獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その6)「臆することなき勇気の人」

2025-01-17 01:23:25 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak6 - 寂日房御書 1/2
   __四人の反乱

2018年2月25日投稿
友岡雅弥


日蓮大聖人の「寂日房御書」には、こうあります。

「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。彼のはんくわい(樊噌)ちやうりやう(張良)まさかど(将門)すみとも(純友)といはれたる者は、名ををしむ故にはぢを思う故に、ついに臆したることはなし」

ここで、中国と日本の「武将」が4人並んでいますが、「この4人」を並べて、「臆したることはなし」と高く評価されているところに、日蓮大聖人の独特の視点があります。

樊噌・張良は、秦の支配を終わらせて、漢の時代を開いた功労者たちで、日本には、華々しいエピソードが伝わっていますが、苦労に苦労を重ねた人生でした。

樊噌は、「犬殺し」を生業とする、賤しき身分だったと言われます。張良は、秦に滅ぼされた韓の高官の子孫で、秦から目をつけられ、一家は名前を変えて、流浪を余儀なくされました。弟の葬儀も出せないような貧しさのなか挙兵計画をねりますが失敗。張良捕縛の指令が出て、また、逃亡・流浪の生活が始まりました。

樊噌・張良ともに、劉邦に力を貸して、秦を滅ぼし、劉邦は、漢の初代皇帝(高祖)となります。

劉邦が、秦の首都であった咸陽に入場したとき、劉邦は、秦の皇帝のように、奢侈・高慢に振る舞おうとしました。

それを、樊噌・張良が、「それでは、秦の非道と同じです」と命を投げ出して諌めたと伝えられています(「良薬は口に苦し」という言葉は、ここから出来たと言われます。忠言耳に逆らえども行いに利あり、良薬は口に苦けれども病に利あり)。

また、漢が出来たとき、功労のあった張良はある意味、権力をほしいままにできる立場に昇り詰めることもできたのですが、「病気」と称して、辞して、隠遁の生活をしています。また、高祖が、自分にとりいろうとする佞臣ばかりを大事にするので、それをまた命を懸けて諌めてもいます。

樊噌も、何度も、高祖を諌め、そして、佞臣たちの讒言にあって、左遷されてもいます。その左遷は、高祖の死去まで続きました。

平将門・藤原純友は、承平(しょうへい、じょうへい、931~938)から、天慶年間(938~947)に起こった、東国と西国の反乱を率いた武将です。

平将門の一族は、下総の国に領地を持っていました。将門は、朝廷に官吏として使えていましたが、父が死に、故郷に帰ると、その領地は、周囲の豪族に荒らされ放題。 詳細は複雑なので、割愛しますが、やがて、将門は朝廷からも退けられ、反乱を起こし、自ら「新皇」と名乗り、関東に新しい国を作ろうとしますが、果たせず。さらし首となります。(公式文書に出ている「さらし首」の最初)

しかし、長らく、京都の朝廷から「東夷(東国の未開人)」と差別・排除されていた関東の人たちにとって、それに完全と反旗を翻し、悲劇的最後を迎えた平将門は、英雄視され、やがて神田明神に合祀されることになります。

ちなみに、明治時代になって、天皇中心政治が復活すると、天皇が行幸(訪れる)神社に朝敵・平将門が祭られているのが問題視され、将門は祭神から外れます。終戦後に、再び、祭神になっています。

ちょうど、そのころ、瀬戸内海では、海賊が跋扈していました。その追討のために、 伊予掾(伊予の管理の三番目)藤原純友が任命されましたが、討つ相手の海賊たちが、朝廷の非道な政治によって職や生業を奪われた瀬戸内海の豪族たちであり、純友自身の率いる軍勢も、都から左遷されて、瀬戸内海に土着した官吏達の末裔であったため、両者は合流し、さらには摂津(現在の大阪北部、兵庫沿岸部)の国の、(朝廷から見ると)「盗賊」らも合流していきます。
純友は、太宰府などを落としますが、やがて、追いつめられ、捉えられ、獄中死します。

日蓮大聖人が、「臆することなき勇気の人」と呼んだ人たちは、このような人たちだったのです。

 


解説
樊噌・張良……平将門・藤原純友……日蓮大聖人が、「臆することなき勇気の人」と呼んだ人たちは、このような人たちだったのです。

日蓮は、権力に屈せず正義を貫く人を尊敬していました。


現在の与党化した創価学会・公明党は大聖人直結とは言えないのでは……
その思いをあらたにしました。

雑誌「潮」(2025.01)で、学会の御用ライターともいうべき佐藤優氏は、「2030年への羅針盤」という連載記事の中で、次のように昨年の総選挙の結果を振り返っています。

筆者はこの選挙における公明党とその支持者の選挙活動を注意深く観察していた。もちろん筆者も公明党に一票を投じた。自民党支持者が、半ば当選を諦めているような状況でも、公明党支持者は最後の瞬間まで誠実に自民党候補の応援をしていた。
今回の裏金問題に公明党は一切関与していない。公明党にとって、裏金問題は「もらい事故」のようなものだ。しかし、友党である自民党の腐敗を阻止できなかったことに対し、道義的責任を強く感じている。自民党の悪を見過ごしてしまったことが、公明党員とその支持母体である創価学会員にとっては悔しいのだ。

本当なら、大聖人の批判精神を受け継ぐはずの創価学会・公明党が、自民党の裏金問題や旧統一教会とのズブズブの関係を早い時期に徹底的に批判するべきでした。
ところが、公明党は、与党の中で自民党の闇を暴くどころが、自らもその闇に汚染されていたのです。
本来、自己批判する点は、ここにあるのではないでしょうか。
創価学会・公明党は、大聖人の権力批判の原点に戻って、やり直すべきでしょう。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮