石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第6章 父と子
(つづきです)
「清沢君、今度、大蔵大臣になった石渡荘太郎氏に働きかけて、大蔵省の中に『戦時経済特別調査委員会』を設置することになった」
湛山がにんまり笑いながら言うと、清沢はその意図を察して笑顔を返した。
「戦時特別……ですか。そりゃあいい。東条たちに分かったところで、まさか戦後の日本再建案を研究・立案する会合だとは気づきますまい」
「しかし、当面極秘の会合とする。変に右翼だとか、国粋的な軍人に狙われてもたまらないからね。僕の身体は一人じゃあないんだから」
「そう、日本の将来を担う大事な身体です」
「いや……。そういうことじゃあなくて……」
珍しく湛山が言いよどんだ。清沢が察したように声を上げた。
「あっ、そうか。和彦君との……」
「うん、うん。そういうことだ。だから極秘に、ね」
この年の10月から翌年の4月まで、終戦を睨んでの会合は1ヵ月に2、3回、合わせて二十数回開かれた。湛山が実質的な議長役を務め、メンバーは他に、東大教授の荒木光太郎、油本豊吉、大河内一男、東京産業大教授の中山伊知郎、日銀調査部長の井上敏夫、興銀調査部長の工藤昭四郎、正金銀行調査部長の難波勝二、事務局として大蔵省総務局長の山際正道が加わった。
こんな論争が、湛山と中山伊知郎との間で交わされたこともあった。
「あの、カイロ宣言やヤルタ協定ですがね」
カイロ宣言は、昭和18年11月に米英中の三国が「日本の無条件降伏」を要求した宣言である。またヤルタ協定は翌年2月に、クリミア半島のヤルタで開かれたチャーチル(英)、ルーズベルト(米)、スターリン(ソ)の三巨頭会談で成立した協定である。
「日本が朝鮮も台湾も満州もすべてを失って、残された本土の4島だけで果たして国民が生きていけるでしょうか。私は無理だと思います」
「いや、中山さん、それは違います。本土の4つの島だけになったら、それで生活すべきなんですよ」
「石橋さんはそんなことをおっしゃるが、この本土だけでこんなに多くの人口を抱えて食糧はどうするのですか」
「それはやり方ですよ」
「具体的におっしゃってもらわなければ分かりません」
「いいですか、領土について考えてみましょう。領土が大きいということの利益は、その中で思い切った分業が出来るということなんですよ。逆に領土が小さくて分業が出来ずに困るのは食糧の生産だけです」
「そうでしょう? だから……」
「まあ、聞いてください。その食糧生産の問題だけ克服できればですよ、今度は領土を広く持っているためにかかる費用が少なくなるのですよ」
「例えば台湾や朝鮮を持っていることは、大きな費用負担をしていることになるんです。だからヤルタ協定でもカイロ宣言でも、そうした負担を免れると考えれば、これは日本にとって大きな利益になりませんか?」
「何か詭弁ではありませんか。手品のようだ」
「違います。これは私が駆け出しの頃から、『東洋経済新報』の社論でもありました小日本主義の応用なんですよ」
「小日本主義……」
「今まで植民地にしていた国を解放することで、その国も国民も喜ぶし、日本は負担してきた費用から逃れられるではありませんか。つまりそれが利益です。その利益分のひとつを外国との貿易に使い、またひとつを国内の産業の活性化、開発に使えばいいんです。そうすれば、こんな小さな国であっても、やがて世界の経済大国として堂々とやっていけるようになりますよ。小さな領土で、大きな利益を生むのです」
中山は遂に圧倒された。他のメンバーも二人のやりとりを聞いていたが、敗戦必死の情勢の中で、湛山の堂々と、信念を持って日本経済の再生の道を説く姿に感動した。
「日本の復興は必ず成ります。そこに希望をかけて、今という最大の危機を乗り越えましょう。日本は必ず経済をもって立ち直りますよ」
20年3月9日、東京大空襲。
4月1日、米軍の沖縄上陸。
5月、ソ連が日ソ中立条約不延長を通告。
8月6日、広島に原爆投下。9日、長崎にも投下。
空襲で湛山の芝・西久保町の自宅は焼失した。
だが、湛山はこの年の4月に、このまま東京に東洋経済新報社を置いたら焼け出されてしまうとして、秋田県横手町(現在は横手市)の小さな印刷工場を買い上げ、そこに編集局の一部と印刷部門とを疎開させた。湛山は、そのまま梅子と長女の歌子、その二人の娘、 朝子と総子を連れて行った。
その直後の5月21日、清沢洌が急逝する。横手町で知らせを受けた湛山は親友の死に顔を覆って号泣した。愛児の死にも淡々としていた湛山が、である。
そして8月15日のポツダム宣言受諾と敗戦。
「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え……」
ラジオから流れる天皇の終戦の言葉を湛山が聞いたのもまた、秋田県のこの横手町であった。
【解説】
大蔵省の中に「戦時経済特別調査委員会」を設置することになった
湛山は、戦時にあって、敗戦後の経済を立て直すための会議を立ち上げました。
そこで、湛山は持論の「小日本主義」を披露するのでありました。
獅子風蓮