獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その1)カーペンターズ兄妹の光と影

2024-04-17 01:46:36 | 友岡雅弥

久しぶりに、有料サイト「すたぽ」を読んでみました。

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt3 - ハートのジャケットの陰の苦悩と抵抗

2018年2月12日 投稿
友岡雅弥


カーペンターズの大ヒットアルバムに、'A Song for You' があります。ジャケット見たら、もろ、ヴァレンタイン・ディ用みたいな感じ。

カーペンターズは、ご存知のように1970年代に、全世界的な人気を誇ったリチャードとカレンの兄妹二人のグループです。

1970年代といえば、あの明るく元気なモータウンでさえ、リズム優先の、ラフな音づくりをしていて、もちろん、ファンクやロックが席捲していた時代です。

でも、二人は、二人が子どものころにはやっていたブリル・ビルディング・サウンドの音の「後継者」とも言うべき、美しいメロディラインの美しい歌を次々と採り上げ (実際、ブリル・ビルディング・サウンドのカヴァーも多かった)、合計何億枚という売り上げのヒット曲を量産します。

例えば、二人の5枚目のアルバム、'Now & Then' には、リチャードと、彼の大学時代からの仲間であり、多くの曲をリチャードとともに作ったジョン・ベティスの作、 'Yesterday Onece More 'に先導されながら(ヴァイナル盤=LPレコード盤=)のB面は、まさに、ブリル・ビルディング・サウンドや同時代のオールデイズ・ポップスのカバーが、続いています。

このように、二人は、まさにアメリカン・オールデイズ・ポップスの後継でした。

二人の4枚目のゴールド・ディスク 'Rainy Days and Mondays' の首位を阻んだのが、ブリル・ビルディング・サウンドのメイン・ライターだったキャロル・キングが、 ソロ歌手として出した、'It's Too Late’だったのは、とても不思議なものを感じます。

さて、1972年にリリースされた二人のアルバム 'A Song for You'があります。 日本でも200万枚を売り上げた'Top of the World'の他、'Hurting Each Other'、'It's Going to Take Some Time'、'I Won't Last a Day without You'‘Goodbye to Love'、 など、多くの曲がシングルカット れました。

これを聴くと、二人が(特にリチャードが)、「アメリカン・ポップスの後継者」という評価に満足していたかどうか、とても、考えさせられます。

アルバム・タイトルであり、アルバム中に、何度も形を変えて出てくる'A Song for You'。あの、くせ者ソングライター&シンガー、レオ ン・ラッセル作の佳曲であり、 カーペンターズのこのアルバムの一年前、黒人ソウルの新しい時代を牽引したダニー・ハサウェイが、すばらしい解釈で、世に問うたものです。

そして、リチャードは、このアルバムのジャケットにとても不満を持ったと言います。
まるで、日本のヴァレンタインやクリスマスに出てくる、甘ったるいコンピレーション・ラブソング集みたいな、ハートがどーん!というジャケットだったんです。

当時のニクソン大統領が「カーペンターズこそが、健全なアメリカの青少年の模範である」などと言っていて、品行方正、明るく元気、スポーツに汗して、家に帰れば笑いが絶えない――そんな家庭の模範的な子ども。

うーん、うっとうしい。

また、カーペンターズは、A&Mレコード所属でした。A&Mは、ハーブ・アルパートと、ジェリー・モスが創立したレーベルで、アルパートのAとモスのMからレーベル名は取られています。

ハーブ・アルパートは、トランペッターであり、「ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス」というグループ名で大活躍。ソング・ライターとしても、あのサム・クックの歴史的名曲 'Wonderful wolrd' を、名プロデューサー、ルー・アドラー、そしてクック本人と共作したりしています。まさに古き良きアメリカン・ポップスのヒーローでありました。

彼ら二人が、ハリウッドに建設したのが、A&Mレコーディング・スタジオでした。
もと、チャップリンの撮影所があった場所らしいです。

伝説のエンジニアが呼び寄せられます。まさに、アメリカン・ポップスを象徴するフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド(分厚い音の壁)」を作り上げた、ラリー・レヴィン。
さらに、大きくて、反響が豊かなA&Mスタジオは、ロックやソウルには不向きでしたが、豊かなオーケストラなどの音を重ねるためには最高でした。

まさに、A&Mが、目指す「60年代オールデイズ黄金時代の音の後継」という重荷が、まだ若い二人に託されたのです。
うっとうしい!

でも、ラッキーなことがありました。それはリチャードが、クラシック音楽を専門的に勉強しており、オーケストレーションや編曲には、天才的な才能があったのです。
事実、多くの批評家が、リチャードをアメリカ・ポップス界屈指のアレンジャーと評価しています。

「古き良きアメリカン・ポップスの生き残り」「ブリル・ビルディング・サウンドの代表の一人」、バート・バカラックの曲 ‘(They Long to Be) Close to You'で、スターダムに登り、しばらくは、A&M側はバカラックを二人の曲作りの後見人と考えていた節がありますが、リチャード自身は、バカラックの編曲は「甘すぎる」と考えていたようです。

それで、この「甘すぎるジャケット」のレコーディング中に、ちょっとした「反乱」が起こります。
'Goodbye to Love'という、ラブ・ソングのレコーディングに、リチャードは、彼の友人のギタリストのトニー・ペルーソを起用します。

そして、歌の部分が終わると、トニーは、当時、ジミ・ヘンドリクスなどの、「飛んだ!」アーチストたちが使っていたファズ・ボックス(音を歪ませるエフェクター)のスイッチを入れるのです。

トニーのソロは、考えられないほど、長いものとなりました。まるで、ジミ・ヘンドリクスの曲のように。ソロの間、リチャードは、「もっとやれ!熱く!」と、トニーをたきつけたと言われています。

なかなかの出来だったので、レーベルのエライさんたちも、OK。

でも、「過激である」と放送禁止にしたラジオ局もあり、「健全なカーペンターズらしからぬ音だ、けしからぬ」と苦情もたくさんでました。

実は、ヘヴィ・メタルの世界で、美しいボーカルのメロディラインと、切々と訴えるリードギターのソロのある「ラブソング」を、「パワー・バラード」と言いますが、この 'Goodbye to Love'は、そのルーツの一つとされています。

会社や世間の要求する「明るく健全なアメリカ青少年の代表」という抑圧的なイメージ、そして、それを演じなければならなかった二人。

これからも、この葛藤は続き、カレンは拒食症となり、リチャードは薬物依存症となります。そして、カレンは、回復につとめソロアルバムを出そうとします。そして、 リチャードも全力で、ソングライティングをします。なんとディスコ調。
A&M首脳が却下することとなります。

カレンは、拒食症(もしくは薬の副作用)で、1983年2月4日、若くして亡くなったのです。

昔、よくかかっていたカーペンターズの美しく親しみやすいメロディの背後に、なんとなく、さびしげな陰影が見えるのは、単に僕の気のせいではなかったのですね。


解説
カーペンターズ、懐かしいですね。

私は高校生のころから、英語のヒアリングが苦手で、大学生になってからも医者になってからも、それがコンプレックスになっていました。

英会話のCDつきテキストなどを買って勉強したりしましたが、一向に上達しません。

見かねた妻が、カーペンターズを聴くといいよ、と教えてくれました。

それ以来、最初は英語のヒアリング向上のために聴きはじめたカーペンターズでしたが、すぐにその美しいメロディーときれいなカレンの歌声のとりこになりました。

友岡雅弥さんの秀逸なエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

獅子風蓮



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