母方の祖母と父方の祖母、私にはふたりの祖母がいました。
一緒に住んでいたのは母方の祖母です。
小さい頃こそ祖母は畏怖の対象でしたが、私はおばあちゃん子でした。
私はませた子でした。
小学生の頃、同居の母方の祖母に聞きました。
私:『ねぇ、おばあちゃん。これまで生きてきて、長かった?短かった?』
祖母:『長いようで、あっという間だったねぇ』
その頃祖母は60才台だったと思います。
祖母は長生きしました。
肉親や友人に先立たれ、本人には知らせませんでしたが、
可愛がっていた実の息子にも先立たれました。
今でも覚えていますが、常日頃祖母は、『死にたくない、死にたくない』と言っていました。
ひるがえって、父方の祖母はさばけた人でした。
死ぬのは怖くない、と言っていました。
脳溢血で倒れ、危なかったところを回復しました。
お見舞いに行って『よかった』と泣くと、
『やっと楽になれると思っていたのに』と不満そうでした。
ふたりの祖母の、死に対する態度は、実に両極端でした。
母方の祖母は、4年間寝付いた後、亡くなりました。
父方の祖母は、再度の脳溢血で、あっという間に亡くなりました。
人として、私は母方の祖母が好きでした。
母方の祖母は、なぜ死にたくなかったのでしょうか。
死ぬことが怖かったのでしょうか。
人生に未練があったのでしょうか。
無になることが怖かったのでしょうか。
父方の祖母は、なぜあんなにもさばけていたのでしょうか。
哲学者、池田晶子氏。彼女はこのように書いています。
『あれ、おかしいね。君は、「自分がない」ということを考えようとしていたはずだよね。
なのに、「自分がない」ということを考えようとすると、
「自分がある」ことに気がつくことになってしまう。
自分について考えているそこには、必ず、考えている自分があるからだ。
「自分がない」と考えいているそこにすら、考えている自分があるからだ。
自分が考えるのである限り、自分がないということは、
絶対考えられないことになっているんだ。すると、人は、
「自分がなくなる」という言い方で、何を言っていたことになるのだろう。
自分がないということは絶対に考えられないのに、
なぜ人は、自分は死ぬと思っているのだろうか。
・・・君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。
死んだら何もなくなるんじゃないかって。
でも、何もなくなるということは「ない」はずだ。
なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。
じゃあ、なぜ、「ない」ものが怖いんだろう。
ないものを怖がって生きるなんて、何か変だと思わないか』
(『14歳からの哲学』池田晶子著、株式会社トランスビュー)
他人の死は確かに不在ですが、自分の死は、自分の意識から見たら存在しようがない。
この考え方は私にとっては、目からウロコでした。
死を間近に迎えた時、私はじたばたとあがくのでしょうか。
それとも達観するのでしょうか。