獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

虚空会って何? /日女御前御返事その1

2024-01-03 01:28:10 | 友岡雅弥

前回の記事のもととなったのは「すたぽ」の「日女御前御返事その2」です。
karagura56さんのブログのブログには「日女御前御返事その1」の記事がないので、理解を助けるため、「すたぽ」より「その1」を引用させていただきます。

freak53- 虚空会って何? /日女御前御返事その1

友岡さんの御書講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

 


虚空会って何?
 /日女御前御返事その1

日女御前御返事(御本尊相貌抄)には、御本尊の相貌が次のように記されています(p.1243)。

されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝、本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅、其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚痴の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、総じて大小の神祇等、体の神つらなる。其の余の用の神豈もるべきや。宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云。此れ等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる、是を本尊とは申すなり。


ここで記され列挙されている仏・菩薩から、悪逆の提婆、愚痴の竜女や鬼子母神……は、「御本尊の中に認められているもの」であると同時に、「十界の衆生を代表するもの」ということがお分かりになるでしょう。

それは、まさに、御本尊が「十界の衆生」を認(したた)めたものであるということを意味します。

これ珍しいですよ。

大聖人の御本尊には二つのユニークな点があります。

一つは文字であるということ。

マジカルパワー炸裂の、光輪を背景にした金色の仏像ではありません。
「書く」という「人間の行為」をありありと示す「文字」です。

そしてもう一つは、「提婆達多」などが記されていること。
確かに、鬼子母神は悪鬼ですが、マジカルパワーありそうなので、江戸の入谷の鬼子母神などの崇拝の対象です。

でも、「提婆達多」ですよ。マジカルパワー感じませんよね。それが堂々と書かれている。それがポイントなんです。

そのような存在が「一人ももれず」、「御本尊の中に住し」、「妙法五字の光明にてらされて」「本有の尊形」となっているわけです。

「本尊」とは「本有の尊形」とのご指摘は、注目すべきところです。

つまり、「本尊」というのは、何か超越的な、パワースポットにある、神々しい神像とかではなく、「人間本来の姿」というわけです。ありのままの姿。

また、地獄界の提婆などが、特別な存在となっていくのではなく、妙法蓮華経の光に照らされて、その本来の姿が光る。

「本来の姿」言っても、「極悪人の本性」を顕すのではないですね。

これは何を意味するか?
十界それぞれが、それぞれのなかの、「それぞれの仏界」のありかたを輝かせているということ、

仏界のなかの、十界が光り輝いているということ。

つまり、「十界中の仏界」ということと、「仏界中の十界」ということです。

『法華経』の中盤あたりで、釈尊はそこに集まった人を虚空に上げて説法を続けます。
地面を割って巨大な宝塔が現われ、その中に多宝如来がいます。
釈尊滅後の弘教を弟子たちが誓い、またそこに、その誓いを共にする提婆達多が現われます。もう彼は過去の彼ではありません。また、その人々を守ることを誓ったナーガ族の女の子も現われます。

「ナーガ」は、中国では「竜」と訳されていますが、インドの神話には「竜」は存在せず、「ナーガ」は「蛇」のことです。おそらく、先住民族、少数民族など、虐げられた人々だったと考えられています。

そして、地面を割って無数の菩薩たちが現われます。

何回、地面割れるねん!地球ぐちゃぐちゃやで!

大聖人はこの場面を御本尊に表したのです。

ここの場面は、すべての存在が滅後の弘教を誓って存在するのです。提婆達多や竜女も。

大聖人は、このシーンを「『法華経』の考え方」を象徴的に示すものと考えたのです。

「『法華経』の考え方」とは、「一念三千」です。これは別に三千に意味があって、 一念二八二四やったらあかんのか、とかいう話ではありません。

そのあたりの、細かい話(かけ算するときに、十如是が先か、三世間が先か、みたいな話)当時の天台宗のなかで繰り広げられていて、それを大聖人は「観心本尊抄」の冒頭で、「世間から数えても、如是から数えても、同じ一つのものやんか!」と、煩瑣な議論に陥ることを戒められています。

むしろ、「一念三千」のポイントは、「三千」ではなく、「開目抄」で明確に述べられているように、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」 (p.189) です。

「十」にこだわってはあかんと思います。そんなことしたら、「声聞界中の縁覚界」 と「縁覚界中の声聞界」って、どっちが上やねん、みたいな話になります。

ポイントは 「互具」。

これで、私たち人間の本性は固定的ではなく、流動性を帯びます。「あの人は声聞界や!」みたいな、レッテル貼りは「十界互具」論では排除されます。

外見は、どのような存在であっても、そのまま「本有の仏界」を顕すことができる。別に、社会的地位が上がったり、病気が治ったりしなくても。社会の片隅で、苦闘する姿は、尊厳ある姿であり、畏怖すべき姿である。

対して、境界上がって行って、仏界に達すると考えるのは、「十界隔別」といい、大聖人は、まさにこの考えを否定するものが『法華経』であると考えたのです。

そして、それを象徴するシーンが、この虚空会であると。

そして、それを御本尊としてあらわされたのです。

すべての存在が、仏の代わりをするものとして、そこにいる。

 


解説
御本尊が「十界の衆生」を認(したた)めたものであると……外見は、どのような存在であっても、そのまま「本有の仏界」を顕すことができる。別に、社会的地位が上がったり、病気が治ったりしなくても。社会の片隅で、苦闘する姿は、尊厳ある姿であり、畏怖すべき姿である。……それを象徴するシーンが、この虚空会であると。
そして、それを御本尊としてあらわされたのです。
すべての存在が、仏の代わりをするものとして、そこにいる。

毎日、「十界互具の御本尊」を目の前にして祈ることは、法華経の虚空会の儀式に連なることなのですね。
そして、自分の十界互具の生命が、「本有の仏界」に感応していく。


獅子風蓮