見たいと思っているんですよ。「君の名は。」
時間あるくせに見れないというね。
明日は見よう。真面目に。
意外に自分主体で生きている人って少ない。
ある日音響学の先生がツイッターでサーキュレーションナンタラを力説していたので、
「なんですかそれは?」
と聞いたら、
「論文にあるからそれを読みなさい」
という。
真面目に探して論文をネットで取り寄せましたよ。
確かにその人の名前も共著に載ってましたね。
よくよく読むと、三角関数の時間関係式と思われた。
で、聞き返したんですよ。
「三角関数の時間関係式ですよね?」
「詳しい説明は、論文を主に書いた人に聞いてくれ」
それで振られた人はこれまたツイッター上で、
「えー?なんで俺が?そうだよ。三角関数の合成だ」
小保方晴子さんがSTAP細胞で吊し上げを食らう前だ。
論文の精度なんて、昔も今もそう変わらない。
名前をいっぱいくっつけて、あたかも自分が考えて査読しているようにしているが、なんにも分かってないなんてことはザラです。
日本人っていうのは、自分が表立つのは嫌いなんだろうな。
名前が公になっている教授と呼ばれる人だって、学生の成果が自分の業績なのだもの。
「私はこう思う」
と切り出すより、
「○○さんが言っていたのを偶然聞いちゃったんですが」
と切り出して、持論を言う方が責任は必要ないわけだ。
責任がないから、世の中の風潮に流れやすい。
みんなとおんなじものを好み、消費し、みんなと同じように罵り、ヘイトする。
「でもそれは誰の人生?」と聞かれたときに、主役は不在なわけだ。
「○○ちゃんのママ」
「○○ちゃんパパ」
子供は重要だけどさ。子供のためだけに自分は生きておらんがな。
自分の人生は自分で主体的に決めて責任を持とうぜ?
それができなければ、結局子離れもできんがな。
子供が主人公の人生を長年送ったら、そりゃ主人公は自分じゃなくなる。
で、そういう親を見て育った子供は?
主体的な人生など送るわけもなし。
で、タイトルに戻る。真面目に。
「君の名は。」
見てないけど。
時間あるくせに見れないというね。
明日は見よう。真面目に。
意外に自分主体で生きている人って少ない。
ある日音響学の先生がツイッターでサーキュレーションナンタラを力説していたので、
「なんですかそれは?」
と聞いたら、
「論文にあるからそれを読みなさい」
という。
真面目に探して論文をネットで取り寄せましたよ。
確かにその人の名前も共著に載ってましたね。
よくよく読むと、三角関数の時間関係式と思われた。
で、聞き返したんですよ。
「三角関数の時間関係式ですよね?」
「詳しい説明は、論文を主に書いた人に聞いてくれ」
それで振られた人はこれまたツイッター上で、
「えー?なんで俺が?そうだよ。三角関数の合成だ」
小保方晴子さんがSTAP細胞で吊し上げを食らう前だ。
論文の精度なんて、昔も今もそう変わらない。
名前をいっぱいくっつけて、あたかも自分が考えて査読しているようにしているが、なんにも分かってないなんてことはザラです。
日本人っていうのは、自分が表立つのは嫌いなんだろうな。
名前が公になっている教授と呼ばれる人だって、学生の成果が自分の業績なのだもの。
「私はこう思う」
と切り出すより、
「○○さんが言っていたのを偶然聞いちゃったんですが」
と切り出して、持論を言う方が責任は必要ないわけだ。
責任がないから、世の中の風潮に流れやすい。
みんなとおんなじものを好み、消費し、みんなと同じように罵り、ヘイトする。
「でもそれは誰の人生?」と聞かれたときに、主役は不在なわけだ。
「○○ちゃんのママ」
「○○ちゃんパパ」
子供は重要だけどさ。子供のためだけに自分は生きておらんがな。
自分の人生は自分で主体的に決めて責任を持とうぜ?
それができなければ、結局子離れもできんがな。
子供が主人公の人生を長年送ったら、そりゃ主人公は自分じゃなくなる。
で、そういう親を見て育った子供は?
主体的な人生など送るわけもなし。
で、タイトルに戻る。真面目に。
「君の名は。」
見てないけど。