獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その2

2024-01-16 01:52:54 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
■ぼくの名付け親は池田大作
■創価大学へ進学、そして信仰に目覚める
□学会本部に就職、仕事や病気の悩みに直面
□組織への違和感が募り、心が引き裂かれる
□急速に冷めていった信仰熱
□好きなことで生きていく、いまの自分へ
□宗教2世の処世術をみなさんに伝えたい

 


1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴

部屋のむこう側で、母が仏壇にむかって正座をしている。ぼくは布団のなか。
部屋は、暗い。
母は「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」という言葉をくり返し、唱えている。
ロウソクの炎だけがわずかな明かりで、それがゆらゆら揺れるたびに、母の背中も揺れて見える。その姿は、神々しく感じられた。
ぼくは、安心して眠りについた――。


ぼくの名付け親は池田大作

これは、ぼくが所属する宗教にまつわる、もっとも古い記憶。
ぼくは、創価学会(仏教系の新宗教団体。新宗教とは新興宗教のこと)の2世です。
この世に生を受けたのは1981年11月で、学会に入会したのはその2ヵ月後でした。
まだ、なんの判断能力ももたない時期に学会員になったので、気がつくと「学会っ子(学会の未来を担う子)」として過ごしていました。
そんなぼくは、名を「伸城(のぶしろ)」といいます。「めずらしいな」と思った人もいらっしゃるかもしれません。
なにを隠そうこの名前は、学会員が「永遠の師匠」と慕う指導者・池田大作氏につけてもらったもの。
池田氏のペンネームは「山本伸一」で、その「伸」の一字と、池田氏の恩師・戸田城聖(とだじょうせい)氏(故人)の「城」の一字を組み合わせてつくられたのが、「伸城」という名になります。幼いころからぼくは、周囲にこういわれて育ってきました。
「この名前に恥じない生きかたをしろ」
「『伸城』の名は、戸田先生と池田先生、師と弟子の関係を象徴するものだ。学会を担う人材として育つんだぞ」
この叱咤、しびれます。いま思い返しても、なぜか手足がしびれます。

だれがぼくの命名を池田氏に依頼したのか?
ぼくの父です。
じつは、ぼくの父はけっこうな有名人で、学会の理事長、つまり組織運営上の実質的なナンバー2を務めていました(2015年に退任)。
それ以前も、学会の全国幹部を若いころから歴任。
そんな父が学会内で勢いを見せはじめたころにぼくが誕生し、「伸城」という名付けがなされました。
また、ぼくの母も地域トップクラスの幹部として活躍していました。
そのため、わが家は宗教的な“ロイヤルファミリー”だと、まわりからいわれることになります。
ぼく自身はそれを否定しましたが、特別視されることが多かったのも事実です。
こう書くと「さぞかしチヤホヤされてきたのだろう」と思われがちですが、そういう面があることは否めないものの、大幹部の息子には息子なりのつらさがあります。
いつなんどきも期待の目にさらされつづけたことは、精神的にこたえました。
それが原因でしょうか。
ぼくは年齢があがるにつれて、人格がすれていきました。


創価大学へ進学、そして信仰に目覚める

とはいえ、「すれる」といっても、子ども時代の話。両親にさからいつづけることはできません。
いつ志願したのかは覚えていないのですが、ぼくは、気がつけば創価中学を受験することになっていました。
創価中学・高校をふくめた創価学園は、学会員の子弟にとってあこがれの世界。小学生時代を公立の学校で過ごしたぼくは、受験戦争に身を投じました。
そして首尾よく合格。創価学園での生活がはじまり、その後は創価中学から創価高校へ、エスカレーター式に進学します。
ただ、創価大学に進むことには、中学受験のころとおなじように「このまま行こう!」とは思えませんでした。創価学会の信仰にたいするぼくの反発がピークに達したからです。ところが、ここで父の説得にあいます。
結局ぼくは、妥協して創価大学に進学。そこで信仰に熱心な多くの先輩に説得され、創価学会の活動、いわゆる「学会活動」に巻きこまれていきます。
すると人間とは不思議なもので、あれだけ嫌いだった信心(しんじん)にのめりこんでいったのです。

学会活動に目覚めたのは19歳になる年でした。
その1年後には、学会員が集まる会合の最前線でみんなを鼓舞し、小さな規模のリーダーではありますが、組織で指揮を執るようになっていました。布教活動にも没頭します。大学3年、4年になるにつれて、創価大学内でも中心的な存在になっていきます。ぼくは創価大学の30期生ですが、その30期生の幹事にも就任し、大勢の前で指導的な話をする機会も急増していきました(偉そうで申し訳ないかぎり)。
当時のぼくの気概は、「広宣流布(こうせんるふ)は俺がやる!」という隆々(りゅうりゅう)たるもの。
「広宣流布」とは、創価学会でいう「世界平和」のような意味をもつ言葉です。教えが広まる(流布する)ことで実現される平和な状態を指す単語だと、ここでは理解してください。
その達成を「俺がやる!」と豪語していたのです。若気の至りとはいえ、強力な志を抱いていました。
このころ、大学で中心的な存在になっていたこともあって、指導者・池田氏にひんぱんに会う機会にもめぐまれます。そのたびに「先生! 見ていてください! ぼくは先生にご安心していただける弟子になります!」と心のなかで宣言していました。

(つづく)


解説
理事長の息子という立場で、親から進路のことで「説得」され、いやいや進学した創価大学で信仰に目覚めてしまった。
そこから、無理がはじまったのですね。

私は、彼のような学会内のエリートの家に生まれなくて良かったのかもしれない、と思いました。

 


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その1

2024-01-15 01:43:26 | 正木伸城

昨年末の最後の記事で、次のように書きました。

友岡さんの言葉は、現在の創価学会のあり方に疑問を持つ人にとって、大きな力になります。
ネットを中心に創価学会に批判的な発言を積極的にしている正木伸城氏も、友岡さんから影響を受けた人の一人です。
今は亡き友岡さんを中心に、点と点を結び、面となって、創価学会を根底から改革する動きが始まることを期待しています。

 

正木伸城『宗教2世サバイバルガイド-ぼくたちが自分の人生を生きるためにできること』(ダイヤモンド社、2023.06)

この本を読むと、正木伸城さんが友岡さんの影響を受けていることが分かります。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 


はじめに

みなさん、こんにちは。 正木伸城(まさきのぶしろ)です。
本書を手にとっていただきありがとうございます。

この本は、あなたのためのサバイバル処世術ガイドです。
ぼくが宗教2世として、しがらみや困難を乗り越えるなかで得た、ありったけの知見をここに込めました。

みなさんは、宗教2世というと、どのようなイメージを抱くでしょうか。
2022年に統一教会問題が注目を集め、宗教2世の被害が広く知られるようになりま した。なかには、虐待と受けとれるものもあります。
そうした環境で、いまも昔も、少なからぬ宗教2世が苦しみを抱いてきました。
そのため、宗教2世は現在、「かわいそうな人」だったり、好奇の目で見られる傾向にあります。

ぼくは、そのような人の気持ちを少しでも軽くし、彼ら彼女らが将来にたいして、より多彩な可能性を抱けるようにと願っています。
宗教2世のなかには、教団や親の影響で自分の未来を制限されている人がいます。一般家庭ではあり得ない苦労をしている人もいます。
ぼくの経験でいえば、こんなことがあげられます。

・信仰活動の影響で親から厳しい躾を受けた
・一般社会と教団の価値観のズレに苦悩した
・信仰が原因で友人関係に摩擦が生まれ、失恋も体験した
・進学先の制限や転職の困難に直面した
・信仰上のことで気をもんでうつ病を発症した
・教団の理想と組織の現実との間で葛藤にさいなまれた
・信仰をめぐって親と大喧嘩した

正直、けっこう悩んできました。
自分の人生や出自を100万回くらい呪ったと思います。

とくにぼくは、大学卒業後は新卒で宗教団体の職員となり、約13年間そこで働きました。そのため、宗教団体をやめて転職すること、またキャリアアップをしていくことが文字どおりの「死闘」になりました。
でも、いまは好きな自分で、好きなことをして生きています。宗教2世のサバイバル術が活きたのです。
ぼくは、信仰活動も手放しました。

読者のみなさんには、そんなぼくの人生、宗教2世の生きづらさに苦しんだ数々のエピソードと、そこで編み出した生存戦略から、いま・ここをうまく生き延びるヒントをくみとっていただけたらうれしいです。

ここで、お断りをさせてください。
ぼくは所属教団を代表する人間ではありません。本書でしるす経験が、教団の内実すべてを表すわけではありません。
本書に出てくる話は、基本、ぼくという信者の一事例です。おなじ宗教2世であっても、体験や感情は個人によって異なります。ここは押さえておいてください。
また、各章に出てくる話に凄惨さを感じたからといって、「だから、この教団は悪だ!」と断定してしまうのも、道理として違っていると思います。
ぼくには、「信仰から離れましょう」「脱会しましょう」というように、読者のみなさんを特定の進路にみちびきたいという意図もありません。
宗教2世といっても状況はいろいろです。ドロップアウトが正解とはかぎりません。生き方は、多彩であっていい。

くわえて、本書でまとめたぼくのサバイバル術は、決して“万能薬”ではありません。宗教2世の読者のなかには、本書を読んで「そう簡単にはいかないよ……」と感じる人もいるでしょう。
宗教2世の苦しみには、容易に解消されないものがあります。ハウツーではどうにもならない、一筋縄ではいかないものもある。ぼくも、そのことは自覚しています。
それでも、なにもいわないよりは発信したほうがいいと思って筆を執りました。

ぼくの願いは、ただただ宗教2世の人々が、おのおのの事情に即して、自分にとって最適な道を歩んでほしいということ、それだけです。
みずからの人生を、みずからの手でハンドリングしてほしい。
もしもあなたが、教団や親などが「よし」とする人生に合わせて無理をして生きているのだとしたら、一度立ち止まって考えてみることも大切かもしれません。

あなたの人生は、教団のものでも、親のものでもなく、あなたのものです。
あなたは、あなたの本音で生きていい。

この書籍がそのきっかけになれば幸いです。
前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。
終章でみなさんと再会できるのを楽しみにしています。

 


解説
本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。

次回からは、そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで引用してみたいと思います。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その3

2024-01-14 01:25:34 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
■一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


一杯目の火酒

 

   3

__おっ、やっと、酒がきた。遅くなって申しわけない。……と、ぼくが謝まる筋合いじゃないけど、ね。

「そう、仕方ない」

__きっと、そのレモンを、カリフォルニアから輸入してたんだろうね。

「フフフ。あまり面白くないけど、そうかもしれないね」

__なるほど。そうやって、大量にレモンを絞り込むところを見ると、酒を呑むというより、酒割りレモンを呑むという感じなのかな。

「うん、あまり強くないから、あたし」

__いつもウォッカを呑んでいるの?

「そうでもないんだけど」

__ウォッカ・トニックじゃないときは、何を呑んでるのかな。

「ふだんはね、ワイン。ワインじゃなければウォッカということにしてるんだ」

__ワインが好きなわけ?

「どうなんだろう。ワインなら呑みやすいということなのかな」

__ウィスキーとかビールとかは全然やらないの?

「うん、苦いだけで、ちっともおいしくない」

__ワインはおいしい?

「おいしいかどうかわからないけど、ワインなら呑めるんだよね、これが」

__でも、藤圭子にワインというのは、何かそぐわない気がするな。

「そうかなあ……だったら、 何だったらいい?」

__そうだなあ……そう言われてみるとわからないもんですねえ。日本酒というのも、いかにもという感じだし、焼酎というわけにもいかないし、ブランデーもバーボンもあまり似合わないし……。

「らしい酒、なんてないんだよ」

__そうかもしれない。あなたが酒を呑むということ自体が、どこかそぐわない気がするし、かといって呑まないと言われたら、ほんとかいって言いたくなるだろうし、まったく不思議ですね。

「不思議でも何でもないけど、らしいとか、らしくないとか、みんなに勝手に決めつけられちゃうんだよね、あたしたちって」

__わずらわしい?

「仕方ないと思っているから」

__では、まず、乾杯ということにしますか。何に乾杯だか、よくわからないけど。

「うん」

__今夜はよろしく、乾杯!

「では、こちらも、あらためて……初めまして!」

__いや、それは違うんだ。

「えっ?」

__それは違うんですよ。

「何が?」

__初めてじゃないんです。

「初めてじゃない?」

__そう、初めてじゃないんだな、藤圭子さんとお会いするのは。

「ああ、そうか。それは、そうだよ。このあいだ、偶然、銀座で会っているからね。でも、こうやって、あらためて会うのは初めてだから」

__いや、それが違うんだ。

「どう違うの」

__このあいだ、銀座の酒場で会ったのが初めてじゃないんですよ。

「ほんと?」

__その前に一度、会ってるんです。

「冗談じゃなくて?」

__もちろん。

「……」

__あなたと、一度、しっかり会ったことがあるんだなあ。

「どこでだろう……わからない」

__わからない?

「わからない」

__当然だけどね、わからなくて。

「どこで会ったの?」

__どこでしょう。……なんて、クイズごっこをしてもしようがないけど……パリで。

「パリ?」

__そう、パリ。

「いつ?」

__5年前になるかなあ。

「5年前に……パリで……ほんと?」

__ほんとに。嘘じゃない。5年前の冬、パリに行かなかった?

「えーと、5年前……。うん、確かにパリへ行った」

__中年の男性ひとり、あなたと同じくらいの年恰好の女の子、それとあなた。3人だったよね。

「うん、そう、間違いない。そのとき、会ってるの? ほんと? 沢木さんもパリにいたの? 旅行か何かで?」

__旅行といえば旅行なんだけど、1年もいたから、旅行という感じじゃあなくなっていましたけどね。

「1年もパリにいたの」

__あっ、そうじゃないんだ。パリにだけいたわけじゃない。香港から始まって、東南アジア、インド、中近東、地中海沿岸、スペイン、フランスと転々としているうちに、1年が過ぎていたということだったんで……。

「仕事で、そんなにいろいろの国を旅行していたの?」

__いや、仕事じゃなかった。

「それじゃあ、遊び?」

__うーん、何と言ったらいいのかな。遊びには違いないんだろうけど……もう少し、切実な感じはあった。まあ、日本を出たかったんだろうな。日本を離れたかったんですね、どうしても。

「なぜ? どうして離れたかったの?」

__それを説明していると、一晩中かかるかもしれないから。

「あたしは構わないけどな」

__こっちが構う。そんなことしてたら、あなたから何も聞けないうちに、夜が更けてしまう。

「そっちの話の方が、よっぽど面白そうだよ」

__これはあなたに対するインタヴューなんだから……。

「インタヴューなんてつまらないよ、やめてそっちの話を聞かせてよ」

__困りましたね……まあ、どうでもいいんだけど……えーと、どこまで話は進んでたんだっけ?

「5年前の冬、パリで会ったことがあるって」

__そう、そうなんだ。転々としているうちに、パリに辿り着いたわけですよ。着いたときには、もう疲労困憊していたし、金もほとんどなくなっていたし、精神的にもかなり、そこここがほころびていてね、日本に帰ろうかなと、ふと思いはじめていたんですね。しかし、とりあえず、目的地のロンドンまで行き、オランダやドイツを廻って、またパリに戻ってきた。そこでさすがに終わりにしようと思って、有り金をはたいてパリの裏町で安いアエロフロートの航空券を買った、日本までの、ね。何万円とかいう、3万だったか5万だったか、とにかくベラ棒な安さなんだけど、それがひどいチケットでね。チケットに他人の名前が書き込んである。しかも女の名前なんですよ。万一、空港でチェックされて、乗れないようだったら、金は返してくれるというので買ったんだけどね。

「そんな切符があるの……」

__パリに飛行機で来て、金がなくなって、帰りのチケットを売り払ったりする奴が結構いたんですよ、当時は。そのチケットの売買をしてなにがしかを儲けてる奴が、これまたいた。

「面白いね」

__そのブローカーが言うには、オルリー空港はチェックがきつくないんで他人名義のチケットでも平気だ、いままで失敗した奴はいない、なんて感じでね。でも、アエロフロートは安売りの切符を乱発していたから、当然、予約は取れないわけ。かりに取れたとしても、僕の名前で予約したらいいのか、そのチケットの名義人の名前で予約したらいいのかわからないから、同じことだったんだけど……とにかく、ドサクサに紛れた方がいいだろうとブローカーも言うので、予約なしのままオルリー空港へ行ったんですね。

「他人の切符なんかで、ほんとに乗れるの?」

__自信はなかったけど、もうそのチケットで帰らなければ、永遠に日本へは帰れないだろうなんて、悲愴な気分になってたりしてね。いま考えれば、大袈裟すぎるんだけど、そのときは必死で、とにかくオルリー空港に行ったんですよ。

「だって、最初に、パスポートと飛行機の切符を、スタンプを押してくれるカウンターの人に見せない?」

__オルリーは、そんなことしないと言うのさ。

「そうだったかなあ」

__ぼくも不安だから、ビクビクしてたんだけど、これがほんとにパスポートしか見なかったんですよ、出入国を管理しているカウンターではね。普通、ぼくたちの感覚では、飛行機会社のカウンターのオーケーがなければ、出入国の許可は下りないと思うんだけど、オルリーは違うんだ。空席待ちでも通してしまう。それを知らないもんだから、パスポートに出国のハンコをもらって、これなら大丈夫と胸をなでおろしてね、喜び勇んでアエロフロートの飛行機がとまっているゲートに急いだのさ。長い通路を歩いて……ゲートに着いたら、そこにまた飛行機会社のカウンターがあって、そこで座席の管理をしているわけ。外のカウンターでは乗れそうなことを言っていたのに、そこにいるオネエさんたちは、ひどく無情なことを言うんだよね。今日は本当の満席だから、予約の取れてない人は、まず無理だろう、なんてさ。無理だろうと言われたって、もう出国のハンコはもらってしまったんだし、こっちとしてはもう次なんかないわけさ。必死に喰い下がったんだけど、どうしようもないと冷く言われてね、ガックリしてたんだ。でも、もしかしたら、可能性はほとんどないけど、あるいは空席が出るかもしれないから待ってみるがいい、と言うので、なかば諦めつつ、カウンターの傍の椅子に腰をかけたんだ。ああ、ぼくは、これでついに日本に帰ることはできないのか、哀れパリの土塊となって果てるのか. なんて馬鹿なことを思ったりしてね。

「可哀そうに」

__ハハハッ。可哀そうというほどのことじゃないんだけど……だって、もっと可哀そうな人々もいたことだし……。

「えっ?」

__いや、まあ、いい。……とにかく、そうやって待っていたんですよね、椅子に坐って。予約のある人は、搭乗していくわけ、どんどんと。恐らく、ぼくはうらめしそうな眼つきをして見ていたと思うんだ。予約のある奴はもう来るな、って心の中で念じてたんだから。ひとりでも少なければ、それだけぼくも乗れる確率が高くなるわけじゃないですか。来るな、来るな、って念じながら、ぼんやり通路の方を眺めてたら、日本人らしい女の子が来たんですね。この野郎、こっちへ来るな、こっちへ来るな、と思ってるのに、どんどんこっちへ近づいてくる。で、何気なく、顔を見たわけですよ。すると、それが、驚くほど幼い、でも整った、人形のような顔をした少女だった。そのとき、久し振りに日本の女の子を見たような気がしたんだな。もちろん、そんなはずはないんだよ。パリでも、日本の女の子はいろいろなところで見ていたはずだから、ね。でも、なぜか、久し振りのような気がしたんだなあ。その子はね、いまもよく覚えているんだけど、黄色のオーバーを着ていたんだ。その黄色いオーバーの、胸のあたりだったかな、手のひらくらいの広さに泥のようなものがついていたんだ。どうしてそんなのがついているのか、理由はわからなかったけど、黄色のオーバーについているその泥が、鮮やかに眼に入ってきた。

「泥がねえ……」

__そう、泥。そのとき、全然、まったく脈絡なしに、その子がいじらしくなってきたんですよ。

「どうして?」

__なんと言うか……こう思ったんですね。この少女は、きっと、田舎から都会に出てきて、パーマ屋さんかなんかで働いて、何年か給料を貯めて、ようやく憧れのパリに来ることができた、アエロフロートの安いチケットを買ってね。

「どうして、田舎から出てきたって、わかるの?」

__その黄色いオーバーが、なんとなく野暮ったかった。確たる理由はないんだけど、それを見てそんなふうに思ったんだろうな。でも、その少女の顔は実に綺麗だった。色が白くて、肌のきめが細かそうで、博多人形みたいだった。その子を見たら、そうだ、ぼくも早く日本に帰らなければ、なんてますます里心がついたりしてね。

「へえ」

__その子の後にね、もうひとり同じ年恰好の少女がいて、この子も色が白くて美しい顔立ちなんだ。さらに、その後に中年の男性がいて、その人がアエロフロートのカウンターに行って、例のオネエさんたちと話そうとした。だけど言葉が通じないらしくて、ゴタゴタしてるんだよ。もしかしたら、この人はパーマ屋さんの引率の人で、言葉がわからないのかもしれないと思って、近くには他に誰も日本人はいないし、困るだろうと思って、近づいて行って、アエロフロートのオネエさんに事情を訊くと、あの人たちは予約が入っていないので、ウェイティングしてもらうより仕方ないのだが、よく理解できないらしい、というわけさ。そこで、少しおせっかいとは思ったけど、ちょっと離れたところにいた3人に近寄って、どうやら出発間際まで待つより仕方ないようですよ、と事情を説明してあげた……。

「あっ!」

__男の人は、明日から仕事だからとか、予約してあったはずだとか、いろいろ言ってたけど、ぼくには関係ないことだから、また自分の椅子に坐って、ぼんやりしてた。

「そう言えば……」

__清潔そうで、日本の女の子って綺麗なものだなあ、なんて思ったりしながら、チラチラとその子たちを盗み見してね。

「そう言えば、あのとき……」

__客はどんどん搭乗していくんですよね。こっちはそれをハラハラしながら見守るだけ。どうなることかと心配してたけど、一方では、ぼくが駄目なら、あの子たちも乗れないんだから、まあいい、あの子たちと同じパリにとどまるなら、なんて考えてもいたんだ。

「あのとき、そうか……」

__出発時刻になって、アエロフロートのオネエさんたちが呼ぶわけですよ、ぼくより前にウェイティングしてた人の名を、ひとりひとり、ね。その声が、だんだん間遠になっていって、あとひとりだけ、もうひとりは大丈夫、というふうな感じでオネエさん方が協議しつつ、呼ぶ。もう駄目かな、もう搭乗口は閉められちゃうかな、危ういぞという頃になって、ついにぼくの名が呼ばれた。喜び勇んで搭乗券をもらって入って行こうとしたら、例の女の子3人組も一緒に入ろうとして、オネエさんたちに制止されているんだよ。ぼくは搭乗口から飛行機に入りかけたんだけど、3人が途方に暮れているようなんで、引き返してオネエさんに訊くと、ぼくのが最後の一席で、この人たちにはもう今日は乗れないからと言ってるんだが、と肩をすくめるのさ。そこでぼくは、彼女の言ってることを3人に伝えて、残念だけど今日は乗れないから、次のフライトを待つより 仕方ないようだと言ったんだ。3人はぼくの話に真剣に耳を傾けていたんだけど、そう伝えるとずいぶんガッカリしたような表情になってね。ああ、可哀そうに、明日か明後日にはパーマ屋さんが始まってしまうんだろうな、なんて思いながら、じゃあ、と挨拶して、搭乗口に向かい、飛行機に乗り込もうとして、あれっ、と思ったんだよね。あれっ、もしかしたら、あの子、って思ったんだ。立ち止まって、振り向いて、もう一度、 その黄色いオーバーの女の子を見たら、やっぱり、間違いなく、藤圭子だった。

「そう言えば……あのとき……そういうことがあった。そのときの男の人の顔は……もう覚えてないけど……そう、あのとき、飛行機に乗れなくて……そうだよ、そう、若い男の人がいろいろ言ってきてくれたことがあった、うん、そうだ……そうか、そのときの男の人が、あの男の人が……沢木さんなのか!」

__そう、そのときの男、なんですね、これが。

「ほんとに!」

__ぼくはとにかく飛行機に乗れましてね。ギューギュー詰めで、便所に行くのも大変というくらいでね。それでも機内食には安物のキャビアが出て、ワインなんかでそれを食べながら、さっきは、どうして藤圭子のことを最後まで気がつかなかったんだろう、なんてことを考えてた。あまりにも、実物が清潔そうだったからかな、とかいろいろね。しかし、ぼくは藤圭子の歌が好きだったから、たった1年くらい日本のテレビを見てないからといって、わからなかったのが不思議なんだけどね。シベリアの大雪原の上を飛びながら、女の子の黄色いオーバーを思い浮べているうちに、ああ、ぼくは日本に帰るんだな、と腹の底から感じたというわけですよ。

「そうだ、あの頃、黄色いオーバー着ていたなあ。黄色というかオレンジ色というか……」

__そう、着てた。

「そうか、あのときの男の人なのか。へえ、そうなのか……でも、不思議だね。人って、そんなふうにして、知らないうちに、会ったり別れたりしているんだね。そうなんだね……不思議だね」

__ほんとに不思議ですね。

「沢木さんは、どうしてそんなに長く、あっちこっち旅行してたの?」

__自分でも、よくわかっていない部分があってね」

「自分でわからないの?」

__そうだなあ……わかっていたのは、とにかく日本を起点として、少しずつ日本から離れていこう、ということだけだったな。ひとつひとつ国境を越えて行って……そうしたら、いつの間にか パリに着いてた。

「いくつくらいの国に行った?」

__その旅では、30くらいかな。

「凄いね」

__全然すごくはないけど、一生のうちに、そう何度もできる旅じゃなかったとは思う。
「そんなに大変だったの?」

__とにかく金がなかった。有り金を全部あわせても、日本を出発するとき、2000ドル弱しかなかったからね。それで1年間、なんとか食っていたんだから……。

「そんなんで、生きていけた?」

__生きられたから、オルリー空港であなたと会えた。

「それはそうだけど」

__うん、なんとか生きていけた。ギリシャまでの生活費はとてつもなく安かったからね。宿は安いし、食物も安いし、それに……そうだ、酒もないしね。

「お酒がないの?」

__そう、インドとか中近東は、ね。酒をふたたび呑みはじめたのは、ギリシャからじゃなかったかな。そう、ウゾーという強い酒があってね。それから先は……ワインの天下だもんな、あなたの好きな。

「いろんな国のワイン、呑んだ?」

__呑んだ。それまで、ワインって、あまり好きじゃなかったんだ、ぼくは。でも、イタリアでもスペインでもポルトガルでも、もちろんフランスでも、ワイン、ワインじゃないですか。毎日呑みつづけているうちに、ないと寂しくなるようになってね。人間の味覚なんて、いい加減なものだから。

「どこのワインが一番おいしかった?」

__どこの何という銘柄、というようなワインは、まったく呑んだことがなかった。

「そうか、貧乏だったわけだからね」

__確かに、貧乏だったから。でもね、安い飯屋の定食についてくる、その飯屋独特のワインっていうのは、どこの国でも、軽くて癖がなくって、ほんとにおいしいんだ。

「へえ、そうなの」

__要するに水のようなものなんだろうからね。ボリュームで勝負してるような肉料理には、不思議と合うわけさ。

「そう……あたしも、普段は御飯に漬物があれば、ほかに何もいらない方なんだけど、ワインを呑むときは、肉が食べたいような気がするんだ。あれ、どういうんだろう。ほんとに不思議なんだけど」

__マラガ、っていう町があってね。

「マラガ?」

__マラガ。

「どこ? それ」

__スペイン。スペインの地中海岸にある、避暑地なんだけど……。

「ちょっと待って、あたし、地理に弱くて、よくわかんないんだ。地中海っていうと……」

__そうか、えーと……ここに、ヨーロッパが、こうあるとするでしょ……この辺がフランスで、ここがパリとすると……こっち側にアフリカ大陸があって、その両方にはさまれた海が、地中海。マラガは、ここがスペインとすると、このあたりかな。

「わかった。そこが、マラガ、って言うんだね」

__そう。そこでね、ほんとにおいしいワインを呑んだことがあるんだ。居酒屋なんだけどね、そこは。

「居酒屋なんてあるの、そんなとこに」

__ぼくも知らなかったんだけどね。スペインには、バルといって立ち喰いをしつつ呑む店はどこにもいっぱいあるんだけど、そこみたいな居酒屋風の呑み屋はぼくにも初めてだった。町をぶらぶらしていたら、喉が渇いてきてね。夕方から夜になろうという時間だったもんで、ジュースってわけにもいかないな、なんて思っていたら、その居酒屋が眼についたんだ。

「居酒屋って、どういう感じの店なの?」

__細長い店で、カウンターが一本、奥に走っていて、客はその前で立って呑む。日本風のバーを、もっと大きく広びろとしたもの、と言ったらいいのかな。違うところといえば、壁に洋酒の瓶が並んでいるかわりに何十本もの樽が積み上げられている、ってことかな。端から端まで、ダーツと並べてある。

「樽って、どんな樽?」

__ビア樽と同じような、木でできた古めかしいワインの樽。それが、壁際に沢山あるわけ。初めはね、どうしてそんなに並べなければいけないのか、と思っていたんだ。意味がわからなかった。日本にもよくあるじゃない、同じ銘柄のウィスキーの瓶を意味もなく無数に並べている店が。あれと同じなのかなと思っていたんだけど……。

「違ってたんだ」

__違ってた。20本か30本ある樽の中の酒は、全部、違う種類のワインだったのさ。

「全部?」

__そう、全部。樽に銘柄が書いてあって、注文すると、その樽から栓を抜いて、グラスに一杯、注いでくれるんだ。

「グラス売りをしてくれるんだね」

__そう、グラス一杯、5ペセタ。

「5ペセタって、いくらくらい?」

__当時のレートで……25円くらいかな。

「安いねえ」

__そうだね。そこには、ほんとにいろいろな種類のワインがあって、こっちはよくわからないから、あれとかこれとか指さすだけなんだけど、そうすると親父が黙ってグラスに注いでくれるんだ。甘ったるいのやら、どろりとしたのやら、いままで呑んだこともないようなのを出してくれるのさ。

「素敵だなあ!」

__それにね、カウンターの横にね、じいさんがひとりいて、大きなザルを前にして立っているんだよね。カウンターをはさんで、店の側じゃなくて、客のいる側に、ね。店の奥の方なんだけど。そのじいさんのザルには、かなり大きなハマグリがいっぱい入っている。そこに呑みにきた客に、売っているんだね。どうも、経営は独立採算制のようで、そのじいさんが自分で浜からとってきて、そこで売らしてもらっているようなんだ。潮にやけた、いい肌の色をしているんだよ、そのじいさん。

「そのハマグリ、どうするの?」

__客がその場で食べるんだ、酒の肴として。じいさんに、5ペセタ渡すと、ハマグリの貝を小刀でこじあけ、中身を三つに切って、サッとレモンをかけて渡してくれる。

「生で食べるの」

__うん。

「日本の刺身みたいに?」

__そう。それだけなんだけど、おいしいんだ、新鮮で。じいさんは、その間、ひとこともしゃべらないんだけど、その手際のいいことと、レモンを絞る感じが、なんともいえず粋なんだ。ガキっとこじあけ、プツプツンと切り、シュッと絞って、スッと差し出す……。

「いいなあ!」

__いいんだよ、とても。

「行ってみたいなあ、そんなところに」

__行ってみたい?」

「とっても行ってみたいよ。行って、自分の眼で確かめてみたい」

__あなたの眼で確かめたい? 本当にそんなふうに思うの?

「思うよ、ほんとに。そんな旅行をしてみたかったんだ、あたしも。そんなふうにして生きて……でも、やろうと思えば、もうできるんだよね、あたしも。そうなんだ、できるんだ」

 

 

 

 


解説
沢木耕太郎さんは新しいこころみとして、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切るという方法をとることに決めました。

たとえば、冒頭の文章は、著書ではこのようになっています。

「呑み物は、どうします? 酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」

でも、これって、読みづらいんです。
膨大な会話の途中で読み始めると、どれが誰の発言か分からなくなります。
なので、私の記事では、沢木耕太郎さんの発言のみ__(アンダーバー)を頭に付けて、区別するようにしました。
また、会話と会話の間に1行いれて、読みやすいようにしました。

 

__初めてじゃないんだな、藤圭子さんとお会いするのは。

沢木耕太郎さんは、今回が初めてではないことを話します。
以前、偶然にもフランスの空港で会っていたと。


「沢木さんは、どうしてそんなに長く、あっちこっち旅行してたの?」
__自分でも、よくわかっていない部分があってね」
「自分でわからないの?」
__そうだなあ……わかっていたのは、とにかく日本を起点として、少しずつ日本から離れていこう、ということだけだったな。ひとつひとつ国境を越えて行って……そうしたら、いつの間にか パリに着いてた。

この旅のことは、その後本に書いていますね。
沢木耕太郎『深夜特急 全6巻』。
長女に勧められて読みました。
面白かったです。

 

獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その2

2024-01-13 01:56:37 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
■一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


一杯目の火酒

 

   2

__あなたの手記、というやつが載ってる記事がありましてね、ここにそのコピーがある。

「手記?」

__タイトルは〈私の引退について最後に明かしたい事〉というんだけど。

「そんなの書いたことないよ、あたし。嘘だなあ、いやだなあ、ほんとに情けなくなるよ」

__竹山純子、って本名のサインもある。これ、あなたの筆蹟でしょ?

「本名のサインを下さいっていうんで、そのへんの紙に書いただけなのに……」

__たとえば、あなたと噂されたプロ野球の選手に関して、〈あれはもう終ってしまったことで、私の中に何の痕跡も残していません〉と書かれてあるんだけど、そんなこと書いてない?

「うん、絶対に。あたしなら、そんな言い方はしないと思う」

__あなただったら、どういう言い方になるの?

「……」

__しゃべりにくい?

「ひとことじゃ、無理だよ」

__もちろん、ひとことじゃなくても、結構ですよ、こちらは。

「……」

__オーケー、わかった。話題を変えましょう。

「わざとらしく変えなくてもいいけど……」

__ハハハッ。でも、いい。

「うん……」

__だけど、こんなふうにして、あなたたちの挿話とか伝説が作られていくんだということが、よくわかるな。それにしても、あなたは、実にいろいろな挿話が語られてきたけど、それもどうやら怪しくなってきた。

「たとえば、どんなの?」

__そうですねえ……たとえば……そう、あなたがね、楽屋で鏡を見ながら、これで憂い顔に見えるかしらって、ひとりごとを言ってたとか。

「ありえないね、そんなこと」

__絶対に?

「だって、その話の意味っていうのは、そうやって自分を作ってた、というんでしょ? その頃も、いまも、自分を作るなんて考えたこともないもん」

__そうか。

「そういうのって、ほかにも似たような話があるんだよね。このあいだ、俳優の石立鉄男さんに会ったら、同じようなこと言うんだよね。あたしがデビューしたての頃、マネージャーがね、この子はちょっと眼を離すとすぐ明るくなるんで困るんですって、こぼしたらしいの。いや、そうこぼしたって書いてある本だか雑誌だかを、石立さんが読んだんだって」

__その話、かなり有名な伝説なんだけど、あなたは知らなかったの?

「石立さんに言われて、初めて知ったの。それで、まさか、そんなことがあるわけないじゃないですか、と言って笑ったんだ」

__へえ、それは面白い。

「そういう話って、こっちの知らないところで、勝手に作られちゃうんだよね」

__話はよくできているんだけどな。

「ありえないよ、そんなこと」

__そうかな。

「たとえばさ、あたしの歌を、怨みの歌だとか、怨歌だとか、いろいろ言ってたけど、あたしにはまるで関係なかったよ。あたしはただ歌っていただけ」

__そこに、あなたの思い、みたいなものはこもっていなかった?

「全然、少しも」

__何を考えながら歌ってたのかな?

「何も」

__何も?

「ただ歌ってた」

__何も考えずに、何も思わずに?

「うん」

__ほんと?

「無心だったんだよ」

__無心?

「それがよかったんだと思う。デビューしたての頃、ほんとに、あたし無心だった。無心でやってるときが一番いいみたい、なんでも、あたしは。歌もそうだし……麻雀もそうだなあ」

__麻雀をやるの、あなたは。

「最近はやらないけど、ね」

__どこで覚えたの?

「沢ノ井さんの家に下宿していて覚えたんだ」

__沢ノ井さんて、沢ノ井龍二さんのこと?

「そう。下宿してたのは二階だったんだけど、下で麻雀が始まって、面子が足りなくなると、すぐ呼ばれるわけ」

__簡単に覚えられた?

「すぐ。ほんとに、すぐ覚えた。覚えないわけにいかなかったの。一回ざっとルールを教えてもらって、二回目からは本式のをやらされたから。でも、そうやっているうちに覚えた。ほんと、あっという間だった」

__賭けて?

「もちろんよ。安い麻雀だったけど、ちゃんとお金を賭けてたよ。その頃だろうな、あたしがいちばん強かった時代は。だって、負けても払うお金がないんだから。たった十円もない。だから、必死になって、負けないように打ってた。しかし、不思議と負けなかったんだ、これが」

__凄いね。

「その頃のことを知ってる人は、まだ強いと思い込んでるの。でも、もう駄目。あの頃の必死さがないもん。勝っても負けてもどっちでもいいでしょ、いまは。だから駄目。楽しめればいいとか、手の内をどうにかしようなんて考えるようになったら、ほんと勝てなくなった。昔は、必死にやってたから」

__なるほど。

「競馬も同じ。馬のことなんか何も知らないときは、とてもよく当たってた。ほとんど勘だけなんだよ。すごく勘が鋭かったと、自分でも驚くくらいがよかった。でも、馬についてなんとかわかるようになったら的中しなくなった。歌もそう。無心で歌っているときが一番いいときだったんだろうね」

__無心かどうかはわからなかったけど、あの頃のあなたはいつでも無表情に歌ってたという印象はあるな。

「うん……」

__さみしそうで、つまらなさそうで、それでいて無表情のような……不思議と記憶に残る顔だった。いま、眼の前にいるあなたより、むしろ鮮かなくらい。

「それはひどいなあ」

__ふだんでも、あんな顔してたの?

「それが地顔なんだ、あたしの」

__地顔、ですか。

「あたしが、何も考えないでぼんやりしていると、どうしたの、何かあったの、なんて人から言われるんだ」

__別に、どうもしないのに?

「そう。あたしのお母さんもよく言われたんだって。ぼんやりしてると、どうしたの、心配事があるのって言われたんだって。何も考えてなんかいないのに。親子二代なんだよ、この顔は」

__親子二代、とは面白い。……いつも、楽屋なんかではどうしてるの?

「黙ってる」

__どうして?

「つまらないから」

__つまらないから、黙ってるの? みんなとおしゃべりなんかしないの。

「うん、しない。本を読んでるか、寝てるか、付き人の艶ちゃんと少し話すか……」

__化粧は?

「十分くらいで終っちゃう。あたし、早いんだ。いつもそれでほかの人に驚かれるけれど。タレントさんの中には、1時間も2時間も鏡を見ててちっとも飽きない人がいるんだよね。あたしなんか、10分以上、自分とにらめっこしてるのはいやだな」

__女としては、見てる方が、案外、普通なんじゃないかな。

「そうかなあ。でも、それ、女の人だけじゃないんだよ。男の人も、髪をとかしながら、じっと何時間でも鏡の前に坐って自分の顔を見つめているの」

__なんだか、気味悪いね。

「ほんとなの」

__まるで怪談だね、現代の。

「でもね、スターっていうのは、それくらいでなくてはいけないのかもしれないよ」

__そうかな。

「だって、凄いんだよ」

__何が。

「相手が。扱う相手が、もの凄く大きいんだもん」

__ああ、そういうことか。スターが相手としている……つまり、商売の相手ですね。

「たとえば、ここで、あたしのレコードが流れてたとするでしょ……」

__えーと、少々まぜっかえすようですが、ここでは、さすがにあなたの歌は流さないんじゃないかな。ホテルのバーというか、カクテル・ラウンジなんだから。

「それはわかってるの。だから、かりに、って言ってるじゃない。かりにね、ここに流れていたとしても、あたしは少しも嬉しくない」

__どうして?

「一軒の店で流れていようがいまいが、そんなことじゃどうしようもないの、この世界は。そんなことで嬉しがったり悲しがったりしてたら、しょうがないの」

__ぼくだったら、電車の前の席で、ぼくの書いた文章を読んでくれている人がいたら、その日、一日中幸せだろうけどなあ。

「それとは全然ちがう世界なんだよ。海に魚がいるでしょ。その魚に、何十万本もの釣り針をつけた糸を流して、一度に釣り上げなくちゃあいけないの」

__一本、一本なんて、駄目か。

「一匹、一匹、ひとり、ひとりなんて、確かめながらやる商売じゃないの」

__そんな話も、あなたの口から出てくると、冷徹で凄味があるね。

「よく、福引とかクイズとかで、壜の中の硬貨を片手で掴むというゲームがあるでしょ」

__掴み取りだね。

「そのとき、誰も綺麗なおかねだけよりわけて掴なんてこと、しないでしょ。どれだけ多く、一気に掴めるか、必死じゃない。しかも時間はないから、早く、早く、と焦るし、ね。あたしたちの仕事って、それと同じなんだよね」

__なるほど、とてもわかりやすい譬えですね。

「チャンスといっても、この世界には、あんまりないと思うんだ。ほかの世界にあるような、小さなチャンスというのが、ほとんどない。でもね、一度掴んだら、それはとても大きいんだ。ほんとに、とっても大きい」

__それだけに、ひどいことや、凄いことや、信じられないようなことが起こるわけだ。

「そうだと思う」

__つい最近なんだけど、渋谷の名画座で〈アイス・キャッスル〉っていう映画を見たんですよ、暇つぶしにと思って。

「あたし、知らないなあ。どういうの、それ。アメリカの映画?」

__そう、アメリカの、フィギュア・スケートの選手の物語。昔、よく、少女漫画なんかに、バレリーナ物というのがあったじゃないですか。鬼のようなコーチと可憐な少女とか、意地悪なライバルと主役を争うとか、いろいろなパターンで。

「よくあったね、そんなの」

__その映画も実にくだらないストーリーだったんだけど、一箇所だけ面白いなって感じる部分があったんですね。主人公の、とても可愛い少女が、田舎から出てきて一躍スターになる。あの札幌オリンピックのときのジャネット・リンみたいにね。すると、もう、いろんなパーティーなんかに引っ張り出されて、モミクチャにされるわけ。慣れないことだから、その子は困惑して、パーティーから抜け出してきて、ある人に訊ねる。どうして、みんな、私のこと、あんなに触ろうとするの、って。すると、そいつが答える。人は、自分にないものを持っている人っていうのが、不思議なんだよ……。

「その話、少しわかるような気がするな」

__あなたも、人から滅茶苦茶に手を差し伸べられ、触られ、モミクチャにされたんだろうなと思って、ね。

「ほんと、そうだった。若いときは、ね」

__若いときは、ですか? 若いときは、なんていう齢でもないだろうと思うけど、まだ。

「そういう齢だよ、もう。28になったもん」

__まだ、28じゃないですか。

「もう、ですよ。絶対に、もう」

__ほかの世界だったら、まだ、ひよっことしても、数えてくれないだろうになぁ……。

「まだでも、もうでも、どっちでもいいんだけど、本当に、若いときは凄かった。だから、婚約したり、結婚したときなんか、怖いくらいだった。殺してやる、とかいう手紙がきたりしてね。可愛さあまって憎さ百倍、とか、そういう感じで、恐ろしかった。漫才の人にね、うちの息子もファンだったけど、婚約したとたん部屋のポスターをビリビリに引き裂いてしまったんですよ、という話を聞かされて、ドキッとしたな。ファンの心理としては当然なんだけど、心が冷くなるようだった、そのときは」

__巨大なものを相手にしていると、凄まじいことが起こるんだろうな、それは。

「仕方ないんだよね」

__そうかもしれない。

「うん……」

__よく、週刊誌に、あなたの年収を5千万とか6千万とかしているのがあるけど、あれはだいたい当っているの?

「うん、そのくらいかな」

__ほんと! 凄いですね。

「いくらあたしだって、そのくらいの年収はありますよ」

__やはり凄い世界だな。二十代の女の子に、五、六千万の金を、ポンと投げ出すんだから。

「チャンスって、そうは転がってないけど、掴めば大きくて長つづきするんだよね、この世界のチャンスって」

__しかし、それが全然なくなるわけでしょ、引退すれば。……ああそうか、全然じゃないか。レコードの印税が入るかな。

「そんなの、引退したら、もうないよ。売れなくなるもん、レコードなんか」

__それでは、ますます大変なことになるんだろうけど、その五、六千万が入らなくなって、どうやって生活していくつもりなんですか。 やっていけるの?

「1年か2年は、仕事をしないでも食べていけるだけの貯えはあるけど、もちろん、一生、働かないですむわけじゃない」

__だったら、どうするの? また歌うわけ。

「まさか! でも、そのうちに、何かの仕事につこうとは思ってるんだ。お母さんだっていることだし、困らせるわけにいかないじゃない」

__大変ですね。

「別に」

__そうかな。

「そうだよ。だって確かに、いままで、贅沢はしてきたよ。だけど、それはそれ、そういうこともありました、そういう時代もありました、っていうだけのことだよ。やっぱり、あたしは、家で御飯と漬物を食べるのがいちばん好きだし、親子丼とかカツ丼とか、御飯の上に何かがのっかっている簡単なものが好物だし、服だって、セーターとシャツとズボンがあれば、それでいいし……自信があるんだ、あたし」

__普通の水準の生活ができる?

「できる。どんな生活にだって、耐えられると思う」

__耐えられる?

「うん、耐えられる」

__歌っていさえすれば、そんなに頑張って、耐える、なんて言わなくてもすむのに。

「歌いつづけていたら、もっと……」

__もっと?

「……」
__もっと、何なの?

「……別に」

__何なのかなあ……。

「別に、何でもないよ。……でも、とにかく、いくらお金がなくても、平気、あたしは」

 


解説
沢木耕太郎さんは新しいこころみとして、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切るという方法をとることに決めました。

たとえば、冒頭の文章は、著書ではこのようになっています。

「呑み物は、どうします? 酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」

でも、これって、読みづらいんです。
膨大な会話の途中で読み始めると、どれが誰の発言か分からなくなります。
なので、私の記事では、沢木耕太郎さんの発言のみ__(アンダーバー)を頭に付けて、区別するようにしました。
また、会話と会話の間に1行いれて、読みやすいようにしました。

 

__大変ですね。
「別に」
__そうかな。
「そうだよ。だって確かに、いままで、贅沢はしてきたよ。だけど、それはそれ、そういうこともありました、そういう時代もありました、っていうだけのことだよ。やっぱり、あたしは、家で御飯と漬物を食べるのがいちばん好きだし、親子丼とかカツ丼とか、御飯の上に何かがのっかっている簡単なものが好物だし、服だって、セーターとシャツとズボンがあれば、それでいいし……自信があるんだ、あたし」
__普通の水準の生活ができる?
「できる。どんな生活にだって、耐えられると思う」
__耐えられる?

藤圭子さんは、このように語り、「とにかく、いくらお金がなくても、平気、あたしは」と言い切ります。

貧乏な生活を知っている私としては、藤圭子さんのそういうところに惹かれます。共感します。

 


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その1

2024-01-12 01:52:31 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
■一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記

 


一杯目の火酒
(火酒[かしゅ]=アルコール分が多く、火をつけると燃える酒。ウォッカなど)
1979年秋 東京紀尾井町
 ホテルニューオータニ40階 バー・バルゴー

 

   1

__呑み物は、どうします? 酒でいいですか?

「うん」

__何にします?

「ウォッカ、あるかな?」

__それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから。

「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」

__ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?

「そう、それにレモン」

__軽くて、おいしそうだね。ぼくもそれをもらおうかな。あっ、ウォッカトニックを二つお願いします。 それとつまみは、どうしようか。

「いらないな、あたしは」

__つまみはいりませんから、呑み物だけ、お願いします。

「面白いね」

__何が?

「だって、ボーイさんに、とってもていねいに注文するんだもん」

__おかしい?

「ていねいすぎるよ。変に威張る必要はないけど、ちょっとていねいすぎる」

__そうかなあ……そうとは思えないけど、ぼくには。

「まあ、どうでもいいことだけど」

__そう、ぼくのことなんて、どうでもいい。これはぼくの、じゃなくて、あなたに対するインタヴューなんだから。

「インタヴュー、か」

__インタヴューは嫌い?

「好き、ではないな」

__なぜ? どうして、好きじゃないの?

「いつでも、同じなんだ、インタヴューって。同じ質問をされるから、同じ答えをするしかないんだけど、同じように心をこめて二度も同じようにしゃべることなんかできないじゃない。あたしはできないんだ。だから、そのうちに、だんだん答えに心が入らなくなってくる。心の入らない言葉をしゃべるのって、あたし、嫌いなんだ」

__そんなに、いつも同じことを訊かれる?

「新曲を出せば、どんな感じの曲ですか。年末になれば、今年の一年はどういう感じの年でしたか。新年になれば、今年の抱負は、って調子だもん、いつだって同じだよ」

__それは、テレビかラジオのインタヴューの場合でしょ?

「新聞や雑誌だって同じ。少しも変わらないよ。訊くことはみんな一緒。しゃべるのがいやになる。疲れるだけだよ」

__ほんと?

「嘘じゃない。インタヴューなんて馬鹿ばかしいだけ」

__いや、インタヴューというのは、そんなに馬鹿にしたものでもないと思うけどな。

「この人には、自分のことが、もしかしたらわかってもらえるかもしれない、なんて思って真剣にしゃべろうとすると、もう記事のタイトルも決まっていて、ただあたしと会ったってことだけが必要だったりするんだよね。あたしがどんなことをしゃべっても関係ないんだ、その人には」

__インタヴューっていうのは、そんなつまらないものじゃないと思うよ。聞く耳を持たないなんて奴は論外だけど、仮にあなたの話を熱心に聞こうとしているアナウンサーや記者がいたとしても、決まりきったことを訊いて、決まりきったことを答えさせるなんていうのは、インタヴューでもヘチマでもない。本当のインタヴュー、本物のインタヴュアーというのは……なんて、偉そうに聞こえるかもしれないけど、とにかく、インタヴューというのは相手の知っていることをしゃべらせることじゃない、とぼくは思っているんだ。だって、そんなことは、誰だってできるじゃないですか。ましてや、その以前に、たとえばあなたのように何度もインタヴューを受けたことのある人を相手にするんだったら、それでは意味がない。すぐれたインタヴュアーは、相手さえ知らなかったことをしゃべってもらうんですよ。

「知らないことなんかしゃべれないよ」

__知らなかったこと、というと少し言いすぎになるかな。意識してなかったこと、と言えばいいかもしれない。普通の会話をしていても、弾みで思いもよらなかったことを口にしてることがあるじゃない、よく。でも、しゃべったあとで、そうか、自分はこんなことを考えていたのか、なんてひとりで納得したりする。そういうことなんだ、知らなかったことをしゃべらせるっていうのは。相手がしゃべろうと用意していた答え以外の答えを誘い出す。そういった質問をし、そういった答えを引き出せなければ、一流のインタヴュアーとは言えないと思うな。

「あたしも、自分の知らなかったことをしゃべらされるわけ?」

__ハハハッ。さあ、どうだろう。それはこちらの力量にかかっているんだけど……では、始めるとしますか。

「うん、いいよ。ちょっと恐いけど……」

__さて、と。まず、数字の話をしましょうか。たとえば、この十年間に、あなたが売ったレコードの枚数とか、稼いだ金額とか……。

「関係ないよ、そんなこと、あたしには」

__でも、凄まじい数ですよ。 どれくらいのものか、あなたは知らない?

「全然知らないし、知る必要もない」

__シングルが34枚出て、総計が700万枚売れた。LPが35枚で110万枚、テープが100種類で150万本。それによって稼ぎ出された金が170億。話半分にしたって、驚くべき数字だよね。

「どうでもいいよ、そんなこと」

__どうして?

「やってる当人にとっては、数字って、そんなに関心があることじゃないんだよね」

__そうかもしれない、なんて納得しちゃうと、話が次に進まなくなるから、こっちは困るんだけど、ほんとに、そうかもしれないな。ぼくに引き寄せて考えてみても、分野も桁も違うけど、懸命にやっているとき、やっぱり、数字はどうでもいいもんな。

「そうだと思うよ」

__困ったな。さっきの数字の話をね、どういう具合に次の話につなげていこうとしたかと言うと、そういう巨大な数の嵐の中心にいた人がなぜ引退するのかっていう……。

「なんだ、そういうことか」

__馬鹿ばかしい?

「馬鹿ばかしくはないけど……」

__くだらない? まったく、自分で口に出していながら、急にひどくつまらないんではないかと思いはじめてしまったなあ。とうてい、すぐれたインタヴュアーにはなれっこない質問だった。数字に関する質問は撤回します。

「フフフ」

__しかし、とにかくあなたが、芸能界っていうのかな、そこを引退するのは確かなわけですよね。

「うん」

__そこで10年間、いろいろと生きてみて、どうでした?

「どういうこと?」

__とりあえず、面白かった?

「うん、それはね、やっぱり面白かったと思うな。見ようと思って誰でも見られる世界じゃないしね。面白かったよ」

__そういうことになると、芸能界がいやになったとか、なんだとかっていう理由がないのに、どうしてあなたほどの歌手が引退しなければいけないのかって、普通の人は疑問に思うはずですよね。それは無理のないことだと思う。

「そうかもしれない」

__そういう人たちに、どう説明するんだろう。

「これまで言ってきた通りなんだよね。歌手とは違う人生を生きてみたいっていう……でも、それじゃあ、どうしても信じてもらえないんだ」

__違う人生、ね。

「結局、誰にもわかってもらえないと思うよ」

__そんなことはない。そんなことはないから、もう少し説明してくれないかなあ。同じことをしゃべるのはもう飽きた?

「飽きはしないけど……いやになった。わかってもらえっこないから。どうして引退なんかするのか、みんなわからない。でも、それが当り前のことなんだよね。誰も人のことなんか、本当にはわからないんだ。あたしが人のことを本当にはわからないように。 そうだよね、それが普通なんだ」

__やけに絶望的な物言いをするじゃないですか。

「絶望じゃないけどさ」

__そうでなければ、諦めなんだろうか。

「諦めでもないと思うよ。ただ、そういうものだって言ってるだけ」

__人にはどうやっても伝わらない、と思っているのかな、自分の気持が。

「うん。特に、週刊誌の人とか、新聞の人とかそういう記者の人なんかには、もう絶対わからないみたい」

__理解してもらえない?

「駄目みたい」

__彼らは理解できないのかな、それとも商売上、理解できないふりをしているのかな。

「理解できないんだよ、あの人たちには。南沙織ちゃんみたいに結婚のためというなら理解もしてくれるんだろうけど、あたしみたいな言い方じゃ、どうしても駄目みたい」

__裏があるはず、と思うわけだ。男とか、金とか。

「そう。愛情のもつれか、だもんね」

__ハハハッ。

「笑いごとじゃないよ。いくら真正直にしゃべっても、信じてくれないんだ、あの人たちは。このあいだだって、一生懸命な人だなって思える記者の人がいたから、こっちも一生懸命に話そうとしたら、どうも変なんだよね。質問がかたよってるの。そっちへそっちへ持っていこうとするの。おかしいなと思ったら、もう、その週刊誌の結論はついているんだって。別れ際に、記事のタイトルは決まっているんですかって訊ねたら、〈引退まで追いつめられた藤圭子〉というんだって。がっかりしたな。別にあたしは追いつめられていませんよって、冗談めかして言ったんだけど、もう目次に刷り込んであるから変えられないんだって。ほんと、馬鹿みたいな話だよ」

__週刊誌の人たちは、つらい立場で仕事をしているからなあ。

「そんなことないよ。あの人たちは、あれでいいと思ってるんだよ」

__そうでもないんじゃないかな。時間と、競争相手に追い立てられて、つらい仕事をやってるような気がするな。

「あの人たちは、あの仕事が好きなんだよ。ああやって、やめないで続けているのは、やっぱり好きだからさ」

__そうかな。

「そうさ。いやならやめればいい。あんな、人の不幸を、あることないこと書いたり、あばいたりするような仕事、いやならやめてるよ」

__そんなに簡単にはいかない人もいるんじゃないかな。つらい思いをしてやってる人も、中にはいると思うけどな。

「そんなふうにかばう必要はないよ。やっぱりよくないことはよくないって言わなくちゃいけないよ」

__それはそうだけど。

「ほんとにひどいことやるんだ、週刊誌とかっていうのは」

__そう……。

「ひどいよ」

__積極的な反論はできないけど、ね。

「やりきれないよ」

__週刊誌といえば、このあいだ大宅文庫へ行ったら……。

「何なの、それ」

__あっ、そうか。大宅文庫と言ってもわからないよね、普通の人には。どう言ったらいいのかな、雑誌や週刊誌の図書館、という感じかな。京王線の八幡山という駅にあって、ぼくたちみたいな仕事をしている者にとっては、足を向けて寝られない、といったような場所なんだ。

「へえ。 そこに行くと、どんな雑誌でもあるの」

__そう、かなりの程度までね。しかも、そこは雑誌があるだけではなくて、記事についてのカードがあって、項目ごとにまとめられている。

「それ、どういうこと。よくわかんない」

__たとえば、ぼくが山口百恵について調べたいとしますよね。山口百恵についての記事なんて、それこそ掃いて捨てるほどあると思うじゃないですか。事実、ある。あるはずなんだけど、いざ読みたいと思うと、どんな雑誌にどんな記事が載っていたか、すっかり忘れていることに気がつく。そんなの覚えているはずないもんね。だからといって、全部の週刊誌や月刊誌を、山口百恵のデビューしたときから引っ繰り返していたら、それこそ1年や2年じゃ終らない。そんなとき、その大宅文庫に行く。そして、山口百恵のカードを出して下さいと頼むと、山口百恵に関して、どんな雑誌にどんな記事が載っていたか、一覧表になっているカードを出してくれるんですね。

「それは面白いね、便利だね」

__そう、すごく便利。山口百恵のカードがあるくらいだから、当然のことながら藤圭子のものもある。

「へえ、そんなのがあるの」

__そこへ、このあいだ行ってみたんですよ。そして、藤圭子のカードを出してもらった。カードは7枚あって、1枚に20の項目が書き込んである。だから、全部を合計すると、約140ということになる。もっとも、そのカードには、やっぱり洩れてしまっているものもあるし、小さすぎる記事は抜いてあるだろうから、本当はその倍くらいはあるんだと思う。この10年間に、実に二、三百もの記事にされているわけですよ、あなたは。

「そういうことになるんだろうね」

__驚かない?

「まあ、いろいろ書かれたからね。あることないこと」

__ぼくは驚きましたね、やっぱり。しかし、その数にめげずに、それを片っ端から借り出して、ひとつずつ読みはじめた。

「そんなことしたの」

__いろいろあった。デビュー秘話とか、初恋の人とか、貧しさから這い上がって、とか。最初は、とても好意的な、サクセス・ストーリー風の記事ばかりなんですよね。

「サクセス・ストーリーって?」

__成功物語。最初の頃は、それを祝福するという感じで報じられているんだけど、やがて、男の話が出てくるようになる」

「うん」

__だんだん書き方が意地悪くなってくる。そして、婚約の話になっていく。さらに、結婚、離婚となっていくうちに、あれよあれよという間に、話が暗く陰気なものになっていく。肉親同士の摩擦、プロダクションの移籍、男との同棲の噂……凄いんですよね、実に。

「うん……」

__ひとつひとつ読んでいるうちに、気持が悪くなってきた。

「……」

__いや、あなたのことじゃないんですよ。違う。そうやって、藤圭子という女の子のまわりをうろついて、これでもかこれでもかって活字にしていく、ジャーナリズムってやつが、ね。自分もその中で息を吸っているわけだけど、そんなふうに凄惨な姿を見せつけられると、やっぱりやりきれなくなってね。読んでたら、生理的に耐えられなくなってね、慌てて外に出たんですよ。外の空気にあたったら収まったけど、その続きを読むのは苦痛でね、だから、残りはコピーしてもらって帰ってきた。

「そんなことがあったの」

__仕事の前にはいつもやっていることだけど、あんな凄惨な印象を受けたのは、初めてのことだったなあ。しかし、あなたは、まことに凄まじい時間をくぐり抜けてきた人なんですね。

「別に大したことじゃないよ。読まなければ腹も立たなくなるよ、そのうち」

__ぼくだったら、すぐ参っちゃうかもしれないな、あんなふうな記事が二、三度出ただけで。やわにできているから、恥ずかしいほどうろたえるんじゃないかと思う。それが200回も300回も、それこそ切れ目なしに書かれるんだから……。

「今度の引退の件、あるでしょう。読んだら腹が立つにきまっているから、最初から読まないことにしていたの」

__それがいちばん賢明かもしれない。

「前川さんのときも……」

__前川さんて、前川清のこと?

「うん、前川さんと離婚したときも、絶対に読まないって決めていたの。いろいろ書かれるに決まっているから。それでも、時々、広告や何かでパッと眼に入ってきちゃうことがあるんだよね。そうすると、落ち込んじゃうんだ。あたしのことをよく知っている人なら、そんなことあるはずないよって思ってくれるけど、ぜんぜん知らない、赤の他人が見たら、週刊誌のことだから嘘かもしれないとちょっとは思ってくれるかもしれないけど、本当のことかなと思う部分もあるでしょ」

__そうかもしれない。ぼくたちだって、電車の中吊り広告を見て、またまたそんなこと書いちゃって、なんて思うけど、どこかにその記憶は残ってしまうからね。

「そういうことが、いつか本当のことのように言われたりするんだ」

__ありうるんだろうな、そういう危険は。

「どれくらい前になるかな。5、6年かな。夜行列車に乗って仕事に行くことがあって、週刊明星を買ってきてもらったんだ、寝台車の中で読もうと思って、ね。読んでたら、まったく関係ない箇所に、あたしのことが出てたんだ。週刊明星には、〈ビデオテープでもう一度〉っていう欄があって、それはテレビの番組でタレントさんがしゃべったことを短かくまとめて載せるというような欄なんだけど、そこでカルメン・マキさんが話していたんだ。自分は芸能界には向いていないとかなんとか、そういうことなんだよね。その中に、急に関係なく、あたしの名前が出てくるの」

__ほう、カルメン・マキが、藤圭子について何と言ってるの。

「いやだって言うわけ。ああいうのはいやだって。自分を売り出すために、眼が見えるお母さんを盲人に仕立てて、話題を作るようなことはできないって言うの。そういう芸能界には、自分は合わないって。眼が見えるくせに、盲人だということにして、なんだって」

__……。

「何も知らないのに、なんてひどいことを言うんだろう、と思ったよ。自分の母親が、眼が見えないってことが、いったいどんなことかも知らないくせに、なんていうひどいことを……。あたしのお母さんに会ったこともないのに、嘘だなんて、どうして言えるんだろう。あたしの歌なんか売れなくたって、お母さんの眼が見える方がどれだけいいかしれないのに。無責任だよ、ひどすぎるよ」

__口惜しかった?

「口惜しいなんてもんじゃないよ。一晩中、一睡もできなかった。涙が流れてきた」

__カルメン・マキも、そんな噂話を小耳にはさむか、週刊誌のゴシップ欄で眼にして、軽率にしゃべったんだろうな。

「でも、テレビでしゃべり、それをまた週刊誌が載せているんだよ。そんな無責任なことでいいんだろうか」

__よくないよね。

「そうだよ。あたしだったら、自分で確かめたことでもないのに言うなんてことは絶対にしないと思う。別にカルメン・マキさんを責めているわけじゃないけど」

__自分を際立たせるためにそんなことを言うなんて、よくないことだな、やっぱり。

「あたし、嘘つくのいやだったんだ」

__えっ?

「嘘をつきたくないから、いつでも本当のことを言ってきた。正直がいいことだと思って、自分のことをみんなさらけ出してきたけど、そんなことはなかったんだよね。タレントとか芸能人とかいうのは、隠しておけば隠しておくほどいいんだよね」

__そんなものなのかな。

「お母さんが眼が見えないということも、両親が旅芸人の浪曲師だったってことも、みんな本当のことだから恥ずかしがることはないと思ったし、貧乏だったということも、あたしが流しをしてたってことも、みんな本当のことなんだから、恥ずかしくないと思ってた。でも、隠しておくべきだったんだろうな……」

__そうだろうか。

「あたしこそ、もしかしたら芸能界に向いてないのかもしれないよ。 冗談じゃなくて、ね」

__あなたが、初めてジャーナリズムに取り上げられたのは、どんなことだったか覚えてる?

「えーと……それはよくわからないんだけど、初めて嘘を書かれたときのことは、しっかり覚えてる」

__それは、いつの頃?

「半年くらいかな、デビューして」

__男のこと?

「うん。藤圭子の同棲相手を発見、とかいう記事。バンドのドラマーで、知っていることは知っていたけど、ほとんど付き合いもない人なんだよ。その人と同棲してたんだって、あたしが。記事には、これが二人で仲よく暮していたアパート、なんて写真まで載ってるの。杉並区のどこそこって住所も書いてあるわけ。杉並なんて地名、そのとき初めて知ったんだけどね。それだけじゃないんだ。記事の中には、近所の人の話とかいっちゃって、二人でよく手をつないで銭湯へ行くのを見かけました、なんて書いてある。行ったこともない土地のお風呂屋さんに、どうしたら通えるの?」

__ハハハッ、そいつは傑作だ。

「笑うなんて、ひどいよ」

__ごめん。

「その頃、まだ17、8でしょ、こんなことは許せない、と思ったんだ。こんなことを我慢しなければならないんだったら、もう歌手なんかやめよう、と思いつめたりして。でも、プロダクションの人やなんかに、結局、なだめられてね。ほんとにいやな商売と思ったなあ」

__それは何に書かれてるの? 大宅文庫のカードにはなかったようなんだ。

「女性セブン。いつでも、あたしのひどい記事は女性セブンが最初なんだ。ほんとにひどいんだ、いつも」

__へえ、いつも女性セブンなの。

「うん、ほとんどいつも。ひとりいるんだよね、そんなのを書く人が、あそこの雑誌に。素浪人みたいな記者でね。ほら、よく出てくるじゃない。股旅物の映画なんかに、用心棒みたいな人が。そういう感じの人。その人があたしのまわりをうろうろしだすと、不吉な予感がしてくるんだ」 

__面白い。

「ちっとも面白くないよ。ついこのあいだも、NHKに出演したら楽屋にその人の姿が見えたんだよね。あっ、また何か悪いことが起きるんじゃないかなと不安に思っていたら、やっぱり〈圭子再婚へ〉だもんね」

__そういえば、そんな記事、確かにあったなあ。

「あたしも、中身を読まなかったから知らないけど、もう何年も前に別れた人のことを、またまた引っ張り出して書いているらしいんだ。いやになる」

__そうだね、多くの人は中身なんか読まないから、そうか藤圭子はやっぱり再婚のために引退するのかと、思い込んでしまうかもしれないよね。

「本当に、あの人がうろうろすると、ろくなことにならないよ」

__しかし、そんなに、ひとりの人物が悪い出来事の使者になっているというのも、凄い話だなあ。もしかしたら、その人、あなたのことが好きなんじゃないかな。

「まさか」

__いじめっ子が好きな女の子をいじめるように……。

「冗談はよして。並のいじめられ方じゃないんだから」

__ごめん。それにしても、あなたは、信じられないくらいジャーナリズムの餌食にされたよね。恐らく、男性歌手における森進一と双璧なんじゃないかな。

「森さんも、大変だったろうね」

__しかし、女性週刊誌の記事なんか、どうせ嘘八百だろうと思ってはいるけど、芸能人の恋愛とか、離婚とか、いろいろゴシップが出ると、ほとんどが週刊誌の記事の通りになってるじゃないですか。ああ、やはり火のない所に煙は立たないものなんだ、って思うことが多いけどな。

「そうだね。それはあるね。芸能人の方も悪いんだよね。絶対にあの人とは結婚しません、と言っておきながら、翌日結婚式をあげたり、絶対離婚しませんと言っていて、もう離婚していた……だから、記者の人も信じなくなっているんだよね、タレントの言うことを」

__そういうことがあるのかもしれない。だから、習性として、どうしても裏目読みになってしまうんじゃないのかな。

「でもね、いくら裏目読みをするようになるといっても、あの人たちもよくないんだよ。さっきの藤圭子再婚でも、愛情のもつれでもいいけど、そういう簡単な結論が出ると、安心して納得するんだけど、ほんとに人の心の奥深くまで読んでくれはしないんだ。心の奥の動きを読んでくれればいいんだけど、要するに、自分で理解できることしか読もうとしないんだよ。自分の頭で考えた結論を探してるだけなんだと思う、あたしは」

__心の奥を読んでくれない? 誰も?

「うん。裏目読みをするなら、ちゃんと、裏の裏まで読んでほしいよ……なんて、ね。大した裏があるわけないけど、あたしなんかに。でもさ、そう思うよ」

 


解説
「後記」にも書いてありますが、沢木耕太郎さんは当時、ノンフィクション作家として地位を確立したそのあとに、あらたなノンフィクションの「方法」について考えていたそうです。
そして、藤圭子さんのことを文章にするさいに、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切るという方法をとることに決めたそうです。

たとえば、今回の冒頭の文章は、著書ではこのようになっています。

「呑み物は、どうします? 酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」

でも、これって、読みづらいんです。
膨大な会話の途中で読み始めると、どれが誰の発言か分からなくなります。
なので、私の記事では、沢木耕太郎さんの発言のみ__(アンダーバー)を頭に付けて、区別するようにしました。
また、会話と会話の間に1行いれて、読みやすいようにしました。

獅子風蓮