅、半分でももらえないかしら」



しかし「秀子さんの口紅」は秀子にとっては大切な宝物です。
欲しいと言われてあげられるものではありません。
なぜならそれは吉成軍医にプレゼントされたものだったからです。



いつでも肌身離さず持っていたの、という秀子。
その夜、二人は久しぶりの再会に堅く抱擁を交わすのでした。



そんなある日、ソ連軍が看護婦5名を徴用するとの命令が降りました。

実際の命令は、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に、1カ月の期限で
看護婦3名を応援に派遣せよ
、という内容だったそうです。

映画にも描かれている通り、堀婦長は31名の看護婦から3名を選び、
救護所に派遣したところ、二週間して追加で3名の要請、
さらに二週間後にまたしても3名を要請してきました。

そして1ヶ月過ぎても第一次派遣の看護婦は帰って来ず、
追加で送った者も一向に連絡が取れなくなってしまいました。


彼女らを連れて行くのは、いかにも狡そうな小悪党キャラ、
徳永長(並木一路)という中国人通訳です。

おそらく、当時ソ連軍のためにそういう汚い仕事をして
小銭を稼いでいた実在の中国人がモデルになっていると思われます。


派遣看護婦を送り出した後、第八救護所は漢子軍の攻撃を受けます。
病院の薬品を狙った窃盗のための攻撃でした。



しかもこんな最中に中国娘愛蘭の容体が急変。
手術室が使用できず、吉成元軍医は床で手術を始めました。



その時、室内に降り注ぐ銃弾で出た怪我人のところに駆け寄ろうとした
山口玲子看護婦が弾に当たり負傷。

「腹部盲管銃創です!」

愛蘭のオペの機械出しをしながらテキパキと婦長は手当を指示しました。



手術の甲斐あって、愛蘭がなんとか命を取り留めると、
母親は、さっきまでとは態度をガラリと変えて泣きながら礼を言います。



しかし負傷した山口看護婦の状態は絶望的でした。
なぜ銃創なのに氷枕をしているのかわかりませんが。

歌の得意なみちこは、満州生まれの彼女の枕元で
「旅愁」をフルバージョン歌ってやります。

「♩ふけ行く 秋の夜 旅の空の〜」



元気な頃甘いものを欲しがっていた彼女のために、秀子は中国人に身を奴し、
満人の知り合いに紹介してもらった店に、菓子を買いにに行きました。

お金がないので、彼女は自分がはめていた腕時計を渡しますが、
店の男は彼女が日本人とわかると受け取ろうとしませんでした。

「それ持って早く日本にかえりなさい」



店の男が無料で分けてくれたお菓子ですが、
それを持って帰ったとき、もう礼子に食べる力は残されていませんでした。



そして、一週間という期限で看護婦の第二次派遣命令が降りました。
第二次隊5名の中には、荒井秀子が加わっていました。

変な石像の前で別れの挨拶をする二人。



別れの際、秀子はみちこに例の口紅を贈りました。



ソ連軍基地に到着した彼女らの敬礼(頭を下げる)に
軍人たちは一応敬礼で答えますが、



ニヤニヤしながら一人一人の顔を覗き込み出し、
女性たちは思わず顔をそむけてしまいます。

ちなみに出演者のほとんどはモノホンのロシア人です。



女性たちはまずシャワーを浴びさせられました。
しかし、徳が覗きをしているので、慌てて出て着替えようとすると、
今まで着ていた制服が脱衣所にありません。

代わりにあるのは、まるでダンサーが着るような派手なドレスや靴でした。
仕方がないのでそれを身につけるわけですが・・。


後はご想像の通り。
個室に一人ずつ入れられ、そこにロシア将校が入ってきて・・・・。



ただ、将校全員がこのことを知っていたわけではなかったようです。
こちらは歌えや踊れで楽しんでいる将校たち。



このグループには紅一点ながら女性士官も姿を見せます。
「全員が加担していたわけではなかった」というアリバイキャストですかね。



演じているのはピクスノヴァという(フルネームわからず)ロシア女性です。



この間、被害者たちが性的に蹂躙されていたことの比喩として、
踊りの輪の中の5輪の花が踏み躙られるシーンがあります。

しかし、看護隊の5人のうち、たった一人、
「乙女の誇り」を傷つけられなかった者がいました。

それは誰だったのでしょうか。
そして彼女はなぜ一人守られたのでしょうか。


続く。