友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: SALT OF THE EARTH
「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。
2018年4月7日 投稿
友岡雅弥
最近、なぜかしら縁があり、前の文科省事務次官だった、前川喜平さんと、この数ヶ月で2度、お会いしました。
一度は、知り合いからの依頼で、大阪人権博物館で開催されていた「夜間中学生」展(昨年12月)にお連れして、夜間中学のある意味、「中興の祖」というか、廃止されかけていた夜間中学を全国各地、復活のために歩いた高野雅夫さんに、お引き合わせをしました。その後、釜ヶ崎を案内しました。
高野雅夫さんについて少し述べますと。
戦争孤児で、ストリートチルドレンとして生き、日々の食べ物は、ごみ溜めをあさり、時には、盗みもしました。自分の名前すら知らなかった。いつの間にか、「たかのまさお」と呼ばれていたのですが、父母が付けた名前なのか、知らない人がつけたのかすら分かりません。
バタヤ(道に落ちているゴミくずなどを集めて生活をしていた人たち)のおじいさんに拾われます。
在日朝鮮人のおじいさんでした。そのおじいさんが文字を教えてくれました。
ごみから拾ってきた「カルタ」を使って、「たこ」の「た」、「かに」の「か」、「のぼり」の「の」、「まり」の「ま」、「さる」の「さ」、「おけ」の「お」──「これがおまえの名前だ」
そして、夜間中学に入ります。卒業したのですが、政府が夜間中学を廃止するというニュースを聴き、いても立ってもいられず、友人と協力して、「夜間中学生」のドキュメンタリー映画を作り、全国を回って、廃止中止を訴えます。
そして、高野さんの活動に、みんなが応えます。廃止が中止になったところ、廃止されたが復活したところが、あちこちに出来ます。
前川さんは、高野さんに以前からお会いしたかったということでした。そして、高野さんに会い、また高野さんの盟友とも言うべき、夜間中学教育一筋の白井善吾さんの案内で、「夜間中学生」展を、長い時間かけて、見ていらっしゃいました。
二度目は、僕も長く関わらせていただいている、「児童福祉の父」、石井十次にルーツを持つわかくさ保育園&西成市民館(同じ建物です)で開かれた、すべての人に等しく教育の場を、という趣旨の学習会です(3月末)。
(一度目にも、わかくさ保育園と西成市民館を案内しております)
この学習会の最中に、前川さんは、突然、僕を名指しされて、「友岡さんに、高野雅夫さんを紹介していただいた」と言われたのには、なんか、恥ずかしくて、これは、今後の責任おもいな、と思った次第です。
なんか、前川さんは、ニュースでしばしばとりあげられていて、「時の人」っぽい感じなんですが、ご本人は、ほんとうに淡々とされているかたです。
なんか、みなさんが、「反権力の象徴」みたいに、ちからを入れて持ち上げても、ちょっと違うのではないか、という「淡々ぶり」です。
淡々と「自分のなすべき」ことをなす。
いや、淡々と、「自分がなすべきだったのに、なし得なかった」ことを、実践しようとされています。
この観点大事だと思うんです。何か象徴的な人、時の人を呼んで、講演会やワークショップやって、「ええ話聴いたなぁ」とか、「~反対!」と叫ぶだけではなく、自分として、具体的に何ができるか。
たとえば、憲法改正反対ならば、その憲法の精神を具体的な形として、生きていくということはどういうことなのかを、周囲に広げていくことだと思うんです。
さて、前川さんにとって「自分がなすべきだったのに、なし得なかった」ことをとは。
それは、憲法が保証するすべての人への教育の場の提供です。文科省在籍時代にはなし得なかったので、これから、その実現のために尽力したいという強い意志を持っていらっしゃいます。
意志は強いのですが、人当たりが柔らかいので、かえって、その着実な実践が分かります。
ボランティアで、福島の自主夜間中学と、厚木の識字教室に通って、パースン・トゥ・パースンで、文字や算数を教えています。
文科省を離れる時に、LGBTの生徒、学生たちが、何の気がねもなく、居場所となれる学校や学びの場(学校でなくてもいい)を作ろうと、後輩に呼びかけておられます。
学習会で、前川さんは憲法二十六条の条文をあげられました。
第二十六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
ここでの「国民」は、日本国民という意味ではなく、子どもの権利条約などの国際的な条約でいう「人」という意味です。
だから、前川さんは、22世紀か23世紀に、憲法をよくしていきましょうという全国的な流れができたときには、ここを「すべての人が」に変えたらいいのでは、と言います。
このあたりが、「前川節」です。急がなくてもいい、実際、子どもの権利条約などがあるのだから、それを実現させればいいのだ、という、とりあえずのよって立つものを、暗示してくれるのです。
「能力により」は画一的な物差しで測れるものではなく、「多様な個性」という意味。
「等しく」は、画一的な教育内容を与えてよしとするということではなく、様々な個性に応じることのできる「インクルーシブ」の意味。
さて、この憲法の条文で、「法律の定めるところ」とある、この法律は、「学校教育法」ということになります。
この「学校教育法」に、いくつかの不備があると前川さんは言います。
つまり、憲法上は、「学校だけが教育を独占する」とはかいていないのですが、「学校教育法」によって、教育の場は「学校」と規定されているのです。
1941年まで、日本では、学校以外の教育が認められていました。しかし、戦時体制のなかで、「日本国臣民」を作るための、「国民学校」が出来て、普通教育は学校が独占することになったわけです。
その戦時体制が今も続いているのです。
アメリカでは、学校以外での教育が法的に認められています。
個性に応じた、学校での、また学校外での教育機会の提供。
それは、憲法の精神から無償でなければならない、と前川さんは言います。
とりあえず、「就学援助」があったのですが、例の小泉政権の時の三位一体の改革で、国からの助成金が廃止され、自治体によってばらつきが出てきます。
つまり、就学援助が多い自治体は、住民の所得が低い→税収が少ない。
ところが、税収が少ないところほど、就学援助が必要な世帯が多い→財源が必要なわけです。
負のスパイラルです。
こういうところにこそ、国は「平等」の原則を当てはめんとアカンのですが、「競争」の原則を当てはめて来続けているわけです。
前川さんは、そこに国の財政出動が必要で、それは当然だと強調します。
でも、それには、 私たち側の意識の改革が必要です。
今は、生活保護にしろ、シングルマザー支援にしろ、バッシングであふれ返る世相です。
税金を、そのように「困っている人」に使うことへのコンセンサスが必要です。
前川さんは、その意味でも、インクルーシブ教育が必要だと言います。
つまり、教育の場(それは学校だけではありません、地域教育、生涯教育の場)で、障がいがあったり、生活が大変だったりする子どもたちや人たちと出会うこと、そこで「大変さ」を「理屈」ではなく、皮膚感覚で知ることが大切だと言う訳です。
(学習会での前川さんの話は、それから、障がい者、またLGBTも含めての、「すべての人」に及びますが、これは別の機会に)
【解説】
このブログで使わせていただいている友岡雅弥さんの写真は、このエッセイに添えられた前川さんとのツーショット写真を加工したものです。
前川さんと友岡さんの親密さが伝わるいい写真ですね。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮