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ロスチャイルド財閥ー203 阿片戦争前夜のナポレオン戦争と英米戦争、そして清市場開拓

2023-05-15 22:30:57 | 国際政治・財閥

英国は、清(中国)との自由貿易を求める施設を1793年に送りました。 清(中国)は、貿易港を広東一港に制限し公行(こうはん)と呼ばれる特権商人たちを通じての貿易しか認めていませんでした。

より自由な貿易を求めて、英国はジョージ・マカートニー伯爵を送りこみます。 魔カートニーは、英国植民地行政のベテラン完了でした。 

名目上は、乾隆帝80歳を祝う使節だったので歓迎され、皇帝の避暑地である熱河離宮で謁見を果たしています。80歳は傘寿にあたり、清国官僚は、謁見の際に三跪九叩(さんききゅうこうとう)の礼を要求します。 これは皇帝に臣下であることを示すために、ひざまづき、頭を3度床にこすりつけ、これを3回繰り返す作法です。 魔カートニーは、これは英国国王ジョージ3世が清国の臣下となる作法であると拒否します。

これにより交渉はうまくいかず貿易港を増やすことも北京に外交官を駐在させることもできませんでした。 この後の英国はアジア市場どころではなくなります。 フランスにナポレオンが現れ、ヨーロッパ大陸諸国を、たちまち征服siてしまったからです。

その結果、ナポレオン戦争が始まり、1812年からは、北米大陸でも米英戦争が始まります。ナポレオン戦争とは、1803~1815年まで行われた、フランス革命後に台頭したナポレオン・ポなパルトによるヨーロッパ征服戦争のことです。

また、米英戦争とは1812~1814年、米国と英国の間に起こった戦争で、ナポレオン戦争中に英国が行った海上封鎖などに対して反発した米国によって開戦されましたが、勝敗はつかず、ナポレオンの没落を受けて1814年に講和しました。

米国がナポレオン電装の間隙をつき、英国領カナダの占領を図りました。、英国陸軍は強力で、1814年8月にはホワイトハウスが英国軍によって、焼かれれてしまいました。


ロスチャイルド財閥-201 ワシントン焼き討ち事件

https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b5395b181e96c8d8a5dcbfe4ca44e908


ナポレオン戦争は、英国陸軍ウェリントン将軍の活躍で集結し、ヨーロッパ諸国の国境の線引きや植民地の勢力範囲が話し合われました。それがウィーン会議で、フランス革命とナポレオン戦争終結後ヨーロッパの秩序回復を図るため、オーストリア帝国ウィーンで開催された国際会議です。ナポレオン戦争の戦勝国の利益に応じて領土変更がなされるなど最終決定事項としてウィーンに議定書が作成されました。


ロスチャイルド財閥ー9 ウィーン体制
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/bdb88089d7be05f04ad603f308e78bfd

 


話を清(中国)市場に戻します。 英国は1793年にジョージ・マカトニー伯爵を清に派遣し、乾隆帝に貿易港の拡大と、外交の北京駐在を求めましたが断られますが、これであきらめるような英国ではありません。 しかし、ナポレオン戦争の勃発、、さらに北米大陸では米国によって仕掛けられた米英戦ウィーン会議によりヨーロッパ問題が帰結し、米英戦争も1814年のガン条約で愛決しました。 

ガンは当時会議によりヨーロッパ問題が帰結し、米英戦争も1814年のがん条約で愛決しました。 ガンは、当時オランダの街で、現在はベルギーの街です。 

この条約で、米国と英国領のカナダの国境線がほぼ確定し、その後も国境線の弾き方の些細な小競り合いがありましたが、すべて外交交渉で解決しています。 ヨーロッパ問題、アメリカ問題も解決したイギリスは、4億人市場の清市場に再び目を向けます。

英国は、ウィーン議定書でオランダ領であった現在の南アフリカのケープ植民地、同じくセイロン(現在のスリランカ)を植民地にします。 オランダは、ナポレオン戦争時代、英国に亡命政権をつくっていたので、英国は恩を売った見返りに、南アフリカとセイロンを奪ったのです。

さらに、1820年代にはシンガポール、マラッカを攻略。 実は、この背景に、当時オランダ東インイギリス東インド会社はアジアで苛烈な植民地争いしており、インドネシアはオランダ領だったという話は有名ですが、一時イギリスの植民地でもありました。 

狡猾な英国は、インドネシアより清(中国)市場を狙い、インドネシア権益をあきらめる代わりにシンガポールを植民地化したのです。そしてインドネシアは100%オランダ領となりました。 

18世紀半ばからは英国東インド会社の統治下にあったインドを加え、人口4億人を超える世界一大きなマーケットである清(中国)に着々と接近しました。

ご存じ、東インド会社とは、17世紀初頭に設立された、インド以東のアジア地域との貿易独占権を与えられた貿易会社で、18世紀には植民地支配の機関としての役割も担いましたが、やがて国家による直接支配に切り替わってゆきました。

 

英国と清(中国)のマーケット逆転現象と阿片
英国が清(中国)をマーケットにしょうとしていましたが、皮肉なことに英国でお茶ブームが起き、逆に英国が清のマーケットになる逆転現象が生じました。 英国の茶の輸入量は1710年代には90トン程度でしたが、18世紀半ば日は1400トン、1800年には1万1,000トンになっていました。

英国には、清に輸出する諸品がなく、銀(通貨)で買い付けていました。 英国としては、大幅な輸入超過の状況をなんとしても改善しなければなりません。そのためには広東だけに許されていた貿易を拡大させ、自由貿易を強制する方法しかありませんでした。

そうすれば、必ず売れる商品が見つかり、市場開拓できると考えたのです。 1816年、英国はマカートニー使節団に続く2回目の使節団を送りだします。 それが、アマースト使節団です。

前年のウィーン議定書で、ヨーロッパ諸国との住み分けが終わり、次々と獲得した植民地で、清(中国)への安全な貿易ルートを構築していた英国は、次に待っていたのは清(中国)の開国作業でした。 英国の産業革命は綿紡績を中心に発達しました。国内市場を満たした綿製品の最初の市場はインドにありました。

インドはまだ貧しく、その支払いは阿片しかありませんでした。 当時、阿片は医療用途で英国にも需要がありましたが、インドの大量の阿片を捌ききれませんでした。 そこで英国商品に興味を持たない清(中国)に阿片を売り捌くことを考えるようになります。

それを銀貨に代えようということです。こうして、綿製品(英国)・阿片(インド)・銀貨(清)という、英国・インド-清(中国)を結んだ三角貿易に発展します。 当初は、清(中国)との輸出入のバランスがとれていましたが、それはインドからの阿片輸出量を英国の国策会社である東インド会社がコントロールしていたからでした。


アダム・スミスとデヴィッド・リカード
しかし英国は産業革命で圧倒的な工業国になると、経済学者たちは徹底した自由貿易を主張し始めます。 政府の規制のない自由な貿易こそが、工業国も工業化できない農業国もみんな豊かになれるという思想です。 自由貿易思想を広めたのが、国富論で有名なアダム・スミスであり、比較的優位説を唱えたデヴィッド・リカードでした。 リカードがその説を発表したのは1817年のことです。


アダム・スミスの国富論について、少し説明しておきます。個人の利潤追求に基づく労働が「見えざる手」に導かれて秩序を生み、国の国富を増大すると説き、自由主義経済思想を全面的に展開しました。

 

限りなき阿片貿易
1816年のアマースト使節団は、英国で支配的になった自由貿易を清(中国)に求めてやってきました。この時の清皇帝は、第7代・嘉慶帝(かけいてい)で、アマーストは三跪九叩(さんききゅうこうとう)の礼をとらないと決めていて、清の官僚は皇帝への謁見を認めなせんでした。 結局、アマーストも何もできずに帰国します。

清の阿片輸入量は、1650年にはわずか50ton、1800年には200ton、アマーストが訪中した時の1816年には300tonを下回る程度、1839年には25,53ton、1863年には4,232ton、1867年4,897ton、1880年には6,500tonと異常なまでの伸びを示しています。

阿片常習者の消費量は年間で約1.34kgですから、数百万人の阿片常習者がいた事になります。これほど数字が伸びたのは、1813年には、英国東インド会社の持っていたインド貿易独占権が剥奪され、さらに1834年には同社が与えられていた対清貿易の独占権も剥奪されたからです。

東インド会社は排他的販売網を構築するのではなく、清(中国)向け阿片を民間商社に卸していました。民間商社は香港島とマカオのほぼ中間地点にある霊丁島沖合いに船を浮かべて倉庫代わりにして、そこのやってくる清の密売者業者に販売しました。 

英国のジャーディン・マセソン商会とデント商会が販売会社の大手です。 末端の中国人に売りつけていたのが、上海を拠点とする青幇(ちんぱん)と呼ばれる同じ中国人の組織です。 

もともとは揚子江の運送業を営んでいましたが、阿片ビジネスで巨利得を得て、清末期には下層労働者や遊民層を吸収し、暴力団化した秘密結社?です。 阿片や売春のセットで儲けた莫大な金で、政治的・経済的に大きな影響力を持ちました。

続く

 

 

 

 

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