獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その88)

2024-10-24 01:30:57 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

同じ年の10月23日、湛山は甲府第一高等学校(旧・甲府中学)の大島正健彰徳碑の除幕式に招かれて出席した。友人の中村星湖も一緒であった。
青空の下、81歳になっていた湛山は祝辞を述べるために登壇した。
黒の礼服姿の右手には一本の杖を持ち、それに心持ち身体を預けるようにして壇上に立った。
「私は甲府一高の前身である甲府中学で二度ほど落第しました。落第したということは、生徒として不名誉なことで、だれも人前で言い出したくはないことです。けれども、今日、私はこのことをおこがましくも自らお話ししようと思います。その理由は、もし私がその頃、普通の勉強家であったなら、明治32年か3年には卒業していなければならなかったからです。そうだとすると、私は大島校長の顔も知らず、声も聞かず、あの先生の教育方針の根本となった、クラーク博士の遺訓なるものをも知らなかったでありましょう。事実はそれとは反対に、私は幾度か落第したために甲府中学に長く居残って、明治34年の春、大島先生が来任されてから1年間、先生の教えを受けることが出来ました。そして私は、それまでの私とはよほど違った覚悟と方針とをもってここを卒業し、その後の学生生活を営み、人生の長い道中を歩いて来ることが出来ました。……この私の落第のために中学卒業が遅れたということ、大島先生に出会ったために、学問や生活への覚悟なり方針なりを切り換えたということは、世間にありふれたことと言えば言えましょう。けれど……」ここまで静かに話してきた湛山は、突然絶句した。
無量の感慨が湛山の胸を突き上げてきたのだった。湛山は俯いて歯を食いしばると、やがて青空を見上げるように上を向いた。
星湖は、持病の喘息が起きたのでは、と慌てたが、湛山はしばらく黙り込んだ後で、再び言葉を続けた。
「……そう、不思議なことです。……実に不思議と言うよりほかはありません……」
湛山は、だがそれだけを付け加えると、静かに頭を下げて壇を降りた。
星湖は、湛山の言葉を「大島正健という名校長と巡り合ったことが自分の生涯の運命の分かれ目であった」と受け取った。そして「実に不思議と言うしかない」という結びの言葉に「奇跡的な出会い」という意味を重ねていた。湛山にとって「奇跡的な出会い」は、大島正健だけではなく、望月日謙から石田博英まで、すべてがそうであったが。
椅子に座った来賓席の人々は立ち上がって拍手を送り、整列して話を聞いていた生徒たちも大きな拍手で湛山の言葉を讃えた。

(つづく)


解説

湛山にとって「奇跡的な出会い」は、大島正健だけではなく、望月日謙から石田博英まで、すべてがそうであった

湛山は、この奇跡的な出会いのおかげで、昭和の日蓮主義の人たちのような国家主義的にならず、リベラルで偉大な政治家になったのです。

 


獅子風蓮



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