獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その2

2024-01-16 01:52:54 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
■ぼくの名付け親は池田大作
■創価大学へ進学、そして信仰に目覚める
□学会本部に就職、仕事や病気の悩みに直面
□組織への違和感が募り、心が引き裂かれる
□急速に冷めていった信仰熱
□好きなことで生きていく、いまの自分へ
□宗教2世の処世術をみなさんに伝えたい

 


1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴

部屋のむこう側で、母が仏壇にむかって正座をしている。ぼくは布団のなか。
部屋は、暗い。
母は「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」という言葉をくり返し、唱えている。
ロウソクの炎だけがわずかな明かりで、それがゆらゆら揺れるたびに、母の背中も揺れて見える。その姿は、神々しく感じられた。
ぼくは、安心して眠りについた――。


ぼくの名付け親は池田大作

これは、ぼくが所属する宗教にまつわる、もっとも古い記憶。
ぼくは、創価学会(仏教系の新宗教団体。新宗教とは新興宗教のこと)の2世です。
この世に生を受けたのは1981年11月で、学会に入会したのはその2ヵ月後でした。
まだ、なんの判断能力ももたない時期に学会員になったので、気がつくと「学会っ子(学会の未来を担う子)」として過ごしていました。
そんなぼくは、名を「伸城(のぶしろ)」といいます。「めずらしいな」と思った人もいらっしゃるかもしれません。
なにを隠そうこの名前は、学会員が「永遠の師匠」と慕う指導者・池田大作氏につけてもらったもの。
池田氏のペンネームは「山本伸一」で、その「伸」の一字と、池田氏の恩師・戸田城聖(とだじょうせい)氏(故人)の「城」の一字を組み合わせてつくられたのが、「伸城」という名になります。幼いころからぼくは、周囲にこういわれて育ってきました。
「この名前に恥じない生きかたをしろ」
「『伸城』の名は、戸田先生と池田先生、師と弟子の関係を象徴するものだ。学会を担う人材として育つんだぞ」
この叱咤、しびれます。いま思い返しても、なぜか手足がしびれます。

だれがぼくの命名を池田氏に依頼したのか?
ぼくの父です。
じつは、ぼくの父はけっこうな有名人で、学会の理事長、つまり組織運営上の実質的なナンバー2を務めていました(2015年に退任)。
それ以前も、学会の全国幹部を若いころから歴任。
そんな父が学会内で勢いを見せはじめたころにぼくが誕生し、「伸城」という名付けがなされました。
また、ぼくの母も地域トップクラスの幹部として活躍していました。
そのため、わが家は宗教的な“ロイヤルファミリー”だと、まわりからいわれることになります。
ぼく自身はそれを否定しましたが、特別視されることが多かったのも事実です。
こう書くと「さぞかしチヤホヤされてきたのだろう」と思われがちですが、そういう面があることは否めないものの、大幹部の息子には息子なりのつらさがあります。
いつなんどきも期待の目にさらされつづけたことは、精神的にこたえました。
それが原因でしょうか。
ぼくは年齢があがるにつれて、人格がすれていきました。


創価大学へ進学、そして信仰に目覚める

とはいえ、「すれる」といっても、子ども時代の話。両親にさからいつづけることはできません。
いつ志願したのかは覚えていないのですが、ぼくは、気がつけば創価中学を受験することになっていました。
創価中学・高校をふくめた創価学園は、学会員の子弟にとってあこがれの世界。小学生時代を公立の学校で過ごしたぼくは、受験戦争に身を投じました。
そして首尾よく合格。創価学園での生活がはじまり、その後は創価中学から創価高校へ、エスカレーター式に進学します。
ただ、創価大学に進むことには、中学受験のころとおなじように「このまま行こう!」とは思えませんでした。創価学会の信仰にたいするぼくの反発がピークに達したからです。ところが、ここで父の説得にあいます。
結局ぼくは、妥協して創価大学に進学。そこで信仰に熱心な多くの先輩に説得され、創価学会の活動、いわゆる「学会活動」に巻きこまれていきます。
すると人間とは不思議なもので、あれだけ嫌いだった信心(しんじん)にのめりこんでいったのです。

学会活動に目覚めたのは19歳になる年でした。
その1年後には、学会員が集まる会合の最前線でみんなを鼓舞し、小さな規模のリーダーではありますが、組織で指揮を執るようになっていました。布教活動にも没頭します。大学3年、4年になるにつれて、創価大学内でも中心的な存在になっていきます。ぼくは創価大学の30期生ですが、その30期生の幹事にも就任し、大勢の前で指導的な話をする機会も急増していきました(偉そうで申し訳ないかぎり)。
当時のぼくの気概は、「広宣流布(こうせんるふ)は俺がやる!」という隆々(りゅうりゅう)たるもの。
「広宣流布」とは、創価学会でいう「世界平和」のような意味をもつ言葉です。教えが広まる(流布する)ことで実現される平和な状態を指す単語だと、ここでは理解してください。
その達成を「俺がやる!」と豪語していたのです。若気の至りとはいえ、強力な志を抱いていました。
このころ、大学で中心的な存在になっていたこともあって、指導者・池田氏にひんぱんに会う機会にもめぐまれます。そのたびに「先生! 見ていてください! ぼくは先生にご安心していただける弟子になります!」と心のなかで宣言していました。

(つづく)


解説
理事長の息子という立場で、親から進路のことで「説得」され、いやいや進学した創価大学で信仰に目覚めてしまった。
そこから、無理がはじまったのですね。

私は、彼のような学会内のエリートの家に生まれなくて良かったのかもしれない、と思いました。

 


獅子風蓮