落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (5)

2013-11-26 09:23:03 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (5)第1章 2人の旅籠が出来るまで  
・15のときからの清子の想い・・・




 別館『嬉の間』のテラスから見下ろす平家落人の里は、銀世界の下にひっそりと佇んでいます。
朝から降り始めた細かい雪は、夜も更けたというのにいまだに衰える気配をみせません。
露天風呂から立ち上る湯気は、清子がお湯につかりはじめたその瞬間から、またたく間に、
ガラス越しの向こう側の景色をかき消していきます。


 「湯気のせいばかりじゃありません。
 よくできたもので、人の気配と熱をいち早く察知して、こうしてガラスの面が曇りはじめます。
 それだけまだ私たちが、若いということになるのかしら。うふ」


 俊彦に背中を見せたまま温泉と戯れている清子が、声を忍ばせて笑っています。
別館『嬉の間』は10畳と12畳の和室と、6畳あまりの内風呂が連なっています。
もうひとつ、檜の階段を下りたその先に、部屋専用とされる露天風呂が作られています。
湯西川の清流を見下ろす高い位置にあり、100%の源泉が常に溢れています。




 ガラス張りの天井から見上げる、独り占めの夜空の様子は圧巻です。
腫れた日には凍てつきながら澄みわたっていく山間の空に、降るように星がまたたきます。
今日のような雪の日は、鉛色の空からはらはらと舞い降りてくる様子の中に、辺境の地ゆえの
うら寂しさと物悲しさなどを、ほのかに演出してくれます。



 清子は、ここから見る湯西川の四季の景観が大のお気に入りです。
今夜もまた、前も隠さずテラスのまん前へ進み出てガラス越しの銀世界を満喫しています。
『大胆だなねぇ、いつものことながら、君は・・・・無防備なままになっているぞ』、と、
つぶやいた俊彦が、清子の背中を見つめながら『君は、いつでも天真爛漫だ』と言葉をむすびます。


 「あら。背中だけでは不満みたいですねぇ、あなたは」



 湯気に霞みかけていた清子の白い背中が、ゆらりと静かに動きはじめます。
こちらへ振り向いてくる気配を察した俊彦が、慌てて視線をガラスの外へそらします。
大人3~4人がゆっくり入れる大きさを持った露天風呂は、2人で入るには広すぎるようです。
ポチャンと湯音をたてた清子が、湯船の端で首までしっかりと浸かってしまいます。


 「ホント。もったいないくらい広すぎますね、2人では」




 清流に沿って並んでいる氷のぼんぼりを、清子がゆったりと追いかけていきます。
ぼんぼりは、漢字で「雪洞」と書き、「せっとう」と読ませます。
江戸時代、「ぼんやりとしてはっきりしないさま」や、「ものが薄く透いてみえるさま」
の様子として使われてきた慣用句です。
「ぼんぼりと灯りが見える灯具」という意味などに使われてきました。


 「江戸時代の湯屋は、もともとが混浴として始まったそうです。
 庶民が暮らしていた貧乏長屋はもちろん、かなりの規模のお屋敷に住む町民や
 下級武士の家には、内風呂というものがなかったようです。
 自宅に風呂場をつくろうとすると、専用の湯殿と井戸が不可欠となります。
 江戸の町というものは、昔から井戸水の出がたいへんに悪かったと聞いています」


 『珍しくないでしょ、混浴なんか』と、清子が湯船の端から両手でさざ波を立てはじめます。
『それにしても、今日のお湯は少し熱すぎますねぇ・・・・』 小さな子供のようにしっかりと、
首まで浸かっていた清子が火照りを覚えてきたせいか、湯船からゆっくりと上半身を露わにします。
首筋から胸元にかけての白い肌が、見た目にも朱色に染まりはじめています。
隠さないため、清子の形の良い乳房がそのまま俊彦の目の前に、突如として現れます。


 「おい・・・・」


 俊彦がまた、慌てて視線をガラスの向こうへ転じます。
(嫌ならいいのよ、見なくても)と、当の清子は一向に動じる様子を見せません。
湯音を立てて立ち上がった清子が、前も隠さずガラスに向かって湯船の中を歩きはじめます。
体を鍛えるためにトレーニングジムへ通い始めたという清子の身体は、年齢の割に、
ほどよく引き締まった体型を維持しています。



 「はら、取れたでしょ。このあたりに余っていた、タプタプとしていた憎いお肉が。うふふ」

 妖艶に光る清子の瞳が、俊彦を流し目で誘います。



 「女はねぇ、年齢とともに余計なお肉があちこちに増えてきます。
 補正用の下着などが必要なくなりますので、着物を着る際には便利になりますが、
 女の体型が崩れてしまいますと、なぜか殿方たちは、失望と幻滅を感じるとおっしゃいます。
 『ふくよかになるのはよいが、男の夢が壊れたり、幻滅を感じさせるほど肥ると、
 俺の夢が無残に砕けることになる。頼むからぎりぎりのところで、いまの体型を維持してくれ』と、
 急逝してしまった、あの宇都宮の社長さんからもよく言われたものです。
 殿方の目は、着物の上からでも、好き勝手に女性の体のラインを見極めるようです。
 いいか、肥り過ぎるなよと、しつこいほどあの方から言われましたもの」



 「それで、その今の体型を維持するために、トレーニングを始めたわけかい?」



 「今は毎日、運動とダイエットの両方をこころがけています。
 15の時の体型に戻ることはかないませんが、45歳でも、まだまだ捨てたものじゃないでしょ。
 それもこれも、全部あなたのためです。
 15歳の時にあきらめた私の夢を、45歳で取り戻します。
 もう、私はこれから先の人生を、そうすることに決めました。
 といっても、あなたにしてみれば、ただただ迷惑なだけの話です。
 あなたに喜んでもらうために、おばちゃん体型を脱皮して、女に戻るために四苦八苦の日々なのよ。
 でもねぇ。いくら磨きをかけても所詮は、もう、45歳の身体ですからねぇ・・・・
 あら。やだ。なんで私を見ないでよそ見ばかりをしているのさ、あんたって人は」





 
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