プロジェクターが映像を映す心臓部の部品に一つずつ人の手で接着剤を塗る(大阪府門真市)
関西のものづくりの聖地といえば、パナソニックホールディングス(HD)が本社を構える門真(かどま)の名も挙がるだろう。
ラジオや配線器具に始まり、往時には音響機器やビデオデッキの一大生産地でもあった。生産機能の多くは門真を離れたが、研究開発など技術面の基幹部門は今も残る。
大阪メトロの大日(だいにち)駅を出て、国道1号に沿って南西方向に10分ほど歩くと、青い「Panasonic」のロゴ看板が上部に配置されたモニュメントの塔が目に入ってくる。
この一帯すべてがグループの敷地で、オフィスや研究棟がずらりと並ぶ。
「周りの土地が広大で、ゆったりとした雰囲気を感じる。多様な人たちと交流ができればうれしい」。
グループ会社に4月に入社した大関瑛梨佳さん(24)は、社会人となって初めての職場であるこの地の印象をこう語った。
松下幸之助は1918年に源流となる松下電気器具製作所を大阪市内で創業した。
さらなる発展を期して門真に移転したのは33年のことだ。幸之助が「物と心がともに豊かとなる理想社会の実現」を自らの使命と定めた翌年だった。
かつての本店の跡地は現在「松下幸之助歴史館」となっている。
この建物は当時の意匠を踏襲しており、屋上部分には船の舵輪(だりん)が据えられている。「会社の進路を定めることが本社の使命だ」という幸之助の考えを表しているという。
同歴史館の学芸員である恵崎政裕さんは、「当時の門真は大変な田舎だった」と説明する。
もともと幸之助は社員育成を目的とした企業内学校を設置する構想を温め、門真に用地を確保していた。会社の移転に伴って近隣をさらに買い足し、ラジオなどの生産拠点も設けた。当初の敷地は約8000坪(約2万6000平方メートル)ほどもあったという。
35年に社名は松下電器産業となった。隣接する守口にも乾電池の製造拠点を開設するなど、会社の成長とともに地域一帯も大きく発展していった。
昔の本店の趣を残す松下幸之助歴史館。屋上には舵輪がデザインされている
恵崎さん自身もかつては門真でビデオなどの生産に携わっていた。「京阪電車の最寄りの西三荘駅近くにある繁華街は夜ごと社員が集まり、大変なにぎわいだった」と振り返る。
型破りでユニークな人も多く住む地域だったようで、ライオンを飼っていた家もあったという。
松下幸之助歴史館の裏手では新たな技術棟の建設が進む
敷地内には幸之助にまつわるものも多く目にする。発明王エジソンの立像もその一つだ。
像の向かいにあった建物の一室で幸之助は執務していた。起業家の先輩であるエジソンと「同じ目線で語り合う」という意図があったとされる。
「創業の森」とよばれる一画には幸之助と彼の妻の像がある。幸之助が信仰した龍神をまつった神社があるのも特徴だ。年度の初めなど節目のタイミングで祭祀(さいし)が執り行われているという。
時代の流れとともに、生産拠点の多くは門真から国内の他の地域や海外に移っていった。門真に残るのは競技場などに設置する映像投影用の大型プロジェクターなど一部製品のみだ。
ただ25年初めの完成に向けて太陽電池などの新しい研究棟の建設が進むなど、ものづくりの要としての門真の存在感は今も薄れていない。
近年は工場跡地が商業施設に生まれ変わっている。音響機器やビデオデッキなどを生産していた施設は、大型ショッピングセンター「三井ショッピングパーク ららぽーと門真」になった。
(長縄雄輝)
【推しビュー】社有地をさくら広場に
西三荘駅近くには「さくら広場」とよばれる公園がある。社有地の有効活用を目的にパナソニックグループが2006年に開設した。
建築家の安藤忠雄氏の設計で190本ものソメイヨシノが植樹され、滝もある。
今春、廃棄された漁網を使ったテント状の複数のハンモックも据えた。資源の有効活用に力を入れる企業の思いを伝える。
4月8日から5月上旬まで緑地整備などを目的に臨時休園している。「桜の季節はまだ続いているが、電車の窓などから園内を見てもらえれば」(パナソニックHD)という。
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日経記事2024.04.09より引用