というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記
後記
(つづきです)
ところが、この8月22日の昼前、思いがけない人から「藤圭子が新宿のマンションの13階から投身自殺をした」という知らせが入った。
テレビをつけると、NHKのニュースでも報じられている。
私には信じられなかった。私が知っている藤圭子が自殺するとは思えなかったからだ。たとえ死の誘惑に駆られることがあっても、生の方向へ揺り戻すことのできる精神の健康さを持っているはずだった。
しかし、私が知っているのは30年以上も前の彼女だ。それ以後にどのようなことがあり、どのように変化したのかまではわからない。私はただ、藤圭子がマンションの高層階から飛び降りて自死したという事実を受け入れるより仕方がなかった。
しばらくして、お嬢さんの光さん、というより、公的存在としての宇多田ヒカルの「コメント」が、彼女のオフィシャル・サイト上で発表された。
8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。
様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。
彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。
誤解されることの多い彼女でしたが……とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。
母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。
さらに離婚をした元・夫の宇多田照實氏の「コメント」が発表されるに至り、「謎の死」は、精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげくの投身自殺、という説明で落着することになった。
ニューヨークで結婚してからの藤圭子は知らない。しかし、私の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのは忍びなかった。
私はあらためて手元に残った『流星ひとつ』のコピーを読み返した。そこには、「精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた。
私はそのコピーを、すでに定年退職している横山氏と初見氏から担当を引き継いだ、新潮社の新井久幸氏と武政桃永さんに読んでもらうことにした。
読んだ新井氏はこう言った。
「30年以上経つというのに、内容も、方法も少しも古びていません。新鮮です」
武政さんはこう言った。
「これを、宇多田ヒカルさんに読ませてあげたいと思いました」
宇多田ヒカルとほぼ同じ年齢の若い女性である武政さんの言葉は私を強く撃った。自分もどこかで同じことを感じていたように思ったからだ。
私にとって宇多田ヒカルはやはり気になる存在だった。
初めて歌声を聴いたときも驚いたし、19歳で母や祖母や伯母と同じように早い結婚をしたと知ったときも驚いた。その4年後に母や祖母や伯母と同じように離婚したことを聞いて、どのような巡り合わせなのかと心を痛めた。
さらに28歳のとき、「もっと人間活動をしたい」と音楽活動を休止したのを知って、みたび驚かされた。藤圭子が「別の生き方をしてみたい」と芸能界を引退したときと同じ年齢であり、同じような理由だったからだ。
藤圭子の死後に発表された宇多田ヒカルの「コメント」の中に、《幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました》という一文がある。
もしそうだとすれば、宇多田ヒカルはごく小さい頃から、母親である藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したことになる。
宇多田ヒカルは、かつて自身のツイッターにこんなことを書いていたという。
《「面影平野」歌うカーチャンすごくかっこ良くて美しくて、ああくそどうにかあれダウンロード(保存?)しときゃよかった…… 》
確かに、インターネット上の動画では、藤圭子のかつての美しい容姿や歌声を見たり聴いたりすることができるかもしれない。
だが、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。
28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。
かつて藤圭子が「大好きです」と手紙に書いてくれた『流星ひとつ』の「あとがき」は、いま私の手元にはない。一部だけとってあった『流星ひとつ』のコピーに、その「あとがき」は含まれていなかったからだ。
ただ、私の執筆ノートに、「あとがき」の断片ではないかと思われる文章が残されている。
これは『インタヴュー』というタイトルが最もふさわしい作品であったかもしれない。まさに、インタヴューを直接的なインタヴューとしてではなく、しかしインタヴューの生命力を残しながらいかに作品化するか。その方法への野心こそが、この作品を生み出す原動力であったからだ。
しかし、いま、私はこの作品に『流星ひとつ』という、いささか感傷的にすぎるタイトルをつけようとしている。それは、この作品の意味が、私の内部で微妙に変化してきていることを示すものかもしれない。
この作品で取り上げた主人公について、本文ではいっさいその外貌が描かれていない。 でも知っている存在だから描かなくていいと思ったのではない。方法上の制約から描けなかったのだ。
しかし、その制約がなかったとしても、私にその美しさを描き出すことができたかどうかわからない。しかも、美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。だが、この作品では、読み手にその清潔さや純粋さが充分に伝わり切らなかったのではないかという気がする。私はあまりにも「方法」を追うのに急だった。だからこそ、せめてタイトルだけは、『インタヴュー』という無味乾燥なものではなく、『流星ひとつ』というタイトルをつけたかったのだ。それが、旅立つこの作品の主人公に贈ることのできる、唯一のものだったからだ。
もっとも、最終的に書き上げられた「あとがき」はこのように生硬なものではなかった可能性が高い。おそらく、それは藤圭子に宛てた私信のようなものだったのだろう。だから、それは製本した手書きの原稿にだけ収め、作品のコピーとしてはとらなかったのではないかと思う。
この「あとがき」の執筆当時は、歌を捨てる、芸能の世界から去る、ということから「星、流れる」という言葉が浮かんだ。
しかし、いま、自死することで本当に星が流れるようにこの世を去ってしまったいま、『流星ひとつ』というタイトルは、私が藤圭子の幻の墓に手向けることのできる、たった一輪の花なのかもしれないとも思う。
2013年秋
沢木耕太郎
【解説】
藤圭子さんの自死のニュースに驚いた沢木耕太郎さんは、娘や元夫のコメントを読んで、娘の宇多田ヒカルさんが幼い頃から、彼女の精神の病気が進行していたということを知りました。
そして、彼の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのが忍びなかったのです。
だが、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。
28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。
こうして、沢木耕太郎さんは、この本『流星ひとつ』を世に出すことにしたのです。
宇多田ヒカルさんに読んでほしくて……
この本を読むと、沢木耕太郎さんのインタビュアーとしての力量を感じます。また同時に、藤圭子さんの純粋な精神と壮絶な人生を知ることができました。
インタビューの力、というものを感じました。
沢木耕太郎さん、ありがとうございました。
獅子風蓮