東インド会社は、排他的販売網を構築するのではなく。清(中国)向け阿片を民間商社に卸していました。 民間商社は香港島とマカオのほぼ中間地点にあるにある霊丁島沖合に船を浮かべて倉庫代わりとして、そこのやってくる清(中国)の密売業者に販売していました。
英国のジャーディン・マセソン商会とデント商会が密売会社の大手でした。 ジャーdギンン・マセソン商会は、米国の南北戦争が終わり在庫となった武器などが上海に流れ込み、ジャーディン・マセソン商会に勤めていたスコットランド出身の英国人、トーマス・グラバーが坂本龍馬を通じて維新軍に大量の武器を売っていたことで、日本でも有名ですね。
グラバーは、某商会の上海支店に勤めた後、長崎支店に転勤となり、坂本龍馬はじめ維新軍と付き合いが出来、後に長崎で独立し、グラバー商会を設立しています。 坂本龍馬が暗殺され、明治政府が出来た後は岩崎弥太郎や、その子息たちと三菱財閥を築き上げた功労者です。
デント商会は、ジャーディン・マセソン商会やグラバー商会ほどは、我々日本人に知られていないと思いますが、19世紀に清で活動したジャーディン・マセソン商会と並ぶ、当時英国で最も裕福な社社の一つです。元東インド会社のスーパーカーゴであったジョージ・ベアリングによって設立された会社です。
・ロスチャイルド財閥-6 ベアリング家との戦い
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/089dd4046b812a12210b3632618c333f
・ロスチャイルド財閥ー5 皇帝たちの金庫番
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/bf1ef0b119dc91fe01175386fdcfdd16
・ロスチャイルド財閥ー4 金融街シティの誕生
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/51d373b45f326e454062fb2a23aca712
・ロスチャイルド財閥-3 宮廷御用商
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/d3a104615c2562e9e9e56f8b87d8e2fb
阿片はインド国内で民間業者に販売する形にしていました。東インド会社では、こうした民間業者に阿片をカルカッタで販売しています。 そうすることで、清の官憲ともめた場合には責任回避ができるからです。
ジャーディン・マセソン商会に代表される民間商社は、東インド会社の縛りを外れて、仕入れ先も販売網も拡大したいと目論見、繰り返し本国の英国政府に対する政治工作を続けていました。 実際、インドでの仕入ルートを通さないやり方が、1820年頃から始まっていました。
東インド会社の契約外にある栽培農家から英国商社が直接仕入れる阿片はマルワと呼ばれていました。マルワとは中央インドの藩王国で盛んに生産された阿片のことです。
・ロスチャイルド財閥ー22 藩王国(はんおうこく;princely state, native state, Indian state https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0497a951df07d86a5abfa13945a78a9f
1835年以降、極端に阿片の輸入量が増えたのは、彼らの政治工作により、東インド会社の対清国貿易の独占販売権が外れる五年前の1833年には,駐清国商務監督官なるポジションをつくりました。その監督官が清に対して貿易港の拡大や英国商人の治外法権的立場を要求する強圧外交を展開しています。
このポジションを清国は認めてはいません。 商務監督官の傍若無人の態度は清国から嫌われ、何の成果も出ませんでした。英国の阿片貿易が官民一体であったことが分かります。 清国は1796年にはすでに阿片を輸入禁止にしていました。 それをかいくぐるように清国内の密輸入業者と英東インド会社あるいは民間商社との阿吽の呼吸による販売網が構築されていました。
阿片戦争
清国が、ついに武力行使に出たのは、1839年1月のことでした。 当時の道光帝は阿片摘発の全権大使に林則徐(りんそくじょ、1785-1850)をあて、中毒患者と密売業者の徹底取り締まりを開始します。
阿片業者が倉庫に保管している阿片の引き渡しと、特に悪質な行為を続けているデント商会のランセロット・デントの逮捕を命じます。 阿片貿易商社は、交渉の末、デントの逮捕は免れましたが、その代償として2万箱およそ1200トンの阿片の接収に応じました。
林則徐はそのすべてを水、塩、石灰を使って処分しました。 その過程で当時の駐清国商務監督官チャールズ・エリオットを侮辱する行為があったようです。 英国阿片商社は、この一連の処遇に司法手続きがないことに憤ります。そのような中で英国人船員による志那人殺害事件が起こります。
身柄の引き渡しを求める清国に対し、英国の法律で裁くと主張するエリオットが反発します。 これに憤った林則徐は英国人住居区への水と食料の供給を停止します。
ここに至って、英国軍船ヴァラージによる砲撃が開始され、英国と清国の軍衝突に発展しました。 1839年9月4日のことです。
翌1840年、英国議会は清国沿岸への艦隊派遣を決定します。この決定は271対262という僅差でした。 やはり阿片商社の利益を守るために海軍を使うことには反対が多くあったのです。 しかし、ジャーディン・マセソン商会が経営者の一人ウィリアム・マセソンをロンドンに派遣し政治工作を仕掛けていました。
結果として英国民の命を守るという大義名分を振りかざし。阿片戦争となります。
1840年7月5日午後1時、戦艦ウェルズリーから発射された砲弾が阿片戦争の始まりでした。阿片商社ジャ-ディン・マセソン商会は、清国沿岸部の状況を良く知っていたので、水先案内人を務めました。 英国艦隊の蒸気汽船による砲撃の葉火力は圧倒的で、清国はまったく抵抗できませんでした。
ジャーディン・マセソン商会が用意した水先案内人の活躍で、英国艦隊は北上を続け、天津にまで迫ります。 天津から北京までわずか1000kmほどです。首都北京周辺のエリアを統括する直隷総督・琦善(きぜん)は慌てふためきます。
南京条約
西洋の野蛮人を皇帝の住む北京には絶対に近づけてはなりません。 1841年1 月、琦善は林則徐を罷免し、皇帝の承認を待たず、香港島の割譲・賠償金の支払いを決めます。 これを穿鼻草約(せんびそうやく)と言います。
暫定的な取り決め条約でしたが、英国はただちに香港を占領し香港の植民地化をを既成事実化します。英国の攻勢はそれでも止まず、最終的には1842年8月29日、南京条約を締結することでようやく止みました。南京条約は第1条で両国の和親を謳いますが、第2条では広東に加え、新たに5港の開港、開港都市への英人の居住権を認め、第3条では香港島割譲、第4条では林則徐が破棄した阿片の賠償を決めています。さらには第5条で特権商人公行だけに許された貿易システムである広東システムを破棄させ、第6条で清国は関税自主権を放棄、第7条で2100万ドルの賠償金が決められました。
このように、清国の開国は武力による極めて強引な方法によってなされました。 ただ、英国外交官は開港した年に赴任することは認められましたが、首都北京に外交官を置くことは許されませんでした。清国皇帝は汚らわしい西夷を皇帝の住まう都市には近づけようとしませんでした。
しかし、この措置が後のアロー号戦争、第二次阿片戦争の原因となります。
米国阿片商社 ラッセル商会
すでに紹介したように、米国は第2次米英戦争にあっさりと負けてしまい、ホワイトハウスまでも焼かれる屈辱を味わいました。英国から見ると米国は農業国の後進国でした。 しかし、商人たちはしたたかで、英国の陰に隠れながら阿片の密輸に手を染めていました。
米国の商社は、18世紀末頃から、英国に倣って米国北西部海岸で仕入れた毛皮を支那(中国)市場に販売をしていました。しかし、19世紀に入ると仕入れ先のインディアン部族との家系が悪化し、毛皮の仕入れがままならなくなります。 そんな時に勃発したのが米英戦争です。
この戦争は北米大陸だけでなく、海外へも波及しています。この頃、支那(中国)の毛皮市場で財を成していた米国商社が、パーキンス商会です。 米英・かん戦争の時期に、同社の船がインド産阿片を積んだ英国船を襲い、積み荷の阿片を掠奪する事件がありました。 奪った積み荷の販売で、巨利を得て味をしめたパーキンス商会は、商売を阿片にシフトすること決めます。
パーキンス商会は、英国東インド会社が独占するインド産阿片ではなく、トルコで生産される阿片に目を付け、ほぼ全量を買い上げます。 1815年頃のことです。 さらにトルコで仕入れた阿片を効率的に裁くために、香港島とマカオのほぼ中間地点にある霊丁島近くに貨物船を浮かべ、海に浮かぶ倉庫とすることを考えます。
海に浮かぶ倉庫には、多くの、支那(中国)人の阿片密売業者の仕立てた小型船がやってきます。 広東周辺で、阿片を密売する組織が手配した密輸船です。 ここでの仕入れは銀による現金商売なので、これによって清国の関税徴収組織・海関の規制を免れることが出来ます。
このやり方を、霊丁島の英語名リンチン島の名を取って、ロンチンシステムといいます。 英国系商社もこのやり方をまねるようになりました。 パーキンス商会の編み出した林珍システムを利用して、英国の大手阿片商社ジャーディン・マセソン商会、あるいはデント商会が阿片取引の最大手になります。
したたかなリンチンシステムを編み出したパーキンス商会は他社との合併でラッセル商会となり、更に発展します。同社から独立したオーガスチン・ハード商会、あるいはオリファント商会、ウェットモーア商会が米国ビッグフォーと呼ばれる最大手の貿易商社でした。 度の商社も阿片密売に手を染めています。
ラッセル商会は、19世紀にビッグフォーと呼ばれた大手貿易商社の一角で、トルコから中国への阿片の輸出で巨額の利益を上げました。 1824年にサミュエル・ラッセルが開業。 1891年に閉店するまで中国で最大の中米貿易会社でした。 1830年にブライアント&スタージス、パーキンス商会と合併しています。
この時、トルコで阿片栽培していたのがブッシュ一族(米共和党大統領で有名)で、その阿片畑の警備をしていたのがアサシンで、後にアルカイダとなります。ラッセル商会の役員の一人にフォーブス一族もいて、ブッシュと大統領選を戦ったノッポのケリー(米民主党)はこのォーブス一族で、世界の金持ちを紹介する雑誌フォーブスはこの一族がつくりました。 ちなみにノッポのケリーの名前は、ジョン・フォーブス・ケリーです。
彼らはイエール大学出身で、秘密結社スある・アンド・ボーンズのメンバーです。
Skull and BonesのLogo
スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones、S&B、頭蓋骨と骨)は、アメリカのイェール大学にある秘密結社。「The Brotherhood of Death」の異名がある。会員名簿は公開されている。ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した。 wiki
日本では米国政治系エリートと言えば、ハーバードが有名ですが、最近ではイエール大学、とくに秘密結社のスカル&ボーンズのメンバーがアメリカを影で動かしているともされていますので、覚えておきましょう。 ちなみにフランスではシラク大統領までが、パリ大学(13校あり、日本でいえば帝大みたいなもの)出身者が官僚や政治家・特に大統領になっていましたが、今日ではグランゼコール大学出身者でTopエリートは占められています。 マクロン・フランス大統領(同時にEUのTop)もグランゼコール卒業生です。 特に科学系の官僚や政治家になるには、グランゼコールで、科学系博士号を持っていないと、科学技術系の官僚にも政治家にもなれません。 日本の科学技術庁長官が田中真紀子、山東昭子、科学技術担当大臣が高市早苗など世界のお笑いモノです。
この時期の、米国阿片商人のほとんどがボストン周辺からやってきた商人でした。 彼らは利益の上がる阿片ビジネスを仲間内で独占しようとする狙いもあり、仲間同士の婚姻関係も利用した人的ネットワークを形成していきました。 つまり、米国の阿片ビジネスは複雑な血縁利権集団によっておこなわれてきました。
当時、阿片取引で財を成した米国商人の中に、ウォレン・デラノがいます。 デラノもラッセル商会の幹部社員で、大きな財産を築いて、1846年米国に帰国しました。家族を作り、株式投資で安泰な生活でしたが、1857年に大不況が起きて、所有株が暴落し、財産を失っています。
そこで、再び広東に戻り、ラッセル商会で阿片取引に関わります。 1859年に単身赴任し、3年後の1862年に妻キャサリンと7人の子供を呼び寄せています。下から2番目の子がサラでした。 彼女の一人息子が、日米戦争を引き起こした、後の米大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト。 略称FDRです。 ルーズベルトの少年時代には家族はニューヨークに戻っていました。
当時の米国阿片商人の誰もがそうであったように、彼らは地震の築いた財産が阿片によるものだとは一切喋りませんでした。 ウォーレンは、広東や香港での阿片商売以外の楽しい思い出ばかりを孫たちに聞かせました。 ルーズベルトは祖父ウォーレン・デラノから清国での楽しい思い出を何度も聞かされてます。
ウォーレンの広東・上海あるいは香港での良き思い出ばかりを聞いて育ったFDRは、愚かにもその話だけで自らが中国通だと思い込んでしまいます。 祖父が財産を成すきっかけとなった支那の国は素晴らしい国だと錯覚しました。
それは、大事に大戦で大統領だったFDRが、日本の主張を一切認めず、蒋介石の国民党や毛沢東の中国共産党をひいきした大きな原因の一つです。
1930年代、在中国の米国外交官は、品雑に中国の二枚舌外交や中国内におけるコミンテルン(1919年にレーニン指導の下に創立された共産党の国際組織で、第3インターナショナルとも言います)の工作活動を報告し、日本の主張の正当性も伝えていましたが、ルーズベルトはそうした報告をすべて無視。 それはFDR自身が外交官よりも中国の事を良く知っているという愚かな地震があったからです。
話が複雑になるので」ここでは述べずに、別途詳しく紹介したいと思いますが、FDRのこの頑固さにつけこんだ共産主義者たちがルーズベルト政権内にうようよいて、闊歩していました。 FREの妻エレノア・ルーズベルトが共産主義者の女性とレズ関係、さらに共産主義者の男性とも不倫し、なんと妻エレノアがソ連・中国側の共産主義者(コミンテルン)のスパイだったのです。エレノアは、世界で「赤いファーストレディと呼ばれていたのをご存じでしょうか?
続く
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