ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

君のナハ(せんだみつお)

2017-08-24 23:10:25 | 日記
見たいと思っているんですよ。「君の名は。」
時間あるくせに見れないというね。
明日は見よう。真面目に。

意外に自分主体で生きている人って少ない。

ある日音響学の先生がツイッターでサーキュレーションナンタラを力説していたので、
「なんですかそれは?」
と聞いたら、
「論文にあるからそれを読みなさい」
という。

真面目に探して論文をネットで取り寄せましたよ。
確かにその人の名前も共著に載ってましたね。
よくよく読むと、三角関数の時間関係式と思われた。
で、聞き返したんですよ。
「三角関数の時間関係式ですよね?」
「詳しい説明は、論文を主に書いた人に聞いてくれ」
それで振られた人はこれまたツイッター上で、
「えー?なんで俺が?そうだよ。三角関数の合成だ」

小保方晴子さんがSTAP細胞で吊し上げを食らう前だ。

論文の精度なんて、昔も今もそう変わらない。
名前をいっぱいくっつけて、あたかも自分が考えて査読しているようにしているが、なんにも分かってないなんてことはザラです。

日本人っていうのは、自分が表立つのは嫌いなんだろうな。
名前が公になっている教授と呼ばれる人だって、学生の成果が自分の業績なのだもの。

「私はこう思う」
と切り出すより、
「○○さんが言っていたのを偶然聞いちゃったんですが」
と切り出して、持論を言う方が責任は必要ないわけだ。

責任がないから、世の中の風潮に流れやすい。
みんなとおんなじものを好み、消費し、みんなと同じように罵り、ヘイトする。

「でもそれは誰の人生?」と聞かれたときに、主役は不在なわけだ。

「○○ちゃんのママ」
「○○ちゃんパパ」

子供は重要だけどさ。子供のためだけに自分は生きておらんがな。

自分の人生は自分で主体的に決めて責任を持とうぜ?

それができなければ、結局子離れもできんがな。

子供が主人公の人生を長年送ったら、そりゃ主人公は自分じゃなくなる。

で、そういう親を見て育った子供は?

主体的な人生など送るわけもなし。


で、タイトルに戻る。真面目に。

「君の名は。」

見てないけど。