ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

滝清水神社

2007年09月11日 | 随想・日記

 

 宮澤賢治の自耕地「下ノ畑」に行く道は、

賢治詩碑の南側の坂道の他に、もう一つの道があった。

 

 豊澤橋を渡り、向小路から東に向かって、

兵舎わきの道を通り、滝清水神社の所から行く道であった。

 かってとはまるで変わってしまったので、思い出してみたい。

 

 通称「オミンチャン」(滝清水神社)の北側の坂道を東に下ると、

そこの左 土手北側真下が、豊かな水量の豊沢川が流れてきていた。

 豊澤川は、蛇行しながら神社下のすぐ近くに来ていた。

 

 神社裏の道ひとつ隔てた西側には、広い兵舎があり、

弘前第三十八連隊の工兵部隊が、盛岡から訓練をしにきていた。

兵隊は北上川から小型鉄船で遡り、この豊澤川まで何艘も乗り込んで来て、

訓練演習をしているところでもあり、また 朝晩のラッパがよく村中に響いていた。

 

 神社の東側、崖上にギリギリの所に、神楽殿があり、

その崖下には、豊富な水量の湧き水があって、春まだ雪が有る頃、

その湧き水で、村人が「ゆきな」などを洗いながらの、寛ぎのオアシスの所でもあった。

 

 この「オミンチャン」から、東南へ土手のうえを行くと、

賢治の自耕地の先、「渡し場」に通じる、土手上の路があった。

 

 豊澤川が北上川に落ち合ふ所と、土手の道のすすき原の三角地帯は、

われわれ子供等のかっこうの遊び場で、また 川にはいろいろな川魚が多くいた。

 土手の西側は、芝生のような草原で、その真ん中ごろに一本の古木の赤松が生えていた。

 北上川近くの土手は、べんべろ柳や熊笹で、洪水から土手を守っていた。

 土手の道の途中北上川沿いに、幾つかの小さな船着場があり、

向小路の人たちの小船が繋がれていた。

 

 外台をより多くの水田にする計画に、賢治の「下ノ畑」に行く途中に、

賢治の「羅須地人協会」撤退後、水揚げ場が作られた。(詩にも詠われている)

その場所が何処であったかを探したが、見つける事が出来なかった。

 

 外台の水田は、滝清水神社から賢治詩碑の崖下までの、湧き水や、

かっぱ沢を通って流れ込む小川、それから釜場からの小川などや、

南城の崖下の湧き水などで、水田を可能にしていたのであった。

 しかし 外台の中央部の大半は畑であった。

 

 [ 子供のころ、春の麦畑のひばりのきゅうこうかさきの巣を、荒らしまわった。

冬は、野うさぎのわなをつくり、初夏には桑の木の枝の、きじ鳩の巣の卵をねらいうちをした。]

 

 台風での水害のときは、堤防用の土手は何の役にもたたなかった。

 外台の南端は、北上川が獅子鼻の所で古河と繋がっていて、

北上川の氾濫は、逆流の為防ぎようが無かったのである。

外台は川の流れと反対方向から、どんどん浸水の泥水が入ってくる。

 賢治の詩「春と修羅 第三集」にも詠われている。

 

 

 


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