というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
■二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
二杯目の火酒
1
__かなりピッチが早いじゃないですか。
「うん……喉が渇いてたから」
__もう一杯、もらいましょうか。
「うん」
__えーと……これと同じやつを、ひとつずつ下さい、ひとつ、って言い草はないか……一杯……やっぱり、一杯ずつ、か……一杯ずつ下さい。これでいいのかな?
「どっちでもいいんじゃない、そんなこと」
__まったく。どうでもいい、阿呆らしいことにこだわる癖があるんですね、ぼくは。
「そんなことも、気にしなくていいんじゃないかな」
__まったく! やられているなあ。
「そんなことないよ」
__それにしても、さっき弱いとかいってたけど、かなり強そうじゃないですか、あなたも。
「お酒?」
__もちろん。ああ、そうか、気性だと思ったの?
「どっちかなと思って」
__気性については、おいおい訊いていくとして、まずは酒。
「強くないよ」
__どのくらい呑む?
「ウォッカだったら、5杯が限度かな」
__ほんとに?
「ワインだったら、ボトルの半分」
__それ以上、呑むとどうなるの?
「酔っ払う」
__酔っ払って?
「眠くなる」
__眠くなって?
「眠っちゃう」
__それだけ?
「それだけ」
__なあんだ。
「なあんだ、って?」
__別に意味はないんだけど……お父さんは、強いの?
「一滴も呑めないんだ」
__ほんと。だって、お父さんは浪曲師でしょ?
「うん。でも、呑まないの。お父さんの十八番はね、おれは眼の不自由な女房と年子の3人の餓鬼を抱えて酒も呑まずに苦労してきた、っていう台詞なんだから」
__そんなに苦労してきたの、お父さんは。
「うーん。どう言ったらいいのかな。全然……まあ、やめとこう。お父さんについてはしゃべりたくないんだ、あまり」
__どうして?
「いろいろありましてね。大変なんですよ、この人が。だから、やめてくれないかなあ……」
__わかった。オーケー。じゃあ、お母さんは酒はどうなの?
「呑みますよ、かなり。一升、呑んでも平気なんじゃないかな」
__そいつは強い。
「好きっていうんじゃないらしいんだけど、みんなとワイワイするのが楽しいらしくて、呑み出すと、柄が大きいでしょ、どんどん入っちゃうみたい」
__柄が大きいのか、あなたのお母さんは。
「あたしの方が小さいんだ」
__そうなんだ。あなたは、どっちに似てるのかな。
「どっちかといえば、お母さん似らしい。ちょっとした仕草が似てるらしいの。でも、どっちにも、あまり似てないみたい。昔、お母さんと、あたしと、いとこの女の子と、3人で歩いていたりすると、お子さんですかって言われるのは、いとこの女の子だったらしいんだ。その子の方が、ずっと似てたんだって」
__この写真……週刊誌に載ってたんで、大宅文庫でコピーしてもらったんだけど……何歳くらいのときかなあ。利発そうな顔をしている、とてもいい写真。
「そう……それは……旭町にいた頃だから、小学校4年になっているか、いないかっていう時期かな」
__それにしては大人びた顔をしているよね。
「そうかもしれない。小学校4年にしてはませてるね」
__ふけてる。中学3年といっても、おかしくないんじゃないかな。むしろ、いまのあなたより、大人びている。
「それじゃあ、いまがずいぶん馬鹿みたいに聞こえるじゃない」
__ハハハッ。そういうつもりはないけれど、そういうことになるかな。……でも、いるんだよね、子供の頃、とても苦労して大人びた顔をしていた少女が、成長してその苦労が薄れていくにしたがって、子供のような顔になっていくということが、ね。あなたは、その写真のときより、いまの方が何かが薄れているような感じがするな。
「そうかな……自分ではわからないけど」
__一般的には、いつでも、ふけてるって言われつづけてきたの?
「うん」
__言われてたのは何歳くらいまで? つい最近までそう言われてたのかな。
「最近まで言われてたら洒落にならないじゃない、この齢になってふけてるなんて言われたら」
__ハハハッ。
「十代までなら洒落になるけど、さ」
__デビューしたときもふけてると言われた?
「そう、言われたな。お母さんがいつも言うんだけど、あたしは赤ちゃんの頃から……」
__ふけてたって?
「変な言い方だなあ、それって。ふけてるってことはないけど子供らしいところがなかったんだって。赤ちゃん赤ちゃんしてなかったらしいんだ。なんか、はっきりした顔立ちをして、男の子みたいだったんだって」
__想像がつくなあ。
「一枚、とっても好きな写真があってね、ちっこくて、男の子みたいで、ポケットに手をつっこんでいる、可愛いやつ。それ、大好きだったんだけど、週刊誌だかテレビだかが持っていって、なくなっちゃった」
__その写真、ぼくも週刊誌で見たような気がするな。五月人形みたいな顔をしてたね、そう言えば。
「学校に上がるまでは、あたし、お父さんとお母さんの巡業についてまわってたでしょ。そのときも、男の子のような髪型をしてたから、興行先の人とか、いろんな人から、純平とか純太郎なんて呼ばれていたらしいんだ」
__なるほどね。
「とてもおとなしかったらしいの。楽屋でね、お母さんが舞台に立つ頃になって、袴をつけはじめると、あたしのお姉ちゃんは、すぐ大声で泣き出したんだって。あたしはね、楽屋にいる手の空いた女の人の方に這っていって、オブオブとかいって、おぶってもらおうとしたんだって、いつでも。ほんとに手がかからなかったって、お母さんが言うよ」
__なんか、あなたの感じだなあ。
「近所の女の子が、よく抱かせてって、来たんだって。 一度なんか、妹に頂戴という子がいて、お母さんが冗談にいいわよって言ったもんだから、翌日、お小遣いで綺麗な服なんかを買ってきて、本気でもらいにきて、その子を納得させるのにとても困ったことがあるんだって」
__お人形さんを可愛がるように、可愛がっていたんだろうな。
「でも、そういうのって、話に聞くだけで、ちっとも覚えていないんだけどね」
__あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって? 岩手県の一関……旅興行の途中だったとか。
「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ、子供の頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるくらいだから」
__お母さんは曲師(きょくし)だったの?
「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんもお母さんも」
__しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」
「うん」
__子供の頃は、一緒だったんでしょ?
「でも、その頃のことって覚えてないんだ、全然。小学校に上がる前だったし。ただね、話によると、巡業で汽車を乗り継ぐでしょ、そうすると駅の名前を読みあげるんだって。汽車が駅に着くと、教えもしないのに、看板なんかに書いてある駅の名前を読んだらしいの。なんだか、そうやって字を覚えたんだって。だから、あたし、学校に上がる前から字は読めたらしいんだ」
__お母さんが、そうおっしってるの?
「うん」
__旅をしているうちに、字を覚えたわけだ。
「少しも記憶にないんだけど、汽車の窓から顔を出していたような感じだけは、どっかに残っているな」
__感覚的に、ね。
「いつも汽車に乗ってた。そういう気がするなあ」
__あなたが、自分で記憶していることで、一番早いのはどんなものがある?
「そう……」
__たとえば、ぼくなら、2、3歳のときに、みんなにおだてられて、床の間かなんかで踊らされてた、なんて記憶があるんだけど、あなたにはそういった小さい頃の記憶はない?
「ないなあ」
__何にも?
「ないなあ……どういうんだろ」
__それじゃあ、小学校に上がった前後のことは覚えてる?
「全然」
__えーと、1年のときの担任の先生は?
「覚えてない。2年のときも、3年のときも」
__ほんとに?
「校舎も、友達も、何も覚えてない」
__欠陥商品ですねえ、あなたの記憶装置は。どういうのかなあ……その時代のことは、まっしろけの感じなの?
「まっくらけの感じ」
__だとすると、いつ頃の記憶からあるようになるのかな。
「小学校5年から。カムイへ引っ越してから」
__カムイ?
「神さまが居る、って書くの」
__神居、か。なるほど。しかし、5年生といえば、10歳かそこらですよね。いま、あなたは28だから、人生のおよそ3分の1は記憶がないわけだ。
「我ながら、ずいぶんぼんやりしていたんですねえ。でも、人ってもっと覚えているものなの?」
__ぼくも記憶力はいい方じゃないんだけど、さすがにもう少し覚えているからね。
「お母さんが話してくれることを、いつも、へえー、へえー、って聞いてるばかりなんだ」
__それこそ、へえー、ですね。
「ほとんど覚えてないんだけど、何か特別な出来事があったりすると、少しだけ覚えているんだよね」
__どんなこと? たとえば。
「たとえば、小さい頃、大きな池に落ちたことがあるんだ。兄貴と一緒にタニシか何かを取りに行って、落ちちゃったのね。そのとき、その近くで写生をしていた男の人が、池に飛び込んで助けてくれたんだ。ぐったりしているあたしを抱いて、家に運んでくれたんだけど、そのとき、あたしは赤い服を着ていたという記憶がある。きっと、お父さんやお母さんが巡業に行って、留守のときだったと思うけど」
__命拾いをしたわけですね。
「そう……それと、気が弱かった、っていう記憶があるな」
__気が弱かった? あなたが?
「あっ、ずいぶんな言い方じゃないですか、その言い方は」
__ハハハッ。しかし、あなたが気が弱かったって?
「とても弱かった」
__子供の頃は、ね。
「いまだってそうだよ。オドオド、オドオドしながら生きてるよ」
__でも、デビューの頃のあなたは、気が強い、強情そうな顔をしてたと思うけど。
「そんなことないよ……」
__しかし、とにかく、子供の頃のあなたは、とても気が弱かったわけだ。
「うん……たとえば、ひとつ覚えているんだけど、教室で手が上げられないわけ。先生が質問して、わかる人は手を上げて、と言ってるんだけど、誰もわからなくて手が上がらないの。あたしはわかっているんだけど、恥ずかしくて、悪いような気がして、上げられないんだ、手を。どうしても、ね。とうとう、最後まで上げなかった……」
__それ、どんな教科だった?
「算数」
__へえ、面白いね。
「うん……」
__あなたは、ずっと旭川で成長したわけでしょ? 最初に住んだ家はどんなだったか、覚えてる?
「うん。旭町っていうんだけど……あれっ、もしかしたら、うんと小さいときに、違う町に住んでいたかもしれないけど……覚えているのは旭町の、市場の家」
__市場って、どんなふうな市場?
「魚屋さんがあって、八百屋さんがあって、肉屋さんがあって、そういう普通の市場」
__そこに住んでたの?
「そうじゃなくて、その横の家の二階を間借りしていたの」
__部屋がどんなだったか思い出せる?
「二間しかなくて……そこに親子5人が暮していて……階段を降りると、土間にポンプがあるんだ」
__井戸水を汲むのね。
「ポンプの前に桶があって、そこから柄杓で汲んで水を使うような、そういう感じ」
__一階は誰が住んでたの?
「大家さんのおばさん」
__部屋の中の様子は、いまでも、頭に思い浮べられる?
「うん」
__窓の外には、何が見えた?
「空き地。あたしたちが遊ぶ空き地が見えた」
__空き地の向こうは?
「コンクリートの本通りがあった。それ以外のところは、みんな泥道だったけど……。 このあいだ、久し振りに訪ねてみたら変ってたなあ。みんな舗装されていて、どこがどこだかわからなかった」
__このあいだって、いつ?
「去年の秋」
__変ってた?
「すっかり変ってた。……あたし、小さい頃、とってもパチンコがうまかったの」
__へえ、パチンコがね。
「いまみたいに自動式じゃなくて、ひとつ、ひとつ、穴から玉を入れて打ってた時代だけど。その頃、お父さんがよくパチンコ屋に行ってたんだ。パチプロみたいなことで食べてたから。一緒によく行ったんだ、あたしも」
__浪曲師をやめてたの?
「仕事がこなかったんだろうね。だから、そんなことしてたんだと思うよ」
__お父さんに、くっついて行ってたわけか。
「そうじゃないんだ。お母さんにくっついてたの。いい台を取るために、お父さんはお母さんも連れていって、坐らせておくんだ。お母さんは眼が見えないから、やってもうまくないでしょ。玉を減らすと怒られるから、お父さんの方が終るまで、黙って坐ってるの。ほんとにかわいそうなんだよ。お父さんはおなかが空くと、その席にお母さんを坐らせて、外に食べに行っちゃうんだけど、お母さんは何も食べられないでしょ、一日中。だから、少しの玉で景品のビスケットみたいなのと交換して、便所で急いで食べたりしたんだって……」
__そうなんだ……。
「学校から帰ると、お母さんがいないでしょ。お母さんがいないと寂しいから、ランドセルを置いて、あたしもパチンコ屋さんへ行くわけ。そこでひとりで遊ぶの。パチンコしたりして」
__お父さんから玉もらってやるわけだ。
「お父さんがくれるわけないじゃない」
__……というと?
「床に落ちているのを拾って、ひとつかふたつ、あたしが弾くと、だいたい入ったの」
__ほんと?
「すごくうまかったんだ、ほんとに。それで、いつも、いろんな物もらってた」
__怖しい餓鬼だったんですね。
「それでね、このあいだ、去年の秋、旭川に行ったとき、寄ってみたんだ」
__旭町の近辺に?
「そう。そうしたら、もう、ほんとに変っててね、わからないんだ。パチンコ屋さんがどこにあるのかも、わからなくなっていて……」
__十数年前といったって、そんなに、何がなんだかわからなくなる、ってほどでもないでしょ? それは、あなたが、あまりにも地理オンチすぎるんじゃないのかな。
「そうじゃないの、変ったの。だって、その頃、夏になると、そのパチンコ屋から近くのアイスキャンディー屋によく行ったの、退屈だから。5円か、10円持って。そのアイスキャンディー、とってもおいしかったんだ。でも、そのキャンディー屋さんもわからないの。あれだけよく買いに行ったのに。味はよおく覚えているのに、場所が全然わからなかった」
__味、ほんとに覚えてる?
「忘れない。東京に行っても、よく思い出したもん。あのアイスキャンディーが食べたいな、って」
【解説】
最初は、父親の話題に触れるのを嫌がっていた藤圭子さんですが、沢木耕太郎さんはあえてそこには触れずに、さまざまな角度から、彼女の子ども時代のことを聞き出そうとします。
インタビューの技術が冴えていますね。
獅子風蓮