宮澤賢治の自耕地「下ノ畑」に行く道は、
賢治詩碑の南側の坂道の他に、もう一つの道があった。
豊澤橋を渡り、向小路から東に向かって、
兵舎わきの道を通り、滝清水神社の所から行く道であった。
かってとはまるで変わってしまったので、思い出してみたい。
通称「オミンチャン」(滝清水神社)の北側の坂道を東に下ると、
そこの左 土手北側真下が、豊かな水量の豊沢川が流れてきていた。
豊澤川は、蛇行しながら神社下のすぐ近くに来ていた。
神社裏の道ひとつ隔てた西側には、広い兵舎があり、
弘前第三十八連隊の工兵部隊が、盛岡から訓練をしにきていた。
兵隊は北上川から小型鉄船で遡り、この豊澤川まで何艘も乗り込んで来て、
訓練演習をしているところでもあり、また 朝晩のラッパがよく村中に響いていた。
神社の東側、崖上にギリギリの所に、神楽殿があり、
その崖下には、豊富な水量の湧き水があって、春まだ雪が有る頃、
その湧き水で、村人が「ゆきな」などを洗いながらの、寛ぎのオアシスの所でもあった。
この「オミンチャン」から、東南へ土手のうえを行くと、
賢治の自耕地の先、「渡し場」に通じる、土手上の路があった。
豊澤川が北上川に落ち合ふ所と、土手の道のすすき原の三角地帯は、
われわれ子供等のかっこうの遊び場で、また 川にはいろいろな川魚が多くいた。
土手の西側は、芝生のような草原で、その真ん中ごろに一本の古木の赤松が生えていた。
北上川近くの土手は、べんべろ柳や熊笹で、洪水から土手を守っていた。
土手の道の途中北上川沿いに、幾つかの小さな船着場があり、
向小路の人たちの小船が繋がれていた。
外台をより多くの水田にする計画に、賢治の「下ノ畑」に行く途中に、
賢治の「羅須地人協会」撤退後、水揚げ場が作られた。(詩にも詠われている)
その場所が何処であったかを探したが、見つける事が出来なかった。
外台の水田は、滝清水神社から賢治詩碑の崖下までの、湧き水や、
かっぱ沢を通って流れ込む小川、それから釜場からの小川などや、
南城の崖下の湧き水などで、水田を可能にしていたのであった。
しかし 外台の中央部の大半は畑であった。
[ 子供のころ、春の麦畑のひばりのきゅうこうかさきの巣を、荒らしまわった。
冬は、野うさぎのわなをつくり、初夏には桑の木の枝の、きじ鳩の巣の卵をねらいうちをした。]
台風での水害のときは、堤防用の土手は何の役にもたたなかった。
外台の南端は、北上川が獅子鼻の所で古河と繋がっていて、
北上川の氾濫は、逆流の為防ぎようが無かったのである。
外台は川の流れと反対方向から、どんどん浸水の泥水が入ってくる。
賢治の詩「春と修羅 第三集」にも詠われている。