友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
2018年3月8日投稿
友岡雅弥
大阪の浪速区。いわゆるミナミ。豚まんで有名な(僕はシューマイのほうがすきなんですが)551の蓬莱が、本店とは別に、飲茶とかをだしているパンチャンという(むしろ本店より)大きな店があります。南海の難波駅・高島屋から、JRの湊町駅(今は、なぜかJR難波駅という名前になってますが)方向に行く途中です。
そのパンチャンの近くに、「鉄眼寺」 というお寺があります。
なんか、江戸時代的にいうと黄檗宗慈雲山瑞龍寺ということですが、親しみを込めて「てつげんじさん」と呼んではる人が多いです。
上方落語の「土橋万歳」の舞台のすぐそばです。
黄檗宗は、中国禅宗の伝統を色濃く残すので、かなり異国情緒があります。
なぜか、僕のMacの日記データの毎年9月21日の項に、「宮川左近師・鉄眼寺に」とあり、1986年9月21日に亡くなった、あの宮川左近ショーの宮川左近師がここに葬られているという記載があります。
まあ、亡くなった日に葬られたということはないので、1986年9月21日に亡くなった宮川左近師が、葬られたのは鉄眼寺ですよ、という意味でしょう。
今となっては、どういうつもりで書いたのか、分かりませんが。記録は正確、詳細を期すべきですね(反省)。
さて、宮川左近ショーといえば、ほんとうに一世を風靡した、演芸界のスターで、あの「まいど~、皆様お馴染の、お聴きくださるひと節は、流れも清き宮川の、水に漂う左近ショー」というキャッチ・ソングは、耳にしたかたもおおいでしょう。
数年前、友人が左近ショーのCDを復刻したいというので、音源を持っていらっしゃるかたを紹介し、また、左近ショーの、暁照夫先生(三味線)にもおつなぎできて、そのCDがめでたく復刻したということがあり ました。(キャッチ・ソングの別バージョンが入ってると、えらい話題になりました)
さて、今回の話は、その宮川左近ショーとは違うんですよね、これが。かなり横道にそれましたが、その宮川左近さんのお墓があるという、鉄眼寺の話です。
「黄檗宗慈雲山瑞龍寺」が、なぜ、「鉄眼寺」と呼ばれているのか、親しみを込めて、「てつげんじさん」とよばれているかの話です。
その由来は、この寺を創建というか、中興というか、実質創建というか、した、鉄眼 (1630~1682)という僧侶からです。
なぜ、親しみを込めて、浪華(浪速)のひとたちから、「てつげんじさん」と呼ばれるのか?
鉄眼といえば、2つのことが重要です。
一つは、重要無形文化財になっている、「鉄眼版一切経版木」(重文)全6956巻。
仏教の経典というのは、ずいぶん膨大で、印刷技術のない、もしくはその技術がまだ普及していなかった昔は、それを手書きで写さねばならず、たとえば、『妙法華経』は、かなり短かな経典ですが、八巻で、漢字で七万文字とかあります。
『大品般若経』とかならば、六百巻あります。文字数はうーん。
とするならば、その経典を全部書写するとかは、国家行事でなければ出来ない話。
国とか大金持ちとか(平清盛の平家納経)でなければ、できない話。
それで、鉄眼は、黄檗宗の開基・隠元に出会い、その弟子から、法を嗣ぐことになった(つまり、隠元の孫弟子となった)とき、一切経(すべての仏教経典)を、木版に彫ることを決意するのです。
一度、木版に彫ると、何部でも、増刷可能です。欲しいひとに、安価に手渡すことができる。
でも、版を作るには、木彫の職人さんがたくさん必要であり、書くよりも大変です(一度作れば、印刷できますけどね)。
それで、彼は、全国津々浦々に托鉢に出て行くわけです。
ちなみに、完成した版木は、6万枚。
横82センチ、縦26センチ、 厚さ1.8センチの桜板で、この表裏に、「20文字×10行左右見開き=400文字」で、文字が刻まれています。
「20文字×10行左右見開き=400文字」って、何か思いだしませんか?
そうです、原稿用紙です。今も使われている原稿用紙のルーツがこれなんです。この形が一番、読みやすいと、考えたわけです。
そして、書体は、今で言う明朝体なんです。これも、明朝体のルーツなんです。
一応、大学院で、インド哲学を学んでたので、この版木の収蔵庫に入ったことあります。
人間業とは思えない、膨大な手仕事に息を飲みました。
しかも、今でも刷って、安価で売ってくれるんですよ。重要無形文化財の版木から。すごいでしょう。それが鉄眼の意志だから、って。
重要文化財だからといって、秘蔵するのではなく、あくまで、たくさんの人に仏典を読んで欲しいとの、鉄眼さんの意向が、きちんと受け継がれています。
さて、これだけでは、「鉄眼さん」が浪華の人たちに親しまれている原因にはなりません。
一切経の版木を作ろうと決意した鉄眼は、全国に托鉢・勧進に向かいます。歩くこと数年。やっと、版木を彫る(ことができるだろうかなぐらいの)資金のメドが立ったとき、大坂に洪水。
鉄眼は考えました。
一切経の版木を作ろうと思ったのは、仏の教えによって、人々を救うため。ならば、それより今やることは、貧民、難民の救済ではないか。
寄付してくれた人たちの説得は大変でした。
一切経版木を作ることで、自分が功徳を積めると思っていた人々も多かった。
しかし、鉄眼は、むしろ、難民・貧民の救済こそが、仏の行いをすることになる。仏に功徳をもらうのではなく、自らが仏の行いをすることが、仏教ではないか。
それで、版木用の資金を使い果たしました。
そして、また、一から、全国托鉢・勧進。
そして、数年後、やっと、版木が作れるかな、というぐらいの寄付が集まったとき、また、近畿一円に飢饉が。
そして、鉄眼は、再び、寄進者を説得し、版木開彫を中止。
また、資金を使い果たしたのです。
そして、また、一から、全国を托鉢・勧進しました。
なんと、彼の行動に、今まで以上の寄進が集まったといいます。
そして、版木6万枚は、1678年(延宝6年)完成。
鉄眼が亡くなったのは、瑞龍寺です。
ああ、晩年は静かに、自分の寺で亡くなったのだなぁと思いはるかもしれませんが、 正反対です。
なぜ、自分の寺で亡くなったのか。
4年後の1682年(天和2年)托鉢のため江戸に赴いていた鉄眼は、近畿が大飢饉だという知らせを聴くと、すぐさま、瑞龍寺に戻り、今で言う炊き出し(米の提供)を始め、1万人以上の人々を救いました。
そして、過労で倒れ、53歳の生涯を閉じるのです。
文証より実証。理屈より行動。
どれだけ出世したかとか、どれだけ金もうけたかよりも、どれだけの人を支えたかというのが、社会での「実証」だと思いますね。
彼の生涯には、宗教者として、またひととして、学ばねばならないことが多くあるように思います。
【解説】
どれだけ出世したかとか、どれだけ金もうけたかよりも、どれだけの人を支えたかというのが、社会での「実証」だと思いますね。
彼の生涯には、宗教者として、またひととして、学ばねばならないことが多くあるように思います。
たとえ他宗(黄檗宗)の僧侶でも、評価すべきところはきちんと評価する。
以前の創価学会では考えられない、柔軟な思考のできる友岡さんを尊敬します。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮