今年もはや最後の日になってしまいました。
いつも「ネイビーギャラリー」と称してその年にお話しした海軍軍人の
肖像を挙げていくのを恒例としています。
今年は話題がよく言えば多岐にわたったため、ネイビー画像が
あまりたくさん集まりませんでした。
その他のギャラリーシリーズは、年明けに「年初めギャラリー」としてお送りします。
笹井醇一少尉
「海兵67期の青春」
お約束の笹井中尉からです。
ただ、この少尉任官時に撮られた笹井少尉の写真の絵が描きたくて、
そのためにアップし、そのために記事を書きました。
どんな状況でも、どんな戦争の暗雲垂れ込める時勢でも、
若者はいつも青春を謳歌することができるものです。
その底抜けのパワーと生命力が、たとえ戦争を前にしても
「明日」を信じさせる強さとなるのかもしれません。
そんなことを、67期の生存者の手記から語ってみました。
臼渕巌海軍大尉
「男たちの大和」と「戦艦大和」
二つの大和映画を同じ角度から語ってみました。
臼渕巌大尉についてはどちらの映画も、そもそも年齢について
全く考証されていないらしい、という結論になりました。
大尉、という階級が終戦直前には非常に若年となっていたことを
どちらの映画も全く考慮していないと思われます。
臼渕大尉については本当にあのセリフを言ったのかどうかが、
史実として検証するすべもありません。
つまり吉田氏の創作ではないかという説もあるので、
それ以上個人的なエピソードの出ようもなく、したがって
「実在の人物でありながら創作上の人物のような扱い」
になってしまっているといった感があります。
臼渕大尉は71期581名中の98位という好成績で卒業しています。
檜貝襄治海軍大佐
「檜貝譲治大佐―女優の愛した侍」
戦後撃墜王としてもてはやされたり伝記が書かれたわけでもない、
しかし職人芸ともいえる精緻な攻撃法を研究によって編み出し、
腕だけでなく温厚で誠実、聯合艦隊司令から航空学生まで
その人格は全ての尊敬を集め、おまけに映画スターにも見まごう美青年。
若き日の高峰秀子の片思いの相手と言われ、軍神とも言われた、
この檜貝大佐こそもっと皆に知られるべきだと思うのですが・・。
最後まで自分の信念と美学を貫いて散ったその死こそ、
侍とたたえるにふさわしいものだったと思います。
小沢昭一海軍兵学校予備生徒
「海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒」
俳優、俳人、エッセイスト小沢昭一は、予科生徒として集められた
最後の兵学校生徒78期に4か月在籍していました。
この経験から氏が戦後反戦反体制反天皇の思想に至ったらしいこと、
そして海軍が終戦間際に小沢ら4000人もの生徒を最後に集めたわけ。
そんなことを語ってみました。
ある日、この記事にアクセスが集中しました。
12月10日、83歳でお亡くなりになったそうです。
合掌。
仁科関夫海軍少佐
兵学校71期をハンモックナンバー26番という優秀な成績で卒業した仁科中尉。
黒木博司大尉とともに人間魚雷「回天」を考案しました。
仁科中尉は黒木大尉を事故によって失った後、回天隊を率い、
昭和19年11月4日、菊水隊としてウルシー出撃。
「ミシシネワ」を沈没せしめたと言われています。
「六尺褌に、搭乗服に身を固め、日本刀をぶち込み、七生報国の白鉢巻を額に、
黒木少佐の写真を胸ポケットに、右手には爆発棹、
背には可愛い女の子の贈り物の布団を当て、いざ抜き放った日本刀、
神州の曙を胸に、大元帥陛下の万歳を唱えて、全力30ノット、大型空母に体当り」
中尉の最後(前日)の日記より。
黒木博司少佐
人間魚雷「回天」は黒木博司大尉と仁科中尉によって発案、開発されました。
黒木大尉はこの特攻を敢行することによって、「航空部隊が後に続くこと」
を期していたといわれています。
「たとえ大西瀧治郎がいなかったとしても、日本人は誰かが特攻と言う戦法をしただろう」
とわたしは考えていますが、その根拠が、この黒木大尉です。
海軍機関学校卒、この俊秀が、あの時代に生まれたがために選択した道。
特攻は追いつめられた日本人の「必然」ともいえました。
二度とその道は歩んではなりませんが、この覚悟を持った若者たちの存在が、
日本と言う国を、戦後精神的に支え、評価されてきたことまで否定してはいけません。
そして、その自死の精神は世界の思想家にとって称賛と憧憬の対象になったということも。
板倉光馬海軍少佐
板倉少佐は、「回天」の司令官になってすぐ、第一子に恵まれます。
そのときすでに殉職していた黒木大尉はそれを知ることはありませんでしたが、
仁科中尉は「自分たちは子孫を残していくことはできないけど、司令官、
坊ちゃんを立派に育ててください」と言い遺して往きました。
「子孫を残さずに往く」
これが、若い彼らにとって唯一にして最後の今生への心残りであったことでしょう。
しかし、そのかわり自分の死によって未来の日本人が生き残る。
彼らの慰めはそこにあったはずです。
仁科中尉がその誕生を喜んだ赤ん坊は仁科中尉戦死後、病没します。
しかしその知らせを受けても板倉少佐は
「自分の子供か死んだくらいで家に帰るわけにはいかない」
と玄関から立ち去ろうとしました。
皆になだめられて息子の亡骸と一晩を過ごした少佐が
「あんたがうまれて俺はいつ死んでもいいと思ったのになぜ死んだのだ」
と号泣しているのを部下が目撃し、
「この人の下でなら死ねる」と泣きながら仲間に語りました。
子を生(な)すということが、自分の生、自分がこの世に生まれてきたことに
意味を与えるという思いは、おそらく「自分の死」=「自分の消滅」を考えるとき
人が本能的に行きつくものなのかもしれません。
この写真で板倉少佐に抱かれている赤ん坊はその亡くなった第一子ではなく、
そのあと生まれた女の子だそうです。
木村惟雄海軍一飛曹
甲飛予科練の憂鬱
予科練というシステムは、つまり海軍が時局をにらんで飛行兵を
大量に海軍に採用した一大プロジェクトだったわけで、その目的は
時勢と「パイロットになれて、しかも士官にもなれる」という、
若者たちが飛びつくような誘い文句のおかげで、この木村一飛層のように
海軍士官学校を目指すほど優秀な若者が応募に殺到しました。
しかしながらそれは「人手ほしさの美辞麗句」という部分が避けがたく、
いざ入ってみたら「話が違う!」と彼らは不満を募らせ、
ついにはその一部がストライキを起こすという不祥事にまでなります。
この稿では、予科練の入隊試験からその訓練、卒業までを描いた映画
「空の少年兵」と、その予科練生たちの不満、海軍上層部について
お話ししてみました。
この稿に対してポチ三水が筑波山の旅館の女将から聞いてきた話、
予科練が「若鷲の歌」を歌ってから松根油を集めていた、と言う話題を、
別の稿『筑波山よーそろ』というページでご紹介させいただきました。
この時にポチ三水から教えていただいた
霞ヶ浦の湖岸(阿見町)には、予科連記念館(雄翔館)と、
3年前にできた予科練平和記念館というのがあります
ここを訪ねるのが来年の目標です。
それでは皆様、よいお年を。