西尾維新の化物語シリーズが有名になってから、「怪異」という言葉がメジャーになったと思っている。
それまでは、物の怪、怪物、妖怪といった名称のほうがよく使われていたように思うのだけれど。
「もののけ姫」「怪物くん」「妖怪ウォッチ」など、特定の作品イメージに直結する言葉となってしまったため、他の表現の「怪異」が必要になったのかもしれない。
それら怪異は、人の想像する、人を超えた恐ろしい存在なのであって、吸血鬼も鬼も化け猫も地縛霊もそれにあたるのだけど、人がいないと存在できない。
人が想像した存在だから。
人がその存在を想像して伝承するから存在しうる。
人が絶滅したら存在し得ない。
いわば神の存在も同様であって。
人を超越した存在を想像することによって、理想の目標となる存在として定義される。
宗教内にあって、時に神の存在を偶像化や絵画などに表現することを禁じる場合がある。
なぜかを考えると、現実に実現しないから、各人の想像によって如何様にも具現化できる。
理想の想像を具現化したい試みは、達成されると同時に否定される。
他の表現者によって違う理想の神が表現されることによって、それが想像の存在であることを証明してしまう。
世に溢れる物語は、主にこれらの想像のファンタジーを肯定した、フィクション物語として構築される。
そうでなければ現実を元にしたノンフィクションであったり、将来を正確に予測シミュレートしたサイエンスフィクションであったりするわけだけれど、現実と違えば否定される。
現実記録も個人によって認識のバイアスがかかる。都合の悪いことは記録に残したくない。
未来も現実がその未来に到達すれば、違うことが証明される。
バック・トゥ・ザ・フューチャーも、ドラえもんも、2001年宇宙の旅も、現実社会が物語の設定時期に来れば、違うことが証明されてしまう。
それを娯楽表現としての物語ではなく、現実経済を元にした、現実社会経済中のビジネスにすると、経済的価値によって取引される、わかりやすい現実問題に変換される。
それを怪異とすることは、逆に行いにくい。