獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その7)大聖人のコペルニクス的転回

2025-01-18 01:44:02 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak7 - 寂日房御書 2/2 
 __「不祥」って“かなり”のことば

2018年2月28日投稿
友岡雅弥


前回の続きです。

「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり、まぬかれがたき身なり」p.903
「不祥なり」という言葉なのですが、これは見ても明白なように、「吉祥」の反対語です。「凶(あや)し」「怪(あや)し」「禍禍し(まがまがし)と同義語です。
どうですか?かなりの言葉でしょう?

単に、世間で損をするぞぐらいのことだけではなく、神罰・仏罰を被るぞぐらいの言葉なんです。

ここで思いだすのは、「開目抄」の一節です。

「詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」 p.232

「天」は、 Sanskritで、deva、「神」のことです。
Sanskritはインドヨーロッパ語族の代表的な文章言語で、英語なんかとも、親戚関係にあります。英語で、「女神」が diva、「神聖」が divine というのは、この古語とも関係します。

門下が、鎌倉幕府や、当時の支配的宗教に異を唱える日蓮大聖人を批判します(もちろん、世間の人も)。

「高貴な人や、神仏を敬し、霊験豊かな祈祷をなされる御坊たちを、鎌倉の田舎言葉で激しく罵る。そのために、罰を被り、神々も見捨てたではないか」

それに対する言葉が、上の「開目抄」の一節です。

つまり、日蓮大聖人は、日本的宗教に、コペルニクス的転回を行ったのです。天動説から地動説へ。

つまり、何か、功力をもった神々に祈ったり、法力を持つ人に祈ってもらったり、また、世間的な力を持つ人間に服従したり――そうすることによって、利益を得る。それが宗教というものだ!

そうではなく、宗教とは、自らが自己に目覚め仏となり、社会に目覚め菩薩となり、人を支えていく人生を生きるときの糧となるものである。

これが、大聖人のコペルニクス的転回でした。

だから、今までの「おすがり信仰」からは、忌み嫌われる不吉なものだったのです。

「かる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ」 p.502

古い宗教観からは、「不吉」と思われる存在かもしれない私日蓮。あなた達も、不幸であり、不吉であると思われる状態になるかもしれない。

しかし――

「同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」 p.1173

なのです。

 

 


解説
そうではなく、宗教とは、自らが自己に目覚め仏となり、社会に目覚め菩薩となり、人を支えていく人生を生きるときの糧となるものである。
これが、大聖人のコペルニクス的転回でした。
だから、今までの「おすがり信仰」からは、忌み嫌われる不吉なものだったのです。

私も、社会から忌み嫌われる不吉なものととらえられたとしても、正義を貫くために発言をする「不祥」な人生を生きていきたい。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮