今月はけっこう投稿しています。学校は現在は「履修期間外」ということで、まあ世間でいう春休みですか、その間にできるだけたくさん本を読んでしまおうというわけ。
といったわけで、半村良さん。
まずはこのタイトル、文庫の表紙は野武士集団のよう、とくれば「ははあ、これは盗賊ものか」なんて思ったのですが、全く違いました。
戦国時代も末期、三河の足助(現在の豊田市)に鈴木という家があり、なんでも古くは鎌倉時代、南北朝時代にまで遡る家系で、このころは家康の徳川家の分家の松平家の雑兵(足軽)。この家の唯一の男子、金七郎は、名前のとおり、七番目。上に六人の兄がいたのですが、みな戦死か病死。金七は炭焼きや柴刈りをして、金七の兄の未亡人たちは機織りや針仕事をしています。
そんな金七に、出兵の召集が。なんでも太閤殿下の秀吉が小田原の北条と戦をすることになったのです。家にいる女たちは「金七が最後の男だから、せめて危険の少ない夫丸(物資や食料を運ぶ人たち)か足軽で」といって、馬に乗って刀や槍を持つ戦闘員ではなく後方支援部隊として参戦します。
叔父の銀兵衛から「金七は普請組と作事組の小荷駄の護衛だ」と言われ、普請組や作事組とは何をするのかと聞けば、秀吉の使う仮設の茶室や館を作るというのです。
さて、東海道中の金谷に、鋳物の名人がいて、その家に火をつけようとしている者を金七らはやっつけます。翌朝、立派な恰好の騎馬武者がやって来て「昨日、鋳物師を襲った素破(忍者)をやっつけたのはお前らか」と褒められ、雑兵の中であいさつがきちんとできて字も書ける金七を認めて取り立てられます。
いつの間にか足軽の組頭になった金七は、富士川を渡るのに舟を並べてその上に竹簾を敷いた舟橋を造る作業を任されたりして、なんだかんだで小田原に到着。そこで金七が受け持ったのが、酒匂川の河口近く、つまり海寄りの辺り。しかしどうにも気になるのが、味方の陣地の配置が、まるで金七ら徳川軍を背後からいつでも攻撃してやるといった感じがしたのです。というのも、そもそも家康は北条と姻戚関係があるというのもあって、秀吉サイドからは完全には信用されていませんでした。
そんな疑念を金七は上役に告げると、金七に偵察をさせることに。しかしそんな不安は解消。相手方の大将つまり太閤秀吉が家康の陣に乗り込んで飲めや歌え。
そんなこんなで難攻不落の小田原城に立てこもっていた北条勢は負けを認めます。これで故郷に帰れると喜んでいた金七らに、なにやら国替えがあるとの噂が。そして金七は上役に呼ばれ、そこで江戸に国替えになることを知らされるのです。
金七の住む三河や隣国の尾張はもちろんそれより西の国の人たちにとっては駿河の東、箱根より向こう側は未知の世界・・・
ちょうどこのころ、秀吉は「検地、刀狩」を制令します。つまり、それまでの平時は農民で、戦になれば鍬や鎌から槍や刀に持ち替えて参戦するといったスタイルから、武士は武士、農民は農民といった「兵農分離」の政策を推し進めます。金七の家はまさにこの武士と農民の中間のようなポジションで、江戸へ行って義姉たちを江戸に呼び寄せることになるのですが彼女らの生活はどうなることやら。
文中の説明で、「兵農分離」のせいで生まれたのが「侠客」つまり(やくざ)だというのです。普通は戦に駆り出されるというのは嫌なものですが、中には喜んで参戦したのもいたそうで、「明日からお前らは農民だけやってろ」といわれても納得できず、彼らは刀や槍のかわりに匕首(短刀)を持ち、領地のかわりにシマ(縄張り)をめぐって争うようになります。
この当時の江戸は現在の大都市・東京の様子とはだいぶ違って、現在の日比谷あたりは入江になっていて太田道灌が築いた当時の江戸城は海に面していました。ちなみに江戸城が海に面しているということはそれだけ敵に攻められやすいということなので、家康は天正十八年に江戸入りして早々に、名目上は「行徳の塩をスムーズに江戸城に運ぶため」といって江戸城から日本橋川へ(道三堀)という堀を通します。これの別の目的は日比谷入江を攻められたときに大川(現在の隅田川)に出て江戸湾に逃げるためといわれています。
金七らは入江の向こう側に行ってみて、現在の有楽町あたりの洲から新橋あたりの砂地の突端まで歩いて引き返します。文中では「おそらくこれが銀ブラの第一号だろう。だが、まだ東銀座の半分は海の中だ」という描写があって笑ってしまいました。
これも文中にあって「へえ」となったのが、東京の男の人が話す「それ俺のだわ」といったように語尾に「~わ」をつけるのは、もともと三河弁が発祥とのこと。
といったわけで、半村良さん。
まずはこのタイトル、文庫の表紙は野武士集団のよう、とくれば「ははあ、これは盗賊ものか」なんて思ったのですが、全く違いました。
戦国時代も末期、三河の足助(現在の豊田市)に鈴木という家があり、なんでも古くは鎌倉時代、南北朝時代にまで遡る家系で、このころは家康の徳川家の分家の松平家の雑兵(足軽)。この家の唯一の男子、金七郎は、名前のとおり、七番目。上に六人の兄がいたのですが、みな戦死か病死。金七は炭焼きや柴刈りをして、金七の兄の未亡人たちは機織りや針仕事をしています。
そんな金七に、出兵の召集が。なんでも太閤殿下の秀吉が小田原の北条と戦をすることになったのです。家にいる女たちは「金七が最後の男だから、せめて危険の少ない夫丸(物資や食料を運ぶ人たち)か足軽で」といって、馬に乗って刀や槍を持つ戦闘員ではなく後方支援部隊として参戦します。
叔父の銀兵衛から「金七は普請組と作事組の小荷駄の護衛だ」と言われ、普請組や作事組とは何をするのかと聞けば、秀吉の使う仮設の茶室や館を作るというのです。
さて、東海道中の金谷に、鋳物の名人がいて、その家に火をつけようとしている者を金七らはやっつけます。翌朝、立派な恰好の騎馬武者がやって来て「昨日、鋳物師を襲った素破(忍者)をやっつけたのはお前らか」と褒められ、雑兵の中であいさつがきちんとできて字も書ける金七を認めて取り立てられます。
いつの間にか足軽の組頭になった金七は、富士川を渡るのに舟を並べてその上に竹簾を敷いた舟橋を造る作業を任されたりして、なんだかんだで小田原に到着。そこで金七が受け持ったのが、酒匂川の河口近く、つまり海寄りの辺り。しかしどうにも気になるのが、味方の陣地の配置が、まるで金七ら徳川軍を背後からいつでも攻撃してやるといった感じがしたのです。というのも、そもそも家康は北条と姻戚関係があるというのもあって、秀吉サイドからは完全には信用されていませんでした。
そんな疑念を金七は上役に告げると、金七に偵察をさせることに。しかしそんな不安は解消。相手方の大将つまり太閤秀吉が家康の陣に乗り込んで飲めや歌え。
そんなこんなで難攻不落の小田原城に立てこもっていた北条勢は負けを認めます。これで故郷に帰れると喜んでいた金七らに、なにやら国替えがあるとの噂が。そして金七は上役に呼ばれ、そこで江戸に国替えになることを知らされるのです。
金七の住む三河や隣国の尾張はもちろんそれより西の国の人たちにとっては駿河の東、箱根より向こう側は未知の世界・・・
ちょうどこのころ、秀吉は「検地、刀狩」を制令します。つまり、それまでの平時は農民で、戦になれば鍬や鎌から槍や刀に持ち替えて参戦するといったスタイルから、武士は武士、農民は農民といった「兵農分離」の政策を推し進めます。金七の家はまさにこの武士と農民の中間のようなポジションで、江戸へ行って義姉たちを江戸に呼び寄せることになるのですが彼女らの生活はどうなることやら。
文中の説明で、「兵農分離」のせいで生まれたのが「侠客」つまり(やくざ)だというのです。普通は戦に駆り出されるというのは嫌なものですが、中には喜んで参戦したのもいたそうで、「明日からお前らは農民だけやってろ」といわれても納得できず、彼らは刀や槍のかわりに匕首(短刀)を持ち、領地のかわりにシマ(縄張り)をめぐって争うようになります。
この当時の江戸は現在の大都市・東京の様子とはだいぶ違って、現在の日比谷あたりは入江になっていて太田道灌が築いた当時の江戸城は海に面していました。ちなみに江戸城が海に面しているということはそれだけ敵に攻められやすいということなので、家康は天正十八年に江戸入りして早々に、名目上は「行徳の塩をスムーズに江戸城に運ぶため」といって江戸城から日本橋川へ(道三堀)という堀を通します。これの別の目的は日比谷入江を攻められたときに大川(現在の隅田川)に出て江戸湾に逃げるためといわれています。
金七らは入江の向こう側に行ってみて、現在の有楽町あたりの洲から新橋あたりの砂地の突端まで歩いて引き返します。文中では「おそらくこれが銀ブラの第一号だろう。だが、まだ東銀座の半分は海の中だ」という描写があって笑ってしまいました。
これも文中にあって「へえ」となったのが、東京の男の人が話す「それ俺のだわ」といったように語尾に「~わ」をつけるのは、もともと三河弁が発祥とのこと。