80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

私は何者なのだろう・・・?

2015年04月03日 23時38分44秒 | 考える
2015年4月3日(金) 「尽生」を思う

私は何者なのだろう?

1,983年物(?) 泡盛古酒 瑞穂 (2015/04/03 飲みきり・・・空になった!!) 

そう、今年、2,015年、68歳。

やたらと自分の年齢が気にかかる。
いい意味でも、悪い意味でも・・・。
しかも、こればかりは、どうしようもない。


たとえ兄弟といえども、所詮は別人格。
私には、兄を、弟を、素直に感じることができない。
共に、一段も二段も高いところにいる。
そんな気がしている。

それは、兄弟云々ではなく、「人間一般」
素直に感じられないということかもしれない。 
その年齢差、共有した環境。

私は、常に他人と比較しつつ、常に負い目と引け目を感じながら暮らしている。
他人に良く思われたい症候群? 


もう少しで70代・・・良いではないか、他人を気にかけるな!!
待てば待つほど人は去る。
そんな年代なのだ。
そうは思っているのだが・・・。


今、一番重要な問題は何か?  

・・・・・・

思考停止。

いいのではないか?
一体、何かを考えねばならない理由なんてあるのか?


facebookを開きながら思った。

考えてみれば、私には他人に誇れるものが何一つない。
しかし、さらに考える。

それが何だというのか?
私は私、他人は他人。


人間である以上、いずれは、やってくる死別。
  人生の尽きる時・・・尽生などと。

だから、それが、何だい・・・?
・・・そう・・・「なんだい?」・・・なのだ。


気にしても仕方がない。
他人を気にしている暇があるなら、自分を活かせ。

残された時間が勿体ない。 
・・・そういうことなのだ。
  と言いつつ、しっかりと気にしている。


結構大切に飲んだつもりの「泡盛」が、今日で酔い納め。
お湯割りで最後の1杯。
総て、こういったもので・・・最後の1杯は、何とも呆気ないものだ。

ただ独り飲む。
酔い心地を共有するものもない。

空しく独り痛飲 !!

「サヨウナラだけが人生だ。」 

そんな詩があった。。


[今日の一字] 「呆」ほう・たい・ぼう → あきれる・ほうける
<「呆」からの連想>
 → 私自身
 → 私の存在
 → 私の行動


思うに『私が死ぬ前に後悔すること』といえば、
 多分、「呆」・・・ それらしく、
  ・・・自分らしく、素直に生きられなかったこと
      ・・・だろうか。


おそらく、ロングピースか、ハーフコロナを咥え、ちょっと顔をゆがめ、
これからの人生を、「格好つけて」生きていきそうな気がしている。
自分では、格好いいと思いつつ・・・。

  ・・・それが「尽生」・・・!!
      まぁ、いいか・・・。

【考え方を変えれば、人生が変わる】「稼ぐ思考術」 No.349‏
■今日のコトバ:
「人間の行動の原動力は、全て考え方に依存している。」

■解説:
物事の成否は、結局のところ、それを成し遂げるために正しい行動をとれたかに尽きる。
そして、人間がとる行動は、全てその人物が持っている考え方に依存している。
ヒンズー教の教えに、以下のようなものがある。
『心が変われば、態度が変わる。
 態度が変われば、行動が変わる。
 行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。
 人格が変われば、運命が変わる。
 運命が変われば、人生が変わる』

人生を望むように変えたければ、まずは心、すなわち「考え方」を改める必要がある。

■実践:
自分が望む目標を達成するためには、どのような行動をとる必要があるだろうか。
そして、その行動をとるためには、どのような考え方が必要となってくるだろうか。

<<< ~「稼ぐ思考術」 小谷川拳次先生 365日語録 ~ >>>
http://leadconsulting.jp/mail365/

落とし物・忘れ物 その2 (1月・2月のノートから)

2015年04月03日 07時15分34秒 | 考える
まだ1月28日(水)

言い訳・・・。

何か、何か、何か・・・だ。

目的感が薄すぎるのかも知れない。
記録する。 

何も言わない、言ってくれないのだから、黙って、こちらが観察していくしかないのかも知れない。
こちらが積極的にならねば事態は変わらない。


「自分のスケジュール」を明確に持つ。
常に迷っているばかりでは、どうにもなるまい。

食費は銀行から。
何も臆することはない。

最初の決めごとだ。
自分の見栄で認めていなかっただけのことだ。
むしろ有効活用すべきなのだ。 ・・・これも言い訳


言い訳、言い訳、・・・一体全体、私は何がしたくて、どうしようとしているのか?

一体誰に言い訳しているのか?


こんなジジイに誰がした?
・・・って、お前さん自身だろ。


これ以上、「人生」を待っていて、どうするつもりなのだ? 

取りあえず、他人に媚びて生きるものじゃない・・・はずだ。

しかし、何かやっていないと、とにかく不安。


圧倒的な破壊力。

私が1年間、行方不明になったら、誰か私を探そうと思ってくれるだろうか?
人と人との関係性とは何をもって計るのか?

咳き込みながらタバコを吸うのはなぜだろう?


何をするわけでもなく、ただ「裸」でいたい。
とはいえ、それは凄く寒そうだ。


私と一緒にいたら、きっとすぐに飽きてくるだろうな。
考えてみると何も持たない、何も生み出さない退屈な男だ。

自分でもそう思う。

だから人も寄りつかないのだろう。
他人との温度差を感じている。 

しかし、その差が、何によるものかが良く分からない。


それもまた原因の一つなのか。

仕事をしている間は、こんなことは、ほとんど考えなかった。


小人閑(間)居して不善を為す・・・だったか? 
閑(ひま)・間(一人住まい)

教養のない輩は・・・だと碌なことをしない。


1月30日(金)

朝から雪。 思わぬ大雪だ。

感覚的には斜めに流れている。
窓を開けて見ると、上から下に、ひらひらと落ちているだけだ。

見下ろす地面には、すでに誰やらの足跡が点々と幾筋にも続いている。
皆さん今日も仕事らしい。
まぁ、室内作業には、大雨だろうと大雪だろうと関係ない話なのだろうが。

それにしても、こんな日の通勤は大事だ。
出社時点で、かなりかなり体力を消耗してしまう。


今日は「クリーンウォーク」の予定。
8:00過ぎ、O君から「クリーンウォーク」中止の連絡

ちょっと残念だがやむを得ない。
これでは「ゴミ拾い」も何もあったものではない。
「雪かき」すら骨だ。

寒い。 

こんな日は、会社の連中も大変だろうと思う。


1月31日(土)

今日、何を食ったのかの記録がなければ、明日の献立、予定が立たない。

とは言うもののなぁ・・・。

シュウマイ・キムチ・塩辛・・・

食わぬものと分かっていれば、もちろん買わない !! 

もっとも、そう言ってる当の本人も、何は食いたくないのか、分かっていない。


時間をかけて観察。

兄弟、或いは、そう恋人でも、所詮他人であることには変わらない。

私の痛みは、想像は出来ても、実際には、私個人にしか理解できない。


2月1日(日) 晴れ
2月2日(月) 晴れ


眼鏡を外そうと思った。
・・・・
ふと気がつくと、タバコの灰を落としていた。


いよいよ、惚けが始まった(?)らしい。


町に出て、金を払おうとしたら、 財布がない。
着替えてきたので、忘れてしまったらしい。
やむを得ず、ポケットの「ばら銭」で支払う。

う~~~む ・・・ !!


昼間からやけ酒。

磯丸水産で少し早い昼飯(?)。
「ハイボール」+「厚切りベーコン(自分で好みに焼くらしい。)」


弟を働かせて、私は、独り酒場で酒を飲む。 


唄の文句じゃないけれど、・・・後ろめたさと新体験
 (自分で好みに焼く。← どういう比較だ???)

もっとしっかり焼くべきだったかも知れない。


会社では、今頃みんな作業中。  無論、弟も・・・。  


2月3日(火)

遊ぶ金もしっかり決めておく。
無尽蔵とはいかないが、ともかく決める。(これは、気分の問題!!) 

遊んでも、何ら人に恥じることはない。
今まで、ふらふらしていたわけじゃない。 ・・・?

う~ん・・・、どう言ってみても、言い訳にしか聞こえない !!


小さなゴミをつまみ上げようとするのではなく、粗い目のザルを用いて、振り落とすという方法もある。 逆転の発想。

なるほど・・・!! 


ザイアンスの法則 = 接触頻度が増えると好意を持つ。

単純接触効果(たんじゅんせっしょくこうか)は、繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。
1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文にまとめ知られるようになった。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則とも呼ばれる。

何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる。
たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。
これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説で説明されている。
また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。
図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。
広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。
CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。

  (ウィキペディア・フリー百科事典)