統計学なんかやると、言葉の定義に厳しくなってしまう。
「みんな」という言葉がある。
「みんなやっているから、やってもいいんだ」
とか、
「みんなやっているんだから、お前もやれ」
とか、
「みんなそうだよ」
とか。
統計には母集団と標本という概念があってですね。
統計的な傾向を調べるために、データを取るのだけれど、すべてのデータを取るのは大変なので、一部のデータをとってすべてのデータの傾向を分析する。
視聴率何%というのは、日本国内すべての家庭やテレビの番組を見ているかどうかを集計しているわけではなく、日本の中の一部の家庭を抽出して全体の視聴率としているわけです。
「すべての」が母集団で、「一部の」が標本といえばわかりやすいかな。
冒頭の「みんなやっている」という「みんな」は、どの範囲を示すのか?は常に考えてしまう。
知り合いの中で?
知り合いが10人の標本数だとして、今の世界人口は約77億人の母数。
10÷7700000000×100=0.00000013%
統計的に有意な標本数とは言えないと思いませんか?
これが100人だとしても、0.0000013%ですよ。
1000人だとしても、0.000013%。
「みんな」というからには、せめて母数の数%の標本数を取らないといけないと思いませんか?
77億人の1%は、7700万人です。
7700万人のデータをとって、みんなというのであればとても納得できます。
肌の色も文化も言語も違う。
季節も気温も天候も違う。
生まれつつある赤ん坊から、病気の人、健康な人、死にゆく人すべて。
男女の違いもLGBTでもすべて。
その中の数千万人ならめちゃくちゃ納得できます。
その母数集団も、過去のあらゆる時間と地域を含めれば、莫大な数になるわけですが。
大抵の場合、「みんな」はそんな莫大なデータをとった上での統計的に有意なデータではない。
せいぜい良くて数百人。
全く統計的には有意ではない。
そんなわけで、個人的には「みんな」を使わない。
まぁこんなことを言うと、
「何時何分何秒に言ったんだ?」
という難癖に相当するので、別に日常的に論じもしないのですよ。
これから得られる結論はいくつもあるのだけど、まぁ言えるのは、
知り合いが言う程度の評価で、自分の価値を判断するのは危険極まりないし、別にそんな評価を気にしないで、自分のやりたいことをすればよろしかろう?
とは思うのですよ。
自戒の念も込めて。