自分もそうだったので自戒の念を込めて。
他人を判断するとき、特に身近な関係だったりすると、
自分ほどできないだろう
もしくは、
自分以上にできるはずがない
なんて思います。
介護の実習でも思ったのですが。
お年寄りは自分から進んで認知症になるわけではない。
聞こえるのにわからないふりをしたり、わかっているのに答えないなんて、別にお年寄りでなくてもしますからね。
もちろん、「要介助」「要介護」認定されるためには、公式かつ正確な診断が行われることになっています。
同じ要介護の方と言っても、本当に認知認識があやふやな方もいれば、身体と口は不自由だけど、しっかりと物事を認識している方もいるんです。
わかっているけど答えない
発話をするのにどうしても時間がかかるので、答えないという判断。
会議などで気がついたけど議事が進行していたので言えなかった。
なんてことはよくあります。
お年寄りに限らず、場の空気を読むんです。
その場の雰囲気で言わない。
逆にそんなとき、
「あなたはどう思いますか?」
と問いかけられたとする。
「いえ、特にないです」
急な判断を求められたら、ついそう答えてしまいそう。
「そうですか。あなたなら何か思いつくと思うのですが?」
まぁ、ここまで来たら何か言い出します。
人は相手の特性や人格を知っていれば、案外とその意向を汲んで、相手の思う通りの受け答えをします。
それがいわゆる「空気を読む」ということになるのかもしれませんが、特に最近私はそれを「もったいない!」と思うようになってきました。
自分で仕事を起こすためには、自分の持っている特性を十二分に引き出す必要があったためでもあります。
周りの目を気にして自分の特性をひた隠しにしては、起業なんてできないし、第一スポンサーも補助もつかない。
逆になるとわかるのは、「他の人もなにか才能を秘めているのでは?」という思いです。
逆にものすごく地位の高い人が、電源分岐タップを五個ぐらいつないで、無理やり分岐しているなんてこともありますし、万能ではないのですが。
あ、上記タコ足配線は出火の恐れがありますのでやめたほうがいいです。
そんなわけで、人の欠点をあげつらう人とは距離をおいて、なにか長所があると探す人とつながるようにしています。
とはいえ方針を転換してからまだ日が浅いので、その道のりも簡単ではないのですが。
他人卑下の文化は根強いと思うところです。
他人を判断するとき、特に身近な関係だったりすると、
自分ほどできないだろう
もしくは、
自分以上にできるはずがない
なんて思います。
介護の実習でも思ったのですが。
お年寄りは自分から進んで認知症になるわけではない。
聞こえるのにわからないふりをしたり、わかっているのに答えないなんて、別にお年寄りでなくてもしますからね。
もちろん、「要介助」「要介護」認定されるためには、公式かつ正確な診断が行われることになっています。
同じ要介護の方と言っても、本当に認知認識があやふやな方もいれば、身体と口は不自由だけど、しっかりと物事を認識している方もいるんです。
わかっているけど答えない
発話をするのにどうしても時間がかかるので、答えないという判断。
会議などで気がついたけど議事が進行していたので言えなかった。
なんてことはよくあります。
お年寄りに限らず、場の空気を読むんです。
その場の雰囲気で言わない。
逆にそんなとき、
「あなたはどう思いますか?」
と問いかけられたとする。
「いえ、特にないです」
急な判断を求められたら、ついそう答えてしまいそう。
「そうですか。あなたなら何か思いつくと思うのですが?」
まぁ、ここまで来たら何か言い出します。
人は相手の特性や人格を知っていれば、案外とその意向を汲んで、相手の思う通りの受け答えをします。
それがいわゆる「空気を読む」ということになるのかもしれませんが、特に最近私はそれを「もったいない!」と思うようになってきました。
自分で仕事を起こすためには、自分の持っている特性を十二分に引き出す必要があったためでもあります。
周りの目を気にして自分の特性をひた隠しにしては、起業なんてできないし、第一スポンサーも補助もつかない。
逆になるとわかるのは、「他の人もなにか才能を秘めているのでは?」という思いです。
逆にものすごく地位の高い人が、電源分岐タップを五個ぐらいつないで、無理やり分岐しているなんてこともありますし、万能ではないのですが。
あ、上記タコ足配線は出火の恐れがありますのでやめたほうがいいです。
そんなわけで、人の欠点をあげつらう人とは距離をおいて、なにか長所があると探す人とつながるようにしています。
とはいえ方針を転換してからまだ日が浅いので、その道のりも簡単ではないのですが。
他人卑下の文化は根強いと思うところです。