d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。
週刊現代 2023年12月2・9日号
池田大作の光と影
創立記念日である11月16日に突如公表された池田大作名誉会長の逝去。享年95。毀誉褒貶の激しいカリスマは、「怪物」 か「聖人」か。その生涯や教えに多角的に迫る。そして公明党の行く末やいかに。
Ⅰ、名誉欲に駆られつづけた「大俗人」の生涯
溝口敦(ジャーナリスト)
総理大臣になりたかった
池田大作が公の場に姿を見せなくなってから13年。病床にあって数多くの文章を発表し、創価学会という巨大組織を動かしてきた。今年の4月にも、G7広島サミットへの提言を発表していたが、このころにはすでに長文を執筆する体力などなかったと推察される。おそらくは代作者に書かせたのであろう。
その池田大作がようやく亡くなった。
思えば、彼の生涯は青年期に抱いた俗っぽい野心を100%以上満たした人生だったのではない か。東京・下町の貧乏な家庭に育ち、若き日に新聞記者や小説家になりたいと夢見た。
その後、創価学会第2代会長・戸田城聖に出会い、創価学会に入信。戸田の下で、少年雑誌の編集を手がけ、自ら山本伸一郎というペンネームで記事も書いたという。
この雑誌は廃刊になるが、池田は戸田が設立した高利貸しを営む大蔵商事の営業部長となり、業績を好転させ、組織の中で頭角を現す。
'58年に戸田城聖が58歳で生涯を閉じた後、熾烈な抗争を制して、'60年に池田は創価学会の第3代会長に就任した。
戸田はきわめて独創性の高い指導者で、政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、現在の創価学会につながる構想はすべて彼が考えた。池田は戸田の敷設したレールの上をただ走ればよかった。
池田には、有無を言わせず部下や会員を引っ張ったり、ライバルを蹴落としたりして、戸田の描いた構想を実現する能力はあったように思うが、創価学会の拡大は、基本的には成功を約束されていたといえる。
池田は戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大させる。'64年に公明党を結成し、'67年に衆議院進出を果たした。当初の公明党は、日蓮正宗(創価学会は日蓮正宗の信徒団体の一つだった)の国教化を目指し、その象徴として国立戒壇の建立を目標とした。さらに池田は自身を「日本の最高権力者」、すなわち内閣総理大臣にするという滑稽なまでに大きな野心を抱くまでになる。
しかし、池田の野放図な野望は挫折する。'69年に出版された政治評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』に対して、出版を妨害しようとしたことが発覚。創価学会と池田への世間の糾弾の声が高まり、池田は'70年に国立戒壇を否定し、創価学会と公明党を分離すると社会に対して誓約せざるを得なくなった。
何百もの名誉学術称号
この言論出版妨害事件によって総理大臣の夢は挫折したが、それでも世界各国から何百もの名誉学術称号を授与され、若い頃に抱いた名誉欲は満たされたはずだ。俗人の抱く夢を具現化した生涯だったといえる。
ただ、信者以外の人間を感動させる力には乏しかった。小説『人間革命』をはじめ、膨大な著作を遺したが、彼の書くものはすべて陳腐で、無内容に思える。信者以外に広く長く読み継がれるものにはなるまい。
今後、池田大作という中心核をなくした創価学会は徐々に衰えていくはずだ。たとえば、立正佼成会といった他の新宗教団体のように、往時の勢いは細っていく。社会的には、信者たちの穏やかな集まりといった形態になっていくのだろう。
新宗教の栄枯盛衰というのは、概ね1世代といわれる。そういう意味では、創価学会は3代の長きにわたって興隆し、池田大作が95歳まで長生きしたことによって、教団の衰退を少し先延ばししたことにはなる。
公明党も集票力が衰えていき、今後、自民党に頼りにされることが少なくなるはずだ。自公連立政権は、いずれ別れる、別れないの愁嘆場を演じ、やはり自民党と別れる時が遠からず訪れる。自民党は日本維新の会か、国民民主党と連立を組むことになるかもしれない。
昭和に組織の土台が形作られた創価学会公明党の中心核がなくなったことは、一つの時代の区切りとなった。池田大作の死去は、昭和がいよいよ遠くなりつつあるとの感慨をもたらした出来事であった。(文中敬称略)
(つづく)
【解説】
ジャーナリストの溝口敦氏は今から半世紀前に『池田大作権力者の構造』を書いて、言論出版妨害事件直後の池田氏を「堕ちる庶民の神」と評しました。
その溝口氏が、池田氏の生涯をうまくまとめています。
獅子風蓮