tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

品川宿を出発して川崎宿まで・・・

2015-04-20 18:10:05 | 東海道五十三次の旅
4月19日(月)
朝から天候が不順の様相で、雨が降ったりお日様が顔を出したり、・・・そして雨、おかしなお天気です。
私の備忘録として、今日も昨日の東海道五十三次ウオークの続きです。



誇らしそうに

今回は第2回目ですので、前回解散した「品川本陣跡」が集合場所となります。
最寄り駅の「新馬場」を降りて10分ほどになりますが、辻々に品川宿の文字が躍る様に記載されております。いかに地元の人々が、品川宿という町に誇りを持っているかが伺えます。
道路標識に「Kyu」と入れ表示されております。

   

   集合場所

集合場所となった所は、「聖跡公園」になっておりますが、かつての「品川宿本陣跡」で、大名や旗本、公家などが休息や宿泊する宿場本陣だったそうです。
品川宿が開けた頃には、南北にありましたが、江戸中期ごろからこの本陣のみになったそうです。

この本陣だけが残り、維新後明治天皇の宿舎にもなったため、「聖跡公園」という名称になったそうです。
集合後、受付やなど済ませて、準備運動を入念にして出発です。

北品川と南品川の境の目黒川に架かる橋が境橋です。
何とも分かり易い名前です。

橋を渡ると直ぐに、幕府御用宿の釜屋があったところに出ますが、今は碑がポツリと建っているだけです。
幕末の動乱には、京都を追われた新撰組の土方歳三なども泊まり、ここで、これからの作戦を話して合って、戊辰戦争、函館戦争になって行ったと、ウオーキング・リーダーが言っておりました。

   

   品川寺

そのまま進むと、門前に大きな地蔵菩薩のある品川寺に着きます。
この地蔵様は江戸幕府の肝いりで、5街道に建造され旅人の安全を見守っていたそうで、この品川寺のお地蔵さまが一番古いそうです。
また、ここには「洋行帰りの鐘」も特別に拝観させていただきました。

   

   涙橋の由来
   
品川寺から少し歩いたところに泪橋と呼ばれる小さな橋があります。
ここで処刑される人は、はだか馬に乗せられて、御府内から護送されて来ますが、親族らが密かに見送りに来て、共に涙を流しながら別れたという逸話のある橋です。

ここを渡ると「鈴ヶ森刑場跡」が見えてきます。

   

   鈴ヶ森刑場跡

慶安4年に東海道に面したこの地に、刑場として設けられたそうで、今でもなにやら心穏やかではいられない雰囲気を漂わせております。

   

   実際に使われて

ここでは、八百屋お七や丸橋忠弥など歌舞伎やお芝居に登場した人々が処刑されたところで、実際に使われた台石や井戸、そして供養塔などが点在しております。
説明によると、穴が丸い方が火炙りの刑で、四角の方が張り付けの刑だそうで、想像するだけでも身震いがするようです。

   

   六郷神社

源氏ゆかりの神社で、天喜5年に源頼義・頼家親子が、戦に出掛ける前に、この地の大杉に源氏の白旗を掲げ軍勢を募り、前9年の役に勝利をおさめたので、岩清水八幡宮の分霊を勧請して創建されたと云われております。

頼朝もその例にならい奥州征伐に成功したそうで、頼朝寄進の手水石などが現存しております。

   

   六郷橋

六郷の渡しとして有名ですが、ここには関ヶ原の戦いの前には橋が架かっていたそうですが、以来5度洪水のたびに橋が流されてしまったので、平和になって戦も無くなったので橋は無用という事で「渡し」になったそうです。

ちなみに、明治天皇が江戸に下向された折には、たくさんの舟が集められ、舟橋にして渡られたそうです。
六郷神社に残る六郷橋の親柱だそうで、この柱を触ると無事な道中が出来ると云われているそうで、同行の皆さんが触っておりました。

   

   神奈川県に

今は立派な橋が架かっておりますが、江戸時代には船で渡っていたところです。
この橋を渡り切ると川崎宿です。

   

   東海道の碑

川崎宿でも至る所に、東海道だった事を示す碑が建っておりますが、宿場町だった事を思い出させる建物はすべてなくなっており、小さな説明書きがされたものがポツンと建っておりました。

品川宿とはまったく違った現代の街になっており、ちょっとがっかりと云ったところです。

   

   稲毛公園

この公園が解散するところ、次々に参加した人たちが集まって来ました。
12.5キロお疲れ様でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする