本棚7個じゃ足りません!

引っ越しのたびに蔵書の山に悩む主婦…
最近は二匹の猫の話題ばかりです

苦痛

2011年04月11日 | 日々のこと
夫の知人が、夫に電話してきて、わたしの親のことを心配してなのだろうけど、わたしはすぐ里帰りしないのかとか、親をこちらに避難させないのかとか、色々と聞いてきている様子。
何にも事情を知らないであれこれ言ってくる人なんか、気にしなければいいと頭で分かっていても、泣かずにはいられない…。
なぜそこで普通に暮らしているのか、やるべきことをやっていないのではないかと責められているような気がしてつらい。
夫の知人であるが故に、わたしから事情を説明することも、腹が立ったときにピシャリと言い返すこともできないのが悔しい。
本当は無力感でいっぱいで自暴自棄になっているのだけど、愛する夫と自分の家庭を持っているから、なんとか前向きに生きようと、毎日苦しさから目をそらして頑張ってるのに…。
心の中をまた、かき回された。

わたしは…実家のことを心配してない訳じゃない。むしろ気が狂いそうなくらい、この事態に悩んでいる。
放射能の測定値はただちに健康に害を与えるほどではなくても、累積はどうなのかとか、また大きな余震で原発が大変なことになるかもしれないとか、また物流の流れがおかしくなったらどうしようとか、心配し始めたらきりがない。
でも、両親と兄は大人で、自分の考えと感情を持って物事を判断しているのだ。わたしが最終的には自身の考えと感情に従って行動したいように、今では実家の家族が下した判断も尊重すべきだと思っている。それは、賛成しないこともあるし、一方的すぎて身勝手だと怒ることもあるのだけど、無理矢理にこちらの言うことを聞かせることができるとは思わない。
だってわたしが代わりにその人生を引き受けることはできないのだし、誰もが自分の人生に責任を持つべきなのだから…。
大体無理にこちらの意見を通したところで、実家の家族がそれでストレスを感じて病気になってしまうようなら、意味はないのだ。
他人が言うように、両親をこちらに避難させるというのが、最も簡単で安全な方法なのだろうけど。
当の両親がそれを望んではいない。どんな状況であろうと(幸いにも今はライフラインも復旧し、物資も入ってきていて、放射能の測定値も低い)、自分たちの家で普通の生活をすることが彼らの決断なのである。
もしも実家が避難区域に入っていて、かつ一時的な危機なのだったら、向こうも譲歩していただろう。
しかし屋内待避地域でもなく、またこの原発事故の収拾は長期にわたるという状況で、自分の家を離れて馴染みのない環境で暮らすのは、融通が利かない老齢の親にとって放射能以上に健康に害を与える行為と言えるのかもしれないのだ。

一方で、わたし自身はわたしの理性で、しばらくいわきに帰省しないと心に決めたことに、良心の呵責を感じている。
ただ闇雲に帰ったところで、何かの役に立つどころか周りの負担になるだけだということ、自分の家庭がある以上里帰りしたまま足止めされてしまうような事態は避けなければならないので、原発事故が本当に落ち着くまでは自制しなければいけないということ、やっぱり親が、わたしが離れた場所にいることに安心感を持っているのだろうから、自分たちの身を守ること以外で余計に心配をさせてしまってはいけないということ、帰省代にお金を費やすなら、義援金に寄付したり実家が求めてきた時に援助したりするほうが、よほど向こうの役に立つだろうと考えたことなど、自分の中で理由はたくさんあるのだけど。
子供なら、そんな理性で考えずに、何もかも投げ出して親の元に駆けつけるべきなのではないか…と思えて、自分が冷たいようにも感じる。
わたしには何も事態を変えることができないという無力感と共に、まだ為すべきことを全てしていないような気が漠然として、こんな風に生きていていいのかなって、日常生活の中に闇を抱えているみたいに、時々無表情で虚空を見つめてしまう。

そんな時にあれこれ言われると、もう何もかも自分が馬鹿で何もできなかったから、結局東電が収拾をつけるのを祈っているしかないのだ…と落ち込むし。
あれ以外にどうすればよかったの、と途方に暮れてしまう。

当事者でも家族でもない、前後の事情も知らないお節介なひとの言葉なんて、聞き流せばいいって、わたしも勇気を出して普通に生活をしていくべきだって、分かっているのだけど。
…胸がえぐられた。
同様のことを延々と言われそうな予感がして、そうしたら冷静にあしらえないような気がして、ある種の親切な知人たちには当分会いたくない気分。
母には、人の善意に対してもっと感謝すべきだって怒っていたのに、わたしも勝手な人間です…。
でも想像力のない善意って、残酷な時があるよね…。自分だって人のことは言えないけどさ…。