ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

下ノ畑

2007年09月09日 | 随想・日記

 

 久々に「下ノ畑」に行ってて見ました。

 これについて一言。

 ここの標識の場所(写真画像の場所)は、

賢治の耕した場所ではありません。

 それに北上川の岸辺は、

当時とはまったく一変しています。

 

 {標識を建てる時に豊川氏(桜の人)に、「この場所は違いますが、

詩碑訪問者が、「下ノ畑」を訪ねて来られた人々の為を思い、

違いを承知で建てたとの事です。また、「耕地面積」も紛らわしいが、

現状の状態でご覧になって戴くしか無いでしょう}との事でした。

 

 「春と修羅 第三集」に詠われていたころの土手は、

川岸近くまで芝生のような草はらであった。

川は、賢治自耕地からの少し下流の対岸への「渡し場」までは

ゆったりとした流れで、「渡し場」の目標の四本程の松の木、

そこからは「獅子鼻」の鬱蒼とした森が良く見えた。

 なだらかな草原の土手から川岸の玉砂利へは、

夕方、ときには馬を洗いに来ている光景が思い出される。

 「渡し場」の少し下流は、川底が高くなっていて、

その先からは、川の流れが急になり、その勢いで

「獅子鼻」の岸壁に激突し、川は左に流れていた。

そこ、「獅子鼻」の崖下は、いつも凄まじくうずを巻いていた。

 その昔北上川は大きく蛇行していて、

賢治詩碑の下を通って、南城小学校の下から

西十二丁目崖下を流れ、「獅子鼻」から更木を通り

黒沢尻(現北上市)へと流れていた。

 [ その名残が ふるかわ まるこぶち(賢治詩碑の南側)

南城小学校下とその先にも、大きな池が有った ]

 川の流れが変わり、「獅子鼻」への激突となったが、今は

「獅子鼻」の岸壁は姿を変えた。岸壁の岩肌の上は、

賢治童話に出てくる鬱蒼とした森であったが、今は見られない。

 

 

 


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