正木伸城さんは創価学会元理事長・正木正明氏の息子で、創価中学校、創価高校、創価大学と一貫して創価学園に学んだ経歴を持ち、創価学会本部職員として働いた経歴をお持ちです。
組織のあり方に疑問を持ち本部職員を退職した後も創価学会にとどまり、ライターとして活動していらっしゃるそうです。
「週刊新潮」(2022年12月1日号)に、正木伸城さんの手記が載っていました。
以下、「週刊新潮」の記事の引用をもとに解説します。
教団の「内・外」両方から
学会は公称827万世帯という会員数を誇るが、その勢力は衰え続けている。組織が名簿上把握している会員のうち実際に動いている学会員がどれだけいるかというと、かなり少ないのが現実だ。
たとえば私がリーダーだったある地域では、布教熱心な信者は青年世代で1割を切っていた。若い世代に限らず学会全体で見たとしても、実は、熱心に活動する学会員の方がマイノリティなのである。学会に所属していても、無関心だったり、ネガティブな考えを持っていたりという理由から、つかず離れずの関係を維持している層の方がはるかに多い。その傾向は、特に学会二世、三世、四世になるにつれて、顕著にみら れるのだ。
これにより、会員数の減少が臨界点に達した時に、学会はどう対応するだろうか。機関紙・聖教新聞の部数が減り、財務(お布施のようなもの)の金額も激減した時に、かつての水準を維持するために学会員に過度な負担を強いるようになったとしたら――そういう危うさについて、学会自身は自戒の意味でも「ゼロではない」と考えておいたほうがいいと思う。
たとえば創価学会は「マイ聖教運動」という活動を大きく展開していた。これは、機関紙である聖教新聞を一家で一部取るのではなく、一人あたり一部取ることを推奨する運動で、仮に五人世帯の家なら五部購読することになる。この運動は、当時すでに減少傾向にあった聖教新聞の発行部数を補うことに貢献した取り組みだったが、学会員の金銭的負担は増大した。もちろん学会員の中には宗教的使命感をもとにマイ聖教運動に参画する人も多いので、それを「負担」だと感じる人がすべてではない。が、 こういった会員の使命感にあぐらをかいて同じような構図の運動を追加していけば、会員の使命感がいつ「負担感」に変わるかわからない。もし現実にそうなるとしたら、それは「会員からの搾取」という危険な入り口に立つことを意味するし、創価学会にはそうなってほしくない。
現在、旧統一教会問題がフォーカスされている。私は同教団と創価学会がまったく同じ問題を抱えているとは考えていない。
そもそもすべての宗教がカルトであるわけではないし、宗教二世のありようも個々人で異なる。それをひとからげにして論じ続ければ、「宗教=カルト」「宗教二世=かわいそう」というイメージをただ強化するだけで終わってしまう。それでは、まっとうに宗教を信仰している人や、特段の信仰心を持たず、ただ家の宗教を継いでいるだけという人、そして信仰に適応できた宗教二世を生きづらくさせてしまいかねない。私は、そうはさせたくない。
もちろん、宗教二世が直面している状況には看過すべきではない人権問題もある。だからこそ、今般の流れをより価値のあるものにするためにも“カルト”や“反社会性”、さらには宗教がどうあるべきかについて、教団の内側、外側の両方向から議論をすることが必要なのだと感じている。
創価学会も例外ではない。私は、教団が魅力を失っているがゆえに「信者離れ」が起きていると考えているが、その現実にきちんと向き合い、教団のあるべき姿、社会で果たすべき役割を模索してほしいと思う。
【解説】
たとえば私がリーダーだったある地域では、布教 熱心な信者は青年世代で1割を切っていた。若い世代に限らず学会全体で見たとしても、実は、熱心に活動する学会員の方がマイノリティなのである。学会に所属していても、無関心だったり、ネガティブな考えを持っていたりという理由から、つかず離れずの関係を維持している層の方がはるかに多い。その傾向は、特に学会二世、三世、四世になるにつれて、顕著にみら れるのだ。
的確な現状分析だと思います。
本部職員だった人がここまで創価学会組織の衰退を認めるのは、異例のことではないでしょうか。
これにより、会員数の減少が臨界点に達した時に、学会はどう対応するだろうか。機関紙・聖教新聞の部数が減り、財務(お布施のようなもの)の金額も激減した時に、かつての水準を維持するために学会員に過度な負担を強いるようになったとしたら――そういう危うさについて、学会自身は自戒の意味でも「ゼロではない」と考えておいたほうがいいと思う。
会員数の減少が臨界点に達した時に起こる不吉な予想は、元本部職員だけあって信ぴょう性があります。
正木氏の指摘を真摯に受け止め、創価学会上層部は末端会員の悩みに真剣に向き合ってもらいたいと思います。
獅子風蓮