久々に「下ノ畑」に行ってて見ました。
これについて一言。
ここの標識の場所(写真画像の場所)は、
賢治の耕した場所ではありません。
それに北上川の岸辺は、
当時とはまったく一変しています。
{標識を建てる時に豊川氏(桜の人)に、「この場所は違いますが、
詩碑訪問者が、「下ノ畑」を訪ねて来られた人々の為を思い、
違いを承知で建てたとの事です。また、「耕地面積」も紛らわしいが、
現状の状態でご覧になって戴くしか無いでしょう}との事でした。
「春と修羅 第三集」に詠われていたころの土手は、
川岸近くまで芝生のような草はらであった。
川は、賢治自耕地からの少し下流の対岸への「渡し場」までは
ゆったりとした流れで、「渡し場」の目標の四本程の松の木、
そこからは「獅子鼻」の鬱蒼とした森が良く見えた。
なだらかな草原の土手から川岸の玉砂利へは、
夕方、ときには馬を洗いに来ている光景が思い出される。
「渡し場」の少し下流は、川底が高くなっていて、
その先からは、川の流れが急になり、その勢いで
「獅子鼻」の岸壁に激突し、川は左に流れていた。
そこ、「獅子鼻」の崖下は、いつも凄まじくうずを巻いていた。
その昔北上川は大きく蛇行していて、
賢治詩碑の下を通って、南城小学校の下から
西十二丁目崖下を流れ、「獅子鼻」から更木を通り
黒沢尻(現北上市)へと流れていた。
[ その名残が ふるかわ まるこぶち(賢治詩碑の南側)
南城小学校下とその先にも、大きな池が有った ]
川の流れが変わり、「獅子鼻」への激突となったが、今は
「獅子鼻」の岸壁は姿を変えた。岸壁の岩肌の上は、
賢治童話に出てくる鬱蒼とした森であったが、今は見られない。