創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
□第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
〇第四章 歴史は繰り返す
〇第五章 大東亜共栄圏と東アジア共同体
●第六章 性善説という病
□外交を「性善説」で考える日本人
□「善意の人」が裏切られたと感じると……
□国家主義思想家、蓑田胸喜
□愛国者が国を危うくするという矛盾
□大川は合理主義者か
■大川周明と北一輝
□イギリスにみる「性悪説」の力
〇第七章 現代に生きる大川周明
□あとがき
――第四部 21世紀日本への遺産
第六章 性善説という病
大川周明と北一輝
松本健一は大川周明にとって北一輝を「生涯のライバル」と位置づけている。筆者もその通りであると思う。大川と北は1925年頃に仲違いしてしまうのであるが、その後もお互いに畏敬の念を持ち続けていた。大川周明は、五・一五事件の内乱罪幇助で禁錮5年が確定し、1935年10月に下獄する。翌1936年に二・二六事件が起きた。大川は同じく囚われの身になっている北一輝について1936年8月11日の日記に次のように記している。
北君の事がしきりに頭に浮かぶ。何処に閉じ籠められて居るのか解らないが、此頃の暑さには弱って居るだろう。芝居気があり過ぎるほどあるけれど妙に子供らしいところがあるから、果たして毅然として難役を貫き通すか何うか。運命に対して方形なり得るか何うか。芝居がやり通せなくて醜態を暴露しなければよいがと思う。尤も北君とても一ト廉(ひとかど)の人品だから案外あきらめが早く、悠然裡に処するかも解らない。是非そうあって欲しい。何によらず大きいものが好きで、或時は屑屋が持ち歩くような巨大な蟇口を買って来たり、また或時は棍棒のような長大な万年筆を買って来ては喜んで居た。予にもそれらを買ってくれたが、両者とも到底実用に適さなかった。余り出鱈目を飛ばすので、呆れて吹き出すと、ヤ解ったかと言って自分も呵笑する。それほど平気で嘘を云うし、嘘がばれても平気であった。とにかく此の六七年はまったく往来しないから、昔の北君と若干変わって居るかも解らない。(松本健一『大川周明』岩波現代文庫、2004年、260-261頁)
この内容から、大川の北に対する人間的親近感が「果たして毅然として難役を貫き通すか何うか。運命に対して方形なり得るか何うか」という部分に現れている。
戦後、おそらく1953年に大川は「北一輝君を憶う」という論考を書いている。その中でも大川は北に好意的だ。
一言で尽せば北君は普通の人間の言動を律する規範を超越して居た。是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置去りにして来たように思われた。生活費を算段するにも機略縦横で、とんと手段を択ばなかった。誰かを説得しようと思えば、口から出放題に話を始め、奇想天外の比喩や燦爛たる警句を連発して往く間に、いつしか当の出鱈目が当人にも真実に思われて来たのかと見えるほど真剣になり、やがて苦もなく相手を手玉に取る。口下手な私は、つくづく北君の話術に感嘆し、「世間に神憑りはあるが、君のは魔憑りとでも言うものだろう」と言った。そして後には北君を「魔王」と呼ぶことにした。
処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である、北君がこれを書くとき、その中に千情万緒が往来したことであろう。一つ大川にからかってやれという気持ちもあったろう。また私が魔王々々と呼んで北君と水魚のように濃かに交って居た頃のことを思いめぐらしたことであろう。また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあろう。いずれにせよ死刑を明日に控えてのこのような遊戯三昧は、驚き入った心境と言わねばならぬ。(「北一輝君を憶ふ」『近代日本思想大系2:大川周明集』所収、筑摩書房、1975年、364頁)
大川周明は口下手で、また金銭については神経質なくらいに潔癖だった。他人に借りを作るのが嫌いなのである。この点、豪胆な性格で、パトロンから巧みにカネを引っ張り、法螺話か冗談か、真剣な革命論なのかよくわからないが面白い話をする北一輝は、大川にないものを持ち合わせた愛すべきライバルなのである。 処刑直前に「大魔王観音」などという巻紙を書いて寄こす北の生死を超えたユーモアに大川は感服しているのである。
一方、大川の二・二六事件に対する評価は手厳しい。
フランス革命に於けるルソーと同様、二・二六事件の思想的背景に北君が居たことは拒むべくもない。併し私は北君がこの事件の直接主動者であるとは金輪際考えない。
二・二六事件は近衛歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊に属する将兵千四百数十名が干戈を執って決起した一大革命運動であったにもかかわらず、結局僅かに三人の老人を殺し、岡田内閣を広田内閣に変えただけに終ったことは、文字通りに竜頭蛇尾であり、その規模の大なりしに比べて、その成果の余りに小なりしに驚かざるを得ない。しかもこの事件は日本の本質的革新に何の貢献もしなかったのみでなく、無策であるだけに純真なる多くの軍人を失い、革新的気象を帯びた軍人が遠退けられて、中央は機会主義、便宜主義の秀才型軍人に占められ、軍部の堕落を促進することになった。
若し北君が当初から此の事件に関与し、その計画並びに実行に参画して居たならば、その天才的頭脳と支那革命の体験とを存分に働かせて、周到緻密な行動順序を樹て、明確なる具体的目標に向って運動を指導したに相違ない。(前掲書、366- 367頁)
大川周明は、クーデターを結果で判断する。二・二六事件で内閣が交代しても、国家政策は基本的に変化しないまま、日本の現状を真剣に憂いている青年将校やそれを支持する軍高官が遠ざけられ、秀才型で出世主義者の軍事官僚が台頭し、結局、官僚支配が強まったと分析している。それから、大川は政治運動は個人としての決断に基づくべきと考えているので、将校の命令に逆らえない下士官や兵士を巻き込むという二・二六事件の手法にも違和感があったのだと筆者は考える。
大川はこのような稚拙なクーデターに北一輝ほどの能力と洞察力のある者が首謀者であるとは考えていない。思想を裁く必要があったので、北が生け贄とされたと大川は認識している。北一輝が性善説に立脚していたならば、北やその同志を銃殺に追い込んだ日本国家そして、天皇を呪詛したであろう。しかし、北は冤罪による処刑を宿命として受け入れた。もし北が性悪説に立っていたならば、もっと入念に計画された「乾いたクーデター」を引き起こし、権力を奪取していたであろう。筆者の理解では、北も大川同様に人間の本質を善でも悪でもない無記の存在と了解していたのだ。
【解説】
松本健一は大川周明にとって北一輝を「生涯のライバル」と位置づけている。筆者もその通りであると思う。
戦前の国家主義者で日蓮主義の系列につながる人物として、井上日召、田中智学、石原莞爾そして北一輝などが知られています。
しかし、それぞれの思想の中身については、私はあまり詳しくありません。
いつか調べてみたいと思っています。
獅子風蓮